★南米ぐるりひとめぐり
(リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ、イグアスの滝、ペルー)

-地球の裏側ひとり旅-

イグアスの滝/写真転載不可・なかむらみちお

情熱とサンバの国ブラジル。タンゴの国アルゼンチン。
空を舞うコンドル。神秘的な古代文明が息づく魅惑の国ペルー。乾いた大地に響くフォルクローレ。
いざ、太陽の帝国へ…。
心が、旅で洗われる。

2002年3月31日から4月24日まで南米を旅して来ました。

目  次

ブラジル
リオ・デ・ジャネイロ  サン・パウロ  イグアスの滝 
アルゼンチン
  ブエノスアイレス
ペルー
リマT  クスコT  アグアス・カリエンテスT  マチュピチュ アグアス・カリエンテスU 
クスコU  聖なる谷  ティティカカ湖  シユスタニ遺跡  リマU  ナスカ  リマV

     スケジュール
 2002年

3月31日(日) 札幌-新千歳 07:50-(NH050)09:20 成田 16:50-(DL056)15:20 Atlanta 20:35-(DL161)
4月1日(月) 08:05 Rio de Janeiro
  2日(火) Rio de Janeiro
  3日(水) Rio de Janeiro
  4日(木) Rio de Janeiro 11:10-(RG2251)12:10 Saopaulo
  5日(金) Saopaulo
  6日(土) Saopaulo 12:50-(RG2251)14:25 Foz do Iguacu
  7日(日) Foz do Iguacu
  8日(月) Foz do Iguacr 13:20-(MJ3293)15:15 Buenos Aires
  9日(火) Buenos Aires
  10日(水) Buenos Aires 07:00-(TA022)09:45 Lima
  11日(木) Lima 06:00-(LP025)07:15 Cuzco
  12日(金) Cuzco 06:00-(列車)09:30 Aguaas Calientes-(バス) 10:00 Machupichu-Aguas Calientes
  13日(土) Aguas Calientes 15:00-(列車)18:50 Cuzco
  14日(日) Cuzuco (聖なる谷巡り)
  15日(月) Cuzco 07:30-(バス)16:30 Puno
  16日(火) Puno 09:00-(船)Islas Los Uros-(船)Puno
  17日(水) Puno 09:00-Chulpa de Sillustani-Puno
  18日(木) Puno 13:30-Juliaca 16:00-(N6-1172)18:15 Lima
  19日(金) Lima 13:30-(バス)20:00 Nazca
  20日(土) Nazca
  21日(日) Nazca 13:30-(バス)20:00 Lima
  22日(月) Lima
  23日(火) Lima 00:10-(DL274)08:06 Atlanta 10:20-(DL055)
  24日(水) 13:24 成田 18:30-(JL565)20:05 新千歳-札幌

          イントロダクション
             地球の裏側へ

 この旅でどんな出会いが待っているのか期待で胸をわくわくさせて家を出る。

   3月31日(日) 札幌-新千歳 07:50-(NH050)09:20 成田 16:50-(DL056)15:20 Atlanta 20:35-(DL161)
 朝5時に起きて顔を洗い、朝食用のトーストを焼いて鞄の中に入れる。いつものように自転車でバス通りに出てタクシーを拾う。玄関先で妻に見送られてJR札幌駅に向かう。
 駅からは朝1番のライナーで新千歳空港に行く予定であったが、その前の普通列車にぎりぎり間に合う。この列車の方がライナーよりも早く空港に着くのでそれに飛び乗った。乗って間もなく列車は発車した。
 空港に着いて先ず搭乗手続きをした後、そのままターミナルへ入る。そこで持参したサンドイッチを食べる。食べ終わって間もなく搭乗が始まった。飛行機はほぼ満員だった。定刻通り離陸した搭乗機はほぼ定刻とおりに羽田空港に着く。天気が良くて乗り心地がいい。
 荷物引渡し所では預けた荷物がなかなか出て来ない。ようやく出てきた荷物を持って京成電車の駅へと向かう。途中、地下の全日空商事の売店で崎陽軒のシュウマイを一箱買い込む。
 京成電鉄の乗場に行き、切符を買うのに戸惑った。自動販売機から買うのだが、相互乗り入れのため電鉄会社名と行き先をコンピューターに入力しなければならない。慣れない事だし、時間もないのに客が行列を作っているので焦ってしまった。
 ようやく切符を買い、乗り込むや否や列車は発車した。成田空港地下のコンビニエンスストアで缶ビールを1個買い、出発ロビーの待合所で焼売を食べながらビールを飲んで搭乗手続きの始まるのを待つ。
 出発時間の3時間前に搭乗手続きのアナウンスが入った。受付カウンターに行ってみるとすでに長蛇の列が出来ていた。いつの間に並んだのだろう。そしてどうしてここが分ったのだろう。ビールを飲む前に一応それらしきところを探したのだが、その時は表示が出ていなくて分からなかった。不思議でならない。果たしてこの列全部の客がデルタ航空一機に乗るための客なのだろうか。
 登場手続をしてもらうのに又かなりの時間が掛った。ようやく手続を終えて中に入り、先ず、免税店に立ち寄り、チップ変わりにする日本製煙草を買う。以前に買ったことのある5本入れは製造中止とかで、已む無く10本入れワンカートンを買う。向こうに着いてから飲む酒も見たのだが、どれも高くて買う気がしない。搭乗口近くの売店を覗いたら、750mlの日本酒が100円とあったのでそれを一本買う。

    Atlanta(アトランタ)着
 ほぼ満員のデルタ航空機は予定通りアトランタ空港に着いた。ここで預けた荷物を一度受け取らなければならないのだが、3分の1ほどの乗客の荷物が出て来ない。私の荷物もその中のひとつだ。デルタ航空の係員が荷物を受け取らなくても良い、次の到着地で受け取れば良いというのでそのまま先へと進む。ここの空港で5時間の待ち時間がある。免税店を覗いてみたが何も買うものがない。先ほどまで降っていた雨が止み、夕陽が射してきた。待合所の窓ガラス越しに夕陽の空港の写真を撮る。
 リオ・デ・ジャネイロ行きの飛行機は空いていた。20時35分出発の夜行便なので横になって寝ている人もいる。テレビモニターの電源も切られ、機内は実に静かだか、成田からアトランタに来る時に少々寝たので一睡も出来なかった。

   4月1日(月)快晴 08:05 Rio_de_Janeiro
 札幌を発ってから26時間ぶりにリオ・デ・ジャネイロの上空に着いた。空は快晴、飛行機の窓からリオの町がよく見える。映画「黒いオルフェ」のロケ地でもあるかのような山裾の傾斜地に貧民屈のような家々が段々に積み重なっているのが見える。

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Brazil(ブラジル)

海抜709mの絶壁の頂に立つキリスト像は、リオ観光のシンボル/写真転載不可・なかむらみちお


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     Rio_de_Janeiro(リオ・デ・ジャネイロ)到着
 南米大陸の約半分を占めるブラジル。日本の約23倍。世界第五位という広大な国土が東西南北に広がる。古くから先住民と白人、黒人が混血を重ねてきたうえ、数多くの移民を受け入れてきたため、今では人種が入り乱れている。公用語はポルトガル語。
南アメリカ  空港に着くと二つとも荷物は無事手元に届いた。荷物受け取り場の出口でどういう訳か提出したカードを見ながら係員が仕分けしてそのまま外へ出て行く人と荷物を透視検査機に掛けられる人とがいた。私は検査の方に廻されたが、無事通過した。
 空港の外に出ると、タクシーの客引きが待ち構えていて攻撃を掛けてきた。その間を掻い潜って安全なバスと言われているREALというエアコンバスの発着所へと向かう。飛行機の到着時間に合わせたかのように丁度良くバスが来た。そのバスに乗り、一路リオの街へと向かう。
 空港に降り立った時、リオの空は快晴、ここはラテンアメリカのビッグカントリー、強い日差しが照り付ける。バス停を探したり、確認したりすることに夢中で感じている余裕は無かったが、落ち着いてみると暑かったのを思い出す。特に寝不足と旅の疲れと時差ボケの頭には強烈でくらくらした。
 このバスはエアコンバスなのであまり感じないが、街を行き交う市内バスは全部窓を開け放し、そこからぐったりした市民の顔が見える。バスは街中を走り、イパネマの方へ向かう。イパネマ海岸はボサノバの大ヒット曲『イパネマの娘Garota_de_Ipanema』の舞台にもなった場所で、1960年代から高級住宅街として繁栄してきた。道路は相当の混雑だ。街行く人々の服装を見ると、半そでのシャツを着ている人が多い。私はさすが毛糸のセーターとジャンパーは脱いだものの、札幌から出てきたままの服装だ。ホテルに着いたら先ず軽装にしなければならない。
 イパネマの海岸沿いを走って行くとやがてバスの車掌が次の停留所で降りれと教えてくれた。バスを降りてから車掌から教わるままの街角を通ってホテルへと向かうがなかなか見付からない。なるべく日陰を選んで重いカメラの入ったリックと三脚を背負い荷物を引き摺り、反対の手に鞄を提げて歩くと汗が噴出してきた。通りすがりの店の人に何度か訪ねながらホテルへと向かう。さきほどの車掌が少し手前の方で降ろし過ぎたようだ。500mほど歩いてようやく目的のサンマルコホテルに到着した。
 フロントマンは老紳士風な人だった。中に入って行くといきなり「ナカムラさんですか」と言われた。チェックインを済ませて部屋に案内される。クーラー付だ。冷蔵庫も在る。それにトイレ付だが、流石に風呂はなく、シャワーだった。しかし、これまでの旅とは違ってなかなか贅沢な部屋だ。それにベッドも2つある。
ブラジル  空港からのバスは長かった。1時間ほど乗ってようやく着いた。ホテルに着いたのは12時近かった。しかし、未だ時間はある。天気がいいので午後の時間を有効に使いたい。こういう良い天気がいつまでも続くとは限るまい。どこへ行こうかと考えた末、コルコバードの丘へ行くことにした。ここは本当は丘の上に立つ、かの有名なキリスト像が午後は逆光になるので午前中の方が良いと言われているが、下界の眺めはこれからでも悪くないはずだ。
 Tシャツに着替え、カメラをはじめ必要な物を準備していたら昼になってしまった。腹も空いてきたが、先を急ぐので途中のどこかでパンでも買って一時を凌ぐ事にする。先ずは取り急ぎ出掛ける準備をしてフロントへ行き、コルコバードの丘への行き方を訪ねる。フロントの老紳士は60レアル(為替レートUS$1=R$2.22)でマイクロバスで案内すると言うが、私は市内バスで行くと言うとそれじゃホテルのすぐ前を走るバスで行くといいと教えてくれた。バス停はホテルの前だった。行き先のバスの番号をホテルの名刺の裏に書いてくれて、0.10レアルをくれた。これをどうするのだと尋ねるとバス代は1.10レアルだから、その0.10に1レアルを足して支払うと良いと言う。なかなかご親切な方だ。
 頻繁にバスが来るが目的の番号のバスはなかなか来ない。うっかり見過ごして手を上げるのが遅いと通過してしまうと言うので必死になって583の番号のバスを探す。10分程待ってようやくお目当ての番号のバスが来た。バスには後の扉から乗り込むと車掌が居てお金を支払う。どこまで乗っても1.10リアルだから利用し易い。車掌に行き先を告げ、そこに着いたら降ろしてくれるように頼む。
 リオ・デ・ジャネイロという地名の由来は、1502年1月、グアナバラ湾を発見したポルトガルの探検隊がこの湾を川と勘違いしたことに始まる。ポルトガル語では川をリオRio、1月をジャネイロJaneiroという。つまり“リオ・デ・ジャネイロ”とは“1月の川”という意味になる。
 人口700万を超えるリオ・デ・ジャネイロは、サン・パウロに次ぐブラジル第2の都市というだけではない。華やかなカーニバル、ゴージャスなビーチリゾート、そして世界3大美港のひとつと讃えられるグアナバラ湾の景観など、いくつもの条件を兼ね備えた国際観光都市である。
 バスは混雑した街の中を並み居る他の車とレースをしているかのように競って走って行く。よくこれで交通事故が起きないものだと感心する。バスは1時間ほど街の中を走り過ぎる。やがて少し上り坂のようなところでほとんどの乗客が降りる。そばに乗っていた女性の客が「ここで降りるんだよ」と声を掛けてくれたので一緒に後にくっ付いてバスを降りる。
 街のシンボル、コルコバードの丘の上へ登る登山電車は、コズメ・ベーリョ地区にある駅から出る。バスを降りるとすぐ目の前に登山電車の赤い看板が目に飛び込んでくる。横断歩道を渡り、登山電車の切符売場へと向かう。電車は乗り込んで間もなく発車した。スイス製とかで真っ赤なボディに白いラインの入った2両編成で、ゴトゴトと急斜面を登る。
 線路を見ると真ん中にもう一本歯車を受ける溝の付いたレールがあるアプト式だ。こうでなければとてもこの傾斜は登れまい。高度を上げていくにつれ、大きな窓からすばらしい景色が目に入ってくる。眼下に広がるロドリゴ・デ・フレイタス湖とコパカバーナのホテル群は圧巻。
あまりにも雄大な景観に息することも忘れかけ、疲れも一気に吹き飛ばしてくれた/写真転載不可・なかむらみちお  所要時間は約20分程で頂上近くの終点停留所に着いた。駅の近辺には、レストランやスタンドバー、みやげ店がある。キリスト像の足下へ行くには、そこからさらに126段の階段を昇る。空腹と寝不足と時差ボケ、疲労などが重なって頭がくらくらする。その上、強い日差しが容赦なく降り注ぐ。急な階段を登り、ようやくキリスト像の足元の展望台へ着いた。もうへとへとだ。そんな疲れも大展望が一気に吹き飛ばしてくれた。凄い眺めだ。カメラを構える。海岸沿いに連なるビルの群れ、ラグーン、入江、素晴らしい眺めだ。今日は運が良く、海の向こうまで見渡すことが出来る。大西洋だ。
 このコルコバードの丘に登ると、リオ全体を箱庭のように見渡すことができる。特異な姿をした山々を結ぶように海岸線は白い弧を描き、入り組んだ空間に林立するビル群は、複雑なモザイク模様を造りだしている。雄大でしかも繊細な景観は息を呑むほど美しい。
 海抜709mの絶壁の頂に立つキリスト像は、リオ観光のシンボルだ。1931年に建造されたこの像の高さは30m(台座を含めると38m)、天を仰ぐように横一文字に広げた両手の幅は28m。全身はミナス・ジェライス州産のろう石貼りで、重さ1145トンという巨体。海岸地区から見るその姿は、陽を浴びる真っ白な十字架のようであり、没後はライトを浴び、リオの町を見守るように闇のなかに浮かび上がる。
 観光だろうか、時折ヘリコプターが飛んで来てこの丘の回りを一周して行く。キリスト像は矢張り逆光で、目の前の高いところに顔があるので撮影条件としてはかなり苦しい。われわれが言うところの「引き」が足りないと言う条件で、大勢押し寄せて来た観光客も像と一緒に記念写真を撮るのに四苦八苦、苦労している。まるで札幌の時計台前を思わせるようだが、ここは更に規模が大きく他の観客が邪魔になってそれを避けて写すのは相当困難を伴う。
 2時間ほど展望を楽しんだり、写真を撮ったりしてから再び階段を降りるが、暑いし、空腹だし、それより何よりも飲み水を持ってこなかったので今にも倒れそうだ。階段の途中の売店でビールを一杯飲む。美味い。これで少々生き返ったようだ。更に売店で日差しを避けながらお土産品を眺めてみる。キリストの像をモチーフにした物が多い。石のようなものに彫刻したキリスト像がいいかなと思ったが、25レアルと少々高い。家に出す絵葉書を1.0レアルで一枚買う。
 下山のために登山電車の乗場へ行くと、運良く出発する間際だった。それに乗り込んで下山する。電車を降りてバス停に行くと、そこに又丁度良く帰りのバスが来たのでそれに乗り込み、ひとまずホテルへと向かう。
 イパネマでバスを降り、ホテル近くのスーパーで先ず飲み水とハム、パン2個、それに果物を買う。ホテルに戻って先ず成田空港で買ってきた日本酒を開け、ハムをつまみながら無事到着を祝って乾杯。美味い!生き返ったようだ。
 一杯飲んだせいか疲れのせいかはたまた時差ボケなのか。いずれも全部複合してテレビを見ている内に眠ってしまったようだ。

   4月2日(火)快晴 Rio_de_Janeiro
 今日は昨日行ったコルコバードの丘以外のリオの観光名所を廻ることにする。ホテルのフロントでカテドラルへの行き方を訊いた後、バスに乗り街の中心地へと向かう。30分程バスに乗り、そろそろかなと思っていたところ、私の席の後に乗っていた男の客が「カテドラルならここで降りるのだよ」と教えてくれた。私が手に握り締めていたホテルの人の書いてくれたメモを見てカテドラルへ行くのだなと思ったらしい。
ピラミッドのようにも見える近代的なカテドラル/写真転載不可・なかむらみちお  バスを降りて教えられたようにカテドラルへと向かう。途中、工場のような建物が並んでいる建物の中には工作機械のような物があるのが見えた。その付近の街頭にはそれらしい工員風の人々を見かけた。辻を曲がると独特の形をしたカテドラルが目に飛び込んできた。カテドラルに着いてみたら、人影は見当たらず、拍子抜けの感じだった。
 このカテドラルは一般的なカテドラルの形とは違って先端部を切り取った円錐形のモダンな設計で、一見するとピラミッドのようにも見える風変わりな建物である。高さは80m、床の直径106mで、1976年建造。2万人を収容できる。外見は地味だが、中に入ってみると帯状になったステンドグラスの輝きが美しかった。
 これと似た形をしている教会がフランスのルーアンにあり、一昨年この教会を見てきた。1431年にジャンヌ・ダルクが火刑に処せられた旧市場広場の中央には万博のなんとかパビリオンみたいで、いわれなければそうとはわからない現代的な雰囲気の教会が建っている。
 カテドラルからは地下鉄のカリオカ駅まで歩き、そこから地下鉄に乗ってカーニバルのメイン会場であるサンボドローモへと向かった。
 地下鉄プラサ・オンセの駅で降り、そこに居た地下鉄の駅員に訊いたところが、サンバパレード会場は今来た地下鉄の駅をひとつ戻ったサン・クリストバン駅で降りるのだと言って再び駅構内に入れてくれた。
 再び今乗って来た地下鉄を逆にひとつ戻り、サン・クリストバン駅に降り、駅員に場所を尋ねたら「一寸待て」と言われた。彼は事務所に入り、棚からビニールのレジ袋を出し、私が背負っているカメラの入ったリックと三脚を「この中に入れて手に下げて行け」と言ってリックを袋の中に入れた。そして、「腕時計も外して仕舞え」と言う。
 海外では何処も日本のように安全ではない。ブラジルは失業者や路上生活者の数が多く、一般犯罪が増加傾向にある。特にサン・パウロやリオ・デ・ジャネイロの大都市では犯罪が多く、犯罪の手口も凶悪化しているので「充分注意」の危険情報が出ている。いつ、どこで、どんなことが起きるかもわからないのが南米。南米と言うと泥棒、スリ、置き引きなどが先ず頭に浮かぶ。やり方はいろいろあるが、犯行は普通複数で行われる。ひとりが物を盗って逃げ、あとの仲間が一般通行人を装って立ちはだかり邪魔をする。或いは全員で取り囲み、鞄などを引っ手繰る。彼らはチャンスを窺い、一瞬の隙に犯行に及ぶ。特にひとり歩きの旅行者や、いかにも観光客然とした態度、服装の人は狙われやすい。彼らはプロである。その手口は鮮やかである。周りに人が居たとしても、先ず誰も助けてはくれない。見ているだけだ。最近はニセ警察官の犯罪も多発しており、荷物の持ち逃げとか、車に乗せられて、荷物を剥ぎ取られて外に放り出されるケースなどもあると聞く。
 いつでも、どこでも犯行は起こりうる。どこにいても常に周囲に気を使い、怪しい視線を察知するようにしたい。私は道を歩いていても時々常に怪しい奴が付いて来て居ないかと後ろを振り返る。又、立ち止まってポケットの中を探し物をしたりフイルムを交換したりする時には、壁際に背中を付けて探し物をする。なるべくしないほうがよい。後ろには目がないから、背後から襲われたら終りである。例え警察官が居ても何もしてくれない。自分の身は自分で守るしかない。行き先が安全な場所であっても夜になったら歩かないのが基本。人通りの少ない道を歩くのは危険。派手なアクセサリーは一切身に付けない。腕時計やカメラも狙われる。お金は極力持ち歩かないこと。なるべく質素で目立たない服装を心がける事が肝要だ。若しも強盗に遭ったら、逆らわないほうがいい。例え相手が子供でも仲間が居るし、刃物や短銃を隠し持っているかも知れない。
 持っている荷物は絶対に身体から離さないことが鉄則。ショルダーバックなら斜めに掛け、前で抱えるようにする。後に廻してしまっては、刃物で切られて中身を抜かれてしまう。カメラは使ったらすぐバッグにしまう。私はバックとカメラを紐でしっかりとくくり付け、それと並行して腰のバンドとカメラの間に防犯ブザーを結んで持ち歩いた。
 首から下げるタイプの貴重品袋は彼らの知るところで、首に紐が見えれば、ターゲットの目印になる。せめて肌着の上から斜めに掛けたほうがまだいいかもしれない。又、腹巻型の貴重品袋もバレバレである。ウエストポーチなどは論外である。足に巻き付ける方法も一案である。私は、ズボンの太股の内側辺りに隠して持ち歩いた。いずれにしてもお金は分散して持ったほうがいい。
カーニバルのメイン会場であるサンボドローモ/写真転載不可・なかむらみちお  教えてもらった道をおっかなびっくり時々今来た道の後ろを振り返り、前後を確認しながら進む。三区割りほど進むと階段状になったコンクリートの見物席が広い通りの片側に造られているのが見えた。そこは金網で塀が巡らされていて、立ち入り出来ないようになっていたが、入口が少し開いていて、その先にガードマンが居た。そのガードマンに写真を写しても良いかと尋ねたところ、良いというので早速写してきた。
 ここでは毎年2月中旬に“地上最大のお祭り”、世界的に有名な南米最大の夏の祭典、リオのカーニバルが催ようされ、毎年精鋭10チーム以上によるあでやかなサンバの行進が行われる。世界から押し寄せてくる約6万人以上の観客を魅了する。19世紀に始まったと云うこの祭は、アフリカの太鼓のリズムや踊り、先住民の文化などを次々と取り入れて、人種を超えたブラジル独自の大きな祭りとなっていった。今では大規模なパレードが行われ、楽団がサンバを演奏し、ダンサー達が腰をくねらせて激しく踊り、巨大な山車が登場する。そして、街全体が熱狂の渦と化す。
 又もと来た道を用心深く地下鉄駅へと戻ると、先ほどの駅員が居た。OKかと指でサインしてきたので、私もOKと指で輪を書いて頭を下げた。
コルコバードの丘の上から見たマラカナンスタジアム/写真転載不可・なかむらみちお 世界最大級の大サッカースタジアム/写真転載不可・なかむらみちお  この後再び地下鉄に乗り、マラカナンスタジアムに向かった。地下鉄マラカナンの駅を降り、出口で駅員にマラカナンスタジアムを尋ねると、彼は私の手を曳き、出口まで連れて行って指差してくれた。そこには昨日コルコバードの丘の上から見た大きなスタジアムがあった。そして入口も教えてくれた。横断歩道を渡り、一ヶ所だけ開いているbVの入口から中に入る。入口でチケットを買って中に入る。先ず、地下に入ったが選手の控え室らしい。特にどうと言うこともない。ここからどう行ったらよいのか分らないので再び一階に戻り、そこからエレベーターで七階まで行って観客席に入る。流石に大きい。そこからグランドの写真を撮った。
 収容人数11万5000人を誇る世界最大級の大サッカースタジアム。1950年、リオで開催された第4回ワールドカップ大会のために作られた。ブラジル中のサッカー少年たちには最も栄光ある夢のスタジアムだと言う。
 マラカナンスタジアムを出て地下鉄駅に行くと、さっきスタジアムを教えてくれた駅員さんがOKかと手で合図してくれたので、私も指で輪を書いてOKとサインを返した。
 今度は地下鉄でコパカバーナ海岸へと向かった。終点のC.Arcaeroe駅で降り、5区割ほど海岸の方に歩くとようやくコパカバーナの海岸に出た。
ビーチでは日光浴や海水浴、フットサル、ビーチバレーを楽しむ人たちでにぎわう/写真転載不可・なかむらみちお  ここは4.3qの長さがあるビーチの一部で世界的にその名が知られている。海岸沿いのアトランチカ大通りに面してホテルや高層マンションが建ち並んでいる。1階部分にレストランを併設する建物も多く、歩道部分にテーブル席が張り出している。海岸線は弧を描くように美しく延びており、コパカバーナ要塞付近からホテル・ル・メリディアンの建つプリンセサ・イザベル大通りまでの約3kmがコパカバーナ海岸、その東側約1kmはレーメ海岸と呼ばれている。
 ビーチでは日光浴や海水浴、フットサルやビーチバレーを楽しむ人たちでにぎわい、タンガと呼ばれる世界一小さいビキニを身に着けた美女たちが闊歩し、どこからともなくサンバが流れてくる。リオのビーチは治安が悪い。カメラを持ってビーチをぶらぶらしていると引ったくりなどに遭い易い。
タンガと呼ばれる世界一小さいビキニを身に着けた美女/写真転載不可・なかむらみちお  大勢の人々が海水浴をしていたがあまり写真になりそうになかった。が、一応波打ち際近くまで行ってみたら結構絵になるようなので数枚撮影した。
 海岸通りをイパネマの方へ走るバスに乗ったが、途中から山の方へ入って行ってしまった。運転手に聞くとこの後イパネマへ行くと言うので安心して乗って行く。やがて見覚えのある街並みに来て無事ホテルに戻ることが出来た。ホテルの近くのスーパーでパンと冷えたビールを買ってホテルに帰り、シャワーを浴びた後ビールを飲む。美味い!
 今夜は「Plataforma1(プラタフォルマ1)」にサンバショーを見に行くことになっている。迎のバスが来るのが9時40分なので未だ間がある。その間、日記を付けて時間を潰す。
 ロビーで待っていると9時40分過ぎに迎えのバスが来た。バスはレブロンへと向かう。やがて派手なネオンを点けた建物の前でバスから降りた。ここはブラジルのカーニバルの踊りが毎日上演されるショーハウス。10種類以上の踊りを一度に見られて、踊りを通してブラジル文化の奥深さを知ることができる。中に案内されて二階に上り、劇場に入ると前座らしいのが始まっていた。
裸の踊り子達がステージ狭しとばかりに踊っている/写真転載不可・なかむらみちお  ショーは次々と間を置かずに進められていく。上演される舞踊は一流。華やかで露出度の高い衣装を身に付けて踊るダンサーからは目を離せない。サンバのリズムに乗って裸の踊り子達がステージ狭しとばかりに踊っている。驚いたことに楽団も歌手も生で二階の席で歌ったり演奏したりしている。カボエイラなどもあるが、最大の見所は最後に上演されるリオのサンバだ。
 ブラジル独立、ヨーロッパ芸術の上陸、ボサノバ音楽発祥の地と、常に歴史の桧舞台になってきたリオ。天衣無縫でパワーあふれる遊びの天才カリオカ(リオ生まれの人々)は、訪れるすべての者を熱烈に歓迎し、その心を沸き立たせてくれる。
 最後に黒人司会者が出て来て各国の客にその国の言葉で紹介する。日本もあった。思い出に残る実に楽しいショーであった。
 ショーは11時半頃に終り、再び来た時のバスに乗って各ホテルまで送り届けてくれた。先ず私のホテルが最初だった。

