いい旅しようヨーロッパ

いい旅しようヨーロッパ

ー中世ヨーロッパの古城を訪ねて−

ナポリ湾/写真転載不可・なかむらみちお

はじめに
城の美しさに魅せられて10余年。1981年春、意を決して私はヨーロッパ中世の城を求めてひとり旅発ちました。
カメラをリックに詰め、欧州9ヶ国を約1ヶ月間、宿も決めず全行程を列車、そしてバス、船と乗り継いでの駆足旅行でした。
訪れた城は、その土地の風土と風景の中で、あたかも自然が描き出した不朽の名画のように存在し、人間の造り得る美の極限を見せてくれました。
そして又、常に権力者の舞台となり、歴史を彩る夢やロマンを秘めて、歴史の真実と虚構を語りかけてくれました。
荒蓼とした廃虚の丘に立つ古城の辺に只ひとり佇む時、
そこに血と汗を流し、喜び悲しみ、せいいっぱい生きた人々の栄枯盛衰がほうふつと目に浮かび、武者供の夢の跡が偲ばれます。
無謀な過密スケジュールと言われながらも、
言葉も習慣も分からない国々を廻り、訪れた街の人との思わぬ出会い、そして親切と温かい人情に支えられて無事予定どうり廻って帰ってきました。

目  次

古城がわれを招く  格安航空券  旅発ち
イタリア
チャオ・ローマ  ナポリ  宿がない  ユー!チャイナ?  ナポリを見て死ね
 花の都フィレンツェ  オー・ソレ・ミオ  ノーカー天国は素晴らしい  ジュリエットに会えた
オーストリア
チロルの首都インスブルック  われ軟禁さる  アルプスの麓チロルヘ  帰りのバスがない!
西ドイツ
気分は王様  ノイシュヴァンシュタイン城をめざして  あわや遭難  三脚のヘッドが無い!  ホーフブロイハウスで乾杯!  ロマンチック街道の旅
 ロマンの夢誘うハイデルベルク  古城のメッカ・ライン川下り  ブルク・カッツが見えない!
オランダ
1番北の国  南ホーランド州1週ドライブ  風車小屋  旅は道連れ・アルクマールのチーズ市
ベルギー
世界で一番美しい広場、グランプラス  ビヤゼル城  地球は狭い  間一髪
スペイン
ユーレルパスが無い!  情熱の国スペイン  両替所が開かない!  プラド美術館  闘牛  フラメンコ  セゴーヴィア  アルカーサル(宮殿)
 再びマドリード  マンサナレス・エル・レアール  王宮
フランス
ボンジュール・パリ  ベルサイユ宮殿  ポルノ映画観賞  シャルトル大寺院  ロワール河の城巡り  パリを後に  モスクワでトランジット  無事帰国
☆旅の徒然(旅の終わりに、思い付くままに)
スリルと冒険  今回の費用  資金作りはタバコ銭で…  紙屑と化した3000万円  乾パンとインスタントラーメン
 ワイン  良きかな列車の旅  安くて豪華なユーレルパス  目的を持った旅を…  言葉は分からなくとも
 樂しきかなひとり旅  忘れる技術  旅とは…
むすび

   古城がわれを招く

 私がこの旅を思いたったのは、もう随分前のことである。
 想い起こせば9年前、1972年冬期札幌オリンピック大会の採火式取材のため私は初めてヨーロッパの土を踏んだ。その時、取材地のギリシャに向かう前にわずか一日ずつではあったがロンドン、ローマ、パリと立ち寄り観光を楽しんだ。この時初めて接したヨーロッパの文化に只々感激したことは今も忘れられない。その時私は日本では見られない歴史の重さと伝統的芸術の香りを感じ、人間の能力の偉大さ、ヨーロッパ文化の高さを強く感じた。その時から私はチャンスがあれば是非もう一度、そのときは仕事抜きに自費で訪れたいと思った。
 その後2〜3年たった頃、私は井上宗和氏の「ヨーロッパの城めぐり」というー冊の本にめぐり会った。その中には中世を初めヨーロッパの美しい種々の城の写真が沢山載っていた。私はこれらの写真にすっかり魅せられてしまった。是非この目で実物を見たいという強い衝動にかられたのである。私はその時から「ヨーロッパ城めぐりの旅」の計画をたてた。
 ヨーロッパはいたるところに城や館が数えきれないほど散在している。その多くの城の中から私が見たいのは中世の面影を残した「闘うための城」である。中世以前はそれなりにおもむきがあっても城としての形態が未完成である。中世以後は大きな戦いもなく平和な日々に明け暮れていた日が永く続いたため、闘うための城はもはや必要ではなかった。その為、城は居城とか領主の威厳を保つためのシンボル化して「館」とか「宮殿」となった。又、西ドイツのバイエルン地方にあるノイシュヴァンシュタイン城のごときは、近世に至ってから、当時の王様が趣味として建てたいわばお遊びの城でさえある。
 これらの館や宮殿は豪華であり、キラビヤカではあるが、内面から滲み出る美しさとか、私の心に訴えるものには乏しいような気がして私はあまり好まない。
 中世の古城は闘うために建てられたものであり、外敵から身を守るために造られたものである。その為、威厳を保つための多少の装飾はあるにしても、全体的に外観は無骨であり、内部は居住性に乏しいものが多い。しかし“亡びゆくものの美”とでも言おうか、そこには、言い現わせない魅力を奥深く秘めて私を離さない。栄枯盛衰幾星霜、そこを駆け抜けて行った幾多の先人の喜びや悲しみが私にひしひしと伝わり語りかけるのである。今、こうしてカメラ片手に追い求めるのが、何か男のロマンのようにさえ思えてくるのである。
 このような自分の気持にフィットした中世の城だけをピックアップした気侭な旅はパックツアーなどにはあろうはずもなく、自分で計画して自分の足で訪ね歩くより他に方法がない。こんな勝手な旅に付き合ってくれる人もいないだろうし、例え共鳴者がいたとしても、同じスケジュールを組むことは無理であろう。結局はリックを背負ったひとり旅以外には方法がないのである。
 言葉は分からなくてもそれはまあなんとかなる。先ず資金を積み立てる一方、城に関する資料を集め、交通機関などの調査を始めた。
 旅費も下調べも4〜5年で整い、準備OKとなった。しかしサラリーマンの悲しさ、長期休暇を採るのは大変難しい事であった。
 そうこうしている内に私自身がどんどん歳老いてくる。パックツアーと違ってひとり旅は荷物を全部自分で持ち、自分の足で歩かなければならない。歳老いてからではだんだん難しくなる。来年は長男も高校に入り、やがては大学へと進学するであろうし、次男、長女と続くであろう。そうなると学資を初め何かと物入りとなり、金銭的にも私の遊びのための浪費(とは思わないが…)なぞは大変難しくなってくる。もう今年を於いて実行する機会は訪れないであろう。行くなら今年しかない。私は意を決した。今の職場は初夏から初冬にかけて忙しく、冬から春先までは比較的時間にゆとりがある。春闘と夏闘(ボーナス闘争)との間のわずかの隙間しかないが、なんとかその中で休暇を貰おう。ゴールデンウイークの休日を加えるとあとは15日程の年次休暇を採るだけで済みそうだ。用意周到、年が明けてから部長に話してなんとか明るい希望が持てる返事を貰った。多少の不安は残るが、こうなったらもう実行するしかない。後には引けない。
 全体の経費の中で大きなウェイトを締める航空券は東京の親しい友人の伝手で「格安航空券」を世話して貰う事になっている。現地の足は国鉄。これはユーレルパスで目的地を全部廻る事が出来るし、あとは一部分のタクシー代を考えれば良いだろう。ホテルは言葉は分からないが、現地でなんとか安いのを捜そう。かなり不安だが…。

    格安航空券

 国際航空券は定価しかない事になっているが、実際は格安な航空券が存在し、パック旅行でなく自由な旅行を経済的に楽しもうとする人々が利用している事は良く知られている。なぜそんなに安い航空券があるのかについての最大の理由は、定期便の飛行機のほとんどが定価で搭乗する乗客だけでは空席が多過ぎて、年間平均では全航空会社の定期便の座席の半分近くが空いている事と、特に国際線の場合激しい競争があるからである。格安航空券はおかしなことに建て前上は存在しないことになっているため、航空会社に行っても売ってくれない。しかるべき代理店を通じて手にいれる必要がある。有名な大手の旅行代理店はパック旅行の方が利益が大きいためあまり扱っていないし、格安航空券を扱う専門の代理店のほうが遥かに良いサービスと低価額で仕事をしている。
 格安航空券の価額は需要供給に応じて季節により値段がすごく変わる。また航空会社の違いでもその差はとても大きくなっている。私は出発日をゴールデンウイークをはさんだ4月23日頃から4月28日までときめた。
 東京の友人から紹介された代理店を当ったところ予想以上に高い。少々不満が残る。やはりゴールデンウイークを控えているので各社共少々鼻息が荒く、普段より値上げしているらしい。とにかく「トラベルウイングサービス」に依頼してアエロフロートを30万4千円で予約する一方、もっと安い券を探してもらう事にした。大韓航空が大変安いが、未だコンピューター予約システムなどが不備で、時々オーバーフロォ(積み残し)などの事故を起こしており、積み残されるといつ帰れるか分からなくなるので一応敬遠。その他フイリピン航空、シンガポール航空なども安いが南廻りのため、1〜2日余計に日程がかかる為、貴重な休みを利用する我々には不向き。中でもパキスタン航空が特に安いが、政状不安定で、最近乗っ取り事件なども発生しているのでこれもダメ。エールフランスが23万円ぐらいでとれるかも知れないという事で交渉を進めてもらうことにした。一方、札幌の代理店太平洋観光も当たってみたが、これまで以上の安い券はなかった。アエロフロートの申込期限ギリギリまでねばったが、エールフランスは満員という事でついにダメ。結局アエロフロートの4月30日発ローマ行、帰りはパリ発成田行きという券(往復60日オープン)を30 万4千円で予約する事にした。宿は写真を撮りに行くのが目的だからお天気まかせの出たとこ勝負。いたってイージーでスケジュールは組めないので一切予約はしない。現地に着いたところでその都度探すのである。言葉も分からないのではたしてうまくゆくのだろうか…。覚悟を決めたとは言え、出発の夜はあれこれ考えて蒲団の中に入ってもなかなか寝付かれない。果たして無事帰ってこられるのだろうか。言葉も分からず習慣も違う見ず知らずの未知の地を無事予定どうり歩けるのだろうか。宿はどうしよう。そんな事を考えるとだんだん不安感が大きくのしかかり、体が戦き、蒲団の中で震えがきた。

  費 用
1.往復格安航空券
   アエロフロート(ソ連航空)60日間オープン ¥304,000
   札幌一成田往復             ¥46,800
2.現地交通費
   ユーレルパス(3週間)         ¥66,700
3.海外旅行保険(1ヶ月)          ¥20,300
4.スーツケースレンタル料(1ヶ月)     ¥9,000
5.一日の生活費               ¥5,000〜10,000
   宿泊、食事、バス、タクシー、入場券
   チップ、トイレ代、おみやげ代、酒代
   飲食代、その他。
6.フィルム代及び現像代
合  計     ?

          

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                             スケジュール
 1981年
4月29日(水) 札幌9:40-10:50千歳11:50-13:20羽田
4月30日(木) 成田13:00-21:35ローマ
5月01日(金) ローマ市内(サンタ・アンジエロ城)ローマ10:00-12:35ナポリ(市内観光)
5月02日(土) ナポリ6:40-7:10カプリ島16:00-17:25ナポリ
5月03日(日) ナポリ市内見物(カステルヌーボー城、他)ナポリ-ポンベイ-ナポリ22:11-フェレンツエヘ
5月04日(月) 4:40フェレンツェ6:10-7:30ピサ9:00-10:20フェレンツェ(市内観光)16:29-20:30ベニス
5月05日(火) ベニス市内観光
5月06日(水) べニス7:24-8:01ベロナ(市内観光)15:00-19:52インスブルック
5月07日(木) インスブルック7:00-9:56オーバグルグル11:35-13:10エッタール13:56-15:00インスブルック16:05-19:27ミュンヘン
5月08日(金) ミュンヘン-フュッセン
5月09日(土) フュッセン滞在
5月10日(日) フュッセン-ミュンヘン
5月11日(月) ミュンヘン8:00(ロマンチックシュトラーセ)-17:10ウエルツブルク
5月12日(火) ウエルツブルク11:03-13:34ハイデルベルク17:14-18:11マインツ
5月13日(水) マインツ8:45〜11:45ザンクトガルシアライゼン14:3-16:15コブレンツ18:11-21:56アムステルダム
5月14日(木) アムステルダム-マイデン-ロッテルダム-マドローダム-アムステルダム
5月15日(金) アムステルダム-アルクマール-18:23ブリュッセル
5月16日(土) ブリュッセル(市内観光)14:07-16:58パリ(北駅)パリ(オーストリッツ駅)18:04-マドリードヘ
5月17日(日) 9:00マドリード(市内観光)
5月18日(月) マドリード(アトーチャ駅)7:53-10:01セゴビア(市内観光)
5月19日(火) セゴビア14:04-マドリード…マンサナレス・エル・レアール…16:46マドリード19:00-パリへ
5月20日(水) 9:35パリ-ベルサイユ宮殿-パリ
5月21日(木) パリ(オーストリッチ駅)6:15-7:55ブロワ-パリ
5月22日(金) パリ(モンパルナス駅)8:50-9:47シヤルトル14:11-15:06パリ
5月23日(土) パリ(ドゴール空港)12:50-成田へ
5月24日(日) 10:40成田15:30-17:00千歳-札幌へ

     旅発ち

    4月29日(水) 札幌9:40−10:50千歳11:50−13:20羽田
 ついに出発の日が来た。
 忘れ物はないはず。持参品リストと再度つき合わせてチェックする。
 あわただしかったがなんとか準備が出来た。午前9時、タクシーを拾い、家族全員でバスターミナルヘ。
 連絡バスに乗る。(ミッチ…長女8才)と(テッチ…次男10才)がバスが道庁の角を曲がって見えなくなるまで手を振って追って来る。不覚にも涙が滲んでくる。まさかこれが家族の見納めという事はあるまい。なんとしても無事帰って来なければ…。この子供たちのためにも…。
 羽田空港には東京の友人久保田さんが出迎えてくれていた。彼の車で久保田さん宅へ向かい一旦落ち着く。やがてもう一人の友人後藤君も現われる。彼は大学時代の親友で久保田さんは彼の紹介で深いつき合いとなった。
 その夜、彼等と久保田さんの奥さんの三人で私の壮途を祝して励ましてくれた。本当に嬉しかった。持つべきは友人である。
 その時、私に電話が掛かって来た。どこから何の用件かと一瞬ドキッとする。未知なる国へのひとり旅で私は心細さと不安感で少し神経質になっていた。
 電話の主は先に手紙で知らせておいた東京の堀さんという知人からであった。このご夫婦とは昨年、スイスツアーで一緒になりすっかり意気投合した仲である。変な知らせでなくてまずは一安心。

    4月30日(木) 成田13:00-21:35ローマ
 成田発は午後の便だが、出国手続きなどを終えたあと空港売店で買い物などもしたいので早めに行く事にした。
 久保田さん御夫妻と共に彼の運転する車で小雨のハイウェイを成田へと向かった。
 空港では久保田さんのご案内で諸手続きを無事万端終えることが出来た(空港使用料1500円)。少々早いが空港内のレストランにて三人で昼食をとる。久保田さんは次の仕事があるので昼食後そこで別れる。
 税関を入ったところの免税店でホープを1カートン、向こうでのチップ替りとして買う。安い! その他飛行機の中で飲もうと思い日本製のワインを1本買った。13時搭乗。乗る前に家へ電話をいれる。
 なるほどソ連の飛行機はシートが悪い。間隔が狭いし、リクライニングシートの傾斜角度もきつい。こんな乗り心地で果たしてあまり疲れないでローマに着くのだろうか。不安だ。
 出発すると間もなく飲み物が出た。そのあと少し間を置いて食事がでた。これなら持ち込んだ乾パンもワインも要らなかった。サービスも聞いたほど悪くはない。まあまあだ。但し食事はまずい。
 やがてモスクワに着く。モスクワの滑走路は緩い丘になっており、平らではない。こんな滑走路で離着陸は難しくないのだろうか。香港空港のように山の上から降りるよりはマシかも知れない。
 モスクワの空港の売店は小さい。でも外国製の酒、タバコはあるようだ。キャビアも売っているが高い。毛皮の帽子がいい。英語は通じない。値段だけ聞いておいて帰りに立ち寄った時に考えよう。
 再び機上の人となる。モスクワ-ローマ間は短い。眠れない。

         イタリア

                                貨幣交換率100£≒20円
   チャオ・ローマ

ヨーロッパ  “ボンジョルノ・イタリア!”。ローマ空港に無事着いたのは夜の9時半であった。当然あたりは真っ暗。一応ローマだけは夜の到着なので日本からハガキで宿の手配をしておいたが、返事を貰うだけの日程がなかったので確認はとれていない。本当に今日泊まるYMCAホテルがとれているのだろうか。そんな予約は受けていないと言われたらどうしよう。機内で知り合った日本人にピッタリとくっついて行く。私の前でその人が市内ターミナル行きのバス券(1500L)を買ったところ、窓口で切符を売っていた売人が釣り銭をくれなかった。早くもイタリア式が始まったなと思った。その人が催促してようやく貰うことが出来た。彼はこんなところでもゴマかすのかと大いに怒る。
 YMCAホテルは市内ターミナルからすぐ近くだが、こんな夜遅く一人で荷物を引きづって歩くのは危険。それで彼に強引に頼んで私のホテルを廻って貰う事にした。彼は最初渋っていたが、私がそこまでの車代プラスアルファを持つという事で了解して貰った。ターミナルで客待ちしてたむろしているタクシー運転手の一人に掛け合うと、足許をみてかかなり高い事をいう。何人目かにようやくまあまあという料金の車を拾い、とりあえず私のホテルヘ…。ホテルは本当にすぐ近くであった。その前で降ろされた。本当に部屋は取れているのだろうか。心細くなる。
 玄関の階段を昇ってフロントヘ行くと男の人が窓越しに一人いた。名前をいうと台帳をめくりOKと言ってカギをくれた。一安心(一泊15,400L)。
 部屋はそんなに良いとは言えないが寝るだけには特に問題もなくまあまあというところ。とにかくホテルがとれて良かった。成田空港の売店で買ってきたワインで乾杯。
 ベツドに入るがなかなか寝付かれない。時差のせいだ。ようやく眠っても2時間程もすれば又目が覚めてしまう。その夜はそれからが永い夜だつた。

    5月01日(金) ローマ市内(サンタ・アンジエロ城)、ローマ10:00-12:35ナポリ(市内観光)
イタリア  朝6時頃窓の外がようやく明るくなった。外に出て散歩をしてみると、思ったよりも寒い。セーターが必要だ。
 空は快晴、日本晴れ。いや、ローマの空だからイタリア晴れか。
 今日の予定はローマでサンタ・アンジェロ城を写し、その後ナポリヘ行ってそこからボンベイを見に行く事にする。サンタ・アンジェロ城へはタクシーで行っても良いが、駅前にバスターミナルがあるので、そこへ行けば便利な路線があるかもしれないと思い出かけてみた。
 ターミナルに居たバス会社の従業員にたずねてみたが、どうもそんな路線はないらしい。なにしろ相手がイタリア語しか話せないし、私も日本語しか話せないのだから話にならない。それでもまあなんとか意志が通じた。この従業員は歩いて行ったら良いと言っている。マサカ!からかわれているようでもない。しかたなく、テルミーニ駅からタクシーを拾って行く。料金は1500L。ごまかしてはいないようだ。後で調べたらNo.64のバスがバチカン行きとなっておりサンタ・アンジェロ城はそのすぐ隣にあり、歩いて行ける。
 サンタ・アンジェロ城に向かうテベレ川にかかるアンジェロ橋の袂に行くと川原に降りる階段付近が猛烈にオシツコ臭い。糞もある。犬の落し物か人間のか?
 一級観光地としては幻滅する。こういうところがやはりイタリアのイタリア的というところなのだろうか。
 サンタ・アンジェロ城はローマ市内を流れるテベレ川のほとり、右岸にまるでクリスマスケーキのような形をした円形の特徴ある城が、あたりを威圧するように建っている。これがサンタ・アンジェロ城で、ローマには欠かせない観光名所。オードリー・ヘップバーン主演のアメリカ映画「ローマの休日(Roman Holiday)」(ウィリアム・ワイラー監督/米・53年制作)で、夜、野外ダンスバーテーが行なわれていた場面がこのテベレ川であり、背景の大きな建物がこのサンタ・アンジェロ城である。

          サンタ・アンジェロ城

サンタ・アンジェロ城/写真転載不可・なかむらみちお  今では城として知られているが、元を正せば皇帝ハドリアヌスが自分の霊廟とする為に135年に建設を着手さたもの。完成をみたのは4年後の139年。
 円形の古代ローマ特有の廟は直径64bの巨大な物。三世紀後半アウレリアウス帝のとき、ローマを守る城塞として改造された。また後には、法王のための有時の際の宮殿、そして牢獄としても使用されていたという。原形を残しているという意味においては最古の城と言えるだろう。
 城にまつわる伝説によると、紀元590年、ローマを襲った伝染病(ペスト)を克服しようと、時の法王グレゴリアがカトリックの祭事を行ない、行列がこの城の前を通った。その時、この城の上に剣を持ったエンゼルが姿を現わし、恐ろしい病気の流行の終わりを告げた。それ以来現在の名で呼ばれている。大円塔の上には天使サン・ミケーレの鋼像がローマを見つめている。
 更にプッチーニの歌劇「トスカ」の第三募の舞台であり、恋人マリオをここで処刑された美姫トスカが、テベレ川に身を投げる場面はご存知であろう。現在、城の内部は武器博物館になっており、日本の武具もみられる。
 屋上からはバチカン、川を隔ててローマ旧市内が見晴らせる。ぜひ上に上がることをお奨めしたい。

バチカン宮殿/写真転載不可・なかむらみちお  サンタ・アンジェロ城から目と鼻の先のヴァティカン市国のサン・ピエトロ広場へと歩いて向かう。
 サンピエトロ広場は北海道大学構内の四分の一にも満たない面積を持つ世界最小の独立国バチカン市国の一部である。円柱列の回廊に囲まれた壮大な広場である。正面には大円蓋をのせたサン・ピエトロ寺院、右手にはバチカン宮殿が見える。この広場を囲む4柱列の楕円形の回廊はベルニーニによって1656〜67年に作られた。284本の円柱と88の壁に組まれた片蓋柱で構成されており、140の彫刻像で飾られている。広場の中央には、古代ローマのカリグラ帝の時代にエジプトから運ばれたオベリスク(高さ2.5b)が立っている。ここに建てられたのは1586年である。オベリスクの左右には高い噴水があり、右の物、は17世紀に建築家マデルノによって造られ、左の物は同じ形の18世紀のコピーである。オベリスクと各噴水の間にある白い石から回廊を見ると4本ある柱列がすべて1本に見える。すなわち回廊の柱列の焦点になっている。向かって右側の大きな建築(回廊の上に見える)は法王の書斎のある建物で、毎日曜日正午にその最上階の右から二つ目の窓から法王が姿を見せて祝福すると言う。
 再び広場前でタクシーを拾ってテルミーニ駅にひきかえした。10時発ナポリ行きの列車にのる為に…。帰りのタクシー代は1100L。行きのタクシ一代と距離的にはつり合う。やはりだまされてはいなかったと思う。とにかくこの国は気を付けねば…。
 発車時間を過ぎているのにナポリ行きの列車がなかなか来ない。イタリアでは1〜2時間の遅れは普通だとか…。駅構内のアナウンスが度々入り、乗降ホームがしよっちゆう変更になる。ようやく来た列車は40分遅れでローマを発車した。今日はメーデーでイタリアでは労働祭日である。明日は土曜日で休日。その次は日曜日。考えてみたらイタリアでも今年は大型連休だ。ゴールデンウイークという事だ。そのためか列車はとても混んでいる。私の乗った客車のコンパートメントは定員6人だが私を含めて5人が座り、何人かは通路に立ったり、手前に引けば腰掛けられる壁際の折りたたみ式椅子などを利用していた。私の隣の席に座った初老の夫婦はイギリスから来たという観光客。時々上手に口笛でメロデーを奏でていた。
 車窓からは南イタリアの農村風景が流れて行く。大きなアカシヤの木が窓をよぎる。既に花の盛りは過ぎて黒味を帯びている。札幌の気候で言えば7月上旬というところか。車窓から流れ込む南国の風は爽やかで肌に心地好い。
 ナポリが近くなった頃走る列車の右窓から南国の太陽に輝く海岸が見えてきた。私がそれにカメラのレンズを向けていると通路にいた青年がイタリア語で盛んに説明をしてくれるが残念ながら何を言っているのか私には全然分からない。私は困った顔をしているのだがその青年は一向に意に介せず尚も盛んにしゃべり続ける。私は言葉が分からなくても彼の納得ゆくまで領いて彼がしゃべり終わるのを待つしかなかった。

    ナポリ

 ナポリ到着。駅の構内を列車はゆっくりとポイントを渡って行く。その時、列車が多少カーブをしたので列車の全体的編成を初めて見る事が出来た。長い列車であった。日本ではこんな長い編成を見た事がなかったので驚いてしまった。客車ばかり20両ぐらいはあったのではないだろうか。
 ナポリ駅を降りてすぐ右側の手荷物一時預けにスーツケースを預けた後、大急ぎでポンペイ行きのホームヘと向かう。ポンペイ行きの列車を待っている間、駅のホームで一緒になった中年のオーストラリア人夫婦はもう2ヶ月間もヨーロッパ旅行を楽しんでいるという。その人達に尋ねられたので私は3週間の予定だと答えたら何かせせら笑われたような感じだった。
 やがて列車はポンペイに着いた。駅で降り、遺跡の入り口へ行ったが、門が閉ぎされたままになっている。たまたま遺跡の掘りの土手を見まわりに来たガードマンらしい人に声をかけて聞いたところ、今日はメーデーで労働祭日のため遺跡は休みだとの事。ガイド誌には書いてなかったのですっかり予定が狂ってしまった。やむなくナポリにひき返した。

      宿がない!

ナポリ  再びナポリに着き、先ずは予約しておいた宿に落ち着いてからゆっくり考えようと預けた荷物を受け取ってバスでサンタルチアの宿へと向かった。この宿はローマの宿と同じ文面で同じ日にハガキを出してある。ローマの宿も無事とれていたので安心して向かう。
 あのカンツォーネで名高いサンタルチア海岸でバスを降り、重い荷物を引きずってお目当ての宿を探す。
 なかなか宿が探し当てられない。所番地をたよりに通りをうろうろ行ったり来たり…。近くのレストランの主人に聞いてようやく分った。着いてみると何の表示も看板も出ていないところであった。これじゃなかなか見付かる訳がない。普通の民家である。と言っても大きなビルで、人口は象さんでも入れる程あるが、普段は扉の中に人ひとり入れる程の小さな木の扉があって、その脇に表札が並んでおり、インターフォンとブザーがある。日本でもアパートなどで時折見かけるあれである。目指す宿(?)の名前もそこにあった。インターフォンのブザーを押してみたが応答がない。ようやく反応があり当方の名を告げると入口のドアのカギが電気仕掛けでカチャとなった。ドアを押すと開いた。手元から少し離れたところに置いたスーツケースを取ろうとしてドアの手を離したらドアがカチヤという音がして再び閉じた。スーツケースを取り、もう一度ドアを押したが、さきほど開いたドアはもう開かなかった。再びインターフォンを通じて呼び出し、待つ事しばし。ようやく開けてもらった。ヤレヤレ。中に入ると小さなエレベーターがあった。インターフォンで聞いたようにそれで4階へ上がる。エレベーターを降りると部屋のドアがある。ドアを開け声をかけると老主人が出て来た。名前を告げたがどうもおかしい。予約しているかと言っているらしい。ハガキを出してあると言ったが、受け取っていないという。それに加えて彼は、もう満員で泊まるところがないと言っている。いったいどうなっているのだろう。この下の2階にもペンションがあるから行ってみろと言う。そこには勿論予約はしていないが止むなく行ってみる事にする。しかしそこも満員であった。困った。それではどこか代わりの宿でも紹介してくれないかとねばってみるが答えはつれない。ようやく一軒の宿の名前を聞き出す。しかし行ってからダメでは困るので電話を掛けて予約を取ってくれと頼む。勿論電話代を払って…。
 ようやく了解がとれたようだ。そこはここから200b程離れた所にあるという。再び重いスーツケースを引きづってそのビルを出る。焦りと熱さでジトッと油汗も出てくるし、こんな時の荷物は事更重いような気もする。重い足取りで紹介された宿を探し当てて再びブザーのボタンを押す。出て来た主人に「何日泊まるのか」と聞かれ、「2泊だ」と答えると「家は長期滞在の宿だから2泊ではダメだ」と断わられる。重い荷物を持ってようやくたどり着いたのにガツクリときてしまった。途方にくれる。ポンペイの件と言いこの宿の件と言い今日はついていない。日本で言うと厄日か仏滅か。ヨーロッパではそういうのはあるのかな?第一日目からこんな調子では先が思いやられる。(実はこの先も大なり小なりこれに似たようなトラブルを繰り返しながら約1ヶ月間に渡る珍道中を無事終えたのである)。
 止むなく振り出し戻り。重い荷物を引きずり再びバスに乗りナポリ駅へともと来た道を引き返した。駅へ行けば宿の案内所があるはずだ。
 ナポリ駅に着き、案内所を探すが見当たらない。構内に2人のお巡りさんが居た。彼に案内所を聞く事にする。するとそのお巡りさん達は駅前に沢山ホテルがあるから行ってみれと言う。行って見れと言われてもなんと言うホテルがあるのか分からないし、さきほどの一件でかなりこりているので不安になってしまう。なんと言うホテルが良いかと聞いてみたが名前までは教えてくれない。尚もねばってようやく一軒のホテル名を聞き出した。とりあえずそこへ行く事にする。当座はそこしか行くあてはないのだから…。
 別れ際にその警察官達が私が首から下げている35mmのカメラをさして、盛んにルック!ルック!と言うが、どういう意味か分からなかった。どうやらカメラを出したままあるくな、背負っているリックサックの中に入れて行けという事らしい。イタリアは物騒だとは聞いていたけれど、ここは特に危ないのだろうか?今までのところでは身に付けている分においてはなんともなかったのだが…。なにしろ写真を写す事が目的の旅行だからカメラを3台と交換レンズなど付属品などを沢山持っての旅である。気候と地理的関係で今回はどうしてもイタリアを振り出しとしなければならなかったので、盗難の心配もかなり負担になっていた。ひょっとするとイタリアでカメラの1台も盗まれるかも知れないという心配はあった。いくら保険に入っているからと言っても盗まれてからでは遅いのである。
 なるほど駅を一歩出て教えられた道を行くと歩道の両側には露天が並びその間を大勢の人が行き交っていた。引ったくりが居ても不思議ではない。しかし首から紐で下げたカメラまで奪って行くのだろうか。真昼間だと言うのに…。ナポリの人は手先の器用なことは抜群という。人の持ち物を自分の物と錯覚する無邪気な面もある。だからナポリの道を歩くときは身の廻り品をしっかり小脇に抱えてスキを見せてはいけない。ナポリにやって来る人にとって、ここの人達が美しい景色と共に興味ある物だという事が半日も居れば分かってくる。
 駅を一歩出てメインストリートを歩いて見るとどこの街でも当然の事だが、何軒かのホテルが目に止まった。その一軒に「HOTEL SAYONARA」というのが目に止まった。まぎれもない日本語である。来た早々「サヨナラ」でもあるまい。意味が分かっているのだろうか。日本でもそうだが、きっと外来語は格好が良いという程度の事で付けたのであろう。昔はサヨナラというのが好まれて使われた外来語だったのに違いない。
 2〜300bも行ったところにあまり立派ではないが先程警官に教えられた石造りのホテル「ALBERGO CAVOUK」があつた。少々古いがまあいいだろう。フロントで申し出ると空き室があつた。石造りのなんとなく暗いホテルではあったが、ベッドのシーツはきれいなのでまあまあ。夜露がしのげれば上等。今夜はとりあえずこの部屋で我慢しよう。ヤレヤレ。今日は精神的に疲れた。ガックリきてなんとなく外へ出て食事をする気にもなれない。日本から持ってきたインスタントラーメンと携帯用固形燃料を取り出して部屋の中でラーメンを作り、昨夜ローマの宿で半分飲み残した日本から持って来たワインで一人でラーメンパーテーを開いた。満足!この固形燃料を日本から持ってきたという事はわれながらグットアイデアであった。ついでにお湯も沸かして日本茶を飲む。
 一服してからナポリの夜景を見に行く。ナポリの夜景は世界三大夜景の一つである(香港とナポリともう一つはどこだったか?香港の夜景は昨年スイスに行く途中寄港して離陸する飛行機の窓から見た)。
 ナポリ駅前からバスに乗り、途中の乗りかえ停留所でバスを待っていたら一緒にバスを待っていたお年寄りが気さくに話し掛けてきた。私はサン・マルテーノに、ナポリの夜景を見に行くところだと話すと、そのお爺さんは丁度その時通りかかつた彼の知人らしい人に話して私をそこまで車に乗せて行ってくれるように頼んでくれた。全くイタリアの人は気さくである。その車の人は二つ返事で見ず知らずの私を乗せてくれて、無事サン・マルティーノまで送り届けてくれたのである。
 ポメロの丘の上にあるサン・マルティーノ僧院から見るナポリの夜景は美しい。「ナポリを見て死ね」と言うから、死ぬにはまだ早いが一度は来て見たかった。しかし函館の夜景のほうがもっと素晴らしい。アベックが多い。明日の夜又来よう。

      ユー!チャイナ?

