古代と現代との交差点

ーアテネぶらぶらある記−

壮麗なパルテノン神殿/写真転載不可・なかむらみちお


目  次

アテネ到着  グランド・ブリターニュ  身近なギリシア語  古代への誘い  偉大なる発見  リカビトスの丘 
サロニコス湾ミニクルーズ  アテネはタイムマシーン  アティナス通り  古代アゴラ  滑る岩の展望台 
古代からのレガシー  ディオニソス劇場  マドンナ登場  スニオン岬  ピレウス港  音と光のショー  プラカ 
ベリーダンス  ハドリアヌス帝の凱旋門  ゼウス神殿  オモニア広場付近  タヴェルナ  帰 国 
旅は楽し  旅のエチケット  撮れなかった一枚  旅とは何んだろう  心のトゲ  時よ止まれ!

         スケジュール
 1990年

7月26日(木) 千歳 15:50(ANA64)- 17:20 羽田
27日(金) 成田 12:55(SQ97)- 18:30 シンガポール 22:00(SQ24)-
28日(土) 03:55 アテネ 06:00(OA55)- 06:40 ティラ Monolithos(Karterados)
29日(日) Karterados-Thira-Karterados
30日(月) Karterados-Thira-karterados-Thira-Oia-Thira-Karterados-Thira
31日(火) Karterados-Thira-Karterados
8月 1日(水) Karterados-Thira-Karterados
2日(木) Karterados-Athinios Port-ミコノス島-Marathi
3日(金) Marathi-ミコノス港-Marathi
4日(土) Marathi-ミコノス港-Marathi
5日(日) Marathi-ミコノス港-Marathi-ミコノス港
6日(月) ミコノス 12:07(フェリー)- ピレウス(地下鉄)- モナスティラキ-シンタグマ広場-オモニア広場-無名戦士の碑-国立考古博物館-リカヴィトスの丘-ホテル
7日(火) ホテル-ピレウス港-サロニックス諸島(ポロス島、イドラ島、エギナ島−ピレウス港-ホテル
8日(水) ホテル-アクロポリス(タクシー)-バスターミナル(バス)-スニオン岬(バス)-アテネ-ホテル
9日(木) ホテル-無名戦士の碑-ピレウス港-ホテル-ナイトツアー-ホテル
10日(金) ホテル-ゼウス神殿-アドリアヌス門-フニクスの丘-ホテル-オモニア広場-ホテル
11日(土) ホテル-オモニア広場-ホテル-アテネ空港 22:20(SQ23)-
12日(日) 14:05 シンガポール市内見物-空港
13日(月) シンガポール 01:15(SQ98)- 08:45 成田 13:45 - 千歳(バス)-札幌

      アテネ到着

  8月6日(月) ミコノス 12:07(フェリー)- ピレウス(地下鉄)- モナスティラキ-シンタグマ広場-オモニア広場-無名戦士の碑-国立考古博物館-リカヴィトスの丘-ホテル
 辺りのざわめきで目が醒めた。夜半にミコノス島を出航した我々のフェリーボートは鏡のように穏やかな海を航海し、8月6日、朝日を浴びて予定通りピレウス港に入港した。船上から見ると、岸壁には折り返し便で島に渡る乗客がまるで色とりどりの絨毯のように固まって本船の到着を待っていた。その多くはバックパッカーである。
 ピレウスからは地下鉄(50円)に乗り、シンタグマ広場に近いモナステイラキで降り、ミコノスから一緒に来た新婚のS夫妻はプラカ地区で宿を探すと云うので、ここで別れた。
 駅からシンタグマ広場までは約1km弱ある。総ての荷物を持っての移動は少しきつい。しかし、急ぐ旅でもないゆっくり行こう。どうせ悠久の国ギリシアの時間はゆっくりと回っているのだ。一人だけテンポを早めてもイライラするだけだ。
 400bも行くと立派な教会が見えてきた。近づいてみると、中からお祈りの声が聞こえてきた。シメタ!ここで又ひとつ写真を撮ってやろうと入口を入ったとたんに太ったおばさんに追い返されてしまった。後でガイド誌を見るとこれはミトロポレオス大聖堂である。この聖堂は、1840年から15年間もかかって造られたという。大統領の宣誓式など国家的行事はみなここで行なわれるアテネ最大随一の格式と美を誇る聖堂であった。こういう処はショートパンツや紬なしタンクトップだと入れてくれない。私のその時の格好はTシャツ一枚と半ズボン、首からカメラをぶら下げた恰好では中にいれてくれるわけがない。それできっと断わられたのであろう。‘♪分かっちゃいるけど止められない’。
 アテネの街の中心地、シンタグマ広場に来た。ここは、1972年の札幌冬季五輪大会の採火式がオリンピアで行なわれた時、それをJNNネットワークのニュースキャメラマンとして代表取材するため、前後4〜5日滞在したことがある。今回は、この近くのインフォメーションで今夜からのアテネでの宿を探さなければならない。
 シンタグマとは憲法を意味する。この広場は、ギリシア独立戦争後の1843年、アテネが近代ギリシアの首都と定められた年に、現在国会議事堂となっている元王宮のバルコニーからギリシア憲法の発布が行なわれたことを記念して名付けられた。ここは市内のほぼ中央に位置し、文字通りアテネの表玄関となっている。この広場の中は緑が多くおちついたカフェテラスが軒を並べている。この近くは豪華ホテルや主要銀行、旅行代理店、航空会社、ギリシア政府観光局のインフォメーション・オフィスなども集まっている。
 インフォメーションはすぐに分かった。アテネでのハイシーズン中の“安いホテル”は環境、清潔度などを考えたらB、Cクラスが良いらしい。2年前発行の「地球の歩き方」によると、ダブルで3.500〜2.500円と書いてある。最近のギリシアはインフレが激しいと云うから、もう少し高いであろう。インフォメーションの係員に、余り遠くなく安くて手頃なホテルと頼んだ。その結果、5日間でシングル朝食付きで19.000円のホテルが取れた。ホテルも取れたので、ついでに明日のワンデークルーズ(6.500円)と9日のナイトシアターツアー(5.300円)も予約した。更にシンガポール航空に電話で搭乗確認までして貰った。ひとまず宿に荷物を置かなければ動きがとれない。


目次へ   ↑ページの一番上へ

       ホテル・グランド・ブリターニユ

 教えられたとおり、シンタグマ広場前のバス停留所に向かう。途中、シンタグマ広場に面したホテルグランドブルターニュの前を通った。前回にはこのホテルに泊まったが、今回は自費だからとてもこんな格式の高いホテルには泊まれない。このホテルはヨーロッパ風の本格派で、大理石で出来ている。憲法広場から散歩を始めると、最初に目に入ってくる建物である。第二次世界大戦当時、最初はギリシア軍がここに本部をかまえ、ついでドイツ占領軍、さらにイギリス軍もここを本拠にした。1944年のクリスマスの夜、チャーチル首相がここを訪れた際、爆破計画がたてられ、センセーショナルな話題となった。言わばギリシア現代史の桧舞台となったホテルである。いまは国賓クラスの要人がよく泊まる。内部はかなり時代がかっている。
 教えられたバスに乗つたが、バス券の買い方が分からない。ワンマンバスなので車掌から買うようでもなく、乗り込んで来る人を見ていると、既に持っているチケットを入り口近くの改札機の中に差し込んで自分でパンチを入れている。乗り合わせた客に聞いても話が通じない。ままよとばかり「薩摩の守」を決め込み、オモニア広場の次の停留所で降りた。番地を見ながら少し行くとお目当ての「ネストルホテル」はすぐ見つかった。
朝日に染まるパルテノン神殿/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルのフロントも感じが良く、それにエレベーターが付いている。私の部屋は7階建てホテルの6階である。トイレにシャワー付きだ。今度は一応も二応も、れっきとしたホテルである。ベランダを開いてテラスに出るとアギウ・コンスタンティヌ通りである。ビルとビルの間から神々のパラダイス、あのアクロポリスが見える。屋上に行ってみると間近にダイレクトに見えるのである。300ミリのレンズでバッチリである。これで明日は“朝日に染まるパルテノン神殿”が撮れる.“窓を開ければ朝日に輝くパルテノンが見える”なんてなんと洒落たホテルだろうか。意外な拾い物であった。
 トラベルエージェンシーから電話でシンガポール航空事務所に帰りの飛行機の搭乗確認をして貰ってOKを取ったのだが、何しろこういう大切なことは他人任せではなく自分の目で確かめて置かなければならない。シエスタで事務所が閉まるかも知れない、そうなると又面倒な事になる。なんとかシエスタ前に済ましておきたい。
 事務所はシンタグマ広場の先程行ったトラベルエージェンシーの斜め前から一本裏通りに在るはずだが、探すのに結構時間が掛かった。近くに日本航空の事務所があり、そこで聞いてようやく分かった次第である。こういう時に日本語が通じるということは本当にありがたいものである。搭乗確認はOKであった。これで安心して日本に帰れる。(この時点でも私は未だクエート侵攻事件を知らなかった)。
無名戦士の墓の前での衛兵交代式/写真転載不可・なかむらみちお  シンタグマ広場の背後には国会議事堂と広場に面して「無名戦死の墓」があり、近衛兵の交代はカメラの好被写体の一つである。古代ギリシアの兵士の姿が刻まれているが、実はこの碑は近代のものである。第一次大戦などで、国の為に戦死した多くの戦士に対する国民の感謝の記念碑として刻まれたものである。碑の両側には、エヴゾナスという民族衣装に身を包んだ衛兵が一人ずつ、2人立っている。エヴゾナスは、衛兵だけでなく、ギリシア各地に伝わるお祭りや踊りの衣装としても用いられる。房飾り付きの帽子に広い袖のアラウウスと美しい刺繍のあるベストなど、変わっている。先っぽに大きな毛糸のボンボンのようなものがついた靴が、特に可愛い。まるでお伽の国から抜け出て来たような衛兵で、いかめしさより可愛い感じが強い。30分ごとに左右の持ち場を交替するが、この様子がまた愉快。ユーモラスな姿に、いつも碑の前は黒山の人だかりとなる。衛兵交替の時には、観光客があまり前に出過ぎないように係員によって一線が引かれる。標準レンズでは短過ぎるので200ミリレンズを付けて待機する。空には珍しく綿雲が浮いていた。運悪く撮影の時に掛からなければ良いが…。12時45分、交替式が始まった。と、同時に雲が太陽を覆った。NGである。写真を数多く写しているとこう云うことはまま有ることである。諦めるしかない。後日又出直しである。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     身近なギリシア語

 新約聖書はギリシア語で書かれ、ギリシア語はその後のヨーロッパ文明の原点となった。例えば、英語のChurch(教会)Comedy(喜劇)Terephone(電話)Aeroplane(飛行機)等の近代科学の産物の名もギリシア語によって表わされている。又、近代の学術用語も多くギリシア語でつくられている。アルファベットという語もギリシア文字に由来するが、アイデア、メートル、テーマ、ジム、シンポジュームなどもギリシア語が起源である。深海魚のノーチラスはアリストテレスが命名した。α・狽ネど数学の記号としても各国で用いられ、Ω・△のように日本語となったものまである。ミュジュックも語源はギリシア語であり、我々がよく使うアレルギーも語源は「奇妙な反応」という意味で、勿論ギリシア語である。その他に、βはVTRの型式とかγも光線名として使われている。又、狽ヘ日本の高級車に使われているし、Ωは昔から高級時計の商品名として名高い。このようにギシア文字と私達は昔からなじみが深いのである。
【一口豆辞典】ギリシア語=インド・ヨーロッパ語族に属する言語。ギリシア語がギリシアで用いられるようになったのはおそらく前2000年に遡るとされている。文字に書かれるようになったのは大体前八世紀頃である。
               (小学館発行「日本百科大辞典」より)。

目次へ   ↑ページの一番上へ

        古代への誘い

 アテネのバスは行き先別に番号が書いてあるので、それさえ分かれば簡単に利用出来る。シンタグマ広場からトロリーバスで国立考古学博物館へ向かった。バス券は近くの売店で買うことが出来た(一枚50円)。旅行先で博物館を見るということは、普通私の旅日程には入っておらず、珍しいことである。海外の旅は時間が限られている。その地を訪れた時には先ずもう再び来る機会がないのだから極力博物館、美術館にも行きたいのは山々なのだが、何しろ写真を撮るのが主なる目的の旅であるため、いつも消去法でランク付けをすると消えてしまうのが常であり、もったいない話であった。にもかかわらず、考えてみるとパリではルーヴル美術館でダビンチの「モナリザの微笑み」を見て唸ってみたり、監視の隙をみてミロのヴィナスの足の先に触って、してやったりと思ったり、ミレーの「晩鐘」を見て、人間の根源に触れたような気がしたものである。前回、オリンピア(ギリシア)に数日滞在した時にはオリンピア博物館を見せてもらったことがある。ここにはアポロン神、ニーケ女神像、ヘルメス像など、ここでしか見れない貴重な作品が展示されていたが、その頃は若気の至で、鑑賞力がなかったのが残念である。
 マドリード(スペイン)のプラド美術館ではゴヤの描いたあの話題の絵「着衣のマハ」と「裸のマハ」「わが子を食う悪魔」「5月3日の銃殺」「カルロス四世とその家族」等を見たのを今も尚鮮明にに覚えているし、分けてもナポレオン軍侵入の際の戦渦の残忍さを描いた「5月3日の銃殺」を見ることによって、平和惚けした私の頭にスペインの民衆の民族自決心の強さを感じさせるものがあり、胸を打たれた。又、「カルロス四世とその家族」の中に、ゴヤ自身の肖像画を書き加えているに至ってはその大胆さと言おうか、それだけ王様の御寵愛があったのかと驚くばかりであった。ベラスケスの作品では「マルガリータ王女」が印象的であった。
 エル・グレコの作品群は神秘と不安な感情が醸し出す空気が漂っており、「受胎告知」や「十字架を運ぶキリスト」等の神秘性を感じさせる宗教画が、スペイン的な精神を感じさせてくれた。このように現地に行き、実物を見ることによつてこそ本当の感動を覚えるのである。それが旅の重要な要素の一つであると断言しても間違いではないであろう。私は今、出来ればロンドンヘ行き、世界の三大博物館である大英博物館にあるアクロポリスのパルテノン神殿の破風を始め、外壁にあった大理石の浮彫像、「都市のアテーナ神殿」のイオニア式列柱、アテーナ・ニーケ神殿の北壁と南壁から持ち去られた四枚のフリーズ等を見たいものと思っている。これらはいずれも世界最高の彫刻と言われている。
 今回この博物館を見る気になったのは、歴史が永く、ヨーロッパ文明のルーツであるギリシアを知らなければ理解出来ないところがあるし、滞在型の旅行で比較的時間に恵まれているせいもある。アテネ見物のスケジュールから美術館巡りを落とすのは、奈良に行って東大寺を見落とすようなもので、日頃美術には感心がないという人、あるいは時間に余裕がない人でも、国立考古学博物館だけは絶対に見落とせない。どんな犠牲を払っても訪れるべきである。今回はその絶好のチャンスである。という訳で、この機会を逃す事なく出来るだけじっくりと古代の世界にどっぷりと浸ることにした。
 イオニア様式の博物館の前まで行くと、擦れ違いに館から出て来た日本人の青年に声をかけられた。「ミコノスでもお会いしましたよ」との話だったが私には全く記憶がない。ガイド誌には内部の写真撮影料が別にかかると書いてあったので、彼にそのへんを聞いてみた。すると彼は、「いや結構お金を払わないでコンパクトカメラで撮っていましたよ」との話であった。
 さて、前置きが大変長くなったが、私もこの機会に古代史への旅に出発することにしよう。
   ガイド誌には入場料500円と書いてあったが、600円であった。中に入ろうとするとリックと三脚は入口近くの一時預り所に預けてくれと言われた。高感度フィルムを入れたカメラー台だけを持ち、なるべく目立たないように体で隠すようにして中に入った。

