★モロッコ、ミステリアスワールド

サハラ砂漠・メルズーガのシェビ大砂丘写真/写真転載不可・なかむらみちお

“昨日?そんな昔のことは忘れた。明日?そんな先のことは分からない”
“君と一杯目を飲むために待っていたんだ”
“君の瞳に乾杯”
柄にもなくそんなキザなセリフを一度だけでいいから云ってみたくて昨日、モロッコへと飛び立った。

空港でのラストシーン。戦火、別離、再会。永遠に語り継がれる霧の中のラブロマンス。
映画「カサブランカCasablanca」(42年米国)。
監督:マイケル・カーティス、主演:ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン。
第二次世界大戦下のモロッコの都市カサブランカを舞台に、
反ナチ運動のリーダーの妻となった昔の恋人(イルザ)のために、
命を懸けて出国を助ける男(リック)のいちずな愛を描いた映画に魅かれてふらりとやって来た。

カメラを持ったカメ漫画

2001年12月6日から2002年1月3日までモロッコを旅してきました

目  次

カサブランカ  ラバト  フェズ  エルフード  メルズーガ
  ティネリール  ワルザザート  マラケシュ  エッサウィラ
  サフィ  アル・ジャディーダ カサブランカ  アムステルダム  帰国 

     スケジュール

 2001年
12月6日(木) 札幌-新千歳 14:45-(KL870)18:10 Ams 20:15-(KL3003)23:00 Casablanca
7日(金) Casablanca
8日(土) Casablanca-(列車)Rabat
9日(日) Rabat-Fez
10日(月) Fez
11日(火) Fez-(バス)
12日(水) Er Rachidea-Erfoud
13日(木) Erfoud-(四輪駆動車)Merzouga
14日(金) Merzouga
15日(土) Merzouga
16日(日) Merzouga-(四輪駆動)Erfoud-(タクシー)Tinerhir
17日(月) Tinerhir
18日(火) Tinerhir-(タクシー)トドラ渓谷-(タクシー)Tinerhir
19日(水) Tinerhir-(バス)Ouarzazate
20日(木) Ouarzazate
21日(金) Ouarzazate-(バス)Marrakech
22日(土) Marrakech
23日(日) Marrakech
24日(月) Marrakech
25日(火) Marrakech-(バス)Essaouira
26日(水) Essaouira-(バス)Safi
27日(木) Safi-(バス)El_jadida
28日(金) El_Jadida-(バス)Casablanca
29日(土) Casablanca
30日(日) Casablanca
31日(月) Casablanca
1月1日(火) Casablanca
  2日(水) Casablanca 06:45-11:10 Ams 13:05-
  3日(木) 07:40 新千歳-札幌

北西アフリカの3国、モロッコ、アルジェリア、チュニジアを総称してマグレブと呼ぶ。
マグレブとはアラビア語で“陽の沈むところ”。
その西の端にあるのがモロッコだ。
かつて「日出ずる国」と称された日本とは対照的なロケーションである。

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    12月6日(木) 札幌-新千歳 14:45-(KL870)18:10 Ams 20:15-(KL3003)23:00 Casablanca
    Casablanca(カサブランカ)
 新千歳を出発してから18時間ぶりにカサブランカに着いた。さすがに疲れた。
 アムステルダムからの機中で中年二人連れの日本人婦人と知りあった。彼女たちは旅行社に手配してもらってお迎えが来る事になっているという。良かったら市内まで乗って行きませんかと親切に声を掛けてくれた。カサブランカに着いたのは現地時間で深夜に近い23時で既にリムジンバスはない。タクシーで向うしかない。この時間帯ではタクシーに乗るのも多少不安がある。渡りに船とばかりに是非是非とお願いした。お陰で幸先の良いスタートとなった。

   12月7日(金) Casablanca
 一夜明けて街に出て見たがカサブランカは以外に暑くなかった。むしろ寒いくらいである。セーターが一枚必要なくらいである。先ず、銀行で両替した後、明日の宿を決めるためにあらかじめ見当をつけて置いたホテルへと向う。初めて来た街なのでおおよそ見当を付けておいた場所に来たのだがなかなか見つけられない。後で分かった事だが、ホテルを出てから向った通りに時計塔の付いている建物を見てそれを「時計塔」と勘違いして歩き、かなり違った方向に歩いていったためと分かった。カサブランカの街は斜めに走る通りが多いので見当が狂ってしまう。
ホテル・ド・サントルのエレベーター写真/写真転載不可・なかむらみちお  ようやく今夜の宿と後日モロッコを一回りしてからカサブランカに帰って来た時の宿を予約した。このホテルは昨夜泊まったホテルよりも数段格落ちなので少々薄暗く何やら匂いもするが、一泊1,700円(為替レート1ディラハムDH=10.04円)と安いので仕方がない我慢しよう。しかも簡易エレベーターが付いている。これは助かる。ヨーロッパの安宿はとかくエレベーターが付いていない事が多い。重い荷物を上階まで持ち上げるのは毎度しんどい思いをしているので助かる。しかし、今夜は一夜だから良いが、今月末にここに4泊もするのは少々しんどいかもしれない。
 昨夜のホテルから今夜のホテルへ引越ししてから先ず、日本人が居るという旅行社に行ってメルズーガの様子を聞き、大体の見当が付いた。やはり夜はかなり冷えるらしい。砂漠の中の不便なところなので不安が大きい。次に明日ラバトへ行くための駅の下見に行って来たが、又、道を一本間違えてしまった。街角をチョット読み違えると先に行ってかなり違ったところへ行ってしまう。
 先ずは水を買いたいと思ったのだが、ラマダン中なので食べ物を売っている店が開いていない。ようやく片隅の小さな店で買う事が出来たので一安心。しかし、日本の自宅に連絡する為に絵葉書を探したのだが、ろくな絵の葉書がなくて買いそびれてしまった。その上、今日は金曜日なので郵便局も早仕舞いで切手を手に入れるのも難しい。明日と明後日は土曜日、日曜日となるのでその後ではかなり遅れそうだ。その上、酒を売っている店が見当たらない。どこかにないだろうかとその辺をうろついてみる。ここはイスラム圏だから無理かもしれない。陽が落ちるとかなり冷えてきた。

   12月8日(土) Casablanca-(列車)Rabat
 朝2時半頃に目が醒めて以来眠れないままに朝を迎える。未だ、時差ぼけが治らないらしい。
 7時起床。窓の外はようやく明るくなりかけてきた。チェックアウトの前に向いの大きなホテルのフロントへ行き、日本への葉書を出してくる。時計を見ると丁度8時。ラバト行きの列車が8時半にある。これに十分間に合うのでホテルを出る。
 駅まで荷物を曳いて行く。改札は未だ始まっていない。ゲートにいる駅係員が後10分待てというので待合室の椅子に腰を掛けて待つ。
 4両編成の列車が変な警笛を鳴らしながら定刻よりも1分ほど早くカサブランカの駅を出た。窓から射す朝日が眩しい。海岸沿いに走る列車の窓から外を見ると瓦礫の山がどこまでも続いている。

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  Rabat(ラバト)
 ラバトには定刻よりも3、4分早く着いた。大きな駅だ。エスカレーターで3階ほど登って行くとそこがグランドレベルになる。列車からホームに降りて崖の上を見ると大体見当を付けていた辺りに「ホテル・ドルセー」の文字が見えたのでひと安心。
 エスカレーターの前で青い作業服を着た人が近づいて来て声を掛けて来た。「ホテル・ドルセーか?」と尋ねるのでウッカリ返事をしてしまった。こちらから頼みもしないのに道案内してくれている。迷惑だなぁと思いながら勢いに乗せられて付いて行く。断れば良かったがマアイイカと思いながらついて行く。ホテルの入口に入ると見上げるばかりの階段になっている。断ったのだが、私の荷物を持ってくれるという。この荷物を持ってこの階段を登るのは少ししんどい。どうせモロッコは物価が安いのだからチップを払ってでも担ぎ上げてもらうことにした。
 階段を上りきるとホテルのカウンターがあり、受付に男がいた。付いて来た人にチップを払えという。いくらかと聞いたら10DHと言う。後で調べてみると、このような場合は5〜10DHらしい。食パンが1個1DH、水が5DH。タクシーに乗っても市内だと5DH位だから一寸持ってもらって10DHは高かった。しかし、10DHは凡そ100円だからわれわれ日本人としてはたいした金額ではない。が、何か損をしたような気分で面白くない。まんまと乗せられてしまったのが癪だ。なにか割り切れない釈然としないものが残る。良い勉強にはなったが…。
ムハンマド5世の霊廟写真/写真転載不可・なかむらみちお 真紅の衣装をまとった衛兵写真/写真転載不可・なかむらみちお  早速街に出る。先ずはムハンマド5世霊廟に行く。ここには霊廟の四つの入口に真紅の衣装をまとった衛兵が立っているので絵になる。距離は少し遠いが歩いて行けないこともないのでコンパスと地図を頼りに歩いて行く。なんとかストレートに辿り着けた。天候は晴れで赤い衣装が太陽の光を浴びて映える。霊廟の門にも馬に乗った衛兵が2人居た。

メディナ写真/写真転載不可・なかむらみちお  霊廟を出てウダイヤのカスバに向ったのだが、途中メディナの中を通って行かなければならない。狭い路地には露店が軒を並べ、人の流れが多いので進むのが大変であった。ここで昼食用にイチゴとパンを買った。ラマダン中でもこういうところでは食べ物を売っているのには驚いた。

ウダイヤのカスバ写真/写真転載不可・なかむらみちお  ウダイヤのカスバに着くと係員のような人が近づいて来た、「ここから入れ、間もなく門を閉じる」と言う。と、いうことで兎に角中に入る。少し進むと、彼の男が追ってきて何かと世話を焼く。これが「ガイドブック」に書いてあった自称ガイドだなと思い、今朝のホテルの案内人の事もあって頭にきていたのではっきりと断るとあっさりと引き下がって行った。

ウダイヤのカスバ内の迷路写真/写真転載不可・なかむらみちお ウダイヤのカスバ写真/写真転載不可・なかむらみちお  カスバの中には人が住んで居り、迷路のようになっている。なるべく坂の上の方に向かっている道を選んで進むがそれでも何度か行き止まりに遭った。
 ひと通り歩いてから坂を下り、海の見える見晴らしの良いベンチでパンとイチゴを食べた。

ムハンマド5世通りの露店写真/写真転載不可・なかむらみちお  カスバからホテルに帰ってくる途中のムハンマド5世通りも又凄まじかった。両側に食品を主とした小さな店が連なり、所々には露店も出ていた。
 昼は快晴で直斜日光に照らされていたのでシャツで良かったが、ホテルに帰って一休みして太陽が沈むと急に寒くなってきた。モロッコにはどこにも酒を売っている店がない。大きなレストランに行けばあるということなので今度はホテルの近くの魚料理のレストランへ行く事にする。

   12月9日(日) Rabat-Fez
 ラバト7時13分発の列車でフェズへと向う。フェズはこの列車の終点である。7時35分頃車窓に朝日が差し込んできた。快晴の空に今日も奇麗な太陽が顔を出す。列車の反対側の原野や時々見かける家などが朝日を浴びて紅く輝き出される。
 カサブランカからラバトに来る途中の車窓の風景は瓦礫や荒地などで凄まじいものがあったが、ここまで来ると緑も多くなり、少し和やいだ気分になる。
 列車はコンパートメントで、男の客三人が乗っていた。あとの部屋は兵隊のような服装の男が横になって寝ているので入る気にはなれなかった。同室の客はメクネスで降りた。
 メクネスを過ぎてフェズ近くになった頃、背広を着た一人の男が私一人のコンパートメントに入ってきた。私の横に座るなり私に話し掛けてきた。「日本人か?」「なんと言う町から来たのか?」「観光か?」等とこちらが返事をしたくないのに英語で矢継ぎ早に馴れ馴れしくしつこく話しかけてくる。
 私は海外では知らない人とはなるべく話に応じないようにしている。しかし、1対1では最低限の返事はせざるを得ない。適当にあしらっていたが、その内「フェズに行くのか?」「ガイドしよう」などと言い出した。私ははっきりと「NO」と断った。その後もしつこく話し掛けてきたが私は応じなかった。それでも尚話し掛けてきたが、こちらは拒否の手ぶりをすると相手はようやく諦めたのかその男はコンパートメントを出て行った。
 やがて次の駅に停まった時、フト窓の外を見るとその男が線路を渡って反対側へ行く列車のホームへと渡って行った。ガイドブックには書いてあったが、早くも客引きが現われた。

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  Fez(フェズ)
 フェズに着いた後、6〜700bほど歩いて目指すホテルに着いた。まさしく安宿風の入口を入ったが人気がない。荷物をなるべく人目に付きにくい玄関の影に置いて二階に上って行き、一つのドアをノックすると中からおばあさんが出て来た。その人の案内で再び一階のホテル事務所に行くと主人がトイレから出てきた。宿泊を二泊申し込むとOK。彼のおばあさんに二階の部屋へ案内された。
 部屋はベッドと机と洗面台しかない。まさしく安宿である。下の事務所へ行って宿帳に記帳する。二泊で100DH(日本円にして約1,000円)を支払う。
 プチタクシーを拾ってメディナへと向う。日が照っている内になめし皮染めの様子を撮りたい。更にもう一箇所撮影目的のブー・ジュルード門は地図を見ると西向きなので、その後でも良いはずだ。
 モロッコの町のほとんどは、7世紀にアラブ人が侵入してきたときにつくられた旧市街メディナと、19世紀になってその周辺に発達した新市街に分かれている。808年、チュニジアのカイラワーン出身者たちはフェズ川西岸に、先住民ベルベル人とレコンキスタ(国土回復運動)でスペインのコルドバを追われたイスラム教徒が東岸に移り住んだ。
 なめし革染めに一番近いシディ・ブー・ジタ門で降ろしてもらった。料金は12.6DH。
世界一複雑なメディナの迷路写真/写真転載不可・なかむらみちお  なるほど中の通路は狭くて複雑で人通りが多く、まさしく喧騒の町である。世界一複雑な迷路の街というのもうなずける。
 城壁に囲まれたメディナは、人がやっとすれ違えるくらいの狭い路地がくねくねと迷路のように走っていて、スークと呼ばれる商店街やみやげ物店、住宅などがぎっしりと詰まっている世界一複雑な迷路の街である。そこを人々がやっとすれ違う。高い建物の間の細い道に、昼なお暗いトンネルがあり、太陽の方向も分からない。歩き回るうち、同じ場所をクルクル回っているような錯覚に陥る。そもそもは、外敵から守るために設計されたものであるが、メディナこそがもっともモロッコらしい世界を見せてくれる観光ポイントだ。メディナとは、アラビア語で「預言者の町」という意味を持つ。フェズは、イスラム王朝の都としてはモロッコで最も古い。
 押し寄せる人並みを掻き分けながら前へと進み、通路の両脇に並ぶ店の人に尋ねながらようやくなめし革染めの場所に辿り着いた。

ダッバーギーン(タンネリ)革染色路写真/写真転載不可・なかむらみちお タンネリで作業する人々写真/写真転載不可・なかむらみちお  入口近くで早速客引きに捕まった。染色風景を見ないかと言うのである。案内料は10DHという。確かガイドブックには1から2DHと書いてあったはず。案内人なしには入れないような状態だったのでとにかく案内してもらい、皮革製品を売っている店の屋上に上った。確かに写真で見覚えのある風景である。ひとまず案内人に1DHだけ払う。更に要求してきたが断る。
 そこで2〜3枚写すと案内人がこの上がもっと良いと言う。私は「ノーマネー」と言う。と、言っても帰りに要求される事もあるので用心する。私が写真を撮っている間に案内人がいなくなったので上に登って見る。そこは皮革製品を売る店の中を通って行く。
 ここからは又更に違ったアングルで撮影出来た。上から見た風景は色とりどりの液体が入った大きな丸い形の壷の中にこれから染める皮をいれ、パンツの下からは素足の職人が染料と鞣革の入った壷の中に入り、染色作業をしていた。
 撮影の後はここをどうやってお金を払わずに退出出来るかを考えた。帰りがけに店の中を通ると店員が皮革製品を見せ、安いから買って行けという。確かに安いが荷物にもなるしそれほど気にいった品物もないので買う気はない。
 そこをなんとか脱出してブー・ジュルード門へと向う。ほぼ一軒幅位の建物の間の道の両側には戦後の闇市のように間口一間足らずの店が軒を連ねている。その間を大勢の人並みが行き来するのだが、道が狭くて激しい渋滞となる。立ち止まるもの、車が入れないので時には大きな荷物を背負った驢馬が通る。中には取っ組み合いの喧嘩を始めるものまで出る始末。喧騒そのもの。そこを人々はやっとすれ違う。戦後の闇市どころではない。日本の50年前を見るようだ。今はラマダンなので休みを利用して買い物に出て来ている人が多いのかもしれない。
メディナの迷路写真/写真転載不可・なかむらみちお  モロッコには日本にはない価値観が数多くある。スークと呼ばれる商店街では品物に値札がない。すべてアラブ式に店主と交渉して値段を決める。慣れてくるとこれが結構楽しい。
 迷路のような道を尋ねながらようやくブー・ジュルード門へと辿り着いたが以外と遠かった。陽が早くも傾きかけてきた。
 ブー・ジュルード門を撮影していたら、軍人らしい服を着た人に呼び止められた。チョットこっちへ来いという。撮影していたのが拙かったのだろうか。何がなにやら分からないままに近くの交番みたいなところに連れて行かれた。そこには男が一人立っていた。

フェズ・エル・バリの正面玄関、ブー・ジュルード門写真/写真転載不可・なかむらみちお  どこか迷路のひとごみの中を通っている時に私が女の人の胸に触ったと言っているらしい。会話が分からない。「フランス語を話せるか」とかなんとか言っているが私はすべて「ノン」。最後に「ジャパニーズオンリー?」というから「ハイ」と言うと向うも困った様子。その内、又一人の男が連れてこられて又何か話していたと思ったら「もう行っても良い」と言う。「撮影もOKか」ときくとOKという。どういう事なのは分からない。納得のゆかぬまま終わった。只、後味の悪い思いだけが残った。
 未だ時間もたっぷりあるのでブー・ジュルード門から宿まで歩く事にした。思ったよりも遠かった。行きはタクシーに乗り120円位で行ったのだから帰りもタクシーで帰ってくれば良かった。
 夕陽の落ちる頃ようやく宿に着き、その日写したフイルムなどを整理する。
 カフェーなどはそろそろ開いている時間だが、帰りに見つけて来たレストランは7時開店と書いてあった。モロッコはイスラム圏なのでお酒は売っていない。四星以上のホテルか高級レストランでしかビールもワインも飲むことは出来ない。
 帰りがけに寄って確かめてきた駅前のイビスホテルは7時開店という。又、途中で見つけてきたレストランも7時と書いてあった。
 7時を待ってイビスホテルへ向う。途中、先に見てきたレストランに念のため寄ってワインかビールがあるかと尋ねて見るとあるという事なのでそこで食事をする事にした。
モロッコ料理写真/写真転載不可・なかむらみちお モロッコ料理の一つ『クスクス』写真/写真転載不可・なかむらみちお  店の中には暖炉が燃えており、チャイコフスキーの「白鳥の湖」の音楽がBGMとして流れていた。私はワインとクスクスをオーダー。ワインはモロッコのメクネスで造っているワインが出てきた。
 米国人らしい若いカップルが来て私の隣の席に座った。クスクスの写真を撮ろうとしていたらその外人の男が一緒に写してあげましょうと言ってくれたのでお願いした。
 このワインは結構いける。この後、砂漠地帯に入れば高級レストランも無く、酒は飲めなくなるだろうから明日も来る事にしよう。
 クスクスにはスープが付いてきた。私はそれを飲むものだと思って先に飲んでしまったが、隣の女性はクスクスにかけていた。後で本を見て確かめたらやはりかけるのが正しいらしい。クスクスは何か米の粉のようなものを蒸したもので、その上に鶏肉と野菜が添えられていた。特別旨いものではないが、まあ食べられる。
 ワインに酔ったのかほろ酔い機嫌で9時頃ホテルに帰ってきたが、それにしても寒い。早々にベッドに潜り込むが、流石安宿だけあって今までと違ってベッドが硬い。時差ボケは一応解消したようだ。
 スケジュールを調べて見るとどうも予定の日程と合わない。よくよく見るとラバトで2泊する予定のところを勘違いして1泊でここまで来てしまった。フェズで3泊する理由もないしこの宿では耐えられない。まぁ今日は天気が良くて予定通り撮影も出来たのだから良しとしなくてはならない。怪我の功名だ。明日が晴れるとは限らない。その内、どこかで不都合が起きてプラスマイナスゼロになることもあるだろう。先を急いでも日程が余って困る。少し余裕を取り過ぎたかな?

