★アメリカ西海岸とメキシコの旅

(ロスアンゼルス、ラスベガス、グランドキャニオン、サンフランシスコ、メキシコ)

グランドキャニオン/写真転載不可・なかむらみちお

大地を切り裂くコロラド川。
数億年もの太古からの川の流れが赤茶けた地球の大地を真っ二つに割る。大自然の芸術。
紅い太陽に大地が燃える。
グランドキャニオンに繰り広げられる壮大な大地のドラマ。
その圧倒的なスケールを目の当りにすると、人智を超えた地球の営みにただ驚くしかない。
砂漠の真ん中に忽然と現われた不夜城。砂漠の中の神秘な湖。
抜けるような青空、コバルト色の海、白砂の浜辺にトップレスの美女が踊るカリブ海の楽園。
密林の中、世界で三番目に大きい大ピラミッドを建てた人類。
テオティワカン人は古代エジプトの末裔か?
突然消えたマヤ族。密林の中に残された大ピラミッド群の謎。
生贄を捧げて五穀豊穣を祈るマヤ・トルテカ文明。
古代へのロマンをかきたてるマヤの聖域。
高度な天文学と暦の文化を持つアステカ文明。
メキシコは古代文明の謎とロマンをかきたてる宝庫である。

2003年3月10日から30日までアメリカ西海岸とメキシコを旅して来ました。


目  次

アメリカ
ラスベガス  グランドキャニオン  ラスベガスU  サンフランシスコ  ロスアンゼルス

メキシコ
メキシコ・シティ  パレンケ  メリダ  チチェン・イツァー  メリダU  ウシュマル  メリダV
カンクン  イスラ・ムヘーレス  メキシコ・シティU  テオティワカン  メキシコ・シティV  アメリカ  帰国

         スケジュール
 2003年

3月10日(月) 札幌-新千歳 14:25-(JL562)16:00 成田 19:15-(UA852)11:20 San_Francisco 12:55-(UA756)14:18 Las_Vegas
  11日(火) Las_Vegas 12:30-14:45 Grand_Canyon
  12日(水) Grand_Canyon 10:30-10:45 Las_Vegas
  13日(木) Las_Vegas 10:55-(UA469)12:30 San_Francisco
  14日(金) San_Francisco
  15日(土) San_Francisco 11:15-(UA1409)12:37 Los_Angeles
  16日(日) Los_Angeles
  17日(月) Los_Angeles 11:15-(UA1003)16:49 Mexico_City
  18日(火) Mexico_City 10:25-(mx673)11:40 Villahermosa =(バス) Palenque
  19日(水) Palenque
  20日(木) Palenque =(バス) Villahermosa 17:00-(MX7902)17:55 Mereda
  21日(金) Mereda-(バス)Chichen_Itza-(バス)Mereda
  22日(土) Mereda-(バス)Labna-(バス)Kabah-(バス)Uxmal-(バス)Mereda
  23日(日) Mereda
  24日(月) Mereda-(バス)Cancun
  25日(火) Cancun-Isla_Mujeres-Cancun
  26日(水) Cancun 10:55-(MX370)13:10 Mexico_City
  27日(木) Mexico_City-(バス)Teotihuacan-(バス)Mexico_City
  28日(金) Mexico_City
  29日(土) Mexico_City 07:15-(UA1010)09:58 San_Francisco 11:30-(UA837)
  30日(日) 15:35 成田 18:00-(JL565)19:30 新千歳 - 札幌

    3月10日(月)晴 札幌-新千歳 14:25-(JL562)16:00 成田 19:15-(UA852)11:20 San_Francisco 12:55-(UA756)14:18 Las_Vegas
 成田空港に着いてみると、ユナイテッド航空は第一ターミナルからの出発だった。第二ターミナルから連絡バスで第一ターミナルへと移動する。
 ユナイテッド航空のカウンターに行くと、男の係員は「今日は空いている」というので、寝て行けるように横一列に空いている席を頼んだ。乗ってみるとかなりの空席が目立つ。おそらく三分の二くらいしか乗っていないのではないだろうか。テロの影響か緊迫したイラン情勢のためか分らないが、これではユナイテッド航空も破産するわけだ。思うにこれでは従業員が可愛そうだ。
 成田で乗り継ぐのに3時間余りあったので、初めは少々無理してでも市川市に住む孫に会いに行けるかと思ったが、ほとんどそんな時間的な余裕はなかった。
 飛行機は順調に飛び、私は座席を五つほど独占して横になって寝てきた。すこぶる快調で、この分では時差ボケは防げるかもしれない。

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America(アメリカ)

ロンバートストリート/写真転載不可・なかむらみちお


 サンフランシスコに到着して一旦荷物を受け取り、すぐまたその隣で係員に預けた。セキュリティチェックも無事済んでラスベガス行きの乗場へと向かう。
 ラスベガス行きの便も予定通り出発。飛びたってすぐ右側にサンフランシスコの町とゴールデンゲートが見えた。カメラは棚の上に載せたので写真を撮ることが出来なくて残念。次回サンフランシスコからロスアンゼルスへ行く時に期待する。30分ほど飛んだら今度は雪の山脈に風景が変わり、美しい。ここでも写すことが出来なくて残念。

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      Las_Vegas(ラスベガス)
アメリカ  ラスベガス空港に着いて荷物を受け取った後、その傍らに在った案内所に寄ってホテルへの行き方を訊てみた。おそらくボランテアと思われる老人が親切に教えてくれたが、生憎言葉が分からない。老人は業を煮やしたのか席を立って「着いて来い」と案内してくれた。そして外に出たすぐ近くのバス乗場に連れて行ってくれてチケット売場を案内してくれた。更に車のところまで連れていってくれた。その車はエアポートシャトルというベルトランスで、タクシーのようなワゴン車だった。地域毎に料金が決められており、私の行くホテルは一番近いストリップホテル街という地域で、4.25$(為替レート1US$=120.35〜21.29円)だった。タクシーの半分くらいの料金である。他に客として女性二人とこの土地の人らしい男が一人。先ず、反対車線にある私のモーテル前を通過して、MGMグランドホテルに降ろし、その後、その斜め向こうにあるトロピカーナホテルに男を降ろした後、私のモーテルへと来てくれた。その道すがら彼にラスベガスで今人気のショーは何かと聞いてみた。すると彼は無料情報誌を示して、ベラッシオホテルでやっている“O(オー)”が一番人気だと言う。チケットを入手するには、開演の1時間ほど前からキャンセル待ちの列に並ぶとよいという。
 モーテルのフロントで無事チェックインを済ませ、キーを貰って一旦外に出てから部屋へと向かう。私の部屋はフロントの上(二階)と聞いて来たが、部屋順を追って行くと一階のような気がする。誰かに尋ねたいが、生憎誰も居なかった。仕方がないのでダメ元で二階に上ってみたらその番号の入口があった。部屋に入ってみると、簡素だが、明るく清潔そうで気に入った。テレビや部屋のクーラーなども備わっていた。風呂もある。
砂漠の中に忽然と現われてラスベガス/写真転載不可・なかむらみちお  年間約3800万人観光客が訪れる街がラスベガス。かつてはギャンブルの町として知られたが、近年は超大型ホテルや新しいショッピングモール、レストラン、ショーなどが続々登場し、街全体がひとつのアミューズメントパークのように楽しむことが出来る。
 一旦荷物を部屋に置いた後、今晩観に行くショー“O”のチケットを買いにホテルベラッジオに向かう。地図で当りを付けておいたのだが、かなり距離がある。やがて「O」の看板が見えてきたが、歩いても歩いても行き着かない。ホテルや敷地の広さに惑わされて近くに見えても結構距離があるらしい。
 ようやく目指すホテルの中に入ったが、どこに行けばよいのか分からない。玄関先のホテル従業員に尋ねてから奥に入る。一階は広いスペースにずらりとスロットマシンやらルーレットなどが並んだカジノになっている。その中を延々と歩き、ようやくシアター“O”に着いた。係りの人に尋ねると当日券はあそこに並べという。そこにはすでに50人程の人が並んで待っていた。
 私は服装も着いたままで何も用意してこなかったし、未だ4時を少し過ぎたばかりなので出直してくる事にした。後から来て例え入れなくても、グランドキャニオンから帰って来てからでも良いし、それに今日は時差ボケで眠い。グランドキャニオンから帰って来た日は次の朝にサンフランシスコに行かなければならないので、若し寝過ごしたら大変との心配で、今日は少し疲れていたが今日観る事にした。若し、今日観られなくても12日でも良いわけである。帰り掛けにスーパーで当座の水や食糧を買い込んでモーテルへ帰る。
 MDやカメラを持って再びホテルベラッジオへと向かう。ホテルの前には北イタリアのコモ湖を模した巨大な池があり、1000本以上の噴水口から噴出される水が見事なバレーを踊る。オペラやミュージカルのナンバー、ワルツ、シナトラなど約10パターンほどあり、夜は光の演出も加わっていっそう美しい。“O”の当日券売場には先ほどよりも2倍の行列が出来ていた。果たして本当に入場することが出来るのだろうか。
 開演時間が過ぎた頃から少しずつ列が進み始めた。私の後には2、3人しか並ばなかった。ほとんど最後尾のようなものだ。開演20分過ぎ頃にようやく入場することが出来た。思っていたよりも高い料金の席だったが已むを得ない。入れればいい。こんな機会はもうそんなにないのだから多少の料金の事など頓着してはいられない。
 思うに、ラスベガスのショーを見たいと思ったのは私が札幌冬季五輪大会の聖火採火式の取材でギリシアへ行く途中、パリのスペクタル=ナイトショー、リドを観た時に添乗員の並木さんが世界で一番凄いショーはラスベガスだと教えてくれたことである。その時から是非一度ラスベガスの本場のショーを一度観たいものと思い続けていたわけである。それで今回メキシコに行くなら途中ラスベガスに寄って世界一のショーをこの目で観て、ついでに世界の七不思議のひとつであるグランドキャニオンを見て、息子が高校生時代にアメリカひとり旅に行って帰って来てからアメリカで一番気に入ったというサンフランシスコを見たかったからである。
 劇場の入口には女性の係員がいて、懐中電灯で席へ案内してくれた。その時係員は「ノーフォト」と言った。席はステージの真正面。前から10番目位の特等席だ。道理で料金が高いはずだ。演技中にはステージから水飛沫が飛んでくる。私はそっとMDをリュックから出して録音のセットをしたが、果たして入っているのかどうか分らない。
 “O(オー)”は幻想的な水上アクロバット。世界各国から集められた出演者たちが、舞台上に設けられた大きなプールを使って、飛び込みやシンクロナイズドスイミング、空中ブランコなどのアクロバットを展開する。男達が次々にプールに飛び込んだかと思うと、水の上を走り回り、そしてまたプールの底から人が生まれ出る。マジック以上の不思議な世界で観客を魅了する。
 ショーは洗練されており、見応えがあった。さすが世界のラスへガスのショーだけのことはある。こんな大掛かりで豪華なショーが1ホテルの中で行われているのは驚きだ。ショーも終りに近付いた頃、係りの女性が近付いて来た。「写真を撮っているだろう」と言う。私は「ノー」と答えたが、手元のMDが赤く光っていた。「録音機を持っているだろう」と言われたが「ノー」と答えた。それでも係員は「一寸来てくれ」と言うので入口まで出されてしまった。そこで言葉が通じないので、言葉の分る若い男が呼ばれてきた。その男と言葉を交わし、録音を録っているのかと訊かれたので、私は「ノー」と答え、彼は「録音をしたのならこの場で消して下さい」と言われたが、私は録音はしていない、音は入っていないと言うことで無罪放免となり再び席に付いて見物した。
 モーテルに帰ってから調べてみたら、本当に音は入っていなかった。それならあの赤ランプの点灯はなんだったのだろうか。そのへんがよく分らない。その後、ひと風呂浴びて寝た。

   3月11日(火)晴 Las_Vegas 12:30-14:45 Grand_Canyon
 朝起きると窓の外は快晴。今まで見たことのないような青空である。今日のグランドキャニオン行きのピックアップ場所である隣のモーテルの下見を兼ねて近くを散歩してみる。そのモーテルのフロントの向かいと、道路を挟んだ斜め向かいのガソリンスタンドに雑貨屋があり、パンやサンドイッチ、水などを売っていた。
 モーテルへ戻り、昨日買ってきたサンドイッチなどで朝食を済ませ、グランドキャニオンから帰って来たらまたこのモーテルに泊まることになっているので当座必要のないものを入れたバッグをフロントに預けて少々早めにピックアップ地点の隣のモーテルのフロントに行った。
 そのフロントの女性に尋ねてみたが、要領を得ない返事だった。これは一体どうなっているのだろう。書類を出して先方に電話を掛けてもらった。出てきた女性は日本語で「そのモーテルのフロントのトロピカル通りに面した入口の前にある駐車場にいてくれ、ウチとはそのモーテルとその駐車場に駐車させてもらうことにしてある」と言う。それならそのモーテルのフロントが集合場所などと書くなよと言いたい。
 しばらくそのモーテル前のベンチに腰を下して時間を待った。お迎のバスが約束の時間通りに来た。早速乗り込み、空港へと向かう。しかし、ここに着いた時のラスベガス空港とは反対側、ダウンタウンの先へとバスは進む。どうやらもう一つの別の空港があるらしい。
 30分ほど走って矢張りローカル空港に着いた。そこには小型機ばかりが並んでいた。われわれは定員20人ほどのプロペラ機に乗り、一路グランドキャニオン国立公園へと向かった。飛行機が小さいせいか、快晴無風の好条件だと言うのに時々エアポケットに落ちたように少し揺れる。その度に同乗していた日本人の女性が悲鳴を上げる。乗客はほとんどが日本人の若い人達だ。一体この人達は何をやっている人達なのだろうか。羨ましい限りである。
ミード湖とフーバーダム/写真転載不可・なかむらみちお  飛行機は砂漠を越え、濃い緑色の水を湛えたミード湖の上に来た。船が2、3艘浮かんでいる。こんな砂漠の真中に不釣合いな湖で不思議な気がした。やがてそこはあの有名なフーバーダムを造ったところと思い出した。飛行機はフーバーダムの上を飛んでダムの全景を見せてくれた。このダムの発電所で発電された電気がラスベガス全体の電気を賄っていると言う。さらに砂漠の上を飛び、写真で見たグランドキャニオンの崖の規模を少し小さくしたような景色が見えてきた。ここはもうグランドキャニオンの一角らしい。

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     Grand_Canyon(グランドキャニオン)
グランドキャニオン  飛行機は無事グランドキャニオン空港に到着。直ちに迎えのバスへと案内される。そこで他の飛行機で来た客と一緒にグランドキャニオンへと向かうのだが、その前に空港から少し入ったレストランに入り、昼食を食べた。ここはビッフエ形式になっており、自分で皿に好きな料理を取って食べる方式だが、あまりたいした物はない。肉類は鶏の足を煮込んだもの位しかなかった。あとは野菜とか豆の煮た物とかが多い。再びバスに乗ってグランドキャニオンへと向かう。所々にいつ降ったのか残雪が残っていた。しかし、あまり寒くはない。
ヤパパイポイントから見たグランドキャニオン/写真転載不可・なかむらみちお  快晴の太陽に照らされたグランドキャニオンは迫力もあり素晴らしい眺めであった。先ず、一番有名なヤパパイポイントを見た。連続してシャッターを切ったのでたちまちフイルムが無くなる。次に向かったのはブライトエンジェルロッジの前である。もう陽も少し傾きかけており、斜めから照らす太陽の光線で崖に立体感が出て見応えがあった。ここは2100m以上もある高地なので、激しく動き回ると息苦しい。
 コロラド川が数億年という途方もない時間を掛けて大地を削り、造り上げた大峡谷グランドキャニオン。その圧倒的なスケールを目の当りにすると、人知を超えた地球の営みにただ驚くしかない。リム(崖の縁)から見下ろす峡谷は大自然の芸術だ。時間ごとに表情を変えてゆく光景は、特に太陽が低い朝夕が素晴らしい。光と影が織り成す絶景だ。
 この後、今日われわれが泊るスイスシャレー風の石造りのロッジ、Maswik_Lodge(マズウィック・ロッジ)へと案内されて、泊る客だけがバスから降ろされた。あらかじめ空港で係員から貰ったキーの番号を頼りに泊るロッヂを探したが見当たらず、たまたま通り掛った日本人女性に教えてもらった。部屋に入ると、普通のホテルの部屋と変わらなかった。風呂もテレビもある。
ロッヂの前に出てみると夕焼けが綺麗だった/写真転載不可・なかむらみちお  荷物を部屋に置いて大急ぎで夕陽を撮るために先ほどのブライトエンジェルロッヂの前に行ってみたが、生憎太陽が薄い雲の中に入ったらしく、光が弱くてあまり良い情景ではなかった。ロッヂの前に出てみると夕焼けが綺麗だった。きっと明朝は快晴で朝日を見ることが出来るだろう。期待大である。
 そのロッヂのお土産売場で家に出す絵葉書を一枚買う。ついでに切手も買いたかったのだが、店の外の廊下に備え付けてある自動販売機から買うようになっており、買い方が分らないので諦めた。ロッヂに帰る途中、明朝の朝日を見るツアーの集合場所であるロッヂのフロントに寄って確かめてみた。
 そこのフロントの女性に確認した後、切手を売っているかと尋ねると玄関に自動販売機があると言って案内してくれた。買い方が分らないと言うと、親切に買ってくれた。又、その女性にここにはお湯があるかと尋ねたが話が通じない。私が更に「カップヌードル」と言って初めて訳が分り、その女性は同僚と大笑いしていた。又、その女性はその奥にあるレストランに案内してくれて、ここでコップに水を入れ、その近くの電子レンジで沸かせと教えてくれた。
 実はここは山の中であり、レストランはないかも知れない、売店はあるだろうが高いのではないかと思い、日本からカップうどんと蕎麦を各一個持ってきた上、ラスベガスでサンドイッチを一食分買って持ってきたのである。早速ロッヂに帰りカップラーメンと昼に時間がなくて食べ残したパンを持ってきてお湯を沸かし、カップうどんで夕食を済ませ、ロッヂに帰った。その途中で見た空は星が強い光を放っていた。明朝は多分快晴だろう。それにしても昨夜、ラスベガスのベラッジオホテルの前の巨大な池で噴水ショーを見た時に観た月がここでは見えないのはどうしたことだろうと思いフト頭の上の方を見るとそこに月があった。日本で見る角度とかなり違うので驚いた。
 ロッヂに帰り、目覚まし時計をセットしたが、それでも不安なので電話で5時にモーニングコールを頼んだ。このあと風呂に入って寝る。