ポセイドーン神像/写真転載不可・なかむらみちお ヘゲソの墓標を説明する説明員/写真転載不可・なかむらみちお

目次へ   ↑ページの一番上へ

     偉大なる発見

 ここにはギリシア全土から発掘された彫刻、陶器、装飾品、墓碑などが一堂に納められた世界でも有数の古代博物館として知られている。先ず、入ったところからその数の多さに圧倒されてしまった。ここで見るべき物はなんと言っても先史時代からミキーネ時代の展示品だ。現在ギリシアの重要な出土品は、ほとんどここで見ることが出来る。誰しも一度は美術の教科書などで見たことがあるたぐいまれな均整美に満ちた彫刻の実物がズラリと並んでいる。「黄金のマスク」「戦士の壷」「有翼のニーケ像」「アリステイオーンの墓碑」「アルテミシオンのポセイドン神像」「オムフアロスのアポロン」「ヘゲソの墓碑」「アンティキテラの青年」「小さな難民」、映画「島の女」あるいは「イルカに乗った少年」でご記憶の方も多い「乗馬姿の少年像」「別離の墓碑」「ボクシングする少年たち」「大アンフオラ」等、なにぶん展示品の総数が多く、一日はおろか、2〜3日通っても見飽きる事がない不思議なロマンをかきたてている。
 私はここで札幌が生んだ偉大なる彫刻家、本郷新の「彫刻十戒より」を思い出した。即ち、「彫刻は形の芸術である。生涯を通じ、形とは何かを問いつめることは、彫刻を深める最も基本的な行為である。彫刻は徹頭徹尾、全人間的な、手のわざによる創造の世界である。そこに初めて、思想と精神と肉体の凝固した姿が見られる。彫刻的存在とは、このこと自身であり、その他の何者でもない。彫刻の存在は同時に生命体の存在である。古代彫刻を見よ、中世芸術を見よ、東洋の数々の古典を見よ、人類万年の歴史は、彫刻の何たるかをわれわれに教えている。軽佻浮薄の現代を恥じ、大自然と大古典を友とし、師と仰ぎつつ明日に向かおう。形なきものに形を与えるには精神の緊張が必要である。しかもこれには終わりというものがない。出来た形の一切は作者の全責任としてそこにある。残酷なる栄光」と…。
 ここに展示されている作品は、いずれも名作揃いなので、あらかじめ見学の対照をしぼつておかなかったのが悔やまれる。しかし、帰国後、私が写した写真をガイド誌と対照して見たら、勉強もしないで飛び込みで写してきたにしては、重要な作品の八割は撮っていた。われながらその審美眼に感心した次第である。そればかりでなく「別離の墓標」はガイド誌の写真が裏焼きになっていることも発見したのである。

目次へ   ↑ページの一番上へ

      リカピトスの丘

 アテネの中心部にアクロポリスの丘と対するようにひときは高い丘がある。リカビトスの丘である。
 憲法広場からゆっくり歩いて約45分。バスで一旦憲法広場に戻り、タクシーを拾おうとしてもなかなかつかまらない。シエスタに入る前のラッシュアワーなのである。面倒とばかりに歩いて行くことにした。丘の南側に広がるコロキナ周辺は高級マンションが建ち並び、おしやれな高級プティツクが目立つので見ているだけでも結構楽しめる。以外と言っては失礼だが、ギリシアの靴はイタリア製に匹敵するとかで、この付近の靴屋さんで買うと良いそうだ。
 プルタルクー通りを登り詰めたコロキナよりフニクラ(220円)があり、地中を通って数分で頂上まで登れる。勿論途中の展望は利かない。頂上からはアテネの市街を一望におさめる事が出来る。標高273bのアテネの中では一番高い丘である。特に早朝と日没の眺望が素晴らしい。夕陽の中に輝くアクロポリスの神殿、ピレウス港、エーゲ海のきらめき、密集する人家…それは歴史のパノラマである。ここから見るアテネの街は以外と奥行きが深い。大勢の観光客に混じってアテネっ子たちも夕涼みに来ていた。
 ギリシアの旗が真っ赤な夕陽の中にはためき、頂上には、真っ白な漆喰で塗られた聖イオルゴス教会があり、静かに賛美歌が流れてきた。中を覗いて見ようと一歩踏み込んだとたんに、太ったおばさんに押しもどされてしまった。又も私は半ズボンにTシャツで入ろうとしたのである。頂上から一段下がると軽食喫茶やレストランもあるが、高い所にあるだけに値段も高い。しやくだったが、あまりにも喉が渇いたので缶ビールを一本飲んだら200円だった。今、手元のメモを見ると、ここでチーズパンを2個(300円)食べたことになっている。最近、札幌でもチーズ蒸しパンが新たに開発されて大変な人気を呼んでいる。しかし、私がここで食べたであろうチーズパンはどんな物で、どんな味がしたのか全く記憶にないのが悔しい。
 テラスにはテーブルと椅子が用意されていた。リカビトスの丘にもすっかり夜のとばりが降り、各テーブルの上のほの暗いランタンが雰囲気を盛りあげている。たまにはこんなところで涼しい風に吹かれながらマドンナとアテネの夜景を眺めながら優雅にワインなどを傾け、食事をしたら‘恋はワインの香り…’。止めておこう。想像を巡らせるとなんだか際限なく映画のワンシーンにのめり込みそうになってきたから…。(三枚目は寂しいねえ)。
 夕暮れのアテネの街の佇まいを眺め、香港ほどでもないが、ナポリや函館の夜景に匹敵するほど予想以上に美しいアテネの街の灯火を撮り、さらに、アクロポリスがライトアップされるのを撮った。私の横に三脚を据えたアテネ市民らしいアマカメラマンが払のカメラのファインダーを覗いては自分のフレームと見比べていた。
 帰りは夜道で薄暗い登山道を歩いて降りてみた。永年人々が歩いて自然に磨きあがった大理石の道は滑りやすく、雪道でも滑らない靴なのにあぶなく転ぶところであった。時計はもう10時を廻っていた。疲れた。旅をするならやはり若い内だなぁという実感が脳裏を掠める。

目次へ   ↑ページの一番上へ

        サロニコス湾インスタントクルーズ

  8月7日(火) ホテル-ピレウス港-サロニックス諸島(ポロス島、イドラ島、エギナ島−ピレウス港-ホテル
 8月7日(火)は“サロニコス湾の島々を巡る一日クルーズ”に乗ってみた。7時過ぎ、ホテルのロビーで待っていると迎えのバスが来た。私が一番先で、バスの中はだれもいなかつた。バスは各ホテルを回って客を拾って行く。カーラジオがニュースらしきものを放送していた。その中で「川島紀子さんがどうのこうの」と言っていた。私は運転手に「オオ!ジャパニーズニュース」と言うと、頒いて彼も何か言っていたが私にはなんの話か全然分からない。それでも、相槌だけは打っておいた。
 船はアテネの玄関口ピレウス港を出発し、「サラミスの古戦場」で有名なサラミス島を右に見ながら一路サロニコスの島々を目指して南下する。
 私の席の近くには、日本人らしいオールドミスタイプの二人連れの客がいた。話し掛けてもチヨット微笑むとか、領いたり首を振るだけで積極的に話には乗って来ない。この二人は船が港を出てからも窓外の景色を見るでもなく、テーブルの上に出したおつまみをつまみなながらひたすら二人でトランプをしていた。一体何が目的でこの船に乗ったのだろう。不思議な二人連れである。(日本人ではなかったのかも知れない)。他に目に付いた客では、若いくせに髭を生やした男と、イスラム教者なのか、このクソ暑いのにスカーフのような物を頭から破って顔だけ出し、全身黒装束のアベックがいた。多分新婚旅行なのかも知れない。後で聞いたのだが、イエメン人だと名のっていた。この若奥さんが又美人で、是非顔のアップを一枚撮らせて貰いたいと思いつつも、旦那にも気後れしてついにチャンスを逸してしまったのは残念であった。
 船内ではどちらを見ても日本の団体さんが幅を利かせ、盛大にビールなどを飲んでいた。なかには中学生と、小学生の子供を連れた御婦人もいたのにはビックリした。やはり日本はたいしたものなのだという実感が改めて感ずる。久し振りに会った日本人なので、こちらも日本の近況を聞きたくてある御夫婦に話し掛けた。私自身、こちらに来てからは新聞も読めないし、TV・ラジオを見たり聞いたりする事がないので、世界の状勢は全く分からなかった。幸い日本には特にこれというニュースはなかったが、イラクがクエートを一晩の内に占領し、米国とソ連が動いた。その為に日本では株が下がっていると聞いてむしろそちらの方で腰を抜かしてしまった。実は、まだ売つてもいない株の値上がりを見越して旅費を家内から借りて来たのである。私は「ソ連と米国が闘うのですか」と聞くと「違うのよ。共同作戦でイラクを包囲しているのよ。その為、ここに来る間にも飛行ルートが変更になったり、途中で間違って打ち落とされるのではないか心配で生きた心地かしなかった」と聞いて私は目を白黒させてしまった。これは一体どうなっているのだ。恥ずかしながら私は、この重大事件を今日まで全く知らずに「極楽トンボ」で楽しい旅を続けていたわけである。いずれにしても今更じたばたしてもしようがない。‘明日は明日の風が吹く’、と思うより仕方がなかった。
 私が海外に出ると奇妙に世界の何処かで必ず大事件が起きる。1971年12月、オリンピアに行った帰りには黒沢明監督が自殺未遂を起こし、韓国のソウルでは高層ホテルが焼けて多数の死傷者を出した。1980年にスイスに行った時には特に何もなかったようだったが、1981年の春、ヨーロッパ7ケ国を回って来た時には仏大統領選挙で大方の予想を裏切り、ミッテラン氏がジスカールデスタンス大統領を破って当選(5月10日)、中国ミニヤコンカ峰で北海道山岳連盟日中友好登山隊の8人が遭難し(5月10日)、ローマ法王ヨハネ・パウロU世がヴァティカンのサンピエトロ広場で狙撃されて重傷(5月13日)などがあった。そして又今回も…である。それにしても日本の血液であるオイルを止められたら私の株と私の老後の生活は一体どうなるのであろうか…。戦争が始まりそうだというのに、こんなのんびりと旅を続けていていいのだろうか。という疑問が頭の中をよぎる。これは下手をするとかねてからの懸案であったドイツ一周の旅はしばらく出来なくなるのではないだろうか、という心配も出てきた。
 カメラを持ってフロントデッキに出て見た。数人の乗客が船の進行と共に変わり行く周りの景色を楽しんでいた。その中には日本人の老夫婦もいた。「日本からですか」と私は声を掛けた。このペアも団体で来た人達だった。ご主人は大学で考古学を研究していたのだが、退職したのを機会に歴史の舞台を見に来たのだという。私は「それじや国立考古学博物館をご覧になったらいいかもしれませんよ。私は昨日見て来ました」と水を向けると、「昨日は休館日じやなかったのですか。実は昨日行くつもりだったのですが、添乗員の話では月曜日は休館日だという事で断念したのです。開いていたのですか」と大変残念そうであった。後でガイド誌を見ると、なるほど月曜日は休館と書いてあった。私はそんなところまでろくに読まないで行き当たりばったりに行ったのがかえって幸いしたようである。
 船はべタ凪の海をピレウス港を出て右にサラミスの大きな島を眺めながら沿岸ぞいに海面を滑るようにサロニコス湾を南下した。
 一時間も走った頃早くもエギナ島が近付いて来た。船には数ケ国語をこなすおばさんがいて、マイクでガイドをしていた。「ヨウコソ、イラシャイ、マシタ」。舌たらずな日本語のアナウンスが船内を流れる。日本の団体さんが一番の上客らしく、勿論日本語の案内が一番初めである。続いて英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語.これは終始変わらなかった。向こうも商売、お金を使ってくれる国の順番にアナウンスをしているわけである。エギナ島を右に見て30分も走るとポロス島が近づいてきた。例のオールドミスタイブの二人は窓外を見るでもなく相変らず二人だけでトランプをしていた。
 ポロス島は、一日クルーズでまわる島の中では一番小さく、ペロポネソス半島とは最も近いところにある。船はペロポネソス半鳥とポロス島との狭い海峡を摺り抜けて滑り込むようにポロス島の港に入港した。ここは映画のロケにも良く使われると言う。小さな入江に向かい、家々がズラリと並び、港にはタベルナやカフェが並び、客の気をそそる民芸品を売る店が軒を連ね「ヤスイヨ、ヤスイヨ」と連呼していた。
 船付場の前に並んでいるお土産さんを数軒覗いている内に、早や出港の時間がきてしまった。ペットボトルの水とビールを各一瓶買っただけで早々と船に乗り込んだ。ギリシアはビールが安い。日本で280円する缶ビールが、ここでは100〜120円が相場で、スーパーに行けば冷えてはいないが、78円で買えるのである。それが、船の上では300円なのだからバカバカしくなってしまう。水も食事も同じで船内で買うと高い。
 出港して間もなく昼食である。一体どういう料理が出るのか楽しみである。ダイニングルームに案内されて入るとバイキング形式となっており、皿を持って進むと係の人が盛り付けをしてくれた。ギリシア料理風ではあったが、たいした料理ではない。むしろ、島のタベルナで食べたほうが良かったかも知れない。パリのムーランルージュでも料理付きで見たことがあるが、ここのビフテキも形だけの粗末なものであり、ガッカリした事があった。やはり本式の料理店かタベルナで食べたほうが利口かも知れない。私は窓側の見晴らしの良い席に座った。団体さんは別らしく、日本人は私一人だけであった。ボーイが飲み物を持って来て日本語で「どれにしますか」と云うので缶ビールを受け取った。てっきり、料理の一部と思っていたところ、やがて彼のボーイがビール代を集めに来た。シマッタと思ったが、もう飲んでしまった後ではどうすることも出来ない。まんまと300円取られてしまった。別会計ならもっと別な勧めようもあるのに、あたかも料理の一部であるかのような仕草だったのでまんまと引っかかってしまった。