   12月10日(月) Fez
 10時頃宿を出てCTM(国営バス)センターに行く。途中で観光案内所に寄ってみたが、ガランとした部屋に観光ポスターが飾ってあるだけでこれと言って何もない。係りの男が一人居たが案内してくれるわけでもなくモロッコの観光パンフレットを一部くれたが見るところは何もない。ガイドブックによるとここの観光案内所は全くやる気がなく、ガイドと宿の紹介くらいだと書いてある。
 観光案内所を出て国営バスセンターに行く。係員に尋ねるとエルラシディア行きのバスは毎夜9時発の一本だけだと言う。明朝、ここを出発して夜にはエルラシディアに泊まろうと思っていたが調子が狂ってしまった。フェズの宿は今夜の分も既に払ってあるし、明日の夜出発することにすると日程は当初の予定どおりになるが、空いてしまった明日の昼は一体何をして過ごしたらよいのか。又、宿をチェックアウトしてからどこで暇つぶしをしたら良いのか途方に暮れてしまった。一先ず明日夜9時にフェズ発エルラシディア行きのバスの予約をして料金90DHを払った。
モロッコ女性を写すのは難しい写真/写真転載不可・なかむらみちお  バスセンターを出て更に右の街角へ行くと人通りが多く賑わっている。市場が在るようだ。行って見ると果物の屋台や食料品店、お菓子屋さんなどが並んで賑わっている。その中の一軒で明日の分も含めて果物とヨーグルトを買った。向いのお菓子屋さんで昼食のパンと砂漠へ行ったら昼は食物がないようなので、ナツメヤシの実を買った。昼に近くの公園でさっき買ったパンを食べたがしょっぱくてあまり美味しい物ではなかった。三分の二ほど食べて後は捨ててしまった。
 宿に帰って小休憩したが寒くて敵わない。むしろ外を歩いていた方が暖かいのではないかと思い駅の方に向って散策に出た。途中、路上にセーターなどを並べて売っている人たちが何人かいた。その中の一人に聞いて見たら200DH(約2,000円)だと言う。値切って見たら100DHにすると言う。相場が分からないのでその場は一旦断って歩き出すと、尚もしつこく付いて来て言い寄った。それを振り払い、更に先へと進む。街の商店街の一角で同じようなセーターを売っていた。調べて見たら200DHであった。
 明朝エルラシディアに着くがここはこれと言って見るべきものは何もない。次ぎのエルフードにはエルラシディアから11時発のバスが1日一本しかないらしいのでそのまま乗り次いでエルフード迄行く事にする。予定表よりも1日早くなるがまぁいいだろう。
ラム料理写真/写真転載不可・なかむらみちお  開店を待ちかねて7時早々に昨日のレストランへ行った。他に客は未だ来ていない。ワインのボトルを注文。昨日のワインとは銘柄が違うのだが、同じような味がした。今日のもメクネス産のワインだ。今日はラム料理を注文した。まぁよい味だ。帰りに半分呑み残したワインボトルを持ち帰った。ホテルに着いたら9時近かった。宿の親父と話し合ったが、明朝のチェックアウトは11時。荷物はバスセンターで預かるから持って行けと言う。明日の朝から夜の9時までこの寒い中どうやって過ごそうか、困ってしまった。

   12月11日(火) Fez-(バス)
 11時近くに一階の事務室へ部屋の鍵を返しに行くと宿の主人がいた。「どうやってバスセンターへ行ったら良いか」と尋ねたら中指と人差し指を下に向けて交互に動かし、歩いて行けと言う。部屋の窓を開けて彼方を指差してここから10分で行けると言う。
 荷物を持って外に出て見たら又小雨が降ってきた。流しのプチタクシーを拾ってバスセンターへ行く。雨足が益々強くなってきた。バスセンターに着いてから待合室に居たが寒くて敵わない。そのうち、2人の日本人のおばさん連がまるでモロッコ人のようにスッポリとジュラバと言うフード付きの足のくるぶしまで届くコートを着て入ってきた。聞けばスークで買ってきたと言う。それを着ているせいでもないが、二人とも「寒くないよ、フードが付いているから」とうそぶく。どうやら関西訛をなるべく出さないように話しているようだ。2人で弥次喜多道中のようにガイドブックを片手に歩いていると言う。「ツアー旅行はツマラナイ」とのこと。ご立派。言葉は少々のフランス語と少々の英語と後は達者な日本語(多分大阪弁)とのこと。これからバスでメクネスへ行くと言う。そのバイタリテーに敬意を表した。
店頭に山積みされた常食「アラビアパン」写真/写真転載不可・なかむらみちお  彼女たちのバスを見送った後、少し待っていると雨が小降りになってきたので、トランクからヒャックキン(100円均一店)で買ってきたビニールの雨合羽を取り出し、荷物をバスセンターに預けた後、近くの商店街(と言っても食料品などの小売店が軒を連ねているところ)へ行って昼食用のパンを買ってきてバスセンターの待合室で食べる。
 ここでこんなに寒いのだから内陸の砂漠地帯へ行ったらもっと寒いのに違いない。これ以上寒くてはとても耐えられないので雨が止んだら中心街の露店で見た毛糸のセーターを買いに行く事にする。
 昨日見た時は200DHと言っていたから100DHにはなると思う。あまり良い柄ではなく品質もアクリルらしいから、たいした期待は出来ない。それに海岸地方へ行ったら暖かくなるので、その時は荷物になって困るかもしれない。100DHは約1,000円なので、あまり良い品でもないからいざとなったら捨てても惜しくない。それよりも砂漠での寒さの方が怖い。
 4時頃雨が上ったので中心街へと行ってみる。その近くまで行った時、昨日冷やかした露店商のお兄さんの二人連れにばったりと遇った。向こうも分かったようだ。ジロッと彼らが手に提げていた商品に目をやると、早速商談に乗ってきた。私が100DHと切り出すと連れの男が「そんな値段じゃ」と言うような顔をした。しかも、もう一人の方は「OK」と言う事で商品を受け取って持って帰ろうとしたら、彼が呼び止めてビニールの袋を差し出してきた。それに入れて行けという事である。
 バスセンターに戻る途中で再び食料品店に立ち寄り、ナツメヤシの実で作った「ダーツ」と言う食品とチーズ、パン、などを買ってきた。帰りがけに眼の不自由な弱った老人の手を曳いた少女のお貰いさんにしつこく付き纏われて参ってしまった。
 モロッコの国教はイスラム教スンニー派である。基本的にすべての生活においてコーランの教えが根付いている。イスラム教では、富める者は貧しき者にその一部を与えるべきという「喜捨」という行があるが、これは旅行者にも当然求められてくる。この「喜捨」という習慣は、金銭的な事に限らず、困った人を助ける“施しの心(バクシーシ)”なども含まれていて、とても深い意味をもつ。モロッコ人を理解する上で大切なキーワードとなる。初めてのモロッコの旅は驚きの連続だ。でもその究極の異文化体験こそが、モロッコの旅の最大の楽しみといっていい。
 バスセンターの待合室で先ずチーズをかじりながら昨夜の残りのワインを飲み、その後フランスパンで夕食を終えた。9時までのバス出発時間を待つ間までが寒くて永かった。バスに乗ってしまえば暖かくなるだろう。それまでもう少しの辛抱だ。
 9時過ぎ、ようやくバスはエルラシディアに向って雨の中を走り始めた。間もなく私は眠ってしまったらしい。2時過ぎに寒くて目が覚めた。こちらのバスは暖房を入れないようだ。窓ガラスの隙間から雪が入ってきていた。耳の気圧の感じでは高所を登って又下ってきたようだ。さっきチラッと窓の外を見たら道路脇に雪らしいものも見かけた。どうやら4000b級の高い峰が連なるアトラス山脈を越えて来たようだ。この山脈がモロッコの地理を大きく2つに分けている。アトラスから北西部、つまり大西洋岸や地中海岸にかけては肥沃な平野が広がり、小麦や葡萄、オリーブなどを育む豊かな穀倉地帯となっている。首都ラバトやカサブランカ、フェズなどはこちら側。一方、アトラスから南東は砂漠とオアシスの世界。南下するにしたがって、乾燥した砂と岩のサハラ砂漠が延々と広がり、ところどころにオアシスが点在する。いよいよ“砂漠とオアシス、カスバとオアシスの世界”に入ったようだ。
 ハッと気が付いて背負っていたリックに手を回すとカメラ2台を入れていたところのチャックが三分の一ほど開いていた。やられたかなと思って中を調べて見るとオールセーフ。無事だった。あの物貰いの親子に腹いせにやられたのか、それとも狭い店の中で揉み合った時に何かに触れて偶然開いたものなのか。それにしても迂闊だった。背中に目がないのだからこれからは鍵を掛けて背負うか、前に回して抱くかしなければいけないと固く心に誓った。それにしても何も盗まれなくて良かった。ここでカメラを盗られたらすべてが終りだった。ローマで地下鉄に乗った時にも、パリで地下鉄に乗った時にも気にはしていたのだが、鍵を掛けたことは無いので、以来ズーと鍵は掛けたことが無かった。それにしても考えて見れば甚だ無用心な事であった。

   12月12日(水) Er_Rachidea-Erfoud
 途中のドライブインでバスは一時間ほど休憩した。ドライブインの中は羊の肉を焼く匂いと煙で充満していた。結構賑わっている。
 予定よりも少し早い4時半ごろエルラシディアに着いた。待合室に入ると案の定客引きが数人しつこく付き纏ってきた。適当にあしらっているが五月蝿くて敵わない。エルフード行きのバスはガイドブックに依ると11時に一本と書いてあるが、彼らは8時発にあると言う。それではそれまでここの待合室で待つ事にする。相変わらず寒い。その内流石にしつこかった客引きもどこかへ行ってしまったようだ。と、思ったら又先ほどの一人が現われてエルフード行きのバスが出るという。半信半疑で付いて行くと先ほど見落とした片隅の部屋の机のところで一人の男がいて、その前に客らしいのが居た。確認してみると本当らしい。制服を着ていないから分からないが机の側の人はバス会社の人らしい。念押ししてバスのチケットを買い、バスに乗り込むと間もなく発車した。
 先ほどの客引き達は自分たちの車で砂漠まで連れて行こうとして8時までバスが無いと嘘を言って引き留めていたらしい。まんまと一杯食わされた。しかし、実害がなくて良かった。あんなところで切符を売っていたとはとんだ見落しをしてしまったものである。

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  Erfoud(エルフード)
 エルラシディアを発ったバスはおよそ一時間でエルフードに着いた。ここでも客引きに囲まれてしまった。「どこへ行くのか」から始まって案内すると盛んに薦める。「今日は天気も悪くて雨が降っているからここに泊まる」と言うと、雨は上る。これから砂漠へ行くと素敵な日の出が見られると盛んに薦める。「宿はどこか」と聞くので「メルズーガホテルだ」と言うと、案内すると言う。バスから荷物を降ろしていたこのバスの運転手に聞くとこれらの客引きは大丈夫だと言う。と、言う事で三人の若い男に案内されてメルズーガホテルへと向ったが、ドアを叩いても誰も起きてこない。彼らは今はラマダンだから休みだ、他のホテルを案内すると言う。仕方なく付いて行くと近くのホテルを起こして中に入る。このホテルもガイドブックに載っており、値段が少し高かった。フロントマンと交渉したらメルズーガホテルと同じで良いということなのでそこに決めた。男たちは部屋まで荷物を持って強引に付いてきた。部屋に入ってチェックしたらトイレの電球が点かなかった。再びフロントから他の部屋の鍵を持ってきて入る。
 彼らは明日四輪駆動車でメルズーガまで案内すると言う。料金はまあまあだったが信用が今ひとつなので考えておくと返事をした。それじゃ12時までにフロントに返事をしてくれという事にした。帰り際に一人の男が荷物を持ってきてくれた分のチップを要求してきたので1DHコインを一個渡すと彼らはおとなしく引き上げて行った。
 朝になってからここで一番立派な四星ホテルのフロントに行って聞いてみたら、カサブランカの日本人旅行社で聞いてきたメルズーガのホテルもここと同じ経営だという事なので、そこに泊まる事に決め、往復の車もチャーターする事にして半額を払って帰って来た。
 宿の前に帰って来てからガイドブックの街の地図を確認してみたら、ここに到着した時客引きが案内してくれたメルズーガホテルは偽物で、それはこのホテルの向いにあった。玄関先まで行ってみたが彼らに紹介されて泊まることに決めたホテルより幾らか感じがよさそうだった。又一杯食わされてしまった。兎に角メルズーガ行きは四星ホテルに頼んできたので12時に彼らが現われた時は断然断る事になるが、なんと言って断るか、断り方を考えておかなければならない。
 客引き達から持ちかけられたメルズーガ行を頼むかどうかの返事を今日の昼12時と約束したので、ホテルで彼らを待ったが彼らは現われなかった。一応30分間だけホテルの前に立って彼らを待ってみたが現われないのでスーク見物に出かけてしまった。  スークでパンとヨーグルトと八朔を買ってきたが、八朔が一個14円ととても安かった。途中床屋さんがあったので値段を聞いたら20DHと言う。カサブランカあたりで暇があったら散髪して貰おう。日本へ帰ったら丁度正月でもあることだし。
 ホテルで一服していると帰りのエルフードからエルラシディアへのバスの時間が気になった。再びホテルを出てCTMバス発着所へ行こうと通りを歩いていると、一軒のレストランの前で今朝の客引きのリーダー格の男が椅子に座っていた。立ち上がって来てメルズーガ行きのガイドを要求されたが「ノー」と答えた。そして「君は嘘付だ、メルズーカホテルは目の前にあるじゃないか」と言ってやると彼は不機嫌な顔をして日本語で「ウソツキデハナイ、ベルベル人ウソツカナイ」と言った。続けて「メルズーガホテルは二つある。ラマダンで今日は休んでいる。ウソでない」と言い張る。私はもう一度メルズーガホテルの方を指差して「メルズーガホテルオープン!」と言ってやった。彼は私に今朝別れ際に彼にチップとして渡したコインを返してよこした。その後も尚彼はメルズーガ行きの話を持ちかけてきたが、断ってその場を後にした。
 CTMバスの事務所らしいところに一人だけ男がいた。バスの時刻表を要求したがそんなものは無いと言う。エルフードからエルラジディア行は夜に一本しかないと言う。毎日1日に一本だと言う。発車時間はエルフード発20時30分で、エルラシディア着が21時30分と言う。これでは宿に入るのが少し遅すぎるし、次の日のティネリールへ行くバスの予約を取るのも難しいかもしれない。ホテルに帰って方策を考える。ガイドブックを見るとグランタクシーがバス並みに便利らしい。これを使う事にしよう。
 今日の夕食はこの地方独特の料理であるカリアをレストランへ食べに行こう。但し、多分ワインはないだろう。近くの高級ホテルのレストランにあることは事前調査済みである。そのホテルのレストランは午後7時過ぎに開くので7時少し前にホテルを出てカリアを出すレストランに行き、ワインはあるかと尋ねたが、やはりないとのこと。一旦そこを出て近くの高級ホテルのレストランへと行くとモロッコワインをハーフで一本50DHで売ってくれた。それをもってカフェ・デ・デューンに向った。
 デューンでカリアを注文して出来上がるまでグラスを借り、ワインを飲む。フェズで飲んだワインと同じ銘柄だが、先日は赤、今日はロゼなので今日は少々物足りない。やがてモロッコ特有のとんがり帽子を被った陶器の器でカリアが出てきた。カリアはタジン風料理で、羊肉やにんじん、玉葱、トマトなどを賽の目に切って煮込んだ物の上に卵を半熟目玉焼き風な物を上に乗せている。食べてみると結構いける。モロッコに来て一番の味である。
 8時半頃ホテルに帰って来ると今日のフロントマンが迎えてくれた。すぐにシャワーの湯を出してくれた。あまり立派なシャワー室ではなかったが、ここ2、3日は風呂もシャワーも浴びていない。明日は少し値の張るホテルなのでシャワーを浴びる事が出来るかも知れないが思い切ってシャワーを浴びてみた。その後就寝。

   12月13日(木) Erfoud-(四輪駆動車)Merzouga
 今日はいよいよ今回の旅のハイライト大砂丘のあるメルズーガへ行く。8時にホテル・ターフィーラルトのロビーに行って待ち合わせ、そこから四輪駆動車でメルズーガのホテルへ向かうことになっている。
 6時半まで布団に潜り込んで過ごし、それから洗面、朝食、7時半ホテルをチェックアウトしてホテル・ターフィーラルトへ向う事にする。
 7時になったので朝食の味噌汁用のお湯を貰おうと思い、下のフロントへ行ってみた。彼は未だ床に毛布に包まって寝ていたが、起き出して「後で」と言ったので諦めて部屋に戻り水でパンを流し込んだ。
 7時半になったのでそろそろ出かけようかと準備をしていたところ、フロントマンがコップにお湯を入れて持って来てくれたが、もう食事も済んでいたので丁重に断った。彼は屋上から写真を撮ったら良いと薦めてくれたので、付いて行った。
 屋上からは昨日まで降っていた雨も上り、快晴で朝日が強く照り輝いていた。この屋上からは四方が遠くまで見え、とても美しかった。何枚か写真を撮り終えてから彼に1DHコインをチップとして与えた。彼は字を書く仕草をしてボールペンをくれと言う。数年前、同じ北アフリカのエジプトに行った時には子供達が、日本人を見ると必ずボールペンをねだっていたが、今回もモロッコに来てボールペンをねだられたのは初めてであった。
 たまたま首から下げていたマラソン参加の時貰ったボールペンをあげると、彼は「チョコラ」と礼を言った。そして、中の芯を取り出して見てインクが残り少なかったのか「エンド」と言っていた。
 部屋に降りて荷物を取り、フロントで会計をしたが、彼がおつりを持っていないのでうろうろしたため時間がかかってしまった。時計を見たら5分前であった。
 ようやく会計を済ませてホテルの外に出ると四輪駆動車が待っていた。わざわざここまでお迎えに来てくれたらしい。早速乗り込み、近くで水のペットボトル1.5gを買ってエルフードを後にした。エルフードの街を出るともうそこは砂漠であった。太陽の光をまともに受けて眩しい。
砂漠への道(?)写真/写真転載不可・なかむらみちお  一帯は何もない砂漠だ。初めの内は道があったがその内道も無くなり、砂漠の中を勝手に走っている感じで、これではその土地の人しか走れない。ここは“地の果て”か? 昔の地図には世界の端に“この先魔界”と書いてあったそうだ。所々に砂地もあり、こんなところはやはり四輪駆動車でなければ走れない。
 2時間ほど走ると前方に大砂丘が見えてきた。その近くのメルズーガ村を通り過ぎ、砂丘に一番近いホテルへと車を走らせる。運転手は出発する間もなくから磨いた石のようなものを出して私に見せ、買えと言うが相手にしない。又、帰りの回送料6DHを払えと言うが、私はエルフードのホテル・ターフィーラルトに500DH払っているのだから払わないと断る。再度要求された時にもエルフードのホテルから貰えと言って突っぱねた。

砂漠の中に一軒だけポツンと建つホテル・メルズーガ写真/写真転載不可・なかむらみちお

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  Merzouga(メルズーガ)
 大砂丘に一番近いホテルに着いた。運転手はここだというがエルフードのホテルで聞いてきた「Auberge _Merzouga」とは看板に書いていない。砂漠の真ん中に土を突き固めたのか又は石造りの平屋のそのホテルの小屋根の上に掲げられている看板には「Hotel_Merzouga」としか書いていない。出迎えてくれたホテルの人に聞くとここに間違いないそうなのでそのホテルの中に入る。特別チェックイン手続きをするでもなく、部屋に通された。
 部屋は白壁で大小二つのベッドがある。毛布が一枚のようなのでこれでは夜は寒いのではないだろうか。その他にシャワーが付いているが洗面台はない。部屋を出たすぐ前に共同の洗面所がある。トイレも近くにある共同トイレである。ガイドブックにはこの辺のホテルの共同トイレとシャワーは屋外にあると書いてあるので覚悟していたがひと安心。
 テーブルの上に燭台があり、ローソクが三本立てられていた。エーッと思って天井を見たら裸電球が一個ぶら下がっていたので安心した。壁のスイッチを入れてみたら明かりが点いた。一瞬ビックリしたがこれもひと安心。ここは人里離れた砂漠の真ん中の一軒家。文明の利器である電気が来ていること自体が不思議だ。自家発電かもしれない。それともこのローソクは宗教的な道具なのだろうか。改めてガイドブックを見ると、この辺では最近ようやく電気が通りつつあると書いてあった。私は恵まれたタイミングで来合わせたことになる。 テントホテル写真/写真転載不可・なかむらみちお  先ずホテルの周りを偵察と思い、外に出て見た。玄関脇にスキーとストックがあるのでビックリ。スノーボードもある。キット砂丘でサンドスキーをやるのだろう。裏に廻ってみると大テントがあった。中に入ってみるとサロンのようになっていた。夏にはキットここで大パーティが開かれるのであろう。その先にはテント村があったが今は誰もいない。

サハラ特有の赤いロード・サンドが広がる砂漠地帯写真/写真転載不可・なかむらみちお  近くの小砂丘に登って写真を撮った。全く風はなく、雲ひとつない青空から太陽の強い日差しを受けて大砂丘が赤茶けて輝く。凄い風景だ!この大地に私一人しか居ない。全く音が聞こえない。まるで宇宙にでも居るかのように無音の世界だ。

 399年、同学の僧四人と律の上完全を嘆いて長安を発し、苦難の旅を続けインドに入った唐晋の僧がいる。その名を法顕(ほっけん339?〜420?)という。3年滞在して梵語・梵分を学び、前後14年の旅をして一人無事に帰り、「大般涅槃経」などを漢訳。その砂漠の旅を記した『法顕伝』の中で彼は次のように記している。
 『沙河中には多く悪鬼・熱風有り、遇えば則ち皆死し、一として全きもの無し。上に飛鳥無く、下に走獣無し。遍く(あまねく)望み目を極め、度(わた)る処を求めんと欲するも、則ち擬する所を知る莫(な)し。唯死人の枯骨を以って標識と為すのみ』と。
 又、その230年後の629年、唐代の僧玄奘(玄奘三蔵。三蔵法師。600〜664一説に602〜664)が長安を出発し、天山南路からインドに入り、ナーランダー寺の戒賢らに学び、645年帰国。その時の旅行記「大唐西域記-大流沙(タクラマカン砂漠縦断記)」に『これ(尼壌城)より東行して大沙流に入る。砂は流れただよい、集まるも散るも風のままで、人は通っても足跡は残らずそのまま道に迷ってしまうものが多い。四方見渡す限り茫々として、目指す方を知るよしもない。かくて往来するには、遺骸を集めて目印とするのである。水草は乏しく熱風は頻繁に起こる。風が吹き始めると人畜共に目がくらみ迷い病気となり、時には歌声を聞いたり或いは泣き叫ぶ声を聞き、聴きとれている間に何所に来たのかも分からなくなる。このようにしてしばしば命をなくしてしまうものがあるのも、つまりは化物の仕業である。』と記している。「西遊記」はこの旅行記に取材したものである。今、眼前に見える風景はまさしくその旅行記を沸々と思い出させる。

 砂漠の上を少し歩いてみると日差しを受けているせいで暑くなってきた。着ていたセーターを脱ぎ捨てシャツ姿になるが未だ暑い。蝿が五月蝿く付き纏う。蝿に近寄られるのは子供時代以来何年ぶりだろう。他には何もない。あるのは砂漠と目の前の大砂丘だけだ。凄いとしか言い様のない景色だ。ここで夕方と朝の日の出のドラマが展開されるのであろう。今からわくわくしてくる。
 一旦ホテルに戻り、これまで撮影したフイルムなどを整理する。昼近くなったので少々腹が減ってきた。しかし、今はラマダンだからホテルでは食べ物は手に入らないし、近くには店一軒も露店すらない。トランクにインスタントラーメンを持ってきたことに気が付いた。それを持ってホテルの人を探し、火を貸してくれるように頼んでみた。OKが出た。男の人が私の付いている脇で、レンジでラーメンを茹でてくれたのでチップを2DH払い、部屋に持ち帰って食べた。久しぶりの日本食(?)の味は格別だった。明日も頼んでみよう。
 部屋のベッドで横になっていると又寒くなってきたので外に出て見る。外に出て太陽の光を受けると暖かい。夕陽までは未だ大分時間がある。それまでどうしよう。
シェビ大砂丘写真/写真転載不可・なかむらみちお  4時半になるのを待って砂丘の夕陽を撮りに出かける。5時頃太陽は砂漠のオアシスの木の茂る陰に沈んだ。驢馬はどこにも見かけない。砂漠のサンセットは雄大であった。まさにここは“マグレブ=陽の沈むところ”だ。サハラの夕陽に乾杯!
 夕陽が沈んだ後も更に良い情景を期待して砂漠にしばらく佇む。大砂丘の頂上から誰かが歩いて降りている。やがてその男がこちらへ近づいて来た。物売りだったが相手にしなかった。彼はしばらく近くの砂原にしゃがみこんでいたが、私が相手にしないと知ってようやくどこかへ走っていった。周りがすっかり暗くなってきたのでホテルに帰る事にする。
 砂漠の国には太陽を表した国旗はない。全部星である。太陽が出ている灼熱地獄の日中は彼らも苦手だ。彼らは太陽が沈んだ後の夜を待ち望んでいる。7時の夕食まで未だ少し間がある。フイルムを整理した後寒いので又毛布に包まってベッドに潜り込む。
タジン写真/写真転載不可・なかむらみちお  7時になったのでレストランへ行き、ワインを頼んだ。大瓶で80DHだった。料理は先ず羊肉でダシを取り、ひよこ豆、玉葱やトマトなどを細く刻んで煮込んだとろみのあるハリラというスープが出てきた。続いて厚い陶器製の皿に鶏肉、羊肉に野菜(じゃがいも、にんじん、玉葱)を入れ、そこに皿と同質の三角帽子のような陶器をかぶせて火にかけ、弱火でじっくりと煮込んだ料理、タジンが出てきた。これはモロッコ人が毎日食べている煮込み料理とのこと。サフランやパプリカなどのスパイスで味付けされている。特に旨いとは思わないがまぁいける。
 食事の後、部屋に戻ったが電灯が薄暗く、それに日本の戦前のように時々煽るので字を書く事も読む事も出来ない。9時になるのを待って寝た。