   3月12日(水)晴 Grand_Canyon 10:30-10:45 Las_Vegas
 朝0時半頃目が醒めてから寝られない。未だ時差ボケが残っているらしい。標高が高いので酸素不足のせいかも知れない。しばらくベッドの中で寝る努力をしてみたが寝られないので起き出して睡眠薬代わりに焼酎をコップに半分ほど飲んでまた寝た。それでも寝付かれないのでテレビのスイッチを入れた。やがて夢の中でテレビの音を聞いていた。
 モーニングコールに起こされた。5時10分前だった。ベランダのカーテンを開けて見ると外は当然真っ暗だった。洗顔を済ませ、サンライズツアーに行く準備をしたが、未だ30分ほど早い。矢張り外は少し寒いようだ。持ってきただけの防寒具を着込んで外に出てみると満天の星空。これはいける。少々寒いが思ったほどではない。
 5時40分にロッヂを出て待ち合せ場所のホテルロビーへと向かう。ホテルの横にはエンジンを掛けたバスが一台停まっていた。私が一番乗りらしい。トイレから出て来たカーボーイハットを被った男がバスの運転手らしい。「サンライズツアー?」と声を掛けると「スイーニックエアライズの客か?」と聞かれたので「イエス」と答えると、「あのバスに乗れ」と言われたので再びロビーの外に出てバスに乗り込む。暖房が入っていないのでバスの中でも少し寒い。
 やがて三々五々客が集りだした。ほとんどが若い日本人だ。バスは定刻6時にホテル前を出発し、途中、何ヶ所かで客を拾った。こちらは外国人の大人が多い。
 東の空が明るくなってきた。日の出に間に合うのだろうか。行き先を知らされていないので気が気でない。ほぼ満員の客を乗せてバスは西の方へと走り出した。ガイドブックに書いてある日の出の名所、ヤパパイポイントとは逆の方向である。果たしてこれでいいのだろうか。しかし、運転手に任せるしかない。昨日ヤパパイポイントに行った時は、明朝はここから朝日を見るのだなとイメージしていたのだが…。
紅い太陽に照らされたグランドキャニオン/写真転載不可・なかむらみちお  東の空が益々明るくなってきて、地平線の近くは真っ赤になっている。もう間もなく太陽が出そうだ。バスは「夕陽を見るのに良いポイント」とガイドブックに書いてあるホピポイントに来て停まった。クフ王のピラミッドと呼ばれる岩山の下をコロラド川が蛇行して流れるのが見える。ホピとモハベの間は、陽が指すと炎のように紅く見えるためインフェルノ(地獄)と呼ばれている。大急ぎでカメラをセットしてとりあえず紅くなった水平線の方にレンズを向けて数枚写す。あとは空の色の変化に対応して連写する。
 太陽が昇り切ったところで、今度は紅い太陽に照らされたグランドキャニオンの崖を写す。たちまちフイルムが無くなり、チェンジに忙しい。空には雲ひとつない。
ピマポイントから見た紅い太陽に照らされたグランドキャニオン/写真転載不可・なかむらみちお  ひと通り写し終わった後、バスに戻る。バスはそこから更に西へと走り、180度開けたパノラマが楽しめると言うポイント、ピマポイントに停まった。ここからは180度開けたパノラマが展開し、紅いコロラド川の中に急流の部分が白く見える。対岸には勇壮なオリシス神殿が聳えている。耳を済ますと、ブーシェの急流の音が微かに聞こえてくる。ここでも崖に向けて何枚か写す。この後、西の終点、石造りの休憩所ハーミッツレストを車窓から見てホテルへと向かった。
 天気が良かったので充分写しがいがあり、満足した。帰る途中、トレイルヘットにも立ち寄る。そこから少し行くと鹿の群れが数匹林の中に居て物怖じせずにこちらを見ていた。
 バスは先ず一番先に我々のMasurik_Lodgeに寄ってくれた。ラスベガスに帰る飛行機の出発まで1時間半ほど時間がある。先ず、朝食にと機材をロッヂに置いた後、日本から持ってきたカップ蕎麦と昨日昼食に食べ残したパンを持って食堂へ行き、昨日と同様にレンジで水を沸かし、それをカップ蕎麦に入れて食べる。オレンジとリンゴが1jで売っていたのでオレンジを一個買い、食堂で食べる。
 ロッヂに帰ってからも、空港へ行く集合時間の9時半には未だ少し間があったので一休みした。9時15分頃、ロッヂの前でバスのエンジン音が聞こえて来た。荷物を持ってロッヂの外へ出ると目の前にバスが停まっていた。運転手にチェックして貰ってバスに乗り込む。全員が定刻前に集り、空港へと向かう。
 飛行機の座席番号は昨日と同じA5(窓側)だった。ということは、昨日とは反対側の景色を見ながら帰ることになる。空は快晴だったが、昨日同様、多少の揺れがあったが酔うほどではない。しかしなんだか少し胸が苦しい。疲れが出たのか。

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     Las_Vegas(ラスベガス)
 ラスベガスの空港には予定通り1時間15分程で無事着いた。直ちに送りのバスに乗り込み、ホテルへと向かう。私のホテルが一番先に送ってもらった。
 ホテルに帰ってから、とりあえず荷物を整理したが、なんだか疲れが出て来たようで何もしたくない。そのまましばらくベッドの上で休んだ。
不夜城/写真転載不可・なかむらみちお  午後4時頃起き出して日記を書きながら一杯飲む。今日は一日天気が良い。上手くゆけば美しい夕焼けが見られるかもしれない。MGMグランドホテルの斜め向かいのお伽の国のようなホテルと絡めて夕焼けを撮るために5時過ぎにホテルを出る。夕焼けは出なかったが、ホテルの夜景を一枚撮った。街はさながら砂漠の中の不夜城だ。この後、ホテルの客寄せのためトレジャー・アイランドホテル前で行われている海賊船バトルを観に行く。7時からのショーには間に会いそうにもない。歩いている内にその辺と思われるところで火薬の煙が上っている。次の8時半からのショーを観ることにする。ショーの見物席で8時半のショーを待つ。なにしろラスベガスで一番人気の観覧無料のショーなので、早くから場所を確保しないと良くは観られない。
 ようやく待って8時半丁度にショーは始まった。海の精セイレーンと海賊たちのバトル。精巧に造られた2隻の帆船が爆発し、炎に包まれ、ついには海に沈む! 迫力といい、演出といい、無料とは思えない本格的なスケールでさすが見応えがあった。これが無料とは有難い。帰り道は大変な混雑で、ようやく帰って来た。途中、MGMグランドホテルの中のカジノを通って来たが、流石に広い。行けども行けども出口が見付からない。ようやくホテルの入口から出たが、道路まで出るのにはまた一苦労した。
 ホテルに帰って来てから、行き掛けの食べ残しのサンドイッチを食べた後、風呂に入る。西洋の風呂は長ひょろくて使いにくく、あずましくない。風呂からあがってから日記の続きを書いて、11時過ぎにベッドに入る。

   3月13日(木)曇 Las_Vegas 10:55-(UA469)12:30 San_Francisco
 朝7時に起きて洗顔。近くのガソリンスタンドに牛乳を買いに行く。空は相変わらず快晴だ。食事を済ませてモーテルを出る。途中ひと組の夫婦と一緒になった。彼らもそれぞれキャリーバッグを引き摺っている。フロントに空港への行き方を訊くと、タクシーしかないと言う。そこで彼の夫婦に空港へ行くのかと尋ねるとそうだと言うので相乗りさせて貰うことにした。
 タクシーはフロントが呼んでくれたらしく、すぐ来た。空港に着くと彼らが先に降りた。降り際に5jを置いて行った。私はその先で下車した。メーターの料金は6.5jだったが運転手は10jを要求した。
 チェックインも無事済み、荷物検査へと進む。そこで検査機に引っ掛かってしまった。うっかり腰のポーチを付けたまま通ったのが悪かったようだ。その中には眼鏡などが入っている。いつもはバッグの中に入れて機械に通すのだが今日はうっかりしていた。
 一人一人厳重にチェックしているので時間が掛る。ようやく私の番が来た。棒のような検査機で細かくチェックされる。靴まで脱がされて別の機械のところまで持って行き検査している。
 荷物検査もようやく無事通過、ゲートへと向かう。飛行機は定刻に出発した。

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     San_Francisco(サンフランシスコ)
 サンフランシスコの空港に着いたが、町への行き方が分からない。インフォメーションで訊いたら、ドアツードアという所に○印を着けた紙を渡された。それを持って三階まで上るとシャトル電車のようなものが来た。それに乗って行くとその電車は更に先へ行くようだ。変だなと思って乗客に訊いてみると違うと言う。急いで電車から飛び降り、また反対側から来た電車に乗って元の所に戻る。そこで通り掛かった旅行社の係員のような人に訊いてようやく乗場が分った。案内人は「ツー」と言ったので私は二つ階段を上がるものと思ったが、実は二階のことであったらしい。つまり私は三階に行ってしまったのが間違いの元であった。
 二階に出ると、いろいろの乗場があり、案内人に訊いてようやく乗り場に辿り着いた。車はバンのワゴンで、差し当り私ひとりしか客が居ず、少し待ったが客が集まらないので次の乗り場に向かい、そこでまたひとり拾ってダウンタウンへと向かった。
 最初運転手は私の行くホテルを探し当てられなくて、地図を見てようやくホテルに着いた。チェックインを済ませて部屋に入り荷物を置き、先ず酒と食料の買い出しに行く。
 ホテルのフロントに訊いたホテルの前のミニスーパーに行ってワインを初め食料を買ってくる。ホテルのフロントに頼んで明日のサンフランシスコバスツアーの申し込みをしてもらう。

   3月14日(金)曇、時々晴れ、後雨 San_Francisco
サンフランシスコ市内フィシャーマンワーフ付近  今日はサンフランシスコ市内半日観光の日である。昨日ホテルのフロントに申し込んでおいたので午前8時半にお迎のバスが来た。そのバスでフィシャーマンワーフにあるツアー本社に行き、ツアー代を支払った後、またコース別のバスに分譲して出発した。
 西海岸を代表する都市サンフランシスコ。美しい町が多い西海岸にあって、最も観光客に愛されている町。展望の良いツインピークやゴールデンゲート・ブリッジの袂に広がる広大なゴールデンゲート・パークを見る。ここは造成された公園としては世界一の規模を誇り、園内には、美術館や博物館が点在している。この後、お目当てのゴールデンゲート・ブリッジを渡ってひと回りした後、橋の袂で20分間だけ停まったが写真を撮るだけが目一杯で忙しかった。
 サンフランシスコの代表的イメージのひとつが、フィッシャーマンズワーフ。シーフードレストランや個性的なショップが並んでいる。ツアーが終って出発地のフィッシャーマンズワーフに着いてから、近くで海老と生カキを食べたが、美味しかった。
ケーブルカー(パウエル-ハイド線)/写真転載不可・なかむらみちお  サンフランシスコのシンボルでもあり、観光の目玉の一つでもあるケーブルカーは今でも約一世紀前と同じく町の人々の足として活躍している。ケーブルカーのターミナルではケーブルカーの向きを変えるために、ターンテーブルの上の車輌をグリップマンたちが人力で回転させるシーンが見られた。このケーブルカーに乗ってロンバートストリートで降り、その上と下から写真を撮った。
 ここは別名「世界一曲りくねった坂道」。ロシアンヒル観光名所のひとつで、ハイドストリートとレべンワースストリートの間の急勾配の1ブロックにS字状の急カーブが8ヶ所もある坂道。腕自慢のドライバーがS字カーブに挑戦しようと列を作っている。坂の両側に歩行者用の通路があるので、カーブする車を見ながら歩いて降りることが出来る。道沿いには色鮮やかな花や緑が植えられており、とても美しい景観だ。
 その後、再びゴールデンゲート橋の向こうから夕景の写真を撮りたかったのだが行き方が分らない。もう一度フィッシャーマンズワーフの方に歩いて行ったらホリデーインホテルがあったのでそこのフロントで行き方を訊いてみた。
ゴールデンゲート・ブリッジ/写真転載不可・なかむらみちお  ゴールデンゲート・ブリッジはサンフランシスコ市内とマリンカウンティをつなぎ、ベイエリアのシンボルともなっているオレンジ色の美しい橋。ビューポイントは渡った先のビスタポイントだ。世界的に有名なこの橋は、全長2789m、橋の中央の高さは水面から66mもある。
 フロントに教えられたバスに乗ったが、どうも違うらしい。途中、何度も訊いたり乗り換えたりしてようやく橋へ向かったが、雨が降ってきた。橋に行き着くまでに止むだろうと思ったが、橋の向こうでバスから降りてからも激しく降り、一向に止みそうに無かった。ままよとばかり橋の袂の小高い丘の上に登り始めたが、益々雨は激しくなり、風も強まってきた。持ってきた傘を開いたが風に吹き飛ばされて役に立たない。傘無しのまま坂を降り始める。すると突然被っていた白いゴルフ帽が風に飛ばされて道路脇の崖下へ飛んで行った。落ちた所は分ったのだが、かなり危険なところだ。諦めたほうが良いかなとも思ったのだが、これから行くメキシコでは帽子が無くては耐えられない。思い切ってリックからゴミ袋を出し、リックと三脚を包んで雨から守り、それを道路脇に置いてそろりそろりと崖下に降りて行ってようやく取り戻してきた。ビスタポイントの丘の頂上はすぐそこらしい。風雨が益々強くなり、これでは三脚を立てる事も出来ない。しかし、諦め切れず一応行ってみることにする。
 ようやくビスタポイントに着いたが、風雨が強く写真を撮れるような状態ではない。ほうほうの態で引き返す。しかし、帰りのバスの停留所はどこなのか分からない。下手をするとこの雨の中を橋の向うまで歩かなければならないかも知れない。
 その時、行き違いに若者の一団が奇声を挙げながら走って来た。きっとこの若者達は車で来たのに違いない。やがて彼らは走って車の所に戻って来た。私はダメ元でダウンタウンまで乗せて行ってくれと頼んでみた。彼らは話し合った結果、乗せてくれるという。渡りに船だ。大きな車だが、中は定員以上に乗っており、鮨詰め状態だ。それでも快く乗せてくれた。その中のリーダーらしい女性が何かと声を掛けてくれ、ホテルの名前を聞いてくれた。どうやらホテルまで送ってくれるつもりらしい。彼らはチャイナタウンへ行くと言っていたのにこの雨の中、わざわざ私のホテルまで送ってくれるとは申し訳ないことである。私は何もお礼する事が出来ないがせめてもと思い、リックに入れておいた日本製の煙草を一個運転手に差し上げた。
 仲間のもう一台の車と携帯電話で連絡を取り合いながら私を私のホテルまで送ってくれた。シカゴから来たと言っていたが、彼女に戴いた名刺を見たら、シカゴのファイナンスシャフトの人のようであった。雨は未だ強く降っている。この雨の中を歩いて帰って来たら大変なところだったが本当に助かった。それにしても私も少々厚かましいのに恐縮した。

   3月15日(土)雨 San_Francisco 11:15-(UA1409)12:37 Los_Angeles
 7時起床。昨日の雨はようやく止み、薄日が差して来た。洗顔後、ホテルの向かいのミニスーパーに行ったら閉まっていた。24時間営業なのに理由は分からない。その一軒置いた隣のチャイニーズレストランで小型パックの牛乳を一個買ってきて早速昨日買って置いたパンで朝食を済ませた。
 荷物を纏め、8時にはフロントに降りてチェックアウトした。空港へ行くためにホテルがドアツードアの乗合ミニバンを12jで紹介してくれたので、5分位待って乗り込むことが出来た。昨日空港から来た時とは違って今回は満員で出発した。前の席に横柄な男が居て、私の隣りの女性と大声で話し続けるのが結構うるさい。
 空港でのチェックインはすぐ済み、いざ荷物を預ける為にX線検査を受けると錠を外せと言う。錠を掛けないままに荷物を預けた。手荷物検査の所では靴まで脱がされて検査機に掛けられた。しかし、無事通過したので良かった。
 搭乗口に着いてから時計を見ると搭乗まで未だ2時間もあった。客は未だ2、3人しか居ない。搭乗時間が近付くと客も増えはじめ、私の隣に日本人の若い女性が腰掛けたので、最近のニユースや世界の情勢などを訊いたが、特になにもなかったようだ。大相撲では朝青龍が一敗したとのことであった。
 やがて定刻通り搭乗が始まった。私は右の窓際の席であった。飛行機が上昇すると、少し遠いサンフランシスコの街並みや、ゴールデンゲートブリッヂなどが見えた。
 飛行機は海岸線に沿って一路ロスアンゼルスへと向う。飲み物のサービスが始まり、私はビールを頼んだら無料だった。国内線でアルコール類が無料とは珍しい。

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     Los_Angeles(ロスアンゼルス)
 サンフランシスコを出発する時に、ロスアンゼルスの天候は強い雨とのことであった。着陸してみると本当に雨が降っていた。
 空港から「G」のシャトルバスに乗って地下鉄へと向かう。地下鉄の駅に着いたが、自動券売機しかなく切符の買い方が分からない。乗ってきたシャトルバスの運転手が案内してくれて切符の買い方を教えてくれた。
 どこから乗るのかと辺りを見渡していたら東洋系のような若い男が案内してくれた。同じくダウンタウンまで行くという。助かった。この男に付いて行けば良い。
 途中で二回地下鉄を乗り換えてKAWADAホテルの近くの駅で下車。地上に出てみるとかなり強い雨が降っていた。その若い男が傘を差しかけてくれた。私も傘は鞄の中にあるのだが、出すのか面倒なのと、ホテルまで近いし、荷物が多いので少々濡れても構わないと思って傘を出さなかった。
 その若い男はホテルの前まで付いて来てくれた。私は何も礼をするものを持ち合わせていなかったのでせめてもと思い五円玉を一個渡すとその男もコイン一枚をくれた。台湾のコインだと言う。学生かと訊くと違う○○と言っていたがよく分からなかった。
 ホテルのチェックインもスムーズに済み、部屋へ行くと未だ部屋の掃除中なので入口近くの廊下で5分ほど待った。部屋は台所や冷蔵庫が付いている。これはしめた。未だ日本食を食べたいとは思わなかったが、ここで食べて置かないとこの先、食べられるかどうか分らないし、折角持ってきたインスタントラーメンをまた日本へ持ち返るのは癪なので一食だけ食べることにした。
 早速アルミ鍋とインスタントラーメンを出して調理して食べる。久しぶりの日本の味はやっぱり美味い。そろそろこちらのパンに飽き飽きしてきたので丁度良かった。
 ラーメンを食べた後フロントへ行き、明日の市内観光のリコンファームをしてからワンブロック隣のスーパーへ食糧の買い出しに行った。行ってみて驚いた。屋台みたいの店がづらりと並んでおり、そこで大勢の人が何かを食べている。その屋台の周りには、果物屋とか惣菜屋、酒屋、パン屋、日用品雑貨屋、貴金属屋まで軒を並べていた。ひと通り見て、今夜と明日の食料を買うことにした。先ず、ワインを買い、その後、明日の朝のパンと牛乳、果物を買った。今夜はワインとピザにすることにした。
 ホテルに帰り、早速ワインを開けてサンフランシスコで買ってきたチーズで一杯やる。その後、鶏の唐揚とピザで夕食を済ませ、明日の下調べなどをした後シャワーを浴び、9時に寝る。外では未だ雨音が止まない。

