紀行・エーゲ海ぶらり旅
ーエーゲ海印象記−
スケジュール
1990年
7月26日(木) 千歳 15:50(ANA64)- 17:20 羽田
27日(金) 成田 12:55(SQ97)- 18:30 シンガポール 22:00(SQ24)-
28日(土) 03:55 アテネ 06:00(OA55)- 06:40 ティラ Monolithos(Karterados)
29日(日) Karterados-Thira-Karterados
30日(月) Karterados-Thira-karterados-Thira-Oia-Thira-Karterados-Thira
31日(火) Karterados-Thira-Karterados
8月 1日(水) Karterados-Thira-Karterados
2日(木) Karterados-Athinios Port-ミコノス島-Marathi
3日(金) Marathi-ミコノス港-Marathi
4日(土) Marathi-ミコノス港-Marathi
5日(日) Marathi-ミコノス港-Marathi-ミコノス港
6日(月) ミコノス 12:07(フェリー)- ピレウス(地下鉄)- モナスティラキ-シンタグマ広場-オモニア広場-無名戦士の碑-国立考古博物館-リカヴィトスの丘-ホテル
7日(火) ホテル-ピレウス港-サロニックス諸島(ポロス島、イドラ島、エギナ島−ピレウス港-ホテル
8日(水) ホテル-アクロポリス(タクシー)-バスターミナル(バス)-スニオン岬(バス)-アテネ-ホテル
9日(木) ホテル-無名戦士の碑-ピレウス港-ホテル-ナイトツアー-ホテル
10日(金) ホテル-ゼウス神殿-アドリアヌス門-フニクスの丘-ホテル-オモニア広場-ホテル
11日(土) ホテル-オモニア広場-ホテル-アテネ空港 22:20(SQ23)-
12日(日) 14:05 シンガポール市内見物-空港
13日(月) シンガポール 01:15(SQ98)- 08:45 成田 13:45 - 千歳(バス)-札幌
☆サントリーニ島
白とエーゲブルー
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アトランティス文明の伝説の島サントリーニ島
サントリーニ島は正式にはティラ島と云う。キクラデス諸島の中でも最も南に位置する重要な島である。
石器時代から人が住み付き、前2600年には史上最初の海洋文明、キクラデス文明時代を築き、その後のヨーロッパ文明の源流となった。しかしその後、アーリア系民族やドーリア系民族の侵略に打撃を受け、キクラデス文明は壊滅した。そして、サントリーニ島は火山であるがために地形の変化が激しく、何回も爆発を繰り返した後、紀元前1500年の大規模な噴火で島の中心部が沈み、今あるようなほぼ環状形式が造られた。地上には古代の建築物はほとんど残っていない。そしてキクラデス文明という素晴らしい時代も一瞬にして海底深く歴史の舞台から姿を消し、エーゲ文明は終わりを告げた。その文明がプラトン(前427〜347古代ギリシアの哲学者)の著作の中で語られている伝説の島アトランティスではなかったのだろうか。
【一口豆辞典】エーゲ文明の運命=前3000年頃から1100年頃にかけギリシャ東部のエーゲ海を中心に栄えた青銅器時代の古代文明。前2600年頃早くも史上最初の海洋文明を形成した。これらの文明を築いた民族は、非アーリア系の小アジア人であったとみられている。前2000年前後にアーリア系民族移動の一波によってトロイア、キクラデスの文明は打撃を受けた。その後、第二次の移民者であるドーリア人の侵入によってエーゲ海文明は終りを告げた。
アーリア人=前2000年ごろ、遊牧民族のアーリア人が中央アジア方面からインドの北西部に侵入し、先住民族を征服・駆逐すると、インダス川の上流パンジャプ地方に定住して農耕生活を始め、インド文化の基礎を開いた。すなわちアーリア人はインドの大自然に包まれ、すべての自然げんしに神性を認め、古代詩人は自然神賛美の叙情歌をとなえた。「リグ・ベーダー」10巻は自然神崇拝の叙情詩歌を中心とする賛歌集で、インド最古の文献であり、バラモン教の根本聖典である。(小学館「日本百科大事典」より)かれらの中で西南に向かったものはイランにはいってイラン人となった。(「玉川児童百科大辞典」より)