   12月14日(金) Merzouga
 6時半。窓の外が少し明るくなってきたので砂丘へと向う。東の地平線近くに赤みが差してきた。急いで昨日大体見当をつけて置いたポイントへと向う。
 だんだんと東の空が明るくなり、やがて7時半頃周りの砂丘にも紅い光が差し込んできた。1qほど離れた処に見えるメルズーガの村の建物が紅く輝いた。太陽が登るのにつれて順次辺りの砂丘が茜色に照らし出されて波打ってくる。壮大な地球のドラマの始まりである。寒さを感じている暇などはない。
 そんなドラマが20分ほど順次繰り広げられたが、太陽に赤味がなくなったらこのドラマも終りだ。早々に機材をたたみ、その先の小さな砂丘の峰を伝ってホテルへ帰って来た。
 ホテルに着くと玄関先にはホテルのメイドさんが2人立ち話をしていた。どうやら私の朝食のサービスで待っていてくれたらしい。客は私一人だ。顔を洗ってからレストランへ行くからと告げると頷いてくれた。
ホテルの朝食写真/写真転載不可・なかむらみちお  顔を洗ってから出なおしてくると待っていましたとばかりにレストランへ案内してくれた。そこには既に朝食が並べられていた。コップに入れたオレンジジュースとポットが三個。ジャム、バターなど。それに丸くてふっくらしたアラビアパンを海鼠型の切餅状に切ったのとかでいっぱい。このアラビアパンは一般的なモロッコの主食であるとのこと。イスラム圏ではパンの製造にイースト菌は使わない。そのパンにジャムをたっぷり付けて食べた。ポットには紅茶と熱いミルク、それにお湯が入っていた。お湯は皿に入っている粉コーヒーを溶かして飲む。一般的にインスタントコーヒーにありがちなあたかも煎じたコーヒーであるかのように繕って出されるよりも、いたって素朴で正直で好感が持てる。
 今日はこの後砂漠の夕陽を撮りに行くまで何もすることがない。どうしょう。部屋で一服した後裏庭に出て見た。メイドさん二人が洗濯をしていた。砂漠地帯であるこの先のホテルでは洗濯をするのはなかなか難しいかもしれない。汚れ物が少々溜まっているので暇なこの機会に洗濯させてもらおう。彼女らに近づき、終わった後私にも洗濯させて下さいと頼んだらOKだった。
 彼女達が洗濯を終えるまでの間、部屋で手紙を書いた。しばらくして行って見ると丁度一人が終わったところだった。私が汚れ物を持って行くともう一人のメイドが洗い桶を貸してくれ、その上洗剤を溶かした水を入れてくれた。
 私が洗濯していると、もう一人のメイドが今洗濯し終わった洗濯物を干しに行って帰って来た。そして私の洗濯物を洗ってくれた。洗濯の後は何もする事がないので砂丘の反対側1q近くにメルズーガの村があるので行って見る事にした。
 ホテルの前に自転車が一台柱に繋いであった。一応試しにメイドさんに申し込んで見たらOKだった。それを借りて村まで行く。前輪は空気が足りず、ブレーキは前後とも壊れている。注意して乗らなければならない。メルズーガまでの道は砂地の直線ながら平坦なので助かった。
 先ず、村の向こう端の郵便局へ行って葉書を出す。帰り際に村の中に入ってみる。子供達が大勢寄って来てなにか話し掛けてくるのだが何を言っているのか分からない。カメラを向けると年長者らしい子がひと声叫ぶとみんな蜘蛛の子を散らすように一斉に散り、物陰に隠れた。この国では未だ写真を撮られると魂を奪われると信じているようだ。この地方の民族衣装を着た女性達数人が通りかかったが、カメラを向けると皆顔を隠して写真を撮られるのを嫌うので写し難い。
 日光に照らされているととても暑い。毛糸のセーターを脱いでシャツ姿になるがそれでも尚暑い。
 12時過ぎに無事ホテルへ帰って来た。自転車を借りたメイドさんに自転車を返してチップを渡したいのだが見当たらない。洗濯物ももう乾いただろうから取り込みに行く。

   ♪月の砂漠
 夕陽まで未だ間がある。一服した後又日記を書き始めた。裏庭に行って大砂丘を眺めながら爪を切って時間を潰す事にする。
 玄関先に行くとそこにメイドさんが居たのでチップを渡す。玄関脇の椅子のあるところで爪を切り始めたら彼方にラクダの列が歩いているのが見えた。爪切りを早々に切り上げてカメラを背負い、ラクダの列の行った方に追いかける。500bほど先の砂丘の端にラクダの溜まり場のようなところがあり、そこで3人の若者がラクダに餌を与えていた。夕陽の頃砂丘の方へ行くのかと問いかけるとそうだという。本当に私の話が彼に通じたのだろうか。
 陽が沈むまで未だ一時間余りある。このチャンスにこのラクダの撮影をなんとか物にしなければならない。しばらく脇の砂丘に腰を降ろしてラクダの様子を観察する。果たして彼の言うようにラクダは砂丘の方へ歩き出すのだろうか。当然客が居なければ動くわけがない。この季節、観光客は全然見当たらない。と言う事はラクダは動かないと言うことになる。こちらがラクダを動かすしかない。私はやおら立ち上がり、ラクダの主の処へ行き、コインを見せてラクダの写真を撮らせてくれと頼んでみた。コインは返された。いくらならいいと聞いてみるとラクダ一頭かと言うから五頭だと答えたら50DHと言う。50DHは日本円にするとおよそ五百円だ。かなり吹っかけてきているから半額までは値切る事が出来るがたかが五百円だ。これで良い写真が撮れるなら儲けものだ。もうこういうチャンスは再びないであろう。値切るよりも少々高いと思う相手の言い値でOKした方が向こうも気持ちがよく動いてくれるだろう。ということで、50DHで商談成立。
 彼等はラクダの口紐を別のラクダの尻尾に結び付け始めた。私も急いであらかじめ決めて置いたアングルに三脚を立ててスタンバイに入った。
『月の砂漠』写真/写真転載不可・なかむらみちお  間もなくラクダの列は青年に引かれて砂丘を登り始めた。先ず、ラクダ君たちに砂丘の上にまで行ってもらい、私がこちらから合図をしたら砂丘の稜線沿いに歩いてもらう事にした。
 やがて、ラクダ君たちがあらかじめお願いしておいた砂丘の上に到達。“ヨーイ、スタート”。私が上に挙げた右腕を大きく振り下ろすとラクダの隊商(?)が縦一列になって右手の方に歩き出した。
 私は愛用のカメラですかさず露出を変えながら連続的にシャッターを切るとたちまちフイルムが無くなってしまった。私が新しいフイルムとチェンジしている間に私の近くに居た別の仲間が声を掛けてラクダを停め、待機してくれた。
 フイルムチェンジ後再び撮影開始。シャッター音が耳に心地よい。一往復した後再びもう一度ぐるっと一周してくれた。やはり値切らなかったのが利いたのかな。
 収穫上々の手ごたえが胸にジワーッと感じてきた。ここまで来てヤラセ(演出撮影)をしようとは思わなかった。
 フアインダーから見える景色は童謡の「月の砂漠」を彷彿とさせた。夢中でその辺を駆け回り、シャッターを切ったので汗をかいてしまった。カメラのセッテングを改めてチェックする。上手くいったと思う。ほっとするとどっと疲れが出てきた。咽がカラカラだ。
 ラクダの飼い主のところへ行き、お金を払おうと100DHを差し出したが相手も生憎お釣りがなかった。近くのホテルへ行こうと誘われて、ホテルへと向う。そこで50DHのお釣りを貰った。
 彼らはそのホテルのロビーサロンで休憩をしていたので私も一緒に近くの椅子に腰を降ろした。暫くしたら若手の男がミント茶を持ってきてサービスをしてくれた。モロッコに来ての初めてのミント茶である。砂糖が入っていた。夕陽にはもう少し間がある。あまりにも暑かったのでそのままそこで休ませて貰った。
 夕陽の時間が迫ってきたので近くの砂丘に砂漠の落日の写真を撮りに行ったが、昨日と余り変わり映えがしなかった。ホテルに帰って機材の整備をした。先ほどズームレンズのヘリコイドに砂でも入ったのか一部動きがスムーズでない所があったので全部の機材の掃除をした。特に三脚のエレベーターのネジ部分に砂が沢山こびり付いていたので分解して拭き取った。いざ組み立ててみると絞めつけ螺子が上手く絞まらない。エレベーターの螺子を絞めても止らないのだ。二時間位悪戦苦闘するが治らない。その内7時になってしまった。レストランのデナーが7時から始まるので三脚は一先ずそのままにしてレストランへと行く。
鶏肉とオリーブの実のタジン写真/写真転載不可・なかむらみちお  レストランへ行くと一人だけ先客が居た。メイドが同じテーブルに座れと言うのでテーブルを挟んで向こう側に座った。何か少しお調子めいたおっさんだ。ボストンから来たアメリカ人だと言う。相手がいろいろと話し掛けてきたが会話が噛み合わない。私は余り気乗りがしないのでセオリ通りの決り切った受け答をして聞き流した。私がワインを飲み始めると彼はビールを頼んだ。彼はひと口飲んでから唇をピチャピチャと開閉してさぞ不味そうな表情をした。そしてビールの入ったコップにテーブルの上に在った調味料の塩を振り掛け、フォークで掻き混ぜてからまずい不味いとオーバーな表現をしていた。どうもこの男は好きになれない。明日は大砂丘の朝日を見に行くという。
 料理は鶏肉と野菜の変わりにオリーブの実がいっぱい入っていた。タジンである。野菜なら良いがオリーブの実では余り食べられない。大半を残した。早々にレストランを後にして部屋で再び三脚と取っ組み合いをした。小一時間も経ってから不完全ながら多少使えるようになった。これ以上悪化させても困る。なんとか帰国するまでだましだましでも使える状態を保とうと思って終りにした。

   12月15日(土) Merzouga
 今日はシェビ大砂丘の頂上まで行って見よう。昨日はこの丘の陰から朝日が出たので、水平線から太陽が出てからかなり時間が経っている。それに砂漠からの日の出はここからでは見えない。大砂丘の上からなら見えるだろう。
 砂丘の頂上までは170bあるという。それに砂地だから結構きついに違いない。日の出の1時間前と決め、6時にホテルを出る事にした。
 3時頃目が醒めた後寝付かれない。6時20分になったが辺りは未だ暗い。東の空がようやく明るみをさしてきたのでホテルを出る。
サハラ砂漠の日の出写真/写真転載不可・なかむらみちお  シェビ大砂丘に登り始めたがかなりきつい。砂丘の尾根伝いに雪山で言う雪庇の部分を進むが足元の砂が崩れるしかなりきつい。本当は頂上から見ても余り写真的には意味がない。尾根に登った処で方向を変え、東の砂漠が見渡せる隣のピークへ方向転換する。尾根に登り切ろうとした頃朝日が顔を出した。急いでカメラをセットして連続、息つく暇もなく連写した。
 写し終えて一段落してから時計を見ると7時半だった。これ以上ここにいても太陽はだんだん白くなるだけで面白くないので機材をたたんでホテルへ向って砂丘を駆け下りて来た。
 砂丘の上に居た時に中間地点付近の砂丘の上に2人の人陰が見えたが、あれがキット昨夜ホテルのレストランで私と一緒に食事をしたアメリカ人だったのだろう。もう先にホテルに帰っているだろうと思ったがホテルの前で迎えてくれたメイドさんに聞いたら、未だ帰ってきて居ないとのこと。向こうで会わなかったかと聞かれたので会わなかったと答えた。
 顔を洗ってからレストランへ行くとメニューは昨日とほぼ同じだったが、ケーキのようなパンと小麦粉を練って薄く延ばし、油引きしたフライパンで焼いたような「ムラウイ」と言うパンが出た。これが香ばしくて旨かった。3枚あったのを全部食べてしまった。
 部屋に戻り、機材整理をしてからレストランへ行ってみると彼の米国人が食事をしていた。一言挨拶を交わして辞する。部屋に戻って日記を書きはじめた。昨日は村まで行って来たが、今日はもう何もすることがない。差し当り後でシャツの洗濯でもして時間を潰そう。
 玄関先でここのホテルのマスターに会ったので明日の朝発つからと車の手配を依頼する。
 部屋で今朝の食事の残りを持ってきたパンを昼食代わりに食べた後、着ていたシャツの洗濯をした。荷物が増えるのを恐れて着たシャツを加えても3着しかない。その内日本から着て来たシャツは古くなったので汚れたら捨てる心算で持って来たが、未だ捨てるには勿体無い。それに数が少ないのでもう一度洗濯して着てからにしよう。とにかく今日は時間があるし、メイドさんも洗濯している中に入ると何かと便利だ。
メイドさんと一緒に洗濯写真/写真転載不可・なかむらみちお  昨日は部屋の窓の外で洗濯していたが今日は未だやっていない。奥の方へ行って見たらそこの洗濯場でやっていた。午前中に話を付けておいたので話は簡単だ。早速仲間に入れてもらって洗濯をはじめる。粉石鹸で石鹸水を作ってくれた。カメラを持ってきて自動シャッターでその模様を撮った。
 部屋に戻ったが何もやる事はない。ベッドに横になる。永い時間が過ぎる。少し寒くなって来た。窓から見ると大砂丘の光線状態が良いので散歩がてら2、3枚撮ってくる。
 夕陽までは未だ少し時間がある。再びベッドに横になってガイドブックを読む。まるで時計が止った様に時間の流れが遅い。
 4時半を過ぎたので夕陽を撮る為砂丘へと向う。やがて夕陽が始まった5時頃男2人、女2人が4WDで駆けつけて来た。今日は少し風があるので足元の砂が飛ぶ。彼ら4人は私の立っているところに来た。周りで歩き回られると砂が飛び、カメラなどに入るので神経を使う。その中の一人がシャッターを押してくれとカメラを差し出したので写してあげる。今日の夕陽は今までとさほど違わないので2、3枚写して引き揚げる。
ナツメヤシの実とゆで卵入りのタジンにモロッコサラダ写真/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルに帰って一休みした後、7時を待ってレストランへ行く。今日のメニューはモロッコサラダに牛肉とナツメヤシの実の入ったタジンだ。一口食べて見るとかなりしょっぱい。従って旨くない。肉はなんとか食べたがナツメヤシの実は残した。9時を待って寝る。

   12月16日(日) Merzouga-(四輪駆動車)Erfoud-(タクシー)Tinerhir
 今朝もいつものように砂丘に登る朝日を撮りに出かける。昨日は中砂丘の上で撮影して良いところを撮ったので、今日はよほど今までよりも良くなければシャッターは切らない。手近かな砂丘に登り、一応スタンバイする。
 今朝は東の地平線近くに雲がある。多分良くないだろう。大砂丘の上に人が立っている。斜面にも一人いる。他に現地の人らしい人が3人歩いていた。
 思ったとおり今朝は雲があるから全く良くない。早々に引き揚げる。ホテルの前に四輪駆動車が来ていた。私が頼んだのは9時から10時と言っておいたから多分関係ないだろう。
 顔を洗ってからレストランへ行き、朝食を摂る。何時もと同じメニューだ。昼食用にパンを3切れ持って来る。
 部屋に戻って帰り支度を始める。レセプションに宿泊料を支払いに行くと、あの4WDが私の頼んだ車だと言う。そしてホテルの従業員を一人エルフードまで乗せて行ってくれと言うのでOKする。
ラクダを曳くベルベル人写真/写真転載不可・なかむらみちお 映画『星の王子様』の撮影に使われた飛行機のセット写真  8時過ぎ、ホテルの従業員と3人でエルフードへ向けメルズーガを出発する。この三日間は永かった。途中ラクダを曳いたおじさんに出会った。早速車から降りて撮影する。思わぬ拾い物をした。又、映画「星の王子様」のロケに使われた飛行機の模型があると言うホテル・カフエ・デューン・ドールに立ち寄る。運転手に案内されて行って見ると以外に小さい。サハラ砂漠をバックにちょこんと置いてある。細めのドラム缶を横にしたような感じた。映画はマジックと言うけれど、操縦席の部分しかないので拍子抜けした。それでも記念にと写真を撮って再びエルフードへ向けて出発する。
 今日はエルフードから更にエルラシディアに出て、出来ればティネリールまで入れれば上出来と思っている。運転手にティネリールまでバスで行きたいと言うと、バスはないと言う。エルラシディアへもバスがない事は分かっており、グランタクシーで行こうと思っていたので、エルフードのグランタクシーの乗り場まで送ってもらった。グランタクシーでエルラシディアに行って一泊するよりもこのグランタクシーで一層の事ティネリールまで行ってしまった方が良いかもしれない。運転手がタクシーの手配師みたいな人を紹介してくれた。値段を交渉すると360DHだと言う。モロッコにしては少々高いが日本円にすると3,700円位だ。2時間乗って便利さを考えればそんなに高いものではない。ティネリールの宿は40DH。エルラシディアの宿は135DH。これらを計算すると少々高いがこのタクシーでティネリールへ行った方が良さそうだ。
 ティネリール行きのタクシーの運転手は人の良さそうな太っちょのおじさんだ。手配師はお金を払えと言う。私はティネリールに着いてから払うと言うと、ガソリン代が要るから半分払えという。と言うことで200DHを前払いする(大丈夫なんだろうな)。僅かばかりの不安を乗せてともかく車はエルフードを出発した。
 途中タクシーの事務所らしいところに立ち寄り、運転手がなにか書いた紙切れを持って入って行った。
 ようやく車は(多分)ティネリールへ向って走り出した。太陽の位置からして方向は合っているので間違いないだろう。
 エルラシディアからこれから行くティネリールを経てワルザザートを結ぶ東西ルートをカスバ街道と呼ぶ。カスバとは、城壁で囲まれた要塞のこと。この街道沿いには、大小のカスバが特に多く残っている。
驢馬に乗った少年写真/写真転載不可・なかむらみちお  途中で驢馬に乗った少年とか、目に付いた物を車を停めて写しながら走る。バスではこうはゆかぬ。貸し切りの強みだ。

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  Tinerhir(ティネリール)
 2時間ほど走ると大きな街に着いた。これがティネリールだという。あらかじめ調べて置いたホテル・ロアシスへ行ってもらった。ホテルの前に横付けすると可愛いお姉ちゃんが出迎えてくれた。宿泊はOKと言う事でタクシーにお金を払いホテルに入る。
 部屋を案内してもらった。今までにない奇麗なホテルで部屋も奇麗だ。しかし、パテオ形式の建物なので窓が無い。ベッドが2つと洗面台、それと小さな四角いテーブルがひとつのみ。トイレと本式の洗面台、シャワーは廊下伝いにある。
 荷物を部屋に置き、街を一回りする為階下に降りて行く。そこでチェックイン。ホテルの男の人にお茶でもどうぞと誘われ、一緒に戴く。
 ホテルのすぐ前が中心街である。先ず、CTMバスの事務所に行き、明日、ワルザザートへ行きたいと言うと、バスは無い。近くの民営バスが明後日なら出ると言う。その民営バスの事務所が分からないので案内してもらう。そこから2、3軒隣だった。そこで尋ねると明後日は数本のバスが出るという。予約は不要。その時間にここへ来いと言う。
 民営バス事務所を出て近くのマーケット付近をぶらつく。再三さっきのホテルの男の人と出会う。一通り街の中心を見た後、ここの名所のひとつである「グラウィのカスバ」を見たが全くの廃墟であった。
トドラ川沿いのオアシス写真/写真転載不可・なかむらみちお  その近くのホテルの屋上に上げてもらってティネリールの展望を撮る。帰りがけにBarがあったので立ち寄って見るとビールがあると言う。普通15DHなのにここでは30DH(約300円)とのことで少々高いが注文するとテラスまで案内してくれた。ここからティネリールの街が一望出来た。その街並みとオアシスを眺めながらビールを傾けた。空き瓶は持ち帰って来た。宿でラベルを剥すつもりだ。途中で水を買い、宿にご機嫌で引き揚げる。
 石造りの宿の部屋は外よりも寒く冷えている。窓もなく陽が射さない所為もあるだろう。うっとうしい。
 屋上のテラスへ上がって日記を付け始める。日中陽が照るととても暖かい。ここに来る途中シャツ一枚で来たが、陽が落ちると冷えてくる。あるだけの衣装を出して着込むが未だ寒い。夜も多分冷え込む事だろう。7時まで部屋で日記を書いたりして過ごし、7時を待って3階のレストランへ行った。女の人が一人いた。タジンを注文する。出されたグリーンオリーブとブラックオリーブの漬物をつまみながら待つ。やがてサラダを持ってくるのかと思っていたら、いきなりタジンが出てきた。例のようにジャガイモとにんじん、ピーマン、インゲンマメ、アーモンドの実などの入った鶏肉のタジンであった。塩味だがあまりしょっぱくなく、美味しいとは言えないがまぁいける。
 寝るまで未だ時間があるので下着の洗濯をする事にした。先ほどお湯が出るのは確認しておいたので、その点は大丈夫だ。トイレの前の洗濯所は洗面器に栓があるので好都合だ。今朝まで着ていた股引とシャツを洗う。昨日メルズーガのホテルで洗濯した時に一緒に洗えば良かったのにその時は着ていたため忘れていた。洗濯物は一応部屋の隅に引っ掛けておいたが先ず、なかなか乾かないだろう。明日、日中陽の強い時に屋上のテラスでひなたばっこをしながら干す事にする。
 寒いので9時頃にはベッドイン。そのまま寝てしまった。