   3月16日(日)晴 Los_Angeles
 太鼓の音で目が醒めた。時計を見ると午前0時過ぎだった。どうやらホテルの下の方から聞こえて来るようだ。雨音は依然として激しく屋根をたたく。朝には晴れて欲しい。
 午前6時に目が醒めた。雨も止み、部屋には朝日が差している。6時半過ぎに起きてコーヒーと湯を沸かし、日本から持ってきたインスタント味噌汁と昨日買って置いた菓子パンで朝食を済ます。最後に矢張り昨日市場で買ったマンゴーを食べた。最初、真中にナイフを入れたが、中の大きな種子に当って上手く二つに割れない。なんとか齧り付いてようやく食べることが出来たが、これは今まで食べたことのない味だ。味はそれほど強く無く、またくどくなくて良い。匂いもほとんどしない。大きなメロンパンはひとつ食べただけで持て余した。今日の昼食にも残りを持って行くことにする。
 9時前にロビーに出て迎えのバスを待つ。やがて日本人が現われて、市内観光へと案内してくれた。彼がバンを運転して説明する。客は他のホテルから乗って来た夫婦者らしい日本人と、このホテルから乗った若い女性の四人だ。
事故で犠牲になった宇宙飛行士オニズカのモニュメント/写真転載不可・なかむらみちお  先ずスペースシャトルの事故で犠牲になった日本人二世、オニズカの記念碑のあるところで下車、その付近を見て廻る。

 ※1986年、スペースシャトル・チャレンジャー(Challenger)が打ち上げ直後に空中爆発し、搭乗者全員が死亡した。機体はバラバラになって大西洋へ墜落した。クルーには日系人のエリソン・オニヅカ、初の民間人宇宙飛行士で小学校教諭クリスタ・マコーリフ、初のアフリカ系アメリカ人宇宙飛行士ロナルド・マクネイアらが搭乗して大きな注目を集めていたが、全員が死亡した。この事故によりスペースシャトル計画に大きな影響を与えた。

オスカー賞のトロフィーを象ったお土産/写真転載不可・なかむらみちお  その後、ロスアンゼルスの代名詞ハリウッドエリアへ行き、グローマンズ・チャイニーズシアター前にあるエンターテインメント業界で活躍した人々の手形、足型、名前が刻まれているウォーク・オブ・フェイムを見る。次のコダックシアター前には観覧席が組まれていた。一週間ほど後にはここでアカデミー賞の発表があり、それに出席するスター達を見る為のものと言う。
 コダックシアターの中に入り、スター達が上る紅い絨毯を敷いた階段で記念写真を撮ってもらう。二階に上り、そこから丘の上に例のハリウッドの看板が見える所に行く。残念ながら、予備のフイルムと三脚、望遠レンズを車の中に置いてきたので、ここでの写真は撮れなかった。
サンタモニカビーチのピア/写真転載不可・なかむらみちお  次に豪華、セレブたちの豪邸がずらりと建ち並ぶ高級住宅地ビバリーヒルズに行き、俳優達の豪華な屋敷などを見て回った。パームツリーの街路樹が美しい。その後、1909年に建設されたサンタモニカのシンボル的な存在である木造の桟橋、サンタモニカビーチでピアの上などを1時間ほど散策。同じホテルから来た女性も私と同行した。
 ここにはジェットコースターや観覧車まである名物遊園地パシファックパーク、アーケードやカフェ、新鮮な魚介類を食べさせる屋台などがある。
 最後に、マリナ・デル・レイのフイシャーマンズビレッジを見て歩いた。ここはニューイングランドの漁村を模したトンガリ屋根の小屋が建ち並び、家並みも色使いも派手で華やかで綺麗だ。観光客向けのショップや土産物屋、シーフードレストランなどが20軒ほどある。ここで1時間ほど過ごした後、ホテルに帰った。彼女は途中のスーパーに寄ってから帰るとかで、スーパーの前で降りた。
マリナ・デル・レイのフイシャーマンズビレッジ/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルに戻ってから、不要の荷物を部屋に置き、ホテルの近くの地下鉄駅へと向かう。ここの地下鉄駅は無人で、自動販売機で切符を買うしか方法が無い。先ず、自動販売機に1j札を入れたがその後のコインが足りない。もう一度やり直そうと思って適当にボタンを押したが、先に入れた1j紙幣が戻って来ない。機械に飲み込まれたらしい。困っていると、ひとりの青年が助けてくれた。まず、1j紙幣を入れたが、後は小銭少々しか持っていなかったので、彼が自分の鞄の中から小銭を出して入れてくれた。再び地下鉄に乗ってハリウッドへと向かった。ホームに行くと列車が来たので乗り込む。乗り込んでからさっきの青年に訊いたら、列車が違うという。慌てて次の駅で下車、今度は電車の先に付いて入る「Holly_Wood」行きという表示を確認してから乗り込んだ。
 地下鉄を降りると向かいのABC劇場の前の方でなにやら人だかりがしてテレビカメラも待機していた。どうやらスターが来るのを待っているらしい。私はそれを横目で見ながら例のHolly Woodの文字の見える場所を探しに徒歩で向かう。ホテルで訊いて来た方向に行ってみるがなかなか分らない。近くの人にも何人かに訊いてみたが分らないらしい。ようやく一人の女性が教えてくれたので半信半疑でその方向へ行く。やがてしばらく行くと後からその女性が追い掛けて来て、近くまで案内してくれた。ようやく目的の場所を見付けることが出来て喜び勇んで写真を撮る。
Beachwood_Drにて/写真転載不可・なかむらみちお  現在は映画の都の象徴になっている有名なハリウッドサインは一文字の高さが15.2m、幅は9.1mもある巨大看板。もともと不動産屋の広告として造られた物で、1923年に建てられた時には“HOLLYWOODLAND”という看板だった。ハリウッドランドとはこの山の斜面に売り出し中の造成地の名称だった。1932年に、新人女優が仕事の失敗を苦にして最後の“D”の上から飛び降りて自殺したのは、あまりにも有名な話。1945年に地元の商工会議所がこれを譲り受けて修復し、“LAND”の文字が撤去され、現在の“HOLLYWOOD”になった。写真を撮った後、また元の地下鉄駅へと向かう。
 先ほどのABC劇場前では丁度今、俳優達が着いたところらしく、リムジンから降りたそれらしい人が観客に手を振って応えていたが、なんと言う人か分からない。
マリリンモンローの手形/写真転載不可・なかむらみちお  地下鉄で次のハリウッドハイランド駅で降り、チャイニーズシアター前に行き、マリリンモンローの手形に私の手を合せて記念写真を撮って貰った。この後、先ほど来たコダックシアターの階段を上り、Holly Woodの文字の見える処で夕景の写真を撮り、再びハリウッドハイランド駅から地下鉄に乗り、ホテルへと向かった。
 ホテルの近くの地下鉄駅を降りてからホテルは確かこちらのほうだったと思って進んだが、どうも違うようだ。自信がない。若しかしたら反対かも知れないと思って歩いて行くと、ようやく私のKAWADAホテルが見えてきた。
 ホテルの前を遣り過して、その向こうの市場へと食料を買いに向かった。生憎閉店していた。已む無く近くのマクドナルド店を見付けてハンバーグを朝食の分を含めて2個買ってきた。ホテルへ戻り、夕食を済ませ、入浴をしてほっとする。

   3月17日(月)晴 Los_Angeles 11:15-(UA1003)16:49 Mexico_City
 今日はメキシコへ行く日である。アメリカに入国する時にもそうであったが、イラク情勢が緊迫を極めているので、空港の検査がことの他に厳しい。これまでの2倍以上の時間が掛るので少し早めに行くことにする。
 昨日の内にホテルのフロントに空港までのタクシーを予約して置いた。少し早めにフロントに降りて予約のタクシーを待つ。しばらくの間ロビーで新聞などを眺めていたら、予約時間よりも少し遅れて頼んで置いたタクシーが来た。タクシーといっても乗用車ではなく、それよりも少し大型の後の扉を開けて少し大きな手荷物なら乗せられるような客が9人ほど乗れるバンのような車であった。
 客は未だ誰も乗っていない。私が最初の客だ。ホテルをスターとして、このまま空港に向かうのかと思ったら、途中のホテルに立ち寄った。きっとそこの客も乗せて行くらしい。どうやらこの車は乗合タクシーのようだ。
 運転手が「一寸待って」と言い残してホテルの中に入って行ったきり中々帰って来ない。空港での時間が気になる。しばらく待たされた後、ようやく運転手が一人で帰って来た。そして、何事か呟きながら無線機でどこかと連絡を取り合っている。
 何度かの無線でのやり取りをした後、運転手は舌打ちした後、車を発進させた。このまま空港へ行くのかと思ったら、今私が来たホテルの方へ向かって引き返した。車は私が乗ったKAWADAホテルの前を通り過ぎて、別のホテルの前に停まった。そこで中年の日本人ビジネスマンのような客を乗せてから、また先ほど待たされたホテルの前に帰って来た。そして運転手は「どこかな?」という素振りで場所を探し始めた。やがてホテルの横の扉が開いて日本人の男が手招きをした。問題はこの男か!
 車は狭い道を通ってホテルの裏へと回った。そこで2、3人の日本人が大きな荷物を数個前にして待っていた。どう見てもこの車の容積には見合わない。大きな荷物だ。案の定その多くの荷物は車に入らない。そんなことですったもんだして一向に車は出発出来ない。運転手もお手上げの様子で盛んに無線でどこかとやり取りしている。
 私もとうとう堪忍袋の緒が切れて「早く出発してくれ、時間が無い」と運転手に文句を言ったが「もう少し待ってくれ」と言うゼスチュアを繰り返すばかりだ。彼の日本人は、私の事を指して「このオッサンが文句を言っている」と言ったので、私もカッ!ときて「オッサンとはなんだ!」と怒鳴り付ける。
 そうこうしている内になんとか無理やり荷物を車に押し込んでようやく空港へと出発した。彼の日本人と仲間がもう一人前の席に座り、私の後ろには途中で拾ったビジネスマンのような日本人が座っている。車は街中を抜けて海岸線沿いの道を一路空港へと向かった。何時に着くのか分からない。けれどもこれでなんとか空港へ向かうことが出来た。ヤレヤレ。
 後部座席に座っていたビジネスマンタイプの日本人が、彼等に「どちらの方ですか?」と紳士的に声を掛けた。すると、最初の彼の男が後で乗り込んできた男に「答える必要ない!」と怒鳴った。それでももう一人の男は「劇団なんです」と答えた。ビジネスマンは「どちらの?」と尋ねると先の男が再び「答える必要ない!」と強く言ったのでもう一人の男は躊躇して答えてくれなかった。私も先ほどから彼らのあまりにも傍若無人な態度に腹に据えかねていたので一言「失礼じゃないですか」と柔らかく問い掛けた。彼からは答は無かった。ビジネスマンは再度形を変えて質問したが、先の男は「ウルサイ!」と怒鳴り返してきた。車内にはしばらく気まずい雰囲気を漂わせながら空港へと向かって走る。最後にビジネスマンは「この車にこの荷物を積むのは無理ですよネ。それなりの車を雇うべきじゃなかったのですか」と言ったが、答は無かった。
 やがて車は空港に着いたが、最後までかたくなに彼らの私たちに対する謝罪の言葉は聞けなかった。全く呆れた日本人が居るもんだ。旅の恥はかき捨てとでも思っているのだろうか。それにしても余りにも乱暴な話で、しばらくの間気分が悪かった。
 空港に着くと、チェックインの検査場に長い列が出来ていた。これまでと同じ検査の他に、ズボンのベルトもはずされ、靴まで脱がされて検査機に掛けられた。ボデーチェックも厳しかった。フイルムとカメラをオープンチェックしてもらうと、別室に持って行って機械で検査しているらしく、しばらく待たされた。ようやく検査も無事終り、出発時間にも多少余裕を持って搭乗口へ着いたが何故か落ち着かない。

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Mexico(メキシコ)
ビバ!メヒコ

チチェン・イツァーのエルカスティージョ/写真転載不可・なかむらみちお

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     Mexico_City(メキシコ・シティ)
 ヒラ砂漠を眼下に見ながら、予定通りメキシコ・シティのベニート・ファレス国際空港に着いた。ブエノス! メヒコ。
 メキシコ・シティでは、タクシー利用時に強盗に遭うケースが増えてきていると言う。盗んだタクシーに客を乗せ、共犯者の乗る別の自動車で後を付ける。そして人気のないところで車を停めると、共犯者が車に乗り込んできて乗客を脅かし、金品を巻きあげる。白タクの客引きも多く、トラブルも多い。危険なので絶対に乗らないようにとガイドブックに書いてある。と言う訳で空港出口付近の窓口でタクシーチケットを買って乗る。空港からのタクシー運賃はゾーン毎に決っている。この方法で乗るタクシーは比較的安全だ。
メキシコ  運転手は宿の場所が分からないらしく、走りながら何度も私に尋ねるが、生憎地図の載っているガイドブックは車の後部に積んだバッグの中にあり、手元には住所を書いたメモしか持っていなかった。公園の近くをうろうろしながらある小路に入ってしまった。その付近にたむろしている人に尋ねてようやく宿を探し当てる事が出来た。
 私が日本からあらかじめインターネットで予約しておいた日本人経営の「San Fernando舘」はソナ・ロッサ地区のチャプルテペック公園とアラロダ公園の間位、サンフェルナンド公園に面して在る。その宿は一見普通の家と同じ様であり、看板も小さくて良く探さないと分らないような宿だったが、建物入口の赤提灯が目印でしっかりと日の丸のマークが出ていたので安心して入ることが出来た。
 玄関はお決りの如く鍵が掛っていた。脇のベルを押すと若い日本人が出てきて鍵を開けてくれた。彼はここの人ではなく、宿泊人だった。オーナーは外出していると言う。とにかく中に入るとホールがあって多くの日本人の若者が居た。ひと通り挨拶をして待っていると、混血らしいおばさんが帰ってきて多少訛のある日本語で応対してくれた。中々気さくな人だったので気が楽になった。宿代は朝食付きで一泊N$(ペソ)205(為替レートUS$1=約N$10、N$1=約13円)だった。
 私の部屋は三階で、そこまで階段を上って荷物を運び上げた。部屋の鍵を求めると、掛けなくても大丈夫と言う。どうしてもと言うならあげると言う話なので、その言葉を信用して鍵は貰わなかった。部屋に付随してシャワーと風呂もあった。部屋の天井には大きなプロペラの扇風機が付いていた。この宿は共同炊事場があり、大きな冷蔵庫が備えられていて皆で使うことが出来る。地下鉄駅にも近く、シティの中心に在りながら静かである。
 オーナーに近くのスーパーの場所を訊いて今夜の食料とワインを買いに行くことにする。オーナーは、外は物騒だからお金やパスポートは部屋に置いて行けと言うので、防犯ブザーを紐で結び付けたカメラを黒いビニールのナップザックに入れて買物に行く。スーパーまで行く途中の道は屋台などが並んでいてなるほど物騒だ。それに、もう夕暮れとなってきて少し薄暗くなってきた。
 スーパーといっても小さな商店みたいなところで、あまり品数はなく、ハムやチーズなどは買うことが出来なかった。メキシコに来れば矢張りテキーラを飲まなければならない。何種類かあってどれを買ったら良いのか分らなかったが、店の女主人が「これがいい」というのを一本買った。更に女主人はソーダージュースを勧めてくれた。これで割って飲むと良いという。後で宿のオーナーに聞いたところによると、テキーラはハリスコ州以外ではあまり飲まれていないという話だった。

 ※テキーラ (Tequila) とは、メキシコ国内のハリスコ州とその周辺で、アガベ・アスール・テキラーナ (Agave Azul Tequilana) と呼ばれる竜舌蘭 (Agave)の葉の基部の汁から造られる蒸留酒である。この蒸留酒の蒸留工場が置かれた村がテキーラであり、それがそのまま酒の名前となった。テキーラとは先住民の言語で「収穫する場所」という意味であり、竜舌蘭の植生地を指している。
 この竜舌蘭から造られた酒は、総称でメスカル (Mezcal) と呼ばれる。このうち法的に限定された産地、原料、製法などの下記4規格に見合ったもののみをテキーラとして、販売、流通することが許される。
 1、主原料はアガベ・アスール・テキラーナのウェーバー変種でなくてはならない。また、主原料が総原料に占める割合は51%以上でなくてはならない。
 2、主原料のアガベは、ハリスコ、グアナファート、ナヤリ、ミチョアカン及びタマウリパス各州の特定地域で生育されたものでなくてはならない。
 3、テキーラ村とその周辺地域で蒸留されたものでなくてはならない。
 4、最低2回の蒸留がされていなくてはならない。
 ウイスキーのようにそのまま飲まれるほか、カクテル等の材料にも使われる。産地ではそのまま飲まれることが多く、高いアルコール度数から喉を守るために塩を舐めライムを口へ絞りながら楽しむのが正統な飲み方とされる。1968年のメキシコオリンピックで世界的に大きく知られるようになった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 ポケットからお金を出す時、背負っていたナップザックの中のカメラに付けていた防犯用のブザーと腰のベルトに結んでいた紐をうっかり引っ掛けたらしく、突然携帯防犯ブザーが鳴り響いた。私は慌ててリックを降ろしてようやくブザーを止めた。居合わせた周りの人達もビックリしたようだったが、訳を知ってニヤニヤしていた。
テキーラ/写真転載不可・なかむらみちお 地元の人に人気なオアハカ州の地酒「メスカル(Mezcal)」にはマゲイ(竜舌蘭)につくイモ虫が一匹入っている/写真転載不可・なかむらみちお  宿に帰り、ホールに隣接した台所で夕食の準備に掛ったが、その前にテキーラを開け、そこに居た若者にも勧めて一緒に飲んだ。Salud!(サルー、乾杯!)。若者の一人は東大工学部の学生で、この春卒業とか。明日日本に帰って入社式に臨むという。その他にも国立大学の学生が多かった。
 ここは標高2200m(大雪山旭岳の頂上近く)を越す高地なので酔いが早い。彼らと日本の社会情勢やいろいろの事を語り合い、いつの間にか私は先輩ぶって偉そうな事をぶっていた。後で考えると恥ずかしい。その夜はそんな楽しいひと時を過ごし、明日は出発が早いというのについつい夜遅くまでみんなで盛り上がって飲んでしまった。この宿は日本人旅行者同士で、旅の情報交換するのには最適である。
 首都のメキシコ・シティーは高原にあって、美しい二つの火山、ポポカナぺトル(5452m)とイスタチゥアトルとが年中白雪を頂いて聳え立ち、郊外には二つのピラミッドが数百年の歴史を伝えている。
 米国と境を接するこの国は、ラテンアメリカの玄関でもある。高度に機械化されたアメリカの日常とは打って変わって、ここは懐かしい土の香りに包まれた、野趣豊かな生活環境に恵まれている。カリブ海と太平洋に挟まれた細長く伸びたメキシコは、真中に走る大山脈と相俟って、バラエティーに富んだ気候、風景を備えている。亜熱帯に属している割には、大部分の土地が高原であり且、乾燥しているため、暑さもさほど厳しくなく、大陸性気候のために夜になると可成りの冷え込みすら感じる。こう云う気象条件が、日中は日光を避けるために、ツバ広の帽子“ソムブレロ”を、夜は又、冷え込みを防ぐため、毛布、即ち“サラベ”を纏うと云う独特なスタイルを作り上げた訳である。