紀元前15世紀頃、旧約時代最大の宗教的・政治的偉大な指導者モーゼがいた。彼はエジプトの圧政に苦しみ、虐待されているイスラエル人奴隷の悲惨な状況を見るに忍びづ、紅海の水を真二つに割って海底を徒歩で渡り、これらイスラエル人達をエジプトからアラビヤの砂漢に導いた事が旧約聖書の「出エジプト記」に記されている。
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ティラの民宿
ティラの空港には、サマータイムでまだ午前7時前というのにフェンスに寄り掛かった出迎えの人に混じって民宿の客引きが声を掛ける。その中には、ジプシーを思わせるようなひときわ色黒の娘もいた。私は、この娘の宿だけは避けようと思って、他の客引きと交渉を始めた。人の良さそうなおじさんは1泊5,000円という。念のためかの娘に聞くと、これもやはり5,000円という。するとこの一泊5,000円というのはこの辺の相場なのだろうか。最近のギリシャはインフレが激しいと聞いていたし、このシーズンが稼ぎ時のデカンショ稼業であるから、こんなところが相場なのかも知れない。どんな宿か分からないが、予算よりもかなり高い。これじゃホテル並みである。同じ飛行機から降りた客はほとんどいなくなったが、かの客引きはまだいた。もう一度先程のおじさんに「5泊するから負けろ」と迫ると、今度はようやく2,500円で良いということになり、ひとまず手を打つことにした。余り値切り過ぎると、相手にされなくなるので、適当なところで手を打たなければならない。そのへんの駆け引きとタイミングがコツである。お迎えの車はランドルクルーザー型であった。乗客は私一人きり。どうやら今日は不漁であったようだ。間もなくかの娘も乗りこんで来た。なんと親子だったのだ。
連れて行かれたのは、フィラのすぐ隣町、カルテラドスという処であった。案内された部屋にはベッドが2つとテーブルに椅子があるのみで、内廊下側に窓が一つあるだけなので陽射しは入らない。トイレとシャワーは建物を出たところに小屋のような形である。錠前は南京錠で40年前の寮生活を思い起こさせた。もう一つ驚いた事に、今夜はこの島全体が停電で電気が来ないという事であった。覚悟はして来たのだが、さすがはギリシャ、日本とは訳が違うわい、と、妙なところで感心した。かのおじさんが空瓶とローソク、マッチを持って来て「これで今夜は我慢してくれ」と言う。停電の理由はよく分からない。早くも前途多難を思わせる。「明日はどうなるのか」と尋ねると「明日は明日の風が吹く」と言ったような気がする。最近ではこんな事はめったに体験出来る事ではないし、戦時下の時を思い出すのも悪くはない。まあ久し振りにローソクの灯火の下で地酒を飲むのもムードがあってオツなものであろうと諦めるしかなかった。“ケイ・セラ・セラ”。ギリシャ神話に出てくる全知全能の神「ジュピター」ならいざ知らず、後のことは“神のみぞ知る”である。きっと後になったら懐かしい思い出のひとこまになるであろう。ところがどっこい、電気が来た。半ば嬉しく、後の半分は期待を裏切られた感じである。せっかくの貴重な体験の機会は失われてしまったのである。
朝食の後、早速カメラを肩に近くをぶらついてみた。今日はロケハンである。その近くでは三っほどの教会が目についた。その中の一つに何人かの男女が集まってお祈りをしていた。失礼して中を覗き込んで見たら牧師さんがお祈りを唱え、敬虔な信者連が十字を切り、イコン(聖母マリア像)に接吻をしていた(ギリシャ正教はイコン崇拝である)。数年前、西ドイツのフュッセン(有名なノイシバンシュタイン城のあるところ)の教会内でも赤ん坊の洗礼を写したことがある。私はその中でもリーダーらしい男にカメラを示し、親指と人指し指で輪を描き“OK?”と尋ねてみた。その男は表情を崩さずに微かに頒なずいた。牧師のお祈りが終わると、母親に抱えられた小さな子供が一人ずつ牧師から何やら口の中に注ぎ込んでもらっていた。私は、その様子を高感度フィルムのカメラに納めた。
