エーゲ海ぶらり旅

エーゲ海の真珠ミコノス島

ミコノス島/写真転載不可・なかむらみちお

目  次

 ☆ミコノス島
エーゲ海に浮かぶミコノス島  一軒屋の民宿  風車と驢馬と  ラテンの混血 
神は味方か?  出会いと別れ  アクシデント  再 会  迷路の街  再びマイフレンド 
今日こそ・・・  「生きたヴィーナス」に会いたい  タクシーの相乗り  奇 遇  夕暮れの野外パーティ

         スケジュール
 1990年

7月26日(木) 千歳 15:50(ANA64)- 17:20 羽田
27日(金) 成田 12:55(SQ97)- 18:30 シンガポール 22:00(SQ24)-
28日(土) 03:55 アテネ 06:00(OA55)- 06:40 ティラ Monolithos(Karterados)
29日(日) Karterados-Thira-Karterados
30日(月) Karterados-Thira-karterados-Thira-Oia-Thira-Karterados-Thira
31日(火) Karterados-Thira-Karterados
8月 1日(水) Karterados-Thira-Karterados
2日(木) Karterados-Athinios Port-ミコノス島-Marathi
3日(金) Marathi-ミコノス港-Marathi
4日(土) Marathi-ミコノス港-Marathi
5日(日) Marathi-ミコノス港-Marathi-ミコノス港
6日(月) ミコノス 12:07(フェリー)- ピレウス(地下鉄)- モナスティラキ-シンタグマ広場-オモニア広場-無名戦士の碑-国立考古博物館-リカヴィトスの丘-ホテル
7日(火) ホテル-ピレウス港-サロニックス諸島(ポロス島、イドラ島、エギナ島−ピレウス港-ホテル
8日(水) ホテル-アクロポリス(タクシー)-バスターミナル(バス)-スニオン岬(バス)-アテネ-ホテル
9日(木) ホテル-無名戦士の碑-ピレウス港-ホテル-ナイトツアー-ホテル
10日(金) ホテル-ゼウス神殿-アドリアヌス門-フニクスの丘-ホテル-オモニア広場-ホテル
11日(土) ホテル-オモニア広場-ホテル-アテネ空港 22:20(SQ23)-
12日(日) 14:05 シンガポール市内見物-空港
13日(月) シンガポール 01:15(SQ98)- 08:45 成田 13:45 - 千歳(バス)-札幌

       エーゲ海に浮かぶ宝石ミコノス島

  8月2日(木) Karterados-Athinios Port-ミコノス島-Marathi
 ほぼ満員の大型フェリーボートでミコノス島に着いた時には、サマータイムで日暮れの遅いこの島にも既に夜のとばりがおりていた。これからインフォメーションセンターに行って宿を探すのは難しいであろう。ミコノスの場合、街中に宿がかたまってあるわけではなく、街の外側に点在しているので、歩いて探しまわるのはよほど確実な当てがない限り、あまり簡単ではない。インフォメーションもあるがあまりあてには出来ない。むしろトラベルエージェンシーのほうが頼りになるが、ここも宿無しが列を作るし、空いていないと断わられる確立のほうが高い。ハイシーズンともなると、需要と供給のバランスがとれず、いつも需要が上まわるので、ブラリと宿を見付けることは結構難しい。まあイザという時には、海岸や、フェリー岸壁のベンチで十分寝られるし、朝方まで街の飲み屋で飲み明かすことだって出来るから、余り深刻になることもない。なんともならないようでなんとかなるのがギリシャの良いところだ。
 フェリー岸壁には民宿経営者が大勢自分の宿名を書いたカードを掲げて客を引いていた。ここで宿を決め損なうと今夜は野宿である。私もその中の一人のおばさんと交渉を始めた。最近はギリシャもインフレで物価が上っていると聞いていたが、おおむね日本の三分の二位の値段で、日本の感覚からするとまだ安い感じである。それでも最初は五千円と言っていたのが、千円だけ下げた。あまり時間を取ると取り残される恐れがある。早い者勝ちである。予算よりは高いが、又、明日別の宿を探しても良いと思い、今夜限りのつもりで手を打った。

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      一軒屋の民宿

 彼女の自家用車は街を後に暗闇の小道へと車を走らせた。幅2〜3メートルの道路の両側には延々と瓦礫の塀が人の肩の高さぐらいに積み重ねられている。辺りには人家もなく真っ暗の闇の中である。10分も走っただろうか、人家がパラパラとある一軒家にその民宿があった。
 この島はキクラデス諸島の中ではだれでもが手軽に行けるので、毎年多くの観光客が訪れる最もポピュラーな島である。住民は約2000人だが、夏、この島の人口は一気に脹れ上がる。夏の間だけペンションやホテルを開けに来る人が住むからだ。土地が痩せ、農業がふるわないため、大都市で職に付け ない労働者は、西ドイツ、アメリカなどに出稼ぎに行くケースが多い。一年を通してここに住む人は少ない。
私の民宿(奥)の敷地内にも立派な教会があった/写真転載不可・なかむらみちお /写真転載不可・なかむらみちお
 しかし、居間に招かれて行ってみると、結構良い暮らしをしており、カラーTVがスポーツ番組をしていた。その下には日本製のステレオコンポがあり、部屋の片隅には暖炉があった。暮らし向きは悪くないようだ。
 テーブルを囲んでソファの正座には御主人が座り、周りには長男とその嫁さん、次男、そして台所のカウンター越にくだんの“マダム”がおり、初対面の紹介を受けた。御主人は「良く来たな」とばかりに、盛んにビールを注いでくれて話し掛け、歓待してくれた。そして、ここはマイラスオというところで、自分はペットロラ・キイザキだと自己紹介してくれた。勿論、私も名前だけだが自己紹介をさせてもらった。そして、明日は息子があなたを案内するとまで言ってくれた。しかし私はせっかくのご厚意だが、一人のほうが気楽なので丁重に御断わりした。なぜか今も旅人を心から暖かく迎える古き良きギリシャの風習が残っている。後で気が付いたのだが、長男の嫁さんはどうやら米国人らしかった。