イドラ島/写真転載不可・なかむらみちお クルーズ船/写真転載不可・なかむらみちお  一時間前後で一番奥の島イドラ島に入港した。緑に覆われたエギナやポロス島に比べると、ずっと白っぽい岩石の島といった感じだ。大急ぎで近くの丘の上へ駆け登ると、早くも日本人の娘さんが頂上から帰ってきた。‘年の差なんて…’と見栄を張ってもやはり若い人にはかなわない。頂上の廃屋となった風車の辺りから下を振り向けば、海の色はますます透明で美しい。湾を取り囲むようなイドラの町には大邸宅やカラフルな家が斜面を埋めつくし、石段や入り組んだ路地が多い。くだんの奥さんが「まるで池田満寿夫の世界ねえ!」と感激していたが、ミコノス島やティラ島を見て来た私にはそれほどでもない。そして、「映画『エーゲ海に捧げる』のロケ地はここではないだろうか」と問い掛けてくる。私もその映画は見たが、言われるまでは気が付かなかった。なるほど、この島の人々は18〜19世紀にかけて海上貿易に乗り出し、巨万の富みを得た。今に残る大邸宅は皆この頃に建てられたものである。それは古代建築は勿論、18〜19世紀のギリシア建築の持つ美しさが良く保存されており、数々の映画の舞台にもなっている。例えば、第二次世界大戦や朝鮮戦争で大儲けをして世界の大海運王にのしあがったオナシス(A・クイン)とアメリカの元大統領、あのケネディの元婦人ジャクリーヌとの結婚生活を描いた「愛はエーゲ海に燃ゆ」もこの島を中心にロケしたような感じがする。名探偵エルキュール・ポアロを狂言廻しにしたミステリー小説の最終作品、アガサ・クリステイ原作の「地中海殺人事件」(1983年日本公開)の舞台はアドリア海のある島だが、ロケ地はここかもしれない。ストーリー立ての面白さと地中海の美しさで存分に楽しめた映画であった。手に汗を握って見た「ナバロンの要塞」はエーゲ海の北の端が舞台のようである。このように拾ってみると結構ここを舞台とした映画を、われわれは知らない内に見ていたのである。港のベンチには何を写しに来たのか知らないが、TVカメラを持ったクルーも見掛けた。
 この島は世界中からアーチストの卵たちが集まって来るので、“芸術家の島”という異名もある。銀や銅の彫金細工のアクセサリー、七宝の絵皿や飾り物などの工芸品にモダンな感覚が見られる。ここの水が奇麗なのは自動車という文明の乗り入れを一切禁止しているからかも知れない。島のタクシーはロバである。
アフエア神殿/写真転載不可・なかむらみちお  エギナ島には帰りがけに立ち寄った。ここにはギリシアで最も良く保存されている神殿の一つ、ドーリス式の美しいアフェア神殿がある。紀元前五〜六世紀に建てられたと言うから聞いただけでも気の遠くなるような話である。神殿まではベンツのタクシーか、オプショナルツアー(1400円)のバスで北東に12`も山路を登って行く。タクシーの乗り合いの方が安くて早い。
 神殿では、例の船のおばさんガイドが客を各国別に分けてからそれぞれの言葉でガイドをする。32本あった石柱の内、今は24本が残っている。これらの柱はエギナ島で産出した石灰岩で造られており、その大部分が一枚岩で出来ている。アルカティック時代後期の神殿の中でも最も優れた建築の一つだと言われている。特に西側の壁に注目したい。
 ギリシアは空がいい。そこに神殿の白いのがそそり立っているといかにも空を制覇しているという感じがする。建築物は空を制覇しなければならない。都会の空は小間刻みで意味がない。そこには大らかさ、寛容さ、状大さ、繊細さが同時に存在する。近代建築のコンクリートの中で、ブロイラーのように働いている文明人は気の毒である。
 エギナ島は古代には独立のポリスだった。紀元前7世紀には、ギリシアでも、1〜2を争う海上勢力となった。当時アテネとは大変なライバル関係にあったほどで、アテネ市民は、エギナを称して“ピレウスの目障り”と言っていたようだ。こうした伝統を受けて、エギナの民芸品は水準が高い。特に両腕の付いた水壷などの陶器が有名である。又、アテネの街角でナッツ類を売る屋台をよく見掛けるが、その中のピスタチオはここの島の特産品でもある。
 船には乗客用のプールがある。その傍らでは、ブラジャーとわずかばかりの布切れを付けたギャルがサンデッキで日焼け用のオイルを体に塗りながら肌を焼いている。私はたまらず無遠慮に成田空港でレンタルしてきたビデオカメラを持ち出して、その女性の足先からパンして上半身を写したり、バストのクローズ・アップを写した。ところが、普段持ち慣れないカメラなので、スチール写真を写している間にプールサイドの椅子の上にそのビデオカメラを置き忘れてきたのである。同乗の少年二人が来て、その事を教えてくれて初めて私は気が付いたのである。現場に行ってみるともう既にクローズしてネットで覆ったプールサイドには人影もなく、その傍らの椅子の上には、私が置いたままの形でそのビデオカメラがあるではないか。これには私も気がついて始めて冷や汗をかいた。
 二人の少年にはいつも御礼用にと思ってリックに入れてある物の中から日本製の煙草をあげようかとも思ったが、未成年者らしいのでそれは止めて、日本から持ってきた記念切手シートと最後に二枚だけ残っていた五円玉を一枚ずつあげて「サンキュウベリマッチ」となれない英語で心からの御礼を述べた。二人の少年はニコリと微笑を浮かべ、ペコンと頭を下げて走り去った。
 周りで事の成りゆきを見ていた日本人団体さんも喜んでくれたので、アテネから持込んだレツィーナ(松脂入りのギリシアワイン)を振舞った。
 ワンデークルーズは各島とも港での停泊時間は一時間程しかない。とにかくツアーというものは忙し過ぎてじっくり写真を撮っている暇もないというのが実感であつた。今にして思えば、クルーズに参加するよりも自由にフェリーで来て、イドラ島などでゆっくり楽しんだほうがよほど良かったのではないだろうかと思っている。
 このサロニコス湾とはアテネのあるアッティカ半島とペロポネソス半島に囲まれた湾内であってエーゲ海ではない。ピレウスからスニオン岬までの海岸線は皆このサロニコス湾の中にある。日本から来る団体さんのほとんどはこのコースに乗り、エーゲ海クルーズを楽しんで来たと‘錯覚’してお帰りになる人が多いようだ。
 エギナ島の港を出港するともう何もすることはない。楽しげに話をしているグループ、横になってひと眠りしている人。それぞれ今日一日の目まぐるしいスケジュールで疲れた体を癒しているようだ。しばらくするとサロンの小さな舞台で民族衣装に身を包んだ踊り子たちが、外国人が見ると何か落とし物でも拾っているような格好の「シルタキ」という民族舞踊を披露、旅の疲れを慰めてくれた。緩慢な動作が特徴だから、その気になれば、踊りの仲間に入って、二、三覚える事も出来そうである。
 やがてそれも終わり、19時、予定どうり船はピレウス港に無事帰港した。岸壁には何台ものバスが迎えに来ていた。一瞬、私はどのバスに乗ったら良いのか分からず右往左往してしまったが、まあなんとかようやく私たちの乗るべきバスを見付けて無事ホテルに辿り着いた。
【一口豆辞典】サラミスの古戦場…アッチカの西方海岸に近い小島。前480年、この近海でテミストクレスがギリシア艦隊を率いてペルシア艦隊を破った(広辞苑より)。古戦場「サラミスの戦い」として有名。
 サラミス海戦…前480年、サラミス島付近に軍艦を結集して機をうかがっていたアテネ軍は、スパイをペルシア側に送ってにせ情報をつかませ、ペルシア軍の船団を湾内におびきよせた。待ち構えていたアテネ海軍は、側面から突いて出て、ペルシアの船団に体当たりし、艦船もろとも兵隊たちを海の中へ沈めてしまった(実業之日本社発行「ギリシア・エーゲ海」より)。
著者注…ウィリアム・ワイラー監督のアメリカ映画「べン・ハー」(‘59年)の中にもこの話に似た状況が再現されている。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     アテネはタイムマシン

  8月8日(水) ホテル-アクロポリス(タクシー)-バスターミナル(バス)-スニオン岬(バス)-アテネ-ホテル
 アテネはコバルトブルーのエーゲ海に浮かぶタイムマシンである。ソクラテスが哲学を説いたという前五世紀のアゴラのすぐ傍に、中世のビザンティン様式の教会があるかと思えば、前六世紀のゼウス神殿のすぐ背後に第一回目の近代オリンピックの舞台となったスタディオンがあるという具合に旅人はわずか10分も歩けば、500年、1000年の時間を超えて古代ギリシア、ビザンティン、トルコ、さまざまの文明の遺産と思いのままに対面出来る。正にここは古代と現代との交差点なのである。アテネを心ゆくまで楽しむ為には観光バスに乗るよりも、この人間臭さ溢れるタイムマシンを自在に操るには、歩く事ほどふさわしいものはない。道路を歩くと乗り物の上から見ただけでは気付かないアテネのディテールを肌で感じることが出来るし、写真を撮るには歩かなければ撮れない。それで今日(8月8日)は、オモニア広場からアティナス通りを進み、古代アゴラを抜けて現代ギリシアの首都と人々の生活を見ながらアクロポリスヘ行くことにする。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     アティナス通り

 8月8日(水)。今日も快晴。アテネの二大広場の一つ、オモニア広場からアティナス通りに入る。この通りはアクロポリスが真っ正面に見え、いつもパルテノン神殿を眺めながら歩けるという利点があり、一級の景観付きである。
 と、まもなく大きなアゴラ(市場)があり、右手に青果市場と左手に魚肉市場が向かい合っている。ここには常に安くて美味しそうな食料品が溢れている。地中海で捕れる豊富な季節の魚、そして牛、豚、羊肉が売られ、アテネ市民の食を賄っている活気溢れる所だ。いわば、アテネの胃袋である。先ず、左手の魚肉市場に入ってみた。札幌の中央卸売市場のムードそのものである。商品を並べた台の上には裸電球が下り、鱗をキラキラ光らせた魚が今にも飛びはねそうにどっさりと乗つている。売り子が勿論ギリシア語で盛んに客の呼び込みをしている。その新鮮さは飛び切りである。どうして魚屋さんや肉やさんが洋の東西を問わず未だに裸電球の下に肉や魚を並べるのか考えてみた。蛍光灯のスペクトル強度分配(波長帯分光エネルギー分布)は主に紫と青の間と、緑色が強く、赤い色が極端に不足している。その為に、色彩学的にもその反対色の肉や魚の赤い部分がどす黒く見え、あたかも新鮮さを損なっているかのように見える為に敬遠されるのである。従って商品を生きが良く美味しそうに見せる為には裸電球が一番良いという事になる。
 狭い通路をおじさんやおばさんが大きな袋を持ってあちこちで買い物をしている。早速生活感溢れる場面を2〜3枚スナップした。
 右手の青果市場の前にも、場外売場のような屋台が出ており、季節の果物が並んでいた。夏から秋に出る果物類は買わなきゃソン。ここでは是非とも実際に買い物をしてみなければならない。しかし、私はいま宿を出たばかりで、これからパルテノン神殿などを見て歩かなければならない。大きな荷物は因ってしまう。やむおえず私は一番軽そうなピスタチオを秤売りで買った。ピーナツに似ている木の実で、日本でも売っているが塩加減が違い、かなりきつい塩味であるが、安くて新鮮で美味しい。これでウーゾを飲むにはピッタリである。屋台で輪の形をした揚げパンを買った(30円)。それらを食べながら歩いても恥ずかしくないような庶民的な雰囲気と生活の匂いのする通りである。喧騒と何処か日本の下町の市場街のような雰囲気とぬくもりがあり、アティナス通りは庶民の生活感が肌で直に感じられ、とにかく親しみの持てる楽しい通りである。一方、この通りは昔は街娼が佇む赤線地帯でもあったそうだ。
 いつまでいても飽きることはないが、ここばかりにこだわるわけにはゆかない。先に進むことにする。
 アティナス通りがまもなく終わりという処の店先でソフトクリーム製造機を見付けた。120円と書いてある。なんだ日本と変わらないじやないか。ここは既に観光地に入っているので少々高いのは覚悟しなければならないが、一応値切ってみた。しかし、店員はガンとして負けないのにはこちらが根負けしてしまった。あまり暑いので一個買い、映画「ローマの休日」のオードリー・ヘプバーン気取りでなめながら歩いた。しかし、だれも振り返って見てはくれなかった。ソフトクリームを食べ終わった後は一層喉の渇きが襲ってきた。先を急ごう…アクロポリスの前には古代アゴラがある。

目次へ   ↑ページの一番上へ

    古代アゴラ

 古代ギリシアは西欧文明の源であつた。世界史の最初を飾っている“古代ギリシア”がここにある。かつてポリスの人達が集まって政治、学問、芸術を語り合い、商業活動を行なった民主主義の象徴とも言うべきところである。ソクラテスの哲学、アリツトバネースの喜劇、ペリクレースの弁論、ヘロードトスの歴史などを生む舞台となったのがこの地であり、アクロポリスと並んで見学に値する重要な遺跡だが、今は彼等に会うことが出来ないので、遺跡の写真だけを撮って素通りすることにする。
 これらの哲学者にどうしても会いたい人は、世界最小の独立国として有名なお隣の国、ヴァティカン市国を訪ねると良い。この国はカトリック教徒にとって最高に神聖な場所として誰一人として知らない人はいない。しかし、ここの美術館まで見たという日本人は数少ないのではないだろうか。この美術館は、狭いヴァティカンの中でありながら、それほど奥まったところにある。
 このヴァティカン美術館の「署名の間」には、13世紀末に花の都フィレンツェに芸術文化の花が開いたルネサンス時代の頂点をなす代表的画家の一人、ラファエロ(1483〜1520)の描いた壁画「アテナイの学堂」があり、その絵の中に彼らを見る事が出来る。この絵は、古代ギリシアの哲学者や数学者が一望に会するさまを朗々と謳いあげ、哲学者の勝利を表わしている。ブラマンテ(イタリアの建築家。サンピエトロ寺院、ヴァティカン宮殿などの工事に従い、中央ドーム形式の寺院建築様式を確立した。1444〜1514)風建築の下、画面の中央にはプラトンとアリストテレスの師弟が語らいながら歩み寄る。威厳に満ちたプラトンの顔はレオナルドがモデルである。老プラトンと語り合う弟子のアリストテレスは自信にあふれる壮年の姿。その顔立ちはミケランジェロを思わせる。画面左手前、書き物に余念がないのは数学者のピタゴラス、登場人物は、それぞれその人にふさわしい身振りで描かれている。コンパスを使うのは同じく数学者のユークリッドである。これらの顔のモデルは当時活躍していた人々であるから、今のように写真のない時代のプラトンやアリストテレスがどんな顔をしていたのかは知るよしもない。右端下方のグループの中には、若きラファエロの自画像が描き込まれており、彼一人だけ冷めた表情でこちらを見ているのは一体何を意味しているのであろうか。大変興味のあるところである。人は誰でも自分が生きた「証(モニュメント)」を何か一つでも良いから残しておきたいという願望がある。いわゆるライフワークである。私には未だそれがないのが残念である。来年は是非やりかけの「ヨーロッパ中世の城」を完成すべくドイツヘ撮影に行きたいと思っているが、どうなる事やら…。又、はたしてこれが私のライフワークと言えるかどうかも疑問の残るところである。当時、ラファエロは法王まで動かす力を持っていたというから、こんな事が出来たのかも知れない。
 同じことは「裸のマハ」等で有名なスペインの宮廷お抱え画家、ゴヤ(1746〜1828)にも言える。マドリードにあるプラド美術館には、各人の性格を光と影の中に描き分けた彼の「カルロス四世とその家族(1780)」の絵の中にも見られる。薄暗くではあるが、家族の左後に自分の肖像画を描き込んでいるのは大胆、かつ傲慢とさえ思われる。それだけ彼が、カルロス四世に可愛がられていたという証拠でもあろう。スペイン黄金時代も終わり、ようやくその栄光に斜陽の陰りが見えてきた「暗い時代」に、カルロス四世一家と一宮延画家ゴヤとの間にいかなる関係があったのか、その光と影のコントラストに興味がそそられる。
 10bと離れていない隣のシステイーナ礼拝堂にはライバル、ミケランジェロ(彫刻家)が旧約聖書からのエピソードを描いた天井画(1512)がある。二人は当時、芸術上の熾烈な戦いを演じていた。むしろ、時の法王ユリウス二世がレオナルド・ダ・ピンチを含めた「ルネサンス時代の三大巨匠」に競わせたと考えてもいいであろう。又、その建物の正面には、やはり「彫刻家ミケランジェロ」が法王ユリウス二世の命に怒りを込めて描いた大壁画「最後の審判」がある。いずれも、ルネサンスを代表する作品なので絶対に見逃すことは出来ない。この二つの作品を仰ぐとき、「システイーナ礼拝堂を見ずには、一人の人間がどれだけのことをなしうるかを目のあたりに見てとることは不可能である」というゲーテの言葉がしみじみと納得される。
 とんだところで道草を食ってしまった。先を急ごう。この道筋には、女の人がレース編みをしながら客に声を掛けている。今出来たばかりの手作りのレース編みを車のボンネットの上に広げたりして売っているのである。その少し先には道の両側にお土産屋さんが並んでいる。
 アクロポリスヘのゆるやかな坂道は、比較的よく保存されている。古代人の通った車輪の跡に注目したい。だらだら坂を登りつめたところが交差点で東西に分かれる。私は右の道を選らんだ。動物的感覚である。
【一口豆辞典】ルネサンス=再生の意。13世紀末葉から15世紀末葉にかけてイタリアに起こり、次いで全ヨーロッパに波及した芸術上及び学問上の革新運動。この運動は、個人の開放、自然の発見を主眼とすると共に、ギリシア、ローマの古典文化の復興を契機として、単に文学・美術に限らず、広く学問、政治、宗教の方面にも清新な気運をひきおこして、神中心の中世文化から人間中心の近代文化の転換の端緒をなした。「広辞苑」より。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     滑る岩の展望台

 坂道は半結晶の石灰岩がむき出しになっていて滑りやすいから足元に注意。坂を登り詰めたところにお立ち台ほどの小高い岩がある。そこを大勢の観光客が登り降りしている。登ってみてもさほど展望が変わるとは思えないが、ここまで来ると観光客としては一応登って下界を眺め回してみたくなるものらしい。私も登ってみることにする。この岩が又特別滑るのである。ここでいったい何人の人が足を滑らせて怪我をしたのやら…。数千年もかかって多くの人間の靴底で磨きをかけられた岩は恐ろしく滑るのである。私も注意深く四つん這いになって登り降りした。そこからは今通って来た下界は勿論、アクロポリスの全体像も良く見える。その入口付近の登り坂には、まるで蟻の大群の行進のように群れを成して登り降りしているのが遠望出来る。

