★フランスフラフラ、田舎ぶらぶら

モン・サン・ミッシェル/写真転載不可・なかむらみちお

パリだけがフランスではない。フランスは二つの部分から成っている。
「パリとパリ以外の部分から」といわれるように、
同じフランスでもパリと地方では時間の流れ方まで違う。
フランスの地方は実に個性豊かだ。
どこをまわるかで、全く違った楽しみがある。
地方には、フランスの魅力のすべてが、ちりばめられている。
農業国フランスは
田舎を自分の足で周ってこそ本当の顔を見る事ができる。

2000年7月12日から8月18日迄フランスを旅して来ました。

目  次

序奏  パリ到着 
  ルーアン  レザンドリー  モン・サン・ミッシェル
  サン・マロ  ドル・ル・ブルターニュ  トゥール  シノン  アンジェ
ボルドー サンテミリオン  カルカッソンヌ  リュション 
ニーム  ポン・デュ・ガール  エグ・モルト  アヴィニョン  オランジュ 
アルル  マルセイユ  カンヌ  ニース  エズ  モナコ  サン・トロペ  ボーヌ 
パリ  コンピエーニュ  ピエルフォン  フォンテーヌブロー  バルビゾン  パリU 
無事帰国  むすび

     スケジュール
 2000年

7月12日(水) 札幌-新千歳 11:30-(NH56)13:00 羽田-成田
  13日(木) 成田 11:25-(NH205)16:40 Paris
  14日(金) Paris(Saint lazare) 10:44-(列車)11:56 Rouen
  15日(土) Rouen -(タクシー) Les Andelys -(タクシー) Rouen
  16日(日) Rouen
  17日(月) Rouen 11:10-16:28 Pontorson 17:05-17:20 Mont St.Michel
  18日(火) Mont St.Michel
  19日(水) Mont St.Michel-09:00-09:15 Pontorson 09:35-10:32 St.Malo 16:09-16:24 Dol Le Bretagne
  20日(木) Dol Le Bretagne 10:18-(TGV)13:49 Tours 16:37-17:22 Chinon
  21日(金) Chinon 11:00-12:13 Tours
  22日(土) Tours-St Pierre Des Cor 08:23-09:23 Angers 12:28-13:52 Tours
  23日(日) Tours
  24日(月) Tours 07:45-(TGV)10:29 Bordeaux
  25日(火) Bordeaux
  26日(水) Bordeaux-St.Emilion-Bordeaux
  27日(木) Bordeaux 08:26-12:14 Carcassonne
  28日(金) Carcassonne
  29日(土) Carcassonne-08:58-16:44 Luchon 18:00-21:57 Carcassonne
  30日(日) Carcassonne 09:44-11:44 Nimes
  31日(月) Nimes 07:25-08:05 Pont du gard 14:50-15:30 Nimes
8月1日(火) Nimes 08:35-09:19 Aigues Mortes 16:21-17:06 Nimes
  2日(水) Nimes 08:24-08:55 Avignon
  3日(木) Avignon 07:53-08:08 Orange 11:32-11:54 Avignon
  4日(金) Avignon 07:15-08:05 Arles 16:45-(TGV)17:07 Avignon
  5日(土) Avignon 08:26-(TGV)09:25 Marseille
  6日(日) Marseille-(船)Iles du frious-(船)Marseille
  7日(月) Marseille 07:22-09:39 Cannes 11:28-12-20 Nice
  8日(火) Nice 09:00-(バス)09:20 Eze 11:35-(バス)12:00 Nice
  9日(水) Nice 09:09-09:27 Monaco 14:25-14:09 Nice
  10日(木) Nice 07:02-08:10 St.Raphael-(船)St.Tropez-St.Raphael 13:57-(船)14:58 Nice
  11日(金) Nice 06:10-14:20 Beaune
  12日(土) Beaune
  13日(日) Beaune 08:00-(TGV)10:03 Paris Gare Lyon
  14日(月) Paris 07:07-07:49 Compiegne-Pierrefonds-Compiegne 13:17-14:08 Paris
  15日(火) Paris 10:41-11:26 Fontainebleau-(タクシー)Barbizon-(ヒッチ)Fontainebleau 15:04-15:43 Pares
  16日(水) Paris
  17日(木) Paris 20:00-(NH206)
  18日(金) 14:25 成田-羽田 18:00-(NH73)19:30 新千歳-札幌

            序 奏

   7月12日(水) 札幌-新千歳 11:30-(NH56)13:00 羽田-成田
 この旅でどんな出会いが待っているのか期待で胸をわくわくさせて家を出る。

   7月13日(木) 成田 11:25-(NH205)16:40 Paris
 実は今回のフランスへの旅は、これまでの海外旅行とは一味違って出発間際になっても未だ大旅行に出る気分にはならなかった。
 と、いうのも、春先から背中が痛みだし、大事を取ってこの旅行の出発までには完治させようと整形外科病院に通っていたのだが、完治するまでには至らなかった。痛みが残るまま、不安を抱えている内に出発の日が来てしまった。
 夏休みが近付き、出発の日も間近となったが、まだ多少不安が残る。しかし、この時点でドタキャンという訳にもゆかず、曖昧な気分のままで機上の人となった。
 財布にフランスフランを詰め、機内でワインを飲んだらようやくフランスへ行く気分になってきた。日程を決めず、ただ大体のコースだけを決めて旅に出るのがボクの主義だ。その方が行動を束縛されなくて良いし、大変楽しいものだ。去年の春もその手でスペインをほっつき歩いた。
 あらかじめ日本から手紙で予約したフランス各地の宿からの返信が当然ながらフランス語なので、果たして取れているのか取れていないのか分らないまま来てしまった。札幌ではフランス語の分る人が見付からなかった。機内に持ち込んでスチュワーデスに読んでもらうと、モン・サン・ミッシェルの宿が取れていない事が分った。
 パリが近付くと機内アナウンスが地上の気象状況を伝えてくれた。「小雨で気温は17℃」“うあぁ、初めから雨か。”着いたら先ずセーターを着て雨具を取り出さなければならないなぁと考えを巡らす。
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  Paris(パリ)到着
 ボンジュール、パリ! 飛行機は定刻通り、16時10分パリシャルルドゴール空港に無事着陸。窓外を見ると滑走路は濡れているが水溜りに雨の波紋は見られない。
 機内のモニターには操縦席から前方を写し出すカメラのレンズに雨の雫が伝い降りているのが時々見られるので、霧雨程度は降っているのだろう。誘導路を延々と走って飛行機は16時40分頃予定通りターミナルに到着した。
 荷物受取所でしばらく待った後、ようやく荷物を受け取り、2番の出口からロビーに出た。そこからパリ東駅へ行くバスに乗り込むまでが又大変だ。
 ロビーからエレベーターでB1に降り、ビルを出ると高速地下鉄RERのロワッシー駅へ行くバスと、第二ターミナルに行くバスが交互に入ってくる。ロワッシー駅行きの無料バスに乗る。
 バスを降りるとすぐ目の前にインフォメーションがあり、そこで尋ねて北駅経由、東駅のバス(350)に乗り込む。お金を払うと切符を3枚くれた。
 夕方のラッシュ時らしく、途中から乗り込む乗客で超満員となったまま北駅を経て終点の東駅前に着いた。幸い雨は上っていた。気温は17℃と肌寒い。
 東駅前から宿までは500m位だろうか。通り掛かりの商店などで何度も訊ねながらようやく日本からあらかじめ手紙で予約しておいた宿に着いた。
 チェックインを終えて通された部屋は予想より薄汚く臭いもした。まぁ今夜一晩我慢すればいい事だからまぁいいか。しかし、日本に帰る前のおよそ一週間もここに予約してあるのだが、この部屋では少々しんどい。換えて貰ってもおそらくはあまり変わり映えはしないだろう。安い(146FF)のだからそれ位は我慢しなければならない。(1FF=約18円)
 フロントで17日からのモン・サン・ミッシェルの宿の予約文を書き、FAXで送ってもらうが、待っていても返事が来ない。ホテルのフロント係は未だ9時だというのに今夜は遅いから明朝にならないと来ないだろうと言う。
 明日から列車で旅をするためのシニアカード(La Carte Senior)を取得するために東駅へと向かう。このカードは60才以上が対象で、290FF。一年間有効だが使い方が時間と場合により割引率も違い、慣れないと多少使いづらい。一ヶ月少々の旅で果たして得かどうか、物は試しに使ってみよう。
 窓口が分らず多少あちらこちらとうろうろしたが、数多くあるチケット売場の長い列の一つの最後尾に並んだ。
 間もなく私の順番が来る頃、Clauseの表示が点滅した。多分10時で終りなのだろう。後10分しかない。果たして間に合うのかどうか。ようやく私の順番がきて辛うじてセーフ。
 宿に帰ってフロントに訊ねて見たが、やはりモン・サン・ミッシェルからのFAXは届いていなかった。明朝は早立ちしたいがこの返事を待つまで出発を遅らせなければならないかも知れない。明朝8時頃にでもフロントに頼んで現地に電話を入れて確かめてもらう事にする。
 今日やるべき事を終えたらなんだか腹が減ってきた。いつもならこの時間に空腹を覚える事はないのだが、時差のせいかも知れない。夕方、機内食で残したパン2個とおつまみ2個、それにワインで夕食を済ませたのだが、足りなかったのだろうか。この辺りにはBarはあるのだが、食料品店らしいところがない。面倒なので明朝まで我慢しよう。
 パリには「パリ」という駅はない。パリから地方へ行くのには放射状に路線が出ており、行き先別に六つの国鉄始発駅がある。それぞれ行き先によって出発駅が異なる。部屋に帰って明日行くRouenへの出発駅までどのように行ったら良いのかを資料で調べてみた。それによると東駅から地下鉄で1度乗り換えながらパリ・サン・ラザール駅に行き、そこからRouen行きの列車に乗れば良いことがわかった。
 時差ボケの関係もあって頭がボーとしてきた。今日はこれで寝る事にしよう。

   7月14日(金) Paris(Saint lazare) 10:44-(列車)11:56 Rouen
 時差ボケのせいか2時半に目が覚めて寝付かれない。仕方がないから日記を書き始めた。
 時間が永い。いつまで経っても夜が明けない。腹が減ってきた。近くの部屋で話す声が聞こえる。テレビの音声か。資料で調べることも無くなった。只ひたすら夜の明けるのを待つ。5時半、もう1度ベッドに潜り込んでみよう。
 少しウトウトとしたようだ。7時起床。駅の方に向かって街を散歩してみる。途中のパン屋さんで焼きたてのクロワッサンとドーナツを買い込み、隣のカフェBarでミルクをとって食べる。この後地下鉄の駅へ行ってビレット(乗車券)を買う。窓口の女性に値段を尋ねても窓口に張り出した料金表を指し示すだけで教えてくれない。その態度が生意気だ。フランス語が読めないから訊いているのに…。
 宿に帰って出発の準備をする。9時まで待ってフロントに行ってみるが、モン・サン・ミッシェルからのFAXは来ていない。フロントに頼んで電話を入れて貰うと満員とのことで断られた。それからガイドブックに書いてある宿を片端から当り、なんとか最初の2日間は一夜毎に宿を変えて取れたが、三日目が取れない。現地に行ってから探す事にする。とにかく最初の2日間だけでも取れて良かった。
 地下鉄でパリ東駅からオペラで乗りかえてサン・ラザール駅へと向かう。この駅はパリで最も古い。ノルマンディー地方シェルブール方面への列車が発着する。モネの名画に描かれ、ゾラの小説「野獣人間」で紹介されているのが、この駅である。
 又、サン・ラザール駅というと写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンを思い出す。彼はこの駅の裏で『サン=ラザール駅裏』という『決定的瞬間』の一枚の写真をものにした。

 ※20世紀を代表する写真家アンリ・カルティエ・ブレッソン Henri Cartier-Bresson (1908-)、フランス生。
 1947年、キャパらと写真家集団『マグナム・フォト』を設立。52年に初の写真集『逃げ去るイメージ』に収められた『サン=ラザール駅裏』を出版、そのアメリカ版の表題『決定的瞬間(The Decisive Moment)』は、カルティエ=ブレッソンの写真の代名詞として知られることになる。
 『サン=ラザール駅裏』は、“写真という芸術の世界を決定的に変えた一枚”と評されてる。冷気を含んだ冬の光の中、男が水溜りの上をピョンと飛んでいる。何一つ無駄なものは写されてなく、全てのものが緊密に関係を作りながら奇妙なバランスを保ち続けている。
 スナップショットによって、日常のなかの一瞬の光景を、忘れがたい映像へと結晶させる作品は、同時代の写真表現に大きな影響を与えた。この作品が発表され、「決定的瞬間」の巨匠と呼ばれ、彼は20世紀最高の写真家と称されることとなった。

 サン・ラザール駅のインフォメーションで訊ねると間もなく列車が出発すると言う。急いでホームに向かった。ホームを歩いている間に車掌の発車合図の笛が鳴った。已むを得ず近くの一等車に乗り込んだ。
ノルマンディー  2等車の車内は超満員でデッキまで人が座りこんでいた。今日はフランス革命記念日(パリ祭)なのでフランスの祝日に当たる。今頃は凱旋門とシャンゼリゼ大通りを中心に記念式典とパレードが華やかに催されているはずだ。映画「ジャッカルの日」(1973年、米、監督・フレッド・ジンネマン、主演・エドワード・フォックス)を思い出す。
 通路の客を掻き分けて前の車輌まで行ってみたが何処も満員だった。諦めて後方の荷物を置いて来た車輌に戻る。一つ目の駅でアベックが降りたのでそこに座る事が出来た。
 その次の駅Vernonからはバスでクロード・モネ(1840-1926)の家があるヴェトゥイユ、睡蓮の花で有名なジヴェルニーに行く事が出来る。
 列車はセーヌ川を右に左に見ながらルーアンを目指して川添に下って行く。これから行く予定のガイヤール城はこのセーヌ川の辺にあるはずなので窓外を注意して見て行くがそれらしい物は見当たらなかった。列車は間もなくルーアンに着いた。
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  Rouen(ルーアン)
 ルーアンの宿からの手紙には駅から2分と書いてあったが、ゆうに5分は掛った。なかなか小奇麗なホテルで良かった。昨夜の宿とは比べ物にならない。昨夜の宿よりは少々宿代は高いが、それ以上に綺麗だしシャワーもあって居心地は良さそうだ。
 天気が晴れたり曇ったり、今にも雨が降りそうなので今日はレザンドリーのガイヤール城に行くのは止めて明日と明後日に掛ける事にする。と、いうわけで街に出てみることにした。
 ルーアンは北フランス有数の大都市、フランス第3の商業港である。11世紀に遡る大聖堂を持ち、15世紀には奇跡の少女ジャンヌ・ダルク(1412年、ドンレミDomremy生まれ)の処刑の地となった。
 街は結構大きいのだが、商店はシャッターを降ろし、人通りも少なくひっそりとしている。今日はパリ祭の為休みらしい。食料品店も開いていないし、郵便切手も買えなくて不便だ。
旧市街広場の教会/写真転載不可・なかむらみちお  先ず、1431年にジャンヌ・ダルクが火刑に処せられたという旧市街市場に行って見る。今はその面影は見当たらない。広場というのには思ったより狭いところに変わった形の教会があった。およそ教会とは思えない現代的な雰囲気のフオルムだ。万博のなんとかパビリオンみたいで、言われなければそうとは分らない。この近くのお土産店でこの地方名物のシードルを買った。飲んでみたがあまり美味しいものではなかった。フランスは有数のワインの産地だが、北部とノルマンディー、ブルターニュなどの東北海岸部だけはぶどうが育たない。従ってここのお酒はシードルという事になる。
大時計通りの門/写真転載不可・なかむらみちお  旧市街市場から大時計通りを通ってノートルダム大聖堂へと向かう。この通りは町で一番賑やかな通りである。向こうからこちらを見てニヤニヤしながら私に近付こうとしていた男を発見。私は咄嗟に危険を感じて私の直前を歩いている人を盾に周りこむように間に挟んで彼を交わした。それでも彼は私をしつこく追ってくるような気配だったので走って逃げた。彼は何が目的でそんな行動をとったのか、本当に彼が危険人物なのかどうかは分らなかったが、用心するに越したことはない。
 旧市街広場と大聖堂を結ぶRue du Gros Horioge(大時計通り)の中ほどに、古式燦然たる一本針の大時計を掲げたアーチがある。ルネサンス様式の時計は14世紀、門は16世紀に造られたもの。
 ノートルダム大聖堂は光の移り変わりによって建物の相貌が変わっていく様を描いたモネの有名な連作のモデルとなったヨーロッパ有数の大聖堂で、ゴシック建築の傑作である。第二次大戦で被弾し、現在も補修が続いていて写真を撮るのには具合が悪かった。中に入ってみると広かった。
 サン・マクルー教会、サントゥアン教会と周ってこの二つの教会に挟まれた区域でノルマンディー独特の木組が印象的な古い家並みを見た。
 帰り道で食料品店を見かけたのでワインや果物、ハム、パンなどの食材を買って宿に帰って来た。時間があったのでシャツと靴下を洗濯した。
 隣室から男女の会話がかすかに聞こえてくる。ベッドに横になっていると枕元の隣室から女の激しい息遣いが聞こえてきた。やがてそれがうめき声となる。時々男の深い息使いも聞こえる。
 外は9時近くになっても明るいが、毛糸のセーターを着ていても寒い。布団の中にでも潜り込みたいが時差ボケ解消の為、10時までは起きて居たい。

   7月15日(土) Rouen(タクシー)Les andelys-(タクシー)Rouen
 今朝の天気も余りぱっとしない。曇り空だが、ここから30q程離れたガイヤール城(Chateau Gaillard)を撮りにレザンドリーへ行く事にする。カメラ一式と三脚、それに昼食用のパンとバナナを持って8時半頃国鉄の駅へと向かう。
 駅の案内で訊ねたらレザンドリーには列車は行っていないという。バス会社に行ってみろとのことで、約500m程離れたバスターミナルへと向かう。途中で郵便局が開いていたので切手を10回分買って家に宛てた葉書を出す。
 バス会社に行き、受付の女性に尋ねると、ここでもレザンドリー行きのバスはないという。残るはタクシーのみ。往復1万円ほど掛かるという。それでも致し方ないのでタクシーで行く事にして電話で呼んで貰った。
 しばらく待ってから来たタクシーの運転手と値段の交渉をする。現地でどのくらい時間が掛かるかと言うので10分と答えた。値段は350FFと言う。これを300FFに負けさせて乗り込んだ。途中いくつかの村を通りながら麦畑の続く平野と小さな峠を越えて40分位で目指すガイヤール城に着いた。
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  Les Andelys(レザンドリー)
 ルーアンからパリ方面へ車で向かうと、丁度セーヌ川が大きく蛇行して流れる所にレザンドリーの町がある。
 高台に残るガイヤール城(Chateau Gaillard)の廃墟は、セーヌ川が大きく湾曲する要所に1196年この地方がイギリス領であったノルマンディー公国時代にイングランドのリチャード獅子心王がルーアンをフランス国王から守るため造られ、堅固な名城と称えられた。実戦的な構造で、ヨーロッパの城塞の典型的スタイルを持っている。この城に籠もったイギリス軍をフランス王・フィリップ二世が包囲、一ヶ年余り掛って落城させた。この攻城戦の史実は、ヨーロッパの戦史にも、また城郭史にも有名な話である。
 城はセーヌの水面上、100m余りの山肌にある。眺望がよく、敵の襲来が十二分に見える地点だ。運搬船の往来するセーヌに今も川中島が残っているが、かつては城と橋で結ばれ、ここも要塞化していた。城はリチャードが現地に見たオリエントの要塞を下敷きに、当時の築城術の常識を超えて造られた。
 城を見下ろせる崖の上の展望台に着いたが、アングルがイマイチだ。もうひとつ左の山の上からが良さそうだ。道はそこから下って城まで続いているようだ。その道を辿って車で行って貰ったがどうも下りすぎるようなので途中で降ろして貰い、再び道路脇の崖をよじ登り、目指す山へと向かった。
 樹が繁っていて見通せるような場所がないようだったが、とにかくここまで来たのだから一応チェックしてみなくては納まりが付かないので登山道の小道を駆ける様にして登った。すると、今迄の木立から一ヶ所だけ抜け出て城とセーヌ川が見える場所に出た。城は美しく、詩情をたたえていた。丁度良い具合にセーヌ川を大きな貨物船が下ってきた。陽も少し射してきた。周りの木立で多少視界が狭いが取り合えずここで写しておく。
ガイヤール城の廃墟。八世紀に建てられ、百年戦争の時には城塞としてイギリスに対する抵抗の拠点となった/写真転載不可・なかむらみちお  船が画面に丁度良く納まったところで連続シャッターを切る。更にもっと良いアングルを求めて山の斜面に繁った木立の中を人が踏み込んだ形跡のある道を求めて分け入るが視界の開けるところは見当たらなかった。再びさっきの所へ戻り、更に絵柄を整理して何枚か写す。ここに着いたのが11時頃だったが、すでに12時を過ぎていて大急ぎで山を駆け下りてきたが、車の中には運転手がいない。
 あんまり帰りが遅いので私を探しに行ったのだろうか。それとも又ついでに城の中を見に行ったのだろうか。とにかく付近を探してみる。
 城の方へ多少登りの道を登ってから車の方を振り返って見ると、運転手が下の方から車に向かって登って来た。上から声を掛けると気が付いてくれた。
 車に戻ると彼は待ち時間が永かったから450FFだと言う。私は指を四本出して400FFと値切ってみたが彼は承知しなかった。二人とも沈黙したままルーアンへと向い帰り道を急いだ。
 ルーアンの国鉄駅前で降ろしてもらった。降り際に再び値段の交渉をしたが、彼は450FFを譲ろうとはしなかった。もう一押ししたらようやく430FFにしたのでそれで手を打った。予定は明日もう1日ある。この街にいても後は特に見たいところはない。快晴が確実なら明日もう1度ガイヤール城に挑戦して見よう。
 カメラ一式を宿に置き、遅い昼食を食べに街に出た。相変わらず肌寒い風が吹き、時折時雨てくる。いくら北海に面した北国とは言え、これでも夏かと驚かされる。この先モン・サン・ミッシェルに行ったらどうなるのだろう。Tシャツを主体に厚手の物と言えば毛糸のセーター一枚しか持ってきていないので寒い。街行く人々はコートを着ている。
 レストランを覗いて見たが、食欲をそそるようなものを食べている人は見掛けなかった。その内パン屋さんでクロワッサンを見かけたのでそれを買い、近くのBarでミルクを飲みながら昼食を済ませた。帰りにスーパーで明日からの食料品を買い込んでから宿に帰る。
 機材などを整理し終えるともう後は何もやる事はない。街へ行っても面白そうなところは何もなさそうだ。未だ少し早いが、チーズでワインを飲みながら夕食にした。
 夕食を済ませた後、テレビでツール・ド・フランスをやっていたのでそれを見ていたが、なんとも寒くて参った。仕方なく布団に潜り込んだら少々ウトウトとしたようだ。それでも未だ寝る時間には間が有り過ぎるので、今日の日記を書きはじめる。夜の9時を過ぎたというのに窓の外はまだ明るい。

   7月16日(日) Ruen
 今日も朝から天気が悪い。ベタ曇だ。相変わらず寒い。当然ガイヤール城行きは中止。どこか近郊で行ってみたい所はないかと調べてみたが、どこにもない。街に行ってもあえてどこも見る所はないし、面白いところもない。こんな面白くもない町も珍しい。今日一日全くやる事がない。
 朝食を済ませた後、旧市場広場へでも行ってみる事にする。朝市をやっているかもしれない。外に出てみると、駐車している車の窓ガラスが結露している。朝は10℃位だが昼には16〜17℃位に上る。途中のパン屋でサンドイッチを買って食べた。朝食のパンが少し足りなかったので…。
 街は日曜日のせいか人通りが少ない。駅の近くの教会に人が入って行くのが見えたので行ってみる。入口には黒人の青年が立っている。入ってもいいかとゼスチュアで訊ねると良いという。中では50人程の信者が日曜日のミサをあげていた。
 旧市場広場には10軒ほど果物や魚、花などを売る店が並んで店を開いていたが、客がほとんどいない。教会の帰りにでも立寄るのだろうか。
 街に出て来たついでにノートルダム大聖堂の方まで散歩してみた。ついでに大聖堂の中に入ってみたら、ここでもお祈りをあげる人々が100人程居てミサをあげていた。柵で仕切られたこちら側には観光客も数人居り、その中には日本人らしい男女も居た。私はキリスト教徒ではないので教会にはあまり興味がない。しかし、敬虔な祈りをあげている信者の姿を見ると次の言葉を思い出す。
 「クリスマスを祝い、大晦日にお寺に行き、お正月に神社に行く日本人は、他人の宗教に対しても寛容です。けれども、世界のいたるところで、宗教が大きな問題になっています。宗教は多くの善き事をもたらすものでありながら、皮肉な事に、世界で起きている多くの悪しき事の原因となっています。世界中の人々が、日本人のようにお互いに宗教の多様性を認め合えば、この世界は平和になることでしょう」著名なインド詩人で文学者のシュニル・ゴンゴバッダエ。
 大聖堂を出て元来た道を戻った。大時計通りのアーチの写真を撮っていると、先ほどの日本人らしい若い男女が来たので頼んで記念写真を撮ってもらった。
 駅に行って明日の出発の時の場所の下見をした。ついでに切符を買った。きっと明日は月曜日の朝なので行列が出来る事だろうから今日の内に買って置いたほうが楽だと思う。それに明日は荷物もある事だし。
 途中でフランスパンを買い小脇に抱えて宿に戻って来た。これでチャンバラでもやりたい気分だ。宿に戻ったが、することがない。未だ12時だというのにこの先どうやって明日まで時間を潰そうか。寒いし落ち着かない。買ってきたパンで昼食を済ませてテレビを見るが寒い。布団の中に入ってみる事にする。
 3時、テレビでツール・ド・フランスなどを見たが言葉が分らないので詰まらない。飽きてしまった。ベッドから起き出して日記を書き始めたが、未だ夜までは間があり過ぎる。

   7月17日(月) Ruen 11:10-16:28 Pontorson 17:05-17:20 Mont St.Michel
 3時頃に目が醒めたまま寝られない。6時起床。朝食を軽く済ませてから旧市街広場辺りまで散歩して来た。9時頃会計を済ませて宿をチェックアウト。荷物を引き摺りながら駅へと向かう。
 駅前のパン屋さんで昼食用のパンを買う予定だったが閉まっている。向いの雑貨屋さんで缶ビールを買ってから駅へ向かう。駅の売店でハムサンドを売っていたので2個買い、1個を食べた。
 ノルマンディーの代表的な特産物は、チーズやバターなどの乳製品。またブドウの育成に適さない土地柄、ワインの代わりにリンゴを使った発泡酒のシードルの醸造が盛んだ。香りの強いブランデーのカルヴレァドスそしてリンゴ・ジュースやシードルとカルヴァドスを合わせた甘口の食膳酒ポモーを生産する。
 この近くのCaen(カン)とLisieux(リジュー)を結ぶN13もしくはカンとルーアンを結ぶN175を車で走ると、シードルやカルヴァドス用の農園が集る地域を巡る「シードル街道」がある。
 リジューからVimoutiers(ヴィムティエ)行きのバスで約30分。そこから車でD246を南西に4km行った所に世界に名だたる白カビチーズを生んだ村カマンベールがある。
 予定通り列車は出発して快適に走る。隣の席には若い日本人の青年が座っていた。岐阜出身とかで、この近くの町へパン職人の修行に来ているとのことであった。一寸聴き辛い名古屋弁(?)でパン食を中心にヨーロッパと日本の食文化の違いや、言葉の問題などをいろいろと話が弾んだ。彼はCaenの一つ手前Mezidonで降りた。彼はここのパン屋で修行しているという。腕には仕事で付けたのであろう線状の火傷の跡があった。ルーアンには同じく日本から修行に来ている友達が居り、その友達に会いに来た帰りだと言う。
 フランスの国鉄(SNCF)はパリを中心として放射状に主要幹線が延びている。ダイヤの編成もパリ中心で、パリと地方とのタテの連絡がきわめて良いのに比べ、地方から地方へヨコに移動しようとするとやたらに時間が掛かったり、本数が少なかったりする。
 途中Caenで約1時間の待ち合わせ時間の後、列車を乗り換えてPontorson(ポントルソン)へ向う。Caenの近くのオマハビーチは、第二次世界大戦の時、ドイツ軍が最後の砦としていたところで、1944年6月6日Dデー、連合軍により「史上最大の作戦」が行なわれ、多くの犠牲者を出した後に勝利したところである。ここで戦争写真家キャパも参戦して有名な写真を残した。
 ノルマンディー地方ではジャック・ドゥミ監督の『シェルブールの雨傘』とかクロード・ルルーシュ監督の『男と女』(Deauvilleドーヴィル)を含む20を超える映画のロケにも使われている。
 ポントルソンからMont St.Michel(モン・サン・ミッシェル)まではバスがあるのだか、ガイドブックによると、月曜日は最終の17時05分発のバスは無いと書いてある。不安だ。最悪の場合はタクシーという事になるが、果たしてタクシーがあるのか。田舎に行くとよくあるように自分で電話を掛けて呼び寄せるとなるとお手上げだ。
 カンから若い日本人のアベックが乗り合わせた。この連中も今日モン・サン・ミッシェルへ行くのだろうか。だとしたらくっ付いて行けばいいか。
 ポントルソンの駅に列車が近付いた頃、頃合を見計らって声を掛けた。すると今夜はポントルソン泊りで明日モン・サン・ミッシェルへ行くと言う。万事休すだ。
 とにかく列車から降りて駅前に行くと空のバスが一台停まっていた。これがモン・サン・ミッシェル行きかも知れない。運転手が居ないが、よく見るとモン・サン・ミッシェル行き、17時05分と書いてある。良かった。これで一先ず安心だ。
 バスはポントルソンの街を通り抜け、平原を15分ほど走ると、前方にモン・サン・ミッシェルの特徴ある形が見えてきた。バスは島の手前、陸と島を結ぶ堤防の上で止る。ここから先は車は入れない。
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  Mont St.Michel(モン・サン・ミッシェル)
参道へ通ずるメインストリート、大通りグランド・リュGrande rue/写真転載不可・なかむらみちお  参道へ通ずるメインストリート、大通りグランド・リュGrande rueは観光客で賑わっていた。大通りとは名ばかりの狭い参道である。土産物屋を横目に見ながらパリから電話で予約しておいた宿へと向う。この辺のホテルはほとんどがレストランとの兼業だ。訪れた店の大通りを挟んだ反対側の建物に通された部屋はお城の一角のようで、石造りのなかなか立派で良い感じだ。料金が高いのだから当然ではあるが。石造りの建物の窓だから壁が厚く出窓のようである。伸び上がらないと窓の下の通りを見下ろす事が出来ない。
 5時半だというのにまだ陽が高い。とにかく撮れるものは撮ってしまおうと思ってカメラを持って宿を飛び出す。モン・サン・ミッシェルから5〜600m離れた島への通路付近からお決りの絵ではあるが撮影する。道路の反対側に回って更に撮影する。一本しか持ってこなかったフイルムがたちまち無くなってしまった。一先はお決りの絵を撮り終えた。夕陽が良さそうだ。しかし、まだ時間があるので、一旦宿に引き揚げる。
 ノルマンディ地方の西端海岸にあるこの城は八世紀のべネディクト派の修道院が築かれて以来、巡礼の地として栄えてきた。砂の海に浮かぶ島のように見える奇観とともに、島全体が大きな建築物という偉容を誇る。
 要害の地であるところから城塞として利用され、フランスとイギリスが戦った百年戦争中はイギリス軍の占領するところだった。現在でもフランスの有名な観光地であり、聖地でもある。陸地とは一本の堤防によって結ばれ、観光客が絶えない。
 この付近一帯は、潮の干満の差が激しいことでも知られている。かつてはその潮の差がなんと14mもあった。一旦18qの彼方にまで引いた潮が猛スピードでせめて来るという。満潮時には驚くべき速さで潮が満ち、以前は島全体が水に囲まれた。このため僧院を訪れようとした数多くの巡礼者が命を落としている。
夕陽に映えるモン・サン・ミッシェル/写真転載不可・なかむらみちお  8時頃、夕陽を狙いに再び宿を出る。太陽がなかなか落ちない。辺り一面草原の中、一人も人影は見当たらない。岸辺近くでひとりで待っていると少し寒くなってきた。これまで干潟状態だった所にも潮が満ちてきた。ようやく10時頃モン・サン・ミッシェルの左側近くに太陽が落ちた。モン・サン・ミッシェルと夕陽を入れて撮影。夕陽が沈んだ後も空一面茜色に輝いて綺麗だ。いい写真が撮れたようだ。更に島全体がライトアップされるのを待ったが今日は点灯されなかった。先ほどよりも潮が足元まで満ちてきた。ひよっとするとここに来た時の道が潮に覆われて帰れなくなったら大変だ。もう少し粘ってみたかったが用心の為帰る事にした。
 撮影を終えて宿に帰ったら12時に近かった。窓から外を見ると、東の空に満月が出ていた。上手くするとモン・サン・ミッシェルと満月の写真が撮れるかも。目覚まし時計を5時にセットしてベッドに入る。