こういう場合、雰囲気を壊してはいけないのでフラッシュライトは使わない。レンズは開放にして、1/2秒であった。手持ち撮影の限界を越える厳しい撮影である。その後イコンを先頭に、参列者一同が付近を一巡して終わりであった。 式が終わると一同はリラックスして本来のギリシア人に戻った。そして参列者に配るパン切れとワインを私にも勧めてくれた。全く偶然にも思い掛けない写真を撮れた事を、無宗教の私でも神に感謝の念を捧げざるを得なかった。
教会を出てからの私は、フィラの街を後ろに眺めながら、道なりに島の東にあるモノリトス海岸へと徒歩で向かった。これから数日間ここに滞在する予定なので、まず身近なところから知っておこうというのと、今日は着いたばかりなので、安息日という狙いもあった。
この島ではオリーブの木は一本も見当たらず、そこは遮る物の無き一面の瓦礫の原であった。
紀元前1600年頃の大爆発と、その後も20世紀に至るまで繰り返された噴火によって、一面降り積もった火山灰に覆われている。♪月の砂漠を遥々と…そんな歌が脳裏をかすめた。しかし、よく見ると雑草かと思った物は葡萄の木であり、そこは葡萄畑であった。この島は風が強いため渦巻き状に地を這わせて栽培するこの島独特のぶどう畑が広がっている。日本やドイツ、フランスなどの葡萄栽培方法とはイメージが異なる。火山灰と瓦礫の土地は葡萄の栽培に適し、熟しかけた葡萄の実がたわわに付いていた。
私は、此の時だけは俄か信者となり神に向かって十字を切り、一口お恵みを与えて戴いた。雲一つない灼熱に照らされ、すっかり日干しになりかかっていた私の喉に、まさしく神からの豊かな潤いを与えて貰ったのである。アーメン!
ああ!エーゲ海やエーゲ海
ここは異国の松島か!
7月30日(月) Karterados-Thira-karterados-Thira-Oia-Thira-Karterados-Thira
7月30日。今日は月曜日である。土曜日と日曜日はどこの官庁も休みで、観光客相手の食堂とお土産やさんぐらいしか開いていない。もちろん郵便局も休みで、ポストには口まで郵便物が詰まっている。
私は、市外電話を掛けられるところを探した。アテネの旅行代理店へ電話して「サロニコス湾一日クルーズ」の予約をしたかったのだ。ようやく探し当てた「電話センター」にはすでに先客で長蛇の列であった。5〜6台の電話ボックスの前には7〜80人位の人が列を作って順番を待っていた。長い待ち時間の果てに漸く順番がまわってきた。しかし何度0発信してもお話し中で本土とは繋がらない2〜30回試みた末にようやく繋がった。何分間話したかは計ってはいなかったが、ものの2〜3分位で、1200円だった。ギリシアの電話事情は聞きしに優る後進国である。電話ばかりなく、この日ポストインした葉書が、私の帰宅後に自宅に配達されたのに至ってはもう何をか言わんやである。
土曜日の午後に来た時は閉まっていたので、今日はどうかなと思ったカテトダルが開いていた。丁度折り良く子供づれの夫婦が訪れ、子供にローソクをつけさせて燭台に乗せるところを8ミリビデオで撮る事が出来た。
カテトダルの前で写真を撮っている時、生理的要求がしてきた。辺りを見廻しても適当なところが見当たらない。困った。誠に申し訳ない事だが、カテトダルの中ならあるいはトイレがあるかもしれない。そこを借りる事にしよう。新約聖書のマタイ伝の第7章7節には「求めよ、さらば開かれん。訪ねよ、さらば見いださん。門をたたけ、さらば開かれん」とある。
早速カテトダルに行き、彼のお婆さんに相談してみた。しかしどうも話が通じない。相手は何か勘違いしているようだ。「どうぞローソクに火をつけて御参りして下さい」という仕草をする。もう一刻も猶予はならない。
‘おぉ!マイゴット’。イエス様が“ノー”ならアラーの神があるサ。困った時の神頼み。日本人はこんな時にならないと神様仏様を思い出さない。その辺の文化が欧米人と大きく異なるところである。