目次へ   ↑ページの一番上へ

    古代からのレガシー〈遺産)アクロポリ

 アクロポリスはギリシアの象徴であるばかりでなく、近代ヨーロッパ文明の故郷でもある。丘全体は半結晶石灰岩で覆われ、海抜150b、市街地から約70bの高さがある。西側を除いて三方を岸壁で取り囲まれたこの小高い丘は、古代ギリシアの都市国家(ポリス)の中心となった要害堅固な丘(アクロ=高い)で、ポリス守護神を祀る聖域であり、もともとアテネ王国の歴代の王たちの城砦であった。
 総大理石の階段を一歩一歩踏みしめてジグザグに登りつめると、先ず初めに目に入るのが、前門のプロビエライアで、東西にドーリア・イオニア両様式を混合した白大理石六柱式の柱廊がならぶ壮麗な門である。そこで入場料を払う。1971年に来た時は15ドラクマだったが、今回は800ドラクマであった。このところギリシアはインフレ率が激しいとは聞いていたが、わずかこの2O年間でこんなに高くなっているのには改めて驚かされた。

20年前/写真転載不可・なかむらみちお 今回/写真転載不可・なかむらみちお
 プロピエライアを通ってパルテノンに進む前に、右手に優美な小神殿がある。三段の台座の上の廠舎な佇まい。古(いにしえ)のアテネ人たちが、ペルシア戦争後に訪れた平和を祝い、勝利の女神アテーナを讃えるために作ったアテーナ・ニーケの神殿である。小柄なイオニア式の建築だが珠玉のような趣を持っている。見どころは、四面の壁の上部一面を飾っている浮彫(レリーフ)である。
 プロピュライアを通り抜けた正面にあるのがパルテノンである。パルテノンとはギリシア語で「処女の住まい」のことである。この場合の処女とはアテーナ女神をさすことは言うまでもない。アテネの全盛期に当たる紀元前438年に15年の歳月を費やして完成した大神殿が、2400年の時間を超えて、澄明な空気と明るい陽光の下に堂々たる佇まいを見せて私を古代の世界へと誘ってくれる。
 パルテノン神殿は世界で最も均整のとれた建物と言われている。正面から見ると、目の前に並び立つ八本の列柱の偉大さに誰しも圧倒されてしまうだろう。すべて大理石で出来ているこの柱の高さは10.34b、直径は約2b。台座のあるイオニア式の柱と違って、これは台座のないドーリア式の柱である。正面の八本の柱に対し、両サイドはそれぞれ17本の柱で支えられている。これは偶然の比率ではなくて、「正面の柱を二倍して、それに一を加えたのが側面の柱の数」という神殿形式の公式にのっとったものである。古代ギリシア人は持ち前の平衡感覚から、この比率こそ最も均整のとれた神殿美を生み出すという結論に達したのだろう。その荘重にして典雅な姿は古今東西で最も美しい建物という名をほしいままにしている。
 又、パルテノン神殿はかつて全体が彫刻像や浮き彫りなどで飾られた一大芸術作品であった。レリーフは神話や古代歴史の場面をテーマにしたもので、柱頭と屋根の間の部分に張られていた。そこには、周囲160bに90枚以上のレリーフがあったという。また破風と呼ばれる正面と裏面の屋根の三角部分には大きな彫刻像が置かれていた。レリーフや破風の像の一部は博物館や大英博物館に保存されているが、他はほとんど残っていない。破風に残されているのは模作である。
エレクティオン神殿/写真転載不可・なかむらみちお  パルテノンの北側にはイオニア式の神殿で乙女の像を表わした6本の柱廊で有名なエレクティオン神殿がある。この柱廊はカリュアティドの柱廊と呼ばれ、前五世紀の代表的な人体像だとも言われる(紀元前406年完成)。前回訪れた時にはパルテノン神殿の中まで入る事が出来たが、今回再び訪れてみると、パルテノン神殿を始めすべての遺跡の周りにはロープが張られ、要所要所には監視人が居て目を光らせていた。そのため、側まで近付けないのが残念である。それを無視してロープ内に入ると笛が鳴り、監視員が飛んで来て注意するのである。入れないとなると入りたくなるのがどこの国の人も同じらしい。今しも一組の若いアベックが連れの女の人をロープの中に入れ、エレクティオン神殿近くに立たせて記念写真を撮っていた。早速笛がなり、監視員が飛んで来て注意を与えていた。そればかりではなく彼は今写したそのフィルムを抜いて提出せよと迫っている。私はことのなり行きがどうなるのか立ち止まって見ていた。すると男はしかたなくカメラを監視員に提出した。ところが監視員はそれを受け取る訳でもなく、「今後は注意して下さい」とでも言っているのか、一言、二言注意を与えて無罪放免となった。言うまでもなく、遺跡は私達が古代に生きた人々の生活を知る事の出来る人類共通の数少ない貴い遺産である。これを守り、次の世代に責任を持つて手渡ししてゆく為には多少厳しく責められてもしかたのないところでもある。
 このカリュアティドの正反対側に立つと、眼下にはアテネ市内が一望に開け、正面には今通って来た庶民的な歓楽街プラカが在り、左には古代のアテネ市民の集合場所だったアゴラが望まれる。振り向けばアクロポリスがある。ここはまさしく古代と現代との交差点であり、現代から古代へのタイムスリップの場でもある。私はここでしばし時の過ぎ行くままに、悠久3000年の遠い昔に思いをはせ、栄枯盛衰の変遷にひとしきり感慨にふけったのである。現代と古代との狭間に想いを寄せ、時を楽しんだ。
        時がすぎるのではない
          人が去っていくのだ
           そこに城を残して
                 井上 宗和
 再び前門の方へ足を向ける。南城壁とパルテノンの間の空地には、巨岩がごろごろところがっている。そしてアクロポリスの丘では珍しい緑の木立がある。空には雲一つ無く限りなく青い。真夏の太陽が焦きつくように降り注いでくる。既に手持ちの飲料水は底をついてきた。しかし、ここには売店はなく、水を手に入れることは出来ない。僅かの水を口に注ぎ、うがいをするように口の中をゆすいでから飲み込み、なんとか少ない水で乗り切ることを考えたがどうも持ちこたえそうにはない。心細い限りである。こういうのを焼け石に水というのかな!?。傍らに水道があり、蛇口からはドクドクと水が出ている。観光客はここまで来てこの水で顔を洗い、一息つく。どうしてこんな丘の上で涼々と水が出ているのであろう。不思議な気がする。ギリシア神話によると、ポセイドンはゼウスの頭部から鐙兜に身をかためて飛び出してきた勇ましい女神アテーナとここで土地争いをし、ポセイドンは三叉の鉾で丘をうがち泉を噴き出させたが、アテーナはオリーブの木を生い茂らしてポセイドンに勝った。それ以来アテーナはアテネ市の守護神となった。ここの水道はその時の泉から来ているのかもしれない。
 喉が渇いてきた。このままでは日射病になって倒れるかもしれない。“据え膳食わぬは男の恥”。えい!ままよ。下痢の心配もあるが、ここ2〜3日出ていないので思い切って水道の蛇口に口を付けてごくごくと飲んだ。うまい!明日が心配である。“明日のことは明日考えればいい”ケイ・セラセラ。なるようになれ。明日は明日の風が吹く。涼を求めて、少ない木陰に人が集まる。私もそこで一服することにした。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     ディオニソス劇場

 緑の木陰から少し前門の方へ行くとディオニソス劇場への入口がある。ギリシアといえば、野外劇を連想する。演劇の源流はギリシアにあり、しかも、一万五、六千人は収容出来たと言われるこのディオニソス劇場こそがその中心的役割を果たした。前五世紀に華々しく繰り広げられた悲劇・喜劇の大部分はこの劇場で演じられた。
 アクロポリスを出てタクシーを探したがなかなか見付からない。漸く一台捕まえて助手席に乗り込む。「スニオン、バスターミナル」「オォ!マブロマテオ?」「イエス」。タクシーはメーターも倒さずに走り出した。「アーユージャパニーズ?」「ヤー」「べリグゥト」。やがてマブロマテオ通りの広場に着いた。彼は駐車中の一台のバスを指差し、「ジスイズ、ツウ、スニオン」と教えてくれた。「ヤー、サンキュウ。ハウマッチ?」「1500円」「オォノー。べリベリハイプライス!タカイ!ダウン!ダウン!」私は500円だけ彼に差し出した。「ノー、1500円」と言い張る。この野郎メーターも倒さないでよく言うわい。私は500円札を引っ込めて1000円札を−枚差し出し、強引に押しつけた。「ノーノー1500円」。この野郎最後まで頑張る気だな。私は更に100円差し出した。未だ足りないという。えい、めんどうくさい。不足分の400円、併せて1500円を支払った。そしたら彼の運転手君、50円だけ返してくれた。‘気は心,である。「サンキユ、バイバイ」「バイバイ」。彼は何度も「スニオン行きのバスはこれだからな」と念を押して去って行った。普通は、タクシーにチップをあげるのが常識だが、値切ったのは私ぐらいのものかもしれない。おお、神よ!失礼のほどお許し下さい。アーメン!

目次へ   ↑ページの一番上へ

     マドンナ登場

 アテネの南東約69km、アッティカ半島の先端にスニオン岬がある。ここには、英国の詩人バイロンにも謳われた海の守護神ポセイドンに捧げられた神殿がある。
 バスには2〜3人しか乗っておらず、出発にはまだ間がありそうである。一番前の席一つを陣取り、先ずは一休みである。それにしても喉が渇いた。目の前に雑貨店風の店がある。あそこに行けば何かあるはずである。どうしょうかなぁと考えていたら、一人の金髪娘が乗り込んで来た。なかなかのシヤンである。と共に落ち着きのある感じがする。入口のステップを一段上がったところで彼女が私に「スニオン?」と声を掛けてきた。「メイビー」。彼女は私の後ろの席に座った。「アーユーナショナリテイ?」「アルゼンチン」「オォヤー、タンゴ」「ヤァヤア」「アイアムアジャパニーズ。メイドインジャパン」。これだけでもうすっかり仲良くなってしまった。遂にマドンナ登場。私は、この娘に「ジェニー」という名を付けた。早速向かいの店から冷えた缶ビールを2個買ってきて2人で分け合った。プルリングを引くとプシュという爽やかな音がして泡があふれ出てきた。私はハンフリー・ボガードにあやかって“君の瞳に乾杯!”と言いたかったのだが、残念ながら言葉が分からない。心の中で呟いてグィと一気に飲みほした。“ビバ、アルゼンチーナ!”“情熱と哀愁の国アルゼンチンに乾杯”“私の青春に乾杯!”。彼女は現在ニューヨークの大学に留学中で、夏休みを利用して一人で遊びに来たそうである。
 やがてバスは半分位の客を乗せて走り出した。アテネの街を抜け、アポロコーストという美しいサローン湾の海岸線に沿って走る。きらめく海原。途中、ビーチが多くバンガローやヨットハーバー、リゾートホテルなどが目に付く。スニオン岬の近くにもいくらかの美しい砂浜のビーチと岩場で泳げるところがあるという。
 心細くなったのか‘ジェニー’が「スニオンは未だ遠いのか」と聞いてきた。そんな事が初めての俺に分かるかと思ったが「イエス」と答えた。経過時間からしても未だ着く時間ではない。スニオン行きなのだからとにかく行き止まりでバスが止まったところがスニオンなのだと言いたかったのだが、言葉が出てこない。バスは途中の停留所で客を拾ったり降ろしたりしている内に混んできた。彼女は私を“人畜無害”とみたのか,私の隣の席に移ってきた。やがて遥か向こうに柱状遺跡らしい物を先端に乗せた岬が見えて来た。こうしてバスは2時間ほどで目的地のスニオン岬に着いた(バス代600円)。

目次へ   ↑ページの一番上へ

      スニオン岬

 ここには神殿とレストランと岬しかない。レストランはお土産屋も兼ねているが値段は街に比べていくらか高めである。先ず、入口で入場券を買って神殿に入る(入場券300円)。彼女も私に付いて来た。もうすっかり頼りにされている。嬉しいような迷惑のような…。
ポセイドン神殿/写真転載不可・なかむらみちお  ポセイドン神殿跡の列柱はエーゲ海に突き出た海抜60bの断崖の上にくっきり攣えたっている。パルテノンに次いで建てられたドーリア式神殿であり、アテネの最盛期、ペリクレース時代の紀元前444年頃と推定され、アテネのパルテノン神殿より数年後に造られたと言われている。古代ギリシアの神殿の大理石の列柱は年月が経つともに、鉄分が出るために褐色がかってしまうが、ポセイドン神殿の柱は今でも白く輝いている。青い空にすくっとのびた白い大理石の列柱は、均整のとれた美しさで見る者を圧倒する。建てられた頃は、正面と裏面に6本、両側に13本ずつ、全部で34本の列柱があったが、現在残っているのは南に9本、北の側面に6本である。
 地中海の藍、赤い断崖、白亜の列柱、神秘的な美しさを讃えるスニオン岬はエーゲ海に落ちる夕陽が美しいという。スニオンの丘からはエーゲ海の島々が手にとるように見渡すことが出来る。東からマクロニソス、南にアイア、イオルイオス、南西近くからケオス、キトウノス、セリフオス、天気の良い日にはミロス島も見えるという。西にはエギナ島。その向こうはペロポネソス半島。
 古代ギリシア人にとってスニオン岬は重要な監視所だった。アッティカの東側と西側を一望に見渡すことが出来たからである。又、船出する海の男たちが最後に見る陸地でもあった。眺望が素晴らしいのは当然と言えよう。
 日没はサマータイムで午後8時25分頃である。少しずつ太陽が西に傾いてきたが、日没には未だ間がある。私はここを出て向こうの崖縁で夕日を待つと言ったら、金髪のジェニーは、「では帰りにバス停で会いましょう」という事で一旦別れた。ヤレヤレ。連れが居ると思うようなポジョンにも行けず気が疲れる。思い切ったアングルを探すのに不便なのである。崖縁に腰を下ろし、水平線の遥か彼方まで広々とした海を見る。心なしか、水平線が丸く見えてくる。
 そして夕暮れ時…。ここの夕暮れ時が絶景である。手を入れたら染まってしまうような青い海が徐々に変化し、日没前後には茜色に包まれる。点在する島々…。ホメロスは「葡萄酒色なせる海」と詩った。まさに「ワイン色なせる海」である。
スニオン岬の落日/写真転載不可・なかむらみちお  真っ赤に燃えあがった大きな太陽が今しも白亜の殿堂越しにエーゲ海の遥か西の水平線の下に没した。その後ろの夕焼け!一大スペクタクルが晴れた日の夕暮れに、ここでは壮大なドラマが毎日繰り返されている。夕陽の輝きとエーゲ海のきらめきを目にしていると、いつの間にか古代アテネ市民になりきってしまったような感動にひたれる。「時よ止まれ、私のエーゲ海!」。このエーゲ海の風の中に座っていると私までが真っ赤に染まってしまいそうである。
 帰りの最終バスは客が日没を見終って集まった頃に出発するから、余り遅くならないほうがよい。それにしてもジェニーの姿が見えない。私の隣にジエニーの席を確保して待っているのだが…。ここに着いた時に、二人で時刻表を見ながら最終バスの時間を確認し合ったのだから間違いないはずなのだが…少し気になる。ジリジリと出発時間が迫ってくる。発車間近になって漸くジェニーが来た。彼女の話によると、遺跡と崖からの道の合流点で私を待っていてくれたのだそうだ。“可愛い奴”。
 バスは内陸の山道を、昔ながらの風情を残す小さな村づたいに走る。いずれもブドウ酒で名高い村を通る。このほうが64kmと距離は短いが、途中の村々で立ち止まる時間が長いのでアテネ到着はその分だけ遅くなる。バス代580円。ジェニーが「来たときと風景が違うし、バス代も違う。本当にこのバスはアテネに行くのか」と不安げに聞き出した。「OK、俺に任せておけ」と言いたかったのだが、私は首を立てに振るだけであった。
 バスがアテネ市内を通った時、ある建物の前にデモ隊が押し掛けており、フラッシュライトやテレビのライトが群集を浮かび上がらせていた。車内の外国人がそれを見てひそひそと話をしていた。私にはなんの事が分からなかったが、後で考えてみると、どうやら湾岸戦争に関連があるらしい。バスは夜中の11時項アテネのターミナルに着いた。アテネの夜はこれからが本番である。今日は少々疲れた。早くホテルに帰って横になりたい。
 俗に「旅は道づれ夜は情」というが「昼は道づれ夜は情け」。昼も夜も付き切りでは疲れてしまう。ジェニーに「私の話を聞いてくれる?」「♪聞かせてよ愛の言葉を…」などと囁かれたらどうしょう。疲れ果てて「余は情ない」という前に合羽からげてこちらから‘風と共に’暗闇の中にエスケープした。‘色男はつらいよ’アデイオス、セニヨリータ!。
 旅は一人に限る。自分という、一番気の合う奴が道連れであるから…。