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     風車と驢馬と

ミコノスのシンボル、風車と驢馬/写真転載不可・なかむらみちお
  8月3日(金) Marathi-ミコノス港-Marathi
 ミコノス島は、エーゲ海の青に浮かぶ白い宝石と言われるほど眩しさに輝いた島である。島の南側には砂が美しく、バンガローなども整ったビーチが数多くあり、中にはその名も夢のようなパラダイスビーチというヌーデストビーチや、ホモが集まっている海岸もある事でも知られているので見逃せない。燦々と照りつける強烈な太陽の光の下で、カラリと健康的である。いやらしさは微塵もない。ここはどちらかというと、若い人に愛され、喜ばれる島である。
 ミコノス島は、なだらかな島影に粉ひき小屋の風車がエーゲブルーの海にシルエットを描く。パン篭を背負った驢馬を追う老婆。島のマスコットとなっているペリカンのペトロ。こんな島に毎年多くの観光客が集まって来る。
 この宿の近くにはバス路線がない。総てタクシーに頼らなければならない。タクシーは電話一本ですぐ来た。ミコノスの見どころは、白い街並みを除けばなんと言っても風車小屋である。私は先ず、何をおいてもこの島のシンボルである風車を撮らなければと思い、「風車のある丘」へと車を向かわせた。(タクシー代600円)。風車は街から海に向かって左に見える岬の小高い丘の上にある。5基並んでいるが、いずれも動いているのを見たことがない。近くに驢馬などがいたのでまあまあの写真が撮れた。それにしても風が強い、風車を設置するような場所だから当り前の話かもしれないが、フィルムの交換に余計な神経を使ってしまった。帽子等を吹き飛ばされないように気を付けたほうが良い。


島のアイドル・ペドロ/写真転載不可・なかむらみちお  街を挟んだ反対の丘の上、アギア・イオアヌウ通りに面しても1基の風車があった。一旦、街に入り、冷えたビールで喉を潤す。一 缶100円だから嬉しくなってしまう。日本に持って帰りたいぐらいである。島のマスコット、ペリカンのペトロとも記念写真を撮った。
 教会は島中いたるところにあり、民家の庭先にもある。人口わずか4000人というのにその数420(いったい誰が数えたのだろう)という数字は驚くべきものである。それだけ住民の生活の中に宗教がきめこまかく浸透しているのに違いない。その殆どが水夫達の安全を祈る為に作られたと言うのもこの島の生活ぶりが現われている。これらキクラデス建築の教会の中で最も代表的なのがパラポルティアニ教会である。他の教会とはフォルムのイメージがかなり違い、まるで真っ白なオホーツク海の氷山を思わせるような不思議な形をしている。一見したところあまり見栄えのする建物ではないが、後から写真で見るとその良さが段々と分かってくるような気がする。
 街並みを流しながら丘の上の風車まで歩いて行くと、写真を写している東洋人らしい一団を見掛けた。あるいは日本人かも知れないと思って話し掛けてみた。すると意外にも「ワタシハホンコンカラキマシタ。ホンコンジンデス。アナタハニホンジンデスカ?」とタドタドしい日本語の答えが帰って来た。そして一行の記念写真のシャッターを押させられた。私がフィルムを交換していると、彼等の内、外交的な一人が「ニホンハヤスイデスカ」と尋ねてきた。私がフィルムの外箱に貼ってある正札を見せると、もう一人の実務的な男が電卓を持ち出して計算を始めた。そして「ヤスイ。ヤスイ」と言う。「ドコニスンデイマスカ」と尋ねられたので、「札幌です」と答えると、「アア、アノフユノオリンピックヲシタトコロデスネ」という。私は「雪祭りも有名です。今度は是非札幌にも来て下さい。そして又お会いしましょう」と言って別れた。