   4月3日(水)薄曇、晴れ時々曇り Rio_de_Janeiro
 今日はもう一度昨日行ったコルコバードの丘へ行くことにする。その前に家への絵葉書を投函するために近くの郵便局へ行った。窓口は女性で、財布からありたけのコインを差し出すと、その中から必要なだけ受け取って切手を貼ってくれた。赤ペンを貸してくれと頼んだが、話が通じない。「葉書のJAPANというところに赤でアンダーラインを引きたい」と言ったら「必要ない、大丈夫」と言われたのでそのまま差し出す。(ところが帰国してみるとこの葉書は家には着いていなかった。その後も待ってみたが遂に着かなかった。一体どこに消えて行ってしまったのか不思議だ。発展途上国から手紙を出すと時々このようなことがある。友人がネパールから私宛に出してくれた絵葉書が半年後に配達され、友人も驚いていた)。
 ホテル前のバス停に戻り、昨日乗った番号のバスを待って乗り込み、セントラルを通ってコルコバードの丘へと向かった。
 登山電車で頂上に着いた頃から曇ってきた。雲が下から噴き上げて来て、キリストの像も時折見え隠れする。キリストの像をバックに記念写真を撮ろうと雲の晴れ間を待っているのだが、なかなか晴れてくれない。一瞬雲の切れ目からキリストの像が姿を現すと、待ち構えていた観光客がどっと歓声を上げる。
 キリスト像の台座の足元で一時間ほど待ってみるがどうも雲は晴れそうにもない。一段下に降りて売店などを覗いてみる。昨日見たキリストの像を模ったプラスチック製のお土産品がいいなと思ったが、25レアルと思ったより高い。その下のもう一軒のお土産物屋を見たが同じ値段だった。そのまま買わずに登山電車の乗場の方へ向かって降りて行くと、丁度改札中で行列の観光客がぞろぞろと電車の乗場に向かっていた。天気も晴れそうにもないので、そのまま電車に乗って下山することにする。
 電車が下の駅に着き、下車した後、その電車の乗り口近くに待合室を兼ねてその電車のミニ博物館があったので少し覗いてみたが特にどうと言うこともない。
 登山電車が駅に着いた時見えた近くの広場に面して建つ小さなお土産店に「はたの商会」という日本語の看板が掛っていた。そこを覗いて見ることにする。中に入ってみると日系二〜三世のような女性の店員さんがいた。中年のおばさんだった。日本語で親切に応対してくれる。観光情報なども案内してくれる。店には宝石、民芸品、健康食品などを置いている。先ほどコルコバードの丘の売店で欲しかったキリストの像のお土産品を見ると17.00レアルと安かった。絵葉書も0.70で安い。この二つを買ってそこを出る。
 バス停でバスを待っていたらイパネマ行きの系統の違った二台のバスが続けて来た。先に来たのが昨日乗った系統のバスだったが次の違った系統のバスに乗り込んだ。当然昨日とは違った道をバスは走った。そしてどんどん山の方へと進んで行く。来た時に見た景色とは全く違う。ホテルのあるイパネマらしいところに来た。よくみると行った時と同じ方向にバスが走っている。やがて見覚えのあるホテル近くの景色になってホテル前の停留所が近づき、無事下車。つまり山の方を廻って循環しているわけである。
 ホテルに入り、先ず昨日買ってきて冷蔵庫に冷やしておいたビールを飲む。その後、友人のH君に葉書を書き、郵便局へ出しに行く。帰りにスーパーに寄って足りなくなりかけてきた歯磨パスタを買う。
 夕方、歩いて少し離れたノッサ・セニョーラ・ダ・パス広場からすぐのシュラスコレストラン「ポルコン」に行き、ブラジルを代表する肉料理シュラスコを食べる。シュラスコを出す専門店をシュハスカリアといい、牛肉のほかにも豚肉や鶏肉など20種類もの肉が好きなだけ食べられる。
ブラジル名物焼肉料理のシュラスコ/写真転載不可・なかむらみちお  可愛らしいブタの絵の看板が目印。席に着くとボーイがひとりに一枚、ブタの絵が描かれた丸いカードが置かれる。表にはブタがナイフとフォークを持ち、「Sim,Por_Favor/yes,Please(料理を持ってきて下さい)」と青の文字で書かれていて、この絵が出ているうちは次々とウエーターが肉を運んでくる。もう食べられないと思ったら、カードを裏にすると裏には「Nao_obrigado/no_thanks(もういりません)」と赤で書かれている。どんなものか分らないが焼肉料理のシュラスコを頼む。先ず、バイキング方式のサラダを食べる。とても美味しい。飲み物はカシャーサというブラジルのカクテルを頼んだ。これはサトウキビの蒸留酒の地酒をベースにしている。飲んでみると、ジンのカクテルのようであった。ボーイによると中にレモンが入っているという。 次々とウエーターが肉を運んでくる/写真転載不可・なかむらみちお  やがて焼肉を持ってきて好きなだけ皿に入れてくれた。食べてみると固い。次に串焼きの肉を持ってきた。たいした食欲はないので少しだけ貰った。シュラスコとは牛肉や鶏肉の塊に岩塩を摺込み豪快に串刺にしてじっくりと焼き上げた一種のバーベキューである。料金はひとりR$47.85だった。そんなことをしながら持ってきたカメラでボーイに記念写真を撮ってもらったり、またボーイが写してくれと言うので写してやったりした。
 ボーイ達を見ていると、ひとり黒い服を来た店長らしい人物がボーイひとり一人を厳しくチェックしていた。その態度がどうも意地悪い。一人のボーイは特に強く注意され、同僚の前でしょげていた。
 その店を出てホテルに向かっている途中、バッグに入れたカメラに付けていた引ったくり防止用の防犯ブザーの紐を弾みで引き抜いたらしく突然大きな音で鳴り出したので焦って止めた。

   4月4日(木)薄曇、晴れ時々曇り Rio_de_Janeiro 11:10-(RG2251)12:10 Saopaulo
 朝5時に目を醒ます。今日はリオからサン・パウロに向かう。ひと先ず洗顔の後、朝食には未だ早いので日記を書き始める。
 この部屋は珍しく机と椅子がない。仕方ないから冷蔵庫の上で書き始めるが、目の前にクーラーがあってまともに顔に吹き付けて来るのでクーラーの電源を切って書き始める。
 朝食は7時半からなので、7時には書くのを止めて旅装を調える。7時20分頃フロントへ降りて行ってみたが、矢張り食堂は未だ開いていなかった。フロント近くのロビーのソフアに座って開くのを待つ。
 サン・パウロ行きの飛行機は11時10分だから時間に余裕があるが、バスを拾ったりしなければならないので少し早めにホテルを出発しなければならない。
 朝食の後トイレに行かなければならないのだが出そうもないのでそのまま出発することにする。バスは空港まで1時間ほど掛るので、その間にもよおしてきたら困るなと少々心配である。
 カメラを担ぎ、持って来た荷物を引き摺ってホテルから二区割ほどイパネマ海岸沿いのバス通りへと向かう。このバスは特に決った停留所はなく、手を挙げるとどこにでも泊ってくれる。
 海岸沿いの道路脇に立ってバスを待つが、向こうから来る高速で来るバスの見分けが難しい。仕方がないから来るバス来るバス全部に手を挙げる。たまに停まってくれたバスが違っていたら謝る。
 太陽が照り付けて暑い。街角の温度計が早くも29℃示している。なるべくビルの陰になるようなところに陣取るが、すぐに太陽が移動して照り付けてくる。仕方がないから又陰の方まで荷物一切を持って移動する。
 そんなことをして30分余りでようやく空港行きの「REAL」というエアコンバスが来た。なんと車掌はリオに着いた時このイパネマまで乗って来たバスの車掌だった。
 バスは途中で何人かの乗客を拾いながら快調に走り、ガレオン国際空港に着いた。空港は第一と第二ターミナルに分かれていた。どちらに行けばよいのか分からないので車掌に「サン・パウロ」と言うと第二ターミナルだと言う。教えられた方へ行き、第一ターミナルと第二ターミナルを結ぶカーゴに乗せて貰って第二ターミナルへと向かった。
 ようやくヴァリグ航空のカウンターを探し当ててチェックイン完了。出発まで1時間ほどあるが、結構な時間である。ゲート近くまで行ってようやくトイレに入る。上手く出てくれた。
 飛行機は中型のジェット機でこの後サン・パウロからイグアスへ向かう。イグアスへ行く時はこの便に乗ることになる。

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       Saopaulo(サン・パウロ)
 1時間ほどの飛行でサン・パウロに着いた。空港を出て街へ行くバスのチケット売場に行く。切符売りのお嬢さんはバスはオオサカプラザホテルの近くまでは行かないので、市内のヘプブリカ広場からタクシーを拾って行けと教えてくれた。
 終点のヘプブリカ広場でバスを降りるとタクシーが客待ちしていた。ホテルの住所を見せると、分るという。料金を訊くと7.00レアルと言う。もうひとりの運転手に訊くと、15〜20レアルと言うので止めて次のタクシーの処まで行き、再び尋ねると最初の運転手と同じく6〜7レアルと言うのでそれに決めて乗り込む。結局タクシー代は6.45レアルだった。
サン・パウロのビル群/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルはリベルダージ地区の東洋人街の中にあった。向いが地下鉄Liberdade駅の入口になっている。フロントでチェックインを済ませて部屋に案内された。広くて綺麗だ。窓からは向かいの地下鉄の入口が見え、その前が広場になっており、露店が出ている。向こうにはサン・パウロのビル群が林立している。良い眺めだ。部屋はベッドが二つ並んでおり、冷蔵庫やテレビ、電話もあるがクーラーが利いていない。
 サン・パウロは人口約1500万人のブラジル、ひいては南米最大の近代都市であり、ブラジルの経済の中心都市である。ここにブラジル全人口の約12%が集中している。国民総生産の50%を生み、3000店舗の銀行の他、その他の金融機関は1000を数え、文化でも南米大陸bPの都市である。
 1908年にわずか791人から始まった日本人移民も、さまざまな苦難を乗り越えてブラジルに定着した。現在日系人の数は約130万人といわれている。これは全ブラジル人口の1%弱に過ぎないが、その約90%がサン・パウロ州とバラナ州北部に集住している。
 Tシャツに着替えて早速近くの商店街へ行ってみる。ホテルの隣の店を覗くと店先に日本と同じような寿司の弁当が並べられており、奥に行くと日本で売られている商品と同じ物が並んでいる。驚いたことに日本のビールと並んで数種類の日本酒があり、その中に「大関」があった。よし、今夜はこれに決めた。
 道を挟んで日本の週刊誌や単行本を店先に並べる書店やスーパーがあり、先ほどと同じ寿司などの弁当が並んでいた。また、さくら餅や大福を売る和菓子屋、油あげ、みそ、ラーメンなどが棚に並ぶ食料品店から仏壇店まである。奥の方に並んでいる品々も日本の商品ばかり。買い物客も日本語で話している人が多く、店員も日本語で応対している。ますます“日本”の雰囲気が濃くなる。ここで水を初め、日本酒の大関、刺身、寿司などを買う。
目抜き通りのど真ん中に赤い大鳥居/写真転載不可・なかむらみちお  リベルタージ地区を歩いていると、「○○商会」とか「○○屋」といった漢字の看板が目につき、目抜き通りのど真ん中に赤い大鳥居が立っていたりするのには、いささか驚かされる。通りにはちょうちん形の街灯が鈴なりに並び、日本のどこかの地方都市の駅前商店街といった趣がある。
 リベルダージ駅のひとつ南のサン・ジョアキン駅付近までの約1qほどの地区には、日系人の経営する商店などが約400店舗も軒を連ね、ここでは生活に必要な物事すべてが日本語のみで事足りてしまう。海外で日本人街として機能しているのは、L.A.のリトル・トーキョーと、ここサン・パウロのリベルダージの2ヵ所だけという。
 サン・パウロの最大の魅力は、異なる文化と性格を持った各国からの移住者が作りあげた「混沌の調和」ともいうべき、独特の雰囲気だろう。特にリベルタージ地区の東洋人街では、南米に渡った日系人の日本文化に対する愛着と郷愁がひしひしと感じられ、不思議な感覚にとらわれる。サン・パウロの楽しみ方は、この町独特の雰囲気を肌で感じとり、豊饒なシティライフを堪能することだろう。
日本酒の大関、刺身、寿司など/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルに帰り、先ず、冷蔵庫の冷えたビールで喉を潤す。次に寿司で昼食を済ませる。資料に目を通していると猛烈に眠くなった。
 夕方7時頃再び商店街へ行く。近くの大阪橋から見た下の道路のラッシュで込み合う車のヘッドライトとテールライトの流れが美しい。明日の夕方にカメラを持ってきて写そう。
 何軒かの店を回ってみると、整理処分のせいか弁当の値段が下がっている。その家の一軒で天婦羅弁当を買ってきて昼に買った多分紅鱒と思われる魚の刺身で日本酒を飲む。

   4月5日(金)晴れ Saopaulo
 朝食の後、東洋人街を少し見た後、ブタンタン毒蛇研究所へ行って来た。ここは1898年、ビタウ・ブラジル博士によって設立された世界的に有名な研究所。毒蛇、毒蜘蛛、サソリなどの有毒生物に対するワクチンや血清の製造をはじめ、現在では、一般の病気用ワクチンや血清も製造されている。
 ホテルのフロントで教えられた通り、ホテル前の地下鉄リベルダージ駅から地下鉄に乗り、Parrisoで乗り換えてClinicasまで行き、そこから更にバスに乗って約1時間弱走ってようやく行き着いた。
 地下鉄Clinicasの駅を降り、沢山ある出口の中から第六感で出た出口がブタンタン行きのバスの停留所だった。停留所で待っていた若い女性にどのバスに乗ったらよいか尋ねたところ、その脇にいた中年の男が自分もその方面に行くから一緒に行こうと言われたのでその男にお任せで付いてバスに乗った。
 教えられたバス停でバスを降りてから目的のブタンタン毒蛇研究所まで陽の照る炎天下を黙々と歩いた。特に蛇に興味があるわけではないので、わざわざこんなに苦労してまで来ることはなかったのにと半ば後悔しながら歩いた。しかし、サン・パウロは東洋人街以外は全く見る物がないので折角来たのだし、今後このよう名所を見ることも無いだろうからと思って来たのが間違いだったかも知れない。
ブタンタン毒蛇研究所/写真転載不可・なかむらみちお  付属の生物博物館ではジャングルにおけるヘビ採集の用具類や、多種多様の生きたヘビ、毒グモ、サソリなどの標本がガラス越しに展示され間近で見ることが出来る。そのコレクションは4000種4万匹に及ぶという。昔から蛇は感じの良い物ではなかった。あまり良く見ないで早々に出て来た。
 来る時に降りたバス停まで再び歩き、たまたま来たバスに地下鉄駅まで行くかと尋ねると行くと答えてくれたので乗り込む。勿論、来た時のバスとは系統が違うので来た時とは違う路線を走る。着いた所がなんと私のホテルのある地下鉄駅リベルダージであった。行く時に地下鉄の2回乗車券を買って行ったが、帰りには地下鉄に乗る必要が無くなったので損をしてしまった。しかし、初めの予定では地下鉄に乗って帰って来る予定だったのが、ダイレクトに来てしまったのだから得したとも言える。
 ホテルの隣の店でビール1缶を買ってホテルに帰り、早速一杯やる。その後持って帰って来たパンで昼食を摂る。テレビを入れると甲子園での高校野球の決勝が始まったところだった。サン・パウロには7チャンネルのテレビ局と13のラジオ放送局があるという。
 2時頃ホテルを出て東洋人街のメインストリート、ガウバオン・ブエノ通りを通り、日伯文化協会まで行ってみた。帰りにスーパーで水を買ってホテルに帰り、昨日買った日本酒の残りを飲む。高校野球の決勝は報徳高校が勝ったようだ。夕方まで日記を書く。
 午後6時、窓の外を見ると夕暮れが迫ってきた。急いでカメラを用意してホテルを出る。昨日の夕方に見た大阪橋の上からのラッシュの車のヘッドライトとテールライトの群れを撮る為だ。
 橋の上に着くと早くも薄暗くなってきた。急がなければ…。一応用心の為、カメラに紐と防犯ブザーを結びつけて撮影を始めた。どんな写真が撮れるのか楽しみだ。帰りがけに食料品店に寄って寿司を買ってくる。
 ホテルに帰ってセーフティー・ボックスに預けておいた航空券とお金を出そうとしたが、何度やっても開かない。これが出ないと明日の朝出発の飛行機にも乗れないし、お金も足りない。ホテルの人を呼び、何度か試みた末、ようやく開いてひと安心。
 部屋に帰ってさっき買ってきた寿司を食べたが蒸らし方が足りないのかブツブツしてめっこ飯のような感じで余り美味しくない。矢張りここは外国だ。同じ寿司でも似て非なる物だ。
 明日の朝の出発に備えて旅装を整えた後、シャワーを浴び、日記の残りを書いた後8時半頃寝る。テレビがNHKの「おはよう日本」を中継している。やっぱりここは地球の裏側だ。

   4月6日(土)曇り、後晴れ Saopaulo 12:50-(RG2251)14:25 Foz do Iguacu
 今日はフオス・ド・イグアスに移動する日だ。空は雲が多い。朝食の後、チェックアウトを終え、空港への行き方を訊ねたら、地下鉄でヘプブリカまで行って、そこの広場から空港行きのバスに乗ったらよいと言うのでトランクの中から昨日使い残した地下鉄の切符を取り出して地下鉄でヘプブリカへ行った。
 バスの出発所に着くと丁度良く空港行きのバスが発車する直前だった。急いで切符を買って飛び乗るとすぐに発車した。バスは快調に空港へ直行。間もなく飛行場が見えてきた。なんだか到着した時よりも近く早く着いたような気がする。
 空港は第一ターミナルと第二ターミナルに分かれていた。バスの車掌が第一ターミナルで降ろしてくれた。ヴァリグ航空のカウンターはすぐに見付かり、スムーズにチェックインを終えた。中に入って待ったが、時間になっても搭乗が始まらない。予定時刻よりも30分も遅れて搭乗することが出来た。
 リオから来た時と同じ便だが、リオからサン・パウロまでの時はソフトドリンクしか出なかった。今度は果たして食事が出るだろうかと心配したが、心配無用であった。
 私は左側の窓際の席だった。フオス・ド・イグアスが近付いたら亜熱帯性の密林に覆われた大地を豊かな水量を湛えて流れる大きな川が蛇行していた。きっとこの先がイグアスの滝だろう。運が良ければ窓から見えるかも知れないと思ってカメラを用意した。案の定少し遠めだが滝を見ることが出来た。