目次へ   ↑ページの一番上へ

      ピレウス港

  8月9日(木) ホテル-無名戦士の碑-ピレウス港-ホテル-ナイトツアー-ホテル
 8月9日(木)。今日も快晴。連日32℃はあるが空気が乾燥しているから日本のように息苦しくはない。今日は、衛兵の交替を撮ってからピレウス港に行くことにする。夜はお楽しみのナイトツアーが待っている。
 このホテルは朝食付きである。一階のレストランに行くとバイキング形式になっていて既に食事が用意されていた。何しろ喉が渇く。ジュースをコップに注ぎ、ゴクゴクと飲む。続いてミルクもコップに一杯飲んでようやく一息付いた。皿にパンとかハムなどを乗せて席に着く。余ったパン(?)をソーと紙ナプキンに包んでポケットに入れた。
 ピレウスはアテネから西南へ8kmのところにあり、古代からアテネを守る軍港として栄えた。今でもギリシア第一の港である。いや、ギリシアというより地中海の要港である。世界中の国旗をなびかせた船が出入りし、旅行者にとってもエーゲ海への船出の港として重要な場所となっている。
 アテネからピレウスに行くには、オモニア広場から地下鉄に乗るのが一番便利だ。地下鉄のピレウス駅は、採光式の丸屋根と広い構内で、どの駅よりも立派である。進行方向突き当たりに改札口がある。ここでチケットを渡して外に出ると真っ正面が港である。
 港の脇を走る大通りには船便のチケットを売るトラベルエージェンシーが軒を連ね、ゴザを抱えたバックパッカーたちがその前を行ったり来たりしている。シェスタの時間さえ除けば、実に活気に満ちた港街である。
 ピレウスには、外国航路の大きな船の着く港の他に、ゼアとミクロリマーノと呼ばれる二つの小さな湾がある。どちらも古代から使われている良港である。小じんまりしているぶん情緒があり、散策するならこちら側のほうが向いている。
 ピレウスと言えば、後に文化大臣にまでなったメリナ・メルクーリの主演映画「日曜はダメよ」(1960)を思い出す。彼女が歌う主題歌でもこの映画は有名だが(この年アカデミー主題歌賞を受賞している)、なんと言ってもジュールス・ダッシン監督が初めてギリシアの風土を映画的興味で世界に認識させた事に意義がある。この映画のロケ地がこのピレウスである。メリナ・メルクーリは次期アテネ市長選に立候補している。その投票日が日曜日なので、「日曜はダメよ」と出るのか「OK」と出るかが興味のあるところである。この映画のお陰でピレウス港は一躍世界中に知られるようになった。
 ガイド誌によると、ピレウスを一望に見渡せるカステラの丘がある。そしてそこから東西の港が一望する事が出来てその眺めが素晴らしいと書いてある。先ずはそこから街全体を望むことにする。駅前のバス停で待つ間に、地元の人らしい客にガイド誌に書いてあるトラッシボウロウ通りを聞いてみたがあまり要領は得られなかった。漸く一人の老人が案内してくれるというので付いて行く事にした。その老人と一緒に乗ったバスはゼア湾に沿って走る。ここからサロニコス湾やペロポネス半島の町まで行く高速船が出ている。
 バスを降りてからその老人は付近の人に道を訪ね始めた。しかし、誰もそんな名前の通りは知らないという。地元の人が知らないのでは話にならない。漸くつかまえたお婆さんがその道のほうへ行くから案内するという。やれやれ一安心とばかりに付いていったが、途中まで来てから首を傾げ始めた。「多分この道だよ」と言っているらしい。いずれにしても頂上に行くのだから高い方に歩けば着くだろうとばかりに坂道を一人で登り始めた。
 この丘は古代のアクロポリスだったため、坂道がひときはきつい。今は麓から頂上まで建物がぎっしりと建ち並んでいる。ようやく頂上に着いた。そこにはエリアース教会が建っており、密集した建物が邪魔で展望は余り良くない。聞くのと見るとでは大違いとはまさしくこの事である。聞いて極楽、見て地獄。写真にはならず、がっかりしてしまった。目で見た良さと、いざ写真にまとめようというのではかなりの差があるのがしばしばであり、これもその良い例であった。
 そこからミクロリマーノまで歩いて降りることにした。アングルを求めてフト通りかかると、港に面してホテルのような会員制の大きなクラブのビルがあった。勿論入り口には「会員以外立入禁止」とでも書いてあるのだろう看板が掲げてあった。そこから撮ると絵になりそうだ。私は一瞬たじろいだが、ダメ元で交渉してみることにして中に入った。会員制のせいか人影が見当たらない。ビルのドアを押したら苦もなく開いた。「ごめんください」と声を掛けてみたが誰もいない。そのまま中に入り二階に行くと三方総ガラス張りのレストランがあり、そこでボーイさんがテーブルの用意をしていた。私はカメラを示し、港を指差して「シュートOK?」と聞いてみた。ボーイさんはコクリとうなずいた。
ミクロリマーノ/写真転載不可・なかむらみちお  ベランダに出て見ると眼下にミクロリマーノ湾が眼前に迫り、その先には今登って来たカステラの丘の上へと高級住宅街が連なる。ここは世界の映画スターや大富豪が競って高級別荘を建てている避暑地である。(避暑地という言葉は古いかな。一大リゾートと書き直した方が良いかもしれない)。ここからの港の眺めは最高であった。これ一枚でピレウスを表現仕切っていた。私の粘り勝ちである。すると、あのカステラの丘へ登り、アングルを求めてうろうろした苦労と時間の浪費はなんだったのだろうか。写真一枚を物にすると言う事はこういう事なのである。バカチョンカメラのシャッターを押せば写真が出来るという安易なものではないのである。
 ミクロリマーノとは“小さな港”の意味である。ギリシアの通りの名は時々変わることがある。1971年に来た時には確かトリコロマーノと言っていた処に違いないと思うのだが、今はその名称は何処にもない。
 港には世界からやって来たヨットや豪華クルーザーが肩をすり合わせるように繋留されている。港に面した海岸沿いには、高級なレストランがずらりと並ぶプレイスポットである。ギリシアに来たら一度はここで食事をしなければ意味がないとまで思い込んでやって来る人も少なくないそうだ。水面に面してズラリとテーブルが並び、日除けの布天井が涼しげな影を作り出している。ここではロブスターを始め、生の貝にレモンをふりかけて食べる。その他、海老、蛸、ギリシア風いかのてんぷら、鯛の塩焼き等々新鮮なシーフードを食べる事が出来る。又、たびたび映画の舞台となるのもこの辺りである。夏の夜、海風を頬に受け、港の夜景を眺めながら白ワインなどを傾け、ロマンチックなディナータイムを過ごすなら、このミクロリマーノをおいてはない。今回はパートナーを調達してくるのを忘れたので、素通りしなければならないのは残念であった。ちなみに、ロブスター料理は最低でも一匹8.000円はする。私はポケットに手を入れ、ホテルから持ってきたパンをそっと取り出して水で口に流し込んだ。
 これらはみんな“避暑地の出来ごと”であった。

目次へ   ↑ページの一番上へ

        音と光のショー

 今夜は後々の話の種にナイトツアーに行ってみる事にした。例の如くギリシアの夜は長い。ホテルにバスが迎えに来てアクロポリスの向かいにあるフニクスの丘にと案内される。なんとその中に先日のワンデークルーズで一緒だったイエメンの若い新婚カップルもいた。奥さんの服装は基本的に前回同様顔だけ出した服装であったが、色は真っ白でなかなか洒落ていた。きっとオイルマネーで儲けた富豪の二世であろう。
 会場にはアクロポリスに向かって折りたたみ椅子が並べられているだけで、他には所々にスピーカーが備え付けられているだけである。辺りが漸く暗くなった8時半、灯を全部消して真っ暗闇の中で‘スペクタクル,「音と光のショー」が始まった。会場のスピーカーから効果音と共に声優がドラマチックにセリフを流す。まるでラジオドラマを聞いているようなものである。それに合わせてアクロポリスのライト・アップが変化する。人物は出てこない。どうやらギリシア史劇をしているらしい。セリフはラテン語、ギリシア語、ドイツ語、英語の4ケ国語を交替でやっている。言葉の分からない私には、アクロポリスのライトアップの変化を見ているしか楽しみようがない。それよりも私は、早くプラカのタベルナに行きたかった。そしてフロアショーを楽しみながらデナーにありつきたかったのである。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     プラカ

 プラカはアクロポリスの丘とシンタグマ広場、古代アゴラの三点に囲まれていて、アテネの旧市街として、また夜の観光の中心として観光客に最も人気のある地区である。さしずめ“アテネのモンマルトル”とでも言おうか。前回来た時にはここではないが、漫画家のおおば比呂司さんに連れられてアクロポリスを眼前に望む高級レストラン「ディオニソス」に案内され、アクロポリスの夜景を眺めながら食事をご馳走になった事が懐かしく思い出される。その時、私はおおばさんにアテネに来る前にパリのシャンゼリゼ通りにあるナイトクラブ「リド」を見て大変感激した話をし、リドとラスベガスの一流のショーとはどちらが良いかと尋ねてみた。おおばさんは「両者には文化の違いがあり、一概にどちらとも言えないが、あえて言えば今はリドのほうが品が良いだけ軍配を挙げるべきかもしれませんね」と言われたように記憶している。又、私は「今、仮に同じ時間とお金を掛けてアメリカへ行くのと、ヨーロッパを見るのとではどちらが良いでしょうか」と伺ってみた。今考えてみると、随分幼稚な質問をしたものだと想い出す度に顔が赤らんでくる。おおばさんはきっぱりと「そりゃ、アメリカとヨーロッパでは歴史の重みが違いますよ」と答えて下さった事を今でも覚えている。それ以来私は自信を持ってヨーロッパファンになってしまったのである。そのおおばさんは早くも鬼籍の人となられ、今はもうこの世にはいない。御冥福をお祈り致します。
 この地区の建物は大半が19世紀に建てられた家並みがそのまま保存されているため、道は狭く入り組んでいる。古色蒼然とした二階建てと平屋が密集して居り、学生宿舎などもあるが、そのほとんどがタベルナ(居酒屋兼食堂)、デスコ、ナイトクラブ、レストラン、お土産物屋などが多く、グルメの旅には絶対欠かせられないところである。
 昼間は人影も疎らで、閑散な佇まいだが、ネオンが灯きはじめる夕刻ともなると、街は俄かに活気を帯び、マンドリンの弟分のような音を出し、現代ギリシアの大衆音楽を代表する弦楽器ブズーキの調べが流れ、旅行者も気楽に一緒に踊ったり歌ったり出来るので、夜通し熱気に満ちている。そして、ここの料理は安くておいしい事でも知られている。言わば東京の新宿と浅草をミックスしたような喧噪が夜半過ぎまで続く庶民の町である。
 中までは道が狭くてバスは入れない。近くで降ろされて店まで歩くのである。ミトロポレオス大聖堂の前を通って小路に入ると露天商が並んで声を掛ける。2〜3丁歩いたところでタベルナの二階に案内された。昔の田舎の劇場ほど広いホールには舞台に向かって縦に長テーブルが並んでいる。一見、ミュンヒェンのホーフブロイハウスを思い出す。ほとんどが先客で埋まり、我々の席だけが空いていた。席に着くや否やカメラマンが飛んで来て、一人一人写し始めた。それも年代物のアサヒペンタックスで…。
 先ずワインで喉を潤し、前菜のタラモ・サラダ(鱈子ペースト)がきた。やがて魚料理や肉料理が運ばれてくる。ステージでは結構有名だというミユジシヤンが映画「日曜はダメよ」のテーマ音楽でお馴染みのブズギ(マンドリンとギターのあいのこのような現代ギリシアの大衆音楽を代表する民族楽器)を演奏していた。本格派のブズギ音楽は、恋の歌や肉親との別離を唱う歌で、哀愁のこもった、寂しい歌が多いという。しかし現在タベルナあたりではエレキ付き演奏で、賑やかに演奏されている。
 音楽のルーツをさぐると、ギリシア時代に入ってから知的に取り上げられるようになって、音楽の形而上学的な要素が論じられ、音楽の科学的研究が行なわれはじめた。ほんとうの音楽はギリシアに始まると言ってよい。
 ギリシアでは神話時代(前1400年から同1000年頃まで)から音楽が重要視され、音楽及び諸芸術の神アポロン星学・体育・文字・手琴の創始者ヘルメス、笛の創始者エウテルペなどの名は後世まで伝わっている。前1000年頃からテルフィ宮殿の傍で四年ごとに行なわれたピチア競技には最初から音楽が重要な科目で、その後に起ったオリンピアその他の競技にも音楽は重要視され、ギリシア人の教養に音楽と体育は欠くべからざるものになっていた。言わばギリシアは音楽の故郷である。
 大数学者ピタゴラスは一弦琴を使って弦の長さの音程比を測定して決定した。さらにその組み合わせにより微細な音程比まで調べた。ピタゴラスは世界最初の音楽学者であった。最古の叙事詩は盲詩人ホメロスが自ら手琴を伴奏にして歌ったものである。
 ギリシアでは又音楽の倫理性が論じられ、プラトンやアリストテレスなどの著書にそれが散見する。これは、西洋における最初の音楽論として注目することが出来る。音楽が真に文化的な立場を持つようになったのはギリシア時代で、ここに初めて音楽論がおこり、音楽理論がおこり、音楽は精神的な教養として重要視されるようになった。(以上、音楽之友社発行堀内敬三著「音楽史」より抜粋)
 先ず初はなんと言っても「日曜はダメよ」を演奏して雰囲気を盛り上げる。数曲演奏したところで「オー・シャンゼリゼ」が演奏されるとフランスからの団体客が立ち上がって雄叫びをあげる。「庭の千草」だとイギリスから来た客が同じようにパフォーマンスを見せる。「ウォンチングマチルダ」ならオーストラリア人という具合で結構まとまった客が来ている。スペインならやはりギターの名曲「愛のロマンス」(ルネ・クレマンの映画「禁じられた遊び」仏51年の主題曲)だろうな。ドイツはなんだったか?…。まさか東西ドイツの統一を祝ってバッハやベートーヴェンの「ブランデンブルグ協奏曲」ではなかったとは思うが、運ばれてきたスブラギやムサカ等のギリシア料理を食べるのに忙しくて記憶にない。オーストリアならマレーネ・デイトリッヒが歌う映画「会議は踊る」の主題歌「唯ひとたびの」は古過ぎるから、J・シュトラウスの円舞曲「美しき青きドナウ」が似合うのではなかろうか?。いや、なんと言つても絶対アントン・カラスのツイターで有名になった映画「第三の男」の主題曲、「ハリーのテーマ」でありたい。スペインなら「闘牛士のマンボ」…(まさか)。なんと言ってもすごかったのはお隣のイタリアであった。「サンタルチア」を演奏した途端にタベルナに集まった客全体の四分の一位の団体が立ち上がって歓声をあげた。イタリア人は何時の時でも少々はしやぎ過ぎである。今や経済大国日本の出番は何時だろうか。「北国の春」でもやってくれたら私は舞台に駆け上がり、マイクを奪い取ってカラオケよろしく美声(?)を一曲ご披露しようと、せっかく出された料理にも手を付けないでレツイーナで喉を潤して調整し、まんをじして待っていたのだが、結局日本は無視されて出ずじまいで終わってしまった。残念無念。見渡しても日本人らしい人は見当たらないのだから仕方がない。大勢の客から顰蹙(ひんしゅく)をかう前に演奏してくれなかったほうに感謝したほうが良いのかも知れない。それにしても世界中何処に行っても必ずいる日本人がどうしてここだけはこうもいないのか不思議でならない。パリなんか50b歩く毎に日本人に会い、石を投げたら必ず日本人に当たるとまで言われているのに…。演奏が終わると抜け目なく彼のミュジシヤンが店内を廻り、自分の演奏を吹き込んだカセットテープを売り歩いていた。
 続いて出て来たのは民族衣装をまとった男女10人位の踊り子で、ギリシアの民族舞踊シルタキを踊って見せてくれた。この踊りのテンポは余り早くなく、何か地面から落とし物を拾うような仕草の踊りであった。この頃に、先程写して行った写真がキャビネ判ほどの大きさに焼き付けられて回って来た。かなりひどい色だ。裏を返して見るとコダックの紙を使っているが、まるで昔のアグフアカラーのように茶色っぽい。私は全く買う気はなかったのでテーブルの上に伏せて置いた。カメラマンがお金を集めに来た。買いたくない人は写真を返せば事が済む。彼は私の写真に気付かずに通り過ぎて行った。

