紀行・エーゲ海ぶらり旅

ーエーゲ海印象記−

サントリーニ島/写真転載不可・なかむらみちお




旅。 この開放感。
なにものにも替えがたきこの楽しみ。
なにものにもたとえられないこのフィーリング。
表現しきれないこの体験。
新たなる発見の歓喜(よろこび)を共に分かちあわん。

目  次

 ☆サントリーニ島
白とエーゲブルー  フーテンの旅心  キクラデス諸島への旅  アトランティス文明の伝説  ティラの民宿  ギリシャ正教会  神のお恵み
古代からのレガシー  島のドライブは耕運機  ティラの眺めはナポリも顔負け  タベルナで食べる  太陽の島   S・O・S  教会探し
芸術的香りのするイアの街  初めて会った日本人  マイフレンド  ビーナスは何処  さらばサントリーニ島

         スケジュール
 1990年

7月26日(木) 千歳 15:50(ANA64)- 17:20 羽田
27日(金) 成田 12:55(SQ97)- 18:30 シンガポール 22:00(SQ24)-
28日(土) 03:55 アテネ 06:00(OA55)- 06:40 ティラ Monolithos(Karterados)
29日(日) Karterados-Thira-Karterados
30日(月) Karterados-Thira-karterados-Thira-Oia-Thira-Karterados-Thira
31日(火) Karterados-Thira-Karterados
8月 1日(水) Karterados-Thira-Karterados
2日(木) Karterados-Athinios Port-ミコノス島-Marathi
3日(金) Marathi-ミコノス港-Marathi
4日(土) Marathi-ミコノス港-Marathi
5日(日) Marathi-ミコノス港-Marathi-ミコノス港
6日(月) ミコノス 12:07(フェリー)- ピレウス(地下鉄)- モナスティラキ-シンタグマ広場-オモニア広場-無名戦士の碑-国立考古博物館-リカヴィトスの丘-ホテル
7日(火) ホテル-ピレウス港-サロニックス諸島(ポロス島、イドラ島、エギナ島−ピレウス港-ホテル
8日(水) ホテル-アクロポリス(タクシー)-バスターミナル(バス)-スニオン岬(バス)-アテネ-ホテル
9日(木) ホテル-無名戦士の碑-ピレウス港-ホテル-ナイトツアー-ホテル
10日(金) ホテル-ゼウス神殿-アドリアヌス門-フニクスの丘-ホテル-オモニア広場-ホテル
11日(土) ホテル-オモニア広場-ホテル-アテネ空港 22:20(SQ23)-
12日(日) 14:05 シンガポール市内見物-空港
13日(月) シンガポール 01:15(SQ98)- 08:45 成田 13:45 - 千歳(バス)-札幌

 ☆サントリーニ島
      白とエーゲブルー

 “神話の国”“遺跡の国”そして“光の国”…。ギリシャは、旅人に夢とロマンを与えてくれる魅力あふれる国だ。
 エーゲ海は抜けるような空がいい。何処までも青い空と蒼い海。限りなく白い雲と白い街。時間は悠久の昔から停止しているかのようにさえ思える。
サントリーニ(ティラ)島/写真転載不可・なかむらみちお  溶岩の島は赤茶けた断崖が壁のように立ち塞がり、真っ赤に燃え上がっている。聳え立つ絶壁が海に迫り、その崖の上にまばゆい太陽の光をいっぱいに浴びて、さらに美しさが映えた白い家並みが続く。そしてその上に青空が広がる。  フィラの街から眺めるエーゲ海の美しさはたとえようもなく、眼下にはエーゲブルーを静かにたたえたえた湾と火山がパノラミツクに展開する。透き通ったワインカラーの海。真っ青な空の間に真っ白な家や教会。その向こうに連なる島々が浮かぶ。朝から夕方にかけての時間の経過と共に光線の具合で海の色や白い教会の影が変化する。実に素晴らしい。頬を撫でて通り過ぎる潮風も、乾き切った肌には心地好い。時の過ぎ行くままに一日中ここに座って海を眺めていてもいつこうに飽きる事はない。

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      フーテンの旅心

   7月26日(木) 千歳 15:50(ANA64)- 17:20 羽田
   7月27日(金) 成田 12:55(SQ97)- 18:30 シンガポール 22:00(SQ24)-
 最近、私はぶらりと当てのない旅に出たいと思うようになってきた。フーテンの寅さんのように「いつ帰るかわからないが、次のツバメが巣を作る頃には帰れるかも知れないぜ」等と格好いいセリフを残して…。
 かねてから定年退職記念旅行の為にとコツコツと貯えてきた資金を基に、リュックに愛用のカメラを詰め込んで1990年7月26日、宿も決めずふらりと家を出た。
 言葉も習慣も分からないのに、訪れた町の人々は親切に暖かく迎えてくれた。これらの人々の人情に支えられて日焼けでまっ黒になって無事帰ってこられた事を先ずもって感謝しなければならない。

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    キクラデス諸島への旅

 キクラデスとは「サークル(環)を形成する」の意味で、その名の通り、エーゲ海の真中のデロス島を中心に小さな島々が円く集まっている。島々の白い家は太陽に輝き、エーゲ海と美しい対照を見せている。39からなる島の中には、ミコノス島やアトランティス大陸との関係が噂されるサントリーニ(ティラ)島、1820年古代ギリシャ彫刻中の傑作、「ミロのヴィーナス」(高さ2,04メートルの大理石彫像。ルーブル博物館蔵)が発掘されたミロス島などがある。

 ここが本当のエーゲ海であり、日本の旅行代理店等が謳っている“一日クルーズ”のエギナ、ポロス、イドラ島は「サロニコス湾の島々」と言って、エーゲ海には含まれない。多くの人は、このサロニコス湾のクルーズに乗って「エーゲ海を見て来た」と思い込んでいるようだ。
 私は、ふと「生きたヴィーナス」に会いたくなり、フラリとエーゲ海に来た。

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      アトランティス文明の伝説の島サントリーニ島

 サントリーニ島は正式にはティラ島と云う。キクラデス諸島の中でも最も南に位置する重要な島である。
ティラ島から発掘されたボクシングをする少年たち・国立考古学博物館(アテネ)/写真転載不可・なかむらみちお  石器時代から人が住み付き、前2600年には史上最初の海洋文明、キクラデス文明時代を築き、その後のヨーロッパ文明の源流となった。しかしその後、アーリア系民族やドーリア系民族の侵略に打撃を受け、キクラデス文明は壊滅した。そして、サントリーニ島は火山であるがために地形の変化が激しく、何回も爆発を繰り返した後、紀元前1500年の大規模な噴火で島の中心部が沈み、今あるようなほぼ環状形式が造られた。地上には古代の建築物はほとんど残っていない。そしてキクラデス文明という素晴らしい時代も一瞬にして海底深く歴史の舞台から姿を消し、エーゲ文明は終わりを告げた。その文明がプラトン(前427〜347古代ギリシアの哲学者)の著作の中で語られている伝説の島アトランティスではなかったのだろうか。
【一口豆辞典】エーゲ文明の運命=前3000年頃から1100年頃にかけギリシャ東部のエーゲ海を中心に栄えた青銅器時代の古代文明。前2600年頃早くも史上最初の海洋文明を形成した。これらの文明を築いた民族は、非アーリア系の小アジア人であったとみられている。前2000年前後にアーリア系民族移動の一波によってトロイア、キクラデスの文明は打撃を受けた。その後、第二次の移民者であるドーリア人の侵入によってエーゲ海文明は終りを告げた。