   12月17日(月) Tinerhir
 今日は曇りだ。今日はトドラ渓谷を見に行くつもりだったが曇りとは残念。昨日はあんなにも快晴だったのに一変して曇りとは信じられない。この辺は砂漠地帯の一部なのだから、てっきり連日ピーカンと思っていたがそうでもないらしい。雨は降りそうにもないので一応行ってみる。良ければ明日再挑戦と言う事にしよう。大渓谷と言っても層雲峡程のことはあるまい。峡谷の写真その物が余り面白い物ではないので物見遊山程度の気持ちで出かけよう。
 10時近くになってホテルの外へ出て見たが、昨日の賑わいとはうって変わってほとんど人陰がない。店も閉まっており、沢山在った露店の屋台もない。一夜にしてまるで死んだ街に変わってしまった。一体これはどういうことなのだろう。理解出来ない。先ず銀行を覗いて見たが当然ここも閉まっている。月曜日だというのにどうした事だろう。グランドタクシー乗り場にも車は一台もない。これではトドラ渓谷にも行けないし、食べる物を買う事も出来ない。
 ホテルに帰ってホテルの人に聞いて見ると、今日はお祈りの日だと言う。ガイドブックの祝祭日の処を見ると、イスラム歴の中に12月15日頃「ラマダン明けの祭り」と書いてあるのでキットこれの事だろう。
 12日にエルフードのCTMバスの事務所でエルフードからエルラジディア行きのバスの時間を聞いた時、夜中に一本しかなかったり、ティネリール行のバスがないという事もこの所為だったのかも知れない。
 とにかくこの状態では一歩も歩けない。予定より3日も早く着いているのだから、日程的には困る事はない。焦る事はない。明日があるさ!丁度ホテルも奇麗だし、値段も安い。大都会の高い値段のホテルで日程を調整するよりもこの方が良い。しかし、何も見るものがないのでどうやって時間を潰すかが問題だ。
 ホテルの部屋は石室のように寒い。あるだけの衣類を着込み、その上マラソンのゴールの時に貰った畳一枚ほどのアルミ箔を腹に巻き、ペットボトルと昨夜洗濯をして未だ濡れているシャツを持って屋上へ行く。そこのテラスで椅子に洗濯物を広げて乾かしながらガイドブックを読んだり日記を書いたりして過ごす。
モロッコの女性写真/写真転載不可・なかむらみちお モロッコの女性写真/写真転載不可・なかむらみちお  昼近くなると民族衣装を美しく着飾った女性や、普段は着ていない真っ白のジュラバを着た男などが表通りを通り始めたが数は多くない。天候は時々薄日が射す程度の曇り日で極端ではないが薄ら寒い。時間の経つのがとても遅い。気が遠く成るほど…。
 昼食後、着飾った人たちが行く方へ行ってみた。カメラを向けると皆顔を隠すので写すのに苦労する。
カスバ写真/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルに帰って一休みした後、4時頃夕焼けを撮りにホテルの裏の丘に登ってみる。カスバみたいな建物が夕陽に映えて興味をそそる。5時15分のサンセットを待つ。最後は遥か彼方の山脈近くに雲があってあまり良くなかったが夕焼けは素晴らしかった。但し、夕焼けだけでは写真にならないので只見ているだけ。帰りがけにロケハンを兼ねて石造りのレストラン「ラ・カスバ」に行ってみたら開店準備中だっが、目ざとく見つけられたボーイに誘われるままに中に入った。迷路のような通路を通り奥に進むと中は一見岩をくり貫いたように壁はざらつき裸電球がひとつ点いていた。洞窟のような感じだ。これでもこの街では高級レストランの部類に入る。
 私はテーブルの前に座りワインとシシカバブを注文した。ここでワインを飲めるとは思わなかったので嬉しかった。ワインはどこかへ買いに行くらしく100DHを先にくれと言う。一寸心配だったが、お金を渡すと間もなくボトルを持って帰って来た。多分、外国人などが泊まる大きなホテルのbarからでも買って来たのだろう。但し、ワイングラスは無いとのことで普通のグラスで飲んだのは興ざめだった。
レストラン・ラ・カスバのムッシュ写真/写真転載不可・なかむらみちお レストラン・ラ・カスバのボスと仲良く写真/写真転載不可・なかむらみちお  シシカバブも結構いける。やがて2人のボーイさんが太鼓を叩いて聞かせてくれた。それはアフリカのリズムだった。私も興に乗って叩いてみた。他に客は居ない。その内、このレストランのオーナーも加わり、おおいに飲み、太鼓を叩いて楽しいひと時を過ごした。

ホテル・ロアシスのオーナーとムッシュ写真/写真転載不可・なかむらみちお  いいご機嫌でホテルにご帰還。洗濯物を取り込み、歯を磨き、日記を付けてから一階のBarのようなホールへ行き、TVを見た。イタリアでのサッカーの試合が放送されていた。あまり興味がないので退屈しているとベルベル人だという宿の主人が寄って来て日本語を教えてくれと言う。私たちはそれからロビーの一角のテーブルに会い対座してしばし日本語の“講習会”を開いた。彼は以前から日本語の勉強をしていたらしく、日本語を書いた紙を持って来ていた。「ありがとう」とか「さよなら」「いらっしゃいませ」等の日常語を初め「問題ない」等結構難しい会話を勉強した。
 しばらくするとひとりの若いホテル従業員が外から日本人の青年を連れてきた。聞くと今日グランドタクシーでワルザザートから入り、明日、エルフードを経てメルズーガへ行くと言う。丁度私と反対のコースである。メルズーガへの行き方と宿の宛はあるのかと聞くと一応あると言う。参考の為、私の泊まったホテルとメルズーガ行きの車を頼む所などをアドバイスしてあげると彼は礼を言ってホテルを出て行った。
 9時過ぎベッドイン。

   12月18日(火) Tinerhir-(タクシー)トドラ渓谷-(タクシー)Tinerhir
 朝日に照らされたティネリールの写真を撮るために朝7時前に起床。ホテルの屋上に登ってみたら曇りだった。部屋に戻って明日の出発に備えて身の回りを片付ける。
 7時半、顔を洗ってから朝食。今日はトドラ峡谷を見に行く予定だが、生憎の天気である。しかし、峡谷はたいした写真にはならないので見に行くだけなら曇っていても構わない。早く行ってもタクシーが捕まり難いので9時過ぎに出かける事にする。
 一階のbarに降りて行くと例の宿の主人が居た。呼び寄せられて又日本語を教えてくれと頼まれた。仕方がないので傍らのテーブルの席に座り、日本語の講習会を約1時間ほどした。
 少し疲れたが相手はなかなかの勉強熱心で止めようとしない。余りにも彼が熱心なので私は彼に「どうしてそんなに熱心に日本語を勉強するのですか」と尋ねると、彼は「このホテルには日本人のお客様が沢山お泊まりになる。そのおもてなしの為にも日本語を勉強したい」と言う。ベルベル人は心優しい人が多かった。

 ※モロッコの国民の六割が先住民のベルベル人(セム族系とラテン系とネグロイド系の混血。ベルベル語を話す北アフリカの先住民族)が占めているという。
 ヨーロッパではアラブ化したベルベル人のイスラム教徒のことをムーア人と言い、8世紀にはイベリア半島を征服したイスラム教徒を指すようになり、さらに11世紀以後、北西アフリカのイスラム教徒の呼称となり、15世紀頃からは漠然とイスラム教徒一般をも指し、恐れられていたらしい。その名残かマラケシュのレストランAli Falahでは騎馬軍団による「ファンタジァ(ベルベルの騎馬芸。元々戦争の為の訓練、騎馬試合として行なわれていたもので、現在はお祭りなどで見る事が出来る)」という勇壮なショウがある(参考資料より)。
 ポルトガルのシントラには7〜8世紀にムーア人によって築かれた「ムーアの城跡」があり、現在は廃墟となっいるが、わずかに残る城壁がかつての栄華をしのばせている。又、ヴェネツィアのサン・マルコ広場のサン・マルコ寺院に向って左手にある15世紀から16世紀にかけて建てられた名物の時計塔の上では2人のムーア人のブロンズ像が500年もの間鐘を鳴らし続けている。

 10時頃外を見たら先ほどからの雨が小降りになったので出かける事にした。
 レセプションでマスターから傘を借りて先ず銀行へ行ったが閉まっていた。確か今日は開いていると誰かが言った筈だが…。次ぎの銀行も閉まっている。手持ちの残金が少なくなったので心細い。
 タクシー乗り場に行く途中でガイドブックに載っていたレストラン・ラプニールのロケハンをした。店は小さいがすぐ見つける事が出来た。その店の玄関先に居た2人の青年が目敏く私を見つけて近寄ってきた。そして説明を始めた。一通り聞いて別れ際に一人の青年が今日はラマダン明けの祭日だから女性のダンスがある「無料だ」と誘った。「無料」というのは怪しい。何度も念を押すが「無料だ」と言う。家族がやっているので大丈夫とも言う。兼ねてから民族舞踊の写真を撮りたいと願っていたので半信半疑ながら付いて行く(実はこの手が多く、とても危険なのだが、イエスとさえ言わなければ大丈夫?)。
お茶を入れてくれるご主人写真/写真転載不可・なかむらみちお 絨毯織り写真/写真転載不可・なかむらみちお 絨毯織り写真/写真転載不可・なかむらみちお
手織りの絨毯を見せてくれる奥さん写真/写真転載不可・なかむらみちお

 彼に案内され、曲りくねった細い路地を通ってカスバの中の一軒の家の扉を叩くと婦人が出て来て招き入れられた。絨毯織りの機械のある部屋に通されて座らされる。主人が出て来てお茶を振舞ってくれた。写真撮影もOKと言うので各場面を撮らせて貰った。最後に婦人が絨毯を何枚もいろいろと広げて見せてくれた。これは素晴らしい物でマラケシュやカサブランカでは○○DHで高い。ここでは○○DHにしておくと言う。私は毛頭買う気がないから彼らが何DHと言ったか覚えていない。これはヤバイ。娘さんの民族舞踊には未練があったが、退路でも断たれたら大変だ。今の内にこの場は退散するのが無難。これ以上深入りすると深みにはまると思い、「サンキュウ」と言い残してその場を退散した。この場合、睡眠薬でも飲まされたらイチコロだ。飲み物や食べ物などは一切口にしてはならない。
メディナの子供たち写真/写真転載不可・なかむらみちお  途中、帰りのメディナの狭い迷路では子供達が遊んでいたのでカメラを向けると気付かれて一斉に蜘蛛の子を散らすように陰に隠れられてしまった。
 トドラ渓谷に行くべくグランタクシー乗り場へ行く。今日も昨日に続いてラマダン明けの祭日とあって着飾った人々が大勢たむろしている。タクシーは全然見当たらない。時折何処からか帰って来たタクシーにどっと客が駆け寄り、定員には関係なく乗れるだけ乗り込む。何時まで待っても乗れそうもない。一応広場には手配師みたいな男があっちへ行ったりこっちに来たりして客を捌いている。私はその男にトドラ渓谷へ行きたいのだと意思表示しておいたが、なかなか私には“お声”が掛からない。そうこう一時間位する頃一人の青年が「トドラ渓谷に行くのか」と聞くので「イエス」と答えた。程なくその青年が駆け寄ってきて、あのワゴン車に乗れと言う。車の中には婦人子供など既に満員すし詰め状態だった。私は助手席に他の客と共に乗せられた。
 やがて車はトドラ渓谷に向って走り出した。途中で一人、二人と降りて行く。やがてトドラ渓谷に着き、7DH支払った。往復で6〜12DHと聞いていたのだが、まぁいいだろう。
トドラ渓谷写真/写真転載不可・なかむらみちお  トドラ渓谷に着くと一緒に乗って来た彼の青年2人がガイドを申し込んできたが断り、一人で谷の奥へと進む。層雲峡とは又一味違ってはいるが似たようなものだ。こっちの方が道が狭くで両側の崖が聳えているので迫力はある。500メートルほど歩いて進んだ後引き返してきた。売店の処まで来たら雨が降ってきた。近くのレストランの庭先で雨宿りをする。
 しばらくすると欧米人のような客がタクシーを捉まえ、私にティネリールへ行くのかと聞く。「イエス」と言うと各人一人当たり12DHと言う。私は「高い」と言って断った。
 それから15分ほど待ったら又タクシーが来て客を降ろした。ティネリールまで6DHで行くと言うのでこれに乗せてもらってティネリールへ2時頃無事帰って来た。全くスリル万点の出来事だらけだった。
 腹が減ったので昼食とする。今日はラーメンの予定。ホテルのレセプションに行って火を貸してくれと頼んでみた。実は昨夜レストランの火が奥にあるのを見ていたわけである。直にOKが出てレストランの厨房に案内され、火を借りた。
 そこには生卵が沢山あった。係りの人に頼んでもらって一個分けてもらった。2DHと言ったが生憎小銭の持ち合わせがなく、私の財布の中には1.5DHしかなかった。彼はそれで良いというので負けて貰った。レストランの上のテラスへ行き、昨夜の夕食時にレストランから持ってきたパンと共にラーメンを食べ昼食を済ます。
 一階のレセプションに行き、宿代3日分を払った後、向かいの広場の一角にある民営バスの事務所へ行って明日のワルザザート行きのバスの時間や料金、座席指定の有無などを調べる。その後一階のbarの外に作られたテラスで日記を書く。
 6時過ぎ、昨夜行ったレストラン「カスバ」に昨夜の残り半分のワインと録音機を持って行く。今夜はケフタのタジンとこの店自慢のヨーグルトを食べる。ヨーグルとは少し香が良いが他はどうと言う事はない。タジンは美味しかった。
 食後に今夜もボーイさんが太鼓を叩いてもてなしてくれたのでその音を録音した。お礼に5DH置いてきた。

   12月19日(水) Tinerhir-(バス)Ouarzazate
 午前7時30分ティネリール発のバスでワルザザートへ行くべく6時に起床、顔を洗って7時にホテルの向いのバス発着所へ行く。バスは既に到着していたがエルラシデイアから来たらしく、満員で多くの乗客は夜行列車の客のように眠りこけていた。それでもなんとか立席で乗り込む。
 発車時間よりも10分も早くバスはティネリールの町を後にした。途中で乗客を降ろしたり乗ったり。いわゆる田舎の乗合バスである。30分ほど走った町に停車した時に座ることが出来た。バスはカスバ街道をひた走り、途中いくつものカスバを見る事が出来た。

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  Ouarzazate(ワルザザート)
 10時頃バスはワルザザートの街に到着。そこからタクシーでホテルへと向う。タクシーは途中の街の目抜き通りを通り過ぎ、街外れの大きなホテルへと向う。私の泊まる予定のホテルはこんな立派ではない。私は運転手にホテルの名前を確認すると彼は間違ったと言うポーズをして今来た道を引き返し、ようやく先ほど通った街の中にあるホテルの前で泊まった(本当に間違ったのか疑問だ)。ホテルのフロントで今夜の宿泊を申し込むとすんなりOK。
 チェックインした後フロントマンにアイト・ベン・ハッドゥ行きの車を手配してもらった。車は快晴の道をマラケシュ方面へ向かって走り出した。やがて途中の小高い丘の上に案内された。そこから向こうにアイト・ベン・ハッドゥが見えた。傍らに駱駝が居たので写真を撮るとその駱駝の飼い主に撮影料を求められた。
 再びマラケシュ方面に向い、途中から中道に入る。アイト・ベン・ハッドゥの入口に車を停め、お土産屋の並ぶ道を進んで行くと小川に出る。そこを渡ってアイト・ベン・ハッドゥへ向う。
白雪を頂いたアトラス山脈とアイト・ベン・ハッドゥ写真/写真転載不可・なかむらみちお 入口の門は固く閉ざされ、要塞の威圧感がひしひしと感じられる写真/写真転載不可・なかむらみちお  ワルザザートの西33q、アイト・ベン・ハッドゥ村はいわゆる日干しレンガ造りの古い“クサル(要塞化された村)”のひとつである。特別な史実があるわけでもない。ただ、その現実離れした不思議な風貌は、迫力ある空間芸術といってもいいほどで、とにかく壮観だ。小川のほとりの丘の斜面を利用して、立体的につくられているこの村には、来るものを拒むような巨大な門がどっしりと構え、高い城壁がめぐらされている。銃眼が配置された塔が、一定間隔をおいて何本もそびえ、村内の道が迷路のようにその間を縫い、まさに難攻不落の要塞を思わせる。
 現在ここに住んでいるのはベルベル人の5〜6家族だけ。土づくりの家々はかなり傷みが進んでいる。中に入ると入場料5DHを払わされた。人の住んでいるカスバの中を通り、山の頂上までガイドの後を付いて行く。遥か前方にアトラス山脈が真っ白な雪を頂いて輝いていた。
 かつて、デビッド・リーン監督がここで映画『アラビアのロレンス』を撮影した他、『サドムとゴモラ』、『ナイルの宝石』と言った映画のロケ地として使われた事でも有名。ワルザザートの街の近くにあるアトラス・コーポレイション・スタジオではエリザベス・テーラー主演の映画『クレオパトラ』など、過去にも何本もの有名映画の撮影が行なわれた。
 山を降り、元の入口へと戻ってきたが、かなり見応えのあるものだった。街に帰る途中運転手が地元の女性を一人ワルザザートまで同乗させた。街に戻った後、タウリルトのカスバの前まで送ってもらい、そこで料金300DHを払って車とは分かれた。ここは映画『シェルタリング・スカイ』の舞台になった事で有名だ。
 タウリルトのカスバに入場料10DH払って入って見た。内部は、かなり複雑な造りになっているが、ガランドーで何も見るものはない。十数の部屋は狭い階段でつながっている。早々にそこを出てその建物の南側から撮影した後歩いて街に戻った。
 途中、郵便局へ寄り家への葉書を書いて出す。その後、国営バスへ立ち寄り、マラケシュ行きのバスの状況を調べる。
スーパー・マルシェにはワインがずらり写真/写真転載不可・なかむらみちお  一旦宿に帰ってから近くのスーパーに酒の買出しに行く。そこではワインが50DHで売っていたので先ず一本籠に入れ、その後、水とヨーグルト、オレンジを買う。向いのスークへ行き、少々小汚いがダーツを買う。今夜行く予定のレストランに行ってみたら20日まで休みと張り紙がしてあった。もう一軒のレストランへ行くと2〜3日はラマダン関係で休みとのこと。仕方がないから先ほど買ったワインで今日は部屋食にする事に決め、フランスパンと魚の缶詰を買って帰って来た。
 5時半頃から部屋でワインを開けて飲む。身の回りや今日の領収書などを整理して日記を付け終わったら8時になった。少々早いが後何もすることがないし、少々寒いのでベッドに入る事にする。

   12月20日(木) Ouarzazate
 モロッコに来て今日から第3週目に入る。丁度折り返し点にきたわけである。長かったような短かったような。どちらかと云えばやはり日程に余裕を持って取ったのと、交通事情が悪く、ここが済んでも簡単に次ぎの地点へ移動出来ない事もあって時間の経つのが非常に遅い。全体に間延びして時間を持て余す。ポレポレ(スワヒリ語で『ゆっくり』という意味?)。
 明日は愈々一番怖い街マラケシュへ向う。6時頃目が醒めたが、未だ起きてもどうしようもない。ベッドの中で持ってきたMDで音楽を聞く。ショパンの「別れの曲」が自棄にもの悲しい。
 8時になるのを待って起床。顔を洗い、朝食を摂る。その後、CTM(国営バス)へ行って明朝のマラケシュ行きの乗車券を買う。55DHと以外に安い。一時間当たりおよそ100円見当になる。
 帰り道、明日の朝引っ張ってくる荷物の道の状態をチェックしながらホテル前まで帰ってくる。ホテルには入らずそのまま商店街を散歩してお土産店などを冷やかしてみるが、これといって欲しい物はない。通りを一本入った小さな店が並んでいる通りを歩いてみるとパン屋さんが素手でモロッコパンを籠に入れ、近所の店に配達していた。イスラム圏では左手を上浄のものとして使わないというがこの場合本当に左手でパンを掴まないのだろうか。この国に来たら奇麗汚いは言っておれない。
 スークを流していると店先でタジンを作っていた。店の奥のおばさんに聞いたら15DHだと言う。今日の昼はこれにしよう。
 蓋を開けて見せてもらったらじゃが芋を薄切りにした中に鶏肉が入っていた。人参と玉葱が入っていないのが不満だが、一食位完璧に栄養を取らなくても影響はないであろう。昼には未だ間があるので一旦ホテルに戻り、日記を書く。
 今日は朝から曇りがちで昼間も晴れたり曇ったりの天気である。昨日アイト・ベン・ハッドゥに行って来て良かった。
タジン写真/写真転載不可・なかむらみちお  昼過ぎに又スークへ行ってタジンを食べた。スライスしたじゃが芋の下には玉葱と骨付き鶏肉二本が入り、ターメリックで香を付け、上にはトマトのスライスが載っている。味は塩味だが大変美味しかった。モロッコに来てから何回かタジンを食べたがここのが一番美味しかった。午前中に値段を聞いた時は15DHと言っていたが今食べたのは大皿だったので25DHだった。最後にこれ一つしか残っていなかったので選びようがなく仕方がない。
 量が多かったので最後にじゃが芋などを少し残してしまった。すると店主のおばさんが来て「残した分は食べないのか」と聞く。どういう意味か分からなかったが「イエス」と答えると、店の隅に居た子供づれの女性を指差し、「あの女性にあげても良いか」と尋ねてきた。私はまた「イエス」と答えると私が残したタジンをその子連れの女性の処へ持って行った。女性はそれを受け取り子供に食べさせていた。キット貧しくてまともに金を払って食事を摂ることが出来ないのに違いない。
 食後にその付近を散歩していると今夜行く予定のレストランで開店準備をしていた。何時に開店するのかと尋ねると、今日は休みで明日から開くという。当てが外れてしまった。やむなく今日も部屋食にしよう。さっきのタジンで肉と野菜の栄養は摂ったので今夜は部屋で昨夜の残りのワインで食事をする事にする。そうと決ったら食材を揃えなければならない。マルシエへ行ってチーズを買い、近くの店でフランスパンを一本買ってきた。フランスパンは半分で良いので明朝の分もあることになる。
 部屋に居ても寒いのでテラスや屋上などで日向ぼっこをしながら過ごす。夕陽を期待して屋上からワルザザートと雪を頂いたオートアトラス山脈を狙ってみたが雲が多くてダメだった。
 部屋に戻り、買ってきたチーズをかじりながら昨日の残りのワインを空ける。ホテルのコンシェルジュに行ってお湯を貰い、それにインスタント味噌汁を溶かし、フランスパンで夕食を摂る。今日は近くのレストランで夕食を摂る予定だったが、ラマダン関係で明日にならなければ開かない。と、言うことでやむなく部屋食となってしまった。やはり少し侘しい感じだ。
 明朝は8時半のバスでマラケシュに向うので7時には起きよう。その為に一応荷物をまとめておく。
 7時には食事が終わったが、後は何もする事がない。寝るには未だ少し早すぎるがどうしよう。

   12月21日(金) Ouarzazate-(バス)Marrakech
 6時半起床。顔を洗ったあと屋上へ登ってみる。晴れだが地平線近くに雲があるので日の出は薄日の中で北向きに見える。雪を頂いたアトラス山脈の銀嶺を写すのには適さない。部屋に戻って食事をする。
 モロッコのバスは発車時間がルーズだという。ときには30分も前に発車してしまっていたという事もガイドブックに書かれているので、8時30分のバスだが少し早めに8時前までにバス発着所へ行った。
 バス発着所にはバスが2台停まっており、どちらにもワルザザート⇔カサブランカと書いてある。どちらのバスを使うのか分からない。一台のバスは荷物室の扉が開かれているので多分このバスを使うのだろう。しかし、荷物は未だ一個も積み込まれていない。向こうの方でバス会社の人が荷物を仕分けしているが、運転手らしい人は見当たらない。私の他に乗客らしい青年が一人居るだけだ。
 8時20分頃エンジンが掛けられ、荷物の積み込みが始まった。乗客も三々五々10人ほど集って来た。荷物を積み込む前、係員は私の荷物を手に持ってみて目分量で5DH窓口へ行って払って来いと紙切れを渡された。モロッコ人は大らかなものである。一応バスに乗り込んだがなかなか発車しない。定刻の8時30分はとうに過ぎている。
 9時2分、漸くバスはワルザザートのバス発着所を後にしてマラケシュへと向った。ワルザザートに来た日、アイト・ベン・ハッドゥへ向かった道をバスはマラケシュへ向かってひた走る。途中、廃墟となったカスバなどが見える。
アトラス山脈を超える写真/写真転載不可・なかむらみちお  ひと口に「アトラス超え」といっても、実際4000m級の山々の壁を超えて行くのだから、そう簡単ではない。やがてバスは谷川沿いの道をアトラス山脈に向かって登りはじめる。最高点はティジン・ティシュカ(標高2260b)。バスは狭い山道を登って行く。運転手は平地と同じようにスピードを出して走る。まるでジェットコスターに乗っているような気分だ。ワルザザートを発って凡そ2時間ほど走り、アトラス山脈の峠を超えたレストラン街(タデルトの村)で停まった。30分の休憩とか。