目次へ   ↑ページの一番上へ

    ベリーダンス(へそ踊り)

 ショーに出演する芸人は、ホールの入口の方から来て私の後ろを通って舞台に上る。今度は臍を出したセミヌードの若くて可愛い娘がタンバリンを片手に登場した。さすが腰周りはしっかりしている。美人の条件は、時代やその国の文化によって異なるが、これがアラブの美人の条件である。やがてアラビア音楽を伴奏に、始めは緩やかに、そして次第に腰を振り、くねらせて、舞台に濃艶なムードをみなぎらせる。男を誘うような微笑をたたえて、踊り子は30分、40分と踊りまくる。踊りに魅せられ、魂を抜き取られた顔々…。会場は水を打ったように静かである。観客は思い思いに官能の世界に浸る。しばしの間をアラビアン・ナイトの世界に浸っているのかもしれない。
 べリーダンスはエーゲ海を挟んだお隣の国、エジプトの踊りである。厳格な回教徒ではないエジプト人は、情緒豊かな音楽と踊りを持っている。べリーダンスの妖艶さは誰しも知るところで、アラビアの夜の最大のアトラクションとなっている。微妙に移ってゆく早いリズムの流れは、砂漢の中で、遠い日を懐かしむかのように情熱的である。私はこれを機会にカメラに望遠レンズを付けて覗いて見たが、私の席からは肝心の彼女の臍の穴の奥底まで見る事が出来なかったのは残念であった。
 オリエンタル・ダンスは、元来、セクシーさを売るためのものとしてではなく、もっと健康的な踊りで、婚礼などの祝宴に興をそえる大衆的な踊りであったといわれている。正式にはオリエンタル・ダンスと言うが、日本人の間には「尻ふりダンス」とか「へそ踊り」とかの愛称がある。
 アラブのイスラム文化、異民族支配による永い歴史の一駒をかいま見たのには考えさせられた。帰国後、べリーダンスに付いてもっと詳しく調べてみようと思い文献をめくって見たが、これについてはどの百科事典を引いても一行も載っていなのには驚かされた。
 私が初めてべリーダンスを見たのは何時の頃か忘れたが、若かりし頃に映画のスクリーン上であった事を覚えている。そのシーンは、こねくり廻る臍のアップから始まり、半裸の妖艶な女がアラビア風の音楽にのって踊る場面であった。その映画は「カサブランカ」だったか「モロッコ」だったか、「外人部隊」ではなかったかと思う。その時は外国には面白い踊りもあるものだなぁ。一度機会があれば本物を見てみたいものと思っていた。それがまさかここで実現するとは夢にも思っていなかった。40年来の想いがようやく叶ったと言ってはオーバーだろうか。その映画がなんという題名であったのかを思い出せないのがもどかしい。やはり映画は「偉大なる文化産業」である。
 やがて一通り踊りが終わると、彼女は近くの男の客を舞台に招き始めた。照れながら登場する客、我こそはと勇んで出てくる人、舞台に上がってからも照れている人とか、客席に盛んに愛敬を振り撒く客など様々で、それを見ているだけでも面白い。舞台には十数人の客が上がった。彼女は一同に臍を出すように命じた。セーターをめくる者、Yシャツの釦をはずされて当惑する紳士。その度に観客席からどっと笑いが起きたり口笛が飛ぶ。
 一同が揃ったところで、べリーダンスのインスタントレッスンが始まった。先ず彼女がタンバリンの音に合わせて腰をキュッと捻って見本を示す。次は客の番である。彼女のタンバリンがパンとなる。舞台に並ぶ紳士諸君も両手を上に挙げて真剣に腰を振るがどうも思うようにはゆかず、客席を湧かす。たくし上げたセーターが下がる者。腹の出ている人はバンドを緩めているからズボンがづり落ちそうになる。その度に観客席から爆笑が起きる。居合わせた客も一緒になって陽気に楽しんだ一時であった。
 テーブルには水気たっぷりのデザートのフルーツが出て、最後にアイスクリームで締め括って店を後にした。
 店を出てからバスに戻る訳だが、その時、例のイエメン人夫妻と一緒になった。彼等の後に付いて行けばバスに戻れると思い、一緒に肩を並べて歩いた。ところがである。バスが見当たらない。一緒に歩いていた人達も何時の間にか居なくなって3人だけ迷子になってしまった。彼は「マイフレンド」を連発し、こちらに来いと言わんばかりに手招きしながらあちらこちらと歩き廻ったが、結局バスは探し当てられず迷子になってしまった。やがて彼等はタクシーを拾ってづらかってしまった。何が「マイフレンド」だ!神は時としてこんな悪戯をして楽しんでいるのであろう。私はやむなく一人でホテルに向かって歩く事にした。流石この時間になると人通りも少なく、街路灯だけが空ろに辺りを照らしていた。所々にいる人を捕まえては道を聞きながら深夜のパティシオン通りを歩き、オモニア広場に出てホテルに付いた時はもう日が変わっていた。翌朝、フロントの人にツアー会社から無事返ったかどうかの問い合わせが有った事を聞き、ギリシアの業者もまんざら無責任ではないなと妙なところで感心した。
 申し忘れましたが、昨日アクロポリスで生水を飲んだ結果をこの場をお借りしてご報告申し上げますと、霊験あらたかで少し緩めだが快適そのものでした。(あの水をポリボトルにでも入れて、便秘気味のワイフにお土産に持って帰ろうかな。キツト喜ぶと思うのだが…)。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     ハドリアヌス帝の凱旋門

  8月10日(金) ホテル-ゼウス神殿-アドリアヌス門-フニクスの丘-ホテル-オモニア広場-ホテル
 8月10日(金)。窓を開けてみると正面に見えるアクロポリスの丘の上に久し振りに雲を見た。今朝の朝食は昨日と全く同じであった。この調子だと明日も同じかも知れない。私は又もパンとビスケットを紙ナプキンに包んでポケットに入れた。今日はゼウス神殿を見てからフィロパポスの丘まで行ってみる事にする。ここからはアクロポリスが真正面に見えるはずである。
 シンタグマ広場から四、六時中車が通るアテネの目抜き通り、アマリアス大通りをアクロポリスの方に10分ほど行くと間もなく、右にカーブする交差点にアマリアス大通りに面して二段式の簡素な凱旋門がある。アテネとギリシギリシア文化を尊崇し、市域を広げたローマ皇帝アドリアヌスが紀元132年、アクロポリス側の古代都市と同皇帝が建設した新都市ハドリアーノポリスとの境界を示す為に建立したものと言われている。門の高さは18b、巾12b、厚さ2bの大理石で出来ており、アクロポリス側には「ここよりアテネ、テーセウスの古代都市である」と書かれ、反対側は「ここよりハドリアーヌスの町、テーセウスの町ではない」と記されている。この門のすぐ後にゼウス神殿がある。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     ゼウス神殿

 空路からアテネ入りした観光客が車で市内に入り、最初に目につく遺跡が通称「ゼウス神殿」である。ここには、オリンペイオンの巨大な列柱がそそり立っている。かつては、ギリシア本土で最大のゼウス神殿で、コリント式建築の代表作として有名であった。
 神殿は工事の途中で中断し、完成するまでに700年かかったといわれている。現在残っているものは、ギリシア文化の良き理解者であったローマ時代のハドリアーヌス皇帝が前130年頃建てたものである。規模、壮麗さから、エジプトのビラミツドにも匹敵すると言われていたが、四世紀にゴート族の侵入により破壊され、今は13本の柱が立っているだけでそれほど大きさは感じられない。
 ゼウス神殿を出て少し行くとアクロポリスの入口に出る。アクロポリスの丘と道を挟んであるのがフィロパポスの丘である。ここからはアクロポリスが真正面に見え、展望もいい。しかし、かなり雲が多くなってきた。早速三脚を立て、セルフタイマーを使ってアクロポリスと共に記念写真を撮った。もう、大方写したい処は写したし、青空でないのでイメージが合わない。明日は帰国でもあるし、ここらで一旦ホテルに帰り、無事の帰国願いを兼ねて明日の天気祭り(酒盛り)をすることにした。(酒を飲むのには特に理由はいらない。なんとでも理由は付けられる)。
 帰りはアクロポリスの裏に出てアテナス通りを通って帰った。途中のお土産屋に入ってお土産を物色していたら、店の主人に声を掛けられた。「ジャパニーズ?」「イエス」「カミカゼ、トラ、トラ、トラ」。私は愕然とした。外国人には日本は未だにこのような観点からしかとらえられていないのではないだろうか。この事はここだけではなく、前回のヨーロッパ旅行でも体験した事があるので、なおさら深刻に考え込んでしまうのである。逆に考えれば、私達も外国の文化や生活、習慣をかなり誤解して相手に不快感を与えたり、感情を逆撫でしているのではないだろうか…と。世界を訪ねるならば、少なくともその土地の文化や生活、習慣、歴史を学ぶ姿勢を忘れてはならないと思う。特に日本人は島国育ちで、過去久しく外国から侵略も受けず接触も少なかった。その為にマナーも劣るし、外国人に接する知識も不足している。又、無信心者が多く、外国の宗教上の生活、習慣、文化に付いては不本意ながら一番欠けているところである。せっかく外国に行っても、その国の先人が残した偉大なる文化遺産を見落としたり理解出来なかったり、更には文化の違いから顰蹙をかい、相手から誤解を招いたり、つけこまれたりしてトラブルに発展することもあるから気を付けなければならない点である。パック・ツアーの客にはそういう人とか認識不足な物見遊山客とかが特に多いと聞く。“アッシにはかかわりのないコツテして…”と言って澄ましていられない問題である。やはり行く前には前もって最低の知識は知っておいたほうが効果的で楽しい旅が得られるし、帰国後もフォローしたほうが知識が身に付いて良いと思う。
 ホテルに帰り、ピスタチオをおつまみにして一人でレツイーナを傾けた。すっかりいい気分になって、夕方近くから信者でもないのに「シエスタ」をしてしまった。少しはギリシアの習慣に慣れてきたというところだろうか。明日はいよいよ帰国であるという安堵感か、又はそろそろ溜まっていた旅の疲れが一度に出たのか。はたまた気の緩みか?
 夜の11時頃目が覚めた。ベランダに出てみたら珍しくパラパラと雨が降ってきた。それも一瞬で止んでしまった。やっぱり夏のギリシアでも雨は降るのだ。若しかしたら、これはアテーナ神(女神)の惜別の涙なのかも知れない。それとも無事の帰国を祈るお呪いだろうか。明日の事は分からない。それは‘神のみぞ知る’である。それにしても、明日の天気は大丈夫だろうか気がかりである。私は夕食をとるためにこれからオモニア広場のタベルナに行くことにした。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     オモニア広場付近

 シンタグマ広場から少し離れたオモニア広場はシンタグマ広場がアテネの表玄関だとすれば、オモニア広場はさしずめアテネの通用門といったところである。あたかも夜のすすきのか上野と浅草を一緒にした繁華街とも言える。下町的雰囲気に少々いかがわしい味が入り混じった、庶民の活気溢れる場所である。
 広場はロータリーになっていて、ここから放射状型にアティナス通り、ピレオス通り、宝石店の多いティミウ通りなどが始まっている。いずれもアテネの幹線道路だ。つまり、オモニア広場のロータリーは交通の要衝で、いつも車の急ブレーキとクラクションの音がたえない。ギリシアの治安は、他のヨーロッパの都市に比べるとずっといい。アテネもそうそう危険なことはない。が、ここは旅先、油断は禁物である。特にシンタグマ広場近くにはポンピキや悪質なカフェバーの客引きが多い。これらの人種は日本語で話し掛けてくるからすぐ分かる。
 広場の地下は地下鉄のオモニア駅となっている。ロータリーの四方には地下へ潜るための階段とエスカレーターが口をぽっかりと空けている。ピレウス港へはここから地下鉄を利用して行くのが、一番安くて便利である。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     タヴェルナ

 広場の周りには、ホテル、カフェ、ショッピングセンターなどがある。アテネのタヴェルナはホテル同様、ピンからキリまでいろいろある。といってもおおかたのタヴェルナは一人700〜800円、1000円も出したら動けなくなるほど食べられる。前にも書いたが、ギリシア風居酒屋とか食堂、中にはブズーキと言う四弦のマンドリンに似た楽器をかき鳴らしながら、ギリシアの恋歌を聞かせてくれたり、ショーを見せてくれる大食堂もある。ギリシア人の夕食は普通午後9時頃から始まる。それ以前に賑わっているタヴェルナは観光客に人気のあるところである。夕食だけというところが多く、午後8時頃から。閉店は午前2時近くになる。遅くなって賑わいが増すタヴェルナは、アテネっ子がひいきにしているところである。格式ばったところのないのがタヴェルナの良いところで、地方色を味わうのも外国旅行の眼目の一つであろうから、ギリシア滞在中に一度はタヴェルナに足を運び、ギリシア料理と情緒を楽しむべきである。
 トリチス・セブテンプリウ通りとパティッシオン通りにはさまれた一角には安いタヴェルナが集まっている。何軒も一角にかたまっており、客引きが盛んなので、あちこちを見比べてから入るといい。安易に誘いに乗るようでは必ずしも美味しいタヴェルナを探し出すことは出来ない。ボヤッとしていると口上のうまい店主に捕まって、アッという間に座らされるので気を付けたほうが良い。カバプ、スブラギ、ピザなどが安くておいしい。ギリシア料理はオリーブ油の臭いが強過ぎてなじみ難い人もいる。「ムサカ」や「スブラキア」は日本人向きの料理である。「ムサカ」は牛の挽き肉、なす、じゃが芋などを重ねて焼いたギリシア風の‘グラタン’である。「スブラキア」は羊肉、豆ネギ、トマトなどをメリケン粉の皮でくるんだもので、手づかみで食べる。
 席に着く前に、先ずショーケースなりキッチンの中を覗いて素材や料理を確かめる事。新鮮さに欠ける材料(魚や肉)を出していたり、置いてある材料が気に入らなかった場合は遠慮なく出てしまおう。反対に気に入ったら、先に素材や料理を指差して席に着けばいいのだ。ギリシアのタヴェルナには、こうした暗黙の了解がある。
 オモニア広場に面したところに近代的な食堂のスーパーかバイキング料理のようにセルフサービスで料理を自分で盆に入れ、出口で清算するタヴェルナもあつた。ここだと間違いが無いので今夜はここでシシカバブを食べることにした。
 先ずは、レツイーナで喉を潤す。これには松脂が入っているので他のワインに比べると少し癖があるが、なれると好きになる。ギリシア人とワインとのつきあいは過去8000年にも及ぶと伝えられ、現在でも、洒を最初に造ったのはギリシア人だと信じられている。又、食前酒には、葡萄の皮を蒸留したウーゾという透明な酒があり、日本の焼酎に似ているが、水を差すと白濁する。氷塊を入れて飲むと良い。私はスブラギ(780円)を食べたが、フライドポテトやらなにやらが大きなお皿にいっぱい盛り付けてあり、食べ切れなくて降参してしまった。