 アーリア人=前2000年ごろ、遊牧民族のアーリア人が中央アジア方面からインドの北西部に侵入し、先住民族を征服・駆逐すると、インダス川の上流パンジャプ地方に定住して農耕生活を始め、インド文化の基礎を開いた。すなわちアーリア人はインドの大自然に包まれ、すべての自然げんしに神性を認め、古代詩人は自然神賛美の叙情歌をとなえた。「リグ・ベーダー」10巻は自然神崇拝の叙情詩歌を中心とする賛歌集で、インド最古の文献であり、バラモン教の根本聖典である。(小学館「日本百科大事典」より)かれらの中で西南に向かったものはイランにはいってイラン人となった。(「玉川児童百科大辞典」より)

 紀元前15世紀頃、旧約時代最大の宗教的・政治的偉大な指導者モーゼがいた。彼はエジプトの圧政に苦しみ、虐待されているイスラエル人奴隷の悲惨な状況を見るに忍びづ、紅海の水を真二つに割って海底を徒歩で渡り、これらイスラエル人達をエジプトからアラビヤの砂漢に導いた事が旧約聖書の「出エジプト記」に記されている。
 私は昭和43年の十勝沖地震の時には釧路に赴任しており、地震の後に襲ってくる津波の前触れとして、旧釧路川の水が引いて旧幣舞橋の橋桁を支える岩盤までが露出したのを見た事がある。あのセシル・B・デミル製作・監督の大スペクタクル映画「十戒」(1957)にその場面が出てくる。これは神の力でもなく、空想や虚構でもない。まさしくこのティラ(サントリーニ島)が火山による大爆発を起こした時の余波でなくて何であろうか…と私は思う。蛇足になるが、この場面はマット・プロセスと呼ばれる特殊効果撮影技術による合成画面で造られている。私の推測にすぎないが、これは第二次世界大戦終了後、アメリカが3000年の歴史を無視してパレスチナ人を追い出した後に世界に逃れていたユダヤ人に土地を与え、再びイスラエルを建国する事に手を貸した。それを正当化するための国家的洗脳教育の一端として製作されたのではないかと推測する。
【一口豆辞典】イスラエル…前926年北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂。イスラエルは前722年にユダは前586年に滅亡、爾来亡国の民族としてバビロニア、シリア、ギリシアの治下に漂流する。ユダヤ人…(もとヤコブの子ユダの子孫の意)バビロンの捕囚から帰還後、パレスチナに新国家を建設したユダ(王国)の民の称。また、広くイスラエル民族を指す。ローマのハドリアヌス帝による追放後、国家を成さず、全世界に流離・散在しキリスト教徒・回教徒に圧迫されたが、中世以来、金融、商業方面に成功し、近世資本主義の勃興と共に、経済上の実力によって発言権を増し、また、科学・思想方面に傑出した人材を輩出。1948年イスラエル共和国を建設した。アラブ諸国と対立・抗争が続いている。                           (広辞苑より)

  7月28日(土) 03:55 アテネ 06:00(OA55)- 06:40 ティラ Monolithos(Karterados)
 成田空港からシンガポール、アテネを経て7月28日の早朝、直接ティラ空港に着いた。アテネ空港では連絡バスを利用して滑走路を挟んだ反対側のビルに行かなければならないのに、預けた荷物の受け取りに手間取って、もう少しのところで乗り遅れそうになると云うハプニングもあったが、まあなんとか目的地に無事着いたので先ず一安心。

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     ティラの民宿
 ティラの空港には、サマータイムでまだ午前7時前というのにフェンスに寄り掛かった出迎えの人に混じって民宿の客引きが声を掛ける。その中には、ジプシーを思わせるようなひときわ色黒の娘もいた。私は、この娘の宿だけは避けようと思って、他の客引きと交渉を始めた。人の良さそうなおじさんは1泊5,000円という。念のためかの娘に聞くと、これもやはり5,000円という。するとこの一泊5,000円というのはこの辺の相場なのだろうか。最近のギリシャはインフレが激しいと聞いていたし、このシーズンが稼ぎ時のデカンショ稼業であるから、こんなところが相場なのかも知れない。どんな宿か分からないが、予算よりもかなり高い。これじゃホテル並みである。同じ飛行機から降りた客はほとんどいなくなったが、かの客引きはまだいた。もう一度先程のおじさんに「5泊するから負けろ」と迫ると、今度はようやく2,500円で良いということになり、ひとまず手を打つことにした。余り値切り過ぎると、相手にされなくなるので、適当なところで手を打たなければならない。そのへんの駆け引きとタイミングがコツである。お迎えの車はランドルクルーザー型であった。乗客は私一人きり。どうやら今日は不漁であったようだ。間もなくかの娘も乗りこんで来た。なんと親子だったのだ。

 連れて行かれたのは、フィラのすぐ隣町、カルテラドスという処であった。案内された部屋にはベッドが2つとテーブルに椅子があるのみで、内廊下側に窓が一つあるだけなので陽射しは入らない。トイレとシャワーは建物を出たところに小屋のような形である。錠前は南京錠で40年前の寮生活を思い起こさせた。もう一つ驚いた事に、今夜はこの島全体が停電で電気が来ないという事であった。覚悟はして来たのだが、さすがはギリシャ、日本とは訳が違うわい、と、妙なところで感心した。かのおじさんが空瓶とローソク、マッチを持って来て「これで今夜は我慢してくれ」と言う。停電の理由はよく分からない。早くも前途多難を思わせる。「明日はどうなるのか」と尋ねると「明日は明日の風が吹く」と言ったような気がする。最近ではこんな事はめったに体験出来る事ではないし、戦時下の時を思い出すのも悪くはない。まあ久し振りにローソクの灯火の下で地酒を飲むのもムードがあってオツなものであろうと諦めるしかなかった。“ケイ・セラ・セラ”。ギリシャ神話に出てくる全知全能の神「ジュピター」ならいざ知らず、後のことは“神のみぞ知る”である。きっと後になったら懐かしい思い出のひとこまになるであろう。ところがどっこい、電気が来た。半ば嬉しく、後の半分は期待を裏切られた感じである。せっかくの貴重な体験の機会は失われてしまったのである。

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     ギリシア正教会

ティラの子供/写真転載不可・なかむらみちお  朝食の後、早速カメラを肩に近くをぶらついてみた。今日はロケハンである。その近くでは三っほどの教会が目についた。その中の一つに何人かの男女が集まってお祈りをしていた。失礼して中を覗き込んで見たら牧師さんがお祈りを唱え、敬虔な信者連が十字を切り、イコン(聖母マリア像)に接吻をしていた(ギリシャ正教はイコン崇拝である)。数年前、西ドイツのフュッセン(有名なノイシバンシュタイン城のあるところ)の教会内でも赤ん坊の洗礼を写したことがある。私はその中でもリーダーらしい男にカメラを示し、親指と人指し指で輪を描き“OK?”と尋ねてみた。その男は表情を崩さずに微かに頒なずいた。牧師のお祈りが終わると、母親に抱えられた小さな子供が一人ずつ牧師から何やら口の中に注ぎ込んでもらっていた。私は、その様子を高感度フィルムのカメラに納めた。
 こういう場合、雰囲気を壊してはいけないのでフラッシュライトは使わない。レンズは開放にして、1/2秒であった。手持ち撮影の限界を越える厳しい撮影である。その後イコンを先頭に、参列者一同が付近を一巡して終わりであった。 式が終わると一同はリラックスして本来のギリシア人に戻った。そして参列者に配るパン切れとワインを私にも勧めてくれた。全く偶然にも思い掛けない写真を撮れた事を、無宗教の私でも神に感謝の念を捧げざるを得なかった。