        Foz_do_Iguacu(フオス・ド・イグアス)
 空港に降りて案内所で街への行き方を尋ねていたら、現地の日本人旅行社「Nippak_Tour」のKikuji_Sobaさんが客を出迎えに来たが来なかったので空車で帰るから乗せて行ってやると言ってくれた。好意に甘えて乗せて貰う事にした。謝礼に日本から持ってきた煙草を一箱あげた。
 車はホテルサンラファエルの玄関前に横付けしてくれた。ホテルのフロントでチェックインを済ませた後、これから滝に行きたいがバスは何処だと尋ねたら、バスで行くのは難しい。タクシーはどうだと持ち掛けてきた。明日と明後日の空港までの送りを含めて110US$(為替レートUS$1=133.65〜135.45円)と言う。少し値が張るが、利用することにした。
 車でホテルを出て滝へと向かったが、結構距離があってかなり走る。ようやく公園の入口に到着。運転手が降りて入園料を払えと言う。公園事務所まで一緒に連れて行ってくれた。その入口で彼は私はここで待てと言ってお金を預かって中に入って行った。やがて切符を持って帰って来た。建物を入った所に公園内へ行くバスの乗場があった。彼は私に車を廻すからここで待っていれと言う。
 再び車に乗って公園内を走ったが、そこからも更に距離があった。ようやくホテル・ダス・カタラタスの前に停まった。彼はそこから滝の方へ降りて行けと言う。彼はその先の駐車場で6時に待っていると言う。
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         Cataratas_Iguazu(イグアスの滝)
 カナダのナイアガラ、アフリカのビクトリアと共に世界3大瀑布の一つイグアスの滝は、パラナ川とイグアス川の合流地点からイグアス川を約20qさかのぼった所にかかり、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ3国に国境を接している。
イグアスの滝は全幅約4qで世界最大級/写真転載不可・なかむらみちお  イグアスの滝は全幅約4qで世界最大級。広大なブラジルの原生林を縫って流れてきたイグアス川が、アルゼンチンとの国境付近でその行く手を遮られ、大小280本にも分断され、毎秒6万500トンを超える水が最大落差80mの低地に向って一気に落下する。
 イグアスの滝のあるイグアス川はアルゼンチン、ブラジル、パラグアイにまたがっている。滝とその周辺の2256kuがイグアス国立公園に指定され、さらに1984年にアルゼンチン側のイグアスの滝が、1986にはブラジル側もユネスコの世界遺産に登録された。
 うなるような重厚な水のとどろき、光によって色彩を変える滝の表情。そして絶え間ない振動…。虹を伴って流れるイグアス。壮大な色と音の一大シンフォニーが奏でられている。イグアスの名は先住民の言葉で“Igu”は“水”を“Azu”は壮大なものへの驚嘆の意を示す。
 滝の観光コースはブラジル側とアルゼンチン側にあり、ブラジル側からは滝の全景を一望に収めることができ、アルゼンチン側からは最も大きな滝「悪魔ののど笛=Garganta_de_Diabolo」と呼ばれる滝壷近くまで行くことができる。
 遊歩道を進むと滝が帯のように大パノラマに展開していた。その先に膨大な水飛沫の白煙を蹴立てて、世界最大級の大瀑布があった。驚異的な迫力と神秘的に美しい。大急ぎで写しながら1.2qの遊歩道を先へと進む。暑い!汗が全身を流れ、たちまちTシャツが搾るほどに濡れてきた。
 6時頃ようやく約束の場所に辿り着くと、エレベーターを上ったところで彼が待っていてくれた。夕陽を写したいと言うと川の側に連れて行ってくれたが、そこには滝はないのでここではダメだ。滝と夕陽を一緒に写し込みたいのだと説明し、再びホテル・ダス・カタラタスの方へ行ってもらった。以前にそのホテルの最上階のタワーに登ればそこから滝の全景が見えるとガイドブックに書いてあったのを思い出して行ってもらったが、どうも方角がイマイチ違う。大急ぎでそこを降りて再び遊歩道の方へ行ってみた。
 太陽はどんどん沈んでゆく。急がなければと焦る。ようやく滝と夕陽が一致した所を見つけ、三脚を広げて撮影する。危機一髪、太陽が滝の向こうに沈む直前に写すことが出来た。
 帰り掛けにスーパーに寄りワインなどを買ったが、親切にも運転手が付いて来てワインを選んだり、籠を持ってくれたりしたので嬉しくなり、お礼に日本から持ってきた煙草を一箱あげた。
 ホテルに帰り早速ビールで乾杯。その後、汗で濡れたTシャツを洗濯した。今日は走り回ったので相当疲れた。

   4月7日(日)快晴 Foz_do_Iguacu
 今日は一日掛けてブラジル側とアルゼンチン側の滝を写しに行く。午前6時起床。窓から見える東の空が赤く輝いてきた。空には雲一つない。
イグアス  午前8時半出発なので、7時頃朝食に行く。その後、出発準備をしてロビーに降りて行くと迎えの車が来ていた。
 一路昨日通った道をブラジル側の滝へと向かう。公園の入口で一旦車から降りて入園料を払いに行く。私はその後ゲートの方へ徒歩で進む。車は別ルートでゲートの方に回り、そこで落ち合って再び乗車する。
 ここまで来るのにも相当遠く感じたが、その後も結構な道程だ。ようやくHotel_das_Cataratasの前に到着。そこで車を降りる。運転手は何時間掛ると訊くので、昨日は1時間で忙しい思いをしたので2と答えた。じゃその先の駐車場で11時に待っていると約束して私は先ずカタラタスホテルの最上階のタワーに登ってみたが余り良くない。
 そこを出て昨日通ったイグアス川に沿って作られた遊歩道を写しながら進む。昨日は逆光であまり冴えなかったが今日は順光なのできれいに見える。
 昨日は時間が無くて行くことが出来なかったが、川幅が広くなったところで川にせり出した橋を通り、遊歩道の一番先端へ行くと正面にイグアス最大の滝「悪魔ののどぶえ」が唸りをあげていた。ここが写真で見た場所で、一番のお目当ての所だった。
遊歩道の一番先端へ行くと正面にイグアス最大の滝「悪魔ののどぶえ」が唸りをあげていた/写真転載不可・なかむらみちお  ここまで来る途中でも全身に水飛沫を浴びて通って来たが、ここでも水飛沫は激しい。すぐにレンズに飛沫が着くので写し難くて参った。
 展望所に行き着くと10時半だった。駐車場はここからエレベーターを上れば直ぐなので多少時間に余裕がある。展望台の売店を覗いてみたが特に買いたい物はない。
 エレベーターで上った所にも土産物店と展望所がある。ここで滝の写真を撮った後、その売店で絵葉書を買う。観光地だから高いと思っていたところ、以外にも0.50レアルと安かった。リオ辺りではずっと1.00レアルだったから半額だ。
 再び車に乗り、今度はアルゼンチン側に向かう。イグアス川を挟んで、ブラジル側とアルゼンチン側を結ぶポンテ・タンクロード橋の完成によって午前と午後にわたってアルゼンチン、ブラジル両サイドからの滝観光が容易になった。ここでは途中、国境を通るのでそれぞれイミグレーションがあり、出入国手続をしなければならないのでなにかと面倒が多い。当然パスポートが必要だ。
 12時頃入口に到着。4時にここで落合う約束で入園する。入口で中の案内を受けて歩き出したが結構遠い。太陽の強い日差しが遠慮なく照り付ける。ようやく小型電車乗場に着いた。そこから1qほど乗って行く。降りたところから木立の中の遊歩道を歩き始めるが遠い。かなり歩いた末にようやく幾つもの滝を見渡せるイグアス川の川岸に出る。ブラジル側に比べたらスケールは小さいようだ。
サン・マルティン島では滝の群れを見渡す/写真転載不可・なかむらみちお 色鮮やかな蝶が群れを成して乱舞/写真転載不可・なかむらみちお  川の真ん中に浮かぶサン・マルティン島に渡る無料の渡し舟までは階段をかなり降りなければならない。船で向こう岸に渡ってから又急な階段を登って行く。暑さと疲れで登るのが大変苦しい。島の頂上からは滝の群れを見渡すようになっているが、先にブラジル側を見てしまうと余り感動しない。先ほど降りた船着場で元来た対岸へ渡る渡し舟を待っていると、色鮮やかな蝶が群れを成して乱舞していた。偶々居合わせた母子連れの少女の回りにまとわり付いて肩や腕に止る蝶もいた。ブラジル側を含めてイグアス周辺は蝶の宝庫で、500種類もの蝶が見られるという。再び来た道を戻るが、川を渡ってからの登り道が大変だ。ようやく売店の所まで辿り着いて冷えたビールを飲んだ。美味い!
 アルゼンチン側から見るイグアスの滝のハイライトは、なんといっても「悪魔ののど笛」の眺望にある。シェラトン・イグアス・リゾートホテルから川沿いをバスで約3q、パソカノアの船着き場まで行き、ボートで川を渡り、さらに歩道橋を200m歩くと展望台に着く。そこが滝の落下地点で、ここから見る「悪魔ののど笛」はまさに圧巻。大量の水飛沫のために滝壺が見えない。その流れの迫力、そして轟音に息を呑む。ちなみにこのクライマックスの滝の落差は平均72m、最大82mに及び、大自然の巨大さをまぎまぎと見せつけられる。この景観はやはりアルゼンチン側でないと見ることができない。
 炎天下、再び出入口の方へ向かって歩き出す。このまま帰ると上手くすると約束の4時よりも1時間早く、3時頃帰り着けそうだ。ようやく入口に着いたら3時を少し廻っていた。車が直ぐ寄って来た。それに乗ってホテルへ向かう。途中、スーパーで水を買おうと思ったが、今日は日曜日なので店は休みだと言う。ガッカリ。
 ホテルに着いてから昨日と今日、それに明朝空港まで送ってもらう分を含めて110US$をホテルに支払った。その後街へ出て水を探したがなかなか見当たらない。ようやく露店のようなところで買ったが高かった。ホテルに帰り、昨日買って冷やして置いたビールを一気に飲む。

   4月8日(月)曇り Foz_do_Iguacr 13:20-(MJ3293)15:15 Buenos_Aires
 朝6時起床。東の窓からは今しも太陽が昇る直前で、地平線近くが紅く染まっている。しかし、昨日の快晴とは違って薄雲がかかっている。洗顔し、身だしなみを整え、荷物を纏め、忘れ物が無いかをチェックする。その後、Nさん宛に葉書を書く。
 イグアスにはイグアス川を挟んでブラジル側(フォス・ド・イグアス国際空港)とアルゼンチン側(プエルト・イグアス)に空港が二つある。サン・パウロからここに来た時にはブラジル側の空港(Aeroporto Internacional de Foz do Iguacu)に到着したが、今日はホテルの車をチャーターしてブラジルの出入国管理事務所で出国手続をして、アルゼンチンの出入国事務所で入国手続をしてアルゼンチン側の空港(Aeropuerto Internacional)からブエノスアイレスへ向かわなければならないので面倒だ。その分、時間も掛るはずだ。13時20分発の飛行機に乗るのだが、ホテルに居ても落ち着かないし、見る所もないので8時半にホテルを出発する約束をした。
 7時過ぎ食事に行く。食事は今迄と同じパンやチーズ、ハムなどのバイキング方式。昨日は日曜日で水を買い損なったので空いた小型ペットボトルを持って行って食堂の水を失敬してくることにする。
 フロントにセーフティー・ボックスの鍵を返却する。その時、ホテルのキーはと訊かれたがキーは未だ使うと答えたのだが話が通じない。
 今朝、ねざめに家に葉書を出すのを忘れていたことを思い出した。ここから滝の雄大な写真の絵葉書を出したい。食事の後、ホテルを出て絵葉書を売っている店を探しまわった。未だ、早朝なので店が所々しか開いていない。2〜300mほど行ってようやく絵葉書を売っている店を見つけ出して滝の写真の絵葉書を買ってきた。
 ホテルに戻ると、今日アルゼンチン側の空港まで送ってくれるガイドが来ていた。先ず、挨拶をする。そしてこれから葉書を一枚書いてくるからと告げると切手はあそこに売っているとホテル内のお土産屋を案内してくれた。出入国用の書類を作るからと言ってパスポートを預けさせられた。
 部屋に帰り、大急ぎで家への葉書を書くとやがて時間がきた。電話のベルが鳴った。出てみるとガイドだった。特に時間を守るほどの日程ではないのに電話を掛けてくるなんて律儀なガイドだ。厳めしい顔をしているが笑顔は馴染める。きっと真面目な人なのだろう。
 荷物を持ち、フロントへ降り、チェックアウト。セーフティー・ボックスの使用料2jを支払う。先ほどの売店で切手を買うと店員が葉書に貼ってくれた。その葉書をガイドがホテルの前のポストに投函してくれた。フロントに戻るとすでに荷物が車に積み込まれていた。いざ出発。昨日までのあの強烈な日差しの太陽は薄曇の陰で嘘のように柔らかかった。
 車は昨日アルゼンチン側の滝へ行った時の道をひた走りに走る。途中でガイドがアルゼンチン側の空港で良いんだねと念押ししてきたので航空券を見せると納得した。パスポートも確認した。先ず、ブラジル側の国境で出国手続。その後、ポンテ・タンクロード橋を渡って越境。アルゼンチン側の出入国事務所でスタンプ代2j、税金8jを支払い無事通過。面倒な手続は全部ガイドがしてくれた。やがてアルゼンチン側のプエルト・イグアス空港に着いた。ガイドとの別れ際に、帰りに空港を出る時に空港使用税を支払わなければならないからと7j要求されたが、小さいドル紙幣しか持ち合わせがなく、二人とも困ってしまった。仕方なく5j紙幣にブラジルの札1枚と残り小銭を洗いざらい差し出して負けてもらった。全部で幾ら支払ったのか分らない。
 空港の中はガランとしており、店もまだ開いていなかった。航空会社のチェックインカウンター前の椅子に腰を降ろしてガイドブックを開き、ブエノスアイレスのページに目を通す。
 やがてひとり二人と客が集り、売店も開き、ガードマンが巡回し始めた。1時半頃ようやくチェックインして二階の出発ロビーに向かう。そこのゲートで更に待たされた。又今日も飛行機が遅れるのだろうか。
 12時半頃荷物検査を済ませて中に入る。ブレエノスアイレスからの飛行機が定刻通りに到着した。出発もこの調子なら定刻だろう。いよいよ搭乗開始。腹が減ってきた。ブエノスアイレスまでは2時間掛るから、きっと機内食が出るはずと思って昼食を食べていない。
 飛行機は定刻に出発。やがて雲の中に入った。折角窓側の席を取ったのに何も見えない。ベルト着用のサインが消え、飲み物を持ってきた。ワインを要求したが積んでないと言う。いやな予感がした。ひょっとすると機内食は出ないのではないだろうか。
 2時間近く飛んでブエノスアイレスが近くなり、高度が下がりつつあるのが分かる。遂に食事は出なかった。
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Argentine(アルゼンチン)

官能的なタンゴショー/写真転載不可・なかむらみちお


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     Buenos_Aires(ブエノスアイレス)
 空港を出てタクシーを拾う。タクシーなんて贅沢なのでいやなのだが、東京の旅行会社のYさんが物騒なので少しお金が掛ってもホテルまではタクシーで行って下さい。そんなに遠い所ではありませんから、と言われていたので仕方なくタクシーに乗る。乗る前に運転手に凡その値段を尋ね、メーターがあるのを確認して乗った。
 タクシーに乗ってから一寸失礼して、こんな事もあろうかと思って今朝ホテルの食堂からパン2個を持ってきたのを齧り始めた。タクシーは高速道路を通り、思ったよりも早くモンセラート地区のセントロにあるホテルに無事着いた。20j紙幣を渡したところ運転手は機嫌よく受け取ってくれた。ガイドブックには30〜40ドルと書いてあり、古い資料なので40j位かなと思っていたのだが20jでOKだったので少し意外だった。あれで良かったのだろうか。
アルゼンチン  グランホテルアルヘンティーノに着いてチェックインを済ませ、部屋に入る。ホテルは全体に古く、部屋は簡素だ。少し薄暗い感じだが悪くはない。嬉しいことに風呂があった。但し、エアコン付だが冷蔵庫がない。世界一幅の広い通り、7月9日大通りに面しているので便利だ。英語はあまり通じない。早速セーフティ・ボックスにお金などを入れ、Tシャツに着替える。近くのスーパーで水とビール、それに魚の揚物とパンを買ってくる。
 日本からいえば地球の反対側、そして南米大陸で一番南に位置するアルゼンチンは、縦に走るアンデス山脈の東側を南北に3800q、日本の8倍の面積を持つ細長い国である。
 このビッグカントリーには、首都のブエノスアイレスを中心に北に世界最大のイグアスの滝、西にアルゼンチン・ワインの古里メンドーサ、南へ海浜リゾートのマルデルプラタ、アンデス山岳リゾート、バリローチェ。更に南のパタゴニア地方には象アザラシ、ペンギンといった動物たちの楽園バルデス半島、創成期の地球を思わせるペリト・モレノ氷河のあるロス・グラシアレス国立公園、地球最南端のまちスワイアなどがある。そして独特の哀愁を帯びたアルゼンチンタンゴの調べやガウチョの歌う素朴な民謡などは、この国の大きな魅力である。
 アルゼンチンの首都「ブエノスアイレス」は、スペイン語で“よい空気”を意味している。遠くブラジルに源を発するパラナ川が、ラ・プラタ川となって大西洋に注ぐところから240q内陸に位置し、何もなかった大草原に手が加えられてから四世紀半。ヨーロッパからの移民が築いた町は、近代的なその街並みから南米のパリとも呼ばれるシックな大都市となった。現在アルゼンチンの新通貨はペソ。経済が破たんし、最近では銀行の店頭が質店の様相を示し、地方債の名目でいわば私製の通貨が横行しているという。公用語はスペイン語。日本との時差はマイナス12時間。かつてペロンという政治家を生み、その妻のエビータの人生はさまざまな物語にもなった。
辻々には女のお巡りさんが警戒している/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルを出て、先ずブエノスアレスはここから始まったといわれるモンセラート地区のセントロにある5月広場に向かう。ここが街の中心になる。街は縦・横とも100m単位で碁盤の目のように整然と区画され、所番地もそれぞれの区画ごとに1〜100で表示されていて、道路にもすべて名が付けられている。そしてブロックとブロックの角には交差する道路名と番号が記された標識があるので、初めて訪れる観光客も道に迷うことはない上、大通りを除けばすべて車は一方通行なので安心して歩くことが出来る。
ピンクの家大統領府/写真転載不可・なかむらみちお  観光起点となる5月広場の東側にある大統領府は、建物の外装がピンクであることから″Casa_Rosada″(ピンクの家)と呼ばれて名所の一つになっている。
 アルゼンチン独立記念日に因んで名付けられた7月9日通り“Ave.Nueve de Julio”は、市の中央を南北に貫く幅144mの世界一広い大通りで、東西に走るコリエンテス大通りとの交差点には高さ67mのオベリスクが聳えている。これはブエノスアイレス市の設立400年を記念して1936年に建てられたもので、市のシンボルにもなっている。街には前述の5月広場をはじめ、サンマルチン、ラバジエ、イタリア、フランス、国会議事堂前広場など各所に広場があって、緑のオアシスとして市民の憩いの場所になっている。
 もう5時を廻っていた。地図を見るとこの近くに中央郵便局がある。それらしいところに行ったが分からない。近くのビルの守衛に訊いたが言葉が通じなくて分ない。彼は私の持っていた地図を覗いて見て、道路の向こうのビルを指差したが、どうも違うと思う。近くを通りかかった人に尋ねるとその手前の大きなビルを教えてくれた。看板らしいものもなく、あまりそれらしい感じではないが入ってみる事にする。
 一般客が出入りしているので入るのには問題ないようだ。入って見ると矢張り郵便局だった。窓口で尋ねると切手売場は向こうのほうだと教えてくれた。そこで日本に送る絵葉書のための切手を買う。
 郵便局を出てホテルへと向かう。途中、世界でも有名なネオ・クラシック様式の大聖堂に立ち寄る。12人の使徒を表す12本の柱、その上のモチーフを見てから中に入る。外見はたいしたことはないが、中は広い。ミサが行われていた。正面右側に赤々と燃える炎は、1827年の完成当時から現在に至るまで絶えることなく燃え続けてきたものとのこと。しかし、どこの教会を見てもたいした興味が湧かないのでひと回りして出てきた。その後、一番目抜き通りにあるツーリストインフォメーションに寄ってみたが、6時までで閉まっていた。
 途中で絵葉書を一枚買ってホテルに帰り、外出する前に近くのスーパーから買ってきてレストランで冷やして置いてもらったビールを受け取り、部屋で食事を摂る。