目次へ   ↑ページの一番上へ

    帰  国

  8月11日(土) ホテル-オモニア広場-ホテル-アテネ空港 22:20(SQ23)-
  8月12日(日) 14:05 シンガポール市内見物-空港
  8月13日(月) シンガポール 01:15(SQ98)- 08:45 成田 13:45 - 千歳(バス)-札幌

 8月11日(土)。いつになく寝坊して目が覚めたら8時だった。シャッターを上げてベランダに出てみたら、空は快晴青空だ。天気祭りが利いたらしい。既に太陽が高く昇り、今日もアクロポリスを輝くばかりに美しく照らし出していた。  朝食のメニューは昨日までと全く同じものであった。オモニア広場近くのスーパーにお土産用のウーゾとミネラルウォーターを買いに行く。
 アテネ発の飛行機は22:20分である。少々早いが、ひとまず空港まで行く事にして身支度を整え、10時にフロントに部屋のキーを返しに行った。するとすっかり顔馴染みになったフロントマンが「エアポート?」と聞いた。「イエス」。フロントマンが玄関まで出て私に手招きをする。「ミスターナカムラ、カムヒア」。ホテルの前はオモニア広場、シンタグマ広場に通じるバス通りである。ガイド誌によると、空港から市内に入るのにはアテネの中心地シンタグマ広場まで黄色い車体のエクスプレスバスが30分おきに発着していると書いてある。つまりその逆でもあるという事である。アテネに着いた日に私はシンタグマ広場にある日本航空アテネ支店に行き、日本人の女子職員と雑談を交し、そのバスの乗り場は日航前である事を確認していた。それで私はホテルの近くから一旦市内を走るローカル用のブルーバスに乗り、シンタグマ広場まで行ってからエクスプレスバスに乗り替えなければならないと思っていた。ところが、そのフロントマンがホテルの斜め前のバス停留所を指差し、あそこからエクスプレスバスに乗れば良いと言う。丁度その時、黄色い車体のエクスプレスバスが来たのである。フロントマンはあれが空港行きのエクスプレスバスだと教えてくれた。勿論それには間に合わないのでホテルのロビーで次のバスを待つことにした。こんな近くからバスに乗れるとは思ってもいなかったのですっかり嬉しくなってしまった。多くの荷物を持って歩くのは旅の中で一番しんどい事である。空港までのバス代は150円であつた。
 空港ビルの片隅には、警察の装甲車が待機し、自動小銃を持った警察官が物々しく武装して辺りを警戒していた。軍政下にあるスペインの町角にも自動小銃を持つた兵隊が所々に立ち、警戒していたが、今は平和なギリシアには何かそぐわない風景であった。余り珍しい風景なので、彼等に気付かれないようにその様子を2〜3枚スナップしておいた。そう言えば、オモニア広場からホテルに行くまでの間に警察署があるのだが、その前にも必ず何時も自動小銃を持った警察官が張り番をしていた。私がカメラを向けるとムサイ顔をしていたのを思い出す。これはきっとイラクのクエート侵攻の余波かもしれないと気が付いたのはだいぶ後の事であり、「平和ボケ」した私にはなんとも鈍い反応であった。なにしろ、そのクエートは陸一つ東に越えたギリシアのご近所なのだから当然と言えば当然である。来る時にはその上空を飛んで来たのである。帰りはどうなるのだろうか。まさか民間機を誤って打ち落とすようなことはないだろうと信じたいのだが…。人間は神様ではない。間違えても不思議ではない。これを機会に神を信じる事にしょうかナ。それにしてもどの神様を信じて良いのやら選択に因ってしまう。おお、神よ!どの神が一番信頼できるか我に指針を与えたまえ!アーメン。
 空港はエアコンが利いていて快適である。先ず缶ビール(300円)を買う。タカイ。時間が有り余って困ってしまった。乳母車のようなカーゴを一つ確保して荷物をそれに全部積み込み、売店を冷やかしてみた。妻と娘へのお土産になるような物を見付けた。街より少々高いようである。売り子に値引き交渉をしてみたがガンとして受け付けない。こちらも作戦上、一旦諦めたふりをして一周りしてから再度挑戦するがダメである。結局正札通りで買ったが、後でガイド誌を読み返して見ると、空港の売店では値切れませんと書いてあった。日本で言えばデパートで値引き交渉しているようなもので、とんだ三枚目であった。
 夕食を空港のレストランでとろうと思ったら、そこに行くには荷物を一旦、例の]線検査器を通さなければならない。私はフィルムとカメラだけオープンチェックをしてくれるように頼んだが、係員は渋い顔をした。これは駄目かなと思つたらその係員が、]線検査をしない代わりに荷物全部をここに置いて行けと言ってくれた。特別の計らいである。私は感謝してご厚意に甘え、カメラだけを持ってエレベーターで二階のレストランに行った。
 レストランでは例のレツイーナ(600円)とムサカ(850円)を食べた。空港のレストランはやはり何処も高い。
 20時頃ようやく搭乗手続きが始まった。懐かしのオリンピアを20年ぶりで訪れてみたかったが、それが実現出来なかったのが心残りである。何か一つ断ち切れない未練の想いを残してギリシアを後にした。しかし、この旅が一生心に残る旅になるであろうことを信じて…。
 ヒエレテ(さよなら)愛しのギリシア!懐かしのギリシアよ、さらば!又来る日まで…。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     旅は楽しい

 定年退職して社会の第一線から退いて早や三年の月日が過ぎ去った。その間、少しは仕事もした。海流の旅(人生を海に例え、人間の心のすべてを海の流れに表わしている。真実を求め探し歩く旅)もした。もう一度位ヨーロッパに出掛ける資金は若い時に貯めてある。私は今、座右にその旅のためのガイド誌とか、いろいろの資料を置き、毎日心の旅をむさぼっている。
 毎朝目を醒すと、旅の途中でバテない為に体力増進を計るジョギングを欠かさない。その後、ラジオのドイツ語講座を聞く。昼は好きなレコードを聞きながらそれらの本を紐解いたり、否応なしに毎日配られてくる新聞に目を通している内に夕方になってしまう。夜はチーズとワインを片手に、テレビからとり溜てあったビデオとニュースを見て10時には寝る。(時としてはそれが焼酎である時のほうが多いのだが…)。実に贅沢な生活である。職を失って人脈も金脈もないが少しも退屈はしないし、結構毎日が忙しくて楽しい。只一つ無いのが、人に好かれる人望(人格)だけであろうか。お金では買えないし、時間を後に戻す事も出来ない。今更悔やんでもどうなるものでもない。これだけが寂しい。不徳の致すところである。

目次へ   ↑ページの一番上へ

    旅のエチケット

 外国はギブアンドテークが原則である。仮に他人に何かをして貰った時には必ず“ありがとう”と礼を言い、見ず知らずの他人に物事を頼む時は必ず“済みませんが…”と言ってから頼み事をしなければならない。それが最低のマナーである。つまり、その程度の単語はいつでも口から出るように覚えておかなければならない。しかし、海外では日本人はよくマナーが悪いと言われる。“悪い”のではなく“知らない”のである。さすが最近はひところ言われたように機内でステテコイッチョウになるとか、ホテルの廊下を浴衣がけ、スリッパで歩き回るという田舎者は少なくなったようだが、乗り物の中でつい酒を飲み過ぎて正体をなくす人や、外国籍の飛行機に乗った時言葉が通じないのがまどろこしいのか、スチュワーデスに向かって「姐ちゃん酒持ってこい!洒!」とわめく輩などを見掛ける事がある。特に団体さんにはこれが多い。
 例えば、所構わず平気で喫煙する。食事のマナーも悪い。大声で話しながらわがもの顔に食べるグループ。スープやスパゲティを音をたててすする。ナイフやフォークの音を出す。等々数え上げればきりがないが、日本に帰って来て特に気になるのは、エスカレーターの真中に立ち塞がるおば様の偉大なるおヒップである。これはケッサクだな!などと洒落にもならない。ヨーロッパではエスカレーターに乗ると、必ず片側を空けて端に寄る。つまりそれによって出来た空間は、急ぐ人が歩くための気配りなのである。いわんや、Tシャツ一枚に半ズボンでカトリック教会に押し入ろうとしたり、ラテン系の国では買い物の時に値切るのが当り前の国もあるが、タクシーから降りたら必ず運転手にチップを払うべきなのに、それが逆にチップを払うどころか、タクシー代まで負けさせたり、ちやつかりバスに只乗りするような輩に至っては、もはや何をか言わんやである。
 1582年、わずか13、4歳の少年使節たちが、九州のキリシタン三大名からローマ教皇の元へ派遣された少年たちの堂々たる姿勢、言葉遣いの丁寧さ、食事時のきちんとした作法などがローマの人たちの称賛を浴びたと伝えられている。
 それから400余年、サムライの昔ははるかに遠く、私たち現代日本人の海外における評判は、逆に、甚だ芳しくない。団体で海外旅行をすればやたらに落書きを残してひんしゅくを買う。落書きほど世界に共通するものも少なくない。あの万里の長城も、レンガといわず石といわず、どこそこの何某「至比一遊」(ここに至りて一遊す)と刻まれているとか…。ピラミッドでも、エッフェル塔でも観光地なら事情は同じだ。
 落書きは今に始まったものではない。ギリシアのスニオン岬にあるポセイドン神殿の東側正面の柱にはバイロンが自分で彫り付けたと言われる文字がある。しかし、それはバイロン愛好者の戯れによるものと言われている。エジプト神殿にもアレキサンダー大王アウグストスの署名があり、単なる悪戯書きとは違うがそこに紀元前の昔から未来を記念するという原点では同じであろう。
 これら一部の心無い人の行為が、日本人全体のイメージを損ね、ひんしゅくを買う。人類は原始社会の昔から、お互いに争いを調整し、協力し合い、一定のルールや約束を決めてきた。つまり、ひと(他人)の立場を十分尊重し、思いやるところから、今日、マナーと言われるところの文化が育ってきたのだろう。「型」こそ違え、良い作法、振舞いは国境、人類を越えて人の心を打つ。
 マルコ・ポーロの「東方見聞録」に書かれた「ジパング」は666年の歴史の流れを経て今、まさに黄金の国になった。経済企画庁の1991年版図民生活指標(NSI)によると、「日本は所得の高さ、社会の安全等では先進国中トップだが、1日の平均自由時間や人口当りの書籍発行数などは先進国の平均水準以下と低く、物質的な豊かさに対し生活の質では立ち遅れている」という。ヨーロッパでは、喫煙してはいけない所はハツキリ明示されており、そうでないところでも必ず近くの人に了解を得てから喫煙する。これが常識。仮にそれを無視して煙草を吸うと、必ず直接注意される。日本では面と向かって注意する人はいない。日本の喫煙者は、どんな所でも辺り構わず平気で煙草を吸い、他人に煙をかけても気にも留めない。それどころか火のついた吸殻をところかまわず捨てて行く。それが当り前だと思っている。つまり、罪の意識がないという事は無知であり野蛮人なのである。それだけ日本は文化程度に落差がある。こういう日本人がいる限り、いくら金満日本、経済大国と言っても世界の一流国とは認めて貰えない。むしろ金色夜叉ではないが、外国人から見れば中身が空っぽなのに、成金が金かな具を見せびらかせているようにしか見えないであろう。そこに、日本人が特に外国で付け狙われる要素も生まれてくるのである。日本人は、国際的には大いなる田舎ッペと言っても過言ではあるまい。もうこの時代、日本人もそろそろグローバルなものの見方を身に付けたいものである。何しろ今やギャルを筆頭に、お爺ちゃんお婆ちゃんまで含めて年間一千何百万人もの日本人が海外に行って「円」をばらまいて来る時代なのだから…。
 貧しくとも日本人よりも豊かな心を持っているギリシアの友よ!あなた方は金満国家の日本人よりも人間的には数段幸せです。
 ※平成2年に海外に出掛けた日本人旅行者は10.997.000人。そのうち男性674万人。女性は425万人。女性は全体の4割を占め、中でも20才代の若い女性は全旅行者の約15%に当たる174万人に上り、独身OL等を中心にした気軽な海外旅行ブームを裏付けている。(平成2年度観光白書より)。
 私が子供であった戦時中に見た漫画「冒険だん吉」では、東南アジアの人々は肌が真っ黒で口がドーナツのように白く丸く描かれ、裸に腰蓑を巻き、手には槍と盾を持ち、人間を食う野蛮人に描かれていた。だから当時私は、南洋の人は野蛮人だと思っていたが嘘であった。今や野蛮人はそれらの人よりもわれわれ日本人である事を嫌と言うほど見せ付けられている。
 その国には永年培ったその国の風俗、文化、宗教、歴史がある。添乗員お任せの時代はもう終わったのではないだろうか。やはり、外国へ行く場合には、事前にその国の生活習慣や文化、歴史などを予備知識としてある程度知って行くべきだし、“こんにちは”“ありがとうございます”“済みません”“さよなら”“又、会いましょう”程度の単語は直ぐ口から出るように心しなければならない点ではないだろうか。
 ついでに申し上げると、女性のビキナーや老人はともかく、元気な人のパック旅行はお奨め出来ない。とかく日本人は島国育ちだから仲間と群れたがる。せっかく外国に行ったのなら、その国の人に接しなければなにもならない。その国の人に触れて人情の機微を味わってこその海外旅行ではないだろうか。パック旅行にはそれが欠けている。団体旅行は「あくまでも日本」という大型の箱(バスとか列車)の中に同居し、窓から変わり行く外の風景を眺めているだけだと云っては言い過ぎだろうか。割高なパック旅行なんてクソクラエである。海外旅行の始まった頃はともかく、もうこの時代にはガイドさんの掲げる小旗の後に列を作って幼稚園児のように付いて歩く旅は卒業してもいいのではないだろうか。旅はやはり一人か又は特に気の合った友との弥次喜多道中“膝栗毛”が一番良い。但し、日本ほど治安の良い国はないという事だけはくれぐれもお忘れなく…。特に憧れの街、花の都パリやニューヨーク、ワシントンDCは気を付けて戴きたい。アル・カポネではないが“自分の身は自分で守る”これは海外旅行の鉄則である。これだけはくれぐれもお忘れなく…。馴れ馴れしく日本語で声を掛けてくる外国人。親切ごかしに近付いてくる人などは特に怪しい。慣れてくるとそれはある程度分かるはずである。少年少女といえどもその筋のプロはウヨウヨいるから油断とすきを与えてはならない。何しろ一年間に海外で行方不明になっている日本人は平成3年限在で2〜300人に上り、年々増加の一途を辿っているという事実を忘れてはならない。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     撮れなかった一枚

