南欧(スロヴェニア、クロアチア、エーゲ海の島々、南イタリア)の旅

ブレッド湖(スロヴェニア)/写真転載不可・なかむらみちお

“人はパンのみにて生くる者に非ず(新約聖書マタイ伝による福音書)”心にも潤いを与えなければならない。
その為に私はまた旅に出る。

2008年5月26日から6月24日迄スロヴェニア、クロアチア、エーゲ海の島々、
南イタリアとヨーロッパの各地を旅して来ました。

目  次

スロヴェニア… ブレッド湖 リュブリァーナ
クロアチア… プリトヴィッツェ ドブロヴニク
ギリシャ… サントリーニ島 ミコノス島
イタリア… パレルモ タオルミーナ アルベロベッロ
 ソレント アマルフィ海岸 カプリ島 ポンペイ ナポリ
ワインと食事 遂にダウン  言葉は分からなくても 旅の終りに  旅とは つぶやき

         スケジュール
2008年

5/26(月) 札幌-新千歳 07:50-(NH2152)09:25 成田 11:25-(NH205)16:40 Paris 19:55-(AF3108)21:45 Ljubljana
27(火) Ljubljana 08:00-09:20 Blejsko jezero 15:30-16:50 Ljubljana
28(水) Ljubljana
29(木) Ljubljana 7:30-10:12 Zagreb 11:30-13:40 Nacionalni Park Plitvicka jezera
30(金) Nacionalni Park Plitvicka jezera
31(土) Nacionalni Park Plitvicka jezera 11:20-(バス)17:30 split
6/01(日) Split 01:30-05:45 Dubrovnik
02(月) Dubrovnik
03(火) Dubrovnik 06:25-(OS8402)07:20 Zagreb 08:10-(OS7052)09:05 Wien 10:35-(OS801)13:33 Athens
04(水 Athens(Piraeus) 07:25-(船)15:50 Santorini
05(木) Santorini(青いドームの教会・フィラ、ワイン博物館)
06(金) Santorini(イア)
07(土) Santorini(イア)
08(日) Santorini 11:50-(船)14:25 Mykonos
09(月) Mykonos(スーパー・パラダイス・ビーチ)
10(火) Mykonos
11(水) Mykonos 14:15-(船)19:45 (Piraeus)Athens
12(木) Athens 14:05-(AP4402)14:45 Napoli 16:20-(AP6180)17:15 Palermo
13(金) Palermo
14(土) Palermo (07:00)-(バス) Catania 10:00-(バス)11:35 Taormina
15(日) Taormina 14:40-(列車)15:40 Messina 22:50-(バス)
16(月) 05:00 Tarant 07:20-(バス)07:45 Martina 08:20-(バス)08:50 Alberobello
17(火) Alberobello
18(水) Alberobello 05:15?(列車)06:36 Bari 07:42-(列車)10:35 Caserta 11:56-(列車)12:43 Napoli 13:11-(列車)14:20 Sorrento
19(木) Sorrento -(船) Positano -(船) Amalfi -(船) Salerno -(バス) Amalfi -(バス) Ravello -(バス) Amalfi -(バス) Positano -(バス) Sorrento
20(金) Sorrento - Isola di Capri - Sorrento
21(土) Sorrento -(列車) Pompei Scavi(Villa misteri) -(列車) Napoli
22(日) Napoli
23(月) Napoli 12:40-(AF2179)15:00 Paris 20:00-(NH206)
24(火) 14:30 成田 -(列車) 羽田 18:50-(NH4723)20:20 新千歳-札幌

 5月26日(月)曇り 札幌-新千歳 07:50-(NH2152)09:25 成田 11:25-(NH205)16:40 Paris 19:55-(AF3108)21:45 Ljubljana
 パリのドゴール空港に着いてからスロヴェニアのリュブリャーナ行きの搭乗口へ行くまでが大変だった。千歳の搭乗受付窓口ではパリに着いてからリュブリャーナ行きの搭乗手続きをするように言われた。ドゴール空港は広いし、ターミナルの数も複数あるので自分の行きたいターミナルとゲートを探して移動するのが大変な空港である。
 第一ターミナルに到着した時、全日空の係員から渡されたプリントに従い、バスで第二ターミナルへと移動。第二ターミナルに到着したところで今度はエアフランス航空の受付窓口で登場手続きをするように書いてある。
 バスから降りて第二ターミナルに入ると右側にエアフランスのカウンターはあるが、係員は誰もいない。困った。そのままエスカレーターで上って入国審査を受ける。そこで聞いてみても分からない。TVモニターの掲示表示の前に立って探していると先ほどの入国審査の係官が来て見てくれた。そして、14番の窓口へ行けという。
 その係官が指し示してくれた方向に進み、14番を探すがなかなか見付からない。何度か聞いてエスカレーターを昇ったり下ったりしながらあちらこちら迷った末、ようやく14番窓口に到着した。
 女性の係員がいて、17時55分まで待てという。近くのベンチに腰を下ろして時間まで待つが一向にその気配がない。不安になって再びその係員に尋ねるともう少し待てという。30分ほど待ってからようやく別の係員が来て受付カウンターの上の電光表示がリュブリャーナ行きと表示された。それからもしばらく待ってようやく手続きを済ませ、ボーデングパスを持ってゲートへと進む。出発時間までは未だかなり時間がある。
 ボーデングパスに示されている搭乗時間を過ぎても搭乗が始まらない。代りに何やらアナウンスがあったが言葉が分からない。搭乗が遅れるらしい。
 更に1時間近く待ってようやく搭乗開始。バスに乗って飛行機へと向う。小さな飛行機の前でバスが停まったが飛行機の周りや機内では未だ出発準備中でバスの中で待たされた。
 ようやく搭乗。すでに正常の出発時間よりも1時間ほど遅れている。当然到着も遅くなるだろう。機内に入ると座席が横3列のみの小さい飛行機だ。私の席は非常脱出口のところだった。
 なんとか飛び立つ。揺れる。
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   Slovenija(スロヴェニア)

ブレッド湖/写真転載不可・なかむらみちお

 定刻よりもかなり遅れて無事スロヴェニアのリュブリャーナ飛行場に到着。荷物を受け取り、空港の外に出る。この時間はリムジンバスはないはずだ。それでも一応辺りを探してみる。タクシー数台とワゴン型の車が停まっていた。ワゴン車の運転手に尋ねると、ミニバスだと言う。市内まで幾らかと聞くと8ユーロ(1ユーロ=166.19円)と言う。悪くない。その車に乗り込む。運転手は尚も他の客を探しているが、誰もいないようだ。結局私一人を乗せて空港を出発、闇夜の道を街を目指して走る。
 やがて街に入り、車はホテルの前まで送ってくれた。そこで10ユーロー札を差し出すとお釣りのコインと「Airport Transfer」と書かれた名刺を渡された。なかなか良心的な運転手だった。

  リュブリャーナのホテル Hostel Celica は元《ムショ》
リュブリャーナのホテル/写真転載不可・なかむらみちお  ホテル(Hostel Celica・Metelkova 8 1000 Ljubljana)は派手な色を塗った石造りの二階建てだった。カウンターで受付を済ませ、鍵を貰って荷物を引きずりながら二階の部屋へと階段を登る。これが結構きつい。
 部屋のドアを開けてビックリ。小さな部屋の正面に木製の台があり、テーブルと椅子がワンセットあった。更にその台から入口を入ったところの上にベットがあり、梯子で登るようになっている。ここはオーストリア・ハンガリー帝国時代に牢獄として造られた。その後美術館として使われていた物をホステルにしたもの。部屋は元独房。未だ刑務所に入った事がないので貴重な体験だ。
 荷物整理などに時間が掛かる。小さな窓の外では若者達がパーテーをしているので騒がしい。部屋には洗面台は無く、トイレへ行かなければならない。同じフロアにトイレとシャワー室がある。レストランは一階にある。