   4月9日(火)小雨、後曇り Buenos_Aires
 6時起床。洗顔後、昨日の日記の続きを書く。7時過ぎ、ホテルのレストランで朝食。今迄よりも質素な食事内容だ。パンとミルク、コーヒー、果物くらいのもので、ハム、チーズがない。
 食事後、ホテルの前に出てみたら小雨が降っていた。フロントで立話をしたら今日、明日は雨と言う。カミニートへの行き方を尋ねたら10jで市内各所を車で廻ってくれると言うので頼むことにした。9時に迎えの車が来るということなので、それまでに身支度をして9時少し前にフロントへ行く。
 フロントで待っていると9時少し過ぎに迎えの車が来た。マイクロバスには他に客は誰も乗っていなかった。まさか私一人ではないだろう。
 バスは各ホテルを廻り、客をピックアップする。大体満員になったところで他に既に待っていたマイクロバスに乗り換えて出発した。先ず、昨日到着したと同時に行って来た5月広場、大統領府を廻り、大聖堂付近で下車、大聖堂の中を見る。その後、サンテルモ地区に廻り、「タンゴが生まれた頃の街並みが在る」と言われるドレーゴ広場付近を通ってボカ地区のカミニートに着く。ここで下車して見て廻る。
アルゼンチン・タンゴの故郷カミニート/写真転載不可・なかむらみちお  タンゴの名曲“カミニート(小路)”があるボカ。アルゼンチン・タンゴの故郷が、この古い港町ボカ地区だ。ここには、タンゴ愛好家ならずとも旅情をそそられる独特の雰囲気がある。この辺りの酒場に集まった船乗りたちが口ずさんだタンゴのメロディーが、アルゼンチン・タンゴとして世界へ流れていったのだそうだ。
 この地区は以前イタリアからの貧しい移民たちが住み着いた場所で、アルゼンチン・タンゴの名曲「カミニート=小路」にちなんで名付けられた。100mほどの路地に並ぶ家々は、赤、黄、緑などのけばけばしいペンキで塗られているが、これはかつてここに住み付いた船員たちが、船を塗ったペンキの残りを使ったのが始まりといわれている。
 ヨーロッパからの船はすべてこの港に停泊し、夢を求めてやってきた移民を港に落としていった。当時のボカには造船工場や賭場があり、労働者や船乗りなど、大勢の人で溢れていた。そんな男達を相手にする安酒場やバーもこの辺りに密集していた。あの官能的なタンゴのステップはそんな暗いバーの片隅から生まれた。かつてはにぎわったであろうこのボカの港も現在ではその機能を失い、崩れかけた突堤につながれた小船が4、5隻、赤く錆びたまま放置されているのがわずかに往時をしのばせる。そこには写真で見たのと同じ風景があった。
タンゴダンスのマグネット/写真転載不可・なかむらみちお  今まで使っていたコダックのフイルムから富士のフイルムに切り替えたが、気を付けていたのに感度を変更するのを忘れていた。気が付いた時には、ほとんど撮り終えていた。フイルムを交換して再度撮り直してからバスの方へ帰って来た。未だ時間があるというのでバスの停まっている前のお土産店を覗き、小物をひとつ購入する。
 時間がきたのでバスに乗り、出発する。その時、念の為にリックの中を見たらフイルムケースがない。掏られた覚えはない。それともお土産屋の前か。観光していた時に、カミニートの一番向こうの端でフイルムを交換した時に落としたのかもしれない。とにかく走り出したバスを停めてもらい、急いで走って一番向こうのフイルムを交換した碑のあるところまで行った。碑の所まで行ってみると、わたしの黄色のフイルムケースが碑の台座の上にあった。このフイルムにはイグアスの滝で写した最後の写真も入っている。とにかく有って良かった。急いでバスに駆け戻り、同乗の皆さんにお詫びする。思いかけずも、バスの同乗者から拍手が起こった。目立ちたくないと思っていたのにこの事件で一気に車中の“人気者?”になってしまった。その後は謹慎してなるべく目立たないように気を付けた。
イタリア・ミラノ座に次ぐ世界第二のコロン劇場/写真転載不可・なかむらみちお  パレルモ地区では自由散策の時間があり、エビータ博物館や、日本庭園、2月3日公園(パレルモ公園)などを見てきた。バスはイタリア・ミラノ座に次ぐ世界第二の大きさで、フランス・パリのオペラ座と合せて世界三大劇場とされているコロン劇場など市内各所の主な名所をめぐって1時半頃ホテルまで送ってくれた。
 ホテルに帰ってから先ず近くのスーパーに行き、夕食のパンとアルゼンチンのワイン、ハムを買い、部屋で昨日買って冷やして置いたビールを飲む。その後セーフティー・ボックスからパスポートを出し、ホテルのフロントと明日の出発予定を打ち合わせする。
 いろいろと荷物の後片付けをしていたら5時半になったので、ワインとハムとパンで夕食を済ませた後風呂に入る。
 現地旅行社のHさんから電話が入る。今夜見に行くタンゴショーのバウチャの確認であった。ついでに明朝の出発に付いて打ち合わせをすると、ホテルの時間では飛行機の出発時間には遅いとのことで出発時間を早めるようにフロントに伝えてくれる約束をした。
 ブエノスアイレスの夜は、バー、ディスコ、キャバレー、ナイトクラブなど結構あるようだが、言葉の問題もあって上手に遊ぶのはむずかしい。ここではやはり本家本元のタンゴを聞くのが一番良い。
 8時前にロビーに行き、今夜のタンゴショーへ行くためのお迎えの車を待つ。8時少し前、頭を丸狩りにした海坊主のような大きな男が迎えに来た。マイクロバスに案内されると未だ誰も乗っていなかった。それから市内のホテルを廻り、満員の客を乗せて9時前にタンゲリーア「Senor_Tango」に着く。ここは1400席の規模と雰囲気のゴージャスさですでにナンバーワンの呼び声の高い人気の店。約100年前の大きな雑貨店だった建物を改装したとかで、1〜3階まで中央の円形舞台をぐるりと取り囲んで客席が設けられ、どこからでも良く見える造りになっている。
ティント“Tinto”と呼ばれる赤ワイン/写真転載不可・なかむらみちお  われわれ日本人組みは二階のステージに一番近い丸テーブルを囲んだ席だった。同行の客の中には乳房を大きく開いた服を着ている女性も居て、それが色っぽい視線を送ってくる。どうやら私が一番色男に見られたらしい。
 先ず、ティント“Tinto”と呼ばれる赤ワインが出てきた。アルゼンチン・ワインはその全量が有名なメンドーサ産で味は抜群。生産量は世界五位。アンデス山脈の東の麓にブドウ畑が広がっている。太平洋からの湿気をアンデス山脈が遮るため、湿度が低く雨も非常に少なく、昼夜の温度差が大きい乾燥地帯だからブドウが腐敗する心配がなく、しっかり完熟できる。
 この後ビーフの焼肉が出たが、来る前にホテルで少し食べて来たのであまり食べられない。この国の牛の数は人口の2倍。ブエノスアイレスで処理される牛は少ない日でも1日1万5千頭といわれている。最後にデザートのアイスクリームが出た。例の乳房の女性に名前を訊かれ、カードに記入させられた。後で連絡でも来るのかな?ほのかに期待する。
バンドネオンの甘いリズムにのせて官能的でノスタルジックな気分を掻き立たせる/写真転載不可・なかむらみちお  ショーは10時半頃始まった。ホールの中央に設けられた舞台には、セットとして街灯が一本だけある。どこぞの港町の街角を思わせるその場で、男たちが美女をめぐって争うさまが舞踏になるのである。鳴り響くバンドネオンの調べの中で、まるで歌舞伎を見るように、ダンスの「見栄(みえ)」が決まると、背筋がぞくりとする。ストーリーはきわめてわかりやすい。強い男。美しい女。ひきょう者の悪役は敗れていく。
 ステージのバックの雛壇には楽団が控え、バンドネオンを中心に官能的で甘いリズムを演奏する。その音楽に合わせてダンサーが一組みずつ、或いは四組が出てステージで踊る。踊りと踊りの合間には音楽だけの時もある。ラテン系民族の気質を反映した歯切れのよいバンドネオンの響きは、ノスタルジックな気分を掻き立たせるには十分だ。
 リオでサンバショーを見てきたせいか少しのんびりと間延びしているような感じを受けた。タンゴはどれを聴いても同じようで少々飽きてきた。
 19世紀後半、ブエノスアイレス唯一の港町だったボカには、ヨーロッパ及び中南米諸国から多彩な文化や風習がもたらされた。音楽も、ヨーロッパからワルツやポルカ、キューバからはハバネラ、そしてウルグアイからカンドンベがもたらされ、複数の民俗音楽が融合しタンゴが生まれた。タンゴは労働者たちの哀歌であった。
 ショーは華麗なタンゴダンスの他、歌手の独唱やフォルクローレなど多彩な内容。ブエノスアイレス独特の洗練と荒々しさが交錯するステージだ。間近で見るプロのダンサーたちの一糸乱れぬ足さばきは、まるでアートを観ているかのように美しい。独特のあの足捌きは見事だ。一体あのステップの約束事はどうなっているのだろうかと一生懸命に見たがどうも良く分らない。それにしても少し下品なポーズのようにも見えるが、いかがなものなのだろうか。最後に出演者全員がステージに立ち、♪「アルゼンチン!」、「アルゼンチン!」とアルゼンチンを賛歌する歌を堂々と歌ってお開きとなった。
 男が男らしく、女が女らしく、そしてまことに誇り高い。すべてに劇的を好むかの国の人々は、いま経済的に国際社会の監視の下にあって、どんな屈辱を味わっているのだろう。いや、あるいはそれでも頭(こうべ)をたかだかと上げている彼らの姿が、私には見える。
合成写真/写真転載不可・なかむらみちお  ブラジルでサンバショーを観た時にも最後には出演者全員がステージに立ち、♪「ブラジル」、「ブラジル」とブラジルを讃える唄を堂々と賛歌した。ハワイでアリゾナ記念館を見に行った時、水兵が国旗掲揚を凛として行ったり、女の水兵が観光客を運ぶ船を機敏に操縦しているところなどを見ると、彼等は強い愛国心と国家に対しての誇りを持って生きて居るように見えた。だから五輪やサッカーなどでも自国のチームを熱狂して応援するのではないだろうか。果たして日本人がこれほどの愛国心を発揮することがあるだろうか。又、これほど誇りを持って自国を賛歌する歌を白けないで歌うことが出来るだろうか。考えて見れば、そんな歌自体が日本に存在しない気がする。誰か力のある作曲家が一度考えて作って貰いたいものだが、そんな歌を愛するような感性が日本人にはないのかも知れない。残念なことだ。出来れば考えてもらいたい。
 見終わって、日付が変わった街に出ると、切ないような、それでいて燃えるような不思議な興奮が身体の中に沸き上がる。ショーは12時過ぎに終り、ホテルに帰ったら12時半頃だった。

   4月10日(水)薄日 Buenos_Aires 07:00-(TA022)09:45 Lima
 今日はブエノスアイレス空港発7時の飛行機に乗るために午前3時にはホテルを出発しなければならない。顔を洗ったりする時間を含めると午前2時半起きだ。昨夜タンゴショーから帰って来たのが12時半頃だったので2時間位しか寝る時間がなかった。
 午前3時少し前、フロントに降りて行く。レセプションに空港までのタクシー代25jを支払わなければならない。実は昨日支払おうとしたら100j紙幣しか持ち合わせが無く、ホテル側にもお釣りがなかった。銀行で両替すればよいのだが、なぜかブエノスの銀行前には客がどこも長い行列を作っているので相当時間が掛りそうなので両替しなかった。ホテル側と押し問答の末、遂に押し切り、持っていただけの15jで相手が妥協してくれた。商談成立、財布に在るだけの15jを支払ってホテルを出発。
 待っていたタクシーは初老の運転手だった。一路空港へ。夜のブエノスアイレスの街から高速道路を走る。途中高速道路の通行料を支払わなければならない。又、空港に入る時も料金が必要だ。ドル紙幣は大きいのしか持っていないからどうしよう。100ドル紙幣を出しても運転手は釣銭は持っていないだろうし、困った。空港に着いて下車したところで思い切って持っていたアルゼンチン紙幣5ペソ(為替レートUS$1=アルゼンチン・ペソ3.1)を出したらそれでOKだった。ほっとした。尚、手元には未だ2ペソ紙幣が残った。アルゼンチンは長らくペソとドルとの交換レートを1対1に固定する兌換政策がとられていたが、2001年末に破綻し、2002年より変動相場制となった。
 空港でチェックインカウンターは直ぐに見付かった。客は他に未だ誰もいなかった。しばらく待ってチェックインが始まった。荷物のチェックが厳しい。女性の係員がゴムの手袋を履き、検閲台の上に荷物を乗せさせて中を開け、荷物の中を全部点検する。それからようやくチェックイン。ここでもスペイン語で質問されるが全く分らない。辛うじて英語の片言でパス。ゲートの方に行って残りのアルゼンチンの紙幣2ペソをドルに両替する。ゲートでも又機内持ち込み荷物の検査があった。矢張り先ほどと同様にゴムの手袋を履いた女性の係員が荷物を一個毎に開けさせて中身を検査した。無事通過。搭乗時間になって機内に乗り込む。外ではようやく夜が明け初めてきた。
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Peru(ペルー)

インカ時代の失われた過去が、手つかずに残されているマチュピチュ/写真転載不可・なかむらみちお


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     Lima(リマ)
 リマまでは約5時間近くの飛行で無事到着した。ここからホテルまで行くのが大変だ。調べた結果安い市内タクシーと空港タクシーがあるらしい。市内タクシーよりも空港タクシーの方が少し値段が高いが安全らしい。
 荷物を受け取って出ようとするとタクシーの運転手の客引きが激しい。出口近くに空港タクシーらしい受付カウンターが在り、客引きをしていた。その内のひとつにあたってみた。もう1ヶ所にも当って見ると、どちらも同じだったので最初の客引きの方に決めた。するとそのボックスの後からまるで裏口入学のように空港を抜け出し、駐車場へと案内され、車に乗せられた。
 一路新市街のミラフローレス地区にあるホテルへ。運転手が何かと英語で話し掛けてくる。車がトヨタコロナで新車。これが大変ご自慢らしい。サービスの積りか海岸沿いの道を走ってくれた。運転手は「美しい海岸だ」、「海水浴も良い」と盛んに自慢する。
 南米大陸の太平洋岸の中心となるのが、人口約774万人を擁するペリーの首都リマ。ペルーの人口の約3分の1が生活する。ここは、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロやサン・パウロと並ぶ、南米のゲートウェイだ。毎日アメリカやカナダ、ヨーロッパから何十便もの飛行機が、ホルヘ・チャベス空港に到着する。今なお17世紀のコロニアル時代の繁栄の様子を色濃く残すリマの旧市街は、世界文化遺産にも登録され、古き良き時代へと旅人を誘う。しかし、かつては旧市街がリマの中心だったが、近年は治安の悪さなどからオフィスが集る中心地は新市街に移っている。
 やがて車はミラフローレス地区の中心地にあるスイーツ・エウカリプトゥスホテルの前に着いた。平屋の民家のようだ。地域としては便利のいいオスタルだ。入口には頑丈な鉄格子が掛っている。閉まっているのかなと思ったら、その脇に小窓があり、中にいる人に合図すると開けてくれた。
 チェックインして部屋に通される。なんとその部屋はモロッコの時のように窓のない穴倉のような部屋で妙に変な匂いがする。内装はコロニアル風、広めの部屋なのでゆっくりと過ごすことが出来る。
ペルー  先ずTシャツに着替えて外出の用意をする。フロントに行き、スーパーマーケットの場所を尋ねると角を曲がって4ブロックほど行った所にあるという。行って見ると日本と同じようなスーパーだった。ここで差し当たりの食料と缶ビールを買い込んでホテルに戻る。
 リマでは特に見たいというほどの所はないが、時間が余って勿体無いしそれにこの何とも言えない臭いのする部屋に閉じ篭っているのも憂鬱だ。寝不足でボーッとしているが近くのどこかを見に行くことにする。ガイドブックを開いて一番近くで歩いて行ける天野博物館に行くことにする。ホテルを出てガイドブックの地図を頼りに天野博物館に向かって歩き始めた。
 ここのタクシーは変わっている。普通の乗用車のフロントに紙に「TAXI」と書いた紙を張り出しただけで、やたらに警笛を鳴らしたり、しつこく声を掛けてくる。中には屋根に行灯を付けた車もあるが数は少ない。その他にマイクロバスも走っている。これが又凄まじい。次ぎから次ぎへとやって来ては車の入口近くの窓から身を乗り出した男が声を大にして客引きをしている。勿論、スペイン語だから何と言っているのか分からないので利用のしようがない。それに料金は総て交渉次第ときているから尚更利用し難い。結局歩くしかない。
 何度か途中で天野博物館の場所を尋ねたが知っている人がいない。ようやく一人の男が住所を頼りに資料で調べてくれた。それでようやく大体の場所が分り、又歩き始めた。暑さと寝不足でフラフラ。もう限界に近い。
 近代的な住宅街の一角にひとりの夫人がコンクリートの台に腰掛けていた。近付くとこちらがまだ何も尋ねない内に近くの一軒の三階建ての建物を指差してあれが天野博物館だよと教えてくれた。天野博物館かと確認すると、そうだと言う。行ってみるとここも入口には鉄の格子戸が閉まっていた。
 ここの博物館は予約制で、ホテルから電話した時には4時半を指定されたが3時には着いてしまった。あたりは住宅街でなにも無い。腰を降ろすベンチも無い。先ほどのご婦人がベルを押せと言っているが約束の時間には早過ぎるのでためらう。しかたが無いので少し回りをうろついてみる。なんだか少し寒くなってきた。もうこれ以上待てない心境だ。このまま帰ろうかとも思ったが、約束したいじょうはそうもいかない。時間制なら一応お断りを入れて帰る事にしようと思い、思い切ってブザーを鳴らしてみた。女性が出てきて中に入れてくれた。建物の中に入ると、別の日本人女性が出てきた。先ほど電話で予約の時応対してくれた女性らしい。事情を話すと折角だからそれじゃ簡単にご案内しますということで、お言葉に甘えて中を見せて貰う事にした。
 天野博物館はリマ名誉市民にも選ばれた故天野芳太郎氏が長年にわたって研究し、収集した土器、織物などを展示する博物館で1964年に設立された。館内には二つの展示室があり、プレ・インカ、インカ各文化の土器類を系統だてて展示している。なかでも圧倒的に多いのがチャンカイ文化のものだ。
 天野氏はチャンカイ文化の研究者として有名であり、チャンカイ文化の土器の数は、個人のコレクションとしてはペルー最大である。収蔵点数は3万点以上のうち、展示してあるのは300点というから、それでもほんの一部に過ぎない。二階の最初の部屋には、各文化の代表的な土器が並べられ、解説もしっかりされている。更に、実際に発掘や調査に関わっている博物館員の話は簡潔で分りやすい。
 隣の部屋には、最も力を注いでいるチャンカイ文化の織物が展示されている。数ある引き出しの中は、すべて織物。毛糸、木綿を使った織物や編み物、レース編みなどが集められている。織り方が素晴らしいだけでなく、デザイン性も豊か。色鮮やかなこれらの織物は保存状態も良く、月日の流れを感じさせない。又、部屋を囲むガラスケースには、インカの羽織やポンチョ、織物の道具も展示されている。彼女は一点一点手に取り、又引き出しを開けて見せてくれた。
 そこを丁重に挨拶して出て来てから又ホテルへと歩いて向かった。今度はストレートに帰ることが出来た。ホテルに帰ってからスーパーで買ってきた食料で夕食を済ませ、シャワーを浴びる。18日にプーノから帰って来た時も、また22日の最後に日本へ帰る時にもこのホテルにあと三泊しなければならないかと思うと気が滅入る。

   4月11日(木)晴後曇り Lima 06:00-(LP025)07:15 Cuzco
 今日はリマからクスコに移動する。空港へ送ってくれる迎えの車が4時に来ることになっているので3時半に起きる。
 出発の支度をしていると5分前に電話が鳴った。ロビーに出てみるとワゴン車が迎えに来ていた。私が乗った車は未だ夜の明け切らないリマの街中を空港へと向かう。今日の飛行場は昨日の国際空港と違って国内便用なので昨日よりも近いところにある。
 送って来てくれた運転手にはチェックインの手続や空港税の支払いをしてもらい、その後ゲートまで見送ってもらった。
 飛行機は定刻に出た。乗客は少ない。客席の五分の1くらいしか乗っていない。夜が明けてきてアンデスの山並が時折雲の合間から見え隠れする。高い山は雪に覆われている。
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        Cuzco(クスコ)
 アンデスの山並をひとっ飛びに越え、やがて飛行機はクスコ空港に着いた。荷物受取場の近くで早速クスコの民俗音楽を奏でる一団が民族衣装を着てフォクローレを演奏していた。歓迎のセレモニーかと思ったらCDを売るためらしい。
フォルクローレの演奏/写真転載不可・なかむらみちお  ゲートを出ると迎えのエージェンシーが来ていた。ペルーの空港とかバスターミナルなどでは悪質なタクシーの客引きが大勢呼び掛けており、不慣れな旅行者は被害に遭うことが多いということなので、予め地元の旅行会社に手配をしておいた。迎えのマイクロバスに乗せられてロス・ポルタレスホテルへ行く。今日のホテルはまぁまぁだ。
 チェックインを済ませた後、ロビーでエーゼェンシーからこれからの予定を説明してもらう。その後、ロビーの隣の食堂でコカティーを飲む。これを飲めば高山病にも掛り難くなると言うのでお代わりして二杯も飲んだ。その後部屋に通された。ここは標高が3360mなので矢張り少し息苦しい。それでも日本の富士山の3776mやスイスのユングフラウヨッホの3454mよりも低い。
 部屋にはベッドが二つあり、窓もあったので気持がいい。洗面所にタオルが無いのは不思議だ。荷物を広げ、外出の準備をする。旅行社からは着いた日は高度に順応するために部屋で本でも読んでいて下さい。外出は控えたほうが良いと言われたのだが天気がいいのでぶらりと出てみる。
クスコの街角で/写真転載不可・なかむらみちお  高山病にならないようにゆっくりと歩くが矢張り上り坂になると少々息切れがする。先ず、市内の中心地であるアルマス広場に行ってみる。通り掛りの所々の店からは“♪コンドルは飛んで行く”のメロディーが流れてくる。アルマス広場に面して建つカテドラル付近はレストラン、旅行会社、お土産屋が並ぶ観光の拠点である。相変わらず絵葉書売りと靴磨きの少年がうるさく付き纏う。広場からカテドラルの写真を撮っていたら絵葉書売りの少年が来て側から離れない。ようやく警察官が追い払ってくれた。
 インカの都、クスコ。世界遺産都市。昔ここはインカ帝国の首都だった。「クスコ」とはケチュア語で“ヘソ”を意味する。太陽神を崇拝し、大インカ帝国を築いた人々にとってクスコは世界の、そして彼らの宇宙観の中心であった。
物売りの女性/写真転載不可・なかむらみちお  16世紀、スペイン人の征服者により、インカは山奥へと追いやられた。代わってスペイン人達の造ったものは、インカの礎石の上に建つ教会や邸宅だった。この不思議なコントラストが、クスコを特別な町にしている。人口は30万2千人。市内や近郊にはインカ時代の遺跡や植民地期の建造物が多く、国際的観光都市となっている。
 アルマス広場に面したカテドラルは、インカ時代のビラコチャ神殿の跡に100年がかりで建てられたもの。そのカテドラルの前の階段には色々な人が腰を下ろしていた。拡声装置を設置している人もいた。カテドラルの横を通って12角の石を見に行ったが、見当たらない。サン・プラス教会近くの比較的急な上り坂がきつかった。あまり無理すると高山病になると困るのでゆっくりと登る。その坂を登り積めた所にサン・プラス教会があった。その前にいた警察官に尋ねたら今来た道を二ブロック降りて行けと言われた。
12角の石。接着部には剃刀の刃1枚すら通さない/写真転載不可・なかむらみちお インカの精巧な石組みが並ぶアトゥン・ルミヨク通り/写真転載不可・なかむらみちお  今度は注意して見て行くと左手の壁に目指す12角の石があった。剃刀の刃1枚も通さない精巧な作りに感心する。ピッタリと寸分の隙も無く積み上げられている。接合材も使わず、何百年もの間ビクともせずにここにある。
 この石の意味に付いては様々な憶測が流れている。一説にはここにインカ・ロカの宮殿が建っていたことから、王の一族(12人の家族)を象徴しているのだと言う。1年の各月を表していると言う説もある。
 12角の石を撮ってから再びカテドラル前に来たらその前の階段は大勢の人で一杯だった。向こうからフォルクローレの音楽が聞こえて来て、踊りを踊っていた。何かパレードがあるらしい。階段に座っていた人たちはそれを見るために陣取っているらしい。
 カメラを構えて写そうとしたらフアインダーが暗い。どうやっても正常にならない。よく見たらバッテリーの入っているところの蓋が開いていつの間にかバッテリーが落ちて無くなっていた。困った。宿まで帰れば換わりの電池があるのだが、とても息切れして急いでは帰れない。時間も無い。已む無く先ほど見かけたカメラ店に行って新しい電池を買った。予想外の散財だ。それにしてもなぜ電池室の蓋が開いたのだろう。買ったばかりのカメラで未だ慣れていないせいかも知れない。
パレード/写真転載不可・なかむらみちお パレード/写真転載不可・なかむらみちお  ようやく新しい電池を買って戻って来たら、パレードは佳境に入っていた。早速何枚か写す。MDを持ってきていないのが悔やまれる。
 未だパレードは続いている。どうやら衣装も音楽も踊りも各グループに依って違うようなので、多分地方とか町内会毎に団体を組んでいるようだ。出来れば全部見たいが、あまり写しすぎると予備のフイルムを一本しか持ってこなかったので、後の観光名所が撮れなくなる。ほどほどにして次のサント・ドミンゴ教会に向かう。
 サント・ドミンゴ教会は、インカ時代に最も重要な建物であったコリカンチャと呼ばれる太陽の神殿であったものをスペイン征服者たちが破壊し、その土台の上に新しく教会を建てたものである。大地震で幾度となく崩れるが、インカ時代からの土台である石組みは今でも歪みひとつ起こしていない。
パレードを観るおばさん/写真転載不可・なかむらみちお  サント・ドミンゴ教会を撮り終えた後、スーパーで食糧を買ってからホテルに戻り、MDを用意する。それを持って再びカテドラル前に向かったが途中でこちらに向かってくるフォクローレの一団に出会った。急いで録音の用意をしようとしたらマイクを部屋の机の上に忘れて来た。全く今日はドジ続きだ。多分空気が薄いせいだろう。もう1度ホテルに戻り、マイクを持ってくる。パレードはかなり進んでいた。急いで録音を録る。その一団を見送ってからカテドラル前に行く。最後の一団が踊っていた。最後の曲を録音し終えたところでパレードは終りだった。
 2時を過ぎたのにまだ昼食を摂っていなかった。ガイドブックに載っていたレストランに向かう。たまにはペルーの名物料理でも食べなくては…。
 大体の見当を付けてそこで道に立っていた人にレストランの店を尋ねた。するとあそこだよと教えてくれたのでその方向に向かう。しばらく歩いていると、さっきの人が声を掛けながら追って来た。ここだよ。行き過ぎたよと言っている。教えられた所に行くとなるほどお目当ての店があった。看板が控えめなので見過ごしてしまった。