 ヨーロッパで最も生活費の安い観光国として知られていたギリシアも、最近では観光料金はもとより、食料、日用品、公共料金、交通費など軒並みに物価が上昇してインフレが続いている。しかし、他のヨーロッパ諸国や日本に比べればまだ少し安いと言える。例えば、私が1971年に来た時のアクロポリスの入場料は15Drだったが、今回は800Drであった。わずかこの20年間でこんなに高くなっているのには改めて驚かされた。
 ギリシアでは、観光客に必要なフィルムやDPE、時計、カメラ、等の精密機械や化粧品などをほとんど全面的に輸入に頼っているため、日本に比べてこれらの品物は2〜3倍と高くなっている。反面、ギリシア特産のワイン、果物、オリーブ油、土産物の工芸品などは比較的安い。
 ギリシアは地中海性気候に恵まれ、温暖、快適である。アテネ付近は6月から9月まで全く雨をみない年もあるという。一部を除き、本土の大半は、オリーブ、オレンジ、レモン、ブドウ位しか生育しないやせ地が多い。オリンピアの古代遺跡付近の丘陵では、羊飼いが群れを追っているのを見たが、農業を営んでいる風景は見掛けなかった。
アテネの靴磨き/写真転載不可・なかむらみちお  エーゲ海、イオニア海の島々は、ギリシア全土の総面積の約五分の一を占めている。全人口約一千万人の内400万人が首都圏のアテネ、ピレウス地区に集中している。土地がやせ、農業がふるわないため、大都市で職につけない労働者は、旧西ドイツ、アメリカなどに出稼ぎに行くケースが多く、夏のバカンス期には国に帰り、訪れる観光客を相手に商売をする。従って、観光地ではギリシア語の次には英語、独語が通じ易い。
 一方、オナシスの名をあげるまでもなく、世界でも指折りの富豪も少なくない。エーゲ海を眼下に見下ろすピレウスのカステラの丘には外国の映画俳優を始め世界のお金持ちの別荘に混じってこれらの富豪の豪邸がある。その下に見えるミクロリマーノという湾にはヨットハーバーがあり、大小の豪華なヨットやクルーザーが繋留されている。
 宵の帳が降り、辺りが濃いプルシャンブルーに包まれる頃ともなると、これらの人々が涼を求め、連れだってヨットハーバーに面して取り囲むようにしてある高級魚レストランに現われる。水面に面してズラリと並んだテーブルには日除けの布天井が涼しげな影を落としている。そこで一匹8.000円以上もするロブスターを始め、捕れたての新鮮な魚介類を囲み、高級ワインのコルクを抜いて“君の瞳に乾杯”などと恋を囁き、港の夜景を楽しんでいる。ギリシアは貧富の差の大きな国でもある。
 1981年、スペインのマドリード駅構内にあるスタンドで軽食をとっていると、後ろからトントンと肩を叩かれた。こんな処で知っている人に声をかけられるはずはないと思い、ドキッとした。内心いぶかりながら振り返ってみると20才前後の一見ジプシー風の女が子供を抱えて私に手を差し伸べていた。その後も滞在中に何度かそういう体験をした。
 日本でも終戦後の混乱期から岩戸景気と言われる頃までは、狸小路を始め駅前通り、特に大通り付近と札幌駅の待合室にも多数の浮浪者や白い病院服に戦闘帽を被り、傷痍軍人を装った人達がハーモニカを吹き、軍歌を歌っていた。それらの人は義足や義手を露しながら通行人に御恵みを乞うていたが、さすが金満国家と言われるようになってからは久しく見掛けず、人々の記憶からも忘れ去られるようになった。
 アテネの目抜き通りを歩くと、必ず2人や3人の“お貰いさん”が焼き付いた歩道にべったりと座って物乞いをしている姿を見掛ける。ある男は粗末な服装で不自由になった足を人前に投げ出し、ある女は絶えず首を振り、空ろな目をあらぬ方に投げ掛けて左手を差し伸べていた。それらはいずれも目をそむけたくなる光景であった。中でも悲惨だったのは、ペラペラのスカートを身にまとった女は、炎天下32℃の直射日光の下で乳飲み子を抱え、全く空になった哺乳瓶を通りかかりの人々にかざしていた。膝の上の子は痩せこけ、今にも消え入るようにか細く泣いていた。この写真一枚だけでギリシアの経済と福祉の現状が見えてくるのである。私は、なんとかしてこの場面を自分のカメラに納めて世論を喚起したかった。しかし、あまりにものその悲惨さに目を覆いたくなり、カメラを向けられなかった。私は100Dr札を一枚空き缶にソーツと置いてその場を立ち去った。
 かつて私はテレビニュースに席を置き、報道キャメラマンとして事件事故を追い、第一線に出て修羅場を潜って来た。ある時は私自身込み上げる感情の高ぶりを堪え、涙でかすむファインダーを通して悲しみにくれる遺族にカメラを向けた事もある。それは言葉に語り尽くせない辛い仕事であった。ある時は炭坑事故の犠牲者の霊前にポケッマネーから香典を包み、線香をたむけ、見知らぬ仏さまに成仏を祈ってから顔写真を借りた事もある。「人が死んだ事がそんなに面白いのか!」とか「鬼!」と言われて追い返された事もある。「俺達をさらし者にする気か!」。何度悲しい思いをしたことだろう。漁船の海難事故の取材では「おまえらヒト(他人)の不幸をネタにして金儲けするのか!」と罵倒された言葉は私の胸に突き刺さり、未だに耳に残って離れない。突き飛ばされた事もある。追われて逃げた事もある。人権と肖像権の狭間の中で苦悶しながら隠し撮りをした事は数限りがない。しかし今は違う。隠し撮りをする気ならいくらでも出来るが、今の私は報道キャメラマンではない。この国の実体を報道する為に今ここにいるのではない。格好良くいえば、同じキャメラマンであっても、今の私はギリシアの風景と風俗、そして人々の営みや人間生活を謳いあげる写真を撮りに来ているつもりであるが、むしろ観光客の一人にすぎないのかも知れない。そういう気持ちではこの悲惨な状況にカメラを向け、その写真を公表する勇気はなかった。遂に私はその場では一枚も撮れずにその場を去ったのである。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     旅とは何だろう

 人体に排泄作用があるように、私達の心にも排泄が必要ではないだろうか。心の排泄…それは“忘れる”という事だと思う。吸収・排泄は車のエンジンの原理でもあり、人体の呼吸や消化の原理でもある。それを心に当てはめてみれば良い。私達は毎日溢れるばかりの“情報”の中に日常生活を送っている。その“情報”とは良い事ばかりではなく、辛い事や不都合な事、イヤな記憶もある。それ等がみんなストレスとなって知らず知らずの内に心の中に蓄積される。その蓄積が限度を越えた時に心のパンク状態が起き、極度のノイローゼやウツ病になるのではないだろうか。精神的なパンク状態に陥らぬ為には吸収の反対作用として“忘れること”が必要なのである。旅は“忘れる技術”の一つでもある。
 旅とは、知らない土地で言葉も通じず、自分がいてもいなくても良いような、そんな『透明人間』みたいになれるひと時でもある。
 夏目漱石がロンドンに留学していたとき、傷ついた神経を癒したのがスコットランドヘの小旅行だった。それほどに旅は人の心を和ませる。組曲『動物の謝肉祭』を作曲したフランスの大作曲家、サン・サーンスは、43才の時赤ちゃんを失い、続いて彼が可愛がっていた子供がパリのマンションの四階の窓から落ちて死んだ。彼はその悲しいショックからなかなか立ち直れず、奥さんとも別れてしまった。それまで音楽家として順調に成功の道を辿っていた彼が受けた心の傷が、彼を挫折させた。気を紛らすためか、彼の旅はそこから立て続けに続いた。お気に入りのラスパルナス(カナリヤ諸島)、カイロ、アルジェが傷付いた彼の心を慰めてくれた。最後には彼は彼の大好きだったアルジェで息を引きとった。86才であった。パリであれほど輝かしい活躍をしていた彼は、ここでは孤独な旅人であった。
 英国のある科学者は「女は長生き。生活力が盛ん。寒さに強く、勇気があって感情が豊か」な点で男よりも優れていると言っている。一方、漂白、放浪への憧れを持つ生物である男にとって旅は心身に合う行為であろう。若い人の旅行はレジャーだが、中年期以後の男には旅は心のクリーニングである。

目次へ   ↑ページの一番上へ

     心のトゲ

 人生50年も生きていると、人間は過去の経験の中にいろいろと“こだわり”や“心のトゲ”を持っている。
 それは自分に原因があった場合もあれば、他人から仕掛けられた場合もある。これを消して歩く旅を始めたらどうだろう。つまり永年心に刺さっているトゲを抜いて歩く旅を始めるのだ。
 心のトゲを抜いて歩くのには、先ず、自然の旅に浸るのが一番いい。心のトゲを抜くというのは、自分にあるこだわり(固定観念)を消し去ることである。自然は必ずそういう役を果たしてくれる。加えて「ここなら忘れられる」と言う精神状態を生み出してくれる。
 旅は出会いの連続である。見知らぬ土地を一人で歩いていても見る事が忙しいのと疲れが溜まることで寂しさなど感じている暇はない。私は最近時々「そんな年には見えませんね」と言われる。お世辞もあるかもしれないが、好奇心と緊張感を持って旅をしていると歳を取るのを忘れてしまう。
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」(松尾芭蕉著『奥の細道』より)。
 「千里の道を旅することは万巻の書を読むに等しい」(聖書新聞社発行 森本哲郎著『旅と自然と人生』より)。
 「旅人は旅の哲学を持っており、道中起こることは何であれいつも、それが、一番の出来事だと考えている」(スペインのノーベル賞作家カミロ・ホセ・セラ)。

 「旅」、それは歩くこと、飲むこと、踊ること、そして出会うこと。
 「旅」、それは酒、女、歌。エーゲ海に酔う風、光、そして夢。
 ルター曰く「酒も女も歌も好かぬような者は一生を愚かに過ごす」。その言葉がヨハン・シュトラウスの円舞曲「酒・女・歌」を生みだしたコンセプトになっている。今夜は私も麗嬢とグラスを傾けながらこの曲でステップを踏みたくなってきた。“君の瞳に乾杯”などと柄にもないキザなセリフを残して…。
 旅の型は人それぞれ様々だが、旅には何かがある。船の中で忘れたビデオカメラを届けてくれた少年。街から離れた民宿まで自家用車で送ってくれたレンタルバイク屋の御主人。親切で優しい民宿の御夫妻。田舎道で耕運機に乗せてくれた農家のおじさん。地酒を振舞ってくれたお土産屋の御主人。いろいろアドバイスをしてくれた旅行代理店主。言葉が通じないのを承知で熱心に道を教えてくれたおばさん。数え上げればきりがない。今回の旅でも本当に多くの人達に親切にして戴いた。お陰様で楽しい旅を続ける事が出来た上に、無事帰国することが出来た。
 中東湾岸危機で多くの難民が辛い思いをしている。人質になっている日本人もいる。そのさ中の旅行であった。私のように戦時中に育った者にとっては本当に平和の尊さと有難さを改めて身にしみて感ずるのである。
 「旅は道連れ、世は情け」とは言うが、旅で道連れができるのは現代ではほとんど無いと云う人もいる。しかし、旅を重ねる度に思うのだが、人間は世界中何処へいっても同じで、良い人達がいっぱいいるという事を改めて確信を持つ事が出来た。言葉も通じない未知の世界を旅して無事帰って来られたのも、やはり人と人との善意に支えられたからだと思う。言葉は分らないよりも分かっているほうが確かに有利である。しかし、分らなくても旅は出来る。言葉が分らなければ、相手がこちらの意志を分かろうと努力してくれる。下手に分かっているふりをして無理をすると、相手は「こいつは英語が話せる」と解してベラベラと機関銃のように話してくるので、却って分からなくなってしまう。言葉が分らなければ言葉尻をつかまえたり、相手の言い方が悪いからといってムッ!とする事もない。生兵法は怪我の元。中途半端な英語なら使わないほうがまだましだ。それよりもむしろ、お互いの「ハートとハートの触れ合い」の方が大切なのではないだろうか。私は今回の旅を通じて、今後も更に人との「出会い」を大切にして生きてゆきたいと強く感じた旅であった。

  さらば友よ! さらばエーゲ海の光と風よ!
                エーゲ海よ、さらば!

目次へ   ↑ページの一番上へ

       時間(とき)よ止まれ!

 かくして、“57才青年”の“今回の青春”は終わった。次なる旅は未完成のまま時を過ごしているかねてからのライフワーク、「中世ドイツの古城」を撮り終えることである。これは全行程レンタカーでほぼドイツ全域を巡る旅になるので、車を安全に運転出来る内に撮り終えたいと思っている。アメリカやハワイの旅も良いがカナダならなおいいだろう。それよりも今、私はスペインの栄光の光と影をもう一度見たいし、都市が生まれ、文字が生まれたメソポタミヤ文明の遺跡も見たい。ローマ帝国と地中海の制覇を争い、名将ハンニバルがローマを震え上がらせたカルタゴ。中央アメリカ、ユカタン半島のジャングルに生まれたマヤ文明。歴史上に燦然と輝き、消えた古代文明。遥か昔、巨大な文明の中心地として栄え、そして消えていった大国。神秘に彩られた遺跡の中で埋もれた歴史を探る旅をしたい。そのためにはあまりにも早く時間が過ぎ去り行く。私の“青春”の序曲は未だ始まったばかりだと言うのに…。
 井上宗和氏は言う“時がすぎるのではない、人が去っていくのだ、そこに城を残して”と(株式会社ベストセラーズ発行「ヨーロッパの旅・古城と宮殿めぐり」より)。しかし私は叫ぶ、時間よ止まれ!!“私の青春”が終わるまで…と。過ぎ去りし行く時の流れの中で“青春”万歳!。
 ギリシアの賢人タレスが宇宙の神秘にわれを忘れドブにはまったのを見て、少女が「星は見えても自分の足元は見えない」と笑ったと言う。私は海外旅行にかぶれている訳ではない。外国は遠いし日本に比べて危険だし未知が多過ぎる。一に体力。二に機転。そして好気心がなければ外国は歩けない。国内旅行は足腰がたたなくなっても、又、少々ボケてもなんとかなる。それからでも遅くはない。外国はそうは行かないのだ。自分の身は自分で守らなければならない。多少オーバーな言い方をすると、手から離した荷物は放棄したも同然である。それが外国旅行の掟である。
 外国に行けなくなったら杖を片手に「奥の細道」を歩くことにしよう。

          閑(しずかさ)や
            岩にしみいる
              蝉の声
                     松尾芭蕉

 音楽評論家の志鳥栄八郎さんは、「私のレコードライブラリー」(共同通信社発行)の中で次のように書いている。「人生、それは二つの『永遠』の間のわずかな一閃である」と言ったのはイギリスの文学者カーライルであるが、リストの交響曲「前奏曲」は、音楽作品としては珍しい人生と言うものをテーマにした作品である。
 曲名の「前奏曲」と言うのは、もちろん、舞台で幕の上がる前に演奏される音楽のことではなく、「われわれの人生というのは生まれた瞬間からすでに死への前奏曲となっている」という、フランスの詩人ラマルティーヌの言葉から取ったものである。そして、この曲には、これに続いて次のような文章が標題として付けられている。
「愛と言うのは、光り輝く美しいものであるが、一瞬にして破壊されてしまうときもある。そのような時、人間は静かな田園生活を求めてその中で傷ついた魂を癒すが、何時までもそうした生活を続けていると、今度はそうした生活に耐えられなくなってくる。そして、再び警戒の信号ラッパが鳴り渡ると、危険とは知りつつも、自分の能力を試そうとして、その部署へと急ぐのだ」。こうした内容を音で描いたのが、リストの管弦楽曲中で最も名高い交響詩「前奏曲」なのである。
 このように、哲学的あるいは文学的な内容をオーケストラで表現したものを「交響詩」といっているが、リストの名は、この交響詩という新形式を創始した人として音楽史の一頁を飾っている。と…。
 私は、早速ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏するCD(FOOG 27045)を買い、折に触れては耳を傾け、残された人生をいかに生きるべきかを模索している。
 私たちは時の流れに逆らう事は出来ない。今は今、今日は昨日ではない。過ぎ去った時はもう昔にもどす事は出来ないのである。ジャン・コクトオのように時間と場所を超越して三次元の世界と四次元の世界を簡単に行き来するような芸当は出来ない。人生はフィルムを逆回転で映写するような訳にはいかないのである。宇宙規模で考えれば、一瞬のまばたきにしか過ぎない私達の人生ではあるが、それなりにもっともっと一日一日を大切に生きてゆきたいものである。
【一口豆辞典】ジャン・コクトオ=フランスの作家。詩・小説・演劇・映画・音楽・舞踊の諸分野で前衛的な試みをした才人。1889〜1963。代表作は「美女と野獣」「オルフェ」など。(美術出版社「現代映画事典」より)。

      時を無駄にする事なかれ
        時は人生の基なり
          「風と共に去りぬ」より

 私の「海流の旅心」の終わりはまだ分らない。結末のないドラマが始まったばかりである。私は今、“時間”と競争をしているのである。過ぎ行く時の中で私は、再び声を大にして叫ぶ。“時間(とき)よ止まれ!”と…。

                       完

 
代わりましょうか?/写真転載不可・なかむらみちお

目次へ   ↑ページの一番上へ

旅行記 index
HOME