タリラとアラビアパン写真/写真転載不可・なかむらみちお  辺りはコンロで肉を焼く煙が充満している。バスが停まって近くのレストランに入り、日本でも北海道などではホルモン料理というものがあるが、ここでも動物の腸のような何やら訳の分からないものと豆を煮込んだTKALIA(タリヤ)という汁物とモロッコパンで昼食を摂る。タリヤはターメリックで味付けしている。9DHと言う。食べ終わると主人がもっと食べるかと聞く。サービスなのか金を取るのか言葉が通じないので分からない。少し物足りないのでもう一杯貰った。食べ終わったらパン無しで8DH払えと言う。私は払ったと言うと、指を二本突き出した。
 バスは3000bほど高地の山沿いの道を九十九織りに深い谷底へ下って行く。凄いヘヤピンカーブだ。雪が降ったり、道路が凍結したらどうなるのだろう。道を踏み外したら忽ち谷底まで転がり落ちる事だろう。スリル万点だ。
 やがてバスは平地に入り、快適に走る。山を超えたら急に暖かくなってきた。マラケシュらしい大きな街に入り、道行く人の服装も暖かそうなのでセーターとジャンバーを脱ぎ、リックに詰める。

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  Marrakech(マラケシュ)
 バスはやがてマラケシュの街外れにあるCTM(国営バス)の停留所に停まった。車内の人に聞いてもマラケシュだと言うので間違いないだろうが運転手に確認した。運転手は既にバスから降りてしまった。それを目で追いながら急いでバスの上の棚から荷物を取り出して後を追う。バスから荷物を降ろしている係員にも確認する。間違いない。安心して荷物を受け取る。近くに停まっていたタクシーに乗り込む。すると女の人も乗り込んできた。
 タクシーは私のホテルのあるジャマ・エル・フナ広場へと走ってもらった。その時、私はバスの棚の上に三脚を忘れてきた事に気が付いた。女の人を降ろした後、バスを追跡することにした。ワルザザートを出る時、バスの前にはカサブランカ行きと書いてあった。そして、マラケシュのCTM乗り場をタクシーで出発したとき、CTMのバスが目の前を走っていた。きっとバスはカサブランカへ向ったに違いない。タクシーの運転手に事情を話して至急バスを追跡してもらった。
 凡そ30分、街外れまで走ったがそれらしいバスは見当たらない。諦めなければ成らないのだろうか。運転手ももう見付からないという表情をするので仕方なく再びCTMバス停留所の事務所へ行ってくれるように頼む。タクシーのメーターはどんどん上る。
 後で分かった事だが、モロッコのタクシーは街の境界を超えて走る事は出来ない事になっている。それで彼の運転手は街外れまで一応追ってくれたがそれらしいバスを見つける事が出来なかった為に諦めれという表情をしたというわけである。
 CTMバス停留所の事務所前に着いたので運転手に頼んで事務所まで行ってもらうように頼む。彼は快く私に付いて来てくれた。そして事務所の人に訳を話してくれた。すると彼は何か納得して次へ行こうと急かされた。訳も分からないまま、再びそのタクシーに乗り込み、またかなり離れた場所へ行った。そこでタクシーの運転手は私を車の中に待たせて建物の中に消えた。
 やがて帰って来た運転手は一緒に付いて来いという。車の上に載せて置いた私のバッグを車の中に入れ、車に鍵を掛けて建物の裏に走った。そこには多くのバスが停車していた。一番奥に見覚えのあるバスが停まっており、ステップにあの運転手がニタニタと笑っていた。私が事情を話すとバスの中から別の男が出て来て20DH払えと言う。私は現物を見せろと迫る。すると彼はようやく棚の陰からチラッと私が忘れてきた三脚を見せてくれた。間違いないケースの色だ。ヤレヤレ、一安心。私はその男に20DHを払った。彼は私の背をポンポンと叩いてなにやら冷やかしている。これでひと安心。本当に良かった。タクシーの運転手には日本から持って来た煙草を一箱お礼に渡した。
 ジャマ・エル・フナ広場に着き、私が今日泊まる予定のメディナのホテルに通じる道の一角に車は停まった。運転手は「ホテルはこの通りの奥だ」と言う。車のメーターは78DHを少し超えていたが、100DH渡すと20DHお釣りをくれた。
「ホテル・メディナ」の部屋写真/写真転載不可・なかむらみちお  モロッコでも最大規模といわれるメディナの中の細い道をバッグを曳きづりながらホテルを探していると、客引きが声を掛けてくる。そんな事を無視しながら目的のホテルへの道を尋ねながら狭い迷路を進む。やがてお目当てのホテルに辿り着く事が出来た。
 ホテルの入口を入るとすぐ目の前が階段で、その突き当たりの踊り場のフロントに親父が座っていた。親父は「宿代は一泊80DHだ」と言う。私は「40DH(およそ400円)だ」と言うと「スモールルーム」と言う。「それでOKだ」と言って部屋に案内してもらったら、なるほど本当にスモールだ。ベッドと机、それに洗面台があるがあと残りの空間はほんのわずかで身動きするにも不便だ。おそらく日本で言うところの一坪位しかないのではないだろうか。それでも寝れれば良いのだからここに決めた。しかし、鞄を置くところがない。なんとか工夫して洗面台の前に椅子を寄せ、その上に載せておき、リックは机の上に置く。これでどうやら収まった。何事も工夫次第でどうにでもなるものだ。仕事をするにもいちいち荷物を移動しなければならないので不便だが、安いのだから仕方がない。
 暑い! 同じ国でありながら山ひとつ越えただけで段違いに気温が違う。快晴なので毛糸のセーターとジャンバーを脱ぎ、シャツ姿で先ずスークの先の皮なめし職人地区へ向う。
メディナのスークの奥へ行くにつれて道が入り組んでいる写真/写真転載不可・なかむらみちお  早速、青年と少年が案内役を買って付いてくる。それを振り払い、無視しながら奥へ奥へと進むが彼らはなかなか離れない。付きつ離れずで皮なめし職人地区への道をアドバイスしてくるがあくまでも無視する。ようやく皮なめし職人地区に来たがどこか分からない。一人の青年が入口を指してここが皮なめし職人地区だと言うので覗いてみると、なるほどそうだった。実はこの青年は先ほどまでは白い毛糸のセーターを着ていて自転車で付いて来ていたのだが、よくみると同じ人物で、背広をどこかで着込み、自転車を置いて来ていたので分からなかった。うっかり彼の指示にのってしまった。入口から入ったところで写真を撮るなら10DH払えと言う。私は中を確認しないとダメだと突っぱねた。少し覗かせてと言って入口から少し入り込んで中を見たが、あまり良くない。これならフェズの方がよほど良いのであえて撮る必要はない。ノーグットだからだめだと言ってそこを出る。すると彼は近くの別の所に案内した。そこでもチラッと見たがもう陽も陰りはじめ、それに誰も働いていない。ノーグット、ノーワークマン、ノーワークと言って逃げるようにその場を去って来た。
 この後ベン・ユーセフ・モスクなどの脇を通ってジャマ・エル・フナ広場に帰って来た。ジャマ・エル・フナ広場に面したCTMホテルの屋上に登り、広場の全景写真を撮った後、一旦ホテルに戻る。
喧騒のジャマ・エル・フナ広場、夜遅くまで賑わう写真/写真転載不可・なかむらみちお  一休みしてから4時過ぎ、夕陽に照らされた広場の様子を撮る為に再び広場へと向う。CTMホテルの屋上に再び登って夕陽を待つ。地平線上にうす雲があるのか先ほどよりも日差しが弱くなって、あまり良い光線状態ではない。眼下の広場にはヘビ使いの笛の音やダンスをするグループの鐘、太鼓の音、それに映画か芝居なのであろうかマイクとスピーカーでなにやらわめきながら通るワゴン車、通りを走る馬車のひずめの音などと喧騒と怪しげな雰囲気でごった返している。

マラケシュの大道芸人写真/写真転載不可・なかむらみちお ギナワ音楽写真/写真転載不可・なかむらみちお  屋台からは肉を焼く煙がもうもうと立ち登り、裸電球がこうこうと輝き、人々が群をなしている。その中でひと際大きな人垣が出来ている環の中では少年たちのアクロバットが演じられていた。
 CTMホテルの屋上での撮影を終えてからリックのチャックに鍵を掛けて下に降りて広場へと向った。すると左手にマラケシュのシンボル、クトゥビア(ミナレット=塔)がライトアップされ、バックには夕闇の残照がほど良く残って美しかった。再びリックからカメラを取り出して三脚を立て直して撮影した。
 撮影を終えて近くの屋台の陰でカメラを収納していたら、“日本人ですか”と声を掛けられた。そこには西欧人と日本人らしい女性が立っていた。パリから来た夫婦で奥さんは日本人だと言う。久しぶりに日本語で話をした。ファッション関係の仕事をしていると言う。彼らはもう一週間もここにいて明日はパリに帰ると言う。
 数分間立ち話をした後、その人たちと別れて私は一軒の屋台に座り、ハリラ(日本の味噌汁に代わる汁物。羊肉か魚でダシをとって、ひよこ豆、玉葱やトマトなどを細かく刻んで煮込んだとろみのあるスープ。スパイシーで、店によってはコリアンダーが入ったり、レモンを絞ったりする)とカレイの揚げた物を食べた。久しぶりの魚の味は旨かった。ワインが手に入らないのが残念だが、やむおえない。この期間だけ我慢しよう。
 腹も満腹になった。近くでやっている大道芸を覗き見してみる。長居は禁物、鍵を掛けているとはいえ背にはカメラ道具一式を担いでいるので物騒だ。早々とホテルへ向う。
『ホテル・メディナ』の前の通り写真/写真転載不可・なかむらみちお  カスバの狭い道をホテルへと向かう途中、オレンジと梨を買った。4つで6DH、ひとつ約17円位だ。又、別の店で朝食用のヨーグルトを4個買う。8DH。
 宿に帰り、久しぶりにシャワーを浴びて9時過ぎに寝た。

   12月22日(土) Marrakech
 モロッコの朝は遅い。6時に目が覚め、7時までベッドに入っていたが物音ひとつしない。
 朝日の具合はどうか屋上に上って見るが、多少雲があって余り良くない。一旦部屋に戻り、顔を洗って朝食を摂った後、再び屋上に上って見たら雲の中のアトラス山脈の向こうからようやく太陽が顔を出したような感じが分かる。ここの日の出は7時44分らしい。トイレに行った後、多少身の周りを片付けたり、ガイドブックを読み直したりして今日の行動の計画を考える。
 9時頃三階のパテオに行って日記を書き、午前中をここで過ごす。屋上のテラスに行ってみたら従業員が客に朝食を出した後の後片付けをしていた。ひょっと見ると携帯用のガスレンジがあった。これでラーメンを作ったら最高だ。ダメ元で頼んで見たらOKとのことで急いで鍋と袋ラーメンを持ってきて作り始めた。彼には2DHのチップをあげた。
 昨夜、ジャマ・エル・フナ広場で食事をした時の残りのパンとラーメンで昼食を済ませた。明日も又頼んでみよう。
アル・マンスール・モスク写真/写真転載不可・なかむらみちお  昼食後、南の史跡地区を歩いて見た。アル・マンスール・モスク(カスバ寺院)へ行ってみたが閉まっていた。裏に回ってみたが行き止まりの迷路ばかりで疲れてしまった。又、アル・マンスール・モスクの前に戻り、そこからバイヤ宮殿へ向った。ここも今日は休みで扉は固く閉じられていた。
 ホテルに帰って来てからガイドブックを見たらどうやら昼休みだったようだ。一休みしてから昨日行ってきたスークにもう一度挑戦してみた。

マラケシュ名物水売り(ゲラブ)のおじさん写真/写真転載不可・なかむらみちお ヘビ使い写真/写真転載不可・なかむらみちお  その後、ジャマ・エル・フナ広場で撮影料に当たるチップを払って水売り男やヘビ使いを撮った。いずれも10DH位吹っ掛けてくるが2DHに値切って撮影した。

クトゥビア写真/写真転載不可・なかむらみちお  夕方、再び夕映えのジャマ・エル・フナ広場を撮りに行ったが綺麗な光線具合にはならなかった。持って行ったMD録音機で広場の喧騒を収録した。クトゥビアの塔が夕映えの中で美しかったので撮影。その後、広場の屋台でレバーをパンに挟んだテハフクを8DHで食べて来た。
 ホテルに帰ってから録音に名前を入れ、日記を書いた後、早めにベッドイン。今日はかなり歩いたので少々疲れた。

   12月23日(日) Marrakech
 7時起床。屋上のテラスに出て見る。東の空から日が昇る前で赤味を射しているが、空は雲が多く天気は余り良くない。
 テラス脇の厨房を見るとガスコンロが置いてある。早速部屋に戻り、鍋とプラスチックスのコップを持って来て朝食の味噌汁用の湯を沸かす。
 ライターが三個置いてあったが、いずれも火がつかない。ガスを出しながらライターの発火石でようやく火をつけるのに成功する。
 部屋に持ち帰った後顔を洗い、昨夜ジャマ・エル・フナ広場の屋台で食べ残したテハックを挿んだモロッコパンとチーズ、ヨーグルト、梨、それに日本から持ってきたインスタント味噌汁で朝食を済ませた。
 一休みした後、三階のパテオで明日家へ出す葉書を書く。上ってきた二人の男女に「こんにちは」と声を掛けられる。見上げると若いヨーロッパ人の男と日本人の女性だった。男はイギリスのイングランド人で、女の日本人は横浜出身の松野と言う女性だった。彼は彼女のボーイフレンドで4年くらいヨーロッパ、特にオランダに住んでいたとのこと。モロッコには最近来たばかりらしい。彼女としばらくの間いろいろの話しや情報交換をし、世界の状況等も聞いたが、彼女も余り知らないようだった。
 昼食後に又インスタントラーメンを作って食べた後、暇なのでぶらっとジャマ・エル・フナ広場へ行ってみた。
ジュラバを着た女性写真/写真転載不可・なかむらみちお  今日は朝からパッとしない天気だったが、広場に着いた頃からパラパラと雨が降りだし、遠くの方で稲光と雷の鳴る音が聞こえた。しばらくの間、P.T.T(郵便局&電話局)の前で雨宿りをしながら広場の方を漠然と眺めていた。さすが、人陰は少なく、広場に疎らに散在していた。雨は30分くらいで止んだので、広場に行ってみた。人が少し出て来たようだが前日のような賑わいはない。それでもヘビ使いやヘンナ書きの女(ヘンナ=ヘンナと言う植物の葉から採れる赤茶色の染料。髪や手足を染める顔料として使われるだけでなく、魔よけにもなると信じられている。ベルベル語で『平和の使い』の意)とか猿廻し、水売りのおじさんなどが居た。

ホテルのパテオ(中庭)で寛げる写真/写真転載不可・なかむらみちお  近くのスークに入り、お土産屋を冷やかしてから又ホテルへ帰って来た。屋上のテラスに上がると松野さんが一人でポツンと長椅子に座っていた。彼が下痢をして体調が良くないのと天気も良くないのでスークを少し歩いて帰って来たという。かれは部屋で休んで居るという事なので、日本から持ってきた正露丸を三粒あげた。
 しばらくパテオで時間を潰す。4時半に成ったので部屋に戻り、日本から持ってきた米を研いだ。今夜は広場へ行ってソーセージを買ってきて銀シャリの飯とインスタント味噌汁で久しぶりに日本食を満喫するつもりだ。
 5時半に誰も居ない屋上のテラスの脇にあるキッチンでご飯を炊き、その後広場に行って焼いたソーセージを買ってきた。再びキッチンへ行き、味噌汁用のお湯を沸かしてからいよいよ一人で待望の日本食の大宴会(?)を催した。
 さすが日本の味と言いたいところだが、ご飯が少し固すぎて余り本来のふっくらとした味ではない。失敗だ。が、食べられない事はない。明日はもう少し水を多くしよう。味噌汁はOK。と言ってもインスタントだから失敗のしようがない。ソーセージは一部生焼けのところもあったので用心の為食後に正露丸を二粒飲んで置いた。最後にもう一度キッチンへ行き、お湯を沸かしてお茶を煎れたが、日本から持ってきたこのインスタントパック茶は余り美味しくない。袋を良く見るとニュージランド製だった。妻と娘がニュージランドに行った時に持ってきた物だろう。
 日記を書いた後、8時頃寝る。

   12月24日(月) Marrakech
 今日はキリスト教の世界ではクリスマスなのでさぞ賑わっている事だろうが、ここモロッコはイスラム教なのでお祭り気分は全くない。
 朝6時前になると毎朝遠く近くのモスクのミナレットから拡声器を使って礼拝の時間を知らせるコーラン(アル・アザーヌ)が叫ばれて目を覚ます。「アザーン、ハイヤーアッサラート=お祈りしましょう」と1日5回流れてくる。
 メディナの中では何処を探してもビールやワインは売っていないのでマラケシュに来てからは一滴も酒を飲んでいない。これまで毎日習慣的に飲んでいたので少々寂しく物足りない。新市街まで行くと売っている所があると言うので後で明日の朝エッサウィラ行きのバスを調べたり、予約しに新市街のCTMへ行くのでその時にでも見付ける事が出来たら買ってきたい。
 今朝は3時頃トイレに起きて以来眠れなかった。7時半に起床、屋上に上って見ると丁度朝日が昇るところだった。今日は晴れだ。食事を終え、9時頃になるのを待つ。郵便局が9時に開くので、家に葉書を出してから新市街のCTMに行く事にする。
 葉書は昨日書き上げていたのだが、日曜日の為郵便局は閉まっている。昨日、郵便局へ行ってポストを見つけたのだが、急ぐ葉書でもないので今日郵便局が開いてから窓口へ持って行って出したほうが確実と思って今日まで投函を保留していた。
 郵便局へ行って見ると、昨日郵便局の建物の壁にあるポストの裏側からも郵便局の中から投函するようになっており、窓口の係員はそこに入れろと言う。それなら昨日投函しても同じだった訳になるが、まぁいいだろう。
 クトゥビア近くのバス停に行き、新市街行きのバスに乗り、CTMへと向う。CTMに行くと窓口の係員が何か書類を整理していてなかなか応対してくれない。10分以上も待たされた後にようやく応対してくれたがCTMはエッサウィラには行っていないとの事。じゃどこかと聞くと向こうだという。向こうとは何処かと紙を出して書いてもらった。紙にはBab_Doukkalaと書いてある。それを持って道路を横切って向い側に行って見るがそれらしいところはない。CTMの窓口ではすぐそこのように指差したはずだが…。丁度通りで立ち話をしている人に聞いて見ると、図を書いて説明してくれた。かなり離れている。その地図を頼りに歩き出す。途中何度も聞きながら歩く。
 しばらく歩いたところで城門が見えてきた。その脇の売店で聞いたらBab_Doukkalaはここだと言う。「バスステーションは?」と聞くとそこから少し離れた建物を指して「そこだ」と言う。Bab_Doukkala とはドゥカラ門のことであり、21日にマラケシュに着いた時、バスに忘れてきた三脚を追跡し、ようやく受け取る事が出来た見覚えのある“懐かしい”バスステーションで、ガイド誌の地図にも載っている「長距離バスステーション」の事だった。
 中に入ると旅行者がいっぱいだった。案内に聞くと7番の窓口へ行けと言う。そこは民営バスの窓口である。窓口で聞くと発車時間を教えてくれた。明朝8時15分のバスでエッサウィラへ行きたいと言うと朝7時30分頃ここに来いと言う。予約は不要とのことだった。
 これで明朝エッサウィラへ行く見通しがついたのでそこからホテルまで歩いて帰る事にする。地図とコンパスを頼りに南の方へ向って歩き出す。やがて宿に近いクトゥビアが見えてきた。ランドマークである。それに向って進み、無事ジャマ・エル・フナ広場に着いた。そこで又少し大道芸人の様子などをウオッチングした後、昨日見かけた床屋さんに行ってみた。
 店の前に立っていた人に値段を聞くと50DHと言う。私は指を日本だして20DHと言う。向こうは40DHではどうかというから、止めたと言って店の前を通り過ぎる。隣の床屋で同様に値段を交渉すると25DH迄なったが止めたと言って帰って来ると店員が追って来て20DHで良いと言う。じやぁ後で来るからと言ってホテルに向かう。
メディナの床屋さん写真/写真転載不可・なかむらみちお  メディナに入るとホテルの前の路地にも床屋がある。その前に何時もの店で茹で卵を食べ、フランスパンを一本買って小脇に抱え、床屋の前を通りかかる。店の前で所在なげに立っていた店主に幾らかと聞くと30DHと言う。私は指を二本立てて20DHと言うとOKと言うので椅子に座る。
 床屋の主人はアラブ人のように短くするのかと聞くからとんでもない、1pくらいだと言い、それでも逆に取られては大変なのでパスポートの写真を見せてこのようにやってくれと頼んだ。彼はOKと言った。“本当に分かっているのかこのオッサン”と思っていたが大丈夫だった。髪を切る手捌きは日本と同じようだった。後ろの部分だけ剃刀を入れて終り。
 100DH札を出したら向いにくずしに行った。帰って来てから彼は75DHお釣りをくれたので違うと抗議していたらもう一枚20DH札を手元に用意していた。彼はそれをそっと出して寄こしたので先に彼がくれたコインを返してあげて急いでそれを受け取った。と、言うわけで、20DHで散髪を終えた。日本を出て来る前に散髪をして来たのだが、もうだいぶ伸びており、帰ると正月なのでここでやっておいた方が良いと思った。それに何と言ってもモロッコは安いし暇なので暇潰しにも丁度良かった。
 再びフランスパンを抱え、メディナの狭い路地を通ってその名もズバリ「メディナ」と言うホテルへ帰って来た。
 ホテルに着いて屋上のテラスに行って見たら、そこの洗濯場で松野さんのボーイフレンドが洗濯をしていた。昨日下痢で困っていたので正露丸をあげたのでもう良くなっていると思って聞いてみると昨夜はひどい下痢だったが、今は少し良くなったと言う。もっと薬を飲むかと聞いたら二粒戴きたいと言うのであげた。
 彼は洗濯中の濡れた手を出し、まあこの手でもいいやという仕草をしたのでその上に載せてあげた。その薬を何処に仕舞おうかと困った顔をしているので私はそのまま飲めと言った。水が無いと言うので水は後で飲めば良いと言うと彼は薬を口に入れた。しかし、飲み込むのが上手くいかない様だ。彼女はハンマム(スチームサウナ式の公衆浴場)に行ったと言う。
 部屋に戻り、日誌を持って三階のパテオのソファで日記を書き始めた。しばらくして彼女が帰って来た。いかにも風呂上りというふやけた顔をしていた。ハンマムは良かったが少し高かった。ぼられたかも知れないと言っている。
 日記を書き終わった時点で13時になったので今日もテラスのチッキンでラーメンを作って食べる事にする。午後から激しい雨が降ってきた。アトラス山脈を越えると北側は一転して砂漠ではない。
 1時半頃ラーメンを作って食べようと思って四階のテラスのキッチンへ行って見たところ、コックさんがタジンを作っていた。タジンは厚い陶製の皿に鶏肉、羊肉にじゃが芋、玉葱などの野菜を入れて皿と同質の陶器の三角帽子のような蓋を被せて弱火でじっくりと蒸し焼きにする料理である。今火に掛けたばかりなので未だしばらくはコンロが空かない。彼に聞いて見たところハーフタイムと言う。じゃ2時頃だなと思って近くで待機したがなかなか終わらない。その内火を付けたまま彼は階下に降りてしまった。
 2時半になっても彼は現われない。鍋は弱火でコンロにかかったままだ。一旦部屋に戻ってダーツ(ナツメヤシの実。糖分が高く、スークで枝付やバラで売っている。モロッコではおやつや料理などに幅広く使われる)などをかじり、身の回り品を片付ける。
 3時半頃再び行ってみると未だ鍋は掛かったままになっている。よく見ると火は消えている。鍋に触ってみると熱くない。手に持って降ろせるくらいだ。思い切ってその鍋を脇に降ろしてラーメンを作り始めた。出来たラーメンは上手かった。時計は昼をとっくに過ぎて4時になっていた。
 食べ終わった後、部屋に戻り昨日炊いて食べた残りの米を研いでうるかした。持って来たラーメンもこれで全部食べ終えたし米もこれで最後だ。今回は日本から持って来たラーメンと米を曲がりながらも全部消化する事が出来て大成功であった。
 5時半になったので屋上のキッチンへ行ってご飯を炊いた。雨は尚も強く降りしきる。100円ビニール雨合羽を持ってきているが使った後に畳むのが厄介だし、濡れた後始末も大変なので取り出すのが億劫だ。果たしてこの雨の中で屋台は出ているのだろうか。多分出ていないと思うが、スークの中の焼肉屋なら大丈夫だろう。
フナ広場の屋台写真/写真転載不可・なかむらみちお  炊きあがったご飯と箸を持ってビニール雨合羽を着て宿を出る。広場に行ってみると屋台がなんと天幕を張ってやっていた。そのたくましさにビックリした。一軒の焼肉の屋台を見付けてそこに座り、シシカバブを頼んだ。焼きあがってきたのを見計らって黒いビニール袋に包んで持って来たご飯の入ったキャンプ用の鍋とポーチの中から割箸を出しておもむろに食べ始めた。串は六本きた。
 傍らをフトみると私の泊まっているホテルの人が同じように焼肉を食べていたので、私はポケットからカメラを出して食事をしているところを撮影してもらった。
 食後再びホテルへ戻って湯を沸かしてお茶を入れて飲む。少しエッサウィラの事を調べた後、一寸ホテルの外に出て見ると雨が止んでいたのでジャマ・エル・フナ広場の屋台を写したあと寝た。