   3月18日(火)晴 Mexico_City 10:25-(mx673)11:40 Villahermosa =(バス) Palenque
 朝6時に目が醒めた。飲み過ぎたのか頭が少し重い。調子に乗り過ぎたようだ。ここは2240mと高度が高い事を忘れていた。
 早速顔を洗い、荷物を下に降ろし、一階ロビーの大テーブルで朝食を摂るが食欲がない。この宿に荷物を預けて行きたいが、オーナーが起きて来てくれない。仕方がないのでロビーで食事をしていた同宿の女性に預け、代金と荷物を託し、日本へ今日帰るという同宿の学生さんが頼んだタクシーに便乗させてもらって空港へと向かう。道中二人で雑談をしているとあっという間に空港に着いた。
 空港に入ってから、壁際の安全な場所を探してそこで財布からお金を出し、学生さんに立て替えて貰ったタクシー代を支払う。N$50と安かった。その後二人で利率の良い両替所を探したが、これというところもなく、適当なところで両替した後彼と別れた。
 搭乗手続きカウンターに向かったが、最初間違ってアエロメヒコ航空のカウンターに行った後、メヒカーナ航空の受付カウンターに行った。チェックインはスムーズに済み、Bというところへ向かう事になっている。Bに着いてからどうして良いのか分らず、またそこのメキシカーナのカウンターで訊くと、ここで待てという。時間が迫った30分ほど前になってようやくテレビスクリーンにゲートナンバーが示され、そのゲートへと進む。
 パレンケへのアクセスポイントであるピジャエルモッサ(美しい町)の空港に着いてタラップを降りると熱風が吹き付けてきた。これは只事ではない。ここはタバスコ州の州都で古くから栄えた町である。標高が80m位しか無いので暑い。
 荷物の出て来るのが一行の一番後になり、タクシーチケット売場へ行ったのが遅かったので私の前のところでしばらく待たされた。タクシーはチケット制になっており、台数が少ないらしい。
 ようやくチケットを買い、タクシーに乗る。空港から西に13qのところにあるピジャエルモッサ市内にあるパレンケ行きのバスセンターで降ろしてもらう。バスセンターに入り、インフォメーションという窓口があったのでそこへ向かうが、どうも話が通じない。メキシコの公用語はスペイン語だが、総人口の2割近くを占める各先住民族は、各々独自の言語を持っている。一般に英語の通用度は低い。ようやくチケットを買って待合室に入る前に荷物検査を受ける。この係員が何か言っているが、よく分らない。そのまま中に入り、ゲートへと向かおうとしたが、係りの女性が「未だ早いから中で待て」と言う。よく見たら、出発まで未だ1時間もあった。さっきの荷物検査の係員も多分そのことを言っていたのだろう。この待合室にはテレビとベンチ以外はトイレも売店もない。荷物検査を受ける前の溜まり場には売店が沢山ある。
 ようやく時間が来てバスに乗り込む。なかなか乗り心地の良いバスだ。定刻に出発して、映画を一本上映して見せてくれたが、英語とスペイン語じゃ訳分らず全く面白くない。

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      Palenque(パレンケ)
 田舎の道を2時間ほど走ってパレンケに着いた。ここはピジャエルモッサ同様高度が80m位しか無いので相変わらず太陽が焼け付き、暑い。荷物を引いてバスセンターを出ると向こうにホテルの名前が見えた。一応予約の手紙を出しているのだが、返事が来ていないのでどうなっているのか分らない。不安でわくわくである。
 フロントには片目が外を向いている青年が居て応対してくれた。「Hola!(オーラ!=やぁ!)」。初対面の人との正式な挨拶は「Buenas_tardes(ブエナスタルデス=こんにちは)」だがメキシコでは初対面でも皆「Hola!」と挨拶する。一泊N$1500と言う。
 部屋はすこぶるシンプルで、ベッドと洗面所、トイレ、それにシャワーだけ。洗面所には水抜き栓の詰栓がない。安宿ではよくある事なので特に驚かなかったが、クーラーの部屋ということは天井に扇風機が付いているだけの事で、これには驚いた。テーブルは在っても椅子が無いのは初めてだ。テレビも勿論無い。扇風機を廻してみると、まるでプロペラ飛行機が今にも飛び出しそうな風を切る音を出して廻り始めた。これがここではクーラーか?
 先ず近くの店で水とワインとパン、ハム、牛乳、果物などを買って来た。郵便局で切手を買おうと思ったが閉まっていた。近くの人に訊くと、5時に開くと言うので、再度挑戦してみたがまたも閉まっていた。よく見ると、15時までとなっている。
 パレンケは、ジャングルの真ん中にポツンとある小さな町。8q西にあるパレンケ遺跡へのアクセス基地である。町自体見所は無いが、のんびりとした田舎街の風情が漂っている。
 ホテルに帰ってシャワーを浴びてからワインを開けて飲んだら、疲れが出てきてもうどうする気にもなれなかった。蚊によるマラリヤやデング病の心配があるので、持ってきた蚊取線香を目一杯に焚いてベッドに横になる。暑い土地なので毛布などは無い。窓の外は結構騒がしい。

   3月19日(水)晴 Palenque
 朝6時に目が醒めると、丁度朝日が昇ってくるところだった。屋上に出てみた。南の山脈の下に霞が掛っていた。急いで300_レンズを持って屋上に取って返して撮影する。
 今日はパレンケのマヤ遺跡を見に行く日である。洗顔、朝食を済ませ、この一帯は蚊によるマラリヤやデング病の心配があるので虫除けスプレーを露出している手足、首などに吹き掛けてから8時前に昨日調べておいたエージェンシーの前に行く。お金を支払うと2枚の往復チケットを渡されて道路に停めてあったミニバス(コレクティーボ=乗合ミニバス)に乗せられる。
 ミニバスは定員を無視して少し多めの客を乗せて走り出した。町の中心部ではお巡りさんが旗を持って交通整理をしていた。街を出たミニバスは田舎道を走る。途中で二回ほど停車して客を降ろすと、私と多分遺跡付近のお土産屋にでも働いているのだろう思われる女性と二人切りで遺跡へと向かった。
 パレンケの町から8q離れた密林の中にある遺跡に着くと先ず入場券を買わされ、ゲートへと進む。そこで呼び止められ、三脚を預けさせられた。遺跡の中に進むと、目の前に巨大な階段式ピラミッドがあった。この中にある遺跡のひとつである。
鬱蒼とした密林に眠る古代マヤ文明/写真転載不可・なかむらみちお  鬱蒼とした密林に眠る古代マヤ文明。ここは古代へのロマンをかきたてるマヤの聖域である。パカル王が統治した7世紀に繁栄したパレンケは、世界文化遺跡にも登録されてマヤ古典期後期を代表するメキシコ・マヤ最大規模の遺跡だ。800年もの間、人知れずチアバス州の密林に眠っていたマヤの大遺跡。18世紀になってスペイン人宣教師によって報告され、マヤの歴史的な碑文やパカル王の地下墳墓などセンセーショナルな発見が相次いだ。現在も天文台のある「宮殿」やパカル王の地下墳室が発見された「碑文の神殿」など、6〜8世紀にかけて造られた貴重な建造物が、美しい状態で復元保存されている。ここはメキシコ旅行のハイライトである。
 早速最初の「頭骸骨の神殿」から写し始める。朝一番に近い時間だったので観光客も少なかったが、それでも階段を登って行く客も多く、なかなか人の居ない遺跡の写真を撮るのは難しかった。中央に擬似アーチの入口があり、柱の根元にはうさぎの頭蓋骨の浮彫りがある。
 続いて、「神殿」「碑文の神殿」「宮殿」と写して回る。遺跡はそれほど大きな規模のものではないが、「宮殿」「十字架の神殿」「太陽の神殿」「葉の十字架の神殿」などと呼ばれている壮厳な石造建築物が軒を連ねている光景は、素晴らしいの一言に尽きる。
鬱蒼と繁る熱帯雨林の中にある碑文の神殿。正面の階段は69段ある/写真転載不可・なかむらみちお  碑文の神殿は高さ23mの神殿で、神殿正面の69段の急な階段を登ると(裏手には多少楽な階段の丘もある)ジャングルに点在する遺跡全体を見下ろすことが出来た。最上部は五つの部屋に別れ、中央の部屋には600以上の碑文が刻まれた石盤があった。又、各部屋の門柱にはパカル王のレリーフなども刻まれている。神殿の地下にはパカル王の墓がある。
 「宮殿」と名づけられた建物は、パレンケ遺跡の中心部にあり、最も立派な建造物なので王様が住むところと推定され、宮殿と名付けられた。四角い中庭を囲んで小さな部屋がいくつもあった。その用途ははっきりしないが、多分神官達の住居だった部屋であろうという。
宮殿。塔は「天体観測塔」と呼ばれている/写真転載不可・なかむらみちお  宮殿の中にあってひときわ高く聳えている高さ15mの四層の塔は、天文台であったと推測されている。天文観測に優れていたマヤ民族は期限6、7世紀の頃すでに16世紀までのグレゴリウス歴よりも正確な太陽の周期を算出し、現代科学的計算による1年365.2422日とほとんど同じ365.2420日という数字を出していた。
 パレンケの建物の中で最高の均整美と賞讃されている「太陽の神殿」は、小高い丘の上にあった。神殿の屋根の上の櫛飾りがなんともいえない雅趣がある。

年表/写真転載不可・なかむらみちお  ※マヤ文明…現在のメキシコ南部、グァテマラ、ホンジュラスの一帯に高度な神殿文化を築きあげた文明の事で、三世紀から八世紀末までがその全盛期であった。ところが、九世紀に入ると何故かその文明は急速に活力を失ってしまう。壮大な神殿が放棄され、繁栄の都市は荒廃に帰した。その理由は今もって中南米最大の謎である。
 沈黙の遺跡といえども、想像力をもって問いかけをすれば、ありし歴史のドラマを生き生きと物語ってくれる事は確かである。廃墟をめぐる楽しみは、沈黙にみたされた石の言葉に耳をかたむける楽しみである。(NHK「未来への遺産」取材記T、“失われた時への旅”より)

ここは古代へのロマンをかきたてるマヤの聖域である/写真転載不可・なかむらみちお  なにしろ暑い。おそらく30℃は越えているだろう。射る様な強い日差しと、むせ返るような熱風で歩くのもようやくである。なるべく日陰を選びながら歩くが階段の上り下りは息が切れる。歳のせいだろうか。観光地はどこも大なり小なり階段が多いので、もう、海外旅行は無理なのだろうか。まだまだ体力の限界とは思いたくは無いのだが…。
 持ってきた水が次第に減ってゆく。あまり飲み過ぎるのも腹に良く無いだろうし、飲まないのも血液が濃くなり、温度が高まって危ない。その辺の手加減が難しい。この日は暑さのせいか体調が悪く、観光中に2度もトイレに行った。
パレンケの建物の中で最高の均整美と賞讃されている太陽の神殿/写真転載不可・なかむらみちお  遺跡の入口から徒歩15分の道路沿いには博物館があり、神殿の浮き彫りなどが展示されているというが、途中のジャングルで強盗に遭う危険もあるということなので止めた。
 12時過ぎに一通り見終ったのでホテルに帰る事にする。ゲートを出てみると、御土産屋さんが並んでいる。ひと通り見て回ったが特に欲しいものは無い。たまたま来たエージェンシーのコレクティーボで宿へと帰って来た。
 宿では疲れ果てて何の気力も無く、先ず、ベッドに横になる。一応休んでからシャワーを浴び、その後水とハムと明朝の牛乳を買いに行く。帰って来てから妻への葉書を書き、郵便局へ投函しに行く。この後、妻が私と入れ違いにヨーロッパへ行く前に果たしてこの葉書が家に着くのかどうか疑問だが、一応出してみる。
 先ほどからなんだか手足に痒みが出てきた。考えてみると野菜はあまり食べていない。ビタミン不足なのかもしれない。もうホテルのレストランが開いている時間は終わっているので町へ野菜サラダを食べに行く。近くの一軒のミニレストランに入り野菜サラダを食べる。帰ってきて荷物を整理し、明朝の出発の準備をする。蚊取線香を目一杯焚きながら日記を書く。夕食は昨日の残り半分のワインと先ほど買って来たハム、チーズ、パンで済ませる。明日は丸一日間掛けてメリダへと向かう。

   3月20日(木)晴 Palenque =(バス) Villahermosa 17:00(MX7902)-17:55 Mereda
 手の甲、特に親指と人差し指の間、それに脛や太股の外側などが益々痒くなり、水泡が出来てきた。今日は夕方の飛行機でピジャエルモッサからメリダに向かうのでここを午後のバスで行くことにした。
 今日も天気は晴れでかなり暑い。午前中絵葉書を書いて郵便局へ出しに行く。郵便局といってもビルの一角の一間で、ドア一枚の入口を入ると机と整理棚があるくらいで、他には何もない。その中で二人の男が郵便物を袋に詰めたり、客の応対をしていた。私は一人の男から切手を買って葉書に貼り、その男に差し出した。私は先ほど来た道を再び強い日差しを避ける様に建物の陰を探しながらホテルの方へと歩いた。途中のパン屋でパンを一個買う。ホテルを通り過ぎて昨日食料品を買いに行ったスーパーに行き、ハムを一片買う。昨日と同じセニョリータ(少女)が笑顔で応対してくれた。
 ホテルに帰って来たが、出発には未だ間があるのでロビーで言葉の分からないテレビを見て退屈をしのいだが、少しも面白くない。少し早めにホテルを出て手荷物を引き摺ってバスセンターへと行く。
 バスは定刻通りにパレンケを出発し、先日来た道をピジャエルモッサへと走る。冷房が利いていて気持がいい。
 ピジャエルモッサのバスセンターからはタクシーで空港へと向かう。バスもあるのだろうが、ここからは3ブロック離れた所にあり、言葉も通じないので面倒だ。空港の中も冷房が利いていて居心地は良い。先ず、ビールを一杯飲む。旨い。出発ロビーで待っていると西の空が日没で紅く染まり、とても綺麗だ。
 出発時間が迫ってきたが、私の乗る飛行機の搭乗案内が一向に始まらないのでイライラする。定刻よりも2時間ほど遅れてようやく搭乗する事が出来た。窓の外はすっかり陽が落ちて夜のとばりが訪れていた。

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     Mereda(メリダ)
 無事メリダの空港に到着。夜なのでタクシーを拾ってホテルへと向かう。メリダのMontejo(モンテホ)Hotelは中庭を囲んで部屋があるコロニアルタイプで結構大きかった。コロニアルタイプのホテルとは、コロニアル(植民地)時代のスペイン風の造りをしたホテルのことである。Patio(パテオ=中庭)の周りを囲んで部屋がある。客室の窓は中庭にのみ向いていることが多い。内装も外装も古めかしくどっしりしている。ラテンアメリカの雰囲気を味わうには最高の宿。安宿から高級ホテルまでいろいろある。
 フロントでチェックインを済ますと、二階の部屋に案内してくれた。ボーイが去った後、部屋にクーラーが付いているのだが、電気の入れ方が分らない。再度フロントへ行ってボーイに来てもらって電気の入れ方を教えてもらった。
 旅装を解いた後、夜、出歩くのは危険なのだが、明るい道を選んで近くのコンビニへ行き、冷えた缶ビールを買ってきて飲んだ。とても蒸し暑かったので旨かった。

   3月21日(金)晴 Mereda-(バス)Chichen_Itza-(バス)Mereda
 手や足の皮膚が益々痒くなってきた。水脹れも破れて気持が悪い。鏡を見ると顔も赤く腫れてきて人相が変わってきた。今日は春分の日と秋分の日に神殿の影が延びて神の使いである蛇が降臨したかのように見える現象で有名なチチェン・イツァーに行く日だ。今回の旅はこの日の現象に合せて日程を組んで来た大切な日だ。是非この現象を撮りに行きたい。しかし、痒みももう放って置けなくなってきた。どうにかしなければ益々悪化するような気がする。この先が心配なので、意を決して病院へ行くことにした。フロントへ行ってタクシーを呼んで貰った。20分程走って病院へ着いたが、病院らしい雰囲気では無い。むしろ、診療所という感じだ。
 受付で状況を話すと、一室の前に案内され、その前の廊下のベンチで待たされた。やがて若い女医が来て診てくれたが、英語が通じない。医者が英語を話せないとは驚きだ。ドイツ語ならいいのだろうか。それでも手足を診せて、なんとか薬の処方箋を書いてくれた。私は更に旅行保険請求書の用紙を差し出して、証明をしてくれるように頼んだのだが、考え込んで中々ウンと言ってくれない。言葉が通じないせいばかりではないようだ。何故だろう。その内、一寸待てと言って部屋を出て行った。少しして中年の男の医師と一緒に来て、女医がその男の医師に説明をした。男の医者はしばらく書類を見ていたが、何やら女医に話して出て行った。その後、女医が書類に病名などを書いてサインしてくれた。不思議にも、料金の請求書のようなものはくれなかった。一体どうなっているのだろうか。薬の処方箋だけくれて、これを薬局へ出して薬を買って行けということだった。処方箋を薬局の窓口に差し出して、薬を貰い、会計窓口でお金を払って外へ出た。病名と原因は分からずしまい。しかし、一応医者に診て貰ったのだから差当り良しとしよう。(日本に帰ってから大病院の皮膚科で防虫スプレーのパッチテストをして貰ったが原因は分からなかった。私が思うには夜通し焚いていた蚊取線香のアレルギーではないかと想像している。それ以外に思い当る節は無い)。
 病院前の道路脇に停まっていたタクシーに乗ろうとしたが、予約待ちだとかで乗せてくれなかった。電話で呼べと言う。仕方がないので、再び病院へ行き、電話でタクシーを呼んで貰った。
 やがて来たタクシーに乗ってホテルに戻る。飛んだ物入りでチチェン・イツァー行が遅れてしまったが、階段を蛇の影が延びるのは夕方日没近くなので、これから行っても間に合うはずだ。私はホテルの部屋からカメラの入ったリックを持ってチチェン・イツァー行きのバスが出るバスセンターへとタクシーを走らせた。

