★ドイツ・名城、古城巡り

父なるライン/写真転載不可・なかむらみちお

ドイツの旅は楽しい。何故ならばそこに城があるから。
ドイツにはロマンティックな話や歴史的建造物などを持つ城が数多くある。
私はその城を求めて旅に出た。

 定年退職して7年目。初めての妻と一緒の海外旅行。
フランクフルトでレンタカーを借り、ライン川、モーゼル川沿いの古城を巡り、古城街道、ロマンティック街道、
インスブルックからウィーンまでオーストリアを横断した後再びドイツに入り、古城と中世の街並みを求めてバンベルク、コーブルクまで北上。
最後はベルギーのブルージュとオランダのアムステルダム近郊への旅である。

1996年7月11日から8月13日までドイツ、オーストリア、ベルギー、オランダと旅して来ました。

目  次

ドイツ
マインツ  ライン川沿いの城  ブラウバッハ  マルクスブルク城  コブレンツ  モーゼル川沿いの城  リューデスハイムT  ハイデルベルク 
古城街道  ローテンブルク  ロマンティク街道  フュッセン  ホーエンシュヴァンガウ  アルペン街道  リンダーホーフ  ヘレンキームゼー 
ミュンヘン  ランツフート  レーゲンスブルク  ニュルンベルク  バンベルク  コーブルク  ヴュルツブルク  フランクフルト  リューデスハイムU  ケルン

オーストリア
インスブルック  ザルツブルク  ハルシュタット  クレムス  ウィーン

ベルギー
ブルージュ

オランダ
アムステルダム  アルクマール  ザンセ・スカーン  マルケン島  フォーレンダム

       スケジュール

  1996年
7月11日(木) 新千歳 08:00(JAL500)-09:30 羽田空港-成田国際空港 13:00(JAL407)-18:00 FRANKFURT(レンタカー借用)-MAINZ
  12日(金) MAINZ-BINGEN-RUDESHEIM-BURG KATS-MARKSBURG-BRAUBACH
  13日(土) BRAUBACH-KOBLENZ-BURG ELTZ-COCHEM
  14日(日) COCHEM-BERNKASTEL-TRIER-BERNKASTEL-COCHEM
  15日(月) COCHEM-BOPPARD-OBERWESEL-BINGEN-RUDESHEIM
  16日(火) RUDESHEIM-HEIDELBERG(古城街道)
  17日(水) HEIDELBERG-ZWINGENBERG-SCHWABISCH HALL-ROTHENBURG
  18日(木) ROTHENBURG-CREGLINGEN-ROTHENBURG
  19日(金) ROTHENBURG-DINKELSBUHL-NORDLINGEN-AUGSBURG
  20日(土) AUGSBURG-WIES KIRCHE-OBERAMMERGAU-FUSSEN-HOHENSCHWANGAU(ロマンティック街道)
  21日(日) HOHENSCHWANGAU滞在
  22日(月) HOHENSCHWANGAU-SCHLOSS LINDERHOF-GARMISCHPARTENKIRCHN-MITTENWALD-INNSBRUCK
  23日(火) INNSBRUCK-SCHLOSS HERREN CHIEMSEE-SALZBURG
  24日(水) SALZBURG-ANIF-HALLSTATT
  25日(木) HALLSTATT滞在
  26日(金) HALLSTATT-LINZ-MELK-KREMS
  27日(土) KREMS-WIEN
  28日(日) WIEN-LINZ-SALZBURG-MUNCHEN
  29日(月) MUNCHEN滞在
  30日(火) MUNCHEN-LANDSHUT-REGENSBURG
  31日(水) REGENSBURG-NURNBERG-BANBERG
8月1日(木) BANBERG-COBURG-WURZBURG-FRANKFURT(レンタカー返却)
  2日(金) FRANKFURT滞在
  3日(土) FRANKFURT O9:00-RUDESHEIM
  4日(日) RUDESHEIM 09:00〜12:40 KOBLENZ-14:05 KOLN
  5日(月) KOLN滞在
  6日(火) KOLN 08:02-11:52 BRUGES
  7日(水) BRUGES滞在
  8日(木) BRUGES-AMSTERDAM(ヴァン・ゴッホ美術館)
  9日(金) AMSTERDAM滞在(ALKMAARのチーズ市・ZAANSE SCHANSの風車)
  10日(土) AMSTERDAM滞在(アンネの家)
  11日(日) AMSTERDAM滞在(MARKEN-VOLENDAM-CONCEERTGEBOUW)
  12日(月) AMSTERDAM 19:30(JAL412)-(機中泊)
  13日(火) 14:00 成田国際空港 17:55(JAL565)-19:30 新千歳空港 - 札幌

はじめに

ヨーロッパ古城の旅はいつでも楽しい。
まして愛用のカメラを友として、足の向くまま、車の走るまま、
古城から古城へと訪ね歩く旅、
一人であれば却ってそれだけ楽しいかもしれない。

    7月11日(木) 新千歳 08:00(JAL500)−09:30 羽田空港-成田国際空港 13:00(JAL407)-18:00 FRANKFURT(レンタカー借用)- MAINZ
 定年退職して7年目、これまでも何度もひとりで海外に出かけていたが、妻との海外旅行は今回が初めてである。初めはひとりで出かけるつもりであったが、世の中の亭主族は永年陰で支えてくれた女房に在職中の不義理をわびる意味があるのか、これまでの労苦に感謝して定年退職した時にはご褒美として海外旅行へ連れ出すのが慣わしのようであった。私の場合はそれがなかった。それが日頃なんとなく気掛かりであったことと、今回はレンタカーで回るので車にひとり乗るのも2人乗るのも同じなので、一応“行くか?”と声を掛けてみた。意に反して“行く!”。これが運の尽きであった。これで今回の旅は終ったようなものである。今回は妻の僕に徹することに腹を決めた。なぜならばひとり旅は勝手気侭、自分の思うように動けるが、連れがいると相手に遠慮もあるだろうし、気使いもしなければならない。一人で歩くような自由気侭な旅は出来ない。

 成田空港でフランクフルト行の飛行機の前まで行くと、搭乗口で少し年増のスチュワーデスが私の名前を連呼していた。何事かと思って名乗り出ると、私が昨年アメリカのアトランタへ行った帰りの飛行機で知り合ったJAL国際線パイロットのN氏が特別に取り計らってくれるようにこの機長に依頼してあったらしい。という訳で私達は本来エコノミー席であったが、特別にビジネスクラスの席に案内して戴いた。ビジネスクラスに乗るなんて初めてのことなのですっかり有頂天になってしまった。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Deutschland(ドイツ)
 日本からの飛行機はFlughafen Frankfurt Main(フランクフルト・マイン国際空港)のターミナル2に到着する。英語も併記してある案内表示に従って、パスポートを提示するだけの簡単な入国審査、手荷物受取所、税関審査の順に手続を済ませると自然と到着ホールに出る。まっすぐ進むとレンタカーの受付ブースがあった。そこで手続を済ませ、車の鍵を受け取り、ドイツの道路地図を貰った後、指定されたその建物の地下の駐車場へと向かう。そこで車をピック・アップ。駐車場からバックで車を出そうとしたがシフトレバーがバックに入らない。もたもたしているところにレンタカー会社の人らしい人が通り掛かったので訊いてみた。彼は車に乗り込んでわけなくバックで車を出してくれた。そして一旦シフトレバーを持ち上げてからバックに入れると教えてくれた。
 ドイツでは通常、レンタカー会社で借り出す車の大部分はマニュアル車である。日本と違ってシフトパターンが違う車もある。例えば、バックの位置。日本では右手前にあるが、ヨーロッパではそのパターンのほかに左手前、左上というバリエーションがあり、しかも一旦シフトレバーを持ちあげなければならなかったり、押し込んでシフトしたりするものもある。
 さて、いざスタート!という時にウインカーでなく、ワイパーを動かさないように…。ヨーロッパの車はウインカーレバーがステアリングの右側にあるのだ。慣れた頃でも、咄嗟の時に操作を誤ることが多い。
 フランクフルトを出発し、アウトバーンで先ずKoln(ケルン)行の指示に従ってMAINZ(マインツ)に向う。あらかじめ自宅で録音してきたワーグナーの「タンホイザー序曲」と「ローエングリーン序曲」、「マイスタージンガー」第一幕の前奏曲(クレンペラー指揮、フィルハーモニア管、エンジェルCC33-3266〜7,CE25-5632)、「ワルキューレの紀行(テンシュテット指揮、ベルリン・フィル、エンジェルTOCE7029〜30)」のカセットテープをガンガン掛けてアウトバーンを突っ走る。
 ドイツで驚いたことの一つに、Autobahn(アウトバーン=高速道路)の発達ぶりがある。ヒットラーの遺産と言われるアウトバーンが主要な町から町へまるで網の目のように通じている。そこを車が猛スピードで走っている。最低速度40〜50qと定められているが、最高速度のほうは無制限だ。だから120qくらいのスピードで走っていても、スイスイ追い抜かれてしまう。後部座席の妻が、「未だ時差ぼけしているのだからゆっくり慎重に安全運転で行こう」と声を掛けてくる。
 ドイツ国内の首都要市を網の目のように結ぶこのアウトバーンは、悪名高きヒットラーの残した数少ない有益な遺産の一つで、戦後も引き続き東西両ドイツ当局によって建設が進められてきた。
 特に旧西ドイツ内はよく発達している。現在ドイツ国内を約1万q以上走っているアウトバーンは、ヨーロッパの中で最も整備された高速道路であろう。料金は無料。速度制限もないので、当然全体の車の流れは相当早い。アウトバーンでは他の車につられて、ついついスピードを出しがちだが、安全の為一応時速130qの推奨速度が設定されている。
 道幅は普通片側2車線と、右端道路際に退避できる多少のスペースがある。中央はグリーンベルトで仕切られ、反対側の交通が邪魔にならない。ところによっては片側だけでも4車線、5車線という豪華版もある。
 又、アウトバーンの素晴らしさは、道路の良い点だけでなく、標識が実に完備していることにもある。アウトバーン関係の標識は全部、濃い青色に統一されていて分りやすい。100b以上距離を置いてはっきり読み取れるような青地に白文字の大標識が、コースの行き先や距離、次の町名などを示してくれる。各町への出口はたいてい1q先から順次知らされ、最後に大きい矢印で「Ausfahrt(出口)」という風に出て来る。
 カセットテープをかけていると突然大きな音量でドイツ語の放送が入ってきた。ボリュームを下げてもスイッチを切っても音量は変わらない。言葉が分らないから何を言っているのかは分らないがどうやら交通情報らしい。道路の渋滞・事故情報は、交通情報放送局という特別なラジオ局が、各地域の交通情報を適宜流している。放送周波数は地域ごとに異なり、高速道路の案内表示の一つとして出てくる。この周波数に合せておくと、カーステレオでカセットやCDをかけていても、緊急交通情報が飛び込んでくる。
 現地に着いてから宿を探すのでは少々こころもたないので今夜だけは日本からマインツに宿を予約して置いた。マインツが近付くと街へ入る道路標識が「マインツ****」と何個所もあり、何処から入ったら良いのか分からなかった。思い切ってその内の一つから入った。その後も街の中心部に行くまでの道が分からず大変苦労をした。標識は整っているのだが、その読み方に慣れていなかったのだ。大きな都市に入る時、高速道路から中心部へのルートはいくつかあるので、あらかじめ道路地図を見て何処から降りるか決めて、その出口の名称を現地語のスペルで覚えておかなければならない。一つの都市にいくつもある出口を区別する為、出口の名称はその都市名に東西南北や中央を意味する単語が付いていることが多い。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Mainz(マインツ)
 苦労してなんとかホテルに辿り着いた。ライン河とマイン川の合流点マインツは人口約16万人。ライン下りの出発点として有名なだけではない。市の中心部にある八角型の塔を持つロマネスク風のドーム(Dom・大聖堂)と近代的活版印刷術を発明したグーテンベルクの出身地としても有名である。ライン下りの起点であり、ライン上りの終点であリ、ドイツ一のライン・ワイン大集積地でもある。大きな酒商の事務所も多い。ドームは褐色の石で造られた大きな寺院で、創始は十世紀頃のもの。ドームのすぐ前には、近代的なグーテンベルク博物館があり、当時の印刷機や、今日に至る印刷技術の変遷などが展示されている。
 私は、1981年5月12日に翌朝ライン下りの船に乗る為にこの町に泊ったことがある。その時は駅の近くのホテルだったが、今回は川の近くに宿を取った。
 ひと先ず宿に落ち着いてから妻と近くのライン川の岸辺に行ってみた。とうとうと流れるラインの水の色は褐色に濁っている。川幅も1qはありそうだ。
 時差ボケのせいか夜中に目を醒ましてからはなかなか寝付かれない。隣では妻が心地よさそうに寝ている。そっと起き出して窓辺からホテルの前の道路を眺めていた。と、その時、広い通りから勢いよく曲がり込んで来た乗用車が、曲がり切れずにホテルの前に駐車していた車列の一番はずれの車2〜3台に衝突した。乗っていた若者風の男2人が逃げ出して行った。私の車はそこから2〜3台離れていたので危機一髪で無事だった。 間もなくパトカーが来て事故処理をしていた。翌朝見たら現場はすっかり片づけられていた。ぶつけられて破損した車は何処かに運び去られてそこには無かった。事故に遭った車の持ち主はどうしたのであろうか。
 最近ヨーロッパ中の大都市では車の盗難が多発しているとのことである。旅行者は矢張り、夜間は勿論昼間でも屋内・地下駐車場に入れるのが無難のようである。

    7月12日(金) MAINZ-BINGEN-RUDESHEIM-MARKSBURG−BRAUBACH
ライン河  いよいよ今日から、ドイツ人の心の故郷、Rhein(ライン川)とその支流モーゼル川沿いを走る旅に出発する。ハイネやバイロンが謳い、シューマンが身を投げたライン。ハイネの詩で有名なローレライの岩や美しい古城もある。世界的な白ワインの産地だから、ぶどう畑の中のドライブや、ワインセラーでワインを仕入れるのも楽しみだ。ライン川に沿っては両側を走る立派な道路をドライブするのがなによりで、一つひとつの美しい町や古城を訪ねて歩くことが出来る。道は舗装されているが、一部を除きほとんどが片側1車線の道。先ずは水の流れる方へ行ってみよう。
 マインツから下流のコブレンツまでの約90qは“ロマンチック・コース”又は“黄金のライン”と呼ばれ、渓谷美もさることながら、伝説とロマンを秘める無数の城が両岸に散在することで有名である。
 マインツを出てライン川の左岸に沿った道をコブレンツまで北上して、帰りには逆に右岸を南下するつもりであったが、道路案内標識を見誤り、ヴィースバーデンでライン川に架かる大きな橋を渡り右岸に渡ってしまった。それからどういうわけか私の頭の中では北と南が逆になってしまった。ヴィースバーデンからコブレンツ区間には橋はない。まぁどちらでも良い、帰りにはその逆を南下すればいいだけのことだ。というわけでそのままライン川沿いの右岸の道を北上する。妻は私のあやふやな行動に不安がる。
 1981年5月にライン下りの船から眺めた道をステアリングを操り、心地よい風を頬に受けながら車でしか出会えない美しい景色の中を行く。ローマ人がライン沿岸に残した最大の贈り物は、石造りの家とワインであるという。両岸にはぶどう畑の中に美しい古城が点在し、気持の良いドライブコースだ。
 最初にRudesheim(リューデスハイム)の町にさしかかった。この小さな町はライン・ワインの町。背後の丘には美しいぶどう畑が何処までも続いている。ワインレストランが並ぶDrosselgasse(ドロッセル・ガッセ=つぐみ横町)は有名だ。幅わずか数b、300b程の細い路地。この狭い坂道は、端から端までびっしりと凝った造りのワイン・ハウスが目白押し。中まで入って写真を撮る。ここからライン下りの船に乗る人も多い。私達もここからのライン下りを最終コースに予定している。またモーゼル川地方からの帰りにもここで一泊することに決めた。

モイゼトゥルム・通行税を徴収する為の塔/写真転載不可・なかむらみちお  マインツからビンゲンまではこれといって見るほどの城はない。ラインシュタイン城の上流の川中島にMauseturm(モイゼトゥルム=ねずみの塔)がある。高さは15b位もあろうか。褐色の角塔で、上部が赤く縁取りされているのが、まるで王冠を頂いているようだ。ねずみの塔という奇妙な名前だが、本当は「関税塔」が正しい。ドイツ語では通行税のことを方言で「マウト」と言う。この塔もライン川の通行税を徴収する為の塔である。この地方の残酷な領主をネズミの大群がこの塔に追い込んで食い殺したという説がある。この話は封建時代の悪徳領主に対する民衆の反抗意識の集約されたものだろう。
 この下流がライン髄一の難所といわれ、流れは、両岸狭まって急角度に右に折れる。やがて左手にいくつかの古城が現れる。長い歴史をくぐり抜け、今なお往時の姿を留める魅惑の古城や古都。それらを訪ねて走る時、車は私達だけのタイムマシンになる。

ラインシュタイン城/写真転載不可・なかむらみちお  右岸のEhrenfels(エーレンフェルス)城跡の下を通り越すと間もなく対岸にRheinstein(ラインシュタイン)城が見えてくる。ラインシュタイン城は1275年にはじまり、19世紀にネオ・ゴシックの館に改築された。現在残っているのはこの建物である。
 城の建物はライン川に迫った崖の中腹90bくらいの所にある。対岸から見ると中世的でロマンティックで美しい。城の中には16、17世紀の家具、調度、武具などが若干ある。
 バブル時代、日本のあるデパートから6億円で売りに出されたことがある。ドイツの城も時々売物があるようだが、歴史的建造物のときはなかなか条件が難しいようだ。この付近で出来る赤ワインが有名である。私達はこの城の前にあるレストランで一服。城を眺めながら熱いコーヒーをすする。
ライヒェンシュタイン城/写真転載不可・なかむらみちお  次に見えてきたのはReichenstein(ライヒェンシュタイン)城。この城は13世紀にはじまるライン川屈指の城だが、2回の戦乱に遭い破壊された。隅に二つの櫓を配した高い胸壁に守られるようにしたオレンジ色の城館である。1900年に復興して、今では一部がホテルとレストランになっている。内部は公開されていてガイドが案内してくれる。武器のコレクションが有名。

ゾーネック城/写真転載不可・なかむらみちお  続いて見えてきたのは巨大な塔を持つSooneck(ゾーネック)城。昔、盗賊騎士の住み家だったというゾーネック城は10世紀に造られた。1689年の戦乱で被害を受けたが、1834年に復元された。公開されている。
 古くローマ帝国時代、ライン川はゲルマニアとの国境であった。ヨーロッパ中世において陸上の輸送手段としては人間、または牛馬の背かそれらの曳く荷車によったもので、更に道路は悪く一回の輸送量は少なく時間もかかった。しかもそれだけではなく、野盗などの略奪を受ける危険もあった。従って、中世の輸送方法としては陸上よりも船運による水上の方が選ばれたのである。特にライン川の中世における輸送路としての役割は非常に大きく、ヨーロッパ帝国の重要な収入財源となっていたので、それに関係した領主はライン川を上下する船を監視する必要があった。
 ラインの古城の多くは、古くローマ時代に築かれたものだが、中世に入って秩序が乱れこの地方に勢力を奮う豪族達が勝手にライン川を航行する船から通行税を巻き上げ、略奪の拠点として利用した。いわゆる盗賊騎士の往行である。しかし十三世紀にたまりかねたライン沿岸の商人達が同盟を結び、軍隊を雇ってこれらの豪族達を追い散らした。それ以後、打ち続く戦乱の中でほとんどの城が廃墟となってしまった。これがラインの城の第一回目の破壊である。さらに十七世紀前半の30年戦争で第二回目の破壊があった。そして第三回目は同世紀後半のフランスの侵入の際に行われた。ルイ十四世の軍隊はライン流域の城を徹底的に破壊してまわった。これを契機としてラインの城塞機能は終りを告げた。現在、ラインの城のほとんどが廃墟になっているのは、こうした度重なる破壊の為である。
フュールステンベルク城/写真転載不可・なかむらみちお  中世的なラインの城塞は近代的な大口径火砲、強力な火薬の破壊力の前には既には対抗できないことを証明してしまった。このことはただラインの城のみではない。ヨーロッパの城の総てがたどった運命でもあった。
 ラインの城はもはや、戦いの為の備えではあり得なかった。壊れた城はそのまま放置され、自然の成り行きに任された。あるものは改装されて居館になった。懐古的な持主はその外観を中世の城のスタイルにしたものもあった。ごく僅かの城が多少壊れながらも中世の面影を伝えている。そして今ではラインの数多くの城はラインの風物となった。
シュターレック城/写真転載不可・なかむらみちお  次のFurstenberg(フュールステンベルク)城は、1689年の戦乱で壊され、今は廃墟になっている。バハラッハの町を望む丘の上にあるStahleck(シュターレック)城はラインの城の中でも有名で、そのはじまりは1135年である。中央に鉄色のトンガリ帽子を被った塔を置き、左右に翼のように胸壁を張り、それぞれの先端に本館と別館を配している。1689年、フランス軍によって破壊されたが、建物は大円塔の他各時代の物が残り、現在はユース・ホステルとして使用されている。ここからライン川の眺めが素晴らしい。

戦艦のようなプファルツ城/写真転載不可・なかむらみちお  当時のラインはこの地方唯一の交通路であった。Kaub(カウブ)の町に近いライン川の中州に造られたPfalz(プファルツ)城は、1327年に始まる。矢狭間や張り出した投石狭間を設け、中央に独特のバロック式丸屋根を載せた五角形の塔のあるこの城は、二十世紀初期の戦艦のような頑強な姿で、永遠のラインの流れに逆らうように建っている。もともとはこの川岸の領主がライン川を航行する船から通行税を取る為の関所だったが、中には通行税を払わないで強行する船もあったので城構えとなり、大砲なども備えるようになった。
 マインツからケルンにいたるライン河には、30ヶ所を下らない通行税の徴収所があった。そして通行税を取るのには、その権利を行使するために、武装した兵士や城が必要であった。ライン川の川中島に建てられた水城は珍しい。現在はライン川博物館となって公開されている。この島に渡るのにはカウブの町からボートが出ている。すぐ先、右手ぶどう畑の上に建つ十三世紀のGutenfels(グーテンフェルス)の古城と共に、ラインでも印象的な眺めである。Kaub(カウブ)は中部ライン地域で最大のぶどう畑を有する町である。
一部はユース・ホステルとレストランになっているシェーンブルク城/写真転載不可・なかむらみちお  その先のSchonburg(シェーンブルク)城は十世紀初めにはじまり、数々の歴史的エピソードを持つが、現在は大部分が廃墟となり、一部はユース・ホステルとレストランになっている。この城のテラスからグーテンフェルスとデ・プファルツの城、ライン川の眺めなどが素晴らしい。シェーンブルクへの登り口は、下手のオーバーヴェーゼルである。
 ライン川をさらに下ると対岸のOberwesel(オーバーヴェーゼル)の先で左手にカーブし、やがて大きな岩山が流れをさえぎるように正面に立つところへ出る。これがライン第一の名勝、Loreley(ローレライ)の岩である。 この岩はどう見ても平凡としか言いようのない岩だった。妖婦の岩とか魔女の岩とかいう意味だが、奇岩でも怪岩でもない。幾分、川にせり出した高さ132bの普通の玄武岩に過ぎない。
 ラインは右に左に鋭くカーブしている。速い流れと急なカーブで、昔は船の遭難が絶えず、それが人を水に誘い込む魔性の乙女の伝説を生んだと言われている。この岩の上には1981年5月13日にも来ているが、今回もまた上ってみることにする。St.Goarshausen(ザンクト・ゴアースハウゼン)はローレライの町として知られている。街の背後にはブルク・カッツ、ブルク・マウスの二つの城がある。「ローレライ」の指示に従って右折し、山道に入って行くとローレライの岩の上に辿り着く。
ローレライの岩の上にはローレライの像があった/写真転載不可・なかむらみちお  岩の上に上がると広々とした平原で、さらに進むと突然眼下にライン川の眺望が広がる。そこにはレストランと展望台があり、ここからのラインの眺めは素晴らしい。曲りくねった流れと川岸の岩が、箱庭的な感覚で展開している。裸の美女が櫛けずっていたのはどの辺だろうと首を伸ばすが、巨大な岩肌は美女のイメージとなかなか結びつかない。
 ラインは「父なる川」なのだ、と言う。「母なる川」はドナウ川なのだ、という。確かにラインの風景は男っぽい。川沿いに次々に現れる城は、その典型といえる。古城銀座にも例えられるビンゲンからコブレンツに至る60q余の間だけでも25の城があるそうだが、総て無骨でいかつい。
ブルク・カッツとライン/写真転載不可・なかむらみちお  Burg Katz(ブルク・カッツ)を眺めるにはここから谷を隔てた向こうの丘の上からのほうが良い。一旦この岩を降り、道は一寸分りにくいが、ザンクト・ゴアースハウゼンの街の手前から二股になった道を東に入り、Petersberg(ペテルスベルク)という村を目指して丘を登る。この丘の上からのブルク・カッツと谷を隔てた眺めは、ライン川でも屈指の景勝地である。特に夕暮れ時の眺めが素晴らしい。
 ブルグ・カッツはねこの城という意味である。14世紀の終り頃完成している。ライン川の城の中でも代表的な中世の城塞。その昔、血みどろな争いを繰り広げたドイツ封建領主の典型的な古城である。1804年の戦乱で建物は壊されたが、1898年に復元された。古くからライン川の名城の一つであった。この名前はいささかふざけていて、城主がユーモラスな人だったとか、一説によると後世の呼称ともいう。正式の名前はノイ・カッツェネルンボーゲン城という。
 前面に館を挟んで二本の円搭が建っている。館の部分が顔、円搭の先を尖った耳と考えれば猫の顔に見える。険しい山の中腹に建つ茶褐色の塔と館は決して大きくはない。にもかかわらず、濁った流れに映る荒々しく、厳めしい影はラインの風土の縮図にも見える。
 この城は1804年に破壊されたが、1898年には古い城の形に復元され、城内は学校や児童休暇の家などに利用さていて公開はされていない。
ブルク・マウス/写真転載不可・なかむらみちお  近くのBurg Maus(ブルク・マウス)はネズミの城という意味で、カッツ城の城主が嘲笑的にそう呼んだのが語源。やがて、ねこ城に滅ぼされてしまう。1353年に造られた。初めはペテルスエック、次いでトゥルンベルク城と呼ばれた。方形の城館の中央に円搭が突き出ている。
 この辺りの城を見ていると、いずれも険しい山の上にあって資材をどうして運び上げたのだろうと考えてしまう。プファルツ戦争でフランスのルイ十四世に破壊され、現在ブルク・マウスは塔などの一部が壊れているが、原形は保っている。公開はされていない。
ラインフェルズ城/写真転載不可・なかむらみちお  Rheinfels(ラインフェルズ)城。1245年にライン川に迫る115bの山上に築かれた城は、ライン川地方の強固な城塞の一つに数えられた。いわゆる盗賊騎士の一人によって建てられたこの城は、数あるラインの城の中でも最も大規模で堅固な城である。城は度々の戦いに頑強に戦ったが、1794年のプファルツ戦争ではルイ十四世に攻撃されて破壊されてしまった。廃墟は石切場となった。現在は大部分が廃墟のままだが、古城としてもラインでは一番の観光価値を持っており、一部に郷土博物館とレストランが出来て公開されている。ここからザンクト・ゴアーの町、ライン川、対岸のザンクト・ゴアースハウゼンの町、ブルク・カッツ、ブルク・マウス、ローレライの岩などの眺めが美しい。
 やがて私達はライン川が再び左へ折れるくびれの狭い平地にワインとバラの花に包まれたBraubach(ブラウバッハ)の小さな町に着いた。その背後の岩山にマルクスブルク城が聳えている。ライン沿岸でただ一つ破壊されずに今日までその完全な姿をとどめている。私達は明日、この城をじっくりと見るために今夜はこの小さな町に宿を取ることにした。
 町の中に入り、ガイドブックを頼りにホテルを探す。街の中心部は狭い路地に古い木組みの民家が建ち並び、中世の雰囲気。ドイツではホテルはどこにでもあり、特に郊外は安くて狙い目である。
 小さな町なので探すのにはそれほど苦ではなかった。Brunnenstr.4にお目当てのホテル「Zum Weiben Schwanen」を探し当てた。料金はTwinで140DM(為替レート1DM・マルク=73.12〜74.44円)
 ホテルはレストランと別棟で、中には水車を初め、昔のドイツの田舎で使っていた生活用品が展示してあり、さながら「生活博物館」という感じ。ある一室の扉をソーッと開けて見たら、映画機材や写真機材など古い機械がぎっしり置いてあった。ここの主人はかなり懲り性の粋人らしい。ホテルの入口には昔の大きな水汲みポンプがあり、今でも水を汲み出すことが出来る。レストランの中もなかなかシックで趣があり、妻には好評だった。
 チェックインの後、マルクスブルク城へと向かう。道は城の裏側をかなり登った所にあり、一度は道を間違えてしまった。
背後の岩山にマルクスブルク城が聳えている/写真転載不可・なかむらみちお  Marksburg(マルクスブルク)城はライン沿岸でただ一つ、破壊されずに今日までその完全な姿をとどめる古城として興味深いライン川第一の名城である。この城の起こりは1479年、カッツェネルンボーゲン伯の築城による。現在、ここに「ドイツ城郭保存協会」の事務所がある。
 城はライン川に沿ったブラウバッハの町を見下ろす険しい山上にあり、中世的城館の姿を完全に留めて戦闘的城館の実感にあふれている。城は公開されていて、城内の騎士の間、貴婦人の間、大広間、教会などが見られた。特に一室にある拷問道具のコレクションも興味をひく。この残酷極まる道具を見ると激しい恐怖に襲われる。銃のコレクションも有名である。それに貞操帯などのコレクションが特に観光客の人気を集めているとか。この城が持っている中世的な雰囲気に浸ることが出来る。城内からライン川の眺めも良く、石の弾をこめた大砲が四門今も河に向かって並んでいる。ラインの城を訪ねるときには忘れることの出来ない城である。
 ライン川沿いに次々に現れる城は、どれも男っぽい。古城銀座にもたとえられるビンゲンからコブレンツに至る60余qの間だけでも、25の城があるそうだが、すべて武骨でいかつい。かつて、小国が割拠(かっきょ)し、食うか食われるかの連続だった波乱の歴史の残像でもある。
 ドイツの城はフランスやその他のヨーロッパの宮殿とは違った流麗さ、荘厳さを持っている。大体はフランク王国、神聖ローマ帝国の頃からのものだが、ドイツに城が多いということは、それだけここに文化の発達が目覚しかったということであろう。
 日本人が考えているヨーロッパの城の典型というのは、小山か丘の上に中世風の尖塔や円搭が林立し、居館があってそれに胸壁や石落とし、小塔などの付いた城壁で囲まれた建造物である。その意味でイメージに合う城といえばウォルト・ディズニーの映画「白雪姫と七人の小人たち」のモデルの城であるスペインのセゴビヤ城であり、フランスではピエルフォン、スイスならション城などの城であり、ドイツではマルクスブルクに代表される。マルクスブルクの城には私達日本人の描いているヨーロッパの城のイメージと最も良く合うものがある。ところが、このマルクスブルク城は実際に見た目では十分に中世的な城の面影を楽しませてくれるのだが、写真に写してその姿を見せるとなるとなかなか難しい。いわゆる決定的なアングルがないのである。城の写真集や絵葉書を見てもあまり良くないところを見ると、この城にはそのフォルムを実感のように表現するアングルはないのかもしれない。