   12月25日(火) Marrakech-(バス)Essaouira
 今日は城太(孫)の初食いの日である。妻はお祝いに行っただろうか。6時半起床。顔を洗い食事をして7時過ぎにホテルを出る。ようやく夜が明けて明るくなり始めてきた。
 さすがこの時間は未だ人通りの少ないメディナの通りを、荷物を曳いてジャマ・エル・フナ広場の通りに出るとタクシーが2、3台停まっていた。その内の一台に乗り、ドゥカラ門近くの長距離バスステーションへと向う。
 昨日下見をして置いたのでバスにはすんなりと乗れた。バスは5分遅れで何時ものように動くでも無く動かないでもない走り方でようやくステーションの門を出た。それでも運転手に助手が何か話し掛けながら走るのでスムーズには走らない。
 30分ほど街中を走ってからようやく順調に走りだした。民営バスなので途中で客を拾ったり降ろしたりしながら走る。
 2時間ほど走ったところで右手の荒地の向こうに綺麗な虹が出た。と、思ったら間もなく雨が降ってきた。更に進む内、地面にはかなりの雨が降ったと思われる水溜りが出来た。町に入ってからも家の前や商店街の前も泥んこになっていた。まるで終戦直後の日本よりまだ悪い。3時間半ほど走って向こうの眼下に白いかなり大きな町が見えてきた。エッサウィラだろうがその向こうが海か陸か区別が付かないほど真っ黒に泥を含んだ海があった。先ほどの大雨で土石流が流れ込んでいるらしい。
エッサウィラの旧市街写真/写真転載不可・なかむらみちお

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  Essaouira(エッサウィラ)
 エッサウィラは海岸が美しいと聞いていたが、想像とダンチなのでいささか拍子抜けした。未だ雲は多いが陽が射している。雨上がりの街をバスセンターからはタクシーでホテルへと向った。海岸まできた処でタクシーから降ろされた。そこからは車の乗り入れは禁止らしい。
 荷物を曳いてタクシーの運転手に教えられた方向に広場を突き切って行く。ホテルに着いたら満員だと断られた。近くのホテルMatesticを教えて貰ってそこにチェックインする。窓の扉が開かないが一泊だからまぁ我慢しよう。それでも70DHと今までの倍近くの値段だが部屋が多少広いだけで内容はさほど変わらず期待ほど良くない。ベッドにシーツもない。値段の割には最悪のホテルだ。
 ホテルのロビーのTVが大雨の被害を映し出していた。私がこれから行くカサブランカの近くだと言う。バスも道路から流されて路肩で傾いている。
 青空も出て来て日が射している。昼過ぎの到着だったので腹が減っているが、とにかく陽の射している間に撮りたいものを撮ってしまわなければならない。幸い陽の角度も丁度良い。
北稜堡の展望台へ通ずるバフル門写真/写真転載不可・なかむらみちお スカラ写真/写真転載不可・なかむらみちお
オーソン・ウエルズ監督が映画『オセロ』のロケ地としても使った写真/写真転載不可・なかむらみちお スカラ写真/写真転載不可・なかむらみちお
スカラ写真/写真転載不可・なかむらみちお  先ず、メディナバフル門から北稜堡の展望台に登り撮影する。たちまちフイルム一本が無くなる。次に海の門の方へ行き、スカラに登ってエッサウィラの海岸風景を撮る。ここがエッサウィラの定番のポイントだ。
 スカラの上で写真を撮っていたら私の足もとに寝転んでいた女性に声を掛けられた。日本人の女性で、欧米人の男と一緒だった。フランスのリオンからクリスマス休暇で来たと言う。このスカラのすぐ下に魚を売っている屋台が並んでいる。彼女との話しの中でそこの魚の話が出てさっき食べてきたが味付けに醤油を持って来れば良かったと言っていた。なるほどと思い、私も撮影を終えた後、一旦ホテルにリックと三脚を置くついでに日本から持って来た醤油を持ってくる事にした。すでに時間は2時を過ぎていた。ひょっと見ると今通ってきたレストランの上にハイネッケンの看板があった。あそこならビールを飲めそうだ。ホテルから醤油とピーナツ、それに割箸を持って再び港の方へ行き、あのレストランの二階でビールを飲んだ。帰り掛けに缶ビールを一本買って魚の屋台に向った。

魚料理の屋台写真/写真転載不可・なかむらみちお 鰯の焼き魚。皿の模様に注意写真  屋台の前で鰯を注文した。50DH(およそ500円)と言う。高いがまぁいいか。久しぶりの魚だ、少々キバッて今日は贅沢をしよう。その魚を六匹焼いてもらう事にした。その後鯛を一匹。半分を刺身にしてもらい、後の半分を焼いてもらった。合わせて100DH(およそ1,000円)という。チョット痛いが我慢しよう。久しぶりのビールに酔ったのと、腹ペコなのが合体して高い安いは言って居られなくなった。刺身は美味しかった。ここで日本から持って来た醤油が生きてきた。
 テーブルの向い側に座ったモロッコ人らしい家族連れの中のおじさんが青南蛮の焼いたのをくれた。辛かった。次に食べていた小海老を2〜3匹くれた。どうしてだか分からない。代わって今度は同じテーブルに女の子を連れた夫婦が座った。女性は日本人だった。ブラッセルに住んでいるダンサーだと言う。女の子はハーフで、日本語も話す。母親とは日本語で、父親とはフランス語で話しているらしい。
 彼のおじさんは帰り掛けに雲丹をひと皿置いて行った。どういうことなんだろうか、キマイの良い人だ。食事をしている内に天気が崩れて曇ってきた。やはり早いとこ撮っておいて良かった。
 地平線近くに雲の切れ間もある。あるいは夕陽が綺麗かも知れない。一応用心の為にホテルに戻り、三脚を持ってくる。しかし、西の空が赤くなっただけであまり良い夕陽ではなかった。

   12月26日(水) Essaouira-(バス)Safi
 モロッコの旅も余すところ一週間。来週の今日はカサブランカから日本へ向けて発つ。特別何事もなく健康でこられたのが嬉しい。
 朝6時に起きてシャワーを浴びた。昨夜も階下の二階でシャワーを使う音が聞こえていたのだが、どこかも分からす、来る前は期待していたのだがチェックインしてみてあまり綺麗なホテルでもなかったのでつい億劫になり、ためらっていた。ところが、夜中にトイレに起きたとき、隣室の日本人の青年と話した。その時、料金は宿賃込みで熱いお湯が出ると聞いたので起き抜けにシャワーを浴びた。その青年はモロッコに来る前はインドを旅して来たそうで、モロッコの感じとインドとは良く似ていると言っていた。
 シャワーの後、洗顔。日の出まで時間があるので、昨夜疲れている中で書いた日記の一部を手直しした後、再びその続きを書き足した。7時半頃、日の出を待って町を散歩してみるつもりだ。
 7時半、北稜堡の展望台に行ってみたが、空は鱗雲で一面に覆われ、東の空が赤味を帯びたが撮影するほどのことではなかった。
 タクシー乗り場までのルートを下見する。帰りにシエ・ドリスというガイドブックに載っていたパン屋さんで焼きたてのクロワッサン、チョコレートサンド、オレンジジュース、目玉焼きで朝食を摂る。
 このパン屋さんは目立たない店構えなので探すのに苦労した。何度もその近くを行ったり来たりして探したが見つからなかったので、通りがかりのお巡りさんに聞いたら二軒先の店を教えてくれた。そこに行ってみたが、どうも様子がおかしい。もう1度戻って一軒ずつチェックしてみたら看板もない地味な店の中で椅子とテーブルを囲んで客が食事をしている。そこで聞いたらそれがシエ・ドリスであった。なんとさっきのお巡りさんもここでパンを買っている。私と顔を合わせたら、恐縮したような顔で頭を下げていた。
 食後、ホテルに帰り、荷物をまとめてチェックアウト。タクシーを拾ってバスターミナルへ行く。CTMの窓口へ行ったら未だ閉まっていたが丁度係員が来て切符を買う事が出来た。
 バスは11時15分なので、まだ1時間15分もある。バスには何時に乗れるのかと係員に聞いたら、11時だという。それまで待合室の椅子で時間待ちをする。
 11時になってもバスは来ない。どうなっているのだろう。11時10分頃バスセンター前の店に水を買いに行って帰ってきたらバスが到着していた。どこからか乗客を乗せて来たらしい。
 荷物をバスに預けようとしたら、荷物のチケットを買って来いと言う。再び荷物を持ってチケット売り場に行き、荷物のチケットを買ってバスに荷物を預ける。
 11時15分発のバスが35分になってようやく発車した。来るときエッサウィアの町が見えた丘の展望台を通過してバスは一路サフィのバスセンターへ向けて走り出す。

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  Safi(サフィ)
 途中、30分ほど休憩してバスは2時頃サフィのバスセンターに着いた。そこからタクシーでメディナのホテルへ向う。
 タクシーの運転手は間違って別のホテルの前に降ろしてくれたが、目的のホテルはそのすぐ先だったので難なく見つける事が出来た。
 今日のホテルはモロッコ一安い。ひとり一泊わずか30DH(およそ300円)だ。どんなホテルだろう。一階がレストランになっている。その上がホテルだ。
 チェックインを済ませて部屋に入って見ると30DHにしては以外に良い。少なくとも昨日のホテルよりもずっと良い。部屋は広いし、綺麗だし、ちゃんとシーツもある。昨日はひどかった。
 先ず、パンツと靴下を洗濯する。屋上に干したが、4時には鍵を掛けると言うので、3時半に取り込み、部屋の取っ手などに引っ掛ける。それからメディナの陶器工区を目指してホテルを後にする。スークの中を通って行くのだが、靴が何足も、それも片方のみを紐に吊るして売っているのには驚いた。
 陶器スークで灰皿の値段を聞いて見たが、今までよりも安い。とうとう6DHまで値を下げさせた。その後、陶工区を回ってみるが、かなり汚い。絵にしてもまとまりがなく写真を写すことは出来なかった。
 再び陶器スークに行き、壷型のモロッコ式灰皿を三つで15DHに負けさせた。家の子供達三人に各一個ずつ買ったのだが、これを持って歩くのが大変だ。果たして無事日本まで持って帰れるのだろうか。
 その後歩いて新市街へ行き、ワインを買ってきた。一本35DHと廉かった。もっと買いたかったが持ち運びが大変なので今夜と明晩の分として一本だけ買った。
 一先ず宿に帰り、早速ワインを一口飲む。久しぶりのアルコールで寿命が延びた。この後レストランへ行ったが、7時開店と言う事で一旦ホテルに帰って来た。
 7時を待ってワインを入れたペットボトルと割箸、醤油を持ってレストランへ向け出動。舌平目を注文する。料理が来る間持ってきたワインをコップに入れて飲む。やがて舌平目が運ばれてきた。とても美味しかった。付いているフランスパンが更に火を通して焼きたてのようにカリカリとなっており、香ばしく凄く美味しい。満足満足。

   12月27日(木) Safi-(バス)El_Jadida
 6時に起床、顔を洗い食事をして7時過ぎにホテルの外へ出ると辺りはまだ薄暗かった。ホテルの前でタクシーを拾ってバスセンターへ向う。
 バスはなかなかプラットホームに入ってこない。表示には8時30分発と書いてあるが、昨日は確かに8時出発と聞いたので私は7時半までにここに来たのに一向にその気配がない。早朝なので少々寒い。手元の寒暖計では16℃くらいだ。待合室の中の喫茶コーナの前のベンチに腰を下ろして時間待ちをする。目の前のセガ製のゲーム機の画面が忙しなく繰り返し動く。街のスピーカーからはコーランのような呼びかける音声が流れて来る。
 8時45分になったのでプラットホームに行ってみるが未だバスは入っていない。今まさに朝日が昇ろうとしている。空は雲一つない快晴のモロッコ日和だ。バスセンターの前の白いビルが朝日を浴びて茜色に輝く。今日一日良い天気のようだ。
 8時になってようやくバスが来た。やはり表示してあるように本当は8時30分発なんだろう。するとチケットにも8時と書いてあるのは一体何なんだろう。この国は私たち日本人には分からない事だらけのミステリアスな国だ。
 そのバスに乗客が乗りはじめ、下の荷物室に荷物が積み込まれた。自分の荷物が確実に積み込まれたのかどうかを確認してからバスに乗り込む。
 空席が目立ち、2人掛けの椅子に一人の割りで座っている。今日は絶対にバスの中に忘れ物をしないようにと三脚などをしっかりと隣の座席の上に置く。
道路が占拠されてバスも通れない写真/写真転載不可・なかむらみちお  バスは8時30分、珍しく定時に発車。サフィの街を後にする。しばらく走ると、家畜市があったらしく、あまり広くもない道の両側には草や藁などをこれ以上積めないと言うくらいテンコ盛りに積んだトラックが駐車しており、その前で大勢の人々が荷降し等をしているので大混乱。バスの通る道が塞がれている。その中をバスは人除けの警笛を鳴らしながら人々を掻き分けるように止ったり動いたりを繰り返しながら少しずつ進む。中にはバスの前で何かを振りかざして立ち塞がる者、バスの正面に来てバスのフロントガラスを手のひらで叩き、何か大声で罵る女などで大混乱している。そんな混沌とした所を200mほど通り過ぎるとようやく街外れとなり、またバスは何事もなかったかのように田舎の田園風景の中を走り始めた。
 一時間半ほど走ったところでバスは食堂街のような店が軒を連ねている村(たぶんSidi_Smile)のガソリンスタンド内の片隅に止った。ここで30分間ほど一服らしい。建物の裏の方へ走って行き、オシッコをして来る。
 一軒の店の中に入ったら茹卵があった。一個1.5DHと言う。日本円で15円位だ。茹でてあるのかと念を押したつもりでコンコンと卵を割るゼスチュアをしたら、主人が殻を割ってくれた。考えてみると彼らはウンコをした後、その後始末した左手を水で洗う。と、言っても相手の手、つまりその時右手も必要ではないだろうか。その手でむいてくれたのでいささか参った。途中でやめてくれと言いたかったのだが、時すでに遅し。むき終わってヒョイと目の前に差し出された。仕方なくありがとうと礼を言って側にあった塩を付けて口に入れた。なんだか味も心も複雑だった。日本と同じ味の卵には違いないのだが…。しかし、こんな些細な事にこだわっていてはモロッコの旅は出来ない。(後でこっそり正露丸を一粒飲もぅ、と)。
 バスがここに停車した時から出発間際まで数人の男や女、中には働き盛りの若い男などが入れ替わり立ち代りバスの中に入り込み、「バクシーシ!」と言って小銭をせびる。身体はどこも悪そうでないのになぜ働こうとしないのだろうか。不思議だ。

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  El_Jadida(アル・ジャディーダ)
 やがてバスは一路アル・ジャディーダに向って走り、無事市内のはずれにあるバスセンターに着いた。荷物を受け取った後、先ずCTMの窓口へ行って明日のカサブランカ行きのバスの予約をした。その時に、CTMの荷物の係りの人が、「ホテルならホテル・ド・フランスがいいよ41DHだ」と教えてくれた。実は今夜はこれとは別のホテルに泊まる予定だったが、値段がほぼ同じだし、ガイドブックには176DHと書いてあるので、本当にこちらが41DHで泊まれるならその方が良いかなと思い、そこに決めた。
ポルトガル風の街並み写真/写真転載不可・なかむらみちお  バスセンター前からタクシーを拾い、ホテルに向かう。ホテルは大きかったが古めかしい。大理石の階段を登って行くとテーブルの前に老人が座っていた。一泊申し込むとOK。料金も41DHと言うので泊まる事にした。
 案内してもらった部屋は広く、まぁまぁだった。ホテルはポルトガル風の造りだった。きっと殖民地時代の建物なのだろう。モロッコではどこでもそうだが石壁の部屋で窓は小さくしかもいつも木の扉を閉じているので薄暗く、寒々としている。まぁ、どこへ行ってもモロッコはこんな感じなので“まぁいいか”である。

メディナの入口写真/写真転載不可・なかむらみちお  窓の木の扉を開くと右手に海、正面の目の前にメディナの城壁が見える。海と上架された船と正面のメディナの城壁を見ていると、ジャン・ギャバン主演のフランス映画「望郷(Pepe_le_moko)」(仏・37年)監督:ジュリアン・デュヴィヴィェ/ロジェ・アシェルベ、のラストシーンが蘇える。「ボーッ」。長い汽笛。「船を見送りたいんだ。手錠をはずしてくれ」。ぺぺは鉄柵越しに力の限り叫ぶ。「ギャビー!」。彼の叫びは汽笛にかき消された。船は出て行く。手首を切ってくずれおれるぺぺ。忘れがたいラストシーンである。あれは確かアルジェリアのアルジェ港が舞台ではなかったかと思う。若い時に見たあのモノクロ映画の印象は強烈で今も鮮やかに思い出される。カスバの情景は絵画的でさえあった。あの映画をもう一度観たいものである。いや、映画を見るよりもそこへ行ってみたい。ココからはすぐお隣なのだから…。しかし、治安が良くなので、日本政府は今のところ観光客の渡航を禁止にしている。
 木の扉を更に広く開けて私も港に向かって大声で叫んでみた。「ギャビー!」。すると街のモスクからスピーカーを通してコーラン(アル・アザーヌ)が「アザーン、ハイヤーアッサラート=お祈りしましょう」と流れてきた。
 街の様子をもう1度ガイドブックを読んで頭に入れてから街へ出た。ホテルを出て左へ行くと次の角がもう町の中心部の商店街だ。ホテルのロケーションは悪くない。快晴だが浜風が強い。街は意外と狭かった。繁華街を見た後メディナに行ってみたが、あまり見るものはない。1時半を過ぎており腹が減ってきた。あまり遅く食べると昼夜兼用になってしまうのでほどほどのところで食べることにした。きっとスークの方へ行けば何かあるだろう。
スークの果物売り屋台写真/写真転載不可・なかむらみちお  スークは果物売りの屋台等でごった返していた。地面は水で濡れていて不潔だ。そーっと足を浮かして偲び足で歩く。ふと見ると店頭で魚のフライを揚げている食堂があった。ガイドブックにも確かアル・ジャディーダに来たら、魚のフライを食べたら良いと書いてあったので一人前注文する。
 店員がモロッコパン半分とパンに付けるトマトソースのような物を皿に入れて鰯の揚げたものと一緒に持ってきた。味はやはりどこで食べても鰯は鰯である。美味いとも美味くないとも言えないが、腹が減っていたのでありがたかった。他の客を見るとその鰯の揚げ物を手づかみで食べている。私は手が汚れていたので困ったなと思った。こんな時に箸があったらいいのにと思ったが、ここはモロッコ、箸等あろうはずはない。せめて紙に包んで食べようと思い主人に注文したが、言葉が通じなかったのか持ってこない。仕方なしに指で摘んで食べ始める。フト見ると、洗面所がある。あそこで洗えばいいかと思って下見をする。
 店を出る時、値段は幾らか分からなかったが一応目見当で10DHコインを渡した。不足ならもっと出せというだろう。すると、1DHコインが帰ってきた。さもさも初めから値段を知っているかのように振舞うのも一つのコツだ。
 そこを出てすぐの処でオレンジを一個買う。1DH。安い!それを持って更にその付近をぶらついた後、海岸通りを歩いてみた。海から吹き付ける風が強い。そのあとホテルの近くで明日の朝食用と今夜のワインのおつまみ、それにチーズ一箱、ヨーグルトを買ってホテルに帰る。
 少しベッドに横になって休んだ後、今日の日記を書き始める。
 5時20分頃、窓の外に見えるメディナの城壁が紅く染まってきた。屋上へ行って300_レンズで2〜3カット写すがあまり良い風景ではない。明日の朝日は多分海から昇るだろうが、海ならどこの海も同じなので撮っても意味がない。ここは少し外気温が低くて寒い。今夜は暖かく眠れるだろうか。
 6時頃から部屋で、昨日サフィで買ったワインの残り半分を飲みだし、7時過ぎを待って街のレストランへ行った。レストランのTVが9.11同時多発ニュヨークテロ事件以来、初めてオサマ・ビン・ラビンの映像と肉声のメッセージが放送されていた。私が入って行くとそれまでTVの画面に釘付けになっていた大勢の地元民たちが一斉に私の方を見た。その表情は異教徒である私に対して誇らしげでそれでいてどこか嘲笑するような眼差しだった。
 ガイドブックに載っていたシーフード主体のレストランへ行ったが、食事は出していないとの事、近くのレストランを2〜3ヶ所回ってみたが、食事を出すところはなかった。仕方なくモロッコ料理のレストランと書いてあるレストラン「ル・テイット」へ向った。
レストラン・ル・ティトのステーキ写真/写真転載不可・なかむらみちお 酒を飲むモロッコ人写真/写真転載不可・なかむらみちお  木の扉を押して中に入ると一応レストランの形をしていた。テーブルに着くとボーイさんが注文を取りに来た。メニューを見たが全部フランス語なので全く分からない。ボーイさんに「フィッシュ」と頼み、後は適当なのをお任せすると言うと、納得して下がった。しばらくするとパンとバターが出てきた。その後、間を置いて出て来た料理は肉を焼いたものだった。注文した魚とは大違いだが、まぁこれでも良いか。しかし、ここまで来て月並みな肉の焼いた料理を食べなくても良いではないか。もっとモロッコらしいもので良かったのだが、ガイドブックのモロッコ料理と書いてあるのとは裏腹に普通のメニューだった。
 肉は固かった。あまり美味しくない。しかし、値段が800円ほどなのだから文句を言わずに戴きましょう。ペットボトルに入れて持ってきた先ほどの飲み残しのワインをグラスに入れて飲み、あまり美味くもないその肉料理を食べた。居合わせたモロッコ人らしい客はビールを飲んでいた。戒律の厳しいイスラム教の人たちでも夜は酒を飲むのだろうか。
 明日はいよいよ最後のコース、カサブランカ行だ!