    5月27日(火)快晴 Ljubljana 08:00-09:20 Blejsko jezero 15:30-16:50 Ljubljana
 昨夜遅くホテルに着いてから荷物の整理をしたり今日行くブレッド湖の下調べをして、その準備をしている間に午前2時近くになってしまった。
 6時半起床。空は快晴、朝日がビルの陰に光を射していた。幸先が良い。同じフロアにある洗面所へ行き、顔を洗う。7時半、一階の食堂でバイキング形式の食事。パンと牛乳、ヨーグルト、チーズ、ハム類位しかない。パンは黒麦が入っているらしく、あまり美味しくない。それでもハムとスライスチーズを挟んで牛乳で無理やり押し込んだ。
 時間がない。ブレッド湖行きのバスは毎正時に駅前から出発するが、駅まで歩いて5分。その前にトイレに行きたくなった。
 大急ぎで駅前へ向う。ホテルから駅前までは歩いて5分とホテルのフロントの女性が言っていたがどうも5分では行き着かない。途中で走り出してようやくギリギリで駅前に着いた。ガイドブックにバスは駅前からと書いてあるが、駅前が広く、いろいろのバスが沢山並んで停まっているのでブレッド湖行きのバスがどれか分からない。
 何台かのバスを片っ端から訪ね歩いた末、最後の方でようやくそれらしいバスに辿り着いた。後で分かった事だが並んでいるバスステーションには番号が付いており、それを辿ってブレッド湖行きのバスを探せば簡単だったのだが、それが分かっていなかった。
 バスの運転手に行き先を聞くと返事をしない。再度尋ねるとようやく「そうだ」と言う。気難しい人だ。その運転手に料金を払ってようやく車中の人となる。シートに座る間もなくバスは発車した。ヤレヤレ駆け込み乗車でようやく辛うじて間に合った。
ロマネスク調の家々を散見/写真転載不可・なかむらみちお  リュブリャーナの街から郊外に出ると対向車が列を成している。朝の出勤ラッシュなのだろう。車窓からは眩しいくらいに太陽の光が差し込んでくる。やがて辺りの景色は農村地帯になり、一面のどかな田園風景。麦畑が太陽の光を浴びて青々と輝いている。眩しいくらいだ。農作物で一面の緑の絨毯が拡がる。新緑が太陽の光を反射していて眩しい。所々にロマネスク調の家が建っており、異国情緒を醸しだしている。緑の丘陵には数軒の農家と教会が建っている。絵のように美しい。
 いくつかの街で乗客が乗り降りした後、9時20分頃ブレット湖畔のバス停留所に着いた。およそ1時間20分のバスの旅だった。
 バス停留所の前にある建物の中に入ると、女性が一人居た。帰りのバスの時間を教えてもらった後、ついでにトイレに寄る。
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  ブレッド湖 (Blejsko Jezero)
 ブレッド一帯は、1981年に国立公園に指定された。ここではブレッド湖をボートに乗って遊覧したり、古城を見学したり、自然の中でゆっくりと休暇を楽しむ事ができる。“アルプスの瞳”と称されるブレッド湖の景観は、オーストリア、イタリアとの国境に近く、17世紀から既にリゾート地として人々を魅了し、現在も世界中からこの地を訪れる旅人は絶えない。  ブレッド湖は東西2120m、南北1380m、周囲約6qほどの大きさで、ゆっくり歩いて約3時間で1周できる遊歩道が、湖岸沿いに整備されている。
 湖の全景写真を撮るために私はバス停のある街からブレッド湖の対岸にある山の麓を目指して湖畔の東岸を時計回りに歩き始めた。
 日差しが強いのでなるべく日陰を選んで歩く。命の綱となる手持ちの水は量が限られているのでなるべく節約する手段だ。あらかじめ決めて置いた撮影ポイントへと一路向う。
 途中でインフォメーションがあったら立ち寄ろうと思って何度か付近の店に尋ねて見たが言葉が通じないために要領を得ない。最後に大きなホテルのフロントで聞いたら500bほど戻ると在ると言われたが、今更今来た道を戻るのも面倒なので、諦めて帰りに寄ることにして先へと急ぐ。本当はこれから向う撮影ポイントの山はガイドブックには載っておらず、登山口も曖昧なので確認をしたかったのだが、まぁ大丈夫だろう。先を急ごう。
湖畔から湖の向こうに見える城/写真転載不可・なかむらみちお  途中で何回か湖畔から湖の向こうに見える城や教会の建っている中島などを撮りながら更に先へと進む。沿道には丁度アカシヤの花が咲き揃っていて綺麗だ。
 ようやく予ねてインターネットで調べて置いた登山口の標識を見つけた。10時45分登山開始。急な山肌、九十九折のきつい山の小道を登って行く。道は狭くあまり利用されていないようだ。木の根が露出して、その根と根との間を足の置き場を探しながらけっつまずかないように注意深く一歩一歩慎重に登る。蒸し暑い。忽ち息切れがして汗がだくだくと流れてくる。太りすぎかな。当然水を呑む。この調子ではたちまち水が無くなる。目的の展望の利く岩までは1時間と書いてあった。登り始めてから未だ20分ほどしか経っていない。果たしてこの先に目的のポイントに辿り着けるのかどうか心配だ。途中で何度か小休憩を取る。あまりにも蒸し暑いので着ていたシャツと肌着まで脱ぎ、上半身裸で登る。辺りは深い森で他には人気はない。落ち葉を踏みしめて尚も上へと向う。
 背中のリックにはカメラ2台と望遠レンズ、ワイドレンズ、それに水とパン。肩には三脚。“人はパンのみにて生きるにあらず”。しかし、パンと水さえあれば今日1日くらいはなんとかなる。
 深い森の中を登る事30分。途中で犬を連れたアベックと行き遇う。見本の写真を見せてこの先にこのように見えるところがあるのかと尋ねると「メビー」と答えてくれた。
 ようやく一つの目印であった鉄製の階段が見えてきた。それを登り切った大岩の上が撮影ポイントのはずだ。さあ、後少しだ頑張ろう。
ブレッド湖(スロヴェニア)/写真転載不可・なかむらみちお  鉄製の階段を登り切って右側を見るとそこからようやく僅か視界が開けて森林の切れ間から木の葉越しに湖を覗く事が出来た。広く撮ると両側に立つ樹木や木の枝葉が多少邪魔になるが、少し写角を狭めると充分撮影が出来る。
 快晴無風の湖は鏡のように島影や湖岸の景色を映し出している。水面は深く青く、湖岸に近ずくに従ってコバルト色に澄み渡っている。
 絵のように美しい。この使い古された表現が陳腐に響かず、説得力を持って迫ってくる。澄み切った湖面には、ユリアンアルプスの最高峰、標高2864mのトリグラフ山が映し出され、湖に浮かぶスロヴェニア唯一の小島には、バロック様式の教会が自然を見守るように建っている。
 教会から鐘の音が聴こえてくる。ボートで渡った観光客か女性の嬌声も微かに聞こえる。ヨーロッパの町を歩くと、教会や公会堂の鐘楼から時を知らせる「カリヨンの鐘」の音が聴こえる。高低さまざまな音が重なり合う美しい和音が旅情を慰め魂も鎮めてくれる。
 上から見たブレッド湖は本当に絵のように美しい。昔、(1996年夏)妻と一緒にレンタカーで訪れたオーストリアのハルシュタット湖には及ばないが、その次くらいに美しい。
 ここに着いてからも汗が退かない。先ず一杯、水を飲んでから裸のままで三脚を伸ばし、カメラを据えて撮影準備に取り掛かる。
 アベックが一組登って来たが、構ってはおられない。大急ぎで撮影に掛かる。彼らはデジカメで湖の風景を写していた様だが、すぐに下山して行った。
 11時50分、撮影を終えて下山に掛かる。下りは登りよりも足元に注意が必要だ。木の根につまずくと大変だ。急な所では靴底が滑る。膝にも来る。慎重に慎重に一歩づつ下り始める。正午になると中の島の教会からひときは大きく鐘の音が聴こえてくる。
 登りと同じほどの時間を掛けてようやく登山口まで無事降りてきた。そこでようやくシャッを着てみだしなみを整えた。 湖畔で憩う家族連れ/写真転載不可・なかむらみちお  湖畔のベンチへ行き、持ってきたパンやチーズなどで昼食の代りにした。それにしても冷えたビールを一杯グーと一気に飲みたい。
 足元の湖岸の陰から鴨が一羽10p近い小魚をくわえて出て来た。10bほど湖中に行き、こちらを伺うようにして一気に飲み込んだ。鳥が魚を食べるところを初めて見た。彼らは毎日そうやって食を得、生きているのだろう。1日に一体何匹くらい食べるのだろうか。澄み切った湖の中には湖岸から小魚が何匹も泳いでいるのが見える。時には水面に跳ね上がる魚もいた。
 そこを発って今朝来た湖岸の道を通り、バスセンターのある町のほうへと歩き出す。暑い! 手元の温度計を見ると28℃程ある。喉がカラカラだ。ペットボトルの水は残り少ない。気がボーッとしてくる。早く冷えたビールを一杯グーと飲みたい。
白鳥の親子/写真転載不可・なかむらみちお  白鳥が二羽近ずいて来た。見ると雛を5〜6羽引き連れている。近付いてカメラを向けても物怖じせず、手元を悠然と通過して行った。
至福のひと時/写真転載不可・なかむらみちお  ようやく街外れのホテル脇のガーデンレストランにたどり着く。雲一つない快晴無風。蒸暑かった! 汗だらだら。街に降りて来てとりあえず“トリビー”。湖畔に面した席に着きビールを注文。ジョッキを一気に飲み干す。キュウッ!と一杯。美味い。こんな時のビールは本当に美味しい。
 鋭気を取り戻したので再びバスセンターへと向う。途中、ようやく見つけたインフォメーションへ寄ったり、お土産売り場の屋台で絵葉書を買い、妻に無事着いた事の報告を書いて投函。更に近くのホテルに頼んで、五階のベランダから向こうに見える城を撮影させてもらった後バスセンターへ行き、15時30分のバスでリュブリャーナへと向う。
 リュブリャー駅前のバスステーションで明後日行くプリトヴイッツェ湖群国立公園ヘ行くバス便を聞いて見たが、あまり要領を得ない。どうも1日に早朝1便のバスしかないらしい。
 そこから少し離れたスーパーに行き、ワインをはじめ水、パン、チーズ、ハムなどを買ってホテルへ向う。ホテルはこの辺だったなと思ったが目標が分からない。ホテルの窓から見覚えのある建築中のビルと露地からチラッと見えたホテルの色がそれらしいので一丁角を遠回りしてようやく到着。
「 Merulot」赤/写真転載不可・なかむらみちお  汗を掻いたのでシャワーを浴び、着替えてから買ってきたワインを飲み、サンドイッチやハム、チーズなどでささやかな夕食とした。この日飲んだワインは「Castel Cabernet Sauriuon Merlot」である。
 多少明日の調べ物をした後、日記を書く元気も無く、今日は大変疲れたので8時に寝た。窓の外は若者が集って騒がしい。だが、昨夜は寝不足だったのですぐ眠ってしまった。
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  リュブリャーナ (Liubljana)
     5月28日(水)快晴 Ljubljana