そこを飛び出し、手近にあったこの島で一番立派なホテル「アトランティス」に駆け込んだ。玄関を入るとテーブルがあり、若い受付嬢がいた。一寸恥ずかしかったが、もうそんな事を考えている余裕はない。状況はかなり緊迫しているのだ。「アイウォンツゥトイレット」というとニツコリと微笑んで右手でトイレの方を指し示し「プリーズ」と言った。
一流ホテルの水洗トイレは壁も床も大理石で出来ており豪華で奇麗で気持ちが良かった。それよりも、彼の受付嬢はそれ以上に美しかった。私は日本から持ってきた5円玉とアイヌの「ムックリ」をあげ、使い方を教えると「サンキュウ」と言って、ニツコリと微笑んでくれた。「スイーアゲィン」。これで又落ち着いて写真が撮れる。同じくマタイ伝7章の8節には、「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえる」とあるが、私の要求は全く神には聞き入れてもらえなかった。きっと神に対して信仰心も無く、半ズボンで肌を出したまま教会の中に入り、無作法に写真を撮りまくった無礼を神が許さなかったのに違いない。
フィラの街を見るとやたらにドーム型の教会が目にはいる。ギリシャ正教の教会建築様式は、西欧のゴシック様式とは対照的である。どちらも、少しでも神の身近に(天に)近付きたいという欲望と願望の現われである。同じコンセプトながら、その民族の文化の違いとか、いろいろのファクターに影響されながら、悠久の歴史の流れの中で形が大きく変わってきてしまっている。これは、映画の一駒一駒がその前後の駒とは見た目には全く変わっていないにもかかわらず、人間の持つ残像感覚を利用して1秒間に24駒で映写すると、動きは刻々と変わって行く。これと同じように昨日と今日、今日と明日は何も変わっていないように思えるのだが実は変わっているのである。私たちの日常生活や身の回りの歴史を積み重ねたものを一駒にして1秒間に24駒で走らせたら、それは確実に変わって見えるのである。
「人生、それは二つの『永遠』の間のわずかな一閃である」とイギリスの文学者カーライルは言った。「われわれの人生というのは生まれた瞬間からすでに死への前奏曲となっている」というフランスの詩人ラマルティーヌの言葉に基づいてあの有名なリストの交響詩「前奏曲」が生まれた。普通、「前奏曲」というのは、舞台で幕が上がる前に演奏される音楽のことだが、この場合は音楽作品としては珍しく、人生というものをテーマにした作品なのである。
今は今、今日は昨日ではないのである。宇宙規模で考えれば、一瞬のまばたきにしか過ぎない私達の人生ではあるが、それなりにもっと一日一日を大切に生きて行きたいものである。
【一口豆辞典】ゴシック式=ロマネスクに続く美術様式。12世紀中頃北フランスに起こり、各国に伝わってルネサンスまで続く。建築が主要な様式で、天井は肋骨で補強し、壁は先の尖ったアーチと組み合わせた柱で支える。建物は高く、窓も大きくとる。寺院建築に多く、パリのノートル・ダム大聖堂は著名。ルネサンスに近づくに従って、彫刻・絵画は写実的になり、やがて建築から独立する傾向を持つ。「広辞苑」より
交響詩=哲学的あるいは文学的な内容をオーケストラで表現したものを「交響詩」といっている。リストの名はこの交響詩という新形式を創始した人として音楽史の1頁を飾っている。(共同通信社発行・志鳥栄八郎著「私のレコードライブラリー」より)
この街の海岸線の何処かに青いドーム型の奇麗な教会があるはずである。
何軒かのお土産屋さんで聞いても言うことがまちまちでなかなか要領を得ない。私は、昨日知り合いになったばかりの旅行代理店に行ってみた。そこにはやり手のインテリ臭い青年を少し過ぎた感じの人がいた。彼は、少し考えた後、それはこの街の北のはずれにあると言った。崖沿いの道を真っ直ぐ行けば良いとのことだった。それはかなり信頼出来る情報であった。