    5月02日(土) ナポリ6:40-7:10カプリ島16:00-17:25ナポリ
 今日はカプリ島へ行く事にする。
 朝5時に目が覚めた。まだ時差ポケが治っていないらしい。昨日と同じように今朝も又部屋でインスタントラーメンを作って食べた。これは、こんな早朝はまだ店が開いていないだろうと思ったからである。
 カプリ島行きの船着場の切符売場に行くとまだ窓口が閉じたままであった。中の人に切符を買いたいと言うと出発まであと1時間半もあるからそれ迄待てと言われた。時刻表には7時と書いてあると言ってもとりあってくれない。あきらめて港を散歩していると右手の少し離れた桟橋からフェリーボートが出港した。見るとカプリ島行きと書いてあるではないか。畜生!他の会社の船便は教えてくれないのか。ケチメ!タッチの差で一便乗り遅れてしまった。
 私がカプリ島に行こうと思ったのには理由がある。私の青春時代は今のようにTVもなく娯楽も少なかつた。その中での私の楽しみのひとつと言えばその頃の若者の大半がそうであったように映画であった。その中のひとつに1950年にアメリカで作られた「旅愁」と言う映画があった。この頃はヴェネツイアを舞台にしたキヤサリンヘツプバーン主演の「旅情」(1956年キネ句4位)を始め「慕情」「哀愁」「旅路」など、似たような名前の映画が続出したのでどれがどれだかこんがらかってしまうけど、私はこの「旅愁」の中で見た風景がなぜか忘れられなかつた。
 この映画は、旅先で恋におちた美しいピアニスト(ジョーン・フォンテーン)とアメリカ人技師(ジョセフ・コットン)の激しい愛を描いた名篇で、ナポリ、ローマ、カブリ島、フィレンツェが舞台となっており、恋の背景はあくまで美しく哀愁の「セプテンバー・ソング」が切なく恋を謳った。
 この映画に出てきたカプリ島の風景が素晴らしく、とりわけ「青の洞窟」の神秘的な美しさが忘れられなかった。それでぜひ一度行って見たいと思った訳である。
 ナポリ湾の出口に浮かぶカプリ島は、スマートな国際的リゾート地である。ローマ時代から避暑地として有名であった。
 カプリ島のマリーナ・グランデ港に着いて早速お目当ての「青の洞窟」行きの渡し船乗場へ行ったら、今日は生憎波が高く洞窟の中へ入る事は出来ないので天候待ちであった。せっかく一日を費やしてここまで来たのにこのままで帰るのはもったいない。天気待ちの間その近くを少しプラついてみた。
 港に通じる道路にはずらりとお土産屋さんが軒を連ねていた。日本の観光地と同じだ。どこでもそうだが、観光地は物価が高い。ここではコーラが一本300Lであつた。
 待っていても一向に「青の洞窟」行きの船は出そうに無いので島巡りのバスに乗りアナカプリヘ行く事にした(300L)。そこから更にロープウェイに乗り、モンテ・ソラーロ山へ登る。頂上からの眺めは美しい。マリーナ・ピッコラの海岸なども見えた。チェアリフトの途中で行き交った若い日本人女性が「こんにちは!」と声を掛けていった。そのとたんに爽やかな風が通り過ぎていった。
 この島は熱帯的な植物が多く、原色の花が咲き乱れ、空は青く澄み渡り海の色はクリスタルガラスのように透明である。アナカプリにも観光土産屋が並んでいた。その通りをひやかして歩いていたら、ホテル側の壁が数bに渡って水族館のようなガラス窓になって水槽になつていた。珍しい魚かこの付近にいる魚介類でも見せているのかなと思いのぞいて見るとそこには魚ではなく人間が泳いでいた。つまりホテルのプールの中がまる見えになっておりショウーウインドーのようになっている訳である。勿論泳いでいる人の首から下だけで顔は見えない。残念ながら全員水着を着けていた。(当り前か)。しかし、こちらから見られている事をこの泳いでいる人達は知っているのだろうか。最近は水着を付けないで泳ぐ事を好む人も居るそうだからヒョッとしたら見られるかもしれない。
 再びバスに乗りカプリヘ行きレストランに入る。イタリアと言えばスパゲティ。スパゲティと言えばナポリ。ナポリはスパゲティの故郷、ピッツア発祥の地である。そしてナポリ人は明るく、朗らかで、大きなジェスチャーを交えながらのお喋り好き。お人好しの人達だ。先ずはスパゲティボンゴーレを注文した(3,500L)。それとグラスワインを…(2,200L)。ワインの生産量はイタリアが世界で一番。フランスにも輸出している。味も良い。ナポリも名産他の一つである。
 やがてチョピヒゲを生やした若いボーイさんがワインとスパゲティを持って来た。スパゲティの上にはアサリ貝が貝付きのまま口を開いて乗っている。私はそれをフォークで取り出し、それを肴にしてワインを飲んだが、どうも取り出しにくくてめんどうくさい。
 フト私は日本からチップ替りのお土産にと思って、アイヌ文様の入った観光割り箸を持ってきていた事を思い出した。私はここで少しチャメ気を出して早速それをリックから取り出してアサリをつまんだ。ようやくこれでアズマしい。
 通りがかったさっきのボーイがその様子を見て「スペシャルナイス!」「ユー・チャイナ?」ときた。私は胸を張って「ノー、アイアムジャパニーズ」と答えてやった。すると彼は大袈裟なジェスチャーを交えて「オー!ジャパニーズ」と大声を上げた。このやり取りで店に居た他の客が一斉にこちらを見ている。一寸照れたが、何しろ今や経済大国で知られた日本の代表を名乗ったからには照れてばかりではいられない。改めて胸を張りなおし毅然とした態度でワインをグイと飲み干した。正直言ってこんなところで日本国民を代表しようなどとは思ってもみなかった事でこっちが面食らってしまった。
 彼のボーイはこの割り箸をかなり珍しいそうに見ていたので、私はリックから別の新しい割り箸を出して彼にプレゼントした。すると彼は嬉しそうに「グレイシヤス」と言つて受け取ってくれた。そしてこの御礼のつもりか、一皿アイスクリームをプレゼントしてくれた。カプリ島のスパゲティボンゴーレが大変おいしかった事は言うまでもない。
カステル・ヌーボー/写真転載不可・なかむらみちお  フェリーがナポリ港に着いてから近くのカステル・ヌーボーに向かう。ナポリは古くギリシャの植民地として発達し、その後、ローマ、東ゴート、ビザンティン帝国、南イタリア王国など歴代の支配者のもとで、地中海の要所として栄えてきた町である。
 ナポリには二つの城と一つの城塞がある。カステル・ヌーボーは1266年、フランス王ルイ九世の弟であるアンジェー伯シャルルが南イタリア王となり、王の住居であった卵城とカプアーノ城が立地的に不便であったことから、1284年アンジュー家の新しい城としてカルロT世(シャルル)によって海からちょうど良い距離に建設された。当時最新の技術を用いて防護効果の高い四つの塔を配した城を築き上げ、周りには掘りがめぐらされていた。この城はシャルルがフランスでの領地であったアンジェーから招いた建築家ピエール・ダジヤンクールが、アンジェー城をモデルにして築いたものである。
 中央入口にはアルフォンソT世のナポリ入場を記念して設けられたアルフォンソの凱旋門がある。塔の間の白い門は上下二つのアーチに見事な彫刻とレリーフの重厚な装飾が施されていて目を引く。イタリア・ルネサンス期の傑作のひとつとして名高い。
 十三世紀から十八世紀初めまでスペインのアラゴンの統治下にあり、城は改築されたが、1860年にはイタリアが統一され、イタリアの城となった。

     ナポリを見て死ね

    5月03日(日) ナポリ市内見物(カステルヌーボー城、他)、ナポリ-ポンペイ-ナポリ22:11-フェレンツェヘ
 バスでサン・マルティーノ僧院へ行く(入場料100L)。ここからナポリ湾が一望出来る。
 ナポリ湾の深い所、弧を描いて延びる海岸線、明るい太陽、そしてヴェスヴィオ火山の遠景をみる景勝の地。“ナポリを見て死ね”という言葉は余りにも有名だ。
 バスを降りたところにお土産品店が並んでいる。その一軒でカメオを売っていた。カメオはナポリが本場。後でポンペイヘ行く中で、娘への土産に有名なドナディ商会で一個買ってゆこうと思っていた。一寸見るだけと思って中に入る。店の中では主人が一人でカメオを彫っていた。店の壁には彼の事を書いた新聞記事が額に入れて飾ってあった。この道では結構な職人なのかも知れない。新聞記事といえども、どんな新聞か、又果たして本物の新聞記事なのかも疑わしい。これが「手」なのかもしれない。彼は私にその新聞記事を示して何かしきりに説明していた。主人といろいろ話していたら、ドナディ商会は今日は日曜日のため休みだと言う。負けてくれるというので、ここで一個買うことにした。
 店を出たところで、三菱重工ジュッセルドルフ駐在の小林さんと知り合う。彼は休暇を利用して観光旅行に来たとの事。
ナポリ湾/写真転載不可・なかむらみちお  サン・マルティーノ僧院は国立博物館になっており、25号室から外のテラスヘ出るとナポリの市街、港、そしてヴェスヴィオ火山のパノラマが良く見える(入場料750L)。
 私達二人はつれだって中に入り、係の人が案内してくれたテラスからナポリ湾の眺めを思う存分満喫した。しかしまだ死ぬわけにはゆかない。旅はまだ始まったばかりなのだから…。どこからかカルーソの歌声が聞こえてきそうだ。私もこの風景を見ながら「♪サンタァ〜ルゥチァ〜」と、声高らかに歌って見たくなった。ナポリ湾を背景に小林さんとお互いに記念写真を撮り合う。
 館内見物の後、サンタ・ルチア海岸へ行き、海の見えるレストラン「ダ・チーロ」でスパゲティ・ナポリタンとワインを注文した。ナポリといえばスパゲティ・アツラ・ナポリターナ(本当はスパゲティ・アル・ポモドーロと言う)。果たして本場の味とはどんな味がするのだろうか、期待に胸がはずむ。
 待つ事しばし、出て来たスパゲティは意外や意外、トマトケチャプにまぶしたあれではなく、茹で上げた麺の真中に日の丸のようにケチャプがのせられていた。まあ、ケチャップを使うというところだけは日本と共通しており、先ずは一安心した。
 カプリ島で食べたスパゲティボンゴーレもそうであったが、こちらの麺は日本で食べるスパゲティのようにデレッとしていない。大袈裟に言えば皿からフォークで持ち上げると麺がヤジロウベーのようになる。イタリアで食べるスパゲティは総て歯ごたえのあるアル・デンテの固ゆでである。芯が未だ残っているような感じである。初めは茹で方が足りないのではないかと思ったのだがそうではない。日本のとは初めから品質が違うらしい。
 食事の後、小林氏とはそこで別れ、午後は1日に見られなかったポンペイを見る事にする。ポンペイはナポリから電車に乗り、ポンペイの一つ手前の駅でサレルノ行きに乗りかえ、ヴィラ・ディ・ミステリ駅で降りると良い(700L)。
ジュピター神殿/写真転載不可・なかむらみちお  この遺跡(入場料750L)は、背後に聳えるヴェスヴィオ火山の噴火によって、紀元79年、一瞬のうちに火山灰の下になって埋まってしまったローマ時代の町である。
 遺跡の前に立つと、それがいかに現代と似通っているかに先ず驚かされる。つまり、いかに古代には進んだ文明生活をしており、又、いかに今日まで我々は進歩しなかったかが分かって改めて文明とは、人類の進歩とは何かを考えさせられる。一見の価値ある遺跡である。この古代の都市は完全に舗装され、上水道が鉛管で配水され、町角のバー、共同浴場、商店、邸宅、劇場、レストランまでもよく残り、ここに欠ける物は、テレビと自動車のみに過ぎないのではないかとさえ思えるほどである。私は道路にある車輪の轍に特に興味をひかれ、盛んにカメラのシャッターを切った。


 今夜は夜行列車でフィレンツェヘ行く予定である。出発駅はナポリ中央駅の隣Mergellina駅から…。早めに宿を発つ。Mergellina駅前の喫茶店でも入って時間待ちをしようと思ったが、意外や意外駅前はガランとして店らしい建物は一軒もなかつた。駅のホールは椅子もなく薄暗くガラーンとして人一人居ず、不気味な事この上ない。ある物と言えば切符を売る窓口だけ。それも列車が発つ時間が来なければ開かないらしい。まるで田舎の駅のようだ。果たしてここからフィレンツェ行きの列車が出るのだろうか。イタリアは物騒なので不安になってくる。かと言ってどうしようもないので時間が来るまで持つしかない。覚悟をきめてスーツケースの上に座り込んだ。
 やがてしばらくして団体さんの一行が来た。これでひと安心。やがてその団体さんが駅のホーム側に行ったので後に付いて行ってみた。するとそちら側に待合室があり、椅子もあって何人かの客が待っているではないか。ヨーロッパの駅は日本と違って、ホーム側に待合室があるのだ。知らないという事は困ったものだ。
 時間になっても列車は来ない。冷え込んで来た。イタリアの列車は1〜2時間遅れるのは普通という。そのうちホームが変更というアナウンスが入った。再びスーツケースを引きづって隣のホームヘ移る。
 やがて来た夜行列車の一等のクシェット(寝台車)に乗り込む。やれやれ。これでようやく落ち着ける。乗り心地はなかなか良い。スーツケースを一番奥に押し込み、クサリで繋ぎ止めてベッドに横になる。昼間の疲れも手伝ってかグッスリと寝込む。

      花の都フィレンツェ

    5月04日(月) 4:40フェレンツェ6:10-7:30ピサ9:00-10:20フェレンツェ(市内観光)16:29-20:30ベニス
 車輪のゴトゴトという心地好い音と列車の揺れで目が醒める。昨日の疲れでぐっすりと寝込んでいたらしい。腕時計を見ると間もなくフィレンツェに着く時間である。ベッドから起きると回りの人も降りる支度をしている「フィレンツェ?」と問いかけると、頷いて「フィレンツェ」と言っている。その他にも何かごちゃごちゃ言っている。どうやらフィレンツェに行くのには次の駅で別の列車に乗り換えるらしい。時刻表だけではそんな事は気付かなかったが…。危なく乗り越すところであった。
 とにかくみんなに付いて列車から降りる。列車が止まった駅はフィレンツェの手前のcampa di Marte駅であった。早朝の駅ホームには薄く朝霧がたなびき、欧画のようなムードだった。ホームで待つことしばし、やがて来た列車に乗り次の本当のフィレンツェ駅(Santa Maria Novella)で降りる。ナポリの駅と言い、イタリアの駅はいったいどうなっているのだろう。
 フィレンツェ駅の荷物一時預けにひとまず荷物を預けた後、ホーム立ち売りのワゴンからパンと牛乳を買って朝食とする。
 ピサ行きの列車に乗ったが発車時間を過ぎたというのになかなか発車しない。ホームのスピーカーが「ピサ000?000トラブル00」と言っている。何か事故があって列車が動かないらしい。一人、二人と諦めた乗客が列車から降りて行く。私はしばらく様子をみて座席に座っていたのだが、とうとう最後に私一人残ってしまった。やむなく私も最後に列車から降り、駅舎に向かってホームを歩き出した。
 とその時、私はにわかにトイレに行きたくなった。どうせ動かない列車なら、そのトイレを借りようと思い再び今降りた列車に戻りトイレに入った。
 トイレに座っていたら、ゴトンという音がしてなんの予告もなく列車が動き出した。発車時間からは既に一時間も過ぎている。まさか車庫にでも入るのではないだろうなとフト不安がよぎる。たとえ車庫に入るのでもまあいいやと覚悟をきめる。
 用を済ませた後、不安な気持ちで車内に戻ってみたら他に客が2〜3人いた。「ピサ?」と聞いたら「シイ」と答えてくれたので私も安心して席に座った。
 ピサは曇り。風も少々あって肌寒い。駅前から斜塔行きのバスに乗る。
斜塔/写真転載不可・なかむらみちお  ピサは中世の昔、ヴェネツイア、ジェノヴアと並んで地中海の一大海港として栄えた。ローマ様式によって建てられた白亜の大理石の斜塔は、世界の七不思議のひとつとしてあまりにも有名。なぜ傾斜したかには地盤の沈下説とか、塔の建設者が腕を誇示する為に、最初から斜めにしたとかなどの諸説がある。現在でも、毎年数ミリの割合で傾斜していると言われる。ガイドの説明ではいずれは倒れるだろうということだ。ガイドはもう一言“これは、ピサの問題ではない。全世界の問題、すなわちあなたの問題でもあるのだから、この塔の保存のことを真剣に考えて欲しい”と付け加える事を忘れない。
 実物は写真を見るより傾いている。293段のステップを上がると、各階からドウォモ洗礼堂、そしてピサ市の全容が眺望出来る。最上階も回廊になっており手摺があるだけだった。白大理石の床が傾斜しており、この日は風も強く坂上から坂下の方へ滑り落ちそうで不気味な感じだ。昔、ガリレオはここで「落下の法則」を実験した。隣のドウォモは1063年に起工され、1118年に完成したイタリア最古の建物。この大伽藍の天井から吊り下げられ揺れ動くランプを見てガリレオが「振子の原理」を発見した話は有名。
 次はいよいよ憧れの「花の都」フィレンツェヘと再び今朝来た道をひきかえす。
 ここは「神曲」で有名な中世イタリアの大詩人、ダンテDante Alighieri(1265-1321)が生まれた町である。九歳にして童女ベアトリーチェに出会って以来、永遠の女性として思慕し、彼女が若くして世を去った後も、終生その徳を讃えた。ベアトリーチェへの初恋はその文学にとって意味深い。
 フィレンツェとは「花の都」の意味で、ルネサンスの花開いた都である。町そのものが美術館と言ってもよく、優雅な町の佇まいと相まって、世界に類のない町と言えよう。
 ルネサンスの遺産は数え上げるときりがない。花の聖母(ドウォー・モ)教会、ルネサンス貴族の豪華な邸宅、ルネサンス美術の殿堂、ウフィツィ美術館やピッティ画廊、またミケランジェロの彫刻等々みるべき物が沢山ある。
 フィレンツェの旧市街はさほど大きくはない。足で歩いて宮殿の肌に触れ、古い通りにルネサンスの息吹を感じとることにしよう。
 町の中心にある花の都の「花の聖母(ドウォー・モ)教会」はフィレンツェ共和国の宗教の中心で、白とピンク色と濃い緑色の大理石の幾何学模様に飾られた外部が美しい。
ボーボリ庭園/写真転載不可・なかむらみちお  先ず、フィレンツェのルネサンス宮殿の代表的なひとつピッティ宮殿に行こうと思い、通りがかった女性に道を尋ねたところ地図を広げて一生懸命調べてくれた。教えられた曲がりくねった狭い小路を歩き始めたが、思っていた方向とは一寸違うようだ。時間もない事だし、結局タクシーを拾って向かうことにした。この宮殿の裏側には広々とした典型的なイタリア式庭園のボーボリ庭園が緑をたたえ、庭園を散歩しながら、フィレンツェ市を一望出来る。ポーボリ庭園は広い。かなり疲れた。ボーボリ庭園を後にしてヴェッキオ橋、ウフィツィ美術館、ヴェッキオ宮と向かう。
 ヴェッキオ橋は14世紀に作られたフィレンツェでもっとも古く、もっとも有名な橋で、古橋の原型が保たれている。奇妙な構造からも観光価値は抜群。橋は二層造りになっていて、階下が一般歩道、階上には土産品店がびっしり軒を寄せ合い、観光客で賑わっている。

ヴェッキオ宮/写真転載不可・なかむらみちお  ルネサンス絵画のもっとも重要なコレクションでよく知られているウフイツイ美術館は残念ながら休館日であつた。ここにはボッティチェリの「春」と「ヴィーナスの誕生」、レオナル・ド・ダ・ヴインチの「受胎告知」等があるので是非見たかったのだが残念であった。玄関先や、建物の横の回廊などにはキャンバスを立てて似顔絵を描いている若い学生風の男女が沢山見られた。さすが芸術の都である。その横には、これも有名なヴェッキオ宮がある。この建物はフィレンツェ共和国の政庁舎で1587年まではメデイチの人々が住んでいた。現在は市庁舎として使用されている。力強く、優美なゴシック建築で、建物の左右には守護神のように2体の大理石像が立っている。左の像は、ミケランジェロのダビテ像のコピー。右の像はドナテルロ作の自由を象徴するジュディス像である。

      オー・ソレ・ミオ

 フィレンツェからヴェネツイア行きの列車は全部指定席の国際列車だった。乗り心地は良かったが、やがて車掌が廻って来て指定席料をとられた(1700L)。車内で買うと窓口より割高になる。フィレンツェ駅の売店で買ってきたワインとチーズを出してチビリチビリとやる。流れる車窓にポツポツと雨滴が斜めの線を描く。やがて雨足が強くなり、並行して走る舗装道路の路面は濡れて自動車が水しぶきをあげて走っていた。列車がヴェネツイアの入り口、リベルダ橋にかかる頃には雨もすっかり上がり、眩しい夕日が車窓に差し込んでいた。
 ヴェネツィア(英=べニス)駅に降り、宿を決めなければ、と駅にある予約センターを探していたら客引きが寄って来た。値段を聞いたら予算よりも高い。その客引きのホテルは、私があらかじめ案内書で調べておいて予定していた内の一軒だった。もう一人、手に蝙蝠傘をもった小柄のインテリ臭い別の客引きが寄って来た。先の客引きと何か話始めた。後の客引きが私のところへ寄って来て、一泊12,000Lでどうかと言ってきた。先の客引きよりは少し安い。もう面倒になったのでそれに決めた。
 駅から近いというので、荷物を引きづってその男の後について行く。約500bも歩いたところの中小路にそのホテルがあった。名前はFerrovia&Piazza San Marco。ピッツアとかサン・マルコなどという名のホテルは多分この町ではざらに在るに違いない。
 荷物を持って3階まで階段を上がるのはしんどかった。エレベーターがないのである。さすが安いだけのことはある。ベッドとシーツはまあ良いがベランダの扉のカギが壊れて掛からない。はなはだ物騒だ。これには参った。ベランダに出て調べてみると外からは入って来られそうもないので、ひとまずこの部屋に落ち着く事にしよう。実のところモンクを言いたくても言葉が分からないので面倒くさい。隣には風呂もあるし、今夜は久し振りでひと風呂浴びて一杯ヤッカ!
 水の都ヴェネツイアはアドリア海の浅瀬(ラグーナという)の洲の上に作られた118の小さな島、150の運河、そして400以上の橋から成立っている町で、空の色が水に映え、微妙な光の反射に輝く。文明都市で車が一台も走らないただ一つの町で、交通機関は水上バス(Vaporettoヴァポレット)、モーターポート(これがタクシー)、そしてゴンドラ。車がないことは町並みの雰囲気を壊さない。そしてこの水の都には中世、ルネサンス以来、東洋と西洋の出会いが見られ、数多くの芸術作品が産みだされ、今日でもその当時の面影がもっとも良く残され、保存されている。世界きっての美しい広場であるサン・マルコ広場は、青空に飾られた大きなサロンである。狭い小路を通ると突然、小さな運河にぶつかり、可愛い階段のある橋に突き当たる。運河には大きな帽子をかぶり、横縞の独特なシャツを着たゴンドラ漕ぎが、ゆっくりとゴンドラを操って滑る。人口は35万人で、函館より少し大きい街である。
 スーツケースを鉄の鎖で水道管のパイプに繋ぎ、錠を掛けて出かける。先ずヴェネツイア駅前からヴァボレット(水上バス=800L)に乗って大運河沿いにサン・マルコ広場へ行ってみる。
サン・マルコ教会/写真転載不可・なかむらみちお  広場はもう陽が落ちてあたりは多少薄暗く、観光客もまばらになっていた。明日、この広場の写真を撮るつもりだが、太陽がどちらから出るのか分からない。その方向によって午前にするか午後にするか決めなければならない。観光客に尋ねても分からないだろうから、この土地の人らしい人を探す。すると4〜5人の若い女性達が通りがかったので呼び止め、英語(?)で話し掛ける。
 太陽の出る方向を知りたいので、相手に「サンセット?」とか「サンシャイン?」とか言ってみたが分かってもらえない。もう一度空を指差して「ノース」「ウエスト」「イースト」「サウス」といっても相手は変な顔をするばかり。その時、私はフト思い付き、「オー・ソレ・ミオ」と言ってみた。つまり、オー・ソレ・ミオとは、イタリア語で「私の太陽」という意味であることを学校で教わっていたのを思い出したからである。この際、「太陽」に関するヒントなら何でも良かったのである。それに私はイタリア語はそれしか知らなかったのである。
 するとその中の一人が分かったらしく「アァ、それならこつちだ!」と指さしてくれた。ようやく分かって貰って、一同と共に大笑い。彼女等が指し示してくれた答えは、サン・マルコ教会の方向であった。で、あれば明日はここへ午後に来るようなスケジュールを組めば良いことになる。
 彼女等とはこんなやり取りでも通じたのである。言葉はテクニックよりも心である。相手の目を見れば相手が何を言いたいのか以心伝心、大体通じるものである。言葉が分からなければ気持ちを分かって貰うように努力する。足りない分はゼスチアとか紙にメモするとかすれば大抵通ずるものである。特に買い物をする時の数字などは紙に書いてもらって筆談(?)するのが誤りがなくて一番良い。アラビア数字は全世界通ずるはずであるから…。この出来事で私は、言葉の不自由な国を旅するには機転が大切である事を痛感した。
 それにしても、先進国の若者は英語を習っているはずと思って若い人をつかまえたのだが、私の英語(?)が通じなかったのはショックだった。日本語ナマリが強すぎたのかな?と反省している。彼女達には、御礼に日本から持ってきた五円玉を一つずつあげて手を振って別れた。(外国では、コイン収集の趣味が盛んである。特に穴の空いたコインは珍しい)。たとえ言葉が分からなくても、とっさの機転を利かせれば、お互い血の通った人間同志、なんとか分かって貰える物である。言葉が分からなければなおさら、このような機転とか工夫、努力が必要なのである。言葉が分らないからひとり旅は出来ないという人は、初めから旅に行く気のない人であろう。
 ナポリのホテルのロビーでチラッと見たモノクロテレビも、それからさっきのホテルのテレビもカンツォーネをやっていた。この国は、カンツォーネが盛んである。「オー・ソレ・ミオ」「サンタ・ルチア」が、まだ生きているのだ。サン・マルコ広場から再びヴァボレットに乗ってホテルヘと向かう。空には満月が輝き、雲間から見え隠れしている。明日は多分晴れであろう。
 リアルト橋の手前に差し掛かったころ、船は急にスピードを緩め、迂回し始めた。前方を見たところ、運河いっぱいに何艘ものゴンドラが横付けとなっており、真中のゴンドラの船上では、アコーデオンの伴奏に合わせて歌手がカンツォーネを朗々と歌っている。他のゴンドラには、それぞれ観光客が月の光に映しだされ、ワインを傾けながら漕ぎ手に身を任せ、川面を渡る「オー・ソレ・ミオ」や「フニクリ・フニクラ」をゆっくりと楽しんでいた。ムード満点。優雅なひとときであつた。

      ノーカー天国は素晴らしい

    5月05日(火) ベニス市内観光
 快晴。空には雲一つない。朝食の後、ヴァボレットでサン・マルコ広場へと向かう。船からの眺めはまさに「水の都ヴェネツイア」である。どちらを見ても絵になる。
 S字形に市内を貫くヴェネツイアのメインストリートとも言うべき大運河を乗り合い船やモーターポートが間断なく往来している。幅が約30〜70bの運河の両側には、14〜18世紀のゴシック風やルネサンス風の宮殿、貴族の邸宅が約4qも立ち並ぶ。
溜息の橋/写真転載不可・なかむらみちお サン・マルコ広場/写真転載不可・なかむらみちお 時を知らせるムーア人の像/写真転載不可・なかむらみちお  世界で最も美しい大理石造りの広場に立つと、正面にサン・マルコ教会が建っている。聖マルコの遺体を納める目的で1063年から73年にかけて建てられた。教会の中を見た後、サン・マルコ教会に向かって左手にある15世紀から16世紀にかけて建てられた時計塔の上にも登ってみた(200L)。そこには鐘を叩くムーア人(マグリブ…北西アフリカ地方のイスラム教徒の呼称)の像が二つ建っていた。ここから見下ろしたサン・マルコ広場の眺めもなかなか良い。
 ヴェネツイアはガラス工芸品とレース編みでも有名である。ガラス製品の店としてはヨーロツパにその名を知られた店「ポーリー」がサン・マルコ広場に支店を出しているのでそこをのぞいてみた。この店は品質の優秀さにおいては各国から折紙が付けられている。みごとな作品が並んでいたが高くて手が出ない。店員に断わってガラス製品の写真を撮らせてもらった。
 小路に入って別のガラス製品を売っている小さな店に行き、ゴンドラを漕ぐデザインのガラス製品を7っ買った。ヴェネツイアのお土産として親戚に贈ったら良いのではないかと思い…。郵送してくれるように頼んだが、この店では郵送は受け付けていないという事なので自分で送ることにした。それを持って店を出、ヴェネツイアの裏小路を、有名なリアルト橋へ向かって歩いた。
 狭い小道を通ると突然、小さな運河にぶつかり、可愛い階段に突き当たる。車は一台も通らない。車がないことは歩いていていてほんとに気持ちが良いし、駐車場がないことは街並の雰囲気を壊さない。裏小路は狭く曲がりくねってかなり複雑だ。しかし、小路の角や辻には建物の壁に行き先の矢印が必ず書いてあるので、それを辿って行けば簡単に歩く事が出来る。
 シェクスピアの「ペニスの商人」に出てくるリアルト橋は1592年の建造で、長さ48b、幅22bの一つのアーチで出来ており、上部には店が並んでいる。ここらあたりがヴェネツイアの商業の中心となっており、ショッピング・センターの観を呈している。橋を渡り切ると野菜や魚の市場があり、道の両側には果物や野菜を売っている露店が並んでいた。その内の一軒でイチゴを一パック買い一休み。立ち食いである。
 再びリアルト橋の袂に戻る。そこにはゴンドリエが日向ばっこをしながら客待ちをしている。一緒にその横に座ってゴンドリエと雑談を交す。挨拶がわりに成田空港で買ってきた日本のタバコ(ホープ)を一箱差し出したら喜んで受け取ってくれた。別れぎわに彼等とゴンドラをバックに記念写真を撮った。
 先ほど買ってきたガラス製品を日本に送るため宿で荷造りをし、船でリアルト橋たもとの郵便局に出しに行く事にする。
 先ほどまで雲一つなく快晴だった空に遠くから雷の音が鳴り響き、俄かにあたりが暗くなってきた。急いで水上バスの停留所へと向かう。間もなく船付場に着くという直前に大粒の雨が激しく降ってきた。急いで船の中に駆け込む。夕立である。
サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会/写真転載不可・なかむらみちお  やがて船がリアルト橋に近ずいた頃夕立も小止みとなり、再び南国の強烈な太陽が辺りを照らし始めた。まるで1720年頃この地の教会の司祭として活躍し45歳の時に作曲したヴィヴァルディの合奏協奏曲「四季」作品八番の「夏」ト短調の第三楽章を思わせる情景だった。
 郵便局の建物は立派であった。中庭があり、真中に井戸があった。おそらく中世期の建物なのであろう。中庭の四方は5〜6階建の回廊となっている。大昔の屋敷かお役所だったのではないだろうか。
 郵便局の受付窓口には若い女性が座っていた。受付を終わると預かり書をくれた。船便だと日本に着くのには2ヶ月もかかるだろうと言う。本当にそんなにかかるのだろうか。
 郵便局を出て再びサン・マルコ広場まで歩く。ヴェネツイアの夕暮れは遅い。もう7時を過ぎるというのにまだ太陽は沈まない。
 人影も疎らになったサン・マルコ広場にはカフェ・テラスがあちこちにある。椅子に腰をおろして楽士達が奏でる音楽を聞く。ヴェネツイアならではの至福のひと時である。この楽士達は最後の客が席を立つまで音楽を奏でているというから立派である。
 ようやく海を挟んだ対岸のサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の鐘楼とドームに赤味が差し、大運河にはヴェネツイア名物のゴンドラが一隻帰りを急いでいた。

     ベニスに死す

 ベニスと言えば思い出すのが日本の映画監督黒澤明に匹敵すると定評があり、華麗な映像で知られるルキノ・ヴィスコンティの映画「ベニスに死す(La Morte a Venezia)」(伊*アルファ・チネマトグラフィカ1971年制作)である。
 この映画はドイツの作家トーマス・マンの短編小説に基づき、ダーク・ボガード、ビョルン・アンドレセンを主演に映画化したが、原作では小説家の主人公を作曲家に変えている。
 「旅情」「夏の嵐」「赤い影」「リトル・ロマンス」「ベニスの愛」…。数多くの映画の舞台になったベネチアの街は、スクリーンを通じて世界中の人々の眼に焼き付いている。
 ルネサンス時代の美しい街並みのまま海に沈んで行くベネチア。ベネチアを舞台にした数々の映画の中でも、「映画美術」と呼ばれるほどの完成された映像美と、滅びゆく街ベネチアにふさわしい題材で作られ、公開当時から話題となったのがこの作品。
 理性と感情のはざまで揺れる芸術家の葛藤がテーマ。静養のためベネチアを訪れた初老の作曲家が、ふと出会った少年の理想的な美しさに魅了され、静かな情熱を燃やす。だが結局は少年への愛のために命を落としてしまうという物語。
 映画の背景に流れるのは、この小説のモデルとなったといわれるグスタフ・マーラーの音楽。特に交響曲第五番第四楽章「アダージェット」の甘美な音楽は芸術家の感情を表すために用いられ、主人公の心理と音楽の動きが一体となった印象を与える。あこがれ、あきらめ、寂しさ、とまどい、落胆、激情。そういった感情を表すためにこの音楽が用いられ、どんなセリフや演技よりも雄弁に、揺れ動く芸術家の心を表していく。
 どこか現実離れしたアダージェットは、明るい退廃とでもいうべき雰囲気を生んでいる。足元の砂が波にさらわれていくような、不安と快感が入り交じった感覚が心地よく感じられる音楽であり映画である。

    言葉は通じなくても…

 小道を通ってサン・マルコ教会の裏に回り、小さな運河の橋の袂にある小さなレストランに入った。例のごとくワインを一瓶注文し、ビフテキの 焼けるのを一人待つ。やがて出てきた焼きたての肉をフォークで口に運び、ワインを傾ける。今日も一日が終わろうとしている。最高に幸せな至福のひとときである。
 飲み残したワインを貰って再び船に乗り、宿に着く。ホテルのフロント係が、私が肩から下げているカメラを見て“ニコン?”と聞く。私は“イエス”と答える。彼もニコンを持っているという。彼は言う、ニコンはベストキャメラだと。レンズが良い.ニコンSPは最高の名器だ。ニコンFは良かったが今のニコンF2、F3はあまり良くない…とも。なかなか詳しい。私は昼間ヴェネツイアの小路を歩きに歩いたので、今日は特に疲れている。特に足が立っていられないほど疲れている。話をいい加減に打ち切って早くベッドに横になりたかったが、彼とのカメラ談義はつきない。私は堪りかねてついに傍らのソファに腰を降ろして話を続けた。私のつたない英会話(?)でこんな事が約一時間も続けられたのである。言葉は分からなくても片言の英語や、英単語を並べただけで結構会話が楽しく弾むものである。全く不思議なものである。

      ジュリエツトに会えた

    5月06日(水) べニス7:24-8:01ベロナ(市内観光)15:00-19:52インスブルック
 今日も朝から雲一つない快晴。イタリアは空までが陽気である。朝日の中の大運河はそれなりに風情がある。ヴェネツイア駅の近くまで行ってみると、早くも立ち食いの店が開いている。その中の一軒に入りパンと牛乳を注文すると店員が手掴みで取ってくれる。イタリアは何処でも万事こんな調子で不衛生な感じがするが見ない事にしてかぶりつく。
 駅の階段上がり口にはヒッピーのような身なりをしたアメリカ人らしい若者が数人寝袋を広げ、携帯用のガソリンストープを囲むようにして座っていた。きっと昨夜はここで寝たのだろう。安上がりでなかなかいい。駅構内に入って一等待合室に行ってみる。ここは暖房が利いていて暖かい。ここのベンチにも数人の浮浪者風のお年寄りが2〜3人寝ていた。彼等の体臭で部屋中が臭う。
 私が乗る予定の列車の発車時間が近づいていたのでプラットホームへと行く。既に列車がホームに入っていたので行き先表示板を確認して乗り込む。
 やがて列車は音もなく滑るようにホームを離れ始めた。ヨーロッパの列車は日本とは違って発車の合図のベルは鳴らない。
 思えば昔見た映画の中にキャサリン・ヘップバーン主演の「旅情(Summertime)」(デヴィッド・リーン監督・55年制作)と言う映画があった。
 キャサリンが演ずるアメリカのハイミス、ジェーンが中年のイタリア人男性レナート(ロッサノ・ブラッツイ)と二度三度とめぐり逢ううちにかりそめの恋にのめりこんでゆくが、やがて彼には家庭がある事が分かる。やがて訪れた別れの日、ジェーンは列車の窓から身を乗り出してレナートの姿を求める。思い出のくちなしの花をもち、息せききって駆けつけるレナート。だが、無情にも列車は、ふたりの距離をぐんぐん広げて行く。
 ロマンスを求めるハイミスの哀歓を繊細なタッチで描きあげた恋愛映画の名編の思い出に残る最後の別れの場面はこのホームで撮影された。
 ヴェネツイアからヴェローナヘ行く列車は初夏の平野を快調に走る。天気が良く眺めも良い。何処までも農村風景が続く。
 ヴェローナは思ったより大きな街であった。ヴェネツイアの北西約100qに位置し、交通の要衝として、紀元前から町づくりが行なわれ栄えてきた。シェークスピアの「ロメオとジュリユツト」の舞台としてあまりにも有名である。町は古代、中世、ルネサンス各時代の遺産を持ち、美しいたたづまいを見せている。
カステルベッキオ城/写真転載不可・なかむらみちお スカイジェーロ橋/写真転載不可・なかむらみちお  駅前からバスでカステルベッキオ城へと向かう。この建物はヴェローナの中世建築の代表的建築物で、14世紀に城塞として造られた。現在は市立美術館になっている。街の中にあるこの城の壁は全面ツタ(蔦)に覆われていた。中庭は芝生が一面に敷き詰められていた。写真を撮っていると城の人が城の裏に廻って橋の向こうから写すと良いと教えてくれた。城の背後のスカイジェーロ橋はアーディジェ川にかかっている14世紀のゴシック式の橋である。なかなか素晴らしい。橋を渡り対岸から城の写真を撮る。こちらから見ると城も逆光に映えて美しい。
 再びバスに乗ってサン・ピエトロ城へ。バスを降りてから近くに遊んでいた子供達に城への道を聞くと、親切に教えてくれた上、わざわざ坂道を上って道の入り口まで案内してくれた。私はポケットから例の五円玉を出して一人一人にあげると子供達は大喜び。“ダンケシェーン”を連発していた。

サン・ピエトロ城/写真転載不可・なかむらみちお アーデイジェ川を挟んで広がるヴェローナの遠景/写真転載不可・なかむらみちお  サン・ピエトロ城は、ローマ人が築いた城跡で、現在はオーストリア支配下に建てられたバロック風の建築物があるだけ。城への坂道は厳しかった。息が切れた。しかし、ここから見るアーデイジェ川を挟んで広がるヴェローナの遠景は素晴らしい。手前に緩くカーブを描くアーデイジェ川の向こうに、これから行く旧市街が連なる。
 再び坂を下りアーデイジェ川にかかるピエトラ橋を渡る。この橋を渡り切ったところから振り返って見るサン・ピエトロ城も美しい。更にジュリェッタの家まで歩く。ジュリェッタの家エルベ広場の先にある。本物だということだが、真偽ははっきりしない。

ジュリェッタの像とバルコニー/写真転載不可・なかむらみちお  石造りのビルの続く谷間の道を行くと左手に門があり、その門をくぐり、中庭に入ると中庭に面して「ロミオ、あなたはなぜロミオなの……」の名台詞で知られるロメオとジュリェッタが愛を囁いたという舞台でもお馴染みのバルコニーがあった。傍らには石造りのジュリェッタの像が立っている。この像の右の乳房を擦ると恋人が出来るという言い伝えがあるらしく、そこだけ磨かれてピカピカに光輝いている。私も誰も見ていない隙にそっと擦ってみた。このバルコニーは7bもの高さにあり、近くには登るのに手頃な木もなく、忍んで行くのには少々難しい。本当に本物なのだろうか。話が少し出来過ぎている感じである。日本でもあるように、有名になってから観光客用に造ったものではないだろうか。中世のロマンスを伝える余韻とか風情はないが、シェークスピア・ファンにとってはぜひ訪問したいところである。
 再びエルベ広場へ戻る。広場と言うより、幅広の短形道路と言ったほうが分かりやすい。毎日午前中、この広場いっぱいにグレーのパラソル型テントが張り出され、花や野菜、果物などの青空市場がたつ。カラフルで活気が溢れている。ローマ時代はここに集会所があり、19世紀末に至るまで、この広場はヴェローナの中心であった。バスを待つ間を利用してイチゴとパン、牛乳を買い、立ち食いで昼食を済ませた。やがて来たバスで再びヴェローナ駅へと向かい、ヴェローナからオーストリアのインスブルック行きの列車に乗る。
 国境での検問はいたって簡単。列車に乗り込んで来たアーミースタイルの係官が一人一人パスポートを提示させ、その写真と実物を見比べるだけでOK。荷物の検査なども一切ない。国境を越えれば、もうそこはオーストリアである。

▼イタリア編参考書:実業之日本社 ブルーガイド海外編「ローマとイタリア」
          交通公社   海外ガイド    「イタリアI」
           〃      〃       「イタリアU」
          他、より一部引用

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      オーストリア        貨幣交換率 1AUS≒14円

     チロルの主都インスブルック

アルプスの山々が眼前に迫るインスブルック/写真転載不可・なかむらみちお  チロル州の主都インスブルックは“イン川にかかる橋”と言う意味で、その言葉が示すように、イン川の川岸に発展した都市である。ヨーロッパ・アルプスの山中に存在する人口10万を越える都市(北見市程)である。1964年の冬季オリンピックの開催地(1976年に二度目の開催)であっただけに街の北側、南側はすべて山、いかにもチロルの主都としての雰囲気を持っている。
 インスブルックに着くと、先ず駅の一時預けに荷物を預け、カメラと洗面具を背のリックに入れて街へ出る。こうすると身軽に行動する事が出来る。駅前の観光案内所で今日の宿を紹介して貰う。宿は駅の裏側へ歩いて10分と言う。案内所でもらった地図を頼りにガード下を潜って行くと三叉路に出た。ここからどちらへ行ったら良いのか一瞬とまどう。ちょうど通り掛かった人に道を尋ねてから再び歩き出す。
 その宿は橋を渡った川のそばの簡素な場所に建ったレストランであった。川の流れの音で夜はうるさくないだろうかと少し心配だった。部屋はそのレストランの2階で、かなり広い。一人で泊まるのはもったいないような何か落ち着かない気もする。
 夕食は階下のレストランに行き、ワインとステーキを食べた。ボーイさんがとても感じの良い人だった。食事の後、私が「六ケ国語会話集」を見ながら
 ダンケ    エス ハット  グート   ゲ シュメクト
Danke,es hat gut geschmeckt.(ごちそうさま)
と言おうとして、“ダンケ、エス ハット グート…”まで言ったところでつまずいてしまった。次の言葉を探していたら、そのボーイさんが“…ゲシュメクト。”と助け船を出してくれてニコツと笑ってくれた。

     われ軟禁さる!