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      ラテンの混血

砦の内部/写真転載不可・なかむらみちお  街全体の俯瞰を撮影する為に、街の北西部にある丘の上に登った。肩の高さほどに積み上げた瓦礫の塀沿いに歩いて行くと一個所だけ瓦礫が崩れて人が出入りした形跡の場所があった。ここはどのガイド誌を見ても全く載っていないので意外な発見であった。好奇心が強いほど旅は楽しくなる。その好奇心を生かすには行動力が必要である。考え、思い迷っているだけでは、写真は写らない。現場に行き、実際に見聞きしてシャッターを切らなければ良い作品は出来ない。写真を撮る事は旅日記の代わりにもなる。一度撮り損ねたチャンスに再び巡り会う事はほとんどない。チャンスは逃がさず、しっかり撮らなければならない。
 私はすかさずそこに手を掛け、よじ登り、慎重に侵入した。中には誰もいない。左側のいわゆる大奥には石製の建物があり、入口の上には由緒ありげな紋章が付いていた。近くには今でも満々と水をたたえた井戸があった。城郭に興味のある私はこれはまさしくであると直感した。
 かの大阪城の井戸と言い、大抵の城の一つの条件としては飲み水を敵に疎外されずに確保出来る井戸がなければならない。ヨーロッパの中世の城には更にワイン貯蔵庫がないと兵隊の志気が謄がらない。例えば、「アルト・ハイデルベルク」のロマンスで名高いドイツの古都ハイデルベルクにある古城のフリードリヒ館の地下には、18世紀末に城兵たちの為に造られた約20万g入るワインの大樽がある。
アンフォラ/写真転載不可・なかむらみちお  事実この砦の彼方此方には素焼きの大型壷(アンフォラ)があり、今は装飾品のような形で配置されていた。更に進むと日本でなら大騒ぎするような古い金庫が無造作に放り出されていた。その形は、昔、海賊映画や、本の挿絵で見覚えのある形である。
砦から見たミコノス港/写真転載不可・なかむらみちお  坂を下って行くと、トーチを灯したであろう灯台があり、その先にはオリンピアの遺跡で見たのと同じ構造のアーチを通って階段を降りて行くようになっていた。きっと、城主がこのアーチに立った時に紺碧の空にファンファーレが鳴り響き、その下に控えた兵士達が腰の剣を抜いて天高く掲げ、歓声をあげて王を称えあげたのであろう。私にはその歓声とヴェルデイの歌劇「アイーダ」第二幕の「大行進曲」が耳に聞こえてくる。その歓声の中をお供を従えた王が石の階段を一歩一歩降りて来て見晴らしの良い処に挑えてある席に付き、天下の状勢を観察するのであろう。事実その下には高級な彫刻を施した代理石の玉座らしき物があった。多分この砦は、1463年から79年に掛けてこの地を植民地支配していたヴェネツイア軍が、オスマン・トルコの攻撃を迎え撃つ為に築いた砦ではないだろうか。
 このあたりはトルコやヴエネチァ等に挟まれており、永い歴史の間には幾度もの外敵侵略を受け、栄枯盛衰を繰り返し、1540年頃からは約400年に渡ってオスマン・トルコ帝国に支配されていた。戦争、虐待、殺し。この地球上、人間ほど残酷な生物はいない。人間は動植物を殺し、食べ、人間さえも殺す野蛮性を持ち併せている。そればかりか地球上のあらゆる環境を破壊している。そういう魔性は、ばい菌や原始的バクテリア以下と言っても良いだろう。文明人は、それを知性と教養、それに秩序とでバランスを保っているふりをしているだけではないだろうか。
古い金庫が無造作に放置されている/写真転載不可・なかむらみちお 古い碇/写真転載不可・なかむらみちお 議論好きなギリシア人の話は延々と続く/写真転載不可・なかむらみちお  かつては地中海文明の先進的共同体として近隣共同体に大きな影響を与えた先進的共同体であった輝かしい歴史を持ちながら、それ以後のギリシャは古くから慢性的に他共同体の侵略や虐待、支配を受け、永い間屈辱的歴史を繰り返してきた。ギリシャが独立したのはつい最近のことであり、それも未だ一世紀にも満たないのである。
 外敵侵略の度に多くの血が混じり、どの顔を見ても彫りの深い昔のギリシャ人の面影は何処に行ったのか、その末裔には片鱗も見当らない。ピタゴラスもソクラテスもプラトン、アリストテレス、アルキメデスも居ないのである。そこにいるのは、ラテン民族独特の何もかもがいい加減で明るく、それでいて妙に人なつこく、過去の栄光の重みを背負いながら生きている現代ギリシャ人だけである。

時がすぎるのではない
   人が去っていくのだ
     そこに城を残して
          井上宗和

ミコノス港展望/写真転載不可・なかむらみちお ミコノス港/写真転載不可・なかむらみちお  ここから見下ろすミコノス港の周りには白づくめの家が立ち並びお伽の世界のようである。その先の丘の上には風車がエーゲブルーの海にシルエットを描いている。手前の港にはカラフルなボートやヨット、それに漁船などが繋留されて独特の美しさをたたえた絵を醸し出していた。しかし、この島に限らずこの辺の島々は有史以来繰り返し多くの侵略や虐待と支配を受け、栄枯盛衰を繰り返してきた。ここに立ちじっと耳を澄ませば、その屈辱のうめきが聞こえてくる。

 この島から数キロ先にはあのアポロンが生まれたデロス島が横たわっている。この島は古代エーゲ海世界の宗教的かつ経済的な中心地であった。今は無人島だが、島にはアポロン神殿、博物館などがある。
【一口豆辞典】
☆ピタゴラス(前570年頃)古代ギリシャの哲学者、数学者、宗教家。
 数学・天文学の進歩に寄与した。ピタゴラスの定理(直角三角型の直角を挟む二辺の上の正方形の和は斜辺の上の正方形に等しい)で有名。
☆ソクラテス(前470〜前399)古代ギリシャの哲人。
 アテナイにおいて活動。半生を市民の道徳意識の改革に捧げた。しかし、アテナイ市民には受け入れられず、告発されて死刑に処せられた。
☆プラトン(前427〜347)古代ギリシャの哲学者。ソクラテスの弟子。  アテナイ市内に学校を開いた。
☆アリストテレス(前384〜前322)古代ギリシアの哲学者。プラトンの弟子。後にプラトンがイデアを超越的なものと考えたのに反対した。
☆アルキメデス(前287頃〜前212)古代ギリシャ最大の数学者、物理学者。
 アルキメデスの原理(固体の全部、或いは部分を流体の中に没すると、それが排除すると考えられる流体の重さに等しいだけ、見掛けの重さが滅ずるという法則)などを発見した。「広辞苑」より
※著者注…お湯が満たされた風呂に人が入るとお湯が溢れる。その溢れたお湯の重さと同じだけ人体の見掛けの重さが少なくなるという事。風呂に入ると湯のかさが増し、体が軽く感じられるのはこの原理による。