道なりに歩くこと約30分。目指すその青いドームの教会が街から少し離れた処に本当にあった。しかしその道は教会の正面、つまり海側にあり、海をバックに教会を写す為には一段崖を登らなくてはならない。その道がどうしても見付からないのでかなり手間取ってしまった。命がけで崖をよじ登り、ようやくの思いでポジションを見付けた。なんとその近くにはOia行きのバス停があった。バス通りから来たほうが簡単だったのである。この事ひとつを例にとっても、一枚の写真を物にするにはいかに多大の労力を払わなければならないかを知って頂けるだろう。
目の前の教会はエーゲブルーの海に映えて絵のように美しかった。その教会の型はお隣のトルコの首都、イスタンブールの写真などで見るピザンチン様式で、珍しく青くドーム型であった。何故トルコ型の教会がギリシャにあるのだろう。それは後で歴史を調べることによって納得した。そこにはギリシアの永年の屈辱的侵略と虐待の歴史が見えてくるのである。ギリシャ正教の‘本山’はコンスタンチノーブル(今のイスタンプール)であった。ではカテトダルは?…。その話は又後にしよう。
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芸術的香りのするイア(Oia)の街
バスステーションのあるテオトコボウロウ広場は、各国から来たバックパックの若者で溢れていた。バスはこれらの人々でいつも超満員である。不思議と日本人は見当たらない。むしろ、私が地元の人に珍しがられている感じだ。
島の北端にある街Oiaから見る夕日が美しいと云うので行ってみた。フィラからはバスで約30分程の処にある。Oiaは崖に白や青の屋根の家が段々に張り付いた古典的な街で、庭を覗いて見るとアンフオラ(素焼きの壷)などが芸術的に配置されていたりして、いかにもギリシャらしい風景である。フィラよりもどこか落ち着きがあり、芸術的香りのするこぢんまりとした捨てがたい味のある街である。
日没は6時20分頃である。一時間ほど前から夕日を見にやって来た観光客が見晴らしの良い崖の上に集まりだした。エーゲブルーの海が太陽の移動に伴って葡萄色に変わってゆく。やがて真っ赤に焼けた大きな太陽が静かに大海に沈むと、今まで固唾を飲んで見守っていた観光客の中から感動のどよめきと一斉に拍手が 湧いた。明日も又、この太陽が東から昇ってくれる事を念じて、私はチーズとソーセージ、それにビザントを抱えて宿に向かった。
【一口豆辞典】カテドラルとピザンチン式教会
ギリシャ人の宗教は、住民の96%がギリシャ正教を奉じている。ギリシャ正教会(別称ビザンチンByzantine教会)は、東ローマ帝国の国教としてコンスタンチノーブルを中心として発展したキリスト教会。1054年ローマを中心とするローマ教会と絶縁した。東欧諸国・ロシアなどに行なわれ、わが国のハリスト正教会もこれに属する。
ビザンチン式=ビザンチウムを中心に4世紀頃おこり、6世紀に最世紀に達した建築様式。大ドームを構成し、内部は大理石またはモザイク張りで装飾に華美を極める。
ビザンチン=東ローマ帝国の首都。コンスタンチヌス大帝がローマから都をうつしたので、コンスタンチノーブルとも称した。今のトルコのイスタンブール。
カテドラル=キリスト教で司教座のある聖堂で、主任司祭のいる聖堂区聖堂を管轄する。司教座聖堂。大聖堂。本山。(以上「広辞苑」より)。
ピサンツ帝国=中世、東ヨーロッパの国家。397年、ローマ帝国の東西分裂によって生まれ、ローマを首都とした西ローマ帝国に対し、ピサンチウム(コンスタンチノーブル)を首都として東ローマ帝国ともよばれる。しかし、帝国の基礎は330年、コンスタンチヌス一世がピザンチウムを建設した時につくられていた。教会は、中央の円蓋(ドーム)を中心とした構造で、キリスト教以前から神々の住む宇宙の象徴として宗教的意義を持っていたが、それがキリスト教にも取り入れられた。
(小学館・日本百科大事典より)
※著者追記…ここでの教会の形は、これまで私がドイツやフランスなどで見慣れてきた尖塔を高々と天に突き出したゴジック様式建築ではなく、裸の女性を上向きに寝かせた時のオッパイのように、見事なドーム型であり、どちらをみても見事に3っや4っ、目に入るのである。それが火山によって出来た火口壁にへばり付くように立ち並ぶ白い家と共に、最も特徴のあるこの地独特の風景をかたち造っている一要素ともなっているのである。