 今朝は4時に目が覚めた。昨日の疲れと前夜の寝不足などもあり、ぐっすりと寝た。早朝に目が覚めたのは時差ボケの関係もあったのだろうか。
 窓から空を見ると今日も快晴だ。食事は7時半からだが、それまで時間があるので昨日の日記を書く。
 リュブリャーナはオーストリア、イタリアとの国境に立ちはだかるユリアンアルプス。そこから約50q南東の盆地に開けた首都リュブリャーナは、ルネッサンス、バロック、アールヌーヴォーなど各様式の建築物が調和した小さな芸術の都だ。
 およそ27万人の人口をかかえる首都は、500年にわたる神聖ローマ帝国の支配の後、オーストリア・ハンガリー帝国に組み込まれ、ハプスブルグ家のもとで発展を遂げてきた。現在はスロヴェニアの政治、経済の中心として、その歩みを続けている。
 街全体を見下ろす旧市街の小高い丘にはリュブリャーナ城が建っている。旧市街を一望できるリュブリャーナ城は1144年の建築。以来グラードと呼ばれ親しまれている。
竜橋/写真転載不可・なかむらみちお  9時頃ホテルを出て先ず城を目指してゆく。竜橋を渡ると朝市があり、花屋さん、果物屋さん、女性用のドレス屋さん、ケーキ屋さん等が列をなして整然と店を出しているのを2〜3枚スナップする。
 近くまで来ているのだが、ガイドブックにある徒歩による城への入口が分からない。近くに居た女性のお巡りさんやその付近に住んでいるような人にも聞いてみたのだがはっきりしない。さしあたり三本橋まで行くと近くにインフォメーションがあったので尋ねてみた。再びガイド誌に従って城への登り口を目指してゆく。先ほどの朝市の反対側の近くに来たので再び朝市をスナップ。インフォメーションで教えられたケーブルカーの脇の道を登ろうとしたら、ケーブルカーの係員がそこは通れないという。地図を示して尋ねると一旦通りに出て左へ行き、次ぎの道を更に左へ折れて行けという。
アカシャの花が満開/写真転載不可・なかむらみちお  半信半疑で言われたとおりに行くと、ガイドブックに書いてある小道を見付けた。先に行くと多少狭いが道の形をしている。左側は建物、右側はコンクリートの壁となっており、街の見晴らしは利かない。その壁が切れると時折木陰越しにわずかに見えるだけで写真を撮れるような状態ではない。それでもやがて城の前に出た。 城の一角ではアカシアの花が満開だった。
 今日も暑い。登道で汗を掻いた。城内に入っても無風で暑さは変わらないので更に汗が吹き出してくる。城の中はメジュームや展示場、レストランなどがあるが展望の利く所がなかなか見付からない。1ヶ所タワーのようになった展望台があったが入場料が必要だ。アッチこっち探し回って1ヶ所ようやく街の展望の利くところがあったのでそこから街の全景を撮った。赤瓦の屋根が折り重なる旧市街の街並みは、中世へとタイムスリップしたような錯覚を起こさせる。自然と芸術が調和した美しい古都である。
城からは旧市内を一望出来る/写真転載不可・なかむらみちお  帰り掛けにあまり観光客が行かない城の周りの道を一回りしたら一ヵ所だけ街の全景を撮る事が出来る気に入った場所があったので儲けものをした。
 来た時と同じ道を下って街に出る。大聖堂の周りを一回りして中に入ってみる。教会はどこも似たような様式だが中は堂々厳粛としてなかなか見応えがある。外よりも涼しいので休憩には良いかも知れない。
市庁舎前の噴水/写真転載不可・なかむらみちお  そこを出て市庁舎の中に入ってみた。何やら展示物があったがパス。庁舎前に出ると噴水の周りに小学校5〜6年生位の子供達がたむろしてはしゃいでいた。フト見ると大聖堂をバックにしてなかなかよい情景だったのでスナップ。
 日陰のベンチで休んでいると正午となり、大聖堂の鐘が厳かに鳴り響いた。そこで持参したサンドイッチをかじる。一休みしてから三本橋を写しに行く。
三本橋(トロモストウイエ)、橋の向こうにはピンク色のフランシスコ会教会が見える/写真転載不可・なかむらみちお  三本橋(トロモストウイエ)は新市街と旧市街を結ぶ小さな三本の橋。リブリャニツァ川にかかる橋の中でも、最も人々の行き来が激しく有名な橋だ。この橋は1930年代に建築家ヨジェ・プレチニクが設計し、その後、歩行者用に2本の橋が付け足され,現在の姿となった。三本橋を写した後、昨日行ったスーパーへ向う。ホテルの近くになってから明朝駅へ行く道をチェックする。
 ホテルに着き、先ずシャワーを浴び、今日の資料やフイルムを整理した後、一階のレストランの外あるガーデンへ行ってジョッキを煽る。ガーデンは空調の利いたホテル内よりは多少暑いが時折風が吹き抜けて心地良い。更にその場で今日の日記を書いた後部屋へ戻る。4時頃から部屋でワインを飲む。ついでに買ってきたパンをかじって夕食を済ませてしまった。
 特にする事もなく、昨日今日と歩き続けて少々疲れ気味なのでベッドに入って横になる。そのまま眠ってしまった。気が付くと未だ夜中の11時だった。トイレに行ってから再びベッドに入って寝る。