【一口豆辞典】デロス島=デロス島は39におよぶキクラデス諸島の中心にあり、「明るい、輝いた」という意味で、古代世界ではエーゲ海に輝くダイヤの小粒であったのかも知れない。宗教、商業の中心地として繁栄した歴史を持っており、昔、政治上の中心地であった。前478年にはペルシャとの戦いに備えて結成されたデロス同盟の本部が置かれたことでも有名である。
 現在のデロス島は、面積3.5uほどの小島だが、アポロン神の誕生地として知られ、島自体がひとつの博物館といった趣きがある。紀元前に栄えたデロスの面影を静かにたたえており、エーゲ文明を肌で感じるのにはもっとも適した遺跡と言える。デロス島の遺跡は、古代ギリシャ世界を擬縮して現在にいたったともいえる。ここでは大理石で造った「ライオン像」が有名である(現在は五頭)。
                       「地球の歩き方」より
 デロス同盟=前478年、サラミス開戦後、アテナイを中心にエーゲ海諸島及び海岸の諸都市がペルシャの来寇=ライコウ(外国から攻めこんでくること)に備えて結んだ同盟。本部はデロス島に置かれたが、アテナィはこの同盟を利用して覇権(覇者としての権力)を確立した。
                          「広辞苑」より

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         神は味方か?

 砦からの眺めは丁度真逆光で海が反射し、私が求めている青い空、蒼い海ではなかった。イメージが合わないので、撮影をあきらめて、改めて出直してくることにした。
 砦を後にして1キロほど歩いてからスナップをしょうとカメラを覗くとファインダーがぼやけて見える。ヘンだナァと思ってよく見ると、ファインダーに取り付けてある直径2センチ程の視度調整用のレンズがない。歩いている間に何処かに落として来てしまったらしい。あんな小さい物を見付け出すのは奇跡に近い。諦めるしかない。とは思ったのだが、太陽は真上でギンギラギン。この時間の下界はシエスタで店も閉まり、ガランとした街並みを僅かの観光客がウロウロしているのが関の山。何処へいっても写真になるような時間帯ではない。暇に任せて引き返し、散歩がてら探してみることにした。
 静かになめるように見渡し、今来た道を戻る。ナイ。初めに侵入した崩れた塀を乗り越える。この辺が一番怪しい。しかし、やっぱりナイ。更に進む。先程の砦の中程に来た。アッタァ!ついに奇跡が起きた。天は我に味方した。嬉しかった。僅か千円ほどの物であり、実はもう一台のカメラにも同じ物が付いているので、それを流用するという手はあったのだが…。と云う訳で、大変お騒がせ致しました。(誰ですか、暇人には付き合えないと言っている人は…)。

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      出会いと別れ

風車のある丘/写真転載不可・なかむらみちお  午後2時頃からアギア・イオアヌウ通りに面した風車が回り出した。行ってみると扉が開けられ、中におじさんが一人いた。中も見学出来るらしく、上から階段伝いに降りて来る観光客もいた。昔、オランダヘ行った時にも、キンデルダイクで風車の中を見たことがある。それと比較してみたくて私も上に登ってみた。中の装置は風車に繋がる横軸を歯車で下に伝える立軸までしかなかった。つまり一階は取り払われて、小屋番のおじさんの居住区になっているのである。見た限り仕掛けはオランダのそれと余り変わりはない。こういう物は国が違ってもそう変わるものではない。ドンキ・ホーテが格闘したラ・マンチヤ地方(スペイン)の風車もまたおそらく、同じような形式に違いない。
 内部を見せて貰ったら、一階で売っているこの風車の絵葉書を買ってあげるか、御礼にチップをあげたほうが良い。私はおじさんに御礼を言い、チップをあげたら「サンキュウ」と言った(ような気がした)。風車は日没まで廻していてくれる。
 風車の写真を撮っていると、まもなくそこで初めて若い日本人の男女に会った。この島に来てから初めての日本人である。しかもアベックだ!彼等は、四国高松から来た新婚さんで、Sさん・Hさんと言った。風車をバックに、コンパクトカメラでお互いに写し合っていたので、二人並べてシャッターを切ってあげたら喜んでいた。又、夫婦と息子一人の組はJTBパリ駐在の人で、バカンスに来たと云っていた。この人達は、先ほど島に着いたハイドロホィル(高速艇)で来たとかで、早々に引き上げて行った。まもなくその船は水飛沫を高く上げて島を離れて行った。まるで‘神風’のようである。その他、二人の子供を連れたお母さんが、子供に絵を描かせていた。この人達も日本人だとSさんの奥さんが言っていた。ティラでは全然日本人に会わなかったが、ギリシャの首都、アテネにも近いせいか、さすがミコノスはポピュラーな観光地である。
 それでも暇を持て余した。ようやく太陽が西に傾いて来た。私は、もうウン時間も先程の風車小屋の前で海を見つめながら、夕日がエーゲ海の彼方に落ちるのを待っているのである。まるで昔の恋人を待つが如く心をときめかして…。  ここから見る夕日は飛び切り良い。夕日は期待に違わず美しかった。その光と影のシンフォニーは、風車のシルエットと共にバッチリと私のカメラに納められた。この風景は、私の脳裏から永遠に忘れることはないであろう。
 帰りの道筋で食事を済ませ、チーズにウィンナーそれに松脂入りのギリシアワイン「レツィーナ」(320円)を一瓶買い込んだ。もう日はとっぷりと暮れている。ミコノスの街はライトアップされ、夜はこれから始まる。私はもう疲れてヘトヘトなのでそれを横目で見ながら宿に帰って寝ることにする。と言っても洗濯をしたり、日記を付けたり、今日写したフィルムを整理して明日の仕込みをして置かなければならない。
 ミコノス島は雨が降らないせいか、街を一歩出れば瓦礫ばかりが目立つ痩せ地である。一本のオリーブの木も、一本の葡萄の蔓も見当たらなかった。このように土地や空気が乾いていても、人情は枯れていなかった。
 タクシー乗り場に来たが、丁度この島の夜のラッシュアワーとぶつかり、なかなか空車が捕まらない。仕方なく通りに出て見た。そこにはレンタルバイク屋さんがあった。その店先に佇んでいると店主が出てきて「ジャパニーズ?」と声を掛けて来た。「イエス」と言うと、彼は、貸し出し用のバイクを指差し「オールメイドインジャパン。ベリグット」と自慢気に言う。私も「オーサンキュ」と調子を合わせる。私は、タクシーが来なくて困っている、と話すと「では電話で呼んで上げよう」と言い、従業員の女性に命じた。それから30分ほど店先で待っていたが一向にタクシーは来なかった。その間、彼とは色々のことを話し(?)した。再度彼はタクシー会社に電話をしてくれたが、空いた車はないらしかった。遂に見かねた彼は、別の従業員に命じて、私を店主のジープで宿まで送ってくれることになったのである。
 車は例の闇の中を走った。そしてついにわが民宿に着いた。私は彼にタクシー代に相当するお金を差し出した。