7月31日(火) Karterados-Thira-Karterados
ティラ島4日目の7月31日は、先ず、洗濯から始まった。その後、友人に手紙を書き、その手紙を持って今日も又、フィラに向かう。
電話センターには相変らず10数人の客が行列を作っていた。私もその後ろに並んで、再度アテネヘの市外電話に挑戦してみたが、今日もつながらなかった。
崖の近くのカテドラルは、床に敷き詰めたモザイク模様が美しい。そのカテドラルの周りにはブラマンテ風のアーチが連なり回廊を形作っている。その吹き抜けの日陰は海からの心地好い風が通り過ぎて行くので、昼寝をするには最高の場所である。そこで初めて一人の日本人に会った。漸く日本語が通じるのだ!彼は大学生らしかった。これからフェリーでロドス島に行くのだと云う。トルコに隣接したロドス島は、ギリシャ領土ながらも、ギリシャと言うよりも、風俗、文化はトルコ色が色濃く残っているはず。ロドス島は中世末期、聖ヨハネの慈善騎士団がこの島を支配した当時、やがて襲い来るオスマン・トルコの侵略に備えて築いた城砦跡築がある事で有名である。中世期の古城を撮影している私としても一度は行って見たい地の一つであるが、少し離れ過ぎているので今回の予定には入れていない。彼とはお互いに色々な情報交換をして別れた。私はもうまる6日間もこの島にいて何度かクルーズ船が島に着く度に港にも行ってみたが、後にも先にも日本人に会ったのは彼一人だったのは意外であった。
【一口豆辞典】ブラマンテ Bramante Lazzari(1444〜1514)イタリアの建築家。画家として出発したが、35〜6歳で建築家に転向。サン・ピエトロ寺院、バチカン宮殿などの工事に従い、中央ドーム形式の寺院建築様式を確立した(広辞苑より)。方形に大ドームを掛けた基本構想は、ミケランジェロによってほぼ実現された(玉川児童百科大辞典より)。ラファエッロの壁画「アテネの学堂」(ヴァティカン美術館・署名の間)が有名。
連日直射日光に照らされ続け、余りにも暑いので近くの日陰のお土産屋さんに入って一服する事にした。地下式の店内の正面には年の頃60才位、カール・マルクスのような顎髭を貯えた主人が一人座っていた。客は私一人である。並べられたお土産品を眺め回していると、彼は「ヤーパン?」と尋ねてきた。「イエス・ヤーパン」と答えると後は知っているだけの英単語とゼスチュアを駆使(?)して会話がはずむ。彼は歌手の八代亜紀の大ファンだそうで、彼女の日本製のカセットテープを見せてくれた。そして「ベリナイスシンガー」と盛んに褒めちぎり、毎日彼女の歌を聞いているという。私も片手を広げて「シーイズベスト5シンガー」と持ち上げた。彼はすっかり気を良くして「マイフレンド」「マイフレンド」と言いながらビザントをご馳走してくれた。コップ一杯を空けると更に一杯。私はそれに応えて日本製の煙草を一箱プレゼントしたら「サンキュウ」と喜んでくれた。最後にはウーゾ(OYZO=日本の焼酎のような酒で、かなり強い。ワインを絞った葡萄の皮を蒸溜して造る。一名火の酒とも言われている)を勧められたが、さすが未だ陽の高い内はちょっと遠慮させて戴いた。私は、彼にギリシャ神話に出てくる酒の神の名を借りて「ディオニソス(バッカス)」と名付けた。
8月 1日(水) Karterados-Thira-Karterados
次の日もその店を訪れると又同じ事の繰り返しが始まった。おまけに「気に入った絵葉書があったら選らべ」と言う。何枚かを差し出すと「お金は要らない。マイフレンド、マイプレゼント」と言って差し出したお金を受け取ってはくれなかった。結局この店では何も買わず、お洒をご馳走になり思い掛けない‘国際親善’を深め、お土産まで貰って帰ってきたのである。勿論、帰国後、八代亜紀のブロマイドと彼女のカセットテープを手にしてニツコリと微笑む彼の写真と礼状を送ったのは言うまでもない。