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       神の御恵み

 教会を出てからの私は、フィラの街を後ろに眺めながら、道なりに島の東にあるモノリトス海岸へと徒歩で向かった。これから数日間ここに滞在する予定なので、まず身近なところから知っておこうというのと、今日は着いたばかりなので、安息日という狙いもあった。
 この島ではオリーブの木は一本も見当たらず、そこは遮る物の無き一面の瓦礫の原であった。 紀元前1600年頃の大爆発と、その後も20世紀に至るまで繰り返された噴火によって、一面降り積もった火山灰に覆われている。♪月の砂漠を遥々と…そんな歌が脳裏をかすめた。しかし、よく見ると雑草かと思った物は葡萄の木であり、そこは葡萄畑であった。この島は風が強いため渦巻き状に地を這わせて栽培するこの島独特のぶどう畑が広がっている。日本やドイツ、フランスなどの葡萄栽培方法とはイメージが異なる。火山灰と瓦礫の土地は葡萄の栽培に適し、熟しかけた葡萄の実がたわわに付いていた。
 私は、此の時だけは俄か信者となり神に向かって十字を切り、一口お恵みを与えて戴いた。雲一つない灼熱に照らされ、すっかり日干しになりかかっていた私の喉に、まさしく神からの豊かな潤いを与えて貰ったのである。アーメン!

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       古代人からのレガシー(遺産)

 ワインがどのようにして生まれたかの論議は別として、1969年にシリアの首都ダマスカス近くで発見され、約8000年前のものと考証された搾汁器とぶどうの種はワイン醸造にかんする最古の貴重な物証で、これまでワインの最初に作られたのはメソポタミアの南部地方、シュメールであったといわれてきたことを裏付けることとなった。そして、その後、ブドウ栽培とワイン造りは貿易商人、中でもフェニキアの商人たちの手によって西方にもたらされたものと考えられている。
 ギリシャに上陸したワインは民衆の間に急速に普及し、やがてディオニソスを象徴とするワイン文化が形成されて行く。
 (塩田正志著「世界の名ワイン事典・地中海世界のワイン」講談社より)
 ここエーゲ海がワインのルーツであるという事は余り良く知られていない。神話の国ギリシアの人々は、紀元前七世紀頃にはワインを南イタリアや南フランスに輸出して財を成した。最近テレビで話題になっているアンフオラ(素焼きの壷)は、その頃必要に迫られて造られたのかも知れない。当時、ギリシャでは過熟気味の葡萄から造られた甘口のワインや酸味の強いワインが好んで飲まれていた。それは、香辛料が過剰なほど使われた羊肉料理を常食としていた彼等の口に合ったことであろう。このようなギリシャ時代のワイン飲用の習慣、例えば水割ワインなどはホメロスの二大叙事詩「イリアッド」と「オデイツセイ」からも伺う事が出来る。ディオニソスの祭りの時には、ギリシャ人達はすべての仕事を休み、三日三晩飲み、かつ踊ったというし、アレクサンドロス大王の時代(紀元前四世紀)には死者の遺体をワインで洗って葬ったと言うから、この時代のワインは彼等の喜びや悲しみと共にあったわけで、それは正にワイン文化と呼ぶにふさわしい。
 醸造前に松脂を入れる白ワインのレツイーナ(Retsina)はアテネを中心とするアツティカ地方の特産で、ギリシアの全ワイン生産量の半分を占めている。レツイーナの歴史は前三世紀も前に遡り、古代ギリシアの味わいを今に伝えるワインだと言える。
 芸術を愛し、人生を謳歌した古代人が、ワインを飲み物から文化へと高め、私達に大きな遺産として残してくれた。地中海諸国のワインは、遠い昔の出来ごとを私達に語り掛けてくれる、そんな魅力に溢れている。
 ティラ島は現在もワインの重要な産地である。実際、松ヤニの香りが独特のここのレツィーナは実においしい。神々がくみかわした神酒かと思うほどである。この島の特産ワイン「ビザント(Vinsanto)」は死人も蘇らせると言う。
【一口豆辞典】「地中海世界」とは、以前は「古典古代の時代」と呼ばれていたもので、古代に地中海の島々やその沿岸一帯で栄えた文明。中でも特にギリシャ、ローマ時代のそれを指す一つの歴史的概念とされている。従って、この時代に普及した葡萄栽培、ワイン醸造がもたらした文化現象の全体を「地中海世界のワイン文化」と呼ぶことが出来る。地中海にワインをもたらしたのはフユニキアの商人達で、紀元前2000年頃に地中海の島々や沿岸地方の人達に葡萄の栽培法とワイン醸造法とを教えたという。
      (塩田正志著「世界の名ワイン事典・地中海世界のワイン」より。
 不思議なことに、酒類に関する文化、技術は、民族の持つ文化水準に比例している。古代ギリシャでは、シンポジュームはワインを飲みながら行う集会であり、ワインと文化との併進性はギリシャ、ローマにと受けつがれ、やがて西ヨーロッパ全体にワイン文化の花が開いた。古代の人々は、ワインが健康な飲み物であることを経験的に知っていた。肉食の多かった人の体調を、ワインは酸性から中和して健康を保った。ワインの陶酔は大きな喜びでもあった。この自然からの栄光の飲み物を人々は感謝し、さらに秀れたものに育てていった。大航海時代を経てヨーロッパ系人種の創った植民地や、その支配領域では、ヨーロッパのワイン造りが、彼等の持ち込んだ文化と共に発達して行った。そして今やワインは世界第一の文化的アルコール飲料となったのである。
           角川文庫・井上宗和著「ワインものがたり」講談社より

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             島のドライブは耕運機

 葡萄畑沿いの未舗装の道をリックを背負って一人トボトボと歩いていると、後ろから一台の耕運機が近づいて来た。運転しているのは年の頃60才位の人の良さそうな農民風のおじさんであった。珍しい風景なので早速カメラを構えるとわざわざ止まってニコニコしながらポーズを作ってくれた。なんとその耕運機はメイドインジャパンであった。その時擦れ違いに前方から男女二人乗りのバイクが近づいて来た。三人で何事か話を始めた。ギリシャ人は昔から話好き、議論好きで有名である。何時果てるか見当が付かない。特に男は昼間から家の前にテーブルを出して葡萄の絞り糟を蒸留した松脂入りの酒、「ウーゾ」(日本の焼酎に似ており、火の酒と言われている)を飲みながら、仲間同志で議論をしている。
 私は礼を言って又歩き出した。やがて追い付いて来た彼は、海岸に行くのなら乗って行けと言う。乗れと言われても耕運機の後ろに連結した車は鉄板で四隅を囲んだ只の箱である。何事も体験が必要である。折角のご厚意なので先ずはその真中に胡座をかいて乗せて貰ったが、凹凸の田舎道には振動が大き過ぎて乗り心地の良いものではなかった。
 砂浜の海岸に来てみたが、海水客も見当たらず、これと言って写す物もないので、ひきかえす事にした。
 それにしても喉が渇いた。暑いし空気が乾燥しているのでやたらと喉が渇く。港に通じる道では時々バギューム車が走っているのを見かける。この島の夏はほとんど雨が降らないので水はどこからか船で運んでくるらしい。観光客はミネラルウオーターが頼りとなる。各自、大きなポリボトル容器を後生大事に抱えてうろうろする様は滑稽である。
 急ぐ旅でもない。ここらで一服する事にしよう。通りかかりの小さな雑貨屋さんに入って冷えた缶ビールを飲んだ。旨い!干からびる寸前の体には、何を飲んでも美味く感ずる。日本では280円もする355ml.の缶ビールがここでは100〜120円であった。間口一間少々の店内には、母親と小学校上学年の姉妹らしき少女がいた。上の女の子は少々英語が分かる。「フィラは向こう?」と尋ねるとなぜかクスクスと笑いながら頷く。
 棚の上にはペットボトルに入ったミネラルウオーターが並んでいた。私は少女にその中の一本のボトルを取り出してもらい、生協で買物をすると必ずくれるビニールの袋に入れてもらって店を出た。