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      Chichen_Itza(チチェン・イツァー)
 メリダのバスセンターから2時間半ほどでチチェン・イツァー遺跡のメインゲート近くに着いた。そこから遺跡のメインゲートまでは20分程歩く。バスから降りる時、運転手から帰りはこの道路の反対側のバス停留所でこのバスを待って、このバスで帰るようにと言われた。
 バスを降りたところからメインゲートまでの道路脇にはお土産売りの露店がずらりと軒を連ねていた。かなり蒸し暑い中歩いてようやくメインゲートに辿り着いた。入口付近はかなり観光客で込み合っている。入場券を買って中に入ろうとすると、肩に担いでいた三脚は持ち込み禁止とかで荷物預所に預けてゆくように教えられた。そこで三脚を預けて中に入る。
 メソアメリカ南部の密林に栄えたマヤ文明。数々の都市の跡がこの地に点在しているが、チチェン・イツァーは200年以上に渡って、ユカタンにおける芸術、宗教、経済の中心地だった。そして今も、当時の栄華を彷彿とさせる壮大な遺跡が残っている。
 チチェン・イツァーとは、マヤの言葉で“泉のほとり”のイツァー人と言う意味である。ユカタン半島最大のセノテ(聖なる泉)を中心にしてこの都市が繁栄したことから、そのように呼ばれたと推察されている。
エルカスティージョ。四面すべてに階段がある。春分と秋分の夕方、日影となってその階段部分に巨大な蛇が浮かび上る/写真転載不可・なかむらみちお  ゲートを入ってから、更に森の中を300mほど歩いてようやくエルカスティージョのピラミッド様式の神殿が見えてきた。スペイン語で「城」或いは「城壁」と名付けられたチチェン・イツァーの求心的な神殿である。チチェン・イツァー遺跡はマヤ文明が残した最高傑作である。九世紀初頭に完成したと言われるトルテカ族の都市チチェン・イツァーの中央に聳えるピラミッドは高さ25m、九層の基壇。四面すべてに階段がある。中央階段の蛇頭ククルカン(羽毛の蛇)をしつらえた階段側面は毎年、春分と秋分の夕方、日影となってその階段部分に巨大な蛇が浮かび上るいう巧妙な仕掛けとなっている。それは羽毛の生えた蛇で象徴される軍神ククルカーンの登場を意味する。高度な科学知識に裏打ちされたドラマティクな演出は千年近く時が過ぎた今日も正確に機能し続け、われわれに畏怖の念を抱かせる。この階段の段数、基壇部の垂直面の浮彫り、すべてがマヤの農耕歴と、祭事歴を象徴するように建造されている。ガイドブックには先ずここに昇って遺跡全体のスケールを感じてみると良いと書いてあるが、今は登ることを禁止されていた。
球戯場。球戯場は宇宙を、ボールは太陽を意味する/写真転載不可・なかむらみちお  その左手の広場の片隅では仮設舞台で民族舞踊が踊られていた。それを2、3枚撮影する。その後、全長150mあるメソアメリカ最大の球戯場を見た。中部アメリカ各地で流行った球技は娯楽ではなく、太陽神に豊作を祈る豊穣儀礼のひとつであった。球戯場は宇宙を、ボールは太陽を意味し、現在のサッカーに似たゲームで競い合った。競技者は球技場の両壁の上部に取り付けられた石の輪に、生ゴムのボールを通すのである。競技者はすべて貴族の男性で、腰や肘、膝だけでボールを操った。輪にボールを通すのは至難の技である上、敗者には残酷な運命が待っていた。負ければ首をはねられ、その首は神への供物として球技上の東側にある「ツォンパントリ(頭蓋骨の台座)」と呼ばれる祭壇に曝された。そして、チチェン・イツァはマヤの都市の中で、最も血なまぐさい宗教都市となっていったのである。内壁の基壇部分には勝者の断首の図と両軍の選手の図などがあり、壁一面には、様々な表情の頭蓋骨が彫り込まれている。  コートの両壁は、上部になるほど内側に迫り出している。これは音が逃げず、選手の声が端から端まで届くように設計されている。試しに手を叩いてみるとものすごく反響して、マヤの石組みの技術度が分る。
戦士の神殿。最上段にはチャク・モールが虚空を見詰めている/写真転載不可・なかむらみちお  この後、戦士の神殿へと向かう。三層の基壇を持つ神殿の周辺を戦士の浮彫りが施された石柱が囲み、「千本柱の神殿」とも呼ばれている。頂上にある「戦士の神殿」の入口には、不自然な姿勢で座り、無表情で空を見詰める石像が置かれている。像の名はチャク・モール、神へ供物を運ぶ使者であり、腹部に供物用の皿を抱えて虚空を見詰めている。この皿には、生きた人間から取り出されたばかりの心臓が供えられたという。それは豊穣を祈る生贄の儀式であった。トルテカ文明では、人間の心臓を捧げれば、太陽は不滅と信じられ、生贄の儀式が頻繁に行われていたのである。ここもチャック・モールのある階段上まで立ち入ることは出来なかった。残念! それで、少し離れた所から300_の望遠レンズで上半身だけ見えるチャック・モールを写す。三脚が無いので手振れが心配だ。

戦士の神殿。最上段にはチャク・モールが虚空を見詰めている/写真転載不可・なかむらみちお  ※チャク・モールは死んだ戦士を象徴していて、神へ生贄などの供物を運ぶ存在と考えられていて、チャクモール像の上で人身御供の儀式が行われたり、チャクモールのもつ皿の上に取り出された心臓が置かれたといわれる。仰向けの状態でひじをつくような姿勢で上半身を起こして、顔を90度横へ向け、両手で腹部の上に皿や鉢のような容器をかかえてひざを折り曲げている人物像のことをいう。チチェン=イッツアの「戦士の神殿」のものがあまりにも有名である。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 猛烈に暑い。日陰に入って一服。リックに付けている温度計を見ると30℃近くある。ペットボトルの水が心細くなってきた。
 毎年春分と秋分の日にはエルカスティージョの中央階段の蛇頭ククルカン(羽毛の蛇)をしつらえた階段面には、羽が影となって現われるという巧妙な仕掛けとなっており、それを見る為にこの日に合せて来たので、その現象を是非見たかった。その為には、未だ時間が早い。しかし、あまりにも暑くて待つのも中々大変だ。
 木陰で時を過ごしていると、西洋人と見られる婦人が、ボランテアと思われるボーイスカウトのような少年たちの担架に乗せられて運ばれて行った。会場のあちこちにこのボーイスカウトのような少年達が4、5人ずつ集って待機していたのは、このような事故に対処するためにボランテアで来ているらしい。
 太陽が西の空に傾き掛けると、大勢の観光客がエルカスティージョの前に集ってきた。その前ではマヤの末裔と思われる若者達が神儀のような行事を始めた。
日没直前、蛇頭ククルカンの羽のように中央階段の側面に太陽の影を落とした/写真転載不可・なかむらみちお  日没直前、中央階段の側面に階段の影をまるで中央階段の蛇頭ククルカンの羽のように太陽の影を落とした。巧妙な仕掛けとなっており、マヤの天文学、建築技術の高さが象徴的に示された。
 エルカスティージョ前の行事は未だ続いていたが、帰りのバスの時間が心配なのでこの辺で切り上げて帰路に着いたが、未だ未練があり、後ろ髪を曳かれる思いだった。
 メインゲートの荷物預かり所で三脚を受け取り、バス停へと向かった。ゲートを出てすぐ前のお土産屋を覗いてみた。チャック・モール像の小さな人形があったので値段を訊いてみたら2jと言う。来る時見た店では1jであったので要らないと言って店を離れて歩き出すと、店員が追いかけてきて1jで良いというので一個買った。
チャック・モール像の小さな人形/写真転載不可・なかむらみちお  バス停まではかなり遠かった。大勢の人込みの中にようやくバス停留所を見つけた。バス停には来る時一緒に乗って来た日本人の女性もいた。その人に確認すると、確かここでいいはずだと言うのでそこで待つことにする。次から次へと客を乗せた帰りのバスが通過するが来る時に乗って来たバスは来ない。あまりにも変なので、付近を少し歩いてみたら通路から少し奥まった広場に乗って来たバス会社のバスが数台待機していた。その中の一台に乗って来たバスがあった。
 乗車してしばらく待ってからバスが発車した。予定時間よりも30分も遅れて発車した。帰路は当然陽が暮れて夜道のハイウェーをバスは一路メリダへと向った。
 メリダに着いてからホテルまでは夜道は危険なのでタクシーで帰った。

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      Mereda(メリダ)
   3月22日(土)晴 Mereda-(バス)Labna-(バス)Kabah-(バス)Uxmal-(バス)Mereda
 メリダから南へ80q、鬱蒼とした森の中にもうひとつの重要なマヤ遺跡、ウシュマルがある。今日はウシュマルなど五つの遺跡を見るバスツアーに乗ることにする。
 7世紀初頭のマヤ古典期に栄えたこの遺跡は、プウク様式(Puuc=マヤの言葉で、ユカタン半島中央の丘陵地帯のこと)と呼ばれるマヤ色の濃い建造物で知られている。
 7時半にタクシーを呼んで貰い、バスセンターへと向かう。昨日の内に調べておいた2等級のバスセンターの窓口へ行き、切符を買おうとしたが、カードは扱っていないと言う。ドルもだめだと言うので隣の窓口でドルをペソに両替してもらってようやく切符を買うことが出来た。切符を売ってくれた窓口の女性が今すぐバスに乗れと言う。昨日訊いたときには確か8時半出発と聞き、余裕を持って来たのに今出発と言う。慌てて取るものもとりあえずバスに乗るとすぐ出発した。

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      Uxmal(ウシュマル)
 バスは街を通り抜けて田舎道を1時間半ほど走り、ウシュマルに着いた。そこで何人かの客を降ろしてから更にその奥の遺跡へと向かった。
仮面の宮殿の異名を持つカバー遺跡/写真転載不可・なかむらみちお  先ず、着いたラブナ遺跡を見る。ここは初めから見る予定をしていない遺跡なのであまり興味がない。ひと通り見てからバスへ戻る。
 次に向かったサイルも同じように初めから見る予定をしていた所ではない。ここは横に長く四角な遺跡であまり良く分からない遺跡だ。三層構造の巨大な王宮の正面にある男と女一対となった円柱が美しいとあるが、どれだか分からない。その先の林の中の道を更に進むと天文台に使ったという上層に小さな格子窓をいくつも持った遺跡があった。これは少し興味を引いた。
 3番目にウシュマルの22q南東にあるカバーの遺跡を訪れた。この遺跡は今日の中で観た遺跡の中では大きい方である。外壁が300近くの雨神チャックの顔で飾られており、仮面の宮殿の異名を持つ。
 最後にウシュマル遺跡を訪れた。ウシュマル遺跡はマヤ・プウク様式の代表的な遺跡である。プウク様式の特色は、建築物の壁一面に彫刻を施した石を組み合わせ、複雑なモザィクや蛇など、数々のモチーフで華麗に、そして過剰に装飾している点だ。
 マヤ文明において、7〜10世紀に繁栄した都市国家のひとつ。謎の多い遺跡だが、プウク様式と呼ばれる優雅な建築を持つ建造物がその栄華の様を物語る。
魔法使いのピラミッド。マヤ遺跡としては珍しく側壁部が丸みを帯びており、優雅で女性的な膨らみのある外観が美しい/写真転載不可・なかむらみちお  入ってすぐ目の前に巨大なピラミッド形式の遺跡がドンと座っていた。この高さ38mの巨大な建築物は、マヤ遺跡としては珍しく小判型の石組みで作られ、側壁部が丸みを帯びている。優雅で女性的な膨らみのある外観で美しい魔法使いのピラミッド。その優雅なフォルムはマヤ遺跡の華である。正面の階段には、雨神チャックの奇怪な顔が頂上まで続く。標準ズームレンズでは入りきれないのでワイドレンズに付け替えて撮る。
 更にその奥へと進むと、庭園を囲むように建物が四方に建っていた。尼僧院である。魔法使いのピラミッドの西にあるこの建物群は、広大な中庭を四つの矩形の建物が取り囲む構成になっている。それぞれ、たくさんの小部屋を持つ事から、尼僧院と名付けられた。実際は、宮殿であったとも推測されている。建物南側の中央では大きなマヤ・アーチが通路を形作っている。
巨大な大ピラミッド。高さ32mの大ピラミッドの階段はかなり急/写真転載不可・なかむらみちお  更にその先には巨大な大ピラミッドがあった。もう暑くてどうしょうもない。目眩がしてくる。倒れなければ良いがと心配しながら日陰を辿って休み休み行く。高さ32mの大ピラミッドの階段はかなり急で、ここの遺跡の中で最も高さがある。もうすっかり疲れ果て、バテ気味なのでどうしようかと思ったが、ここまで来て上から見ないのも残念だ。意を決して登れるところまで登ろうとして階段に足を掛けた。階段は急だが、以外と登れそうだ。上を見ると溜息が出る。下を見ると怖くなるので足元だけに集中して登る。途中で2回ほど休んでようやく頂上まで登り詰めた。
 上からの眺めは最高に良かった。苦労して登った甲斐があった。緑の地平線に向かって果てしなく続く、360度のジャングルを望むことが出来る。更に西の樹林の中に隠れていた鳩の家の遺跡もここへ来て初めて見えた。
 一息入れてから、急な階段を滑り落ちないように後ろ向きに四つん這いになって一歩一歩慎重に降りる。ここで足を踏み外したらおそらく下まで転がり込んで一巻の終りだろう。怖い階段だ。
右側の建物が総督の宮殿/写真転載不可・なかむらみちお  ようやく無事下に辿り着き、その先の総督の宮殿の庭園を通ってゲートへと向かう。そこから遺跡の写真を撮っていたら、同じバスで一緒になった日本人の女子大生が崖の下を通っていて、今私が行って来た遺跡の方へと進むのが見えたので声を掛けた。
 ゲートに着いて先ず兎に角ビールを探して飲んだ。小型の瓶ビールが20ペソスと街中よりも2倍一寸高いが、背に腹は代えられない。ここは観光地だから街よりも物価が高いのは想像が付くが、何よりもこの暑さの中で疲れ果てた体には20ペソス以上の価値がある。迷わず一本栓を開けて貰う。コップにあけて思い切り飲む。旨い。こんな旨いビールを飲んだのは久し振りである。現地で人気の高いビールはボエミア(Bobemia)という銘柄だという。これは、ミュンヘンの世界ビールコンテストで1等賞をとっただけあって流石に味も香りも良い。他にスーペリオール(Superior)というのも美味しいとされている。  近くの日陰に日本人男性の若者3人が腰を掛けて休んでいたのでいろいろと雑談を交わした。バスの発車時間までは約1時間ほどある。  彼らはやがてバスの時間だからと言って分かれた。私は尚もそこで少し休んだ後、外に出てバスを見に行った。ツアーのバスなどが沢山並んでいたが、私達のバスは見当たらなかった。
メキシコのビール。スーペリオールSuperior/写真転載不可・なかむらみちお  再び先程の所へ来て休む。やがて同じバスの日本人女性も帰って来た。二人でしばらくそこで休んで居る内に時間がきたので外へ出てバスを探すが見当たらない。変だなと思いながら近くを探したり入口近くの人に彼女が訊いてみると、バスは1時間前に二人を残して出発したと言う。彼女の話では、バスから下車した時、2時間半と聞いたらしいが、実は2時半出発の間違いだったらしい。私は言葉が分らないので彼女の言うことを信用したのが間違いの元だったようだ。入口近くに居たコレクティーボの運転手が38ペソスでメリダのバスセンターまで行ってやるということなので、それに乗せて貰う事にした。
 運転手はラジオのボリュームを一杯にロック調の音楽を掛けるのでうるさくて敵わない。暑さと腹立たしさが一緒になってイライラするがしょうがない。じっと我慢する。

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      Mereda(メリダ)
 1時間半ほど今朝メリダから来た道を逆に走ってようやくメリダのバスセンターへと着いた。運転手にこの先ホテルまで送ってくれるかと交渉して見たがダメだった。あそこのタクシーを拾って行けと言う。
 バスセンターに入り、彼女が窓口へ行って交渉したがやがて困ったような顔をして帰って来た。今、英語を話せる人が居ないとかで話が通じないらしい。どうしましょうと私に問い掛けてきたので、仕方なし、私は乗車切符を窓口に示し、背のリックを指差して「ジスバス、インサイド、マイ、バッケージ」と話してみた。初めは分って貰えなかった様だが、ようやく分ってもらえたらしく、待合室の中を指差しながら、何か言っている。向こうへ行けということらしい。言葉で分ったのではなく、私の仕草でなんとなく分ったのだろう。そしてマイクで話をする仕草をするので乗車案内のことだなと分った。急いでゲートを通してもらい、案内嬢の所へ行く。日本人女性は私に付いてこなかった。ようやく運転手の部屋に案内されるとあの運転手が居た。そこで再び訳を話し、分ってもらえた。運転手がバスへ荷物を取りに行ってくれた間、そこで待たされた。彼が持って来たのは私のビニール袋ではなく、彼女の物らしい。私はこれは違うと言うと今度はバスへと案内された。バスの中に入ると、私が座っていた席の後ろの席に私のビニール袋があった。実はこの中には水とパンしか入っていなかったのだが、ついでなので貰っておいた。
 運転手室の前に帰ると、彼女も来ており、彼女の荷物も手渡すことが出来た。先ずはひと安心したところでバスセンター前のミニコンビニで瓶ビールを一本買って飲む。コップはくれないので、瓶の口に口をつけてラッパ飲みするが、これでは折角のビールもビールの味がしない。
 その店を出てからホテルまで歩いて帰ることにする。タクシーだとホテルまで30ペソスなのだが、遺跡からの帰りに38ペソス無駄遣いしてしまったので、せめて歩いてその分を埋め合わせする訳である。と、言うのも今日はもう銀行は閉まっており、両替が出来ない。手持ちのペソスが残り少ないのである。パレンケで時間が有ったのだから、あそこで両替しなかったのが悔やまれる。両替のことをすっかり忘れていた。ホテルの近くのいつものコンビニで缶ビールを一個買ってホテルへ辿り着く。今夜は久し振りにレストランで夕食としよう。
 部屋に入り、取り敢えずビールで乾杯。旨い。バスに忘れて持って来たパレンケで買ったカステラパンを齧っている内に、外へ食べに行くのが面倒になった。
 今日の荷物の整理と、明日の行動の資料などを揃えた後、疲れたので7時半だというのに早めに寝てしまった。