こうしてこの日は気分良く街を後にした。バスを降りてフト夜空を仰ぐと、ダイヤモンドを散りばめたような満天の星空であった。こんな美しい星空は札幌では学生時代以来見た事がない。湿度が低いから、空気が澄んでいるのである。どこからかジャン・クロード・ボレリーの「夜空のトランペット」の澄み渡った音色が聞こえ、若かりし頃の思い出が蘇ってきた。この機会に南十字星を見ておこうと思って探してみたが見当たらず、代わりに見覚えのある北斗七星が見えるではないか。しかも、全く日本と同じところに…。考えてみれば、緯度的には日本に於ける関東平野と同じ位で、茨城県か、埼玉県と同じなのである。分かってはいたのだが連日の暑さに惚けたのか、又は、「マイフレンド」に歓待された「ビザント」の酔いが回ったのかも知れない。
外国を旅して心を慰めるのは珍しい風物もさる事ながら、出会った少女との優しい思い出や、道ですれ違う時に交わす微笑である。しかし、エー ゲ海にはこれがない。出会ってニツコリ笑うのは男や子供やお婆ちゃんだけ。若い者は多くがヨーロッパなどに出稼ぎに行き、夏のバカンスに入ると帰って来て手伝うのである。だからギリシャで印象に残るのは、空と海と廃墟だけ、という事になる。それはそれで素晴らしい事だが、情ある男性にとっては少しばかり寂しい国でもある。心密かに「マドンナ」との出会いを期待したり、「生きたヴィーナス」を見るつもりでエーゲ海に来た人は失望するだろう。女性の美に関しては、バルカン半島は世界でも最も不毛、不作地帯である。そこに居るのは臼のような逞しい腰付きをした娘である。しかし、それ以上に、多くの人がギリシャの遺跡に親しみを感じるのは、遺跡にまつわるギリシャ神話のためではないだろうか。実際、ギリシャ神話に登場する神々は実に人間臭く、嫉妬探さや間抜けなところなど、およそ人間の弱点を皆備えている。
次の日もフィラの一番展望の良い場所に行って、太陽の動きに従って微妙に変化するエーゲ海の「光と影」を追った。
真昼の太陽はトップライトになって写真としては面白くない。ひと休みを兼ねて今日も又、例の「お土産屋さん」へ行った.「ディオニソス」は快く迎え入れてくれた。例の如くビザントを何杯かご馳走になってから今日は早めに帰途に着き、宿で洗濯をした。その後、買い置きのビザントを傾けてから、現地の風習に従って宿でシエスタと洒落こんだ。
日が覚めて窓外に目を転ずれば、大海の小島の立柱遺跡をシルエットに、真っ赤に焼けた大きな太陽が茜色に染め、今、まさにエーゲ海に沈まんとしている。「日はまた昇る」。今夜もせめて名前だけの「クレオパトラ」と一緒にウーゾを飲む事にしよう。
【一口豆辞典】シエスタ…一年のうち半年近くが日本の夏に相当する地中海諸国では“シエスタ”という昼寝の習慣がある。ギリシャでは四季を通じて午後2時過ぎから5時位まで一斉に昼食及び昼寝に入る。特に6〜9月の猛暑の季節になると、この時間に街を歩いているのは外国観光客だけ。この時間帯に住宅街で騒音を出すとパトカーが飛んで来る。シエスタの習慣があるためか、ギリシャ人は一般に遅寝、早起き。サラリーマンは午前7時半までに出勤する。その代わり、官庁、銀行などは午後1時半で仕事を終える。商店や他の事務所では、午後5時過ぎから7時半までまた働く。夜は外食ということになれば午前1時、2時時までかかるのはざら。1日が二つのサイクルに分かれている。シエスタの副産物は「昼下がりの情事」と肥満化。昼過ぎの勤め帰りのギリシャ人同志は、「よい食欲を」と言って分かれる。(実業之日本社発行「ギリシャ」より)
8月 2日(木) Karterados-Athinios Port-ミコノス島-Marathi
8月2日木曜日。今日はいよいよティラともお別れである。ミコノス島行きのフェリーボートは島の南側に近い新港のアティニオスから15時30分に出る。宿を午前中にチェックアウトする。