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         フィラの眺めはナポリも顔負け

どこまでも青い空と蒼い海。限りなく白い街/写真転載不可・なかむらみちお 驢馬の背に身を任せ、ジグザグの石段を300b登りきると白い家並みが続く。そこがフィラの街である/写真転載不可・なかむらみちお
 クルーズ船で島近くに着いた乗客は一旦ランチに乗りかえてから港に上陸する。港からは驢馬の背に身を任せ、葛篭折のようなジグザグの石段を587段、300mを登り切ると、そこは白い家並みが続くフイラの街である(ケイブルカーもある)。さすがの驢馬にもこの急な坂はこたえるらしく、多少与太ついているようである。私がカメラを向けていると、日ごろのうっぷんを晴らす為か、八つ当たり的に体を寄せてくる。私は逃げ場を失って岩石を積み上げた塀に押し付けられて肘の皮を少々擦り剥いてしまった。
 街は全体に海岸線の絶壁に沿って東西に細長く延びている。世界の観光客を迎える商店街の目抜き通りは狭く、両側にお土産屋さんが品物を並べている。行き来する観光客はお互いに譲り合い、身を入れ替えてすれ違う。まるで北海道神宮祭の夜店どおりのようである。
 フィラの街には色とりどりの民芸品を売る店や、親しみやすい感じのタベルナ(伝統的なギリシア式料理店)が多く、ギリシャの伝統芸術である金銀細工のアクセサリーを売る店も多い。時あたかもバカンス。フイラの街はヨーロッパ人かアメリカ人か分からないけれど、世界中から集まった大勢の観光客でごった返していた。しかし、日本の団体さんの姿が見当たらなかったのは意外である。せっかちな日本人にはクルーズで5日間とか、一週間の日程を費やしてこの島まで来るのには、余りにも遠い島なのかもしれない。
 クルーズ船で午前中に島に着いた観光客は夕方には慌ただしく船に戻り、日暮れと共に次の目的地に向かって出港して行く。これではこの島の良さを感じたり、あじあうことは出来ないであろう。勿体ない話である。旅に出たら人に会い、心に触れる旅でありたい。
 お土産屋さんの続く商店街を右に真っ直ぐ行くと、やがて左側に真っ白で大きなカテドラルがある。ここから眺めるエーゲ海の美しさは例えようもなく、実に美しい。眼下にはエーゲブルーを静かにたたえた湾と火山がパノラミツクに展開する。透き通ったワインカラーの海。真っ青な空の間に真っ白な家、ビザンチン式教会のドーム。その向こうに島々が連なって浮ぶ。神に与えられ、恵まれた美しいこの大自然を汚す者は愚か者である。人間にはそんな権利はない。人間よおごるなかれ!必ずや神の仕返しのあることを覚悟せよ!
 朝から夕方にかけて、時の流れと共に教会や白い建物に降り注ぐ太陽が織り成す大自然の光と影が微妙に変化する。実に素晴らしい。北海道の阿寒国立公園内にも五色湖といわれるほど水の色が変化する神秘な湖、オンネトーがあるが、美しさもスケールも比べものにならない。
 日没は星のフィナーレを告げるセレモニーであると共に、人間が最も人間らしい生活を送る時の始まりを告げる序曲でもある。ここから見るエーゲ海の落日は、何もかもをも忘れさせてくれる。
丸くて青いドームの向うに夕陽が落ちる/写真転載不可・なかむらみちお 夕陽を浴びた観光客/写真転載不可・なかむらみちお
黄昏のフィラ/写真転載不可・なかむらみちお
 今宵も又、黄昏が訪れ、フィラ の街はやがてプルシャンブルーに包まれた。噴火口の崖縁に迫り出したテラスのテーブルに琥珀色の灯火が点る。ギリシャの夜はこれからである。ビザントのグラスを傾ける今宵は最高の幸せ感に満たされる。これこそ世界一のゼイタクであり、最高のオシャレである。“輝く君の瞳に乾杯”。また命が伸びた思いがする。“フィラを見ずしてエーゲ海を語ることなかれ”。
 “ナポリを見て死ね”という言葉があるが、ナポリも見た。あれから何年経ったであろうか。未だ当分は死にそうにもない。もし、自叙伝を書くとしたら『我、エーゲ海に死す』という題名はどうであろうか。少々キザ過ぎるだろうか。なんだか題名だけが先走しりしているような気がするのでやはり止めておこう。ここはまたそんな他愛もない夢を与えてくれる雰囲気のところでもある。蒼い海から吹き寄せてくるそよ風が頬を撫でて通り、乾き切った肌に心地好い。
‘時の過ぎ行くまま’に一日中ここに座って海を眺めていても一向に飽きる事はない。

       ああ!エーゲ海やエーゲ海
            ここは異国の松島か!

 悠久の時が流れ人は去るとも、この景色が永遠に変わる事のない事を願わずにはいられない。

 1961年、ソ連のユーリー・ガガーリン飛行士は有人宇宙船から「地球は青かった」の名文句を送ってきた。又、アメリカの飛行士、ジーン・サーナンは「地球は宇宙のオアシス」と言った。それほど地球は美しいのだ。私達は今、国境やイデオロギー、人種差別、宗教上の争い等を超えて、46億年という気の遠くなるようなこの地球のかけがえのない命を大切にしなければならないと強く感じた。
【一口豆辞典】プルシアン・ブルー(Prussian blue)「プロシヤの青」の意。人工の青色顔料。18世紀初頭プロイセン王国、現在のドイツの首都ベルリンで画期的な絵具として発明された事からプルシアン・ブルーと呼ばれるようになった。その発明はある錬金術師が赤い色を作ろうと実験していたところ誤って偶然に思いもよらぬ鮮やかな青、プルシアン・ブルーを誕生させた。そのプルシアン・ブルーこそ日本に渡り、浮世絵の世界に一大旋風を巻き起こした青だったのである。中でも葛飾北斉の「凱風快晴(赤富士)」の大半を占める空の青は江戸庶民にとってまさしく衝撃的なものであった。世界で最初に使ったのはジャンアントワールの「シテール島巡礼」であり、初期のピカソも使った。しかし最近は他の色を食う危険で難しい色として敬遠されている。
                テレビ東京製作「世界・美の旅」より
 日本にも江戸時代にすでに輸入されており、葛飾北斉、歌川広重などにより、浮世絵に用いられた。葛飾北斉(1760〜1849)は1831年頃から大作「富嶽三十六景」を発表して風景画の新境地を開拓した。
                    (「新潮世界美術辞典」より)