    7月13日(土) BRAUBACH-KOBLENZ−BURG ELTZ-COCHEM
バラ園越しのマルクスブルク城/写真転載不可・なかむらみちお  今朝は少し空が靄っている。ホテルを出てライン観光船の船着場付近のライン川沿いに行ってみる。そこにはバラ園もある素敵なプロムナードである。バラの花園越しにマルクスブルク城を撮る。
 ブラウバッハを発ってからもコブレンツを目指して右岸を走る。やがて左岸の山腹にStolzenfels(ストルツェンフェルス)が見えてきた。この城は1836年から42年にかけて造られたネオ・ゴシック様式の宮殿である。城内は美術館になっていて公開されている。
ストルツェンフェルス/写真転載不可・なかむらみちお  Koblenz(コブレンツ)はボンからマインツに至るライン川の中でも最も大きい街で、古代から重要な軍事拠点であった。現在の人口は約十三万人。この地方の中心地である。コブレンツとはローマ語で「合流点」の意味。市内には見るべきものは多いが、モーゼル川がライン川に合流する地点に造られたドイチェス・エック(ドイツの角)からの見晴らしが良い。
 コブレンツの町に入ってからドイチェス・エックに行く道が分からず、ガソリンスタンドで聞いたところ、居合わせたおじさんが車で先導して教えてくれた。入口の標識の見える所まで案内してくれたおじさんはここから行くんだというように指差して教えてくれた。車から降りてお礼を言おうと思ったら、そのまま行ってしまったので失礼してしまった。

ヴィルヘルム皇帝の騎馬兵像/写真転載不可・なかむらみちお ドイチェス・エックはライン川とモーゼル川の合流するところ。近くには終戦の時アメリカ軍が要塞と間違えて爆破して近年再建されたヴィルヘルム皇帝の騎馬兵像があり、車から降りて見る。
 コブレンツを出てモーゼル川の左岸の道をTRIER(トリアー)へとたどる。モーゼル川はフランス北東部のヴォージュ山脈に源を発し、ロレーヌ地方を北へ流れ下り、ルクセンブルクとドイツの国境線となってからドイツ国内に入り、古都トリアーを経て右へ左へと曲折を繰り返しながらコブレンツでライン川に合流している。全長およそ540q、ラインでは最大の支流である。
 俗にモーゼルの谷と呼ばれるのはコブレンツからトリアーまでの約140qの区間で、岸辺に、或いは丘の上に佇む古城の姿ともあいまって、すばらしい渓谷美を作り上げている。ラインの男性的な感じに比べ、どこか女性的でのどかな景観である。この渓谷はライン川のように世界的な観光地ではないが、落ち着いたたたずまいは旅人の心を慰め、牧歌的な風物詩はモーゼルの特色でもある。但し、モーゼル川にはラインと異なっていくつかのダムがある。その為に遊覧船はあるのだが航行に時間が掛り、一般的ではない。従ってモーゼルの旅は、コブレンツを起点として両岸の道をある時は右岸、ある時は左岸と遡って行くことになる。

テュラント  左岸の道を少し遡ると右岸にAlken(アルケン)の町がある。この町からは町を望む丘の上にテュラントの城がある。Burg Thurandt(テュラント)は十三世紀初めに造られたが、フランス軍のプファルツ侵入の時に壊され、その内一部は復興されたものだ。このアルケンの町とモーゼル川のぶどう畑、テュラントの古城を一望する対岸からの眺めは、モーゼルの代表的な景観の一つである。また城まで上がれば、ここからモーゼル渓谷の眺めが美しい。
 Burg Eltz(ブルクエルツ)はモーゼル川岸から4q程山中に入ったところにある。コブレンツから遡ること30q。モーゼルケルンの町に入ってから右側を注意して見て行くと、Burg Eltzへの道を示す道路標識を見付けた。そこを右に曲がってミュンスターマイフェルトという山中の町に出て、更にヴィーアシェムという小村を通る11qほどの迂回路を15分くらい行くと駐車場があった。そこに車を置き、そこから1qほどやや下り坂の道を歩いて行くと目の前の谷の向こうの森の中に中世風な戦闘的城Burg Eltz(ブルクエルツ)が現れた。

深い森の中に現れたブルクエルツ/写真転載不可・なかむらみちお  そこは展望台と言ってもよく、木のベンチが置かれていた。何枚か写真を撮る。眺めはいいのだが、写真としてはどうもいまいち物足りない。もう少し右のアングルがほしい。ふと見ると、その脇に人がようやく通れそうな小道の跡が見て取れる。妻をそこに残してひとりでその道をたどってみた。すると、レンガ造りの古い建物が朽ち果て、屋根は無くなり僅かに壁の部分が残っていた。その壁の上を伝ってなんとかアングルを見付けた。そこでかなりの枚数の写真を撮る。撮り終わってから再び元の道をたどり妻の待っている展望台に帰って来た。妻に訊くと2時間くらいここで待っていたと言う。通り掛かる観光客に不思議そうに見られたとか。その間何度か呼びかけたそうだが私には聞こえなかった。それほど森の中に深く入り込んでいたということか。そこから更に坂道を下って城の門へと向かう。
モーゼル河  城の造られたのはモーゼル河畔の街道ではなく、またコッヘムからマイセンを通ってアンデルナッハやコブレンツに出るローマの街道からも離れている。そしてそのどちらへも兵を動かすのに便利とはいえない。どう考えても当時大変な労力を費やして道もろくにない山中にこんな巨大な城を造らなければならなかった政治的な背景や地形的な理由は理解出来ない。城は元来純戦闘的の為の防衛、もしくは前進基地か住居をあるいは集落を守るための禦防か政治的理由による政庁かの目的で作られるものである。中にはルドヴィッヒ二世によってバイエルンに造られたノイシュヴァンシュタインやリンダーホーフの城のように趣味的に、遊興的に造られる城もある。ところが、エルツは戦闘に備えて作られた城である。エルツの城が造られた当時の12世紀当時は、悠長でも平和な時代でもなかった。
 エルツ城はエルツ山中の一峰に築かれているが、その峰は決してもっとも高い場所ではなくて、むしろ峰に取り囲まれた盆地状の中のひとつの峰に造られ、周囲からは見下ろされる位置にある。それらの周囲の山は道もほとんど無く、城に至るのは一筋の道なのだが、その地形のせいか、駐車場から城門に行くまでの道の途中にある城を見るための、極めて適当な展望台からの眺めはドイツの城の中ではノイシヴァンシュタインの城と共に最も美しい。お伽噺の世界にでも現れそうな姿の城だ。ドイツの名城の一つである。交通の便は悪いが、山中の古城として人気は高い。
 城内は公開されており(8DM)、15分毎に案内人に付いて説明を聞きながら回るようになっている(所要45分)。古い家具や調度品が飾られており、広間、騎士の間、貴婦人の間、その他数多くの部屋が中世の生活を物語っている。鎧や武具のコレクションも数は多くはないが、オリジナルなものが揃っている。エルツ城を出てから一旦先ほどのモーゼル河畔の道に戻り、更に上流のコッヘムの街を目指す。
 Cochem(コッヘム)の町は人口一万人足らずの町だが、ぶどう畑に囲まれた観光地で、モーゼルの旅のひとつの中心である。今宵はこの街に泊ることにする。
コッヘム城(ライヒスブルク城)/写真転載不可・なかむらみちお  ローマ時代からの古い歴史を持ち、町を見下ろす小高い丘の上には絵のようなReichsburg(ライヒスブルク城)の姿が目に入る。この城は1689年、フランスの王ルイ十四世の軍によって破壊されたが、十九世紀に復元された十四世紀の古城で、モーゼル川の中でもエルツに次ぐ名城といわれている。大きな塔を中心として小塔が林立し,そのスタイルは美しい。この城ほどヨーロッパ中世の城の景観をそれらしく見せるところは他にはあるまい。メルヘンでさえある。城は公開されていて城内でも中世風な装飾が見られる。
 中心街のある左岸から橋を渡った川向かいの街を川沿いに右(上流)へ行き、町並みの外れた辺り(Kaasstrassel1 56812 Cochem-cond)に外観が黄色の壁の三階建の真新しく清潔な「Haus Ostermann」と書いたペンションを見付けた。玄関付近にベッド印の表示があり、青なら空室。赤なら満室。幸い青だった。トイレ、シャワーは共同だがTwinで一泊64DM。無料の駐車場も在る。温和な感じのご婦人が応対してくれた。川に面した部屋からは目の前にコッヘム城が見える。
 モーゼルワインの集約地のため、町中にはワインレストランも多い。チェックインの後、川向こうの街へ行ってみる。なぜか今日は妻の機嫌が悪い。エルツ城で待たせたのを根に持っているのか、それともそろそろ疲れてきたのだろうか。岸辺には美しいプロムナードが開け、たくさんのホテルやレストランが賑やかに建ち並ぶ。その一軒に入り食事をする。店先にはワインが並んでいる。帰りにどのくらいの値段で売っているのか冷やかしてまわる。

    7月14日(日) COCHEM−BERNKASTEL−TRIER−BERNKASTEL-COCHEM
 今朝は快晴、波一つない鏡のような川面にコッヘム城(ライヒスブルク城)が映える。橋の袂に車を停めて早速撮影。
 温暖な気候に恵まれたモーゼル川の斜面は、百数十qもの長さにわたって、何処までも続くぶどう畑の緑一色。蛇行する流れの岸辺には、絵のように美しい町や古城が現れては消え、ときにはダムで堰き止められた鏡のような水面を白い遊覧船や小船が静かに滑って行く。モーゼル川の旅には、ラインでは味わえないのどかな、そしてあくまでも澄み切った明るさが溢れている。モーゼルの最も美しい部分は、コッヘムとベルンカステルの間である。更にモーゼルを遡る。
モーゼル川を見下ろすメッテルニッヒの古城跡/写真転載不可・なかむらみちお  コッヘムの少し上流から大きく湾曲したモーゼルはBeilstein(バイルシュタイン)の町の上にBurg Metternich(メッテルニッヒ)の古城跡がある。高い六角の塔が、傍らにもうひとつ崩れかけた塔を従えてモーゼル川を見下ろしている。城の近くに車を停めて、そこから少し坂を上った所からぶどう畑越しに城と蛇行したモーゼル川の流れを写す。この城は十三世紀に始まる。30年戦争の最中の1637年にメッテルニヒ男爵がこの城を手に入れたが、1689年にルイ十四世の軍隊が無残に破壊し、以来そのままの廃墟の姿を曝している。今では廃墟になっている。
 更に上流のAlf(アルフ)の近くにはMarienburg(マリエンブルク)の僧院跡がある。モーゼルが大きくヘアピン状に湾曲する中心にあって、モーゼルの流れを静かに見下ろしていた。
 Zell(ツェル)の町は「おみやげ用ワイン」「Schwarze Katz(シュヴァルツェ・カッツ=黒猫)」の名前で知られている。ワインのラベルになっている像が町の中にある。
 さらにTraben-Trarbach(トラーベン・トラーバッハ)、古い町やその丘の上の城の廃墟、教会の塔などは旅人の眼を楽しませてくれる。いくつかの町や村を過ぎ、ベルンカステルへ。
 Bernkastel(ベルンカステル)は周囲がぶどう畑に囲まれ、そのぶどう畑が町に覆いかぶさる程の急傾斜である。この一帯に打ち続くぶどう園は、一つの畑としてはドイツ最大の規模を持っている。いずれ劣らぬワインの名産地。この畑から採れるぶどうで醸造されたワインはモーゼルの名酒中の名酒である。ベルンカステルはワインで知られた町である。
ベルンカステルの木組み建築の家並/写真転載不可・なかむらみちお  この町は、また不思議な美しさを持ったモーゼル中流の重要な観光地で、モーゼルの谷でも中世以来の建物が最も良く保存されている。街はずれの大きな駐車場に車を停めて町中へ。立派な尖塔の聳える教会の裏に回り、こじんまりした中央広場に行ってみる。広場の周囲には、木の骨組みを外壁に装飾的に浮きたたせた古いが立派な造りのファッハヴェルク(木組み建築)の家が取り巻き、その一角に天使の像の噴水が立っている。噴水の裏手の坂道にも、珍しい形の家がある。それらの窓には鉢植えの花で彩られている。こうした木の梁を表に浮き立たせた家が街中のいたるところにあって、どこもかしこも絵になりそうだ。街にはたくさんのヴァイン・ハウス(ワイン酒場)がある。
 ベルンカステルに望むBurg Landshut(ランツフート)の古城は11世紀にトリアーの大司教に依って造られた城塞だが、1692年の戦いでフランス軍に壊されて以来の廃墟である。塔と建物の一部が残っている。
 ベルンカステルを後に、ここからトリアーに至るまでのモーゼルにも古城跡、古い町は数多い。Piesport(ピースポート)、Neumagen(ノイマーゲン)、Trittenheim(トリテンハイム)などの町である。ここも名高いワインの産地である。
 旅の楽しみのひとつ、料理ではドイツはフランスに一歩を譲らざるを得ない。しかしドイツ的特色のある料理はいたる所にあり、その意味での楽しみにはこと欠かない。そしてワインとビールということになれば、品質ではドイツはヨーロッパでも傑出している。
 モーゼルワインの名はライン・ワインと共に世界に知られている。ライン・ワインはやや甘みが強いのに対し、モーゼルの方は酸味が強く、辛口である。快い酸味で爽やかである。濃い緑色のやや細長い瓶に詰められている。このモーゼルの中で特に二つの名酒の産地がある。その一つはピースポートを中心とする地区と、ベルンカステルを中心とする地区である。この二つは隣接している。
ワインラベル  ベルンカステルは白の辛口のノーブルなドクター・ワインで知られている町。ワインバーやワインレストランもある。500円から千円も出せば結構良いワインが買える。
 ピースポートに入る手前の道路脇に一軒のぶどう農家があり、シェルター状の作業場の前でご主人がワインの箱詰めをしていた。車を停めて話を聞く。お土産に手頃だなと思って値段を聞いた。日本で買うよりは安いことは安いが、輸送賃を加えると安くはない。妻と相談の結果、残念だが諦めることにした。
 Piesport(ピースポート)はベルンカステルと双璧のモーゼル最高のワインの産地の一つである。この付近のワインは、ミネラルに富み、繊細で香しく、微かに発泡味のあるワインを生む。酸味が快く、アルコール度の低い、爽やかでエレガントな味わいが特徴である。この地のワインは、上流に行くほど酸が強くなり、下流に行くほど甘みが濃くなる。中流域のベルンカステルやピースポートは、その両方が極めてバランス良く保たれていて美味しい。
 Neumagen(ノイマーゲン)の町の中にローマ時代の酒樽を積んだ船を奴隷達が漕いでいる有名な彫刻(ノイマーゲンの記念碑)がある。この出土品の本物はトリアーの博物館にある。
 ライン川沿いは男性的な風景、モーゼル川沿いは女性的な風色と、対照的な自然の姿が楽しめる。父なるライン、母なるモーゼルといわれるように、それぞれ景色も趣も違う。力強く流れるライン川沿いの風景は男性的で剛健。一方、モーゼル渓谷の道は険しい崖や谷に挟まれているが、川の流れはなんとなく温和なイメージ。モーゼル川はいたるところで蛇行しているが、Trittenheim(トリテンハイム)からの眺めは特に雄大である。ここは名高いワインの産地で、一面の葡萄畑はモーゼルがワインランドであることを如実に示している。
大きく蛇行するモーゼル川/写真転載不可・なかむらみちお  トリッテンハイムの町を望む対岸の丘の上にあるレストラン「HOTEL/Restaurant Zummethof」で昼食とする。ここの名物は鱒料理である。焼き鱒に野菜サラダ、茹馬鈴薯の付き合わせを注文する。料金はForel.Rostzw 22.60DM、FOREL.mandel 22.40DMであった。大変美味しかった。ここはトリッテンハイムの町からも見えるが、モーゼル川に掛かる橋を渡ると目の前の葡萄園の丘の上に建物が一軒だけポツンと見えるのですぐ分る。町からは歩いて20分くらい。ここからの大きく蛇行するモーゼル川の風景が雄大である。この風景を見ていると、シューベルト作曲の「鱒」が朗々と聞こえてきた。歌手は勿論フィッシャー・ディースカウ(オルフェオOCD2026)である。

 ※ぶどうの生存北限は北緯53度といわれている。ドイツの北緯50度を中心に広がるぶどう栽培地帯は、まさに北限のものといえるが、北に向かって異様に突出したその姿は、大河ラインが南から北に向かって流れていることと無縁ではない。
 ドイツワインの特質は、そのたぐいまれな果実酸とぶどうの持つ上品な甘さにある。ドイツワインは、はつらつとした果実香とその爽やかな風味が身上であり、貴腐ワインには、高貴なブケと、とろけるような風味がある。こうした特質は、アルコール度が低いだけに一層際立って感じられるので、アルコール飲料としての側面よりもむしろ、リフレッシュメント的であり、そのかすかな甘みは精神的な疲れを癒すのに最適である。
 ドイツワインには、気候上の悪条件を克服する為のさまざまの工夫が、とくに栽培上なされている。その最も顕著な例が摘み取り時期であろう。9月に天候に恵まれれば普通摘みでカビネットと呼ばれる高級ワインとなり、さらに10月の晴天は、シュペートレーゼを約束する。又、10月末から11月初めにかけて、特によく熟したぶどうの房を選りすぐって造られるものがアウスレーゼといわれる甘口ワインである。その中の特に完熟したぶどうの粒を一粒ずつ集めて造られるものがベーレンアウスレーゼとなる。
 さらに11月も深く、乾燥した冷涼な気候の下、ラインやモーゼルの川面から立ち上る水蒸気は柔らかくぶどう畑を包み、貴腐をもたらす。乾燥した土地での黴は、ぶどうを腐らせてしまうことなく、その乾しぶどう状のものから、最高のワイン・トロッケンベーレンアウスレーゼが造られるが、これは、10年に一度位しか造ることが出来ない。
 貴腐の発生しない年には、12月の零下10℃位の陽の昇っていない早朝に摘み取られ、凍結した水分以外の濃度の高い果汁のみを搾って作るのがアイスヴァインである。
 カビネットクラス以上の物で、リースリング種のものは、成熟して飲み頃になるまでに平均5年以上もの時間が掛かるが、通常日本で1500円以下で売られているワインは、2〜3年以内に消費されることが望ましい。

 鏡のような水面に反映する愛らしい岸辺の町やぶどう畑の緑を楽しむうちに周囲は次第に開け始め、やがてドイツ第一の古都トリアーに着く。
 町の中に入ったのだが、お目当てのポルタ・ニグラがどこにあるのか分からない。通り掛のガソリンスタンドに寄り、道を尋ねる。指を三本立てて(Signalstelleを)三つ戻って右折すると良いと言っているのだが、何が三つなのか分からない。すると彼は紙に絵を描いてくれた。それは交差点に立つ信号機であった。
 ドイツの西端、ルクセンブルクとの国境に近いTrier(トリアー)はモーゼルの旅の終点。そしてドイツで最も立派なローマ時代の遺跡を誇る2000年の古都である。伝説では4000年も前に始まるといわれるが、紀元前一世紀のローマ皇帝アウグストゥス帝の時代、ライン川地方の最大の基地としてここに軍団が置かれた。その後、数世紀にわたってローマ帝国西北の都として文化が栄えた。ドイツで最も古い町といわれる。町の中心地にはローマ帝国時代の遺跡が残る。マルクスはこの町で生まれた。マルクスの共産主義がこの古い町でどのように育まれたのか、不思議というより外はない。
ポルタ・ニグラ/写真転載不可・なかむらみちお  Porta Nigra(ポルタ・ニグラ=黒い門)は古都トリアーのシンボルで、黒々とした石を積んで造られたところからその名がある。市のやや北側、旧市街の入口に立ちはだかるこの門は、ドイツで最も貴重な、そして最も立派なローマ時代の建造物である。紀元四世紀、コンスタンティヌス帝が町の周囲に城壁を造られた時の城門である。軍事的にも当時最高の技術で設計されている。
 門の近くに駐車場があった。杭状のコイン式パーキングメーターが立っている。使い方が分からない。どうしたら良いのかそれを調べていると、青年が隣に駐車した。彼もそれを見ていたが、やがて今日は日曜日だから駐車料は無料だと教えてくれた。
 ポルタ・ニグラは十一世紀に一時教会に改築されたが、1804年にはドイツの征服者ナポレオンが昔の姿に復旧した。トリアーにはその他に大浴場、古代円形劇場などがある。
 トリアーを出て再びコッヘムを目指してさっき来た道を引き返す。陽が少し傾いてきた。モーゼル川流域のエルツ城とかメッテルニッヒ城、トリッテンハイムの対岸の展望など交通機関のないところでは車の有難味を感じた。一般道路しかないモーゼル川流域やライン川流域の道の運転ではなかなか右の車間に慣れなくて苦労した。この辺の道は狭く、時には建物が道の中ほどまでせり出して車一台がようやく通れるくらいのところもある。勿論そういう所は対向車と交差することは出来ない。
 途中の町で狭い通りの右側に車が駐車していた。疲れてきたのかそれとも未だ時差ボケなのか間隔を誤って駐車している車のバックミラーに私の車の右のバックミラーを擦ってしまった。幸いたいしたことはなかったが、私の車のミラーが破損して落ちてしまった。途中でこの車と同じメーカーの自動車修理工場が在ったのでそこに立ち寄って修理を依頼したが部品がなかった。電話で探してくれた結果コブレンツの修理工場にあるということが分った。工場への地図を描いて貰ってそこを去る。慣れない左ハンドル車に加えて右のバックミラーがないので運転しづらい。ようやく今日の宿泊を予定していたコッヘムに着いた。
 昨夜泊ったペンションに行ったら満員だった。妻と手分けして近くのペンションの軒先に描かれているベッドマークの中で青を表示しているペンションを探し回る。2〜3軒探した結果妻がようやく一軒の軒先に青のベッドマークを見つけてきた。

    7月15日(月) COCHEM−BOPPARD−OBERWESEL-BINGEN-RUDESHEIM
 コブレンツでようやく昨日聞いてきた自動車修理工場を探し当てて早速修理して貰った。保険で出来るかと訊くと、問題ないとの返事だった。ひと安心。修理完了後、ライン川の左岸を今日の宿と決めたリューデスハイムへ向かって上流へと走る。
 Boppard(ボッパルト)はライン川沿いの町の中ではコブレンツ以外では最も大きな町だ。川岸が緑豊かな公園になっていて、その向こうに瀟洒な建物が並んでいる。ここは古くローマ時代から中央ラインの中心的存在だった。ローマの城砦の跡も一部残っている。この町の城は1499年の大火で類焼し、今は鐘楼を残すのみ。
 ボッパルトを過ぎるとやがて対岸にLiebenstein(リーベンシュタイン)城Sterrenberg(シュテレンベルク)城址が見えてくる。屋根続きの上流側、高い方にあるのがリーベンシュタイン城で、低いほうがシュテレンベルク城である。“敵同志の兄弟の城”といわれる城だ。十二世紀と十三世紀にはじまった城だが、今はどちらも仲良く廃墟になっている。リーベンシュタインのほうはレストランになっていて眺めがよい。
塔の間を通過する特急列車/写真転載不可・なかむらみちお  こちら側のラインフェルズ城の下を通り過ぎると、ザンクト・ゴアールの町に入る。対岸のローレライの岩を見てから少し行くとOberwesel(オーベルヴェーゼル)の町がある。ここはゴチック式の古い教会や城門の遺跡を誇る美しい町である。13世紀から14世紀にかけては城壁がめぐらされ、塔の林立する城郭都市だった。その歴史は古く、ローマの基地にもなったが、十四世紀頃には18の塔が林立する城郭都市だった。今でもその一部が残り、バハラッハと並んで中世の面影を濃く残している町として知られている。人口は四千人余り。ライン川観光の一つの拠点でもある。近くのSchonburg(シェーンブルク)城へは、オーバーヴェーゼルから登る。ライン川に沿って走る鉄道の脇に塔のように建っている名もない珍しい城の風景があった。その近くの駐車場に車を停めて土手を這い上がり、線路脇で特急列車が塔と塔の間を通過するのを待ち構える。
プファルツ城/写真転載不可・なかむらみちお  川中にプファルツ城を見ながら更に進むとBacharach(バハラッハ)に着く。丘の中腹には、今はユース・ホステルになっているシュターレック城が聳え、町中には木組みの家々が並ぶロマンティックな町。この町はライン流域の町の中でも最も中世の面影を色濃く残している。バハラッハという名は「酒神の祭壇」という言葉から起こっているのだそうだ。その名の示すとおり、ここはワインの名所で、町の中にはワイン・ハウスが軒を連ね、観光客で賑わっている。

ゾーネック城/写真転載不可・なかむらみちお ラインシュタイン城/写真転載不可・なかむらみちお
エーレンフェルス城跡/写真転載不可・なかむらみちお  Sooneck(ゾーネック)城Reichenstein(ライヒェンシュタイン)城Rheinstein(ラインシュタイン)城と過ぎ、対岸にあるEhrenfels(エーレンフェルス)城跡が見えてくる。
 エーレンフェルスの城は、十三世紀の前半に築かれ、1689年に戦いのため破壊された。今は半ば崩れた塔や城壁が残り開放されている。この城の後にある山頂まではリフトがあり、そこから城とライン川の眺めが美しい。
 Mauseturm(モイゼトゥルム=ねずみの塔)を過ぎるとビンゲンである。Bingen(ビンゲン)はリューデスハイムの対岸にあり、モイゼトゥルムの少し上流にライン川に合流するナーエ川の河口があって、その左岸にある。ここは人口三万人足らずの小都だが、ワインの集産地である。ライン・ワインの積み出しで有名。
 コブレンツからヴィースバーデン区間には橋はないが、途中各所に自動車用のフェリーが通い、簡単に対岸に渡れる。私達もビンゲンからフェリーで車ごと対岸のリューデスハイムに渡った。料金は1台2人搭乗で5DM前後。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Rudesheim(リューデスハイム)
つぐみ横丁/写真転載不可・なかむらみちお  リューデスハイムは、ぶどう畑に包まれたワインの町といわれ、ラインガウの中心でもある。ドイツワインの産地の中で最も名酒を産出する地方名である。フランスに例をとればボルドーにもブルゴーニュにも比べられるワインの栄光の地である。この地方の特色は年間の雨量が少なく、日照が良く、温暖、土地も小石混じりのぶどう栽培の好適地で、最高の条件に恵まれた土地である。ぶどう畑の80%はリースリング種を栽培している。今夜はここで一泊する。
 先日立ち寄ったドロッセル・ガッセ入口の角にある「HOTEL POST」(Rheinstrasse12/Eche Drosselgasse 6220)の感じが良かったので今日の宿と決めた。Twinで DM130〜(10,000〜11,550円)無料駐車場有り。親日的で親切な日本語を話せる双子の兄弟が経営している。日本語が通じるのが嬉しい。一階ではお土産店も営んでいる。店独自のワインもある。部屋はドロッセル・ガッセとライン川に面しており清潔で真新しく広々としている。今回はドロッセル・ガッセ通りを見下ろす部屋に泊った。防音用の窓なので締め切ると外の騒音は聞こえない。
 双子の兄がわれわれのこれからのスケジュールを訊いてくれた。「明日はハイデルベルクに泊り、明後日はローテンブルク、19日はアウクスブルクに泊る」と答えると、「宿は決っているのか」と訊く。「行ってから探す」と言うと彼は「一寸待て」、と言って部屋を出て行き、やがて一冊の本を持って来てその中からこれからわれわれが行く先のホテルを調べてくれた。その中から私達の気に入ったホテルを予約してくれると約束してくれた。
 Drosselgasse(つぐみ横丁)は俗称ワイン横町。この町で観光客に一番人気のあるところ。入口の表示もぶどうの樹と房がデザインされている。ワインを飲ませるレストランやバー、土産物屋が狭い通りにひしめいている。つぐみ横丁のワイン酒場で乾杯! 大きな店ではシーズン中楽団を入れて夜中になってもプカプカドンドンと派手にやっていて、飲むほどに、酔うほどに、バンドに合せて歌いかつ踊る。常に各国の観光客の団体で満ちており、いつもお祭のようである。料理はさほどとびきりというほど高級でもないが、店によってはなかなか良いところもある。ワインはいろいろ揃っていて通常のワインから高級ワインまである。ライン・ワインの味は丸みのあるものが多く、たいてい茶色の瓶に入っている。お勧めはこの町の周辺でできるRudesheimer Berg(リューデスハイマー・ベルク)。なかなかいいワインである。

    7月16日(火) RUDESHEIM-HEIDELBERG
古城街道  ドイツを東西に横切る約300qの観光ルート、古城街道。街道沿いにはその名の通り古城と城郭都市が並ぶ。起点は宮廷都市マンハイム。その先に中世ムード一杯の美しい城下町ハイデルベルクがある。
 マンハイムからアウトバーンを時速140〜150qで走る。途中でハイデルベルグヘの標識を見間違いアウトバーンを降りてしまった。近くにトラックターで農作業をしていた人に道を尋ねて再びアウトバーンに入ったが、又、降りてしまい見覚えのある場所だなと思っていたら再び先程道を尋ねた人のいるところに来てしまって大笑い。本来ならばマンハイムからハイデルベルグまでは高速道路を走り10分位で到着する所を結局は30分以上も掛ってしまった。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Heidelberg(ハイデルベルク)
 緑の山に囲まれたハイデルベルクは、古城とドイツ最古の大学がある町として知られている。中世ドイツのロマンを伝える古都である。ラインの支流ネッカー川の畔にあるこの美しい町は、ゲーテを初め詩人たちにも愛された。
哲学者の道から見たハイデルベルグ城/写真転載不可・なかむらみちお  ネッカー川の右岸(北)、カールテオドール橋(別名アルテ・ブリュッケ)のたもと近くに立ち、流れの彼方に古城を望む眺めはハイデルベルクの代表的な風景である。ゲーテも『ここから望む眺めには世界のいずれの橋も及ぶまい』と嘆賞しているほど。私は1981年5月12日にも一度この町に来ている。同じ右岸後背の丘に登れば「哲学者の道」という散策路があり、ネッカーの流れを脚下に対岸の町全体を味わうことが出来る。ひときわ高い丘の上から街を見下ろす古城の姿や、岸辺に広がる渋いレンガ色の家並みは、一服の絵のように美しい。旧市街はほとんどが歩行者天国になっている。石畳の路地を歩けば、中世の雰囲気に浸れる。
 ハイデルベルクと聞くとマイヤー・フェルスター作「Alt-Heidelberg(アルト・ハイデルベルク)」の皇太子ハインリッヒと下宿屋の娘ケティの悲恋物語を思い出してなんとなくロマンティックな気分になる。人口は約十三万人。古城と大学で知られたその佇まいは意外とこぢんまりとしている。十二世紀にはじまるこの街は、十三世紀の初めにプファルツ伯オットーが城を造ってから城下町として発展した。1368年にはドイツ最古の大学が創られた。その名声を慕ってドイツ各地やヨーロッパ各国からここに留学する若者が多かった。この大学は今もこの街にある。街の一角には学生の牢屋がある。
カールテオドール橋とハイデルベルグ城/写真転載不可・なかむらみちお  リューデスハイムのホテルの双子の兄がわれわれの為に予約してくれた今夜の宿はこの町の69117 HEIDELBERG.Kettengasse21にある「HOTEL Zum Pfalzgrafen」である。ハイデルベルグ城へ行くケーブルカー乗場から右へおよそ200b。一方通行の道をたどって行くと曲がり角に案内板があり、そこを右に入った小路にある宿に辿り着いた。外観はシンプルで良く見ないとホテルとは分りにくい。Twinで一泊170DM。シャワー、トイレ付き。ホテルの中庭が有料駐車場になっている。フロントのおばさんは優しいし英語も話せる。学生牢など主な観光施設に近い。
 ハイデルベルク城は町の東、緑の丘の中腹にある。チェックインを終えると、先ず、ネッカー川に架かるカールテオドール橋を渡って、対岸からハイデルベルクの古い町並みを眺めてみる。
 古城入口へは麓からケーブルカーがあるが、狭い石段と急坂の小路を登るのも面白い。街から歩いて登るのには、Schlossという表示と矢印の処から入る。城への登り口一帯には矢印の標識があり、私達は10分程で城の前の広場に着いた。
ハイデルベルクの街並みとネッカーの流れ/写真転載不可・なかむらみちお  増築を繰り返したため、内部ではさまざまな建築様式が見られる。この城は通常ハイデルベルクの城、と呼ばれているが正確にはSchloss der Pfalzgrafen(プファルツ伯爵の城)である。フリードリッヒ館を抜けるとアルタンというテラスがある。ここからのハイデルベルクの街並みとネッカーの流れが一望出来る。このテラスに佇めば旅の愁いはひとしお深く、このロマンティックな古い町に青春の想い出を思い起こす。そして「アルト・ハイデルベルク」の一節がおのずから唇にのぼる。
 30年戦争、ファルツ戦争などで多くの建物が破壊されたが、近年になって居館の部分は修復された。最古の部分は十三世紀の建造。このように戦いで大破したままであるから、なお一層この城は“滅びの美”を湛え、旅人の胸をイマジネーションで満たすのである。
フリードリッヒの館/写真転載不可・なかむらみちお  城の中庭の四囲は巨館の建物である。1550年に造られたGlaserne Saalbau(グレーゼルネ・ザールバウ)というガラスの館、1560年のオットー・ハインリッヒの館、1607年のフリードリッヒの館、ゴシックの後期からルネッサンスに至るまでのドイツ建築の様式を一堂に集めている。特に入口からは正面のフリードリッヒの館は豪華絢爛、建物の一階から六階まで窓と窓との間の壁面に彫られた等身大の人物像のレリーフは素晴らしい。五階と六階の破風は大きくオランダ風の造りである。いつまで見ていても見飽きることはない。それらを夢中で写している内に妻を見失った。きっと先に行ったのに違いない。急いで追いかけると矢張りその先の広場にいた。私はそこはあまり広いところではないことを知っていた。観光客もあまり多くないのですぐ分った。私が立ち位置を変えた時に見失い、先に行ったのではないかと思ってここに来たと言う。