   7月18日(火) Mont St.Michel
 5時。目覚まし時計が鳴る直前に起床。外は未だ暗い。懐中電灯とカメラ機材一式を持って宿を出る。通りには人影はない。
 モン・サン・ミッシェルを海越しに見える位置に向かったが、水は引き潮でほとんどない。濁った干潟が満月の光を受けて光るのみ。結構寒い。
 なかなか夜が明けない。北海道よりもかなり太陽の昇る速さが遅いようだ。満月もさっきから全然動いていない。地球が止ったのだろうか。
朝のモン・サン・ミッシェル/写真転載不可・なかむらみちお  6時28分、ようやく太陽が顔を出したが、登る速さは遅い。それに水平線近くには靄が懸っているので太陽の光も弱く、モン・サン・ミッシェルに光が当たらない。写真としては全く面白くない。不成功である。月は私の背中に背負っている状態で、方向が違う。画面には全く入ってくれない。7時頃宿に帰り、顔を洗い、近くのパン屋さんへ行って朝食のパンを買ってくる。
 このホテルは昨夜限りなので、10時までにチェックアウトしなければならない。忙しい。大急ぎで荷物をまとめて宿を出る。今夜の宿はこの2〜3軒隣である。そこでチェックインして荷物を部屋に置く。
 ルーアンのどこかに日本から持ってきたスケルトンの三色ボールペンを置いてきたらしい。どこに忘れたのかウエストポーチから出して机の上に置き忘れないようにと思っていたのだが忘れて来てしまったらしい。それがどこか分からない。人間一つのことを考えていると他のことは全くわからないと言う事がこの一件でよく分かった。他にペンダント式に首から下げるボールペンを持ってきているので書く事には特に不便を感じないが、赤ペンが無いのは矢張り不便だ。
教会内の回廊/写真転載不可・なかむらみちお  今日は特に写すものはない。あまり見たくないが折角ここまで来たのだからついでに僧院を見に行ってくる。
 僧院へ向かう階段のところで、日曜日にルーアンの教会で会ったアベックとばったり会って言葉を交わした。僧院では教会の内部と回廊が目を引いた。内部は、ロマネスク様式やゴシック様式など,中世の建築方式が混ざり合った独特の物である。

卵を解くコックさん/写真転載不可・なかむらみちお オムレツを焼くコックさん/写真転載不可・なかむらみちお 名物の大オムレツ料理/写真転載不可・なかむらみちお  僧院を後にして昼には例の名物のオムレツを作っているレストランへ行く。ここの有名なのは特大のオムレツ。一個の卵しか使わないのに、皿からはみ出さんばかりの大きさだ。オムレツと海辺の草を食べて育ち、潮の風味があるといわれる仔羊の肉料理を食べた。美味というよりは話の種だ。
 この店を出ようとしたら昨日ポントルソンまでの列車の中で会った若い男女に会った。彼らもここで昼食を摂っていた。立ち話をした。ポントルソンの宿は安かったが、あまり良くなかったとの話であった。
 昼からはお土産屋などを覗いて時を過ごした。本当はもう撮りたいものを撮ったのでこんな宿代の高いところよりもポントルソンへ泊ったほうが次の日のサン・マロも行き易いのだが、宿を取ってしまった関係上已む終えずここに泊る事にする。
 3時頃モン・サン・ミッシェルの全景を撮ろうと思ってカメラをセットしたら、露出加減装置のマークがエラーを示して点滅している。一帯これはどういうことなのだろう。訳が分らないままにコンピュターの暴走かも知れないと思い、メイン電池を抜いたり差したりしてみたが、直らない。バックパックの電池を抜いたら暴走はようやく止った。再び電池を入れて起動させたが正常に動かない。この装置は買った時から不調で、何度も修理に出して今回は絶対大丈夫ということで持ってきたのだが、又故障してしまった。全くこのカメラには泣かされる。バックパックが動かないと自動段階露出が出来ないが、普通に写す事は出来る。不便だが仕方がない、このまま我慢しよう。バス停付近で三色ではないが、普通のボールペンを拾った。捨てる神あれは拾う神ありか。
 今日の宿は窓が参道へ通ずるメインストリート、大通りグランド・リュに面しており、昨日よりも少々宿代が高いのだが、窓の下を通る観光客の話し声などで昨日の宿よりも窓外がうるさかったりしてあまり良くない。
 ここからの明日のサン・マロ行きの乗り物の接続はどうか調べてみた。先ず、9時のバスで行くとポントルソン発9時半頃の列車に接続する。それはいいのだが、サン・マロに着いてから市内を観光する間荷物をどうするかが問題だ。駅に預けられたら預けることにする。本当はポントルソンで宿を取ってから行くと一番いいいのだが、そうすると列車の本数が少ないのでどうなるのは分らない。
 7時頃夕陽の具合を見に行ってみたが、未だ太陽がかなり高い。昨夜はあまり寝ていないし、疲れた。もう撮るものは撮ったし、今日の具合が昨日とどう違うのか気掛かりだが、このまま寝ることにする。それにしてももう9時過ぎだというのに外がうるさい。果たして安眠出来るかどうか。

   7月19日(水) Mont St.Michel-09:00-09:15 Pontorson 09:35-10:32 St.Malo 16:09-16:24 Dol Le Bretagne
 5時に目が覚めた。考えてみるとポントルソンに泊る理由は無い。むしろ明日トゥールに行く都合を考えたらサン・マロへ行く途中の乗り換え駅であるDol Le Bretagne(ドル・ル・ブルターニュ)かもう一歩足を伸ばしてRennes(レンヌ)に泊ったほうが都合が良いようだ。時刻表を見るとわざわざ列車数の少ないポントルソンまで戻ってくる必要はない。
 レンヌの宿を調べてみたら少し高いようだ。ドル・ル・ブルターニュにだって宿はあるだろう。なければ最終的にレンヌに泊ればいい。ドル・ル・ブルターニュを調べてみてもガイドブックには載っていない。田舎で何も見るものはないのだろう。観光客も来ない所なのだろうが、列車の乗換駅なのだからホテルくらいはあるだろう。
 午前6時、朝日に輝くモン・サン・ミッシェルを撮りに出かける。昨日構えたポジションに行く。6時28分、昨日と同じ時間に同じような状態で朝日が顔を出した。遠く海面近くに薄く霞がかっている。矢張り光が弱くて思ったような光線状態ではなかったが、何枚かシャッターを切ってみた。この後、僧院近くまで散歩した後、島を取り囲む城壁の上を歩いて宿に帰る。
 モン・サン・ミッシェル9時丁度発のバスでポントルソンに向かう。ポントルソンからは列車でドル・ル・ブルターニュに行く。ここでサン・マロ行きの列車に乗り換えるまで20分間の待ち会い時間があったので駅の近くのホテルに駆け込み、今夜の宿を予約、荷物を置かしてもらった。いわゆる駅前旅館だ。サン・マロに到着。
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  St.Malo(サン・マロ)
 ここはフランスの最西端、北は英仏海峡、南は大西洋に面し、鰐の頭部さながらに海中に突き出しているのがブルターニュ地方だ。
ヨットハーバー/写真転載不可・なかむらみちお  駅を出て右手に進み、大通りを横切ると、港までの一本道が続く。天気は快晴。建物もほとんどない単調な道を20分ほど歩くと、城壁の上に屋根が半分顔を出した町が見えてくる。ヨットがずらりとひしめく岸壁に立ち、港越しに城壁を写した後、城壁に上り、ぐるりと一周して来た。結構な距離を歩いたので疲れた。途中のオープンカフェで一服して、ここの名物のクレープとシードルを注文する。
ブルターニュ地方名物のクレープ/写真転載不可・なかむらみちお  クレープはここが発祥の地とかで、あちらこちらにクレープ屋さんがある。出てきたクレープに蜂蜜を掛けて食べた。隣の席のアベックの青年が「美味いか?」と訊ねてきた。特に美味いとは思わなかったが、「イエス」と答えると、満足したような表情をしていた。

 ※クレープ(crepe )は、パンケーキの一種で、フランス北西部のブルターニュ地方が発祥の料理。元になったのは、そば粉で作った薄いパンケーキのガレット (galette) という料理である。
 ブルターニュ地方は土地がやせていて気候も冷涼であるため、小麦の栽培が困難でそばが常食とされていた。古くはそば粥やそばがきにして食べていたが、そば粥を偶然焼けた石の上に落としたところ薄いパン状に焼きあがることを発見し、そば粉を焼いてパンの代わりに食べるようになったといわれている。石で焼いたことからフランス語で小石を意味するガレ (Galet) にちなんでガレットと名づけられたというのが通説である。
 その後、生地はそば粉から小麦粉へ変更され、粉と水と塩のみであった生地に牛乳やバター、鶏卵、砂糖などが加えられるように変化していった。名称も焼いた際にできるこげ模様が縮緬(ちりめん)を連想させることからクレープ(「絹のような」という意味)と呼ばれるようになった。
 現在ではフランス風の薄焼きパンケーキの総称としてクレープという名称が使われているが、そば粉を利用したクレープについては依然としてガレットという名で区別されて呼ばれる場合が多い。小麦粉のクレープはほとんどの場合生地に甘みがつけられるが、そば粉のガレットは通常塩味である。ブルターニュ地方の伝統的な食事ではガレットとリンゴで作ったシードルという発泡酒とともに供する。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

城壁に囲まれた堅固な城壁都市/写真転載不可・なかむらみちお  サン・マロの街は全体が城壁に囲まれた城郭都市で、中世の気分がそのまま残っている。壁の向こうに見えるのは、エメラルド色の海。海岸も綺麗で、夏は海水浴を兼ねた観光客も多い。海岸の島にも小さい中世風の要塞が残っていて、海賊の帆船でも出そうな港町である。
 堅固な城郭都市は、海賊たちの根拠地であり、多くの海の男たちを育てた。今は港から海賊船ではなく、イギリスに向かうフェリー・ボートが出入りしている。
 三方を海に囲まれた旧市街は、15世紀の城郭によって陸続きになっている。旧市街は第二次大戦中、ドイツ軍によって焼かれ、一時は廃墟と化したが、見事に復元された。城壁からは片方に海、もう片方には古い町並みと、どこからでも眺めを楽しむ事が出来る。
この地方特産の生カキ/写真転載不可・なかむらみちお  サン・マロはオマールと呼ばれる大きな海老、ブロンというフランス・カキ、ウニなど、海の幸の宝庫である。城壁から降りてから城壁沿いの商店街を流し、店の前にテーブルを構えた一軒のシーフードレストランで白ワインを飲みながら生カキを食べる。その後、ワインとサンドイッチを買って駅へと向かう。
 駅で明日のドル・ル・ブルターニュからTours(トゥール)行きの切符も買って、列車でドル・ル・ブルターニュのホテルに入った。
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  Dol Le Bretagne(ドル・ル・ブルターニュ)
 ドル・ル・ブルターニュの宿にチェックインしてから歩いて20分ほど離れた町の中心部に行って見た。街は結構大きく商店街が連なっているのに驚いた。大きなカテドラルもある。スーパーで果物を、肉屋でハムを買ってきた。モン・サン・ミッシェルでは物価が高く、観光客相手の商店ばかりなので、果物などを買う事が出来なかったが、今夜は豪華な食事が出来る。このハムだって一流レストランでは同じものを安く仕入れて高く売っているのだろう。ワインも買ってきたし、今夜はレストランの雰囲気ではないが食材はレストラン並みに豪華に宴を催す事にする。
 ホテル代は200FFだったが、広い部屋にダブルベッドとサブベッドがあり、椅子が三個もある。一人で使うのにはもったいない。
 ※フランスのワインはどうしてこうも安くて美味いのだろう。サン・マロで買ってドルのホテルで飲んだワインも美味かった。日本の三分の一位の値段で買えるが、どれも美味い。日本で飲むのとどうしてこうも味が違うのか不思議だ。

   7月20日(木) Dol Le Bretagne 10:18-(TGV)13:49 Tours 16:37-17:22 Chinon
ブルターーニュ  トゥール行きの列車の出発は10:18なので朝はゆっくりだ。時間はあるけれど街までは結構遠いので散歩に行くには億劫だ。時間のくるまで部屋で食事をして待つ。
 9時、カードで宿代を支払い、チェックアウト。荷物を引いて駅へと向かう。Rennes(レンヌ)で降りてLe Mans(ル・マン)行きのTGV(高速列車)に乗る。噂に高いフランスが誇るTGVなので大いに期待するが、乗ってみると普通の急行列車とあまり変わりがない。期待はずれ。
 フランスは農業国なので草原を走る列車の窓からは黄金色の麦畑が一面に続いている。時には今が盛りとばかりに咲き誇る向日葵の畑が旅路を楽しませてくれる。
 言葉の壁を乗り越えて予定通り順調に無事ようやくトゥールに辿り着いた。これで全行程の四分の一を踏破したことになる。健康状態は普通。快調(?…薬を飲みながら…)快食快便。
 これまで通って来たところは田舎なので、乗り物の便が悪く、不明な点が多い。列車の接続に一抹の不安があったが、無事予定通り通過、一山峠を超えた感じである。
 フラン紙幣に羽根が生えたように飛んで行く。それと入れ替りにレシートばかりが貯まる。と、いう訳で、極力現金は使わないように心掛けよう。
 たまたま街を歩いている時や乗り換え駅などでもフランス人がフランス語で道を尋ねてくるのは一体どういう訳なのだろう。私はアジア人には見えないのだろうか。(マサカ…)。
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  Tours(トゥール)
 トゥールの駅前に出てみると、ビルの温度計が午後二時頃39℃を示していた。駅前広場は公園のようになっており、モダンな感じである。
 宿はすぐに分かった。このホテルは日本から手紙で予約したのだが、前払い200FFをとられた。チェックインすると、全額前払いさせられた。なかなかしっかりしている。応対してくれた主人は、一見アラブ系に見える。それでしっかりしているのではないかと想像する。思ったよりも料金は高め。
 案内された部屋は以外にも一階の玄関脇にある。窓は道路に面しているので、窓の下を人が通る。外から部屋の中を覗こうと思えば覗ける。部屋からは窓の下を行き交う人の頭が見える。道路脇には車が駐車しており、時折車やバイクが通り過ぎて行く。部屋の中はテレビはないが、まあ普通で、ベッドと洗面所、トイレ、シャワーといったところだが、洗面所に石鹸とコップがないのは不便だ。テーブルはあるが、電気スタンドがない。まあ値段の割には良いとは言えないが、特に生活には問題ない。
 フランス中部にあり、その美しさから「フランスの庭」と呼ばれ1,012qとフランス最長のロワール川流域の一帯は、最もフランス的な地方だ。
 ロワール地方といえば、いうまでもなく古城巡りだ。ヨーロッパで最も多く優雅な古城が数多く残るロワール川流域の地方。中世に築かれた軍事目的の城と、ルネサンス期以後、王侯貴族の住居とされた城館とが混在している。前者ではシノンなどが有名。後者はシャンボールを筆頭に、水の中に浮かぶシュノンソー、典雅華麗なアゼ・ル・リドなど、枚挙にいとまがない。
 天気は快晴。10時の日没には未だ間がある。ボケッと過ごすのにはもったいない。下見を兼ねてシノン城へ行って見る事にする。
 駅に行ってみると、列車は4時35分発と言う。時間があるので駅前のツーリストインフォメーションに行っていろいろと訊いてみる。その後、近くのスーパーで滞在期間4日分の食糧を買い込んで宿に持ち帰る。
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  Chinon(シノン)
 列車は40分ほどでシノン駅に着いた。そこから城までは2qほど歩く。6時少し前、城に到着。一番ポイントにしていた城のタワーは既に逆光だ。明朝に期待して他の所を撮影する。
 シノン城Chinonはロワール川の支流ビェンヌ川に望む丘陵にある。古くからの要害であったが12世紀、イングランド王ヘンリー二世、その子リチャード獅子心王などによってきわめて実戦的な城塞が構築された。
 当時この地方はイングランド領であった。フランス王フィリップ・オギュストの時フランスの城となった。建物は廃墟となったが、1429年、イングランドとフランスが戦った百年戦争の時はフランス軍の基地で、ジャンヌ・ダルクが神のお告げをシャルル七世に伝えたなど数々の歴史的エピソードを秘め、訪れる人は多い。
 平野と丘と川が整い過ぎるほど釣り合いの取れたロアール地方の光景の中で、荒れ果てて、無骨なシノン城だけは異質のものに思えた。
 城の内部には往時の姿を留めるものはほとんど残っていない。辛うじて残された入口左の塔の内部の一部が現在博物館として公開されている。

ジャンヌ・ダルクがシャルル七世に神のお告げを伝えた/写真転載不可・なかむらみちお  ※聖女なのか、狂女なのか。美女なのか、田舎娘なのか。ジャンヌ・ダークに顔がないと言われるのは、彼女の正体があまりに多くの謎に包まれているせいだろう。
 そんな神秘の影が興味をそそるのか、フランス史に登場する人物で最も強い光が当てられているのが、ジャンヌである。同時に、救国の少女としてフランス国民に最も敬愛されているのもジャンヌである。その証拠に、彼女の像は交通の妨げになっている、と皮肉られるほどフランス国内には多い。(「世界の城」北海道新聞編・北海道新聞社発行)。

 この地方は又、ワインの産地でもある。“人はワインを造り、ワインは人を作る”(ラブレー)。ぶどう酒の街シノンの市街地は、城の坂道を下ったビェンヌ川の両側に開けていた。ぶらぶら歩くのが楽しい。人口は七千人足らず。
 喉が渇いた。くらくらする。塔の上から城の裏側を見るとブドウ畑が広がっている。ここシノンの赤ワインは、まろやかでとても美味しい。スミレの香りがする。帰りにそこへ寄ってみる事にする。
城の裏にはワイン畑が連なる。クロ・レコーのブドウ畑とシノン城/写真転載不可・なかむらみちお シノンのワインラベル/写真転載不可・なかむらみちお シノンのワインラベル/写真転載不可・なかむらみちお  城を出て、ワイン畑の正面にあるカーブ(ワインの醸造元)に行くと、もう店じまいする準備をしていた。頼み込んで中に入れてもらい、ぶどう畑越しにシノン城の写真を撮らせて貰った。このカットはいけると思う。そこを出てから再び城の前に戻り、疲れたので水を呑み、持ってきたパンをかじって一息入れた。
 フト汽車の時間が気になり、トゥール駅で貰ってきた時刻表を見ると、最終列車が8時10分で終りだ。あと30分しか時間がない。大急ぎで駅へ向かう。
 駅に着くと列車は停まっていたが、どうも様子がおかしい。客は一人もいない。帰りに只ひとり居た駅員さんに訊いたら、今日はもうトゥール行きの列車はない。バスもないと言う。明朝5時半発まで列車はない。只一つタクシーのみだが、トゥールまで500FF位だろうという。これは困った。
 最終列車は曜日によってある日とない日があるらしい。それを時刻表から読み取れなかったのが失敗の原因らしい。
 道路脇の木立越しに夕陽が差し込み、西の空が茜色に染まっている。已むお得ず再び旧市街に戻り、今夜の安宿探しを始めた。この辺のレストランは大抵階下がレストランで二階がホテルを兼業している。一軒目のレストランに行き、奥のカウンターに居たムッシュに「今晩部屋はありますか? 」と訊ねると彼は無愛想に「Non(いいえ)」と答えた。多分フランス語を知らない外国人を敬遠したのだろう。二軒目は満員だった。三軒目にようやく小さな部屋を一つ確保、80FFで泊ることが出来た。部屋に通されてみると、ダブルベッドが二つとサブベッドがひとつ。トイレ、シャワー、洗面所付きと広々とした部屋で、一人で泊るのは贅沢過ぎるくらいだった。
 夕食はトゥールのホテルを出る前にワインを飲んできたし、城を出てから持ってきたパンをかじったのでなんとか済ませたが、何となく物足りない。それに気温も高かったので階下のBarでグラスビールを一杯飲んで部屋に戻った。しかし、荷物も資料もトゥールの宿に置いてきたので何もやることがない。仕方なく9時過ぎにはベッドに入った。

   7月21日(金) Chinon 11:00-12:13 Tours
 朝方は冷え込んで寒い。泊る積もりで来たのではないのでTシャツ一枚だ。リックの中には他にペラペラのウインドーブレーカーがあるのみ。朝起きて部屋の窓を開けて見ると今日も快晴。8時半になるのを待って街に出て近くのパン屋さんでクロワッサンを3個買い、その店の前の公園のベンチに腰を降ろして食べる。朝日が辺りの木立や青葉の間から木漏れ日が公園のベンチや通りの向こうの商店街に降注ぎ、近くの小枝では小鳥がさえずっている。朝の小公園は未だ人通りも少なく、なんとも清々しい。
ゆったりと流れるヴィエンヌ川の辺に建つシノン城/写真転載不可・なかむらみちお  9時にチェックアウトして橋のたもとへ行く。橋を入れ込んで城を撮影するつもりだ。アングルを探し回っていると一軒の家の前に辿り着いた。家の中に声を掛けても誰も出て来ない。ようやくかなり年を召した女性が杖を突いて出てきた。お宅の庭の川岸から城の写真を撮らせて欲しいとお願いすると、心よく承諾してくれた。その上、その人は親切に今から出かけるから自由に中に入って撮って下さいと言い残して家を出て行った。庭の小道を通って川の縁まで行き、そこから城を撮り、その後城に向かう。
シノン城/写真転載不可・なかむらみちお クロ・レコーの城側畑の入口/写真転載不可・なかむらみちお  昨日逆光で撮影出来なかった城の入口付近に行って撮影した後、昨日ぶどう畑越しにシノン城の写真を撮らせて貰った城裏のカーブ(ワイン醸造元)へ行き、店員の薦めで白ワインLes Chanteaux(39.00FF)を一本買い、それを小脇に抱えてシノン駅へと向かう。
 駅に着いて窓口に訊ねると、11時発のCarがあると言う。その行く先が、トゥールの駅ではなく、フランス語でなんとかと書いてあるのだが、フランス語は分からない。想像ではこれはトゥール駅から少し離れたTGVの駅のことではないかと思った。であればその先はどうしたら良いのか。先ず、トゥールに行けばその先はなんとかなるだろう。時間はあるのだ。
 未だ良く納得がゆかないのでもう一度窓口に行って訊ねてみると、駅前に停まっているバスに乗れと言う。Carとはこのバスの事だったのだ。バスならバスと書けよ。Carは乗用車じゃないかと言ってみても始まらない。
ワイン/写真転載不可・なかむらみちお  バスは定刻にシノン駅前を出発、何のことはないトゥールの駅前のバスセンターに着いた。それならトゥール駅前行きでいいではないか。なんと人騒がせな事。と、言ってもフランス語を読めない私だけがカッカしているだけの話である。無事ホテルに到着。ヤレ、ヤレ。
 ホテルに帰ると宿の主人が私が昨夜帰って来なかったので大変心配していたと語った。スミマセン。この事件のためにこのホテルとシノンのホテル代を一晩で二重に払う羽目になってしまった。奥さんからは部屋に置いてあったレタスの入った袋を冷蔵庫に保管して置いたと告げられた。ご親切にありがとう。
 部屋で食事をした後手紙を書き、それを持って駅のポストに投函。その足で駅前にあるツーリストインフォメーションに行き、日曜日の城巡りツアーの申し込みを済ませる。そこを出てから商店街を流して昨日行った駅前のスーパーに行き、フランスパンを買って宿に帰る。
 宿では資料を整理し洗濯をした後、シノンで買ってきた白ワインと昨日買って置いたチーズ、ハムなどで豪快に夕べの宴を張った。