ペルーの名物料理クイとインカコーラ。歯を剥き出してこっちを見ている/写真転載不可・なかむらみちお  中に入るとかなり大きなレストランで客も沢山居た。ペルーの料理を食べようと思ってガイドブックを拡げ、それをウエーターに見せながら何があるかを訊いた。クイ(テンジクネズミ)があると言うのでどんなものか分らないがそれに決めた。店のメニューの中では一番高く、2,000ソル(為替レートUS$1=3.8ソル)だった。出て来た料理を見たら鼠の大きいような奴を腹の方から大の字に開いた物を焼いたものだ。顔が付いており、歯を剥き出してこっちを見ている。なんだか気持が悪いが意を決して挑戦する。あまり気持のよい食べ物ではない。鼠のような手も付いている。ペルー名物のインカ・コーラで流し込む。肉は少ししなしなしていて固い。悪戦苦闘して食べているうちに歯に被せていた金冠が取れてしまった。ようやく食べ終り、カードで支払おうとしたらダメとの事で現金で支払う。
クスコの女性/写真転載不可・なかむらみちお  レストランを出てホテルへ向かう。ホテルの近くに来てから明朝マチュピチュへ行くのはどうなっているのか思い出せない。若し自分で行くのなら未だ暗い早朝なので下調べをして置かなければ怖い。ホテルの近くで地図を見て、又今来た道を引き返した。裁判所の近くに来てからその先の道を調べたら、何と先ほどのホテルの所から90°直角に変わった道を行くのだった。それならこのままで来る必要は無かった。今日はどうかしている。多分空気が薄いので頭の回転が鈍いようだ。又ホテルの方へ戻り、その角からスーパーの前を通って行く。途中お巡りさんに一度道を訊く。
 ようやく明日マチュピチュへ行く時に乗るサン・ペドロ駅に辿り着いたが閉まっている。そしてその前で警察官が入口をガードしていた。その警察官に訊いたら切符は別の所にあるワンチャック駅のチケットオフイスか旅行会社で前日までに買うという。それじゃ明朝来ても駄目じゃないか。どうなっているのだろう。もう1度ホテルに戻り、今日旅行会社の人に説明を受けたメモを見ると、明朝迎えに来てくれることになっている。確かその時、列車の切符も持ってくると言っていたような気がする。しかし、日本で渡された予定表には自分で行くことになっている。この条件ではとても自分ひとりでは行けない。メモを信用して明朝を待つことにする。
 部屋にはシャワーもあるのだが、高山病を避けるために今夜はシャワーを浴びるのは止めた。酒も飲まない。先ほど買ってきたパンと水を呑みながら夕食とする。

   4月12日(金)雨、後晴れ、後曇り Cuzco 06:00-(列車)09:30 Aguaas_Calientes -(バス)10:00 Machupichu - Aguas_Calientes
 今日で丁度全工程の半分だ。今日は今回の旅行のハイライトであるマチュピチュへ行く日だ。午前4時半にモーニングコールが来ることになっているが、その少し前に目が醒めた。起きて顔を洗うがモーニングコールが来ない。セットして置いた目覚まし時計のブザーも聞こえなかった。
 全部出発の用意が整ったので一階のレストランに行ってみたが、未だ閉じたままだ。フロントマンは5時オープンだと言う。一旦部屋に戻ったが何もすることがない。再びロビーへ行ってレストランが開くのを待つ。5時丁度にレストランが開き、朝食を摂る。と、言ってもパンとコカティーだけの簡単なものだ。
 約束の5時半に迎えのガイドが来る。マチュピチュ行きのチケットを渡されて玄関前に停まっている車に乗り込む。雨が降ったらしく歩道が濡れている。
マチュピチュ行きのビスタドーム/写真転載不可・なかむらみちお  サン・ペドロ駅に着くと上部がガラス張りでパノラマ風景が楽しめる列車、ビスタドームが待機しており、これから乗り込む観光客が次々と車で到着する。そのワンランク下のプリメール・バックパッカーとセグント・パックパーカーなど、列車の種類によって運行時間、乗車料金が異なる。列車は指定席でDの1番だった。ガイドブックには行きは左側が良いと書いてあった。私の席は左側だった。私の後の席には四国高松から来たという若い日本の女性3人が乗って来た。日本語を話す現地ガイド付きだ。その女性達のひとりに声を掛けられ、ありきたりの会話を交わした。
オリャンタイタンポ駅での物売り/写真転載不可・なかむらみちお  高原列車は定刻6時に出発。スイッチバックで峠を越え、途中、オリャンタイタンポ駅で一時停車。走り出した列車の進行方向の左側にやがてアマゾン川となり、大西洋に注ぐウルバンバ川と段々畑を見ながらアンデス山間を縫うようにのんびりと走る。右側は切立った東アンデス山脈の峰々が万年雪を被っている。彼女たちはお喋りに余念がない。食べていたおやつの中から私にも日本から持ってきたお煎餅などをくれた。空気が薄いためにその煎餅のセロハンの包装がパンパンに膨れ上がっていた。途中で雨が降って来たのでガッカリしたが、直ぐに止んだ。
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        Aguas_Calientes(アグアス・カリエンテス)
 アグアス・カリエンテスに着いた時は快晴だった。列車を降りて駅へ行くと、今日泊るホテルのフロントマンが出迎えていてくれたので不要な手荷物と鞄を預けた。
 アグアス・カリエンテス駅の標高は約2000m。クスコより約1500m低い。アグアス・カリエンテス駅からは標高400mの斜面をバスで行く。
 駅を出て土産物屋が軒を連ねる通りを過ぎると、マチュピチュ行きのシャトルバスが何台も停まるバス乗場が在る。バスの脇にある小さなチケット売場で、マチュピチュまでのシャトルバスのチケット往復US$20を買う。シャトルバスはジグザクを13回折り返し九十九折に登って行く。約20分でホテルマチュピチュ・サンクチュアリ・ロッジが建つマチュピチュの入口に着く。
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        Machu_Picchu(マチュピチュ)
“失われた都市”マチュピチュ/写真転載不可・なかむらみちお  尖った絶壁の山々が聳えるウルバンバ渓谷の山あい、周囲の切立った山々に守られるかのように、ひっそりと時を刻んできたマチュピチュ。入口から崖に沿った道を200m程行くと、最初の住居跡に突き当る。目の前に突然、石の都市が現われる。標高2280mの山の頂上に“空中都市”あるいは“失われた都市”と呼ばれるマチュピチュ(老いた峰)がある。あたりは同じように尖った山々、周囲は断崖。遥か下を流れるウルバンバ川流域は熱帯雨林に覆われている。下からはその存在を確認出来ないことから“空中都市”とも呼ばれている。スペイン人から逃れるために、あるいは復讐の作戦を練るために、インカの人々が作った秘密都市だったとされている。
総面積5ku。その約半分の斜面には段々畑が広がる/写真転載不可・なかむらみちお 遺跡の周囲は高さ5m、厚さ1.8mの城壁で固められた要塞形式だ/写真転載不可・なかむらみちお  空中から見たマチュピチュは総面積5ku。その約半分の斜面には段々畑が広がり、西の市街区は神殿や宮殿、居住区などに分かれている。遺跡の周囲は高さ5m、厚さ1.8mの城壁で固められた要塞形式だ。スペイン人征服後、クスコやその他の町はことごとく破壊され、インカの建築様式を忠実に再現することは極めて困難である。周囲から隠れるように時を刻み続けた古代遺跡、マチュピチュはそんなインカ時代の失われた過去が、手つかずに残されている貴重な遺跡である。ここの高度は北海道の屋根、大雪山連峰の旭岳の高さ(2290m)とあまり変わらないのでここでは高山病の心配は無い。
 早速カメラを構えて撮影する。更に中央の階段を上りつめ、“墓地”の上方に上って行くと彼女達がいた。そこで改めてマチュピチュ全景を撮影する。朝方は光線の具合が良い。大体写し終った頃雲ってきた。
 みんなで記念写真などを撮影する。私はその後もそこでしばらくいろいろと撮影する。遥か彼方の空に一羽のコンドルが悠然と弧を描いている。何処からともなく“♪コンドルは飛んで行く”のメロディーが流れてきた。やがてその音色がアンデスの山並の彼方へと消えて行く。スペイン人に追われたインカの人々は、何処とも知れないさらに奥地へと消えて行ってしまった。
リャマも歓迎/写真転載不可・なかむらみちお  大体撮影し終わってそこから下へ移動しようかなと思っていた頃リャマが5〜6匹来たのでそれを入れて遺跡を写した。見晴らしの良い山の上から下の遺跡の方へ降りて行き、写しながら遺跡を見て廻った。遠くで雷がごろごろと鳴っている。思ったより暑く、着ていた物を脱いでリックに詰め込む。遺跡を三分の一ほど見たところで近くで雷が鳴り出し、僅かばかりの雨が降ってきた。これは降ってくるのかなと思い、とにかく屋根がある所まで行かねばと先を急ぐ。幸い雨は降らなかった。しかし、曇っていて晴れそうにも無いので、今日のところはこれで帰ることにして明日に期待を掛ける。
 バス停へ行くと丁度一台のバスが乗客を乗せ終わって、たった今発車しようとしていた。後ひとりだけ乗れるということで私が乗り込み、バスが発車した。バスが駅を目指して下山し始めると、途中で「グッドバイボーイ」が現われた。14〜15才ほどの現地の少年で赤いポンチョのような服を着ていた。バスが九十九折の道をひとつ曲りくねって降りてくる。その時である。またあの少年が居るではないか。そしてバスが通り過ぎる時に再び「グッバーイ」と叫び手を振っている。その少年は、バスがつづらおりに道を降りて行く度に「グッバーイ」と叫びながら、とうとうバスよりも早く山の下に降りて来た。彼はバスが九十九折の道を曲りくねりながら降りる間に真下降の道を降りて、後から来るバスを見送り、なぜか英語で「グッバーイ」と声を掛ける。その高い声はいつまでも耳に残った。それを山の下まで5〜6回繰り返すので、バスの中の乗客も関心を惹かれる。最後に平地に来てからバスに乗り込んで来て乗客からチップを貰う。ウーンこれでは、誰もが彼にチップをあげたくなってしまうではないか。少年の話では1日2回が限界だそうだ。彼の脇には見習いの少年がいて、彼のようになるために一生懸命努力をしていた。聞くところによると、彼はこの路線の運転手の息子で、将来は電子工学関係の学校に進学するのが夢だとのことであった。
 グッバイボーイが着ていた赤いポンチョのような服はインカの飛脚「チャスキ」の衣装である。チャスキはインカ時代の飛脚である。インカ時代、北はエクアドルから南はチリに至るまで1万kuに及ぶ大帝国内の情報伝達手段として働いていた。首都クスコから発せられる情報を各都市へ、各都市から出る報告をクスコへ。このチャスキが運んでいた。
 ※すっかりマチュピチュの名物となっていた「グッバイボーイ」だが、2003年に行政により禁止令が出された。理由は子供達がチップ稼ぎに精を出しすぎて、学校へ行かなくなったためだと言う。
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        Aguas_Calientes
 アグアス・カリエンテスの駅周辺には新しいホテルや安く泊れるホテル、レストランが数多く建っている。バスを降りてプレシデンテホテルにチェックイン。部屋で荷物を整理した後、ここの名物の温泉へ行く。アグアス・カリエンテス(熱い湯)はその名のとおり温泉の街。この村はミニ温泉保養地だ。町はかなり小さく、駅を中心に集落があり、線路の両側に長屋のように店が並んでいる。町の中心はこれも小さなアルマス広場。広場に面したカテドラルの前を右に上って行くと温泉がある。両側に小さな店がひしめく細く狭い登り坂を10分も行くと料金所があった。温泉の入湯料は5.00ソル。料金を支払って切符を貰う。更にその先の山道を登って行くとようやく温泉があった。温泉といっても露天で、みんな水着を着用してプール感覚で入っている。少し濁った水。泉質はハッキリ分らないが、関節炎に効くという。大、中、小の四角い風呂がひとつずつ。入ってみると少しぬるめだがいい気持ち。周りの山々を見上げながらの入浴。これぞまさしく露天風呂。傍らには川が流れ、せせらぎの音がすがすがしい。土地の人に混じって観光客も入っている。
 ホテルに帰ってから持ってきたワインとハムとパンで夕食を済ませた。明朝は6時半始発のバスでマチュピチュに行く予定なので5時に起き、5時半には朝食を食べることにする。ここに来るまでは早朝、マチュピチュの日の出を撮る為に3時半頃起きてバスが未だこの時間には無いので、歩いて山を登って行くつもりだったが、遺跡の入口にはゲートがあって7時からでないと入れないということが分かったので中止した。仮に行ったとしたら空気も薄いし急な山道を登るのでさぞかし大変だったことだろう。

   4月13日(土)曇り Aguas_Calientes 15:00-(列車)18:50 Cuzco
 夜中に大雨が降る音で目が醒めた。と、思ったらホテルの裏を流れるウルバンバ川の流れの音だった。
 午前5時、目覚まし時計の音で目が覚めた。窓から外を見ると雲が低く垂れこめている。朝霧がたち込めた時には太陽が出ると共に晴れて青空になることがある。もしかしたら…と期待をかける。
 今日は6時半発の朝1番のバスでマチュピチュへ行くつもりだったが、こう曇りでは行ってもしかたがない。晴れてくるのを待つことにする。
 8時になっても空は晴れない。9時にはチェックアウトしなければならないので下に降りてレストランで朝食を摂る。
一軒の露店ではケーナなどペルーの民族楽器を売っていた/写真転載不可・なかむらみちお お土産用が3j、プロ用が10j、プロ用の太いケーナが13j/写真転載不可・なかむらみちお  荷物を持ってフロントへ行き、不必要な荷物を預ける。外に出て見たら小雨が少し降ってきた。今日は駄目かも知れない。カメラを持ってホテルの近くの屋台風というか露店風のお土産屋が並ぶ通りを冷やかしてみる。一応明日ここから帰る時の下見を兼ねて駅の方へ行ってみる。一軒の露店でペルーの民族楽器を売っていた。お土産用が3j、プロ用が10j、プロ用の太いケーナが13jだった。店員がそれぞれの笛を吹いて見せてくれた。私にも吹かせてくれたが、チョットだけ音が出た。ちゃんと吹けるようになるには少し難しいかも知れない。
 反転して反対側の露店街を行くが数10店並んでいても直ぐ末端に行き着いてしまう。しかたがないからまたホテルに戻り、ロビーで休ませて貰う。フロントの女性が何かと気を使ってくれた。ロビーのソファーで退屈して目を閉じていると、眠かったら部屋で休みなさいと云ってくれたが別に眠たいわけでは無い。ただ退屈なだけだ。ロビーのテレビを入れてくれたりして気を使ってくれる。日本の五円玉を一個挙げ、ネックレスにでもしたらいいよと云うと本当に首に下げて来た。

ホテルの前にはローカル列車の線路が敷かれている/写真転載不可・なかむらみちお  12時過ぎ、ホテルの近くにローカル列車が到着した。その様子を見ていたら、昨日列車の中で出会った女性三人組のガイドのFederico_Moreyra(フェデリコ・モレイラ)さんに声を掛けられた。そして、昨日から今日までの行動などを交換し合った。彼女らは昨日5時頃温泉に行って、今はホテルで休んでいる。疲れているらしい。1時に落ち合って昼食に行く計画とのこと。
 私のホテルの前でホテルのフロントの女性が立っていた。そこで3人でまた立ち話をした。彼が昨日マチュピチュで写した写真を送って欲しいというので住所を聞いたところ、紙に書いてくれるということで彼は私のホテルのフロントに行き、貰ってきた紙に書いて渡してくれた。そうこうする内に彼が彼女達と昼食を摂る時間がきたということで彼とはそこで分かれた。五円玉をあげたお返しのつもりなのだろうか、彼女がホテルのボールペンを一本くれた。いい記念になる。
ローカル列車から降りた女性/写真転載不可・なかむらみちお  2時頃薄日が射して来た。2時20分頃フロントの彼女がボーイに声を掛け、客の荷物を持たせ、駅に行くように伝える。そして彼女は彼と一緒に駅へ行けと言う。そこで彼女と別れ、ホテルを後にする。途中、お土産屋の露店がずらりと並ぶ小路を通って駅に向かう。昨日笛を見せてもらった民族楽器の店もあり、観光客が2、3人買物をしていた。
 駅に着いたが例の日本人3人組の女性たちは未だ来ていなかった。列車に乗り込むと、今度は来た時とは反対側の席だった。こちら側は崖沿いが続き、あまり景色は良く無いが、来た時に見たのだからまあいいか。
 やがて来た彼女たちも私の隣と後の席に乗り込み、列車は定刻に出発した。発車して間もなくソフトドリンクのサービスがあった。列車は快適に走り、途中、5時頃には日が暮れてきた。峠の上から見た夜のクスコは電光に照らし出されて美しかった。カテドラルやその隣の教会、アルマス広場が手に取る様に見えた。
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          Cuzco
 クスコの駅に着くと迎えの人が来ていてバンでホテルまで送ってくれた。例の彼女たちとは駅で別れた。ロス・ポルタレスホテルに着くと荷物は既に部屋に運ばれており、来た時と同じ205号室だった。
 荷物を置き、とりあえず近くのスーパーマーケットへ行き、明日からの水を買いに行って来た。ついでにペルーのワインも一本買ってきた。
 カメラやDMを用意してペルー料理とフォルクローレショーで有名なレゴシホ広場に面したコロニアルなレストラン「エル・トゥルーコ」に行く。ここは、マチュピチュで知り合った日本人3人組のガイドに教えてもらった。地元クスコの味が人気でサービスも良いという。夜道は物騒なのでカメラは黒いナップザックに入れて胸元に抱いて行く。途中で先日見て置いた写真屋でマチュピチュの絵葉書を買う。
 レストランの近くに行くと既にフォルクローレの音色が聞こえて来た。店に入ると日本語の話せる日系三世と言う男が応対してくれたので助かった。
レストラン「エル・トゥルーコ」。店内はツアーの観光客などで満員/写真転載不可・なかむらみちお  店は満員で良い席が無いが、一席だけ空いているということで、階段の近くの柱の陰の席に案内された。次に矢張り日本語の話せる女性が注文を取りにきたので、先ず、ペルーで有名なクスケーニャというビールと海老の入ったチュペ・デ・カマロネス(27.00ソル)という煮込みスープを注文する。先ず、ビールがきた。飲んでみるとホップが良く利いていてなかなかいける。後味がさっぱりとして飲みやすい。ペルーのビール造りの技術はドイツから伝わったといい、各地域ごとにオリジナルビールがある。しばらくしてチュペ・デ・カマロネスがきた。中身は海老と米、ミルク、ジャガイモに唐辛子を入れて煮込んだスープで結構いける。
 店の客は何組かの外国人団体客が大きなテーブルを囲んで陣取っているようで、ステージで演奏される曲に合わせて大声で歌ったりはしゃいだりして大賑わいだった。なかでも何故か「♪グァンタナメラ」という曲が人気で、これが演奏されるとみんなで大合唱をしていた。中には立ち上がって手拍子をしながら歌ったり、踊り出す人もいた。この「グァンタナメラ」という曲は何時か聞いたことがあるようだが定かでない。この人たちがこれほど盛り上がるのにはこの曲にどんな理由があるのだろうか。また、どんないわれがあるのだろう。
  ※『グァンタナメラ Guantanamera』は、世界的に有名なキューバ音楽。1929年初演。タイトルの「Guantanamera」は、「グァンタナモの娘」を意味する。「グアンタナモ Guantanamo」はキューバ南東部の都市。米軍基地がおかれている。
フォルクローレショー/写真転載不可・なかむらみちお  フォルクローレショーや踊りを写したり、DMで録音したりしている内にショーは10時過ぎに終わったので店を出る。帰りがけに日本語の出来る彼が見送ってくれた。私は歩いてホテルまで帰ると言うと、彼に夜道は危険だから是非タクシーで帰ってくれと云われ、店の前で客待ちしていたタクシーに乗せられて無事ホテルに帰って来た。料金は3.00ソルだった。
 最近は治安もかなり改善され、以前に比べて観光客を狙った犯罪は減ってきたという。とはいっても油断は禁物。特に人目が少ない早朝や夜間の裏通りでは、数人がかりの首絞め強盗が多発しているという。流しのタクシーに乗って強盗に遭い、身ぐるみ剥がされたという事件も起きている。首から下げるタイプの貴重品袋や腕時計は狙われやすい。いかにも観光客風の服装も避けたほうが良いとのことである。