赤い城門/写真転載不可・なかむらみちお  広場から城門の中庭に入る橋の赤い城門の上にある騎士の像が見物客を見下ろしているのも印象的である。二人の騎士が槍と剣を持って立ち、二匹のライオンが何か両側から支えているのだが、その何かは削られてすでにない。形から想像すると王冠かプファルツ伯の紋章だろう。

大酒樽。妻が樽の上で手を振っている/写真転載不可・なかむらみちお 大酒樽前のペルケオの像/写真転載不可・なかむらみちお  特に見学したいのはフリードリッヒ館の地下にある大酒樽。直径7b、長さ8b、22万2千gも入る巨大なワイン樽は1751年のもの。今は使われていない。妻をその樽の上の小さな舞台に立たせてこちらから記念写真を撮った。樽と向かい合ってこの階段の処に、中世風な服装をした一人の像がある。左手にワイングラスを持っている。宮廷道化師、ペルケオの像である。彼は目玉を輝かせて観光客を見ている。昔の宮廷には道化師というのが居て王侯貴族や貴婦人の無聊を慰めた。宴会ともなれば、彼の活躍のしどころである。いわば“太鼓持ち”のようなものである。ここを出たところにホールがある。夏から秋にかけてはこの酒倉で白ワインの新種を試飲出来る。ペルケオに敬意を表してそこで杯を乾して来た。お金を払えば、城の名前の入ったグラスを記念に持ち帰ることも出来る。
 この地方で最もポピュラーなワインはロゼワインである。このロゼワインをSchielenwein(シーレンヴァイン)という。ドイツ語で「やぶにらみワイン」である。このワインは、赤ワインを造る工程の途中で皮を取り去りロゼを造るという方法ではなく、初めから赤ぶどうと白ぶどうを混ぜてロゼワインを造るのである。従って赤ぶどうと白ぶどうがやぶにらみしているというので、Schiele即ち“やぶにらみワイン”という名が付いた。
ワインラベル  またこの地方の赤ワインの特色は、極めて美しいルビーのような赤さと透明度を持ち、爽やかな芳香と力強い辛口である事だ。あまり永くは貯蔵しないで2、3年で飲む。非常に有名な名酒というのはない。
 ホテルへ帰る途中の広場に私の姓と同じワイン店を見付けた。日本人の経営者が応対してくれたので、この地方のワインを二本買った。
 ホテルに戻り、ふたりで先ほど買ってきたワインを開ける。窓を開ければ目の前にハイデルベルグ城が見え、朝夕には丘の上の教会の鐘の音が聞こえてくる。特に、城の赤味を帯びたパステルのような色調が、午後の傾いた陽光の中で非常に印象的であった。

    7月17日(水) HEIDELBERG−ZWINGENBERG−SCHWABISCH HALL−ROTHENBURG
 妻がチェックアウトしている間に駐車場から車を出そうとしていたら、日本人に声を掛けられた。スイスのヴヴェイに本拠地を置く食品関係の多国籍企業として世界第二位のネスレの社員でTという人だった。ヴヴェイに住んでいるが、夏休みを利用して家族でこの辺を観光しているとのことであった。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Burgenstrasse(ブルゲンシュトラーセ=城郭街道)
 古城街道は、マンハイムからハイデルベルク、ネッカー渓谷の小さな町や村を経て、ローテンブルク、ニュルンベルク、さらに国境を越えてチェコのプラハまで続く国際的な観光街道である。交通の便は良くないが、それだけに観光地化されていない素朴なドイツに出会える街道でもある。
 古城街道の一番の見所は、ハイデルベルクからHeilbronn am Neckar(ハイルブロン)までのネッカー渓谷。このあたりまでの約90qをBurgenstrasse(ブルゲンシュトラーセ=城郭街道)と呼ぶのは、谷間に多くの城や城塞があるためである。歴史の重みを今に伝える町々。緑濃いネッカー川の両岸に絵画のような中世来の古城が50近くも続き、静かな佇まいを見せている。多くの古城が点在するネッカー渓谷はこのルートのハイライトである。
ブルゲンシュトラーセ  かつてネッカー川は二つの峡谷の境界線で、要所要所には城や砦が建てられた。それゆえ川の両岸には美しい名城が次々に現れる。中世の吟遊詩人達がこの地を放浪し、多くの詩を作ったのも納得。ヒルシュホルン城、ノイブルク城、ホルンベルク城、レーエン城を初め、古城の多くはホテル、レストランになっている。またハイルブロンからローテンブルク区間もなだらかな丘陵地帯、平原が続く自然の姿が美しい。
 ハイデルベルクから古城街道に入るのには、ネッカー川沿いの道を上流に向かって、ハイルブロンの表示に従って進む。間もなくネッカーシュタイナッハに差し掛かろうとした時、妻がどうも宿代に納得いかないと云い出した。じゃあ、未だいくらも来ていないから戻ってみるか、と言う訳で再びハイデルベルクへ。妻は「間違いは無かった」と納得してホテルから帰って来た。
 ハイデルベルクから15kmほど上流のNeckarsteinach(ネッカーシュタイナッハ)は小さい古い城下町で、今は転地療養の地として知られている。
ヒルシュホルン・アム・ネッカー/写真転載不可・なかむらみちお  更に8q程上流のHirschhorn(ヒルシュホルン・アム・ネッカー)はネッカー川の大きく湾曲するところで、この山上にある城塞もすでに廃墟だが、バーがあり、テラスが造られていてここからのネッカーの森、渓谷の眺めにも定評がある。一寸危険な階段を121段伝って塔に登るとそこからの眺めは雄大であった。中世に思いをはせ、古城内のレストランで一寸休憩。

ツヴィンゲンベルク城/写真転載不可・なかむらみちお  Zwingenberg(ツヴィンゲンベルク)城は、ネッカー渓谷の中でも名城の一つである。ネッカー川に迫る山腹に構築された建物は、ドイツでも美しい城の一つに数えられている。中世風な塔や居館が静かな山腹にあって、いかにもドイツ的な眺めである。
 Heilbron am Neckar(ハイルブロン・アム・ネッカー)はネッカー渓谷の古い町でワインの産地。食べ物が美味しいことでも有名。特に麺類のバリエーションは豊富だ。名物の赤ワインとシュペッツェレと呼ばれる特産のドイツ風うどんを試したい。旧市街は小さな街にしては活気に溢れ、町の中心に天文時計が美しいRathaus(市庁舎)が建っている。この地下には、一寸高級だが美味しいヴュルテンベルク料理を食べさせるレストラン、Ratskeller(ラーツケラー)があるというので寄ることにした。通り掛の人に声をかけて“Rathaus?”と尋ねてみたが発音が悪いらしくて相手に通じない。ようやく探し当てた市庁舎前の駐車場に車を停めて地下のレストランに辿り着く。早速シュペッツェレを注文するが応対してくれたウエトレスに言葉が通じない。空腹の上、市庁舎を探すのに手間取ったりしてイライラしていたのでつい腹を立ててこの場を立った。ワイフの怒ること…。空腹を抱えて次ぎの町まで突っ走った。特産のドイツ風うどんを食べ損なったのは残念だった。短気は損気。
 川沿いの古城を楽しみながら渓谷をドライブした後、旅を急ぐのなら、ハイルブロンの手前でニュルンベルク行のアウトバーンに乗り、ローテンブルクを目指してもよい。ゆっくり古城街道をドライブするなら、ハイルブロンからOhringen(エーリンゲン)、Schwabisch Hall(シュヴェービッシュ・ハル)、Langenburg(ランゲンブルク)と訪れ、一般道を走りローテンブルクへ。私はシュヴェービッシュ・ハルに寄って見たかったので一般道を選んだ。この辺の一般道は複雑に交差している。地図を見ながらルートを追う。
 鈴木成高著「中世の町」(東海大学出版会)に「コッヘル(Kocher=コッヒャー)の川岸沿いの家並みと、川に架けられたヨーロッパでは珍しい木の橋、町の何処に何という名所があるわけではないが、町ぐるみに美しい。どの路地に入っても美しい」。との記述に誘われて、どうせここまで来たのならついでに寄ってみようと思い、途中のSchwabisch Hall(シュヴェービッシュ・ハル)に寄り道をしてみた。
中世の面影を伝える木組みの家々が美しい/写真転載不可・なかむらみちお  人口三万五千人。かつての帝国直属都市で、旧市街は歴史の重みを感じさせる。市庁舎前の駐車場に車を置き、木の橋の架かるコッヒャー川の川岸へと向かう。中世の面影を伝える木組みの家々。マルクト広場の聖ミヒャエル市教会や、向かい側のバロック建築の市庁舎のほか、茶色の木骨組の民家は全体が幾何学模様のようで美しい。
 小さい町だが、歴史は随分古いらしい。中世時代には塩の産地として栄えたものらしい。十二世紀にはこの町で銀貨が鋳造され始め、大いに繁栄した。城壁は今はなく、市門だけが残っている。この谷あいの町は交通が不便なせいもありあまり知られず、且つ訪れる人も少ない。妻は「こんなところ何がいいの」とぶつぶつ言いながら付いて来る。こういう時は“男はつらいョ”。
Blaufeldenでの道路標識/写真転載不可・なかむらみちお  シュヴェービッシュ・ハルからローテンブルクヘの道は田舎道のため、標識を見逃しやすく、道を辿るのに苦労した。ローテンブルクヘ行く道はシュヴェービッシュ・ハルからおよそ10q行ったUntermunkheimの先の交差点で右折しなければならない。それらしき小さな道路標識があったのだが、余りにも小さな田舎道だったのでこれじゃないと思いその先に車を進めた。しかし、シュヴェービッシュ・ハルからの車の走行距離メーターは地図に書いてある距離を過ぎてゆく。やっぱりあそこだったのか。およそ5q通り過ぎたところから引き返し、さっきの田舎道へと進む。やがてランゲンブルクの町に辿り着いたのでこの道で正しいことが確認出来た。その先のBlaufeldenは古い街並みが素敵だった。街角にはこの町のお年寄り達がテーブルを囲んで話し込んでいる。ローテンブルクはもうすぐこの先である。私達もその人たちに混じって一服する。
 こうして走るうちにやがてタウバー河畔の緑の森にいくつもの赤い塔の屋根が見え隠れしてくる。ロマンティック街道第一のハイライト、ローテンブルクの町である。ローテンブルクでは古城街道とロマンティク街道が縦横に交差している。

ホテル前の通り/写真転載不可・なかむらみちお  リューデスハイムの「HOTEL POST」の双子の兄が手配しておいてくれたホテルへと向かう。城内に入ったがホテルへの道が分からない。たまたま車で品物の配達をしているらしい人に出会い、ホテル名を書いた紙を見せると、この車に付いて来いと言ってホテルの駐車場まで案内してくれた。妻がお礼に何か渡しているようだった。ホテルはマルクト広場に近い「Gasthof Sonne」(Hafengasse 11 D-91541、)。ツインで110から120DM。階下はレストランで向いはスーパーマーケット。部屋は二階の表通りに面した部屋であった。ロマンティック街道のどの都市も車の乗り入れは禁止だが、市内のホテルを予約していると、特別に乗り入れが許可される。ローテンブルグ城内の規制は、本に書いてあるほど厳しいものではなかった。

目次へ   ↑ページの一番上へ

   Rothenburg ob der Tauber(ローテンブルク)
ローテンブルク/写真転載不可・なかむらみちお  ローテンブルクは、U字型に大きく迂曲するタウバー川に三方を囲まれた小高い丘の上にある町である。人口一万二千人。全ドイツを通じてこれほど完全に中世都市の姿を今日にまで伝えている町はない。そのため、ドイツに中世の歴史の面影を求める人々は、聖地のようにこの小さな町へと押しかける。
 小さな町といっても昔は立派な都市、その歴史は古く九世紀頃まで遡る。1204年には市民による城壁が築かれる。1280年には、第二期の城壁が造られ、その後百年ほどして町の成長に合せて第三期の城壁が構築された。現在のローテンブルクの城壁は13世紀から14世紀に渡って出来上がったもので2.5qにも及ぶ。こうした中世都市の発展を示す三つもの年代順の城壁が現存するのは、ローテンブルクだけで、非常に興味深く貴重な存在なのである。
 現在ヨーロッパで中世の城郭都市の面影を完全に残し、都市の城壁の破損の全くない街が四つある。一つはフランスのCarcassonne(カルカッソンヌ)、ひとつはフランスのAigues-Mortes(エグ・モルト)、一つはスペインのAvila(アビラ)、そしていま一つがローテンブルクなのである。

    7月18日(木) ROTHENBURG−CREGLINGEN−ROTHENBURG
 今日はひとりで車を運転してローテンブルクの北20qにあるクレクリンゲンへ行き、その町はずれにある古いヘルゴッツ教会に保存されているドイツ・ルネサンス期の彫刻家リーメンシュナイダーの伝説的な祭壇「聖母マリアの昇天」を見に行くことにする。
ローテンブルクの街並み/写真転載不可・なかむらみちお マルクス門  その前に先ず朝方の光の具合の良い間に、前回来た時に登ったことのあるレーダー門の塔の上から街の全景を撮ることにした(DM1.00)。妻はその間、午前中は市内を見て回るというので私ひとり、行き掛けに途中のマルクス門を撮影した後、レーダー門へと向かう。今朝は晴れているので塔の上からは前回同様なかなかよい眺めであった。
 一旦ホテルに帰り車を運転して一路クレクリンゲンへと向かう。一本道なので軽く考えていたのだが、初めての道であり、途中何度か間違えて脇道にそれては戻りながらようやく辿り着くことが出来た。

「聖母マリアの昇天」の祭壇/写真転載不可・なかむらみちお  Creglingen(クレクリンゲン)は取り立ててどうということもない小さな町だ。町はずれの丘の麓に建つ古いヘルゴット教会も同じように小さい。しかし堂内に安置された高さ11bに及ぶ木彫りの祭壇には目を奪われた。これこそドイツ・ルネッサンス期の彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの最高傑作と言われる作品「聖母マリアの昇天」の祭壇の像(1505)である。祭壇中央にはマリア昇天とそれを見守る天使、十二使徒が、左右の翼にはマリアの生涯が彫られている。そして祭壇下部でイエスの言葉を聞き入っている立法学者がリーメンシュナイダー自身の肖像彫刻であるといわれている。
 ローテンブルクのホテルに帰ってみると妻が部屋にいた。留守中に市内のクリスマス用品を販売している店に行って来たとかでご機嫌だった。その店はマルクト広場から西に延びるHerrngasseの右手にある「クリスマス・マーケット」で、その向い側には「クリスマス・ビレッジ」がある。どちらも種類と量が豊富に年中クリスマス用品を販売している。ホテル一階のレストランで昼食の後、妻と連れ立って市内見物に出かけることにした。
 ローテンブルクは、ローテン=赤い、ブルク=城の意味。城壁に囲まれた町の中は、石畳の両側にレンガ色の屋根、パステルカラーの壁が並ぶ。総てが古い街並みはさながら町自体が博物館だ。町の三分の一は戦争で破壊されたが、復元されて今日に至っている。古き良き時代のロマンティックな面影を残す城門や家並みが、私達の心に中世への幻想を掻き立てる。路地を歩くと、中世にタイムスリップしたような気分を味わえる。この町に足を一歩踏み入れた旅人は一瞬、タイムマシンに依って中世に送られたような錯覚に襲われる。
 切妻作りの中世風な、だが数階もある家、それぞれの職業を示すデザインの吊り看板、軒に張り出した透かし細工の看板は、ちょっとした空中ギャラリーだ。そして小さい広場には必ず噴水がある。聖人の名の付く噴水は昔ながらに冷たい水を落としている。しかし、ローテンブルクは観光地化され過ぎている。町の家並みがそのために変わるということはないにしても、くねくねと狭い路地裏がシャンゼリゼ並みのラッシュでは、中世どころではない。

マルクト広場/写真転載不可・なかむらみちお  市の中央のマルクト広場市庁舎市議宴会館がある。この町の全体を見るのには市庁舎の一部である鐘楼に登るのが一番いい。市庁舎の塔は正面玄関から入る。しかし、階段がものすごく狭く、急なので順番待ちの列が出来ている。特に仕掛け時計の動く時間の前後は特に混み合う。60bの高さのあるこの塔は、その一番上は狭くて、数人くらいしかスペースがない。交替交替で見ることになるのでゆっくり見ることが出来ない。
 マルクト広場正面に市庁舎がルネサンス式の列柱を並べ、そのそばにある市議宴会堂の仕掛けマイスター・トランクが人気の的。
 30年戦争中、1631年10月にこの町は皇帝軍の名将ティリー将軍に簡単に落城した。ローテンブルクに入城したティリー将軍は、指導者である市参事会員は全員首を切ることを布告した。しかし将軍は、「もしこの樽のワインを一気に飲み干すものが居たら処刑は許す」。将軍の言葉に老市長が進み出て、樽のワインを一気に飲み干した。将軍は老市長の心意気に感じ入ったところで処刑は取り止め、町の破壊も免れた。このエピソードはこの町に伝え伝えられて、1881年になると、この町を救った大酒飲みの市長を記念してお祭をすることになった。毎年6月に開かれるマイスター・トリンクのお祭の始まりである。ワインの飲み比べをして一番大量に早く飲んだものがマイスターに選ばれる。

 ※30年戦争(1618-1648)=ドイツを舞台としたキリスト教のカトリック(旧教)対プロテスタント(新教)の宗教戦争。

 この故事は市庁舎の仕掛け時計にも残されている。市議宴会館の切妻の壁面に仕掛け時計マイスタートルンクがある。11、12、13、14、15時に時計の両側の窓が開いて将軍と市長が現れ、将軍がラッパを動かすと、ジョッキを手にした市長がワインを飲みほす。これがローテンブルクの名物になっていて人が集る。
 仕掛け時計を見終ると人々は三々五々散り始める。するとそこで車に乗った日本人に声を掛けられた。ハイデルベルクのホテルの駐車場でお会いしたネスレのT氏だった。私達と同じ日にローテンブルクに入り、今日はロマンティック街道を南下するという。お互いにこれからの旅の安全をお声掛けして別れた。
 私達は町の西端タウバー側上に突き出したブルクガルテンの庭園に行ってみる。そこから城壁の外へ出て、タウバー川沿いのタウバーリビエラと呼ばれている散歩道を歩く。
プレーライン/写真転載不可・なかむらみちお  タウバー川沿いの散歩道はドイツらしく良く手入れが行き届いていて、谷の眺望が素晴らしい。コボルツェラー門から再び町中に入って進むとプレーラインという小さな広場に出る。ドイツ中世の町並みの中でも、最も美しい風景の一つである。ここから第二城門の一部であった二つの城門がひと目で眺められ、まるでお伽の国のような中世都市の風物が現れる。さらに南端の第三城壁突端のシュピータル門まで歩く。ここには「入り来たる者に安らぎを、去り行く人に平和を」と刻まれていた。
 シュピータル門からSpitalgasse、Schmiedgasseを通り、マルクト広場に向かう途中にショーウィンドウに「日本語話せます」と書いてあるお土産屋さんを見付けたので入ってみる。多分ドイツ人であろう女の店長さんが日本語で応対してくれた。いろいろのお土産品が並んでいるほかに、ヘンケルの刃物もあった。妻はそこで子供達へのお土産にとヘンケルの包丁をそれぞれ一本ずつ買い求めた。その店の名は「DIE SCHATZTRUHE」といい、Schmiedgasseにある。
 マルクト広場ではコーラスグループなどが演奏会を披露していた。妻は趣味で永年お母さんコーラスをやっているので興味あるらしく立ち止まり、しばらく二人でそこで聴き入る。
 ホテルに入る前にマルクト広場からレーダー門へ行く途中、その手前左側にスーパーマーケットがある。そこに立ち寄ってフランケンワイン(DM6.50)などを買い求めた後、ホテルに帰る。
 明後日はフュッセンに泊る予定なので1981年5月9日に泊ったことのあるペンションに電話をしてみると、あの時の少年が出てきた。どうも満員と言っているようだ。確信が持てないので、又奥さんが居る時にでも途中の街から電話してみることにする。

    7月19日(金) ROTHENBURG-DINKELSBUHL-NORDLINGEN-AUGSBURG
 ドイツで一番人気のあるRomantische Strasse(ロマンティシェシュトラーセ)即ちロマンティック街道とは誰が名付けたか、いみじくも上手いことを言ったものである。南ドイツを縦断する観光ルート。ここはドイツ中世のロマンを秘めたすべてのものがある。古き美しきドイツの姿を求めて世界から旅行者が訪れる。途中には多くの良き中世時代のドイツの典型的な町、古城、宮殿、教会があり、たっぷりと中世情緒に浸れる。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Romantische Strasse(ロマンティック街道)
 ロマンティック街道はマイン川沿いの古都Wurzburg(ヴュルツブルク)の町を起点として南ドイツ、バイエルンアルプスの山麓の町Fussen(フュッセン)に至る約350qの道である。街道沿いにはローテンブルクを初め中世の趣を残すいくつもの都市や、有名なノイシュヴァンシュタイン城などの古城があり、情緒たっぷり。
 この街道は昔から中部ドイツと南のイタリアを結ぶ重要な通商ルートの一つであった。その道筋は、旅人の往来、物品の輸送が激しく、そして多くの町が栄えた。今日でも昔ながらの城門や家並みを誇る美しい町や村が、さながら一連の大きな真珠の首飾りのように連なって私達の心に中世への幻想をかきたてる。
ロマンティック街道/写真転載不可・なかむらみちお  この観光ルートはヨーロッパでもそれほど前から有名だったわけではない。ただローテンブルクのような町や、2、3の古城が観光地として知られたのみだったが、戦後ロマンティック街道と名付けられ、近年この点を線で結ぶ定期観光バスなども走りはじめ、現在ではヨーロッパの有名な観光コースとなった。勿論日本にも紹介され、最近ではライン川、ハイデルベルクに次ぐ名所になった。
 城壁に囲まれたローテンブルクの全景が見えるのは、郊外からだけ。一昨日ここに到着した時にはもう夕方だったのでパス。今日は良く見えそうなのでここを去るに当ってローテンブルクから2、3q南下したところで田舎道に入り、振り返って見た。ここが一番美しく見えるビュー・ポイントだ。懐かしいローテンブルクにもこれでお別れだ。今度訪れるのはいつのことだろう。
 街道はタウバー川に別れを告げ、フランケン高地を行く。森を抜け、麦畑や牧草地が続く緩やかな起伏の中を行く。所々に設けられた道路標識には、ドイツ語と共に日本語で「ロマンティック街道」と書かれている。その道路標識に誘われるようにフランケン高地を下って行くと、今度はドナウ川の支流であるヴェルニッツ川に出合う。中世以来その流域の穀物集積地だったのが、ディンケルスビュールである。
中世の城門に取り囲まれたディンケルスビュール/写真転載不可・なかむらみちお  Dinkelsbuhl(ディンケルスビュール)。この中世の町も戦争の被害を免れ、城壁の大部分と城門などが中世の姿そのまま残っている。見事に整った切妻の深い家々、鮮やかなレンガ色の瓦屋根、それを取り囲む中世の城門。中世の面影を残した美しい静かな町である。人口は僅かに8,500人。城壁の外の駐車場に車を停めて町へ行く途中で妻が遅れて迷子になってしまった。引き返して逢う事が出来たがなにやら怒っている。
美しい街並み/写真転載不可・なかむらみちお 中世風の高層建築/写真転載不可・なかむらみちお  町の中央マルクト広場に聖ゲオルク教会のロマネスク様式の尖塔が聳え、この上に上がると町が一望出来る。特にディンケルスビュールの街並みは美しい。お伽の国のような家々の屋根の美しさに時を忘れる。教会の前にある十五世紀に建てられた切妻作りの中世風の高層建築ドイチェス・ハウスは町の中心にあるホテルだが、シーズン中は窓という窓には花が飾られている。塔に入る時には一緒に登って来たはずの妻がいくら待っても上がって来ない。痺れを切らして降りてみると膝が痛くて登れないとかで下で待っていた。
 聖ゲオルク教会のそばの建物の壁には、馬にまたがる一人の将軍の前にひざまずいている子供達の壁画がある。これもまたこの町に伝わるエピソードのシンボルなのだ。
 30年戦争中、ディンケルスビュールはスエーデン軍の包囲を受け抵抗し、そして破れた。スエーデン軍の将軍は町の破壊を市民に宣告したが、これを聞いた街の子供たちが、将軍の馬前にひざまずいて町の破壊をとどまってくれるように願った。その子供たちの中に自分の子供そっくりの顔を見出した将軍は、わが身に引き換え、子供の心を哀れみ町の破壊を止め、軍を引いた。子供たちに救われたこの町では、その故事に因んで毎年7月には“子供のお祭”が行われる。お陰で町は中世そのままの姿を今に残し、全く一度も傷を受けたことがない。それが何といってもこの町の魅力である。ドイツの都市の中で、ディンケルスビュールは最もロマンティックな町である。街には太陽が燦燦と降り注いでいた。私達は近くの公園の芝生におやつを広げて一休み。
 ディンケルスビュールからさらに32q南下するとNordlingen(ネルトリンゲン)の小都がある。人口1万5千人余り。この町も中世の城壁がほぼ完全に残っているので、中世城郭都市の面影を残す5番目の都市に加えてもいいだろう。
円形に町を取り巻く城壁/写真転載不可・なかむらみちお  16の城門を持ち、円形に町を取り巻くここの城壁は、中世都市の典型を示している。都市の形が円形というのは珍しいが、大昔、隕石が落ちて出来たリース盆地の為だという。隕石によって出来た跡が、これほどはっきり残っているのは世界でも珍しい。
 町全体としての見ものは先ずこの城壁と城門、そして塔である。城門を入ったところにコンクリート造りの室内駐車場があったのでそこに車を停める。中に入って城壁の内側に付いている歩廊を約半周する。大きい塔は登ることが出来るものもある。町の中央にあるザンクト・ゲオルク教会もまた89.9bの塔を持っていて、その上まで登った(2.5DM)。エレベーターはないので、階段を一歩一歩歩いて上がる。なかなか大変な労力だが、ひとたび塔の上に立つと、特色のある屋根、通りや直径約25qのリース盆地が一望されて壮観である。かつての帝国自由都市ネルトリンゲンは生きている完全な中世都市である。
 見終ってから車を出そうと人影のない出口まで進むと、お金を払わないのに自動的にバーが上がった。どうやら駐車料は無料らしいのにビックリ。

 ネルトリンゲンから12q、ドナウ川に至る途上、ふとバックミラーを見ると小高い丘の上に傲然とHarburg(ハールブルク)城がその勇姿を現した。早速車を道路の端に寄せて撮影。誰にも征服されず、破壊されずに保たれたこの城は現在は博物館になっている。
 Donauworth(ドナウヴェルト)はヴェルニッツ川とドナウ川の合流点にある町だ。ここからアウグスブルクまで43qの間はほとんど見るべきものはない。ドナウを越え、一路のどかな田園を南へと下る。やがてアウグスブルクに入る。
 Augsburg(アウクスブルク)はヴュルツブルクからフュッセンに至る観光道路、ロマンティック街道上の最大の町である。中世からルネッサンス時代にかけて、ヨーロッパの南と北を結ぶ通商ルートの要衝として、街道第一の帝国自由都市として栄えた。
 バイエルン州第三のアウクスブルクは人口約25万人。バイエルンの主要な都市である。その名の通り、この都市の歴史は紀元前15年、古代ローマ帝国のアウグストゥス帝の時代にまで遡る。かつてはドイツ最古の誉れ高き町であった。
 中世には頑強な城壁に囲まれていたが、今はその名残の塔や城壁が町の北東部に残っている。この地は又、大音楽家モーツァルトの父レオポルトやエンジン発明家ディーゼルの出身地としても名高い。
 今日もリューデスハイムの「HOTEL POST」の双子の兄が手配しておいてくれた「HOTEL BAYERNSTUBEN」(86154 AUGSBURG−DONAUWORTHER STRASSE 229)へと向かう。Single 60〜75DM Twin85〜95DM。バス、トイレ、TV付き。無料駐車場有り。アウクスブルクの街外れながら安くて奇麗な立派なホテルである。今日はアトランタ五輪大会の開会式がある。ホテルのレストランへ行くと隣のテーブルに2〜3人の若者が居たのでTVの放送時間を訊いてみたが分らないと言う。あまり感心がないらしい。

    7月20日(土) AUGSBURG-WIES KIRCHE-OBERAMMERGAU-FUSSEN-HOHENSCHWANGAU
 私たちはクリスチャンではないのだが、今日は世界最古のステンドグラスがあるという聖堂を訪ねてみることにする。
世界最古のステンドグラス/写真転載不可・なかむらみちお  旧市街の中心を南北に走る歴史的なメインストリート、マクシミリアン通りの北側、やや小高いところにある二本の西塔を持つオレンジ色のDom(ドーム)を訪ねる。十四世紀の建物で、市の宗教的中心の一つ。内部は全体に質素で非常に明るい。内陣南面の高窓には預言者を一人ずつ描いた五枚の窓がある。ステンドグラスは、ダビテ王や預言者ダニエルなどの人物を並べて描いたもの。これらは十一世紀後半に作られたとされ、ステンドグラスとしては世界最古の物といわれている。また南側の青銅の扉も製作五千年以上を経た貴重なものとか。
 ヨーロッパの大都市は、複雑に入り組んだ古い町が多い。大都市に付き物の一方通行に加えて、歴史のある都市では旧市街を歩行者天国にしているところもあるので、一寸地図を見ただけでは、目的地への的確なルートが定まりにくい。
 市庁舎を見ようとアウグストゥスの噴水の広場に行った。すると周りの人が私の方を変な目で見ている。妻が「ここは車を乗り入れてはダメらしいよ」と言う。うっかりしていた。慌てて敷石の外に出す。市庁舎は噴水の向かいに在って、ひときは目を引く立派な建物。ドイツ・ルネッサンス期の最大傑作と言われる。
 アウクスブルクからフュッセンへ向かう道は単調で長い直線道路が続く。途中でトイレに行きたくなった。ガソリンスタンドに寄り、給油がてらトイレを借りることにする。ヨーロッパのトイレは、どこも戸縮まりが厳重。ガソリンスタンドのトイレにも鍵が掛かっている。ガソリンを入れるかスタンドの売店で買い物をすると無料で鍵を貸してくれる。ついでにここからフュッセンのペンションに再度電話をしてみた。今度は奥さんが出てきて、矢張り満員だと言っているようだ。
ヴィースの教会/写真転載不可・なかむらみちお ロココ芸術の華やかさと壮麗さにしばし時のたつのも忘れる/写真転載不可・なかむらみちお  ここで少し横道にそれるがSteingadenの手前からフュッセンと東のガルミッシュ方面を結ぶアルペン道路を5q程南東の森の中に入ったところに建つWies Kirche(ヴィースの教会)を訪れることにする。今日はいい天気だ。この先のノイシュヴァンシュタイン城を見てから来る予定であったが、天気が崩れると写真が撮れなくなる恐れがあるので急遽予定を変更した。
 静かな牧場の丘の上に忽然として現れるこのずんぐりした教会は、『牧場の中の奇跡』と呼ばれ、ドイツにおけるロココ風教会建築の最大傑作のひとつで、世界の文化遺産の一つに登録されている。この巡礼教会は、樅の木々に囲まれた草原の中に、眩しいほどの真っ白な壁を際立たせて建つ。バイエルン・ロココの完成者とたたえられる大美術家ツィマーマン(1685〜1766)の最後の、そして最高の作品である。一歩堂内に入ればロココ芸術の華やかさと壮麗さにしばし時のたつのも忘れてしまう。