   7月22日(土)晴れ Tours-St Pierre Des Corps 08:23-09:23 Angers 12:28-13:52 Tours
フランスが誇るTGV/写真転載不可・なかむらみちお  朝4時頃に目が醒めたきり眠れない。6時起床、2日分の顔を洗って髭を剃る。朝食の後、7時頃駅へ向かう。切符を買い、次の駅St Pierre Des Corps(サン・ピエール・デ・コール)へ向かう。アンジェ行きの列車はここから出る。小一時間ほど待った後、アンジェに向かう。その前にボルドー行きのTGVが通り過ぎた。明後日はこの列車に乗ってボルドーへ向かう。良い下見になった。
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  Angers(アンジェ)
 アンジェ駅からは歩いて城へ向かう。ロアール川の支流メーヌ川にそったロアール地方アンジェの町は古い城下町で、この地方の中心でもある。第二次世界大戦の被害を相当受けたために、広い通りには近代的な建物も目立つが、市庁舎近くの商店街には石畳の坂道沿いに古い建物が残っている。
 古くから城郭が在ったが、10世紀にこの地方の領主であったアンジュ伯フルク・ネラが堅固なを築いた。かつてはフランスでも屈指の名城であった。現在もその巨大な城壁と17の太い円塔が残り、これを連ねる城壁の長さは952mにも及ぶ。そして城壁の周囲には幅30mの濠がめぐらされている。まさに敵を寄せ付けない砦である。きわめて戦闘的な城塞で盛時には、ロワール地方でも頑強な城の一つに数えられていた。
 城に着いた場所が丁度撮影に良いポジションだった。太陽光の向きがおよそ一時間ほど早いかなと思ったがとにかく撮影する。
フランスでも屈指の名城であったアンジェ城/写真転載不可・なかむらみちお  この城のフォルムはいつかどこかで見た事がある。そうだ1981年にイタリアのナポリに城の写真を撮りに行った時に一度写したことのあるカステル・ヌーボーにそっくりだ。実はカステル・ヌーボーは13世紀にこのアンジェ城をモデルに造られたのである。
 一応押さえとして城を撮影した後、城の周りをぐるりと一周して又もとのところに帰って来た。ここで再び撮影。今度は太陽の光の角度も具合がいい。撮影を始めるとカメラのコンピュターの具合が悪い。一度テンダーバックの電池を抜いてから再度注入したら直った。このまま順調に作動してくれればいいが…。不安なまま撮影を続ける。
 一通り撮影を終えた後、濠に掛けられたはね橋を渡って城の中に入る。かつて水を湛えていた濠は排水されて今では美しい花壇になっている。
 城の中に入っても特別写すものはないはずだが、ここまで来たからには一応中も見て置かないわけにはゆかない。それにしても入場料が35FFとは高い。
 場内には教会、タペストリーの博物館がある。最大の見ものは、『ヨハネの黙示録』のタピスリー(Tapisserie・仏)だ。
 このような城にも14〜15世紀初頭に掛けて、芸術の彩が加わってくる。アンジェの城に今も残るタピスリーはその頃織られたものだ。モダンな部屋に高さ5m、幅168mもあるタピスリーが掛けられている様は壮観である。『ヨハネの黙示録』を題材にしたこの華麗な壁掛けは、防備の役目しか果たさなかった石の砦を贅沢な住居へと変えていった。
 シャトーの近くにアンジェのワインを売るメゾン・デュ・ヴアンがある。ここでロゼワインを試飲した。料金を払おうとしたら無料だと言う。
 アンジュの白ワインはソフトな辛口、あるいは極辛口で、青味かかった黄金色、爽やかな芳香とスッキリした切れ味を持っている。このワインはロワールの川魚料理や海の魚介料理によく合う。口当たりのいいロゼはアンジュの代表的ワインであり、ロゼ・ド・アンジュは上品なピンク色、円やかな味わいを持つフランス、ロゼワインの代表として定評がある。
 駅に着くと丁度今、トゥール行きの列車が出るところだった。丁度良い。急いでホームを走って駆け込み乗車。と、同時に間一髪で発車。各駅停車の鈍行だったが、この前後にはしばらく列車はないのだからありがたかった。
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  Tours(トゥール)
 列車は真っ直ぐトゥール駅に着いた。列車を降りた後、明後日のボルドー行きの切符を買った。宿に帰り、カメラ機材を置いて街に出る。
 ロワール川とシェール川に挟まれた町トゥール。ルイ11世の時代には、一時フランスの首都が置かれた所でもある。13〜15世紀のステンドグラスや入口にタンパンが見事なサン・ガシアン大聖堂や職人の組合博物館などといったこの町ならではの見所も多く、ロワール古城観光の基点とするだけではもったいないところだ。木組みの家が軒を連ねる旧市街は、織物工業で繁栄していた15世紀頃の町並みの面影を残している。
 アンジェ城を写している時からカメラがトラブリ、だましだまし使っているのだか、どうも不安だ。撮影済みを一本現像して調子をみようと思ってカメラ屋さんに行ったが、どこもリバーサルフイルムは現像して貰えなかった。仕方がないからそのまま途中でスーパーに寄って明日のパンと牛乳を買ってホテルに帰って来た。
 ホテルで今日写した撮影済みのフイルムや領収書などの整理をした後、明日の行動の下調べをする。5時頃から昨日シノンで買ってきた白ワインの残り半分をチーズ片手に飲む。その後ダメ元でホテルの主人に持ってきたインスタントラーメンを煮たいのだがと頼み込んでみた。以外にもOKが出たので、持参の鍋でインスタントラーメンを作って食べた。フランスへ来てから初めての日本料理(?)である。矢張り生まれた時から刷り込まれた日本料理の味のほうが口に合う。美味い。
 台所でインスタントラーメンを作っている時、傍らのラジオがジャポンとか、オキナワ、シラクなどと言っていた。多分沖縄サミットのニュースを伝えているのだろう。
 食後、日記を付けるが、外は未だ明るく、8時前だ。寝るのには早過ぎる。間が持てない。もうやることがない。どうしよう。
 明日は午後から城巡りのツアーバスに乗る事にしている。

   7月23日(日) Tours-城巡り-Tours
 今朝も早めに目が醒めた。今日は日曜日なので、教会にミサに行く人がいるだろう。昨夕8時に聞こえた近くの教会の鐘の音が鳴るはずだ。それまでに朝食を済ませて教会の前に行き、鐘の音を録音しに行こう。
 8時に合わせて教会の前に行ったが、扉は閉まっており、誰も訪れた様子がない。仕方なくその付近を散歩してから宿に帰る。
 9時過ぎ、突然その教会の鐘の音が鳴り出した。急いで録音する。今朝初めて宿のおばさんからお湯を貰ってインスタント味噌汁を飲んだ。美味かった。日本人だなー。今日は午後1時出発のロワール河畔城巡りツアーに参加する予定だ。それまでは何もすることがない。明日の出発に備えて荷物などを整理する。
 昼にラーメンを作って食べる。ひと袋買ったレタスが余っていたので試しに鍋の中に入れてみるとこれが以外に美味かった。レタスは今迄生でしか食べたことがなかったが、新たな発見である。
 ツアーの集合場所である駅前のツーリストインフォメーション前に向かう。1時10分前迄に来るように言われていたが、20分前に着いてしまった。しかし、言われていた黄色いマイクロバスはあるが運転手は居ない。彼が来るまで待つ事にする。手続も終って1時丁度、バスは発車した。総勢7人の満員だ。
 ツアーのコースはヴィランドリー城から始まってアゼ・ル・リド城、ユッセ城、ランジェ、リュイヌと回る。
幾何学模様の広大な庭園が美しいヴィランドリー城/写真転載不可・なかむらみちお  先ず、ヴィランドリー城に着いた。この城はロワール地方、トゥールの町からロワール川沿い約15qにあり、16世紀前半に建てられた城館。この城を有名にしているのは、城ではなく幾何学模様の広大な庭園である。最上段の水の庭園、中段の装飾樹木庭園、それに装飾菜園の三つで構成されており、テラスや塔から庭の全景を眺める事が出来る。
 今日は朝から曇り空であまりパッとしなかったが、午後からはなぜか蒸し暑く、日本を思わせるような気候だ。
池に華麗な姿を映すアゼ・ル・リド城/写真転載不可・なかむらみちお アゼ・ル・リド城の内部/写真転載不可・なかむらみちお  次に訪れたのはアゼ・ル・リド城。ロワール地方、トゥールの西南約25qのところにあり、1529年に造られた。この城はアンドル川のほとりに佇むルネサンス風の美しい建物で“ロワールの真珠”の別名を持ち、中世風の塔を伴ってはいるが、戦いのための備えはない居館である。城館を取り囲む小さい濠、広い庭園を流れる川、林泉の美をも兼ね備えた城である。華麗だけれど出しゃばらず、ひっそりとしているけれどこの上なく美しい館。側の池に姿を写している姿は有名だけれど、それはまるで優雅な女性が手鏡に映る自分から目を離せない様子に良く似ている。
「眠れる森の美女」が住むというユッセ城/写真転載不可・なかむらみちお  三番目に訪れたのはユッセ城。ロワール川から分かれたばかりの、アンドル川支流のほとりに建つ。城としても美しいけれど、この城が特に有名なのは、シャルル・ペローの童話『眠れる森の美女』のモデルとなったためである。アンドル川越しに見る城が素敵だ。
 初め、ユッセ城は入っていないと思っていたが、外観だけでも見れたので満足した。城の写真は外観が主なのでこれでいいのだ。
 ランジェは、ロワール川右岸、トゥールの町から西約25qにあり、城の起源はローマ時代にさかのぼる。現在残っている実戦的な城塞は、ルイ11世が1465年から五ヵ年の歳月を掛けて築いた。フランスの城塞の全貌を良く伝える遺構として知られ、城の各部分の戦闘機能を見せている。
 ランジェ城を見終わった頃から雨が降って来たが、車が走り出すとやがて止む。
古風な円搭に囲まれたリュイヌ城は個人の所有。この地区はワインの本場/写真転載不可・なかむらみちお  最後に立ち寄ったリュイヌは ロワール川右岸。トゥールから西に10qたらず、城の外観は村を隔てた丘の上からの眺めが良かった。ブドウ畑の向こうにスクッと建った城を見てなぜか感激した。思いもよらぬ拾いものであった。
 城は13世紀に始まる城塞である。古代風な円搭に囲まれた建物は、現在では、内部は居館風に改造されていて、私的に使用され、一般には公開されていない。
 トレーヌ地方のほぼ中央にあるこの地区はロワールのワインの本場でもあり、城の周辺にもブドウ畑が多い。又、この辺りはローマ時代の基地でもあり、水道の遺跡も残っている。
 ひと通りコースをめぐり終えて、バスは出発地のトゥール駅前、ツーリストインフォメーション前に6時に無事戻って来た。
 夜8時頃から雨が降ってきたが、9時過ぎには止んだ。明朝はボルドーへ出発だ。

   7月24日(月) Tours 07:45-(TGV)10:29 Bordeaux
 早朝の列車でボルドーへと向かう。今朝は曇り空。朝方は結構冷える。トゥール駅から隣のSt Pierre Des Corps駅へ向かう。ホームで30分ほど待ち合わせてボルドー行きのTGVに乗り込む。列車は空いていた。TGVには先日RennesからLe mane迄乗っているが雰囲気は急行列車とあまり変りはない。
 列車は快調にボルドーへと向かう。ボルドーの宿の位置が分らないので地図で調べるが分からない。ボルドーの駅の中にインフォメーションがあるからそこで訊けばいいだろう。
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  Bordeaux(ボルドー)
 列車は予定通り、ボルドーに着いた。途中僅かばかり雨が降っていたが、ボルドーに着いた頃には晴れ間も出てきた。
 駅構内のインフォメーションで宿の場所を尋ねたらすぐに分った。荷物を引き摺っておよそ10分程でホテルに着いた。
 チェックインを済ませたが部屋は3時にならないと入れないという。やむなく荷物を預かって貰って街の中心部へバスで行く。
 ローマ時代から良港を持つ町として栄え、一時はイギリス領になったこともあるボルドー。フランス革命の引き金となったジロンド派を生み出したり、長い歴史を物語るかのように黒ずんだガロンヌ川沿いの町並み。新旧さまざまな話題はあるが、やっぱりボルドーの魅力と言えばワインに尽きる。
古典様式で有名な大劇場/写真転載不可・なかむらみちお  ボルドーの中心はカンコンス広場からアキテーヌ門に通じるサント・カトリーヌ通りを挟む地域だ。駅から中心街までは徒歩で約30分。駅前から7番のバスに乗り、コメデイ広場で降りる。重厚な建築に目を奪われる。広場で最初に目に入るのは、正面の柱の上に12の女神像が並んだ大劇場だ。大劇場を背に右へ進んだ二本目の通りの角にインフォメーションがあり、その向いは「ワインの事なら何でもOK」のメゾン・デュ・ヴァン・ド・ボルドーだ。地図を頼りに少し歩いたらすぐ分かった。インフォメーションで水曜日のサンテミリオンのシャトー(ワイン醸造元)めぐりのツアーを申し込んだ。メゾン・デュ・ヴァン・ド・ボルドーにも行ってみたが、どうということはない。トイレを借りて出てきた。
 大劇場と反対方向には面積12万uと言う、広大なカンコンス広場がある。19世紀の古城があった場所にできたこの広場はヨーロッパで最も広い。西端にはジロンドの記念碑が、南北に『随想録』の著者モンテーニュと、ボルドー生まれの政治思想家モンテスキューの像が立つ。
ワインラベル/写真転載不可・なかむらみちお  広場の帰り道、インフォメーションの近くのワイン店でワインLa Croix-Davids(46.00FF)を一本買った。サント・カトリーヌ通りをブラブラと駅の方に歩いて引き返して来た。途中の菓子屋で日本の女性を中心にお馴染みになったボルドー生まれの名物菓子“カヌレ”を試しに一個買って食べてみた。日本のういろう(外郎)を丸くして油で揚げたような感じで、外側のパリッとした皮と、内側のねっとり感は、独特の口当り。ラム酒を使った甘さが口の中に広がる。レストランではデザートとして登場するが、テイクアウトできる店もあるので、ボルドーっ子は朝食やおやつに気軽に食べている。町のそこここで目にすることが出来る。
 途中のスーパーマーケットに寄り、滞在期間3日間の食料を仕入れてきた。結構重かったが、時間に任せてブラブラ宿に向かった。宿の近くには2時半頃に着いたが、部屋に入れる3時には未だ間があるので宿の前の公園で時間待ちをした。
 3時過ぎ宿に入り、部屋に通される。何時ものように大きなベッドとテーブル、洗面所、シャワー、テレビがある。トイレは部屋の外にある。小奇麗だし料金にしては先ず先ずだ。
 先ず、荷物をかたずけ、領収書と買物帳を整理、一応資料に目を通した後、友人のH君とNさんに手紙を書く。5時になったのでワインを一杯やった後、食事を終える。この後、シャツとTシャツ、靴下を洗濯する。
 蒸し暑い。部屋の中に蚊が飛んでいる。よくみると前に泊った人が蚊を捕らえたらしく、白い壁のあちこちに蚊の残骸がへばり付いている。私も数匹退治したが、どうやら窓から入ってくるらしい。蒸し暑いが、仕方なく窓を閉め、日本から持ってきた蚊取線香を焚く。早くもこんなところで蚊取線香のお出ましとは思ってもいなかったが、持ってきて良かった。数に限りがあるので、この先足りるだろうかと心配だ。
 8時半頃になって、部屋の中も薄暗くなってきた。テーブルの上のランプは極端に暗く、文字を書いたり読んだりするのには一寸厳しい。急いで日記を書き終わる。
 あしたの予定は特にない。街も一通り見てしまったし、どうしよう。

   7月25日(火) Bordeaux
 朝方一時激しく雨が降った。今日の行動予定は特にない。暇だから街の中心にでも行って食料品を買いがてら散歩でもしようかと思っていたが、一日中雨が降るなら部屋に籠もろうと思う。そうこうしている内に雨が上った。再び思いなおして街へ出かける事にした。東の空は少々明るくなってきた。
 9時半頃街の中心部に向かって散歩に出かける。先ず、アキテーヌ門を撮影する。その後、大鐘楼を目指して進むがなかなか見つけられない。実はもう街の地理感は大体頭に入っていたので地図を持ってこなかった。街角の開店準備をしているBarの主人に尋ねてみた。言葉は通じないが、大鐘楼のイメージの絵を描いたら分ってくれて教えてくれた。その大鐘楼はメイン道路から入り込んでいてかなり分かりにくい路地にあった。
 大鐘楼の角を左に周るとサンタンドレ大聖堂が見えてきた。大聖堂の向かいのペイ・ベルラン塔の周りを一周して入口を見つけ、中に入った。入場料は25FFとやや高めだ。急な石の狭い螺旋階段を登って頂上に出る。ここからボルドーの街が一望に見渡せた。今来た大鐘楼、ガロンヌ川、そこに掛かるPont de pierre橋。左に目を移すと、昨日行って来たカンコンス広場にあるジロンドの記念碑、昨日列車でボルドーに着いた時に見えたその先の橋まで見渡せる。余り興味はないのだがついでに隣のサンタンドレ大聖堂の中も見てきた。コメディ広場まで行き、大劇場の全景を撮影する。
 この後、メゾン・デュ・ヴァン・ド・ボルドーへ行き、ピカソやダリ、シャガールのワインラベルはどこで見られるか訊ねてみた。すると、向かいや道路を隔てたワインショップで見られると言う。向かいのワインショップは昨日ワインを一本買った店だ。この周辺で有名なワインショップと言うとLentendant(ランタンダン)かBordeaux Magnum(ボルドー・マグナム)だ。私はボルドー・マグナムへ行ってみた。
ピカソとカンデンスキーがラベルに絵を描いたワイン。右がカンデンスキー、左がピカソ/写真転載不可・なかむらみちお  「ピカソのラベルを見せて下さい」と言うと、男の店員さんが快く見せてくれた。木製の箱に表面ガラス張りした中に数本のワインが収まっていた。その中にピカソとカンデンスキーが描いたラベルがあった。いずれも超人気の2大シャトーの一つ、シャトー・ムートン・ロートシルド(Mouton Rothschild)のものだ。ピカソのラベルのワインは1990FF、日本円にして31,840円程になる。カンデンスキーのは2150FFで同じく日本円にすると34,400円程の値段が付いていた。四合瓶程のワイン一本の値段だ。一体どこのどなたがこんな高いワインを飲むのだろうか。私のような貧乏人には理解が出来ない。きっとフランスには昔、公爵とか伯爵とかいう大金持ちがいるそうだから、きっとそういう人々が見栄で買って行くのではないだろうか。そして客に見せびらかせて飲ませるに違いない。(貧乏人の僻みか?)。
 「写真を撮ってもいいですか」と訊ねると、どうぞという事だったので箱は動かさず、箱の表面のガラスにも充分注意して数枚撮影する。写真を写すだけならどうということもないのに何故か手が震える。写し終わってからその店員さんに御礼を言い、持ってきたチップ代わりの日本製煙草を一箱差し上げた。
 その店を出てカンコンス広場に行ってみると、昨日は何もなかった広場にステージが設けられ、箱型の大型スピーカーがたくさん並べられ、ガンガンとロック音楽を鳴らしていた。きっと何かの催しがあるのだろう。しかし、今日は火曜日なんだけれどなぁ。広場の隅にあるジロンドの記念碑を写してから宿の方に帰る。
 帰り道に昨日ワインを買ったインフォメーションの隣のワインショップに寄って同じようにピカソ、ダリのワインラベルがあるかどうか訊ねて見た。すると若い男の店員が案内してくれて額縁に入った多数のラベルの中から、ピカソとダリのラベルを指し示して教えてくれた。ここでも写真を撮っても良いかと訊ねると目配せしてこっそり撮っても良いよとゼスチュアで示してくれた。
売り子がくれたカヌレの日本語パンフレット/写真転載不可・なかむらみちお  この後、コメディー広場からアキテーヌ門までの1.5qとフランスで一番長い歩行者天国のサント・カトリーヌ通りをブラブラと散歩し、途中のデパート前で売子が売っているカヌレを一つ買った。写真を撮っても良いかと訊ねたら私のカメラで私を写してくれると言うのでお願いした。その上、日本語で書いたカヌレの説明書までくれた。
 そのデパートのスーパーマーケットでハムと水と果物、パンを買って再びサント・カトリーヌ通りをぶらつきながら宿へ向かった。
 1時頃アキテーヌ門を通り、Cours de la Marne通りに入り、もう少しで宿に着くという直前、猛烈な雨が降って来た。デパートを出た時からかなり暗くなり、ひと雨来るなとは思っていた。昨日は小雨の通り雨程度で済んだので今度もその程度と思っていたが思ったよりも激しく、今年になって経験したこともない大降りとなった。仕方がないから道路脇のビルの軒先で雨宿りをした。雨足が舗道に激しく水飛沫を上げる。おまけに雷まで光ったり鳴ったりした。どうせ急ぐ身じゃなし、ゆっくりとにわか雨を鑑賞した。雨は30分ほどで止み、小降りになったので歩き出したら向こうから道路脇に寄って来た車に水飛沫を掛けられ、ズボンの裾が濡れてしまった。飛んだ災難だ。
 2時頃宿に辿り着き、部屋に入ってみたらベッドは朝起きたまま。メイドさんが入った様子はない。今日一日の整理をしたり、日記を書き始めていたらメイドさんが来てベッドメーキングと洗面所のタオルを変えたりしていった。二、三日滞在の場合は時々全くメイドが入らない事もあるので、ここもそうかと思ったのだか違っていた。ここは3時頃に入るようである。それで昨日チェックインした時も3時まで待たされたわけなのだろう。
 4時になったのでワインを飲むことにする。明日はいよいよ楽しみにしていたサンテミリオン行きのワインツアーの日である。いよいよ本場ボルドーのワインを味わう事にする。昨日コメディ広場で買ってきたワインのお出ましである。
 フランスで名実ともに産出量の意味でも名洒の産地はボルドーである。したがってボルドーは世界一の名ワインの産地ということになる。
 ボルドーはフランス南西部を東から西に流れるガロンヌ川とドルドーニュ川が、ボルドー市の北で合流し、ジロンド川となって大西洋に注ぐあたりの一帯である。ボルドーのぶどう畑は11万5,000ヘクタールの広さがあり、それはほぼ21の地区に分かれている。
 緩やかな起伏の台地の斜面にはブドウが密生し、大西洋岸の強い日光に育まれて成熟したワインがつくられている。

インフォメーションの前にはワイン樽を積んだ馬車が停まっていた。昔はワインを運んでいた馬車だが今は観光用/写真転載不可・なかむらみちお  ※世界でワイン造りに励む国は少なくなく、名酒の数もあまたある。しかし、量と、ことに質の点となると、フランスは他の国に追随を許さない。そのワイン大国フランスでは昔から銘醸の地として名高いボルドーとブルゴーニュがある。この二つの地方は、世界のワインの最高峰と目される極上物を頂点に、中級から下級に至るワインを産出している。これら二つの地方はその赤ワインのタイプが際立った対照をなしていて、「ワイン」その物の指標的存在となっている。
 ブルゴーニュとボルドーの外見上の違いは、ボルドーの瓶は怒り肩ズン胴で、ブルゴーニュはなで肩腰太である。彼がブルゴーニュで、彼女がボルドー。竹でも割ったようにさっぱりして、しつこくないという意味では、ブルゴーニュの方が男らしいし、一方、ボルドーのしなやか、きめが細かい点が女性的と言われている。
 ボルドーとブルゴーニュを比べると、ブルゴーニュでもボージョレのような例外もあるし、ボルドーにもボルドーのブルゴーニュと呼ばれるサンテミリオンなどがある。
 色…ブルゴーニュは明るく澄んだ鮮紅色。ボルドーは同じワインカラーでも濃い暗紫赤色で、グラスの底が見えないほど濃いことがある。
 香り…ブルゴーニュは発散型、ボルドーは内向型。ブルゴーニュの逸品ともなると、グラスに顔を近付けるとクラクラするほど強い芳香が鼻から頭まで駆け上る。それでは、ボルドーの香りが弱いかというと決してそうではない。ブルゴーニュの香りは強烈・直裁・軽快・単純なところがあるが、ボルドーの方は温和・渾然・重厚・複雑である。ブルゴーニュも極上クラスになるとその芳香は複雑・精緻なものになるが、なんと言っても複雑かつ微妙な点ではボルドーに軍配が上る。
 味わい…ブルゴーニュとボルドーを味覚の点で特徴づけようとすれば、決め手は酸味と渋みとの違いと言う事になる。
 先ず、ブルゴーニュについていえば、飲んだ時の酸味の爽やかさにある。丹精して磨き上げられた極上物を口に含めば、実に快い酸味が口中に広がる。そして滑らかに喉を過ぎた後でも、その余韻がこだまの如くいつまでも口の奥と喉まで響き、その爽快さは例えようもない。ブルゴーニュは酸味の良さが持ち味であるということは、同時に渋みがそう強く表に出ないことを意味している。
 ボルドーはボデーが実に豊かで、均整がとれ、優雅でしかも微妙かつ精緻である。ずっしりと舌の上にまとまるように重厚で、ものによっては飲み手を圧倒するように威風堂々としている。このボデーの豊かさ複雑さが口の中にひろがり、それが複雑な芳香と相まったとき、ボルドーならではの陶酔の世界に引き込まれるのである。(山本博著「ボルドーとブルゴーニュ」・「世界の名ワイン辞典」講談社)

 ワインを嗜む為には、先ず、ワイン・グラス選びが重要である。コップで飲んだのでは身も蓋もない。ワインには、それぞれ適した形のグラスがある。グラスの形や大きさによって、ワインの味わいが違ってしまう。
 グラスは、足が付いたチューリップ状の、いわゆるワイン・グラスを使おう。チューリップ状がいいのは、香を集めて楽しむためである。グラスには、出来るだけ凝りたいものだ。たとえ、普通の安いお酒でも器が良いと何か幸せな気分になる。これだけは贅沢してクリスタル・グラスを使おう。出来るだけ単純で、無色のものがいい。ワインの色を楽しむためには、華やかな色彩のヴェネチア・グラスや、過度にカットのあるものなどは、避けたほうがよい。
 ブルゴーニュワインは、さわやかな酸味が特徴。一方、ボルドーワインは、程よい渋みが持ち味。ワインの味や香りとグラスの形には関係がある。グラスの縁の形が、味わいに大きな影響を与える。
 ワインを飲むとき、グラスの縁と下あごは、ほぼ直角になる。反り返りのないグラスでは、ワインはいったん、口の前の方に留(とど)まってから、全体に広がる。ボルドーワインの特徴=渋みは、ゆっくり味わうとおいしく感じられる。一方、反り返りのあるグラスで飲むと、顔が少し上を向く。ワインは、細い流れとなって口の奥まで一気に届く。こうして味わうと、ブルゴーニュワインの酸味を心地よく感じることができる。しかし、このグラスでボルドーワインを飲むと、渋みが強くなりすぎる。このように、ちょっとした形の違いが、同じワインでも、味わいを変えてしまう。こうしたグラスを使いこなすことで、ワインの持ち味をフルに楽しむことができる。
 さて、いよいよこの銘柄を飲みほすことにしよう。瓶の口元をグラスから少し離して静かに静かに、注ぎ込む。急いではいけない。折角いとおしんで休ませていたワインがビックリして、味を落としてしまう。注ぐ量の目安は、一番ふくらんでいる部分の少し下。注ぎ終わったら、おもむろにグラスを取り上げる。折角冷やしたお酒を手の熱で温めないよう、グラスの本体ではなく、足の部分を持つ。先ずワインの色をチェックする。続いてグラスを鼻に近づけて、香を楽しむ。そして、クルクル回して… うん、全然違う。発展する香りがある。たっぷり注いじゃうと、グラスが回らない。ちょっと少なめが、見た目にも美しい。こうしたグラスを使いこなすことで、ワインの持ち味をフルに楽しむことができる。
 色と香を充分に味わった後で、いよいよグラスを口に近付け、静かに飲み込む。しばらく口に含み、舌のいろいろな部分で味を楽しむ。ワインに“生きる喜び”を見出すことを知っている人間だけが持つ、至福のひと時である。その横でバロックかモーツアルトの調べが静かに流れていれば、もう何も言うことはない。バッカスに乾杯!明日はどんなマドンナに逢えるかを夢見ながら…。
 名前は忘れたが、ギリシャのある哲学者は「一杯目のワインは友好のため、二杯目のワインは愛と歓びのため、そして三杯目のワインは深い友情のため」と言った。
 飲み終わった瓶のラベルは剥がして、裏にそのお酒を買った店と日付、飲んだ日と場所、一緒に飲んだ人々、そして感想などを記しておくと、今後の参考になる。
 ウーン、これがボルドーの味か。デパートの食品売場で買ってきたチーズにも同じような癖がある。
 言葉の分からないテレビを見るともなく眺めていると、突然画面が切り替わり、フランスが誇るコンコルド機が火を吹いて墜落した画面を放映しはじめた。どういう訳か分らないがこれは実写でありニュース速報らしい。