   3月23日(日)晴 Mereda
 朝起きて顔を洗った後、付近のソカロ広場辺りを下見がてら散歩して来た。メリダは無数のマヤ遺跡が散在するユカタン州の州都。街の中心部は植民地時代の面影を色濃く残して味わい深い。ここにはメキシコで最も大きいと言われているカテドラルがある。先ず、ホテルを出て、左手に行くと教会がある。昨日の名残か花屋さんが中から花の台を運び出していた。
カテドラルの中/写真転載不可・なかむらみちお  その後、ソカロ広場に行き、先ず、カテドラルの中に入ってみると、早朝だというのに、早くも満員に近い信者がミサの祈りを捧げていた。この祭壇にあるキリスト像は、火ぶくれのキリスト像といわれているそうだが、そんな感じには見受けられない。木造らしく、結構大きい。
 ここを出てこの辺の統治に大きな業績があったというモンテホの屋敷の前に行ってみた。そこの門の彫刻が、かつての殖民時代に現地の人を支配した名残を象徴するかのようなデザインがあると言うことで良く見たが、小さく一つだけそれらしいのが有ったが、言われないと分らないほどだ。
 ホテルに帰ってきて朝食を済ませる。今日は何も予定がないのでどう過ごすか考え込んでしまう。今日も連日のように暑いのかと思うと外を出歩くこともしたくないし、さりとて部屋は中庭を囲むように部屋を造ったスペインのパテオ形式なので、部屋には窓はなく、電灯も薄暗く、クーラーはあるけれど、陰気くさくてとても籠もっては居られない。朝から蒸し暑いが、未だ昼間ほどではないので、ベランダに出て昨日の日記の続きを書き始める。
民族舞踊/写真転載不可・なかむらみちお  10時頃になるともう暑くなり、とてもここで書いてなどいられない。今日は、明日カンクンへ行くためにバスに乗るので、そのためのペソスを両替して用意しておかなければならない。それに病院で貰った薬も切れてきたのでそれも買わなければならない。ということで出かけることにした。両替は近くに両替所があり、幸いにも開いていた。又、日曜日だからどうかなと思った薬屋も開いていて無事に買うことが出来た。(薬は病院で貰った処方箋を持って行って買ったのだが、後で日本の病院の医者に見せたらこの症状には利き目のない薬だと言われた)。その後、ソカロ広場に行ってみた。広場には屋台が立ち並び、ステージも在る。どうやら今日は特別の祭日であるらしい。仮設ステージでは民族舞踊が踊られていたが丁度終わったところだった。残念なことをした。
 カテドラルの斜め前にはメキシコの国旗を立てた大きな州庁舎があり、門には警官が張り番をしていた。しかし、一般市民が入って行くので私も入ってみた。壁には大きな絵画が描かれていた。二階に上ってみた。そこの一室では何か講演があるらしく、係員が椅子を並べていたが、一般の客も入っているので私も中に入ってみた。冷房が利いていてとても涼しかったので、そこのベンチに腰を降ろしてしばらく休憩した。そこからいつまでも動きたくなかったが、いつまでいるのもなにか居辛くなりそうなのでやがてそこを出た。一階に降りてから、門番の警官に教えられたトイレに行ったが、ほとんどが故障で、建物の立派さとは不釣合いだった。
中華料理。Fai_Pani.N$33.50/写真転載不可・なかむらみちお  そこを出て2、3軒先に行くと、寄合いの店の入ったビルがあり、覗いてみた。その中の一軒の食堂にチャイナ風の料理があったので入り、その料理とビールを頼んだ。その料理の名前はTAIPAN(ダイ・パン)と言うそうで、米や肉、野菜など三種類を盛り付けしたものだった。米は日本で食べる米とは違い、少々固めでぼろぼろした物に味付けした物である。旨いというほどの物ではないが、食べられないことはない。暑かったのでビールがまた格別の旨さだった。そこを出るとソカロに面した斜め向かいにある市庁舎前の路上で楽団に合せて民族舞踊が踊られていた。これは中々良かった。何枚か写真も撮った。メリダの市内では各所で毎週定期的に行われると言う。
民族舞踊/写真転載不可・なかむらみちお  それが終った後、最初に見た別のステージでは2時から踊りが始まると聞いていたのでしばらく近くのベンチで時間待ちをした。そのベンチの前には屋台の衣装売屋が店を出しており、中年の夫婦が客の応対していた。しばらくその前のベンチに腰を下ろしていると、その主人が私に何か話し掛け、仕舞いには日本語の俄か教室になってしまった。彼はマヤ族で、奥さんは朝鮮人だという。美人だがどこか東洋的だなと思ったらやっぱりそうだった。5、6歳位の女の子も時々現われる。女の子ばかり3人の子供が居るという。
 彼が手にしていた現地の新聞にはイラク戦争の記事が1面トップに写真入で大きく掲載されていた。私はそれまで20日にイラク戦争が始まったことは全く知らなかった。彼はアメリカがイラクの石油利権を奪い取るために始めた侵略戦争だと非難していた。事実ブッシュ大統領にはアメリカの石油資本家が後ろ盾になっているという話を聞いたことがある。

 ※イラク戦争…イラク戦争は、2003年3月20日よりアメリカ合衆国が主体となり、イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わる有志連合が、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由としてイラクに侵攻したことで始まった戦争である。石油の一大産出地域である中東に戦乱を生じさせ、石油価格を上昇させて石油市場の流れを操作する。イラクは石油輸出の決済をドル仕立てからユーロ決済への移行を決定していた。これが実行されるとアメリカドルの世界基軸通貨としての地位が揺らぐため、それを阻止するための防衛戦争として侵略を決行したとの説があるが、どの通貨を決済・準備通貨をにするかは、政府でも法人でも個人でも当事者の状況判断や価値判断で決める。冷戦以後、目立った戦争を経験していなかった軍需産業が衰退していたため戦争を誘発するようホワイトハウスに圧力をかけたという説がある。サウジ・ロシアに次ぐ埋蔵量(世界第三位)を持つイラク北部の油田地帯を反米のフセイン政権が握っているのは、アメリカ(特に国際石油資本)にとって好ましいことではなく、利権を押さえる為。数十年後に予想される原油枯渇によるエネルギー危機にそなえて、石油利権の確保のため。開戦当初から、イラクの石油をアメリカ資本、イスラエルが独占するための戦争であると主張する説。イスラエルの左派系新聞『ハアレツ』が主張している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 先のステージで何かアナウンスが聞こえ始めたので行ってみた。まだ踊りは始まっていなかった。またその近くではアフリカのような太鼓のグループが演奏しており、うるさかった。4時近くなってようやく踊りが始まったが、曲目も少なく、すぐに終ってしまった。
 バナナとチョコレートとコーヒーの香りに満ちたメキシコは、又楽しい民謡の宝庫でもある。この国の民謡は、日本のほぼ裏側の国に育ったにもかゝわらず、私達日本人の感情に訴える何物かを持っており、わが国に古くから数多く紹介され、馴染み深いものが可成り多い。
 民謡は、その国の気候、風土、人々の暮らし向きを良く伝えてくれるもの。又逆に、これ等を知ることは民謡に親しむ一番の近道ともいえる。
 都会的な香りを漂わせる「ボレロ」は、おなじみのトリオに依って育てられてきた。ギター片手に唄う三人組、トリオ・ロス・パンチョス等はその代表的な存在である。このようなトリオは、メキシコの都会には無数に存在し、生計を営んでいる者のみに限らず、三人寄れば必ず夜を徹して唄いまくる彼等メキシコ人には、衣食住の三つの他に「音楽」を加えなければ生きてゆけない国民の様だ。
 ようやく少し暑さがしのげるようになったので、このままここに居たい感じもしたが、ここでボケーとしていてもしょうがない。込み合っているので持ち物も危険だ。あまりホテルのあの薄暗い部屋には帰りたくもないが帰ることにする。
 今夜の食事はどうしようか、先ほどのレストランにも行ったし、今夜はレストランに行くつもりだったが、昼に行ってしまったので先ほど見かけたピザ屋でピザを買い、コンビニで缶ビールを買って夕食にしよう。それでも足りなかったらレストランに行くのも良し。
 ピザ屋でピザを買ったらコーラが付いてきた。込みで1400ペソスという。コーラの中には氷が入っていた。氷はどんな水を使っているか分らず、怖いので氷の入らないコーラに取り替えて貰った。それを持ってコンビにへ行ってビールを買おうとしたら、売ってくれない。訳を聞くと日曜日はビールは売れないことになっているという。但し、レストランでは飲めるという。しかたなしそのままホテルに帰り、ピザとコーラで夕食を済ませ、その後片付けと明日の出発準備をした後、シャワーを浴びたが未だ7時半と寝るのには少し早い。それに8時に薬を飲まなければならない都合もあるので時間潰しに日記を書き始めた。

   3月24日(月)快晴 Mereda-(バス)Cancun
 今日は早朝のバスでカンクンへ行く。ホテルでタクシーを呼んで貰い、CAMEと呼ばれる1等バスターミナルへと向かう。
 メキシコでは長距離バス、特に2等バスでの移動中、乗客を装った強盗が乗り込んできて金品を強奪される被害がある。かつて日本人学生が強盗に刺殺された事件も起きている。特に夜行バスは狙われやすい。これらを防ぐためには必ずノンストップの1等バスを利用したほうがいい。
 バスターミナルの売店で朝食としてパンと牛乳を買い、待合室で食べる。少し早めに来たので時間はたっぷりある。
 冷房の利いたバスはジャングルの中のハイウェーを一路カンクンへと突っ走る。ジャングルの中なので周りを見回しても何もない。バスの後部にあるトイレへ行くと、そこは冷房が利いていないのでムッとするほど暑い。今日も外はかなり暑いようだ。

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     Cancun(カンクン)
コーチュダ・ビビル、N$84.00/写真転載不可・なかむらみちお  6時間ほど走ってバスはカンクン・セントロのバスターミナルに着いた。昼を少し廻った時間だったので腹が減った。ホテルへ歩いて行く途中にレストランがあったのでそこに入り、メキシコ料理の主食、トルティージャとユカタン半島産のモンテホ(Montejo)と言うセルベッサ(Cerveza=ビール)を頼んだ。モンテホとは、ユカタンの征服者であるF.モンテホの名前から取ったもの。ユカタン産のビールは他にレオン・ネグラ(Leon_Negra)などがある。Tortilla(トルティージャ)は水でふやかしたトウモロコシを練り込んだ生地マサを薄く円形状に延ばして焼いたものだ。このトルティージャに好みの材料を挟んで食べるのがタコスで、中に入れる物は千差万別。牛肉、豚肉、鶏肉、などの焼肉を削った肉やトマト、玉葱、内蔵類などがある。
 暑い中を歩いて来たのでビールが旨かった。五臓六腑に染み渡る。トルティージャに削った焼肉やトマト、玉葱、ピーマン(?)などを小さく刻んだものを挟んで食べた。辛い! トマトや玉葱にハバネロが混ぜてあったらしい。その辛さは尋常でなかった。頭にガツンと来て口から火が出た。急いでビールを流しこんだが辛さはほとんど変わらなかった。口を半開きにして只々ほとぼりが醒めるのを待つだけしか方法がない。

 ※ハバネロ…「あなたはこの辛さに耐えられるか」。トウガラシ属の植物の一種で世界一辛いトウガラシ。ユカタンでは現在年に1500トンが生産されている。ハバネロを作っている村は、メリダから車で2時間ほどの所にあるサンタクルス村(人口1200人)である。ハバネロは単に猛烈に辛いだけでなく、柑橘系のフルーティーな香りがある。

 目指す本日のColonialホテルはそこから歩いて少しの所で、割合簡単に見付かった。まぁまぁのホテルだ。フロントでチェックインを済ませ、鍵を持って二階に上る。部屋の入口はここもパテオに面してある。部屋に荷物を置いてから近くの銀行へ両替に行く。銀行のロビーには同じく両替をしようとする旅行客などが長蛇の列を作っていた。順番が来るまでに2時間ほど掛った。
 両替を済ませた後、スーパーに向かい、ビールを初め食料品を買い込んだ。この店はビールをばら売りしてくれない。6缶ひと包の缶ビールを買う。途中で絵葉書と切手を買ってホテルへ帰る。早速缶ビールを開けて本日の旅程の無事を祝って乾杯! 明日はイスラ・ムヘーレスへ行く予定だ。

   3月25日(火)快晴 Cancun
 朝から抜けるような青空で気持がいいが、相変わらず朝から蒸し暑い。今日は青く澄んだカリブ海と純白の砂浜を持つ世界有数の美しいビーチリゾート、イスラ・ムヘーレスへ行くだけなのでゆっくりとホテルを出る。
 友人のH君宛に書いた絵葉書を投函し、ガイドブックに書いてあるバスセンター前の街角にあるバス停へと向かう。道々近くの人に訊きながら行ったらバス停はすぐに分かった。何系統も走ってくるバスの中でようやくR13のプエルト・フアレスの船乗場に行くバスに乗った。料金は4ペソだった。ガイドブックには降りるところが書いてなかったので、多分終点だろうと思って最後まで乗っていた。やがてバスは終点に着いた。運転手に乗場は何処だと訊いたら、もう過ぎたと言う。またバスはここから折り返すのかと訊くと頷いたのでそのまま乗っていた。
プエルト・フアレスの船乗場/写真転載不可・なかむらみちお  やがてバスはさっき街並みが少し賑やかだなと思う所に来たところで運転手が「アキー(ここだ)」というので降りた。「ムイント、オブリガード(どうもありがとう)」。プエルト・フアレスのピアには一艘の木造船が桟橋に横付けされ、客が乗り込んでいた。出発まで少々間があるようなので、一旦船から降りてその辺をスナップした。
 やがて船はほぼ満員に近い客を乗せて桟橋を離れた。海も空も綺麗だった。こんな美しい海は見たことがない。フランスのニースの海岸も感動したが、規模はこちらの方が大きい。

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     Isla_Mujeres(イスラ・ムヘーレス)
澄みきったコバルトブルーのカリブ海/写真転載不可・なかむらみちお  ユカタン半島の突端に位置するカンクン沖、11qの洋上に浮かぶ全長8qの小さな島。しばらく走って船はようやくイスラ・ムヘーレスのフェリー乗場に着いた。そこから海岸伝いに北に向かって歩いて行くと砂浜が見えてきた。澄みきったコバルトブルーのカリブ海、きらきらと輝くライムストーンの白い砂浜、目の覚めるような青い空、そして、一年中夏の光を感じさせてくれる太陽。やしの木が風を受け、深いグリーンの葉を揺らしながら爽やかに潮の匂いを漂わせる。カリブ海のそよ風が吹き渡るビーチで、のんびりとくつろぐのもいい。
 島の中心部の北側に広がるプラヤ・ノルテは波も穏やかで、プールのような美しいビーチである。白い砂浜のやしの葉の木陰ではトップレスの女性が日光浴をしている。イスラ・ムヘーレスとは「女の島」と言う意味である。のんびりと時が流れる南の楽園がここにある。
浜辺のアフロディテ/写真転載不可・なかむらみちお
青く澄んだカリブ海と純白の砂浜を持った世界有数の美しいビーチリゾート/写真転載不可・なかむらみちお  海水浴場の雰囲気のあるところを写しながら海沿いに砂浜を尚も北へ向かって歩く。やけに暑い! 目眩がしてきそうだ。立て続けに手持ちのボトルから水を呑む。あまり飲み過ぎると後が怖い。手加減をしながら考えて飲まなければならない。ここはリゾート地だからいざという時にはいくらでも売っているが高い。
 1qほど海岸沿いに砂浜を歩いて行くと、やがて砂浜が尽きる。そこのホテル付近でも随分写した。再び今来た海岸沿いの砂浜をなるべく椰子の木の葉の生い茂る日陰を選びながら休み休み戻る。砂浜の切れたところで商店街に入り、雑貨屋さんで冷えたビールを買って飲む。旨い! それに10ペソと観光地にしては高くない。その店でスーパーマーケットの場所を訊いて行ってみたが、今、ビールを飲んでしまったし、別に買う物はない。因みにスーパーでは冷えてはいないが、ビールは7ペソスで売っていた。
魚料理Rescads_Frito_Entero.N$55.00/写真転載不可・なかむらみちお  浜辺に戻り、レストランBrisas_del_caribeに入り、魚料理を食べた。何かシーランカスを小さくしたような顔の魚を蒸し焼きにした物でPescado_Frito_Entero と云い、55ペソスだった。それに日本でもお馴染みのコロナと言うビールを頼んで全部で72ペソスだった。美味かった。但し、それに付いてきた野菜を賽の目切りにした酢漬けにしたような物を薄皮に包んで食べたものは辛かった。口の中がしばらく痺れて汗が出てきた。
 やがて老人が二人来てシロホンを奏で始めたが上手くない。この店でチップ稼ぎをしているようだ。食事が終わりに近付いた頃、さっき乗って来た船が出て行った。また来るだろう。流石にあの魚を丸ごと一匹食べたら腹一杯になった。いい気持でフェリー乗場に行く。
 フェリー乗場には高速船が横付けされ、客が乗り始めた。私は係りの人にさっきの木造船はいつ出発するかと訊くと、5時だと言う。あと2時間もある。とてもそれまでここで待って居られないので高速船に乗って帰って来た。帰りのバスはすぐ来た。運転手は親切で私が降りるバスセンターの停留所で降ろしてくれた。
 バスを降りた後、近くのスーパーで夕食と朝食を買ってホテルに帰って来た。今朝ホテルに預けて置いた昨日買ったビールを受け取り、先ずビールを一杯。今日はこれで3回目だ。その後、明日の出発準備やら靴下の洗濯、日記を付け、シャワーを浴びて8時頃寝た。持ってきた蚊取線香を全部使い切ってしまった。  