   4月14日(日)曇り時々小雨、後曇り Cuzco
 今日はクスコの近郊のピサックやオリャンタイタンボなど、聖なる谷の遺跡を巡るツアーに行く。7時過ぎに起きればいいのにどういうわけか3時過ぎに目を醒ましてから寝付かれない。きっと空気が薄いせいだろう。仕方がないから起きて家に出す葉書を書いたり昨日書き残した日記などを書いたりして過ごす。
 7時15分に顔を洗い、7時45分朝食。パン2個とコカティーだけの質素な食事。8時15分、ロビーにカメラの入ったリックを持って待つが、迎えのバスがなかなか来ない。外に出て待っていると8時半頃ようやく来た。その後も各ホテルを廻って客をピックアップする。クスコを出発したのは9時頃だった。
 バスは一路インカの聖なる谷のあるウルバンバ渓谷へ向かってどんどん高度を上げて行く。クスコの町が眼下に見えてきた。私の隣の席には大男が座ったので狭くて身動きがとれない。前の席の日本人が声を掛けてきたので自己紹介をする。向こうもひとり旅らしい。アレキバで眼下に優雅に舞うコンドルを見てきたと言う。
 先ず、サクサイワマンの遺跡の前で停車して、マイクロバスの中から見る。ここはクスコの東を守る堅固な要塞跡。1536年、スペイン人に反逆を企てたマンコ・インカは、二万の兵士と共に陣どった。しかし、夜は戦わないインカ兵はそのすきを突かれて作戦は失敗に終わり、20mあった城壁もその上からそびえていた円搭も大部分が壊されてしまった。
 広くて綺麗な広場では毎年6月24日に南米三大祭のひとつであり、インカ時代の儀式を再現した“インティ・ライミ=太陽の祭り”が開催され、インカの儀式がそのままに復活する(生贄もある)。住民はありし日のインカの民となり、神聖な儀式に参加する。
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          Valle_Sagrado_de_Los_Incas(聖なる谷)
聖なる谷  6000m級の山々に囲まれたインカの聖なる谷(Valle_Urubamba=ウルバンバの谷)。その名のとおりここにはクスコを初めとしてインカ帝国の中枢をなした遺跡や村々が残されている。
 コラオというところでバスから降りて村の中を通り、お土産店の並ぶ所まで行く。もうお土産店は見たくない。
 コラオを発ち、ピサックへ向かう。途中、峠などの景色の良いところでバスを降りて見る。どこへ行ってもお土産売りのおばさんや子供たちに付き纏われる。
ピサックの市場。独特の民族衣装が美しい/写真転載不可・なかむらみちお カラフルで、活気を感じさせるピサックの市場/写真転載不可・なかむらみちお  クスコから30q、山を下ってピサックに着いた頃から雨が降ってきた。小さな村だが、ここでもお土産店が固まって在る。こんなところかと少々ガッカリして中を見回ったら辛うじて土地の人の生活市場が在り、露店では野菜や果物、魚などを売っていた。その中を何人かのマヤ族のおばさんが帽子を被り、赤い織物をまとった独特の民族衣装で買物をしている。そんなところをスナップする。
 ここでは日曜日に市場が立つ。それが目的で日曜日にスケジュールを合わせて来た。朝早くから周辺のインディヘナ(中南米の先住民)たちが各家庭で採れたアンデス原産のジャガイモ、とうもろこし、様々な野菜、穀物、織物などの食料品や日用品を持って集ってくる。村の広場を中心に拡げられる市に、いつもは静かな村が急に活気付く。売場は肉、野菜、衣類、日用品などに分かれ、一人ひとりの持場は畳半畳ほどの広さに所狭しと並べ、びっしりと露店が並ぶ。近郊近在のそれぞれの民族衣装で売買している様は、カラフルで、活気を感じさせる。又、文字を持たないインカの村らしく、店の看板は絵になっている。この谷には、アンデスの今を昔と変わらぬテンポで生きている人達がいる。もともとは山村に住む人々の物々交換の場だった市も、今は観光客目宛の民芸品市の方がメインとなっている。
先住民の人々が、フォルクローレを演奏してくれた/写真転載不可・なかむらみちお  ピサックを発ち、小雨の中、保養地ウルバンバのキンタ・レストランという地元の料理をビュッフェ形式で食べさせるオープンエアーのレストランで昼食。ここはクスコに比べ標高が低く(2863m)、年間を通して温かいところ。食事中、中庭では鮮やかな民族衣装をまとった先住民の人々が、フォルクローレを演奏してくれた。その音色がアンデスの山々にこだまする。
 レストランを出る頃に雨は上った。このレストランで食べた茶色で表面の薄い皮が煎餅のようにカリカリとした硬質のテニスボールほどの果物が甘くて大変美味しかった。パリパリの薄皮を剥がして剥くと、白いフワフワとした綿のような皮で包まれ、その下にゴマのような黒い小さな種を含んだゼリー状の実が筋状に入っていた。ガイドに訊いたら「グラナリージャ」という果物だという。
インカ帝国時代の宿とも要塞跡ともいわれている/写真転載不可・なかむらみちお  ウルバンバを発って聖なる谷のほぼ中心にあるオリャンタイタンボを見た。インカ帝国時代の宿とも要塞跡ともいわれている。タンボとはケチュア語(インカの公用語)で旅篭の意味。
 オリャンタイタンボの遺跡は、同名の村の背後にある。斜度45度はありそうな斜面に段々畑が造られ、畑の脇の階段を300段(150m)登りつめると広場に出る。ここの遺跡は大きく、上まであがるのにへこたれた。広場の周辺にはあの美しいインカの石組みが続く。
 広場には6個の巨石を並べた不思議な建造物が残っている。高さ4m、幅全部で10m、奥行き1m。太陽の神殿の造りかけだとか、鏡だとかいわれているが実際のところは分かっていない。巨石と巨石の接合部分には細い石が使われ、クスコの直接石と石を積み重ねる手法との違いが興味深い。又、その中の一枚にはジグザグの菱形が描かれている。この謎の巨石は対岸の石切場からはるばる運ばれてきたというが、車を使うという文化を知らないインカの人々がこの斜面をどうやって持ち上げたのだろうか。考えれば考えるほどミステリーで不思議な遺跡である。
斜度45度はありそうな斜面に段々畑が造られ、畑の脇の階段を300段(150m)登りつめると広場に出る/写真転載不可・なかむらみちお  オリャンタイタンボの上から対岸の山を見ると、見張り小屋の跡と思われる石組の遺跡や山肌に張り付くようにして造られた建物が見られる。いずれも古い遺跡だ。建物は窓も水路もないことから、穀物倉庫だといわれている。
 インカ時代の村の様式、家のスタイルを残すオリャンタイタンボの村では、インカ時代の灌漑用水や下水道が今なお使われている。
 オリャンタイタンボを見てから途中の峠で車から降りて辺りを見渡す。再び車に乗って少し行くとアンデス高山のひんやりとした空気の中にチンチェーロ村がある。ささやかな教会の前にささやかな広場があり、ガイドの話では毎週日曜日には朝からここで市が立つという。ピサックの日曜市に比べると小規模だが、その分ずっと素朴だとの説明。
 教会の裏側はチンチェーロ遺跡である。かつてインカ帝国の重要な城があったが、基底部だけを残して、今は教会が建っている。谷間には自然石を巧みに積み重ねた段々畑が築いてある。チンチェーロの町の道には今でもインカ時代の水路があり、村の大切な水場だ。家々はアドベ造り。スペイン風の瓦屋根が印象的。周辺の田園風景も素晴らしい。
 チンチェーロを発ってクスコへと向かう。クスコに着いたら6時半と、既に暗くなっていた。バスは各ホテルを回って客を降ろした。
 ホテルに帰って来てから日本から持ってきたチーズの最後の一片で昨日買っておいたワインを飲む。その後、下のレストランに行って今回初めて日本から持ってきたインスタントラーメンを煮て食べた。腰に付けていた万歩計を落としてしまった。多分バスの席が狭かったために隣の人と擦れた時にずれて落ちてしまったのではないだろうか。

   4月15日(月)曇り、後晴れ Cuzco 07:30-(バス)16:30 Puno
 オレンジジュースとパン2個、それにコカティーが朝食のメニュー。一階のレストランに行き、先ず日本から持ってきたインスタント味噌汁を溶かして飲む。最後に持ってきた飲水用のポリビンにコカティーをいっぱい入れてもらう。
クスコ〜プーノ  ロビーで待っていると7時過ぎに迎えの車が来た。ワゴン車に乗せられてバス発着所へと向かう。かなり離れた所のある一軒の家の前に止る。ドア一枚の何の変哲も無い家の前だ。そこで降ろされ、その家の中に入って行くと受付があって女性が一人いた。そこで乗車手続をしてその奥のソファーのある待合室で待機する。コカティーのサービスがあった。老人が1人近付いて来てクスコからプーノまでの地図を示して説明を始めた。私はバス会社がサービスでその地図を呉れるのだと思っていたら、10.00ソルだと言うので断った。
 7時半乗車。ほどなく発車して道路に出て少し走ってからバスがUターンした。なんと先ほど出発したバス会社の前に着き、乗っていた1人の大男がバスから降り、やがて戻って来て乗車した後再出発した。 中型のバスには夫婦らしい初老の二人と子供女二人と大男の僅か7人、それに運転手とガイド。
 ファーストクラスバスというからトイレ付きの大型バスかと思ったが、近郊観光用ほどの中型バスだった。バスは一路クスコを発ってプーノに向かった。
 ファーストクラスといわれる観光バスは昼食、英語のガイド付き。教会の内装が美しいアンダワイリーヤスの村や太陽の神殿があるラクチー遺跡、牛の置物で有名な村などの見所を案内してくれる。
 ウルバンバ川に沿って1時間ほど走ったところでバスはウルコスの手前、アンダワイリーヤスという村に入り、横の小道を入って行った。そこには古い教会があった。中に入るのには3.00ソルの入場料を払わなければならないが、教会の中を見ても詰まらないので断って広場の前の露店などを眺めていた。
朽ち果てたラクチーの古い遺跡/写真転載不可・なかむらみちお  アンダワイリーヤスからまた国道に出て、ウルコスを経てラクチーを目指す。ラクチーでは横道の狭い農道のようなガタガタ道を300mも入ると古い教会があり、その前の広場にバスを停めた。ここでは朽ち果てた古い遺跡を見た。この頃から空は晴れて強い日差しが射して来た。
米のようなスープや、鶏肉、何か分らない肉(豚肉?)、お米を煮たもの、チャーハンのようにしたもの/写真転載不可・なかむらみちお  ラクチーを出て間もなく、シクアニという町のある塀のある家の中庭にバスごと入る。外から見たのでは何の変哲もない家だが、中はレストランになっており、燦燦と降り注ぐ北半球の春の陽気の中、パラソルを差したテーブルのある緑したたるコロニアル風の建物の広い中庭で昼食となった。バスで一緒に来たあの大男がかいがいしくバイキング料理のセットをしている。あの男がこのレストランのオーナだったのだろう。料理は米のようなスープや、鶏肉、何か分らない肉(豚肉?)、お米を煮たもの、チャーハンのようにしたもの、その他果物などが沢山あった。
 シクアニを出てしばらく走るとこの行程の中で一番標高の高いラ・ラヤ峠(4319m)に差し掛かる。ここまで来るとかなり空気が薄いのを実感する。それでも私は、1998年7月20日にスイスを訪れた際、スイス人の友人がセスナ機に乗せてくれて、マッターホルン(4478m)の頂上付近をひと回りしてきたことがある。その時は機上に座っているだけで多少息苦しい感じはしたが、高山病の前触れである頭が痛くなるということもなく、無事飛んで来たことがある。ここはマッターホルンの頂上よりは多少低いのでどうということはない。
プーノ行きの列車が喘ぎながら走っている/写真転載不可・なかむらみちお  道路と並行して走るクスコ発プーノ行きの列車が喘ぎながら走っているのを窓を開けて写す。窓から手を振っている乗客が見えた。昔、「クスコの郵便馬車」とか「高原列車は行く」などの歌謡曲があったのを思い出す。
 やがて峠に着いて下車して見る。直ぐ目の前には万年雪を抱えたアンデス山脈の一角のクヌラナ(5420m)、チンボーヤ(5472m)がある。
 そこを出て間もなくアルパカかリャマのような動物が群れを成して放牧されているのに出会った。ガイドが「写真を写すか」と聞くので「イエス」と答えてバスを停めてもらい、下車して写す。バスを長く待たせては悪いのでアングルを求めて少し急いで歩いたり、走ったりすると息切れがして長持ちしない。矢張りかなり空気が薄い。
プカラ遺跡の入場券/写真転載不可・なかむらみちお  そこから1時間ほど走ったところでプカラ(3550m)の街に入り、ここの遺跡を見た。遺跡の一番奥には教会の跡があった。その中にはなにやら綺麗な花が咲いていたので1〜2枚写真を撮ってからバスの方に引き返した。途中でサングラスが無いことに気が付いた。急いで先の教会跡まで戻って探したが見当たらなかった。あのサングラスは紫外線カットのコーテングと視度、乱視を矯正している特注品だ。ガイドも戻って来て一緒に探してくれたが見当たらない。諦めてバスに戻る。空気が薄いために思考力が低下していていつ失くしたのか定かでない。バスに乗ってからガイドにお詫びの印に日本製の煙草を一箱渡す。彼は遠慮がちだったが無理に渡した。
 ブエノスアイレスではフイルムをケースごと落したり、クスコではカメラのバッテリーを失くし、聖なる谷では万歩計を失くし、今日はサングラスを失くしてしまった。いくら気圧が低くボーとしているからといって気をつけなくちゃ…。少なくとも撮影済みのフイルムとカメラを失くさないように気を付けたい。
 バスは発車して200mほど国道の方へ下ったところの小さな建物の前で再び停まった。ガイドはトイレに行かないかというので断った。他の観光客が降りて行った。バスの中で待っていても降りて行った観光客がなかなか帰って来ないので私も行ってみると、ここはミニ博物館になっていて発掘した埋蔵品が陳列してあった。その奥に彼等が居た。そこからの帰り掛けに見学料として5.00ソルを要求された。バスの中にあのまま居たら取られなくて済んだのかもしれない。
タクシーはエコロジー/写真転載不可・なかむらみちお  そこから1時間ほど走ったら、かなり大きな街の中に入った。車が込み合い渋滞している。フリアカ(3825m)の町らしい。面白いことに、前二輪、後一輪の人力車がひしめきあって走っている。その車に人が乗っている。どうやらここのタクシーらしい。
 フリアカの町を通過して、夕暮れ迫る道をプーノへと走る。ここから道が悪い。バスは凸凹を避けるように走る。やがて左手に湖が見えてきた。きっとティティカカ湖の一部なのだろう。夕方5時過ぎ、山の斜面に町が見えてきた。目的地のプーノだろう。思ったよりも大きな町だ。
 プーノはクスコ、アレキバ、ボリビアのラ・パスを結ぶ通過点ではあるが、ティティカカ湖上に浮かぶ島々への拠点となる地である。

        Puno(プーノ)
 バスはプーノのアルマス広場の近くのファーストクラスバス会社の前に停まる。あらかじめ日本から頼んでおいた現地人らしい迎えの女性に声を掛けられた。荷物をタクシーの後部座席に乗せ、ホテルへと向かう。
ティティカカ湖/写真転載不可・なかむらみちお  ホテル・イタリアで一旦荷物をレセプションに預けた後、この町は観光客などを襲う者が居て物騒なので、ガイドにお願いして近くのスーパーに食品の買い出しに連れて行ってもらう。このところ中央市場やその周辺で観光客を狙った首締め強盗の被害が出ているという。昼間でも人どおりの少ない通りは要注意である。市場でチーズとパンを買ってホテルに戻り、チェックイン。セーフティー・ボックスにパスポートとお金などを預けた後、迎えの現地旅行社の女性と分かれ、部屋に入る。明朝は9時の出発で彼女が迎えに来るという。
 部屋はまぁまぁで満足。あたりは静かで、ゆったりとくつろげる。シングルの部屋でも比較的広めで、とても清潔。早速シャワーを浴びた後、クスコから持ってきたワインを開ける。ここで先ほど買ってきたチーズをナイフでカットしてかじりながらワインを飲んだがどちらもまぁまぁだった。
 プーノの標高は3855m。これはクスコ(3360m)よりも高い。大体、フランスのシャモニの町からケーブルで登るアルプス1高いモンブランの頂上近くにあるエギーユ・デュ・ミディ(3842m)とほぼ同じだ。しかし、前にティティカカ湖、遠くに山々を望むプーノにいると、ここが富士山(3776m)よりも高いところとは考えられないほどだ。
 空気の薄いこの街には、ケチュア族、アイマラ族など純粋なインディヘナが多く、伝統的なフォルクローレ音楽の宝庫としても知られている。

   4月16日(火)雨、後晴れ Puno 09:00-(船)Islas_Los_Uros-(船)Puno
 朝5時頃目が醒め、6時頃朝日を見るためにホテルの屋上に出て見る。東の空が少し赤味を帯びただけで空のほとんどが雲に覆われていた。顔を洗った後、一階のレストランに朝食を摂りに行く。バイキング形式で、オレンジジュースとパン、クレープ、果物、コーヒー、コカティーくらいしかなかった。食後に持っていたポリボトルにコカティーを入れて貰った。外で何か音がするので廊下に出て見ると大雨が降っていたがやがて止んだ。
 ロビーで待っていると9時過ぎに昨日の女性ガイドが来た。今日はワゴン車で来ている。それに乗って世界で最も高地にある神秘の湖ティティカカ湖の船乗り場に行く。
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        Lago_Titicaca(ティティカカ湖)
チャーター船の船長と息子とガイド/写真転載不可・なかむらみちお  桟橋に行くと、多数の船が客を待っていた。彼女はその中の一隻の小型船に声を掛けた。どうやらその船で行くらしい。客はその女性ガイドと私の二人きりだ。船には船長とその息子という8歳の男の子が乗っていた。動力はジーゼルエンジンで、乗用車のエンジンとあまり変わらない。船は岸壁を離れ、一路ウロス島へと向かう。この頃から空が晴れてきて日が射してきた。
 ここティティカカ湖はアンデス山脈のほぼ中央に位置し、標高3806m、面積は琵琶湖の約12倍(8200ku)、最大水深は約281m。湖の中央付近でペルーとボリビアが国を分けている。標高3806mは、汽船の航行する世界最高地点である。付近のアンデス山脈から雪どけ水が20以上もの川となってティティカカ湖に流れ込み、1本のデサグアデーロ川を形成してボリビアのウル・ウル湖、ポーポ湖へも流れ出す。湖上には大小幾つもの島が浮かび、先住民が昔ながらの生活を続けている。

        Islas_Los_Uros(ウロス島)
大小合せて40ほどの島が浮いている/写真転載不可・なかむらみちお  プーノの桟橋より船で約40分。心地よい風を受けながらどこまでも青く冷たい水を湛えた沖へと進むと、ウロス島に着く。島といってもここは普通の島ではない。トトラと呼ばれる葦を積み重ねた“浮島”なのである。トトラの群生する中に、大小合せて40ほどの島が浮いている。島を造るのは簡単で、トトラを切って3mほどに積むだけ。水に浸かっている部分が腐ってくればまた新しいトトラを重ね…そうしているうちに、何百人もの生活出来る島が出来上がってしまう。上陸するとふわふわと足が沈む。足元に気を付けて歩かないと、足が湖に浸かる事もある。ここでは家も葦を束ねて造られている。
島と島、島と湖畔の町を結ぶ唯一の足となる船(バルサ)もトトラ製/写真転載不可・なかむらみちお  島は6畳ほどの大きさのものから350人が生活するものまでいろいろだ。合せて約700人が生活する大きな島には学校や教会もある。人々はウル族と呼ばれ、ペヘレ、カラチ、トゥルチャなどティティカカ湖に生息する魚や水鳥を捕り、畑で野菜を作って生活している。島と島、島と湖畔の町を結ぶ唯一の足となる船(バルサ)もトトラ製。

島の少女が歓迎してくれた/写真転載不可・なかむらみちお 少女がくれたミニ葦舟/写真転載不可・なかむらみちお 島の人はみんな素朴で恥ずかしがり屋だ  島に上陸すると島の住人が歓迎してくれた。小さな女の子がトトラで造った船の形をして小さなアクセサリーを首に掛けてくれた。島の人はみんな素朴で恥ずかしがり屋だ。
 島には葦で造った大小の家があり、鶏も飼っていた。電気も水道も無い自給自足の島だが、一軒の屋根の上には太陽電池発電のためのパネルがあり、室内には白黒のテレビがあった。お土産を売っていたのでなにか買わないと悪いと思い、小さな船の形をした置物を一つ買った。再び船に乗り、次の島へ。ここでも上陸して島の生活を見せてもらった。食料にするジャガイモが干してあった。次の島は露店が何軒か集ったお土産を売るための島だった。島の人は民族衣装を着ていた。ここでテーブルクロスのような物を一枚買う。見晴台があり、昇って観る。
見晴台があり、昇って観る/写真転載不可・なかむらみちお  再び船に乗り、次の大きめの島に上陸すると、そこは村の小学校であった。島には二つの小学校がある。ガイドが中に入ってもいいよと手招きするので入ってみると、そこは小学校の教室で、大勢の子供が授業を受けていた。入口から中を覗いていると女の先生が授業を一時中止して「どうぞ」と私を教室の中に招き入れてくれた。そして私のために子供たちが日本の「めだかの学校」と「証誠寺の狸ばやし」を日本語で上手に歌って歓迎してくれた。私はすっかり恐縮してしまった。その島を離れ、プーノに向かう途中で見掛けたトトラ製の島々を眺めながら昼頃プーノに着く。
子供を背負った母/写真転載不可・なかむらみちお  桟橋には今朝ホテルから送って来てくれたワゴン車が待っていた。ホテルまで送ってもらった後、鉄道駅近くの中央市場に連れて行ってもらう。ここは食料品から日用品など日常生活に必要なものは何でも売っている。市場の一角にはセーターや帽子、靴下などのアルパカ製品を売るマーケットがあり、クスコやリマよりはかなり安い。
 先ずワインを買う。店員さんに甘口か辛口かと尋ねられたが、ここのワインがどういうものがあるのか分らないので、一応辛口と云って注文する。その後、ハム、絵葉書、牛乳、ヨーグルトなどを買ってホテルに帰って来た。
 ホテルで一服した後、持ってきたインスタントラーメンと鍋を持ってレストランへ行き、居合わせたホテルの人に頼んで台所のレンジを貸してもらった。この人は今日レストランのボーイをしていた人だったことを思いだした。彼には五円玉を一個あげて、出来上がったラーメンを持って部屋に帰り、昼食を食べる。
 昼食後、家への葉書を書き、フロントへ持って行くと郵便局を教えてくれた。郵便局はすぐ分った。そこで葉書を出した後、町の中心であるアルマス広場に行ってみた。そこにはカテドラルがあり、中に入ってみたがあまり興味を惹かない。そこを出て繁華街の通りを通ってホテルに向かう。
 ホテルの位置を確認してから、近くの市場に行ってみた。ここは昨夕着いた時と今日の昼にガイドに連れて来てもらった所で、品物を買った覚えのある店も在った。
 後は見る所も無いのでホテルに帰り、一休みした後日記を書き始める。その後テレビをいれてみたがどのチャンネルも面白くない。6時頃からさっき買ってきたハムと昨日のチーズでワインを飲む。