 ※フランス・パリのシャルル・ド・ゴール空港からアメリカ・ニューヨークに向けて離陸した世界唯一の商業超音速旅客機であったエール・フランス4590便コンコルドは離陸直後から主翼が炎上し、緊急着陸のため近くの空港に向かおうとしたがコントロールがきかなくなり、離陸から2分後にシャルル・ド・ゴール空港から南西約6km離れたバルドワーズ県ゴネスにあったオテルイッシモ(ホテル名)の別館レストラン付近に現地時間午後4時44分に墜落した。この事故により乗員9名、乗客100名の搭乗者109名全員と墜落現場付近にいた4名のあわせて113名が死亡し、10名以上が負傷する大惨事になった。この様子は複数の人物が炎を上げながら離陸する事故機の姿を撮影しており、大きく報道された。
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   7月26日(水) Bordeaux-St.Emilion-Bordeaux
サンテミリオン  今日は待望の全日サンテミリオンへシャトー巡りツアーに行く日だ。窓を開けると今日も曇り空で湿度が高い。東の空には雲の切れ間から薄っすらと赤みが射している。
 9時20分、集合ということなのですこし早めの8時半に宿を出て市内バスで中心街にあるインフォメーションに向かった。
 9時少し前に着いたが未だインフォメーションは開いていない。9時になって開店。ツアーデスクに行って名前を告げる。8時20分にバスがビルの横に来るからそれまで待てという。20分過ぎに大型バスが来てツアー客が乗り込む。総勢16人。日本人も女2人と男1人が居た。
 バスはインフォメーションから1q程離れた所に停まり、そこから歩いてワイン博物館に向かった。路地を入った分りにくい普通のビルにワイン博物館があった。薄暗いトンネルのようなところに案内された。どうやらワイン用の樽を造る工程を見せているらしい。ガイドのおばさんの説明が長い。二階に上ると瓶詰め工程や写真、ワインラベルなどいろいろな資料が展示されていた。ガイドのおばさんの話がなかなか学問的で詳しく、長いので二時間ほど掛かってしまった。
 外に出ると空が晴れて快晴の青空となっていた。ワイン博物館を出てから再びインフォメーションの方向に延々と街の中を歩かされた。途中左手にカンコンス広場のジロンドの記念碑が見えた。どうやら昼食に行くらしい。
 しばらく歩いた後、インフォメーションの西500m程のトゥルエ広場から路地に入った19.rue Hugvrieの「Bavd et Millet」というレストランに行き着いた。
試飲したワイン。飲み放題/写真転載不可・なかむらみちお  店内の前半分はびっしりとワインが並んだワインショップで、その奥にはテーブルが並んでいる。各テーブルには二本づつワインボトルが配られ、早速ボルドーのChateau de Aubradeという銘柄を賞味してみた。ウーンこれがボルドーの味か。良く分からないがとにかく美味い。飲み安い感じだ。もう一本も味見する。こちらは先のよりも少し味が濃い感じだ。
鴨料理/写真転載不可・なかむらみちお  郷土料理を食べ、その地方のワインを一緒に飲めば、フランスを直接、感じることができる。先ず、前菜に当る物が出てきた。白い平らなチーズにソースを掛けた物。次がいよいよ本番の鴨料理である。柔らかくて美味しい。付合わせがプチトマトとレタスとフライドポテト。フライドポテトは柔らか過ぎる。
 この後、リンゴのタルトとコーヒーが出た。その間に地下室にはいろいろなチーズがあり、それをデザートとして自分で切って皿に盛り、持ってくる。つまりチーズのバイキングだ。青カビや、カマンベール型など固いのや柔らかいの。あっさりした味、癖のある味と香りなど、いろいろある。
 壁にはピカソが描いたというワインラベルの原画(複製?)が額に入れて飾ってあった。店の主人に頼んでそれを写させてもらうとわざわざ壁から外して店の前の明るいところまで持ち出して写させてくれた。お礼に日本から持ってきた煙草と五円玉をあげた。その他にピカソとダリの描いたワインラベルも額に貼って飾られていた。それも撮影した。
 午後2時前、店を出てバスの停車している広場へと向かう。バスにはすでに別の客が乗っていた。多分、午後のサンテミリオン行きのツアーの客であろう。われわれが乗り込んだところでバスはサンテミリオンへ向かって出発した。満員である。
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  St.Emilion(サンテミリオン)
 ボルドーはほとんどが平野で、サンテミリオン地区だけが丘陵である。ここはローマ時代からのワイン造りの地区である。そのワインの香味の力強さのために、ボルドーのブルゴーニュとさえいわれている。
Chateau Laroze/写真転載不可・なかむらみちお ズラリと並ぶ木製の樽/写真転載不可・なかむらみちお 試飲/写真転載不可・なかむらみちお ワインラベル/写真転載不可・なかむらみちお
 バスはブドウ園に囲まれたサンテミリオン郊外の一軒のシャトーChateau Larozeに入った。ワインシャトーに行きたくてここまでやって来た。シャトーに着くとオーナーらしい人が出迎えてくれて説明してくれた。その後、ワイン工場に入った。工場の中は大型ステンレスタンクが立ち並び、その前にワインが詰められている樽の積み重ねられた倉庫の中などを案内してくれて説明を受けた。この後いよいよ待望のテスティング。オーナーみずからグラスに赤ワインを注ぎ、ツアー客のひとり一人に手渡してくれた。良く分らないが、味はいい。日本人客の女性が、寝かせ方が足りないと言っていた。サンテミリオンのブドウ畑は、赤ワインしか産出せず、力強く、トリュフを思わせる香りで、濃いガーネットの色合いを持っている。
サンテミリオン/写真転載不可・なかむらみちお 教会の回廊跡で飲むワインは中世の香りが漂う/写真転載不可・なかむらみちお  バスはサンテミリオンの街の中に入り、そこで一時間の自由行動となった。湿度が高く、かなり蒸し暑い。Tシャツ一枚であちこちと被写体を求めて歩き回る。汗びっしょりだ。
 サン・テミリオンSaint Emilionは、聖人エミリオンにより発展した街。ワインにも同じ名が付けられている。ブドウ作りの歴史は古く、3世紀にローマ人が初めて訪れ、4世紀にやってきた“ブドウ造りの詩人”がブドウ造りを広めたという伝説が残る。
サンテミリオン/写真転載不可・なかむらみちお  サン・テミリオンはガロンヌ川をはるかにのぞむ台地上にあり、その中心はサン・テミリオンの町だが、ここには石畳の細い坂道の両側に、中世の時代から残る重厚な石造りの建物がひしめき合っている。それらを見下ろすように町を囲む城壁の一部と13世紀の城の名残りのトゥール・デュ・ロワ(王の塔)があり、秋の収穫の開始はこの上から命令されることになっている。
 小さな町とはいえ、あっと言う間に一時間が過ぎてしまった。お土産店などを覗いて見る暇はない。やっと通り掛りの店でサンテミリオンの名の入ったボルドー型のグラスを一個買い求めた。
 時間ぎりぎりである。大急ぎで先ほどバスを降りた集合場所に向かう。方向は合っていた。10分前に着いたが、未だバスは来ておらず、客も数人しか集っていなかった。やがてバスが来て、5時半過ぎにボルドーに向かって出発した。
 ボルドーのインフォメーション前に着いてから、昨日ピカソのラベルの貼ってあるワインボトルを写させて貰った近くのワインショップ、Bordeaux Magnum(ボルドー・マグナム)に向かった。昨日は三脚もストロボも持ってゆかなかったので、もう1度確実に写し直しさせてもらうためだ。その為に接写リングも用意して持って来た。
 朝、バスの出発前に時間があったから写す事も出来たのだが、インフォメーションの話ではワイン博物館に行けばピカソもダリもシャガールのラベルもあるという話だったので期待していたのだが、ワイン博物館には無かった。それで再度訪れたわけである。
 店内に入ると、昨日応対してくれた店員さんが笑顔で心良く承知してくれた。先ず、彼に日本から持ってきた煙草を差し出してから店内で三脚を立て、撮影した。ストロボでも撮影した。一寸条件が難しい撮影だったがどうにか一枚だけでも使えるのがあれば良い。
 撮影を終えてから昼に食事をしたレストランの全景写真を撮りに向かった。実はレストランを出る時に写すつもりが忘れてしまったのである。大体の店の場所は分っていたのでカンで向かって行くと目指す広場があり、路地を入ったところにある店もすぐに分った。7時過ぎだったが、何故か店は閉まっていた。
 そこから歩いてホテルへ行くバスの停留所に向かった。なかなか探し当てられない。この辺は一方通行になっているのでホテルから来る時と道路が違うのである。ようやく探し当ててホテルに帰る。
 喉はからから、汗はだらだら、腹はぺこぺこ。シャワーでも浴びてから夕食にしたかったが、その前に駅へ行って明日出発する時の駅周辺の状況の下見と、列車の切符を買わなければならない。列車の時間も調べなければならない。それにしても腹が減った。1リットルのペットボトルの水を半分程一気に飲み、昨日飲み残したワインで手早く夕食を済ませる。その後駅へ行って切符を買う。
 宿に帰って来てからも今日写したフイルムや資料の整理などで10時頃まで掛かった。10時過ぎにようやくシャワーを浴びて寝た。テレビなど見る余裕などはない。
 トイレがうるさい。このホテルのトイレは部屋の外にあり、同じフロアーの人たちが共同で使うようになっている。しかもそのトイレが私のベッドの枕元の壁一つ隔ててあるからたまらない。誰かが使う度に凄い音がする。夜中でも使われようものなら、その音で目が醒めてしまう。昨夜は猛烈な下痢をした人が居たらしく、夜中に何回も頻繁に通われたのには参った。

   7月27日(木) Bordeaux 08:26-12:14 Carcassonne
 今朝も空は雲に覆われている。昨日の午後は晴れたのに不思議だ。蒸し暑くてあまり良く眠れなかった。4時には目が醒めてしまい、その後は寝られない。
 6時に起きて顔を洗い、7時に近くの朝市に行ってフランスパンを一個買ってきて朝食を済ませた。7時40分にチェックアウトして駅に向かう。
 フランスの城を見る上でどうしても行かなければいけないのにカルカソンヌがある。駅の表示板でホームを調べてホームに行くと、列車はもう入っていた。列車は快調にトゥールーズへと向かう。トゥールーズは、今ではフランス航空工業の目玉「エアバス」の生産基地である。コンコルドもここで造られた。そして内陸部のペリゴール地方はトリュフやフォワ・グラを初めとする美食の数々が人々を魅了する。洞窟の壁画で有名なLascaux(ラスコー)もこの近くにある。Cahors(カオール)はヴァン・ノワール(黒いワイン)の名で永年親しまれている赤ワインの名産地であり、アベロン県のロックフォール・シュール・スルゾン村は青かびチーズの王様、ロックフォールの原産地である。
 途中、Moissac(モワサック)辺りから空が晴れて快晴となってきた。この調子でカルカッソンヌも晴れている事を祈る。
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  Carcassonne(カルカッソンヌ)
 カルカッソンヌ駅前にインフォメーションの出先があった。そこでホテルを訪ねるとすぐに分った。
 ホテルのフロントにはレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『モナ・リザ』の絵のモデルのようなお嬢さんが応対してくれた。
 このホテルには2泊しか予約していなかったが後で予定を変更して3泊する事にした。延泊は着いてから申し込んでもいいだろうと高を括っていたが満員だと言われた。やむなく他のホテルを探してくれるように依頼する。
 通された二階の部屋は道路側だったが、なかなか広くて綺麗で良い部屋である。中でも驚いたのは陶器製の大きな風呂がある事だ。この旅の中では初めての風呂で大変ありがたい。これで一泊185FFとは安い。
 今日のカルカッソンヌは雲一つ無い快晴だ。雲一つない空は欲を言えば写真的には今ひとつ物足りない。明日の天気はどうなるか分らないので大急ぎで城の撮影に出かけた。
 南フランスのラングドック。もうスペインとの国境ピレネー山脈にも近いところ、城郭は緩やかな斜面を流れるオード川に沿って丘上にある。厳しくも美しいその眺めは「カルカッソンヌを見ずに死ねぬ」と言われるほどだ。
 あまり交通の便がよくないため、日本人はさほど行かないが、カルカソンヌはフランスでも典型的な城郭都市であり、またその遺構を最もよく残している。
 カルカッソンヌの街は、駅の前あたりがヴィル・バース(低い町)と呼ばれた13世紀に出来た市街だ。それを抜けると市内を流れるオード川があり、川の向こうの丘の上に城壁をめぐらした旧市街シテいわゆる城下町がある。城壁の中にある民家も昔のままに保存され、今でも1,000人ほどの人が住んでいる。
 オード川のほとりに出ると急に視界が開け、城壁とあまたの塔が、黒々とした姿を現した。亡霊の棲む幻の城を見上げているような想いがした。建物を勝手に造り直したりすることが出来ないので、町は中世のままだ。現在はこのラ・シテと呼ばれる古い城郭都市はそのまま保存され、公開されている。
 城が見えるオード川の岸に来て最も良い撮影ポイントを探したがなかなか見付からない。川岸では低すぎて城の塔が良く見えない。結局は川岸に建った大きなビルの上が一番いいようだ。どこから入ったらよいのか分からない。
 うろうろ探している内に、どうやらそのビルの裏口から入ってしまったらしい。中に入るとそこは老人病院だった。詰所のような所に行って了解を求めたが断られた。その上、係りの人が来たので更にお願いしたがダメだった。やむなくそこを出て再び撮影場所を探す。
新橋の上から撮影したカルカッソンヌ城/写真転載不可・なかむらみちお  結局は近くの新橋の上から撮影する事に決めた。今迄逆光だった城が3時半になってようやく日が射し込み、撮影条件が良くなったのでそこで撮影する。
 カルカッソンヌは城壁をめぐらした中世の街が、そっくりそのまま残っているので名高いところだ。町はスペインからの外敵の侵入を防ぐために六世紀の頃から十三世紀に渡って構築された。小高い丘の全体を堅固な城壁と堀によって二重に防御され、内城壁には29、外城壁には17の塔が並び立っている。
 東西南北の4ヵ所にある市門も、それぞれ独立した砦と言ってよいくらい堅固な構えだし、西側の絶壁の上にはカルカソンヌ伯の城塞がひときは高く、聳えている。これらの城塔の群はどの方向から見ても、それぞれ違った趣があって美しい。ヨーロッパの中世の町の様子、防備に対する考え方を知るうえでの最高の遺構である。
 ヨーロッパでは中世、このような町が多かったが、町の発達と共に城壁が壊された。今ではカルカッソンヌの他にスペインのアビラ、ドイツのローテンブルクなどが城壁を完全に保っている。
 八世紀になってフランク王国のシャルマーニュ大帝は、この地のイスラム教徒を攻めたが、その時イスラムの王の妻カルカスが敵軍との交渉のために吹かせたトランペットの音に因んでカルカス・ソンヌ(音)といったのが地名の始まりと言う。
ナルボンヌ門。深い濠に架かっている跳ね橋を渡って入城/写真転載不可・なかむらみちお  市の正門は東側のナルボンヌ門。深い濠に架かっている跳ね橋を渡り、二重の城門をくぐると、その上に13世紀に出来たという聖母マリアの像があり、ラ・シテと呼ばれる古い城郭都市の中に入った。
 この城はヨーロッパの中世城郭都市の姿がよく残っているものの代表で、この町の城門を入る時から中世を訪れたような気がする。
 ナルボンヌ門から伯爵の城あたりまでは、民家がみな土産物店をやっていて賑やかだが、一歩横丁に入ると、13世紀から16世紀頃までに出来たという古さびた家々がひそりと並んでいる。道は狭く曲りくねっており、ごつごつした石畳に靴底がカンコンと鳴る。
 心のおもむくままにそういう道を歩いて行くと、不意に広場に出る。広場と行ってもカルカソンヌのはみな小さくて可愛らしい広場だ。領主の居城、大聖堂、円形劇場などがある。中の道は固い狭いところに大勢の観光客でごった返していた。細い石畳の道、古めかしい家、トンガリ帽子を被ったような塔。まるで中世の町に迷い込んだような錯覚さえ覚える。そこにはヨーロッパの中世が息吹いている。一番奥の博物館を見てから城の中を一周してみた。昔、市民達が水汲みに使っていた泉があり、レストランやキャフェがあって広場の半ばはテーブルで占められている。暑くて疲れた。体内の水分不足で目眩がしてきた。口の中が粘々する。通り掛かりのBarでビールを一杯飲んでひと息入れる。
 カルカソンヌの内城壁の内、約三分の一(北側)はローマ時代のままだ。残りの城壁と伯爵の城は13世紀に増改築されたもの。城壁の石には、ローマ時代から繰り返された数多くの戦いの血がしみ込んでいるはずだ。再び場内を歩き回ってから城の外に出る。城壁の外の人気のない草地に寝ころびながら、私は心眼の中で戦いの場面を再現してみた。
 下町は鉄道に近いこともあり、現在は「ラ・シテ」よりこの下町の方が繁栄している。ヨーロッパで始めて、碁盤模様の区画が施された町ともいわれている。
レミ少年が生みの母に初めて会ったミディ運河/写真転載不可・なかむらみちお  駅前にはエクトル・マロの小説「家なき子」のレミ少年が生みの母とも知らず「白鳥号」のミリガン夫人に初めて会ったミディ運河がある。物語はここから始まる。17世紀に造られた運河はもう半分は無用の存在だが、プラタナスの並木と石の橋と水門が今も昔の美しさと繁栄を偲ばせてくれる。
 途中のスーパーでワインを初め、水、チーズ、ハム、牛乳、果物などの食料品を買い込んでホテルに帰り、ひと風呂浴びた。9時頃の夕陽を撮るまでは少し間があるので、今日の成果を祝して街中のレストランで食事をすることにした。レストランでは白隠元豆と鴨や豚のコンフィ、それにソーセージなどをじっくり煮込んだスープ『カルビュール』という料理とMinervis(ミナボア)という土地のワインを飲んだ。
『カルビュール』という料理/写真転載不可・なかむらみちお  日没は多分9時頃と思い、ゆっくり食事をしていたところ、向かいのビルの日当りが薄くなり始めた。おかしいな、未だ8時前なのにと思いながらも少し不安になってきた。
 レストランを出て見ると西の空に大きな雲が懸っていた。あまりにも天気の変わりようの早いのに唖然とする。これでは今日は夕焼けは期待出来ない。宿に帰って明日の準備をした後、再び新橋の上に行く。
城の夜景/写真転載不可・なかむらみちお  カルカッソンヌの城壁がイルミネーションの光に照らし出されたのは、時計の針が10時を回った頃だった。城壁が見える橋の上で待っていると最初の光が灯り、その瞬間光は徐々に広がっていった。頃合を見計らって城の夜景を撮影した。
 今日は随分歩いたので、すっかり疲れてしまった。今日の歩数は25,670歩。距離にして7.7q。宿に帰ったら10時半を過ぎていた。宿の主人が近くに三泊目の小さなホテルを117FFで手配していてくれた。但し、トイレは部屋の外で、シャワーは共同とのことである。

   7月28日(金) Carcassonne
 朝日に輝くカルカッソンヌ城を撮影しようと思って早朝6時に部屋を出たがエレベーターに向かう入口の扉の錠が掛かっていてホテルを出る事が出来ない。やむなく今日は諦めて後で宿の主人に話して明朝出かける事にする。
 昨日は歩き過ぎてかなり疲れたので、今日の午前中はゆっくりしよう。朝食の後、Tシャツと靴下の洗濯。続いて資料などの整理をした後、手紙を書く。
 11時頃駅へ行って明日のLuchon行きと、明後日のNimes行きの切符購入と列車の時刻を確認。その足で城に向かう。天候は晴れ、時々曇りで風が少々ある。
 重い機材を担いで、急な坂道や石段を昇り降りしたり、シテの全景を撮るために向かい側の丘に登ったりする。が、そんな苦労も何のその。恋い焦がれていた人にやっと逢う瀬がかなった時のように朝から晩まで感動のしっ放しである。
 先ず、城の反対側に周りブドウ畑越しの城を撮影に向かう。昨日の橋からのポジションでの太陽光の角度は3時過ぎが良いので、ブドウ畑を撮影し終えてから来ると丁度よい時刻だろう。
 城の正面から、道は二股になっている。右へ行くと下り坂、左が少々登り。どちらを選ぶべきか。撮影位置としては少々高い位置の方が展望が良い。判断に迷い、履いていた靴をポーンと空に投げてみた。すると靴は右を向いて落ちてきた。当るも八卦当らぬも八卦。では、右の道を行ってみることにする。
 駐車場の中を通って行くと、行き止まりになった。再び城の正面まで戻り、今度は右手の道を下って行く。すると道はすぐに開けてブドウ園があった。その中のトラックターが通る為であろう広い道をブドウ園の丘の上の方に登って行く。この地方はフランス全土の40パーセントのワインを生産する。ぶどう園を手前に舐めて向こうに城がある。しかし、城の形が今一だ。一度撮影してから別の角度を探してみる。
ブドウ園越しの城/写真転載不可・なかむらみちお  ブドウ園の縁をひと回りするが、良いところが見当たらない。丘の上の別の畑へと向かう。ここも気に入らない。更に別の畑に向かおうとしたが、畑からの出口が分からない。かなり畑の縁を回り込んでようやく道路に出た。
 田舎道を1qほど歩いて次の丘のブドウ園に来た。ここも城の形が必ずしも良くないが、その先は谷間になっており、やむなくここで撮影して城の入口へと戻る。
城は二重の城壁に囲まれている/写真転載不可・なかむらみちお  昨日はかなり場内の写真を撮ったが、二重の城壁に囲まれている感じがいまいち弱い。場内に入り、外城壁と内城壁の間をひと回りする。更に場内へ通じる道を撮ってから城外に出る。
 時計は3時になっていた。橋の所から城を撮影するにはもう少し時間が早い。橋の下の公園で一服して時間の経つのを待つ。3時半、陽の回りが丁度良くなってきた。橋の上から撮影。これはかなり手応えがある。
 相変わらず暑いので喉が渇いた。帰り道のスーパーマーケットで水と缶ビールを買って宿で乾杯。これで一息ついた。宿に帰るとキャンセルが出たので三泊目もOKとのことでひと安心。
 夕方、ひと風呂浴びてからワインで一杯やる。8時頃宿を出て夕陽に染まる城の撮影に行くが、雲が多くて夕焼けにはならなかった。

   7月29日(土) Carcassonne-08:58-16:44 Luchon 18:00-21:57 Carcassonne
 今日はとにかく大変な日だった。大冒険をしてしまった。今日は兼ねて東京の友人Kさんに勧められていたリュションという町へ行ってみる事にする。
ミディ・ピレネー  ここはミディ・ピレネーと言うところのピレネー山脈の山懐深く入ったスペインとの国境に在る小さな町である。スペインとの国境に横たわるピレネー山脈は3,000〜4,000m級の山が連なり、火山岩の露出した丘陵、深い谷には滝、湖、沼が続き、きっと私が気に入る風景ということである。ピレネー観光の基地でもあるこの町は、夏は温泉、冬はスキーにと、観光客の人気を集めている。特に温泉は、世界有数の泉質を誇り、喉の病に効くと言われて、名だたる歌手や役者などが殺到する。
 カルカッソンヌ8時59分発の列車に乗るべく駅に向かったが、なかなか到着しない。遅れて居るらしい。アナウンスがあったが、言葉が分からないので何分遅れなのか分からない。トイレに行きたくなってきた。列車に乗り込んだら列車のトイレを利用しようと我慢したがなかなか列車は来ない。トイレに行っている間に列車が来たら困る。
 その内とうとう我慢が出来なくなってきて駅のトイレに駆け込んだ。2FFコインを入れないと扉は開かない。中に入ってみるとお金を払うトイレにしては汚い。大急ぎで用を済ませてホームに来てみると未だ列車は入っていない。
 ホームのベンチで列車を待っていると隣の席の中年の男が話し掛けてきた。フランス語なので全く分らず、「ノー、ノー」と手を横に振った。それでも尚話し掛けてくるが、どうせ分らない話を聞いてもしょうがないと思い、煩わしかったので無視して横を向いていた。するとその男は口と耳に指を当てて、「あぁ、耳が悪くて聞こえないのか?」という仕草をして妙に納得していた。つまり私はどうやら聾唖者と思われたようだ。急に可笑しさが込み上げてきて、それを堪えるのが大変だった。
 フランスでは時々「キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ?」と声を掛けられることがある。露骨に他人様の英語力を尋ねるのだ。ここで「オフコース」などと答えたとしよう。相手の若者は「ほほう」という顔をする。そしてそういう彼らは、それしか英語を知らない場合が多い。こちらが英語で、逆に何か尋ねると、彼らは一寸困ったような笑いを浮かべて行ってしまうのである。しかし、私はこの手の質問に対して「ノー」と答えるようにしている。私ごときのレベルで「英語が話せます」と言い返すのは、精神的に負担である。すると彼らは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。「私は英語が話せません!」と胸を張って答えるようになってから随分と気が楽になった。相手はそれ以上話かけてこないので、頭の中で余計な英作文をする必要がないし、それ以上に「英語コンプレックス」を刺激される事が無くなった。「英語が話せるかどうか」というのは、多くの途上国の人々にとって「インテリかどうか」を峻別する重要な条件なのだが、そんな事をまるで無視している自分が、なんだか愉快だった。私はどこに行っても外国では聾唖者である。手真似足真似、格好良く言えば「目と心(ハート)」、ゼスチュアで世界を渡り歩く。大胆不敵というべきかも知れない。
 50分遅れでようやく列車が来た。この時間では次の乗り換え駅のトゥールーズでの10時05分発の列車には乗り継がれないだろう。
 トゥールーズ駅に着いてみると10時05分発の列車はすでに行った後だった。駅員に訊ねると次ぎは12時09分のMontrejeau(モントルジュ)行きで、そこから14時05分のリュション駅へ乗ると良いと教えてくれた。しかし、信用出来ないので案内所で訊ねてみるとその列車ではなく、その次の列車を教えてくれた。
 ひと先ず、12時09分発でモントルジュに行ってみると、14時05分の接続がない。矢張り案内が教えてくれたモントルジュ発15時51分が正しかった。モントルジュの駅でしばらく待ったが、14時05分の列車は来る気配はなかった。乗客も誰も居なかった。駅員に訊ねて見ると、今日は土曜日だから14時05分はない。15時51分発のリュション着16時44分のバスだと言う。そこで始めてここからはバスだったり列車だったりの路線である事が分かった。
 所在無く、駅前を散歩して見ることにした。商店は一軒もない閑散とした通りを行くと、街路樹のスモモが熟して生っていた。その一つを失敬して食べてみた。美味しかった。
 国道に出ると車が行き交っていた。フト、ヒッチハイクをして見ようかなと思った。15時51分で行くとリュションには16時44分、折り返しの最後が18時00分と言う。それでは向こうに居る時間がいくらもない。
 道路縁に立って指を立てて向かって来る車に合図してみた。20分位したところで青年が車を止めてくれた。後で分かった事だが、途中まで行くと言うことでとにかく乗れと言う。
 途中まで来たところの分岐点で車は右に曲がると言う。再びここで車を拾えと言って降ろされた。辺りは全くの山の中である。人家は全くない。しばらく車に合図を送ったが、どの車も停まってくれない。だんだん心細くなってきた。こんなことなら初めから来なければ良かったと後悔した。しかし、今はどうにもならない。あと15q位あるらしいが、歩く事も出来ない。若し拾えなかったら今日中にカルカッソンヌに帰れないかも知れないと思うと不安になってきた。
 ようやく青年の車が停まってくれた。地獄で仏とはこういう事を言うのだろう。ありがたかった。しかし、手ぶらで来たので何もお礼をあげる物が無かった。
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  Bagneres de Luchon(リュション)
 鉄道線路沿いの道を走って来て駅が見えた時はホッとした。駅前で降ろして貰い、町の方に歩いてみた。結構大きな街であった。しかし、Kさんが勧めてくれた理由が分からない。それほどいい街とは思えない。
古い街並みの向こうにピレネー山脈の一角が見えた/写真転載不可・なかむらみちお  勧めてくれたKさんにここに来たことを証明する為に街のお土産屋さんで絵葉書を買い、KさんとG君に手紙を書き、途中で見かけた郵便局脇のポストに投函した後早目に駅へ向かった。
 途中で古い街並みの向こうにピレネー山脈の一角が見えた。来るときは背にしていたので気付かなかったが、Kさんが言う風景とはこのことを言っているのだろう。2〜3枚写真を撮る。カルカッソンヌを出た時は晴れていたが、ここでは曇りで余りパッとしなかった。

 ※ラングドック・リュションは、南フランスのプロバンスのニーム、アルルなどの町の南西からスペイン国境にかけての海岸と内陸部で、古くからぶどう造りの行なわれていた地方である。
 ここでは良質のワインも産出するが、大部分は大衆的なワインである。そのワイン生産量は、二七〇万キロリットルにも上り、フランスのテーブルワインの約三分の一はこの地方で造られている。ラングドック・ルーション地方は、フランス庶民的ワインの酒蔵といえよう。(井上宗和著「ワインものがたり」・角川文庫)

 6時に駅前にバスが来て乗客が乗り込んだ。駅の構内に停車している列車には誰も乗った形跡がない。バスの運転手に尋ねたらモントルジュ行だと言う。切符を見せるとウンと頷いたので乗り込む。時刻表に記入されていた「Car」とはバスの事だった。うっかりすると又乗り遅れてしまうところだった。
 この後、調べた時間表通り順調に無事カルカッソンヌに着いた。カルカッソンヌに着いたのは21時57分。丸一日懸ってリュションに居たのは僅か2時間弱だった。無事カルカッソンヌに今日中に帰り着いたから良いようなものの、不安と緊張でひどく疲れた一日だった。もうヒッチハイクはこりごりだ。

   7月30日(日) Carcassonne 09:44-11:44 Nimes
 今日で丁度全日程の半分という事になる。今朝も快晴。今日はカルカッソンヌからニームに移動する日だが、先ずその前に城の見える橋の上に行って記念写真を撮ってくる事にする。
 9時半にホテルをチェックアウト。駅へ向かう。9時40分、カルカッソンヌ発の列車でニームへ向かう。
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  Nimes(ニーム)
プロヴァンス  あふれるような陽光、冬でも暖かい気候、時折吹き荒れるミストラル。プロヴァンスはトロピカル・ムードでいっぱいの南国だ。
 赤いスレート葺きの屋根、小さな窓の家には、イタリア或いはアラブ世界の影響が色濃く見られる。この辺りの人は開放的で気さくで明るく、「フランスで最も親切」といわれている。
 ニームという町の名は、泉の精ネマウスス(ネモーザス)に由来しているという。ニームはそこに湧く泉の周囲に出来た町だ。
古代闘技場前/写真転載不可・なかむらみちお  ニームの町は至る所にローマの遺跡があり、その点ではアルルと似ているが歴史はアルルよりも古く、フランス最古のローマ都市として知られている。
 ニームは昔から織物産業が盛んだった町だが、あのジーンズのデニム生地も実はニーム生まれ。「デニム」の名は「de Nimes(ニームの)」からきている。
 ニームのホテルはすんなりと見付かってチェックイン。その足で市内観光に出た。ホテルのすぐ脇が古代闘技場である。先ず、表を撮った後入口に向かう。入場料はガイドブックに書いてあるよりも少し上っており、マーニュの塔も合わせて34FFとかなり高い。
古代闘技場の最上段から/写真転載不可・なかむらみちお  古代闘技場の中に入って最上段に上って見ると流石に大きい。アルルよりも古く、BC1世紀の建設当時は21,000人もの観客を収容したと言う。古代の人がよくもこんな巨大な闘技場を造り上げたものだと只々感心する。
 そこを出て少し行くとメゾン・カレに行き着くはずだが、すでに午後2時を回っており、昼にバナナ一本しか食べていないので腹が減った。今日は日曜日なので商店街は休みでレストランが所々で開いているだけだ。食べ物を売っている店を探すのが大変だ。ようやく一軒のサンドイッチ屋を見つけ、そこでサンドイッチと缶ビールを買って昼食を済ませる。
 その店を出るとすぐがメゾン・カレだ。これはギリシャのパルテノンなどを思わせる四角い神殿で、コリント様式の柱頭などいかにもギリシャ風である。BC1世紀、アウグストゥス帝の時代に建てられたという。
 その近くのインフォメーションに寄り、明日のポン・デュ・ガールと、明後日のエグ・モルトへの行き方を訊ねる。
ペタンクをするおじさんたち/写真転載不可・なかむらみちお  インフォメーションを出て更に進むとフォンテーヌ庭園があった。その一角を歩いているとあちらこちらでペタンクに興じる人々を見る。なんとなく日本のゲートボールを思い出すが、ペタンクは鉄の球を投げたり転がしたりと、言って見ればボーリングみたいなもので、ゲートボールよりはずっとおとなしいゲーム。
 日本でも最近かなり盛んになってきたが、もともとこの辺で中世から流行っていたそうだ。しばらくその様子を写真に納めた。帰りの道で店を覗くとペタンクのボールを110〜250FFで売ったていた。買いたがったが、なにしろソフトボールほどの鉄の塊を3個組みで買わなければならず、持って帰るのには重過ぎるので断念した。
 フォンテーヌ庭園の先はカヴァリエの丘が続き、その上にマーニュの塔がある。何の変哲もない塔だが、上からの市内の展望はなかなか良い。BC1世紀に建てられたそうである。帰り道にフォンテーヌ庭園の脇にあるディアヌの神殿をみてホテルに帰って来た。ホテルに帰ってシャワーを浴び、資料の整理や洗濯をした。
 6時になったので夕食に出たが、食事は7時からだと言うので再びホテルに帰って日記を書き、明日の資料調べをした。フランスという国は食事一つにしても不便な国だ。
Costieres de nimesのラベル。コクがあって美味かった/写真転載不可・なかむらみちお  ようやく7時になったので、近くのレストランでここの名物ブランダーボ(Berandade de morue)を食べた。資料によると鱈のすり身をオリーブオイルで混ぜてペースト状にしたものとあるが、ここで食べたブランダーボはどうも違うようだ。出てきた料理はチーズを溶かした物の中にサラミやミニトマトなどを入れて焼いた物であった。まぁなんでもいい。食べれれば良い。美味しければいい。それにCostiere Raugeというこの地方の赤ワインで〆て65FFと以外と安かった。他にもCostieres de nimes(41.50FF)というコクがあって美味い人気のワインもある。