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      アクシデント

  8月4日(土) Marathi-ミコノス港-Marathi
 今日(8月4日)はミコノス島に来て3日目になる。明日は日曜日なので、ヒョッとすると教会で結婚式があるかもしれない。巧く行けば待望の写真が撮れる。
 この島の隣にはアポロン神の誕生地であることと、デロス同盟で知られたデロス島(輝く島)がある。ミコノス島からは20キロ離れており、小船で訪ねるよりほかに方法がない。行ける内に早めに行っておいたほうが良いと思い、先ずそこからスタートすることにした。
 船は港を9時に出発する。と「地球の歩き方」に書いてあったので、8時に宿を出た。港近くのトラベルエイジエンシーで乗船券を買うと、なんと10時15分だという。岸壁近くには数人の荷役人のような人達がいて、仕事の始まるのを待ちながら立ち話をしていた。
 その人達にデロス行きの船は何処から出るのかと聞いたところ、岸壁伝いの対岸に繋留している小船を指差し、「あの船がここへ来て、ここから出発する」と言う。出発までには未だかなり時間がある。私はすっかり安心し切って、外に並べられたテーブルで手紙を書くことにした。
 やがて10時になろうとしているのに、一向に船は動こうとしない。手紙を書き上げたので近くの郵便局に持って行き、投函したが船はまだ来ない。これは変だぞ、と思い、船の方へ4〜50メートル走った時は既に遅く10時15分。船はデロス島に向けて静かに動き出した。大失敗である。Just my luck.This time MY LUCK WAS OUT.We never know our luck.
 最近はひとり歩きに馴れてきたのか、少し気の緩みがあったようだ。何故乗船券を買った時に乗り場を聞かなかったのだろう。こちらも悪いが、売り子の不親切か、忘れたのか分からないが、教えてくれなかったことに疑問を持つ。外国は得てして日本ほど親切ではない。聞かなかったから教えてくれなかったのである。特にギリシャは何事についてもこだわりがない。神は時としてこんな悪戯をして楽しんでいるようである。
 乗船券は簡単に払い戻してくれた。何よりも、港の労働者を信用してしまったのが失敗の元であった。映画「アラビアのロレンス」の中に『運命は自分でつかんでゆくものだ』というセリフがある。“Tomorrow is another day”(映画「風と共に去りぬ」より)。まあ、又、明日があるさ。全くギリシャは何事についてもいい加減が多過ぎる(これは日本人の偏見)が、この国に来た以上は、何事ものんびりと気長にしないと身が持たない。何しろ悠久3000年の歴史の中の一瞬の瞬きの中に身を置いているのだから、バタバタするほうがおかしいのである。そうとでも考えないとギリシャ人とは波長が合わない。“郷に入っては郷に従え”である。
 教会での結婚式はあてがある訳でもなし、ティラでも内部は写したので諦めることにした。

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      再開

エーゲ海にシルエットを浮かべる風車郡とミコノスの街/写真転載不可・なかむらみちお  午前中の太陽の角度が良い内に再び砦からのアングルに挑戦することにした。から見下ろすと、抜けるような青空の下、まばゆい太陽の光をいっぱいに浴び、美さが映える白い家並み、そして教会粉挽き風車等がロマンチックに旅人を迎えてくれる。見渡せば、限りなく点在する島々が浮かぶ紺碧のエーゲ海が眼下に広がる。
 一通り写真を撮って帰り掛けると、「中村さ−ん」と呼び止められた。ハテこんなところで私の名前を知っている日本人はいないはずだが…?近付いて来た人を見たら、それは昨日風車の処で写真を撮って上げた高松市のSさん夫妻であった。御主人の話によると、昔、ジグゾーパズルでこの砦からの写真と取り組んだ事があり、それ以来是非ここに来てみたくてミコノスに来たそうである。彼はそのパズルを見せてくれた。なるほど間違いない。この写真と地形を照らし合わせながら辿り着いたのがここだったと言う訳である。彼等と色々情報の交換をする内に、私は、宿が街から遠くて因っていると話すと、彼等は「我々の泊まっているホテルはここから余り遠くなく、歩いて街まで出られる。値段も手頃だ。確か今日、一部屋空くはずだから、夜にでもホテルに電話をして下さい。10時頃には帰っています」と言ってくれた上、次のようにホテル名と電話番号を書いてくれた。(HOTEL GIANNOVLAKI 0289−23539)。彼等はこの砦の近くまでレンタルバイク(1日3,000円)で来ているという事なので、夜に電話をすることを約束して別れた。