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       タベルナで食べる

 島にはあちこちにレンタルバイク屋さんがあり、大繁盛。各国からやって来た若者達が集団で島中をブンブンと蜜蜂のように乗り廻すので、誠に賑やかである。交通取締りもあまり無いようだし、パスポートを見せるだけでも貸してくれるので、未経験者が操作の仕方を教わっただけでフラフラと出発する光景も見掛けた。これらのバイクのほとんどが日本製である。
 街のカメラ屋さんに入ったら、日本のある有名フィルムメーカーの自動現像器が店の中に備え付けられて大活躍していた。そこの店主は、私の日本製のカメラを見て、日本ではいくらかと尋ねるので、少々高めに言ったつもりだが、真顔で「売ってくれ」と言われたのには困ってしまった。
 今日だけでも約20キロ程歩いたので、さすがに疲れた。初日にしては少しとばし過ぎである。夕方早めに宿に帰り、シャワーを浴びようとして蛇口を捻ったが、お湯は出てこない。宿の主人の言うには、例の屋根の上に乗せて水を暖めるソーラーシステムだから、太陽さんが顔を出している時しかお湯は出ない。明日の昼にでも使ったらいいだろうと言う話であった。ナルホド。ところで、寝る時体にかける毛布のような物はないのかと尋ねたら、そんな物は必要ない。なくても充分暖かいとの返事でこれもダメ。結局着のみ着のまま、ジャージを着て寝ることにした。考えてみると、この民宿の住所も名前も聞いていなかった。只一つ、街の名前を知っているのだけが頼りであった。バスから降りると私は見覚えのある地形を頼りに動物的感覚でなんとか宿に帰れるので、最後まで宿名を聞くのを忘れていた。日本に帰って来てから写真を送りたいと思いながらも、送る事が出来ず、参っている。何回もひとり旅をすると一種のなれみたいな物があり、気楽に行動してしまうのである。
 夕闇の迫る頃、近くのタベルナ(ギリシャ人向けの居酒屋風レストラン)へ行ってみた。ギリシアの夕食は早くて8時過ぎである。まだ開店間もなくの時間帯なので、客は疎らだった。欧米では係員が席をきめて案内してくれるので、店内に入って自分勝手に席に着くのは礼を失っする。戸外のガーデン式の席に案内されて出されたメニューはギリシャ語でチンプンカンプン。それと知った給仕は奥の調理場に私を案内し、現物を見せてくれた。所詮料理という物は食べてみないと見ただけでは味は分からない。トマトをくりぬいた中に挽き肉を入れ、オリーブ油をたっぷり入れてレンジで焼いた料理や、何やら分からないが食べられそうなシーフードを2〜3品とビザントを注文した。先ず、ビザントを一口飲んだ途端に命が蘇った。こちらでは食事にはたっぷり時間をかけ、1〜2時間ねばるのが普通だが、今日は疲れたので早めに食事を済ませ、時差ボケ解消の為にも今日は早めに宿に帰って寝た。

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          太陽の島

   7月29日(日) Karterados-Thira-Karterados
 翌朝、ギリシャ正教会の鐘が鳴ってフィラの夜が明けた。“誰がために鐘は鳴る”。水平線の彼方から今まさに新たな‘日はまた昇る’。
街から眺めるエーゲ海の美しさは例えようもない/写真転載不可・なかむらみちお /写真転載不可・なかむらみちお エーゲ海の気候は典型的な地中海性気候で、キクラデス諸島では年間3250時間の日照を記録する“太陽の島”である。来る日も来る日もピーカン続きで、日中の気温は連日32℃にもなる。しかし、湿度が低いので息苦しくはなく、汗もかかない。従って、衣服や肌が汚れないので、2〜3日風呂に入らなくともそんなに不潔ではない。一歩日陰に入ればむしろ涼しい位である。日中はTシャツー枚で良いが、陽が落ちるとトレーナーが一枚必要になる。朝方でも25℃位あるのだが、湿度が低いから肌寒く感ずる。従って、日中は飲み水(ミネラルウォーターの入ったペットボトル=1.5L約80円。1日1本は必要)の携行と白い帽子は離せない。ビールが安いので水の代わりに飲むという手もある。一番良いのは暑くなる午後はギリシャの風習に従ってシエスタ(午後1時頃より5時頃まで)を取り、宿で昼寝する事である。
 空気に水分を含んでいないという事は、それだけ光を遮る物がないという事であり、写真を撮っていても露出がいつもと多少違うので、初めは戸惑ってしまった。又、こちらに来てから初めて半ズボンになった為、露出した足がたちまち日焼けし、火傷状態で痛くて膝を曲げる事も出来なかった。とても風呂などには入れる状態ではない。幸い日本に帰ってきた頃カサビタが取れ初め、また元通りになったので良かったが、一時はどうなる事かと心配した。腕の皮も一回剥けたのに顔の皮だけは無傷だったのはどういう訳なのだろうか。
ギリシアの国旗がはためく真っ白なカテドラル/写真転載不可・なかむらみちお  街へ行ってみるとカテドラルが開いていた。中に入ってみると、入り口近くに黒いドレスを着たお婆さんが一人だけ居り、時々訪れるお客さんのお相手をしていた。信者らしき人はローソクを買い、燭台に灯し、脇に飾ってある聖母マリアの絵に十字を切ってから接吻をする。正面には特に祭壇もなく、簡素であった。壁の上の方に両手を広げたキリストの絵が描かれているだけである。天井は大きなドーム型になっており、そこにもバイブルを持ったキリスト(?)の肖像画が描かれていた。今日は勢力的に写真を撮るつもりであったので、せっかく成田空港のレンタルショプで借りてきた8ミリビデオカメラは持ってこなかった。明日、もし開いていたら又写すことにしよう。