 ※プロバンスはフランスワインの発祥の地である。フェニキア人やギリシャ人が、ぶどうの栽培とワインの醸造を伝えたのは、紀元前はるか昔のことで、そしてここで育ったワイン造りの技術が、フランス内陸に拡まって行った。
 地域的にはプロバンスは、イタリアの国境から、マルセイユ辺りまでの地中海岸沿いの一帯と、エクス・アン・プロバンスの東南地区がぶどうの栽培圏である。
 プロバンスのワインはボルドーやブルゴーニュほどの世界的な名酒はないが、良酒は産出する。この地方のワインはあまり長い年月の貯蔵をするタイブのワインではなく、またコート・ダジュールという世界的な観光地を控えているところから、ワインの消費も相当量に上り、プロパンスのワインの移出や輸出もあまり多くはない。
 プロバンスのワインは古い歴史と、爽やかな香味で人々を楽しませる。(井上宗和著「ワインものがたり」・角川文庫)

 一応満足してホテルに帰って来たが、未だ8時だ。寝るのには早過ぎるので日記の続きを書く。

   7月31日(月) Nimes 07:25-08:05 Pont du gard 14:50-15:30 Nimes
 今日から折り返し点に入る。今日はポン・デュ・ガールへ行く日だ。6時起床。窓を開けると今日も雲ひとつない快晴。昨日は日曜日の為、食料品を買えなかったから朝食はない。顔を洗ってホテルを出る。駅に行けば何か売っているだろう。駅の売店でサンドイッチを買う。日本でいうサンドイッチを二個とフランスパンにハムを挟んだハムサンド一個を買う。支払いを済ませてから更に売り子が何かを言うが、なんだか分らない。フランスパンの分を5FF払えと言う。財布の中を見ると足りない。何がなにやら分らないまま少々高いなと思いながら100FFを出してお釣りを貰う。そこでポン・デュ・ガール行きのバス乗り場を訊ねる。駅の横の通りを回って行くと言う。
 教えられた方向にとことこ歩いて行くと、さっきパン屋で私の次に並んで買っていたおばさんが私の後からポント肩を叩き、バス乗り場はこっちだよ、付いておいでと教えてくれた。
 バスセンターには未だバスが来ていない。発車表示のテレビモニターには6番線と書いてあるので、ここで間違いはない。時間待ちしている間に例のパン屋さんで買ったビニール袋の中を見るとサンドイッチが四つも入っていた。高い訳だ。しかし、こんなに食べられない。今日も暑くなりそうなので時間が経つと長持ちしない恐れがある。
 バスが来て乗客が乗り込み、発車時間がきたが運転手と知り合いらしい乗客の一人がバス停留所のBarで何か話しながら食べている。
 7時20分発のバスが、定刻よりも10分近く遅れて発車した。客は私と若い人が一番後ろに二人。それと先ほどの爺さんの4人。知り合いの爺さんは運転手の横の席に座り、盛んに話している。うるさいのでバスの中間ほどに移動する。先ほどの若い二人は日本人の女性と外国人の青年だった。ポン・デュ・ガールへ行くと言う。道々いろいろ話をしたら、彼は彼女のフィアンセだと言う。九州福岡の出身で、メゾンクラブで働いていると言う。マルセイユの近くに滞在しているとのこと。
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  Pont du Gard(ポン・デュ・ガール)
 バスは田舎道を走り、8時05分に目的地に着いた。とことこ歩いて10分程で目指すポン・デュ・ガールが見えてきた。雲ひとつない快晴である。
 ニームとアヴィニョンの中間辺りにあるこの水道橋は古代ローマ人が紀元前19世紀に築いた、長さ275m、高さ49mの巨大な水道橋である。南仏の町ユゼス近くの水源とニームをつなぐ導水路の全長は49qで、9世紀迄使われていた。橋はその一部である。石灰岩の切石を組み合わせた三段重ねのアーチの美しさは、古代ローマ人が生み出した最高傑作のひとつ。古代建築技術の傑作のひとつと言われている。2,000年も前に造られたなんて信じられないほど巨大なものだ。フランス最高の見所である。イメージとしてはスペインのセゴビヤにある水道橋と似ているし、ローマ郊外の水道橋や、チュニジアの水道橋とも似ている。古代ローマ軍はそこを征する為には先ず水の確保に力を入れたようだ。
巨大な水道橋。澄んだ水に小魚が泳いでいる/写真転載不可・なかむらみちお  撮影ポイントを求めて3人であちこち歩く。一番の目標にしていたポイントは逆光で午後からになる。反対側の河原などに降りて撮影する。水が凄く澄んでいて綺麗だ。
 私がこの次行く予定のアヴィニョンの宿に日本から手紙で予約したのにOKの返信がないと彼らに話すと、電話で訊いてくれると言う事でお願いした。少し離れた売店から電話をしてもらう。OKだった。私への返信の手紙が私に届かないまま発信人に帰っていたらしい。お礼に日本から持ってきた煙草をあげたら喜んで貰えた。この売店で絵葉書を買う。一枚1FF10kとこれまでになく安かったので2枚買った。
巨大な水道橋/写真転載不可・なかむらみちお  川の反対側に行ってみる。河原に降りてみたが逆光だ。この後、二人と分かれて私は第一ポイントまで戻り、そこの日陰で時間待ちをする。暑い!手元の温度計が30℃を指している。じっと太陽が動くのを待つ。太陽とにらめっこだ。12時半、ようやく日が差し込んできた。そこで撮影し、更に川の反対側に行って山の上のパノラマ展望台と下の河原からと撮影する。河原は海水浴場さながら、ビーチパラソルなどを持ち込み、泳いだりゴムボートを浮かべて舟遊びをしたり、まさにバカンス真っ盛り、行楽客でいっぱいだ。20pほどの魚が泳いでいる。あれを塩焼きにして食べたらさぞ美味しい事だろう。
河原は海水浴場さながら/写真転載不可・なかむらみちお  そこで撮影を終えてバス停へ向う。バスは確か13時50分だったから充分余裕がある。帰り道を間違わないように気を付けて来たつもりだが、見慣れない所に来た。売店などの観光施設に入り込んでしまった。これは橋に向かう時右手に見えた駐車場に違いない。そこから進路を右に取り、ロータリーに出てようやく行く時見覚えのある場所に出た。来る時にバスから降りたロータリーに着き、来る時とは違うニーム行きのバス停を確認する。そこの日陰でバスの来るのを待つ。
 時間になってもバスは来ない。他にバスを待っている人は20人近くいる。道路脇の一段高くなった所に腰を降ろして待つがバスは来ない。暑い!水が足りなくなってきた。早く帰って冷えたビールを飲みたい。
 13時30分から待ったが、ついに13時50分発のバスは来なかった。ようやく次の14時50分発のバスが来た。バスに乗って運転手から切符を買っていたら手の平からコインが床に落ちた。運悪くそれが運転席の横のチェンジレバーの隙間に落ちてしまった。何フランのコインか分からない。
 こちらのバスは窓が開かないので、バスの中は凄く熱い。運転手は前の乗車口のドアを開けたまま走っているが効果はない。
 40分程走ってバスはニーム駅前で停まったのでそこで降り、宿の近くのBarに駆け込んで冷えたビールをいっ気に飲んだ。美味かった。そのBarで訊いた近くのスーパーマーケットへ行って食料品を買い込み、ホテルに帰る。
 とりあえず買ってきたワインを洗面台の水で冷やしておいて明日のエグ・モルトと明後日のアヴィニョン行きの列車の時間を調べるのと、切符を買うために駅へ行く。
 駅ではしばらく待たされた後ようやく切符を買う事が出来た。ホテルに帰って、買ってきたチーズでワインを飲む。地元のワインだが、結構いける。チーズは青かびチーズの王様として有名なロックフォールチーズだがしょっぱくて余り美味しいとは思われない。
 この後マルセイユとニースのホテルにFAXを送る。日本から予約の手紙を2回も出しておいたのだが、返事が来ていない。今はバカンスで込んでいるので心配だ。全く宿がないという事はないのだが…。この後日記を書いて9時頃寝る。明日はエグ・モルトへ行く。蒸し暑い。眠れるかどうか…。

   8月1日(火)快晴 Nimes 08:35-09:19 Aigues Mortes 16:21-17:06 Nimes
 8時35分ニーム発の列車で南に40qのエグ・モルトへ向かう。ローカル線にしては近代的な車輌でなんだか落ち着かない。こんな立派な列車で本当にエグ・モルトへ行くのか。
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  Aigues Mortes(エグ・モルト)
 列車は1時間弱でエグ・モルトに着いた。駅前は何もなく閑散としている。アルルと地中海に挟まれた一帯は、広大なカマルグ湿地帯だ。自然保護地域に指定され、野生の馬や野鳥、フラミンゴなどが生息している。カマルグの白馬は海の泡から生まれたといわれる。草を食む黒い牛とのコントラストも美しい。
ガルデット門から入ると、右手にコンスタンス塔がある/写真転載不可・なかむらみちお  カマルグの大平原の中、ローヌ河口に築かれた中世の城郭都市エグ・モルト。街をつくったのはルイ9世だ。彼はこの地を十字軍遠征のための港として譲り受け、1240年城を築き、城壁で町を囲った。町は14世紀半ばまで栄えた。しかしその後、海とつながる水路に土砂が溜まり、港としての役割を果たせなくなってしまう。今や4,500人の住民がひっそりと住むに過ぎない。以後、街は衰退の一途をたどる。かつて15,000人を数えた人口も、小さな街となってしまった。しかし、このように完璧な形で残っているのはまれなことである。
 駅員に教えられて右手に進路を取る。やがて運河が見え、子供が魚釣りをしていた。その先にエグ・モルト城があった。先ず右に回り込んで撮影するが、逆光だ。午後3時頃には陽の回りもいいだろう。
 城塞の入口ガルデット門から入ると、右手に13世紀に造られた堅固なコンスタンス塔があり、登ってみる。ここはかつて灯台でもあった。この上からの展望が良い。四方を城壁に囲まれた城塞都市の感じが良く分る。城内は中世の街並みがそのまま残って賑わっている。
城壁の上の歩廊を回れば、城郭都市の面影を十分に忍ぶことが出来る/写真転載不可・なかむらみちお  塔を出てから城壁を一周する。これが結構距離があって灼熱の直射日光を浴びながらの歩きはなかなかしんどい。城壁の上の歩廊を回れば、城郭都市の面影を十分に忍ぶことが出来る。天日乾燥の塩田もある。城壁の上から海岸線の彼方を見ると白い小山が見えた。多分ここで製造された出荷前の塩を野積みしているのだろう。
 エグ・モルトは、“死んだ水”の意である。町を取り囲むのは湿地帯。葦の茂みの向こうに見えるのは、よどんだ、永遠に流れる事のない水。町の栄光と衰退を、じっと見続けてきた水だ。フランスの映画詩作家アルベール・ラモリスの短編映画「白い馬」はこの湿原のロケで制作された。私の一番好きな映画である。
 城壁を降りてから早速商店街に行き、冷えた缶ビールを買って一気に飲み干す。これで一応ここで予定していた撮影は終った。後は最初に写した運河沿いのコンスタンス塔を入れた城壁のみとなったが、これは3時頃まで待たなければ日の回りが悪くて写すことが出来ない。城門近くの日陰で12時から3時半まで太陽が廻って来るのをひたすら待った。
背中に哀愁を漂わせ、寅さん気取りで・エグ・モルト駅/写真転載不可・なかむらみちお  3時半、城を出て運河に掛かった橋の上から城壁を写す。陽の回りは丁度良い。写し終わった頃鰯雲が太陽を遮った。間一髪だった。
 駅に向かい、予定していた16時21分エグ・モルト発の列車でニームに帰り、ホテルでワインを飲みながら夕食とした。
 この後は資料の整理と、明日のアヴィニョン行きの下調べをした後、日記を書き終えて早めに寝た。

   8月2日(水)晴れ時々曇り、時には雨パラパラ Nimes 08:24-08:55 Avignon
 8時24分ニーム発の列車でアヴィニョンに向かう。8時55分にはアヴィニョンの駅に着いた。
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  Avignon(アヴィニョン)
 ホテルは簡単に分った。早過ぎる到着のため部屋には入れない。荷物をホテルに預けて観光に出る。
 アヴィニョンの町はかって14世紀には法王庁の所在地としてヨーロッパの宗教上の中心地であった。14世紀前半に築かれた法王の城、宮殿は二つの建物から成り、50mにも及ぶ塔を持っている。15世紀の初めまで使用された宮殿の内部は歴史的エピソードに満ちている。アヴィニョンの町も中世の城郭都市として町の周辺に城壁をめぐらし、この遺構は現在も残っている。
巨大な法王庁宮殿/写真転載不可・なかむらみちお  駅を出ると城門が見え、この町が城壁に囲まれた町である事が分かる。城門を抜けると、町のメインストリートが延びている。途中、インフォメーションに寄り、地図を貰う。スーパーマーケットの場所も分ったので帰りに寄る事にする。更に10分程歩けば市庁舎のある時計台広場に出る。そのまま歩いて行くと、やがて法王庁宮殿の巨大な壁が現われる。そこで法王庁宮殿の全景を撮った後、その左手の坂道を上って行きロシェ・デ・ドン公園に出る。ローヌ川を見下ろすテラスからはアヴィニョン橋、対岸にヴィルヌ−ヴ・レザヴィニョンの町を望める。ここから写した写真がよく見る写真だ。
歌で有名なアヴィニョン橋こと、サン・ベネゼ橋/写真転載不可・なかむらみちお  丘の上に建つ法王庁からローヌ川に向けて下っていくと、川の途中でプツンと途切れてしまった橋に出る。「輪になって踊ろう」の歌で有名なアヴィニョン橋こと、サン・ベネゼ橋である。完成当時は、向こう岸まで900mの橋だったといわれるが、ローヌ川の氾濫で、橋のほとんどが流されてしまった。現在は四本の橋桁と橋を造った聖ベネゼを祀る聖ニコラ礼拝堂を残すのみ。
 橋の入口で入場券を買うと無料で日本語のトーキーを貸してくれた。それを持って説明を聞きながら橋の上を渡る。橋を渡ったからといってどうということはない。踊るような雰囲気でもない。写真を撮るような場面は全くない。
ゴッホの「ひまわり」を思い出させる/写真転載不可・なかむらみちお サン・ベネゼ橋/写真転載不可・なかむらみちお  下流の橋を渡って対岸へ向かう。かなり暑くて歩くのが大変だ。対岸のヴィルヌ−ヴ・レザヴィニョンの町からアヴィニョンの全景を眺める。傍らの畑にはひまわりが一面に黄色い花を咲かせていた。ゴッホの絵の「ひまわり」を思い出して何枚か写真を撮った。
 撮影を終えて川岸に戻ると折り良く渡し舟が来ていた。確か無料と聞いていたので大急ぎで駆け出し、ようやく間に合って対岸まで載せてもらった。大変ありがたかった。
 暑い!1時半を回っている。腹が減った。喉が渇いた。飯が食いたい。冷えたビールを飲みたい。通り掛かったレストラン前の歩道に出したテーブルでは家族連れが食事をしていた。見るとシシカバブーとジャガイモの揚げた物の付合わせだ。最近満足に肉らしいものを食べていない。どうしても食べたくなったので同じ物と地元のワインを頼んだ。
オープンカフェ/写真転載不可・なかむらみちお 料理を運んで来た美人/写真転載不可・なかむらみちお シシカバブーとジャガイモの揚げた物の付合わせ/写真転載不可・なかむらみちお  出てきた食事はBrockettes de volaille avc flites et ratatoville(ブロッシェット・ドウ・ヴォライヤ・アベック・フリッタ・エ・ハタトゥユ)というものと、Vin Rouge du Pays(ロージュ・デュ・ペイヒ)というワインだそうだ。
 それを運んで来た女性が飛び切りスタイルの良い美人で暫し魂を抜かれたように見取れてしまった。あんな見たこともない派手ではなく品の良い美人が何でこんな場末の小さなレストランのウエイトレスをしているのか不思議だ。言葉が通じるなら聞いてみたい所だが生憎こちらは「聾唖者」なので残念。そのレストランの名前はBAHIA-CAFE。
 帰り道、スーパーマーケットに寄って食料品を買い込む。両手に下げた品物が重い。途中駅に寄って明日のオランジュ行きの列車の時刻表を貰ってくる。
 宿に帰ったら汗がびっしょりだ。シャワーを浴びたいと思ったら別料金で20FFだという。高すぎる。洗面所でタオルを濡らして全身を拭く。そのあと買ってきたワインとチーズで一杯。
 そろそろ荷物を軽くしたくなった。これ以上軽くするためには食料品を減らすしかない。宿に頼んでレンジを使わせてもらい、こちらに来て始めて持参した日本の米を炊き、ワカメダシ汁入りのインスタントシジミ汁で夕食を済ませた。懐かしい日本の味が体に染みとおる。矢張り米のめしが最高だ。これで味噌汁に豆腐とたくあんの漬物があったら言うことはない。
 このホテルは国鉄の線路のガード脇にあり、私の部屋の窓からは向こうから突進して来て左手脇に恐ろしい音と地響きを残して通り抜けるTGVや急行貨物列車が往き来する。まるでこちらに向かって列車が突進してくるような感じだ。それに絶えず構内連絡通報用のスピーカーが叫んでいる。私の家は雪が降る音さえ聞こえるほど静かなので、果たして今夜は寝られるだろうか。未だ少々寝るのには時間があるので日本の自宅宛の手紙を書く。この部屋はヨーロッパのホテルにしては珍しく照明が明るいのがありがたい。

   8月3日(木) Avignon 07:53-08:08 Orange 11:32-11:54 Avignon
 昨夜は9時頃にベッドに入ると同時に眠ってしまった。夜中に雷と雨の音で目が醒めた。すると蚊が飛んで来た。時計を見ると3時だった。大きな蚊がスーッと逃げて行った。こちらの蚊は日本のよりガラが大きいようだ。探したが見つからないので蚊取線香を点けて又寝た。
 6時起床。窓を開けると昨日までの晴れの天気は嘘のように今日はベタ曇だ。今日はオランジュに行く日だが、写真的には期待した物はないので曇りでも気楽だ。
 顔を洗い、パンを半分齧り掛けて駅へ向かう。オランジュは急行でひとつ向こうの駅だ。7時53分にアヴィニョンを発って8時8分には着いてしまった。
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  Orange(オランジュ)
 フランスにある遺跡や建築の多くは、宗教戦争、フランス革命、第二次世界大戦などの被害を多かれ少なかれ受けている。オランジュにある二つのローマ遺跡は、その受難を免れた幸運な遺跡である。初代皇帝アウグストゥスがここを植民地とした時代のものというから紀元2世紀でのものである。プロヴァンスにはローマ遺跡が多くあるが、オランジュのものほどよくは残されていない。
 駅から遺跡までは1qほど離れている。駅から町の中心に向かって延びる大通りを歩く。中心街を西に貫く通りを進むと広場があり、ここにインフォメーションがある。ここを基点に北側の凱旋門と南側サントゥトロップの丘の麓にある古代劇場を訪ねる。
凱旋門/写真転載不可・なかむらみちお  町は眠っているようで車以外は人通りもない。肌寒く秋風のような感じの天気でTシャツの上に薄いウインドブレーカーを着て町の中心部へと向かう。先ず地図と標識を頼りに凱旋門へと向かう。かなり歩いてようやく到着。カメラを構えても辺りが薄暗いので絞りを開放にしてもシャッターが8分の一秒を指している。手振れの心配があるので慎重にシャッターを切る。
 パリの凱旋門に比べれば小さいが、BC2世紀頃に造られたものとしてはなかなか見応えがある。この凱旋門はカエサルのプロヴァンスでの勝利を記念して造られたもの。南側はかなり破壊されているが、北側の彫刻はほとんど無傷で残っている。カエサルの功績を讃える戦闘の場面が多い。
 凱旋門から今来た道を戻り、古代劇場へと向かう。途中パラパラと雨が降って来たが、間もなく止んだ。古代劇場近くの旧市街の広場はマルシェ(市場)が出ていて賑わっていた。魚屋さんの屋台、肉屋さん、お菓子屋さん、チーズ屋さん、日常雑貨を売る店などで通りは買物客で埋まっていた。
古代劇場/写真転載不可・なかむらみちお  古代劇場では何かコンサートの催しがあったらしく、後片付けをしていた。最上階の4〜5人の人が何か話している。どうやら日本語らしい。階段を上って行く途中でその中の老夫婦と会って話した。14日間の予定で二人でヨーロッパの主として世界遺産を見て回っているとのことだった。
 この古代劇場は舞台背後の石壁が2000年前と同じように残っている貴重な遺跡。巨岩を積み上げた壁面は長さ103mに及ぶ。 皇帝アウグストゥスの彫刻/写真転載不可・なかむらみちお 中央アーケードの上に建つ彫刻は皇帝アウグストゥスの堂々たる姿。アウグストゥス帝というのはなんと偉大な人なのだろう。アテネの町の中にもアウグストゥスの凱旋門があるし、ドイツのロマンチック街道には彼の名を冠したアウグストゥスブルグがある。ヨーロッパ各地に広く遠征したらしい。
 観客席は背後のサントゥトロップの丘にそのまま続いている。すり鉢状の劇場は、収容数7000の座席がほぼ完全に残り、音響効果も素晴らしいため、今尚オペラなどで活躍中である。丘の上から劇場とオランジュの町並み、その向こうに広がる平原を眺められる。最上階から見る古代劇場はなかなかの見応えがある。
 古代劇場を出て再びマルシェの中を通ってみる。賑わっているパン屋さんがあったので入ってみた。美味そうなのでバケットを一個買った。それを持って駅へと向かう。
 11時に駅に着いた。駅員に訊ねてみると11時32分にアヴィニョン行きの列車があるという事なのでそれに乗ってアヴィニョンへ帰る。アヴィニョン駅で明日のアルル行きと帰りの切符と明後日のマルセイユ行きの列車の切符を買った。
 街に行ってスーパーマーケットでハムを一個買って宿に帰り、手紙と日記を書く。

   8月4日(金)快晴 Avignon 07:15-08:05 Arles 16:45-(TGV)17:07 Avignon
 今日は7時15分発のバスでアルルへ行く。乗り遅れたら困るので昨夜はすこし早めの9時に寝たので5時半に目が醒めた。
 朝早い事でもあり、腹も空かないので朝食一式はアルルに着いてからゆっくり食べる事にして持って行く事にする。リックにカメラ機材を詰めて部屋を出る。玄関に行ったら扉が開かない。カウンターには鍵がひとつ乗っかっているので、きっと誰かが先に出た人がいるのに違いない。今朝早く水道の流れる音がしていたので間違いないと思う。それにしてもどうやって出たのだろう。観音開きの扉を開けるべくいろいろとやってみたが開かない。思い切り引っ張ったらバリっと大きな音がして開いた。
 ホテルを出ると更に車のゲートがあった。ここも鍵が掛かっている。うろうろしているとホテルの主人が出て来た。挨拶をして開けてもらってようやくセーフ。
 駅前には国鉄バスが停まっていた。乗り込む時、バスの運転手からバスの中は食事禁止だよと言われた。バスは強い朝の日差しを受けて早朝のアヴィニョンの街を通り抜け、アルルへと向かった。発車の時は3人位の乗客しかいなかったが、途中から数人が乗り込んで来た。
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  Arles(アルル)
 定刻、バスはアルルの駅前に到着した。駅舎に入り、持ってきたパンやヨーグルト、果物で朝食を摂った。昨日朝開封した牛乳はもう悪くなっていて飲めなかった。
 駅から町の方へ向かって進むと円形闘技場が見えてきた。ガイドブックによると9時開館となっているが未だ開いていない。外観の撮影をしているうちに10分ほど過ぎ、ようやく係りのおばさんが扉を開け始めた。しかし、知人と何か話をしていて受付は未だ始められていない。外人の夫婦連れが受け付けてくれるのを待っている。やおら話が終ってようやく受付を始め、中に入る事が出来た。
ローマ時代の巨大な闘技場/写真転載不可・なかむらみちお  紀元1世紀に建設された2層60のアーチからなるローマ時代の巨大な闘技場。当時は更に大きく、3層あったという。収容人員は20,000人。直径は最も広い所で136m、とフランス一大きい上、保存の良さでも知られている。
 フランス一大きいという事なので期待していたが、ニームとさほど変わらない様な気がする。見栄えはニームの方が良い。その昔、ここで奴隷を犠牲にした血なまぐさい競技が行なわれていた事を思うと複雑な気持ちになる。闘技場の一番上に上って撮影する。アルルの町が良く見渡せる。その向こうにはローヌ川が流れている。
 円形闘技場を出て右側から廻り込んで行くとすぐ古代劇場があった。中に入って見ると 半円形の階段式座席が舞台を見下ろす。現在舞台には数本の大理石の柱が残っているのみでほとんど破壊され、見るべきものはない。BC1世紀に建設された当時はこの柱の後ろに舞台の壁が高く聳えていたはずだ。ここまで破壊された今も、毎年コンサートやオペラの会場として劇場の役目を勤めている。今日もコンサートでも行なわれていたのか、後片付けの人やトラックなどが入り、作業をしていた。
 古代劇場を出ると隣はサン・トロフィーム教会である。この教会は中世、サンティアゴ・コンポステーラへ向かう巡礼路にある教会として巡礼者が訪れたことで知られている。その前を通り、アルラタン博物館を探す。近くの店で尋ねるとすぐ目の前だった。
 ここでは民族衣装を着た女性職員が出迎えてくれるというのでストロボを持って期待して来たのだが、撮影は禁止だった。残念。中は民族衣装や、民芸品などを展示して、アルルの風俗を知るようになっているが私には余り興味が持てなかった。
 街のインフォメーションに行き、街から3q離れた運河に架かるゴッホの跳ね橋への行き方を訊ね、バスで向かった。ガイドブックによると、バスの終点から歩いて1分と書いてあるが、全然それらしいものは見当たらない。途中の農家で訊ねたらもっと先だと言う。
最近再現されたゴッホの跳ね橋/写真転載不可・なかむらみちお  誰も居ない直射日光が照りつける灼熱の田舎の一本道をトボトボト20分程歩き、橋が見えたら左側に曲がってようやく着いた。橋は最近再現されたと言うことで真新しく黒く塗ってあったが時代を経たような風格がない。橋の撮影を終えてひとり又元来た道をとぼとぼとバス停へ向う。考えて見ると小銭がない。
 やがて時間通りに来たバスの運転手に200FFを差し出すとお釣りがないらしい。そのまま私一人を乗せてバスは走りだす。途中で数人の客を拾ってバスセンターに着いた。結局バス代を払わないで乗ってきた。
 運転手は駅へ行く乗り継ぎバスを教えてくれた。そのバスには未だ運転手が乗っていない。急いで近くのBarに駆け込み、200FF札を細かくしてもらった。バス代は5FF20セントだった。
 1時過ぎに駅に着いたら列車が入っていた。側に居た車掌に尋ねるとアヴィニョン行だと言う。本当は16時45分発のTGVの切符を持っていたのだが、これていいかと尋ねると良いというので飛び乗った。乗ると同時に列車の扉が閉まり走りだした。13時23分発のアヴィニョン行きの列車だった。車掌が改めて私の切符を見て、「セニョールOK」と言っている。実は私は全て60歳以上の老人特別割引で切符を買っているのだが、それは列車に依って割引率が複雑に違う。多分そのことを言っているのだろうが、もう列車は発車してしまった。今更どうすることも出来ない。そのまま検札は終って席に着いた。
 アヴィニョンに着いたその足で、昨日マークして置いた駅前のパン屋さんでバケットをひとつ買った。実はアルルの駅前で昼食を摂るつもりだったが、突然列車に乗ってしまったので空腹のままアヴィニョンまで来てしまったのである。
 そのパンを齧りながらメインストリートを行き、兼ねて行き付けのスーパーマーケットで牛乳を買った。ふと見ると冷えたハイネッケンの缶ビールが目に付いた。500mlで5FFだった。それも買って外の広場のベンチに腰を降ろして一気に飲み干した。(後で分かったことだか、フランスでは屋外でアルコールを飲むと法律に触れることになる)
 少しフラフラといい気持ちになりながら宿に帰って来た。部屋の電球が昨夜突然切れてしまった。それを昼の内に直して置いてくれたかと思ったが、直っていないのでフロントに行って直して貰った。大きなお尻の黒人ぽい若い女性が脚立に乗って取り変えてくれたので、脚立を押さえてあげたが目を上げると目の前のこの大きなお尻が落ちて来たらどうしようかと思った。
 彼女はその前にスペアの電球を一つ手元から落として割ってしまった。もうひとつの電球をソケットにねじ込もうとして、またもや手元から落としたのを反対側の手で運良く捕らえた。なんとか修理は終り、明かりが点いた。
 今日一日の資料の整理と日記を書き終えたら5時を回っていた。一昨日買ってきたワインで一杯やる事にする。今夜のワインは美味い。