   5月29日(木)晴れのち曇り Ljubljana 7:30-10:12 Zagreb 11:30-13:40 Nacionalni Park Plitvicka jezera
 午前1時、目を覚ます。もう充分寝足りた。このままいつまでもベッドに入っていても眠れそうにないので起きて26日分の日記を書く。7時半、リュブリャーナ駅前発ザグレブ行きのバスに乗るため、6時にはフロントに行きチェックアウトを済ませなければならない。チェックアウトしようとすると、宿代が一部未払いだという。言葉が通じないので納得のゆかないまま言われた金額をカードで支払う。
 ホテルから駅までは近いのだが10分位掛かる。スーツケースをひきづりながら行くが重たい。手が痛くなる。ようやく駅前の長距離バスセンターへ行き、チケットを買う。発車時間には未だ間があるのでセンターのベンチで時間待ちする。発車15分前、22番の乗車場へ行く。まだバスは来ていない。そこで又待機する。
 7時30分、定刻通りバスはザグレブへ向かって走りだす。郊外に出ると一面の田園風景。麦などが太陽の光を浴びて青々と輝いている。眩しいくらいだ。緑の丘陵には数軒の農家と教会が建っており、絵の様に美しい。
 バスは快調に走り、やがてザグレブの近くで出国審査とクロアチアへの入国審査がある。少し待たされたが、出国審査はすんなりと済んだ。次ぎのクロアチアの入国審査所では理由は分からないが30分以上も待たされた。その後ようやく係員がバスに乗り込んできてパスポートをチェックした。ガイドブックに入国のスタンプが無いと出国の時にトラブルの元になると書いてあったので、私は「スタンプを押してくれ」と言うと彼は私のパスポートだけを持ってバスを降り、どこやらでスタンプを押してきて返してくれた。
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   Croatia(クロアチア)

ドブロヴニクの旧市街/写真転載不可・なかむらみちお

 と言うわけでザグレブには30分以上定刻よりも遅れて到着した。バスはザグレブのバスセンターの一階に到着。案内所を初め両替所、チケット売り場などはすべて2階にあるので階段を使って登らなければならない。重たい荷物を持って階段を登るのはしんどい。
 チケット売り場でプリトヴイッツェ行きの切符を買おうとしたらカードは使えない、キャシュだけだという。近くの両替所へ行ったらここでは日本円は両替できない。向こうの銀行へ行けという。両替所よりも銀行のほうが両替率は悪い。何人かの先客を待ってようやく両替を済ませて(レート1Kn=23.038820円)再び先ほどのチケット売り場に行き、プリトヴイッツェ行きの切符を買う。発車時間は11時30分、乗場は403番と告げられた。この後31日のプリトヴイッツェからドブロヴニク行きのバスの指定席を予約したいというと、向いの3番の窓口へ行けと言う。3番の窓口で英語でやり取りをするが私の語学力が足りないので要領を得ない。別の窓口へ回り、とにかく強引にドブロヴニク行きの切符を買う事が出来た(これが後で大変苦労する原因になるとはその時は全く分からなかった)。ここでも現金でしか買う事が出来なかった。先ほど銀行で1万円両替したがこの調子では先々不安だ。ユーロは全く使えないので再び銀行へ行ったが先客が居てバスの発車時間までには済みそうもない。諦めてバス乗場へと急ぐ。再び階段を使って一階に降りると乗り場には既にバスが停まっており、乗客も全員乗り込んでいた。
 バスは定刻通り発車。プリトヴイッツェに向かって走る。ここからの周りの景色はあまり面白くない。只真平らな畑が続くだけだ。2時間ほど走った頃、控えの運転手が次がプリトヴイッツェだと教えてくれた。発車する前に頼んで置いたのだ。13時40分到着。
 プリトヴイッツェのバス停は両側が森に囲まれたささやかなものだったがそれでも小屋のような建物が建っていた。バスの運転手にホテルの方角を聞き、荷物を引きづって歩き出す。
 鬱蒼とした森の中にポツンと一軒だけ建っているHotel Bellevue(Plitvicka Jezers)は割と大きい木造3階建てである。一番安い部屋を取ったので部屋は狭い。スーツケースの置き場に困る。
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  プリトヴイッツェ湖群国立公園 Nacionalni Park Plitvicka Jezera
 ザグレブから南へ約110qの処に位置するプリトヴイッツェ湖群国立公園は、大小16の湖と92ヵ所の滝を持つ国立公園で、1976年にはユネスコの世界遺産に登録された。1990年代の戦争による被害により、一時は「危機にさらされている世界遺産リスト」に登録され、緊急保護措置が必要な状態にまでなったが、現在は幻想的で美しい湖群の姿を取り戻し、リストからも除外された。
 天気が良かったので取りあえず公園内を写しに行く。プリトヴイッツェ湖群国立公園にはふたつの入口がある。ホテルに近い入口は「入口2」。園内は広いので、徒歩以外の交通手段としてエコロジーバスと遊覧船がある。公園内でも大きな見どころのひとつである滝ヴェリキ・スラップへは、徒歩では遠いので、遊覧船かエコロジーバスを利用するのが一般的。
 入場料(110.00Kn=2,534円)をカードで支払った後、ボートを1度乗り代えて滝へと向う。着いたところでインフォメーションの係員に滝までの距離を聞くと78bという。少し近過ぎるので変だなと思いながら先へ進む(滝の高さを教えてくれたらしい)。坂を登ったり下ったりして湖畔や川添を歩く。
ヴェリキ・スラップ/写真転載不可・なかむらみちお プリトヴイッツェ湖群国立公園/写真転載不可・なかむらみちお  エメラルドグリーンのプリトヴイッツェ川は、森の中を縫うように蛇行しながら静かに流れ、コラナ川との合流点では落差78mの滝、ヴェリキ・スラップとなり、ふたつの川がひとつの湖に流れ込む。湖群の中でも、標高639mの湖から標高150mまでを階段状の滝が結んでいる場所は、一番の見どころ。その躍動的な姿はまさに大自然の芸術といえる。ここは構造も成り立ちも中国の九寨溝と同じで、規模はこちらの方が大きいが、九寨溝の方が見て趣がある。
 予ねてインターネットで調べて置いたお目当ての風景はなかなか見付からない。地図をろくに見ないで出かけたので湖畔を全部歩いた。中には二度同じコースを回ったところもある。一度通った道を更に歩いているらしい。かなり歩いて足が痛くなるほど歩き、疲れた。私は貰った地図では分かりにくく、その上、行けば簡単に帰ってこられると思いこみ、ろくすっぽ調べもしないで行ったのが悪かった。入口にインフォメーションがあるのだが言葉が分からないのであまり深くは尋ねなかったのも原因だ。
 曇ってきたし、間もなく5時になるところだったので諦めて出口へと行く。疲れた。もう歩けない。暑さもあって脱水症状のようだ。水も後残り少ない。フルマラソンよりも辛い。
 最後にエコロジーバスのST1からバスで帰ってくれば楽だったのだが、入口1へ出てしまった。出口を出た所でホテルの方向が分からない。案内所で聞くと国道を右へ2q歩いて行けという。ほんまかいな。チョッと信じられない。
 周りは鬱蒼と茂る森林の中の舗装道路を行交う車を避けながら只ひたすら歩く。本当にこの道で良いのだろうか。若し、違っていたらもう歩けない。不安がよぎる。
 そこからホテルまで凡そ2q、森林の中を通る道路を一人とぼとぼと歩く。かなり歩いた末ようやくホテル前に着きほっとする。しんどかった。結局この日は17.500歩も歩いてしまった。27日のブレッド湖では29,551歩、翌日のリュブリャーナ市内観光では17,694歩と歩き過ぎで疲労が溜まっている。
 ホテルに帰って先ずシャワーを浴びる。今日は大変疲れたのでワインと日本から持ってきた焼酎を飲んだ。大汗を掻いてしまったのでシャツがぐっしょりだ。今日中に洗濯しないとここを出発するまでには乾かないので疲れているが洗濯をする。洗濯を終えてベッドに横になるとそのまま寝てしまった。