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       迷路の街

 遠目で見ると白一色の家が密集するミコノスタウンは迷路の街である。二階の窓には赤い花が飾られ、窓枠を空色に、建物は白く塗られた家や道が不思議な美しさを醸し出し、行き交う人と肩と肩が触れ合うような狭い曲がりくねった路は、昔、海賊の侵入に備えた迷路だと言う。後であの店であの品を買おうと思って再びその店を探してもなかなか探し当てられなくて困惑する。気に入った品を見付けたらその場で値切って買っておいたほうが無難である。
 ヨットやモーターボート、漁船などがひしめく美しいミコノス港に面して、数多くのタベルナがあり、捕れたばかりの魚介類を楽しむ事が出来る。沿岸近くのタベルナ(通称ベネチアンポート)では風車群を眺めながら食事を摂る事が出来る店もある。目を閉じてポール・モーリアが奏でる「エーゲ海の真珠」を聞いていると、きっとあなたの瞼にミコノス島の白い街並みが浮かんでくる事でしょう。それにギリシアコーヒーでもあれば、あなたの頭の中はモウ完全にエーゲ海の世界です。
 私は、そこから少し離れた街角にあるタベルナNIK0'Sに入って遅い昼食をとった。先ず、瓶入りのビール(CLAUSTHALER=100円)とスプラギ(900円)を注文した。店内はビール樽やギャラリーのように絵が飾ってあったりでなかなか良い雰囲気である。若いグループの客が何組かいたので、人気のある店らしい。
ミコノスでは玄関は二階にある/写真転載不可・なかむらみちお ミコノスは迷路の街/写真転載不可・なかむらみちお  銀行や船の乗車券、航空券を売るオフィスは岸壁に近いタクシー乗り場の付近にある。ここでは、ゴザを抱え、スーパーでくれるビニール袋に飲料水の入ったポリボトルを下げたバックパッカー達がその前を行ったり来たりしている。又、迷路のような道に沿って金、銀のアクセサリー店も多い。ユニークなデザインの物、伝統的な物等があって見るだけでも結構楽しめる。他にカフェバーなども軒を連ね、明け方まで賑わいを見せる。実に活気に満ちた港町である。
 夕日が西に沈む頃、私は再び砦へと向かった。砦からミコノスの街の暮色を撮るためである。陽が沈むと辺りは薄暗くなり、ミコノスの街の不夜城が浮き出してきた。辺りには人影もなく、不気味なほど静まり返っている。私が押すカメラのシャッター音だけがやたら大きく聞こえる。
 手元がすっかり見えなくなって来た。人一人いない処は男でも不気味だ。しかし、ライトアップされたミコノスの街は例えようもなく美しい。ミコノスの夜はこれからである。落日は昼のフィナーレを告げるセレモニーであると共に、人間が最も人間らしい生活を送る時の始まりを告げる序曲である。

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        再びマイフレンド

 タクシー乗り場に来たが、今日も空車は見付からない。今夜もまたレンタルバイク屋さんへ行ってみた。タクシー会社に電話をしてくれた。しばらく待ってみたが、一向に来そうにもない。その間、借りたバイクを返しに来た若者が何人かいた。中には日本製のバイクのバックライトを破損させて帰って来た若者もおり、主人と修理代のことで話をしていた。聞くともなく聞いていると、どうやらスペインのバロセロナから部品を取り寄せなければならないから高いのだと言っているようだ。借りた青年はすっかり弱った様な顔をしていた。そして主人は私を指差し、この人は日本人だから聞いてみなと言っているようであった。彼は「ユージャパニーズ?」と尋ねられたので「イエス」と答えた。彼はその部分がプラスチックで出来ているのが不満そうであった。しかし、何もスペインから取り寄せなくてもギリシャ本土に行ったらあるのではないだろうか。それとも私の聞き違いだったのだろうか。
 待てどもくらせども私のタクシーは来ない。見るに見兼ねて今度は閉店後、御主人自ら送ってくれたのである。別れ際にタクシー代相当のお金を差し出したのだが、「マイフレンド」と言って受け取っては貰えなかった。このままでは私も申し訳がないので、日本製の煙草を一箱差し出してようやく受け取って貰ったのである。
 砦で会ったSさんと約束した時間にホテルに電話をしたが彼等は未だ帰って来ていなかった。夜になって風が強くなって来た。あまり風が強いとデロス島行きの船が欠航する。明日には治まることを願って部屋で一人で天気祭り(つまり酒を飲む事)をした。