   8月5日(土) Avignon 08:26-(TGV)09:25 Marseille
 8時25分アヴィニョン発のTGVでマルセイユへ向かう。TGVは快適にマルセイユへと無停車で直行する。
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  Marseille(マルセイユ)
 マルセイユ・サン・シャルル駅に着いてから街へと降りて行く大理石の大階段がきつい。ヒーヒー言いながらようやく降りたが、帰りはどうなるのだろう。
 マルセイユは人口約百万、フランス第三の都市。別荘地のニース、カンヌ、モナコ公国にも近い。高層ビルが立ち並ぶ目抜き通りカヌビエール大通りの坂を下ってゆくと、旧港に出る。
 今日の宿は予約を二回と、ニースからFAXを入れているのに一度も返事がない。一体どうなっているのだろう。
 地図を頼りに訪ねて行くとホテルは一応在った。二階の受付に行くと予約されていた。料金を前払いしてくれと言う。但し、クレジットカードの機械が壊れているので現金で払えという。いったいどこまでふざけたホテルなのだ。風呂もシャワーもない安宿だが、その代わり値段の方は一泊163FF円と飛び切り安い。
 入室は1時からと言う。荷物を預けて旧港へと向かう。旧港の中央、ベルジュ埠頭では毎朝、獲りたての魚を売る漁師やおかみさんたちの威勢のいい声が響く。イフ島への遊覧船はここから出る。昔、画家を志す卵達が日本から船で来てここに上陸、駅前の大理石造り大階段を上ってマルセイユ駅からパリへと向かった。
 先ず、インフォメーションに行って街の歩き方を訪ねた。その後、バスで小高い岩上の上に建つ白い教会、ノートルダム・ド・ラ・ギャルドバジリカ聖堂へと向かう。ここからイフ島が良く見えると言う。バスをどこで降りたらよいか分からなかったので、適当にそれらしいところで降りたが、凄い急な坂を登った。目的地まではそこから上り坂をかなりな歩きになってしまった。
地中海に浮かぶイフ島/写真転載不可・なかむらみちお  寺院の頂上のマリア像が金色に光る山上に立つと、視界を遮るものは何にもなかった。イフ島を始め、街が一望に見えて見晴らしが良く、マルセイユのすべてが見えた。但し、地中海に浮かぶイフ島はここから写すのには少し遠過ぎる。
 再びバスで出発点の旧港に降りて来る。漁港の趣が今も残る旧港は街の中心部にあり、周辺にはブイヤベースを食べさせるレストランもある。船が戻れば魚の市が立つ。ここは主に午前中獲り立ての海老、ウニ、貝、魚等を売る屋台が出ており、マルセイユの風物詩となっている。港には漁船、モーターボート、ヨットがひしめいている。新港と呼ばれる大型船の港は別にあって、ここは小型船の専用港だ。
港に面したオープンカフエー/写真転載不可・なかむらみちお  少し疲れた。それに腹も減ってきたし、持っているペットボトルの飲み水が底を尽いてきた。旧港の回りにあるレストランの一軒「オスカー(Oscar)」で港に面したオープンカフエーに席を取り、ここの名物料理ブイヤベースと白ワインを頼んだ。
 古くからの漁港、マルセイユの郷土料理として知られるブイヤベースは、新鮮な海の幸を使ったスープ。魚介類はすべてそのままの形で使用し、トマトやサフランと一緒に煮込む豪快な料理だ。
 魚の種類は特に決ってはいないが、カサゴとムツは必ず入っている。それにタイやヒメジ、トラギス、アンコウ、アナゴなどを加え、最低4種類の魚が入る。
 オリーヴオイルで炒めたタマネギ、ニンニク、トマトに小魚を加え、湯を注いで煮込んだものがだし汁の基本。ウイキョウ、パセリ、塩、コショウで味付けし、パスティスを加えてこしたものがスープになる。この中に主役となる魚たちとジャガイモを入れて煮込み、火が通ったら取り出して、塩、コショウ、サフランで味を調整して出来上がり。
 魚とスープは別の皿で出て来る。ニンニク、オリーヴオイル、トウガラシを混ぜた辛いペースト、ルイユで味を調整しながら、魚とスープは別々に食べる。
 そもそもは余った魚を使って料理していたものだが、今ではサフランが高いので、高級料理の仲間入り。
ここの名物料理ブイヤベースと白ワイン/写真転載不可・なかむらみちお  先ず、スープが出てきた。これにラクレットのように焼いたパンにペーストと刻んだチーズを載せ、それをこのスープに浮かべて飲んだ。磯の香りがする。その後、魚を煮た物が皿に乗せられて出てきた。それを運んで来たウェイターがナイフとフォークで丁寧に仕分けしてくれた。どうやらカサゴのようだ。それに黄色い汁を掛けて食べる。その黄色はサフランだそうである。時折港から吹いてくるそよ風が心地良く頬をなでてゆく。
 北海道の漁師町にはザッパ(雑端)汁という魚の鍋料理がある。これは商品価値の低い雑魚のアラ(粗=魚類などのおろし身を取った後に残る頭・骨・えら)ごと煮込むのでダシが出て大変美味しい。子供の頃には良く食べたものである。ブイヤベースも魚を丸ごと煮込んだ料理でよく似ている。従って味も似ている。
 隣の席の紳士が話し掛けてきた。パリから来たそうだが、パリは連日雨と曇りだが、ここは晴れていて嬉しいと言っていた。
 地中海岸に沿った地方にも城が多い。中でも面白いのがマルセイユ港外にあるイフ島の城塞で、これはモンテクリスト伯の舞台ともなり、歴史的にも古い。デュマの小説「岩窟王」で、モンテクリスト伯が閉じ込められたのがイフ島である。実際多くの政治犯の監獄として使われたという。港からイフ島に行く遊覧船が出ている。
 レストランを出てから船でイフ島に渡ろうとしたが、風が強くて今日は船が欠航とのこと。已む無く今度はバスでケネディ海岸へと向かった。このほうがイフ島が近く見える。適当な所でバスを降り、アングルを求めてかなり歩いた。暑い!ようやく見つけた撮影ポイントは広い駐車場なのだが。金網が張ってあって見通しが悪い。金網に攀じ登って片手で金網にしがみ付き、片手で300oレンズを付けたカメラを構えるが画面がぶれてあまり良くない。
 そこを出て左手に少し行くと何かの施設になっていて、中には入れない。更にその先を行くと海岸縁を回り込んだようにしてようやく適当な場所を見付ける事が出来た。風が強い。
 撮影を終えて再びバスで旧港に帰って来た。その足で一旦宿に荷物を置いてからスーパーへ食料品の買い出しに行って来た。ヘミングウェーはエクス・アン・プロヴァンスでキャップテン・クック印の鰯のオイル漬け缶詰を買ったそうだが、このスーパーには生憎キャップテン・クック印は無かった。鯖の缶詰が在ったのでそれを買ってきた。今夜は残りの米を炊いて、インスタント味噌汁とこの鯖の缶詰で食事をする事にする。果たしてホテルでレンジを貸してくれるかどうか。
ボルドー(メドック)の赤ワイン/写真転載不可・なかむらみちお  宿に帰って早速スーパーで買ってきたボルドーの赤ワインを開けた。矢張りボルドーのワインはコクがあって美味い。ボルドーの味がする。としか表現出来ない。味を説明するのは難しい。フロントに行き、レンジを貸して欲しいと頼むと断られてしまった。そうこうする内に、明日はダメだが、今日だけは私が炊いてあげると言うのでお願いした。途中で私が最後の仕上げをしたが、すでに水加減は彼女がしているのでお粥のような糊が泡立っていた。それに米を洗っていないし、うるかさ無いでいきなり炊いているからどんなご飯が出来る事やら。
 最後に少し蒸らして蓋を開けて見ると少し柔らか、少し芯があって複雑な味だが、まぁいける。残念ながらふっくらというわけではないので日本の味というわけにはいかなかった。だが、なかなか豪華な夕食となった。窓から見える旧港の建物が折からの夕陽に照らされて茜色に輝いていた。夕焼けが美しい。きっと明日は晴れだろう。
 ガイドブックには静かなホテルと書いてあるが、9時を過ぎても窓の下の通りは賑やかだ。

   8月6日(日)晴 Marseille-(船)Iles du frious-(船)Marseille
 昨日は風が強かった為にイフ島に渡れなかったので、今日は朝一でイフ島に行くことにする。早朝なら未だ風が出ないだろう。その前に旧港付近に出る朝市の様子を撮影した後に9時発の船に乗るつもりで8時頃宿を出た。
旧港の朝/写真転載不可・なかむらみちお  港に行ってみると朝市は未だ出ていなかった。1〜2軒の店が店開きの準備を仕始めたばかりだった。
 イフ島へ行く船会社の窓口へ行って見ると今日も風が強いのでイフ島には行かないと言う。仕方がないから途中の下見を兼ねて明日のニース行きの切符を買いに駅へ行く。
 駅の切符売場に並び、私の番がきたので窓口へ行くと、当日券しか売らないと言う。これまでの駅では必ず売ってくれたのになぜなのか納得がゆかない。
 ホームに入ってひと回りし、フト見ると列車のインフォメーションがあった。そこで列車の時刻表を貰ったが、先の切符売場の時刻表とはだいぶ違う。一体どうなっているのだろう。
 駅前は見上げるほどに高い大理石の大階段が続く。少ししんどいけれど重たい鞄を下げてこの階段を登るしかないだろう。それから切符を買う事を考えたら少し早めに宿を出てきたほうが良さそうだ。
 フランスの街の中は犬の糞が多い。うっかり周りの景色などに気を取られていると大変な事になる。
 宿に帰ってもすることはない、きっとメイドさんが来るから煩わしい。時間を過ごす方法を真剣に考える。一応、旧港に行ってみることにする。街をうろうろする事はそれだけスリなど周りから狙われる機会が増える事になるからなるべくはうろつかないほうがいいのだが已むお得ない。
 途中のお土産屋の店頭で何気なく絵葉書を見ていたら、イフ島の隣の島(Iles du frious)から撮ったイフ島の写真があった。これだ。よし、とばかり旧港の船乗り場に行くと、今まさにその島へ行く遊覧船が出るところだ。切符を買っている間にその船は出てしまったので次の船に乗り込む。マルセイユの港の入口には古代から警備のために二つの城塞がある。港の突端を抜けると、間もなくイフ城だ。25分とかからない。
巌窟王で有名な離れ島の牢獄イフ島/写真転載不可・なかむらみちお  イフ城はデュマの代表作のひとつ「モンテクリスト伯」の主人公エドモン・ダンテスが14年間の幽閉生活を送った城である。断崖絶壁に囲まれた離れ島の牢獄に、燃えるような復讐心をたぎらせながら、憂悶の日々を送らねばならなかった「巌窟王」が目の前に在る。ここは古代からの港の警備のための城であった。
 船はまさにバッチリとイフ島の近くを通って次の島Iles du friousへと航行した。島に着いて近くの一番高い場所に向かう。どうやら廃城のようだ。道らしい道もないところを迷いながらようやくイフ島の見える所に辿り着いた。と、同時に大きな船が近くを通り、画面に色を添えてくれた。その後、カメラのブラケット装置を使って露出を変えて撮影しようとしたが調子が悪く、フイルムが全部撮影済みの方に送られてフイルムENDになってしまった。新しいフイルムと入れ替えてマニアルで撮影する。
Iles du friousから見たイフ島/写真転載不可・なかむらみちお  帰りの船もイフ島の間近を通ったのでバッチリと撮影。旧港に帰り、陸に揚ってからあまり暑いのでビールを飲むことにしたが、今日は日曜日なのでどこの店も開いていない。
 宿の近くの町並みの視察を兼ねて近所をうろつき、ビールを売っていそうな店を探す。この辺はアラブ人街で治安はあまり良くない。通り掛かりの街角に佇む青年にビールを売っている店はないかと尋ねると、案内するという。但し、チップを要求されたので断った。ようやく一軒のBarで缶ビールを見つけて飲む。12FFは安くはないが今日は仕方がない。
 宿に帰ってシャワーを浴び、資料を整理した後テレビを点けると、三船敏郎が出ていた。セリフも日本語だ。オヤと思ってそれを一時間半ほど観たが、どうやら「将軍」という映画らしい。あまり面白い映画ではない。映画の後ワインを飲み始め、夕食を済ませた。
 近くのエクス・アン・ブロヴァンスはセザンヌが生まれ、息を引き取った地である。彼のアトリエもある。

   8月7日(月)晴 Marseille 07:22-09:39 Cannes 11:28-12-20 Nice
コート・ダジュール 駅前の大理石の大階段/写真転載不可・なかむらみちお  午前6時起床。顔を洗って7時10分前に宿を出る。駅までは20分で着いた。駅前の大理石の大階段はきつい。タクシーを使えば上まで回り込んで行けるのだが、歩きだとどうしてもこの階段を荷物を持って登らなければならない。海外旅行は金や語学力ではない。気転、気力、体力だ。見知らぬ土地へ乗り込んで行く旅は賭けだ。毎日が冒険だ。将にサバイバルゲームである。見上げるほどに聳えるピラミッドのような石段を前にして、まず先にリックを最上段まで運び、その後鞄を持ち上げる。
 切符売場に行くと7時22分発の切符を売ってくれた。5分間しか時間がない。先ず、ホームの売店で朝食用のクロワッサンを買ってから列車に乗り込むと同時に列車は動き出した。
 マルセイユの東、およそ40qにあるLa Ciotatはリュミエール兄弟の映画発祥の地である。

 ※映画の誕生…1839年、フランスの画家ダゲールが写真を発明して以来、多くの人々によって動く映像の試みがなされた。その結果、たくさんの競争者にうち勝ってもっともすぐれた機械を作り出したのが,フランスのリュミエール兄弟だった。マーレイの〈クロノフォトグラフ〉とエディスンの〈キネトスコープ〉を総合して,同時にカメラであり,映写機である<シネマトグラフ〉をリョンの工場で作ったリュミエール兄弟は,1895年12月28日,パリのグラン・カフェの地下室で最初の公開上映を行ない,大きな成功をおさめた。リュミエール兄弟は新しいすぐれたカメラと映写機ばかりでなく,本当に動く写真をもたらした。「列車の到着」ほか数本の短編は,既成の絵画や漫画やパントマイムや軽業やダンスや演劇のイメージをはなれて真に映画的なイメージをもたらしたのである。
 こうして,映画は発明家たちの実験室を出て,大衆の前にその全貌をあらわした。ここに映画の新しい時代がはじまるのである。(佐々木基一)「現代映画辞典」より。
 シネマトグラフを実現した光栄は、ルイ・リュミエール(一八六四年─一九四八年)に帰する。一八九五年二月十三日、彼は<クロノフォトグラフの原板の獲得と観覧に使用される装置>の特許をとった。クロノフォトグラフは、マレイが一八八八年に発明した装置である。シネマトグラフの最初の試写会は、一八九五年三月二十二日、レンヌ街四四番地の《国民工業奨励協会》で行われた。映写されたのは『リュミエール工場の工員の退出』であった。ルイ・リュミエールは、この処女作品に次の作品を加えて、一八九五年六月一日、リヨンで試写した。
  『リヨンの株式取引所広場』
  『ヴォルティージュの指導』
  『鍛冶屋』
  『さかなを釣る赤ん坊』
  『火事』
  『水をかけられた水まく人』
  『赤ん坊のおやつ』
 十一月十六日、以上の作品がソルボンヌで映写された。一八九五年十二月二十八日、プールヴァール・デ・キャピュシーヌ一四番地の《グラン・キャッフェ》の地下室《サロン・アンディアン》で、シネマトグラフは大衆に接した。それは本当の大衆、好奇心の強い大衆、入場料を払う大衆だった。シネマは始まったのである。(「映画の世界史」ロ・ズカ著:白水社)
 リュミエール兄弟は、更に若干の作品をつくり、世界最初の映画興行ともいうべきものを同年十二月廿八日より巴里キャプシイヌ街のサロン・アンデイアンと呼ばれたグラン・キャフエの地下室で行った。上映作は十本、何れも長さ十七米の短篇で、「停車場へ汽車の到着」「荒れた海」等の実写であるが、その中に、只一本「水をかけられた撒水夫」は、喜劇的なシチュエーションを持っていた。この事実は、映画が実写と喜劇より出発したということを示し、映画の本質を考えるとき甚だ興味もあり、且重要なことであると思う。(「映画講座第一巻、映画の歴史」三笠書房:岡田真吉)

「列車の到着」又は「停車場へ汽車の到着」は前記La Ciotat駅で撮影された作品である。
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  Cannes(カンヌ)
クロワゼット大通りには高級なホテルやブティックが建ち並ぶ/写真転載不可・なかむらみちお  映画祭で有名なカンヌ。5月の陽光の下、世紀の大スター達が一堂に集る。カンヌには9時30分に到着。カンヌの駅は以外と地味で、ここに降り立った限りでは街の華やかな空気は伝わってこない。まず、ロッカーを探す。ロッカーは使えず荷物預所に一個20FFで預ける。初めはロッカーに全部入れて必要なカメラだけ持って行く心算だったが、荷物預所では一個に付き20FF掛るのでリックは担いで行くことにした。構内にインフォメーションがあるのでここで地図を貰う。
 駅前広場を横切り、駅を背に5分ほど進むと海岸に出る。途中で見掛けたカンヌ映画祭が行われる映画館は以外とこじんまりしており、わが目を疑った。駅と海岸との間に広がる一帯が新市街で、世界の大スター達が華麗な饗宴を繰り広げる。
 モナコを経てイタリアに続く地中海沿岸がコート・ダジュールだ。その先にリヴィエラがある。水色の海岸の名のとおり、紺碧の海岸線が続く。澄みきった大気、ふり注ぐ陽光、ここはまさに別天地。
紺碧の美しい海岸線/写真転載不可・なかむらみちお どちらを見てもトップレスばかり/写真転載不可・なかむらみちお アフロディテ?/写真転載不可・なかむらみちお  美しい海岸沿いのクロワゼット大通りには高級なホテルやブティックが建ち並び、四季の花が通りを飾っている。ここが市の中心である。海岸沿いに東に500mほど歩いて撮影ポイントを探す。パブリック・ビーチの砂浜にはトップレスがわんさかわんさか。
 真夏の燦々と降り注ぐ太陽の直射日光を受けて歩くのは辛い。気温は30℃位あるのではないだろうか。目がくらくらするのはあながちトップレスのせいばかりではない。そこでの撮影を終えて駅へと引き返す。途中でパンとビールを買い、ビールを飲みながら駅へと向かう。(フランスでは屋外でアルコールを飲みながら歩くとお巡りさんに捕まります)。
 カンヌ駅に着くとあと5分でニース行きの11時30分の列車がある。大急ぎで預けた荷物を受け取り、ホームへと向かう。
 ホームに降りる入口で駅員が切符をチェックしている。今迄こんなことは無かったのに初めての経験だ。ひとりの駅員がこの切符はダメと言ったが、もう1人の係員がOKと言う事で無事通過。ホームに駆け上ったところに列車が入って来た。ニースまでは各駅停車で12時20分に着いた。
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  Nice(ニース)
 ニースはコート・ダジュールの中心地である。ニース駅では先ずインフォメーションに行き地図を貰い、ホテルの場所を確認した。道路一本挟んで隣が教会だから分り易い。アヴィニョンとマルセイユのホテルもそうだったが、ここニースのホテルも予約確認の返事が来ていないので心配だ。一体どうなっているのだろうか。今夜泊れるかどうか心配である。
 ホテルに着くと予約されていた。部屋は先ず先ずだが、窓の外は通りに面しており、車の通る音がかなりうるさい。それでも窓を閉めればなんとか寝られるだろう。
 早速海岸へ撮影に行く。気温は多分30℃を越えているだろう。ここはニースを中心とするフランス屈指の高級リゾート地。この地を照らす陽光は、ピカソ、マティス、ルノワール、シャガールといった画家たちを魅了した。世界のおのぼりさんが押し寄せるのがパリなら、世界中の金持ちが集るのがニースだ…ということになっているらしい。海岸通りに建ち並ぶホテルはいかにも高そうだが、それだけに美しく、南洋樹の生える海岸通りの美しさを引きたてている。
 美しいアンジュ湾(天使の湾)に沿ってメインストリートのプロムナード・デ・ザングレPromenade des Anglais(イギリス人の散歩道)が全長3.5q延びている。ここには超一流ホテルが集中していており、それぞれプライベート・ビーチを有している。その間にパブリック・ビーチがあり、こちらは自由に入れる。重いカメラ機材を背負って直射日光の下を黙々と歩くのはかなり辛い。喉が渇き、目がくらくらしてくる。
美しいアンジュ湾(天使の湾)/写真転載不可・なかむらみちお  海が綺麗だ。真青な海と空。手を入れると藍色に染まりそうなくらい美しく、回りの白い高層ビルのホテルと椰子の木との調和がなんともいえず、まるでカレンダーの写真でみた南仏コート・ダジュールの避暑地そのものである。紺碧の海とはこういうのを言うのだろう。この景色を見ただけでも来た甲斐がある。バカンス客や海水浴客で大変な賑わいだ。肌をやく美女たちは、言わずもがなだがトップレス。プリッ、プリッ、プリンのオッパイが勢ぞろい。「ブラをしているとかえって恥ずかしい」とは、ある日本人女性の弁。
眼前に広がる地中海の絶景/写真転載不可・なかむらみちお  プロムナード・デ・ザングレの東端、海に突き出た丘の上の城跡に上ってみる。途中までリフトで登れる。階段で登ると頂上まで約10分。標高93mの丘の上からは、ニース市街、アンジュ湾、プロムナードなどが見える。展望台に立つと眼前に広がる地中海の絶景が、まさにニースを訪れている事を実感させてくれる。海の青と家々の屋根の赤が鮮やかな対象をなしている。素晴らしい眺めだ。こんな美しい海は見たことがない。これだけでも来た甲斐がある。
ワインラベル。安い割には美味い/写真転載不可・なかむらみちお  城跡から海岸を撮影した後、旧市街へ行く。ここのフランソワ・ポール通りには花市場が並んだいた。この辺りは魚屋とか安いレストランが多い。帰り道でスイカを売っている店を見つけた。中に入ってスイカを食べる。美味い。こちらに来て初めてだ。どうやらカンボジア人の店らしい。そこを出て、ホテル近くのスーパーマーケットで食料品を買い込む。ホテルに帰ってシャワーを浴びた後、早速ワインと先の店で買ってきた米の炊き込みご飯で夕食とする。日本人は矢張り米の飯を食わないと力が出ない。

   8月8日(火) Nice 09:00-(バス)09:20 Eze 11:35-(バス)12:00 Nice
 余すところ10日。残るところは全日程の四分の一である。
 旧市街近くにある長距離バス・ターミナルからバスに乗ってEze(エズ)へ向かう。海岸線に近い断崖の一番高い所を走る道路からは眺めがいい。バスは30分ほど走ってニースとモナコの中間にある小さな村、エズに着いた。
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  Eze(エズ)
 Eze-Villageで下車、村のある方に坂を登って行く。ここは、ニーチェが『ツァラトゥストラ』の想いを得た場所といわれ、豊かな緑と白い岩の対象、海の遠景が美しい。インフォメーションで地図を貰い、山道を登って行く。
エズの街並みは要塞化して迷路のようだ/写真転載不可・なかむらみちお  高い丘の孤立した頂上に城壁を巡らして敵の侵入を防いだこの地方特有の要塞村がそのまま保存されており、真っ白な石で舗装された狭い通りと石造りの家々が実に面白い。ごく小さな村だが、迷路のように道が入り組んでいて、歩き飽きない。石造りの家々に挟まれた入り組んだ道を上へ上へと登って行く。村の家々は今はみやげ物を作る職人の仕事場となっており、金銀細工や宝石をはじめとするさまざまな工芸品がショーウインドーを飾っている。
エズの村から望む紺碧の海。フェラ岬と地中海の眺望が素晴らしい/写真転載不可・なかむらみちお  かつて村の中心だった高台の城跡は、現在熱帯植物園となっており、15FF払って入場する。ここからのフェラ岬と地中海の眺望が素晴らしい。
 <大地は皮膚を持っている。そしてこの皮膚はさまざまな病気に侵されている。その病気の名の一つは「人間」である>。そう言ったのは、哲学者ニーチェだ(「ツァラトゥストラ」)。この素晴らしい紺碧の海を眺めていると人間の罪の深さをしみじみと考えさせられる。
 眺望を満喫した後、再び先ほど来た狭い迷路をさまよい、路地の両側のお土産屋さんを交互に覗いて見る。迷路を通り、村を出た所で右側に香水屋さんがあった。そこで気になっていた娘と妻へのお土産にと小さな香水セットを各一組ずつ買った。
 カンヌに近いGrasse(グラース)は香水の町。現在パリで活躍する調香師(香水を調合する人)の大半はグラース出身といわれる。このエズの近くにも香水工場がある。
 これで気にしていたお土産の一部を一応買ったのでひと安心。元来、お土産など買う気がないからいっさい店に立ち寄らないし、見てもつまらない物ばかりが並んでおり、それらの品々を見ているだけでも目眩がする。買うと荷物になることを考えると買う事への一種の恐怖心が先に走るのだ。
 バス停に行ってバスの時間を見ると、あと30分時間がある。その辺の店を流して見る。一軒の雑貨屋さんで冷えた缶ビールを売っていた。聞くと7FFと安い。あんまり暑いのでこれを買い、バス停が丁度日陰だったのでそのビールを飲みながらバスを待つ。
 ニースに戻ったのが丁度12時。このままホテルに帰るのには少し早過ぎる。花や果物の屋台が並ぶ旧市街に入ってみる。北に向かって坂を登って行くと、狭い路地に魚や肉やチーズを売る店がひしめいており、飽きさせない。
 政府観光局から貰ったパンフレットに書いてあった旧市街の庶民的なワインショップCaprioglio(カプリオグリオ)(16,rue de la Prefecture Nice)を尋ねるとすぐ分った。店の中に入ると左側にカウンターがあり、そのすぐ後には天上まで届くワインの大樽が数個、壁にはめ込むように並んでいる。そこに地酒が貯蔵されている。この店では空ボトルなどの容器を持ってゆくと好きなだけお好みの良質なワインを手頃な価額で量売してくれる。そこで私も地酒のワインを量売で水筒に入れて貰った。
 ワインショップを出てからはその付近の商店やレストラン、パブ、Barなどがひしめきあう旧市街の路地を流してみる。一軒の店先で、「ソッカー」と言うエジプト豆の粉に塩味を付けて焼いた薄いクレープを売っていたのでそれを買った。店主はそれをくるっと丸い筒にした紙に入れて手渡してくれた。それを食べながら更にその辺を流してみる。降り注ぐ太陽の下で食べれば、どんな料理でもご馳走に変身してしまう。その他に、ニースにはツナ、トマト、セロリ、アンチョビ、ゆで卵、ピーマン、黒オリーブなどにオリーブオイルをかけたニース風サラダなどがある。
 カメラ一式の入ったリックを背負っているので疲れた。1時を廻ったので一旦宿に帰ることにする。ホテルで一服した後、4時頃駅へ向かう。途中の店でこの地方の食べ物、「フアシル」を見付けた。これはピーマンやズッキーニの花などの野菜に肉詰めした言わば野菜のてんぷらだ。店の中で食べてみた。てんぷらの掻揚げを固く揚げたような物であった。私の口には合う。
 駅へ行って明日のモナコ行きの切符を買おうとしたら、明日の分は明日だと言う。それで明日のモナコ行きと、明後日のサン・トロペ行きの時刻表を貰った後、駅の中を視察する。矢張りここでも改札口を入ったところで駅員が切符の有無をチェックしている。同じ国の国鉄でどうしてこうもシステムが違うのだろうか。腑に落ちない。
 その後、ホテルに帰り、先ほど量売で買ってきた地酒のワインで一杯やる。安い事もあるが、心なしか薄味な感じがする。コクがない。ボージョレー・ヌーヴォーのような軽い感じだ。
 7時からテレビのニュースを見て9時頃に寝る。

   8月9日(水) Nice 09:09-09:27 Monaco 14:25-14:09 Nice
 午前3時頃、隣の部屋に入って来た人たちがうるさくて目を醒ました。アラブ系の音楽を掛けて声高に話したり物を置く音などで寝付かれない。已む無くテレビを点けて隣の音を凌ぐ。5時半過ぎにようやく物音も静まり、いつの間にか私も眠ってしまった。気が付くと8時前だった。
 今日はモナコに行く予定で、モナコ公宮殿で毎日11時55分から行われる衛兵交代に間に合えばいい。ニースからモナコまでは30分弱だからゆっくり行っても間に合う。成り行きで駅へ行くと9時9分発の列車が来る所だった。それに乗ってモナコへ向かう。
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  Monaco(モナコ)
 モナコは「国」である。面積僅か1.95kuとバチカン市国に次ぐ世界第二の小国だか、ひとつの独立国なのだ。といっても通貨はフランス・フラン、言葉はフランス語、国境審査もなしというわけで、あまり国境を越えた気がしない。
王宮から眺めたモナコ港/写真転載不可・なかむらみちお  駅を出て目の前の坂道を下がると、広場の手前、丘の上に建つのがモナコ公の大公宮殿。デ・アルム広場から緩やかな階段を登って数分で王宮に着く。王宮からは眺めも良く、モンテカルロのF1コースを一望出来る。モナコ港の向こうにはモンテカルロ地区が拡がる。有名なカジノはそこにある。11時55分からの衛兵交替の時間には未だ間があるので、途中の商店街をうろついて時間を潰す。それでも未だ時間があるので大公宮殿の中を見ることにした。
 小独立国モナコの城は宮殿でもあり、現在も王家が使用している。宮殿の中にはグループ毎に案内され、所々でフランス語のテープを聞かされ、ひと区切り毎に聞き終わってから次に進むのでフランス語の分らない私には退屈極まりない。入った事を後悔する。
衛兵交替の対面式は毎日11時から始まる/写真転載不可・なかむらみちお 衛兵交替の対面式/写真転載不可・なかむらみちお  11時半頃から見物客が宮殿前に並びだしたので私も並んだ。直射日光に照らされて待つのはかなり辛い。11時55分、セレモニーが始まった。5人の衛兵が新たな5人の衛兵と対面式をしたあと交替した。