外壁のフレスコ画が旅人の目を楽しませてくれる/写真転載不可・なかむらみちお  その先のOberammergau(オーバーアマガウ)は、フュッセンからガルミッシュへ向かう山の道路上にあり、アマガウ・アルプスの山間にある小さい町だが、10年に一度のキリスト受難劇の土地として知られている。外壁にさまざまなフレスコ画を描いて装飾した愛らしい家が軒を並べ、アルペン道路を行く旅人で賑わっている。
 その絵は、童話の挿絵だったり、宗教画だったりして見る人の目を楽しませてくれる。村全体が新鮮な空気に包まれ、周りを囲むアルプスの山々と窓辺に飾られた花、そしてフレスコ画が上手く調和して美しい景色をつくり上げている。古くから民芸品の町としても知られており、木彫細工で有名。木彫の像を並べた立派な店が並ぶ。
緑の山の中の中腹に夢のような真っ白い城が浮かび上がる/写真転載不可・なかむらみちお  道を元に戻っていよいよ終着点Fussen(フュッセン)へ。道路の周辺は森林や牧草の緑もえる山岳地帯。草原と丘を走り続けてきた道は、そそり立つ岸壁に遮られる。ついにやってきたアルプス山脈だ。やがて左手はるか緑の山の中の中腹に夢のような真っ白い城が浮かび上がる。ここホーエンシュヴァンガウは、バイエルン王父子がこよなく愛した土地である。ノイシュヴァンシュタイン城。その右手の別の丘の上に立つもうひとつの城はホーエンシュヴァンガウ城。このドイツで最も美しい二つの城の観光を楽しみにしつつ、フュッセンを目指す。フュッセンの近くではT字路で衝突したばかりの交通事故に出会い、未だ怪我人が路上に横たわっている脇を摺り抜けて車はフュッセンの町へ着く。
ホーエンシュヴァンガウの教会/写真転載不可・なかむらみちお  ロマンティシュシュトラーセの終るバイエルンアルプス山麓の町Fussen(フュッセン)は、ドイツで最も海抜の高い町(800b)である。町の裾をレッヒ川が洗い、付近にはいくつもの湖が点在する。ヴュルツブルクから始まったロマンティック街道も最後の都市フュッセンまで来ると、城壁に囲まれた中世都市の佇まいは森と湖の山岳地帯へと姿を変えた。人口16,500人ほどの小都だが、この町を有名にしているのはこの町ではなく、ここを基地として展開される観光地のせいだ。しかしフュッセンに見るものがないわけではない。15世紀後期に建てられたホーエス城がレッヒ川に美しい姿を映している。だがこの城も近郊にあるNeuschwanstein(ノイシュヴァンシュタイン)とHohenschwangau(ホーエンシュヴァンガウ)の二城に比べればその陰は薄い。この城はヨーロッパでも人気1、2位を競う。その理由は第一にこの城の建物は素晴らしく美しい。その二は城のある周囲の環境が理想的な景観である。その三は城の持っているエピソードにロマンがある。
 妻は無駄なことだと言うが、懐かしいので、前回来た時に泊めて貰った金物屋を営むペンションに行ってみることにする。応対に出てきた奥さんは私の事を覚えていてくれたが、矢張り満員だと断られてしまった。ここが駄目ならと当てにしていた案内所はもう時間切れで閉まっていた。已むなく、ノイシュヴァンシュタイン城近くのホーエンシュヴァンガウ案内所に行って今夜の宿を紹介して貰うことにする。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Hohenschwangau(ホーエンシュヴァンガウ)
ホーエンシュヴァンガウ/写真転載不可・なかむらみちお  シュヴァンガウ、ホーエンシュヴァンガウ周辺にはプチ・ホテル、ペンション、民宿などがたくさんある。案内所で紹介されたペンションは満員だった。それで二人で手分けして近くのペンションを当ってみた。すると妻が大きな駐車場から道路を挟んだ反対側、道路に面した白壁のレストランで決めてきたと言う。
 私達の泊ったホテルはホーエンシュヴァンガウの案内所の前のバス停からおよそ200b、8959 HOHENSCHWANGAUにある「HOTEL-RESTAURANT SCHLOSSBLICX」である。Twinで一泊98・60DM。バス、トイレ付き。無料駐車場有り。ホーエンシュワンガウには大きな有料駐車場が何個所もあるが、その近くのレストランとかペンションの裏には十分なスペースを持った無料駐車場がある。
部屋のバルコニーからノイシュヴァンシュタイン城が目前に見える/写真転載不可・なかむらみちお  一階はレストラン。部屋のバルコニーからアルプス連峰の一角に白亜のノイシュヴァンシュタイン城が目前に見える。レストランの食事も美味い。夕食に行く前に部屋のバルコニーにあるテーブル席に座りハイデルベルグで買ってきたワインをふたりで空ける。夜の帳がおとずれ、ノイシュヴァンシュタイン城は夜間照明にくっきりとその美しい姿を映し出した。深いマリン・ブルーに変わった空に上弦の月が尖塔を照らすように輝いている。なんとロマンティックな光景だろう。この城を建てたルートヴィヒ二世は同じ月を見たであろうか。

    7月21日(日) HOHENSCHWANGAU滞在
 朝、目覚めると、真っ先に聞こえてきたのは、車のエンジン音ではなくて馬の蹄の音だった。城に向かうタクシー代わりの馬車が早々と集ってきたのだ。南アルプスの山麓に擁かれたホーエンシュワンガウは、今時信じられないほど、浮世離れした村である。
 城へ行くのには麓から乗合馬車もあるが、私はエクササイズかたがた徒歩で登ることにした。鬱蒼と茂る新緑の美味しい香りをかぎ、先にスタートした馬車を追い抜いて登ると中世の童話そのまま、ファンタジックな白亜の城に着いた。城は観光客で賑わっていた。すでに行列が出来ている。

   Neuschwanstein(ノイシュヴァンシュタイン)
 ディズニーの白雪姫の城のモデルになったノイシュヴァンシュタインの城はフュッセンの町から約4q、ホーエンシュヴァンガウの村のバス停からは坂道を一気に登って行く。手前、右手の低いところに見える黄色い城が、ホーエンシュヴァンガウ城である。舗装ではないが道はいい。城までは普通の人の足で20分くらいだろうか。シーズン中は小型バスや馬車もある。
 そこには、古くからシュヴァンガウの在地領主が築いた山城があったが、十九世紀後半にバイエルン王マキシミリアン二世がそれを買い取り、次代のルードヴィヒ二世がその古い山城を撤去して、その基礎の上に新しく築いたのがこのノイシュヴァンシュタイン城であった。シュヴァンガウの古城をその出発としているところから“新しいシュヴァンシュタイン”という意味でこの城名が付けられたといわれている。
アルプゼーを背景に白鳥の如く/写真転載不可・なかむらみちお  バイエルンアルプの山中に白鳥の如く、この城はまるでお伽噺から抜け出したように白く美しい。ドイツで最も夢幻的な城館である。緑の中に空高くそそり立つ姿は壮麗だ。三つの美しい湖、アルプゼーを背景に眺めるその姿は、この世のものとも思われない。ドイツで最も壮麗で、最もロマンティックな建物といわれる。時代はすでに城塞を必要とする世の中ではない。1869年に着工、17年の年月をかけて完成したネオ・クラシック様式の豪華な白亜のこの城は、バイエルンの王、ルートヴィッヒ二世による宮殿である。
 城門を入ると売店と待合所がある。ガイドが何人か居て、ドイツ語、英語、フランス語などのグループに分けて城内を説明しながら回る。ヨーロッパの6人の大王を描いた広間、シャンデリアが凄く豪華である。廊下の一部が洞窟のようになっているところもある。
舞台付きの大広間/写真転載不可・なかむらみちお  劇場にも使用できる舞台付きの大広間には、ヨーロッパの伝説に因む絵が掛けられている。王の憧憬したリヒアルト・ワーグナーの楽劇「ローエングリーン」、「タンホイザー」などの舞台さながらの華麗な様式の物語の壁画などで埋まり、その部屋部屋には、国費までも傾けた王の執念を感じる。今日では観光客の人気を集め、四季、ここを訪ねる人が多い。バイエルン隋一の観光収入源として光り輝いている。
 ワーグナーの幻想の美学は、ある種の人間を狂気と破滅に追い込む麻薬なのかもしれない。彼がこの城を造った理由の半分はワーグナーのためだった。
 ワーグナーの音楽は魅力と共に魔力も秘めている。「ワーグナーは人を堕落させる。賛美者はそれに気づくべきなのだが、逆に一層狂信的になる」。一時期、ワーグナーにつかれた哲学者ニーチェの言葉だ。「ワーグナー教」の代表はルートヴィッヒ二世だろう。ローエングリーンの壁画に囲まれた部屋、タンホイザーの絵で彩られた書斎などワーグナーずくめである。ワーグナーに豪邸を買ってやったり、自伝を書かせたりしたのもこの国王だ。ヒットラーも彼に劣らずワーグナーの虜になったのはよく知られている。得意の演説の再には必ず彼の曲を流した。ヒットラーにしてみれば趣味の一方で、実益を兼ねて国民の士気を鼓舞するのに利用したのかもしれない。ヒットラーは何百万人ものユダヤ人を殺した。今回の旅では、私もカセットテープにワーグナーの曲をダビングして持ってきた。私もまたドイツの古城に魅せられ、ワーグナーの曲に毒された一人なのかもしれない。
 王の寝室、いつもひとりで食事をしたという食堂、王は凄いはにかみ屋だったので他人と一緒に食事をするのは好まなかったそうだ。この城でも給仕は食事を運ぶ合図があるまで次の間で待ったという。若き国王は狂人として王座を追われ、その3日後、森鴎外著の『うたかたの記』によれば、『湖水に溺れてそせられしに、年老いたる侍医グッデンこれを救はむとて、共に命を殞し、顔に王の爪痕を留めて死したりという』。
 ルートヴィヒは言う、「永遠に謎でありたい。他人にとっても、自分にとっても」。謎めいた部分があるほうが、人は魅力的。それが自分自身にとってもあれば、飽きることなく長い人生を付き合っていけそうだ。時には自分だって「自分」に驚かせてもらいたい。こんな面もあったかという発見は楽しく、そこから新たな可能性や才能が見えてくることもあるはずだから。
 17年の歳月と巨費を使った城は、城主に僅か102日しか住んで貰えなかった。その後城主はいない。城内の一室に眉目秀麗なルートヴィヒ二世の肖像がある。こうした悲劇の物語が一層色を沿えるのであろうか、ドイツ観光のシンボル・マークともなっているこのお城目指して、世界中からのツーリスト達があとをたたない。
ノイシュヴァンシュタイン城/写真転載不可・なかむらみちお  城を出て建物の下の道を城門とは反対側の方に進むと、山歩きのためのいろいろな表示が出ている。「Brucke」の方に30分ほど行くと、城の裏側の渓谷に架かった高い釣橋に出る。ここから城の眺めが美しい。橋から谷川までは数十メートルもある。釣橋の辺りは野山も美しい。
 以前来た時にはこの橋を渡って対岸の山に登り、城の写真を狙ったのだが、道が分からず断念したことがあった。今回もリベンジで城の裏山に登ってみることにする。途中まで登ると今回も又道が城から離れて山の裏側の方に回り込むように続いている。妻に、橋のところか、城の近くで待つように言って、私一人で動物防護柵らしい囲い伝いに山を登る。かなり登ったが、思うようなアングルを取れず、断念して戻って来た。
ノイシュヴァンシュタイン城/写真転載不可・なかむらみちお  元々このノイシュヴァンシュタインがあった峰には、古い城塞があった。バイエルンアルプスの間道の守りの一つであった。ルートヴィッヒ二世が造った城は、ロマンティックな中世風の城だが、戦いのためのものではない。王は城に託して美と真を表現しようとしたのだ。だからこの城は見る人の心を打つ。王の純粋な美しい心がこの城にはこもっている。建物の様式はロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、ネオ・クラシックといろいろ入っている。
 橋から城のほうに少し下った所で妻と出会い、坂を下ってホーエンシュヴァンガウ城へと向かう。

   Hohenschwangau(ホーエンシュヴァンガウ)城
 ホーエンシュヴァンガウ城はシュヴァンガウの村のすぐそばにある。黄色味がかった壁のどっしりした城。ノイシュヴァンシュタイン城の近くの森の中に王冠のように聳え建っている。小丘だからすぐ登れる。ここも中世にはアルプス山麓の城塞であった。1832年にバイエルン王マキシミリアン二世が荒廃した城を壊して近世風の居館を建てた。イギリスのマーナーハウス風という建物は城のスタイルを踏襲しているが離宮である。マキシミリアン二世はわが子ルートヴィッヒ二世をこの城で養育した。城内は王子のために特別に装飾され、今も豪華さを伝えている。
 ここで少年時代を過ごした王子ルートヴィッヒ二世の夢は、やがて父王の世界から更に羽ばたいて、向かい側の山の中腹にその名の通り白鳥の如く優雅な姿でそびえ立つノイシュヴァンシュタイン城の実現へと向かっていった。
 城内はゴシック、ルネッサンス、ネオ・クラシック、そしてある部屋はオリエント風とそれぞれ装飾されている。城内の美術品のコレクションも見事だ。音楽室にはワーグナーが使ったピアノもある。ルートヴィッヒ二世の幼児の寝室には天井に夜の空が描かれていて、星の光まで照明で造られていた。城は公開され、訪ねる人も多い。
ノイシュヴァンシュタイン城を望む/写真転載不可・なかむらみちお  帰り道にホーエンシュヴァンガウのインフォメーションに立ち寄り、裏山からアルプゼーを背景に眺めるノイシュヴァンシュタインの写真を撮りたいのだが、どのように行ったら良いか訊ねてみた。すると応対してくれた係りの人は“そこに行くのには大変危険だ。これまでも何人も犠牲になっている”と言う。更に訊ねると“ヘリコプターからでも撮ったらいい”との答が帰って来た。これまでも何枚もその写真を見ているので、その答えには納得がいかなかったが諦めるしかない。
 城を後にしてから、アルプスの峰の一角に上るロープウェイの乗り場まで行ってテーゲルベルク山(1720b)に登る。前回来た時にノイシュヴァンシュタイン城の写真を撮ろうとして図らずも山越えして遭難しそうになった時に辿り着いたところである。
ロープウェイから見た二つの城/写真転載不可・なかむらみちお  今回も又、城の前の谷を超えた向いの山からアルプゼーをバックにしたノイシュヴァンシュタインの写真を撮ることが出来なかったので、この山からなら或いは新しいアングルの写真が撮れるかなと思い、もう一度行ってみる事にした。登るときロープウェイの中から右手を見ていると先ほどの見事な二つの美しい城の姿を見ることが出来たが、写真としてはあまり良くない。
 頂上にはハンググライダーファンの基地があり、何人かのマニアが気持良さそうにフライトを楽しんでいた。ここからは手前の山の陰になって城は見えない。
屋根付きの招き人形/写真転載不可・なかむらみちお  この後、妻をホテルまで送ってから、ホーエス城がレッヒ川に美しい姿を映している写真を撮るためにフュッセンへ車を走らせた。
 フュッセンはイタリアとの交易路にあって栄えた街である。旅人はここでゆっくり身体を休めてから、険しいアルプスを越えて行った。それだけにここの旧市街の散歩道は、お伽噺の世界を行くような楽しさがある。ふと目を引いた看板はビアホールのものだった。ホテルに帰ったら妻とこの先の旅の安全を祈ってFussenBierで乾杯しょう!!

    7月22日(月) HOHENSCHWANGAU-OBERAMMERGAU-SCHLOSS LINDERHOF-GARMISCHPARTENKIRCHN-MITTENWALD-INNSBRUCK
 ホーエンシュヴァンガウから一旦インスブルクに向かう道路に出てリンダーホーフ城へ向かう。途中、20日にフュッセンへ行くときに訪れたヴィースの教会をもう一度良く見ておきたくて寄道をする。改めて教会の中をじっくりと撮影する。見終わった後、教会が見える近くの丘に行き、太陽の光り輝く草原で一服。
 再びインスブルクに通じる道路に出てリンダーホーフ城へと向かう。途中でオーバーアマガウの街の中を通る。妻が「どうせ今日この町を通るのにどうしてこのあいだ(20日)わざわざ来たの?」と訊く。「…(無視)」。その時は天候の関係もあり、晴れている間に来たかったから来ただけの話。
 リンダーホーフ城はフュッセンとガルミッシュ・パルテンキルヘンの中間くらいのところにあるが、交通はいたって不便である。オーバーアマガウの3qガルミッシュ寄りから、逆に山中の別れ道を西にたどって11qの地点にある。一度国境を越えてオーストリア領に入り、それからまたドイツに入ってリンダーホーフに出る。陸の孤島のようなもので、オーストリア国境までは7qしかない。ドイツからオーストリア、オーストリアからドイツへの国境の検問所はフリーパス(パスポートを提示しない)。
 ヨーロッパの旅の魅力は、数々の歴史に彩られた史跡や都市を抜きには語れない。それらの多くは車でなければ訪れにくい場所にある。フットワーク自在のドライブ旅行なら、時刻表に縛られず、好みのコースや時間を決めて自分だけの歴史探訪プランが立てられる。
 リンダーホーフに着くと、駐車場には車があふれ、見物客が長蛇の列を成している。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Schloss Linderhof(リンダーホーフ)
 ルートヴィッヒ二世はノイシュヴァンシュタイン城の他にも城を造っている。その一つ、リンダーホーフはアルプス山中の盆地の中に造られた宮殿である。
噴水の庭には黄金の貝殻の形をした船が浮かんでいる/写真転載不可・なかむらみちお  このリンダーホーフはもともとバイエルン国王の狩猟地であった。当時ヨーロッパの王侯貴族にとって狩猟の館というのは、生活の必需品みたいなものだった。狩猟の館が造られていたのをルートヴィッヒ二世がこの地の美しさと静かさに魅せられて小さな宮殿を造った。1874年に起工して1879年に完成した。アルプスの山麓を自然の庭園として取り入れ、広い城地内にいろいろな建物がある。宮殿は王が心酔したフランスのブルボン王朝風な華麗な造りとなっている。ノイシュヴァンシュタインとともに、ルートヴィッヒ二世が残した美の遺産である。
宮殿はブルボン王朝風な華麗な造り/写真転載不可・なかむらみちお  本館前の噴水の庭は人工的だが、大自然がそのまま生かされた森林が人工との調和をかもし出している。ここの大噴水は数十メートルの高さに水をあげ、黄金の貝殻の形をした船が浮かんでいる。
 本館はあまり大きくはないが、花と水をふんだんに使ったイタリア・ルネッサンスと後期バロック様式の飾りを持つ華麗な建物である。室内もきめの細かい美しさを持ち、絵画、彫刻、豪華な家具、調度品が保存されている。モーロ風(アラブ風)茶室は金銀、青緑紅白の宝石がちりばめられ、アラビアン・ナイトの雰囲気を持っている。そのほかに人工の洞窟もあって怪しい雰囲気を醸し出し、建物自体一つの宝石のような美しさを持っている。一室にはワーグナーが使ったピアノがある。宮殿と庭園は公開されている。

   アルペン街道
 オーストリアと接するドイツの南の国境地帯は、アルペンの世界である。緑の高原、切立つ岩山、深い山間の湖などに恵まれている。点在する山の町々には、アルペンの土地に生きる人々の興味深い生活の雰囲気があふれ、美しい家並みや、古くから伝わる数々の民芸が私達を惹きつける。
ツークシュピッツェを背景に木造民家が美しい/写真転載不可・なかむらみちお  Garmisch Partenkirchen(ガルミッシュ・パルテンキルヒェン)は、二つの隣り合った町。人口は両方で二万六千人。ドイツの最高峰Zugspitze(ツークシュピッツェ)に近い。ドイツ・アルペン第一の観光地で、1936年には冬季オリンピック大会が開かれ、ウィンター・スポーツのメッカとして世界的に名高い。
 リヒアルト・シュトラウスは没するまでの40年間ここに住み、この山を見ながら「アルプス交響曲」の楽想を練った。この曲は、美しいアルプスの自然を写実的に描いた標題交響曲で、まるで山岳映画でも見るかのような写実的描写で、自然をこれほど優れた手法で描写した作品は他に類例をみないといわれている。カラヤン指揮/ベルリン・フイル(グラモフォンPOCG1210)のCDが人気ある。市内には凝った装飾の家並みが見られ、アルペン独特の木造民家が美しい。
アルペン街道  ガルミッシュからミッテンヴァルトへの道は実に美しい。谷間へ向けて起伏する緑の高原に白雪をいただく岩峰が次第に迫ってくる。妻はようやく使い慣れてきた8_ビデオカメラで移り行く車窓を追っていた。
 ガルミッシュの南東約20q。ヴァイオリン造りで有名なMittenwald(ミッテンヴァルト)は、ドイツ・アルプスの懐に抱かれた小さな田舎町で、清々しい山の空気が満ちている。ドイツとオーストリアを結ぶ幹線道路上の国境の町で交通の要所である。町の特異な美しさではドイツでも屈指。町中のスーパーマーケット前に駐車、町の風景を写しに行く。妻はマーケットで買物してから車の中で待つと言う。
 ほとんどの家の壁にはカラフルなフレスコ画が彩る。宗教画から山の生活を描いたものまで、大半の家がさまざまな壁画の美しさを競い合っている。
 その家並みから群を抜いてそびえる教会は十八世紀のもの。このバロック風教会の塔も上から下まで見事な宗教画で彩色され、背後に巨大な城壁のようにそそり立つKarwendel(カーヴェンデル)山脈の岩山と、素晴らしい対象を楽しませてくれる。
 また教会の脇に立つのは、ヴァイオリンを作るマティアス・クロツ(1653〜1743)の彫像。ミッテンヴァルトは、このクロツによって技術をもたらされて以来、ヴァイオリン作りの町として名高い。
 ヴイースからオーバーアマルガウ、ガルミッシュ・パルテンキルヒェン、ミッテンヴァルト、インスブルックヘ通じるアルペン街道は景色も良く快適なドライブコースだった。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Austria(オーストリア)
 オーストリアは、北海道ほどの大きさの小さな国であるが、西部は山がち、東部は平坦な平野が続き、国の東西を大河ドナウ河が横断し、地形は変化に富んでいる。

   Innsbruck(インスブルック)
 山人とスキーヤーのふるさとインスブルックはチロル地方の中心地。標高2,000bを越えるアルプスの山々に囲まれたインスブルックは、人口11万7000人のチロル州の州都。「イン川に架かる橋」と言う意味の名の通り、この町は十二世紀にイン川の橋の袂の集落から始まった。1964年と1976年の二度の冬季オリンピック開催地としても有名で、多くの人々が訪れる。
 この町には以前にも一度来て泊ったことがあるが市内はほとんど見ていない。前回は駅の裏手を流れる川の近くのペンションに泊ったが、今回はガイドブックを見て凱旋門のすぐ前、マリア・テレジア通りのホテル「ゴールデネ・クローネ」に決めた。
凱旋門/写真転載不可・なかむらみちお  凱旋門は、マリア・テレジアが息子レオポルトの結婚記念として1765年に建設したが、同時期に夫フランツ一世が死去した為、門の片面には「生と幸福」、もう片面には「死と悲しみ」のモチーフが刻まれている。
 凱旋門から北に延びる町一番の大通りマリア・テレジア通りを進むと通りの真ん中に市のシンボル、大理石製のアンナ記念柱が立っている。マリア・テレジア通りの北端は旧市街の入口に突き当り、続くヘルツォーク・フリードリヒ通りが、旧市街のメインストリート。
 旧市街は石畳の歩行者ゾーンで、カフェやレストラン、土産物屋などが並ぶ。ヘルツォーク・フリードリヒ通りの両側には、ゴシック様式の建物が続き、その一階はラウベンというこの地方特有の石造りのアーケードになっている。又、エルカーと呼ばれる出窓が連なる様子も印象的だ。
黄金の小屋根/写真転載不可・なかむらみちお  インスブルック旧市街の象徴、黄金の小屋根は旧市街のほぼ中心にあり、張り出した出窓(エルカー)の上に黄金に輝く小屋根は、皇帝マクシミリアン一世が広場で行われる行事を見物する為に1494〜1496年に造らせたもの。屋根には金箔を施した2657枚の銅版瓦で覆われ、バルコニーの手すり部分には6枚の精緻なレリーフがはめ込まれている。(石川五右衛門か鼠小僧次郎吉に見せたかった)。
 黄金の小屋根の斜め向かいの角に建つヘルブリングハウスは、ロココ様式の華やかな飾り漆喰が施されている。その前の広場にあるオープンカフェで食事を摂る。
 妻を一人この広場に置いてここから東に行った処にある王宮まで足を伸ばしてみたが、あまり興味をひく建物では無かったので中には入らないで引き返してきた。
 夜はReichenauer Strasse 151にあるSandwirtへ行き、民俗音楽ショウ「Tiroler Alpenbuhne(チロルの夕べ)」でチロルの歌や踊りを楽しむ。妻も誘ったのだが、行かないということなので一人で行って来たが、これは大変楽しかった(30S)。(為替レート=1オーストリア・シリング〈S〉=9円)

    7月23日(火) INNSBRUCK-SCHLOSS HERREN CHIEMSEE-SALZBURG
 インスブルックからは高速道路に乗り、再びドイツに入る。ミュンヘン-ザルツブルク間のAutobahn(アウトバーン)でヘレンキームゼーへと向かう。
ザルツブルク  Herrenchiemsee(ヘレンキームゼー)宮殿はミュンヘンから南東、オーストリアのザルツブルクとの中間くらいのところ、キーム湖に浮かぶヘレン島にある。キーム湖はバイエルン地方最大の湖で、また観光地としても知られる。ミュンヘンからザルツブルクに至るアウトバーンからも良く見える湖だが、この湖にフラウエン(女)島とヘレン(男)島がある。いうなれば女島男島だが、ドイツでは男島の方が大きい。
 島に渡るには対岸のシュトックの町から船が出ている。Prien(プリーン)という道路標識を頼りに高速を降り、花が咲き乱れる田舎道を約10分でプリーンへ、ここから夏の間だけ運行するミニ蒸気機関車がシュシュポッポ、シュシュポッポと白い煙を吐きながら軽快に走る軽便鉄道と併走しながら連絡船乗り場シュトックに着いた。大きな駐車場に車を停めて船乗り場へ向かう。島への船は目の前で出航して行った。次の船便までの間、近くのレストランで一服。
 遊覧船に乗り換えて20分ほどでヘレン島へ。上陸して菩提樹の並木に沿って20分くらい歩くと、バイエルンの薄曇の空にヴェルサイユの蜃気楼が浮かびあがる。

   Herrenchiemsee(ヘレンキームゼー)宮殿
ヘレンキームゼー/写真転載不可・なかむらみちお  このヘレン島の中にルートヴィッヒ二世が、ヴェルサイユ宮殿にも劣らぬ宮殿をと造りはじめたのがヘレンキームゼー城である。フランスのルイ十四世に憧れて建てたもので、ヴェルサイユ宮殿の複製ともいえる豪華なものである。1878年から宮殿造営の工事を起こし、この時リンダーホーフは間もなく完成する予定であったが、ノイシュヴァンシュタインは建築続行中で、王室の財政は火の車であった。ヘレンキームゼーの工事は遂に1885年に一時中止された。そして翌年王の死によって未完成の宮殿となってしまった。しかし現在では観光客の為に公開されている。
ヴェルサイユ宮殿の複製ともいえる豪華さ/写真転載不可・なかむらみちお  それにしても王は多額の散財をしたものだ。ノイシュヴァンシュタイン城、リンダーホーフ宮殿、ヘレンキームゼー城と、これらの建築と内装を合せてその費用はなんと当時のお金にして約250億円にのぼったそうだ。しかし考えてみるとその散財は決して無駄ではなかったのではないだろうか。三つの城は王の死後わずか1ヶ月半しかたたない内に一般公開されるようになり、今やドイツ最高の美の遺産となり、今日ひきも切らない観光客で賑わっている。
 プリーンから再びアウトバーンに乗り、ザルツブルクを目指す。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Salzburg(ザルツブルク)
 ザルツブルクは、ザルツブルク州の州都で、東アルプスの北麓にあり、オーストリアのほぼ中央に位置している。昔からヨーロッパの交易路の一中心になっていた。人口は145,000人。
 「塩の城」という意味の名を持つこの町は、周囲の岩塩鉱から産出される塩の取引で繁栄を続けてきた。またザルツブルクは、モーツァルトが生まれた音楽の都としても知られる。
今夜はお姫様ベッド/写真転載不可・なかむらみちお  先ず、ガイドブックに載っている「HOTEL HOHENSTAUFFEN」を探す。中央駅から徒歩でおよそ5分の静かな地区のA-5020 SALZBURG ELISABETHSTRASSS 19の角に探し当てた。玄関前に昔の自転車を型どった鉄製の看板が置いてある。妻が交渉に行ってくれた。その間、路肩に車を停めて待つ。すると通り掛かった老紳士から、ここは駐車禁止だととがめられた。チョットだけだも、いいじゃないか。と言いたかったのだが、言葉が分からなかったので、「OK、OK」と返事をした。ゲルマン系の人はお固い。バス、トイレ、TV付き一泊Twinが1,510S。有料駐車場がある。他に貸し自転車、貸しオートバイも有り、自転車は1日1,000円とか。1898年からの歴史がある家族経営の宿で部屋は広く、ベッドは昔の王様が寝たような4本柱の屋根付きカーテン付き。
 ホテルを出て右側に延びる大通り、ライナー通りをトロリーバスの架線をたどりながら道なりに進む。国鉄のガード下を潜り、10分ほど行くと左側にザンクト・アンドレー教会が建つミラベル広場が見えてくる。ミラベル広場の右側はミラベル宮殿とミラベル庭園が広がっている。妻は何年か前に娘と一度ここに来ているので土地勘があるので案内して貰う。
ザルツブルク城塞が聳える/写真転載不可・なかむらみちお  庭園には自由に入れるので、中を通り抜けて行く。ペガサスの泉とその近くの階段は、映画『サウンド・オブ・ミュージック』で見た風景だ。『ドレミの歌』のフィナーレとなったところ。色とりどりの花々が模様を描く花壇や噴水、ギリシャ神話をモチーフにした彫像、バラ園やアーチ型の植木のトンネル、など見所が多い。ミラベルとは「美しい眺め」という意味。噴水や美しい花壇の延長上に、この町のシンボルのホーエン・ザルツブルク城塞が聳えている。ここからの眺めはまさに絶景である。噴水のある庭園の向こうにドームの金色に輝く十字架を持った二つの尖塔を前景にして、その背後に聳えるホーエン・ザルツブルク城は堂々たる中世の風格を持って空を圧していた。完全に昔のまま残っている城としては中央ヨーロッパ最大である。
ゲトライデガッセ/写真転載不可・なかむらみちお  庭園を通り過ぎてすぐの州立劇場の前を通るとタキシードを着た男性や長いドレス姿の女性などが二階のバルコニーから下の観衆に手を振っていた。そのすぐ近くのザルツァッハ川に架かる歩行者専用のマカルト橋を渡れば、旧市街側に出る。
 マカルト橋を渡ったらバス通りを横断して建物の間の路地を抜けると、旧市街で最も賑わう通りゲトライデガッセに出る。狭い通りの両側には隙間なく商店が並んでいる。中世の昔からこの町の中心の通りだった商店街で、店の軒先には中世以来のギルドの伝統を受け継ぐさまざまの形をした鋳鉄製の看板が、家々の壁から路上に向かって垂直に出ている。
 ゲトライデガッセ9番地には、妻が是非訪れたいと希望していたこの町の誇るモーツアルトの生家がある。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日、ゲトライデガッセに面した典型的な昔のザルツブルク市民の家の形をしているこの建物の四階で生まれた。三階の窓の上に“Mozarts Geburtshaus”と大きく記されている。ザルツブルク大司教の宮廷楽団のヴァイオリン奏者だった父レオポルトとその一家は、1773年までここで暮らした。今は博物館となり、中に入って見ると彼が愛用していた楽器や、作曲の原稿などが置いてあった。