    5月07日(木)インスブルック7:00-9:56オーバグルグル11:35-13:10エッタール13:56-15:00インスブルック16:05-19:27ミュンヘン
 今日はインスブルック駅前7時ちょうど発のバスでチロルヘ行き、再びインスブルックまで戻って来て、出来ればフュッセンまで入りたい。かなりの強行軍である。
 朝6時過ぎに起きたが、ホテルはシーンとして静まり返っている。まだ朝が早いので皆寝ているのだろう。顔を洗って身仕度を整えて一階へと降りて行く。宿の人に挨拶をしようと思ったがどの部屋に居るのか分からない。止むを得ず挨拶はせずに失礼する事にする。ところが玄関のドアが開かないのである。ドアのノブをいくら廻そうとしてもガンとして廻らないのである。錠を開けて貰おうと思い、再び宿の人を探したがどの部屋にもそれらしい人が居る様子はなかった。昨夜、このレストランで夕食をした時に、あのボーイさんに、確かに今朝6時半に出発すると言って分かって貰っていたはずなのに、これは一体またどうしたという事なのだろうか。バスが発車する時刻は刻々と迫ってくる。少なくとも45分にはここを出なければ間に合わない。何処か出られるところはないかと探してみる。二階からはまず無理。調理場へのドアが開いたので行ってみたが裏へのドアにもカギがかかっている。ここの人は誰もいない。多分カギを掛けて自宅へ帰ったのだろう。完全にカンヅメである。こうなってはもうどうしようもない。覚悟をきめて玄関の開くのを待つしかない。近くにあった椅子を踏台にして欄窓から外を見る。人通りはほとんどない。
 待つ事しばし。時間は刻々と迫り、ついに6時45分になった。もう、今行かなければ予定した一番バスには間に合わない。もうだめだ!
 その時、向こうの歩道を中年の女性が急ぎ足でこちらへ来る。もしかしたら…ほのかな期待をかける。その女性が玄関前に立った。鍵が開けられた! 助かった! 私が玄関に居たので先方もびっくりした様子であった。挨拶もそこそこに大急ぎで駅へ。
 街のビルの上に、アルプスの山々が覗き込むように顔を出していた。快晴である。ようやくチロル方面行きのバスを探しあてた。発車の3分前である。間に合って良かった。しかしトイレに行く暇がなかった。又、新たな心配が脳裏をよぎる。

    アルプスの麓、チロルヘ

 チロルは東アルプスの最も高い地域を占めていて、3000b級の山々、氷河、万年雪の世界からアルプスの牧草地、豊富な森林が渓谷を埋めている。こうした厳しい自然と地形は特殊な方言、服装、家屋、風俗、習慣を産み、特有の文化を育てていった。そして造形芸術に鋭い感覚を持ったチロル人は、チロル独特の文化を造り上げていったのである。いわばチロル人は、日本でいえば「飛騨の匠」達だったのである。こうして人間の最も美しい面と自然の美しさが絡み合い、融け合って出来たのがチロルである。
 インスブルックからイムストヘのイン川ぞいの幹線道路の途中から、南にエッツタールへ入る。バスはエッツタール駅で一休みする。
 エッツタールはチロル地方でもっとも大きく深い谷の一つで、奥にはエッツタール・アルプスの輝く氷河があり、多くの深い渓谷によって構成された地形は、古いチロルの民俗を今に伝えている。
チロル地方/写真転載不可・なかむらみちお  バスは快調に谷間を走る。奥深く入るに従って周りに山々がとり囲み、谷間のなだらかな草原にはところどころに作業小屋があり、チロルらしい風景となってくる。この先の風景が楽しみだ。
 最初の村はエッツで標高は約800b。このあたりからのアッハーコーゲルの眺めは谷の入り口にふさわしく、その岩峰とともに印象的である。ドロミテのコルテナ調の家の多いエステルロイテンを過ぎて、17世紀、ペストが流行したとき建てられた教会のある美しい村レンゲンフエルトヘ向かう。ここは標高約1200b、既に谷の入り口から34q登って来た事になる。ここを過ぎてフーペンまで来ると、谷はますます深くなり、峡谷となってセルデンヘ着く。ここはエッツタールの中心ともいえるところで、標高は1400b近く、古いチロルの建物やホテルなどがたくさんある。

オーバーグルグル/写真転載不可・なかむらみちお  そのままグルグラー夕ールに入って行くとあたりは荒涼として氷河の山々の眺めは素晴らしくなってくる。そしてこの谷のどん詰まりに、エッツタール最後の村オーバーグルグルがある。ここはエッツタールの入口からすでに52q、標高は1910bに達している。
 ロツヂ風のホテルが建ち並ぶ中心地にバスが停まった。終点である(バス代115AUS)。近くにはスキー場があるがリフトは止まっいる。ところどころに残雪があるだけ。

シロバナサフランの花々とエッタールアルプス/写真転載不可・なかむらみちお  近くの丘に登ってみると抜けるような青空に白銀の峯々が連なる。その下に今バスから降りた集落があり、その中に先の尖った塔を頂いた小さな教会が目立っている。足元にはシロバナサフランの花が一面に群れになって花を咲かせていた。残雪のエッタールアルプスと青空をバックにシャッターを切る。
 気温が上がってきた。この地方はひんぱんにフェーン現象が起きるという。暑いくらいなのもそのせいかも知れない。小学生高学年くらいの二人の男の子がアイスキャンデーをなめながら通り過ぎて行つた。昼食のためレストランに入る。山が良く眺められるこのレストランのテラスでは、登山家らしい二人の男がテーブルを挟んでジョッキーを傾けていた。冬のスキーから夏の登山シーズンまでの丁度端境期らしく、客はこの二人と私だけだった。お土産店にも人影はなく、店員さんも手持ち無沙汰。一通り見廻した後、記念のワッペンを買う。

     帰るバスがない!

 帰りのバスの時間になったのでバス停へ行く。しかし、いくら待ってもバスが来ない。他に客は一人も居なく、私一人である。いくら山の中でもこれは一寸変だなと思い、傍らに表示している時刻表を見たらそのバスだけ載っていなかった。なぜだろう。間違いではないだろうか。日本で調べたトーマスクックの時刻表には確かに載っていたはずなのに…。もう一度時刻表を取り出してよく見ると、注意書きが書いてあった。ヨーロッパの時刻表には列車も含めて注意書きが多い。横文字には弱いもんだからついつい見逃してしまつて失敗する。予定していたバスは来月から夏の間だけ走るバスであった。これでは来ないはずである。私は焦ってしまった。このバスに乗らなければ今日の予定のフュッセンには行き着けないからである。
 通りに出て時々通りがかる車にヒッチハイクよろしく手を挙げてみたが、いずれも「そこまでしか行かない」というようなゼスチュアをして通り過ぎてしまった。止むおえず次のバスで行く事に腹をきめる。今日中にフュッセンに入るという計画は初めから自信がなかったのだから、この際、今夜はミュンヒェン泊まりにしたほうが無難かもしれない。宿を予約していないフリーの旅というものはこんな時は気楽で良い。パック旅行なんてクソクラエ! 運任せ天任せ、足の向くまま気の向くまま、天気次第の旅鴉である。しかしミュンヒェン着があまり遅くなると宿を探すのは難しくなる。
 次のバスはインスブルックまでは行かず、途中の鉄道駅、エッツタールまでであった。そこで列車に乗り替えてインスブルックに行く事にする。
 インスブルックの駅で、前日預けておいた手荷物を受取り、ミュンヒェン行きの列車に乗り込む。インスブルックを出た列車は間もなく谷合いの部落を見降ろすように山の中腹を廻りくねりながら上へ上へと進む。雄大な挑めである。いくつかのトンネルをくぐりながらドイツヘの国境へと進む。車窓から見降ろす谷合いの風景が美しい。

▼オーストリア編参考書:実業之日本社 ブルーガイド海外版「スイス・オーストリア」

              他、より一部引用

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         西ドイツ

                                  貨幣交換率 1DM≒98円
     気分は王様

 やがて列車はミユンヒェン駅に着いた。思ったより大きな駅だ。ヨーロッパの主要な駅は全体が大きなドーム形となっており、線路は広げた手の指と指の間に入って行くように、その先は行き止まりとなっている。指がホームであり、掌のところでホームとホームが繋がっている。そのため跨線橋がないので乗り替えも楽で助かる。列車が再び動き出すためには、再後部に機関車を新たに取り付け、今来た方向に再び進む事になる。
 「芸術とビールの都」ミユンヒェンは、ベルリン、ハンブルクに次ぐ西ドイツ第三の大都会で人口約140万。バイエルン州の首府で、南ドイツの文化、交通、商工業の大中心都市である。
西ドイツ  両替を終えてから観光案内所へ行く。先ず札幌市観光課から貰ってきた札幌市民であることを証明する証明書を提出して「ミユンヒェンの鍵」を貰う。これは、札幌市と姉妹都市であるミユンヒェン市が、訪れた札幌市民の為に、市内の乗り物とか入場料を割引してくれる証明書である。これを貰ってから宿の紹介を依頼した。あらかじめ、列車の中で例の「六ケ国語会話集」を開き、メモしておいた紙片を取り出して
Ich mochte ein zin zimmer nicht bad.イッヒ メヒテ アイン ツインマー ニヒト バート
(風呂無しの部屋一人分ほしい)
と申し出ると、どうやら通じたらしい。風呂付きでない部屋は安いのである。窓口係員は駅前のメトロポールホテルを紹介してくれた。更に
ヴイー  トイエル  イスト  ダス  ツイマー
Wie teuer ist das Zimmer?(部屋代はいくらですか?)
と聞くと39D.Hという。予算より少し高すぎる。
ハーベン ズイー エトヴァス ビリゲレス
Haben sie etwas Billigeres?(もっと安い部屋はありませんか?)
         ナイン
とねばると、答えはNein.(いいえ)とつれない。
 部屋は六階建の最上階。眺めが良い。部屋の天井近くの隅に斜めに簗のような鉄骨が走っている。きっとこの部屋はこのホテルで一番安い部屋なのであろう。でも一、二流級のホテルだから部屋は奇麗だしベッドもちゃんとしている。間題はない。大きなホテルの割りには安い。ヨーロッパのホテルは風呂付きの部屋でなくても、そのフロアには必ず有料の風呂と無料のシャワーがある事になっている。安く泊まる為には風呂付きでない部屋をとるのがコツである。
 フロントヘ行って風呂に入りたいと申し入れる。係員を行かせるから部屋で待っていろと言う。間もなく係の女の人が来て案内してくれた。係の人が私の部屋の斜め前の部屋のドアの錠を開けてくれた。中は六畳間ほどあり、その又奥の4.5畳ほどの部屋に白い大理石の大きな風呂があつた。日本の旅館の、皆で共同で入る風呂よりも大きい。一人で入るのにはもったいないような気がする。係の人が蛇口を稔ってお湯を出し、タオルと石鹸とドアの鍵を置いて行った。
 たっぷりと満たされた大理石で出来た湯舟にどっぷりと首までつかり汗を流す。べニスの宿以来久し振りである。まるで王様になったような気分である。暴君ネロもこんな気分だったのかも知れない。最高の幸せ気分で満足満足。旅の疲れもいつペんに消し飛んでしまう。料金は別会計で6DMである。その他に係の人にチップをあげる事を忘れないように…。
 風呂上がりに大きなジョッキーを傾けたのは言うまでもない。

     ノイシュヴァンシュタイン城をめざして

    5月08日(金) ミュンヒェン-フュッセン
ミュンヒェンの朝焼け/写真転載不可・なかむらみちお  ミュンヒェンの朝は真っ赤な朝焼けで始まった。聖ミヒヤエル教会のイタリア・ルネサンス風の大ドームとミュンヒェンのシンボル、フラウエン教会の高さ100bのゴチック様式の塔が茜色の東の空にシルエットを浮かびあがらせている。
 ミユンヒェン中央駅の構内には売店を初め花屋さん果物屋さんなどいろいろの店がある。ホームの近くにビールを売るスタンドもあるのはさすがビールの都ミユンヒェンである。
 この店にはソーセージサンドや、豚のレバーとチーズを混ぜ合わせたレバーケーゼも売っている。レバーケーゼは大根のような太さの棒状に丸めたものをオーブンの中に入れて暖め、それを1a程の幅にスライスしたものを皿に乗せて売っている。ビールのつまみには最高で、とてもおいしい。売店の前にはビヤ樽を縦にして、その上に丸い板を乗せたテーブルがいくつか置いてある。朝7時だというのにもう店を開いている。通勤客らしいミュンヒェン子がそのテーブルを囲んでジョッキーを傾けている。私も仲間入りしてビールとレバーケーゼとソーセージサンドで朝食を済ませ、隣の果実店でイチゴを買ってデザートとしやれこんだ。
 フュッセンヘ向かう列車の窓からは牧場が見え、一面に真黄色なタンポポの絨毯が敷き詰められている。その遥か向こうにはドイツアルプスの白い山脈が連なる。おとぎの国のように美しい眺めが続く。稚内とほぼ同じくらいの緯度ではあるが暖流の関係で日本よりもづっと暖かく、札幌の季節と似通っている。ミュンヒェンを出てから1時間程で、Kaufbeurenに着く。ここでフユツセン行きの列車に乗りかえて更に1時間ほど走るとフュッセンに着く。列車から降りてキョロキョロ辺りを見回していたら荷物預かり所の人が私を手招きしている。荷物を預けるんだろうと言っているらしい。
 フュッセンはドイツの最南部、アルプスの麓にある。峠を越えればそこはもうオーストリアでありチロルである。夏の登山、冬のスキーのパラダイスである。だがフュッセンの興味はむしろ二つの王城見物にある。一つはホーエンシュヴァンガウ城で、黄色味がかった壁のどっしりした城で、1832年から4年間を費やしてバイエルン王マクシミリアンU世が建てさせた。これは城と言っても実際には王宮で、ここで少年時代を過ごした王ルートヴィヒU世の夢は、やがて父王の世界から更にはばたいて、向かい側の山の中腹に、その名の通り、白鳥の如く優雅な姿で聳え立つノイシュヴァンシュタイン城の実現へと向かっていったのである。

      あわや遭難!

 荷物を駅の預かり所に預けて街に出た。城へ行く前に先ず宿を決めなければならない。観光案内所で紹介された民宿は近くの金物屋さんのHAUS Lochbihlerだった。建物は真新しかった。脇の勝手口のブザーを押すと、品の良い中年と言うのにはまだ若い奥さんが出てきた。案内所で貰った紹介状を差し出すと頷いてニツコリ、家の中に招き入れてくれた。その紹介状には宿賃が20DMと書いてある。彼女はそれを18DMと書き直して私に示した。20DMでも安いと思っていたのに18DMとは意外であった。しかも朝食付きで…。
 再びフュッセン駅へ行き、駅前から9:30分のバスでノイシュヴァンシュタイン城へと向かつた。
ノイシュヴァンシュタイン城/写真転載不可・なかむらみちお  フュッセンの街から数`のホーエンシュヴァンガウでバスを降りると目の前の丘の上にまるでおとぎ話から抜け出したように白く美しいノイシュヴァンシュタイン城が青空に聳えている。これこそ永い間夢にも見ていたノイシュヴァンシュタイン城である。城主ルートヴイヒU世と親密だったリヒアルト・ヴァグナーの楽劇「ニュールンベルクの指輪」の中の「ワルキューレ」がどこからともなく聴え、城が私の目の前に迫って来た。
 この城は今から100年前の1869年に着工、17年の年月をかけて完成した豪華なものである。山間の美しい湖アルプゼーを背景に眺めるその姿は、この世のものとも思われないほど美しい。残念ながら裏山への一般登山路はない。城の前にある売店の主人に聞くと、正面から城を写すアングルは城の裏を廻り、山道を辿り、渓谷にかかる高い橋を渡って崖縁を伝って行かなければならないと言う。私はこれからそこまで行ってくるつもりだと言うと、その主人は半ば呆れたような顔をしていた。
 その売店で一杯2DMで売つていたジュースを水筒に2杯分入れてもらい、今、店の主人から教わった道を城の裏山へと向かった。

カモシカ?/写真転載不可・なかむらみちお  渓谷にかかる高い橋を渡り、城の裏山をつづら折りに登る。辺りを見渡しても私一人で誰も居ない。広葉樹林の間を只一人で黙々と前へ進む。すると突然前方の木立の間を素早く何かが過(よ)ぎった。立ち止まってこちらを見ている。カモシカらしい。背中のリックから200mmの望遠レンズを取り出してスナップする。
 行けども行けども目指す城の正面の場所に出る道が分からない。道なりに進むと、どんどん高度が増してくる。遂に小さな山の頂上近くに出てしまった。その頂上を廻り込むようにして道は尚も続く。ここを下って次の小山へ。城からは段々離れてゆくようだ。周りが山に囲まれているので城との位置関係が分からない。どうやら高度1720bのTegelberg(テーゲルベルク)に向かつているらしい。登山道路の所々が残雪に覆われて、行く手を阻む。傍らの岩の上で鹿がビックリしたような顔をしてこちらを見ている。日本を発つ前からこのアングルだけは、なんとしても一枚写しておきたかった最重点の絵なので、今更ここで引き返すのは残念である。この城はこの場所から撮るのにだけ来たようなものなのだから…。
 夏の皮靴で四つん這いになりながら滑り落ちないように足場を固め、慎重に一歩一歩雪の上を前進した。雪国の北海道で生まれ育った道産子がこんな処で遭難なんかしてはいられない。ここを過ぎれば、お目当てのアングルに出られるような気がする。一歩一歩慎重に注意深く尚も前進する。
 雪の上を約100b程進んだ処で、再び登山路が顔を出した。助かった! ホットして空を仰ぐと、赤と黄色のハンググライダーが舞っていた。その上方にスキーのリフト(多分Reithlift)が見えた。きっとそこまで行ったら道があり、あるいは電話を借りてタクシーを呼べるかもしれない。
 思いがけなくも、ついに高い山を二つも越えてしまった。おそらく手稲山(標高1024b)の頂上まで登って降りて来た事になるのではないだろうか。疲れた。背のリックが、ずっしりと重い。このところ何年も山登りなどしていないのに、よくもまあこの重い中型カメラとその交換レンズ、それに35oのカメラを背負って山二つも越えたものである。われながら感心してしまった。
 リフトの頂上駅はシーズンオフで誰も居なかつた。スキー場の草原を歩いて降りる事にする。登山前に仕入れたジュースはとっくに飲み干して一滴もない。喉が渇いて死にそうだ。こんなつもりじやなかったので昼食も持っていない。アエロフロート機はサービスが悪いと聞いていたので、その時若し腹が減ったら食べようかと思って、日本から買ってきた乾パンがリックに入っていた。一応、何かの時の為に、と入れておいたものである。昼はそれをかじっただけである。
 ようやく麓の牧場まで降りて来た。来る時渡った城の裏の橋から流れてくる川の下流に辿り着き、激しい勢いで流れる谷川の冷え切った水を手ですくい、むさぼるように飲み干した。
ノイシュヴァンシュタイン城/写真転載不可・なかむらみちお  結局アングルが分からないままに降りて来てしまった。午後の5時頃であつた。午前10時過ぎに登り始めたから約7時間、ほとんど歩き詰めで戦果は零。疲れたがよくもまあ頑張ったものである。このまま日本へ帰る訳にはゆかない。今日はほんのロケハンで明日が本番である。
 くたくたになって、再び城の前の売店前に帰って来た。売店の主人に訳を話して、明日、ガイドを雇えないかと聞いてみたがダメだった。若し、居たとしても1万円も2万円も取られるらしい。又、あの道でこれまでも何人かが滑り落ちたこともあるという話をしていた。やむなく街へ引き返す事にした。観光案内所で相談しようと思って行ってみたが、そこは既に閉まっていた。
 宿に帰って奥さんに相談してみたが「ガイド」という言葉の意味が通じない。アルプスを控えたスイス、ドイツは登山が盛んなので、「ガイド」という言葉は当然通ずると思ったのだが意外だった。例の「六ケ国語会話」を出してみたが、そんな会話は何処にもなく、完全にお手上げになってしまった。奥さんも気の毒そうに困ったような顔をする。そこにご主人が帰って来た。ご主人なら通ずるかもしれないと思ったが、やはり「ガイド」という言葉は通じなかった。そこで「ポーター」という言葉に言い換えてみたらようやく意志が通じたようだった。後で和独辞典を調べてみたら、Der Fuhrer(先導者・案内者)と言うそうだ。大学時代に使った私の辞典を引いてみたら、教わった証拠のアンダーラインが赤鉛筆で引いてあった。全く何をやっているのか我ながら呆れたものである。
 結局、「案内人」の心当たりはないという事で諦めざるを得なかった。せっかくここまで来て残念なことである。一番期待していた写真だったのだが…。
 食欲もないほど疲れ切ったが、何か食べないとバテるかも知れない。宿の主人に教えて貰って街のレストランヘ行った。
 レストランはすぐ分かった。入ってみると、客は皆外人ばかりだった。…と、片隅のテーブルに眼鏡をかけた日本人らしい若者が目に付いた。私は懐かしさのあまり「日本の方ですか?」と声を掛けた。ナポリで会った小林さん以来、日本人と話をしていないのである。彼は「そうです」と日本語で答えた。そして「こちらへ来ませんか」と誘ってくれた。渡りに舟とはこういう事を言うのだろう。一人で食べるよりも二人で話をしながら飲んだほうが楽しい。フュッセン名産のビールで「乾杯!」。これで少し疲れが癒された。
 彼はドイチェバンク東京支店のSさんという人だった。近く、ドイツの本社で研修を受ける前に休暇を楽しんでいるとの事だった。彼とは話も弾み、もう一軒飲みに行く事にした。しかし、それ以上は昼の疲れで付き合う事は出来なかった。彼も明朝一番のバスでノイシュヴァンシユタイン城へ行くという事なので、バス停で待ち合わす事にして別れた。

     三脚のヘッドがない!

    5月09日(土) フュッセン滞在
 朝から快晴。昨日の疲れもようやく八分通りとれた。城の正面への山登りは道も分からないことだし今日は諦めよう。
 昨夜レストランで知り合ったS氏はバスの発車時間が迫ったというのに現われない。7時。バスが今正に発車しようという直前に彼は駆け込んで来た。寝坊したとの事。一緒のバスで城へ向かう。彼は城の近くのホーエンシュヴァンガウでバスを降りた。又夕方合う事にして私はひとつ先のバス停まで行った。ここは、一面にタンポポの花が咲いた草原を挟んで、向こうの山の麓にノイシュヴァンシュタイン城が良く見える。
 天気は快晴。カメラ機材一式をカートに乗せ、アングルを求めて歩き始める。先ずコースを左に取り、山の麓の牧場内を上の方に向かつて登って行く。牧場を登り詰めた処で不図見たらカートの上の三脚のヘッドが落ちて無くなっていた。(早くも紛失かッ!)。
 元々、旅の終わりで壊れたら捨てるつもりで買った安物の三脚だが、それにしても未だ旅は始まって間もないのに…。少々早通ぎた気がする。この草原の中じや探しようもなく、諦めるより仕方がない。明日、ミュンヒェンのカメラ店を探してみよう。しかし、ヘッドだけ売っているだろうか。そんな事を考えながら、なるべく来た時通ったであろう道筋を、カンを働かせて探しながら山を下って来た。
 …あった! 偶然にしてもあまりにも運が良く、出来過ぎている。何かの間違いではないかとキツネにつままれたような気がする。胸の動悸を押えるようにして駆け寄り、拾って良く見る。まさしく紛れもなく私の落としたヘッドだ。早速三脚に差し込んでみる。止め捻子が落ちた為にヘッドが取れたのだ。止め捻子はないが、ヘッドその物がなくなるよりましである。差し込めばかろうじて使う事は出来る。この小さな止め捻子を探すなんていう事は、それこそ砂漠で落としたコインを探すようなものだ。捻子一本だけではカメラ屋も売ってくれないだろうなぁ。そんな事を考えながら草原から砂利道の農道へ出た。その道を尚も、落とした捻子を一応探しながら歩いていたら…。 アッタ! これこそまさに奇跡である。早速ヘッドに差し込んでみるとピッタリ! こんな事って本当にあるのだろうか。ついているとしかいいようがない。運が良い。ヨーロッパ到着以来天気にも恵まれたし、心配していた盗難にも合わなかった。どうぞこのツキが最後まで続きますように…。
ノイシュヴァンシュタイン城/写真転載不可・なかむらみちお  ノイシュヴァンシュタイン城の中に入り、場内を見学する(入場料0.2 DM)。入口を入ると記念品とか観光土産を売る売店があり、そのすぐ奥が待合い所になっている。案内の人が順番に、何人かづつまとめて案内してくれている。案内はドイツ語か英語。日本語は30人以上まとまると日本語の解説の入ったカセットテープ再生器を貸してくれる。分からないながらも私は英語の案内嬢のグループに付いて行った。どうせ分からないのだから何語のグループでも良かったのだが、聞いていてもヤッパリ分からない。説明している間、只ボンヤリとあたりを見廻したり写真を撮るだけであった。昔、ロンドンの観光バスに乗った時にもこんな経験をしたことがあつた。バスガイドの話に、周りの外人はゲラゲラ笑っているが、私にはなんの事か全く分からない。むしろ外人のその笑い声が腹立たしかった。
 ドイツ訛りの強い英語の案内嬢は、風邪をひいているらしくひどい咳をしていた。城内はキラビヤカで目を見張る程黄金色に輝いていた。どこか日光の東照宮を思わせるような軽薄さが感じられる。
 城の内部はルートヴィヒU世の憧憬したリヒアルト・ヴァグーナーの楽劇の物語の壁画などで埋まり、少々どぎついきらいがあるがその部屋部屋には国費までも傾けた王の執念がいまだに立ち去らぬ感さえする。この夢の王城の完成後、わずか3ヶ月で若き国王は狂人として王座を追われ、その3日後に近くの湖で溺死体として発見された。
 城を出てから城の裏のマリエン橋へ行く。昨日渡った橋である。ここからは横向きの美しい城が一目で良く見える。この橋の袂からホーエンシュヴァンガウ行きのバスが出ている。バス代は別の道を通っている観光馬車と同じだった。これじや観光馬車に乗ったほうが楽しかったかナ。
ホーエンシュヴァンガウ城/写真転載不可・なかむらみちお  ホーエンシュヴァンガウでバスを降りその足でお隣のホーエンシュヴァンガウ城へ向かう。
 ホーエンシュヴァンガウ城はシュヴァンガウの村のすぐそばにあり、ノイシュヴァンシュタイン城の近くの森の中に王冠のように聳え建っている。小丘だからすぐ登れる。
 黄色味がかった壁のどっしりした城でかつては城塞であったが、1832年にバイエルン王マキシミリアン二世が荒廃した城を壊して近世風の居館を建てた。ネオ・ゴシックの様式はイギリスのマーナーハウス風(領主の館)という建物は城のスタイルを踏襲しているが離宮である。
 マキシミリアン二世はわが子ルートヴィッヒ二世をこの城で養育した。城内は王子のために特別に装飾され、今も豪華さを伝えている。
 ここで少年時代を過ごした王子ルートヴィッヒ二世の夢は、やがて父王の世界から更に羽ばたいて、向かい側の山の中腹にその名の通り白鳥の如く優雅な姿でそびえ立つノイシュヴァンシュタイン城の実現へと向かっていった。
 城内はゴシック、ルネッサンス、ネオ・クラシック、そしてある部屋はオリエント風とそれぞれ装飾されている。美術品のコレクションも見事だ。音楽室にはワーグナーが使ったピアノもある。ルートヴィッヒ二世の幼児の寝室には天井に夜の空が描かれていて、星の光まで照明で造られていた。
 昼をかなり過ぎた頃城を後にした。喉が渇いた。今朝フュッセンから来た時に降りたバス停まで来ると偶然にも今朝ここで別れたS氏に出会つた。二人で近くのレストランの前庭に設えたテーブルに席を取り、フュッセンビールを一杯。民族衣装を着た中年のウエイトレスが忙しく立ち働いていた。
赤ちゃんの洗礼/写真転載不可・なかむらみちお  彼と一緒にバスでフュッセンに帰って来たが、夕食にはまだ間がある。二人連れ立って近くの教会を見に行った。片田舎の小さな町にしては大きくて立派な教会である。中では、いましも赤ちゃんの洗礼が始まろうとしていた。両親と牧師さんに了解を得てその模様を写真に撮らせて貰った。
 近くのレストランでS氏と乾杯。夕食を共にする(15DM)。夕暮れが迫って人影も疎らなフュッセンの街に先ほどの教会の鐘が厳かに、そして高らかに鳴り響いた。なんとも言えない最高に良いムードである。録音しておきたいような良い音色だったが、残念ながらテープレコーダーは駅に預けたスーツケースの中だった。

     ホーフブロイハウスで乾杯!

    5月10日(日) フュッセン-ミュンヘン
 今日も又快晴。朝6時、駅前からタクシーを拾って朝日に輝くノイシュヴァンシュタイン城を撮りに行く。太陽が未だ山の陰から顔を出さず、城には朝日が当たっていない。一旦タクシーを帰して太陽の出るのを待つ。周りは広々とした草原で私以外には誰も居ない。小一時間待ったが太陽は顔を見せず、そのうちに約束のタクシーが来てしまった。
 宿に帰って顔を洗い朝食の知らせを待つ。呼ばれて二階の食堂へ行くと奥さんの姿はなく、御主人自ら御給仕をしてくれた。今日は日曜日だから奥さんは休みなのかな?こんな朝早くから私の為に働かせてなんだか悪いような気がする。
 ヨーロッパの朝食はパンとチーズとコーヒーくらいで極く軽いものである。この宿は昨日もそうであったが、ハムエッグも付いている。わずか18DMの宿賃だというのに、これまで最高豪華な朝食である。出来ればもう2〜3日滞在したいところだがそうもいかない。別れぎわに御夫妻と小さな坊やが玄関まで見送りに来てくれた。コンパクトカメラでご家族の写真を一枚撮らせて貰い、坊やに2DMのコインを握らせた。それと毎朝ベッドに枕銭を置いたので結局は観光案内所が書いてくれた通り、一泊20DM 払った事になる。
 フュッセン駅の荷物一時預けに荷物を受け取りに行ったら、かの係員が盛んに何か話し掛けてくる。私のスーツケースの中に何が入っているのだろうと聞いている。そして、この荷物を私が預けたとき一大騒動があったのだと教えてくれた。
 私がこの荷物を預けて立ち去った後、荷物の中で何か物音がする。どうやら時限爆弾装置が動き出したらしいという事になり、全員が非難する騒ぎになったのだと言う。私をからかっている風でもなかった。本人は大真面目なのである。しかし、私には全く心当たりのない事なので冗談を言うなと軽くいなして荷物を受け取り、朝一番の列車でミュンヒェンヘと向かった。
 ミユンヒェン行きの列車は、ローカル列車と言う雰囲気があった。機関車の警笛の音色も可愛く珍しい音であった。せっかく持って来たカセットレコーダーは、スーツケースの中に入れて一度も使っていなかった事を思い出した。どうも写真にカを入れていると、音にまでは気がまわらない。
 取り出した録音器をセットしていざ廻してみたら廻らない。どうしたのかと思って良く見るとテープが終わっているのである。日本を出る時新しいテープを入れ、まだ一度も使っていないのに変な話である。何処かで使って忘れているのかなと思い返してみるが心当たりがない。テープを裏返して入れスタートボタンを押したが動かない。一度も使わないのに新しい電池がなくなっているのである。
 その時、ある事に思い当たったのである。それはフュッセン駅の荷物預所の係員が言っていた「時限爆弾騒ぎ」の一件である。私が荷物を預けたとき、係の人が置き場にドンと強く置いたためテープレコーダーのスイッチが入ってテープが廻り出した。その音があたかも時限爆弾の装置が動き出したような音に聞こえて大騒ぎしたのではないだろうか。私のテープレコーダーの押し釦式スイッチはテープレコーダーの横に付いており、それを押すとテープが廻り始めるのである。そのスイッチが本体の下向きになっていたか、上向きになっているところへ他の重い物体がスーツケースを置いた時のショックで重くのしかかったかしてスイッチが入ったのである。スイッチはそのまま入り放しになっていたために新しい電池も無くなったというわけである。これで一つ謎が解けた。
 フュッセンの駅で荷物を受け取る時に係員からその話を聞かされた時は何の事か良く理解出来なかった。今、こうして改めて思い出して、その時の駅員さん達の慌てようやら、大騒ぎをしたであろうことを思いだすと急に滑稽になり、可笑しさが込み上げてきた。フュッセン駅の人達にはとんだ迷惑をお掛けしてしまい、お詫びのしょうもない。今度フュッセンヘ行った時には事情を説明して、充分お詫びをしてくるつもりである。その時まで、あの人の良さそうな初老の係員は生きているだろうか。
 ミュンヒェンでの改めての宿探しはめんどうなので、先日泊まったメトロポールホテルにした。少々贅沢な気もするが、少し位安くてもタクシ一代などの交通費をかければいくらも違わなくなる。ここだと、駅にも近くて便利だし、大きいホテルの割には安い。大きなホテルの一番安い部屋に泊まる事は、そのホテルの立派な施設を利用出来る事なので、割安に泊まるコツの一つでもある。フュッセンでは思ったより安く泊まれたので、その分経費が浮いたのだからまあいいだろう。
 ホテルのフロントヘ行き、先日泊まった時のカードを示して一泊申し込んだところ、宿泊費も前回と同じにしてくれた。おまけにニヤッと笑って同じ部屋のキーを渡してくれた。ドイツ人も結構ユーモアがあるではないか。
新市庁舎/写真転載不可・なかむらみちお 人形の仕掛け時計/写真転載不可・なかむらみちお  部屋に荷物を置くやいなや私は新市庁舎へと急いだ。この新市庁舎は市の中心にあたるマリエン広場にあり、1867年から1908年にかけて完成されたネオ・ゴチック風の大建築物である。きらびやかな外観を持ち、美しい鐘楼にはめ込まれたドイツで一番大きいといわれる人形の仕掛け時計は、毎日午前11時に動きながら時刻を告げ、市の名物となっている。新市庁舎の建物は大き過ぎてワイドレンズでも入り切れない。広場には大勢の日本人団体客も居た。その中の一人の老紳士が仕掛け時計をバックに記念写真を撮ってほしいと彼のカメラを差し出してきた。一枚シャッターを切ってあげたら、御礼に私も写してくれるという事なので御好意に甘えた。後日、その老紳士から私の写真が郵送されてきた。堺市の外科医院長塩田亮三氏であった。義理固い人である。
 明日は丸一日バスに乗ってロマンティック街道を北上し、ヴュルツブルクまで行く予定である。日本の観光地のバスのように座席指定という方式があるのだろうか。一応確認をしておく必要が有りそうだ。それに朝が早いので、あらかじめ乗場を知っておく必要もあるだろう。
 中央駅の横から出るという事は知っていたのだが探しても中々見つからない。駅の窓口の前に居た若い日本人女性と話す事が出来た。彼女はミュンヒェンに滞在しているという事でドイツ語は達者らしい。駅の窓口の係に聞いて貰ったところ、やはりさっき行ったこの駅の北側に事務所があるという答えだった。彼女に御礼を言って別れた。
 探し始めてから2時間半程かかってようやくその事務所を探し当てる事が出来たが、午前中で閉まっていた。とにかく明朝少し早めに来てみるしかないだろう。
 さっき駅前で大きな郵便局を見掛けた。日曜日でも開いているらしい。こちらへ来てからまだ一度も家へ電話を掛けていないので心配だ。早速電話をしてみる事にする。窓口に申し出るといくらだったか先ずお金をとられた。かなり高い。そして並んでいる電話ボックスの内の一つを指してそこに入れと言う。ようやく妻と話す事が出来た。留守中異常はないという事なので一安心。ボックスを出て係員のところへ行くとお釣りをくれた。これで納得。
 ミュンヒェンの銀座とも言えるノイハウゼル通りに行ってみる。ここは歩行者天国のショッピング・ストリートで、近代的なビルと歴史的な建物が対象的に存在し、デパート、専門店、レストランなどが軒を連ねる。今日は日曜日のため、ほとんどの商店は店を閉じていた。
 ミュンヒェンと言えば「芸術とビールの都」。日本人の7倍も飲むと言われるドイツ人のビール好きは、ミュンヒェンにおいて極致に達する。大小の醸造会社がこの地に集まり、有名なホーフブロイハウスをはじめとする賑やかなバイエルン風ビアホールが市民や旅行者を誘っている。
 ホーフブロイハウスとは、宮廷ビール醸造所を意味する。今の建物は16世紀頃バイエルン王室の御用醸造所であった跡地に19世紀に建てられたもので、全階合わせると5000席もあるバイエルン風マンモス・ビアホールである。
 1919年の秋にヒットラーがここでナチスの前身、ドイツ労働党の最初の大集会を開いた事でも有名である。今はそんな暗い時代の名残もきれいにぬぐい去られ、陽気なバイエルン人たちの歌声がにぎやかにこだましている。
 一階のホールのあちらこちらには天井を支える太い柱が立っており、思ったより広くはなかった。中央にボックスが設けられ、バイエルン風の民族衣裳を着た数人編成のプラスバンドが、プカプカドンドンとホールいっぱい響く大音響でマーチを奏でている。そのバンドの中で大太鼓を両腕で打ち鳴らす女性はバイタリテーに溢れているばかりでなく、チャーミングでさえあった。その後2〜3日はその女性の太鼓を打ち鳴らす姿が脳裏から離れなかった。
 ホールには長四角い木製のテーブルが並べられており、そのテーブルを挟むようにして両側に長椅子が置かれている。そのテーブルの間を縫うようにして大きなジョッキーをいくつも抱えた中年のウエイトレスがビールを運ぷ。ここでも若い日本人のアベックと合い、一緒にジョッキーを捧げ、テーブルを挟んで青春を分かち合った。
 トイレを探していると裏口ヘ出てしまった。そこは裏小路となっており、ピンク色の照明をした小さな店があった。日本でもよく見掛ける「大人のおもちゃ」のような物を売る店かもしれない。
 外はいつの間にか夜のとばりが降りていた。われわれ日本人3人組は、人通りも絶えた繁華街を大声でわめきながら、半ば千鳥足で地下鉄の入口ヘと歩いて行った。青春万歳!