   3月26日(水)曇 Cancun 10:55-(MX370)13:10 Mexico_City
 昨日はあんなに快晴だったのに今日は曇りだ。今日はメキシコ・シティに移動だが、飛行機はカンクン発10時55分とゆっくりだ。しかし、宿に居ても何もすることがないので起きたところで洗顔、朝食を済ませ、7時半にタクシーを呼んで空港へと向かう。気温は相変らず高い。
 チェックインはすんなりと済み、時計を見たら8時半だ。出発まで2時間以上もある。空港はやけに冷房が利いていて寒いほどだ。初めは出発予定のゲート前に居たがここは寒かった。一階よりも二階の方が少しは温かいかと思って移動してみたが、大して変わらない。体操などをして少しは体を温めてみる。
 外を見ると雨が降ってきた。昨日はあんなに快晴だったのに…。出発30分前になったのでゲートの方へ降りて行く。途中で売店があったので流してみる。長男夫妻にはハリウッドでTシャツのお土産を買ったからいいが、次男と娘には未だ何も買っていない。丁度カンクンの海をイメージした青く美しいカップ入りのローソクがあったので一個買う。
 ゲートに行ったら、もう搭乗していた。係の人に名前を呼ばれた。急いで登場する。ほぼ満員だが私のところは続けて3席空いていた。出発間際に窓側に移動する。
 飛行機は定刻に出発した。やがて飲物のサービスがあった後、サンドイッチが出てきた。予定表には飲物のみのサービスと書いてあったので意外だった。こんな事であれば、さっきカステラを食べなければよかった。
 窓から地上を眺めていると密林から二筋三筋の煙が立ち昇っているのが見えた。恐らく焼畑農耕のための火入れの煙であろう。中南米では今も焼畑農耕が行われているという。ここメキシコの密林地帯ではマヤの末裔、ラカンドンが古代そのままの焼畑農耕で農業を営んでいる。こうして密林が開拓され畑となって緑が失われてゆく。

 ※焼畑農耕では、同じ畑で、二、三年続けて収穫すると、地味は極度にやせてしまう。そこで、新しい耕地を求めて、密林の奥へと移動してゆく。耕作を放棄した畑に、再び密林の緑が戻って、地力が回復するまで数十年は待たなければならないのである。(NHK「未来への遺産」取材記T、『失われた時への旅』より。)

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     Mexico_City(メキシコ・シティ)
 メキシコ・シティ空港には定刻に着いたのだが、ゲートに行くまでにかなり待たされた。メキシコ・シティの空港は飛行機から降りてから荷物を受け取りまでの道程が遠い。動く舗道はない。荷物のターンテーブルに着いたら、もう荷物が廻っていた。
 荷物を受け取り、その後ユナイテット航空の窓口へ行って日本へ帰る時のリコンファームをした。これがまた遠かった。リコンファームを終えてからタクシーチケット売場へ行く。最初ここに到着した時よりも高い。前回はこの値段だったとメモを見せ、強引に前と同じ値段にして貰った。
 運転手に住所を見せたが、よく分からないらしい。挙句にそのホテルは閉店したと言い出した。しかし、意外とすんなりと先日宿泊した日本人経営の「San Fernando舘」の前に着いた。
 メキシコ・シティはアステカ帝国とスペイン殖民地時代の旧跡、そして中南米諸国の中心地としての現代文化が錯綜した人口2000万人の大都市だ。歴史が幾重にも重ねられたメキシコの首都は、観光の起点であるばかりでなく、世界的な観光地である。メキシコ・シティは先住民のアステカの時代には湖上に浮かぶ大きな都市だった。スペインが植民地にするとテスココと呼ばれていた湖を埋め立ててしまったので、現在のような盆地になっている。
 現在のメキシコ・シティは、アステカ帝国の中心地にあった神殿や宮殿を壊し、その石材でスペイン風の市街地を築き、湖を埋め立てて完成した。未発掘の巨大な遺跡の上に、今の首都があるといってもいい。市内における神殿の跡は現在、国立宮殿横のテンプロ・マヨールなどで見られる。
 一旦宿に落ち着いた後、未だ時間が早かったのでホテルの近くのメトロ2号線のHidalgo駅からソカロにあるZocalo駅へ行く。この近くにはアステカ遺跡の一部と見なされるテンプロ・マヨールがある。それを見に行くことにした。
ツォンパントリの祭壇のドクロの彫刻/写真転載不可・なかむらみちお  この遺跡はアステカ帝国の都テノチティトランの中央神殿とのこと。遺跡には見学用の通路が渡されていた。色鮮やかに残っている赤い神殿には水の神トラックに捧げられた神殿の前に、生贄を乗せたとされる神の使者チャック・モールの石像、カエルの祭壇、蛇頭像、等身大ほどもある石像群などがあった。ツォンパントリの祭壇には一面にドクロの彫刻が施され、ひときは目を引く。
 そこを出て、ソカロ横のメトロポリタン・カテドラルの中に入ってみる。このカテドラルはメキシコにあるすべての教会を統轄する大教会で、ラテンアメリカ最大級の教会建築物だ。コルテスがメキシコにおけるカトリック布教の主座として1563年に着工させ、1681年に100年以上の歳月を掛けて完成した。教会はバロック様式の重厚な内部装飾で覆われ、その装飾にメキシコ独特の文物が描かれている独特のもの。宗教絵画の巨匠ムリーニョの名画「市会礼拝堂」も飾られている。
ソカロ(憲法広場=中央広場)のメトロポリタン・カテドラル/写真転載不可・なかむらみちお  そこを出たすぐ目の前はソカロ(中央広場=憲法広場)である。アステカ帝国の時代にも神殿に囲まれた重要な広場だった。16世紀のコルテスの征服後、スペインもやはり中心としたが、アステカ帝国の建物は破壊したり埋め立てたりして、代わりに現在も残るスペイン風の建築物を築いた。以来400年以上の間、ソカロは常にメキシコ史の重要な式典を見守り続け、今も毎朝夕には陸海空軍の将兵による世界一巨大な国旗の掲揚と降旗のセレモニーが厳かに行われている。
 日本でも昔は祝日に新聞の題字の下に国旗を掲載していたし、各家庭の玄関前や主要官庁の建物の屋上には祝日毎に日の丸を掲げたものであった。しかし、今は五輪とか国際競技会か学校の入学式、卒業式ぐらいにしか見かけなくなった。一体これはどうしたことなのだろう。日本人はいつから日本人としての威厳や誇りを失ってしまったのだろう。
 ホテル一階の溜まり場になっているホールで同宿の若い人達と話をする。中には地下鉄でスリに遭って警察へ行って来たという若者もいた。宿にはパソコンも備えられているので長男の所に連絡しようとしたがやり方が拙かったらしく上手く繋がらなかった。
 明日はテオティワカンに行く日だ。行き方は二つの方法がある。昨日行って来たと言う人に行き方を訊く。そんなことをしている内に9時になった。明日は暑くならないうちに午前中に廻ってしまいたいので8時の開門時間に合せて逆算して6時15分に出発する。その為にはもう寝なければならない。

   3月27日(木)晴 Mexico_City-(バス)Teotihuacan-(バス)Mexico_City
 今日はメキシコ最大の都市遺跡、テオティワカンへ行く日だ。午前5時に目が醒めた。ここは標高2240mと北海道の大雪山系、旭岳(2290m)の頂上付近に相当する比較的高地なので気候は温暖。ユカタン半島ほど暑くはならないが、暑くない早朝に見たほうが良いので8時の開門から逆算して6時15分に宿を出ることにする。
 此の国の人々は、Mexicoと書いてこれをメヒコと呼んでいる。世界最大の都市だったテオティワカン文明、そして忽然と密林から消えた神秘的なマヤ文明…。メキシコ各地には、人類が創造的才能を発揮した古代文明の大遺跡が今も残っている。
 昨夜準備不足だった持参の水にお茶を入れたり牛乳を一食分持ったりの準備をした後顔を洗い、6時15分になるのを待つ。6時には夜が明けてくるはずだが、中々明るくならない。
 6時15分になるのを待って出発。ようやく明るくなって人通りもあるようになった。昨夜同宿の若者に教わった道順で行くことにして近くの地下鉄の駅へと向かう。
 近くのHidalgo駅からメトロ3号線でIndos Verdes(インドス・ベルデス)へ行き、そこからテオティワカン行きのバスに乗る。バスは途中で客を拾いながら田舎の道をガタゴトと1時間ほど走ってテオティワカンに着いた。バスの乗客は途中で1人降り2人降りして、終点のテオティワカンでは私1人になった。

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      Teotihuacan(テオティワカン)
 メキシコ最大の都市遺跡テオティワカン前には8時少し過ぎに着き、既に門が開いていた。未だ早朝なので客は一人もいない。本当にここがテオティワカンなのかと少々不安になりながら先へと進む。
 メキシコ・シティの北約50qの所にあるテオティワカンの大ピラミッド群は、紀元前二世紀頃建造されたラテンアメリカ最大の宗教都市国家。この巨大ピラミッド都市を建設したのは、テオティワカン人と呼ばれる人々とされる。しかし、彼らはいったいどこから来たのか、また八世紀頃の謎の滅亡と共にどこに消えてしまったのかは、今も解明されていない。
 遺跡へと向かい、目の前の階段を上ってみたが様子が良く分らない。ガイドブックと照らし合わせてみる。左手と奥にピラミッドが見える。かなり遠い。今登った階段を降り、そちらへ向う。見たところ1qは悠にある。その付近に2、3人の人影が見える他に誰もいない。やがて男女の西洋人が来た。その人達もそのピラミッドの方へ歩いて行くので後を付いて行く。
 埃っぽい死者の道を通って月のピラミッドへと進む。死者の道はテオティワカンをほぼ南北に貫き、北端と南端では2.7mの落差があって緩やかに傾斜している。その右手に在る一番大きい太陽のピラミッドは逆光になっているので2時間ほど後が良い。先ず、月のピラミッドへと向かう。
 月のピラミッドはテオティワカン遺跡では2番目に大きいピラミッドである。高さ42m、底辺150×130mで、350年頃に造られた。太陽のピラミッドより建築物は低いが、やや隆起した所に建っているので頂上の高さはほぼ同じ。ピラミッド前の月の広場の規模からすると、重要度は月のピラミッドのほうが高く、大きな宗教儀礼は月のピラミッドを中心に行われていたと推定される。死者の道の北端にあるので、ここまで歩いて来るだけで少々疲れた。
死者の道の向こうの左側に太陽のピラミッドを望む/写真転載不可・なかむらみちお  ピラミッドの下でカメラをリックに入れ、一息入れてから登り始める。ここは高地なので空気が希薄でかなりつらい。しかし、どうやらようやく頂上近くの台地まで登った。振り返って見ると客は未だまばらにしか来ていない。ここからは遺跡の中でも眺めが一番良い。死者の道が真っすぐに延びる雄大なテオティワカンの全景が一望出来る。そこから撮影した後、下に降り、すぐ脇にあるケツァールパパロトルの宮殿を後廻しにして、未だ涼しい内にと太陽のピラミッドへと向かう。
 少し暑くなってきた。太陽のピラミッドへ登る前にその正面から少し写すが、みやげ物売りの人が邪魔になってその人が立ち去るまでしばらくシャッターチャンスを待つ。
太陽のピラミッド。階段は248段ある/写真転載不可・なかむらみちお  高さ65m、底辺の1辺が225mの巨大な太陽のピラミッドはテオティワカンの中でも最大で、全部で248段ある階段は傾斜もきつい。途中何度か休みながらようやく登り切った。このピラミッドは世界でも第三番目の大きさを誇っている。頂上では爽快な眺めと風が待っていた。ここからは先の月のピラミッドの景色が広々と見渡せる。このピラミッドは宗教儀礼のために建造されたもので、平坦な頂上には以前神殿が建っていたらしい。年2回、太陽がこのピラミッドの真上に来る日には、まるで後光が射しているように輝いて見えるという。これはテォティワカン人によって計算されていたと考えられている。

ケツァールパパロトルの宮殿/写真転載不可・なかむらみちお ケツァール蝶の浮彫り/写真転載不可・なかむらみちお  一休みしてからそこを降り、先ほど飛ばしたケツァールパパロトルの宮殿へと向かう。ここはテオティワカンで最も完全に近い修復を見た建築のひとつ。月のピラミッドで祭儀に携わる神官の住居であったと考えられている。中庭の石柱にはケツァールパパトル(ケツァール蝶)の浮彫りが鮮明に残っている。ここでは克明で鮮やかな色の残る壁画が見られた。それを2、3枚写す。
 再び死者の道を通って最初入場して来た入口の方に向かう。その向かいにあるケツァールコアトルの神殿も良いようだが遠くから見ると縄張りがしてあって、その外側を廻って見て入るようなので疲れたこともあって止めた。
 今朝入った入口から外に出るとバスが待っていたので、それに乗って、来た時の逆に帰って来た。

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      Mexico_City(メキシコ・シティ)
 宿に一番近い今朝乗った地下鉄のHidalgo駅を降りてから近くのミニスーパーに行き、冷えたビールと魚の缶詰とオレンジジュースを買って宿へ帰って来た。早速部屋で日本から持ってきたタコス味をつまみにビールを開けた。旨い! この後インスタントラーメンを作って食べ、一息入れる。
 台所で夕食用にと日本から持ってきた米を研いでいると管理人が帰って来たので宿代を支払った。一泊20jということで60j用意したが、ペソスでも良いという。日本へ帰るまでに丁度800ペソス程余る勘定なのでペソスで支払う。700ペソス手渡したが釣りがないので後でくれると言う。そのまますぐ帰って来るからと言い置いて出て行ってしまった。
 この後、本当はガリバルディ広場で毎日やっているマリアッチを聞きに行きたいと思ったが、その付近は治安が悪く一人で行くのは危険だと言うことなので止めることにした。
 時間があったので日記を書き始めた。8時になったのでシャワーを浴びて寝る。明日行ってみる予定の場所は二ヵ所なので急ぐことはない。適当に起きた時点でゆっくりと行動を開始するつもり。