 ※グレース・パトリシア・ケリー(Grace Patricia Kelly、1929年11月12日-1982年9月14日)。ハリウッドのスターからモナコ公国レーニエ大公妃に華麗に転身した。
 1951年、22歳で映画にデビュー。スタンリー・クレイマー監督が『真昼の決闘』でゲイリー・クーパーの相手役に抜擢した。映画監督アルフレッド・ヒッチコックのお気に入り女優で『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』などの作品でヒロインをつとめている。
 1954年に『モガンボ』でアカデミー助演女優賞にノミネートされ、1955年には俳優ビング・クロスビーの妻役でシリアスな演技を見せた『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞。
 モナコ大公レーニエ3世(在位1949年 - 2005年)と1956年結婚。公妃となったため女優業を引退、同年のミュージカル映画『上流社会』が最後の作品となった。
 52歳の時モナコの高速道路をドライブ中、脳梗塞を起こして交通事故となり、意識が回復せずに翌日急死した。実際は次女ステファニー公女が運転していたとも言われているが真相は不明である。

 見知らぬ土地に乗り込んで行く旅も「賭け」の一種だが、やはり一度は正式に投資してギャンブルなるものを経験してみたい。“当たるも八卦、当たらぬも八卦”、とにかくやってみない事には始まらない。日本で賭け事といえば麻雀、競馬といったところで、大衆的或いは暗いイメージが付き纏う。けれどモナコのカジノは違う。高級社交場なのだ。たとえ「賭け事と名の付くものは一切やらない」と決めていたとしても、ここを覗いてみる価値は充分にある。
ギャンブルの殿堂国営のグランド・カジノ/写真転載不可・なかむらみちお カジノの正面上部/写真転載不可・なかむらみちお  カジノのあるモンテカルロ地区は、モナコ地区から深い入り江になった港沿いの道を歩いていった所にある。左手の立派な建物が国営のカジノ。夏の日中ならネクタイ無しでも入れる。
 カジノの入口ではガードマンが3人も立ち、カメラと手提げを預けさせられた。サロン・ウーロベレ50FF、サロンプリベ100FF、スロットマシーン1FF。ルーレット赤・黒、確立二分の一、配当2倍。中に入るとスロットマシンが並んでおり、その前で大勢の人が一攫千金を夢みて投資していた。私も大金を手にしたら豪邸を建てようと思い、挑戦してみた。私は若い時に一度だけパチンコをやってことがあるが、ギャンブルは一切やったことがない。今回初めて「掛け」に挑戦してみた。先ず、100FFを両替してもらったがマシーンの使い方が分からないので他の客がやっているのをしばらく観察した。そのあと、一台の機械に向かって2回やったが、しっくりしない。ある女性が使っていた機械を見ていたら盛んに出ている。パチンコも台を選ぶというから、スロットマシンも出る機械とそうでない機会があるはずだ。その女性が使い終わるのを待った。ようやく立ち去ったのでその機械で始めたら確かに出る。
 ギャンブルと云えば“完敗”するのが常だが、この日はささやかながら違った。少し儲かったところで止めておいた。矢張り高級社交場のギャンブルは一味違う。手元のプラスチックメダルは200FFになっていた。それを両替して帰って来た。儲かった100FFを元手にレストランでワイン付きのランチを食べた。
 すると自然に鼻歌が出てきた。
   ♪“乾杯!!モンテカルロ”
   そして、24時間の激しいキッス!
     夜明けまで…。
   恨まないのがルール。
        ひとりだけのパラダイス!
 “君の瞳に乾杯!”。
 ニースに着いてからスーパーマーケットに行き、食料品の補給をしてホテルに帰った。

   8月10日(木) Nice 07:02-08:10 St.Raphael-(船)St.Tropez-St.Raphael 13:57-(船)14:58 Nice
 余すところ一週間。今日はサン・トロペに行ってくる。先ず、7時35分の列車に乗るべく宿を6時半に出た。駅に行くと7時2分の列車があるというのでそれに乗るべくホームに出る。
 列車がまさにホームに差し掛かろうとするところに見たことのある男が線路を横断してこちらのホームに来た。その男は私に向かって何か話し掛けてきた。ホテルのフロント係りだった。どうやら宿賃の取立てに誰かを追って来たらしい。列車のデッキでその男と遣り合う。私は今夜にはホテルに帰って来る。荷物も置いてあると説明する。しかし納得がゆかないようだ。何号室だと聞く。私は咄嗟には答えられなくて戸惑った。ようやく思い出して部屋番号を言う。そしたら彼はそれなら1泊だと言う。違う、私は4泊だと言う。パスポートを見せれと言うからコピーを見せ、兎に角今にも列車が発車しそうなので列車に乗り込む。これで相手が納得したかどうかは分らないが、私はそのまま列車の人となる。朝からなんとも気分の悪い出来事であった。
 サン・トロペはカンヌの先のサン・ラファエルからバスか船で行く。ガイドブックによると船の方が都合が良いと書いてある。
 St.Raphael(サン・ラファエル)駅のインフォメーションで尋ねると橋を渡って駅の反対側だと言うので行ってみる。そこにはバスセンターがあった。一台のバスの運転手に尋ねると、あそこの1番のバスに乗れと言う。船で行きたいと言うと鉄道のガードを潜って行けと言う。言われるように行ってみると、「Port」と言う文字と矢印の表示があった。船は港から出るもの。港に行けば分るだろう。港に着いたが、港は広い。近くのレストランで準備中のお兄ちゃんに尋ねると、あそこに見える青い船がそうだと言うのでそちらに行ってみる。
サン・トロペ行きの観光船/写真転載不可・なかむらみちお  ボート乗場に着いたが、未だゲートが開いていない。船の近くで準備をしていた人に尋ねると、一時間後の9時30分出航だと言う。
 近くの海岸を散歩したりして時間の来るのを待つ。海岸近くの海では犬を連れてきた婦人が犬を自分の手首と紐で繋いだまま一緒に泳いでいた。婦人は気持良さそうに泳いでいるが、犬は迷惑そうだ。何とかして陸に上りたがっている。しかし、犬は紐で引き戻されて仕方なしに又泳ぎを続けている。飼い主の手首と紐で繋がれている犬が可愛そうだった。
対岸の緑の景色が水鏡に写って美しい/写真転載不可・なかむらみちお  サン・トロペ行きの船は定刻を少し遅れて出港した。快晴無風で波は無し。鏡のような海を走る。快適な航海だ。対岸の緑の景色が水鏡に写って美しい。その間を三角の白い帆を張ったヨットが浮かび、時折小型モーターボートが追い抜いて行く。
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  St.Tropez(サン・トロペ)
港沿いの道路脇では絵を売る露店が連なる/写真転載不可・なかむらみちお  およそ50分でサン・トロペ港に入港。港には大型のヨットが沢山係留されている。下船後、街の中心部を目指して行く。港沿いの道路脇では絵を売る露店が連なり、なんとも洒落た雰囲気の港である。
 元は小さな漁港でしかなかったが、画家や作家がこの地を愛し、今や南仏のサン・ジェルマン・デ・プレとまで言われるようになり、現在のようなリゾート地に変貌した。30代半ばのアンリ・マチス(1869-1954)は、サン・トロペなど南仏の町で休暇を過ごした。特に有名にしたのはブリジット・バルドーで、彼女の名はサン・トロペの代名詞になっている。又、作家フランソワーズ・サガンの処女作「悲しみよ、こんにちは」の映画化でロケ地になったことでも有名である。
 ※映画「悲しみよ、こんにちは(Bonjur Tristesso)」1957(米)。監督:オツトー・プレミンジャー。出演は私の好きなデボラ・カー、監督に見い出された新人ジーン・セバーグ。この頃セシール役のジーン・セバーグの髪型が「セシールカット」として有名になった。

コレット女史らの作家がたむろした港に面したカフェSenequier/写真転載不可・なかむらみちお  ここには今も芸術家、作家、映画人が集り、夏には大胆な水着の人々やヌーディストで賑わいをみせる自由な場所となっている。
 途中のインフォメーションに寄り、地図を貰ったあと城へと向かう。港に面したカフェSenequierは、かつてスターが頻繁に訪れたところ。帰りにでもチョット立ち寄ってみたい。
城砦からの眺めが素晴らしい/写真転載不可・なかむらみちお  城砦からの眺めが素晴らしい。城砦の上から町の俯瞰を撮影。再び街に戻り、港沿いに並んで絵を売る露店を撮影する。スーパーマーケットを見付けたのでそこで缶ビールを買って飲む。6FFと凄く安いので嬉しくなってしまう。
 帰りの船は12時30分、サン・トロペ港出航なので、少し早めに行くが、船は未だ港に来ていない。10分ほど遅れて到着。客は来た時よりも少ない。
 無事サン・ラファエル港に戻り、駅から13時57分発の列車でニースに帰って来た。ニース着は14時58分であった。駅に降りてから明日のボーヌ行きの切符を買う。丁度良い時間の列車がない。11時発で行くと夜の8時頃になるが、仕方がない。それを買う。
 駅前の中華の総菜屋で混ぜご飯と揚物を買ってホテルに帰る。その後、家への手紙を書いてポストに投函に行く。考えてみると20時ボーヌ着では遅すぎるし、明朝11時迄ニースに居てもしょうがない。再び駅に行って6時10分発の列車に変更して貰った。これだとボーヌには15時頃着くからそれからインフォメーションに行って翌日のワインツアーの申し込みも出来る。多少は観光も出来る。自信はあるが念のため目覚まし時計を5時にセットする。

   8月11日(金) Nice 06:10-14:20 Beaune
 コート・ダジュールからパリに向かう途中にワインと料理で世界中のグルメを魅了するブルゴーニュがある。ここを素通りする手はない。ボルドーと二分するワインのメッカ、ボーヌに立ち寄ってみることにする。
 昨夜は今朝の出発が早いので9時頃寝たのだが、隣の部屋の客が黒人音楽のような曲をポータブルカセットステレオらしいものでガンガン鳴らすので11時頃目が醒めてしまった。
 12時頃まで待ってみたが収まらない。おまけに大きな声で話したり、何か物を床に落とすような音が絶えずしている為になかなか寝付かれない。12時過ぎ、堪りかねてホテルのフロントに注意してくれるように頼みに行った。フロントマンは昨日の朝、ニースの駅まで追い掛けて来たあの男だった。彼は間違った事を詫びていた。ホテルのフロントマンに注意してもらった後、隣室の客は外へ出て行ったようで、静かになった。
 朝4時頃からうつらうつらしていると、階下の方でなにやら騒がしい人声がする。その客達が隣室に入り、又音楽を掛けながら大声で話をし始めた。とても寝て居られるものではないので起きて顔を洗い、出発の準備をする。
 6時10分ニース発の列車に乗るべく、ホテルを5時半に出る。未だ夜は明けず、辺りは真っ暗である。しかし、所々にBarなどが灯を点けて営業しており、若者達がたむろしている。
 列車には数えるほどの客しか乗っていないが定時にニース駅を発車した。6時35分頃海の向こうの水平線から真っ赤な大きな太陽が顔を出した。今日も快晴、暑くなりそうだ。
 マルセイユ辺りから乗客が込みだし、リヨンまで満員だった。リヨンは「星の王子様」の作者で飛行士だったサンテグジュペリの生まれた町である。リヨンから隣の席に座った婦人が持っていたバッグを開けると、その中に猫が一匹入っていた。こちらの人達は自転車や乳母車などは当然として、犬まで列車内に持ち込む。しかし、猫は初めてで驚いた。その婦人は猫に皿に入れた餌を与え始めた。
 列車はローヌ川から換わったソーヌ川に沿って北へと驀進する。ボージョレ山地、マコネ山地を越えて時折ぶどう畑も連なり、川や川沿いの眺めが美しい。
ブルゴーニュ  列車は定刻にChalon sur Saone(シャロン・シュル・ソーヌ)に着く。ボーヌに行くためにはここで乗り換えなければならない。時刻は1時半になり、腹が減った。駅へ行ったら何か売っているだろう。
 駅に行ってみると本屋とレストランは在ったがパンを売っているような店はない。駅前に行ったら売っているだろうと思い、時間もあることだし街の方へ荷物を曳いて行って見る。店はあるのだが閉まっている。多分田舎だからシェスタの時間で閉めているのだろう。
 あそこまで行って無かったら引き返そうと思ったところでBarが一軒開いており、客もいた。その店に入り、サンドイッチはないかと尋ねると、あるという。一個頼むと奥の調理場に注文した。しばらく待つとかなり太いサンドイッチをアルミ箔に包んで渡してくれた。
 駅に引き返して列車を待つ間、ホームでそのサンドイッチを頬張る。かなりのボリュームだ。2食分はある。半分残してしまった。
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  Beaune(ボーヌ)
 ボーヌのホテルは駅前なのですぐ分った。部屋に入ると小奇麗で感じが良い。ベッドはこれまでと違って板一枚ほどしかない小さなものだが、別にこれでも構わない。驚いた事に風呂がある。トイレも洗面所もあってしかも栓付だ!テレビなどの不要な物が一切ないので嬉しい。これなら少々値段が高くとも満足出来る。
 ニースのホテルは酷かった。繁華街にあるために騒音は酷いし、なんとなく薄汚く、テレビとエレベーターはあるが、洗面所の栓が無かったり、シャワーも不具合で使いにくかったり、窓の木の戸なども半分壊れているし、壁は二重三重に塗った塗料が剥げかけ、机の上板はぼこぼこ。おまけに隣室がうるさくて二晩とも寝られなかった。おまけに季節料金とかでべらぼうに高く、予算狂いで散々だった。
 本当にワインが好きになりたければ「百飲は一見にしかず」。是非、ワインの産地を訪ねたい。中でも私のお薦めは、ブルゴーニュである。この地名をきいてピンとこない向きも、ロマネコンティといえばご存知だろう。世界一と言われるこのワインは、ブルゴーニュのヴォーヌ・ロマネ村で造られるのである。
 コート・ドール(黄金の丘)と呼ばれる、延々とブドウ畑が続く丘陵地帯にあるボーヌは、穏やかな気候と自然の恵みにささえられた豊かさを見せてくれる街だ。
 ホテルを出てインフォメーションへと向かう。駅前はひっそりとしていて人通りはほとんどない。これが本当にワインであまりにも有名なあのボーヌなのだろうか。信じられない。そう言えば列車が駅に着いた時にも何人も乗客は降りなかった。ブルゴーニュを代表する町のひとつであり、そこから生まれるワインの名は世界中に知られたいるものの、ボーヌの人口はわずか2万人の小都市でしかない。ガイドブックの地図で当りを付けてその方向に向かう。程無く賑やかな中心街に着いた。
 インフォメーションに行き、先ず地図を貰い、ロマネ・コンテやクロ・ド・ヴージョなど有名どころを尋ねる17時発のブドウ畑ツアーを申し込んだが、今日は満員とのことで明日の予約をした。明日が楽しみだ。
オテル・デュー/写真転載不可・なかむらみちお  ボーヌを有名にしているのは、15世紀に建てられた病院オテル・デュー(神の館)、そして名産の赤ワインだ。インフォメーションを出るとすぐ目の前がオテル・デューだ。ここは昔、病院が所有していたブドウ畑の売上金で貧しい人や病人を無料で救護してきたと言われている。オテル・デューとは、“神の館”と言う意味だ。あでやかな屋根を持つこの病院は1443年、ブルゴーニュ公の大法官であるニコラ・ロランと彼の妻によって建てられた。今も15世紀当時の病棟がそのまま残されているというその建物の中を見学する。当時の教会や第二次世界大戦中も使われた病室、台所、調剤室などを見学する事が出来た。病院を見学した後はロジェ・ヴァイデン作「最後の晩餐」の装飾屏風のある美術館を見る。
樽をテーブルにしてタストヴァンで自由に試飲/写真転載不可・なかむらみちお  続いてワイン市場に行き、サントネーとかポマールなどブルゴーニュの代表的なワインをたっぷり試飲してきた。ボーヌはまさにワインの町を実感できる街だ。ここはブルゴーニュの代表的なワインを試飲できる貴重な施設で、薄暗いトンネルのような酒蔵の通路を進むと所々にワイン樽のテーブル上にほのかなローソクの灯に照らされてボトルが置かれている。それを入口で貰ったタストヴァンに注ぎ自由に試飲し、カードに感想をメモしてゆく。プルミエ・クリュやグラン・クリュのボトルも惜しげもなく栓が抜かれている。合計18種類のワインを試飲して気に入ったワインを買うことが出来る。入場料50FFを支払えば、カーヴの樽に置かれたワインすべて飲み放題。ワイン好きなら見逃せないスポットのひとつ。チャートをうのみにすると、ただ高いだけということがある。ワインはチャートや本を見て買うのではなく、自分で飲んでみて評価するのが一番である。ボルドーのワインはコクがあるような気がするが、ブルゴーニュのワインは酸味が強いような気がする。私はサントネーが一番飲み易く、ポマールは一寸酸味が強いような気がした。その他に、赤ではコクのあるGevrey ChambertinとかVosne-Romanee。白ではPuligny Montrachetとか、魚料理に合いそうなPouilly-Fuisseなども在った。
 その向かいにあるワイン関係の物を売っているお土産屋Athenaeume da Vigne et de Vinに入ってみる。ワイングラスやソムリエナイフなどが並んでいる。私は記念にボーヌの名前の入ったソムリエナイフを買った。店の一角にマスタードのお土産セットが売っていた。この町の近くのDijon(ディジョン)は食通の都。エスカルゴとブルゴーニュ・ワインそしてマスタードの本場というが、行く時間はない。ここでマスタードが買えるのは嬉しい。明日買いに来よう。
 今日は夕食にレストランでブルゴーニュ名物のエスカルゴと牛肉のブルゴーニュ風を食べる事にしよう。勿論ブルゴーニュ産のワインも一緒に。ブルゴーニュ名産のエスカルゴはぶどうの葉を食べて育つ。フランスのレストランは7時にならないと食事を出さない。未だ一時間半ほど時間があるのでどこかで時間を潰さなければならない。この間にスーパーマーケットへ行って食料を仕入れておこう。
 インフォメーションで訪ねるとスーパーマーケットは町はずれのカジノというところにあるという。スーパーマーケットとカジノとはイメージが会わないが、きっとカジノの中の一角か、その隣にでもあるのだろうと思い行ってみる。
 通りから一寸入ったところに「カジノ」と書かれたスーパーが見えた。カジノとはスーパーの名前だった。それにしても随分チグハグな名を付けたものである。二日分の食糧を買い込んでホテルに戻る。さっきワインをシコタマ飲んだせいか体がだるい。蒸し暑い。疲れた。それを押して再び町のレストランへと向かった。
ブルゴーニュ風ブフ・ブルギニョン(牛肉赤ワイン煮)/写真転載不可・なかむらみちお ブルゴーニュ名物のエスカルゴ/写真転載不可・なかむらみちお  フランスを訪れる旅行者の3大好物とされるのが、オニオン・スープとエスカルゴと家庭的な郷土料理のブフ・ブルギニョン(牛肉赤ワイン煮)。その内エスカルゴとブフ・ブルギニョンがこの地方の名物。ブルゴーニュは美食と美酒の魅力にあふれる大いなるフランスの片田舎だ。エスカルゴは殻付きではなく、穴の窪んだ鉄鍋の中に穴の一つひとつに身がひとつづつ入っている式のものだった。食べ初めはいいのだが、最後に塩味が残る。ブルゴーニュ風牛肉は美味かったが、付合わせのヌードルは全く味が付いていない。塩を入れて茹でていないのかな。
 ワインに酔ったのか暑さのせいか疲れたのか、フラフラになって10時近くにホテルに帰って来た。もう何もやる気がしない。風呂に入ったあと寝る! 今日の日記は明日だ。

   8月12日(土) Beaune
 今日は良く寝た。昨夜10時にベッドに入り、4時頃一度目が醒めてトイレに行ったが、その後また寝た。起きたのが7時だった。その前の日の寝不足の分も寝たのだろう。今日も快晴だ。よく天気が続く。昨日Chalon sur SaoneのBarで買ったサンドイッチの残りを食べて朝食とする。積もった旅疲れが未だ残っているので今朝は持ってきたインスタント味噌汁で気合を入れる。
 昨日ここに着いてから大体の観光は終ったので、今日は休息日とし、ホテルで日記を書いたり資料などを整理しながらゆっくりと過ごすことにするが、昨日はオテル・デューの建物が逆光だったので朝一でそれだけを撮り直しに行く事にする。
オテル・デューの近くで開かれていたマルシエ/写真転載不可・なかむらみちお オテル・デューの近くで開かれていたマルシエ/写真転載不可・なかむらみちお  オテル・デューの近くに行くと朝市(マルシエ)が開かれていた。これはいい被写体だ。何枚か撮影した後、オテル・デューを目指したが、なかなか見付からない。こんなはずは無いのだが、と歩き続けた。朝市を写している間に、道に迷い込んで仕舞ったらしい。
 ようやく探し当てて見ると、なんと朝市の隣がオテル・デューであった。オテル・デューを写した後、朝一でパンを買い、ホテルに戻る途中で駅に寄って明朝のパリ行きの切符を買う。
 朝、出掛けにTシャツが汚れているのに気が付いた。何の汚れか分らないが大した汚れではない。多少気になるので洗濯をした。その後、中庭で日記を書いて時間を過ごす。
 4時過ぎにホテルを出たが、途中で水を持ってくるのを忘れた事に気づき引き返す。再び水を持ってホテルを出たが、少々精神的に動揺したのか折角今日の昼に洗濯して更々にしたTシャツに汗が滲んできた。
 インフォメーションの隣のお土産屋でディジョンのマスタードを買ってからインフォメーションに行くと20分前だった。ツアーは5時出発で、7時に帰る予定だが、商店は7時で閉まってしまう。その後レストランが開業する。なんともフランスは我々のライフサイクルからいうと不便なところである。
 5時、日本人夫婦一組と単独の私と他のひとり、その他外国人合わせて8人を乗せたマイクロバスは5時丁度にボーヌのインフォメーションを出発し、ぶどう畑の中を行く。

 ※ブルゴーニュ地方はフランスの食料庫だ。ディジョンを中心に南に続く「黄金の斜面」。それらの斜面ではフランス特有の丈の低いブドウの木が植えられ、あるいは食肉用の白牛シャロレが群れをなす。
 ワインと料理で世界中のグルメを魅了するブルゴーニュ。フランスの名酒の産地の中でも、ブルゴーニュはボルドーと双璧の地方である。しかしブルゴーニュのワイン造りと歴史は、ボルドーがローマ時代から開かれたのに比べると、ずっとのちの七世紀のころからである。
 醸造量もボルドーに比べれば、少ないが、きめの細かい、力強いワインが産出される。耕地面積はボルドーの二〇分の一ほどの約五万ヘクタールである。
 ブルゴーニュという呼び名は、行政区分ではなく、地方の総称で、かつてゲルマンの一族、フルグソド族が住み着いてからの呼称である。
 ブルゴーニュの赤ワインはボルドーの赤がワインの女王といわれるのに対して、ワインの王と称される。ブルゴーニュの白は辛口で、白ワインの王、逆にボルドーの白の甘口は白ワインの女王といわれる。しかしこの呼称は、最近では必ずしも適切とはいえない。
 ヴォーヌ・ロマネは小さい地区で、有名なロマネ・コンティの畑がある。これらの特級は、すべてヴォーヌ・ロマネ村の西のゆるやかな斜面に畦道一つで隣接していて、このワインの醸造は、ドメン・デ・ラ・ロマネ・コンティという会社の醸造所で一緒に行なわれている。ラ・ロマネだけは別会社である。
 ブルゴーニュの土質は、フランス北部から続く石灰岩層に、ソーヌ川の粘土層や、風化した岩石の裂片が混じった構成となっている。但し、中央山岳地帯に続くボージョレだけが花崗岩系である。このような気候や土壌の差が、そこに育つぶどうを異なったものにしている。(井上宗和著「ワインものがたり」・角川文庫)

ロマネ・コンティの畑/写真転載不可・なかむらみちお ロマネ・コンティの畑/写真転載不可・なかむらみちお  かなり走ったところでようやくロマネ・コンティの畑の前に着いて停車。ここはブルゴーニュ・ワインの最高峰のワインを生産するブドウ畑だ。車から降りて説明を聞く。その間私は言葉が分らないのでもっぱら辺りの写真を撮る。
 不思議なのは、畑の位置がほんの数メートル違うだけで、まったく別のワインができること。それぞれの畑の土に含まれる成分が、ブドウの味を変えるのだという。まさに、土のエキスを飲むというのにふさわしい。ブルゴーニュワインの王座に君臨し続けるロマネ・コンティは、コート・ド・ニュイの小さな畑から産まれる。
 その後、再びブドウ畑の中を走った後、帰り掛けに一軒のワイン・カーヴSavigny les Beauneに立ち寄り試飲する。そこでワインを買った人もいたが私は買わなかった。
ワイン・カーヴSavigny les Beauneのワインラベル。酸味が強いが、美味い/写真転載不可・なかむらみちお  7時にボーヌ帰着の予定が7時半になった。明朝のパンを買いたかったのだが、もう店は閉まっていた。ホテルに帰り、資料を整理した後、風呂に入って10時過ぎ寝た。明日はいよいよパリだ!