         ロマンティック街道の旅

    5月11日(月) ミュンヘン8:00(ロマンチックシュトラーセ)-17:10ウエルツブルク
 古き美しきドイツの姿を求めてロマンティックな旅行をしてみたいという人にぜひお奨めしたいコースがある。その名もロマンティック街道である。
ロマンティック街道  フランクフルトの東方約100qに有る古都ヴュルツブルクから、ドイツの最南部、アルプスの麓にあるフュッセンの街に至るこの全長約350qのコースは、昔からドイツの中部と南のイタリアを結ぶ重要な通商ルートの一つであった。そのためこの線上にはアウクスブルクや、ローテンブルクを初めとする数々の都市が栄え、今日でも昔ながらの城門や家並みを誇る美しい町や村が、さながら一連の大きな真珠の首飾りのように連なって、私達の心に中世への幻想をかきたてる。更にこのコースの良さは、未だあまり観光の為に俗化されていない町の静けさやのどかな田園風景であり、最後にはアルプスの清冽な大気を味わい、おとぎの国にも似たバイエルンの夢のお城を訪れる楽しみもある。私は今回このコースを逆に辿ることにする。
 先ず、ミュンヒェン中央駅へ行き、駅構内の売店でミルクとレバーケーゼ、それにヴィルストブレッドを買う。レバーケーゼにこつてりとマスタードをまぶして食べる。
 駅に向かって右側の広場には、昨日見ておいたバス乗場がある。既にアメリカ人らしい若者達のグループが並んで待っていた。私の後に若い日本人の女性が並らんだ。どうやら座席指定はないらしい。手荷物はお金を払ってバスの下部にある荷物室に納められる。
 ほぼ満員の乗客を乗せてバスはアウクスブルクヘと走り出す。私の隣の席には先程の日本人女性が座ったので(いや私が座ったのかな?)心強い。途中、いろいろと助けてもらう事になる。
 ミュンヒェンから約40分走ったところで、このルート最大の都会アウクスブルクに着いた。駅で小休止。この町はバイエルン州第三の都会で人口21万人。釧路市程の大きさである。その名の通り、この都市の歴史は古代ローマ帝国のアウグストウス帝の時代(前15年)にまで遡り、ドイツ最古の歴史を誇っている。マクシミリアン通りにあるるドームには最古のステンドグラス(12世紀の作品)がある。
 バスは一路のどかな田園風景を眺めながら北上する。ワンマンバスの運転手は陽気で楽しい。運転しながらシルクハットを出してかぶったり、笛を吹いたり、マイクで冗談を言いながら乗客を笑わせて退屈させない。ドナウヴエルトでロマンティック街道はドナウ河に出会う。車内にシュトラウスのワルツ「ドナウ河の漣」が流れた。
ネルトリンゲン/写真転載不可・なかむらみちお  途中ハンブルク城を眺めた後、ネルトリンゲンに入る。ここで再び小休止。ここは二つの見物(みもの)がある。高さ90bもある塔を誇る堂々とした15世紀聖ゲオルク教会と、完全な形で保存されている城壁。特に城壁は16の城門を持ち、ほぼ円形にぐるりと旧市をとりまいている。ネルトリンゲンもまた生きている完全な中世都市なのである。

着飾った子供達/写真転載不可・なかむらみちお バスの停車時間があまりないので急いで城門まで走る。お祭りなのだろうか、道の途中で着飾った子供達に会った。その衣裳は何処かアラビア風で、ドイツに居るにもかかわらず錯覚しそうになった。

デインケルスビュール/写真転載不可・なかむらみちお  次は40`北のデインケルスビュール。この小さい町はやはり中世以来の由緒深いもので、これから向かうローテンプルクに優とも劣らない美しさを誇つている。町の中心にはロマネスクの尖塔を持つ古い聖ゲオルク教会がそそり立つ。聖堂の内陣はホール型教会の典型として名高い。塔上からの眺めは素晴らしく、おとぎの国のような家々の屋根の美しさに時を忘れる。教会の前に並ぶ見事な家々のうち左から3軒目、テラスのゼラニウムの花が焦げ茶色の梁と美しい対象を見せる堂々とした造りの家は、15世紀に建てられたドイチェ・ハウスである。聖ゲオルク教会の隣の壁には、馬に股がる将軍のもとに子供がひざまずいている図が見える。これがこの町に伝わる30年戦争時代の物語なのである。
 ここでは昼食をとることになっている。先ず食事の前に城壁やドイチェ・ハウスなどの写真を撮る。今日は少々蒸し暑い。急いで戻って来たので喉が渇いた。街角のレストランに入り、テラスでビールを飲む。
 緩やかな起伏が展開する美しい農村風景に見とれるうちにバスはローテンプルクの街に入った。人口12,000人(室蘭市よりすこし少ない)。全ドイツを通じてこれほど完全に中世都市の姿を今日まで伝えている町はない。その歴史は古く9世紀頃まで遡る。12世紀に城下町としての発展が始まる。中世都市の発展を示す3っもの年代順の城壁が現存する事でも興味深い。ここの名物は市議宴会館にあるマイスター・トランクの仕掛時計である。定刻、建物正面の時計が時を告げると、その両脇の窓がさっと開き、左手に老市長の像が現われる。将軍がラッパを動かすと、それに答えるように老市長は手にした大きな杯をぐっと口に傾ける。
絵看板/写真転載不可・なかむらみちお  街を歩いて感ずる事は、非常に中世風の都市のムードがある事だ。街の中心部を通り、城門へと急ぐ。建物の入口の軒先には鉄製の細工した看板が突き出ている。そのデザインがユニークで面白い。
レーダー門/写真転載不可・なかむらみちお マルクス塔/写真転載不可・なかむらみちお 城門を写していたら雨がバラついてきた。城壁に建つ塔の上から街の俯瞰を撮る事にする。塔の中はガランとしており、二階へ上がる木の梯子が一つ掛けられているだけであった。その梯子を登ってゆくと更に梯子がある。あえぎあえぎようやく最上階へ辿り着いた。するとそこには一人の老人が木の机を前に座っていた。見物人から入場料をとっているのである(0.5DM)。
ローテンプルクの街並/写真転載不可・なかむらみちお 塔の窓から外を眺めていたら運良く雨も止み、明るさが増してきた。通り雨らしい。街の舗道が雨に濡れ、鮮かなレンガ色の瓦屋根が美しい。見晴らしも良く、良い写真が撮れた。
 街をとり囲む城壁の回廊の中を歩いていたら、向こうから日本人の老夫婦が来た。日本からのパックツアーの観光客らしい。そのおばさん、私を見ていわく、「あら!初めて日本人に会った!」とえらく感激していた。そんなに私の顔が珍しいのかと一寸変な感じがした。別れ際におばさんが「この先に民族衣裳を着た少女が二人いて、観光客に写真を撮らせていますョ」と教えてくれた。先へ行くと、なるほど少女達が居た。この少女らに何か声をかけられたが、あいにく言葉も分からず、先を急いでいたので手を振って通り過ぎた。回廊を急いで歩いていたら、足元で何かカチャ!と小さな音がした。振り向いて良く見ると私のカメラのアイビースが落ちていた。アブナイところだった。これを落としたら、このカメラの画面は見えなくなってしまう。気が付いて良かった。
 バスが侍っている広場に帰って来た。時間が少し余った。やがて先ほど回廊で合った二人の少女も続いて城壁を降りて来た。今度はこちらから頼んで写真を撮らせて貰った。御礼に日本から持ってきた五円玉を差し出したが二人とも照れて受け取ってくれない。ようやく受け取って貰う事が出来てヤレヤレ。
 ディンケルスビュールとローテンブルクは素晴らしい街であった。出来ればローテンブルクで一泊したかったのだがスケジュールがとれなくて残念。
 緑濃い爽やかな小渓谷を抜けてバスはヴュルツブルクヘと入る。ここでバスを降り、駅前の観光案内所で宿を紹介して貰う。
 案内所で貰った地図を頼りにようやく探し当てた宿はレストランの二階で、かなり年代物だったが結構感じは良かった。宿のおばさんに紹介された向かいのレストランに入ると、何か珍しいものでも見るように客が一斉に私をみる。アメリカの西部劇こんな雰囲気のシーンが有ったっけ。よそ者のカーボーイが一人酒場に入って行く。と、それまで飲んでいた土地のならず者達が胡散臭さそうに今入って来たカーボーイを見る。お定まりのシーンのあの雰囲気である。
 席に付いて待つが一向に応対してくれない。店主の奥さんらしいウエイトレスは、私を避けるように忙しく立ち働いている。調理場で働く主人が見かねて奥さんに促するがモジモジしているだけ。どうやら言葉が分からないため、東洋人は苦手らしい。ようやく主人が来てくれたのでワインとドイツ名物の豚のアバラ肉を輪切りにしてフライパンで焼いた肉とキャベツの酢漬けを付け合わせた料理(Rippchen)を頼んだ。やがて出来上がった料理は奥さんが持って来た。“ドイツ料理はまずい”とはよく聞く話だ。ここのも決して旨いとは言えなかった。しかしこの地の銘酒「フランケン・ワイン」の味は美味しかった。料金は全部で8.7DM。量が多いので残してしまった。
 夕募れ迫る街を通り、宿へ帰る。今日も疲れた。べッドに入って明日行く先の資料に目を通していたら、いつの間にか眠ってしまった。

       ロマンの夢誘うハイデルベルク

    5月12日(火) ウエルツブルク11:03-13:34ハイデルベルク17:14-18:11マインツ
 ヴュルツブルクの朝は雲が低く垂れ込めていた。この街は、マイン川の中流に望む古い都市である。八世紀中頃から大司教のお膝元として開け、ルネッサンスの時代から数々の芸術家によって文化の花開く都となった。大僧正の力を示すその館、レジデンツは、ドイツで最高とうたわれる見事なバロックの大宮段で、正面の装飾の像が美しい。
マリエンベルクの要塞/写真転載不可・なかむらみちお  マイン川にかかるマイン橋は、15世紀に造られた橋で11人の見事な聖者像が道行く人々を見守っている。その彼方、高い丘の上に聳えるのはマリエンベルクの要塞である。小雨がポツポツと降ってきたが、マイン川の川岸で釣り糸を垂れている釣人は一向に気にする様子もない。
 ハイデルベルク行きの列車に乗った頃から、いい具合に陽もさしてきた。車窓を眺めながらヴュルツブルク駅の売店で買ったフランケン・ワインの栓を抜く。これはボックス・ボイテルという平べったく丸い、面白い形の緑色の瓶に入っているのが特徴で、この地方の有名な白ワインである。風味はラインワインやモーゼルワインとは異なり、色もやや濃いめで柔らかく、力強くやや硬い辛口が多い。ドイツワインの中ではフランスのブルゴーニュの白などに比べられる。
 ハイデルベルクの駅から城までには、途中で一度電車からバスに乗り替えて行かなければならない。
 由緒深い大学、昔の夢を物語る古城、そして「アルト・ハイデルベルク」のロマンスで名高い古都ハイデルベルクは、ドイツ旅行の珠玉にもたとえられよう。
 市はラインの支流ネッカー川に面し、ひときわ高い丘の上から街を見下ろす古城の姿や、岸辺に広がる渋いレンガ色の家並みは、一幅の絵のように美しい。近代的な中央駅から整然とした新市街を抜けて坂と小路のうねる旧市街に入れば、一気に数世紀も時代を遡る思いがする。この町は1386年以来、ドイツ最古の大学の町として開けた。古色豊かな奥ゆかしい街並みは、今日もそのままの姿で静かに私を迎えてくれる。
ハイデルベルク城と旧市街/写真転載不可・なかむらみちお  アルト・ブリッケでバスからおりると、そこで珍しいものを見た。工事中の道路で、作業員が食パンを少し小さくしたような石塊を、地面に奇麗に敷き詰めて石畳の道路を造っているところであった。アルト・ブリッケを渡り、ネッカー川の右岸に立つと、流れの彼方に古城が見える。ハイデルベルクの代表的な風景である。ゲーテも「ここから望む眺めには世界のいずれの橋も及ぶまい」と嘆賞している。同じ右岸後背の丘に登れば哲学者の道という散策路があり、ネッカーの流れを脚下に、対岸の町全体を味わうことが出来る。但し、この道は急勾配でかなりきつい。先ほどから陽も射してきて、気温も上がってきた。ようやく登り切って一汗かいた喉に一杯の水は黄金に値する。ワインを飲んだ後はやたらに喉が渇く。
 再び来た道を戻り、アルト・ブリッケを渡って対岸へ行く。マルクト広場で、ローテンプルクで出会った日本人ツアーのおばさんに出会い、お互いに声を掛け合った。
 市の東端近く、200bの丘の上に中世以来の古城ハイデルベルク城が建っている(入場料1.00 DM)。初め建てられたのは13世紀頃と言われる。ゴチック、ルネッサンス、バロックなど、各時代の様式の入混じった複雑で堂々たる造りとなっているが、一部は昔の戦火や時の流れのために崩れ、苔むしている。城の北側の崖に向かって張り出したアルタンという大きなテラスからは、町の眺めが良い。ネッカー川に沿って街が続いている。
ペルケオの像/写真転載不可・なかむらみちお  中庭から見ると壮大な建物がグルリと周囲を取り巻き、ネッカー川から見た表側とはまるで感じが違う。中庭の奥から左への地下道のように下って行く道から入ると、フリードリッヒ館の地下に22万g入るという大酒樽が在る。18世紀末、城兵達の為に造られたもので、大樽の上は舞台のようになっている。そこで飲めや唱えの大舞踏会を催したという。酒倉番で小人のくせに途方もない大酒飲みで、何か人を驚かす仕掛を造るのが得意だったと言う伝統的な人気者、宮廷道化師ペルケオの像もある。
 大酒樽の近くの広間には、テーブルと椅子が20席ほど置いてあり、カウンターでワインを売っている。先ほどまでカウンターにいた初老のおばさんは、テーブルの近くで客と立ち話をしていてなかなかカウンターに戻ろうとしない。しばらく待ったあげくシビレを切らした私は、おばさんに“Bringen Sie mir bitte einen Wein.”ブリンゲン ズィー ミア ビッテ アイネン ヴァイン(ワインを一杯ください)と申し出たところ“Warten Sie bitte einen Augenblick.”ヴァルテン ズィー ビッテ アイネン アウゲンブリック(一寸お待ちを)と軽くあしらわれてしまった。ヨーロッパ人は自分の用件が終わらない限り、たとえ客が来ても取り合わない気風があるらしい。日本人と違って、彼等は自分自身を一番大切にしているのだろう。
 長い立ち話が終わってカウンターに戻って来たところでようやくお相手をしてくれた。お金を払ってコップに一杯のワインを貰う。ここのワインはヴェルテンベルクと言い、その生産量の半分くらいが赤ワインで、極めて美しいルビーのような赤さと透明度を持ち、爽やかな芳香と力強い辛口である。ヴェルテンプルクのワインには非常に有名な銘酒というのはないが、なかなか秀れた酒がある。
 この地方でもっともポピュラーなのはロゼワインである。このロゼワインをSchielenweinと言う。ドイツ語で“やぶにらみワイン”である。このワインを飲むときは目を“ロンドン・パリ”にして飲む。先ず、ロゼワインを二つのグラスに注いで、右、左の手に持ち、肩幅くらいに離して、右のグラスを右目、左のグラスを左目で見るのである。そして交互にグラスからワインを飲む。すると刑事コロンボみたいな目になる。このシーレンヴァインは初めから赤ぶどうと白ぶどうを混ぜてロゼワインを造るのである。従って赤ぶどうと白ぶどうが藪にらみしていると言うので、Schieleすなわち“やぶにらみワイン”という名が付いたのである。
 このあたりの人はビールよりもワインを好み、ドイツの他の地方よりはワインの飲酒量が大変多い。この地方の人達がいかにワインを愛するかは、ハイデルベルクの酒倉の大樽を見ても、愛すべき酒豪ペルケオ氏を見ても分かる。町の人も農家も個人用酒倉を持っていると言う。まさに“知恵に溢れ、酒にあふる”ところである。
 あまりにも喉が渇いたのでテーブルに着くやいなや一気に飲み干してしまった。旨い!。飲み終わってから改めて手元のコップを見ると、大酒樽の絵と「ハイデルベルク」の文字が描かれていた。ミュンヒェンでビールのジョッキーを買いそびれて残念に思っていたところなので、フト、これは丁度良い記念品になると思った。カウンターのおばさんに交渉するにはドイツ語が分からないし、かえって話がこんがらかってしまうに違いない。悪いとは思ったが、一つ失敬してリックの中に入れ、その場を後にした。
 城の後の丘を横切る道路に出てからケーブルカーの駅へ向かったが、駅を見付ける事が出来ないまま城の下まで歩いてしまった。そこからバスに乗り、駅へ行った。
 駅のロッカーから荷物を出し、売店で又、フランケン・ワインを一本買って列車に乗り込む。ハイデルベルクからマインツまでの車窓も緑がいっぱいで心が和む。先ほど買ったワインを取り出してチビリチビリやっている内にマインツに着いた。
 マインツ駅の観光案内所で紹介された宿は駅からバスで20分ほど(バス代1.2 DM)。荷物は例のごとく駅の手荷物預かり所に預ける。紹介されたホテルはバスを降りてから歩いて3分程で、2階建の白っぽい建物だった。正面はレストラン風だったが、今はやっていない。脇の入口から入ると受付があり、馴れ馴れしい主人が英語で応対してくれた。部屋には風呂も有り、かなり豪華な部屋だ(30.00 DM)。パスポートは受付の主人が預かるという。大きなホテルでは預けるのが普通だが、こんな民宿みたいな小さな宿で預かるとは初めての経験だ。
 主人に近くのレストランを聞いて行ってみる。そのレストランはイラク風とかで、豚肉はご法度。おめあてのドイツ料理は食べられない。イラク風の服装をした客が2〜3組いた。私はイラク料理の知識は全く無いので、何を注文して良いのか分からず参ってしまった。その上、アルコールも駄目ときては全くのお手上げである。こんな事が初めから分かっていたら、ラインワインで有名な近くのリューデスハイムのワイン・ハウス、ドウロツセル・ガッセに行って思い切り本場のワインでも味わうべきだった。

     古城のメッカ、ライン川下り

    5月13日(水) マインツ8:45〜11:45ザンクト・ガルシアライゼン14:3-16:15コブレンツ18:11(ラインゴルド号)-21:56アムステルダム
 今日はマインツからローレライの曲を聞きながらライン河を船で下る旅だ。古城と伝説のロマンの旅。それに憧れの一つであるブルク・カッツ城も見る事が出来る。
 ハイネやバイロンが詠い、シュウマンが身を投げたライン。その「ライン下り」はドイツ旅行の醍醐味の一つ。誰でもが一度は試してみたいと願う旅であろう。
 ライン下りのハイライトは、マインツからコプレンツに至る約90`の間で、これはロマンティック・ライン・コースとも呼ばれ、沿岸にローレライの名勝をはじめ、数々の古城や美しいブドウ畑が広がる。
 一度駅まで行って預けた荷物を受け取ってから乗船場へ行き、8時45分発の船に乗らなければならないので宿を少し早めに出た。
 バスに乗って間もなく、宿の部屋に日本から持参したスリッパを忘れて来たことに気がついた。今更スリッパーつで引き返すのもバカバカしい。この辺の店へ行けば何処にでも売っているだろう。それにしてもどうして忘れたのだろう。使用後はすぐバックに入れるとか、部屋を引き払う時に必ず忘れ物はないか振り返って点検するとかしているのだが、今回に限って一体どうしたことなのだろうか。スリッパくらいの忘れ物でまあ良かった。一番心配していたイタリアで盗難が無かったのでやれやれと思っていたのに…。それに比べれば軽いものである。まぁものは考えようである。
 マインツは人口16万人で帯広市程の町である。観光客には、ライン下りの出発点として知られている。市の歴史は古く、中世にはカトリックの大司教区が置かれてライン中流の宗教的、政治的大中心地として栄えた。
 このマインツには二つの誇りがある。一つは、市の中心に有る八角型の塔を持つロマネスク風のドーム。褐色の石で造られた大きな寺院で、創始は10世紀の物。もう一つは活版印刷を発明したグーテンベルク。彼は市の誇りで、ドームのすぐ前には、近代的なグーテンベルク博物館がある。いずれも時間がなくて見る事が出来なかったのは残念である。マインツは又ライン・ワインの集積地であり、その市場はドイツーの規模と言われる。
 駅から二両連結のバスで船着場に着いた。出発1時間前である。それらしい船が桟橋に横付けになっていたが、乗客を乗せる風もない。早過ぎたようである。船内では船員らしい人達が朝食をとっているのが見える。岸壁近くにある小さなお土産店は既に開いており、私はそこで絵葉書を買ったり記念品などを買って時を潰した。
 8時45分、船は静かにマインツの岸壁を離れ、ライン河を下り始めた。古城と伝説のロマンへの出発である。
 マインツの町を後に、緩やかな流れを下ると、こんもりと木の生い茂ったいくつもの中洲が現われる。
 マインツを出て次にヴィースバーデンヘの船着き場を通って進むと、最初の主要な帰港地は右岸のリューデスハイム。この小さな町はライン・ワインで名高く、背後の丘には美しいブドウ畑が何処までも続いている。ここはライン沿岸を行く観光客の溜まり場の一つで、特にライン産のワインやブランデイを本場で味わう楽しみがある。特にドゥロツセル・ガッセという幅わずか数bの小路が有名で、端から端までびっしりと凝った造りのワイン・ハウスがあるという。
 前部甲板に座って流れ行く両岸の風景を挑めていたがかなり寒い。船内のレストランに入り、ソーセージとワインを注文する(13.56 DM)。広い窓側の席からの眺めはなかなか素晴らしい。
 このあたりはラインガウと言い、ドイツワインについて多少の知識を持つ人ならば、ラインガウという地区名を聞いただけで相当な反応を示すはずである。それはドイツワインの産地の中で最も名酒を産出する地方の名であり、フランスに例をとればボルドーにもブルゴーニュにも比べられるワインの栄光の土地だからである。神聖ローマ帝国のカール大帝の時代に、この地方は既に名酒の産地として知られていた。
 この地方の特色は年間の雨量が450_から500_というドイツでも最も雨の少ない地方である。西南に開けた斜面は日照が良く温暖である。土地も小石混じりのぶどう栽培の好適地で、最高の条件に恵まれた土地なのである。
 ドイツワインは食中酒として飲むのはテーブルワインの辛口。上級酒ではカビネット、シュベートレーゼ、アウスレーゼくらいまでである。ベーレンアウスレーゼやトロツケンベーレンアウスレーゼのような極甘口は、デザートの果物、菓子のときか、単独にそのワインを楽しみながら飲むべきもので、食事中のワインとしては甘すぎる。
 流れ行く船窓の景色を挑めながら、運ばれてきたワインをチビリチビリとやる。ワインは舌の先に転がすように味わうのが本当なのだが、つい日本酒を飲む癖が抜け切れないようである。これまで、ワインなどはめったに飲んだ事はなかったのだが、本場のヨーロッパに来てからは毎日のようにワインを嗜んでいる。「古城めぐりの旅」のはずが、まるで「ワイン遍歴の旅」のようである。「あらゆる食べ物は、それが生まれた土地で味わうのが最もウマイ。中でも酒は醸された土地で飲ませてもらうのが一番香んばしく…」とは荻昌弘さんの言葉である。
 向こうのテーブルに座っていた東洋人風の初老のおじさんが私に話し掛けてきた。オヤ少し変だなと思ったら、その人はアメリカの日系二世で、息子と一緒にヨーロッパを観光旅行しているところだという。アメリカで事業に成功し、今は息子に任せて楽隠居の身。羨ましい限りである。きっと日本人を見て故郷を思い出し、懐かしくなって近ずいて来たのであろう。そのおじさんとゆっくり話をしたかったのだが、ライン下りはいよいよ佳境に入ってきた。私は再び上甲板に行き、右や左に移り変わる景色を追うのに忙しかった。
ラインシュタイン城/写真転載不可・なかむらみちお デ・ファルツ/写真転載不可・なかむらみちお  中洲にねずみの伝説を秘めたモイゼトルム城が現われる。昔ねずみの大軍が残酷な領主をこの塔に追い込んで喰い殺したというのである。この下手がライン随一の難所と言われ、流れは、両岸狭まって急角度に右へ折れる。やがて左手にいくつかの古城が現われる。ラインシュタイン、ライヒェンシュタイン、ゾーネックなどの城址だ。私は二台のカメラを操作し、レンズを取り換えながら、機関銃のようにシャッターを切る。目がまわるほど忙しく、風景を楽しんでいる暇など全く無い。ましてやワインを片手に優雅に船旅を楽しむというようなゆとりはあろうはずもない。次に左手に12世紀のシュターレックの古城とバハラッハの町を見ながら進むと、やがて見事な城塞が河の中央に現われる。デ・ファルツの古城である。14世紀バイエルン王ルートヴィヒが、河を往来する船から通行税を取り立てるため造った中洲の城で、すぐ先右手ブドウ畑の上に立つ13世紀のグーテンフェルズの古城と共に、ラインでも印象的な眺めである。
 しばらくして、今度は左手の丘の上にシェーンブルクの大きな廃城が見えてくる。いくつもの見張り塔を備えた城塞だが、今は崩れ落ちた城壁に過ぎし日のつわものどもの夢の跡が忍ばれる。
 ラインは再び右手に直角に折れ、更に急角度に左手にカーブし、やがて大きな岩山が流れを遮るように正面に立つところへ出る。これがライン第一の名勝、ローレライの岩である。
 ♪なじかわ知らねど心わびて…。情熱の詩人ハイネの詩により一層有名になったこの伝説の岩山を眺めながら、船は昔と同じく難しい流れを切りつつ進んで行く。船内にはローレライの曲が流れ、ライン下りは最高潮となる。しかしこのローレライの岩山は、頂きからは素晴らしいラインの眺めを満喫出来る事が知られているが、船上からの眺めは意外に変哲もなく失望の念を禁じ得なかった。
ブルク・カッツ/写真転載不可・なかむらみちお  ローレライの次は、同じく右岸の丘の上にブルク・カッツ(猫城)が立つ。両岸の古城は更に続くが、私は次のザンクト・ゴアルスハウゼンで一旦船を降りてみることにする。

     ブルク・カッツが見えない!

 船員さんからは、船着き場にはタクシーがあると聞いたので、船から降りてから見渡したがそれらしい車は見つからなかった。近くに駅があるはず。駅前なら必ず有るだろうと思い、約500b程離れた駅まで荷物を持って行ってみた。しかしそこにもタクシーの影は一台も見掛けなかった。駅に入って尋ねたら、電話で呼べば来るという事なので一台お願いした。
 駅前でタクシーの来るのを待っていると、目の前に太った若い女性の運転するワゴン車が一台止まり、その女の運転手が私に手招きをした。近寄って「タクシー?」と問い掛けるとその女性が軽く頷いた。やれやれ。彼女は私に助手席へ乗れと言う。荷物を後部座席に投げ入れ、言われるままに彼女の隣の席へ乗り込んだ。中にはタクシーメーターもなく全く普通の車と同じである。これではたとえ、船着き場に居たとしても分かろうはずもなかった。
 私は彼女にライン河に面したブルク・カッツとローレライの写っている写真を見せ、手まねでこの城を写したいと言ったら「OK」と二つ返事で車を走らせた。
 車は私がさきほど降りた船着場を通り過ぎ、街はずれから山側に入り、谷間の道を走り出した。やがて二又を右にハンドルを切り、ブルク・カッツの裏を廻り、ローレライの上のほうに向かっているらしい。どうも道が違うようだ。私は不安になったので再び先ほどのブルク・カッツの写真を取り出して彼女に念を押した。彼女は分かったと言うようにうなずいて見せたので一応まかせることにした。たくましい体格のドイツ娘(?)はスカートをはき、裾からはみ出して見える二本の太い足がやけに気になる。
 やがて車はローレライの裏を廻り、頂きへと着いた。「ブルク・カッツ?」と聞くと“Jaヤァ”(そうだ)と答える。9.00 DMを払って車から降りる。私の行きたいところはどうもここではないような気がするので、ひとまず下界の景色を見て確かめようと思ったが林が邪魔して周りが良く見えない。私は彼女に“Warten Sie bitte einen Augenblick.ヴァルテン ズイー ビッテ アイネン アウゲンブリック”(一寸待ってくれ)と言ったが“Neinナイン”(ダメ)と断わられてしまった。帰りの車はどうしたら良いのかと聞くと、そこにホテルがあるからそこから電話をしてくれと電話番号を書いた一枚の紙切れを渡してくれた。
 繁った木の間を通り抜けて崖っぷちに行って見たらやはり場所が違う。私の行きたい処は、登って来た道路を挟んで反対側の丘の上である。急いでホテルに駆け込み電話を探した。ホテルと言っても小さなもので、玄関を入ると右側に小さなフロントがあるが、人は居なかった。奥では同じ船で降りた日本人のパックツアーの一行が昼食をとっていた。事務所に行くと、この一行の添乗員が日本の会社と連結中で一本しかない電話を使用していた。この報告が長く、なかなか終わらない。10分ほど待った挙句にようやく空き、ホテルの人に頼んで先ほどの車を呼んで貰った。
 ホテルの脇の売店前のベンチに座り、車を待ったがなかなか来てくれない。待つ間、家族へ葉書を書くことにした。書き終えた絵葉書を売店の前のポストに投函した。
 ようやく来た先ほどの車で再びローレライの山を下る。運転しているのは先ほどのネーチャンである。再度ブルク・カッツの写真を見せ、ここではない。この写真を撮った場所だと言ってもなかなか通じない。その上彼女はこの城は個人の私有物なので宿泊人しか入れてくれない、という。いくら城へ行くのではなく、この城を写した場所だと説明しても分かって貰えない。こちらも半ば諦めかけ、別な運転手で出なおす事にして一旦駅へ行くように指示した。
 その途中、登って来る時見た道路の二又まで来た。今来た方向とは反対側の先には丘が見え、家が2〜3軒有った。家があるという事は道路があるという事だ。一か八かとにかく行ってみよう。私は彼女に“Ich mocht nach es gehen.イッヒ メヒテ ナーハ エス ゲーエン”(あそこへ行きたい)と指示した。彼女は少し面倒臭そうな顔をして、何事か2〜3言つていたが、言っても通じないと諦めたのかターンして指示された方向に車を走らせた。
ブルク・カッツとライン河/写真転載不可・なかむらみちお  ヤッパリここだった。目指す目的の場所が今、目の前にある。良かった。私は心の中で小踊りして車を降りた。道路から草原を少し降りたところで二台のカメラを構え、ライン河とブルク・カッツめがけて夢中で連続シャッターを切った。忽ちフィルムがなくなってしまった。フィルムを詰め替えていると上から彼女がわめいている。“Warten Sie bitte einen Augenblick.”あせる心を静めて尚もシャッターを押し続ける。彼女が今度は一段と激しく怒鳴る。このまま写し続けていると怒って置いて行かれるかもしれないという不安感に襲われた。若し置いて行かれたら、予定の列車に乗り遅れて、今日中にアムステルダムには着けなくなるかも知れない。
 一通り写し終えたが、欲をいえばライン河に船が通るのを待って写したい。待たせている車が心配だ。後ろ髪を引かれる思いで坂を駆け上がる。上では彼女が憤然として立っていた。“Entschuldigen Sie bitte.エントシュルディゲン ズィー ビッテ”(すまんすまん)と謝るが彼女はムツとして返事もしない。
 駅へ走らせる車中で、私は彼女の機嫌をとるために日本から持ってきた五円玉を差し出してみたが、こんな物くらいでは納まりそうもなかった。彼女は煙草を吸っていたので、成田空港の免税店で買って来た「ホープ」を一箱差し出したが受け取ろうとしない。彼女の目の前のダッシュボードの上に置くとようやく受け取ったがまだ機嫌は治らない。こちらも少々ムッときて勝手にしろという気持ちになった。私が頼んだ通り、最初からここに来ればなんの事はないのに。こちらとしても貴重な時間と無駄な車代を払わせられたのだから怒りたいのはこちらだ!
 その時、私はドイツ人がひどく現実的だという話を聞いた事を思い出した。相手が相手ならこちらもこちらでゆこうと思った。つまり、こちらが希望もしていないローレライの頂きに行かされた車代9.00 DMを値切ることにした。
 駅に着いて料金を支払う段になって私はポケットからメモ帳を出し、料金を書いて貰った。彼女は15.00 DMと書いた。私は駅からローレライまでの車代9.00 DMは私の希望した処ではないから支払わない。従って15.00 DM引く9.00 DMは6.00 D.Mだから6.00 DMしか支払わないとメモ帳に引き算の式を書いて説明し、小銭で6.00 DMを手渡した。彼女は意味は分かったらしく少し抗議していたが、言葉が通じないため遂に諦めて捨てゼリフを残して行ってしまった。半ばしてやったりという気持ちと、半ば後味の悪い思いも残った。
 ここから再び船に乗り、コプレンツから西ドイツご自慢の国際特急「ライン・ゴルド号」でアムステルダムまで行く予定だったが、時刻表を見るとそれではアムステルダム到着があまりにも遅く、宿を探す事も難しくなるため、予定を変更して、ここからこの次の列車でアムステルダムへ行く事にした。楽しみにしていた「ライン・ゴルド号」に乗れないのは残念だが…。
 車窓からライン河の流れを挑めながらくつろいだ一時を過ごす。フト見ると、ライン河と列車の間を平行に走る道路を一台の観光バスが走っていた。その車窓からは、さっきローレライの上のホテルで昼食をとっていた日本人の観光ツアー客一行が乗っており、こちらを見ていた。
 列車の反対側は崖となっており、その遥か上方にマルクスブルク城が見え隠れしていた。ライン沿岸で只一つ破壊されずに今日までその完全な姿をとどめる古城として興味深い。19世紀末以来、ドイツ城塞保存協会がここにある。
 こうして興味深い古城のコンクールを楽しみつつ下るうちに、ワインで名高い支流モーゼル川の合流点、そしてロマンティック・ライン・コースの終点、コブレンツを通り過ぎる。
 ドイツ第四の都市ケルンに近ずく。列車はドイツ第二の長橋ホーエンツォレルン橋を通ってライン河を渡り、中央駅へと向かう。そこからライン河畔にそそり立つケルンの大聖堂が天を仰ぐように空に浮かんで見える。あたりを威圧するように聳える二つの尖塔は、高さ157b、堂の奥行き144b、幅61bもあり、ヨーロッパ有数の大寺院で、世界屈指のゴチック式建築。その歴史も誠に雄渾で、1248年の起工以来実に600年を経て19世紀に完成された。

      実業之日本社 ブルーガイド′海外版 「ドイツの旅」、他参考、一部引用

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         オランダ                                               1fl(フローリン)≒92円