   12月28日(金) El_Jadida-(バス)Casablanca
 今日は12月28日。日本では官庁の御用納めの日である。各家庭では大掃除や歳取り(昔は数え年で新年に歳を取った)の日のご馳走作り(北海道では大晦日の夜にご馳走を食べて新年を迎える)など新年を迎える準備で忙しい事だろう。雪は降っているだろうか(帰国後に聞くと9日から10日正午までに札幌の24時間降雪量は12月としては観測史上最高の56pを記録。玄関のドアも開ける事が出来ず、除雪が大変だったとぼやかれた。又、札幌では9日朝の降り始めから12日午後9時までの降雪量が116pに達した)。ここモロッコはイスラム教の国なので年末の雰囲気は全くない。ラマダン明け後の極く普通の日常生活が営まれているようだ。
 10時前にホテルをチェックアウト、近くの店でフランスパンを買う。最近は当然ながら日用品を買う時にはいちいち値段を聞かない。サッと1.20DHを渡すと0.10DHコインが返ってくる。値段を知っているフリをして買うのが一番良い。若し多少疑問の場合は少し少なめのお金を出すと相手はもっと出せと言う。そこで幾らかと問いただしてから追加する。するとぼられる事はない。
 大きな通りに出てタクシーを拾う。走り出したがメーターがない。文句を言うと無くても良いんだと言うような仕草をする。タクシーは逆光の街をバスセンターへと向かう。
 バスセンターの前で降りて5DHコインを渡すと足りないと文句を言う。幾らかと聞くと○○と言うが私には分からない。後1DH追加する。それでも不足そうだ。もう1DH渡してようやく相手が納得した。合計7DHであった。行きの場合は5DHを支払うと運転手は不満そうな顔をしていたが強引に押し切った。今回はその手はダメだった。荷物をCTMに預ける。
 バスの出発までには未だ1時間もある。その付近を散歩して時間を潰す。バスセンターの周りにはどこでもそうだが、食物の露店がびっしりと軒を連ねて客を呼び込んでいる。
 一回りした後、バスセンターの待合室のベンチに腰を下ろして時間待ちする。すると昨日ホテルを教えてくれたCTMの係員のおじさんがホテルはどうだったと聞いてきたので「グーだった」と人差し指と親指を丸めると彼も満足そうだった。
 バスは20分も遅れて到着。30分遅れでアル・ジャディーダのバスセンターを出発した。バスは街の美しい海岸沿いを通り抜けて一路カサブランカへ向けて走り出した。
 のんびりした田園風景の平原の道を右に左に曲がりながらバスが走る。1時間半ほど走ったところでカサブランカの街が見えてきた。

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  Casablanca(カサブランカ)
 1時半頃バスは市中心部のCTMバスセンターへ無事到着した。遂にカサブランカに無事戻って来た。後は日本へ発つ日を待つばかりだ。
 バスセンターに入る直前、見覚えのあるホテル・ハイアット・リージェンシーとメディナ、それにシェラトン・カサブランカホテルが見え、その直後にバスセンターに着いたので大体の位置関係が分かった。
 バスセンターを出てコンパスと地図を頼りにセントラルホテルへ向かったらカサブランカを発つ時予約しておいた目的のホテルに一発で着いた。
 チェックインの後、部屋に入って一休み。これから日本へ帰る飛行機のリコンフアーム(搭乗再確認)と足りない分のお金を両替をしに銀行へ行くつもりだったが、今日は金曜日なので昼休みが3時までなので今は未だ開いていない。時間待ちの間靴下の洗濯をする。それでも時間が余ったので日記を書く。
 3時少し前にホテルを出てKLMオランダ航空の事務所に向う。ホテルを出る時、ワインを売っているところを聞くとホテルを出て右に曲がるとすぐの店にあると言う。その店に行って聞くとスーパーに行かないとないと言う。そのスーパーの名前と場所を聞いて地図の上に落としてもらった。
 先ず、最初にここに来た時に見つけておいたKLMの事務所に行く。ビルの階段を登って行くと扉は閉まっていた。変だなと思って下に降り、近くの店で聞くとこのビルの向こう側の入口だと言う。そこから二階に登るとKLMの事務所があってひと安心。リコンフアームを済ませると係りの人が何事か言ったが分からない。近くにいた日本人の女の人が通訳してくれて分かった。5時までに空港へ来いと言う事だった。
 リコンフアームを済ませた後、コンパスと地図を頼りにスーパーへと向かった。カサブランカに到着した時に五万円両替したモロッコのお金がようやく無くなりかけてきた。ここを去るまでには残りのお金が少々足りない。モロッコでは一切カードは使えず、すべて現金支払いである。途中の銀行で五千円両替をする。
モロッコのワイン群写真/写真転載不可・なかむらみちお  およそ2q歩きこの辺らしいと思うところで近くの店に入り、聞いてみたらすぐ裏手に「スーパーSTAR」があった。
 スーパーの店内に入ると酒瓶が棚にずらりと並んでいた。イスラム圏でもやはり買う人がいる証拠である。ここで先ずワインを三本買った。その後店内を一巡してチーズとヨーグルトを買った。モロッコのチーズはとても安いのでお土産にしようと5箱も買った。ホテルへの帰りの荷は重かったが心は弾んでいた。
 ホテルに帰り、早速ワインを開け、無事カサブランカに帰って来た事を祝福して乾杯。このあと最初にここに着いた時、食べに行った店にタジンを食べに行く。来た時は腹の調子があまり良くなかった為に、あまり美味しくなかったが、今日は美味しかった。モロッコの舌に慣れたのだろうか。
ピアノバー・カサブランカ写真/写真転載不可・なかむらみちお 君の瞳に乾杯写真/写真転載不可・なかむらみちお リックのカクテル『カサブランカ』写真/写真転載不可・なかむらみちお  タジンを食べた後、近くのハイアット・リージェンシー・ホテルの一階ロビー横にあるピアノ・バー「バー・カサブランカ」へ行った。
 ガラス窓に映画『カサブランカ(Casablanca)』(米・42年、監督:マイケル・カーティス)のハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンのシルエットが描かれ、傍らにピアノが一台置かれており、映画に出てきた『Rick's_Cafe_American』を再現している。カウンターではボギーに扮したバーテンがサーブしてくれる。
 輝くように美しいバーグマン、渋いダンディズムのボガート。二人の思い出の曲。黒人ピアニストのサム(ドーリー・ウイルスン)が歌う主題歌『時の過ぎ行くまま』“As_Time_Goes_By(ハーマン・ハブフェルド)”。想い出はつきない。
 その名もリックのカクテル「カサブランカ」を一杯頼んだ(90DH)。“君の瞳に乾杯!”。店内は映画「カサブランカ」のVTR上映を初め、スチール写真や、ポスターも飾られており、黒人歌手が生でソウルポイ歌を歌っていた。

 『ボギー! 俺も男だ』('72ウディ・アレン)。ボギーよ俺にも一言云わせてくれ!「君と一杯目を飲むために待っていたんだ」と。
 バーグマンは後にロベルト・ロッセリーニ監督の『無防備都市』を見て感動し、見ず知らずのロッセリーニに熱烈なラブレターを送り、夫と子供を捨ててロッセリーニの元へ走ったのは有名な話だ。
 バー・カサブランカには1時間ほど居て9時前にはホテルに帰って来た。

   12月29日(土) Casablanca
 今日も快晴。8時頃ホテルを出てハッサン2世モスクへ向かう。バスに乗るためにバス乗り場に向ったのだが、先日覚えのあるところだったので感で歩いていたら、ここに来た時に泊まったアル・ムーイアホテルの前に出てしまった。どうやら道を間違ったようだ。時間もたっぷりある事だし、街角ウオッチングも兼ねて歩く事にした。
ハッサン2世モスク写真/写真転載不可・なかむらみちお  地図とコンパスを出し、今度は正しく歩き出すと間もなくハッサン2世モスクの塔が見えてきた。さほど遠くない。30分ほど歩いてハッサン2世モスクに着いた。間近だとなかなか見応えがある。美しい。写真は1枚ほどしか撮らない心算だったが、ついつい10枚ほど撮ってしまった。内部は入場料100DHと高いし、見ても余り興味のある物ではないので帰る事にする。
旧メディナのスーク写真/写真転載不可・なかむらみちお  帰りは旧メディナの中を突き切って行く事にする。先ず、ガイドブックの地図を頼りにハッサン2世モスクを出発したが、どうやら遠回りをしているようだ。かなり歩いたはずなのに何度もハッサン2世モスクが現われる。S字型に歩いているようだ。
 ようやく旧メディナへの入口の門を見付けて中に入る。迷路のような道を迷ったり行き止まりにぶつかったりしながらコンパスを頼りに南に向って進んで行ったらようやく出口にある時計台が見えてきた。
 昨日は朝の果物を買いそびれた為、今朝は食べていない。持って歩くのは重いのでホテルの近くで買おうと思っていたが、近くでは果物屋は見当たらなかった。もう1度旧メディナのスークに行って売っている店を探した。かなり奥へ入ったところでようやく一軒の果物屋を見つけた。
 店頭で品物を見ていると右手奥の狭い露地から来た二人乗りのバイクが私のリックを引っ掛け、リックに付けていた名札がちぎれて道路に落ちた。私が抗議するとバイクを運転していた青年がしきりに誤るので悪気ではないと思い許してやった。リックに付いている取り付け皮がちぎれていた。
 果物屋でいろいろのりんごの中から赤いりんご一個とオレンジを3個買った。4泊で毎朝一個だから4個で良い。
 店員は8DHと言ったが、7DHに負けさせた。それを持ってホテルに帰ってきたら丁度12時だった。昨日の朝、アル・ジャディーダを発つ時ホテル脇の店で買ったフランスパンの残り半分を食べ、りんごを食べて一休みする。
 4時前ホテルを出て向いのル・ロワイヤル・マンスールホテルのテラスから旧メディナとハッサン2世モスクの方向を撮る。午前中あんなに快晴だったのに薄雲が掛かってきた。あまりパッとした光ではないが、又、明日でも晴れたら再挑戦する事にする。
 夜景のハッサン2世モスクは曇っていても関係がないので差し支えない。ムハマド・アル・ハツサン通りを真っ直ぐ西に向い、アイン・ディアブ行きのバス停に向う。
 間もなく9番のアイン・ディアブ行きのバスが来たので、それに乗り込む。街中を走りぬけ、アイン・ディアブ方向にバスは走るのだが、右側に見えるはずのハッサン2世モスクがなかなか見えてこない。ハッサン2世モスクを通り過ぎ、海岸通りに出たらバスを降りると良いと思っていたのだが、どうやらバスは海岸通りではなく、それよりももう少し内陸に入った道を走っているらしい。
 ようやく海岸縁の通りに入ったが、ハッサン2世モスクよりかなり遠く、目印の灯台も過ぎていた。急遽次ぎの停留所で降り、逆方向に海岸沿いに歩いた。しばらく歩くと水平線より少し上に満月が出ていた。上手くゆくとライトアップされたハッサン2世モスクの上に写し込めるかも知れない。
 30分以上歩いてようやく目印の灯台を過ぎて更に歩くと目的の海岸に出た。太陽は正に西に沈もうとしていた頃で、辛うじて日暮れ時に間に合った。月は雲間から時折顔を出す。
ハッサン2世モスク写真/写真転載不可・なかむらみちお  歩きながら三脚を伸ばし、月も雲から顔を出してなんとかハッサン2世モスクと画面上バランスの良い位置まで歩いて行き、そこでとりあえず2〜3枚写す。更に構図上バランスの良い点まで行き、月が完全に顔を出すのを待つ。
 その頃から夕闇も迫り、ハッサン2世モスクに灯も入ってきた。タイミング的には正にピッタリだが、バスを降りてからずいぶん歩いた。これなら初めからハッサン2世モスクを目指して歩いて来てそれから海岸沿いを適当なところまで歩いた方が近かった。大体ガイドブックの「アイン・ディアブ方向から市街へ向う時、大西洋の海にポッカリ浮かぶモスクはダイヤモンドのようにこうこうと輝く」なんて書いてあるのに惑わされてしまった。又、ガイドブックのカサブランカの市内地図とアイン・ティアブ地区の地図とは別々に載っており、その両方の中間にこの位置があるのだが、その部分が抜けているのも災いした。この為に今日は30,224歩、9qも歩いた。
 ライトアップされたハッサン2世と月の取り合わせをバッチリと撮影し、暗くなった夜道をホテルへと急ぐ。照明の少ない夜道は少し薄気味悪い。今回は今朝来た道を逆に戻り、途中から旧メディナ寄りの道を通る。旧メディナ寄りの道は屋台などが出て賑やかであった。雑貨を売る店の並びに続いて食物を売る街の並び、続いて手押し車の上などに山盛りにみかんなどを積み上げた果物を売る店の連続など。 その間を人々が大勢行き来しているが歩道と言うのにはタイルも剥れたり、ところどころ土だったりしてかなりお粗末である。その歩道には人が溢れ、両側にびっしり駐車している車のその外側、つまり道路の真ん中に近い方まで人が溢れて通る。そこをコンパスを頼りに不安ながら歩く。
 やがて、さっきアイン・ディアブヘ行く時、バスに乗ったバス停に出た。ここまで来ればもう安心だ。後は旧メディナの塀沿いに歩けばホテルに帰れる。
 ホテルに着いて先ずワインを一杯飲む。それから旧メディナへ行ってシシカバブを食べる。食べる前に近くの店員さんに私のカメラで記念写真を写して貰ったところ、その店員さんが私のカメラを持ち逃げするような仕草をして私をからかった。シシカバブは20DHだったが15DHに負けさせた。持参したグラスでワインを飲みながらシシカバブを食べた。ホテルに帰り、シャワーを浴びて9時頃寝る。

   12月30日(日) Casablanca
 今日は朝から曇りで天気が悪い。カサブランカは何も見るところがない。時間潰しにムハンマド5世広場でも見に行くとしよう。
 9時半過ぎ、ムハンマド5世広場に行ってみたが取り立てて何も見るものはない。そこから最終日に泊まるアル・ムーニアホテルが近いので今のホテルからそのホテルまでの道筋を下見する。ホテルを出る時はパラパラと雨も降ってきたが、晴れ間も出てきた。
旧メディナのスーク写真/写真転載不可・なかむらみちお  ハイアット・リージェンシー・ホテルまで来たところで旧メディナのスーク街に迷い込んでみる。奥の魚や野菜のスークは道も狭くて汚い。何故か道が濡れている。その中を人を掻き分けながら泥水を跳ね上げないようにそっと歩く。
 街角にダーツ(ナツメヤシの実)を売っている露店があった。そこで10DH分ダーツを買い、それを食べながら歩く。
 奥へ行くほど道は複雑となり、行き止まりなどもあり、方向が分からなくなった。建物の隙間から差し込む太陽の光を頼りに太陽のある方角に道を選びながら進む。あまりにも喧騒と人の群れ、迷い道などで目眩がしてくる。
 ようやく旧メディナを抜け出す事が出来た。方向は大体合っていた。ホテルに戻ると丁度12時だった。
 2時頃一寸外に出てみたが曇り空であった。6時頃よりホテルを出て夕食の為レストランへ向う。先ず、先日タジンを食べたレストラン「アンリ6世」でクスクスの値段を聞くと映画俳優の高松英郎のような風貌の主人が25DHと言う。一旦そこを出てもう一軒その付近の心当たりのレストラン「ナトラジ」を探すがなかなか見つからない。近所のレストランで聞いてようやく見つけたが、少々高い。それに雰囲気がイマイチだったので再び「アンリ6世」へ行った。そこでクスクスを頼んだ。
 クスクスはフェズでも食べたのだが、どんな味だったか忘れてしまったのでモロッコを去る前にもう1度再確認の為に注文した。ところがどうした事かタジンが出てきた。
 料理が運ばれて来て、持参のワインを飲もうとしたらサンチョ・パンサのようなボーイがだめだという。仕方なくワインは袋に仕舞う。食べ終わっていざ会計になったらチキンのタジンは35DHだと言う。腑に落ちないまま50DHを出し、15DHのお釣りを貰ってホテルに帰って来た。途中ホテルの近くで明日の朝食用としてモロッコパンを一個買ってきた。
 ホテルに帰ってから先ほどレストランでダメと言われて持ち帰って来たワインを飲み、8時半過ぎに寝る。

   12月31日(月) Casablanca
 今日は大晦日。日本では今頃NHKの紅白歌合戦を見ながらご馳走を食べている事だろう。一人住まいをしている娘は家に来ているかな。母さんと二人きりの歳取りはさぞ寂しいことだろう。
 天候は曇り、全くやる事がない。仕方がないから10時頃より港の方を散歩してみる。何もない。在るのは右手に海軍の基地のようなものやドックなどだけである。20分ほど歩くと前方にハッサン2世モスクが見えてきた。ここで引き返す。
 モハマドエル・ハッサン通りのどん詰まりまで行くと左手に漁港へ行く道があり、大勢の人が魚の入っているらしいビニール袋などを提げてくる。魚箱を積む荷車などの行き来も多い。
 その先へ進むと目標にしていたレストラン・デュ・ポーが在った。
 岸壁には漁船が横付けされ、その前では魚を売る露店が店を並べている。辺りは水で濡れて汚らしい。岸壁に沿って建てられた二階建てのビルは魚市場らしい。そこのバルコニーからも大勢の人が漁船を見下ろしているので上ってみる。雑然と纏まりが無く写真を写す気にはなれない。
 そこを降りて帰りかけると向こうから来てすれ違った警官に呼び止められた。「写真を写してはダメだ」と言っているらしいので「OK」と言ってうなずくと警官はそのまま行ってしまった。
 合計2qほど歩いて11時過ぎ頃ホテルに帰って来た。大晦日と言ってもここはイスラム教の国なので街は何時もと何も変わらない日常生活風景である。やはり暮れはNHK紅白歌合戦を見なければ新しい年を迎えたような気がしない。
 昨日も曇りだったし今日晴れれば向いのロワイヤル・マンスールホテルの屋上から旧メディナをなめてハッサン2世モスクの方向を写したいと思っていたが、天気が悪いので撮るのは止める。カメラに入っているリバーサルフイルムはあと二駒しかない。新しいフイルムを入れるとカメラの中で残ってしまう。出国の時の荷物検査でフイルムの入っているカメラを持ち込むとレントゲン検査を免れる為オープンチェックを依頼するのが煩わしくなるのでなるべく新しいフイルムをカメラに入れないで今ある二駒のフイルムで空港まで済ませたい。
 さっき海軍基地の方へ行った時も基地の塀のところにおじさんが塀の袂に座って新聞を読んでいる風景がとても良かったが写すのをためらった。明日の朝、若し晴れたらロワイヤル・マンスールホテルの上から旧メディナとハッサン2世モスクを撮りたいので残りのフイルムを大切にしたかったので止めた。
 今回の旅では不思議に行くところ行く処で着いた日が快晴で、その前後が曇ったり雨が降ったりした。特にマラケシュでは3日目、4日前にかなり強い雨が降り、エッサウィラのホテルに着いた時には雨上がりで夕方まで晴れた。この時ホテルに着いたとき、ホテルのロビーのTVがニュースで大雨の被害の模様を放送していた。ホテルのレセプションの女の子がカサブランカの近くだと言っていた。画面では道路から流されたバスが反対の道路脇で傾いている場面も映し出していた。と、言うわけで今回の旅ではすべて天気が付いていたと言う事が出来る。只一つ残念だったのはこの大雨で流れ出した土砂が海に流れ込み、エッサウィラの美しい海岸が赤茶けて濁っていた事である。
 思い起こせばカサブランカ空港に着く前の飛行機の中で二人連れのおばさんに声を掛けられ、カサブランカの市内まで彼女達を迎えに来たワゴン車で宿まで送ってもらった時から付いていた。彼女たちも「きっと今回の旅は良い事がありますよ」と言ってくれたのが本当になった。これでマラケシュでのバスに三脚を置き忘れた事が無ければパーフェクトだったのだが、まぁそう上手く行くものではあるまい。旅にはトラブルとアクシデントは付きものだ。言われていたCTMバスのストライキも無く、ほぼ予定通りに回れたので良しとしなければならない。
 5時頃よりチーズを片手にワインを傾け、6時を待って旧メディナの入口にある魚の揚げ物を食べさせる店に行った。何軒か物色した後、比較的小奇麗な店を選んで入った。
 店員に5DHコイン三枚を渡すとカレイのような魚と烏賊をカットして揚げた物を皿に山盛り持ってきた。こんなに食べられないなあ、どうしようと思いながらも全部平らげてしまった。ここでも持参したワインをマイカップで飲んだが、特別とがめられることは無かった。
 さすがこれだけ食べるとパンはいらない。パンは明日の朝食用に持ち帰り、明後日の朝は早いので時間調整の為7時に寝る。
 この4週間、モロッコを回って見て感じた事は、モロッコは貧しい、汚い、という事である。見るものも砂漠とカスバとメディナとスーク、それにモスクとクトゥビアくらいのもので、特に取り立てて見たいものはない。あるとすればそれは大砂漠の夕陽くらいのものか。ではなぜモロッコに来たのかと他人に問われれば、それは若かりし頃に見たモノクロの映画の残像に魅せられたイメージではないだろうか。
 「モロッコ」「カサブランカ」「アラビアのロレンス」「望郷」「外人部隊」などの映画の印象が強く影響している。中でもアメリカ映画「カサブランカ」はハンフリー・ボガートとイングリットバーグマンの主演であったが、なんとも哀愁がある。「昨日のことは忘れた」「明日のことは分からない」「君の瞳に乾杯!」などの氣の利いたセリフとキザな表現がモノクロの画面と共に強く印象に残る。この映画は全部ハリウッドで撮影され、カサブランカでは全くロケを行なっていないにも拘らず、何故か足がカサブランカに向いてしまった。私は幻の残像を求めてモロッコに来たらしい。この国はミステリアスであり、不思議な国である。