 ※ブザンソン…ディジョンから東へ75q、ブザンソンは城砦のある古都だが、今は毎年9月の国際音楽コンクールの舞台として知られている。指揮者コンクールは小沢征爾が金的を射止めたように、若い指揮者の登竜門となっている。1989年には佐渡裕が優勝している。
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   8月13日(日) Beaune 08:00-(TGV)10:03 Paris Gare Lyon

  Paris(パリ)
 フランスに来て今日で丁度1ヶ月になる。午前8時丁度ボーヌ発のTGVでパリに着いた。10時03分である。
 リヨン駅から東駅まで地下鉄で行き、ホテルに着いたのは12時に近かった。チェックインした後、支度をしてパリに来たら一度は必ず観たかったオルセー美術館へと向かう。オルセー美術館は駅舎であった建物に1986年に開館したパリが誇る印象派の殿堂である。
駅の造りがそのまま残る印象派の殿堂オルセー美術館/写真転載不可・なかむらみちお  ようやくオルセー美術館に着いたら切符売場には長蛇の列が出来ていた。中に入る時、荷物の検査があったが、形式的なもので厳しくはなかった。中に入ると警備員も見当たらず、みんな自由に写真を撮っていた。今迄入った美術館に比べるとずっとラフな感じがする。ここでは二月革命から第一次大戦までの代表的な作品が見られる。
 ガラス天井から自然光をふんだんに取り込んだ展示場は、美術鑑賞には理想的だ。外光の変化に応じて照明をコンピューター・コントロールされている。
 先ず、最上階から見る事にする。正面から入って真っすぐいちばん奥まで行くと、突き当たりに印象派が展示されている階へのエスカレレーターがある。モネ、マネ、ゴッホ、セザンヌといった珠玉の数々がここにある。確かにここにはミューズの女神が微笑んでいる。
 館内には、軽食の摂れるカフェやレストランもある。未だ昼食を摂っていないので空腹だ。今日は日曜日なのでほとんどの店が閉まっているので買物もままならない。ここらでひと休みしよう。日本のように料理のサンプルが無いので、注文に困る。メニューを見せられても何と書いてあるのか分らないので、周りで食べている人の食べ物を見る。丁度私が座った隣の席の人が野菜サラダを食べていたので注文を取りに来たムッシュにアレと指差して注文した。その他にグラスビールを頼んだ。
ミレーの「晩鐘」/写真転載不可・なかむらみちお  食後はビールの酔いも回っていい気持で最上階から一階まで見て回った。ロダンの「地獄門」を見られたのは幸いだった。オルセー美術館の至宝、ルノワールが描いた「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」も観た。その他、1971年に第11回「札幌冬季オリンピック大会」の聖火の採火式を取材するためにギリシャに向かう途中でパリに立ち寄り、ルーヴル美術館を見に行ったのだが、生憎工事中でミレーの「晩鐘」と「落穂拾い」は見る事が出来なかった。それが今回ここで「晩鐘」「種を蒔く人」を見る事が出来た。しかし、「落穂拾い」は外国に貸し出しているとかで、今回も又見ることが出来なかった。
 不思議なもので、見られないとなると何回行っても見られないことがある。凱旋門の上に登る事を4回も挑戦しているが、来る度に何かがあって未だ一度も登っていない。
巨匠モネが亡き妻に捧げた「日傘の女」/写真転載不可・なかむらみちお  売店で妻が好きだと言っていた巨匠モネが亡き妻に捧げた「日傘の女」の複製画を買って外に出たら4時過ぎだった。未だ時間がある。地図を見るとバトー・ムーシュ(セーヌ川の遊覧船)の乗り場はそんなに遠くない。カンカン照りの直射日光をビルの陰で避けるようにして歩いて乗船場に向かう。それでも30℃を超えているので暑くて辛い。
アルシュヴェシェ橋の上から見る大聖堂の姿が一番美しい/写真転載不可・なかむらみちお  ようやく乗船場に到着、5時の便に乗れた。船は先ずシテ島の方へ向かい、ノートルダム大聖堂をひと回りした後、今度は今来た方に引き返した。セーヌ川から見上げるパリは、何時もと違った印象を与えてくれる。
 ♪ミラボー橋の下をセーヌは流れ、ぼくたちの恋が流れる。…人の世の歩みは遅く、望みのなんと激しいことか…。
 水の流れに身を任せ、過ぎ行く風景を眺めていたい。空を見上げると往年の名画「巴里の屋根の下」(名匠ルネ・クレールのトーキー第一作)仏・30-31年の主題歌『パリの屋根の下』(唄・ラウール・モレッティ)の歌声が聴こえてくる。
自由の女神の原型がある橋/写真転載不可・なかむらみちお  やがて船はニューヨークにある自由の女神の原型がある橋を越えて出発点に帰って来た。自由の女神と言えば、1997年秋にニューヨークシティ・マラソン大会参加のためにニューヨークへ行った時に自由の女神の頭部まで登り、海の向こうの摩天楼を眺めた時の事を思い出した。

   8月14日(月)曇り時々晴れ Paris 07:07-07:49 Compiegne-Pierrefonds-Compiegne 13:17-14:08 Paris
イル・ド・フランス  今日はフランス取材最後の城Pierrefonds(ピエルフォン)へ行く。晴れる事を願う。この城は1980年に一度訪れたことがあるのだが、曇り空で雨が少々ぱらついた空模様だったので今回は再度挑戦して綺麗な写真を撮りたい。しかし、ここはバスの便が悪いので不安である。
 パリを早朝の列車でCompiegne(コンピエーニュ)迄ゆき、そこからバスに乗り継ぐつもりで午前7時の列車に乗る事にした。朝5時半に起きて6時に宿を出る。あたりはまだ夜は明け切らず薄暗い。
 北駅午前7時07分発の列車で行く。列車はどこにも停まらず、真っすぐコンピエーニュに向かう。途中で夜が明け、朝日が眩しい。どうやら今日も晴らしい。よく続く天気である。
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  Compiegne(コンピエーニュ)
ジャンヌ・ダルク像/写真転載不可・なかむらみちお  午前7時49分、コンピエーニュに着いた。駅前のバス停留所へ行くと、時刻表にはピエルフォン行きが9時10分となっている。時間が来てバス停で待ってもバスは一向に現われない。変だなと思って付近のバスの運転手に訊くと今日はこのバスはないと言う。今度のバスは11時30分発だと言う。時間を持て余した。20年前の記憶を呼び起こし、駅を少し出たところにジャンヌ・ダルクの像のあるのを思い出して行ってみた。ここはジャンヌ・ダルクが捕らえられた町である。更にコンピエーニュの町を歩いてみる。市庁舎の前からマリー・アントワネットとルイ16世の出会いの場所と言われる宮殿を回ってきた。
 帰りにスーパーマーケットの前を通りかかったのでトマトとキウリを買ってきて駅の待合室で食べる。
 11時になったが、一向にバスは現われない。このままじゃどうしようもない。今迄雲一つ無く晴れていた空が俄かに曇ってきた。せっかくここまで来たのにこのまま引き返すわけには行かないので、駅前のタクシーで行く事にした。
 タクシーの運転手と値段の交渉をした。行きだけで130FFと言う。往復でならどうだと持ち掛けてみると180FFと言うので手を打ち、その車でピエルフォンに向かう。
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  Pierrefonds(ピエルフォン)
 パリの北東約70q、コンピエーニュの森の一隅。ピエルフォンの静かな小村にフランスの城の代表的なフォルムを見せるピエルフォン城がある。絵に描いたような優美な中世風の城だ。外観は中世の原形をほぼ忠実にとどめている。1813年ナポレオン一世がそれまで荒廃していたこの城を買い取り、1857年ナポレオン三世のとき当時の有名な建築家ヴィオレ・ル・デュックに頼み城の建物を中世風に復元した。
 フランスの城のほとんどがルネッサンス期以後、ルネッサンス様式に改築されてしまったこともあって、このピエルフォン城は、中世フランスの城塞の貴重なモデルである。数多いヨーロッパの城の中にあって、ピエルフォン城はまさに中世そのものと言っていい。ここで往年の名映画「青ひげと七人の妻」のロケが行なわれた。
 ピエルフォンに入ると雲の切れ間から陽が射してきた。城の前の池の辺でタクシーを降り、1980年7月26日にこの城を撮影したことのある池の対岸へと向かう。真逆光だ。それでも仕方がない、数枚撮影する。もう少し右の方がアングル的にはいいように思え、一旦タクシーに戻り、城の右の方へ行ってもらう。その道は少し坂を登って行き、さっきの池からは遠ざかって行くような感じがする。そこから別の道を辿って行くとどうやら1番初めに写した場所の更に奥の方らしい事が分り、急いで又最初の場所に行ってもらう。
 改めて最初に写した場所に行き、更に奥に行ってみると前回来た時よりも城の手前の立ち木が大きくなっていて城がその陰になって良く見えない。已む無く見える所まで戻って一応撮影するが、あまり気に入らない。
 タクシーを待たして置く時間が30分の約束が40分を過ぎてしまった。急いでタクシーに戻り、再びコンピエーニュに戻る。
 コンピエーニュの駅に着くと1時だった。丁度1時17分発のパリ行があったのでそれに乗りパリに帰って来た。ホテルの近くのスーパーマーケットで三日分の食料品を買い、ホテルに帰る。後は今日撮影したフイルムの整理や後片付け、明日の下調べをした後、日記を書いて寝る。相変わらず今日も疲れた。

   8月15日(火)雨後晴れ Paris 10:41-11:26 Fontainebleau-(タクシー)Barbizon-(ヒッチ)Fontainebleau 15:04-15:43 Pares
 今日は大変な日だった。先ず、朝方出掛けに雨が降ってきたので今日の予定のバルビゾン行きは中止し、今日出来ることを考えてみた。予定では16日に行く事にしていたルーヴル美術館に行く事にして調べてみると、今日は休館日だった。
 そんな事でもたもたしている内に雨が上ったので急遽バルビゾンに行く事にしてリヨン駅へと向かう。リヨン駅に着いてみると、フォンテーヌブロー行きの列車は出たばかりで一時間ほど待つことになった。
 10時41分パリ・リヨン駅を発車した列車は、線路が所々浮き上がっているのかピョン、ピョンと飛び跳ねながらフォンテーヌブロー駅に着いた。
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  Fontainebleau(フォンテーヌブロー)
 パリから南東へ65q。広大なフォンテンブローの森は今も宮殿を抱くようにして静まり返っている。中世には貴族の猟場でしかなかったフォンテンブローの森に、十六世紀のはじめ、フランソワ一世が宮殿を建てた。フォンテンブローは美しい泉という意味。宮殿はフランスルネッサンス様式で、まわりを綺麗な泉がとりまき、野鳥のさえずりが降りかかる。
 ナポレオンがこの宮殿を好んだ話もよく知られている。ナポレオンがエルバ島に追われる日、森の一角にある壮麗なフォンテンブロー宮殿で親衛隊に別れを告げた。
 ホームに降りると観光案内所があった。そこで尋ねるとバルビゾン行きのバスは今日は無い。タクシーのみだと言う。バルビゾンはフォンテーヌブローから森を挟んで西北西へ約10qの所にある。駅の外に出るとタクシーが一台待っていた。それに乗り込もうとしたら老夫婦が来て矢張りバルビゾンへ行くと言う。と、言うわけで相乗りとなった。バルビゾンまでは160FF近く掛ると言う。道々三人だから三分の一にして50FFと少し払えばいいだろうと考える。
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  Barbizon(バルビゾン)
 バルビゾンの町で車を降りた。多分、バルビゾンにはタクシー会社はないだろうから、帰りの足が心配だ。この車を確保しておきたかったのだが、老夫婦は更にその先へ行くらしい。後は天に運を任せて車を降りた。
 バルビゾンは、ミレー(1814-1875)やルソーなど「バルビゾン派」の画家達が住んだ村として有名である。農村に移り住み、農民と生活を共にしながら「働く」農民の姿を描いたテオドル・ルソー、ミレーらの絵画の革命家たちから、『晩鐘』『落穂拾い』『種を蒔く人』など数々の名作が生まれた。
今にもミレーやルソーなどが出てきそうなバルビゾン村/写真転載不可・なかむらみちお 現在のバルビゾン/写真転載不可・なかむらみちお  現在のバルビゾンはガイドブックにあるように観光化され、画家たちが愛した村は、四星ホテルの建ち並ぶ高級リゾート地になっていた。ガンヌおやじの家を利用したバルビゾン派美術館ミレーのアトリエは私が抱いていたイメージとは、かなり違う。それでも少し村を離れると、黄金色の麦畑やこんもりとした森など、当時の姿を偲ばせる風景が未だ残っている。
 ひと通りそれらしいところを撮ってからミレーのアトリエ前にあるレストランに行き、タクシーを呼んでもらおうとしたが、要領を得ない。ようやくタクシーステーションを見付け、そこで一時間ほど待ったが、タクシーは一台も来ないし、来そうにもない。そこえ近所の青年が来たので尋ねてみたら民家の壁にある「TAXI」と書かれた呼び鈴の押しボタンスイッチのようなものを押して待てと言う。押してみたが応答のあるような立派な仕掛けの物ではない。民家の玄関先にあるような只の押しボタンだ。不安だったがしばらく待ってみるがタクシーは一向に来そうにない。この先どうなるのか不安が募る。
 そこに先ほど街中で話し掛けた小さな女の子を乗せた日本人夫妻の車が通りかかった。声を掛けると停まってくれた。事情を話すと予定を変更してフォンテーヌブロー迄行ってくれると言う。地獄で仏とはこういうことを言うのだろう。
 厚かましく乗せて貰ってフォンテーヌブローの駅まで送ってもらった。日本の道路公団に勤めていて、研修のためにパリに来ており、休みを利用して観光に来たと言う。大変ありがたかった。助かった。
 フォンテーヌブローを15時04分の列車に乗り、パリには15時43分に着いた。
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  Paris(パリ)
 今夜はLido(リド)に行きたい。その為には言葉の通じないホテルのフロントに訊くよりJCBに限ると思い、未だ早いのでオペラ広場に近いJCBへと向かう。JCBのあるビルに行ってみたが閉まっている。なんだか街の様子がおかしいと思ったら今日は「聖母マリア昇天の祝日」なのだ。昨日から今日に掛けてバスが来なかったり、タクシーを呼んでも来ない謎が解けた。リヨン駅で待ち時間を利用してJCBに電話をした時に留守番電話しか出なかった訳も分った。昨年春にもスペインでこれと同じことで散々な目に遭ったにも拘らず…。どうも宗教に無関心なヤカラは困ったものである。
凱旋門とシャンゼリゼ大通り/写真転載不可・なかむらみちお  そこで急遽凱旋門へ行き、何度目かの挑戦でようやく屋上に登る事が出来た。実は初めてパリに来た1971年以来一度は上ってみたいと思いながらも何時も何かの行事があったり開場時間に間に合わなかったりで果せなかった曰く因縁のある場所である。
 凱旋門はナポレオンの命で建てられたが、結局彼の生存中には完成せず、流刑の地セント・ヘレナ島で死んだ彼の遺体がここを通って、アンヴァリッドの墓に葬られた。門には浮き彫りが施されていて、ナポレオンの軍隊の勝利への道が描き出されている。
 今回は凱旋門の広場に入る前から入場料を取っている。昔とは事情が変わってきている。エレベーターで上る。途中小さな博物館があって、凱旋門の歴史を語る絵や写真、模型が陳列されている。売店もある。ここから細い階段を上って行くとプラトホームに出る。
放射状に延びる通り/写真転載不可・なかむらみちお  凱旋門の上から見るシャンゼリゼ大通りは素晴らしかった。“♪おぉ、シャンゼリゼ。おぉ、シャンゼリゼ!…”。
 ここから放射状に延びる大通りや、遠くサクレ・クール聖堂大観覧車エッフェル塔などが良く見えた。前には一直線上にあるコンコルド広場ルーヴル宮、後方にはこれも真っすぐに延びる道の向こうにはパリの副都心デファンスが見渡せる。
 凱旋門を降り、記憶を辿りながらリドへと向かう。今夜のショーの予約を入れるためである。地図をよく見ると記憶とは違ってシャンゼリゼ大通りの反対側であったが、尋ね当てる事が出来て今夜の10時のショーを予約した。急いでホテルに帰り、夕食を済ませた後、背広に着替えて出かけた。
 リドに入るとすでにバンドが入り、ステージ前のフロアでは大勢の客がダンスを楽しんでいた。案内されて席に着くと飲み物の注文を尋ねられたのでシャンペンを頼んだ。シャンペンは例のワインを冷やす氷の入った容器(クーラ)に入って運ばれてきた。二本入っていた。それをサービスしてもらう。シャンペンを飲みながら客のダンスを眺め、ショーの始まるのを待つ。

ショーは華やかに始まった/写真転載不可・なかむらみちお  リドは以前にも一度観たことがある。ショーは華やかに始まった。女性は美しい。オッパイをこれ見よがしに丸出しにして踊る。正に動くヴィーナスである。ショーはダイナミックに、そして又中間にマジックやパフォーマンスを挟んで連続的に進行する。舞台装置には驚くばかりである。
 1971年に見た時とコンセプトは同じなのだが、オープニングは未来を思わせるような宇宙をイメージしたサイエンステックな出し物であった。どれも感心するショーばかりであった。未だ見た事は無いが、一見ラスベガスのショーの向こうを張っているような感じがする。
 息を付かせる間も無く1時間45分が過ぎ、地下鉄に乗りホテルに帰って来た。寝たのは翌朝の1時であった。未だ夢を見ているようである。

   8月16日(水)快晴 Paris
 今日はパリ最後の日である。1日中ルーヴル美術館に行って過ごすことにする。昨夜はリドに行って帰って来たのが12時過ぎだったので寝たのは1時頃。その割には午前5時頃に目を醒ましたきり眠れなかった。7時頃起床。昨日の資料整理が未だしていなかったので顔を洗う前にする。8時頃近くのパン屋に行ってバケットを一つ買ってくる。このあたりはようやくフランス人的だ。その後、フロントが寝込んでいて起きて来ないので勝手にインスタントラーメンを作って部屋で朝食を済ませる。9時過ぎにホテルを出て地下鉄でセーヌ河畔に建つルーヴル美術館に向かう。
 快晴。1989年、ナポレオン広場中央に登場したガラス張りのピラミッドの前は入場を待つ人々で長蛇の列を作っていた。30分ほど並んで待ち、ようやく入場出来た。入口では荷物の検査機を通さなければならない。エスカレーターで地下に降り、ピラミッドの中で入場券を買って入場する。ピラミッド中央にある案内所には、日本語の案内図がある。
ミロのヴィーナス/写真転載不可・なかむらみちお  ギャラリーはドノン、リシュリュー、シュリーと3翼に分かれている。先ず、ドノン翼一階にある「ミロのヴィーナス」と再会する。台座の回りはロープで囲まれているので昔のようにミロの足をさする事は出来ない。ルーヴル美術館はフラッシュは禁止だが、手持ち撮影なら写真を撮る事が出来る。さすが人気者だけあって人だかりが多く、なかなか写真を撮れない。
ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」/写真転載不可・なかむらみちお  この後ドノン翼二階にあるフランス現代絵画の部屋へ行き、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」ダヴィットの「ナポレオン1世の戴冠式」アングルの「グランド・オダリスク」などを観た後、ドノン翼二階の中央部にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を観に行ったが、人だかりが多くて思うようには観られない。1971年に来た時にはこんなに客はいなかったし、絵も剥き出しになっていた。その絵の前には児童が引率されて来て先生から説明を聴いていた。怪盗ルパンの被害に遭ったり、事件が遭って以来警戒がその都度厳重になり、今は空調の利いた透明のケースの中に収められている。集団に囲まれた中で順番待ちをして前に並んで見終った人たちから順次両側に捌け、その後に並んだ人達に混じって前に出てようやく観ることが出来た。
 ドノン翼の端、大階段の上に聳える彫像「サモトラケのニケ」、二階のシュリー翼古代エジプト美術のコーナでは「サッカラの書記坐像」などを観てから館内のレストランで昼食にした。
大階段の上に聳える彫像「サモトラケのニケ」/写真転載不可・なかむらみちお  昼からは全体を通して観た。すると三階のリシュリュー翼で有名な絵を発見した。フォンテーヌブロー派の代表作「ガブリエル・デストレとその妹」である。これは一人の女性がもう一人の女性のおチチの先を摘んでいる絵である。その絵の前で暫し見惚れる。
偶然見つけたフォンテーヌブロー派の代表作「ガブリエル・デストレとその妹」/写真転載不可・なかむらみちお  全体を一通り流して鑑賞したが疲れた。広いし、点数が多いのでもうどうでもよくなってきた。二階、シュリー翼古代ギリシャ陶器のコーナを観ていたら、マラソン競技をしているらしい絵を描いた陶器を見付けた。
 3時頃ルーヴル美術館を出て、歩いてセーヌの中洲にあるシテ島へ向かう。直射日光を受けてかなり暑い。先ず、ノートルダム大聖堂の全景を撮った後、裏側に回る。ここのアルシュヴェシェ橋から見るノートルダム大聖堂が一番美しいので撮影する。この後大聖堂の中も一周する。

ノートルダム大聖堂はシテ島のシンボル/写真転載不可・なかむらみちお  この大聖堂は1980年にも一度来ている所だ。その時は塔に上る事は出来なかったが今日は上ってみたい。塔の上り口前に行くと長蛇の列だ。これではかなりの時間が掛りそうだ。実はさっき通り掛かりに塔の上を見たら人影があり、かなり高い金網が張ってあったようだ。これでは写真は撮れない。残念だが諦めることにする。
 カメラのセッテングを覗くと+3絞りオーバーになっている。何時からか分らないが多分ルーヴル美術館以来だと思う。と、いうわけで再度ノートルダム大聖堂の部を撮り直す。
 ノートルダム大聖堂ステンドグラスが有名だ。正面テラスの丸いバラ窓は紫のステンドグラスの最高傑作である。この近くのサント・シャペルのステンドグラスはパリ最古のもので、赤の最高傑作という訳で見に行く。ここはルイ九世が健立させたゴシック様式の礼拝堂である。入ってすぐ左側の細い階段を上りきると、そこは、一面のステンドグラスである。聖書の絵物語になっており、その細やかさ,素晴らしさはまさに“パリの宝石”と言えよう。正面から光が差し込むと、溜息が出るほど鮮やかな透き通った青や赤が目に飛び込んでくる。
 サント・シャペルを出てから近くのサント・ミッシェル駅からメトロでホテルに帰って来た。

   8月17日(木)晴 Paris 20:00-(NH206)
 いよいよ今夜は長いようで短かったフランスの旅に別れを告げて日本へ帰る日だ。心配だった体の調子もどうやら持ち堪える事が出来て無事帰れそうだ。
 飛行機はパリ発20時00分の全日空なのでかなり時間があるが、ホテルのチェックアウトが10時なので空港へ行って時間待ちをすることになる。少し時間が余り過ぎて退屈するかも知れないが、海外旅行では何が起きるか分らないのだから多少早過ぎても早めに空港に行っていたほうが安心する。ホテルのロビーで日記を書き、11時頃のバスで東駅からシャルル・ド・ゴール空港に向かう事にする。
 バスは途中乗り換えも無く、順調にシャルル・ド・ゴール空港第1ターミナルに着いた。中に入って二階の出発ロビーまでエレベーターで行く。出発までは未だかなりの時間があるので二階の出発ロビーを1周してみた。全日空のカウンターも分ったのでひと先ず休憩することにしてベンチに腰掛ける。目の前で飲み物の売店があったので缶ビールを買って飲む。
 永い待ち時間の末、5時過ぎにようやく全日空のカウンター前に客が並び始めた。5時半頃チェックインを始めたので列の後に加わる。チェックイン後、ゲートに行く途中で免税店をひと通り流して見る。その一軒の店で組み合わせチーズとカマンベールチーズをお土産に買う。そのあと荷物検査場に向かう。
 荷物検査場では先ず鞄からフイルムの包みを取り出し、フイルム以外の荷物を検査機に通す。そしてフイルムを入れたビニール袋を係員に差し出してオープンチエックをしてくれるように頼むが女の係員は受け入れてくれない。そこでしばらくの間押し問答をするがどうしても通さなければだめだと言うので已む無く検査機の中にフイルムとカメラを通したが、ASA400のフイルムを2倍増感現像するフイルムも入っているので心配だ。
 定刻、機上の人となる。これで無事日本に帰れる。ヤレ、ヤレ。全日空のスチュワーデスは日航に比べて配膳などのサービスはあまり良くないような気がする。
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   8月18日(金) 14:25 成田-羽田 18:00-(NH73)19:30 新千歳-札幌
  無事帰国
 飛行機は定時に成田に到着、スムーズにゲートを出る。これから羽田空港まで行き、札幌行きの飛行機に乗らなければならない。リムジンバスもあるが料金が高いし時間もあるので京成電鉄で行く事にする。先ず、空港ビルの地下に降り、京成電鉄のホームに行く。列車は混んでおり、津田沼辺りまで座れなかった。青砥で羽田空港行きの列車に乗り換えた。羽田空港には約2時間ほどで着いた。
 羽田空港地下のコンビニでビールを買い、出発ロビーで横浜の崎陽軒のシュウマイを買い、待ち時間を利用して出発ロビーで夕食を兼ねて食べる。
 8時頃自宅に着き、早速風呂に入り、風呂上りに焼酎を一杯飲んでようやくくつろぐことが出来た。留守中、家族にも親戚にも何も変わった事が無くてひと安心。嬉しい事に次男が婚約し、姪も婚約しそうだとのニュース、何よりである。
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  むすび
 7月12日に家を出発して8月18日に家に帰って来るまでの38日間、ひたすら身の回りに何事も起きないことを願って旅を続けた。今回の旅は真夏の暑い盛りで体調を崩すのではないかと言う心配もあったが、カメラ4台と交換レンズを詰めたリックを担いでの連日の苦闘で相当疲れたにも拘らず、病気にもならず幸い何事も無く無事家に辿り着く事が出来て本当に良かった。
 アルザス・ロレーヌ、シャンパーニュ地方とローヌ・アルプ地方を除いてほぼフランス全土を歩いてきた。どこの国にも大体言える事だが、北の地方の女性はどちらかと言うと事務的であまり親切とは言えなかった。それに比べると南の女性は冷たいフランス人にしては比較的人懐っこく、親切であった。全体的にみれば、フランス人は自己中心的、保身的な感じがした。例えば、切符売場や買物のレジなどでは自分の番が来ると後に並んでいる他の客の迷惑は意に介せず、なにやら長々と窓口の係員とやり取りをしているし、停留所でバスが停まると、バスのステップに足を掛けたまま、何かをいろいろと運転手に問い掛けている。その挙句には乗ってこない場合が多い。言葉が分らないからどんなやり取りをしているのか分らないが、兎に角長々と平気でバスを停めている。運転手もそれに答えているのだから不思議だ。言葉が分らないから余計永く感ずるのだろうか。又、窓口に行っても窓口の係員は客である私を待たせて、他の人と話をしていたり、悠々と手元のお金とか書類の整理を仕終えてからでないと応対してくれない。とにかく窓口で時間が掛り過ぎるのにはイライラさせられる。これが日本であったら手元の物事はともかく、客を待たせないようにテキパキと仕事を進めるところなのだろうが、文化の違いとはいえフランスの窓口は時間が掛る。駅の切符売場などでもひとりに付き5分も10分も掛る事がざらである。おまけにカードで支払う客との事務的な作業とか、コンピューターを叩き、その画面をじっと見詰めて応答を待っていたりという仕事ぶりなので、尚一層時間が掛るようだ。
 夏の間は遺跡などでもコンサートなどの催しが多い。アルルの古代劇場に行った時などは、多分前日に催物があったらしく、ステージやステージの前の椅子などを片付けており、それを積み込むトラックが2台もステージの前に停まっており、写真を撮るのに画面の中に入って邪魔になった。それで運転席に座っている運転手にトラックを動かしてくれるように頼んだのだが、応じてくれなかった。他人の事は知っちゃいないという態度だった。入場料を取って見せている古代遺跡の真ん中で観光客の迷惑になるような作業を堂々と真昼間にやる感覚など日本では考えられないことだ。これもフランス人の利己的なものの考え方の一端ではないだろうか。しかし、合理性一点張りのコンクリートに囲まれ、経済活動にきゅうきゅうする日本の現実は?「日本人の暮らしは本当に幸せなのか」。
 スペインなどでもそうだったが、フランスもカトリック色が強く、どこへ行っても堂々とした大きな教会やカテドラルがある。生活の中にキリスト教があり、信仰を中心として生きている事が実感として伝わってきた。しかし、どこの教会に入っても異教徒の私には似た様な感じだし、あまり興味は無かった。
 北の地方はどちらかと言うと寒々とした感じだったが、南の地方、特にコート・ダジュールは明るく南国的で開放的な感じがした。その上、リゾート地の感じが強く、観光客で溢れていた。
 最初にパリに着いた時は小雨で少々薄ら寒い感じだったが、帰り掛けに再びパリに戻って来た時は連日30℃以上の快晴の日が続き、街中も世界中から訪れた観光客で溢れていた。しかし、一歩パリの郊外に出ると、静かな農村地帯が多く、広い風景が見られた。フランスはパリと地方では全く違った顔を見せてくれる。又、鉄道の駅に降り立ってからバスに乗り継ぐつもりなのに、日曜日や休日にはバスが無かったり、大幅にダイヤが違っていたりして大変困ったことが多かった。
 今回、ひと通りフランス国内を周って見て、フランスは文化国家には違いないが、ひとり一人は優れているのだろうが保守的で、その為に日本よりもずっと改革が遅れているような感じがした。そして、フランス人は自己主張が甚だ強い感じがした。フランス人は、個(人)を重んじ、自己主張の強い国民と言う感じがした。物価は日本よりもかなり安く、大変助かった。
 いつもそうだが、外国をひと月近くも旅をしていると日本食が恋しくなる。特にヨーロッパは明けても暮れてもパンばかりなのでいい加減に飽きてくる。料理の味付けはほとんど塩味かトマトベースが多い。1971年に冬季五輪札幌大会の聖火採火式を取材するために始めて海外に行った時は、慣れない食事やギリシャでのオリーブ油の臭いが鼻に付いて参ったことがあった。その時の帰りの日航機の中で出された日本茶や麺、醤油で味付けした肉料理の美味かったことは今でも忘れられない。中でも日本茶を5〜6杯も御代りしたのには自分でも驚いてしまった。
 1997年にギリシャとトルコをひと月以上旅してきた時には最後のイスタンブールのホテルで持参した米をコッヘルで炊いて食べていたら何故か訳も無く涙が出てきた。最近はインスタントラーメンと米、インスタント味噌汁を持って行って旅の終りに近くなったらそれを食べているのでそれほど日本食が恋しくなるというのは和らいだが、それでも帰りの飛行機の中では「帰ったら何を置いても銀シャリと味噌汁、それに沢庵だ!」と心に誓う。その後頭に浮かぶのは寿司、天婦羅、蕎麦、鰻などである。帰ったら昼はレストランに行ってそれらの食事して、ようやく落ち着くという感じである。
 鳥などは生まれた時に始めて見た物を親と思うらしい。これを「摺込み」と言っている。きっと我々にも生活習慣、食べ物が生まれた時から摺込まれているのだと思う。だから普段何気なく食べている和食が、海外でしばらくご無沙汰していると無性に恋しくなり食べたくなるのだろう。特に醤油と味噌は中毒に掛っているのではないかと思うほど“禁断症状”が現れる。
 風呂も同じことが言える。海外へ行くと立派なホテルならともかく、私が泊るような安宿にはほとんどの場合風呂は無い。せいぜいシャワーがあれば良しとしなければならないが、あれがなかなか慣れない。特に狭い空間でシャワーを使う時などは囲いのビニールカーテンが体にへばり付いてヒャ!としたりしてあずましく(津軽方言・気持が良い)無いことこの上ない。エーゲ海に行った時などは、ろくにお湯が出なかったりして閉口したものである。(本当は使う人が5分ほど前に電気ヒーターのスイッチを入れ、小型タンクの水を温めてから使う仕掛けであったのを知らなかったのだが)。矢張り日本人は熱いお風呂に首までどっぷりと浸かって、湯上りにはキリッと冷えたビールをキュッと一杯やりたいものだ。そうしないと一日の疲れは取れない。これも矢張り生活習慣が違う海外生活で感ずるいわゆる「摺込み」のせいではないだろうか。
 長期間海外へ行っていて感ずることは矢張りなんと言っても日本が一番良い。どんな美しい所、どんなに豪華な所に行っても、どんなに美味しい物を食べていても、生活してみても日本が一番良いと思う。生まれ育った所が一番良い。これも「摺込み」のせいなのだろうか。
 日常から非日常への脱出もたまにはいいが、矢張り毎日生活するなら生まれた時から慣れ親しんだ日本、取分け札幌が一番落ち着いて安心してゆったりと生きてゆかれる空間である。結局は日頃馴染んだ札幌の生活が世界で一番良いということになる。       Fin

旅は気侭なひとり旅がいい。思わぬ出会いがあるから、あてどを定めぬ旅は楽しい。
旅は毎日が未知との遭遇である。



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