モーツァルトの部屋/写真転載不可・なかむらみちお  ※映画『アマデウス(Amzcdus)』(アメリカ 1984)。監督:ミロシュ・フォアマン、出演:F・マーリー・エイブラハム、トム・ハルス。老いた宮廷音楽家サリエリが語るモーツァルトの生涯と、死にまつわる陰謀。美しい映像と、流れる名曲に酔う。アカデミー作品賞ほか、全8部門を受賞。

 1120年以来の大司教殿Residenz(レジデンツ)広場では、昔ながらの馬車が観光客を待っていた。帰り掛けにレストランに寄ったのだがどうも食欲がなく、体がだるい。暑かったので軽い日射病に罹ったのかもしれない。

    7月24日(水) SALZBURG−ANIF−HALLSTAT
 翌朝はホテルから貸し自転車を借りてホーエン・ザルツブルク城の写真を撮りに行くことにする。妻は歩いて旧市街の商店街と、もう一度モーツアルトの生家へ行ってくると言う。
 借りた自転車に試し乗りをしたところ、サドルを最低に下げていたのにもかかわらず足が短い為に地面に届かず、停車の時に石畳の路上に思い切り転び、向こう拗を擦り剥いてしまった。その傷が今も痛み、ほろ苦い思い出となった。この次は子供用の自転車にしよう。
ザルツブルク城/写真転載不可・なかむらみちお  その後さっそうと街へ繰り出してミラベル庭園やザルツァッハ川に架かるNonntaler橋付近まで足を伸ばしてホーエン・ザルツブルク城の写真を撮って来た。ホテルに近い通りを走っていると、道路の反対側を歩いていた妻に呼び止められた。
 ザルツブルクから先ずは、絶景ドライブを楽しみながら、ザンクト・ギルゲン、ザンクト・ヴォルフガング、バート・イシュル、ハルシュタットを目指そう。
 その前にザルツブルクから南に約10q、車で20分位のところにあるAnif(アニフ)の小村に寄る事にする。何の変哲もない村だが、その佇まいがオーストリアでも最もロマンティックといわれるアニフの水城があることで知られている。先ずは、そのアニフ城を見てから行くことにする。
 森と湖に囲まれて、歌の文句のような城は小さい湖にその白い姿を映している。映画のロケなどにも使用されて有名にはなったが、未だに個人所有のため、建物の内部に入ることは出来ない。公開もされていない。しかし最近は観光客の要望もあって、門から邸内に入って湖越しに城を眺めることは許されている。アニフにはまた町の教区協会Pfarkicheの墓地に名指揮者カラヤンが永眠する墓がある。
小さい湖に白い姿を映しているアニフ城/写真転載不可・なかむらみちお  アニフの町に入ってから通り掛の人に訊いてアニフ城の入口まで行ったが門の鉄柵には鍵が掛っている。門に取り付けられているインターフォンを押すと、しばらくして女性の声で応答があった。なんと言ったら良いのか分らなかったが、とにかく拙いドイツ語で“Darf ich das Schloss fotografieren? bitte.(ダルフ イッヒ ダス シュロス フォトグラフィーレン? ビッテ)城の写真を撮ってもいいですか?”と訊いてみた。インターフオンからはドイツ語で答が帰って来たが、何を言っているのか分からない。しばらくそこで待ってみることにしたが、誰も来てはくれなかった。しばらく待った後、諦めてそこを離れた。
 ザルツカンマーグートと呼ばれるザルツブルクの南東側の地域にはいくつもの小さな湖と山々が続く。険しい山々の麓に湖があり、まるで絵に描かれたような美しい景色が続く。そう、ここは、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台になったところ。ザルツカンマーグート一帯は、標高500から800bの高地。この辺りのドライブでは、常に車窓から湖と山々を眺めながら走ることになる。自然を楽しみ、高地特有の澄んだ空気を吸い込みながら走る事が出来る文字通りの「快適エリア」なのである。
   ザルツカンマーグートとは「塩の宝庫」という意味で、岩塩を産出する地方であったことからこの名が付いた。人々の暮らしに欠かせない塩は昔、「白い黄金」と称されるほど高価で取引されてきた。そのため、この地方はハプスブルク家直轄の御料地として、帝国の財政を支えてきた。
ザルツブルク  ヴォルフガング湖畔の町、St.Gilgen(ザンクト・ギルゲン)はモーツァルトが少年時代過ごした町だ。市庁舎が建つ広場には、幼いモーツァルトがヴァイオリンを弾く姿が愛らしいモーツァルトの泉がある。ここで一服して泉の辺りを撮影する。又、湖畔の近くにはモーツァルトの母アンナの生家がある。
 ザンクト・ギルゲンからは158号線で、ヴォルフガング湖畔をStrobl(シュトロブ)まで走る。そこで一旦、本線からはずれ、西に戻る感じで湖畔沿いに走ると、映画やオペレッタの舞台となった湖畔の町、ザンクト・ヴォルフガングに着く。
 ヴォルフガンク湖畔のSt.Wolfgang(ザンクト・ヴォルフガング)では、湖に影を落とす白亜の教会を見ることが出来る。この教区教会は、巡礼教会として知られている。車を駐車場に入れて、湖畔を散歩してみる。湖岸の狭い通りに建ち並ぶホテルやペンションのベランダの花が美しい。中でも、ベナサキーのオペレッタ『白馬亭にて』の舞台として知られるホテル・イム・ヴァイセン・レッスルは町の中心部の船着場にも近く、町のシンボル的存在だ。
 背後の山Schafbafg(シャーフベルク、1783b)にSLのシャーフベルク登山鉄道で登れば、頂上からはヴォルフガング湖を初め、モント湖、アッター湖等の湖や、ダッハシュタインの氷河を見渡す360°の大展望台である。映画『サウンド・オブ・ミュージック』オープニングの空撮のシーンはここで撮影され、ザルツブルクの美しさを世界に知らしめた。

 ※映画『サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)』 (米 1965)。監督:ロバート・ワイズ 音楽:リチャード・ロジャース/オスカー・ハマーシュタイン二世、出演:ジュリー・アンドリュース、クリストファー・プラマー。
 59年にブロードウェイで初演され好評を博したロジャーズ・ハマースタインのミュジカル・プレイの70_映画化。原作はドイツで映画化(『菩提樹』)されたトラップ・ファミリー・シンガーズが結成されるまでの実話で、舞台はナチの魔手が迫りつつあった38年のオーストリア。その舞台を美しいザルツブルク付近ロケで映画ならではのスペクタキュラーな一流娯楽作品にした。

 ここから今一度、158号線に戻り、バート・イシュルを目指す。Bad Ischl(バート・イシュル)は、温泉地として有名である。オーストリアの皇帝フランツ・ヨセフがここにしばしば逗留していたこともあり、十九世紀末から今世紀初頭に掛けて、ヨーロッパの貴族社会の中心地であったところだ。これらはいずれも、避暑や自然を楽しむ為のリゾート地である。
 バート・イシュルから145号線を南下してハルシュタット方面へ。1時間弱でハルシュタットの村に着く。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Hallstatt(ハルシュタット)
 ハルシュタットはザルツカンマークグートの中で最も山奥に入った山紫水明という言葉がピッタリと当てはまるような美しいところである。この地方は、太古の昔から塩を産出していたことからザルツ(塩の意)カンマーグートと呼ばれている。とりわけハルシュタットは、新石器時代から集落があったといわれており、新石器時代、それ以降の時代の遺跡が多く発掘されている。塩坑や、前史博物館などがある。
 街に入るのには一旦町の近くの駐車場に車を停めた後、宿泊先でゲートを開けるカードを貰ってからでないと車を町の中に入れることは出来ない。
 市内のインフォメーションで紹介されたペンションへ向かう。教会とボート乗り場の向かい側の道を小川ぞいに辿り、30bほど入った突き当たりに木目も真新しいピンク色のペンションFRUHSTUCKS PENSION「STADLER」へ行ったが留守だった。湖畔で湖を眺めた後、再度行ってみる。今度は若くて美しい奥様が応対してくれた。部屋も小奇麗。Twin一泊朝食付き400S。洗面所付き。シャワー、トイレは別。
ハルシュタットの湖畔/写真転載不可・なかむらみちお  チェックインの後、町へ繰り出す。湖畔に沿ったSeestr.(ゼー通り)は、リゾート気分満点の気持のよい散歩道だ。やがて国道に出て、山の方向を見ると、世界最古のかつ現在も未だ操業中という塩坑へと上がるケーブルカーが見える。
 折り返してホテルから道路を挟んで湖畔に張り出したバルコニーでワインを飲む。ここの白ワインは爽やかで美味しい。オーストリアワインの総生産量の80lが白ワインで、辛口や中辛口が好まれている。岸辺には白鳥が寄り、湖畔に映る町の姿は夢のように美しい。当初、ここは来る予定に入れていなかったが、娘の勧めで来てみて本当に良かった。娘に感謝!

    7月25日(木) HALLSTATT滞在
 ペンションの正面側二階には屋根付の可愛らしいバルコニーがあり、朝の澄みきった清々しい空気を胸いっぱいに吸い、湖を眺めながら朝食を戴く。近くの教会から鐘の音が聞こえてくる。
 突然激しい雨が降ってきた。これでは街に行くことも出来ず、部屋でこれからのスケジュールを考えたり、手紙を書いたりして過ごす。
 昼前、近くの教会の鐘が鳴って雨が上がった。町の中心部である広場へ行ってみる。雨上がりの湖畔の水面から吹いてくるそよ風は清々しかった。町の中央の噴水のあるマルクト広場、郵便局の道路を挟んだ反対側にあまり大きくないが目立つHOTEL HALLBERのレストランがある。入口で若いウェーターが客待ち顔に立っていた。ここのご自慢の料理は何かと訊くと鱒料理とのこと。この湖水地帯の名物は、ザイプリング(鱒の一種)をはじめとする魚料理。HALLSTATT湖で朝捕れた鱒を料理してくれる。
鱒料理/写真転載不可・なかむらみちお  早速焼いた鱒にサラダ、茹馬鈴薯の付け合わせを注文する。長身の若いハンサムなウェーターがとても親切に応対してくれる。料金は二人前で165S。
 ペンションのすぐ脇、船着場からやや右側の山肌にへばりつくように建つカトリック教会がある。裏側にまわってみると、墓場の奥にある納骨堂バインハウスがあった。狭い土地で墓場が充分に取れなかったハルシュタットでは、埋葬してから10〜20年たったら遺骨を取り出して、次の遺体を埋めるという風習があったそうだ。取り出した遺骨を納めたのがバインハウスで、約千個の頭蓋骨が並ぶ。頭蓋骨には、故人の生没年とともにバラの花飾りや葉などが描かれている。

    7月26日(金) HALLSTATT−LINZ−MELK−KREMS
世界で一番美しい湖/写真転載不可・なかむらみちお  ザルツカンマーグートは、ドイツ人に人気のあるリゾートエリアである。湖の風景で世界一美しいと言われているハルシュタットの街の北のはずれから見る風景は最高である。是非一度訪れることをお奨めする。
 バート・イシュルから、145号線でEbensee(エベンゼー)、Gmundewn(グムンデン)、Laakirchen(ラーキルヒェン)と走る。渓流トラウン川やTraunsee(トラウン湖)沿いの道なので、岩肌に湖の水が打ち寄せ、前方にはトラウンシュタイン山が見えるといった絶景ドライブを楽しむことが出来る。ラーキルヒェンで高速道路A1に乗り、リンツを経てウィーンを目指す。
 ドナウ川はドイツのPassau(パッサウ)を過ぎるとオーストリア国内に入り、西から東へ約360qに渡ってゆったりと流れて行く。モーツアルトの交響曲36番の題名の町Linz(リンツ)に近く川が大きく蛇行する。昔の都メルクとクレムスの間は「輝く銀の帯」と呼ばれ、特に美しい渓谷である。
 ヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」など数々の名曲でその美しさが讃えられている大河は、ドイツに源を発し、ドイツ、オーストリアの首都ウィーンの北をかすめて、チェコスロバキア、ハンガリア、ユーゴスラビア、ブルガリア、ルーマニアの7つの国を貫流する。
ウィーンへの道  「メルク」の道路標識を見て高速道路A1を降り、一般道路を通ってメルクを目指す。Melk(メルク)が近付くと、ドナウ川のワッハウ渓谷に望む丘の上に聳える壮大な建物が目に入ってくる。ベネディクト派のメルク修道院である。創立は976年。18世紀に改築され、オーストリア・バロックの至宝とまでいわれるほど華麗な姿になった。院内には10万冊の蔵書と手書きの本1888冊を収めた図書館があり、息をのむばかりの絢爛たる付属教会などが有名。1770年にマリー・アントワネットがフランスのルイ十六世のもとへ嫁ぐ途中で、この修道院で一泊している。静かでロマンティックな旧市街には15〜16世紀頃の家並みが残る。
 ドナウ川沿いの道は一車線で狭い。左ハンドルの車にはなかなか慣れ切れない。右側通行もぎこちなく、時々路肩に寄り過ぎたのに気が付いては急に修正する。その度に妻が「どうかしたの」と訊く。
 中流にSchloss Schonbuhel(シェーンビュール城)がある。その城が見えるポイントを目指しているのだが、川とこちらの道路の間に畑とその先に樹木があって対岸にあるはずの城を探すのが難しい。地図と走行距離を睨み合わせながら走る。この辺かなと思うところで川岸に通じる道路を探すのだがなかなか見当たらない。ようやく一本の農道を見付けて川の方へ入ってみる。
 初めて見たドナウ川の色は、濁った茶色かせいぜい深緑色といったところであり、ヨハン・シュトラウス2世作曲の『美しく青きドナウ』という曲名のイメージには程遠い。この曲の作詞者はどのような理由で『美しく青きドナウ』と名付けたのであろうか。
 『美しく青きドナウ』(An der schonen, blauen Donau)作品314は、ヨハン・シュトラウス2世が1867年に作曲した合唱用のウィンナ・ワルツ。歌詞を付けたのは、アマチュアの詩人であるヨーゼフ・ヴァイル(ドイツ語版)という協会関係者であった。普段のヴァイルは警察官として働く人物であり、彼の詩は猥雑で愉快なものとして知られていた。
 前年の1866年に普墺戦争があり、わずか7週間でプロイセン王国との戦いに敗れたことによって、当時オーストリア帝国の人々はみな意気消沈していた。ヴァイルはこうした世相において、プロイセンに敗北したことはもう忘れようと明るく呼びかける内容の愉快な歌詞を付けた。
 現在のオーストリアでも、このワルツは依然として「第二の国歌」と呼ばれ続けている。大晦日から新年に代わるとき、公共放送局であるオーストリア放送協会は、シュテファン大聖堂の鐘の音に続いてこのワルツを放映するのが慣例となっている。
 それに続いて元日正午から始まるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートでは、3つのアンコール枠のうちの2番目としてこのワルツを演奏するのが通例である。
 なお、父シュトラウスT世の『ラデツキー行進曲』も同コンサートを締めくくる定番の曲であるが、こちらも国家的な行事や式典でたびたび演奏される曲である。
 これら二つの曲が同コンサートにきまって取り上げられるのは、ただ人気が高いからというだけの理由ではなく、オーストリアを象徴する曲だということも大きな理由とか。
ドナウの女王シェーンビュール城/写真転載不可・なかむらみちお  城はここから川の少し上流にあった。幸い川岸の少し高まった所に川沿いに荷車が一台通れるくらいの細い農道が続いていた。その道をたどってアングルを探す。かなり行ってみたがどこまでも細い道が一本続くだけで、車をUターンさせられるような場所が見当たらない。この先で行き詰まりになったり、対向車が来たら車を後退させたりするしか手はないだろう。已むなく早めに途中から後退することにした。バックは苦手だ。道のすぐ左下はドナウ川の濁流が流れている。万が一、川の中に転落した時のことを考えて妻を車から降ろして誘導して貰う。普段とは違う左ハンドルの車で、何度か轍を踏み外し、やり直しては後退する。ようやく一般道路に出られるT字路にたどり着いた。ヤレ、ヤレ、無事戻ることが出来て良かった。それにしても肝を冷やした。その近くの少し空地のあるところに車を入れた後、歩いて先ほど行った先へ行き、城の写真を撮ってきた。
 この城の今の建物は十九世紀になって造られたバロック風の居館だが、その下の部分には城塞らしい石造物が残っている。ドナウ川の流れに映す姿は、ドナウの女王というにふさわしく、川を上り下りする船上からの眺めもまた美しい。個人所有のため城内は公開されていない。
リチャード獅子心王が幽閉されたデュルンシュタイン城/写真転載不可・なかむらみちお  Durnstein(デュルンシュタイン)。この街の名を有名にしているのは、デュルンシュタイン城にまつわるイングランドのリチャード獅子心王の物語。第三次十字軍遠征からの帰途、彼はオーストリア大公レオポルト五世の怒りに触れて1192〜93年にかけてデュルンシュタイン城(ケーンリンガー城跡)に幽閉された。そこで王に忠実なイングランドの騎士ブロンデルが吟遊詩人に身をやつし、諸国を廻り探し回った末、遂にこの城で捕われの王を探し当てた。イングランドは身代金を払って王を助け出した。山上の建物は現在すでに廃墟になっているが、わずかに塔の残骸や城壁の跡を残している。人口880人。
 この先のKrems(クレムス)は、ワッハウ渓谷の東の端に位置し、町はぶどう畑に囲まれている。人口2万4千人。ここは昔からワイン造りの町として名高く、古風な町並みがそっくり残っている。旧市街の一角に元修道院の建物を改装利用した「ワイン造りの博物館」がある。館内を見学するとクレムスとワインの深い関係が分る。
フルーティな香りと黄金色の輝きに満ちた白ワイン/写真転載不可・なかむらみちお  昔ながらの街並みを行くと市庁舎があり、さらに進むと街のシンボルのシュタイナー門が現れる。門をくぐり抜けると、緑濃い市立公園が広がり、その手前にインフォメーションがある。そこに行き、今夜のホテルを紹介して貰った。さらにその先に進むとA−3500 KREMS a.d.DONAU SCHILLERSTRASSE 5に今紹介して貰ったホテルHOTEL-PENSION UNTER DEN LINDEN(ウンター・デン・リンデン)があった。シャワー、トイレ付きで料金はTwinで760S。無料駐車場がある。
 中庭にはテーブルが置かれていて葡萄棚の下で食事が出来る。雰囲気最高。ここで飲んだ白ワインがフルーティな香りと黄金色の輝きに満ちており、とても美味しかった。ここのワインは絶品だ。特にお薦めしたい。ワインを運んできた気品のある若いウエトレスが印象的だった。

目次へ   ↑ページの一番上へ

    7月27日(土) KREMS-WIEN
 クレムスからウィーンへの道は平地が多く運転しやすい。

   Wien(ウィーン)
 ウィーンはバルト海とアドリア海とを結ぶ南北の陸路と、ドナウ川による東西の水路との交差点に位するので、大昔から交通の要衝だった。
 ウィーン南西部に建つSchloss Schonbrunn(シェーンブルン宮殿)は、ウィーンで最も多くの観光客が訪れる。宮殿前の大きな駐車場に車を置いて宮殿見物に行く。妻が以前娘と来たことがあるので案内すると言うので付いて行く。建物の左の道を行くが、どうも様子がおかしい。写真で見た二階まで外付けの階段のある宮殿の正面ではない。宮殿の裏に回ってしまったらしい。
シェーンブルン宮殿/写真転載不可・なかむらみちお  宮殿は、バロック式の雄大な建築で、ハプスブルグ家の夏の宮殿である。16人の子供を生んだ女帝マリア・テレジアに依って今日のような美しい姿となった。豪華な宮殿内部は勿論、背後に広がる広大な庭園や動物園など、多くの見所がある。17世紀初頭、近くの森で美味しい水が湧き出す『美しい泉Schoner Brunnen』を発見したことから、シェーンブルンという名が付いた。
 女帝マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットは15歳でフランスに嫁ぐまでこの宮殿で育った。6歳のモーツァルトが女帝の前で演奏を披露し、マリー・アントワネットに求婚したという逸話も残る。
 ナポレオンがウィーンを占領した際はこの宮殿を宿舎とし、失脚後は映画『会議は踊る』で有名なウィーン会議の舞台となった。

 ※映画『会議は踊る(Der Kongress Tanzt)』(独・31年)。監督:エリック・シャレル、音楽:ヴェルナー・R・ハイマン、出演:ウィリ・フリッチュ、リリアン・ハーヴェイ。
 1814年、ナポレオン敗退後、戦後処理を図るため列国の君主が集って平和会議が開催された。オーストリアの宰相メッテルニッヒは、酒と女と音楽で会議を踊らせ、自国に有利な条約を結ばそうとする。ウィーン会議を背景に、ロシア皇帝アレキサンダーと町娘クリステルの束の間の恋をつづったロマンティックなオペレッタでトーキー初期、世界的に流行した音楽映画の最高傑作である。ハイマン作曲の主題歌『ただ一度だけ』が世界的に大ヒットしただけでなく、長い移動撮影が話題となった。

 宮殿の南側に広がる庭園は総面積が約1.7ku。春から夏には色とりどりの花で描かれた幾何学模様の花壇が鮮やかである。その先のグロリエッテの丘の麓にある大噴水はギリシァ神話の海神ネプチューン(ポセイドン)に祈る女神テティスを中心にした力強い彫像。時間に応じて噴水が流れ出る。坂道を上がり像の後へ周ると、水幕を通して宮殿と花壇全体が美しく眺められる。
小高い丘の上に聳えるグロリエッテ/写真転載不可・なかむらみちお  小高い丘の上に聳えるグロリエッテは、1775年に軍事的な記念碑として建てられた。現在、中央部はカフェになっている。ここからの展望は遥かにウィーンの街などが見渡せ、汗を流して上がってきた価値がある。
 ハプスブルク家の発祥は、ウィーンではなくスイスの北東部からドイツ西南部の一帯だった。ここを支配していた小貴族に過ぎなかったが、1273年ルドルフ一世が神聖ローマ帝国の皇帝に選出されたのをきっかけに、紆余曲折を経ながらもめきめきと頭角を現していく。王家を発展させる為に戦争ではなく結婚政策によって版図を広げ、1918年に崩壊するまで650年にわたって中央ヨーロッパを支配した。
 シェーンブルグを出て駐車場に向かう。今夜の宿は未だ決っていない。駐車場からふと宮殿の反対側左手を見上げるとビルの上に「HOTEL」と書かれており、その下に4星のマークがあった。今夜はあそこに泊ろう。
 車をそのままにしてホテルへ行ってみる。ホテルの名前は「HOTEL KAISERPARK−SCHONBRUNN」(GRUNBERGSTRASSe ll,1120 WIEN−SCHONBRANN)。フロントへ行くとOKとのこと。料金はTwinで1350S。内部はクラシックな感じだが、バス、トイレ、TV、冷蔵庫付き。
 ホテルからは中心街へ行く地下鉄U4の駅も近い。地下鉄U4線のSchonbrunn(シェーンブルン)駅に入るとそれぞれ上りと下りの階段がある。どちらが中心街へ行くのか分からなかったので、たまたま通り掛かったご婦人に訊いてみた。するとこちらだよと親切に教えてくれたのでその階段を下りて地下鉄に乗る。車窓からはまばらな住宅街が見える。客が乗るどころかだんだん少なくなってくる。やがて着いたところが終点だった。あのご婦人は何を勘違いして教えてくれたのだろうか。電車は折り返すだろうと思って私達はそのまま乗っていた。先ほど乗ったシェーンブルン駅を通りKarlsplatz(カールスプラッツ)で降りる。地下鉄を出た所がケルントナー通りで、ここからシュテファン寺院へ向かって延びる通りが、ウィーン第一の繁華街である。
 ウィーンの旧市街は、130年ほど前、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の命で、中世以来の城壁が取り壊され、王朝のショーウィンドウとも言うべきリンク大通りが建設された。旧市街を取り巻くこの大通りには、国立オペラ座、国会議事堂、ブルク劇場、市庁舎、ウィーン大学など、建築史上の記念碑の数々が並んでいる。音楽の都ウィーン。楽友協会大ホールからは、毎年元旦にウィーン・フィルのニューイヤーコンサートが、世界中へ衛星中継される。私はこの夜、取って置きの美味しいワインを片手にテレビ鑑賞をし、二日、三日は箱根大学駅伝競走の中継を観て過すのが習わしになっている。
ウィーン国立歌劇場/写真転載不可・なかむらみちお  ウィーンきっての目抜き通り、ケルントナー通りを国立オペラ座へと向かう。ウィーン国立歌劇場(オペラ座)はパリ、ミラノと並ぶヨーロッパ三大オペラ劇場の一つ。1869年に、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ」でこけらおとしが行われた。
 建物内部は昼間のガイドツアーで見学出来るので早速参加する。時間が来ると見学者一同一群でガイドが案内してくれる。豪華な階段や素晴らしい装飾の部屋、輝くばかりのシャンデリアに目を見張る。大ホールも案内して貰った。この大ホールでは毎年2月に恒例の舞踏会が開かれる。ステップも軽やかに踊るのは、174人のあでやかな若い紳士淑女(18才から26才までの若者たち)の皆さん。舞踏会の冒頭でワルツを踊り、社交界に正式のデビューを果たす。きらめく光の中、「欧州一の華麗さ」でワルツの旋律が一晩中流れ、古い良き上流階級の雰囲気に浸ろうと、世界中から5000人もの見物客がつめかける大イベントである。ちなみに立見席で3万円前後、ボックス席になると貸し切り料金は170万円の高額とか。
 オペラ座の向かいのCafe Sacher(ザッハー)ザッハートルテで世界的に知られるカフェ。ホテル・ザッハー内のカフェとしてあまりにも有名である。深紅と金色のザッハーカラーで統一したシックな店内。テーブルの上のメニューは、ウィーンの新聞を模したミニチュア版。ザッハートルテは、ホテル・ザッハー秘伝のレセプトに依って造られるチョコレートトルテで、チョコレートケーキの代名詞になるほど有名なケーキ。甘い物が大好きだったハプスブルク家のお膝元だけにウィーンにはケーキ屋さんが多い。早速ザッハートルテとアインシュペナーをオーダー。ケーキに付き物のウィンナコーヒーは、アインシュペナーと言い、ホイップした生クリームを浮かべたコーヒーをいう。日本でいうウィンナコーヒーはこれに近い。
ウィーンのシンボル聖シュテファン大寺院/写真転載不可・なかむらみちお  旧市街の中心にはウィーンのシンボルである聖シュテファン大寺院が空を突いて聳えている。12世紀半からロマネスク様式として建てられたが、14世紀から16世紀頃に後期ゴシック様式に改築された。ドイツのウルムやケルンに次いで世界で3番目に高いそのゴシック式の尖塔(高さ137b)はシュテッフルの愛称で親しまれ、こよなきウィーンのシンボルであり、ウィーン子の心の故郷でもある。第二次大戦が終った時、ウィーン子はいちはやく戦災で大破したシュテッフルの修復に取り掛かった。標準レンズでは入り切らないのでワイドレンズに付け変えて撮影した。
金色に輝くヨハン・シュトラウス二世の像/写真転載不可・なかむらみちお  ウィーンには彫像が数え切れないほどあるが、最も有名なのは、市立公園内に立つヨハン・シュトラウス二世の像である。ヴァイオリンを奏でるヨハン・シュトラウスの像があるのはこの市立公園。妻が市内地図を見てここから近いと言うので行ってみる。1921年作のこの像は当初金色に塗られていたが、1935年に金色を剥がされ、再び現在のような金色に戻されたのは1991年のことである。たまたま居合わせた日本人の奥さんにお願いしてカメラのシャッターを押して貰う。近くの野外ステージでは小規模なオーケストラが演奏していたのでしばらく耳を傾ける。
 リンクシュトラーセに沿って行くと、ブルクガルテンという公園があり、マロニエの樹や、花壇が美しく、正面にト音記号をあしらった花壇の脇にモーツァルトの像などがあった。

 妻とはここで別れて一人で王宮のほうへ行ってみた。ホーフブルクは、ハプスブルク家が13世紀後半から1918年まで、約600年以上に渡って住居としてきた王宮である。堂々たる石積みと彫刻群に飾られたその姿は、ありし日のオーストリア帝国の偉容を偲ばせる。今も政府によって使用されているが、観光客の為に26の部屋が公開されている。特に宝物館はハプスブルク家の栄光を物語る王冠、宝石などの展示がある。
ハプスブルク家の王宮/写真転載不可・なかむらみちお  宮殿の前から、公園のように美しい環状道路が左右に伸びて、ウィーンの中心部を五角形に包む。突然リズミカルな蹄の音が響き渡り、黒塗りの馬車が優雅に通り過ぎて行った。
 中心部を取り囲む環状道路「リンク」をゆっくりと走る赤い路面電車は、最もウィーンらしい風景の一つだ。それに乗り、リンクシュトラーセは緩やかに右にカーブに沿って行くと、ギリシャ神殿を思わせる白大理石の古代ギリシャ風の建物は1883年に出来た国会議事堂で、正面に女神アテナの美しい噴水がある。
 さらに進むと左側奥にいくつもの先頭を聳えたたせているネオ・ゴシック式の大建築は、1882年に出来たルネッサンス風の高い塔を持つ市役所である。中央の塔の高さは98b。そこから反対側の電車に乗り、中心街に帰って来た。
カフェモーツアルト/写真転載不可・なかむらみちお  ホテル・ザッハーの角をひとつ曲がったところにカフェMozart(モーツアルト)がある。ここはウィーンの伝統的カフェである。1947年、グレアム・グリーンはここで『第三の男』の脚本を書き、映画にも登場して世界的に有名になった。ここは又、映画の中で国際警察の英国代表、キャロウェイ少佐(トレヴァ・ハワード)の説得に屈した売れないアメリカの作家マーティンス(ジョセフ・コットン)が囮となって旧友ハリー・ライム(オーソン・ウエルズ)の逮捕に協力するために夜のカフェのテラスで待ち合わせの場所として設定されたレストラン。私達もここで待ち合わせ、シャンペングラスで乾杯、ウィーナーシュニッツェル(仔牛のカツレツ)を注文する。Wiener Schnitzel(ウインナ・シュニッエル=ウィーン風カツレツ。日本のカツレツにそっくり)。食事は、ウインナ・シュニッエルを注文すればそれほど当たりはずれがない。そして、何故だかどこのレストランにもこのメニューはある。値段も手頃である。