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          S・O・S

  7月30日(月) Karterados-Thira-karterados-Thira-Oia-Thira-Karterados-Thira
 7月30日。今日は月曜日である。土曜日と日曜日はどこの官庁も休みで、観光客相手の食堂とお土産やさんぐらいしか開いていない。もちろん郵便局も休みで、ポストには口まで郵便物が詰まっている。
 私は、市外電話を掛けられるところを探した。アテネの旅行代理店へ電話して「サロニコス湾一日クルーズ」の予約をしたかったのだ。ようやく探し当てた「電話センター」にはすでに先客で長蛇の列であった。5〜6台の電話ボックスの前には7〜80人位の人が列を作って順番を待っていた。長い待ち時間の果てに漸く順番がまわってきた。しかし何度0発信してもお話し中で本土とは繋がらない2〜30回試みた末にようやく繋がった。何分間話したかは計ってはいなかったが、ものの2〜3分位で、1200円だった。ギリシアの電話事情は聞きしに優る後進国である。電話ばかりなく、この日ポストインした葉書が、私の帰宅後に自宅に配達されたのに至ってはもう何をか言わんやである。
 土曜日の午後に来た時は閉まっていたので、今日はどうかなと思ったカテトダルが開いていた。丁度折り良く子供づれの夫婦が訪れ、子供にローソクをつけさせて燭台に乗せるところを8ミリビデオで撮る事が出来た。
 カテトダルの前で写真を撮っている時、生理的要求がしてきた。辺りを見廻しても適当なところが見当たらない。困った。誠に申し訳ない事だが、カテトダルの中ならあるいはトイレがあるかもしれない。そこを借りる事にしよう。新約聖書のマタイ伝の第7章7節には「求めよ、さらば開かれん。訪ねよ、さらば見いださん。門をたたけ、さらば開かれん」とある。
 早速カテトダルに行き、彼のお婆さんに相談してみた。しかしどうも話が通じない。相手は何か勘違いしているようだ。「どうぞローソクに火をつけて御参りして下さい」という仕草をする。もう一刻も猶予はならない。
‘おぉ!マイゴット’。イエス様が“ノー”ならアラーの神があるサ。困った時の神頼み。日本人はこんな時にならないと神様仏様を思い出さない。その辺の文化が欧米人と大きく異なるところである。
 そこを飛び出し、手近にあったこの島で一番立派なホテル「アトランティス」に駆け込んだ。玄関を入るとテーブルがあり、若い受付嬢がいた。一寸恥ずかしかったが、もうそんな事を考えている余裕はない。状況はかなり緊迫しているのだ。「アイウォンツゥトイレット」というとニツコリと微笑んで右手でトイレの方を指し示し「プリーズ」と言った。
 一流ホテルの水洗トイレは壁も床も大理石で出来ており豪華で奇麗で気持ちが良かった。それよりも、彼の受付嬢はそれ以上に美しかった。私は日本から持ってきた5円玉とアイヌの「ムックリ」をあげ、使い方を教えると「サンキュウ」と言って、ニツコリと微笑んでくれた。「スイーアゲィン」。これで又落ち着いて写真が撮れる。同じくマタイ伝7章の8節には、「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえる」とあるが、私の要求は全く神には聞き入れてもらえなかった。きっと神に対して信仰心も無く、半ズボンで肌を出したまま教会の中に入り、無作法に写真を撮りまくった無礼を神が許さなかったのに違いない。
 フィラの街を見るとやたらにドーム型の教会が目にはいる。ギリシャ正教の教会建築様式は、西欧のゴシック様式とは対照的である。どちらも、少しでも神の身近に(天に)近付きたいという欲望と願望の現われである。同じコンセプトながら、その民族の文化の違いとか、いろいろのファクターに影響されながら、悠久の歴史の流れの中で形が大きく変わってきてしまっている。これは、映画の一駒一駒がその前後の駒とは見た目には全く変わっていないにもかかわらず、人間の持つ残像感覚を利用して1秒間に24駒で映写すると、動きは刻々と変わって行く。これと同じように昨日と今日、今日と明日は何も変わっていないように思えるのだが実は変わっているのである。私たちの日常生活や身の回りの歴史を積み重ねたものを一駒にして1秒間に24駒で走らせたら、それは確実に変わって見えるのである。
 「人生、それは二つの『永遠』の間のわずかな一閃である」とイギリスの文学者カーライルは言った。「われわれの人生というのは生まれた瞬間からすでに死への前奏曲となっている」というフランスの詩人ラマルティーヌの言葉に基づいてあの有名なリストの交響詩「前奏曲」が生まれた。普通、「前奏曲」というのは、舞台で幕が上がる前に演奏される音楽のことだが、この場合は音楽作品としては珍しく、人生というものをテーマにした作品なのである。  今は今、今日は昨日ではないのである。宇宙規模で考えれば、一瞬のまばたきにしか過ぎない私達の人生ではあるが、それなりにもっと一日一日を大切に生きて行きたいものである。
【一口豆辞典】ゴシック式=ロマネスクに続く美術様式。12世紀中頃北フランスに起こり、各国に伝わってルネサンスまで続く。建築が主要な様式で、天井は肋骨で補強し、壁は先の尖ったアーチと組み合わせた柱で支える。建物は高く、窓も大きくとる。寺院建築に多く、パリのノートル・ダム大聖堂は著名。ルネサンスに近づくに従って、彫刻・絵画は写実的になり、やがて建築から独立する傾向を持つ。「広辞苑」より
交響詩=哲学的あるいは文学的な内容をオーケストラで表現したものを「交響詩」といっている。リストの名はこの交響詩という新形式を創始した人として音楽史の1頁を飾っている。(共同通信社発行・志鳥栄八郎著「私のレコードライブラリー」より)

/写真転載不可・なかむらみちお /写真転載不可・なかむらみちお
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       教会探し

 この街の海岸線の何処かに青いドーム型の奇麗な教会があるはずである。
 何軒かのお土産屋さんで聞いても言うことがまちまちでなかなか要領を得ない。私は、昨日知り合いになったばかりの旅行代理店に行ってみた。そこにはやり手のインテリ臭い青年を少し過ぎた感じの人がいた。彼は、少し考えた後、それはこの街の北のはずれにあると言った。崖沿いの道を真っ直ぐ行けば良いとのことだった。それはかなり信頼出来る情報であった。
 道なりに歩くこと約30分。目指すその青いドームの教会が街から少し離れた処に本当にあった。しかしその道は教会の正面、つまり海側にあり、海をバックに教会を写す為には一段崖を登らなくてはならない。その道がどうしても見付からないのでかなり手間取ってしまった。命がけで崖をよじ登り、ようやくの思いでポジションを見付けた。なんとその近くにはOia行きのバス停があった。バス通りから来たほうが簡単だったのである。この事ひとつを例にとっても、一枚の写真を物にするにはいかに多大の労力を払わなければならないかを知って頂けるだろう。
 目の前の教会はエーゲブルーの海に映えて絵のように美しかった。その教会の型はお隣のトルコの首都、イスタンブールの写真などで見るピザンチン様式で、珍しく青くドーム型であった。何故トルコ型の教会がギリシャにあるのだろう。それは後で歴史を調べることによって納得した。そこにはギリシアの永年の屈辱的侵略と虐待の歴史が見えてくるのである。ギリシャ正教の‘本山’はコンスタンチノーブル(今のイスタンプール)であった。ではカテトダルは?…。その話は又後にしよう。