     5月30日(金)快晴  Nacionalni Park Plitvicka Jezera
 昨日は大変疲れたので今日は若し天気が良く無かったら部屋で休養することにした。夜が明けてみると空は今日も雲一つない快晴だ。それでは写しに行かないわけにはいかない。7時からの朝食を済ませた後、8時頃ホテルを出て公園へ行く。
 今日はなるべく歩きたくない。ホテル近くの第二ゲートからエコロジーバスに乗り、第一ゲートまで行き、その付近を撮って返ってくることにする。そこが全体の中で一番良い場所だ。
プリトヴイッツェ湖群国立公園/写真転載不可  第二ゲート前のバス停(ST2)で待つがバスがなかなか来ない。小一時間待ってようやく来た。ST1バス停で降り、坂を下って行くと気に入った場所があり、早速撮影。ここからだとゲートを通らないで中に入れるので入場料を払わないで済む。その後も何度か良いポイントを見つけて撮影する。
プリトヴイッツェ湖群国立公園/写真転載不可  昨日と同じ道を通ったのだが、今日新たに発見したポイントに昨日は気が付かなかった。昨日1度来ているので坂の下まで大体のポイントを撮影して再びバスの第一停留所(ST2)へ帰って来るとバスは行ったばかりだった。坂を登りきったところがバスの停留所だったのだが、勘違いしてその先ではなかったかなと思い、10分程歩いてみたが標識が見付からなかったので再び坂を登ったところに戻ってきた。そこの標識を見るとそこが第一停留所なのだが一見して分かり難い書き方なので勘違いしてしまった。結局今日は入場料を払わないで撮影してきた。
 一旦ホテルに帰ってから明日ドブロヴニク行きのバスを待つ停留所までの所要時間と道筋を点検しにに行く。昨日フロントで聞いた時その先にマーケットがあると聞いていたのでとことこと国道を歩いてみたがそれらしいところはなく、およそ2qほど行って引き返してきた。そんなわけで今日も2029歩歩いて疲れてしまった。
缶ビール/写真転載不可 「Castel.Cabernet saurviuon」/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルを出て国道を渡った所に大きな駐車場があり、人で賑わっている。そこへ行ってみたらミニマーケットがあり、水やパン、ワイン、果物、日用雑貨を売っていた。水とパンと冷えた缶ビールを買い、温まらない内にそこのベンチに腰を下ろして飲む。
 ホテルに帰ってシャワーを浴び、パンをかじって昼食を済ませ、明日のドブロヴニク行きのバスがここに来る時間を確認する。昼は1日に一本しか無いので乗り遅れたら大変だ。
 その後、時間があるので少しベッドで休んだ後昨日と今日の日記を書く。

     5月31日(土)晴れ Nacionalni Park Plitvicka jezera 11:20-(バス)17:30 split
  クロアチアの長距離バス

 今日のバスの旅は途中での接続の関係で多少不安が残る。緊張して朝早くに目が醒めるが新聞があるわけではない、TVも無い。只時間の来るのを待つ。 
 この地方は鉄道網が少ない。都市間交通は専らバスに委ねられている。今日はここプリトヴイッツェ湖群国立公園からザグレブ発の長距離バスでドブロヴニクにまで行く予定である。バスは席が空いていれば乗れるが、一応座席指定制とのことで今日のチケットは先日ザグレブのバスターミナルで買った。
 7時朝食、8時30分チェックアウト、8時55分、重い荷物を引いて近くのバス停へ向う。プリトヴイッツェの長距離バス停は、始発ではなく、主要都市に向かう途中の小さなバス停である。ガイドブックの投書欄には「バスには行き先が書かれておらず、バスが通りかかるたびに手を振って停まってもらい、確認しないと通過されてしまう」と書かれていた。
プリトヴイッツェのバス停/写真転載不可・なかむらみちお  ザグレブ発ドブロヴニク行きのバスは途中スプリットを経由して日中に一本、夜行が一本しかないのでこれに乗り遅れたら大変である。今日中にはドブロヴニクに着けないことになる。
 私は昨日、二ヶ所のホテルのフロントでこの停留所にバスが来る時間を尋ねたところ、一ヵ所では9時45分、もう一ヵ所では9時15分と言うので大事をとって9時前にバス停へ向う。
 なにしろ今日中にドブロヴニクに入らなければホテルも予約してあるし、その後の予定にも支障をきたす。一番怖いのは3日のドブロヴニクから早朝6時半発のウイーン回りでアテネに行く飛行機のチケットを買ってあるが、これに乗り遅れてもお金は帰ってこないと言うチケットなので大変だ。絶対これには乗らなければならない。
 バスはいくら待っても来ない。11時20分、2時間半近く待ってようやく一台のバスが来た。フロントには「ドブロヴニク」と書いた紙が置かれていた。荷物を運転手に預けて車中の人となる。今日は土曜日なのでザグレブでマラソン大会があり、交通が混乱していたので遅れたとのことであった。
 バスが走り出してから控えの運転手がチケットの検察に来た。その運転手はこのチケットは会社が違うから次の停留所で降りて、次に来る長距離バスに乗り換えれという。初めは話がさっぱり分からなかったが、乗客の一人の女性が運転手の言葉を次ぎの日本人の女性の客に通訳してそれを日本人の女性客が私に通訳すると言うややこしい三段通訳の上、とにかく降りろと言う事で乗ってから19qほど行ったKorenicaと言う次の停留所で降ろされてしまった。
途中で降ろされたバス停の近く/写真転載不可・なかむらみちお  しばらく待った末、次に来たバスに手を上げたら停まってくれた。「Croatia Bus Zagreb」のバスだった。チケットを見た控えの運転手は一寸首をひねったが、私がこのチケットのバスは来なかったと言うと、まぁとりあえずこのバスに乗り、スプリットまで行って、そこからまたバスを乗り換えてドブロヴニクへ行けという。その時彼はザグレブのバスセンターで買ったザグレブからドブロニク行きの乗車券の半券を切り取った。
 バスは山道や田舎道を走り、やがて海岸線に出た。風景の良いところもあった。浜辺で泳いでいる人もいた。バスはなかなかスプリットに着かない。控えの運転手に聞くとスプリット到着は17時30分だと言う。日本であらかじめ調べてきたスプリットからドブロヴニク行きの最終バスは16時15分だから到底間に合いっこない。
 どうしてこういう事になったのかさっばり分からない。頭にきた。バスが遅れたのは今日は土曜日なのでマラソン大会があり、通行止めになっていたためと言う。しかし、チケットを買ったザグレブ7時発スプリット行きのバスはいくら待っても来なかった。
 いろいろ考えてみた結果、ザグレブのバスセンターでプリトヴイッツェ行きの乗車券を買った時、私は31日のプリトヴイッツェからドブロヴニクまでのバスの乗車券を予約したいと言ったら、向かいの3番の窓口へ行けといわれた。長距離バスは席が空いていれば途中からでも乗れるが、一応指定席になっている。
 3番の窓口は案内所ともなっていたのでいろいろ聞いて見たが話が通じない。私は31日のプリトヴイッツェからドブロヴニクまでの乗車券を買いたいと言ったのだが、それなら6番の窓口へ行けと言われた。そこで券を買おうとしたが窓口の女性とは話しが通じない。先程の案内の男が来てプリントを示し、何時のバスに乗りたいのかと聞くからモーニングと答えた。それで窓口の女性は「ザグレブ7時発ドブロヴニク行き」のチケットを発行してくれた。ここはザグレブからドブロヴニクへ行く途中のプリトヴイッツェであり、ここからドブロヴニクへ行くのに「ザグレブ発ドブロヴニク行き」とは変な話で納得がゆかなかったが、なにしろここは英語もままならないところなのでどうしようもなくそのままにしてしまった。
 実はそこで日本からプリントアウトして持っていた印刷物を示せば良かったのだが、その印刷物をスーツケースの中に入れていたので出すのが面倒なのと、プリトヴイッツェ行きのバスの発車時間が迫っていたので多少焦り気味で出さなかったのが悪かったようだ。
 ザレグレブから出発するバスはいろいろの会社のバスがあり、同じ方面でも違った会社のバスも走っている。そのことをすっかり忘れていて窓口で案内されるままに動いていたのが拙かったらしい。どうやらお目宛のバス会社の窓口では無かったようだ。ここザグレブのバスセンターの中には各会社毎にあちらこちらにばらばらに窓口があり、あてづっぽうに行った窓口が間違っていたらしい。後で再度調べてみたら私が日本で調べたきた私の乗りたいバスはザグレブ7時30分発のドブロヴニク行きのバスで「Autobusni Promet d.d.Varazdin」と言う会社でプリトヴイッツェで最初に乗って降ろされたバスの会社であった。先ほど行った窓口のバス会社は「Croatia Bus Zagreb」であった。そこで今日このプリトヴイッツェからドブロヴニク行きの乗車券を無理やり買ってしまったのが悪かったようだ。その乗車券には「Zagreb-Dubrovnik」、料金は234.60Knとなっていた。本来は「Autobusni Promet d.d.Varazdin」のバス会社の窓口に行って乗車券を予約しなければならなかったと言うわけである。時間が切羽詰ったので焦ったのが悪かった。とんだドジをしてしまった。いずれにしても不思議で納得の行かない事ばかりだ。控えの運転手は時刻表を調べてくれて、この先スプリットからドブロヴニク行きのバスは午前1時半のバスしかないと言う。
 スプリットには17時30分ようやく到着した。スプリットからドブロヴニク行きの最終バスは16時15分だから接続しない。バスを降りると女性が近づいて来てなにやら話し掛けてくる。手には1枚のカードを持っている。乗って来たバスの控えの運転手がその女性に私が明朝までバスがないと言っているようだ。その女性は客引きらしい。盛んにカードを見せて「ルーム、ルーム」と言っている。その後もしつこく付き纏われた。
 スプリットのバスターミナルはこの辺のバスの発着所であり、長距離バスの中継点であるのに以外と小さい。バスを降りるとターミナルの前には飲食店が軒を並べ、どこに待合室や窓口があるのか分からない。乗って来たバスの運転手に聞くとアッチのほうだという。それに従って先へ行くと小さな待合室があり、窓口が数ヶ所ある。一階建てのプレハブのような感じの建物だ。至極こじんまりしたバスターミナルなので拍子抜けした。
 そこの案内窓口へ行くと青年がいた。念の為彼に聞いて見ても矢張りドブロヴニク行きは明朝1時30分までないと言う。こうなったらもう仕方がない、腹を決めるしかない。今日泊まる予定のドブロヴニクのホテルの予約が心配だが連絡の取りようも無い。
 ドブロヴニク行きのバスが出発する翌日の朝、午前1時半まで私はスプリットのこの一階建てのプレハブ建築のような感じのバスターミナルの以外に小さな待合室で待つ事にした。
 スプリットは古代都市が残る神秘的な町として知られるアドリア海沿岸最大の都市である。旧市街の中心には、貴重なローマ遺跡が潮風に吹かれ佇んでいる。しかし、到着が遅かったので今回はこれらの観光地を見ることは出来ない。スプリットには有名な教会や遺跡があるが初めから見る予定もなく、今さら時間つぶしに出かけるのも面倒だ。バスターミナルの隣は列車の駅らしい。又、向いは外来船の大きな発着所になっている。
 昼はとても暑かったが夕方になって涼しくなり、そのうち寒くなってきたのでセーターを出して着込む。いくら時計を見ても進んでくれない。時間はあるが寝る事も出来ない。もしも寝たら無用心なので一応荷物全部を一纏めにしてワイヤーで結んだ。
 10時を過ぎると飲食店街も店仕舞いとなり人陰もほとんどなくなり付近はひっそりとしてきた。