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       今日こそ…

  8月5日(日) Marathi-ミコノス港-Marathi-ミコノス港
 8月5日、日曜日。ミコノスに来て3日目になる。今日こそデロス島に行くぞ、と8時に宿を出る。相変らず快晴だが、昨日よりも少し風が強い。不吉な予感がフト心をよぎる。不安な気持ちでトラベルエージェンシーのデスクに行く。「ツデイシップイズストップ」。カウンターの女性はつれなく宣告する。今日は風が強くて船は欠航である。「ツモローOK?」「ツモローホーリデー」。「地球の歩き方」には毎日出ると書いてあるので一瞬耳を疑った。
 又、砦に行って海を眺めてみても、この風では白波がたって、穏やかな濃紺のエーゲ海の写真は撮れない。8日にはアテネのシンガポール航空事務所に行って、帰りの飛行機の搭乗確認申請(Reconfirm)をしなければならない。未だ日もあるし、電話でも良いことになってはいるが、島からの電話事情はティラ島の時のように確実性に欠ける。ギリシャはイマイチ安心来ないところがある。やはり事務所に行ったほうが確実であり安心である。どうして良いか困ってしまった。前日までにアテネに入っておかなければ、万が一海が時化て船が欠航することも考えて置かなければならない。ここは宿賃も高いし、第一、いちいちタクシーで行き来しなければならないのでは不便でもあり、かなり高いものについてしまう。Sさんとも連絡が取れないからあてにはならない。私は今夜の夜行便でアテネヘ行くことにした。

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        「生きたヴィーナス」に会いたい

 ギリシャ神話によると、愛と美と豊穣の女神ヴイーナスは海の白い泡の中から生まれたという。フィレンツェ(伊)のウフィツィ美術館にあるボッティチェリ作「ヴィーナスの誕生」はルネサンス絵画の最も重要な作品として知られているが、この作品ではヴィーナスはほたて貝の上に乗って生まれてきている。いずれにしても、ヴィーナスは海が一番良く似合う神らしい。
 ミロのヴィーナスを含めてこれらのヴィーナスは美しい。しかし、陸で見るヴィーナスは醜い。アルコールで麻痺した神経でなければとても見られたものではない。なのになぜ多くの男どもは陸のヴイーナス求めて徘徊するのであろうか。そこには美と性愛の女神の優しさ、それに神秘的な幻想に魅せられたあくなき男どもの限りなき欲望と探求心がそれを掻き立てるからであろうか。そこには、男の業のようなものを感じるのである。これも又、心にくきばかりの神の気配りなのかもしれない。神は時として粋な事をするものである。“人間よ!万事について度を超すことなかれ”。現在、パリのルーブル博物館にあるトップスター「ミロのヴイーナス」は、1820年この近くの島、ミロス島で発見されたものである。

  “ギリシャ人が技をもて創りしものを
      剣をもてフランス人はセーヌの河辺へと運び去りぬ”

 ナポレオンの略奪をドイツの詩人シラーはこう非難した。
ミロのヴィーナス・ルーヴル美術館(パリ)/写真転載不可・なかむらみちお  私は、19年前の1971年12月19日にパリを訪れ、随所に立つ守衛の目を盗んでこの世界一の絶世の美女の足の指の辺りをさすった。それは決してエツチな気持ではなく、純粋に偉大なる人類の遺産への敬愛のなせる技である。世界的に貴重な人類の宝物に一度でよいから触ってみたいと思うのは私だけではないらしく、その部分はかなりの人の手で擦った跡が残り、周りよりも大理石の地肌が輝いていた。写真はその時私が撮ったものである。
 ヨーロッパには「ミロのヴィーナス」がある。アメリカにはフランスから贈られた「自由の女神」しかない。まさしくそこにヨーロッパ文明とアメリカ文明の歴史の重みの差をシンポリックに見せ付けている。
生きたヴィーナス/写真転載不可・なかむらみちお  ここまで来たからには、私は是非とも「生きたヴィーナス」に会いたかった。港に面した僅かばかりの砂浜には人影は少ないが、キャンパーが寝袋に包まっている。その傍らでは若いカップルの恋を囁く光景も目に入る。ミコノス島はロマン豊かき島でもある。何人かの外人の女性がブラジャーをはずし、生まれたままの姿で日光浴を満喫している。「生きたヴイーナス」が今、目の前に居る。300ミリの望遠レンズを取り出し、本人に気付かれないように遠回りをしながら二人連れにさり気なく射程距離まで近づく。ピンク色の乳首が見える。長く感じる一瞬の緊張感が高まる。思わず生唾を飲み込む。シャッター音で気付かれてはまずいので、モータードライブは使えない。別な方向を写すふりをして気付かれないようにピントを合わせ、隙を見て静かにシャッターボタン押す。もう一枚。息がつまる。シャッター音は蒼いエーゲ海の遥か彼方から吹き寄せるそよ風にかき消されて彼女の耳には届かない。私はすつかりポッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』の世界に浸っていた。ヤッタァ!これで一丁上がり。拾い物である。この間に、約5枚ほど写した。痴漢と間違えられてもつまらないので、彼女のオッパイに触るのだけは自粛した。