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     芸術的香りのするイア(Oia)の街

 バスステーションのあるテオトコボウロウ広場は、各国から来たバックパックの若者で溢れていた。バスはこれらの人々でいつも超満員である。不思議と日本人は見当たらない。むしろ、私が地元の人に珍しがられている感じだ。
BC1500年前の大噴火で島の中心部が吹き飛び、今あるような環状形式が造られた/写真転載不可・なかむらみちお 崖淵にへばり付くように建っているイアの教会/写真転載不可・なかむらみちお  島の北端にある街Oiaから見る夕日が美しいと云うので行ってみた。フィラからはバスで約30分程の処にある。Oiaは崖に白や青の屋根の家が段々に張り付いた古典的な街で、庭を覗いて見るとアンフオラ(素焼きの壷)などが芸術的に配置されていたりして、いかにもギリシャらしい風景である。フィラよりもどこか落ち着きがあり、芸術的香りのするこぢんまりとした捨てがたい味のある街である。
 日没は6時20分頃である。一時間ほど前から夕日を見にやって来た観光客が見晴らしの良い崖の上に集まりだした。エーゲブルーの海が太陽の移動に伴って葡萄色に変わってゆく。やがて真っ赤に焼けた大きな太陽が静かに大海に沈むと、今まで固唾を飲んで見守っていた観光客の中から感動のどよめきと一斉に拍手が 湧いた。明日も又、この太陽が東から昇ってくれる事を念じて、私はチーズとソーセージ、それにビザントを抱えて宿に向かった。
【一口豆辞典】カテドラルとピザンチン式教会
 ギリシャ人の宗教は、住民の96%がギリシャ正教を奉じている。ギリシャ正教会(別称ビザンチンByzantine教会)は、東ローマ帝国の国教としてコンスタンチノーブルを中心として発展したキリスト教会。1054年ローマを中心とするローマ教会と絶縁した。東欧諸国・ロシアなどに行なわれ、わが国のハリスト正教会もこれに属する。
ビザンチン式=ビザンチウムを中心に4世紀頃おこり、6世紀に最世紀に達した建築様式。大ドームを構成し、内部は大理石またはモザイク張りで装飾に華美を極める。
 ビザンチン=東ローマ帝国の首都。コンスタンチヌス大帝がローマから都をうつしたので、コンスタンチノーブルとも称した。今のトルコのイスタンブール。
 カテドラル=キリスト教で司教座のある聖堂で、主任司祭のいる聖堂区聖堂を管轄する。司教座聖堂。大聖堂。本山。(以上「広辞苑」より)。
 ピサンツ帝国=中世、東ヨーロッパの国家。397年、ローマ帝国の東西分裂によって生まれ、ローマを首都とした西ローマ帝国に対し、ピサンチウム(コンスタンチノーブル)を首都として東ローマ帝国ともよばれる。しかし、帝国の基礎は330年、コンスタンチヌス一世がピザンチウムを建設した時につくられていた。教会は、中央の円蓋(ドーム)を中心とした構造で、キリスト教以前から神々の住む宇宙の象徴として宗教的意義を持っていたが、それがキリスト教にも取り入れられた。
                  (小学館・日本百科大事典より)
※著者追記…ここでの教会の形は、これまで私がドイツやフランスなどで見慣れてきた尖塔を高々と天に突き出したゴジック様式建築ではなく、裸の女性を上向きに寝かせた時のオッパイのように、見事なドーム型であり、どちらをみても見事に3っや4っ、目に入るのである。それが火山によって出来た火口壁にへばり付くように立ち並ぶ白い家と共に、最も特徴のあるこの地独特の風景をかたち造っている一要素ともなっているのである。

/写真転載不可・なかむらみちお
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       初めて会った日本人

  7月31日(火) Karterados-Thira-Karterados
 ティラ島4日目の7月31日は、先ず、洗濯から始まった。その後、友人に手紙を書き、その手紙を持って今日も又、フィラに向かう。
 電話センターには相変らず10数人の客が行列を作っていた。私もその後ろに並んで、再度アテネヘの市外電話に挑戦してみたが、今日もつながらなかった。
 崖の近くのカテドラルは、床に敷き詰めたモザイク模様が美しい。そのカテドラルの周りにはブラマンテ風のアーチが連なり回廊を形作っている。その吹き抜けの日陰は海からの心地好い風が通り過ぎて行くので、昼寝をするには最高の場所である。そこで初めて一人の日本人に会った。漸く日本語が通じるのだ!彼は大学生らしかった。これからフェリーでロドス島に行くのだと云う。トルコに隣接したロドス島は、ギリシャ領土ながらも、ギリシャと言うよりも、風俗、文化はトルコ色が色濃く残っているはず。ロドス島は中世末期、聖ヨハネの慈善騎士団がこの島を支配した当時、やがて襲い来るオスマン・トルコの侵略に備えて築いた城砦跡築がある事で有名である。中世期の古城を撮影している私としても一度は行って見たい地の一つであるが、少し離れ過ぎているので今回の予定には入れていない。彼とはお互いに色々な情報交換をして別れた。私はもうまる6日間もこの島にいて何度かクルーズ船が島に着く度に港にも行ってみたが、後にも先にも日本人に会ったのは彼一人だったのは意外であった。
【一口豆辞典】ブラマンテ Bramante Lazzari(1444〜1514)イタリアの建築家。画家として出発したが、35〜6歳で建築家に転向。サン・ピエトロ寺院、バチカン宮殿などの工事に従い、中央ドーム形式の寺院建築様式を確立した(広辞苑より)。方形に大ドームを掛けた基本構想は、ミケランジェロによってほぼ実現された(玉川児童百科大辞典より)。ラファエッロの壁画「アテネの学堂」(ヴァティカン美術館・署名の間)が有名。

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              マイフレンド

マイフレンド・“ディオニソス/写真転載不可・なかむらみちお  連日直射日光に照らされ続け、余りにも暑いので近くの日陰のお土産屋さんに入って一服する事にした。地下式の店内の正面には年の頃60才位、カール・マルクスのような顎髭を貯えた主人が一人座っていた。客は私一人である。並べられたお土産品を眺め回していると、彼は「ヤーパン?」と尋ねてきた。「イエス・ヤーパン」と答えると後は知っているだけの英単語とゼスチュアを駆使(?)して会話がはずむ。彼は歌手の八代亜紀の大ファンだそうで、彼女の日本製のカセットテープを見せてくれた。そして「ベリナイスシンガー」と盛んに褒めちぎり、毎日彼女の歌を聞いているという。私も片手を広げて「シーイズベスト5シンガー」と持ち上げた。彼はすっかり気を良くして「マイフレンド」「マイフレンド」と言いながらビザントをご馳走してくれた。コップ一杯を空けると更に一杯。私はそれに応えて日本製の煙草を一箱プレゼントしたら「サンキュウ」と喜んでくれた。最後にはウーゾ(OYZO=日本の焼酎のような酒で、かなり強い。ワインを絞った葡萄の皮を蒸溜して造る。一名火の酒とも言われている)を勧められたが、さすが未だ陽の高い内はちょっと遠慮させて戴いた。私は、彼にギリシャ神話に出てくる酒の神の名を借りて「ディオニソス(バッカス)」と名付けた。
ホテルのテラスで一服/写真転載不可・なかむらみちお

  8月 1日(水) Karterados-Thira-Karterados
 次の日もその店を訪れると又同じ事の繰り返しが始まった。おまけに「気に入った絵葉書があったら選らべ」と言う。何枚かを差し出すと「お金は要らない。マイフレンド、マイプレゼント」と言って差し出したお金を受け取ってはくれなかった。結局この店では何も買わず、お洒をご馳走になり思い掛けない‘国際親善’を深め、お土産まで貰って帰ってきたのである。勿論、帰国後、八代亜紀のブロマイドと彼女のカセットテープを手にしてニツコリと微笑む彼の写真と礼状を送ったのは言うまでもない。
 こうしてこの日は気分良く街を後にした。バスを降りてフト夜空を仰ぐと、ダイヤモンドを散りばめたような満天の星空であった。こんな美しい星空は札幌では学生時代以来見た事がない。湿度が低いから、空気が澄んでいるのである。どこからかジャン・クロード・ボレリーの「夜空のトランペット」の澄み渡った音色が聞こえ、若かりし頃の思い出が蘇ってきた。この機会に南十字星を見ておこうと思って探してみたが見当たらず、代わりに見覚えのある北斗七星が見えるではないか。しかも、全く日本と同じところに…。考えてみれば、緯度的には日本に於ける関東平野と同じ位で、茨城県か、埼玉県と同じなのである。分かってはいたのだが連日の暑さに惚けたのか、又は、「マイフレンド」に歓待された「ビザント」の酔いが回ったのかも知れない。