    6月1日(日)快晴 Split 01:30-05:45 Dubrovnik
 午前1時40分。永い永い夜が過ぎてようやくドブロヴニク行きのバスが来た。予定よりも10分遅れている。
 乗車する時に運転手にザグレブのバスセンターで買ったザグレブからドブロヴニク行きの乗車券を渡すと、半券がないからだめだと言われた。半券はプリトヴイッツェからスピリットまで来る途中のバスでもぎ取られたのである。改めて101.00Kn支払って乗車する。バスは予定よりも15分ほど遅れてスピリットを後にした。バスは暗い夜道をひたすらドブロヴニクへ向って走る。夜も2時を過ぎているのにバスの中ではなかなか眠れない。
 旅には苦労は付き物だ。「苦難を乗り越えた旅は忘れがたい。楽しいことだけでは旅の意味がない。芭蕉の「奥の細道」は、芭蕉が楽々と辿って行ったらならばあの作品は生まれなかった。快適さは、旅の敵でないかなと思う。苦労や困難が多いほど次に来る達成感は大きく忘れ難い思い出となる」と評論家の森本哲郎さんが言っていたが私もそう思う。こんなアクシデントやトラブルは個人旅行には付きものだ。だからひとり旅は面白い。ツアー旅行などでは絶対味わえない醍醐味である。だからひとり旅は止められない。
 ウトウトとしたと思ってフト目が覚めると5時前だった。東の空が白みかけていた。私の脳裏に岸洋子の歌う「夜明けのうた」(作詞・岩谷時子、作曲・いすみたく)が聴こえてきた。『♪夜明けのうたよあたしの心にきのうの悲しみ流しておくれ夜明けのうたよあたしの心に若い力を満たしておくれ』。
 バスは海岸寄りの曲りくねった狭い道を、坂を登ったり下ったりしてかなりのスピードで走る。よく事故を起こさないものである。小さな木しか生えていない荒々しい感じの夜明けの海岸線の風景は岩肌を表しているが結構美しい。
 午前5時45分、バスはドブロヴニクのバスターミナルに滑り込んだ。これからホテルへ向うのだが、そのホテルのフロントでどのような応対をされるのか不安だ。日本から予約していたホテルにはこのトラブルを連絡する事が出来なかったので、今夜の宿泊代は当然取られる事だろう。その上、明日からの予約もキャンセルになっているかも知れない。
 バスターミナルでタクシーを拾ってホテルへと向う。ここのタクシーはメーターが付いているのでぼられることはないだろう。タクシーは港をぐるりと半回りして閑静な高級住宅街の一角にあるホテルの前で停まった。
 日本から予約しておいたSamratin Hotel(Kralja Zvonimira 31. 20000 Dubrovik)のフロントの女性は知性的で優雅。かつ大変親切な美人で感じが良かった。今日はこれからボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルへ行きたいと言うと、バス会社へ電話を掛けてくれて出発時間を聞いてくれた。モスタル行きのバスはターミナル発7時30分だという。今からでも間に合う。朝食は6時から食べられると言うので一旦荷物を部屋に入れ、モスタルへ行くのに必要な物だけを準備し食堂へ行って朝食を食べる。その前にタクシーを呼んでおいてもらった。
 ホテルは石造りの三階建て。私の部屋は一階(日本式では二階)だ。フロントの女性はエレベーターで上がれと言う。エレベーター付きのホテルに泊まるなんて私には珍しい事だ。いつも重たいスーツケースを持って階段を登ったり降りたりするのにヒーヒー言って苦労する。
 部屋は広い。ダブルベッドだ。それにクーラーまで付いている。勿論シャワー付きトイレもある。TVもある。但し、私には言葉が分からないので無用の長物だ。只の電気仕掛けの黒い箱にしか過ぎない。
 呼んで置いたタクシーでバスターミナルへおっとり刀で駆け付けるとバスが出発するばかりになっていた。案内窓口でモスタルからの帰りのバスの時間を尋ねると、このバスで行ってもモスタルからは今日中には帰れないと言う。何たる事だ。ガイドブックにはドブロヴニクからバスで4時間位と書いてあるのでてっきり日帰り出来ると思って予定を組んでいたのだがガッカリだ。日帰りツアーもあるのだが、曜日が合わなくてこれもダメ。残念ながら諦めるしかない。