オランダ  オランダのアムステルダムには予定より早い列車で着くことが出来たので、エコノミー旅行のガイドブックに載っていた安い宿を探して歩いたが、駅に近いところは何処も満員であった。再び駅前の観光案内所へ戻り、宿を紹介して貰った(紹介料6.5f)。その宿はアンネ・フランクの家にも近い西教会のすぐ近くだった。
 アムステルダムに到着以来宿探しに3時間以上も歩き回り、すっかり疲れてしまった。駅前の屋台でオランダ名物の生ニシンを立ち喰いしてみたが、日本にもあるニシンの塩辛のようで、特に旨い物でもなかった。それからこれもオランダ名物の一つ、チーズのサンドイッチを街頭の屋台で食べ、その夜の食事は終わった。昼の疲れでとてもレストランまで足を延ばす元気はなかった。
 アムステルダムでは、その昔家屋税の取りたてに、家の幅を基準としていた。そのためか、レンガ造りの建物はどの家も横幅が狭く、逆に3階または4階から屋根裏の部屋まで背の高い建物が多い。当然入口は狭く造られ、中の階段も急で狭い。宿も狭くてかなり急な高い階段を登ったところにあった。ドアを開けると一人暮らしのおじさんが部屋の鍵を渡してくれた。更にそこから又、急な階段を登ったところに部屋があった。中に入ってみるとベッドとほんの少しの空間しかなく、これまでの宿の中では一番狭かった(一泊27・5F)。でもベッドと屋根があれば充分寝る事が出来るのだからまあいいだろう。眠ってしまえば何も分からなくなる。飲み残しのワインを呷ってベッドに横になった。明朝は早い時間に出発するので朝食はない。素泊まりである。

      一番北の国

 今回の旅で一番北にあるオランダは、地理的には北緯52度、東経5度に位置し、サハリン(樺太)と同緯度である。その割にはメキシコ湾からの暖流と偏西風の影響を受けて日本よりは暖かい。人口密度は1kuあたり約410人で過密状態になっている。北海に面した国土は、ライン河、マース川、スヘルデ川のデルタ地帯を中心に全体的に低地が多い。オランダ全土の四分の一は海面下に在り、最低部は6bといわれている。運河の水面や道路が平野部、住宅地区より遥かに高い位置にある光景が各所でみられるのもオランダらしく、ネーデルランドすなわち“低い土地”をずばり言い表している。オランダに堤防がないとしたら、この国は水面下に没するか荒廃した土地になるであろう。オランダの人々の長い間の海との闘や土地干拓に対する意欲が伺える。
 オランダの正式国名はオランダ王国 Kingdom of netherlands(英語)Koninkriijkder Nederlanden(オランダ語)と言う。オランダの首都はアムステルダムであるが、国会及び裁判所などの政府機関はハーグ市に置かれ、政府折衝もすべて政治都市ハーグで行なわれている。

       南ホーランド州一周ドライブ

    5月14日(木) アムステルダム(レンタカ−)…ムイデン城…ロッテルダム…マドローダム…ハ−レム…アムステルダム
南ホーランド  今日はレンタカーを借りてオランダを一周する予定である。宿の主人は9時にならないとレンタカー屋さんは開かないと言っていたが、時間がもったいないので早めに宿を出た。
 宿を出て間もない四つ角で、私の目の前で自転車に乗った子供が乗用車にはねられた。急いで駆け付けてみると、子供は痛そうだったが、大した事はないようだった。とにかく軽くて良かつた。今日は外国で初めて車を借りて運転する日なのだが、何か不吉な予感がする。危険だから止めろという警告なのだろうか。オランダは自転車王国だ。街の中ではよほど注意しないと危ない。それに右側通行は初めてで慣れていない。一瞬どうしようかと迷った。しかし、スケジュールが詰まっており、今更変更するのはどこかを削らなければならない。それはここまで来て大変残念なことだ。とにかく初めの予定通り車を借りよう。それにしてもよほど注意して運転しなければ大変な事になる。万が一の場合は日本に帰れなくなるかも知れないという不安が頭をよぎる。とにかく電車に乗り、教えられたレンタカーの会社に向かった。途中でハイネッケンビールの本社前を通った。
 レンタカーの会社には8時半頃に着いた。もう店は開いていた。12.00CC程のオペルを借りた。保険はどうなっているかと聞いてみたところ、大丈夫と言う。
 教えられた道を出て高速に乗り、ムイデンヘと向かう。初めての右側通行はなれないため運転しにくい。慎重に運転する。郊外に出るとさすがに走りやすい。その内、だいぶ車にもなれてきた。ハイウェイを初めて時速120q程で走ったが、それでも追い抜いて行く車が多い。

     ムイデン城とズイレン城

ムイデン城/写真転載不可・なかむらみちお  最初のムイデン城には比較的楽に行き着いた。この城は、アムステルダムから東へ約10`のゾイデル海に面した小さな漁村、ムイデンの町の海岸に13世紀に建てられたチョコレート細工のようなお城である。
 早朝なので、まだ観光客は訪れていない。ヨットハーバーに隣り合わせて建っているレンガ色のその城はひっそりとした佇まいを感じさせた。城の前の庭園では、ライラックの花がようやく咲き揃ったところである。海水を引き入れた濠に浮かぶレンガの城は、四辺形グランド・プラン城郭形式の典型的な型をしており、オランダの城を代表する城である。この地方は、石材が少ないため、硬質の大型レンガの城が多い。場内は古い様式がよく残っており、木造の部分が多いのも北欧からこの地方にかけての特色である。場内には文献、家具、調度品類のコレクションがあり、公開されている。
 朝食を食べずに来たので腹が減った。城を出てから街でパック入の牛乳を買った。これを飲みながら又走り始めた。パンを買うつもりで店を探しながら走ったが、まだ開いている店が少なく、ついに見付からないままに又、ハイウェイに入ってしまった。今日の朝食は先ほどの牛乳だけである。
 ムイデンからユトレヒトヘと車は順調に走る。行き先名を書いた標識に時々知らない地名が出てきたりしてまごつく。ハンドルの上に地図を広げ、前方と手元の地図を交互に見ながら120〜130`程で突っ走る。車の量が少ないし、道幅が広いハイウェイだから出来るのだ。
 静かなユトレヒト郊外にあるズイレン城は城というよりも館のような感じの建物であった。しかし壁ぎわに足場を組んで目下修理中であった。でも初めから予定には入っていなかったのだし、通りがかりのついでに寄ったのだから見られただけでもいいだろう。

      風車小屋

 ズイレンの次はオランダのシンボル、風車小屋のあるキンデルダイクである。高速道路を降りると、田舎の街を通り過ぎ右へ右へと進む。風車の絵を象った道路標識が要所要所に建っているので、それを辿って行けば簡単に行き着く事が出来る。やがて道は川沿いに入ると右側に風車の群れが見えてきた。更に進むとやがて入口の標識が建っており、そこを入ると駐車場があった。その近くには休憩所を兼ねたお土産物屋さんがあった。
18世紀以来の風車/写真転載不可・なかむらみちお キンデルダイクで出逢った少女たち/写真転載不可・なかむらみちお  キンデルダイクには、18世紀以来の風車が19基ほど保存されている。昔から風車は産業用や干拓用などに利用されてきたが、現在残っているのはごくわずかしかない。キンデルダイクにある19基の風車は貴重な価値のあるものとされている。
 7〜8月の土曜日の午後は、これらの風車が一斉に動いて観光客を楽しませてくれる。土曜日以外の日なら、風車の中に入る事も出来る。風車を巡る運河ボートツアーもある。
 この付近は、歴史的に日本との関係も深かったところで、江戸時代、勝海舟が艦長として乗り込んだ幕府の軍艦威臨丸もこのキンデルダイクの近くのスミット造船所で1847年に建造されている。
 何はともあれ、先ず風車を見ることにする。ここに数ある風車の中でも、一番手前にある大きな風車は内部が公開されており、入場料を取って見せている(1.25f)。その中をひと通り見たあと更に奥へ進み、沢山風車が並んでいる風景などを撮影した。
 再び入口の売店に戻り、一休み。昼食を食べようと思ったが食事類はないのでアイスクリームを食べた。絵葉書やワッペンを買って再び高速道路に乗る。
 しばらく走ると大きな川の手前の赤信号で多くの車が止まっていた。ここはロッテルダムの近くなのでライン河かもしれない。高速道路で信号停車とは変だなと思っていたら、その先の道路が徐々に持ち上がった。開閉式の橋になっており船が通る度に橋が上がるようになっていた。ハイウェイの大きな“跳ね橋”であったわけである。
 視線から上をまるで空中に浮かぶように大きな船が通り過ぎ、道路は再び元の高速道路に早変わり、多くの車が再び走り始めた。

      マドローダム

 やがて高速道路が切れて行けども行けども街の中。変だなと思って街の人に聞いてみると、もうここはハーグの街の中に入ったためらしい。
 ハーグは北海に面しているオランダ南西部の都である。オランダの正式な首都はアムステルダムであるが、ハーグには国会、政府官庁、各国大使館などが置かれ、政治的には中心都市としての機能を果たしている。あらゆる公的行事は、この都市で行なわれている。市内は上品な雰囲気である。
 車を走らせていると「マドローダム」という看板を見付けたので、その示す方向へと走った。そのうち、その看板を見失ってしまった。少しうろうろした後、街の人に聞いてようやくマドローダムに着く事が出来た。
 駐車料を払ったら手持ちのオランダの金がすっかりなくなってしまった。レンタカーを借りた時、保証金をとられたので手持ちがなくなってしまったのである。今、ここで改めて両替しても車を返した時にその保証金が返ってくるのだからオランダの金が余ってしまう事になる。明日オランダを出国する時、オランダのお金が余ると再び次の国のお金に両替しなければならず、その度に手数料を取られるので大変損をする事になる。その為に調整しているので手持ちの金が無いという訳である。でもここの入場料が足りないというのは困った事である。日本円ではダメかと聞いてみたらやはりダメであった。ドルなら良いというので、日本出国時に成田で両替して持っていたドルを払って入場する事が出来た(6F)。やはりドルは強い。円は強くなったとは言え、ヨーロッパではまだまだ高く評価されていない事を肌で感じた。
マドローダム/写真転載不可・なかむらみちお  マドローダムはオランダ各地の名所や建物が2万uの敷地に正確に縮小されて小さな国を形成しており、主な建物や教会の大きさは実物の25分の1でミニチュア・タウンとなっている。個人の寄付により1950〜1952年頃完成したもので、毎年マドローダムが一般公開される4月初旬から9月下旬の時期には、25万人以上の観光客が訪れて好評を博している。内部は、代表的なオランダ各地の姿を楽しめるように造られているので、子供にも大人にもパラダイスその物。ここを訪れると、小さな形をした建物が遥か下に見下ろせる。まるで「ガリバー旅行記」に登場してくる世界が出現しているようだ。子供たちも大勢来て一つ一つの家を覗き込んで見ている。一家して来ている日本人の家族連れにも会った。ヨーロッパ旅行を家族で楽しんでいるのだという。羨ましい話である。家の子供たちも連れて来たらさぞ喜ぷだろうに…。是非連れて来たかった。でもそれは無理な話である。せめて写真を撮って見せてやろう。カメラを持った外人観光客をつかまえて記念写真を撮って貰った。
 先を急ごう。今日中に車を返さなければ割増金を取られるから…。
 マドローダム(ハーグ)からは来た道とは違ってオランダの西側、北海沿岸に近い街を通ってアムステルダムヘ向かう。途中、レイデンの城を写してゆこうと街の中に入ったが、どうしても道が分からない。何人か街の人に聞いてみても話が通じない。そんな事をしている内に小一時間ほど浪費してしまった。ポヤポヤしていたら車を返す時間に間に合わなくなる。元々あまり重要な城ではなかつたのであきらめ、チューリップ畠の広がるハーレムヘと車を走らせた。
 レイデンの北部からハーレムに続いている地域は、チューリップ栽培で知られている。見事なチューリップ畠が拡がるはずのハーレム付近に差し掛かったが一向にそれらしいものは見あたらない。ナポリで会った三菱重工の小林さんが友人から聞いた話では、今年はチューリップの花の咲くのが例年より早く、5月中旬頃が見頃と言っていた。いくらなんでもまだその名残くらいがあつても良さそうなものと思い、キョロキョロ見渡しながら車を走らせた。しかし、行けども行けどもチューリップの畠は見当たらず、ようやく花びらが2〜3枚くらい付いているチューリップ畠らしいところを見掛けただけだった。既に花の季節が終わり、球根を掘り出してしまった後に違いない。土だけの広い土地が所々にあるから、それがきっとチューリップ畠なのであろう。
 ハーレムの近くで一ケ所だけ黄色のチューリップが一面に咲いている所が有ったが、それだけでは写真にならない。イメージとはまるで違うのだ。やはり赤や黄など色とりどりに一面に咲き誇っていなければオランダのチューリップ畠にはならないのである。
 そのまま車を止めず、更にハーレムヘと向かって走る。季節が少しずつづれているのだから、あれもこれも総てが満足する状態で見られるという事は所詮無理な事なのだ。他の物が見られたのだからチューリップ畠が見られなくてもやむおえない。又、いつか機会があるだろう。楽しみを一つくらい残して置かなければ…と負け惜しみをつぶやきながら自分で自分を慰めた。とにかくアムステルダムヘ急いで帰ろう。高速道路をアムステルダムヘ向けて走らせる。
 アムステルダムが近くなったころ、今まで時々出てきていたアムステルダム行きの道路標議が、突然見当たらなくなり、不安になってきた。今まで有ったのだから大体この方向で間違いないはずだが、地図を見るとこの道はアムステルダムの左の端をかすめて次の街へ行くようになっている。アムステルダムを知らずに通り過ぎる懸念もある。それともどこからか曲がるのだろうか?
 隣の車線を並んで走っていた中年男女の車に「アムステルダム?」と車の中から大声で叫ぷと、向こうの車の助手席に乗っていた女性が「ジス・ヒヤー!」と叫び返してきた。彼女が何を言っているのか意味が分からなかったが、とりあえず「ダンケシエーン」と又叫んだ。前後の車の関係で、お互いに多少前後する形で更に車を走らせた。とにかくこの方向でいいらしい。その内ビル街に入り、どうもアムステルダムらしい雰囲気の建物が多くなってきた。その時、私は先ほどの女性の叫んだ言葉を思い出した。彼女は「ジス・ヒア」つまり、ここがアムステルダムだと言ったのだとこの時ようやく分かった次第である。言葉が分からないという事は不便なものである。
 街の中に入ってから車を止め、通り掛かりの人に地図を示し、現在地を確認した。やはりここはアムステルダムの街の中で、レンタカー屋さんにもかなり近いことが分かった。もう少し確認が遅れると通り過ぎるところだった。7時半頃なんなく悠々とレンタカーの会社前に無事着いた。
 私はフロントヘ行き、今朝、不安そうに車を貸してくれたフロントマンの前へ行き、胸を張り(どうだい無事帰って来られただろう)と言わんばかりにニツコリと微笑み掛けた。閉店30分前の滑り込みセーフであった。(レンタカー175.45F)。
 フロントマンに頼んで使った車の前で記念写真を撮って貰った。本当は途中で撮れば良かったのだが気がせいてそんな余裕が無かったのである。とにかく事故もなく、無事帰れてやれやれであった。
 帰り道の商店街でスリッパを探したが、これが意外に見当たらなかった。靴屋さんの店先に並んでいた布製の靴をスリッパ代わりに買って来た(0.98f)。更にその近くの店でチーズとハムと水を買い電車に乗ってアムステルダム駅まで来た。
アムステルダムの夕暮れ/写真転載不可・なかむらみちお  折しも駅前の運河の西教会の向こうに真っ赤な夕日が落ちなんとし、その前を観光船がゆっくりと橋のほうへと向かっていた。私は美しいその風景をいつまでも佇んで見入っていた。
 とっぷりと陽の落ちた駅前通りにはネオンが灯り、お土産屋さんの店先が一段と明るさが増し賑わっていた。その内の一軒で家の子供達へのお土産を物色した。木靴などを買い、郵送手続きをして店を出た(木靴43.45f 航空便送料30f)。
 夕食はどこか雰囲気の良いレストランでビフテキでも食べながらオランダビールでも飲もうと思ったが、気に入ったレストランが見付からないまま通りかかりのスタンドに立ち寄り、とりあえず軽く一杯と思ってジョッキーを傾けてしまった。車の運転で疲れていたのか急に酔が廻り、改めて食事に行くのも面倒になり、その夜はそのまま宿に帰って寝てしまった。

     旅は道ずれ

    5月15日(金) アムステルダム-アルクマール-18:23ブリュッセル
北ホーランド  先ずアンネの家マヘレの跳ね橋を見てからアルクマールヘ向かう。車窓から何気なく眺めていると列車と並行して走る掘りでオシドリなどの多くの野鳥が悠々と遊んでいた。昨日のキンデルダイクでも、風車小屋の近くの水辺で生まれたばかりの雛鳥を数羽連れた鴨が岸辺近くで泳いでいた。オランダの人達はきっとこれらの野鳥を驚かさないで可愛がっているから、安心して遊んでいるのだろうと思う。オランダ人の心意気のようなものを感じ、一人感心していた。
 アルクマールの駅に降りて、先ず駅の窓口でマルクト市場を尋ねると市内の観光案内地図をくれた。その地図を頼りに教えられた通り歩き始めた。
 アルクマールは人口6万人と滝川市より少し大きいくらいの街である。街全体が運河で囲まれ、チーズ市で有名なところ。毎年5月から9月の金曜日、午前10時から12時まで計量所の前のマルクト広場で、新鮮なチーズを取り引きするチーズ市が開かれる。
 考えてみると今朝も朝食を食べていない。昨日一日も忙しくて満足な物を食べる暇がなかった。通り掛かりの雑貨屋さんでリンゴを一個とソーセージのような物を買い、リンゴをかじりながら広場へと向かった。
 しばらく行ったところで、前を歩いているおばさんに広場への道を確認したら、この道で良いという事であった。その人もマルクト広場へ行くところだという事なので、私はチーズ市を見に行くのかと尋ねるとそうでもないらしい。観光客にしてはこざっぱりした感じの良い御婦人であった。道々歩きながら話したところによると、その人は、マルクト広場に事務所があって、そこへ勤めているのだと言う。逆に私は彼女に何処から来たのかとか、いろいろ聞かれた。日本から写真を撮りに来たと言うと、ジャーナリストかとか、プレスマンかと聞かれたのでプロカメラマンと答えた。
撮影許可書/写真転載不可・なかむらみちお 女史の名刺/写真転載不可・なかむらみちお  どうやら彼女はそこに在る政府観光局の職員で、それも役職者らしい事が少しずつ分かってきた。そしてチーズ市の回りには垣根があって一般の観光客は中に入れず、その垣根越しにしか見られない。良い写真を撮る為には、その囲いの中に入らないと撮れないから、私がその撮影許可書を書いてあげると言ってくれた。私はこれは助かったと思い、素直にその好意に従う事にした。全く旅は道ずれである。その御婦人の勤める政府観光局は、チーズ市の開かれる広場の真中にあり、市場と隣接していた。
 許可書を手渡してくれた後、彼女は私をその建物の裏玄関の錠を開けて市場の中へ入れてくれた。重い扉を開けて外へ出たところがチーズ市のフェンスの中で、既に市が始まっていた。
 フェンス際には大勢の観光客が群がり、日本人の観光ツアーの一団も見えた。フェンスの前には警戒の警官が立っていた。私はその警察官等に先ほど女史からいただいた許可書を示すと、ウンと軽く頒いていた。私はすっかり気を良くしてチーズ市の中に入り、自由に写真を撮りまくった。

アルクマールのチーズ市/写真転載不可・なかむらみちお  この“セリ市”では白い作業服と色とりどりのカンカン帽をかぶったチーズ運搬人が、チーズを橇のような担架に乗せて運ぶ仕草がとてもユーモラスで、集まった観光客の笑いを誘っている。
 市場の回りには木靴売りやオランダ名物のオルガン。それに食べ物屋まで店を広げてまるでお祭りのようであった。帰りしなに女史の事務所へ立ち寄り、「お陰様でうまく写真が撮れました」と御礼を述ベると、彼女は「その写真を是非送ってほしい」と言い、名刺をくれた。私は御礼に札幌の英文観光パンフレットと雪まつりのバッチをあげると彼女は喜んで受け取り握手をしてくれた。
 事務所を出て、マルクト広場に面した観光お土産店で絵葉書などを買い、再びアルクマールの駅へ向かった。途中歩きながら、来る時買ったソーセージのようなものの皮を剥いたところ、中からネットリとした肉の練り物みたいな物が出てきた。食べてみると少々塩加減が強すぎた。日本のソーセージのつもりで買ったのだが失敗だった。でも食べられないことはないだろう。食べてしまえば栄養的には変わらないはずだ。
 駅前へ行ってレストランを探したが見あたらなず、やむなくそのままアムステルダム行きの列車に乗り込んでしまった。かなり空腹になってきた。
 アムステルダムからはベルギーのブリュッセルヘ行く訳だが、乗り換えにわずか5分しか時間がない。そのわずかの間に駅の荷物一時預けから荷物を受け取ってブリュッセル行きの列車に乗り込まなければならない。うまくゆくだろうか。
 アムステルダムの駅へ到着するやいなや大急ぎで荷物を受け取り、どうやらブリュッセル行きのホームを探し当てて列車に乗り込んだ。お見事、早業である。

     参考資料:交通公社のポケット・ガイド「オランダ」。他より一部引用

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         ベルギー                                           1B.Frベルギーフラン≒6円

 アムステルダムからベルギーのブリュッセルまではアッと言う間に着いてしまった。先ず荷物を駅のコインロッカーに入れてから駅前の観光案内所で宿を紹介して貰う。
 それにしても腹が減って堪らない。早速街に出て、案内書に載っていたレストランを尋ねて行ったが、あいにく今日は休みであった。しかたなく近くの開いているレストランに入った。ベルギーのレストランは、フランス語圏だけに、特別ベルギー料理と呼べる物はなく、ほとんどフランス料理に準ずる。特に魚料理が良く、ムール貝をよく使うのが特徴である。このムール貝に白プドー酒をかけて蒸したものと、ポテトのフライが有名である。私はこのムール貝料理と、ビールを注文した。ベルギーはビールの消費量が世界第2位と言われるほどのビール天国。値段も安い。よく冷えたビールの旨かったこと。空腹の五臓六腑に旨さがしみ渡るのを感じた。一杯では足りずもう一杯おかわりをした。こんな旨いビールは飲んだ事が無い。続いて出て来たムール貝の料理も飛び切り旨かった。ようやく生き返った気持ちになった。一休みしたら再び元気が出てきた。

      世界で一番美しい広場、グランプラス

 “小パリ”と呼ばれるブリュッセルの美しい街並みは、小さいながらも古いものと新しいものとが巧みに調和した均衡美を見せている。
 市心の大広場、四方を15世紀から17世紀にかけてのゴシック及びバロック建築に囲まれた石畳のグランプラスは、文豪ビクトル・ユーゴーが「世界で一番美しい広場」と讃えたように、壮麗な美しさと調和を見せている。圧巻は市庁舎で、ヨーロッパの建築物の中でも有数の美しさと言われている。中央の尖塔の高さは100bある。これと向かい合ったきらびやかな王の家は現在市立博物館になっている。
グランプラス/写真転載不可・なかむらみちお 小便小僧/写真転載不可・なかむらみちお  グランプラスから歩いて2〜3分の所に小便小僧がある。これは事前に予備知識を持っていたのでそれほど驚かなかったが、イメージと違って広場に在るのではなく、裏小路のような四辻の家の角の一隅にあり、意外と小さく常時オシッコをしている。
 言い伝えによると、昔、市長の息子が突然行方不明になってしまった。皆が大騒ぎして探し回ったあげくに、街角で小便をしている子供を見つけたので、その場所に銅像を建てたのだそうである。それにしてもこの小僧、実に無邪気な顔をしているので、思わず笑ってしまう。グランプラスにある市立博物館にはこの小便小僧が各時代や地方の民族衣装を付けてずらりと並んでいるという。
 宿に向かう前に近くのお土産店に立ち寄ってみた。レース編みの数々が並べられていた。ブリュッセルの北西約90kmに在る運河に囲まれた古都ブルージュはレース刺繍品の産地として有名である。妻にレース編みのショールをお土産に頼まれていたので是非ここで買っていこうと思って見せてもらった。店員が奥から出してきた品はそれほどたいした物には見えなかったが、約一万円近くするものであった。イタリアのヴェネツィアもレース編みで有名なところなので、ウインドショッピングをしてみたが、レース編みのショールは見当たらなかつた。ここで買わなければ、後はこの先パリくらいしか心当たりがないので、思い切ってここで買う事にした。その他に娘と姪にレース編みの服を着た人形を買った。小便小僧の人形も売っていた。これは次男の土産にはどうかな。ちょっと可愛そうかな。まあユーモアがあつていいだろう。他に絵葉書などを買つて店を出た(189 B.Fr)。ブリュッセルの商店は朝9時から夕方の6時までである。既に6時半を廻っているので何処の店も閉めはじめていた。
 宿までは歩いて10分。方向を少し間違えて遠回りしたが、どうやら宿に辿り着いた。宿は商店街の角を曲がったところにあり、古い建物ではあったが、エレベーターも付いており、感じの良い小ホテルであった(435 B.Fr)。私の部屋はその四階で、お婆さんが案内してくれた。
 今日は昼食が遅かったので夕食は食べたくない。明日は期待のビヤゼル城だ。天候に恵まれる事を期待したいが今は曇っている。晴れてくれる事を念じて外はまだ明るいが疲れたので今日も早く寝る事にしよう。

      ビヤゼル城

    5月16日(土) ブリュッセル(市内観光)14:07-16:58パリ(北駅)パリ(オーストリッツ駅)18:04-マドリードヘ
 朝、眼を覚ましカーテンの隙間から外を見ると曇りだった。今日は待望のビヤゼル城を撮りに行く予定だが、あまり天気が良くないのでガッカリ。回復を祈るのみ。
 7時過ぎ、一階のレストランで朝食をとる。ここもヨーロッパの何処でもと同じメニューでパンにバター、チーズ。それにコーヒーか紅茶で終わりである。日本の朝食に比べると質素なものである。
 食事を済ませると直ちに行動開始。地下鉄駅へと向かう。エスカレーターを降りた地下鉄のホームには、一両か二両連結の市電のような車両が次々と入って来ては乗客を乗せて出て行く。それらの車両がホームに入ってくる少し前にホームの表示板に行き先番号が表示されるようになっている。間もなく私の乗りたい電車が入って来た。運転手は女性である。地下鉄はやがて地上に出て走り出した。まさに路面電車である。
 期待した天気は相変わらず良くならない。地下鉄からバスに乗り継ぎ、バスを降りてから城へ向かって田舎道を一人トボトボと10分程歩く。ポツポツと雨が降ってきた。最悪である。
ビヤゼル城/写真転載不可・なかむらみちお  ビヤゼル城はブリュッセルから南へ約10km離れた、回りが丘陵地帯の木立の中にひっそりと在った。小さい濠に囲まれたビアゼル城は13世紀にブリュッセル防備の為に造られ、15世紀末に再建された。三つの塔と、これを結ぶ城壁がバランス良く城のフォルムを形造っており、赤レンガ造りの中世風城塞はヨーロッパの城のイメージを良く表現している。ビクトル・ユーゴーもこの城を訪れ、古城によせる詩を残している。

    谷間に孤影をひきずる古城
       寂ばくとした城門の向こう側は
      ひっそりと静まり返り
    暗うつな城壁から崩れ落ちる石の音が
         無気味なこだまを繰り返す…

 内部はガランドーだが、入口には管理人がいて入場料を取っている(25 B.Fr)。城に着いた頃雨は小降りとなった。城の内部を写している間に雨は止み、一部青空さえ顔を覗かせてきた。このチャンスを逃すまいと私は城壁を降りて濠の外側から城の全景写真を写した。
 一通り外観を写し終えた頃又、雨が降って来た。私の他に観光客は一人も居なかった。城の入口にかかっている跳ね橋の辺りで守衛さんが一人働いているだけだった。
 しばらくすると子供づれの婦人が来た。私のいる間に城を訪れた人はたったそれだけだった。まさに静かな古城の佇まいである。
 撮影を終えてバス停で待っていると、再び雨が降り出し、肌寒い風が吹き抜けて行った。バス停の小さな待合い小屋に入って30分程バスが来るのを待った。
 バス、地下鉄を乗り継ぎ、昨日見たグランプラスに着いた頃は本格的な激しい雨だった。色とりどりの雨傘を差した若い娘やアベックが濡れた石畳の広場を通る。雨のグランプラスの風景も悪くはない。絵になっている。ビルの軒先に雨宿りをしながら私はその風景をあきずに挑めていた。天気の良い時には見られない風景である。
 グランプラスに面したビルの一階には商店街のアーケードがあった。その中をぶらついている間に雨があがった。
 フト昨日通り掛かった商店街の金物店の店先でスイスアーミーナイフを売っているのを見掛けた。昨年スイスヘ行った時買ってきたナイフを友人に見せた時、今度ヨーロッパヘ行ったら買ってきてほしいと頼まれていたのを思い出した。この先はフランスとスペインしか行かないので、この辺で買っておいたほうが良いかも知れないと思い、その店へ入ってみた。値段はスイスより高いような気もするが買う事にした。ところがもうベルギーのお金を持ち併せていなかったのである。今日は土曜日なので銀行は昼までで閉じてしまった。駅へ行つてみたが、銀行の両替窓口はなく、両替商が店を開いていた。両替商は手数料が高いので止めて外へ出た。商店街の路上にワゴン車を止めて両替をしている両替商がいた。結構次々と客が利用しているようなので私も2万円両替してスイスナイフを3丁買って来た(2240 B.Fr)。全部友人への御土産である。
 雨上がりのブリュッセルを後にパリ経由でスペインのマドリードヘと向かう。

      地球は狭い

 列車の中で読売新聞のブリュッセル支局長夫妻と同じコンパーメントに座った。いろいろと最近の世界の情勢や日本のニュースを聞く。日本を出てから新聞も読めないし、TV、ラジオのニュースも聞いていない。日本や世界で、いや北海道や札幌で何があったか全く私には分からない。旅行中は別に分からなくともあまり困った事はなかったし、気楽なものだが、改めてこういう人が眼の前に現われると聞きたくなる。
 バチカンで法王が撃たれたこと、日本の外相が国会で野党につかれて辞めさせられそうだという事など、日本を離れてから初めて世界のニュースを聞いた。
 私が名刺を差し出すと、その名前を見た奥さんが「写真を写す札幌の中村さんなら知っている」と言い出してビックリ。彼女は結婚する前、東京の出版社に勤めていたとかで、私の写した写真を取り扱った事があるので名前は良く覚えていたということである。もう20年も前の事を良く覚えて戴いていたものと只々感激してしまった。世間は狭いものである。いや、世界は狭いものである。こんな地球の裏側で私の名前を知っていると言ってくれる人に出会い、しかも言葉を交すなんて奇跡意外には考えられない。全く不思議なものである。それにしても良く覚えていて下さったものである。感謝感激である。
 そんな話をしている内に列車はパリ北駅に着いた。ここから地下鉄に乗り、オーストリッチ駅まで行き、そこからマドリード行きの夜行列車に乗るわけである。その間約1時間あり、楽に間に合うはずである。

      間一髪!

 ホームのはずれにある両替所に行ってみると長蛇の列だ。シマッタ!これでは何時までかかるか分からない。お金がなければ地下鉄に乗ることも出来ない。わずか3フランの事だが…。気が焦る。
 今日は土曜日なので街へ行っても銀行は開いていない。だから尚の事ここに客が集中したのだろう。私の前にはおよそ40人の人が並んでおり、一方、両替所は二つの窓を開いているのだが遅々として進まない。
 ようやく順番が来た。ベルギーで使い残した分だけフランに替え、急いで地下鉄駅へもぐり込む。両替に約40分も掛かったので残りはあと20分程しかない。マドリード行きの夜行列車に間に合うだろうか。重たいスーツケースを引きずりながらとにかく地下鉄の駅へと走る。切符は改札口近くで売っているはずだ。
 ところがその改札口近くでは切符を売る窓口はなかった。万事休すである。思い余って私は改札口近くで通りがかりの人々に「チケット!チケット!」と叫んでみた。運良く一人の人が手持ちの切符を差し出してくれた。助かった。私は今両替してきたばかりのフランスのコインを差し出したが、その人は受け取ってくれなかった。私は無理矢理5フランを手渡し、大急ぎで自動改札機を通って中へ入った。ホームに立っていても気が気でない。オーストリッチ駅行きの地下鉄がなかなか来ない。
 ようやく来たオーストリッチ行きの地下鉄に乗り込んでからも気が焦る。列車の中を走り出したい気持ちだった。北駅からオーストリッチ駅までは乗り替えはないが20分近くかかる。乗り合わせた外人の紳士に念の為何分程かかるだろうかと聞いてみた。やはり20分程はかかると言う。そして、その紳士は多分マドリード行きの列車には無理だろうと言う。悲観的である。もし間に合わなかったら日程の前後を変えれば良いのだが、それでは後で多少不都合も出てくる恐れもあるのでなるべく変更はしたくない。
 ようやくオーストリッチ駅に着いた。マドリード行きのホームを求めて構内を走った。スーツケースを押して…。かなり走った挙句やや奥まったところにようやくそのホームを見付けた。発車まであとわずか1分しかない。なんとか間に合うか…。
 ホームに駆け込むと既に列車の車掌が乗降デッキの扉を閉じる作業をしており、後は発車の笛を吹くばかりだった。私は大慌てで車掌に「マドリード!」と叫んだ。車掌は私を認め、大きく手を振り、早く乗れとドアを開け何事か叫んでいた。私は先ず荷物を放り上げ、続いて私も乗った。と同時に列車はゴトンと動き出した。どっと冷や汗が出てきた。ヤレヤレ。
 列車はかなり早いスピードでパリ郊外を走り出した。私はしばらくの間何も考える気力も失いコンパートメントの外の通路に立ち、窓外を流れるフランスの田園風景を只呆然と眺めていた。動悸はまだ納まらない。生命が少し縮んだような気がする。でも間に合って良かった。
 一息入れて少し落ち着いたところで車掌にクシエット(簡易寝台)を申し込んだが、前方の車両に行けと教えられた。荷物を引きずって前の列車へと進む。一両毎にいる車掌を捕まえて一人一人当たり、5両目の車掌のところに来た時ようやく「一寸待て」と言ってくれた。
 およそ2時間通路に立って車窓を流れる風景を挑めていた。もう駄目かと思った頃、ようやく席が与えられ、クシエットに案内された(72F)。ホッとしたら急に腹が空いてきた。考えてみたら昼食も食べていなかったのである。
 食堂車はセルフサービスでなかなか良い(11.80F)。列車はワインの故郷ボルドー地方を突き抜けるように走っている。ここで又、ワインを飲んだ。旨い。これがボルドー産のワインの味なのだろうか。
 隣の席では高校生程の若者4〜5人が陣取ってはしゃいでいた。私もその席に入れて貰い一人一人に挨拶代りに5円玉をあげたら大変喜ばれ、すっかり仲良しになってしまった。彼等は私の為に赤ワインを一本買ってきてご馳走してくれた。
 一足先に食堂車から帰り、コンパートメントに入った。後から通り掛かった食堂車の彼等が私を見付けて盛んに手を振って別れて行った。クシエットでの同室者は若い女性一人と、スペイン人の老夫婦であった。
 列車はスピードを上げて快適に夜のフランスを走っている。マドリードに向けて…。

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        スペイン                       1Ptsペセタ≒2.5円

      ユーレルパスがない!