   4月17日(水)晴れ Puno 09:00-Chulpa_de_Sillustani-Puno
 今日で丁度あと1週間でこの旅も終る。朝5時起床。部屋には窓が無いので廊下に出て外を見る。星が瞬いている。晴れだ。朝日が期待出来る。
 カメラを用意して時を待つ。午前5時半、東の窓が明るくなってきた。確か昨日のガイドが若し天気が良ければ朝日の見えるところに案内すると言っていたはずだ。フロントに降り、外にも出てみたが、ガイドは来ない。丁度ホテルのフロントマンがホテルの前を箒で掃除をしていた。彼に屋上から朝日の写真を撮りたいと言うと、向かいのロス・ウロスホテルを指差してこのホテルの屋上が良いと教えてくれた。私も昨日行ったこのホテルの屋上よりも場所的には向かいのホテルの方がいいなと思っていたので、そちらへ行くことにした。
 ホテルに戻って一応朝日の状態を確認してみた。もう間もなく昇りそうだ。地平線の辺りが真っ赤に輝いている。急いで部屋に戻り、カメラと三脚を持って向かいのホテルへ行く。丁度そのホテルのフロントマンもホテルの前を掃除し始めたところだった。お願いするとOKだったので急いで向かいのホテルに入り、屋上まで駆け上る。空気が薄いので息が切れる。死にそうだ。
ティティカカ湖の夜明け/写真転載不可・なかむらみちお  屋上のテラスに上ってみると間もなく太陽が顔を出しそうだ。急いでポジションを探しながら三脚を伸ばす。そこは温室のようになっており、所々に横に開く窓がある。そのひとつを開けてカメラをセット。先ず、紅く輝いている水平線とティティカカ湖を撮影する。間もなく太陽が昇ってきた。何枚か連写する。成功だ。ついでに紅く染まったプーノの町も写す。
 下に降りてからフロントマンに礼を言い、そのホテルを出て自分のホテルに帰って来たが、昨日のガイドは来ていないようだった。
 部屋に戻り、顔を洗い、7時過ぎに朝食に行く。食後部屋に戻って一休み。テレビを入れてみる。どこを入れても外国語なので分からない。それでも一応絵だけでもと思い見ている。
 9時前、カメラ機材一式とコカティーを持ってロビーに行き待機する。約束の9時になってもガイドは現われない。9時10分頃ようやく現われたが、昨日の彼女とは違うガイドだった。
 彼女曰く、今日と明日はクスコ、フリアカ、プーノ一体はストライキのためバスが動いていないので遅れたと弁解する。そして盛んにストライキで予定の所には行けないと言ってすぐには行こうとしない。その上、明日の予定はどうなっているなどと訊く。今日予定のシユスタニ遺跡には行けないのだろうか。それにしても車の運転手も来ているではないか。バスのストでも車でなら行けるだろう。それとも遺跡もストか。そんなことを英語で訳分からず話し合った後、それでは取り敢えず行こうと言うことになり、ホテルの前に停めてあったトヨタの乗用車で出発。
 途中少し高い所からプーノの全景を写した後、一昨日クスコから来た道を一路シユスタニ遺跡に向かって車を走らせる。天気は所々に白い雲が浮かんではいるが青空で上々だ。しばらく走って行くと、道路を横切るように一直線に石が並べて置かれていた。ガイドの説明によると、ストライキで車が通れないようにバリケードで道路を封鎖していたのがようやく解除されて通れるようになった跡だと言うことであった。それで今朝はガイドが遅れて来たり、今日はシユスタニ遺跡に行けるかどうか分らないと言っていたのだなという事がようやく理解出来た。
静寂が支配する墳墓群/写真転載不可・なかむらみちお  45分ほど走ってシユスタニ遺跡に着いた。車から降りてから遺跡に向かってゆっくりゆっくりと緩い上り坂を歩いて昇り始めた。彼女がいろいろと英語で説明してくれる。その内、歳はいくつかとか、子供は何人いるかという話になった。彼は私に40歳かと尋ねる。後で何歳に見えるかと尋ねたら50歳代だと言う。日本人は若く見られがちだ。右手には鏡のようなウマヨ湖が水を湛えている。澄み切った青い湖面が美しい。ここはプーノよりも標高が高く、何一つ音が聞こえず標高4000mの静けさだけが支配する世界。静寂のひと時を過ごす。
 丘を九十九折にゆっくり登り、息が切れたので丘の上に建つ遺跡の側まで行って一休みした。ここはラ・ラヤ峠よりは少し低いが、プーノよりは高い。なにしろ空気が薄いので息切れはするし、心臓が苦しい。頭もくらくらしてくる。
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        Chulpa_de_Sillustani(シユスタニ遺跡)
現在は完全に近い形で残っているものは少ない/写真転載不可・なかむらみちお  シユスタニ遺跡はプレ・インカのチュウラホン文化からインカ時代にかけて造られてきた古代の石塔の墓である。チュウラホン文化は1000年頃に全盛を迎えた文化といわれ、石の住居と段々畑が特徴。ここに建つ不思議な塔は、あるものは磨きあげた巨石を積み上げて造られ、ある物は丸石を使い、またあるものは石塔の外側に白い粘土を塗りつけたりされている。ひとつだけ統一されているのは、東側に小さな窓があり、6月20日の冬至になると窓にきっちりと太陽が差し込むように出来ているということ。
 これらはチュルパと呼ばれる墳墓。太陽が差し込むことによって、生命が蘇えると信じられていたらしい。雨が多い地域のため、100基は在ったと思われるチュルパも、現在は完全に近い形で残っているものは少ない。この高地に建てられた墳墓は、アンデス高原を見守るかのようである。ほどなく10人ほどの外国人の観光客も到着した。
畑を耕す父/写真転載不可・なかむらみちお 糸を紡ぐ娘/写真転載不可・なかむらみちお 干したジャガイモを粉にする父と娘/写真転載不可・なかむらみちお  一休みした後、丘を降り、もとの広場へと向かう。広場では例の如くお土産売りの露店から声が掛る。車は来た道を下り、プーノへと向かう。途中でインディヘナ(中南米の先住民)の住宅に立ち寄る。主人が快く迎えてくれた。生活用具を一つひとつ実演して見せてくれた。一角にある釜戸ではこの家の娘が牛糞を燃やして食事を作っていた。ご主人は穀物を砕くところや、畑を耕す方法、それからコンドルのぬいぐるみを着て踊って見せてくれたし、娘さんは毛糸を紡ぐところなどを見せてくれた。これだけ親切にして貰うとチップをあげない訳にはいかない。僅かばかりのチップを渡してそこを辞した。
 帰りの車の中でガイドは、明日は13時半にホテルへ迎えに行く。プーノの街は危ないからカメラなどは持ち歩かないようにと注意してくれた。その他、鱒料理が美味いから食べてゆけと教えてくれた。街はストのせいか昨日と打って変わって人通りもなく、ひっそりとしていた。市場も閉まり、その前にあれほど沢山出ていた露店も一軒も出ていない。
 ホテルに着いてカメラ機材などを整理した後、例の如くインスタントラーメンと鍋を持ってレストランへ降りて行き、またレンジを借りてラーメンを造り部屋に持ってきて食べた。
 ホテルにくすぶっていても仕方がないので、3時過ぎに街に出て見る。空は抜けるような青空で、降り注ぐ日差しが眩しい。返す返すもサングラスを失くしたのが残念だ。街は閑散としているが、2、3露店が店を出し始めたようだ。用心の為、カメラを持たないで外出したが、観光地に来てカメラを持たないでぶらつくなんて初めてのことだ。お金も何も持っていないのでとても気楽だ。ゆっくり歩いているのだが、息切れはするし、頭はくらくらするし、思考力は著しく劣っている。少し寒い感じだ。
 メインストリートを通って昨日行ったアルマス広場まで行ってみる。ここは広場いっぱいに陽が当って温かい。周りの建物に陽が反射して目が痛い。昨日ガイドブックで見た金城旅行社がある通りを歩いてみた。特に用事があったわけではないが、どんな店構えの会社か、出来れば見てみたかったが、何故か今回は見当たらなかった。
 ひと回りしたが、なにしろ小さな町なのですぐホテルに着いてしまった。ガイドブックに載っていたレストランの前ではボーイが客引きをしていて、私を見付けてすぐに寄って来た。メニューを見るとここの名物の鱒料理は14.00〜15.00ソルだった。あまり高くはない。
 部屋に帰って来たが何もすることがない。仕方なくテレビを入れてみたが面白くない。6時頃から昨日の残ったハムでワインを飲むことにする。昨日ガイドの案内で市場で買ったワインを開ける。形は丸型で口にはコルクではなくプラスチックの栓がしてあった。一口飲んでアッと思った。甘い、甘口だ。これでは口に合わないがまぁ仕方がない。
Trucha(鱒)のバター焼き/写真転載不可・なかむらみちお  ワインを飲んだ後、下のレストランに行き、プーノの名物、ティティカカ湖で獲れるTrucha(鱒)を注文する。料理の方法がいろいろあるのでバター焼きにして欲しいとボーイに注文するが、言葉が通じず、なかなか分って貰えない。ようやくなんとか分った様だが、果たして注文通りの物が出てくるかどうか楽しみである。
 出てきた料理はなんとかこちらの意思が通じたらしくそれなりのものが出てきた。一口食べてみる。塩味の味付けだ。鱒は鱒なりの味である。付合わせに米を炊いたものが添えられているが、日本の米とは品質が違うし、炊き方も違うようなのでぼそぼそとしてあまり美味しくない。前菜としては、トマトの輪切りとカリフラワー、いんげん豆、人参などの酢漬けであった。他にトーストが付いた。これで12ソルだからかなり安い。
 昼食時に市場で買ってきたコンデンスミルクのような牛乳を飲んだせいか、あまり食欲がなく、半分近く食べただけで残してしまった。高山病を避ける為にも食べ過ぎは良くないので程ほどにした。

   4月18日(木)曇り Puno 13:30-(車)Juliaca 16:00-(N6-1172)18:15 Lima
 朝方激しい雨の音がする。今日はフリアカから飛行機でリマへ行く。リマからクスコへ行く飛行機は有視界飛行なので、天気が悪いと飛べないことがあるという。フリアカからリマ行きの便はどうなんだろうか、少し心配になる。
 ここは高所なので昼間でも涼しく、朝方はかなり冷え込む。朝6時に目が醒めたが、今日は午後1時半にお迎えが来るまで何もすることがないのでベッドの中にいる。雨は止んだようだ。
 7時過ぎに顔を洗い、朝食を食べに行く。メニューは相変わらず同じものだ。部屋に戻り、荷物を整理する。外は曇り空だ。あと気掛かりなのはホテルに預けた現金とパスポート、航空券を受け取ることだ。フロントに行くと預けた時の人がいない。彼はここのボスのようだ。彼が居なくてもいいのだが、矢張り預けた人に立ち会ってもらった方が安心だ。彼は昨日の朝9時に来ていたのでもう一度出直して9時過ぎに来ることにする。
 9時過ぎにフロントに行ってみたが彼のボスはいなかったが、フロントマンがどこかに電話して別棟の方に取りに行った。きっとボスの所へいったのだろう。預けたパスポートと現金と航空券の入った袋を受け取り、フロントマンの前でチェック。すべてOK。これでひと安心。このホテルはスタッフの感じも良く、セキュリティも万全だ。
 午後1時半まで何もすることが無く、ただボーとホテルで時の来るのを待つだけだ。街に出ると物騒だし、特に見るほどのものもない。カメラを持ってゆけないのだから、行っても無駄だ。それに今は現金類も身に付けていることだし、用心のために部屋で待つことにする。
 テレビのチャンネルを廻していると、この3月に長野で催された世界フィギュアスケート選手権大会の模様を編集して放送していた。11時までそれを観ていた。本田やミシュエルクワンなどが出場していた。多分エキジビションではないかと思う。11時過ぎ、別のチャンネルを廻していたら、イタリアのミラノでビルにまた飛行機が突っ込んだニュースを生中継で放送していた。
 12時になったのでまたレストランの台所へ行ってラーメンを作る。台所にはレストランのボーイと奥さんらしい人がいた。ラーメン作りも三度目なので相手も心得ていてすぐに鍋を用意してくれて水を入れてくれた。それをレンジにかけてインスタントラーメンを作る。
 午後1時過ぎにロビーに出て、迎えを待つ。約束の午後1時半より今日は5分早く、昨日の女性ガイドともう一人男が来た。彼もガイドだと言う。なぜガイドが二人も来たのか分からない。更に少し待ったらドライバーが迎えに来た。玄関を出たところに車があるものと思ったら、向こうの通りだと言う。行ってみると大きなバスが待っていた。客は誰も乗っていない。途中で何人か拾うのかなと思った。
羊を放牧しているインディヘナの夫婦/写真転載不可・なかむらみちお  バスは私一人と男女二人のガイドを乗せてプーノを後にした。男のガイドは日本語を勉強しているのだと分厚いノートを私に見せてくれた。そしていろいろと日本語で話し掛けてきた。途中の平原でインディヘナの夫婦が羊を放牧しているのを見つけ、バスを停めて貰って撮影する。アンデスのこんな広い高原の平野で日がな一日、日向ぼっこをしながら羊と共にのんびりと暮らしている彼らが羨ましかった。アンデスの風に吹かれて一生を過ごすのも悪くない。
 バスはフリアカの街に入った。思ったよりも大きな街だ。ここでも人力三輪車のタクシーが大活躍している。ガイドはプーノよりも少しだけ人口が多いと説明してくれた。やがて塀を廻した大きな家の前で女性のガイドがここが彼の家だと言う。そしてその男がバスから降りて行った。どうやら彼はこのバスに便乗して来たらしい。これで一つの謎が解けたが,もうひとつの謎である私一人だけの乗客のためになぜこんな大きな車を用意したのだろう。多分、旅行社がどこからか大勢の乗客を運んで来ての帰りの回送車を利用したのかもしれない。あの男のガイドはその時のガイドなのかも知れない。
 バスはプーノを出てから一時間ほどでフリアカの空港に着いた。思っていたとおり小さな空港だ。チェックインを済ませ、空港税を払って待合室へと進む。ここでガイドと分かれた。
この辺はフォルクローレの発祥の地である/写真転載不可・なかむらみちお  搭乗時間近くになったらフォルクローレの一団が来て演奏を始めた。田舎の空港のせいか荷物検査を終えた処まで一般の人が入って来られるのには驚きだ。彼らは何曲か演奏した後、CDを売りながらチップを集めて廻った。その内飛行機が到着して、乗客が降りて来ると、今度、彼らはその客を目宛に到着口の方へ廻って行き演奏していた。この辺はフォルクローレの発祥の地であり、インディヘナ達が織り成すフォルクローレの世界が色濃く残っている。特にプーノは民族舞踊の宝庫である。
 2〜30人の日本人観光団が来た。胸につけたバッチを見るとどうやら近ツリの客らしい。搭乗が始まった飛行機に乗って座席番号を追ってゆくとどんどん最後尾の方へ行く。ひょっとしたらエンジンが脇にある最後尾か?若しそうだとしたら窓の外は見えないし、音はうるさいし、スチュワーデスのサービスは最後だし最悪だ。窓側と言っていたのでこれは困る。折角窓側を取っても外を見られない窓側だ。予想は的中した。でも仕方がない。
 飛行機は4時過ぎ、定刻より少し前に離陸した。30分位でアレキバに着陸した後、午後6時過ぎにリマ空港に着いた。リマは既に陽が落ちて黄昏迫る時刻だった。
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        Lima(リマ)
 空港には旅行社の出迎えの人が来ていた。リマからクスコへ行く時に送ってくれた人だ。車は日暮れのラッシュの街をホテルへと向かう。かなり走ったが未だ着かない。行く時、こんなに遠かったかな。なかなか見覚えのある所に来ない。その内、車は道端の一軒のガソリンスタンドの中に入って停まった。どうやらエンジンの調子が悪いらしい。運転手が少し待ってと言ってガソリンスタンドの方へ行ったり、車のエンジンをいじったりしていた。しかし、ダメらしい。運転手はタクシーで送るという。またしばらくタクシーで夜の街を走ってようやくホテルの前に着いた。
 車の着いた反対側にはスイト・エウカリットスホテルのフロントマンがガラス越しに見え、手を挙げると答えてくれた。ここのホテルはそのフロントマンが客を確認してから鉄格子の錠を開ける。中に入ってチェックイン。またこの前の部屋だと変な臭いがして陰気臭くて嫌だなと憂鬱な気持ちになった。しかし、今回は前回よりましな部屋だったが相変わらず窓のない部屋だった。ボーイが手を出してチップをせびったので有り合せの1.00ソル硬貨を与えた。チェックインの時、フロントで日本女性と会って一言ふたこと言葉を交わした。今着いたばかりで、夕食のハンバーグか何かを買いに行くところだと言う。
 部屋の隣が小さな台所になっている。機内で軽食が出たが、少し足りない。近くにスーパーがあるが夜道は怖いので思い切ってフロントへ行き、台所を借りる交渉をした。OKが出たのでラーメンを作って食べた。これで日本から持ってきたラーメンを全部食べたことになる。明日はナスカへ行く。

   4月19日(金)曇り、後晴れ Lima 13:30-(バス)20:00 Nazca
 今日は12時半に迎えが来てバスでナスカへと向う。ナスカは、神秘と不思議の謎の巨大地上絵で世界的に知られている。滞在時間が1日しかないので、天気が当れば良いがどうだろう。少し気掛かりになる。
 5時半頃目が醒めたが、6時までベッドにいた。6時頃起きてナスカの資料などに目を通し、8時頃近くのスーパーに朝食の食材を買いに行く。スーパーから帰ってきて隣の台所で日本から持ってきた米でご飯を炊き、インスタント味噌汁と今買ってきたハムで朝食。最後にヨーグルト、牛乳、みかんで締める。食事後、少しCNNニユースを見るが特別のニュースも入らない。又、日記を書いて午前中を過ごす。
 打ち合わせ時間通り、12時半丁度に昨日空港に迎えに来たガイドが来た。15分ほど車に乗ってバス会社に着く。出発は13時半だから、未だ1時間近くある。VIPの待合室に通されてそこで待つが、中々バスが来ない。ようやくバスが来て乗り込んだのが2時過ぎ、それまでガイドはずっと付き添って居てくれた。
砂漠地帯の中を突っ切ったパンアメリカン・ハイウェイ/写真転載不可・なかむらみちお  バスは二階建てで中々豪華だ。結局ガイドはバスが発車するまで見送ってくれた。沖縄出身の二世といわれてみれば沖縄の感じがする無口な実直な人だった。
 バスは砂漠地帯の中を突っ切ったパンアメリカン・ハイウェイを快適にナスカに向かう。途中で軽食のケーキとソフトドリンクが出る。途中のピスコ、イカの辺りで夕陽が素晴らしかったが、電線が邪魔して写真は撮れなかった。
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        Nazca(ナスカ)
 日もトップリと暮れてナスカには9時頃に着いた。今日泊るホテルメゾンスイスのバスが迎えに来ており、男女二人の外国人と共にホテルへ向かった。
 ホテルは街からおよそ2q離れた飛行場の真向かいにある。チェックインの後、中庭のプールの脇を通ってコテージのような部屋に案内される。部屋はベッド二つとテレビ、トイレ、洗面所、シャワーがあるが、至ってシンプルな感じがする。ベッドの上には毛布ではなく、布切れ一枚だけには驚いた。ここは平地なので温かく、これ一枚で良いということか。少し離れたレストランからはフォルクローレの演奏が聞こえてくる。もう夜も遅いのでシャワーを浴びて寝る。午前5時に目が醒めたが、外は未だ暗いのでベッドの中にいる。

   4月20日(土)晴れ Nazca
美しい花が咲く芝生の中庭/写真転載不可・なかむらみちお  6時に起床して顔を洗い、外を見ると明るくなってきたのでカメラを持って外に出る。明け方から鶏の時の声が激しい。それに交じって野鳥の声も聞こえる。コテージは、美しい花が咲く芝生の庭の中にあり、小鳥のさえずりが聞こえる。また少し離れてはいるが、ホテルの前は大きな道路なので車の音が夜通し激しい。ホテルの前の道路を隔てて、空港になっている。丁度いま朝日が昇るところで美しい。今日は空から地上絵を見る。手前に駐機しているセスナ機を入れて、向こうの山脈から陽が昇ってくるところを写した。
 レストランで朝食を済ませる。レセプションに行ってみると私は8時フライトになっているという。急いでカメラなどを用意する。
空から見た地上絵(宇宙飛行士)/写真転載不可・なかむらみちお  8時過ぎ、バスで空港に送ってもらい、フランス人らしい老夫婦と一緒にセスナ機に乗り込む。セスナ機は滑るように飛び立ち、風もないので快適なフライトだ。10分ほど飛んで最初の地上絵が見えてきた。パイロットが我々の方を振り向いて日本語で「クジラ」と教えてくれた。急いでカメラを向ける。昔、私が現役時代に取材で乗っていたセスナ機は窓の中ほどを繰り抜いて、普段はプラスチックの板をあてがって止めてあり、そこからカメラのレンズを向けて撮影したがこのセスナ機はそんな窓はないのでプラスチックの窓越しに撮影することになる。
 続いてどこまでも真っすぐな直線や幾何学模様のTriangles、Trapezoid、宇宙飛行士、サル、イヌ、ハチドリ、コンドル、蜘蛛、手、木、パリワナ、オウムなどの巨大地上絵の上で右に左に交互に旋回して充分に見せてくれた。その都度写真も充分写すことが出来た。
ハチドリ/写真転載不可・なかむらみちお  一体、誰が何のために…。紀元300年〜800年頃にかけて、海岸から80qほどの乾燥地帯にナスカの人々は、広大な大平原(パンパ・インへニオ)に200にも渡る直線、三角形の図形、動物、魚、虫、植物などの絵を措いた。それも空中から見なくてはわからないほどの巨大な大きさ。いったいこれらは、何を意味しているのだろうか。多くの人々がその謎にとらわれ、多くの仮脱がたてられた。しかし、確実に分ったのは、絵はパンパを覆った黒い石や砂を掻き分けて地表の砂を取り除き、白っぽい地面を出すことによって描かれていること。そして年間を通してほとんど雨が降らない気候が、地上絵を現在にまで残したということぐらいである。しかし、地上絵は毎年少しずつ消えていると言う。絵の大きさは10mから大きなものでは300mにも及び、その数およそ30個。線と幾何学模様は300本を数える。多くの謎を秘めたまま、大地という巨大なカンバスに今なお刻まれている。地上絵の存在は地元の飛行士などにより、かなり前から知られていたが、世界的に有名になったのは1939年、学者によって発表されてからである。
 30分位の飛行でひと通り見て廻り、写真も撮って又もとの飛行場に無事帰って来た。来た時と同じようにバスでホテルに帰る。これでもうナスカの用事は終った。
パンアメリカン・ハイウェイ沿いに立っているミラドール/写真転載不可・なかむらみちお  飛行機からの地上絵だけでナスカ訪問を終えるのは惜しい。資料を見たり手紙を書いたりしている内にナスカに来たらセスナ機から見るだけでなく、地上絵の研究家で故マリア・ライヘ女史が建造したMirador(ミラドール)という観測塔に上って、地上絵を近くから見たら良いと書いてあるので、ホテルのフロントに申し込み、ホテルの紹介で乗用車をチャーターして行ってみる。街を通り抜け、パンアメリカン・ハイウェイを北上する。市内からミラドールまでは約20km。
 観測塔は地上絵のほぼ中心、パンアメリカン・ハイウェイに沿って立っている。地上絵は溝の深さ10p、幅20pほどで、近くで見たところ車の轍の様にしか見えない。そこから巨大な絵をイメージするのは無理である。地上絵の中に入ることは禁じられている。砂洲に立つミラドールの上から地上絵ウォッチング。ここからは“手”と“木”の一部が見られ、あらためて絵の大きさに驚く。
 ※考古学者ポール・コソックとマリア・ライヘ女史によると、この巨大な地上絵の図形は星座に関係があり、夏至・冬至や春分・秋分の最終的に古代天文学の暦として使用されたと述べている。「神秘と不思議・ナスカの地上絵」(著作発行:アネタ・デゥスト/ホセ・ヘルセル・アルゲダス、イポカンポ出版S.A.C.)より。