暑い陽射しを一本の樹木で避け、もう一時間以上もバスを待つがまだ来ない。バス停と言っても単なる三叉路に過ぎず、バス停のポールが立っているわけでもなく、時刻表もない。バスの正面には行き先表示が出ているのだが、ギリシャ文字で書かれているので読めない。そしてフィラから出発したバスはこの三叉路から別れて島の隅々に行く。私は、ひたすら次々に通りかかるバスに声を掛けて確認する作業が延々と続く。宿を出る前に宿の主人に尋ねておけばいいようなものだが、客引きに忙しいのかあまり宿にはいないので会えないし、言葉が通じないのでつい億劫になってしまう。それにギリシャ人はのんびりしているので、それに併せているといつの間にかこちらも「待っていればいつか来るだろう」のような感覚になってしまっているのである。
ギリシャ語は難しい。外国に行ったら、先ず何を置いても「今日は」「ありがとうございます」「さよなら」「トイレは何処ですか」「これはいくらですか」くらいは最低でも覚えて使わなければならない。しかし、ここの観光地では英、独、仏の順に外国語が通用する。そのため私は、英単語と独語とゼスチュアと機転、それと一番大切なハートで済ましてしまった。中学校から大学まで英語を教わっているのに英会話の一つも出来ないとはなんともお恥ずかしい話で面目ない次第である。
やがてお客をはち切れそうに詰め込んだおんぼろバスがヨタヨタと来た。断崖の下にあるニューポートめざしてバスは海に飛び込んで行きそうな感じでカーブを切る。スリル満点である。
アティニオス港は意外とこじんまりしており、船会社の建物とトラベルエージェンシーそれに2〜3軒の売店、食堂がある位である。何か写真になる風景でもあるかと思って宿を早めに出て来たが当てが外れてしまった。
ミコノスまでの船賃は1588円であった。船の出港時間が近付く度に何処からともなくバックパッカーが集まりだす。勿論どこからか船が到着する度にドッと客が降りて来る。それほど広い処ではないので、時間によっては結構賑わう。と、その中にくだんの民宿の娘と主人が宿泊客を求めてうろうろしているではないか。それなら来るついでの車に乗せて来てくれればいいものを。ケチなのか気が利かないのか…。
私が乗ったフェリーボートは結構大きくて楽々と乗れた。港を出た船はティラ島と火口湾の真中にあるネア・カメニ島の間を通り、フイラの街に名残を惜しむかのように岸沿いに進み、5日間通った街並を海上からはっきりと見せてくれた。なんとも心憎い演出である。サントリーニ島の友よ!例え生活が貧しくとも、この美しき自然に恵まれた地に生まれたことに感謝をしよう。あなた方は世界一の幸せ者です。
フィラでは遂に「マドンナ」に出会うこともないままに、船は今この島から永遠に遠去かろうとしている。次のミコノス島に期待しょう。船はなおも岸沿に進み、Oiaの街並みを最後にティラ島から遠ざかり、大自然が成したティラ島との壮大なドラマのフィナーレを迎えた。フェリーは一路ミコノス島へと舳先を向けて北進させた。そして、大切に小脇に抱えて船に持ち込んだビザントの最後の一滴がグラスの底にポトリッ!と落ちた時、私は楽しかったサントリーニ島とのしばしの別れをしみじみと感じたのである。明日からは又どんな新たなドラマが展開されるのであろうか楽しみである。
※実は、かなり後で分かった事なのだが、この日突然イラク軍がクエートを侵攻した。恥ずかしながら私はそれまでなにも知らず「極楽トンボ」の旅をしていたことになる。何も知らずに過ごすということは、ある意味においては喜びも悲しみも苦しみもなんの心配もなく生きているということである。当然「平和ボケ」にもなる。ローマ帝国の滅亡も“平和ボケ”が原因であった。現代に生きるわれ等は、その愚を反面教師として英知を持って“平和”を守り抜こう。
まだ先のことかもしれないが、何も知らずに苦しまないで死ねたら幸せかもしれない…と。今からそんなことをフト思うようでは、私ももう歳なのだろうか…。
【資料】
前30〜330年ローマ時代。
378〜1458年ビザンティン時代。
1463〜1821年トルコ占領時代。
1463〜79年トルコ対ヴェネツイア戦争。
1537〜40年ミコノスなどがトルコ属領となる。
1687年ベネチアによるアテネ占領。
1768年トルコ対ロシア戦争。ロシア艦隊、キクラデス諸島制圧。
1821〜1829年独立戦争。
1833年独立の王国となった。