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     タクシーの相乗り

 教会は日曜日だと言うのに開いていない。ましてや結婚式らしきものも見付ける事は出来なかった。タクシー広場でタクシーを拾った。すると、老婆が近付いて来て、運転手と何か話を始めた。そして私の車に乗り込んで来たのである。話には聞いていたが、知らない人とのタクシーの相乗りは初めてであった。タクシーは走り出した。いつものコースとは少し違う。料金は一体どうなるのだろう。途中で老婆が降り、やがて私の民宿に着いた。料金はいつもの半分だった。  宿に着いて事情を話し、キャンセルを申し出ると、おばんは急に不機嫌になった。そして盛んに「プロブレム!プロブレム!」を連発している。最初4〜5日泊まると言ってあったので無理もない。御主人のほうはにこにこして「いいよ、いいよ」と言ってくれた。やはり何処の国でも男のほうが出来ている「男は黙って勝負する」(セクハラと責めないで下さい)。
 宿泊代13,000円を払って庭先に荷物を置き、タクシーを待ったがなかなか来ない。その間、催促の電話もしてもらえなかった。タクシーは小一時間位待った頃漸く来た。ミコノスからアテネ(ピレウス港)までの船賃は2100円である。荷物があるので夜中の1時の出航までフェリー乗り場で待つことにする。その間どうやって時間を過ごそうか。考えただけで面倒臭くなる。とりあえず待合室のスナックでビールを飲む。

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      奇遇

 かなり永い時間が過ぎた。その間、付近のヨットや繋留中の小船が水鏡に映り、水面(みなも)の揺れにつれてリズムを刻む。その織り成す光と影のシンフォニーをスナップしたり、到着したフェリーや船から降りて来る人達などを写して時を過ごした。それでも、未だ太陽が沈むのには間がある。
 と、その時、なんと彼のS夫妻が荷物を持って現われた。私には未だ気が付いていない。彼等の前にヒョッと現われると二人共びっくりしていた。同じ船でピレウスヘ行くという。まさかいくら狭い島であっても、ここで三度も会うとは思いもよらない事であった。正に奇遇である。「旅は道連れ、世は情け」とは云うが、旅で道連れができるのは現代ではほとんどない。むしろ、「夫婦旅、昼は道連れ夜は情け」という句を聞いたことがある。昼も夜もつきっきりでは、さぞかし疲れ果てて「余は情けない」ということにならなければいいが…。旅は一人旅に限る。自分という、一番気の合う奴が道連れであるから…。
 彼等は借りたバイクで来ているのでこれから返しに行くという。その間、荷物を預かって欲しいと言う。その時私は、昨夜お世話になったレンタルバイク屋のご主人に御礼を言って来なかったことが頭を掠めた。それは気にしていた事なのだがチャンスがなかったので失礼していたのである。彼等にその事を話し、丁度良い機会なので、彼等に日本から持って来た物を届けて貰おうと思ったのだが、何処のバイク屋さんかと聞いても話だけでは特定出来なかった。それで此の度は失礼することにし、いずれ又来た時に御礼をしようと思って諦めた(再び来るということが本当にあるのかな?)彼等には帰りにレツィーナ一本と何かおつまみを買ってきてくれるように頼んだ。私は彼等と共にレツィーナを飲む為に、ボーイが回収し忘れたコップを密かに隠匿し、トイレの手洗い場で洗って目立たぬところに隠した。

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夕陽/写真転載不可・なかむらみちお

        夕暮れの野外パーティ

 陽が沈むと共にスナックは閉店し、私一人になってしまった。辺りに夕闇が迫る頃、彼等は食事を終えて漸く帰って来た。しっかりとレツィーナを抱えて…。早速俄かパーテーが始まった。栓抜きは私がスイスで買って来たアーミーナイフがある。彼等は、コップが揃っているのに驚いていた。永年の一人旅の悪知恵である。閉店後の仄暗いスナック前の人気のないテーブルでのパーティは雰囲気満点である。お互いに、昨日別れた後の話で大いに盛り上がる。パーティが終わるとコップは店の前にしっかりと置いて来た。
 8月6日0時07分、船は静かに思い出多いミコノスの港を離れた。明日の朝早くピレウス港に着く。乗客は思い思いの処に陣取り、深い眠りに付いた。

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           出会い、そして別れ

 美しい風景は「海流の旅心」を癒す。過ぎ行く時の中でエーゲ海の島々は変わらぬ悠久の時を刻む。
 「旅」、それは歩くこと、飲むこと、踊ること、そして出会うこと。
 「旅」、それは酒、女、夢。
 ルタ一曰く「洒も女も歌も好かぬような者は一生を愚かに過す」
 「出会い」と「別れ」。旅の型は人それぞれ様々だが、旅には何かがある。旅は出会いと別れのドラマである。
 今回の「エーゲ海の旅」では「マドンナ」にこそ会うことは出来なかったが、多くの親切で優しい人々や珍しい多くの風景、場面に会うことが出来たし、多くのことを体験して学んだ。収穫は充分にあった。
 私のエーゲ海。それは新たな「光と陰=風向」との「出会い」であり「別れ」であり、そして「感動」である。過ぎ行く時の中で私の旅はまだ終わらない。結末のないドラマはまだ始まったばかりである。
 エーゲ海の島々を去るに当たって私は、何かまだやり残した事があるような、そんな未練が残った。いつの日か再び訪れる事を願いつつ、この魅力溢るる島々に後ろ髪を引かれる思いで別れを告げた。

   さらば友よ! さらばエーゲ海の光と風よ!
                  エーゲ海よ、さらば!
                            (続く)

 御退屈さまでした。最後までの御愛読ありがとうございました。
 この後、アテネの観光(特に夜の部)、夕焼けのスニオン岬でアルゼンチン娘に付きまとわれた(もてた)話、サロニコス湾のエギナ、ポロス、イドラ、ワンデークルーズの旅などの話があるのですが、別稿に譲ります。
 尚、北海道新聞社発行の「道新Today」1991年1月号には、カラー写真数枚と文が4頁程載っておりますので、機会がございましたら併せてご覧頂ければ幸いです。


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