   3月28日(金) Mexico_City
 今日はメキシコを見て周る最後の日である。明日はサンフランシスコを経由していよいよ日本に帰る。と、言うわけで、今日はメキシコ古代文明の集大成、国立人類学博物館と膝行参拝で有名なグァダルーぺ寺院、それに最後のお楽しみメキシコ名物マリアッチ演奏を聞きにガリバルディ広場に行くことにする。
 国立人類学博物館には地下鉄で行くことにする。ラッシュアワーの地下鉄は混雑してスリも出没するというので、なるべく避けたいが、国立人類学博物館の開館時間に合せるとラッシュアワーの地下鉄に乗るのも已む終えない。先ず、スリにすられて困るようなものはすべてホテルに置いて、交通費として僅かばかりの小銭とカメラ一台を黒いナップザックに入れてホテルを出た。カメラには防犯ブザーを取り付け、その紐の端を腰のバンドに結び付けた。先ず、近くのメトロ2号線Hidalgo駅から乗り、二つ目のBalderasでメトロ1号線に乗換え、Tacubayaで降りて5分ほど歩くと着くはずだ。
 世界一の人口を誇るメキシコ・シティ。最初の駅Hidalgoは街の中心部にあり、また乗換駅でもあるのでホームは混雑していた。こういう所ではスリが多いので嫌だなぁと思いながら充分注意ながら来た電車に乗り込んだ。人込みに押されるようにして電車の中に入ると、間もなくズボンの右ポケット付近に人の手の気配を感じた。押された拍子に触わられた様でもなかった。咄嗟に“来たナ”と思い、ズボンの右ポケットの入口付近にサッと手をやると誰かの手の甲に触れ、咄嗟に捉まえてギュッと握り締めるとその手が私の手から少しすり抜け気味になった。しかし、辛うじてその手の中指と人差指を捕まえることが出来た。その二本の指を握り締めて思いっきり逆方向にしのらせた。すると二人の乗客を間に挟んだその向こうのこちらを向いている親父の顔が歪んだ。私は更に思い切りその二本の指を強く捻ってから放してやった。これ以上強い行動に出ると刃物で切りつけられる恐れがあるので程々が肝心である。勿論被害はなかった。ポケットにはダミーとして空の小銭入れしか入れていない。小銭はジーパンのポケットの上に付いている小さなポケットの中に折り畳んで入れていたのだ。その後、そのスリの男をにらみつけてやると、顔を歪めていたが、電車が間もなく次の駅に着くと同時にそそくさと人込みに紛れて下車して行った。
 海外では何処も日本のように安全ではない。南米はどこも失業者や路上生活者の数が多く、一般犯罪が増加傾向にある。特に大都市では犯罪が多く、犯罪の手口も凶悪化しているので「充分注意」の危険情報が出ている。いつ、どこで、どんなことが起きるかもわからないのが南米。南米と言うと泥棒、スリ、置き引きなどが先ず頭に浮かぶ。やり方はいろいろあるが、犯行は普通複数で行われる。ひとりが物を盗って逃げ、あとの仲間が一般通行人を装って立ちはだかり邪魔をする。或いは全員で取り囲み、鞄などを引っ手繰る。彼らはチャンスを窺い、一瞬の隙に犯行に及ぶ。特にひとり歩きの旅行者や、いかにも観光客然とした態度、服装の人は狙われやすい。彼らはプロである。その手口は鮮やかである。周りに人が居たとしても、先ず誰も助けてはくれない。見ているだけだ。最近はニセ警察官の犯罪も多発しており、荷物の持ち逃げとか、車に乗せられて、荷物を剥ぎ取られて外に放り出されるケースなどもあると聞く。
 いつでも、どこでも犯行は起こりうる。どこにいても常に周囲に気を使い、怪しい視線を察知するようにしたい。私は道を歩いていても時々常に怪しい奴が付いて来て居ないかと後ろを振り返る。又、立ち止まってポケットの中を探し物をしたりフイルムを交換したり地図などの資料を見たりする時には、壁際に背中を付けて探し物をしたり、資料を見る。しかしそういう行動はなるべくしないほうがよい。後ろには目がないから、背後から襲われたら終りである。例え警察官が居ても何もしてくれない。自分の身は自分で守るしかない。行き先が安全な場所であっても夜になったら歩かないのが基本。人通りの少ない道を歩くのは危険。派手なアクセサリーは一切身に付けない。腕時計やカメラも狙われる。お金は極力持ち歩かないこと。なるべく質素で目立たない服装を心がける事が肝要だ。若しも強盗に遭ったら、逆らわないほうがいい。例え相手が子供でも仲間が居るし、刃物や短銃を隠し持っているかも知れない。
 町で声を掛けてくる強盗もいる。ニコニコと愛想良く話し掛けてくる人に付いて行き、金を巻きあげられたり、「アミーゴ」などと言って近付いて来て、人通りの少ない所へ連れ込み、仲間と共に取り囲んで、金品を奪う。2、3人がグループを組み、ひとりが旅行者の背中にケチャップや練歯磨きを付け、残りの者が「汚れていますよ」とハンカチで拭く親切そうなそぶりで近付き、旅行者が担いでいたリュックや鞄を下ろした隙にそれらを引っ手繰って逃げる。麻薬を売り付けられ、購入して出たところで私服刑事に捕まる。麻薬の売人は、刑事に密告することで稼ぎになる。剃刀を使ってバッグの底を切り、知らないうちに中を抜き取ってしまう。2、3人の仲間と共にやる「押さえつけスリ」というのもある。
 持っている荷物は絶対に身体から離さないことが鉄則。ショルダーバックなら斜めに掛け、前で抱えるようにする。後に廻してしまっては、刃物で切られて中身を抜かれてしまう。カメラは使ったらすぐバッグにしまう。私はバックとカメラを紐でしっかりとくくり付け、それと並行して腰のバンドとカメラの間に防犯ブザーを結んで持ち歩いた。
 首から下げるタイプの貴重品袋は彼らの知るところで、首に紐が見えれば、ターゲットの目印になる。せめて肌着の上から斜めに掛けたほうがまだいいかもしれない。又、腹巻型の貴重品袋もバレバレである。ウエストポーチなどは論外である。足に巻き付ける方法も一案である。私は、ズボンの太股の内側辺りに隠して持ち歩いた。いずれにしてもお金は分散して持ったほうがいい。
 「石川や浜の真砂は尽くるとも世に盗人の種はたへせじ」(石川五右衛門の辞世句)
 Auditorio駅で地下鉄を降りてから、地図を頼りにそれらしい方向に歩き出したが、道標もなく、イマイチ不安だ。それでも通行人に尋ねながらようやく国立人類学博物館に着くことが出来た。
 入口に行くと、ペットボトルは持ち込み禁止なので中の水を捨てて来るように言われた。已む無く、トイレに行って中味を捨てる。それから改めて入場口から中に入る。
 ここは世界有数の規模と内容を誇る大博物館である。この地に栄えたテオディワカン、マヤ、アステカなどの各遺跡から、永遠に保存すべき重要物を選りすぐって展示している。
テオティワカン遺跡の雨神様/写真転載不可・なかむらみちお  敷地面積12万5000uの広大な館内は、1階が考古学資料、展示コーナー、2階が民族コーナーに分かれている。絶対に見ておく場所は、第5室のテオティワカン遺跡の雨神様、ケッアールコアトル神殿、第7室の太陽の石、第10室のチチェン・イツァーのチャック・モール像、2階の人形を使った民俗学フロアの展示などである。
 先ず、一階の考古学フロア、第二室人類学入門から道順に沿って見て回ったが、あまり面白くなかった。第5室のテオティワカンはこの博物館の最初の見せ場だ。実物大に復元された巨大なケツァールコアトル神殿のレプリカや、月のピラミッドの前に建っていた雨神チャルティトゥリクエの巨大像のオリジナルが置かれている。
メキシコ考古学の最大の発見のひとつ、太陽の石/写真転載不可・なかむらみちお  只ひとつ第7室の中央部の広いフロアに配置されたメヒカ・アステカの中にあった太陽の石(アステカ・カレンダー)だけが目を引いた。この石はこの博物館の最大の見所である。直径3.6mの円盤には中央の太陽神の周りに、アステカの暦を図形化して掘り込まれ、複雑なモチーフが幾重にも巡らされている。太陽神の周りにある四つの四角形に囲まれた文様は、宇宙が今まで経てきた四つの時代を示している。各時代ごとに新しい太陽が生まれ、滅び、そして現在は中央にある5番目の「太陽トナティウ」の時代であるという。
 暦は、更に細かいモチーフの組み合わせにより、20日を1ヶ月とする1年18ヶ月に分けられ、それにプラス「空の5日間」があり、丁度1年365日となる。又、これと平行して、260日を1サイクルとする占星術のための暦も存在した。アステカ人達は、このカレンダーを元に、正確な農耕歴に従って労働し、その節目ごとに血の生贄を伴う祭時を行っていたのだ。
 太陽の石は、単に月日を刻むだけではなく、過去、現在、未来、そして永遠へとつながるアステカ人の神秘的な宇宙観をシンボル化している。この象徴的記念碑は、アステカ帝国崩壊後、メキシコ・シティの中央広場付近に打ち捨てられていた。その後、この聖石をインディヘナの人々が礼拝する様子を見て、メキシコの大司教の命令で地中に埋められてしまい、1790年に再び発見された。(「地球の歩き方」メキシコ編、発行:ダイヤモンド社より)
 期待の第10室マヤは工事中で閉鎖していた。この中にはチチェン・イツァーにあったチャック・モール像が展示されていたのだが、見ることが出来なくて残念だった。
 二階の民俗学フロアでは、現在に生きる各地の先住民を、それぞれの部族単位で衣食住から宗教、文化、まで総合的に紹介している。
 博物館を出て地下鉄駅に向かった。人通りはあまりない。地下鉄駅近くで向こうから歩いて来る青年と出会った。一応確認の為に地下鉄駅の入口を尋ねた。その青年は「私はボクシングチャンピオンで何度も優勝している。普段はここから見えるニッコー・メヒコホテルで働いている」という。そして横断歩道のない交差点の道路を親切に手を取るようにして渡してくれた。私は友好の意を込めてポケットから五円玉を一個取り出して彼に渡した。
 地下鉄駅の入口が分ったので彼に別れを告げたが、尚も彼は入口まで送って行くと言う。入口近くまで来て更に別れを告げると、彼は何かしきりと話し掛けてきた。「私はボクサーだ。チャンピオンだ」と言う。そして私の向う脛を彼の拳で軽く突く。結構痛い。強さをアピールしているようだ。その時、空を飛行機が飛んで行った。彼は「試合をする為、明日、ブラジルへ行く、付いては幾らかのカンパをして欲しい」と言う。冗談でない。(それは無いぜ! セニョール)。私は即座にその場を離れた。急ぎ足で地下鉄駅の中に潜り込んだ。彼はそれ以上は追って来なかった。危ないところだった。後で同宿の日本人の青年に聞いた話では、昨日、矢張り同じ所で同様な目に遭ったが被害は無かったと言っていたので、日本人を狙う常習犯なのかも知れない。この付近では特に観光客を専門に狙うスリのグループが目を付けているので、多いときには月に12件も日本人の被害届が出ていると言う。
 来た時降りた地下鉄Auditorio駅からメトロ7号線に乗ってEl Rosario駅で乗換え、グァダルーぺ寺院のあるLa_Villa_Basilica駅へ向かった。
 駅を降りると、駅付近は下町ぽく、雑然とした雰囲気だ。屋台風の店の傍らでは暑さ凌ぎに子供3人が裸で金盥(たらい)のような容器の中に入って水浴びをしていた。
グァダルーぺ寺院/写真転載不可・なかむらみちお  お土産などを売る露店が並ぶ道をグァダルーぺ寺院へと向かう。ここはスペイン征服軍の侵入以前、神殿があったテペヤックの丘を占拠する広大なカトリック寺院である。メキシコ国民の精神的な支えであるグァダルーぺの聖母が祭られている。この聖母は黒い神と褐色の肌を持ち、カトリックの聖母の中では異色の存在だ。ただでさえ信仰熱心なメキシコ人、特に貧しい先住民の人々に圧倒的な支持を得ている。特別な願いを掛ける者が石畳の境内をずっと堂内の祭壇まで膝行する膝行参拝で有名である。
 寺院の前は石畳の広い広場となっており、その先に現代的なデザインの新聖堂があり、その右側に地盤沈下のため一部が傾いた旧聖堂がある。先ず私は、新聖堂の全体の写真を撮るために広場の反対側まで進んだ。写し終えてから、新聖堂の前へと進む。現代的な機能美を持った約2万人収容できる新聖堂は、メキシコ・カトリックの象徴的首座である。
赤ん坊を背に聖堂に向って膝行している父親/写真転載不可・なかむらみちお  新聖堂の入口近くで、赤ん坊を背に聖堂に向って膝行している父親の姿を見掛けた。父親の背に乗せた赤ん坊を傍らの母親が支えていた。擦り切れて血の滲む膝の痛みに耐えながら、父親は少しずつ新聖堂内の祭壇へと進むが、あまりにもの膝の痛さに耐えかねている様で、休み休み進む。その両親の子を思う深い愛情に胸が熱くなった。しばらくその情景に見とれていたが、ふと思い出して何枚か写真に収めた。
 新聖堂を出て旧聖堂へ向かい、内部をひと回りしてグァダルーぺ寺院を後にした。この後、同宿の青年男女と3時にホテルで待ち合わせをしてガリバルディ広場へマリアッチを聞きに行く約束をしている。
 マリアッチは夕方から夜に掛けて盛んになると言うが、メキシコの街は昼でも一人歩きは危険なのにましてや夜は単独行動はなおさら危険だ。マリアッチが演奏されるガリバルディ広場は治安が良くない場所にあり、特に危険ということなので、昨夜一緒に行く話合が成立していたという訳である。
 ホテルには2時頃着いたが、相手の青年は未だ帰って来ていなかったので待つことにする。もう一人の女性は今日は外出しないということでホールに居た。
 3時を過ぎてようやく青年が帰って来た。3人揃ってホテルを出て徒歩でガリバルディ広場へと向かう。距離はホテルから1qほどで、時間も未だ早いことなので散歩がてらブラブラと歩いて行く。ガリバルディ広場の近くの広い通りをマリアッチの一行らしい人達を乗せた車が何台も賑やかに通り過ぎる。ガリバルディ広場にもそれらしい人達がたむろしている。しかし、一向に演奏は始まらない。未だ時間的に早いようなので、その付近をぶらついて時間待ちをする。
チャロと呼ばれる牧童貴族の衣装に身を包んだマリアッチ楽団/写真転載不可・なかむらみちお  ガリバルディ広場はマリアッチ広場の異名を持つ。様々な音楽の演奏が楽しめる広場である。客のリクエストに答えてセレナータを奏でるという光景はメキシコの風物詩である。しばらくしてからようやくポツポツと演奏が始まった。チャロと呼ばれる牧童貴族の衣装に身を包んだマリアッチ楽団が客のリクエストに答えて演奏を始めた。私達はその近くでそれを眺めていた。やがて連れの青年が小銭を渡してリクエストしていた。私は隠し持っていたMD(録音機)のスイッチを入れ、写真を何枚か撮った。1時間ほどそんな時を過ごしてから、暗くならないうちにホテルへと向かった。途中、ホテル近くの教会前で人だかりがしていた。この教会の祭らしい。連れの青年はホテル近くのレストランへ行くと言う。私は昨日からその近くの店で売っているチキンフライを食べたかったので、そこでテイクアウトしてホテルへ帰って来た。
 メキシコと云えば、すぐ思い出すのが、大空にニョッキリ聳え立つ“サボテン”と、ランチェロのかぶったツバ広の帽子“ソンブレロ”そして手に持った“ギター”と、肩から掛けた毛布の様な布“サラベ”! しかし、これまで歩いた中ではガリバルディ広場でのマリアッチ演奏者以外ではそんな人は一人も見当たらなかった。メキシコと言っても北から南へと結構広い。それぞれの地方に依って民族ごとに服装も習慣も異なる。
 いよいよ明日は帰国である。ロビーで同宿の青年達に私が買ってきたテキーラを振舞って一緒に談笑して夜を過ごした。Salud! Salud!(サルー、乾杯!)。若者たちはツアー旅行に参加して人任せでボーッとした眼で眺めている人たちとは違い、未来を見つめ明日に希望を持った知的な目つきに輝いていた。
 皮膚の炎症はいくら薬を飲んでも一向に良くならない。日本に帰ったら早速病院へ行かなければならない。

   3月29日(土) Mexico_City 07:15-(UA1010)09:58 San_Francisco 11:30-(UA837)
 今日はいよいよメキシコを後にする日だ。宿を明け方に発つ為、空港へ行く交通手段はタクシーを利用するしかない。昨夜の内に宿のマダムに頼んでタクシーを予約してもらう。米国行きの飛行機の出発時間は7時15分なので、そこから逆算して2時間前プラス飛行場まで30分位として4時30分に予約した。セットした目覚まし時計に3時半に起こされ、洗顔してロビーに降りてタクシーの来るのを待つ。
 4時過ぎにそっと玄関の戸を開けて外の様子を伺うと、中年のメキシコ人らしい男が立っていた。ドアの向こうの一番外側にある鉄の格子戸越に「タクシー?」と尋ねると彼は小さく頷いた。
 荷物を持って乗り込むと、未だ真っ暗なメキシコ・シティの街中をベニート・ファレス国際空港へと向かった。私の手には宿から教わった空港までのタクシー代N$100(ペソ)紙幣が一枚しっかりと握られていた。来た時にはN$205だったからこれはかなり安い。
 タクシーは早朝なので予定より早めに空港に着いた。運転手にN$100紙幣を渡して空港に入る。空港の中には客は未だまばらにしか見かけない。アメリカからメキシコに到着した翌日、ここからビシャエルモッサへ飛んだので空港の中のことは大体知っていたのでユナイテッド航空のカウンターはすぐ分った。カウンター前には既に数人の乗客が居た。その列の後に付いてチェックインを待つ。来るのが早過ぎたので未だかなりの時間がある。
 しばらく待ってようやくチェックインが始まった。先ず、荷物の検査があり、私の前の人がそこで荷物検査を受け始めたが、カウンターの女性が私を先に手招きして呼んだ。荷物検査をしなくても良いのかなと思ったが、呼ばれるままに彼女の前へ行き、チェックインの手続をした。結局荷物検査を受けないで済んだ。
 荷物をカウンターに預けた後、二階の国際線出発ロビーへと進んだ。イミグレーションを過ぎると免税店が並んでいる。その中の酒店に入ってみた。メキシコ名産のテキーラも三種類ほどあった。実は未だお土産を全然買っていなかったので、一応ここで考えてみることにする。酒瓶は重くて嫌なのだが、日頃お世話になっている友人のH君と自分用の記念の為テキーラを二本買うことにする。メキシコのお金はさっきタクシー代として支払ったN$100しか持っていなかったので全く持ち合わせがない。両替するのも面倒なのでカードで買うことにする。二本で292.94jだった。その酒二本を手に提げて搭乗口へと向かう。これがまた遠い。動く歩道はないので歩いて行く。行けども行けども目的の搭乗口に辿り着かない。いい加減にくたびれかけてきた。途中の売店が店を開きかけてきた。その一軒で次男へのお土産としてショットグラス2個と私用の記念として1個、合計3個買った。3個でN$135.00であった。ここではカードは駄目と言われたので仕方なくドル紙幣で支払った。そのお釣りがメキシコのコインであった。これを日本に持ち帰っても両替は出来ない。まあ、メキシコ旅行の記念として残して置くしかないだろう。
 搭乗口にようやく着いたが、早かったせいか未だゲートの表示案内は出ていなかった。ゲート付近にもここまで来る途中のような売店が沢山あった。あえてあそこで買わなくてもここで買えたのに運んで来ただけ損をしてしまった。ようやく東の空が明るくなって、光も差し込んできた。目の前にはこれから乗るユナイテッド航空の飛行機も待機していた。アディオス、メヒコ!

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      America(アメリカ)
 食事も終わって飛行機の窓からふと外を見ると果てしないアメリカ大陸の砂漠が展開していた。飛行時間と航路から推察するとアメリカ西海岸のモハーベ砂漠らしい。この砂漠は136.000平方qと日本のほぼ三分の一の面積に当たる。この北側には西部開拓時代、西へ向かう幌馬車隊を悩ませた「死の谷」があり、又、その北側にはネバダ原子力実験場がある。どこを探しても草も木も緑もない一面茶褐色の砂原である。たまに降った雨が流れたのであろう一定方向に黒い筋が見える。恐ろしいほど殺風景な死の風景だ。サンフランシスコからラスベガスへ行くとき、この上空を通った時にも見た。今、地球上で問題になっている『地球の温暖化』も地球を砂漠化している一つの要因であろう。窓外の砂漠を見ながらいろいろと瞑想に耽った。この地球上に存在する森羅万象の中で不要なものは何一つないが、その中でも特に大切なものは“太陽”と“緑”と“海”ではないかと…。
 飛行機は予定通りサンフランシスコ空港に着いた。ここで成田行きに乗換えなければならない。その前にアメリカ入国の手続がある。
 飛行機を降りてから長い空港内の通路をカメラなどの撮影機材を背負い、手にメキシコ・シティの空港で買ったテキーラを下げている。私は動く歩道に乗って成田行きの飛行機が待つゲートへと向かったが、動く歩道の速度が遅い。他の乗客は歩いてどんどん先へ進むが、私は荷物が重くてそんな元気はない。イミグレーションに着いた時には相当の客の列の後に並ぶ破目となってしまった。
 搭乗前の荷物検査では例の如くビニールの袋に入れたフイルムを係員に差し出してオープンチェックを依頼した。その時係員に検査の為履いている靴も脱ぐように要求された。イラク戦争の最中でもあり、これも致しかたのないことであろう。靴を脱いでいる間に係員は検査機に掛けても大丈夫安全だと言ってフイルムの入ったビニール袋を拒否する間もなく検査機の中に入れてしまった。出発時間も迫っており、こちらも多少気持ちが焦っていたので、それを停める間も無かった。アッ!と言う間もない出来事であった。折角ここまで苦労して何度の検査でも検査機を通さずにオープンチェックしてもらいながら持ってきたフイルムが、最後に検査機の中に入れられてしまった。これまでの苦労が水の泡となり、がっくりときた。
 厳しい検査を強いられて荷物検査をようやく通過して成田行きの搭乗口へと向かう。途中で盛んに日本語で搭乗を急ぐようにとアナウンスが入る。ようやくユナイテッド航空のカウンターを見付け、成田行きの搭乗口を尋ねると係の女性が案内してくれて搭乗を急かされた。
 機内に入り席に着いてからどっと疲れが出てがっくりときた。フイルムを検査機に掛けられたショックは当分治りそうにない。

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      帰国
   3月30日(日) 15:35 成田 18:00-(JL565)19:30 新千歳 - 札幌

      今回もお蔭様でなんとか無事帰って来た。ひとり旅は危険なリスクも伴い、言葉も通じないので何かと苦労も多い。しかし、自由と時間があり、理想的な楽しい旅を続けられることが出来る。それに総体的に経費も安く済む。工夫次第で格安ツアーよりも安い。
 旅は道連れがあるのが心強いとされる一方、そっと単独行に出かける旅もある。せめて旅先ぐらいは一人でいたい。旅では自由に歩きたい。好き勝手に行動したい。ぶらりと旅に出る。旅の出発で一歩家を出ると自由になったと感ずる。
 歩きながらいろいろなことを想像する。旅が面白いのは、日常の約束事や保障された安全の枠から外に出ることでいろいろな発見がある。仲間と旅先で大騒ぎするのは楽しいけれど、沈黙や静けさがなければ何かを見つけることは出来ない。
 よく、旅先で一人だと退屈で、寂しいだろうと言われるが、一人ほど賑やかなことはない。一人だと、いろいろな人と対話ができる。旅先で知り合った人だけじゃなく、歩いていると脳が刺激されるせいか、思いがけないことを思い出す。これほど自由で賑やかな時間はない。何人かと一緒にいて皆、考え方が違って、お互い全然別の人生だと感じさせられるほうがはるかに寂しい。
 ひとり旅は楽しい!
                         おわり

 旅は日常から離れ、自然、文化、人との出会いを通じて自分を新しくする営為だ。(田中 秀美)

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