    5月17日(日) 9:00マドリード (市内観光)
 ピレネーを越えるとそこはもうスペインであった。今までの風景とはうって変わってまるでマカロニウェスタンの世界である(イタリア製マカロニウェスタン映画のロケはスペインで行なわれた)。
 列車は荒野をかなりのスピードで走っている。同室のスペイン人らしい老夫婦の爺さんは喘息持ちらしく夜中じゆう咳をしたり、ぜいぜいと音をたてて息をするので時々眠が覚める。又、お婆さんはこれ又ラテン系特有に、他人が寝ている事などはお構いなしに良く喋るのにはまいる。
 朝起きてベッドをかたづけていると、爺さんが足の爪先で私をこづき「ラ、ラ、ラ、」と言いながら何事か私に指図する。かなり感じが悪い。ムッときたが言葉が分からないので文句をいう事も出来ず言われるままにベッドを持ち上げ、掛け金をはずしたりしてベッド収納作業を終えた。
 身の周りをかたづけ、念のため一番大切なパスポートとユーレルパス、トラベラーズチェックの言わば海外旅行の三種の神器をいつもの通り一通りチェックする。ところが、その内の一つ、ユーレルパスが見当たらない。これがないとこの先の旅行は全部現金で乗らなければならなくなる。まさかなくしたとは思えないがとにかく無いのだ!。寝ている内にベッドの隙間にでも落としたのではないだろうかとベッドをもう一度起こして周りを点検してみたが見付からない。かなり焦ってきた。
 ゆっくり心を静めて冷静にもう一度昨日からの行動を思い起こしてみるが心当たりはない。パスポートとユーレルパスはいつもズボンの内ポケットに入れていた。昨夜食堂車でトラベラーズチェックを出して両替して貰ったっけ。その時ポケットから取り出す時一緒に落ちたのだろうか。とにかく心当たりを片端から当たってみようと思い食堂車へ行く。
 列車を辿り食堂車へ行ってみたら、昨夜まであった食堂車がない。昨夜の内に何処か途中で切り離されてしまったらしい。もしその車の中で落としたとしたらもうおしまいだ。
 困った事になってしまった。これまでドイツでスリッパを忘れてきた事以外は全く無事故だったのについにやったか。
 その時、私はフト昨夜パリで列車に乗り込んだ直後、車掌室へ行って寝台車の申し込みをしたとき、車掌室の机の上に沢山のパスポートが束ねられているのを見た事を思い出した。多分乗客のパスポートを集めたものと思う。但し私のパスポートは手元にある。とにかく最後の望みを託して車掌に聞いてみよう。これで無ければ諦めるしかない。
 車掌室へ行ってみたがドアに鍵が掛かっていて応答がない。多分まだ寝ているのだろう。こちらの車掌さんはのんびりしたものだ。とにかく起きるまではどうしようもない。その間腹をきめて顔を洗ったりして待つ事にした。
 約一時間程の間落ち着かない時が過ぎた。昨日の車掌は乗っているのだろうか。食堂車のように昨夜の内に何処かで交替していたら話が通じないし困った事になる。
 ようやく車掌室のドアが開いた。昨日の車掌さんが事務整理をしていた。私のユーレルパスを知らないかと聞いたら、預かっているとの答えだった。夢かと思い一瞬信じられない気持ちだった。車掌さんは多くのパスポートの束の中から紛れもない私のユーレルパスを取り出して渡してくれた。本当に嬉しかった。私は思わず車掌さんの手を両手で握り彼に抱き付いた。車掌さんは笑っていた。列車は尚もゴトゴトと快適なリズムを刻んでマドリードへと向けて疾走する。
 思い返してみるのに、昨夜私が列車に慌てて飛び乗り、まだ気持ちが落ち付かない内にこの車掌さんに寝台車を頼んだ。彼は私にパスポートは要求せず、ユーレルパスのみ預かってから「チヨット待て」と言ったのだろう。何はともあれ見付かって一安心。これで無事旅行を続ける事が出来る。
 列車は予定通り、9時丁度に無事マドリードのチャマルティン駅に滑り込んだ。

      情熱の国スペイン

 ピレネー山脈の南…、ここは同じヨーロッパの中でも、他とは違った生いたちと姿を見せてくれる。激しいリズムに乗せ陶酔したように踊るフラメンコと、強烈な太陽の下で死闘を繰り広げる闘牛。“ピレネーを越えるとそこはもうヨーロッパではない”と言ったのはナポレオンであった。
 この国の文化に決定的な影響を与えたムーア人の侵攻が始まったのは八世紀であった。その後、15世紀末までの約700年の間、イスラム文化がスペインを席巻したといってもよい。今日でもなお、観光のメッカであるコルドバ、セビリア、アルハンブラにはイスラム文化のエキゾチックな魅力が濃厚に伝えられている。イスラムとはアラビアのメッカに生まれた宗祖マホメットがおこした宗教と、この宗教を土台に築き上げられた文化全体をさしている。
 イスラムを駆逐し、スペイン統一という宿願を果たしたのは1491年11月である。この時からスペインは絶対主義に入ることになる。
 コロンブスの新世界発見によりスペインは黄金時代に入り、七つの海を制覇する無敵艦隊をもって植民帝国として国力は膨張した。特にインカ帝国の征服など中南米アメリカの植民地化によって鉱山が開発され、大量の金銀がスペインに流入するようになり、15、16世紀には、黄金の世紀を迎えるに至った。
 スペインの栄光に陰りが見え始めるのは1588年5月、無敵艦隊がイギリスの艦隊に撃破された“ゲラピリース沖海戦”後。この海戦を境に、スペインの凋落が始まった。やがてナポレオンのスペイン侵攻と、海外植民地の独立が相次ぎ、スペインの栄光時代の基盤は次々と崩れていった。

     両替所が開かない

 入国と同時に先ず何よりもお金の両替をしなければ食事にもあり付けない。チヤマルティ駅の両替所の前へ行くと、30人程の客が並んでいた。朝8時半から毎日営業していると案内書には書いてあるのに、30分以上過ぎても窓口はまだ閉じたままである。ここはラテン系なので何事もイージーと聞いている。だから遅れても不思議ではない。
 30分、1時間、2時間…。いくら待っても窓口は開く気配もない。腹が減ってきた。目の前にはスタンド形式の軽食堂もあるのだが、お金がないことには何も食べる事が出来ない。今日は日曜日なので街の銀行は休みである。列の中にはわざわざ街から遠いこの駅まで両替に来たという日本人もいた。いくらイージーなお国柄と言え、こう待たされては腹が立ってくる。貴重な時間は浪費するし、予定も狂ってしまう。
 時間が経つにつれて列が崩れ、一人、二人と去って行く。並んでいる人の数が徐々に少なくなってきた。あきらめて何処となく散って行ったらしい。高いレートでホテルなどで両替して貰うために行った人もいるのだろう。
 北海道新聞社のK記者に紹介されたマドリード在住のE氏さんに電話をしたいのだが、電話を掛けるお金もないのだ。E氏にはフィレンツェから葉書を出してあるので、待っていてくれているはずだ。電話する金もなくては完全にお手上げだ。只々時間を空費するのみである。
 今日は午前中、プラド美術館を見る事にしているのだが…。日曜日のため、美術館は2時までしかやっていないのだ。急がねば…。気だけが焦る。
 益々腹が減ってきた。ポケットにはパリの北駅で両替したフランスフランと後は日本円のトラベルチェックしかない。余りの空腹に耐えかねて待合い室内のスナックに行き、手持ちのフランスフランで食べさせてくれないかと持ち掛けたら、ウエーター連がお互いに相談をし始めた。しばらく待たされた後、ようやくOKが出て朝食にあり付く事が出来た。
 両替所は依然として閉じたままである。列の中にいたヒゲの日本青年と言葉を交した。空港か街のホテルヘ行けば両替してくれるのだが、そこへ行くタクシ一代もないとボヤいている。近くに居た若いアベックの日本人も話に入ってきた。彼等はマドリード市内からわざわざここまで両替に来たのだと言う。
 とにかくここでいつまで待つていても開きそうにもないので、皆で相談した結果街のホテルヘ行こうという事になった。ユーレルパスならアトーチャ駅まで国鉄列車で行けるという事なのでそうする事にした。このチャマルティン駅は街からはかなり離れているのでどうにもならないが、アトーチャ駅まで行けばホテルも近くにあり、なんとかなるだろうという訳である。
 話のついでに私はそのアベックから、持っていた残り少ない小銭の中のコインを一枚戴いてE氏に電話をした。彼はもうそろそろ私から電話が来るだろうと、日曜日なのに何処にも行かずに待っていてくれたらしい。事情を説明し、再度ホテルから電話をする旨話をして受話器を置いた。アベックはすでに市内にホテルを予約していたが、ヒゲと私は着いたばかりで宿は決まっていない。私とヒゲは駅の観光案内所で宿を紹介して貰い、同じ宿に泊まる事にした。
 若いアベックとヒゲとそれに私。ドン・キホーテ一行を思わせるような不思議な組み合わせの日本人四人組が、チヤマルティン駅から国鉄に乗りアトーチャ駅へと向かった。
 チヤマルティン駅でもこうであったが、このアトーチャ駅でもロッカーというロッカーは全部閉鎖しており、荷物一時預け所も閉じていた。
 アトーチャ駅から宿までは荷物があるので宿に一番近い駅まで地下鉄で行く事にした。地下鉄代は又、アベックが出してくれた。彼等は京都出身とかで、二人でヨーロッパをもう一年以上も旅行中で、このスペインが最後の旅行地だという。二人はこれまでの長い旅の中でいろいろの人との出会いがあり、多くの人にお世話になって無事旅を続ける事が出来たという。その感謝の気持ちを込め、彼等も又恩返しのつもりで出会った人に親切にしているのだから気にしないでも良い、と言って残り少ない小銭の中から我々にも切符を買ってくれたのである。旅は道ずれ世は情け、本当にありがたかった。異国で受ける親切は又格別である。私はこの好意に何も報いる事は出来なくて残念だと言うと、彼等は「次の機会にどなたか因っている人にお返ししていただければ幸いです」と言った。二人とはここで別れる事になる。私はスーツケースを開け、スペインで食べるべくとっておいたインスタントラーメンを二袋彼等に差し上げた。彼等は「いやー日本の食事を食べるのは久し振りです。懐かしいなぁ」と言って喜んで貰ってくれた。
 地下鉄を降りてからヒゲと二人で何度か通り掛かりの人に尋ねながらようやく宿に辿り着くことが出来た。その宿は大きな石造りのビルの一角であった。
 ANTOXO ZORRILLA,7.2゜12g。玄関のドアを聞けて応対してくれたのは若い奥さん(セニヨール)であった。案内された部屋は最近内装を新しくしたらしく、部屋は小奇麗で床のニスも光っている。おまけに風呂もある。私にしては最高の部屋である。
 宿が決まったら、早速行動開始である。先ずその前にお金が必要である。宿の奥さんに相談をしてみたが無理だった。
 電話を借りてE氏に連格をとる。E氏に両替の件を相談すると、快く承諾してくれたので一安心。おまけにプラド美術館前まで持って来てくれるという事で恐縮する。初対面で大変申し訳無い事なのだが、こうするより他に方法がないのだかりやむおえない。この際ご厚意に甘える事にする。その代わりというのも失礼だが、日本から持って来たタバコや雪まつりの絵葉書などの手土産を差し上げて感謝の意を表わす事にした。
 宿からプラド美術館まではすぐ近くなので歩いて行く。既に約束の時間前にE氏はプラド美術館前のゴヤの像の前で待っていてくださった。
 E氏は頭の頂上まで禿げ上がった小柄な人で、一見徳川家康を思わせる風貌の人だった。ヒゲも私に便乗してEさんに両替して貰った。ヒゲはこの後、蚤の市を見に行くという。夜は又一緒に闘牛を見に行く事にしているので、4時に宿で会う約束をして別れる事にした。ヒゲはE氏のタクシーに便乗して蚤の市へ行った。

      プラド美術館

 プラド美術館はフランスのルーヴル美術館などと共にヨーロッパの四大美術館の一つに数えられている。ルーヴルに匹敵すると言われる世界的な美術館だが、ルーヴルよりは小じんまりとしており、落ち着いて鑑賞出来るのがありがたい。
プラド美術館/写真転載不可・なかむらみちお  高天井の廊下にずらりと並んだ部屋部屋は、時代別作家別にうまく独立しており、お目当ての絵を見に行くにも美術を勉強するのにも、実に便利になっている。これはルーヴル美術館がそうであるように、昔の宮殿とか他の目的で建てた建物を利用した美術館ではなく、プラド美術館は初めからスペインの王様が収集した絵画を陳列する為に、王家の付属美術館として建設された為、美術館にふさわしい設計となつているからである。
 3200有余の収蔵作品の内、ハイライトはなんと言っても、怪物画家のゴヤ「裸体のマヤ」であろう。中央の天窓のある回廊をずっと歩いて行って端のほうに円形の大広間がある。その部屋で「裸体のマヤ」が訪れた人を見つめている。美しい絵である。この絵だけは何としても見たかった。昨年、NHK−TVで放送になった堀田善衛氏の解説番組を見ていたので、特に興味を持っていたのである。今、それが目の前にあるのだから夢のようである。
 「裸体のマヤ」は、ゴヤのスポンサー兼愛人であったアルバ公爵夫人であると言われている。全く同じポーズの「着衣のマヤ」という絵もあるが、この二枚の絵には、次のようなエピソードがある。ゴヤが「裸体のマヤ」を描いたとき、モデルはアルバ公爵夫人であるという噂がまことしやかにささやかれた。その噂の最中、公爵が突然帰国したので、ゴヤは夫人との仲があまりに露骨になるのを恐れて、一夜の内に着物を付け加えたという事である。あまりにも出来過ぎた話という感も免れないが、現在、この二枚の絵はどちらが先に描かれたかが、美術界の一大論点になっている。
 絵の事はあまり分からないが、この他に「カルロスW世とその家族」「5月3日の銃殺」「わが子を食う悪魔」「ピクニック=巨人」などが印象に残った。
 二階の中央画廊には17世紀の巨匠ベラスケスのサロンがあり、「マルガリータ王女」などが展示されている。
 エル・グレコの作品群は、ベラスケスの部屋に隣接してある。ベラスケスの透明な光と色彩に包まれた後で訪れるグレコの部屋は、神秘と不安な情熱が醸し出す空気が漂っている。「受胎告知」「十字架を運ぶキリスト」など神秘性の横溢する宗教画が、スペイン的な精神を最も感じさせる。
 これらの名作の数々を見た後、館内の売店で記念に展示絵画の絵葉書を買ってきた。他に実際に油絵具が盛りあがったところまで再現した、実に精巧な独特の複製印刷物も売っていた。
 プラド美術館を見終ったので一安心。歩いてスペイン広場へと向かう。銀行、有名商店、デパート、ホテル、劇場、有名料理店、コーヒー・ショップなどが立ち並ぶホセ・アントニオ大通りを行く。人と車で賑わいを見せるメイン・ストリートである。そこからやや右に曲がりながらスペイン広場ヘダラダラ坂を下る。
セルバンテス像/写真転載不可・なかむらみちお  ホセ・アントニオ大通りを終わった所にスペイン広場がある。30何階建“ヨーロッパ第一の摩天楼”をはじめとした近代的な高層ビルが広場を囲み、中央にサンチョ・パンサを従えたドン・キホーテの騎馬像が立ち、背後からセルバンテスの石像がこの二人を見下ろしている。その後に建つモダンなエスパーニヤ・ビルと好対照を成している。
 4時までにはまだ間がある。ミュンヒェン以来家には電話をしていない。一週間ぶりで家へ電話をする事にする。電話局を探して、炎天下のホセ・アントニオ大通りを歩く。
 ようやく電話局を探し当てたが、丁度13時30分から16時30分まではシエスター(昼寝の時間)にあたり閉まっている。そこで待っているのも時間がもったいないのであきらめて再びホセ・アントニオ大通りを通って宿まで歩いた。5時から始まる闘牛を見に行くため、ヒゲと宿で4時に待ち合わせているのだ。
 4時前に宿に着いたが、ヒゲは未だ帰っていなかった。待っている間に日本の家宛ての葉書を書き終えた。少々腹が減ってきたので、使い古しの固形燃料を出してインスタントラーメン作りを始めた。この固形燃料も、これで終わりだろう。ようやく鍋の中の湯が暖まってきたころ燃料が切れてしまった。火が消えて気が付くと何か焦げるような変な臭いがした。固形燃料を持ち上げてみると、新しく塗ったばかりの床のニカワが熱で円形に解けてひつこみ、固形燃料の跡形が残っていた。これは困った。明朝から明後日までセゴーヴィアに行ってくる間、このホテルに荷物を預けて行こうと思ったが、これでは預けて行くわけにはゆかない。
 とにかく火がなくてはラーメンは食べられないので、五円玉一個と日本から持ってきた観光土産用の割り箸、それに札幌の観光パンフレットを持って台所へ行き、女主人に頼んで台所のレンジを貸してもらった。
 4時過ぎ、道に迷って遅くなったと言いながらヒゲが帰って来た。

      闘 牛

 スペイン各地には250以上の闘牛場があり、マドリードにも二つある。そのうちの一つ、プラサ・デ・トロスはずば抜けて華やかで、その規模は世界一。12.000人も収容出来る。東洋風のアーチや円窓を一見しただけで、歴史を感じさせる建物である。ここに出場出来れば、一流の闘牛士の折り紙が付けられるほどで、闘牛のメッカである。シーズンは四月から十月中旬まで、日曜、祭日の夕方五時頃から二時間、開催される。
祭りに浮き立つ人々/写真転載不可・なかむらみちお 闘牛場の入場券/写真転載不可・なかむらみちお  地下鉄から地上へ上がるとすごい群衆である。民族衣装を着た女性の一群が踊りながら広場を通り過ぎる。入場券売場には長蛇の列が出来ている。広場の片隅にあるダフ屋の露店でも同じ券を売っている。こちらは20%増という事で、並んでいる人はいない。ヒゲはそこで買うと言うので、私もつきあう。私は写真を撮る都合上一番料金の高い前列の日陰の席を買う(2.400Ptsの券を2.880Ptsで)。彼は安いところが良いというので、帰りの待ち合わせ場所をきめて別々の席を買った。五月十五日は聖イシドロ祭。今日はその最初の日曜日なので大変な混み合いだ。闘牛士も一流のスターが出演するので、入場料はシーズン中でも一番高い。
 入場すると貸し座蒲団を借りる仕組みになっている。そして案内人が席まで案内してくれる。席に着いて見るとなるほど良い場所だ。前から二列目で、その先は闘牛が行なわれる場所(グランド)である。ここからだと標準レンズでも充分に写せる。闘牛の開始時間は大体17時か17時30分。陽はまだかなり高い。六頭の牛が駆り出され、二時間にわたって、伝統的作法に従った演技が繰り広げられる。
 闘牛士はその役割によって三種類に分けられる。最初に登場し、馬に乗って槍で牛の首を突くピカドール、ピンクのマントで牛をあしらい、投げ槍の芸を見せるバンデリオ、最後に牛にとどめをさすマタドールがそれ。マタドールは闘牛士の中でもスター役だ。

闘牛/写真転載不可・なかむらみちお  闘牛は華やかなパレードによって開幕する。ファンファーレが円形の競技場内に響き渡ると、中世貴族風の衣装をまとった役員が馬に跨って登場する。続いて三人のマタドールが他の闘牛士達を従えて場内を行進すると、観客席から大変な歓声があがる。この三人のマタドールの内、右側にいるのが一番年配で、一頭目と四頭目の牛と戦い、中央にいる一番若いマタドールが三頭目と六頭目の牛と闘技する。
 牛は必ず最後に死ぬ運命にあるわけだが、闘技中、マタドールにも危険はある。彼等は、競技場に出てくる牛をじっと観察している。防壁の陰で息を殺して立つ闘牛士の姿は、まさに真剣勝員の間合いをはかるのと同じ気持ちだろう。
 犠牲になる牛は一日六頭だが、殺すという儀式に要する時間は20分。馬上の闘牛土ピカドールによる槍の一突き、バンデリオによる投げ槍の芸、最後のマタドールによる止めの一突きといった演技の進行は、総てファンファーレを合図に行なわれる。スポーツというよりむしろ一種のショー、または儀式で、人々は巧みに牛をあやつる闘牛土の身のこなしの美しさ、気品、勇壮さを楽しむ。闘牛とは文字通り命がけで、地位と名誉を得る職業である。トップスターは国民的英雄となる。
 艶やかな衣装をまとい、長剣を携えて、マタドールは横顔を牛に見せ、パラーと呼ばれるスタイルで直立する。牛をやり過ごす演技のパセスを繰り返しながら、赤いケープを巧みに操って猛牛をいなす。華やかな色彩と最高の技術が作り出す見せ場に、観衆は“オーレ”という独特の掛け声をかけ、場内は興奮の渦となる。
 最後の見せ場は人と牛との一騎打ちの場面である。黄色の渇いた砂塵を巻き上げ、きらびやかな闘牛士と黒牛が死を賭して格関する。甘美でスリリングなパノラマ。あわやと思う一瞬、見事な身のこなしで長剣を首筋に差し込む。どよめく大観衆。牛が口から血を吐きどっと倒れると、観客は興奮の絶頂に達する。場内にこだまする“オーレ”の合唱…。夕陽のきらめきの中で、それは一幅の絵のようである。思ったはど残酷さを感じないのは雰囲気のせいだろうか。
 闘牛場を出た私達は、続いてフラメンコを見に行く事にする。しかし、まだ時間が少々早すぎる。地下鉄でプエルタ・デル・ソルまで行き、そこからマヨール広場などを散策する。この辺は庶民的雰囲気が漂っている。途中、立ち喰いの食堂に立ち寄ると店内のモノクロTVが今見てきた闘牛の模様を放送していた。さすがスペインの放送局である。
 イタリアのTVもモノクロで、ナポリでもヴェネツイアでも盛んにカンツォーネばかり放送していた。やはりお国柄が現われているなと思った。

      フラメンコ

 フラメンコを見るには、タブラオと呼ばれる酒場へ行くのが良い。ショーは11時頃から始まる。一夜に二回公演が原則で、有名なダンサーは二回目の時に出演することが多い。ショーの構成は、上演する劇場によって多少異なるが、大体、男性歌手1名、ギター伴奏者1〜3人。男性ダンサー2〜4人、女性ダンサー7〜12人といったところ。
 E氏に教えられたコラル・デ・モレリア(Mareria17)をようやく探し当てた。なかなか良い雰囲気の店である。一番奥の席に案内される。サングリアを注文する。これは赤ワインを主体にして、シェリー酒、オレンジとレモンの切り身を一緒に混ぜ、砂糖を加えてよく冷やした飲み物である。ガラスの器の底には砂糖が沈澱しているらしくかくわん棒が付いている。グラスに注いで飲むと少々甘く軽い感じだ。
フラメンコショー/写真転載不可・なかむらみちお  お目当てのフラメンコショーは11時頃から始まった。ギターを抱えた男3人と、5人の女性が舞台に上がり、次々とダンスをくりひろげる。手を叩き、足を踏み鳴らし、胸を張って、背を弓なりに曲げて踊るフラメンコの激情は、セクシュアルな雰囲気を醸し出し、観光客を魅了している。又、合間に歌われる哀調溢れる唄や、官能的な歌唱で歌われる唄は、ギターの伴奏によって一層の効果を上げ、又、ギタリストの独演も、微妙な旋律によって人々の心をうちふるわせる。
 フラメンコはイスラム文明が、流浪の民ジプシーの激しい踊りと融合し、独特のフラメンコをアンダルシア地方に定着させたといえよう。
 充分堪能して12時近くに店を出る。宿の前でタクシーを降りて振り返ると花火が西の夜空を彩り、聖イシドロ寺院がシルエットに浮かび上がっていた。マドリードは街を挙げて聖イシドロ祭の真っ最中なのである。日本の伝統的花火を外国で見るなんて一寸変な錯覚を感じる。もしかするとあの花火は日本製かも知れない。
 宿に帰ったら宿の主人のお客さんが来ていた。子連れらしく話がはずんでいるようであった。宿の主人が上気嫌で「遥々日本から来たのか」等といろいろと話し掛けてきたが言葉が通じなくて弱った。スペイン人は何処へ行ってもこちらがスペイン語を知らなくても関係なしに盛んに話しかけてくる。スペイン人は本当に気さくでお人好しだ。そのうえ人なつっこい。そしてとてつもなく親切だ。宿の主人は客が手土産に持ってきたらしいお菓子を箱ごと持ってきて食べれと差し出してきた。飲んできたばかりで、甘い物はノーサンキュだったが、断わるのも悪いので一つだけいただいた。続けて更にもう一つと勧められたが、ようやく断わって部屋へ退散した。
 スペインは素朴で人情厚く、何処か風情がある。一度でスペインにとりつかれそうである。

      セゴーヴィア

    5月18日(月) マドリード(アトーチャ駅)7:53-10:01セゴビア(市内観光)
 朝7時。窓の外はもう明るくなっているというのに、未だみんな寝静まっている。祭りの饗宴の後遺症か?
 前の夜に料金も支払い、宿の女主人には出発する時間も話してある。そっと部屋を抜け出し、出口のドアを開けようとしたら脇の部屋からネグリジェ姿の女主人が出て来た。何やらスペイン語で言っているが話は分からない。部屋の鍵を返して「グッドバイ」と言ったら、女主人も「グッドバイ」と言ってくれた。「タクシー?」と聞くから「ノー、表で拾う」と言うと、電話で呼んでくれた。玄関先に出て待っていると無線で呼ばれたタクシーがすぐ駆け付けて来た。
セゴーヴィア  セゴーヴィア行きの列車が出るアトーチャ駅は宿からはすぐ近い。タクシーの運転手に「アトーチャ駅」と言ったら、彼は「セゴーヴィアに行くなら北駅だ」と言う。北駅はここからおよそ3q程離れたところにある。私は運転手に何度も「セゴーヴィア」と繰り返すが、彼は「北駅だ」と言い張る。こちらも不安になり、ついに彼に同意して北駅へ向かって貰った。
 北駅の案内所で聞くと、7時25分発の列車に乗れという。間もなく走り出した列車の中で一人の乗客に尋ねてみた。「セゴーヴィア?」と聞いてもどうもはっきりしない。「違う」という人もいる。一体どちらが本当なのだろう。変だ。しかし列車は既に走り出しているのだ。今更どうしょうもない。車掌の来るのを待つ事にしよう。
 次の停車が近くなってからようやく車掌が来た。そこへ先ほど尋ねた青年が近ずいて来て「次の駅で乗り換えれ」と言っている。
 列車はラス・ロサス駅(PINAR DE LAS ROZAS)に止まった。再度、その青年と車掌に念を押して慌てて荷物を抱え、とにかく列車から落ちるように降りた。
 駅の待合室に居た乗客に聞いてみたら、次の列車がセゴーヴィアヘ行くと言う。なるほど駅の時刻表にもそう書いてあった。タクシーの運転手に一杯食わされたのかな。
 セゴーヴイアはマドリードから北西へ8q。岩石の荒涼たる原野を見ながら列車は2時間半程でセゴーヴイア駅に着いた。この駅でも手荷物預かり所は閉鎖していた。最近スペインではバスク地方の独立運動が盛んで、クーデター騒ぎがあったばかりである。爆弾テロなどを恐れての処置らしい。そういえば、マドリードの街角などに突然機関銃を腰にかまえた武装兵が警戒しているのに出会ってドキッとさせられた事もあったっけ。
 セゴーヴィアの市内は駅からやや離れている。駅前に出てみると、タクシーがあるわけでもなく、舗装もしていない。駅前広場の前には道路が一本横に走っており、その傍らで列車から降りた乗客が5〜6人たむろしていた。街へ行くバスを待っているらしい。丁度マカロニウェスタン映画を見ているような雰囲気で私もその中に加わった。日本のようなバス停の標識が立っている訳でもないのに、どうしてここがバス停と分かるのだろう。それとも駅から出て道路際に出ると自然にこの辺りに出て、そこヘバスが来るという仕掛けなのであろうか。
 この旧カスティーリヤの首都セゴーヴイアは、今から約2000年前、ローマ帝国のアウグストウス帝によって征服され、要塞の地として栄えた。イスラム支配を経て、キリスト教君主の支配下に入り、14世紀にはスペインの宮廷が支配し、この地で6回にわたり国家運営の方針が練られた。
 現在の人口は約4万人。根室市程の町である。ヘミングウェイの小説「誰がために鐘は鳴る」の舞台としても知られている。又、同じスペイン内戦(1936〜1939年)の時には伝説の戦争カメラマン、ロバート・キャパの恋人ゲルダがこの近くのブルネテ(Brunete)で暴走してきた味方の戦車に巻き込まれて死んでいる。
 カスティーリヤの女王イサベルは、1492年当時スペイン勢力を二分していたアラゴンの王フエルナンドと結婚した。イスラムを駆逐し、スペイン統一の宿願を果たした。イサベルのコロンブス支援による新世界の発見。両王の間に生まれたカルロスX世、その子フェリペU世に至って、やがてスペインは世界に君臨する黄金時代を作りあげた。国威は絶頂を極め、欧州諸国はスペインの顔色をうかがわなければならなくなった。当時のセゴーヴィアはスペイン中世期の歴史的栄光を一身に担っていたと言えよう。
 この旧カスティーリヤの首都セゴーヴイアは中世スペインのロマンを秘め、グァダララマ山系がなだらかな起伏を見せる丘の上に、ひっそりと静まりかえっている。
古代水道橋/写真転載不可・なかむらみちお  坂の下の向こうからバスが来て停った。街に入ると古代水道橋が見えてきた。市内を長々と横切っているローマ水道橋は、まずセゴーヴィアの町第一の見ものと言えるだろう。ヨーロッパ中で最も原型に近い姿で保存されている。延長728b。西暦100年、グアダララマ山系から切り出した花崗岩を巧みに組み合わせて造ったもので、もちろん漆喰やセメントは使用していない。
 水道橋は128のアーチからなり、地形の関係から、7bから28.8bまでの高低差が付けられており、中央の高い部分で二層、崖に近い箇所で一層のアーチに支えられている。セゴーヴィアから17kmの水源地、リオフリオの流れから今も尚2000年の昔と変わらずセゴーヴィア市民に水を供給している。
 当時のローマ人の偉業の中で、最も良く保存されているものの一つで、その均整のとれた美しい姿は「橋の上には水が流れ、橋の下には葡萄酒が流れる」という民謡と共に、セゴーヴイア市民に親しまれている。
 バスはその橋の下を通ってなおも進む。やがて街の中心部の広場に着いた。早速観光案内所へ行って宿を紹介して貰った。応対してくれた女性は、これまでのスペイン人とは大違い。無愛想で事務的でメンコク(可愛いく)無い。とにかく近くの安いホテルを紹介して貰った。
 そのホテルは100b程しか離れていないところにあった。建物はかなり古いが、まあいいだろう。近いのが取り得というところか。おかみさんらしい人に二階の部屋に案内された。観音開きになった木製の二重窓を開けると、窓外は先程通って来たバス通りに面しており、セゴーヴイア寺院が右手正面に迫っている。女主人に「車の音がうるさい」と言うと、観音開きの窓を閉じ、「こうすればかなり静かになる」とすましている。そして「夜中は通りも全く静かだ」という。スペイン人はおおらかなものである。参った。これ以上掛け合ってもラチがあかないのであきらめてこの部屋にきめた。
カテドラル/写真転載不可・なかむらみちお  スーツケースを鎖と錠でベッドに縛り付け、早速街へ出た。アルカーサル城へ行く途中にセゴーヴィア寺院(Catedral)がある。スペイン最後のゴシック式大伽藍で、16世紀、カルロスX世統治下に建設されたもの。外観は一見こじんまりした感じで、そのすっきりした様子から“カテドラルの貴婦人”と呼ばれている。尖塔の高さ約110b、最大の円天井は地上約38b。堂の奥行き105b、左右48bといった数字からも分かるように、規模の大きさが周囲を威圧して実感として迫ってくる。
 礼拝堂は技巧の粋を凝らした鉄柵で囲まれ、華麗な祭壇、戦争の破壊から逃れた旧カテドラルの合唱壇と共にゴシック様式の特徴を良く表現している。

     アルカーサル(宮殿)

 町の西端、クラモーレス川とエレスマ川の合流点を見下ろす80bの三角形の絶壁に、童話の本から抜け出てきたのではないかと思わせるような、美しい古城がある。私がセゴーヴィアを訪れたのは、このお城を写すためである。
 城内へ入る前に、クラモーレス川とエレスマ川の合流点から城の全景を見る事にする。城の正面に突き当たって右に折れ、石畳の坂道をトコトコと下っていると、私は突然道路の縁石を踏み外した。その弾みで背負っていた重いリックに振り廻され、体のバランスを崩して前につんのめってしまった。危ない!と思ったが、両手が宙を掴み、どうにも体制を建て直すことが出来ず、地面に頭から突っ込んでしまった。左側は低い石垣が続き、足下は石畳である。どちらへ転んでも堅いところばかりなので、咄嗟に怪我を覚悟した。
 痛い!やったかな?。左側に倒れた際、幸いにもそこの石垣の部分だけ崩れており、赤土が出ていた。そこへ頭から突っ込み、土を被っただけで、幸い擦り剥いた程度で大した怪我はしなかった。不幸中の幸いだった。
 それにしても危なかった。こんなところで大怪我をしたら大変な事になるところだった。下手をすると石に頭をぶつけて骨を折るか、手足でも折るところだったかも知れない。
 ふたたび歩き始めたが、廻り道が分からない。城からだんだん離れて行くようだ。ノイシュヴァンシュタイン城の二の舞いはご免だ。近くの家から出て来た男の人に道を聞くと、英語で答えてくれた。探し求めていたアングルにようやく辿り着く事が出来た。ここから眺めるセゴーヴィアの城は、今にも雲中に飛翔する大船のような姿を見せる。
アルカーサル(宮殿)/写真転載不可・なかむらみちお  城の歴史は遠く、古代にはローマ人の城塞があった。築城の技術は12世紀にムーア人に負うところが多いとされている。現在の城は19世紀末に再建されたものである。円い尖塔、物見の窓、城壁の影が、中世スペインの船のような感じで構築され、見る人をファンタジックな世界へと導いていく。ヨーロッパの城に特有な曲線と直線、それに三角屋根という構成は、ヨーロッパの中世の城の一つの原典なのでもあろう。ウォルト・デズニーが映画“白雪姫と七人の小人たち”の城のモデルにこの城を採り上げているのをみても、この建物のフォルムには夢のようなものがあることが分かる。
 城に当たる太陽の光線の差し込む角度があまり面白くない。多分四時か五時頃になったら良い光線状態になるだろう。しかしそれまでの間に雲が出て来てはまずい。この場はひとまず何枚か写しておく事にする。
 再びリックをかついで更に城の廻りを前進してアングルを探す。そこでしばらく時間を費やした後、再び最初の場所に行ってみたがまだ早過ぎた。来た時の道を逆に辿って城の正面へ出た。
 この城には各国のガイドがいる(入場料50Pts)。案内に従って中に入ると、城内はネオクラシック様式が保たれ、壁面の造形構成にはアラブの様式が見られる。これを見てもアラブによるイベリヤ半島支配の歴史の痕跡が見受けられる。しかし、その様なアラブの手法もまたファンタジックな印象となって旅人の心をときめかすのである。
 城内を見学している日本人らしい二人連の女性に出会った。話し掛けてくるのかなと思っていたら知らん顔をして通り過ぎて行ったのでこちらも無視した。こういう人種が一番苦手である。見学コースが決まっているので、その後彼女らには城内で何度か出会ったが全く間の悪いものである。
城内のステンドグラス/写真転載不可・なかむらみちお  城内にはイサベル女王の使用した「寝室」や「王位の間」を復元したものもあり、又、武器の展示室もある。「王位の間」には、スペイン統一の先鞭をつけたカスティーリヤとアラゴン両国の王の椅子が展示されている。
 城のバルコニーに出ると、ここから見下ろす眺めが、この城がいかに工夫されて築かれているかを物語っている。バルコニーは城の三角形の断崖の上に構築されていて、この城が軍事上極めて要害な場所に造られているという事を証明してくれる。バルコニーの中央には、深い井戸がある。おそらく断崖の下を流れている川と同じ地点まで掘り抜かれているのだろう。すべて水に対するなみなみならぬ配慮が伺われる。洋の東西をとわず名城と言われる城ほど水に対する心構えは完璧である。
 このような武備的な配慮をよそに、城はどこから見てもロマンチックな雰囲気に満ちている。塔の上からのセゴーヴィアの街の挑めも素晴らしい。大きなカテドラル(セゴーヴィア寺院)の向こうにはグアダララマ山脈が連なり、残雪が白く輝いていた。
 情熱の国スペインは南国というイメージが強く、こうして真近に雪を見ようなどとは思ってもいなかったが、地図を見るとこの辺は青森と同じ緯度で北緯41度である。そういえば1972年(昭和47年)に札幌で開催された第11回札幌冬季オリンピック大会の男子回転競技でスペインのフランシスコ・フェルナンデス・オチョア選手が金メダルを獲得した事があった。結構スキーは盛んなのだろう。
 城を見終ってから城前でタクシーを探したが、見当たらない。城内の売店の前の芝生にカメラを入れたリックを置いて、城の入口近くに侍っていたタクシーにかけあいに行ったら、マドリードからの貸し切りだと言う。リックのところまで戻ったら、売店のおばさんが私のリックを見付けてだれの忘れ物だろうと心配してキョロキョロ持ち主を探しながらわめいていた。外国では自分の手から放した物は権利放棄したと見なされ、決して自分の手から持ち物を放してはならないという鉄則がある。きっとこんな所に置き放しにしておいたらなくなるよとでも言っているのだろう。
 タクシーがないので、来た道を歩いて古代水道橋まで行く事にした。水道橋近くの店でお土産として売っている皮製の水筒を見付けた。店内に入るとお年寄りの主人が居た。皮のバンドもある。私は水筒と皮バンド合わせて100Ptsでどうだと迫ったが、なかなかウンと言わない。粘ってなんとか100Ptsに負けさせたが悪かったかなぁ。
 水道橋の袂には数台のタクシーが客待ちをしていた。その一台に乗って再度アルカーサル城の川の合流点に行ってみた。今度は光の具合も良く、良い写真が撮れた。
 宿の近くの雑貨屋さんで、南スペイン産の銘酒シェリーを買う。シェリーはヘレスの英語読みの食前酒である。アンダルシア南部のヘレス・デ・フロンテラで産出するワインだけがシェリーの名を許される。それとハム、パン、ソラーレスのアッカー(アクアーミネラルスイングス=飲料水)を買って宿へ帰る。
 カスティーリヤに来たからには「カステラ」を食べてみなくてはと思い、二、三軒のお菓子屋さんを当たってみたが、「カステラ」という名のケーキは何処にも見当たらなかった。「カステラ」は、「カスチラ」国の菓子という意味で、400年前にポルトガル人によって日本にもたらされ、豊臣秀吉も食べたという。あとで分かった事だが、お隣の国ポルトガルの「ビスコチョ」という菓子がその原型らしい。
 スーツケースの中には日本から持って来たインスタントラーメンがまだ三袋残っている。と言うよりはスペインで食べる為に持ってきたのである。
 1972年、札幌冬季五輪大会の採火取材でギリシアに行った際、ギリシア料理のほとんどがオリーブ油で調理されており、その臭いが鼻について食べられなかった苦い経験がある。スペインもオリーブ油を使った料理が多いので、若し食べる物がなくて腹が減っては因ると思って持ってきた訳である。この後、フランスを廻って帰国する事になるが、スペインは折り返し地点であり、明日はスペインを離れる。フランスヘ行けば世界一美味しいフランス料理が食べられるし、なにもインスタントラーメンなど食べる事はない。これを又、日本まで持って帰るのはシヤクである。なんとかここで今日中に処分してしまわなければならない。早速、若い女中さんに日本の五円玉をあげて頼み込むと二つ返事で調理場へ案内してくれた。そこで例の如くインスタントラーメンを調理し、部屋でスペイン特産のハモン(イベリコ豚の生ハム)をつまみにシェリー洒のグラスを傾け、ひとりで晩餐会を開き、至福のひと時を過した。  ※イベリコ豚の生ハム…イベリア種の豚を使った生ハム。最高級品。
 後で考えてみたら、セゴーヴィアはカスティーリヤ料理の本場であった。ここに来たからにはコチニーリヨ・アサドと呼ばれる小豚の丸焼きを食べなくてはウソである。インスタントラーメンに気を取られて、その事をコロツと忘れていたのは不覚であった。残念!