 ※映画『第三の男(The Third Man)』(イギリス 1949)。 監督:キャロル・リード 原作・脚本:グレアム・グリーン 出演:オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、アリダ・ヴァリ 音楽:アントン・カラス。
 第二次世界大戦直後のウィーンを舞台に、アメリカ人作家が事故死した親友の真相を探るサスペンス・スリラーの秀作。追う者と追われる者の凄惨な争闘。微妙な女心と人間心理の深淵を描く。アントン・カラスのチター演奏による『第三の男のテーマ』が大ヒットし、チターへの感心が集った。プラターの大観覧車が一躍有名になった。カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。

 ※アントン・カラス
 アントン・カラスは1906年7月7日にウィーンで生まれた。カラスは故郷ウィーンでなぜ抹殺されたのか?謎を解く鍵はその名前にあった―。
 1948年、ウィーン。第二次世界大戦で敗れ、瓦礫の山や闇市や困窮する人々で溢れる中、映画の撮影準備に来ていたキャロル・リードは奇妙な楽器を弾く小男に出会った。これが映画『第三の男』の音楽で一躍世界の大スターとなったアントン・カラスとの出会いであった。「私は瞬間的に思った。これから撮る『第三の男』の映画音楽にこの楽器とこの男を使おう。この楽器は1948年のウィーンではウィーン・フィルの演奏やウィンナワルツの優雅な調べよりウィーンという町を特徴付けている。そうだ! 全編を通してこの楽器を使ってウィーンのムードをかもし出そう」。リードは『第三帝国から第三の男まで』という本の中で、こう語っている。リードとの出会いは、東方異民族としてゲルマン社会の中で悶々としていたカラスに自信と生きる希望を与えた。カラスは、リードに報いる為にも、自分自身のためにも、『第三の男』の音楽をやり遂げようと決心した。
 この作品の生みの親、原作、脚本のグレアム・グリーンを『第一の男』とするなら、それを完璧なまでに映画化したキャロル・リードは『第二の男』であろう。そしてリードの映像にチターという滅びの楽器を駆使して音楽を作り出したアントン・カラスこそ『第三の男』といえよう。
 「チター」はホイリゲには欠かせない楽器で、起源も古い紀元前1000年からアジアにチターの原型が見えるそうである。チロル地方やウィーンでは民族楽器として親しまれてきた。ピアノやオルガンが普及してくると、上流階級はそちらに流れた。その内チターは、社会的にも上流でない人々の楽器になってしまった。チターは“滅びの楽器”といえる。
 カラスは1953年10月シーベリングに350uの“ノーベルホイリゲ”を建てた。店の名は“Dritten Mann”ドイツ語で『第三の男』とした。ところが英雄カラスを取り巻く地元の感情は良くなく、“嫉み”と“金銭欲”から、先にホイリゲを開いた同業者との間にトラブルが起こり、裁判沙汰にまで発展し、カラスは敗れてホイリゲの営業停止命令を受けた。カラスは人気者、有名人であるが故にホイリゲの同業者から嫉まれていた。それはカラスが荒廃したウィーンを舞台にした映画で世に出、しかも一曲で富と名誉を築いてしまったことに由来する。
 神聖ローマ帝国、ハプスブルク王朝時代の宮廷政治、ワルツや音楽会につながるイメージを持っているオーストリア人にとっては、「第三の男」に示された廃墟や闇市を目の前に突き付けられることは、世界の一等国民という自負の強い民族には耐えられない侮辱だった。
 カラスは同業者の陰謀でワインシェンケ“Dritten Mann(第三の男)”の営業を辞め、店をたたんだのは1965年10月5日であった。カラスがウィーンの社会で抹殺された本当の理由はなんだろう。ノンフィクション作家・軍司貞則さんの調べによれば、アントン・カラスという姓名はゲルマン系ではない。「Anton」は、典型的にスラブ人の男の名前である。ウィーンのオーストリア人や、アメリカのジャーナリストは「カラスという名はハンガリーの名前だ」という。
 軍司さんはその著書『滅びのチター師・「第三の男」とアントン・カラス』(文春文庫)の中で、「カラスが非ゲルマン民族であり、多分ハンガリー系の移民者であることがウィーンの社会ではどのような意味を持つのか。そこから何が私達には伺い知れない不利益が生じるのであろうか」、と考える。とりわけカラスの住むシーベリンクの村は昔からゲルマン意識の強い地域として有名である。ゲルマン人は経営者で、労働力はトルコやユーゴスラビア、チェコ、ハンガリー系であり、“支配”“被支配”の関係が成立していた。カラスはこのような風土の中で圧殺されていった。
 「カラスはたった一本の映画で狂い咲き、英雄になり、世界の隅々まで名声をとどろかせてしまった“掟破り”であった。それらの底には、人種差別というハプスブルク家によって培われてきた歴史と、それに付随した諸事情が、カラスをウィーン社会から抹殺していった。」と、書いている。
 1985年カラスは寂しく生涯を閉じた。
 連日の西洋料理にも飽きてきた。“西洋料理もたまにはいいがやっぱりご飯とお味噌汁”と言う川柳がある。そろそろ日本食が恋しくなってきた。ここらで日本食を食べたい。取分け純粋の日本食とは言えないかもしれないが無性にラーメンが食べたくなった。ガイドブックで調べて中華料理屋に行ってみた。出されたメニューはドイツ語しか書かれていない。ラーメンらしい料理は見当たらない。妻が「Ryumen」と言う文字を見付けて、これがラーメンかも知れないと言うのでそれを注文する。出て来た料理はラーメンとは似ても似付かぬものであった。満たされぬ心を抱いたまま夜のウィーンの街を通りホテルへと向かう。
 ホテルの部屋の窓を開けると道路一つ隔てて目の前にシェーンブルグ宮殿がある。今まさに宮殿越しにウィーンの森に落ちる夕日が美しい。夜になると漆黒の夜にライトアップされた宮殿が浮かび上がってきた。

    7月28日(日) WIEN-LINZ−SALZBURG−MUNCHEN
楽聖たちが眠る中央墓地/写真転載不可・なかむらみちお  市の南西部には楽聖たちが眠るZentralfriedhof(中央墓地)がある。この墓地はヨーロッパで2番目に広い。中でも有名な場所は、オーストリアの有名人が葬られている名誉地区で、正面(第二門)を入って並木道を200b程行った左側の中の32A地区にはヨハン・シュトラウス父子、ベートーヴェン、シューベルト、ブラムームス、スッペ、グルックなどの墓地や、モーツアルトの記念碑など音楽家の墓碑が集っている。独特の意匠を凝らした墓碑が印象的である。
 墓や記念碑を一つずつ撮っていると、どうしてもスッペの墓が見当たらない。居合わせた日本人親子の小学校中学年くらいの男の子が教えてくれた。
 寒々とした晩秋の墓場の長い道をはるか遠くから歩いてくる女(A・ヴァリ)。マーティンス(J・コットン)が未練がましく待ち受ける。女はその横を振り向きもせずに通り過ぎて行く。映画『第三の男』、あまりにも有名なすれ違いのラストシーン。私もその場所と思われる並木道でジョセフ・コットンに成り切ってその場面を再現してみる。そしてその場面を私の8ミリビデオに納めた。念願の大ロケーション完遂。
 信号、交通標識もシンプルで見やすく、オーストリアを車で走っていると国を挙げて観光に力を入れているのが良く分る。ヨーロッパ中で最もドライブし易い国の一つといわれている。ドイツ人やスイス人同様、オーストリア人も一般的に交通法規を守る国民なので運転がしやすい。
 高速道路は国内の主要都市間を結んでいるので大変便利。しかも無料。ウィーンから高速道路A1に乗り、一気にミュンヘンを目指す。国境からミュンヘンまでは余すところあと128q。
 後部座席で妻がなにやらごそもそと探し物をしている。ザルツブルクのモーツアルト生家で買ってきたお気に入りの鉛筆がないと言う。どうやらつい少し前、ガソリンスタンドで給油した時にスタンドのカウンターに置き忘れてきたらしい。その鉛筆にはモーツアルト作曲の楽譜の一部が印刷されており、他では手に入らないものらしい。悔やむことしきり。今更悔やんでみても遅い。あとの祭りである。
 ドイツからオーストリア、オーストリアからドイツへの国境の検問所はフリーパス(パスポートを提示しない)。途中右手にキーム湖が見えた。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Deutschland(ドイツ)

   Munchen(ミュンヘン)
 “芸術とビールの都”ミュンヘンはBayern(バイエルン)の首都、西ドイツ第三の大都市である。人口は約130万人。南ドイツの文化、交通、商工業の大中心地である。市内には今も美しく堂々とした歴史的建造物が多く、また古風で重厚な街並みが旅行者の目を楽しませる。
 歴史的に見ると、ミュンヘンの名は遠く八世紀の昔、この近郊にあったベネディクト派の僧院の「僧侶(MoncheまたはMunichen)の村」から起こったという。十二世紀末以降に発展した。バイエルンの王様たちは、十六世紀から十九世紀の諸王が芸術を愛し、ミュンヘン宮廷には芸術家、文人墨客が集った。そのせいでこの街は芸術の香り高き都となった。
 1918年、ドイツ帝国の崩壊と共にバイエルン王国も消え去ったが、それに代わって1920年代にはヒットラーの率いるドイツ国家社会主義労働者党、いわゆるナチス党がこの地に旗揚げして、やがてドイツ全土を掌握していった。今日のミュンヘンは、ドイツでも一番目覚しい発展を続ける国際都市である。
 今日の宿は1981年5月8日にも泊ったミュンヘン中央駅前にあるメトロポールホテルを予定している。市内に入ってから、標識を頼りに中央駅を目指す。途中何度か通りがかりの人にも尋ねてようやく駅前に到着。車を駐車場に停めて駅前のメトロポールホテルへ行く。フロントで訊くと、予定していたよりも宿泊代が高い。已むなく中央駅構内にあるインフォメーションへ行き、ホテルを紹介して貰う。
 紹介して貰った「HOTEL WESTEND」(80339 MUGNCHEN LANDSBERGER STR・20)は駅横のBayerstr.を西に歩いて20分程行った右側にあった。SバーンのHACKERBR UCKEに近い。Twin120DM。一階が自動車販売店及びサービス工場受付になっている。ビジネス客が多いようだ。駐車場は有料だが、近くに自動車一台毎のホテル専用の車庫があるので安心。扉には鍵が掛るようになっている。
 ひと先ず落ち着いてからフロントに行き、近くのレストランを訊くと、ホテルの向かいにHacker-Pschorr Bru AG(ハッカーブロイ)ビール工場があり、その一角に直営レストランがあると言う。何はともあれミュンヘンビール!トリビー!
 早速行ってみると店内はかなりの客で賑わっていた。地ビールの醸造工場付近のホテルなどはドイツならではのホテルである。テーブルに着くと縁に手拭を掛けた風呂用の手桶が置いてあった。その中には各種のおつまみが入っていた。聞くところによるとこのビール工場の前身は風呂屋さんだったとか。手桶を置いているのはその名残らしい。ミュンヘン市内でたくさんあるビアホールの中でなにか特色を出さないと成り立って行けない壮烈な戦いを垣間見た感じがする。先ずはビールと芸術の都ミュンヘンに乾杯!
 今日はアトランタ五輪大会で女子のマラソンレースがあり、有森裕子選手などが走ったはずだが見ることは出来なかった。

    7月29日(月) MUNCHEN滞在
新市庁舎/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルを出て先ず、Bayerstrasseを通り、Karlsplatz(カールス広場)に出る。地下道をくぐり、歩行者天国のNeuhauser Str.(ノイハウザー通り)を通ってMarienPL.(マリエン広場)へと向かう。ここは市の中心に当る広場で、北側に大きな新市庁舎、その東側に旧市庁舎がある。広場の一角には、市の守護神ともいうべきマリア像の塔が立っている。市内には歴史的建造物が多く、特に壮大な新市庁舎は1867年から1908年にかけて完成されたネオ・ゴシック様式の大建築。きらびやかな外観を持ち、美しい鐘楼にはめ込まれたドイツ最大の人形の仕掛時計は、毎日午前11時に動きながら時刻を告げ、窓から等身大の人形が出てきて騎士の馬上試合の物語を演じることで市の名物になっている。私達はその仕掛時計を見るために時間を見計らって歩いてここまで来た。広場にはすでに観光客があふれている。
ドイツ最大の人形の仕掛時計/写真転載不可・なかむらみちお  新庁舎の塔の時計が11時のチャイムを打つと、いよいよその仕掛時計が動き出す。旅行者も通りすがりのミュンヘンっ子も童心に帰って塔を仰ぐひと時。尖塔の上にはババリアの青い空が広がっている
 マリエン広場からでは新市庁舎の全景写真が写せない。広場の内部にある路地Rindermarkt(リンダーマルクト)を少し入れば、高い塔屋の建つ教会がある。市民に心の故郷のように親しまれているミュンヘン最古の教区教会、St.Peter(ペーター教会・1181年)である。妻をマリエン広場に残して、教会の中へは入らずに外側から南に回り込み、小さな塔屋の入口から狭い階段を譲り合いながら高さは92bを歩いて登る。この上からマリエン広場や新市庁舎がよく見える。新市庁舎の全景写真もバッチリ。
 ミュンヘンといえば名物はビール。ミュンヘンはビールの本場として名高い。日本人の7倍も飲むといわれるドイツ人のビール好きは、ミュンヘンにおいて極致に達する。有名なホーフブロイハウスを初めとする賑やかなバイエルン風ビアホールが、市民や旅行者を誘っている。特に毎年9月末から10月にかけてのOktoberfest(オクトーバー・フェスト=10月祭、ビール祭)は世界的に有名で、五百万人もの観光客が世界中からこの町に押し寄せ、連日連夜飲めや歌えの大騒ぎになる。この間に飲み干されるビールの量はなんと四百万gとか。しかし、祭などなくても、ミュンヘンではビールにはこと欠かない。どこへ行ってもビアホールは客人でいっぱいである。
 同じドイツでもミュンヘンを中心とするこの地方ではワインの産地には入っていない。この地方ではなんといってもビールである。酒倉は旧西ドイツに1200あり、その内の800がバイエルンにある。バイエルンはラガービール発祥の地として有名である。ミュンヘンはビールの都といわれるくらいだから醸造所も多い。有名な銘柄だけでも六つある。ホーフブロイハウスで知られたStaatliches Hofbrauhaus in Munchen(ホーフブロイハウス)、ライオンマークのLowenbrau AG Munchen(レーベンブロイ)のほかHacker-Pschorr Bru AG(ハッカーブロイ)、Paulaner-Salvator-Thomas-brau AG(パウラーナーブロイ)、Gabriel Sedlmayr Spaten Franziskaner-Brau KG(スパーテンブロイ)、Augustiner-Brau Wagner(アウグスティナーブロイ)など。いずれもその醸造石数を誇っているが、ドイツには日本における日本酒のようにいたるところの町に村に小さな醸造所がありビールを造っている。現在ドイツのビールはビール純粋令に依って厳しく決められており、大麦とホップ、水だけで造られる。
ホーフブロイハウス一階の大広間/写真転載不可・なかむらみちお  Hofbrauhaus(ホーフブロイハウス)はマリエン広場から少し東へ行ったところにある。十九世紀に建てられたもので、全階合せて5000席もあるバイエルン風マンモス・ビアホール。1928年にはヒトラーがこの三階の大ホールで大演説をぶった。いろいろな部屋があるが、一番ポピュラーなのは一階の大広間。二階は常連とか招待者のみ、庶民は一階。ホールの真ん中に設えられた少し小さめの舞台の上では、チロル帽子に半ズボンといったいで立ちのバイエルン風楽団が、賑やかに行進曲やら山のダンス音楽を演奏している。
 ミュンヘンのビアホールのジョッキは一般に1g容器だ。このジョッキを8個から10個、腰廻りが1.5bはありそうな中年の威勢のよいフロイラインが両腕にかかえるようにして持ち、広い胸にいとも簡単に抱いて、足早に運んでくる。ただ「ビア」といえば1g入りの軽口のHelle(ヘレ)が来る。ついでに名物の白ソーセージ、Weisswurst(ヴァイスヴルスト)を注文する。
 ミュンヘンでは牛の肝臓や肉をみじん切りにして固めた“レバーケーゼ”が名物。これは文句なく上手い。いろいろな香辛料で味付けしてあって、ビールのつまみとして最高である。直訳すれば肝臓のチーズだが、もともとは牛の肝臓をミンチにして味付けし整形したものだったのだろうが、最近のものは総て豚肉が原料だ。さらにバイエルン名物のヴァイスヴルスト(茹でた白ソーセージ)もビールのお供に大変合っている。ナイフをあてるとはじけるように薄い皮が破れる。縦に切って、甘酢で和えた洋辛子を付けて食べる。この洋辛子が又なんとも形容し難いほど白ソーセージに合っている。ドイツ料理は一般的に不味い部類に入るが、白ソーセージには満点を付けてやりたい。そしてもう一人役者がいる。ブレッツェルというパンだ。八の字型に焼き上げたもので、所々に岩塩が詰まっている硬めで弾力のあるこのパンをちぎりながらヴァイスヴルストを食べ、バイツェンビールを味わう時、旅の歓びにしばし浸る事が出来る。
ミュンヘンのビアホールのジョッキは1g/写真転載不可・なかむらみちお  ホッフブロイハウスのテーブルは厚手で頑丈な木造りだ。永年の歴史をそのままに刻んだという感じの傷だらけの古ぼけたもの。誰でも座ったらたちまち隣の席と友達同士で、乾杯の唱和は昂じて興が乗るとついには全員テーブル上に総立ち、腕を組み、身体をゆすっての大合唱となる。
 歴史の舞台となったホーフブロイハウスはミュンヘンへ行く日本人が大方は寄るところなので知っている人も多いし、ものの本にもよく書かれている。だから生粋のミュンヘン子は最近近寄らないと言う。他のビール会社が洒落た新しいビアホールを作ったこともあって、若い連中はそちらへ行く。
 村上 満著「ナマ樽博士の世界ビール紀行」(東洋経済新報社刊)に依ると、「ロンドンでビールを注文してまず驚くのは、泡なしのぬるいビールを出された時だ。エールはもともと常温で造られていたので、泡がなく、ぬるいのが常識だ。しかし、飲んでいるうちに旨いと思うようになるから不思議だ。ところがもっと驚くことがある。アメリカの中西部のセントラルのホテルのバーで生ビールを注文すると、冷凍庫で霜がつくほど冷やしたジョッキに、零度近くまで冷却したビールを注いでくれる。
 ビールの冷え具合については各自の好みもあろうが、夏場なら7〜8度、冬場なら9〜10度といわれている。しかし、酒造りの技術と酒の飲み方は長い年月をへてその地域の生活や文化や気象と密接に関連してきたものなのだ。
 ドイツの冬は寒い。メルセデス・ベンツで有名なシュトゥットガルト(Stuttgart)では冬にはビールを燗して飲む。
 ラガーケラー(貯酒室)の班長は愉快なおじさんで、寒さに震えている私をケラーの裏手へ連れて行ってくれた。そこには湯の入ったバットがあり、その中に10個ばかりのビールの入ったジョッキが漬けてあった。班長のやるとおりに、小さな玉ねぎをかじりながら燗をしたビールを飲む。体が温まってくる。地獄に仏とはこのことだと感じた。
 ビールを温めて飲むことを知ったのはこの時が初めてであったが、注意してみていると、宿のレストランでも寒い夜はビールを暖めて飲む人がいることを知った。宿の主人に頼むと、直径2センチぐらいのステンレス筒に湯を入れてくれる。この筒でジョッキのビールを攪拌していると、次第にビールの温度が上がってくる。日本酒やワインの醸造の際に使う“だき”(暖気)とそっくりだ。(中略)葡萄酒の製造でも健全な?(酵母)を作ることが、旨い酒造りの第一条件だ。酵母には適温がある。したがって酒造りの温度管理は重要だ。酵母は温度が下がると湧付きが悪くなる。温度を上げてやるための古典的な方法が“だき入れ”だ。ひらたくいえば、昔風のこたつ、すなわち湯タンポを?樽の中へ入れてやるのである。これを称して“だき”を入れる、という。
 「ビールはどうも腹がふくれる」といって避けられるお年寄りがおられる。(中略)年を取るとどうしても胃腸が弱くなる。その一因は、消化酵素の分泌が少なくなることだ。酵素にも適温があって、温度が低いと活性が下がる。ただでさえ少ない酵素を冷たいビールで弱らせるのだから、消化不良を起こすのは当然だ。お年寄りにはビールを暖めて飲むことをお薦めしたい。
 もちろん、ビールを暖めると、ビール本来の香味は失われてしまうことはやむおえないことだ。しかし英国ではなまぬるいビールが飲まれているし、アメリカ人は氷水のようにビールを冷やして飲む習慣がある。
 所変われば、ビールの飲み方もさまざまだ。だから、ビールを暖めて飲むこともけっしておかしくはないのである。ただし、瓶ごとあるいは缶ごと湯につけるのは絶対にしないこと。必ず開栓してから暖めること。そうでないと、ビール中の炭酸ガスが膨張して爆発する。」 
 又、ベルギーでは冬はホットビールが当たり前。暖めて砂糖やシナモンをプラスし、ホットビールとして楽しむのがベルギーの定番という。

    7月30日(火) MUNCHEN-LANDSHUT−REGENSBURG
 ホテルでニュルンベルク方面へ行く道を教えてもらい地図上に落とす。道筋をたどり、郊外で高速道路に乗り、一路ニュルンベルク方面へと向かう。
 やがてミュンヘンの新名所、オリンピック公園(1972年夏に開かれた第20回オリンピック大会会場跡)に立つドイツナンバーワンの高さを誇る高さ290bの巨大なテレビ塔、オリンピック塔を右手に見て一路レーゲンスブルクを目指して走る。
 以前著者から戴いた鈴木成高著「中世の町」(東海大学出版会)に「ランツフートには中世の街並みが残っていていい町である」と書かれていたので、途中の町でもありその面影を見たくて一寸立ち寄ってみることにした。
中世風の家並みが残る城下町/写真転載不可・なかむらみちお  街はずれの駐車場に車を置き、歩いて町へ行く。レーゲンスブルクから南に67qのLandshut(ランツフート)の町には二つの城があり、シュタットレジデンツは現在郷土博物館と美術館になり、トラウスニッツ城は古い城塞がルネサンス風に改築されたもので、この城のバルコニーからの町の眺めが美しい。城壁がなくて町の後の丘に城がある。つまり城下町というわけになる。どういうわけか、町には南独に多い木組み造りがほとんどなく、北独風の破風屋根の中世風家並みが延々と続いている。いずれにしてもランツフートはいい町である。
 ドナウの流れに大伽藍の影を落とすRegensburg(レーゲンスブルク)はミュンヘンの北140qのところにある美しい古都だ。ローマ時代からのドイツ屈指の都市である。
ドイツで最も古い石橋/写真転載不可・なかむらみちお レーゲンスブルク  歴史は古く、古代ローマ時代、ドナウ川沿いの重要な砦として築かれたこの町は、東西を結ぶ交通の要路にあり、中世に入ってからは商都として繁栄した。その上、この街は永い間戦禍を受けていないので、大聖堂を中心とした旧市内には至るところレンガ色の古い建物や貴重な文化財が昔の姿をとどめ、2000年間変わらぬ町とドナウの流れ、狭く曲りくねった石畳の道、昔のままの落ち着いた雰囲気を残している。このレーゲンスブルク大聖堂合唱団は世界的にも有名で、来日したこともある。
 私達はこの町に今夜の宿を取ることにした。世紀前から栄えた街や中世からの街中は迷路のようで、車一台しか通れないような小路を肝を冷やしながらウロチョロ。ほとんどが一方通行で、市内に入ってから目的のホテルを捜すのに大変苦労した。
 チェックインを済ませた後、早速街に出る。市街はドナウ川の右岸に造られ、旧市庁舎の先、ハイド広場から左手のヒンター・デル・グリーブの小路に入れば、古い半木造の家々が興味深い。また旧庁舎の中央下の道路をくぐって、北のドナウ河寄りの一帯の古い家並みを見て歩くのも面白い。その他ドームのすぐ北裏手のローマ城門跡、ポルタ・プレトリアもなかなか良かった。
 ゆったりとしたドナウ川の流れに架かるドイツで最も古い石橋Steinermebruckeを渡って、対岸から町を眺める。ドナウ川を挟んで眺めるドームを中心にした旧市街の景色は息をのむばかりだ。
 とにかくレーゲンスブルクという町は、飾り気のない、観光地臭のちっともない、しかも一種ロマンティックなムードを漂わせた町である。
 夜は大聖堂からドナウ河畔へ出たところにある半野外のレストランHistorische Wurstkuche(ヒストリッシェヴェストキュッヘ)で名物のレーゲンスブルガー・ヴルストというソーセージでワインを楽しんだ。この店は「歴史的ソーセージ料理店」という意味で800年の老舗とか。ドイツで一番古いソーセージ料理店といわれる。小さい焼きソーセージが絶品であった。

    7月31日(水) REGENSBURG−NURNBERG-BANBERG
 ミュンヘンから160q、神聖ローマ帝国の皇帝城のあった町Nurnberg(ニュルンベルク)は人口約50万人。ミュンヘンに次ぐバイエルン州第二の都市である。
ニュルンベルク  ワーグナーの名曲「ニュルンベルクのマイスタージンガー(名歌手)」や、第二次大戦のナチス戦犯に対する「ニュルンベルク裁判」で日本にも知られている。ドイツ中世の面影をよく留めた美しい古都である。今日ではドイツ有数の商工業都市として重きをなしている。
 この町のはじまりは十一世紀の半頃、現在町の北側を占める岩山に王侯が城を築いたことに始まる。そしてこの城は十五世紀まで使われていた。十五世紀の半頃には中世城郭都市として、ドイツでも屈指の頑強な城壁を持ち、外敵の侵入を全く許さない構えを見せていた。この城壁、城門の大部分が第二次大戦で壊されたのだが、最近では大部分が復興された。十五世紀から十六世紀にかけてこの町は黄金時代を迎える。ルネッサンス期の芸術家達が大活躍をし、町の商工業も発展した。特に学術、美術、音楽の面でこの都市の果たした役割は大きく、世界最初の地球儀を作ったマルティン・ベハイムなど有名人を数多く生んだことは意義深い。音楽においては、いわゆる「マイスタージンガー(職匠歌手)」たちがその名声を競い合って、ドイツの音楽の発展に大いに貢献した。ワーグナーの「名歌手」の主人公ハンス・ザックスは、この町に実在した靴屋であり、詩人である。
 ドイツで最も美しい中世都市、と謳われたニュルンベルクだが、第二次大戦中には壊滅的な打撃を受け、十四、十五世紀頃の貴重な建物の多くを失ってしまった。しかし、今日ではその大部分が復旧され、再び古都の昔を忍ばせてくれる。そして、ヒットラーがかつてナチス党の力を誇示する為に、1933年に盛大な党大会を開催して世界に脅威を与えたこの都市は、やがてニュルンベルク裁判によって「ナチスの墓標の地」となった。
 ヨーロッパの都市は駐車が難しい。城壁内部の旧市街の大部分は外部の車は乗り入り禁止になっている。駐車場のPマークが入っている詳細な市街地図を入手し、目的地と駐車場の位置をあらかじめ確認してから市内に入って行くようにした方がいい。観光するだけなら、旧市街でPマークに従い駐車場を見付けて車を置く。駐車場にはパーキングメーター、パーキングチケットを使用する路上駐車と、屋内・地下駐車場がある。路上駐車場の場合、曜日や時間帯によっては駐車禁止になるところもあるので、駐車の際には標識をよく読まなければならない。
 ニュルンベルクは、強固な城壁に囲まれ、ドイツ城郭都市の典型であった。中世都市として最も大規模で堂々とした城壁を今日まで伝えている。城壁は大体二重の構造となり、上部には道路が設けられ、外側には外敵の侵入を阻む深い堀がめぐらされている。
 町の名所・旧跡は、ほとんどが市の中心部をぐるりと全長5qにわたる城壁に囲まれた旧市内に集っている。ペグニッツ川が東西にその中央を流れ、北岸は城山まで大きな斜面をなしている。中央駅は旧市の南東はじにあり、主な部分はここを起点に徒歩で見て歩くことも出来る。
 車を聖ローレンツ教会の近くの駐車場に停めて街の見物に出かけた。聖ローレンツ教会は市最大のプロテスタント寺院で、ゴチック様式大建築。聖堂前面の丸い「バラ窓」の美しさは特筆すべきもの。天蓋から祭壇上に吊るされたファイト・シュトス作の「受胎告知」の木彫が素晴らしい。
 旧市街の中央を東西に流れるペグニッツ川を境に、市は南と北に分かれる。ケーニヒツ通りに架かるムゼウム橋に立てば、右手に十四、十五世紀頃の古い聖養老院が川面をまたいで中洲に渡って建っている。
 川のすぐ北には旧市の中心である中央広場があリ、その北寄りの一角に、幸福をもたらすと言い伝えられているゴチック式の美しの泉、Schoner Brunnen(シェーナー・ブルンネン)がある。泉といっても彫刻に飾られた高さ17bの八角形のピラミットの塔で、その下から一種の筧で水を汲み出すようになっている。塔の周囲には、七人の選帝侯を初め、旧約聖書の預言者や、中世の英雄の金色の像が飾られている。塔の鉄柵に金色の環がはめ込まれていて、これは職人の技術の高さを誇るシンボルだった。“3回環を廻す間に願い事をし、人に打ち明けなければそれが叶う”という言い伝えがあり、大勢の人で賑わっている。このシェーナー・ブルンネンから広場正面のフラウエン教会を望むのは、古都ニュルンベルクの代表的風景である。
カイザーブルクの城門/写真転載不可・なかむらみちお  町の北側の岩山は近づくと相当な勾配を持っている。この西側はKaiserburg(カイザーブルク)、即ち皇帝の城と呼ばれる十一世紀の城郭で、いろいろな建物がある。十一世紀から十五世紀にかけて王侯達が住んでいたところ。壊れたのを1936年に復元したものもある。又、第二次大戦で破壊されたが、戦後精密に復元された。公開されている。
 岩山を登って城門を入ったすぐ右に十六世紀の城の塔で全く飾り気のない無愛想なスタイルのジンベル塔がそびえている。塔上に登れば、渋いレンガ色の古色に満ちた家並みの彼方に堂塔、伽藍が霞む古都ニュルンベルクの眺めが素晴らしい。塔の下の城の様子も良く分かる。この塔のすぐそばに井戸の家がある。この中の井戸の深さは約60bという。ヨーロッパでも日本でも水のない城は居城としては使えないし、また水の出ないところに城は造らない。
カイザーブルク/写真転載不可・なかむらみちお  ジンベル塔からさらに内門を入るとホーエンシュタウフェン家の居城だった居館がある。城内は大広間、騎士の間、その他がある。このカイザーブルクの辺りが最も良くニュルンベルクの中世の面影を残すところである。
 ニュルンベルクといえば直ちにナチス党党首でドイツ総統のアドルフ・ヒトラーの依頼によりニュルンベルク党大会の記録映画『意志の勝利』(1935年)を製作監督したレーニ・リーフェンシュタールを思い出す。整然たる映像美、その映像の美しさは例えようがなかった。この映画は後にパリ国際博覧会で金メダルを獲得している。

 ※ 映画の世論形成威力を認めてこれを積極的に利用しようとした人物としては、第一にロシア革命におけるレーニンが挙げられなければならないだろう。彼は映画産業を国有化し、革命のイデオロギーを普及する為に映画を特に重要視した。
 ナチス・ドイツでは、映画制作に関してはソヴェトのそれに模倣した面が多いが、ヒットラーは特に記録映画を重視し、しかもみずからその主役を演じて自分自身を英雄化することに積極的であった。ベルリンオリンピックの記録である「民族の祭典」(1938)や、ナチス党大会の記録である「意志の勝利」(1935)がそれで、そこではナチスの力を誇示する巨大な儀式が、ヒットラーの神秘的な力によって運営されているというイメージが造り出されていた。(佐藤忠男・「現代映画事典」株術出版社)