ホテルのプール/写真転載不可・なかむらみちお ペルーのビール「クスケーニャ」/写真転載不可・なかむらみちお  帰りに街で食料品を買って帰り、ホテルの部屋で昼食の後、プール脇で夕方4時まで日記を書いたり資料を再点検したりして過ごす。なにしろ暑い。北海道の真夏のようでTシャツ一枚で過ごす。今夜はこのホテルにもう一泊して明日の午後、来た時と同じバスでリマに帰る。
 この旅も残り少なくなってきた。この国にいる間にペルーの名物料理を味わっておきたい。このホテルのレストランのメニューを見せてもらったら、鳥肉料理がメインだ。お目当てのペルーを代表する料理のひとつ、魚介類、野菜のスープでさっぱりした味というCebiche(セビッチェ)がない。それに街から離れているためか値段も高い。それならわざわざここで食べる必要もない。しかし、何も食べないわけにもいかないので、散歩がてら街まで行って何か食材を買ってくることにした。
 街までは歩いておよそ30分と聞いているし、先ほど車でミラドールへ行って来た帰りにも寄って買物をしてきたので土地感もあるので歩いて行くことにする。
 夕方4時頃ようやく少し涼しくなってきた。大きな車が往来する広い通りの脇をぶらぶら歩き始める。通り掛りの乗用車が近くを通りしなにやたら警笛を断続的に鳴らして行くので気が散って仕方がない。これは自営のタクシーで、乗らないかと売り込んでいるのだ。こちらでは車さえ持っていれば誰でもタクシーに早変りすることが出来るようだ。きっと小遣い稼ぎをしているのだろう。こういうタクシーはともすれば危険だから乗らないほうがいい。利用する時はホテルから電話で呼んでもらう黄色いタクシーを利用した方が安全だ。
これは何だろう/写真転載不可・なかむらみちお  道路脇の日干し煉瓦の平屋辺りから日本語で「オトモダチ」と声が掛る。それが子供であったり、大人だったり。子供は組になった絵葉書などを売る少年であり、大人は食堂などの客引きだったり。だから無視する。関わり合いにならないのが一番の安全だ。金儲け主義でどうせ碌な品物を売るわけではないのだから。
 歩いて30分と聞いていたが、先ほど来た時のロータリーが中々見付からない。思ったよりも遠い。街道が見えてこない。右側に行く道があった。そちらに曲がってみたが、どうも感じが違う。元の道に引き返して更に進む。もう少し行くと又右に曲がる道があった。感じからいうとこの辺だが、見た感じが違う。まぁ、右に行けばいずれは街に入るはずだと思い、そのまま進む。橋を渡る。この川は見覚えがある。左を見ると、先ほど来た時に渡った橋がある。前方に街も見えてきた。つまり、少し早めに右に曲がってしまったらしい。
 街を流してみるが、先ほど買物をした見覚えのある店が見当たらない。通りの露店でパンを売っていたので今晩と明日の昼の分、併せて6個のパンを買う。1ソルを渡すと0.50ソルのお釣りがきた。先ほど2個を買っても0.50ソルだった。つまり1個も10個も同じということか。その先の小さな店の店頭に卵があった。店番の女の子に「ボイル?」と訊いても通じない。卵を割って皮を剥く仕草をしたら、「ウン」と頷いてくれたので半信半疑で先ほどのお釣りに貰った0.50ソルを渡したら2個くれた。その先で先ほど買物をしたスーパーへの道を尋ねるが中々言葉が通じない。ようやくスーパーを探し当てて、水を買う。2.80ソルと先日別の町で買った時よりも1.00ソルも高い。
 かなり涼しくなった。その三つを持ってホテルへと歩いて向かう。ロータリーの辺りに来たらどの道を選んだら良いのか迷う。通り掛かりの2、3人に当ってようやくそれらしい夕暮れ迫る道をトボトボとホテル目指して歩き始めた。西の空が一面に広く夕焼けになった。子供の時以来見たこともない雄大な夕焼けだ。美しい。しかし、危険を避けてカメラを持ってこなかったので写すことが出来ない。残念!
 6時過ぎ、夕闇迫る頃、ようやくホテルに無事到着。心地よい疲れが残る。部屋に帰って早速昼に買ってきたワインを開ける。ナスカ産だと言うから買ったが、甘口で私の口には合わないが、まぁいいか。昼に口を開けたハムは明日まで持ちそうにもないので全部食べてしまう。チーズはプーノで買ったのを持ってきたのだが、ナイフをリマのホテルに置いてきたので、レストランの調理場へ行って切って貰う。卵を割ってみると生卵だった。ガッカリ。
 夕食を済ませた後シャワーを浴びて、今日は少々疲れたし部屋の電灯も暗くて何もする気がしないので8時頃寝る。

   4月21日(日)晴れ Nazca 13:30-(バス)20:00 Lima
 蚊の羽音で目を醒ます。未だ4時前だ。蚊取線香はリマのホテルに置いてきてしまった。一応手を振り回したり掛けていた布などで追い払いながらまんじりともせず5時半までベッドの中にいた。
 6時半頃起きて外を見る。晴れてはいるが薄雲が懸っている。カメラを持って道を挟んだホテルの反対側の飛行場へ行き、朝日の具合を見ながら飛行場の周りをぶらつく。三輪車に籠を積んだ少年が二人ほど笛を吹きながら交互に通り過ぎる。笛は昔の輪タクなどに使っていたラッパのようなものだ。まるで昔の豆腐売りのようでもある。籠の中を見せてもらったらパンがいっぱい入っていた。なるほど、それで朝早くから笛を吹いて売り歩いているのだ。
 7時過ぎに部屋に戻り、顔を洗い、残り一個の生卵とわかめのインスタント味噌汁の袋を持ってレストランへ行く。ウエイトレスに卵で目玉焼きを作ってくれるように頼んだが上手く通じたかな?
 どうやら上手く目玉焼きが出来てきた。インスタント味噌汁をコーヒー茶碗に入れ、お湯を注いで溶かして飲む。ホテルの朝食は果物のジュースとパン3個、それにコーヒーといたってシンプルだ。
 早くも向かいの飛行場から爆音も高らかにセスナ機が飛び発って行く。食事の後、飛行場へ行ってセスナ機が離発着する様をなんとはなく、まるで子供の時初めて札幌で見た電車をホテルの前の路上で一日中見ていたようにボケーと眺めていた。空は昨日よりも少し薄雲が懸っており、写真を撮るのには昨日のほうが良かったようだ。
 部屋に帰り、荷物を整理して帰り支度をした後、未だ時間があるのでプールサイドのテーブルで日記を書く。10時過ぎには空も晴れてきた。少し暑くなってきたのでTシャツで過ごす。今日は午後1時、ナスカ発の来た時と同じバスでリマに帰る。先ほどホテルのフロントの“なんでも屋さん”のキイコさん(若い男性)に訊いたら、バスで出発地点に送るので1時にロビーで待って居れとのことなので安心してそれまで過ごす。
 12時になったので、昨日街で買ってきたパンをプールサイドに持ち込み、昼食。12時半過ぎに荷物を持ってロビーに行き待機する。
バスは定刻通りリマへと向かって出発/写真転載不可・なかむらみちお  1時丁度、他の客と共に街のリマ行きバス発着所へと向かう。着いたところは、ナスカで一番モダンで豪華なNazca_Lines_Hotelだった。パティオにはプールがあり、プールサイドには季節の花が彩りを添え、まさにリゾートの雰囲気満点。そこのロビーでしばらく待つと、発車5分前にバスが到着した。乗客全員が乗り込むとバスは定刻通りリマへと向かって出発した。乗客は三分の一ほどだが、途中の町で何度か停車して乗客を拾って行くので、リマに着く頃は満員になることだろう。
 ナスカの街を発車して間もなく、昨日車をチャーターして来たミラドールの脇を通り抜ける。暖房が利き過ぎていて暑い。運転手が間違っているのではないだろうか。カメラの入ったリックを自分の席に置き、近くの席に移る。バスは砂漠の中に作られたパンアメリカン・ハイウェイをリマに向かってひた走る。いくつかの町を通り抜け、何度か停車して客を拾う。
 4時間ほど走ってビスコの町を過ぎた辺りから左の窓に夕焼けが今日も美しく見られた。最後の停留所で遂に満員となって自分の席に戻る。
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        Lima(リマ)
 バスは定刻丁度にリマのバス会社に到着した。下車して待合室を通り、外に出るとタクシーの客引きが激しい。それらに目もくれず近くのタクシー乗場に行き、一台の黄色のタクシーの運転手にホテルの住所を示す。運転手は一寸待ってくれと言ってその住所録を持って仲間のところに行き、場所を訊きに行った。納得して帰って来て、車に乗れと言うので、幾らかと尋ねると10.00ソルと言う。私は片手を出して5.00ソルと言うとOKという事で乗り込む。
 タクシーは夜のリマの町を走り、ホテルへと向かう。ホテル近くに来たらしいがホテルが見当たらない。運転手が車から降りて近くの大きなホテルへ行き訊いて来た。
 ようやく私の今夜泊まるホテル・スイト・エウカリットスの前に着いた。荷物を持って車から降り、ポケットから5.00ソル貨幣を出して手渡した。運転手がけげんな顔をして何か云っている。構わずホテルの中に入る。振り返って見ると車は停まったまま運転手がこちらを見て居る。無視してホテルのフロントマンとチェックインの手続をしていたら車は行ってしまった。
 部屋は先日予約して置いた10号室だ。フロントマンが10号室を取って置いたよと言って居る。なぜ10号室を指定したかと言うと、ここに到着した日に泊った部屋が異様な臭いがして、クスコから帰って来た時にはこの10号の部屋に泊ったらまぁまぁだったのでナスカへ行く日に頼んでおいた訳である。とりあえずシャワーを浴びたら9時を過ぎていたのでそのままベッドに入って寝る。

   4月22日(月)晴れ Lima
 いよいよ今夜零時を廻ったらリマを発って日本へ向かう。5時頃目を醒まし、ベッドの中でテレビを見る。CNNニュースを探す。特に如何ということもないようだ。
 6時頃起きだして荷物を整理する。その後、8時頃近くのスーパーに行って食材を買い、帰って来て残りの米でご飯を炊いて食べる。スーパーで買ったグラナリージャという果物が美味かった。これはウルバンバのキンタ・レストランで食べて美味しかったので買ってみた。その後荷物を整理したり、日記を書いたりして午前中を過ごす。今日は最後の日なのでなんとかペルー名物のCebiche(セビッチェ=魚介類や野菜などの煮込みスープ)を食べたい。ガイドブックに載っているレストランに行きたいのだが、カメラを持っての夜道の帰りは怖い。勿論タクシーで帰って来る予定だが、それでも心配だ。今日は暇なので先ず昼から下調べに一度歩いて行ってみる。その上で考えよう。帰るまでにペルーのお金(ソル)を上手く使い切ることも考えなければならない。だからと言ってお金を全く持っていないとタクシーに乗った時に困るし、そこが工夫のしどころだ。空港への迎えの車は夜の8時半に来ることになっている。
 11時過ぎ、海岸までぶらりと散歩した。崖の上からは海に突き出した海上レストランが見えた。ここの夕陽を写した後、この海上レストランで夕食を食べようかとも思ったが、下に降りて行く道も見付からない。曇っているので夕焼けは期待できないかもしれない。8時に迎えに来るので落ち着かない。カメラを持って歩いて万が一のことがあっても困るので大事を取ってここは諦めてホテルが教えてくれた街のカフェにする。せっかく帰国が迫っているのに、ここでトラブルが生じたら事が面倒だ。
「恋人たちの公園」/写真転載不可・なかむらみちお  崖下に降りる道を探しながら海岸沿いに歩いていたら「恋人たちの公園」に着いた。恋人達の公園という名にふさわしく、公園の真ん中に恋人が抱き合ってキスをしている巨大なモニュメントが置かれている。やっぱりここは南米、発想が大胆だなあと、感じ入ってしまうモニュメントである。海を臨む公園内には花々が咲き乱れ、一人ぼっちでも安らぐ美しさ。でも、周りは恋人達でいっぱいだ。そこのベンチに座り、持ってきたハムサンドを食べる。日本には居ない変な鳩が近寄って来たのでパンを一切れ与える。通り掛かった婦人が「シーイズハングリ」と言って通り過ぎて行った。
 ここからホテルで教えて貰ったセビッチェの店のあるロータリーの方へ行くと、ホテルと三角形の地形に歩くことになる。地図とコンパスを頼りにロータリーの方へ向かうと見覚えのある中央公園に来た。この中央公園と近くのケネディ公園がミラフローレス地区の中心だ。ここで目指すカフェを探すとすぐに分った。値段は14.50ということで後で来ることにする。帰り際にレコード店があったので立ち寄り、店員にフォルクローレで一番良い演奏家のCDが欲しいと相談する。
 彼はこれが一番良いと言ってマチュピチュの写真を表紙にした一枚のCD「Vient-en-los-andes」(IEMPSA.IEM-0046-2)を出してくれた。居合わせた客も親指を突き出して頷いていた。ケーナの演奏で「コンドルは飛んで行く」とか「花まつり」も入っているのかと念を押すと「入っている」という。どんな演奏家かは分らないが、店員がペルーで一番の演奏家だと太鼓判を押すので、10jで買ってホテルに帰る。帰ってから聴くのが楽しみだ。日本に帰ってから聴いてみると、各曲によって演奏家が違うようだ。少し疲れたのでベッドで2時間ほど休んだ。その後、テレビを見て時を過ごす。
 5時半になったので夕食に出掛ける。ホテルを出て見ると西の空に太陽が紅く沈みかけている。どうしようかしばらく迷った挙句、誘惑に負けて海岸の方へ向かった。途中、道を間違えて20分程時間をロスし、海岸に着いた頃には陽は水平線近くの雲の中に入ってしまった。昨日や一昨日のような雄大な夕焼けは期待出来ないが、ここまで来たのだから一応海岸のレストランまで行ってみる。矢張り夕焼けは駄目で、空が幾らか赤味があるところを選んで一応シャッターを切った。
 暗くなると危ないので、急いで引き返す。少し薄暗くなりかけてきた元来た路を急いで引き返す。上り坂のうえ、急いでいるので汗ばんできた。ようやく中央公園の近くの「カフェカフェ」というレストランに入り、ワインとペルーを代表する料理のひとつセビッチェを注文する。
ペルーを代表する料理セビッチェ/写真転載不可・なかむらみちお  やがて出てきた料理はイカの煮たのを小さく切った上に、紫玉葱のスライスを載せ、酢で味付けしている。付合わせのとうきびの粒が大きい。そら豆ほどある。もうひとつの付合わせはカボチャらしい。香辛料、レモン汁などであえてある。さっぱりした味わいは日本人の口にもピッタリである。
 レストランを出てからホテルの近くのスーパーへ行き、残りのコインで買える物を探したら缶ビールがあったので、これをひとつ買った。これでペルーのお金は0.20ソルを残して全部無くなった。
 ホテルに帰って一休みした後、日記を書く。後は迎えが来るのを待つばかりで8時過ぎにロビーに出て待機する。
 8時半、迎えの車が来た。昨日までのボソッとした男とは違う男だった。いずれにしても今度もおとなしそうな冴えない男だった。今日のお迎えの車は乗用車だった。
 夜のミラフローレス地区を通り、ホルヘ・チャベス国際空港へと向かう。30分程走って空港に着く。送ってくれた現地旅行会社のガイドは空港の建物の中には入れない。ビルの入口で分かれた。ビルの中に入ると、デルタ航空アトランタ行きのカウンターの前には搭乗手続きを待つ長い乗客の列が出来ていた。先ず、飛行機に預ける荷物を検査機に通す。カウンターの上の二階ロビーの手摺には見送りの人々が並んでいた。送ってきてくれたガイドも居た。チェックインを済ませた後、そこから少し離れた銀行で空港使用料25jを支払う。
 搭乗口を入る処でガイドに手を振って別れる。手荷物検査もスムーズに済み、搭乗口へと向かう。通路の両側に免税店がずらりと並んでいる。ブランデーを見たが日本よりも安くはないので何も買わずに通り過ぎる。搭乗口待合所には未だ数人の乗客しか来ていない。時間が来るまでそこで待機する。
 搭乗時間が近付いてきた頃、航空会社の人達が例の手荷物検査機を運んで来た。さっき、ここに入る入口で検査したのだから又検査をするというようなことはないと思ったがいやな予感がした。
 搭乗時間間近になったら、乗客全員が待合室から隣のコンコースへと移動させられ、改めて手荷物検査をしてから待合室に通された。
 間もなく搭乗が始まり、私は尾翼に近い後方のタラップから搭乗した。座席は窓際だが、通路側までの3席が空席のまま、ほぼ定刻にリマのホルヘ・チャベス国際空港を飛び発った。

   4月23日(火) Lima 00:10-(DL274)08:06 Atlanta 10:20-(DL055)
 リマの空港を飛び発って間もなく、飛行機が水平飛行に入ったところで飲み物と食事が出た。この後はもう何もすることがない。機内のテレビが映画を上映し始めたが、言葉が分らないので面白くない。
 いつの間にか横になって寝てしまった。目が醒めると機内は明るく、窓の外を見ると夜が明けていた。時計を見るとアトランタ到着にあと一時間ほどだ。朝食が出たのかどうかは分らない。

     Atlanta(アトランタ)
 アトランタ空港に到着して荷物を受け取り、ゲートを出て再び荷物を預ける。荷物を受け取った係員が、次に行く所を「E9」と教えてくれた。かなり歩いてE9のゲートに辿り着く。ここで又かなり待ち合わせ時間がある。
 アトランタ航空の成田行き搭乗口前待合室の椅子に座って時間待ちをする。やがて女性の係員が来た。日本人のようだ。何時頃手続が始まりますかと尋ねると、特別今すぐにしてくれるとのことでやってもらう。彼女は「今日は空いているので寝て行きたいですか」と訊くので「ハイ」と答えると、後方の3席並んで空いている所を取ってくれた。
 搭乗が始まった。ゲート近くに長テーブルが置かれ、係員二人が客の中から適当に選び出して手荷物や身体検査を始めた。大方の乗客はそのまま通過したが、私が引っ掛かってしまった。リックの中からポケットの中の物まで全部出させられて調べられた。非常に不愉快だったが、仕方がない。しかし、なぜ私がピックアップされたのかよく分らない。ともかく何事もなく検査も無事済んで機上の人となる。
 座席は後方の通路を挟んで真ん中の左の通路側だった。向こうの通路側には日本人の男が座っている。窓側の席は二人掛けとなっている。夜寝て行く為のスペースを取るために3席右に移り、真ん中の席に座った。やがて窓際に二人で座っていた日本人の男が私の席へ移動して来たので、そこは私の席だからと断ると、彼は今まで私が座っていた真ん中の席に移って来た。これで、チェックインの時の彼女の配慮して寝て行けるようにしてくれたのもダメになってしまった。
 飛行機は定刻通りアトランタ空港を出発して一路日本へと向かう。これでどうやらようやく日本に帰る目途が付いてきた。
 食事も済み、映画が何本か上映されたが相変わらず言葉が分からないので面白くない。永い退屈な時間が過ぎる。こんなことならMDをトランクに入れずに機内に持ち込めば良かった。今更後悔してもどうにもならない。13時間余りの永い時間をどうやって過ごそうか。リマからアトランタまでは寝て来れたが、アトランタから成田までは一睡も出来なかった。

   4月24日(水) 13:24 成田 18:30-(JL565)20:05 新千歳-札幌
       無事帰国

 飛行機は13時25分、定刻通り無事成田国際空港に着いた。入国審査も簡単に済み、荷物を受け取って外に出る。
 先ず近くの売店で100円玉を10円玉にして貰って家に電話をする。テレフォンカードを持って来れば良かったのだが、いつも成田空港から家に10円玉1個で電話をしていたので紛失したら困ると思って持ってこなかった。家では留守中何事も変わったことはなかったようでひと安心。
 この後、市川市に住む息子の家に電話をしたら嫁さんが出た。幼い孫も順調に育っているらしいが、電話口に出ても声を出してくれなかった。続いて、この度の旅行で手配をしてくれた東京の金城旅行社に電話をした。その前に又100円玉を10円玉にくずしてもらった。千葉とか、東京はここから近いと思ったが、以外に電話賃が掛る。こんなことならテレフォンカードを持ってくれば良かった。
 成田は意外と蒸し暑かった。先ず、横浜の崎陽軒の焼売を売っている店を探す。四階のレストランやお土産店などの並ぶ階にあると言うので行ってみる。そこにはエスカレーターはあるが、ワゴンは使えない。エスカレーターの前で荷物を全部降ろし、それを持って四階へ行く。そこで焼売を買って今度は地下へ降りて、そこのコンビニで缶ビールと蕎麦弁を買う。これで夕食は万全の構えだ。
 再び一階の到着ロビーへ行き、そこのソファーで缶ビールを先ず一口。焼売を開けたら、真空パックで今すぐには食べられそうにない。缶ビールの口は開けてしまったし、どうしよう。
 とにかく口を開けた缶ビールを片手に荷物全部を持って再び四階の焼売を買った店に行く。羽田空港では今すぐ食べられるパックを売っているのだが、成田空港では売っていないということなので、先ほど買った焼売を返品して再び地下のコンビニに行って寿司を買い、再び三度(みたび)一階の到着ロビーに行ってそこのソファーでビールを飲みながら蕎麦を食べた。あとの足りない分を寿司で補った。
 食事の後、国内線出発カウンターへ行って搭乗手続をした後、出発待合所へと向かう。ここで出発まで時間待ちをする。出発時間近く、ゲートからバスで飛行機へと向かう。飛行機は定刻よりも少し遅れて出発した。
 札幌に着いたら激しく雨が降っていた。タクシー乗場からタクシーに乗って家へ向かう。タクシーのテレビが10時の筑紫キャスターのニュースをやっていた。
 家には10時過ぎに着いた。妻は「遅かったね、どうしたの」と尋ねる。妻は二週間ほど前にトルコ旅行から帰って来たのだが、その時も千葉県の息子の家に寄った後、今日私が乗った便と同じ便で帰って来ていて、9時過ぎには着いたと言う。妻はそのつもりで風呂にお湯を入れたのだがもうぬるくなったから早く入れと言う。
 久しぶりに風呂に入り、日本の良さを実感した。日本人はやはり風呂が一番だ。風呂に入り、ようやくリラックス出来た。風呂から上ってから久しぶりに焼酎をコップいっぱい飲んで寝た。

 南米の国はどこも貧しく、空港やバスターミナルに降り立つと、私設タクシーの客引きや女、子供の物売りが雲霞の如く私を取り巻く。その中を掻き分けるようにして通るのは切ない。
 発展途上国を旅して、私は恵まれた国にいる幸せを実感としてひしひしと感じた旅であった。
                                -おわり- お退屈様でした。

 ※各地の詳細説明は「地球の歩き方」(ダイヤモンド社)より引用

お金は無くとも旅は楽しめる。
旅は毎日が未知の遭遇だ。だから旅は面白い。
旅というのは、生活習慣を含めた文化の違いを楽しむものである。

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