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            ヴィーナスは何処

 外国を旅して心を慰めるのは珍しい風物もさる事ながら、出会った少女との優しい思い出や、道ですれ違う時に交わす微笑である。しかし、エー ゲ海にはこれがない。出会ってニツコリ笑うのは男や子供やお婆ちゃんだけ。若い者は多くがヨーロッパなどに出稼ぎに行き、夏のバカンスに入ると帰って来て手伝うのである。だからギリシャで印象に残るのは、空と海と廃墟だけ、という事になる。それはそれで素晴らしい事だが、情ある男性にとっては少しばかり寂しい国でもある。心密かに「マドンナ」との出会いを期待したり、「生きたヴィーナス」を見るつもりでエーゲ海に来た人は失望するだろう。女性の美に関しては、バルカン半島は世界でも最も不毛、不作地帯である。そこに居るのは臼のような逞しい腰付きをした娘である。しかし、それ以上に、多くの人がギリシャの遺跡に親しみを感じるのは、遺跡にまつわるギリシャ神話のためではないだろうか。実際、ギリシャ神話に登場する神々は実に人間臭く、嫉妬探さや間抜けなところなど、およそ人間の弱点を皆備えている。
 次の日もフィラの一番展望の良い場所に行って、太陽の動きに従って微妙に変化するエーゲ海の「光と影」を追った。
 真昼の太陽はトップライトになって写真としては面白くない。ひと休みを兼ねて今日も又、例の「お土産屋さん」へ行った.「ディオニソス」は快く迎え入れてくれた。例の如くビザントを何杯かご馳走になってから今日は早めに帰途に着き、宿で洗濯をした。その後、買い置きのビザントを傾けてから、現地の風習に従って宿でシエスタと洒落こんだ。
 日が覚めて窓外に目を転ずれば、大海の小島の立柱遺跡をシルエットに、真っ赤に焼けた大きな太陽が茜色に染め、今、まさにエーゲ海に沈まんとしている。「日はまた昇る」。今夜もせめて名前だけの「クレオパトラ」と一緒にウーゾを飲む事にしよう。
【一口豆辞典】シエスタ…一年のうち半年近くが日本の夏に相当する地中海諸国では“シエスタ”という昼寝の習慣がある。ギリシャでは四季を通じて午後2時過ぎから5時位まで一斉に昼食及び昼寝に入る。特に6〜9月の猛暑の季節になると、この時間に街を歩いているのは外国観光客だけ。この時間帯に住宅街で騒音を出すとパトカーが飛んで来る。シエスタの習慣があるためか、ギリシャ人は一般に遅寝、早起き。サラリーマンは午前7時半までに出勤する。その代わり、官庁、銀行などは午後1時半で仕事を終える。商店や他の事務所では、午後5時過ぎから7時半までまた働く。夜は外食ということになれば午前1時、2時時までかかるのはざら。1日が二つのサイクルに分かれている。シエスタの副産物は「昼下がりの情事」と肥満化。昼過ぎの勤め帰りのギリシャ人同志は、「よい食欲を」と言って分かれる。(実業之日本社発行「ギリシャ」より)

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      さらばサントリーニ島

  8月 2日(木) Karterados-Athinios Port-ミコノス島-Marathi
 8月2日木曜日。今日はいよいよティラともお別れである。ミコノス島行きのフェリーボートは島の南側に近い新港のアティニオスから15時30分に出る。宿を午前中にチェックアウトする。
 暑い陽射しを一本の樹木で避け、もう一時間以上もバスを待つがまだ来ない。バス停と言っても単なる三叉路に過ぎず、バス停のポールが立っているわけでもなく、時刻表もない。バスの正面には行き先表示が出ているのだが、ギリシャ文字で書かれているので読めない。そしてフィラから出発したバスはこの三叉路から別れて島の隅々に行く。私は、ひたすら次々に通りかかるバスに声を掛けて確認する作業が延々と続く。宿を出る前に宿の主人に尋ねておけばいいようなものだが、客引きに忙しいのかあまり宿にはいないので会えないし、言葉が通じないのでつい億劫になってしまう。それにギリシャ人はのんびりしているので、それに併せているといつの間にかこちらも「待っていればいつか来るだろう」のような感覚になってしまっているのである。
 ギリシャ語は難しい。外国に行ったら、先ず何を置いても「今日は」「ありがとうございます」「さよなら」「トイレは何処ですか」「これはいくらですか」くらいは最低でも覚えて使わなければならない。しかし、ここの観光地では英、独、仏の順に外国語が通用する。そのため私は、英単語と独語とゼスチュアと機転、それと一番大切なハートで済ましてしまった。中学校から大学まで英語を教わっているのに英会話の一つも出来ないとはなんともお恥ずかしい話で面目ない次第である。
 やがてお客をはち切れそうに詰め込んだおんぼろバスがヨタヨタと来た。断崖の下にあるニューポートめざしてバスは海に飛び込んで行きそうな感じでカーブを切る。スリル満点である。
 アティニオス港は意外とこじんまりしており、船会社の建物とトラベルエージェンシーそれに2〜3軒の売店、食堂がある位である。何か写真になる風景でもあるかと思って宿を早めに出て来たが当てが外れてしまった。  ミコノスまでの船賃は1588円であった。船の出港時間が近付く度に何処からともなくバックパッカーが集まりだす。勿論どこからか船が到着する度にドッと客が降りて来る。それほど広い処ではないので、時間によっては結構賑わう。と、その中にくだんの民宿の娘と主人が宿泊客を求めてうろうろしているではないか。それなら来るついでの車に乗せて来てくれればいいものを。ケチなのか気が利かないのか…。
 私が乗ったフェリーボートは結構大きくて楽々と乗れた。港を出た船はティラ島と火口湾の真中にあるネア・カメニ島の間を通り、フイラの街に名残を惜しむかのように岸沿いに進み、5日間通った街並を海上からはっきりと見せてくれた。なんとも心憎い演出である。サントリーニ島の友よ!例え生活が貧しくとも、この美しき自然に恵まれた地に生まれたことに感謝をしよう。あなた方は世界一の幸せ者です。
 フィラでは遂に「マドンナ」に出会うこともないままに、船は今この島から永遠に遠去かろうとしている。次のミコノス島に期待しょう。船はなおも岸沿に進み、Oiaの街並みを最後にティラ島から遠ざかり、大自然が成したティラ島との壮大なドラマのフィナーレを迎えた。フェリーは一路ミコノス島へと舳先を向けて北進させた。そして、大切に小脇に抱えて船に持ち込んだビザントの最後の一滴がグラスの底にポトリッ!と落ちた時、私は楽しかったサントリーニ島とのしばしの別れをしみじみと感じたのである。明日からは又どんな新たなドラマが展開されるのであろうか楽しみである。
 ※実は、かなり後で分かった事なのだが、この日突然イラク軍がクエートを侵攻した。恥ずかしながら私はそれまでなにも知らず「極楽トンボ」の旅をしていたことになる。何も知らずに過ごすということは、ある意味においては喜びも悲しみも苦しみもなんの心配もなく生きているということである。当然「平和ボケ」にもなる。ローマ帝国の滅亡も“平和ボケ”が原因であった。現代に生きるわれ等は、その愚を反面教師として英知を持って“平和”を守り抜こう。
 まだ先のことかもしれないが、何も知らずに苦しまないで死ねたら幸せかもしれない…と。今からそんなことをフト思うようでは、私ももう歳なのだろうか…。
【資料】
前30〜330年ローマ時代。
378〜1458年ビザンティン時代。
1463〜1821年トルコ占領時代。
1463〜79年トルコ対ヴェネツイア戦争。
1537〜40年ミコノスなどがトルコ属領となる。
1687年ベネチアによるアテネ占領。
1768年トルコ対ロシア戦争。ロシア艦隊、キクラデス諸島制圧。
1821〜1829年独立戦争。
1833年独立の王国となった。


旅行記 index
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