 Leni Riefenstahl(レーニ・リーフェンシュタール 1902年〜)
 リーフェンシュタールの映画人としての手腕は疑いようもなく、とりわけドイツのナチス党からの全面支援を受けて製作監督をした『意志の勝利』、『オリンピア』で駆使された稀有な映像技術、また移動カメラを初めて本格的に使用したなど、表現力とセンスは後の映画界に大きな影響を与え続けている点は正当に評価されるべきである。これらの作品がナチス党による独裁を正当化し、国威を発揚させるプロパガンダ映画として機能したという理由から「ナチスのプロパガンダ映画製作者」として忌み嫌われ、戦後長らく黙殺された。
 1970年代以降、アフリカ・ヌバ族の人びとを撮影した写真集と水中撮影写真集を出版して話題を撒いた。

 ニュルンベルグの街の中の駐車場では無料と思ってうっかり停めた駐車場が実は有料で、パーキングチケットをフロントガラスの見える所に貼って置く仕掛けであったが、それを知らずに駐車したため、駐車違反に問われ、罰金10DMを地元の警察まで行って“寄付”してきた。罰金を納めて警察署を出る時、応対した若い警察官が片手を挙げて片言の日本語でニッコリと、“アリガトウ、バイ、バイ!”と言って見送ってくれた。ほろ苦い思いを噛み締めて次の目的地バンベルクへと車を走らせる。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Bamberg(バンベルク)
川の西岸に立ち並ぶ古い家々/写真転載不可・なかむらみちお  ニュルンベルクから北へ60q、バンベルクは中世のたたずまいを現在に残すドイツ屈指の古都の美しさに輝く人口7万5千人の静かな小都市である。この町が有名なのは旧市街の丘に聳え立つ四本の巨大な尖塔を持つ聖堂によってである。ドイツ・ロマネスクの最高のものとされている。その聖堂もさることながら、この町の旧市街地区は、タイムスリップしたかのような小路に沿う家並み、石畳の道。その古雅な風格において、捨て難いものを持っている。風景としては逸すべからざるものであろう。
 又、バンベルクの名を高めているものに、ドイツ三大交響楽団の一つ、バンベルク交響楽団があり、ベートーヴェンを演奏したら天下一品といわれている。昭和43年に来日したことがある。
 今夜はこの小さな田舎町に一泊することにしている。理由はこの町の大聖堂に典雅な理想の騎士の姿を描いたドイツ中世美術の最高傑作のひとつといわれている彫刻、「Bamberger Reiter(バンベルクの騎士)」をひと目観たかったからである。私はこの貴重で有名な彫刻を撮影したくて今宵はこの町に宿を取った。
 昨日、レーゲンスブルクのホテルから旧市内に在る「HOTEL IBIS BAMBERG」(THEATERGASSEN 10 96047 BAMBERG)を予約してもらい、予約確認書を持参しているから安心だ。ホテルの駐車場に車を停めて、妻だけがホテルへ行く。やがて帰って来た妻が、「この予約確認書では満室で予約が取れていない」と言う。一体どういうことだ! しかし、偶々キャンセルが出たのでOKとのこと。ヤレ、ヤレ。言葉が分からない、字が読めないということは不便な事だ。このホテルは観光地点にも近く、利用するのには便利なところにある。Twinで120・00DMであった。
理想の騎士像バンベルクの騎士/写真転載不可・なかむらみちお  何はともあれ、妻をホテルに残して早速ひとりで“バンベルクの騎士”に会いに行く。町の西の丘、ドーム広場にそそり立つDom(ドーム=大聖堂)は、1237年に現在の建物が完成。ドイツ・ロマネスクの最高のものとされている。四本のロマネスク風高塔が珍しい。堂内には貴重な美術品が多く、中でも1230年頃に作られた東祭室の角柱に沿って立つ「Bamberger Reiter(バンベルクの騎士)」の典雅な像は当時の理想の騎士の姿を描いた彫刻で、ドイツ中世美術の最高傑作のひとつとされている。永年憧れていた君にようやく会うことが出来た。持参した三台のカメラを縦横に駆使していろいろな角度やテクニックで撮影した。ホテルに帰ると、妻はその間に街へ行き商店街をぶらついてきたと言う。
 バンベルクでもう一つ忘れてならないもの、それは小さいバンベルク風ソーセージである。いうなれば日本のウィンナソーセージみたいなものだが、中身の材料が違う。それにLaufbier(ラウフビーア・煙のビール)という色の濃いビール。これは原料の麦をいぶすので独特の煙っぽい変わった風味がある。いわば燻製ビールとでもいおうか。その名物を味わう為にふたりでぶらりと宿を出た。
 バンベルクで気軽にバンベルク名物ラウフビーアを飲める店「SCHLENKERLA」は、レグニッツ川に掛かる橋からDOMINIKANERSTRをドームに向かっておよそ100b歩いた右側(DOMINIKANERSTR.6 96049 BAMBERG)にある。地元の人々も飲みに来る庶民的なレストランで味も良く値段も安い。バンベルグ風ソーセージもある。このビールとソーセージのコンビが絶妙に良く合う。ふたりでHARZEN FASS 3.20、BRATWURSTE GEBR・7.50だった。この後、妻はもう少し市内を散歩すると言うので、私ひとりで市内のレグニッツ川付近を観光してみる。
川の中州に建つ旧市庁舎/写真転載不可・なかむらみちお  バンベルクは中世来の古都、マイン川の支流、レグニッツ川を挟んで発達した町は十世紀当時の家も残っている。第二次大戦でもひどい破壊を免れた。この流れに沿う家並みには「ドイツの小ヴェネチア」とも呼ばれる旅情が漂う。ウンテレ・ブリュッケから下流を望めば、西岸に立ち並ぶ漁師の古い小さな家々が見事である。
 旧市庁舎はレグニッツ川の小さい中州に建ち、橋で両岸と結ばれた風変わりな古い建物。とっても美しくてロマンティックな建物で、よく絵葉書やポスターで見かける。北側のフレスコ画で装飾された中心部と、南側川面に突き出た半木造木組みの部分とのバランスが面白い。

    8月1日(木) BANBERG−COBURG−WURZBURG−FRANKFURT
 バンベルクから更に50q程北にコーブルクの町がある。コーブルクの手前およそ10q付近でアウトバーンが途切れ、一般道路になる。旧東ドイツに近付くほど道は貧弱になってきた。

   Coburg(コーブルク)
 コーブルクは人口4万人余りの小都だが、城は巨大である。この街に入り、町のセンターに出て城へ行く道を見つけ、城門に着いた。
巨大な城フェステ・コーブルク/写真転載不可・なかむらみちお  フェステと呼ばれる城塞は、町を望む山上にあり、二重の城壁に囲まれた巨大な城で、ドイツの強固な城の一つに数えられた。ドイツでも屈指の大城塞といわれるFeste Coburg(フェステ・コーブルク)は12世紀の創築である。その城地は古代の城郭都市の大きさにも匹敵する。城門の辺りは厳めしくて、いかにも城塞の感じである。しかし城門を抜けて中庭に出ると、見違えるような木造の居館がある。1530年に宗教改革のマルティン・ルターがローマ教皇の追及をのがれて城主ザクセン候の保護の下に一時身を隠していた部屋もある。数多い建造物はそれぞれ博物館、美術館として公開されている。この城内の大広間にある武具甲冑のコレクションは有名である。
 ドイツを旅して、ドイツの城を見ていると、北と南ではその建築様式にそうとうな違いがあることが分る。それは北国のドイツ人と南国のドイツ人との性格的な相違とも関係があるそうだ。城を見ればその風土の特色、歴史、そしてそこに住む人達の性格まで知ることが出来る。
 コーブルクからは再び一般道路をSchonungenまで行き、そこからアウトバーンで一路ヴュルツブルクヘ進路を取る。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Wurzburg(ヴュルツブルク)
 ロマンティク街道の北の出発点、ヴュルツブルクはフランクフルトから東に約100q、人口十二万人余りだからほぼハイデルベルクくらいの都市である。古城と宮殿と大学とマイン川とそれに架かった橋の町である。
マリエンベルク/写真転載不可・なかむらみちお  この町の歴史は古い。ローマ時代には北辺の基地の一つであったが、それ以前から原住部族の城塞があった。左岸の丘はMarienberg(マリエンベルク)と呼ばれ、古くからの城だが、ここに城塞が築かれたのは12世紀の終り、大僧正の城としてである。その後15世紀から大城塞になり、17世紀の頃にはドイツの最も強力な帝国城塞であった。
 1402年に設立された大学では、]線発見のレントゲン、そして幕末長崎オランダ商館医であったシーボルトらも学んだと言う。
 私は、1981年5月11日にも一度来てここに滞在している。車をマイン橋近くの駐車場に入れて城を写しに行く。妻は近くのデパートを見物しながら待つと言う。
アルテ・マイン橋の彼方にマリエンベルク/写真転載不可・なかむらみちお  マイン川に架けられたAlte Mainbrucke(アルテ・マイン橋)は18世紀に造られた石造りの古い立派な橋である。橋の上に立つ11人の見事な聖者像が道行く人々を見守っている。その彼方,高い丘の上に聳えるのはマリエンベルクの要塞である。マイン川に沿った丘に聳えるFestung Marienberg(大城塞マリエンベルク)は、古くからケルト人の砦であり、ローマの城塞に受け継がれた。1253年から1720年まで大司教の住居であったこの要塞は、中世の城壁で囲まれている。ドイツの代表的な中世風大城塞である。
 城門から更に内部の城門まで丘のスロープを200m近くも登った。登って見れば素晴らしく大きく、古色に満ちている。城内には後期ゴシックの代表的な彫刻家の一人であったリーメンシュナイダーの晩年の作品の素晴らしいコレクションがある。現在、城の建物と博物館は公開されている。
ヴュルツブルクの町が一望/写真転載不可・なかむらみちお  城の周辺は一面のぶどう畑で覆われている。城の前のテラスからはマイン川とヴュルツブルクの町が一望のもとに見渡せる。城に所属するぶどう畑から造ったワインを城内のビュッフェで飲ませている。
 この辺で造られているワインをFranken(フランケン)ワインという。フランケンとはヴェルッブルクを中心とするマイン川一帯の地区を指す。フランケンのワインの特色は風味がラインやモーゼルの支流のワインとは異なり、色もやや濃いめで、香りは柔らかくやさしい芳香だが、ちょっと渋味があって味わいは力強くやや硬い辛口が多い。ドイツワインの中でも最も男性的な味香を誇っている。そのため左党や通人に親しまれる。その味わいがドイツワインの中ではフランスのブルゴーニュの白などに比べられる。もうひとつの特色はフランケンワインが通常、ボックスボイテルと呼ばれる丸型でやや扁平な緑色の瓶に入れられているという事である。この形の瓶はドイツの他の地方では全く見られないから一目で見分けがつく。主なる生産地はヴュルツブルクの南西32qにあるTauberbischofsheim(タウバービショフハイム)である。この近くの人口僅か360人のBeckstein(ベックシュタイン)村では年間五百万gのワインを生産しているという。
 橋の東側には現在ドイツの最大のバロック風宮殿Residenz(レジデンツ=館、宮殿)がある。特に正面のレリーフ像が美しい。城の進化した宮殿がヨーロッパでもドイツが多いのはドイツが連邦国家であった頃の名残かもしれない。
ヴュルツブルク  ヴュルツブルクからはアウトバーンに乗り、車を借りたフランクフルト・マイン国際空港へと向かう。車での行動の最後の行程である。ここで事故を起こしては元も子もない。油断は禁物、慎重に行くことにする。
 ドイツの道路はよく整備されており、案内標識が見易く、その上ドイツ人ドライバーは規則にのっとった運転をしているので走り易い。
 ヴュルツブルクを出て間もなく前方に車が数台停まっているようだ。ブレーキを掛けで徐々に速度を落とすと共にハザード・ランプを点滅(フラッシュ)させて後続の車に注意を促す。事故らしい。その脇をすり抜けて進む。更に進むと又も事故現場に出くわした。事故だけはご勘弁。
 やがて道路幅がひときは広くなってきた。第二次世界大戦の時、ヒットラーは軍用機を離着陸出来る事も含めてこのアウトバーンを作ったと聞いたことがある。ドイツ軍はパラシュート部隊を乗せたグライダーを何機も直列に繋いで出撃するニュース映画を見たことがある。きっとこのアウトバーンを利用したのかもしれない。
 フランクフルトが近付くにつれて果たして車を借りた国際空港へ巧く行き着くことが出来るのかどうか不安になってきた時、道路標識に飛行機のマークが描かれているのを見付けてひと安心。
 一番心配していた交通事故を起こさないで最終目的地フランクフルト・マイン国際空港にゴールインして無傷で車を返却した時は妻と抱き合って喜び、おいしいソーセージとビールで乾杯した。全行程走行距離3666q。さて、次はスペインのコスタ・デル・ゾルでも走ってみようか…。
 フランクフルト・マイン国際空港は、フランクフルトの南西約9qのところにある。空港の地下には空港駅があり、フランクフルト中央駅方面行のSバーン(都市近郊電車)やマインツ、ケルン方面へのIC特急が運行している。フランクフルト・マイン国際空港からフランクフルト中央駅方面行のSバーンに乗ろうとしたらホームに降りる前に自動券売機で切符を買わなければならない。買い方が分らないので、妻をホームに残して階段を駆け上がり、窓口を探してようやく買うことが出来た(料金5.70DM)。列車が来たのでドアの横のボタンを押して扉を開いて乗る。下車する時は自分でドアのハンドルを引く。
 今宵の宿はバンベルクの「HOTEL IBIS BAMBERG」から予約して貰った系列の「HOTEL IBIS」である。マイン川の畔に在り、フランクフルト中央駅からも近いのでホテルまで歩いて行くことにした。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Frankfurt am Main(フランクフルト)
 ライン川の支流、マイン川の流れるフランクフルトはドイツ経済の中心都市。二千年前に、ローマ人が開いた。水陸交通の要所に位する為、中世以来、ドイツの商業と金融の一大中心地として栄えた。現代に至っては、昔の伝統をそのままに受け継いで、西ドイツの金融の中心地であるとともに化学、機械、電気工業が目覚しく発達した。又、中世から見本市都市として知られている。文豪ゲーテの生まれた町でもある。

    8月2日(金) FRANKFURT滞在
 日本を発ってから今日で22日目になった。そろそろ日本食も恋しくなってきたが、こちらに来てからは全く新聞もテレビも見ていないので今世の中で何が起きているのかどう動いているのかさっぱり分らない。今日はフランクフルトの街をふらつく以外には特に予定はない。そこでゲーテ広場の近くにあるJCBプラザの事務所を訪ねて最近のニュースを訊き、日本の新聞を見せて頂くことにした。
 フランクフルト中央駅前からカイザー通りを歩き、ショッピング街を町の中心地へと向かう。途中のグリーンベルト地帯に偉人の像が建っている。ゲーテの記念碑、シラー記念碑、ハイネ記念碑、ベートーヴェン記念碑と訪ね歩き、最後にマーシャル噴水のところから引き返してきた。
ゲーテの家の一室/写真転載不可・なかむらみちお  旧市街の中心に近いグローサー・ヒルシュグラーベンという小路にゲーテの家がある。Johann Wolfgang von Goethe(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)は、1749年にこの家に生まれた。彼が青年期までを過ごしたこの家は、第二次世界大戦の戦禍のためにひどく破壊されたが、市民の努力によって再び昔通りの姿に復元された。この家はかなり立派なもので、十八世紀のフランクフルトにおける上流階級の生活を良く物語っている。ゲーテはここで『若きヴェルテルの悩み』を書いた。戦時中疎開によって救われた当時の貴重な家具調度品や什器等を揃えて、忠実に昔を再現している。この時代の文化や風俗を知る上でも興味深い。
 ゲーテ広場近くには目の前にBFCの高層ビルやモダンな劇場が建ち並ぶ。市内地図に目印を付けておいた付近でJCBプラザの看板を探してみたが見付からない。付近の人に訊ねてようやくあるビルの入口に貼り付けてあった小さなプレートを見つけた。エレベーターに乗り、事務所に辿り着くことが出来た。話を訊いてみると、この付近は市の条例が厳しくて簡単には看板を出すことが出来ないのだとのことであった。
 久し振りに日本茶などを頂きながら訊ねると最近日本でも世界でも特に大きな事件事故はなかったようで一先ず安心。日本の新聞を見せて戴いた後事務所を後にする。
 フランクフルトの飲物にはビールのほかに市の名物としてやや酸味のある淡い味の軽いアルコール飲料であるリンゴ酒がある。ビールと違って飲んでも太らないそうで、愛飲する人が多い。途中の居酒屋風の店に立ち寄ってそのリンゴ酒を飲んでみた。ちょっぴりすっぱくて、最初は馴染みにくいが、飲むほどに口に合ってぐいぐい飲めてしまう。(飲み過ぎに要注意!)。
 ホテルのフロントで教えられたフランクフルト駅前のレストランDippeguckerへと向かう。店はすぐに分った。市の名物として世界中に名の通っているものはいうまでもなくフランクフルター・ヴルスト(ソーセージ)。ドイツ人はソーセージだけを焼いたり、ゆでたりして辛子を付けて食べるのが普通。まず、フランクフルト特産のBrauというビール(Henninger Gerstel)で乾杯。茹でた15p級のソーセージ、リップヒェン(豚の塩蒸し)、マッシュポテト、それにサワークラウト(キャベツの酢漬け)の盛り合わせ。マスタードをたっぷり塗って食べた。シコシコした歯ざわり、いやみがない。洗練された豚肉の美味しさとスパイスの香りが口いっぱいに広がった。ピリリと微妙にスパイスが利いていて、まさに“肉”を食っている感じ。「ウマイ」。これが本場の味、か。
 肉はハムにも使える上質の豚100%。牛や羊を混ぜてはいけない。化学調味料は一切使ってはならない。羊の腸に詰める。独特の匂い、それはウナギの燻製の匂いに似ていることであると言う。日本のフランクフルトは名前だけ。考えてみればソーセージ料理といっても焼くか、茹でるか、そのまま食べるか。別に華麗な包丁捌きや深淵微妙な味付けなど必要はない。実に手軽で簡単な、言って見ればインスタント料理の“元祖”みたいなものである。

    8月3日(土) FRANKFURT O9:00−RUDESHEIM
フランクフルト  フランクフルト中央駅のホームでケルン方面行の列車を待っていると、妻が昨夜立ち寄った駅前のレストランDippeguckerで支払った時にクレジットカードを返して貰わなかったと言い出した。店はここからは近いが、果たしてこんな時間に店が開いているだろうか。列車の出発時間までには未だ間がある。ともかく私がここで荷物番をしているから一応行ってみようと言うことで妻を送り出した。やがて帰ってきた妻は、店は開いており、昨夜の女の会計係が居てカードを突き返してきたと言う。まぁ、一件落着で良かった。

目次へ   ↑ページの一番上へ

   RUDESHEIM(リューデスハイム)
ドロッセル・ガッセ/写真転載不可・なかむらみちお  ローカル線でリューデスハイムに着いた。駅を背にして右に5分程歩く。今日泊る「Hotel Post」は前回泊った時に予約してある。ドロッセル・ガッセ入口の角にあるおみやげ屋の店の中を通りフロントに行くとお母さんが愛想良く迎えてくれた。早速日本語を話せるお兄さんを呼んでくれた。今回の部屋は前回よりも一つ奥の別棟の部屋に泊めてくれた。このお兄さんの奥さんは日本人で、いろいろと話をしている内にすっかり仲良しになった。お土産売場でこの地方で使われているワイングラスを記念に一個買う。(壊さないように日本まで持って帰るのが悩み)。
リューデスハイム/写真転載不可・なかむらみちお  時間が早いので早速近くのリューデスハイムの城(ワイン博物館)を見に行くことにする。河岸にある古城、Bromserburg(ブレムザーブルク)は中世の城塞だが、今は城内が博物館になっている(5DM)。周囲はぶどう畑に囲まれており、有名な農夫の収穫の像や庭には古い搾機もある。館内にはワイン造りに必要な道具や各時代の様式で作られた貴重なワイングラスなどワインに関する豊富な資料が並べられている。展示物を見ている内に妻が遅れて離れてしまった。階段を上がるとワインを飲ませるコーナーがあった。その内に来るだろうと思ってグラスワインを二杯注文して待つ。一杯8.00DM。いくら待っても来ないのでひとりで2杯を飲み干して下に降りてみた。彼女はあまり興味がないらしく途中で引き返したとのことであった。
ラインの眺めが素晴らしく美しい/写真転載不可・なかむらみちお  ぶどう畑をかすめるようにして丘へ上るチェア・リフトに乗る。ラインガウのぶどう畑、そしてリューデスハイムのしっとりとした家並みの向こうに、ラインの眺めが素晴らしく美しい。1871年のドイツ統一を記念して、1883年に建てられたゲルマニアの女神の立派な記念碑が建っている展望台ニーダーヴァルトまで登って引き返してきた。この碑は全ゲルマン民族統一の象徴とされている。
 ドロッセルガッセ(つぐみ通り)の突き当たりを左手に行ったブレムザー館には自動演奏楽器コレクションがある。妻が見たいと言うので入ってみる(8.00DM)。5人以上集ったら順番に案内人に案内されて中に入り、演奏を見せて貰う。
 夜はドロッセル・ガッセのワイン酒場で地元のワインを飲み、ゴンドラリフト乗り場近くのレストランに行き食事を摂る。壮年ぐらいのウェーターの動き方がロボットのようだと妻が面白がる。

    8月4日(日) RUDESHEIM 10:15-14:00 KOBLENZ -18:00 KOLN
 ライン川は世界的な観光地である。その最もポピュラーな楽しみ方はライン河を上り下りする遊覧船である。中にはスイスからオランダまで数日を要するコースもあるが、通常はボンからマインツ或いはその逆コースを利用する。それはこの間に城が最も多く、景勝の地も多いからである。
 その中流のマインツからコブレンツにかけてのほぼ90qが“ロマンティック・ライン”と呼ばれる名高いコースである。渓谷美と無数の古城群、ぶどう畑、その間に散りばめられた中世以来の古い町などが一体となって、中世の世界さながらのパノラマが繰り広げられる。
ケルン  ケルン・デュッセルドルファー汽船会社の定期船、リューデスハイム10時15分発、ケルン終着18時に乗る。これからライン下りが始まる。ハイネやバイロンが謳い、シューマンが身を投げたライン。ラインの船旅はドイツ観光の目玉。大きなクルーズ船でゆったりと流れる大河を進む船旅は優雅だ。
 リューデスハイムを出た船は背後に大きなニーダーヴァルト記念碑に見送られてケルンへと向かう。流れの中央に出た船は、そのまま下流に向かうのかと思ったら、次第に対岸のビンゲンの船着場へ近付いて行った。ライン下りの船は渡し舟の役割も果たしているのだ。
 ビンゲンを過ぎると川の両側にやたらと古城が現れる。ここからコブレンツまでが、ラインの中でも最も美しく、古城とワインの中を動く絵巻物が展開する。中でもボッパルトまでの間は、圧巻と言ってよい。うっかりすると見落とすほどだ。このラインの遊覧船、上りだと流れに逆らうので比較的ゆっくりだが、下りは相当早い流れに乗っているので城や町を見るのが忙しい。だからゆっくり城や対岸の街などを眺めるのには上りに乗ったほうが良い。また、「ライン・パノラマ・ガイド」という折り畳みの絵図があるからそれと照合しながら見物すると分かり易い。遊覧船にはレストランがあって昼食を摂りながら見物することも出来るが、天気が良ければ甲板のデッキ・チェアでのんびりと食事をしながらライン・ワインの芳醇な香を楽しむのもいいだろう。
ラインシュタイン城/写真転載不可・なかむらみちお  やがてモイゼトゥルム(ねずみの塔)が見えてくる。ねずみの塔に引き続き、すぐその先に美しいラインシュタイン城が見えてくる。この辺りからラインの両岸は山が迫り、渓谷に入ってくる感じである。船の進みにつれて右に左に廃墟の古城が現れては消え、消えてはまた現れる。それらの城はぶどう畑のなだらかなスロープの上に崩れかけた塔を残し、或いはまたお伽噺の国のような川沿いの町の背後に黒々と城壁を聳やかしている。
 ラインシュタイン城のすぐ隣がライヒェンシュタイン城、そしてその次がゾーネック城とラインの左岸は古城が続く。ライン左岸はローマ帝国領だったから、国境守備の為の城塞も当然多かった。それに比べて右岸の町や城は、いずれも中世になってから開発の進んだものばかりと言ってよい。左岸と右岸で歴史がすでに数百年は違う。
 城は廃墟であればあるほど、却ってその城にまつわる伝説や史話を生き生きと蘇えらせてくれるような気がする。イマジネーションを掻き立ててくれるものはいつの場合も完成品ではなく、未完成なものか、或いはすでに滅びてしまったものなのである。そこに“滅びの美”をみる。
 左岸の古城は更にハイムブルク城フュルシュテンブルク城などと続いてバハラッハの街に入る。町の上方にはシュターレック城があり、一千年の歴史を守る美しい町だ。
 山の斜面に古城と教会とぶどう畑と家並みが続く風景を眺め、さまざまな国籍の船とすれ違う。芳醇なドイツワインの杯を上げながら目まぐるしく現れ、そして消えてゆく古城を見ながら、香味高いワインの杯を上げる時、旅の憩いはここに尽きる。城とワイン、そこにドイツの魅力がある。
 今度は右岸に目を転じよう。カウブの村の手前に川中島があり、その中にプファルツ城が建っている。カウブの上方にはグーテンフェルス城がある。
ローレライ/写真転載不可・なかむらみちお  さて、いよいよローレライの岩だ。ここからラインは、いよいよ難所中の難所に差し掛かる。ローレライのメロディが船中に流れる。客が総立ちになって、右手の岩に視線を集めた。船の行く手右側にローレライの巨岩が立っている。岩の上に人魚がいて船人の進路を惑わすという伝説のイメージからはほど遠い巨大な崖である。初めて見たときにはこんな大きな岩に腰掛ける魔女は大変な巨人だなと思ったものだが、ハイネの詩などそらんじている大方の日本人はこのローレライの岩には失望するらしい。「ヨーロッパ三大がっかりの一つ」である。
 船は、「なじかは知らねど心わびて――」情熱の詩人ハイネの詩によりいっそう有名になったこの伝説の岩山を眺めながら行く。ローレライの伝説はこの辺りの水流が激しく、水中に隠れた岩が多く、船の航行の難所であったところから起こった話で、今でも水先案内人のいない船は年間に相当の事故を起こすという話である。スイス・アルプスから流れ出てドイツ、フランス、オランダを縫い、北海に注ぐ全長1320qに及ぶヨーロッパ第一のこの大河で、面白くも可笑しくもないローレライがハイライトなのは、やはりハイネの力以外考えられない。
ブルク・カッツ/写真転載不可・なかむらみちお  ローレライの岩が終ると、同じ右岸にブルク・カッツブルク・マウスが現れる。丁度その反対側に目を転ずると、船はザンクト・ゴアールの町と、その上方に聳えるラインフェルズ城の正面にさしかかっている。
 ボッパルトの町を過ぎるとラインの流れはひどく緩やかになり、波も立てず、船はまるで静かな湖面を滑って行くようだ。左岸はいかにも陽当たりの良さそうな一面のぶどう畑の丘である。この当たりで作られるワインは“ボッパルトハム”と呼ばれ、銘酒として知られる。

マルクスブルク城/写真転載不可・なかむらみちお  船が大きく右に曲がり更にやや左に曲がりかけてくると、正面右岸にひときわ高くマルクスブルク城の勇姿が目に入ってくる。
 ライン下りは、絶対に船に乗らなければその良さは分らない。列車やバスなどでラインを通過しただけでは、このゆっくりと展開するラインの自然と歴史と伝統と音楽の総合美は分からない。例え短区間でもいい、必ず船に乗って地図を広げ、双眼鏡やカメラを駆使し、のんびりと過ごしてみるとラインの良さがしみじみと分る。本当にラインは素晴らしい。
 さて、コブレンツが近付いた。モーゼル川とライン川の合流点だ。ライン下りの船遊びの多くはここで終る。しかし私達はこのまま乗船してケルンへと向かう。ここからはライン川の水は、モーゼルの水と一緒になり、水量も川幅も一挙に増え、船遊びの面白さは激減する。
 コブレンツを出てからケルンまでは、両岸とも開けたところが多く、やや単調となるが、相変わらずライン渓谷の自然美や沿岸の町々が目を楽しませる。これから先の船からの眺めは今迄とは一変して両岸の風景も谷間から抜け出し、ぶどう畑の丘も河から遠ざかる。牧歌的な風景が続く。しかしアンデルナハの町に近付くと河幅は再びやや狭くなる。この町はローマのシーザーがラインを渡河した地点とされている。
 流れ下った船はレマゲンの町の橋の下をくぐる。第二次世界大戦の末期、ドイツは連合軍の進撃を少しでも拒む為にラインの橋という橋を破壊したが、この橋だけは破壊を免れた。そこで連合軍はこの橋から渡河したという。
 ボンを過ぎれば、ライン下りの船は、なおもボンから双頭の大聖堂が聳えるケルンへと流れ下って行くのだが、ラインの城の旅はボンが終点である。
 船は18時、ライン第一の大都会、そして双頭の大聖堂がそびえる古都ケルンへと到着する。およそ9時間余りの船旅を楽しんだ。これで私の望んでいた今回のスケジュールは終った。明日からは妻の希望するスケジュールで観光する。下船した船着場にはタクシーが一台も見当たらない。付近を見渡すと小さな売店が一軒建っていた。中のおばさんに訊くと、電話で呼べばすぐに来ると言うのでお願いした。
目次へ   ↑ページの一番上へ

   Koln(ケルン)
ライン川に面したケルン市/写真転載不可・なかむらみちお  ケルンの語源はコロイア、即ち『植民地』からきているといわれている。その歴史は古く、紀元前50年、ローマと結んだゲルマンの一部族、ウビア族により東北の軍事拠点として建設された。
 ライン川に面したケルン市はフランス風にコローニュとも呼ばれ、ラインランド地方の文化や工業の中心で、ベルリン、ハンブルク、ミュンヘンに次ぐドイツ第四の都市。そしてライン河畔にそそり立つケルンのシンボル大聖堂が象徴するように、長い歴史を誇るドイツ有数の古都でもある。
 今夜のホテルはチェーンホテル「HOTEL IBIS KOLN AM DOM」(HAUPTBAHNHOF・D-50667 KOLN)と決めてある。料金はTwinで165DM。ケルン中央駅と棟続きで、すぐ前がドームである。