  モスタル Mostar (ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)
 モスタルには、先のボスニア内戦時に破壊された16世紀に架けられた石橋「スタリ・モスト(古橋)」の修復が2004年7月に完了している。
 16世紀にオスマン・トルコが建設した美しいアーチ型の石橋は、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部を流れるネレトバ川を挟んでクロアチア人、イスラム教徒が住む町の共存のシンボルとなっていた。内戦終了後、民族和解のために多くの住民が再建を待ち望んでいた。
 長さ30m、幅4mの石橋は1993年11月にクロアチア勢力の砲撃で破壊された。2001年から再建工事を開始、作業は主要三民族も参加した。
 石橋は約1000個の石材をアーチ型に積み上げた形で、再建工事では川に落ちた石材を引き上げるなど、できるだけ同じ材料を用い、忠実に復元した。総額約1,540万j(約17億円)の再建費用がかかった。世界遺産にも登録された。モスタルとは“橋の番人”という意味。
 モスタルへの日帰りの旅をするのにはドブロヴニクのバスターミナルを午前1時出発のバスで行かなければ日帰りは出来ないと案内の女性が言うのに耳を疑った。これでは前夜も寝ていないし、疲れているので今日はドブロヴニクを見るとしてもこの上今夜(翌朝1時)に出発するのは体力的に無理だ。この後の予定では3日の早朝にここから飛行機でウイーン周りでアテネに行かなければならない。それに乗り遅れたら高い航空代も返金してもらえないチケットなので大変だ。残念ながら諦めるしかない。今回見れなかった事は大変残念だったが、いつかまたの機会を期待したい。
 再びタクシーでホテルに帰ってフロント嬢に事情を説明すると申し分けなさそうな顔をした。感じの良い女性だ。折角の良い天気なので疲れてはいるが城を写しに行く事にしてタクシーを呼んでもらった。
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   ドブロヴニク Dubrovnik(クロアチア)
 “アドリア海の真珠”と称えられるドブロヴニクは、クロアチア観光のハイライト。オレンジ色で統一された屋根が並ぶ旧市街は、高く重厚な城壁に囲まれており、どこから見ても絵になる光景だ。
 訪れる人を魅了してやまないドブロヴニクだが、過去には幾度も大きな被害を受けてきた。最も甚大な被害を被ったのは1667年の、大地震の時で、街の中心プラツァ通り沿いにある建物で残ったのはスポンザ宮殿のみ、それ以外はすべてがれきと化したほどだったという。また、1991年のユーゴスラヴィア連邦軍による攻撃も、町の歴史を語るには避けられない悲劇的出来事だった。この時「危機にさらされている世界遺産リスト」に載るほど町は破壊されたが、その後精力的な修復がなされ、1994年にはリストから削除されている。現在では、どこが修復された部分で、どこが昔のままなのか判別ができないほどにまでなっている。このような苦難を乗り越えただけあって、ドブロヴニクの人々の町に対する誇りは非常に高い。
 先ず、タクシーに乗り、城が全体に見渡せるスルジ山(412b)へ行ってもらった。

   スルジ山
 旧市街を一望する事ができる標高412mのスルジ山へは、かつてロープウエイで山頂まで上ることができ、人気の観光スポットだった。しかし、1991年のクロアチア独立戦争の際に、旧ユーゴスラヴィア連邦軍によって破壊されてしまった。現在山頂へは、徒歩または車で行く事になる。破壊されたロープウエイ駅も残っている。山頂から眺めるアドリア海と旧市街の眺めはすばらしいのひとことに尽きる。
アドリア海と旧市街/写真転載不可・なかむらみちお  山頂の破壊されたロープウエイ跡に立って見ると、今は使っていない鉄塔が眼前にあり写真にはならない。再びタクシーに乗り山を下り、あちこち探し歩いた末、残された石垣の陰の瓦礫の原を横切り、棘のある植物に足を取られながらようやく崖ぷちの撮影ポイントを見つけて連写する。
 タクシーに戻ると運転手は車を磨いていた。なかなか気の良いオッサンだったがとかくこのように待たせると不機嫌な運転手が多いので持っていたチップ代わりの日本製のたばこを一箱あげた。運転手はそれほど機嫌は悪くなかった。彼はこの辺に未だ独立戦争時代に敷設した地雷が埋っているかも知れないという。“オイ、オイ! そう言う事はもっと早く話してくれよ”と言いたかったが後のまつりだ。若しも地雷を踏んだらあの世行き。危ないところだった。未だロバート・キャパにはなりたくない!
 山を下ってからもう1度途中で城と向こうに見える島とを縦に一直線に結んだ構図で一枚撮りたいと思い、運転手に頼んだがなかなか私の意図が相手に伝わらず、一方通行で狭い道をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてアングルを探す。この道は狭く、思ったところでは車を止められない。ある程度のところで妥協して撮影して城の前で降ろして貰った。支払いはユーロでもよいと言うので20ユーロ払った。廉かったのか高かったのか。とにかくこちらの我侭な要求を快く聞き入れてくれてアングル探しに協力してくれたので少し位吹っかけられても気持ち良く支払う心算だったから苦にはならない。
 私が空港までいくら位お金が必要かと訪ねると200Kn位(およそ4,600円)だと言う。ユーロでもよいと言う。ユーロでも良いのなら持って帰っても使い物にならないクロアチアのお金を余分に持つ必要が無いので助かる。
 運転手はいつ空港へ行くのだと言うから、3日の早朝だと言うと迎えに行くと言われ。予約してしまった。

   城壁
ロクルム島と旧市街/写真転載不可・なかむらみちお  ドブロヴニクを取り囲む城壁は、全長1940mあり、高さは最高で25mに達する。城壁の途中にはミンチェタ要塞を代表に、要塞や見張り塔、稜堡が築かれており、見るからに堅牢だ。旧市街の大部分を破壊した1667年の大地震の際も、城壁だけはほとんど被害がなかったというのもうなずける。ドブロヴニクが城壁に囲まれたのは、町の誕生間もない8世紀のこと。現在見られるような形になったのは、15世紀から16世紀にかけての大工事によってだ。
 城壁の遊歩道に上り、周囲をぐるりと回る事ができる。ここからの眺めはアドリア海の青と瓦屋根のオレンジが対比されて、非常に美しい。
鐘楼/写真転載不可・なかむらみちお 大砲/写真転載不可・なかむらみちお  先ず、ピレ門の脇から城壁に登り、一周する。直射日光が厳しく、寝不足と疲れそれに喉のあがきでくらくらする。途中でぶっ倒れないように気を引き締めて前へ進む。
 一巡りして城壁を降りる。何はともあれビールを飲みたい。体内の水分が蒸発して血液がどろどろだ。時々気が遠くなる。「人間干物」状態だ。城門前のバスを降りたところにオープンのレストランがあり、そこで観光客がジョッキをあおっていたのを見ていたのでそこへ行く。兎にも角にもビール!「トリビー」なんて生易しいものではない。死にそうだから一刻も早く気付け薬を持って来いという感じだ。
 やがてウエイトレスが持って来たジョッキ(Laskoラシコ)を一気に半分ほど飲む。生き返った。生気を取り戻して城内の観光へ向う。ピレ門から入り、プラツァ通りを流してルジャ広場へ向う。途中でジェラートを買って舐めながら歩く。

   プラツァ通り
プラツァ通り/写真転載不可・なかむらみちお  旧市街の入口ピレ門から、中心部ルジャ広場まで続く200mあまりの目抜き通り。通りの両側には、銀行、旅行会社、ショップ、カフェが並び、狭い路地が網の目のように延びている。路地に足を踏み入れると、人々の生活音が耳に届き、はるかなる昔にタイムとリップしたような錯覚を覚えそうだ。
 大聖堂の中に入り、イタリアの画家ティツィアーノ(Tiziano Vecellio)の「聖母被昇天」を見る。その後再びルジャ広場からプラツァ通りを通って途中のお土産店で小さな飾り物と絵葉書を買う。再び先ほどの城門前のレストランへ行き、妻への絵葉書を書いて近くのポストに投函し、バスでホテルへと向う。
「プラヴィナ(Plavina)」/写真転載不可・なかむらみちお  バスを降りてからホテルの近くのスーパーに寄り、クロアチアのワイン「プラヴィナ(Plavina)」や水、パン、チーズを買ってホテルに着く。今日も歩いた。歩数計は12,953歩を指していた。
 シャワーを浴びた後、買ってきたワインを開け、パンをかじったら眠くなり、横になって資料を読んでいるうちにいつの間にか寝てしまった。少し寒さを感じて目を覚ましたが、その後改めて本格的に寝た。多分7時頃だと思う。