     再びマドリードヘ

    5月19日(火) セゴビア14:04-マドリード…マンサナレス・エル・レアール…16:46マドリード19:00-パリへ
 窓を開けると、目の前にセゴーヴィア寺院が朝日に輝いていた。朝の清々しい空気を吸って広場を散歩した。
 朝七時、みんなまだ寝静まっている。ホテルを抜け出して一番のバスでセゴーヴィア駅へ向かう。マドリード行きの列車は出たばかりで、次の列車までは約一時間近くもある。駅の向かいのスーパーが早くも開いていたのでパンとリンゴ、それに牛乳などを買ってきて朝食とする。
 先週の日曜日にミュンヒェンから家へ電話を入れたきり、その後、家には連絡をとっていない。さぞ心配している事だろう。この日曜日にマドリードに到着した時に電話をする予定だったが、両替が出来なくてすることが出来なかった。今日は何とかして連絡しなければならない。待合室の公衆電話を覗いて見ると日本の国際番号が記入してあった。という事はここから日本へ国際電話をかけられるという事だろう。あいにくコインを持ち合わせていなかったので、駅員に頼んで紙幣をコインに両替して貰いダイヤルを廻したがどうもうまく掛からない。やむおえず駅員を呼び止め、駅員に掛けて貰ったが駄目だった。その駅員は更に親切に電話局へ問い合わせてくれた。それによると、この電話からでは外国へはかけられない事が分かった。そして、マドリードからなら掛けられると教えてくれた。私は彼に日本から持ってきた煙草を一箱あげて礼を言った。
 正午、マドリードのチャマルティン駅へ着いた。早速駅の待合室にあるダイヤル直通国際公衆電話で家へ電話をした。今度は巧く接ながった。日本は夜の七時との事で電話口には妻が出てきて、何も変わった事がないという事で一安心。
 昼食にスペイン名物のパエリヤを食べたいと思い、駅三階のレストランヘ行ったのだがパエリヤは一人前では駄目だと断わられた。パエリヤとは炒めた米に、魚、エビ、貝、鶏肉などを混ぜて炒めた料理である。再び待合室に戻り、スタンドでホタルイカの墨煮などを食べた。初めてこの駅へ着いて、ここで食事をした時もそうであったが、食事中に後ろからだれかにトントンと肩を叩かれた。誰かなと振り向くとそこには子連れのジプシー娘が手を出していた。子供を抱いたのや、そうでない娘などが数人、同じように他の客にも小銭をねだっていた。それがまるで蝿のように度々来るので落ち着いて食事をしていられない。
 駅の窓口ヘ行き、今夜乗るパリ行き列車の寝台券を買い求めたところ、窓口の男に上手な日本語で応対され驚いた。スペインも日本語熱が盛んなのだという。
 駅の正面入口前にタクシー乗場があり、沢山の空車が列を作って客を待っていた。その中の一人の運転手に、マンサナレス・エル・レアール城の写真を見せたら、3〜4人の運転手が寄って来た。その中の一人が、この城を知っていると言うので、試しに地図を見せるとその場所を指示した。間違いない。同じ名前の城がすぐ近くにも在るため、本当に間違いないかどうか試す為こうしてみた訳である。
 その城はマドリードの北西約50qの処にある。バスが近くまで行くのだが一日に一便しか無い不便な田舎である。車で往復二時間半掛かると言う。スペインのタクシーは安い。料金を交渉すると往復で2500Ptsと言う。もっと負けろと値踏みすると、それ以上負けられないと一歩も引かない。それじや止めたと言うと相手はそれでいいからどうぞと言う。そんな駆け引きをした挙句、2400Ptsで手を打つ事にした。
 車に荷物を積み込み、ハイウェイをマドリード郊外へと走り出した。運転手はなかなか陽気な人で、盛んに話し掛けてくるのだがお互いに言葉がさっぱり通じない。それでもスペイン人は尚も話し掛けてくるのだから不思議だ。よほど人が良いのか、陽気なのか…。
 およそ一時間程走った。通り過ぎる道路標識を振り返って見ると、マドリードまで約50qと書いてある。

      マンサナレス・エル・レアール

 やがて左側に沼が見えてきた。サンチラーナ湖である。その向こうに集落も見えてきた。運転手が、あれがレアール城だと指差した。そこには紛れもなく、写真と同じマンサナレス・エル・レアール城があった。
マンサナレス・エル・レアール城/写真転載不可・なかむらみちお  この地名は、大抵の地図には載っていないし、勿論、観光案内書等にも一切載っていないので調べるのに苦労した。資料らしい資料もほとんど無いのである。
 城の原型はノルマン。その石造構造はアラブの手法によるスペインの城の類型の代表てある。城の外観は完全に復元されたが、内部は崩壊したままである。
 この荒れた城の中で最も美しいのは、サンチラーナ湖に面して造られた窓のモローの装飾的技術を取り入れた彫刻である。城の構造は、少し小高い丘の上に敵に対する攻撃が容易に出来るように、方形の内城を外壁が取り囲み、内城の四隅にある円塔を城壁と歩廊とが結んでいる。観光客の姿も見掛けない城の周りの丘には、ラベンダーの花がひっそりと咲いていた。あまり運転手を待たせるのは悪いので、大急ぎで写真を撮り、城の周りを一周して戻ってみると、運転手は初夏の陽射しを浴びて、草原に腑せとなり、気持ち良さそうに寝入っていた。
 急いだので喉が渇いた。運転手にも待たせて悪かったので二人でコーラでも飲もうと誘うと二つ返事が返ってきた。近くに知っている店があるから彼がそこで私に何か奢ると言う。その前に二人で城をバックにして記念写真を写した。
 途中にもコーラを売っている店があったが、その前を通り過ぎて彼は彼の知っている店が良いと言って真っ直ぐそちらへ連れて行かれた。彼の知り合いの店RESTORANTE“Casa colias”の前に車を止めて中に入る。私は本当はビールを飲みたかったのだが、運転している彼に悪いのでコーラを注文した。ところが、彼はビールを注文した。ビールはセルベサと呼ばれ、スペインではワインより多く飲まれている。スペイン人は清涼飲料水のような軽い気持ちで飲むらしい。私もビールにすれば良かった。支払いは彼が奢ってくれると言っていたが、彼に悪いので私が支払った。
 店の主人(Niclas Lunaさん)と運転手は何事か親しげに話し始めた。日本からの客を案内していると言っているらしい。そのレストランの主人から握手を求められた。彼は私に城の写真を撮りに来たのかと聞く。そうだと答えると、彼も城の写真を撮っていると言って別室に案内してくれた。そこには、マンサナレス・エル・レアール城の夜景の写真が大きく引き伸ばして額に入れて飾ってあった。その隣には、城をバックに闘牛大会が催されている写真もあった。これらの写真は彼が写したのだという。私もマドリードで闘牛を見て来たと言ったら、彼はそうかと頷いていた。
 彼の傍らに5〜6才の男の子がいたので、私はポケットから五円玉を一つ取り出してその子にあげた。そしたら、店の主人は壁に貼ってあった闘牛のポスターを履がして、私に想い出に持って行けと丸めて手渡してくれた。スペインでは闘牛士はスターである。闘牛士のポスターはマドリードの闘牛場の前でも売っていたが、日本まで持って帰るのが大変だったので買うのを止めたのを思い出した。
 私はポスターのお礼に、日本から買ってきた煙草を一箱上げた。彼は今度はコーラの栓を抜き、飲めと勧めてきた。私はさっき既に一本飲んでいるので、これ以上飲んでは腹の調子がどうなるかと心配になってきた。断わるのも失礼なので、お言葉に甘えて無理して何とか残さず飲み干した。彼は運転手と幼なじみだと言う。道理でこの辺の事に詳しい訳である。私はコーラの御礼に日本から買ってきたアイヌ民芸品のお土産を上げた。彼氏、すっかり気を良くして、今度はこのレストランの名前入の皮製札入れをくれた。そして近くに大変景色の良い処が在るからこの運転手に案内して貰えと勧めてくれた。運転手も自分の奢りで案内すると言ってくれた。あまり気が進まなかったが、ご厚意に従う事にした。帰り際に私の住所氏名を書いた「アマチュア無線交信カード」を渡して別れた。(後日、このご主人からクリスマスカードが贈られてきた)。運転手は更にその奥の方に案内してくれた。そこには大きな芋虫のような岩と言おうか、赤茶けた山と言おうか、変わった風景が横たわっていた。そして運転手は、その奥に見える山を指差して、昔、自分はあの山の上でTVアンテナの工事をしていたと説明してくれた。
 三時、再びチャマルティン駅に帰って来た。2400Ptsの約束だったが、良い運転手だったので、チップの意を含めて、最初の彼等の言い値の通り2500Ptsを払って握手して別れた。

      王 宮

 七時発のパリ行き列車まではまだ時間がある。ここで時間を空費するのももったいないので王宮を見に行く事にする。
 チャマルティン駅から街まではかなり遠く、走れども走れも都心のビル街が見えてこない。スペインのタクシーは安いのだが、今回ばかりはメーターが気になる。出国間際だから、スペインのお金の持ち合わせが少なく、懐具合が心配なのである。
 ようやく王宮前に到着。お金を払おうと思ったら運転手がこれじや足りないという。どうやら桁を一つ間違えていたようだ。困った。手持ちのPtsが無いのである。
 すると丁度そこへ、向こうから日本人の初老の夫婦が娘を連れて歩道を通ってこちらに来た。渡りに船とばかりに訳を話して円との両替を頼んでみた。すると彼等も手持ちが無いという事で断わられてしまった。御主人とそんなやり取りをしていたら、傍らの奥さんは、私を無視するかのようにわざと娘に「○○ちやん早く行きましょう」と急ぎたてた。全く失礼なヤツだ!。とかく気取った女ほどこのような無礼なヤツが多い。
 銀行はもう閉まっている。後はホテルヘ行って両替して貰うより他に手はない。やむなくタクシーの運転手に、ホテルヘ案内して貰う事にした。一つ目のホテルはドルなら良いが、日本円は両替出来ないという。二つ目にもっと大きなホテルヘ行ったら、ようやく替えしてもらう事が出来た。一万円のトラベルチェックで3986Ptsだからかなり率は悪い。再び王宮へと車を飛ばす。こんな事で約一時間空費した。
 王宮は、ルネッサンスと擬古典様式が混じり合った140b四方のどっしりした壮大な宮殿である。入口で持ち物を徹底して検査される。案内人が居て、時間毎に案内される事になっている為20分程待たされた。
 王宮見学の第一歩は白と黒の大理石で造られた大階段を上る事から始まる。階段は一段毎に継ぎ目なしの大理石で出来て居り、溜め息が出る程素晴らしい。王宮内の室数は1800にものぽると言われ、室内は豪華な装飾や彫刻が施されている。
 見どころは、先ず第一にタペストリー。15世紀項の物まで、その数はおよそ2500を越え、総てのタペストリーを並べると7kmを越えるというから、とても全部は見て回れない。
 王宮は現在でも公式行事、貴賓の接待などに使用されており、特に晩餐会の催される大食堂は璧一杯に美しい鏡が張り詰められ、大小様々なシャンデリアが魅了する。
 王宮を後に今度は時間がないので、地下鉄に乗ってチャマルティン駅へ行く事にした。地下鉄の入口までは結構距離があった。スーツケースを引きずって行くのはかなりきつかった。
 ようやく地下鉄に乗り込んだものの、どういうわけか、各駅毎に約4〜5分程ずつ停車する。先がつかえて信号が青にならないらしい。時間が残り少なくなり、焦りが出てきた。パリ行きの列車に乗り遅れたらどうしよう。気が焦り、油汗が出てくる。
 小一時間もかかってようやく終点に到着した。地下鉄駅を出てみると、チャマルティン駅までは、更に4〜500bもあつた。
 ようやくチャマルティン駅に駆け込んだのは、発車の10分前だった。やれやれ。大汗をかいてしまった。パリから乗り込んだ時と違い、今度は簡易寝台券(767Pts)を買ってあるので席の確保は安心である。
 列車に乗り込んでみると、パリからマドリードヘ来る時お世話になった車掌さんと又出会った。例のユーレルパス紛失騒動の時お世話になった車掌さんである。お互いにニツコリ。
 食事をしようと食堂車を探したが、パリ発の様な洒落たビュッフェはなく、かなり古式ゆかしい食堂車が付いていた。どうも気が進まないので止めて帰って来た。仕方なく、車内販売のワゴンからパンなどを買い込み夕食とした。同室の乗客は若いフランス人の男女各一人だけだった。
 車内で知り合った2〜3人の日本人学生が親切にパリの安い宿を教えてくれた。彼等は留学生かと思ったらそうではなく、自からを「遊学生」と名乗っていた。パリにはそういう日本人が沢山おり、アルバイトをして生活しているとの事であった。
 列車はイベリア半島の夜のしじまを縫ってパリヘとひた走る。“アディオス・エスバーニア。又、来る日まで…”。
 スペインは他のヨーロッパには見られないほど古き過去が今も息づいていた。闘牛、フラメンコ、春の聖週間祭(セマナサンタ)、各地に残るアルカサール(城砦)…。それ等は、ピレネー山脈で、ヨーロッパ中心部と長い間隔絶され、独自の歩みを示したこの国で温存され続け、私に過去の栄光に彩られた夢と幻想の世界を現実として提供してくれた。そこにはヨーロッパではあるが、並のヨーロッパではない「異質のヨーロッパ」がある。スペインは、又、機会を作って是非訪れたい国である。それも駆け足ではなくじっくりと腰を据えて…。

   交通公社の海外ガイド「スペイン/ポルトガル」編、他を参考、一部引用

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          フランス

      ボンジュール・パリ
          1Fフラン≒41.18円
    5月20日(水) 9:35パリ-ベルサイユ宮殿-パリ
 列車はフランス南西部の大地を一路パリヘとひた走る。洗面所で顔を洗って出て来ると日本人の男に会った。2〜3立話をするうちに、彼もパリに着いたら先ずホテルを探すという。それでは、という訳で旅は道づれ、二人で行動を共にすることをお願いした。
 彼はTさんというスペイン在住の画家で、半年ぶりに日本から帰って来る奥さんをパリまで迎えに行くところだという事であった。
 パリのオーストリッツ駅の観光案内所でホテルを探したが、マドリードからの列車の中で知り合った学生に教えてもらった宿よりも高かった。二人で相談の結果、その学生に教えてもらったモンパルナスの宿へ行く事にして地下鉄へ乗った。
 Port−Royalで地下鉄を降り、ニコルホテル(Hotel Nicde)へ行くと「今日は満員だが明日からなら良い」という事なので32Fで予約した。今日はとりあえず近くのホテルを紹介して貰い、Tさんと同室で180F(一人90F)で泊まる事にした。
 今日第一の仕事は帰りの飛行機のリコンファーム(飛行機の予約再確認)である。これをしなければ予定通り日本に帰る飛行機に乗る事が出来ない。幸いTさんがそこまで付き合ってくれるという事なので、ご厚意に甘える事にした。
 シャンゼリゼ通りのアエロフロートの事務所前は警察の護衛車が止まり、物々しく警戒をしていた。事務所の中に入って日本人の事務員に聞くと、毎日このように警察が見張っているという事であった。共産圏はガード付きでなければテロなどの心配があるのだろう。帰りの飛行機の予約確認も無事済ませた。この後、私はベルサイユ宮殿へ行く事にする。Tさんがアンパリット駅まで付いて来てくださった。Tさんにはそこで別れて私は国鉄に乗り替えてベルサイユヘと向かった。

     ベルサイユ宮殿

ベルサイユ宮殿/写真転載不可・なかむらみちお  ベルサイユ宮殿(入場料9F)はパリの南西23qに在る。ルイ13世が狩りの為の小さな館を建てたのが始まり。その後、「太陽の王」と呼ばれる息子のルイ14世が宮殿を着工、1682年、宮廷をルーブルからここへ移した。その後、次々に建て増しされて現在の規模となり、内容とも世界一と言われる宮殿となった。
 ベルサイユ駅で降りて右手の通りを歩き、最初の大通りを左へ折れると前方に宮殿が見えてきた。前方にはルイ14世の騎馬像がある。宮殿は二階建てで、礼拝堂、鏡の間、オペラの間などがある。絢爛豪華と言うほかはないが、テラス越に見る均衡のとれたフランス式庭園にルイ王朝の栄華を偲ぶ事が出来る。
 宮殿内の見どころは、一階(入場料6F)では18世紀の室内装飾を残す「オペラの間」。最初に使用されたのはルイ16世とマリー・アントワネットの婚儀のとき。舞台の広さはオペラ座に次ぎ広いというがあまり広さを感じない。客席は700人収容出来る。「礼拝堂」の祭壇には大理石と青銅製の見事な彫刻がある。天井に描かれた絵のテーマは「神と栄光の父」。見学ルートは一定しており、ガイドが英語と仏語で引率してくれる。日本語による説明はない。

鏡の回廊/写真転載不可・なかむらみちお  「鏡の間」(大広間)は間口75b、奥行き10b、高さ13b。ルイ14世時代の傑作と言われているこの部屋は、庭に面して17の大きな窓があり、この窓の対面の璧には同サイズの鏡がはめ込まれている。つけ柱にはルイ王家の紋章である鶏頭を百合と太陽で飾った柱頭があり、天井から下がるシャンデリアは細工の粋を凝らしている。華やかなりし王朝時代、このシャンデリアに数百の燭火がともされた。豪華に繰り広げられたであろう往時の大夜会の情景を想像するのも楽しい。又、ここで第一次世界大戦終結の調印式が行なわれたのは有名である。
 宮殿は広い。今日は久し振りで時間にゆとりがあるのでゆっくりと見た。「鏡の間」は思ったより幅が狭く、鏡も曇っている。手入れがあまり行き届いていないのだろう。マドリードの「王宮」のほうが豪華な感じがする。
 宮殿裏手中央部のテラスに立って見ると、正面遥か彼方にグラン・カナル(大運河)の一部が見える。植樹の為に必要な水資源として造られたもので、十字架の型をしており、縦の部分が全長1500b、横の部分が全長1000b。テラスの前には「アポロン」と「ネプチューン」の泉水がある。
 庭園の右はずれにあるプチ・トリアノン(入場料5F)はマリー・アントワネットが格式張った宮廷生活を逃れ、田園の風趣をここの生活に求めたところ。瀟洒な建物で、優雅な王朝時代の暮らしぶりが想像出来る。白大理石で装飾された正面玄関から入ると、先ず18世紀の華麗な家具が目を引く。マリー・アントワネット愛用の物も陳列されている。
 そのマリー・アントワネットもギロチン台上に露と消え、フランスのブルボン王朝(1589〜1830年)は滅亡した。


      ポルノ映画鑑賞

 夕方、ホテルヘ帰って一風呂浴び、近くの食料品店で買ってきたボルドー産の赤ワインの栓を抜く。なんとも言えない至福のひとときである。満足、満足。
 ボルドーの赤ワインはワインの女王と言われている。ボルドーは、フランス南西部を東から西に流れるガロンヌ川とドルドーニュ川が、ボルドー市の北で合流し、ジロンド川となって大西洋に注ぐ辺りの一帯である。フランスでの名実共に銘酒の産地である。
 風呂付きの部屋なんて、この旅行中、西ドイツのマインツとイタリアのヴェネツィアの3ヶ所だけだった。この旅行もあと残り少ないことだし、Tさんとの二人部屋だから料金も割安である。たまにはこの程の贅沢もまあいいだろう。
 まもなくTさんも帰って来た。彼は私にポルノ映画を見に行こうと誘った。私は疲れていたので早く寝るつもりだったが、せっかくのお誘いなのでご一緒することにした。
 すっかり陽が落ちてネオンの光輝く街を、モンパルナスの方へと行く。モンパルナスは駅を中心に、近代的ビル群を擁するビジネス・センターに変貌し、もはやパリの憂鬱を味わうことは出来ない。それでも、夜になるとネオンの瞬きが歓楽街を現出し、観光客にパリの一端を覗かせている。
 かなり賑やかな通りに来た。この辺に目指すポルノ映画館が数軒あるという。その一軒の映画館は、一つのビルの中に三軒も一緒にあった。
 15Fを払って中に入る。目の前の大きなスクリーンいっぱいに○○がドアップで写し出され、度肝を抜かれる。だんだん目がなれて辺りを見渡すと、客はあまり入っていない。パラパラ程である。ストーリーらしいストリーはほとんどなく、只、ひたすらあれ一色という感じ。日本に輸入したら、ほとんどが税関でカットである。国内では絶対に見られないような映画である。
 毒気に当てられたような気分で宿へ帰って来た。もう夜も遅かったし、昼間の疲れが出たのかその夜はとにかくそれで寝た。

     シャルトル大寺院

    5月21日(木) パリ(オーストリッチ駅)6:15-7:55ブロワ-パリ
 今日はTさんの奥さんがパリに到着する日である。彼は朝早く宿を出て空港へ行った。私の今夜の宿は昨日予約した宿で、ここから100b程しか離れていない。私は荷物をこのホテルに預けて行くつもりでいたが、Tさんが空港から帰って来てから一緒に今夜のホテルに運んで置くから部屋に置いて行けと言う。そこまでお願いして良いのだろうか。本当に親切な人だとは思うが、初対面の人でもあり、信じて良いのかどうか迷う。しかし、せっかくの親切でもあり、スーツケースには鍵を掛けてあるし、金目の物は何も入っていない。お言葉に甘えてお願いすることにした。
 今日の予定は、シャルトルの大寺院へ行き、世界一の規模を誇るステンドグラスを見ることである。
 列車が出発するモンパルナス駅まで地下鉄で行こうと思って、宿のフロントに行き方を聞いたら駅まで歩いてもすぐだと教えられた。
 モンパルナス駅は高いビルの下にあるのですぐ分かった。列車の出発時間には間があるので、構内の売店を覗いたり、列車が到着して通勤客が多勢降りてくる人の群れを撮ったり、構内に止まっている二階建ての列車などを撮って時間を過ごした。
 モンパルナス駅を出てから一時間程でシャルトル駅に着いた。列車の窓から大寺院の尖塔がひときは大きく見える。
シャルトル大聖堂/写真転載不可・なかむらみちお 北のバラ窓/写真転載不可・なかむらみちお  シャルトルの人口は約41.000人。大体網走市より少し少ない感じ。シャルトル大聖堂は1194年から1225年に掛けて、13世紀初頭のゴシック芸術の粋を集めて再建された。見どころは世界に類のない「シヤルトル・ブルー」で有名なステンド・グラスと「王の門」。
 教会正面に立つと、左側に「新塔」がある。「新」とあるが年代は古く1134年〜50年に掛けて建てられたもの。右側にあるのは「古塔」で1145〜65年の物。ロマネスク芸術の代表作。正面玄関は「王の門」と言われ、キリストを賛美して1145〜70年に造られたロマネスク芸術の傑作。中央アーチ斜上方の壁空間に見える「キリスト像」、本門の装飾には「最後の審判」が、又北扇には「キリスト再臨」が描かれている。いずれも最高の芸術的価値を持っている。次ぎに、奥行き130b、翼堂の左右幅64bの教会内部へ。主本堂の高さは36b。ステンド・グラスを通して本堂内部の色彩が時間と共に千変万化し、荘厳な雰囲気を醸し出す。ステンド・グラスは12〜13世紀の物とされ、正面玄関の三窓、12世紀の「聖母の窓」の青さは、シヤルトル・ブルーと激賞されている。バラ窓の様式はノートルダムの流れをくんでいる。1514年に着工し、18世紀になって完成。ルネサンス様式の聖壇式の仕切りにはキリストと聖母マリヤの生涯が描かれている。
 カメラの入ったリックを教会内に並べられた椅子の上に置いてステンド・グラスの写真を写していたら、見廻って来た初老の“ムツシュ”に何事か注意をされた。椅子の上のリックを指差しているが、どういう意味の事を言っているのか理解出来なかった。
 更に別の処で別のステンド・グラスの写真を撮っていたら、その“ムッシュ”がチケットを持って近ずいて来た。写真を撮る時は5F払えと言っているらしい。フランス人は誇り高き国民で、国語を大切にするため、英語を知っていても使わないと聞いていた。こちらもそれを見習って惚けて日本語で応対した。近くを通り掛かったドイツ人観光団の中の一婦人が「英語が話せるか」と助け舟を出してきたが「ノー」と答えた。くだんの“ムッシュ”は匙を投げたらしく、何やら捨て台詞を残して行ってしまった。5F儲けた。もっと早くこの方法に気が付けば面白かったのに…。
 時間があったので商店街を散歩してみた。通り掛かりの肉屋さんの店頭に、可愛い美人の店員さんがいた。買ったソーセージを指差して、このまま食べられるかと手まねで聞いたらコクリと可愛く頒いた。先日、オランダのアルクマールではドロドロとした塩っぱいソーセージを買って失敗したので、今日は用心したという訳である。
 駅前のパン屋さんのショーウインドーに、焼き立てのクロワッサンが並んでいた。少し茶色の焦げ気味のクロワッサンと、それより白いクロワッサンがあった。店の主人にどう違うのか、と聞いたらバターの入ったのと入らない品との違いだ、と英語で答えてくれた。
シャンゼリゼ大通り/写真転載不可・なかむらみちお  シャルトル発2時の列車でパリヘ戻って来た。1971年に初めてパリに来た時、凱旋門の上にあがる時間がなかった。又、昨年訪れた時も一日目は時間切れで、二日目は無名戦死の献花式などの行事があって昇れなかった。今日こそはと急いで来てみたら、先の大統領選で逆転当選したミッテラン氏の就任パレードがあるとかで三色旗が飾られ、閉鎖していた。よくよく縁のない場所である。
 明日は「ロアール河畔の城めぐり」をする予定にしている。このバスは確か予約制のはずである。ひとまず日本航空のカウンターヘ行って相談してみる事にする。

エッフエル塔からの眺め/写真転載不可・なかむらみちお  シャンゼリゼ通りにある日本航空の窓口ヘ行って相談したところ、ここでも受け付けているとの事で、早速手続きを済ませた(370F)。助かった。これで明日の予定は安心である。1971年に来た時は12月末だってのでエッフエル塔は最下段しか営業していなかった。今日は一番上まで昇ってやろうと思って行ってみた。一番上までは22Fである。一段日の眺めはなかなか良かった。上はもっと良いだろうと思って更に昇ってみた。確かに展望は開けるが、立体感がなくなり、写真としては面白くない。早々に引き上げる。
 この後、セーヌ川の船下りを楽しみたかったが、Tさんと7時に夕食の約束をしていたので、断念してホテルに帰った。
 ホテルに帰ってみると、Tさんの伝言があり、昨夜一緒に泊まったホテルに居るという。一体これはどういう事なんだろう。「詳しくは会ってから」と書いてある。何があったのだろう。雨が降って来た。とにかく昨日のホテルヘ行ってみた。
 Tさんは、昨夜我々が一緒に泊まった部屋に居た。彼の話によると、昨日予約したのにもかかわらず、満員で部屋がないと言われ、別のホテルを世話すると言われたので、又、このホテルヘ戻って来たと言う。私の宿泊料も昨日の32Fの約束が、部屋が広いからとの理由で50Fに値上げされてしまった。全く不愉快な話である。
 又、今夜は、パリ在住の友人に招待されたので、私との会食は明日にしたいと言われた。こちらもこれですっかり予定が狂ってしまった。やむおえず預けておいた私の荷物を引き取り、雨の中、一人で私のホテルヘ帰って来た。雨はまだ降り続いている。今夜も又、近くの食料品店から食料を仕入れてきて部屋で食べる事にする。昨夜はボルドーの赤ワインだったので、今日はブルゴニューの白ワインにした。昨日より少し高かった。
 ブルゴニューの白ワインは辛口で、白ワインの王と言われている。フランスの銘酒の産地の中でも、ブルゴニューはボルドーと双璧の地方である。醸造量はボルドーに比べれば少ないが、きめの細かい、力強いワインが産出される。ロマネコンテなどが特に有名だ。
 ワインの他に生ハム、フランス製の青かびのチーズ、パン、リンゴ、水などを買って宿へ引き上げた。

     ロワール河畔の城めぐり

    5月22日(金) パリ(モンパルナス駅)8:50-9:47シヤルトル14:11-15:06パリ
ロワール河流域  七時。地下鉄でチュイルリ公園前のパリビジョン事務所へ行く。留守中に部屋がキャンセルになっていたら困るので、用心の為に部屋の鍵をわざと持って来た。こうすれば勝手に追い出されるという事もあるまい。部屋の掃除は合鍵でやるのだから迷惑は掛けないはずだ。
 バスはわずか12〜3人の観光客を乗せてパリを出発した。これで採算が合うのだろうかと余計な心配をする。
 パリ郊外の農村風景は美しい。菜の花が今を盛りと咲いている。遠くに大きな原子力発電所のドームが見え、黙々と煙を吐き出していた。
 バスはパリ郊外の高速道路をひた走る。道路脇の行き先表示板には城をデザイン化した絵が描かれていてなかなか洒落ている。やがてロアール河畔沿いに差し掛かる。

 ロワール地方は、かつてフランスの宮廷がこの地方にあった為、城の展覧会場と言われるほどの城塞、城館、宮殿、居館が数多く残っている。今では、古城めぐりで知られ、中世の騎士道華やかなりし昔を偲ぶ事が出来る貴重な地域となっている。
 ロワール地方というのは、ロワール川の流域で、ロワール川はフランスの中部高原地帯に水源があり、大西洋に注ぐ長さ1100q程の大河である。
 最初の城、アンボワーズ城に近ずく頃からポツポツと雨が降ってきた。まずい。なんとか晴れてほしい。
アンボワーズ城/写真転載不可・なかむらみちお アンボワーズ城/写真転載不可・なかむらみちお  ガイドの案内でアンボワーズ城の中を見て回る。閉ざされた扉毎にガイドが借りてきた鍵で開けて部屋々々を回る。
 宗教戦争を背景にフランス史上、最もどす黒い陰謙と残虐な殺人が交錯した時代、絢爛たる宮廷風俗の裏側に渦巻く陰謀と殺りくが繰り返された。その代表的な舞台となったのがこのアンボアーズ城である。新教徒の反乱計画が発覚して、数百人の新教徒達が処刑された。「アンボアーズ事件」といわれた惨劇である。城の上から見るロワール川の眺めは美しく、そんな暗い歴史を感じさせない。
 一方、ここは大天才レオナルド・ダ・ビンチが晩年を過ごした場所でもある。自由時間を利用して河の対岸へ廻り、城の全景を写してみた。

シュノンソウ城/写真転載不可・なかむらみちお  次はシュノンソウ城である。城は広大な敷地の木立の中にある。深い木立は入口から遥かに遠く城をかくしている。トンネルのように両脇の樹木に覆われた道を過ぎると林の切れた処に一対のスフィンクスが立っている。
 ロワールの城の中でも、このシュノンソウ城が特に女性に人気があるのは、この城の別名が“六人の奥方の城”と言われる事からもうかがわれる。二階建ての大広間は五つのアーチ型をした橋によって支えられている。シュール川にのぞむ城を見ていると、この城が“水浴みするニンフ”とも呼ばれる事が頒ける。それほどまでにこの城には不思議な艶めかしさがある。庭園が大変美しい。
 城を出てから昼食のため街のレストランヘと向かった。城下町らしい道を通って一軒のレストランヘ入った。早速ワインを注文、フランス料理のフルコースを味あう。この辺りは昔から王侯貴族が居住していた。その伝統的な味が受け継がれているので大変上品なフランス料理を味わう事が出来た。
 途中、車窓からシュベルニ城を左に見ながら、このツアー最後のシャンボール城へと向かった。

シャンボール城/写真転載不可・なかむらみちお  私は先ずツアーの一行と別れて城の裏側へ廻って城の全景写真を撮った。これまで、真っ黒な雲が空を覆っていたが、運良く雲が切れ、陽が射してきた。正面へ廻る途中の道で巡回中の騎馬巡査に出会った。
 ロワールの城はさまざまな姿を旅人に見せてくれる。城塞を、居館を、そして宮殿を…。シヤンボールはロワール川流域の中で、最も大きな宮殿である。ブローニュの森に囲まれて、シヤンボールの城は立っている。森のほぼ中心部に位置するこの城は、フランスの栄光とロマンを一手に引き受けるかの様に、まばゆい光を放っている。
 この城は、千数百人の労働力が動員され、20年もかかって1539年に完成した。この城の建物には戦いのための物は何一つとしてない。フランスではこのような建物でも『城』と呼ぶ。極めて特色のあるその建物は上部にビサンチンとゴシックの尖塔を持ち、シンメトリックな構成で全体としてはルネサンス風である。塔の数は城下の部落の数と同じだと言う。内部は大ホール、螺旋階段、王の部屋などがあり、個性的な構想を見せて迷子になりそうだ。
 待っているバスに帰る途中のお土産店で郵便切手を買っていたら、同行の日本人女性が私を探しに来た。他の一行は皆バスに戻って待っているとの事。時計を見たら17時10分だった。17時20分集合のはずだが…と言うと、バスを降りる時ガイドが20分前集合と言ったのを彼女が私に20分過ぎと間違って教えてくれたらしい。待っている皆さんに悪いのでバスまで走って行く。乗りこむ時のバツの悪さ…。
 パリ市内に入ってからバスはセーヌ川沿いに都心へと向かう。橋には必ず彫刻が施されている。本当にヨーロッパは心豊かで芸術的な雰困気に満ち満ちている。ニューヨークの自由の女神の原型も立っていた。
 今夜は今回の旅行の最後の夜である。夕食はTさんご夫妻と一緒にする事になっている。バスで一緒になった日本人女性も誘ったら同行すると言うのでドゴール広場で一緒にバスを降り、地下鉄でホテルヘと向かった。
 運良く、Tさんご夫妻が友人と一緒にホテルを出て来たばかりの処でバッタリと出会った。相談の結果、近くでスキヤキを食べる事にした。Tさんの友人の車に乗せてもらってモンマルトルの方へと向かう。
 着いた日本料理店は小さな店だったが、表には日本文字の看板がかかっており、日本人の店員さんが働いていた。出てきたビールはハイネッケンであった。スキヤキの肉もなんとなく日本の肉と違って少々堅い。味もなんとなく日本のようなわけにはゆかない。何か物足りない気がする。ここは外国なのだから少々の事は我慢しよう。それにしても外国でスキヤキとはちょっと変な気持ちである。
 12時近くまで皆で楽しく談笑した後、再びTさんの友人の車でホテルまで送って貰った。明日はいよいよヨーロッパともお別れである。

     パリを後に

    5月23日(土) パリ(ドゴール空港)12:50-モスクワ-成田へ
 今日はついにヨーロッパに別れを告げなければならない。4月30日に日本を発ってから3週間ちょっとでイタリアのローマから西ドイツを廻ってスペイン、そしてパリ。国にして7ヶ国。ほんとにあわただしい旅行であった。本来、旅行というものは、もっとゆっくりと楽しむべきもので、このような駆け足の強行スケジュールで廻るのはあまり好ましい旅行とは言えない。出来れば1ケ所に留まり、じっくりと旅を楽しむべきであろう。しかし、我々サラリーマンには、そんな悠長な旅は許されない。どうしても駆け足旅行になってしまう。短期間に欲張るとこうなってしまうのである。今度、ヨーロッパに来る時は、もっとゆとりのあるスケジュールで、ゆっくり見られる滞在型の旅を心掛けたいものと思っている。
 パリ発の飛行機は12時50分だが、これに遅れたら大変である。パリの交通事情もまだ良く分からないし、途中で何かあってもいけないので早めに空港へ行く事にする。
 朝起きると同時に宿を発ち、空港へ向かった。途中、パン屋さんが丁度店を開けたのでそこでパンを買ってターミナルヘと向かう。荷物は重いが足取りは軽やかである。やはり日本に帰るのは嬉しい。
 凱旋門裏手にあるマイヨー門で地下鉄を降りてから、シティ・ターミナル(国際文化センター内)へ行くエレベーターが分からなく、少々もたついたが通行人に聞いてどうやら無事辿り着く事が出来た。
 ここからドゴール空港までの空港バスは15分間隔で走っている。帰国寸前なのでフランの持ち合わせが少ない。バス代が間に合うだろうか。22F、どうやら間に合った。大体、銀行の開いている時間には街中には居ないのだから、両替する暇がないのである。
 シティ・ターミナルを出てから40分程でバスは空港に着いた。搭乗手続き開始までにはまだ1時間もある。その間、空港内を見物する事にする。
 先ず、邪魔な荷物をロッカーに投り入れ、5Fを入れて扉を閉じたまでは良かったのだが、鍵を抜くべきところを、間違って右へ廻してしまったらお金が中に入ってしまった。5F損してしまった。再び5F入れて今度は失敗しないように慎重に鍵を抜く。
 先ず、腹ごしらえ。空港の売店で牛乳(4F)を買ってきて、テーブルに着く。今朝、街で買ってきたクロワッサンとハムで朝食を済ませた。
 空港の売店で、友人から頼まれていたフランス製の世界地図を探したが見当たらなかった。隣の売店で娘への土産のフランス人形を買う(75F)。
 空港内の出発フロアは三階にある。チェック・イン・カウンターで搭乗手続きを済ませてから家へ国際電話を掛けた。変わった事はない。
 ロッカーから荷物を出してカウンターに預けた後、ターミナル四階で出国手続きをする。この後、両替をしてから免税店でフランス最後のショッピングを楽しんだ。ブランデー(ヘネシーナポレオン131F、マーテルエキストラ79F)、煙草(28F)、オーデコロン(69F)。この買い物が大仕事だった。荷物を預けて、ようやく身軽になったのに、又、手荷物が増えてしまった。これを手に持って札幌まで帰るのはしんどい。
 動く歩道を利用してサテライト内にある搭乗待合室へ行く。空港は関門が多くて疲れる。外では激しく雨が降っていた。もういくら降っても関係ない。それにしても今回の旅は本当に天気にはついていたと思う。
 飛行機への搭乗はブリッジではなく、雨の中、一度外の地上に降りてから再びタラップを昇って搭乗する。やはりフランスでは、ソ連の飛行機は冷遇されているのかなぁ。
 ようやく搭乗。やれやれであるが、もう一度モスクワでの関門が待っている。機内食は、パリ製の食事を積み込んでいるので来る時よりはほんの少しだけ良いようだ。

      モスクワでトランジット

 モスクワに着いた。確かここで乗り替えと聞いていたので、荷物を全部持って降りた。飛行機から降りる時、出口のスチュワーデスが、「トウキョーなんとかかんとか、パッケージなんとかかんとか」と言っていたが、その意味が分からないのでそのまま降りた。手に下げたブランデーがやけに重い。
 トランジット客は普通、何処の空港でもそのままトランジットルームに案内されるのだが、ここでは廊下をぐるりと廻された後、長い時間を掛けてパスポートの検査が行なわれた。初めは二列に並んでいたが、なかなか先へ進まない。係官はパスポートと顔と、手元の書類を交わる交わる見比べ、ジックリとやっている。ほとんどの客は日本人で、みんな一様にイライラしている。ソ連という国は全く客扱いの悪い国である。
 その内に一人の係官が居なくなり、一人になってしまった。二列を一列になれと言うので列が乱れ、順番が大幅に狂ってしまった。この調子では一体いつ終わるのか分からない。しばらくすると、又、二列になれという。いい加減に頭にくる。およそ30分程待ってようやく私の番がきた。私の後にはまだかなりの客が待っている。
 売店で蝶鮫のキヤビヤ(27〜55ルーブル)と鉄製の灰皿を買った。欲しかった毛皮の帽子は37ルーブルもするので諦めた。(1ルーブル約460円)。
 再び飛行様に乗ったら、パリから乗ってきたのと同じだった。荷物を置いて行った人もいた。負け惜しみかもしれないが、重たかったが、自分の手から放さないで持って歩いたはうが安心だ。カメラなどの貴重品はなおの事。でも、酒頬は置いて行ったほうが良かったかもしれない。
 飛行機は再びモスクワ空港を後にした。これで落ちなければ日本へ帰れる。

     無事帰国

    5月24日(日) 10:40成田15:30-17:00千歳-札幌へ
 午前10時40分成田空港無事到着。25日ぶりの日本である。着陸前に空港の周りでしばらく待機旋回したので酔って気分が悪い。税関は申告書の通りで無事通過した。後で考えたらオーデコロンを申告するのを忘れていた。それでもワイン1本と煙草1カートン分の税金をとられた。やれやれ、これでよくやく日本に帰って来た。しかし、この先、もう一度飛行機に乗らなければ我が家には着かない。遠いなぁ札幌は…。パリからの機内で知り合った日本テレビの論説委員という画家と、空港のレストランで蕎麦を食べた1.100円だった。高い!。パリ-モスクワ-成田間の飛行機の中では全然寝られなかった。そのせいか体がだるい。時差惚けのせいもあるのだろう。
 成田に着いてから札幌行きのフライトまでは約5時間もある。その間、この空港の中で時間を潰さなければならない。やむおえず、スーツケースを長椅子に鎖で結び付けた後、空港内の売店を見て廻った。売店で淳一への土産のシャーボを買った。モンブランなどの外国からの土産でなくて申し訳ないが、国産品のほうが質が良いのだから、かえってこのほうが良いだろう。
 成田から千歳行きの飛行機に乗ったら、ようやく安心したのか、旅の疲れが出て少し寝たようだ。いつの間にか座席の背もたれが後ろに倒されて、リクライニングの楽な姿勢になっていた。膝には機内備え付けの毛布が掛けられていた。多分、スチュワーデスがやってくれたのだろう。外国の飛行機のスチュワーデスでは考えられないことだ。日本の企業は、客を大切にし、いたれりつくせり随分気を使っているなあと思う。
 今回は、どういうわけか時差惚けが2〜3日治らなかった。家に帰ったとたん、又、明日早朝からの出張が待っていた。ガクッ!