    8月5日(月) KOLN滞在
 ケルンのシンボルDom(ドーム・大聖堂)は1248年に起工されたドイツ最大の巨大な大寺院である。市内には古い城壁の一部、中世の塔などが残っている。
 モダンなケルン駅の近くにあたりを威圧するように聳える二つの尖塔は、高さ157b、堂の奥行き144b、幅86bもあり、ヨーロッパ有数の大寺院で、世界屈指のゴシック式建築。その歴史もまことに雄揮で、起工以来実に600年を経て十九世紀に完成されたカトリック寺院である。正面の装飾は特に美しく精巧を極め、堂内には5ヶ所に見事なステンドグラスがあるほか、数々の歴史的な美術品が所蔵されている。
 大聖堂の中に入ると、コーラスグループが歌の発表をしていた。奥へと進むと、私の頭の中にシューマンの交響曲第三番変ホ長調作品97番「ライン」の第四楽章が壮大に鳴り響いた。この楽章は、このケルンの大聖堂で執り行われた大司教の枢機卿昇進の式典を見たシューマンが、その感動を音楽で表したものだそうである。「シューマンは、1850年40歳で、デュッセルドルフへ指揮者として着任した。希望に燃えて新しい土地へやってきた彼は、ライン地方ののびのびとした田園風景に魅せられて、創作意欲を掻き立てられ、着任後わずか4ヶ月でこの曲を完成した」(志鳥栄八郎著「不滅の名曲はこのCDで」朝日新聞社)。CDはバーンスタイン指揮、ウィーン・フィル盤(グラモフォンF35G50301)が好きだ。ここでパイプオルガンに耳を傾けていると、クリスチャンになってもいいという気になる。
 街のメインストリート、歩行者天国のホーエ通りに行ってみる。通りの真ん中ではペルー人らしい人たち5、6人がペルーの民族衣装を着て、ケーナやサンポーニャを吹いたり、太鼓を叩いたりしてフォルクローレ音楽を演奏していた。
 ケルンには「Kolsch(ケルシュ)」というケルンならではの地ビールがある。やや苦味が強い独特のケルシュは「ケルンの」という意味のビールで、細長いおしゃれなグラスに注がれる。ホテルで紹介された「Brauhaus Fruh.」に入り、“Fruh”Kolsch(ケルン産のビール)を飲み、季節の野菜とじゃが芋を添えた豚のステーキを食べた。最後にボーイさんに“Es hat sehr gut geschmect.Vielen Dank.エス ハット ゼーア グート ゲシュメクト フィーレンダンク=とても美味しかったです”と言ったら、“あんたの発音はおかしい”と何度も言い直された。私はこれくらいなら多少自信があったのだが、向かい合って座っていた妻が首を縦に振って得たり顔をしていた。
 オーデコロン(ケルンの水)はこの町の名物である。オーデコロンとは、フランス語で“ケルンの水”と言う意味。「4711」という看板の店が有名である。4711とは、ケルニシュ・ヴアッサー(オーデコロン)が初めて売り出された店の住所を表しており、Glockengasse4711番地、オペラ座正面玄関に向かって右手にある。ここで日本へのお土産を買ってもいいかと思い、行ってみることにする。
 店内にはテステングを出来るコーナーが有った。妻が試してみたがどうも日本人の好みには合いそうにもないと言うことで買うのを止めた。
 一旦ホテルに帰った後、私ひとりで写真を撮りに出かけた。中央駅に近いホーエンツォレルン橋は鉄道橋にもなっていて、ドイツ第二の長橋である。これを渡ってケルン・ドイツ駅へ行く。そこのホームの先端から、大聖堂をバックにホーエンツォレルン橋を渡ってくる列車を撮影する。帰り掛けに突然サイレンを鳴らしたパトカーが来た。発生したばかりの車の衝突事故現場に出っくわし、女性のお巡りさんがテキパキと事故処理をしているところなどをスナップした。又、鉄道沿線の裏小路ではテレビドラマか映画らしいロケが行われており、興味深く見物して来た。
 ホテルに帰ってみると妻が資料を広げて明日から行くところの下調べをしていた。連れ立って大聖堂とインフォメーションのすぐそばにあるレストラン「Alt Koln Am Dom」ヘ行きドームを見上げながらのんびりとケルシュビールを飲み、美味しい食事を戴く。
目次へ   ↑ページの一番上へ

    8月6日(火) KOLN 08:02−11:52 BRUGES

   Belgium(ベルギー)
 ブリュッセルから列車は急行で1時間15分走ると、中世の香り豊かな町ブルージュに到着する。

   Brugge(ブルージュ)
 人口119.000人のブルージュは素晴らしい町である。ほとんど町ぐるみ往時の姿をそのまま残している。中世都市の中でも最も絵画的な美しさを持った街である。
 大西洋と運河でつながるブルージュの町は、十二、十三世紀には西ヨーロッパ第一の貿易港となり、中世ヨーロッパの商業の中心として繁栄した。ノルウエーのベルゲンなどと同じくハンザ同盟都市でもあったが、船舶の大型化に運河がついて行けず、その地位をアントワープや隣国オランダのロッテルダムに譲り、今はベルギーを代表する観光の町になった。
美しいカリオンの音色を響かせる鐘塔/写真転載不可・なかむらみちお  美しいカリオンの音色をフランダースの野に響かせる鐘塔や数ある美術館など見ものは多いが、「愛の湖」というロマンティックな名前の運河に沿って立つベギン会修道院付近の風情は中世と変わらぬ静けさだ。今の中味はベネディクト派の修道院となっていたり、ベルギー名産のボビン編みレースの安いものは現代の交易を証明してアジア産であったりと、古都も変化している。
 駅構内にあるインフォメーションで街の地図を貰い、駅から歩いて10分くらいと近いところにあるのだが、駅前からタクシーで「HOTEL IBIS BRUGGE CENTRUH」(KATELIJNESTRAAT,65A−8000 BRUGGE)へと向かう。このホテルは旧市内にあるため観光に便利である。料金はTwinで480だった。
 チェックインを済ませて早速街に繰り出す。先ず目に付いたのが、レースを売る店、観光馬車。レース店では大きなショーウィンドウにいろいろの形をしたレース編みが並べられているが結構なお値段である。更にその先のベギン会修道院へと足を伸ばす。ここは世界遺産にも登録された修道院で、1245年の創設。現在は十五世紀そのままの修道服を身に付けたベネディクト派の修道女達が暮らしている。途中、高さ約114bの高楼を持つノートルダム教会を右に見てマルクト広場へと向かう。
切妻屋根のレストラン、カフェ、土産物屋など/写真転載不可・なかむらみちお  ブルージュの中心であるマルクト広場は、四方にそれぞれ魅力的な建物を配し、ヨ−ロッパでも五指に入る美しい広場である。南側にはブルージュのシンボルである鐘楼、東にはネオ・ゴシック様式の州庁と郵便局、北側と西側には切妻屋根のレストラン、カフェ、土産物屋、銀行などが並ぶ。
 中心に立つブルージュの英雄ヤン・ブレーデルとピーテ・デ・コーニンクの銅像は、フランスの圧制に対して立ち上がった十四世紀のブルージュ市民の心意気を思わせる。
 ホテルへ戻り、レストランでベルギー名物のビールを飲む。ベルギーでは著名なワインは、全くといっていい程生産されていない。ベルギーで酒といえば、とにもかくにもビールにとどめをさす。ベルギーにはビールの醸造元が約540もあるという。まさにビール天国と呼ぶのにふさわしい。また、それぞれの銘柄には形の異なった専用グラスがあるほど。各ビールの泡や味の特徴に合せて作られている。ベルギー人のビールに対する思い入れが伝わってくる。ベルギーのビール全消費量の75lを占めているのは、日本でもお馴染みのホップの効いた爽やかな味わいのラガータイプで、ベルギーではピルスと総称されている。
 ベルギー名物といえばムール貝。ベルギービールに併せてこの地方の名物Moule(ムール=フランス語でイガイのこと)貝料理を食べる。

 ※Moule=ムラサキイガイの食品・料理上の名前(広辞苑)。紫貽貝=イガイ科の二枚貝。殻は紫黒色で三角形状、殻長は7p。内面は蒼白色。ヨーロッパ原産で、大正末期から昭和初期にかけて日本に移入し、いたる所の内湾にみられる(広辞苑)。

 ムール貝の白ワイン蒸しは、セロリ、ポアローなどを炒め、ムール貝を入れて蒸した最もポピュラーな料理法。やがてバケツいっぱいという感じで豪快な量が出てくる。見ると私が子供の頃田舎の川岸で見かけた烏貝と言った物に似ている。トマトソース、ホワイトソースとバラエティも多い。付合わせは揚げたてのフリッツ。鍋一杯に出てくるムール貝はフォークを使わず、二枚の貝殻で挟んで中の身を取り出して食べるのが、本場の食べ方。私の故郷では帆立貝や牡蠣などがたくさん捕れるので誰もこれを食べる者はいない。

    8月7日(水) BRUGES滞在
広場は青空市で埋まっていた/写真転載不可・なかむらみちお 客とのやり取りが面白い/写真転載不可・なかむらみちお  今日も又マルクト広場へ行ってみる。広場は昨日と変って青空市で埋まっていた。パイナップルやバナナ、ぶどうなどを初め、桑の実のような形をした赤や赤黒いベリーなどいろいろの果物や野菜を販売している。客とのやり取りが面白いのでしばらくの間見物したり8oビデオを廻してみたりした。
 この町の主要な見所としてはまず大広場に建つ鐘楼がある。美しい建物が並ぶマルクト広場でもひときわ目立っているのが、この十三〜十四世紀に建てられた鐘楼。高さ88bの塔へは、366段の石の螺旋階段を登る。妻が一段ごとに数えながら登って来る。それを私が迎え撃つように8oカメラを廻す。すると上から日本語を話しながら人が降りてきた。お互いに挨拶を交わす。「どちらからですか?」と訊ねられて妻が「札幌からです」と答える。私も「最近日本や世界で変った事はありませんか?」と訊ねる。「特に無かったようですね」とのことでひと安心。何しろこちらに来てからは新聞も読めず、テレビのニュースも言葉が分らないから何があっても分らない。お別れしてから妻が「あっ、忘れた」と言う。下から上りながら数えて来た石段の数が分からなくなったと言う。(もう一度下からやり直すか。まさか…)。
ブルージュの町とフランダースの平原/写真転載不可・なかむらみちお  上り詰めた鐘楼の上からは、古都ブルージュの町とフランダースの平原が広がる大パノラマを一望におさめることが出来た。やがてすぐ側にあるカリヨン(組み鐘)が鳴りだした。耳をも劈く大音響だ。総重量27d、47個の鐘が組まれたカリヨンは、ヨーロッパでもその音色は折り紙付き。15分ごとに鳴るカリヨンコンサートでその美しい音色を充分楽しめた。
 帰り掛けの街の通りでここのもうひとつの名物、チョコレート店に寄ってみる。いろいろの形に加工されていてどれを見ても美しい。一種のアートを思わせる。
運河遊覧/写真転載不可・なかむらみちお  フランドルの“水の都”ブルージュ。Bruggeとは“橋”の意味で、町を縦横に流れる運河には、50以上の美しい橋が架かっている。運河遊覧は乗客が集り次第随時出発。屋根のない艀のような船にはベンチ式の木造の座席が船の前方から後まで並んでいる。それに横並びで腰掛ける。一周約35分。北のベニスの異名を持つほど運河が四通八達しており、フランドル風のバロック建築が運河沿いに並んでロマンティックな風情を醸し出している。

目次へ   ↑ページの一番上へ

    8月8日(木) BRUGES-AMSTERDAM

   Netherlands(オランダ)
 「世界は神によって創られたが、オランダはオランダ人によって創られた」と自負されているようにオランダの国土の4分の1にあたる海水より低い土地は、オランダ人自身によって作られた。オランダの国名ネーデルランドは“低い土地”という意味。
 アムステルダムが近付くと、列車の窓からは、道路より高いところにある運河を船が行くのが見えた。オランダに来たという実感が湧いてくる。

   Amsterdam(アムステルダム)
 “北のヴェネチア”と言われる水の都アムステルダム。オランダの首都であると共に人口75万人の大商業都市。北海運河のほとりの中央駅を中心に、放射状に広がる街並み、それを取り巻く蜘蛛の巣状の160の運河網、名物の跳ね橋を含めて500を越える橋、ゆるやかに往来する船―自由商業都市の誇り高いこの町の姿はいかにも端正である。
東京駅のモデルとなった中央駅/写真転載不可・なかむらみちお  私は1981年5月13日にも一度来たことがあり、3日間滞在した。アムステルダム中央駅は、ネオルネサンス様式の美しい建物。巨大なレンガ造りで、東京駅はこれをモデルとしているともいわれる。
 アムステルダムのホテルは「IBIS AMSTERDAM CENTRE」(STATIONSPLEIN 49 1012 AB AMSTERDAM)。料金はTwinで211.00f(為替レートは1フローリン又はギルダー≒117円)。AMSTERDAM駅に向かって左側。屋内駐輪場の隣。ホテルの前には道路を挟んで運河が走っている。新しくて感じが良い。何はともあれ先ず、国立ゴッホ美術館へ向かう。
 オランダの観光案内所の多くはVVV(フェーフェーフェー)と呼ばれ、逆三角形の中にVを三つ重ねたマークが目印。情報サービスの点ではヨーロッパでも特に充実していて、旅行者の強い味方になってくれる。アムステルダム中央駅前広場にもあり、一寸立ち寄ってアムステルダムの市内地図を1枚貰ってくる。
 町を縦横に走る白地に青のストライブのトラム(市電)は、アムステルダム名物の一つ。絵が描かれたトラムもある。大変良く発達しており、すべて中央駅に集まる中央集中方式を取っているので便利である。路線もハッキリしていて分りやすく、観光には一番便利だ。トラムの停留所トラムハルトには路線番号と行き先が表示してある。アムステルダム中央駅前よりトラムの2番に乗り、中央駅前の市営交通案内所で貰った路線が載った交通ガイドで確認してVan Baerlestraatで降りる。
ゴッホ美術館のパンフレット  Vincent van Gogh Museum(フィンセント・ファン・ゴッホ国立美術館)。アムステルダムまで来たからには見逃せないのがこのゴッホ美術館。“炎の人”オランダが生んだ天才画家フィンセント・ファン・ゴッホの主要作品を収蔵していることで知られる。
 美術館はミュージアム広場の一角(POSTBUS 73566 1070 AJ AMSTERDAM)にあり、三階の展示スペースを持つ大きな美術館。ゴッホの作品を含め230点の油絵、500点のデッサンなどを収蔵している。入場料は大人一人12ギルダー50セント。中心となるゴッホ作品の中には、「馬鈴薯を食べる人々」や「自画像」「寝室」「ひまわり」「カラスのいる麦畑」「アルルのハネ橋」「糸杉」などに混じって、日本の浮世絵調の絵として知られる「日本趣味・広重の梅」「日本趣味・雲竜打掛の花魁」などもある。
 又、ゴッホの作品の他にも、一階には、彼と同時代のフランスの印象派の画家モネ、ゴーギャン、ロートレックなどの名作も数多く展示されている。
 一階には、ビュッフェ形式のレストラン「VAN GOGH MUSEUM」があり、お好みの料理、飲み物をトレーに取って会計して貰う。串焼きの肉に蒸したような米の御飯の付け合わせもあるが、焼きソーセージが美味しかった。ビールもあり、グラス1杯2.85FL(フローリン)とジュース類より安いのが嬉しい。一食全部で千円もあれば十分お釣りがくる。レストランの開館時間は10時から16時30分まで。

    8月9日(金) Amsterdam-Alkmaar-Zaanse Schans-Amsterdam
アムステルダム  アムステルダム中央駅から49q。Den Helder(デン・ヘルダー)行のICで約40分。町全体が運河に囲まれた中世の町Alkmaar(アルクマール)は、オランダで一番規模の大きいチーズ市が開かれる町として有名で、内外から多数の観光客が集る。人口は6万人。私は、1981年5月15日にも一度来たことがある。
 駅前のStationswegを右に進み、大通りに出たら左に曲がる。200bほどでBergerbrugの橋を渡って真っ直ぐ行くと、右側に聖ローレンス教会が見えてくる。教会から真っ直ぐLangestr.を行けばすぐ右側に後期ゴシック様式の市庁舎が建っている。さらに進んでHouttilを左に折れるとすぐ、塔のある計量所が見える。その隣にチーズ市の開かれるヴァーフ広場がある。

ユーモラスなチーズ市/写真転載不可・なかむらみちお  新鮮なチーズを取引するチーズ市は、ヴァーフ広場の計量所の前で、5月から9月の金曜日の午前10時から12時まで開かれる。先ず、事務所に寄って撮影許可書を貰う。白い独特の服にギルド組合別を表す赤青黄の麦藁帽子を被ったチーズ運搬人が大型のチーズを荷い合って運び、選別、計量する。チーズのせり市のなんともいえぬユーモアが感じられて楽しい光景は忘れ難い。チーズ市を見た後は、周囲を運河に囲まれた中世の雰囲気を残している市内を見物する。
 アルクマールからの帰り掛けに、ザーンセ・スカンスに寄り、風車を見に行く。各駅停車で20分。Koog Zaandijk(コーフ・ザーンデイク)で下車。ホームの地下道から左に出ると“Zaanse Schans”と書かれた看板が目に入る。このStationswegを真っ直ぐ行った突き当たりを左に曲がって100bぐらい進むと大きな交差点に出る。ここを右折、目の前の橋を渡れば、そこがZaanse Schans(ザーンセ・スカンス)。駅から約15分で着く。ここは風車の村として知られており、村全体が博物館のようなところ。
メルヘンの世界に入り込んだ気分/写真転載不可・なかむらみちお  レンガを敷き詰めた小道を行くと、ザーン地方特有のグリーンの壁と白い窓枠の家々が並んでいて、メルヘンの世界に入り込んだ気分になる。これらの家々は、村の人々が伝統的な民家や風車をここに移転させて保存したもの。いわばオランダの明治村だ。その先にお目当ての風車が4基ある。
 オランダのシンボル、風車は干拓の為の排水用に使われていたが、今ではその役目も終り、ほとんどが観光資源として保存されているのに過ぎない。

    8月10日(土) AMSTERDAM滞在
 ダム広場の西約400bにde Westerkerk(西教会)がある。高さ85bの塔の先端に黄金の冠を輝かせる西教会は、1638年に完成された。時計台には、半径2b、重さ5dもある鐘が3個ある。アンネ・フランクが隠れ家で聞いた、あのカリオンの音は今も毎週火曜日の12時、13時と水曜日の20時、21時に、この塔上から市内に流されている。
運河通りに面したアンネ・フランクの家/写真転載不可・なかむらみちお  Anne Frank(アンネ・フランク)の家はこの西教会より北に100bほど行ったところにある。僅か14歳のユダヤ人の少女アンネが綴った「アンネの日記」は、世界中で40ヶ国に訳され出版されている。十七世紀の面影を静かに残すプリンセン運河通りの、ハウス263(Prinsengracht 263)がアンネの家。運河が、物資輸送に盛んに使われていた頃の建物で、表側からは他の家々となんら違いが見出せない。かつては、運河に面した土地は高く、家の間口の広さによって課税されたということもあり、アムステルダムの建物は幅が狭く、奥行きを深く取った構造になっている。部屋と部屋をつなぐ階段も、狭くて急勾配に造られているものが多い。このような家の構造が、何度かアンネ一家を助けたといえる。
 アンネの家は、表側は事務所となっていた。そして隠れ住んだところは、この表側建物の真裏に別の建物として建っており、二つの建物は回転式の本棚で結ばれている。回転式本棚を廻して隠れ家に入ると、渡り廊下や壁には、当時の映画女優の写真や雑誌の切抜きなどが残っている。アンネが日記を書き続けた屋根裏部屋も当時のまま保存されており、窓からは西教会が間近に望まれる。
 多感な少女が、家を一歩も出ずに、毎日毎日どんな気持ちでこれらの絵や写真、窓の外の世界を眺めていたのかと思うと胸が痛み、日記の一節一節が切実な訴えであることを実感出来る。
 フランクフルトから逃げてきたアンネ一家はナチの目を逃れ、危険に耐えて2年間この家に住み続けたが、1944年8月4日遂にナチのゲシュタポによって発見されてしまう。戦争の悲惨さと狂気が改めて実感として迫ってくる。現在アンネの家の表側建物は資料室となっている。
ダム広場/写真転載不可・なかむらみちお  アンネの家を出て西教会の角を左に曲がり、ダム広場へと向かう。運河沿いを歩いていると、オランダ名物の街頭オルガンの軽やかな調べがどこからともなく聞こえてくる。
 ダム広場はアムステルダムの中心広場で、アムステルダムの歴史が始まった場所である。周囲を王宮や新教会などの古い建物に囲まれている。
 ダム広場とムント広場を東西に緩やかなカーブを描いて結ぶ全長約800bの通りはカルファー通りで、歩行者天国。アムステルダム銀座というべき市内随一のショッピング街で、この通りに来ればたいていの買物は用が足りるとあって観光客や市民があふれ、一日中賑やかだ。帰国の日も近付いて来た。妻は早速一軒のお土産店に立ち寄り、日本へのお土産を物色する。
目次へ   ↑ページの一番上へ

    8月11日(日) AMSTERDAM滞在(Amsterdam-Marken-Volendam-Amsterdam)
 今日は、近くのマルケン島とフォーレンダムヘ行ってみることにする。

   Marken(マルケン)島
運河に架かっている跳ね橋/写真転載不可・なかむらみちお  マルケン島はアイセル湖の中にある三角形の小さな島。昔は離れ小島であったが今は本土と堤防で結ばれている。
 アムステルダム中央駅裏のバス停から111番のバスで約30分。マルケン島の村が近付くに従って道が狭くなり、2両連結のバスが道路の凹凸に従ってぴょんぴょんと飛び跳ねて走る。特に二両目が激しい。
 村はずれのバス停の近くの小屋では、木靴の製造・販売をしていて、製造過程を見ることが出来る。ブラブラ歩いて行くと、のどかな田園風景が広がっている。オランダ名物の、運河に架かっている跳ね橋も見かける。こちらの岸と向こう岸を結んでいる。妻が橋の上で辺りを眺めているところをスナップ。
日常生活にも木靴を履いている/写真転載不可・なかむらみちお  緑色に白のペンキで塗られている小さな木作りの家々、鮮やかな赤色の民族衣装、伝統的なサボと呼ばれる木靴などは、総てこの島独特のもの。人々は、日常生活にも木靴を履いたり特別の日には民族衣装を身に着けたりしている。観光客にも親しげに話しかけてくるのでとても楽しい。
 現在のマルケン島では普段は民族衣装を着た女性をなかなか見ることが出来ない。日曜日なら教会に往き来する人々が正装で向かうはずなのでこの日を選んで来てみた。午前11時過ぎ、街の中心にある教会からお祈りを終えて帰宅途中の正装した女性3人を跳ね橋付近で見掛けた。8oビデオを妻に託し、早速カメラを向ける。
 ぶらぶらと教会まで行ってみる。丁度牧師さんが教会の脇の小さな出入り口に鍵を掛けようとしていた。お願いすると快く教会の中を見せてくれた。
 マルケン島からフォーレンダムへは、マルケン・エクスプレスという船が通じている。船着場には土産物屋やレストランが並んでいる。

   Volendam(フォーレンダム)
 マルケン島からは船で30分。アムステルダムから北へ25q行ったところにあるのが、漁村のフォーレンダム。小規模の漁港として栄えた港に沿って陶器や木靴を売るおみやげ物屋もあり、買物を楽しめる。妻が青色で着色したデルフト焼きのような陶器製の小さな水車小屋の模型を一個買った。
 フォーレンダムを歩いていると、民族衣装と木靴を身に付けて行き交う男女の姿が目に止まる。赤、白、青のストライブの長いスカートに花模様の飾りの黒いジャケットを着て、白のレースにトンガリ帽子が美しい正装の女性。異国の地に来たことをひとしお感じさせられる。マルケン島とは、距離的に近いにもかかわらず、村の家々の様子や民族衣装がかなり違っている。日曜日には美しくドレスアップした村人が村の教会へ出かける。おとぎ話に登場する世界そっくりの赤レンガの小さな家がある村で、まるで夢の国を訪れている感じがする。
 アムステルダム市内には現在、木製の跳ね橋が二つ残っている。その内の一つ、アムステル川のブラウー・ブルックの一つ上手に架かっているマヘレの跳ね橋は17世紀に造られた。今でも船が通るときには、跳ね橋中央が手動で跳ね上げられ、左右に開けられている。一旦、ホテルに帰ってからその写真を撮るためにひとりでトラムに乗って行って来た。
 オランダともヨーロッパとも今夜でお別れ、最後の夜である。今宵はミュージアム広場にあるクラシック音楽の殿堂Concertgebouw(コンセルトヘボー)へ行きクラシック音楽を聴くことにする。
 先日、フィンセント・ファン・ゴッホ国立美術館へ行った時と同じように、アムステルダム中央駅前よりトラムの2番に乗る。途中で雷鳴が轟き、激しく雨が降ってきた。突然のことなので雨具は持ってこなかった。困ったなと思っていると、やがて小降りになり、Van Baerlestraatに着いた時には雨は止んでいた。
コンセルトヘボー/写真転載不可・なかむらみちお  オランダ語のコンセルトヘボーとは、日本語で「コンサートホール」の意味。世界的な名声を得ているコンセルトヘボー交響楽団の本拠地で、2000人収容出来る。伝統を誇るアムステルダムの音楽の殿堂。内装は総て木造で、その響きの美しさは抜きん出ている。華麗な演奏会場であるコンサートホールは、ステージ上のオーケストラの背部にも客席が設けられているという特徴的な構造を持っている。
 コンセルトヘボーは、日本にも多くのファンを持つ世界的に有名な交響楽団。演奏会などのプログラムが各ホテルのフロントに置かれている。今夜のプログラムはFranz SchubertのSonate in a,D821“Arpeggopme”、Benjamin BrittenのSonate in C,op.65、Robert SchumannのAdagio en Allegro in As,op70、Richard StraussのSonate in F,op.6。開演は夜8時15分から。
響きの美しさが抜きん出る/写真転載不可・なかむらみちお  一曲目のFranz SchubertのSonate in a,D821“Arpeggopme”が始まって間もなく、突然演奏が止まった。演奏していたソロのバイオリニストが、片手でヴァイオリンを上に掲げている。何が起きたんだ! どうやら弦が切れたらしい。彼はステージの上の階段を上がって楽屋へ消えた。しばらく待った後再び現れ、初めから演奏をやり直した。
 最高のホールですばらしい音楽をじっくりと味わった。長かった旅、明日はいよいよ日本に帰る。今夜はヨーロッパ最後の夜だ。静かな運河の流れ、白い跳ね橋、赤いレンガの家並み、石畳の道、花小鉢が覗く家々の窓辺、響き渡る教会の鐘の音。アムステルダムには、旅人の心に安らぎを感じさせるような穏やかな表情があふれていた。
 旅は自分の足で歩くもの、パックツアー旅行では分からない発見がある。
 風の吹くまま、気の向くまま、ぶらり旅。
 「Heineken(ハイネケン)」ビールで乾杯!“気ままな旅”に乾杯!

    8月12日(月) AMSTERDAM 19:30(JAL412)-(機中泊)
 アムステルダム国際空港(スキポール)は、ヨーロッパの空の玄関口。アムステルダム中央駅からの列車を降りて空港に行くフロアの途中にスーパーマーケットがあった。妻がここでお土産のチーズを買いたいというので私は荷物を積んだカートを出入口近くに寄せて待つ。出発時間には未だ時間がたっぷりあったので、ゆっくり買物をしていた。
 この空港の出発ホールにある世界一の規模といわれるスキポール空港の免税ショッピングセンターは、魅力ある買物天国である。あらゆるものを扱っている。

    8月13日(火) 14:00 成田国際空港 17:55(JAL565)−19:30 新千歳空港-札幌
 訪れた城は、その土地の風土と風景の中で、あたかも自然が描き出した不朽の名画のように存在し、人間の造り得る美の極限を見せてくれた。そして又、常に権力者の舞台となり、歴史を彩る夢やロマンを秘めて、歴史の真実と虚構を語りかけてくれる。
 荒蓼とした廃虚の丘に立つ古城の辺に只ひとり佇む時、そこに血と汗を流し、喜び悲しみ、せいいっぱい生きた人々の栄枯盛衰がほうふつと目に浮かび、武者(つわもの)供の夢の跡が偲ばれる。
 中世の古城は闘うために建てられたものであり、外敵から身を守るために造られたものである。その為、威厳を保つための多少の装飾はあるにしても、全体的に外観は無骨であり、内部は居住性に乏しいものが多い。しかし“亡びゆくものの美”と言おうか、そこには、言い現わせない魅力を奥深く秘めて私を離さないのである。栄枯盛衰幾星霜、そこを駆け抜けて行った幾多の先人の喜びや悲しみが私にひしひしと伝わり語りかけてくるのである。今、こうしてカメラ片手に追い求めるのが、何か男のロマンのようにさえ思えてくる。
 このような自分の気持にフィットした中世の城だけをピック・アップした気侭な旅はパックツアーなどにはあろうはずもなく、自分で計画して自分の足で訪ね歩くより他に方法がない。
 言葉は分からなくてもそれはまあなんとかなる。先ず資金を積み立てる一方、城に関する資料を集め、交通機関などの調査を始めた。訪れた街の人との思わぬ出会い、そして親切と温かい人情に支えられて無事予定どおり廻り、無事帰国することが出来た。今思えば、美しい思い出はひたすら美しくなるばかりである。さて、次はスペインのコスタ・デル・ゾルでも走ってみようか…。

- 終 -


目次へ   ↑ページの一番上へ

ワインラベル ワインラベル ワインラベル ビールのラベル・フュッセン ワインラベル







  【ひと口メモ】ドライブ旅行に持って行くと便利な物
 ★ドイツでも夏はかなり暑い。おまけにほとんどの車にクーラーが付いていない。夏のドライブには、麦茶のパックを持って行き、前夜に多少広口でキャップのしっかりした1gのポリ瓶に麦茶を作り、車の中に入れて置く。出発当日の朝、それを500ccのポリ瓶2本いっぱいに移し替えて持って行くと便利。翌日からは3本全部を満タンにして発泡スチロール製の簡便クーラーにでも入れて走ると更に万全。
 ★ハンガーを持っていると、生乾きの洗濯物などを車の中に吊るして走りながら乾かすことが出来て便利。

  ドライブマナーにビックリ!
 ★ドイツでの出来事。惰性で交差点を黄信号で通過したところ、交差する側のドライバーに睨まれた。同乗していた妻いわく「何だかたいした怒っていたよ。何をしたの!」と怒られてしまった。

  トイレ
 ★ヨーロッパではどこも戸縮まりが厳重。ガソリンスタンドのトイレにも鍵が掛かっている。ガソリンを入れるかスタンドの売店で買い物をすると鍵を貸してくれる。無料。
目次へ   ↑ページの一番上へ

 参考文献
「地球の歩き方・ドイツ」 ダイヤモンド社
「地球の歩き方・オーストリア」 ダイヤモンド社
「地球の歩き方・ベルギー」 ダイヤモンド社
「地球の歩き方・オランダ」 ダイヤモンド社
地球の歩き方「ヨーロッパ・ドライブ」 ダイヤモンド社
「ドイツの旅」 実業之日本社
朝日旅の百科「ドイツ」 朝日新聞社
小谷明、阿部謹也、坂田史男他「ドイツ・ロマンティック街道」 新潮社
「世界の旅」2 イギリス/オランダ 中央公論社
「世界の旅」3 ドイツ/オーストリア 中央公論社
ポケット・ガイド113「オランダ」 日本交通公社出版事業局
「ヨーロッパの鉄道旅行」 日本交通公社出版事業局
南正時著「ヨーロッパ鉄道の旅」 鰹コ文社
鈴木成高著「中世の町」 東海大学出版会
「世界の城」 北海道新聞社
小室栄一著「カラー ヨーロッパの城」 山と渓谷社
鈴木亨著「ヨーロッパ古城の旅」 鷹書房
鈴木亨著「ライン河の古城」 鷹書房
吾卿慶一著「ライン河紀行」 滑笏g書店
「ライン河の旅」 日本放送出版協会
井上宗和著「定本 ヨーロッパの城」 朝日新聞社
井上宗和著「ヨーロッパ古城物語」 グラフィック社
井上宗和著「古城と宮殿めぐり」 潟xストセラーズ
井上宗和著「ドイツ 城とワイン」 且O修社
井上宗和著「ワインの城への旅」 角川書店
井上宗和著「ワインものがたり」 角川書店
松宮節郎・鴨川晴比古共著「ワイン入門」 兜ロ育社
「世界の名ワイン事典」 講談社
「ドイツワインのふるさと」 ドイツワイン広報センター
「ドイツワインガイド」 ドイツワイン広報センター
「チーズとワイン」 北海道新聞社
村上満著「世界ビール紀行」 東洋経済新報社
T&T情報センター「ビールを楽しむ本」 叶V潮社
軍司貞則著「滅びのチター師」 兜カ芸春秋
志鳥栄八郎著「不滅の名曲はこのCDで」 朝日新聞社
「外国映画ベスト200」 角川文庫
「名画パラダイス365日」 角川文庫


 目次へ   ↑ページの一番上へ
旅行記 index
HOME