   1月1日(火) Casablanca
 新年明けましておめでとうございます。2002年の元旦はここモロッコのカサブランカで迎えた。
 イスラム教の国モロッコでは新暦の新年と言っても何の変化もない。何時もと変わらない日常の延長線上にある。
 夜中の12時に港の船が一斉に新年を祝って汽笛を鳴らした。明朝は3時起床、4時出発なので時間調整の為に今朝は4時に起きた。しかし、何もやることが無い。退屈な時間が過ぎた。時間の経つのが非常に遅い。
ル・ロワイヤル・マンスールホテルの正面玄関写真/写真転載不可・なかむらみちお  待ちに待った9時がようやく来た。永い永い退屈な朝だった。先ず、向いのロワイヤル・マンスールホテルの前にモロッコの服装をして立っているボーイさんを撮影する。撮影に快く受け入れてくれた。
 10時になったので荷物一式を持って下に降りる。レセプションに鍵を返してチェックアウトを告げると、168DH+税金が5DH。それの4泊分、692DHだと言う。私はガイドブックの値段と違うと言うと、彼はガイドブックの方が間違いだと言って表示している値段表を示す。私は尚も屈せず夕べは水も出ないし、お湯も出なかったから値下げせよと迫った。彼はそんなはずはないと言うから尚も強く主張すると、じゃ一緒に部屋に行って見ようという事になり、階段を駆け上がった。やっぱり水は出なかった。彼は再びフロントに降り、側にいたホテルの従業員と何かやり取りしていた。そして再び部屋に行こうと言うので、又、階段を三階まで駆け登る。今度は水が出た。従業員はどうだ出ているだろうと言うから、私は今出たのだ、昨夜は出なかったと主張する。
 フロントに戻り、と言うわけだから値下げせよ!と強く迫ったが、彼は何か言って首を横に振るが私には意味が分からない。しばらく両者にらみ合いを続けた。これ以上主張しても聞き入れられないと思い、彼の要求通り支払い、「No_Good_Hotel」と捨て台詞を残してホテルを出る。
 外は寒くはないが、今にも雨が降ってきそうだ。むしろ、セーターを着て歩くと暑いくらいだ。
 真っ直ぐモロッコ最後の今夜のホテルへ荷物を曳いて向う。元旦のせいか人通りは少ない。銀行や会社は祝日で休みで、商店も半分くらいは閉まっている。
 最終ランドの今夜のホテル、アル・ムーニアに着いた。コンシェルジュでチェックインし、明朝の空港行きのタクシーを依頼する。最後に明朝は早い出発なので宿代に食事込みで付いている朝食は摂れないから今日に替えてくれと交渉する。OKが出て部屋に運んでくれることになった。ボーイさんが荷物を持ってエレベーターで7階の部屋に案内してくれた。
 TVで小沢征爾指揮、ウイーンフイルハーモニーのニューイヤーコンサートを見たいと言ったらチャンネルも時間も分からないと言う。ルームサービスの朝食が運ばれて来るのを待った後、旅装を解いてからコンシェルジュへ行って同じことを聞くと、BBCだが、今、TVの係りの人を差し向けると言うので部屋で待つ。間もなく係りの人が来てBBCにチャンネルを合わせてくれた。
 11時までニュースが続き、その後、天気予報があり、CMに入ったが、コンサートは始まらない。一寸チャンネルを変えて見たらもう始まっていた。11時40分だった。いつから始まったのか分からないが未だそう時間は経っていないはずだ。とにかく見れて良かった。
 ドアがノックされたので出て見ると、ボーイさんが明朝のタクシーの運転手だと言う人を連れてきて紹介された。ご丁寧に挨拶をされた。
 小沢の指揮ぶりは素晴らしい。感動した。12時過ぎ頃からTVの画面が乱れ始めた。フロントに電話しようとしたが、番号が分からない。TVをいろいろいじってみたが直らない。
 メイドさんが朝食のお膳を下げに来たが、未だ手を付けていなかったので一旦帰ってもらった。
 TVはその内直るかと思い、しばらく我慢して見ていたが、直らない。部屋の外で人声がしたので出て見たらホテルの従業員だったので、部屋に入って見てもらったが依然として直らない。
 番組が終わったら画面の乱れは直った。どうやら中継障害らしい。まぁ曲がりなりにも見れたのは幸運であった。イタリアの放送局らしい。さっきのおじさんには親切にして貰ったのでチップをあげたいが、モロッコのお金がもう無くなった。仕方がないから日本から持って来た煙草を一箱渡してきたら喜んでいた。
 TVも終わったので一寸外へ行ってカメラに残っているフイルムで何か撮って来ようと思い、部屋の外に出ようとしたら、ドアのロックが外れない。いろいろやってみたが、ダメなので手当たり次第電話のボタンを押したら運良くメイドさんが出た。早速来てもらってドアを開けてもらった。もう1度メイドさんの前でやってみたが開かない。ところが、メイドさんがやると開く。強く押してと言うが、私が押しても開かない。思い切り強く押してようやく開くようになったのでメイドさんには引き取って貰った。
 ホテルを出て国連広場へ行き、地下道になっているところで玩具や靴を並べて売っている露店が2〜3日前から面白いと思っていたので、それを写してきた。これでフイルムが上手く限がついた。
 ホテルに帰り、明日の飛行機で手荷物のレントゲン検査があるので、それに備えてオープンチェックをしてもらう為に、フイルムだけを透明なビニール袋に入れて機内持ち込みように準備した。明日は3時に起きなければならないので、今夜は早寝する事にする。
 4時を待って風呂にお湯を入れる。少々ぬるいがまぁいいだろう。1ヶ月振り、イヤ、正確にはモロッコに来てこのホテルに最初に泊まった日に風呂に入って以来初めてだ。どっぷりとお湯に浸かる。シャワーは寒くてどうも苦手である。やはり日本人は風呂に入らないと疲れが取れない。残念ながらここのシャワーは故障していて頭を洗う事が出来なかった。
 石鹸をタオルに充分擦り付けるが、さっぱり泡が立たない。それでもそのタオルで体を擦るとかなり垢が浮いてきた。お湯をたっぷり3回も換えたら幾らか温まって体もぽかぽかしてきた。すっかりレフレッシュして早速今回の旅の成功と無事を祝してワインで乾杯した。その後、ここに着いた時持ってきてもらった朝食のパンを食べて夕食とする。
 やはり一流ホテルは居心地が良い。高いだけのことはある。と、言っても日本で言えばビジネスホテルクラスの値段だが、今までがあまりにも酷過ぎた。
 今日は明朝に備えて、早めに7時には寝たが、興奮しているのかなかなか寝付かれなかった。

   1月2日(水) Casablanca 06:45-11:10 Amsteldam 13:05-
 いよいよ今日でモロッコともお別れである。3時に目覚まし時計をセットしたが、1時半には起きてしまった。睡眠は充分取れているはずだから大丈夫だろう。顔を洗ったあとTVを見て出発時間を待つ。
 3時半、頼んで置いたモーニグコールが鳴ったのでフロントへ降りて行く。空港へ送ってもらうタクシーは未だ来ていないのでロビーのソフアに座って待つ。
 タクシーは4時に頼んであったが、3時40分頃に来た。早速乗り込む。タクシーは空港に向けて出発した。
 未だ明けやらぬ夜の街は真っ暗で街灯が輝いていた。行交う車は少なく、チラホラ程度。タクシーは信号が赤でも徐行しただけで進む。運転手とはお互いに言葉が通じないので二人とも黙りこくったまま。しばらく走ってから料金所があり、運転手がお金を払った。料金表示には50DHとあった。ガイドブックにはカサブランカの中心地から空港までは200DHと書いてあるが、ホテルのフロントでは250DHと言われたので料金が上ったのか、又は、ホテルから頼むから高いのかなと思っていたが、どうやら50DH高いのはこの高速道路料なのかも知れない。もしそうであるなら、特に急いで空港へ行く事もないので、高速道路を通らずに200DHで行ってくれれば良いのにと思った。
 やがてタクシーは空港の正面玄関に着いた。あらかじめビニールの袋に入れておいた250DHを運転手に手渡して空港ロビーに入ると、客は未だ一組しか来ていなかった。
 入口を入ったところで銃を持った兵隊が椅子に座って入口を警戒していたので、KLMのカウンターを訪ねるとこの兵隊はフランス語しか話せずラチがあかない。
 中に進んで表示板を見ると、これから私が乗るKLMの便も表示され、8番と書いてあったが、その8番がどこなのかよく分からない。しばらくロビーをうろついてみる。その内トイレに行きたくなった。トイレはロビーのはずれの方にあって、結構距離があった。有料かなと思ったが、無料であった。
 トイレから帰ってきてみると、ずらりと並んだ受付カウンターの1ヶ所だけに列が出来ている。TVモニター形式の表示の下に番号が8と書いてあった。さっきは暗かったので見落としてしまったらしい。もうすでに20人ほど並んでいる列の最後尾に並んだ。
 私の前に日本人の青年がいたので、ここがKLMの列かと聞いたら彼も半信半疑で「そうらしいですね」との返事だった。
 先月28日にカサブランカのKLMの事務所でリコンフアームをした時に、5時までに空港に来て下さいと言われた。5時少し前に受付カウンターのTV方式の表示にKLMのアムステルダム行きの表示が出た。
 5時過ぎから搭乗手続きが始まったが、一向に列が進まない。1組の客に20分以上も時間が掛かっている。いらいらしてくるがだれも文句一つ言わずに並んでいる。いつもそうだが、モロッコに来てから客の応対に時間がかかる事が多かったが、誰も文句を言わない。元来万事のんびりした国だから、どこでも対応に時間が掛かるのは極当たり前になっているのだろう。ピリピリイライラしているのは日本人だけ。イヤ、私だけなのか? 又トイレに行きなくなってきた。前後の人に頼んで行って来ようかとも思ったが荷物一式を持ってここから遠いトイレまで行くのも気が滅入る。我慢出来るなら我慢しよう。
 なんとかトイレは我慢できて搭乗手続きが終わり、荷物をカウンターに渡した。搭乗口は8番と言われたので向うがどこが入口か分からない。うろうろした末にようやく分かったが、入ろうとしたら入口の警備員にイエローカードを持っているかと言われた。持っていないというとあそこで書いて来いと言っているらしいが私には分からない。すると近くの人が私を近くの机まで連れて行ってくれた。そこにはカードが置いてあり、2〜3人の人が記入していた。それでようやく納得して書き始めたが、どうもトイレに行きたくて落着かないので先ずトイレに行ってくる事にする。
 トイレから戻り、又デスクに行って出国カードを記入するが、書き方がよく分からない。分かるだけ記入して予備にもう一枚未記入のカードを胸のポケットに入れてゲートに向う。
 荷物検査の処でまず、フイルムをバッグから取り出し、カメラと共にオープンチェックをしてもらう用意をする。ついでにポケットの小銭入れを手提げバッグに入れる。この荷物検査は警察官がやっている。
 荷物検査は上手くオープンチェックをしてもらい、X線をかけられずに済んだ。緊張で喉がからからだ。
 未だ免税店は開いていない。ロビーの両替所も開いていなかったが、丁度良くDHを使い果たしたので両替所には用はない。免税店も特に買いたい物はないから用はない。真っ直ぐ8番ゲートの待合室に向かう。そこにはもう結構多くの人が待っていた。勿論搭乗手続きの時、私の前にいた青年もいた。
 やがて出発時間が迫り、全員搭乗した。私の両側には日本人のツアー客が座った。窓側は女性で通路側は男。私はその間。窓側の女性と2、3言会話をした。関西のツアー客で、私とほぼ同じコースを8日間で回って30万円ほどと言っていた。
 私たちの乗った飛行機は4時間近く飛んでオランダのアムステルダム、スキポール空港に近づいたが、空港近くで旋回してなかなか着陸態勢に入らない。窓から外を見ると地を這うように低く垂れこめた雲の上から地上の高いビルや煙突の先端部分が出ており、美しい風景だった。
 やがて飛行機は雲を突いて着陸態勢に入った。緊張の一瞬である。ようやく着陸。辺りは深い霧で全く何も見えない。よく無事に着陸したものだと感心する。

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  Amsterdam(アムステルダム)
 飛行機から降りてから次のゲートへ行く空港内の道が長かった。歩いても歩いても搭乗案内板がない。少し不安になる。かなり歩いて少し広い処に着いてようやく登場案内のTV方式の表示があった。そこで表示を見ていたら、あの青年が来て、日本へ行く飛行機の便を見付けてくれた。これでひと安心。そこから又その登場口へ歩いて向う。かなりの距離だ。
 ようやく新千歳行きの飛行機の搭乗口に着いた。彼は昨日から発行したユーロのお金を記念に持って帰る為に両替してくると言う。私は彼がすぐ帰って来ると思い、荷物を見ていてあげると言ってしまった。
 彼はなかなか帰ってこなかった。KLMの日本人係員が30分遅れになるが、中の待合室に入って搭乗手続きをしても良いですよと言ってくれたが、その前のロビーで彼を待った。
 15分か20分ほど待ってようやく彼が帰って来た。それから近くの免税店へ彼と一緒に行ってみた。ブランデーが安かったら買おうと思ったが、全部ユーロ価額の表示なので日本円の価額が分からない。その内の一本を持ってカウンターで聞いて見たが、日本よりも高いので止めた。
 日本のニコンのサービスセンターといつも酒をご馳走してくれる行きつけの居酒屋の主人にかねがねお世話になっているのでお土産でも買って帰ろうかと思い、チョコレートを2箱買った。
 新千歳行きの飛行機に乗り込んだが、なかなか出発しない。彼の青年は登場前、この霧で飛び立てるのかどうか盛んに心配していた。彼は私よりも3列前の席に座った。
 機内アナウンスはこの霧で着陸の飛行機が混み合っているので出発が30分遅れると言う。合わせて一時間遅れとなる。多分機体に凍り付いた氷を溶かしているのだろう。私はどうせ急ぐ旅ではないので今日中に出発してくれればどうでも良い。
 それからしばらく機内待機させられたが、出発しそうもない。寒さと霧で地上の作業が遅れているとの事。窓から外を見るとクレーンのようなものから翼にお湯をかけている。作業員が来て私の座っている席の近くの非常出口の扉を開けて翼の上の方へ出て行った。
 そんなことをして又一時間ほど時間が経過した後、ようやく出発した。

   1月3日(木) 07:40 新千歳-札幌
 日本までの時間は永かった。機内では映画を上映していたが、なんだか面白くなさそうなので見る気もしない。ただ目を瞑って眠ろうと努力したが、遂に一睡も出来ないまま新千歳飛行場に無事着いた。
 新千歳近くになってから私の席の脇を通りかかったスチュワーデスに空いたコップを手渡そうとしたら、彼女はどうしたわけか手に持っていた金属製のケースを私に差し出し「プレゼント」と言った。私は訳が分からないままに手を差し出し、キョトンとしていたらそれを私に手渡して彼女は行ってしまった。開いてみると、歯ブラシ、櫛、テッシュ、化粧品などが入っていた。箱の表には「ビジネスクラス」と書いてあった。きっとビジネスクラスの乗客に渡すプレゼントなのだろうが、何らかの理由で余ったのだろう。(金属の箱の表に多少引込んだ凹凸が微かに見えた)。何で私にくれたのだろう。もういい歳だが私もまだ結構捨てたものでもない。未だ女性にモテルんだ!?

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  帰国
 新千歳空港に着いて入国審査の前の処で名古屋まで行く人は別のルートへ向って行った。彼の青年とはここで手を振って分かれた。入国審査は簡単に済んだ。その前にアフリカから来た客は機内でイエローカードを書いて係員に渡した。私は今朝から下痢気味だったが、本当のことを記入すると後が面倒なのと、それまではなんとも無く、帰国の為に神経を使った為よくある神経性のものと思っているので何も記入しなかった。係員には2、3質問されたが、すべて「なし」で無事通過。係員からもし体に異常があったらすぐ病院へ行って下さいと言われて無事通過した。
 荷物受け取りの所で出て来る荷物を受け取る前にカサブランカ空港の荷物検査の時、ポケットから出して手荷物の布袋に入れたはずの小銭入れが見当たらない。この小銭入れには日本に着いてからJRなどに乗る時に使う日本円の小銭を移して入れておいた物である。家へ電話を入れる。次男が来て寝ているので起きたら札幌駅まで迎えに行かすと言っていた。
 結局小銭入れは見当たらないので、JRに乗る時は日本円の札を出して切符を買って乗った。新千歳空港から札幌へ向う列車の窓から外を見るとなんだか思ったよりも雪が多いようだ。
 札幌駅に着いたが、いつもの所に家の車は停まっていなかったので仕方なくタクシーに乗って家へ帰った。そのタクシー代も新千歳駅でJRの切符を買った時の小銭と千円札で払った。
 家に着くとかなり雪が多かった。次男の嫁さんが出迎えてくれた。家に着いてからも改めて小銭入れを探したが何処にも無かった。多分カサブランカ空港の荷物検査器に入れる時に口のチャックの掛かっていない隙間から落ちたのだろう。リックの中に入れればよかったと反省する。
 物を失くしたり忘れ物したりしないように、その他トチらないようにかなり神経を使ったのだが、最後にとうとうやってしまった。しかし、被害は少々だが、あの小銭入れは妻とドイツに行った時、それまで使っていた小銭入れがダメになったので代わりに買ってもらったもので、なめし皮で造った丸型の口にチャックが付いていた。大変気に入っていただけに残念でならない。

 ※モロッコの言語はアラビア語とフランス語が中心である。公用語はアラビア語だが、一般にフランス語も全土で良く通用する。英語やスペイン語が通じるのは都市部のホテルやレストラン。ただ、ほとんどはフランス語圏と思った方がいい。私はアラビア語は勿論フランス語も分からない。それどころか恥ずかしながら中、高、大学と英語を習ったにも拘らず全く会話を出来ない。地元の人とたくさんコミュニケーションを計りたければ、言葉が大事な道具だ。それとどんな場合にも対処し得る機転が大切である。
 この文の中で私があたかも相手と会話を交わしているかような書き方をしているが、ほとんどが知っているだけの英単語を並べるかゼスチュアで相手にこちらの気持ちを察してもらっている。それを意訳して書いたものである。何処だかの勇ましい“おばちゃん”はよく海外の店で日本語でたくましく買い物をしているのをTVなどで拝見するが、あれは一寸恥ずかしい。いただけない。
 「眼は口よりものを言い」。相手の目を見つめ、心を込めて話す(?)と相手は一心に私の言いたいことを分かろうとして心を傾けて分かってくれる。下手な英語を使うとかえって誤解の基になる。うわべの形ばかりの言葉よりもお互いに“心”が大切である。そうすれば必ず相手はこちらの気持ちを分かってくれる。外国の言葉を話せないから外国にはひとりで行けないという人がよくいるが、その人は何か一番大切な事を忘れているのではないだろうか。その一番大切なものとは人と人との“心のふれあい”である。文明社会に毒されている現代人は余りにも道具(物やお金)に頼りすぎてはいないだろうか。

 合理性一点張りのコンクリートに囲まれ、経済活動にきゅうきゅうする日本の現実は?「日本人の暮らしは本当に幸せなのか」。

  ※映画「カサブランカ」の主人公リックのモデルと云われるウィーン生まれのフレデリック・ダニエルスキ(英国の元スパイ)は、実際はリスボンに移住後ナイトクラブ「ニナの店」を経営しながら英国のスパイとして働き、「ミスター・カサブランカ」と呼ばれていたが1993年1月7日米フロリダ州西パームビーチの病院で死去した。82歳であった。しかし、映画の舞台としてはやはりカサブランカの方が似合っている。
 ポール・ヘンリードの演じるラズロは汎ヨーロッパ提唱者で、「EUの父」と呼ばれるリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー(日本生まれ。父はオーストリア・ハンガリー帝国駐日特命全権大使のハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵、母は東京牛込出身の日本人女性青山ミツ)を投影しているとする説がある。

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          ***** ***** **** *****

 「旅」、それは歩くこと、飲むこと、踊ること、そして出会うこと。
 「旅」、それは酒、女、夢。
 ルタ一曰く「洒も女も歌も好かぬような者は一生を愚かに過す」。
 「出会い」と「別れ」。旅の型は人それぞれ様々だが、旅には何かがある。旅は出会いと別れのドラマである。

◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇

 「お金さえあれば何でも出来る時代だ」と言う人もいる。事実、お金さえ払えば南極へも行けるツアーもある。少し離れた所へ行くのにもタクシーを使えば楽に行ける。しかし、旅の楽しみは楽をして行ったのではあまり感動は湧かないだろうし、記憶にも残らない。苦労して到達した時こそ大きな感動を得る事が出来る。その間の苦労が大きければ大きいほど、又、その感動が大きく何時までも記憶の中に残ると思う。
 旅の醍醐味とはそう言うものではないだろうか。そこにはお金では買えない感動がある。金では買えないものがある。

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  ひとり旅

 「旅とは、知らない国への期待とその可能性に対して挑戦する行為の中にこそある。現在の旅行者はどうであろうか。未知への旅はありえない。あるのは確認という行為だけである。」シュテフアン・ツヴィクラー。

 ひと汗掻いた後のビールは旨い。昭和初期まで活躍した物理学者の寺田寅彦は「喫煙四十年」の中で「みっしり働いてくたびれた後の一服が一番うまい」と書いた。寒さに耐えた後、太陽に手をかざすと、春の暖かさを感じられる。その喜びがここにある。

 評論家の森本哲郎はNHKラジオ第一放送「ラジオ深夜便(平成14年9月5〜6日放送)」で次のように語っていた。

 『多くの旅をした挙句に感じ取るのは最悪の旅と最良の旅である。私は快適な旅は一つも覚えていない。苦難を乗り越えた旅は忘れがたい。ひとり旅はすべてを自分で決めて自分でしなければならないが、その半面自由で面白い。
 ひとり旅は辛いけど、収穫がある。ひとり旅は対象を見ることに専念できるが、仲間が居ると話に夢中になってつい、周りを見落とす。つい仲間内で日本に居るのと同じ気持ちになって時間が過ぎてしまう。ひとり旅は否応無しに外ばかり見て歩くことになる。つまり、自分自身で会話をしてゆくことになる。辛いけれど、一人旅は収穫がある。
 現代は、映像だけを見て「行ったような気がする。見たような気がする」時代であるが、それよりも、実際の体験が大切である。自分の五感で、肌で感じ、苦しみもがきながら意思を通じさせたり,途方にくれたり、そのような生身の体の実際の体験こそがいいのだ。
 旅とは苦しいものだ。辛いことが多い。楽しいことだけでは旅の意味がない。芭蕉の「奥の細道」は、芭蕉が楽々と辿って行ったならばあの作品は生まれなかった。快適さは、旅の敵でないかなと思う。
 日常生活から抜け出して、旅先で自分を見つめるということが旅の大きな目的であり、収穫である。団体旅行はそれを実現させてくれない嫌いがある。そのために、最後は確認に過ぎないだけに終わってしまう。確認をするだけなら案内書だけを見ていれば済むことで、わざわざ行くことはないのではないか。
 旅とは「発見」だと思う。本当の旅とは、「自分との違いを発見すること」が一番大きい」。

 なけなしの大枚を注ぎ込んで何から何まで他人任せのパック旅行は何の苦労もない「居心地よい旅」に違いない。その代わり後に何の印象も残らない旅となってしまう。まるで気の抜けたビールのようだ。
 旅の途中の苦労が多いほど出会った風景への感激が大きい。きっと昔の人は旅の途中で見た富士山の風景は現代の旅人よりもずっと大きく感動したであろう。
 個人旅行は好き勝手に動く事が出来る。風の吹くまま気の向くまま…。寅さんの気分で…。その代わり、荷物は自分で持ち運ばなければならないし、交通機関や宿泊先も自分で探さなければならないという労力や多少の不安、不便は致し方ない。と、いうよりはかえってその方が後から楽しかった良い想い出となり、その旅の価値が倍増すると言うものである。"旅の楽しみ"というのはそのようなところにあると思っている。何から何までお膳立ての整った旅は思い出には残らない。何から何までお誂えのツアーでは旅の印象も薄れるというものだ』。


 「専用ガイドが終始張り付いてお供する海外旅行なんて、考えただけでもあずましくない。空港でそのガイドが気に入らなければ『チェンジ!』ってできるのだろうか。」 -パラダイス山元の「おばんでございマンボ」- 2008/2/14 北海道新聞「おふたいむ」より

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