  参考資料:交通公社の海外ガイド「パリ」
       株式会社ベストセラーズ 井上宗和著 「古城と宮殿巡り」
       角川文庫        井上宗和著 「ワインものがたり」等、より一部引用

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         ☆旅の徒然
               旅の終わりに、思い付くままに

      スリルと冒険

 陽光の中を駆け抜けたあの旅…。約1ヶ月近くのヨーロッパの旅の中にはいろいろな事があった。当然思い掛けない事にも出会う。
 最初に訪れたイタリアは名にしおう泥棒天国だ。盗まれた方が悪いかのように言われかねない。カメラを持っているのでかなり緊張して気を付けた。若し、置き忘れてもそこに置いたほうが悪く、彼等は天のお恵みとばかりに持って行ってしまうと聞かされていたので、ヒョッとしたらカメラの一台くらいはなくなるのではないかと覚悟していた。旅の初めのほうでカメラをなくしては、その先の旅に差し支える。保険は30万円までおりるが、証拠の盗難証明書を貰ったり手続きするのに手間暇がかかり、そのロスも因る。
 ナポリ駅構内の交番で宿を尋ねた時も、駅から宿へ行くまでの道が危ないからカメラをリックの中に入れて行けと警官に注意された。その道には、絵とか、玩具、それに料理にでも使うのだろうか豚の頭と足が並べて売っている屋台などが歩道いっぱいに並び、その間を通って行かなければならない。用心にこした事はない、と最初通る時はカメラをリックの中に入れて通ったので何事もなかった。2回目からは荷物を持っていなかったので、カメラを首からぶら下げ、しっかり握って通ったので無事だった。
 こうしてナポリ付近とフェレンツェ、ピサ、ヴェネツィアと廻ったが何事もなく無事イタリアを通過した。ヤレヤレ。緊張していたのでかなり疲れた。
 最初、ローマに着いた時も心配だった。ローマ空港到着は夜の9時半。市内のターミナルヘ行けば10時を過ぎる。それから荷物を持ってホテルを探すのはかなり危険だ!仕方なく機内で知り合った日本人と二人でタクシーを探してようやく宿に着いた。タクシーも足元を見てかなり高い事を言ってくるので、普通料金の車を探すのに苦労した。
 インスブルクでは、早朝のバスに乗る為に宿を出ようとしたら、家の外から鍵を掛けられており、出られなくて困った。ギリギリの時間にようやくドアを開けてもらい、かろうじて間に合った。そして行ったチロルの帰りには、予定していたバスが運休していて、慌てたこともあった。
 一番危険だったのは西ドイツ、フュッセンでの出来事である。ノイシュヴァンシュタイン城を正面の崖から写そうとして城の正面に回り、その崖のある山へ登った時であった。行けども行けども目的の崖への道はなく、だんだんと頂上近くまで行き、山を越えて更に進んだら又山があり、途中で雪道となってしまった。皮靴でその雪道を一歩一歩注意深く這い進んだが、一歩間違って滑り落ちたら終わりだった。いくらなんでもあんなところで死ぬわけにはゆかない。かなり緊張した。今、思ってもぞっとする思い出だ。朝の10時から夕方の5時過ぎまで歩き詰めに歩き、山を二つも越え、一日掛りの登山でなんとか無事帰って来た。大変疲れた。
 オランダでレンタカーを運転した時もスリルがあった。その朝、出掛けに私の目の前で自転車に乗った子供が自動車に跳ねられたのである。怪我は大した事はなかったが、いい気持ちがしなかった。オランダは自転車の国、市内を走ればこういう事故に合う可能性は高い。乗るなという暗示なのかとしばらく迷ったが、車でなければその日のスケジュールをこなす事が出来ない。注意して走る事にしてレンタカーを借りたが、初めての左ハンドルにサイドブレーキレバーは右、方向指示レバーとウインドーウォッシャーレバーは日本と左右逆である。何から何まで勝手が違って運転しにくい。そのうえ道も不案内ときている。それでもハイウェイを時速130q程で走ったが、更に、それを追い抜いて行く車があるのには驚いた。
 パリで、北駅からオーストリッチ駅発マドリード行きの夜行列車に乗るときも慌てた。土曜日の為、国際列車から降りた客が両替所にいっぱいに並び、順番待ちとなった。この間1時間しかないのに両替こ40分もかかり、それから地下鉄でオーストリッチ駅に行ったら列車は今まさに発車する直前だった。本当に慌てた。ドッと大汗をかいてしまった。又、マドリードからパリ行きの夜行列車に乗る時も地下鉄が遅れてかなり焦った。
 パリからマドリード行きの夜行列車の中では、朝になってからユーレルパスがないのに気ずいて慌てたり、セゴーヴィアのアルカーサル城では坂道で転んで危なく怪我をするところだったり…。1ヶ月近くも旅をしていると、本当にいろいろと思わぬ事があり、驚かされる。それでも何とか大きな事故もなく、失った物もなく、天候にも恵まれ、本当に良い旅であった。

     今回の費用

往復格安航空券(季節によって異なる)
 アエロフロート(ソ連航空)60日オープン  304,000円
札幌-成田往復航空券             46.800円
海外旅行保険(1ヶ月間)           20,300円
現地交通費 ユーレルパス(3週間)       66,700円
1日の生活費            5,000〜10,000円
 ホテル代、飲食費、バス・タクシー、入場料、お土産、通信費、チップ、トイレ代、その他など。それにフィルム代、現像代。

     資金作りは煙草銭で…

 旅行資金作りは、日常の無駄使いを極力避けて貯蓄に回し、資金を積み立ててゆけば良い。私は煙草を吸わないので、吸ったつもりで一日当たり300円、毎月1万円を貯金した。この方法でゆくと、5年で50万円になる。加えて利息が付くから100万円貯めるのもあまり苦にならないで貯める事が出来る。何も好きな事を止めたり、食べたい物も食べないで貯めることはない。貴重な人生を十分楽しみながら、気楽に貯めれば良いのである。
 ローンなどを利用して行く事も出来るが、借りたお金には預けたときよりも高い利息が付くので、貯めてから使うのに比べてダブルパンチになりかなり損である。

     紙屑と化した3.000万円

 言葉も分からず、行った事もない未知の世界へ行くのだから、それなりに覚悟がいる。危険なこともあるだろうし、急病になる事もある。思わぬ事故災難こ合わぬとも限らない。現地での医療費は全額現金支払いだし、それに日本より高い。勿論健康保険は利かない。救急車もタダではない。お世話になれば、確実に高い金額を請求される。日本と違って売薬はない。医師の処方箋がなければ薬は売ってくれないのだ。あっても日本人の体には強過ぎる場合が多い。又、だまされたり、盗まれたり、ホテルや見物先などで高価な飾り物を誤って壊すこともあるだろう。
 何よりも、地球の裏側までの長い距離を飛行機に乗って行く訳だから、万が一落ちないとも限らない。それが、偶然にも私の乗った飛行機という事がないとは誰が保証する事が出来ようか。今、私が死んだら、三人の幼い子供を初め、家族4人が路頭に迷う事になる。死んでしまう私は一向にどうという事はないが、それでは残された家族が可哀想だ。せめてもの償いとして私は家族の為に旅行保険に入る事にする。
 年間収入約500万円として、定年退職まで後8年。500×8=4.000万円の収入がある訳だが、AIU保険会社の案内書を見ると、最高3.000万円となっており、これだと保険料が2.0300円。その上はVIPタイプとなっており、それでも5.000万円で、保険金が2.5740円となっている。つまり3.000万円が普通と言う事になる。これだと先の定年までの収入4.000万円までとは1.000万円の開きがある訳だが、先ず死ぬような事はないだろう。一応お守り程度のつもりで、万が一の事を考えて掛けておけば良い。
 たとえ飛行機が落ちても、飛行機会社などからもお金が出る事だろうし、普通の保険もある。それらを加えれば4.000万円は軽く越えるはずだ。まあ、差し当たりそれだけあれば当座の生活はしのげるだろう。その間にその金を基にして利殖なり商売なりすれば親子4人で充分食いつないでゆけるはずだ。考えようによっては、私が無事帰って来るよりもそれらのお金が入ったほうが家族としては良いのではないだろうか、などと馬鹿なことを考える。
 仮に夫婦仲がうまくいっていない妻が、殺し屋を雇って保険を掛けた旅行中の夫を海外で殺させたらどうなるであろうか。こいつは一寸した小説のネタにならないだろうか…。私が思い付く程だから、もう既に小説になっているかも知れない。それともこんな幼稚なネタではスリラーには使えないかな?(自分受け取りの海外旅行保険を他人に掛けて殺した『マニラ保険金詐欺殺人事件』が、1989年にマニラで実際に起きた)。
 結果は無事帰って来た。とにかくおめでたい事だが、妻いわく「保険金が入ったら、その金で妹と喫茶店でもやろうと相談していたのに残念だったわねえ」である。私は「無事帰って来て悪かったね」と答えた。
 今回の旅行で最初に入ったのが、音に聞こえたイタリアだってので、道中かなり緊張した。特にカメラ、パスポート、現金にはかなり気を配り、盗難防止に気を使った。スーツケースもホテルの部屋に置いている時は必ず鍵を掛け、鎖で固定しておいた。
 このように神経を使ったせいか盗難にも合わず、無事イタリアを通過した。但し、スペインのアルカーサル城の写真を撮りに行った時、石畳の下り坂道で足を踏み外して転んだ時は驚いた。てっきり首の骨でも折るか、手首を折るか、いずれにしても只では済まないと瞬間思ったが、多少手の平を擦り剥いた程度で済んだのは、不幸中の幸いだった。よくもまあこの程度で済んだものと我ながら感心している。やはり天気と言い、この事件と言い、今回の旅行は憑いているのだなあと思う。
 それにしても、今回の旅行でなくした物といえば、西ドイツのホテルに置き忘れて来たスリッパ1足だけというのは不思議な気がする。奇跡としか言いようがない。出発前までは、今回の旅でカメラの1台くらい紛失するのではないかと覚悟していたのだが…。
 27日間の旅で20.300円の保険を掛けたが結果的には何事もなく家に帰って来た。3.000万円の保険証書がその途端に只の紙屑と化してしまった訳だが、本来保険というものはそういうものである。無事なら掛け金の損で済むが、何事かあって、例え、保険金を貰ってもまかたするものではない。20.300円のお金は私達にとっては大金であり、おしい気もするが、それによって27日間安全な旅行が保証され、安心して楽しい旅が続けられるのだから安いものである。お陰で子供達にも会えたし、又、家族揃ってもと通りの平和な幸せな生活が出来るのだから、これ以上言うことはない。
 これから海外旅行に行く人には、必ず「海外旅行保険」に入って、安心して旅に出る事をお奨めする。私は決して保険会社の回し者でもなく、1銭のリベートも貰っている訳ではない。あなたの旅が幸せな旅である事を願ってお奨めする訳である。

      乾パンとインスタントラーメン

 よく、海外旅行に行った人が旅行途中で高い日本料理を食べに行くのを見掛けるが、外国に来た間だけでも日本料理を食べなくてもいいのではないかと思う。むしろ、その国の料理を堪能しなければ嘘だ。外国へ行ったらその土地の料理を味わい、料理を通じてその国の文化を知るのも観光目的の一つではないだろうか。しかし、かく言う私も10年前ギリシアに行ったとき、料理が総てオリーブ油で調理されているのには参った。オリーブ油の臭いが鼻に付いて何も食べられず、空腹を抱えて彷徨った苦い経験がある。
 案内書によると、スペイン料理もオリーブ油を使っているという。又、ギリシアのように食べる物がないと困るので、今回は、インスタントラーメンを少々持って行った。これなら安いし、軽いし、外国食に飽きた時に食べても良い。鍋は鍋焼き用の軽くて安いのを買い、帰りには捨ててくると良い。火は登山用の固形燃料を持った。他に乾パンも持った。これは夜遅く宿に着いてレストランが閉まっていた時とか、外に食べに行く気力もないほど疲れている時などに便利だ。この乾パンが南ドイツのフュッセンの山へ登った時の昼食となり、思わぬ救いとなったのである。
 スーツケースの中は、三分の一がフィルム、三分の一が旅の資料。後の三分の一がこのインスタント食品となった(衣料品はケースの蓋に入れる)。スペインまで持って歩いたのはしんどかったが、途中で世話になった日本人にプレゼントして喜ばれたり、そろそろ洋食のくどいのに飽きた頃、又、醤油味に飢えた頃などにホテルの部屋で煮て食べて重宝した。

      ワイン

 ヨーロッパは何と言ってもワインの本場。この機会に味わっておこうとばかりに大いに飲んだ。そして、土地が変われば味も変わると言うので、その土地々々の「地酒」を飲んでみたが、さすがに旨かった。普段、焼酎を飲んでいる口には殊の外旨い。しかし、何処がどう違うかと言われると表現に困る。
 イタリアは、フランスに大量に輸出している程にワインの生産量が多い。カプリ島でもナポリでも、ピサ、ヴェネツィアでも安くて美味しいワインが飲めた。インスブルクでもチロルでも飲んだが美味しかった。
 ミュンヒェンに入ってからは本場のビールばかり飲んでいたが、ここのビールは種類が多く、腹に溜まる物や、軽い物、アルコール度の強い物、弱い物といろいろあった。値段はかなり安いようだ。
 パリでは、近くの食料品店でボルドーの赤ワインのボトルが1本400円弱で買えたが、ブルゴニューの白ワインはそれよりも少し高かった。スペインで飲んだシェリー酒は甘くて何か黒砂糖でも入っているようで、口に合わなかった。
 一日の予定が終わり、ホテルに引きあげる時、近くの食料品店でワインのボトルー本とチーズや、ハムなどを買い込み、その夜、ホテルで半分飲む。後の半分は、翌日列車の中で車窓を流れる風景を見ながら飲むのが至福のひとときで、なんとも優雅で楽しい旅であった。
 もっともっと沢山の土地の地酒を味わいたいとの念を抱きながら、残念ながら、今回の旅の期限切れとなって帰ってきてしまった。せめてもの名残りに、パリの空港で買って来たワインは惜しくてまだ飲んでいない。

     良きかな列車の旅

 狭いヨーロッパでは、郊外の空港と都心との往復を繰り返す空の旅よりも、真っ直ぐ都心へ乗り込む列車のほうが便利な場合が多い。5〜600kmの距離なら、飛行機も列車も所要時間に大差はない。
 ヨーロッパの鉄道は、例えば車でいうと外車のような乗り心地で、飛行機の座席より身体が楽である。車体が大きく、ロングレールのせいか、スピードも早く、振動が少ない。どっしりと滑らかに走る。
 一等のコンパーメントは一室六人で、座席は重役室のような豪華な椅子が備えられている。リクライニングシートになっているから乗り心地は最高である。飛行機よりも安く、ユーレルパスが使えて安全確実である。
 列車の本数が多いので客も混まず、6人のコンパーメントにせいぜい2〜3人しか乗り合わせない。窓を流れるヨーロッパの風景を見ながら、地物のワインを傾けるのはオツな気分である。又、乗り合わせた外国の観光客や、土地の人などと話す機会もある。旅は道ずれ、列車の旅は人と人との出会いの場でもある。言葉は分からなくても、一寸した単語や身振り手振り、又は、メモの交換などで結構話は通ずるものである。心さえ通い合えばお互いにかなりのところまで話の内容が通ずるものである。英語が話せれば最高だが、分からないからと言って海外旅行が出来ない、と言う論法にはならない。
 旅は楽し、列車の旅怖るに足らず。初めてヨーロッパの列車を利用する人は、先ず、案内書で下調べをすると良い。プランニングに必要な資料は、日本国内にあるその国の政府観光局でも日本語のパンフレットを送ってくれる。それから、丸善などで売っているトーマス・クック社の「欧州大陸時刻表」を買って列車の時刻を調べ、計画を練る。最近はダイヤモンド社から日本語版も出ている。
 巻頭の見開き地図を開けば、西ヨーロッパの各都市を結ぶ鉄道が網の目のように載っている。太く黒い線はヨーロッパ横断特急(TEE)の線路を表わす。この特急や急行にはカッコいい愛称の付いたものが多い。ミストラル号(パリ-ニース)等というのはいかにも早そう。ハインリヒ・ハイネ号(ドルトムント-マインツ)といったロマンチックなものもある。切符はユーレルパスが便利である。期間内はヨーロッパ中の一等車に乗り放題である。周遊券と同じもので、一等、急行、特急料金も含んでいる。
 駅に入ると、先ず、発車するホームを探すのだが、これは駅構内のいたるところにある時刻表を見れば良い。発車は黄色、到着は白色の大きな時刻表が並んでいて、9時台、10時台…というように1時間ごとの発着列車がズラリと掲示されている。列車の末尾にホーム番号が示されている。いったいに駅の表示は、空港のそれよりも分かりやすい。片言程度でも文字が読めれば見当はつくし、それでもダメなら絵のサインがある。ナイフとフォークが交差していれば食堂。お札とコインの絵は両替。カバンにキーの絵はコインロッカー。櫛に挟は理髪だ。絵ではないが、WCは…まぁ誰でも分かるだろう。あとはTが案内所の頭文字ということを心得ていれば良い。しかもこれがヨーロッパ中に共通の絵サインだから便利である。
 注意する事は、行き先の違う客車をいくつか繋いで一本の列車に編成している場合が多いので、入口に付いている行き先表示板をよく確かめるのが肝心。
 目の見えない人が、誰の力も借りずに自分で努力して、杖を頼りに一人で街を歩いているのを見掛ける事がある。五体満足な私達が、言葉が通じないというだけで外国を歩けないというのはあまりにも情けないのではなかろうか。旅で使うのはお金ではなく、“知恵と行動力”である。
 喫煙車と禁煙車は区別されているので注意が必要である。入口に煙草の絵があれば喫煙車。絵の上に×印が付いて入れば禁煙車である。英語が読めなくても誰でも分かるように出来ている。
 目的地に着いたら宿を決めなければならない。列車を降りたら、先ず、駅のロッカーに荷物を入れ、洗面道具と案内書、それにカメラ程を持って駅構内か、駅舎を出たところに必ず在る観光案内所を訪ね、宿を紹介して貰うと良い。日本と同じようにヨーロッパにも必ず宿はある。大きな催し物でもない限り、泊まれないという事は先ずない。安い宿をお望みなら、“風呂付きでない部屋”と注文する事が大切である。部屋に風呂が付いていなくても、大抵フロアに一ヶ所、無料のシャワーと有料の風呂があるからそれを利用したほうが安上がりである。宿の紹介料は無料の所が多いが、手数料を取られるところもある。先方と電話連絡して決まると、地図に印を付けて渡してくれるので分かりやすい。ヨーロッパの街は街路に名前が付いており、並んだ家の順番に番号が表示してあるので簡単に見付ける事が出来る。ヨーロッパは地番表示が実に明確で分かりやすい。
 宿代と時間が無くなってきたら、たまには夜行列車で目的地間を移動するという手もある。ヨーロッパの一等車のコンパートメントはリクライニングシートとなっている。それに、簡易ベッドとしても利用しやすい。客も少ないので快適に過すことが出来る。

     安くて豪華なユーレルパス

 今回の旅は、ほとんどが列車による旅であった。出発前に交通公社で21日間有効のユーレルパスを買った。これは、期限内ならばヨーロッパ中の列車に乗り放題という周遊券と同じもので、一等、急行、特急料金も含まれている。15日間、1ヶ月間等など何種類かあるが、21日間の場合は料金が72.500円である。
 今回の旅はローマに始まって、ナポリで折り返し、イタリア、オーストリア、西ドイツ、オランダ、スペイン、フランスと廻ってきたわけだが、仮にこれだけ全部その都度乗車券を買って乗ったとしたら一体いくら程になるのだろう。おそらく10万円では納まらないはずだ。一度に72.500円支出するのは痛いが、これで21日間乗り放題というのは使い方によってはタダみたいなものである。しかも一等車なんだから…。
 パスポートとトラベルチェック、ユーレルパスは旅の三種の神器である。

     目的を持った旅を…

 海外旅行というと、多くの場合、旅行社が最大公約数の希望を盛り込んで計画した、主要都市巡りを中心にしたツアーに参加して、引率されるままになんとなく行って帰ってくる旅が多い。つまり個性もなく、目的意識もなく、只、単になんとなく案内されるままに異国を通り過ぎ、お土産を買って帰ってくる。高い旅費を払ってこれだけではあまりにももったいない話である。どうせ行くからには、自分の好みとか希望を生かした目的を持った旅をしたほうがより有意義ではないだろうか。私の場合は、ヨーロッパの中世の古城を見てその時代に生きた人々の生きざまなどに想いを巡らす旅であったが、その他に、例えば、西洋の美術、芸術を訪ねる旅とか、本場の音楽を聞く旅とか、歴史の舞台を訪ねる旅、小説の舞台や、映画のロケ地を実際に自分の目で見てくる旅とか、その人の好みによっていろいろある。グルメの旅でも良いし、本場のワインを生産地に訪ねる旅というのも面白いと思う。小説や映画、歴史などの舞台を訪ねる場合は、当然の事ながら、事前に調べて予備知識を持っておくと現地に行ってから興味が倍加する。又、帰って来てから改めてその物語を読み直すなどのアフタケアをする事も大切な事と思う。そうする事によって、見て来たものがより一層興味深く身に付く事になるのである。
 という訳で、漫然と旅に行くことも又必要な場合もあるが、出来ればなるべく目的を持った旅をお奨めしたい。

     言葉は分からなくとも

 英語もろくに話せないのに、よく一人で見知らぬ異国へ行って来たものだ。と、他人は半ば呆れ、半ば感心する。
 相手に自分の意志を伝達し、相手の気持ちを知るのには言葉は便利なものであり、我々の日常生活にはなくてはならないものである。ましてや、一度も行った事のない外国では、右に行くにも左へ行くにも周りの人に尋ねて歩かなければならない。事ある毎に言葉は重要な役割を果たすのは当然の事である。
 しかし、私は誰でも知っている英単語の一つ二つ意外には全然外国語を話すことも、聞き分けることも出来ない。それなのに、単身でヨーロッパヘ列車の旅に出掛けたのである。
 事前の調査にかなりの時間を掛けたので、大体の地理は頭に入っているとはいえ、市内に入ればどんな乗り物に乗ってどう行ったら良いのか分からない事のほうが多かった。
 私が自信を持って一人で行って来られたのは、過去に会社の出張でギリシャに一回行ったことがあったからである。その時の経験で、初めは非常に不安であったが、片言の単語でも充分街を歩く事が出来たからである。
 考えてみれば、私達だって札幌の街の中で外国人から「ステーション?」などと尋ねられれば、「ああ、この人は札幌駅へ行きたいのだな」という事が分かるし、そこを教えてあげるであろう。必ずしも「札幌駅はどう行ったら良いのでしょうか」などと正しい日本語で尋ねられなくても相手が何を言いたいのかは察しが付く。身振り、手振り、顔や目の表情、それにメモ、絵、と、言葉意外にも万国共通の意志伝達方法はいくらでもある。よは人間的触れ合い、つまりハートの問題ではないだろうか。私はギリシャヘ行った時にその事を知り、言葉を知らなくても一人で世界を歩ける自信を持った。
 ギリシャのオリンピア村のホテルに一週間滞在した時には、好奇心の強いウエイトレス達に、“水”とか“コップ”とかの日本語を教えた。以後は水を頼む時には日本語で“水”と言って注文した。又、ローマ空港に着いた時、連れの者が切符を買うのに手間取ってリムジンバスに乗り遅れそうになったので、大きな“日本語”でバスを止めて乗せた事もあった。言葉に困ったら日本語で話せば良い。以心伝心、結構通じるものである。
 外人と話す時に、やたら格好を付けたがる人がいるが、これはやたら恥ずかしがるのと同じでコンプレックスの変形である。相手の顔を見て、格好を付けずに話す事が大切である。と、同時に相手が何を言っているのかを分かろうとする気持ちが大切である。
 日本は国境が海で隔離されている上に一部の小数民族を含めても、世界でも珍しい単一民族国家同様で、外国人と接触する機会が少なかった為か、異常な警戒心とか、コンプレックスが働いて外国へ行くと戸惑う人が多い。しかし、言葉は、日本人が思うほど知らなくてもなんとかなる。言葉の通じない旅人には、相手が慣れているのである。下手な外国語を操るよりも“心”のほうがヅ〜ッと大切である。言葉よりもむしろその国の宗教を知らずにヨーロッパを理解する事のほうがずっと難しい。過去、ヨーロッパの多くの戦いは、国取り合戦よりも宗教上の争いが多い。多くの芸術作品も、宗教をテーマにしたものや、宗教から生まれた作品が多いのである。
 今回の旅行でスペインに行った時、行き交う人に道を聞くと、こちらが全然スペイン語が分からないと知っても、ベラベラと親切に教えてくれた。これが一人や二人ではなく、訊く人、訊く人、全部と言っても良いくらいスペイン人は親切丁寧に教えてくれたのである。タクシーに乗ってもやはり運転手が盛んに話し掛けてきた。こちらは全然スペイン語が分からないので閉口したくらいである。
 昨年スイスに団体旅行で行った時、一日だけ、一行から離れて私はベルンからブリエンツ経由の列車でロートホルンまで行って来たが、結構一人で自由に歩ける確信を持った。
 こんな経験から、言葉は分からなくても一人で歩ける自信も付き、今回のひとり旅決行となったわけである。
 英語は話せるほど便利で良い。しかし、英語が話せないから外国へは行けないということはない。“旅行で使うのはお金ではない。知恵と行動力”である。

     楽しきかなひとり旅

 まだ一度も海外旅行をした事のない人は、大抵、いきなりひとり旅などは不安がって、なかなかやろうとしない。その原因の第一は言葉の壁であり、第二に資金、第三に地理不案内、第四はヒマがないという事であろう。これを全部まとめて、私は“行く気がない”と言う事にしている。南極やヒマラヤ、それに月世界にさえ人類が行っている時代に、文明人の住んでいる平和な国へ行けないなんて考えてみただけでもおかしな話ではないだろうか。目の見えない人でも努力して白い杖を頼りに、誰にも迷惑を掛けないで街を歩いているではないか。人間、誰でも努力すれば出来るのである。旅で使うのはお金ではなく、知恵と行動力である。その為には、第一には健康でなければならない。足腰を鍛えて体力を付けよう。私は毎朝6時に起きてジョギングをしている。機転を利かせれば少し程語学カがなくても楽しいひとり旅が出来る筈である。“パック旅行などクソクラエ”。勇気を持って、さあ!旅に出よう。リックを背に男の夢とロマンを求めて! そこには素晴らしい出会いが待っている。世界の友との出会いと触れ合いの中から、新たな友情が生まれるであろう。私も、思わぬ出会いと男のロマンと何かを求めて、又、旅に出たい。今度はどんな出会いが待っているのだろうか。楽しみである。

     忘れる技術

 「人体に排泄作用があるように、私達の心にも排泄が必要である。それは“忘れるということ”である」とある医師が言った。
 吸収、排出は車のエンジンの原理でもあり、人体の呼吸や消化の原理でもある。それを『心』という見えないものに当てはめてみようという発想だ。
 心の排泄作用を『忘れること』と考えるのは優れた見方だと思う。つまり、私達は日々に情報や知識を一方的に吸収し続けてゆく存在である。その情報の中には、自分にとってツライこと、不都合なこと、イヤな記憶もある。良い情報だけを選抜して吸収し得るような人はいない。この吸収作用の結果、決して目には見えないが、ストレスも大いに蓄積され、“心のパンク状態”が近ずく。これが極度のノイローゼやウツ病なのかもしれない。従って、こうした精神的パンク状態に陥らない為には、吸収の反対作用としての《忘れること》が重要になる。
 では、その《忘れる技術》とはどのようなものだろうか? 幾つかの方法が考えられるところだが、一つは「旅」である。特に男性のように、元来が漂泊・放浪への憧れを待つ生物にとり、旅は心身に合う行為だろう。
 若いうちの旅行はレジャーだが、中年期の人々の「旅」は心のクリーニングとしての意味がある。
 私もそろそろ、心の排泄作用としての旅に、又、出掛けたくなってきた。

      旅とは…

 旅とは何だろう。旅の形は人それぞれ様々だが、旅には何かがある。男のロマンを掻き立てる何かがある。
 今回の私の「ヨーロッパひとり旅」は、男の夢とロマンを求めた中年の気侭な旅であった。その間、約1ヶ月弱の間にはいろいろの事があつた。
 ナポリでは昼食をご馳走してくれた日本人の商社マン。目的地まで車に乗せてくれたイタリア人。南ドイツ、フュッセンの親切で優しい民宿の御夫妻。言葉が通じないのにもかかわらず熱心に道を教えてくれたスペインの人達などナド…。袖擦り合った人々との出会いは素晴らしかった。
 今回の旅では、本当に多くの人達に親切にして頂き、大変お世話になりました。お陰様で楽しい旅を続ける事が出来たし、無事帰国することが出来た。この旅で私は、人間は世界中何処へ行っても同じで、親切で良い人達がいっぱいいるという実感を持った。
 言葉も通じない未知の世界を旅して無事帰って来られたのも、やはり、人間同志の善意と信頼に支えられたからだと思う。パック旅行では決して味わえない事である。よわ、ハートとハートとの触れ合いが大切なのではないだろうか。
 旅には、人と人との思わぬ出会いの楽しさがある。今回の旅で得たもの、それは人と人との触れ合いの大切さ、ハートとハートの触れ合いの大切さとありがたさ、を強く教えられたことである。
 それにしても忙しい旅であった。今度旅に出る時は、今回のような渡り歩く強行スケジュールの旅ではなく、1ヶ所に留まる滞在型の旅にしたいものと思っている。そして、じっくりその街を見て、ワイングラスでも傾けながら、ゆっくりと旅を楽しんできたい。

           行く水や
              流れる雲に身を任せ
                                     つづく

           §むすび

 かねてから気になっておりました旅行記が、ようやく出来上がりました。お世話になりました貴方に、感謝と愛を込めてお贈り致します。
 拙い文を、最後までお読みいただきましてありがとうございました。ご感想をお寄せ致だければ幸いです。
 今夜は、ワインではなく上等のブランデーで乾杯します。
     昭和62年3月31日
                            M.N

     参考資料

実業之日本社  ブルーガイド海外版「スイス・オーストリア」
  〃        〃     「ドイツの旅」
  〃        〃     「ローマとイタリア」
交通公社    ポケット・ガイド 「オランダ」
  〃     海外ガイド    「フランスT パリ」
  〃       〃      「イタリアT ローマ」
  〃       〃      「イタリアU ベニス・ミラノ・フィレンツェ」
  〃       〃      「スペイン/ポルトガル」
株式会社ベストセラーズ 井上宗和著「ヨーロッパの旅、古城と宮殿めぐり」
三修社         井上宗和著「ドイツ 城とワイン」
角川文庫        井上宗和著「ワインものがたり」
鎌倉書房    室謙ニ・芝生瑞和著「パック旅行なんてクソクラエ」
交通公社のワールドガイド     「ヨーロッパの鉄道旅行」
                 「EEC旅行情報」
                    他より一部引用
※(このころは未だ旅のバイブル、ガイドブック「地球の歩き方」は発行されていなかった)

         §この年(昭和56年)

 「熟年」という言葉が生まれ、「ノーパン喫茶」が話題になった。又、ルーピック・キュープを買う列が出来たり、「なめネコブーム」というのもあった。その中でも、「ハチのひと刺し」と言う流行語が印象に残った。
≪主な出来事≫
 浦河を中心に強い地震発生(1月24日)
 札幌の丘珠飛行場で格納庫が雪の重みで全壊。小型飛行機6機が押し潰された(1月30日)
 大相撲初場所で関脇千代の富士優勝、7月横綱となる。大関貴の花引退表明(1月)
 帯広新空港開港(3月1日)
 国鉄函館駅ホームで、現金5,000万円入の小荷物を騙とられる(3月10日)
 岩沢北海道テレビ放送(HTB)社長が株で失脚(3月19日)
 千歳空港から、国際定期便の一番機がホノルルヘ飛び立つ(3日23日)
 米大統領狙撃さる(3月30日)
 アメリカで世界初のスペースシャトル「コロンビア」打ち上げに成功(4月12日)
 仏大統領選挙でミッテラン氏がジスカールデスタンス大統領を破って当選(5月10日)
 中国ミニヤコンカ峰で北海道山岳連盟日中友好登山隊の8人が遭難死(5月10日)
 ローマ法王ヨハネ・パウロU世がバチカンのサンピエトロ広場で撃たれ重傷(5月13日)
 バングラデッシュのラーマン首相暗殺さる(5月30日)
 「エフエム北海道」に予備免許(7月17日)
 英チャールズ皇太子、ダイアナ嬢と結婚(7月29日)
 国鉄石勝線開通(10月1日)
 エジプト・サダト大統領が反乱軍兵士に狙撃されて死亡(10月6日)
 北炭夕張新鉱で大惨事(10月16日)
 国道231(札幌-浜益-留萌)が全通(11月10日)
第22回レコード大賞         ルビーの指輪       寺尾 聡
第13回全日本有線放送大賞グランプリ ダンシング・オールナイト もんた&ブラザーズ
【映画】アカデミー賞         作品賞「クレイマー・クレイマー」
    第22回ブルーリボン賞 最優秀作品賞「影武者」
         〃     監督賞 鈴木清順「ツィゴィネルワイゼン」
        話題作            「典子は、今」

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