     6月2日(月)快晴 Dubrovnik
 昨夜は寝不足と疲れで夜7時頃寝てしまった。目が覚めたのは朝の4時。辺りはまだ暗い。ぐっすり寝たので前日の寝不足と疲れは解消されてスッキリした。
 昨日は大体予定した所を写し終わったので、今日は休養日にしよう。先ず、顔を洗い、身の回りの物を少し整理した。
 午前5時、外を見ると今日も快晴無風。青空が眩しい。近くの林からは山鳩の鳴き声がひときは大きく聞こえてくる。ここは閑静な高級住宅街であり、多くのホテルが集っている一角なので静かだ。
 六時半からレストランの朝食が始まるので一階へ降りてゆく。このホテルには団体客が居ないのでレストランも静かだ。しばらくすると他の客も一人二人と来たが、それまでは私一人で食事を済ませた。
 あまり天気が良いのでホテルに籠もっているのも勿体無い。朝の涼しい内にぶらっと昨日行ってきた城へ行って見る事にする。
 7時30分、ホテルを出て糸杉の並木道を通ってバス停へと向う。この道はヨーロッパのリゾート地を思わせるほど美しい。その日陰を通ると未だ朝の空気が感じられて清々しいが、一歩陽の当る所に出ると流石に日差しがきつい。それもそのはず、日の出から三時間近くも経てば太陽の光も正常に届く。
 ホテルのフロントに教わった通り、郵便局前の停留所から6番のバスに乗って城へ向い、終点の城前で降りる。バスを降りてから城の周りの登り坂の道を右回りに進む。なるべく日陰を選んで登って行くが、所々は歩道が陽当たりの方しかなかったりして、太陽の光を遮ってくれる建物や障害物が無くまともに太陽の光を浴びながら歩かなければならない。そうするとゆっくりゆっくり歩いているのだが耳の後ろ辺りに汗が滲んでくる。
 1qも歩いただろうか、それとももっと歩いたかもしれない。今歩いているこの道ではアングルが低すぎる。もっと上に登りたい。ここよりも上のほうにも住宅が立ち並んでいるのだから、どこからか上に登る階段が在るはずだ。が、なかなか見付からない。
 しばらく探しながらようやく上の道路に登る幅の狭い石段を見つけた。途中何回か休みながら息を切らして登る。登り切った道を更に坂の上のほうに登るが、民家の屋根が邪魔して良いアングルが見付けられない。位置としてはこの辺でいいはずだが…。
アドリア海と旧市街/写真転載不可・なかむらみちお  ようやく一軒の家の車寄せから辛うじて右手の赤レンガの屋根を交わしてフレームが切れそうだ。そこで三脚を立てて撮影を始める。昨日山の上から撮った位置よりも当然低いが悪くない。あれはあれ、これはこれで良いアングルだ。
 昨日はデジタルコンパクトカメラの画面設定で小サイズにしてしまったので今日はラージサイズにして撮る。フイルムでも撮る。ついでに記念写真も撮った。撮影後、先ほど登ってきた坂道をテクテクと下る。下り切ったところで右への一方通行の道を右へ進む。少し行ったところで下りの石の階段があった。どうもここからが城のプロチェ門の入口への近道のような気がする。
 狭い大理石の階段を下って行くと、正しくここはプロチェ門だった。ルジャ広場を通って昨日も行った大聖堂に行き、イタリアの画家ティツィアーノの「聖母被昇天」を改めてまじまじと見てきた。
 大聖堂を出て聖ヴラホ教会の中を覗き、シーフードパスタや肉類が美味しいと言うレストラン「ドゥンドー・マロイェ」を尋ねてみたが未だ朝早いので開店していなかった。
門衛の行進/写真転載不可・なかむらみちお  プラツァ通りをピレ門の方へぷらぷら歩いていたら後ろの方から小太鼓のリズムが聞こえてきた。見ると中世の服装をした槍を持った二人の門番を従えて三人で行進して来た。それをデジカメでスナップ撮影する。
 10時頃撮影を終え、城門前からバスに乗ってホテルに帰って来る。陽射しはきつい。少し汗を掻く。途中で銀行に寄って明朝空港へ行く時のタクシー代を確保する(250Kn、およそ5,759円)。
Samratin Hotel/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルへ帰る途中、ホテルを見失って突き当たりの海岸まで行ってしまった。そこは海水浴も出来るリゾート地になっていた。そこから戻って来るとホテルが右手に在った。先ほどはその前を通ったのだが、樹木などに囲まれて一見豪邸のようだったので見落としたようだ。
 ホテルに三脚などを置いた後、スーパーに昼食と夕食の食材を仕入れに行く。部屋に戻ってシャワーを浴びた後昼食。その後一服した後、日記を書く。
 4時になったので部屋の外のベランダでワインを飲む。辺りの木立からナイチンゲール(?)の声が盛んに聞こえる。複数が鳴き交わしている様でもある。多分、オスがメスを誘っているのだろう。それにしても猛烈アタックだ。いつまでも精力的に鳴き続ける。良い伴侶を求めるためには人間も少し学ばなければならないだろう。
 6時過ぎ、小休憩。外のベランダで夕食とする事にしよう。先ず、レストランへお湯を貰いに行くが、レストランの女性には私の話が通じない。ようやくフロントの男性を介して話が分かり、お湯をスープカップにいっぱい貰う事が出来た。お礼に日本の五円玉を差し上げた。部屋に帰り、インスタント味噌汁を溶き、夕食を始める。周りの木立からは尚も小鳥の盛んな鳴き声が聞こえてくる。
 昼まではあれほど青空だったのに嘘のように空一面白い雲に覆われてきた。8時近くなっても外は未だ明るい。コノハズクの鳴き声が聞こえてきた。フロントへ行き、会計を済ませ、空港までの所要時間を聞いた後モーニングコールを依頼する。宿泊代はカードで支払った。請求書を見たら三泊予約していたのにもかかわらず二泊分(22.783Kn=16,768円)しか取られていなかった。早朝に到着した分は入っていない。明日の朝は早いので今夜は早く寝ることにする。

  6月3日(火)曇り Dubrovnik 06:25-(OS8402)07:20 Zagreb 08:10-(OS7052)09:05 Wien 10:35-(OS801)13:33 Athens
 午前3時起床。顔を洗って荷物を整えてフロントへ行く。先日山の上へ撮影に行った時タクシーの運転手との別れ際に空港へ行く時間を4時と約束したのか5時だったのかハッキリしない。昨夜フロントでタクシー会社に確認したいと言ったが、その運転手が誰なのか分からないので出来ないと言われた。
 フロントに降りて行くと先日このホテルに着いた時に応対してくれた美人の女性が当番で居た。私は彼女に何かしてあげたいと思ったがあいにく何も持ち合わせが無く、気持ちを伝える事が出来ない。せめてもと思い、つまらない子供騙しだが日本の五円玉を一個差し出した。せめてもの私の思いである。果たして通じたかどうか。素直な彼女は愛想良く「ありがとう」と受け取ってくれた。4時を過ぎてもタクシーは来ない。5時と言ったのかもしれない。仕方が無いからフロントの女性にお願いしてタクシーを一台呼んで貰った。
 街灯に照らされた街を過ぎ、真っ暗闇の狭い田舎道を空港へと向かう。30分ほど走ってようやく空港に着いた。辺りには未だ人影は無い。空港は開いているのだろうか。
 先の運転手に聞いた時にはホテルから空港まで200Knと言い、ホテルのフロントで聞いた時にはおよそ250Knと言っていたので昨日不足分を両替してきた。着いてみるとタクシーメーターは308Knを示していた。手持ちのクローネが足りない。しかし、先の運転手からユーロでも良いと聞いていたので心配は無い。手持ちのクローネを全部差し出して不足分を10ユーロ札で支払った。
 空港の中はがらんとして誰も居ない。灯りだけは点いている。時計は4時45分を指していた。5時半頃チェックインが始まる。私の後には日本のNOE新日本トラベルのツアー客が並んだ。飛行機は定刻に出発し、一路ザグレブへと向う。
 クロアチアの首都だというのにザグレブの飛行場は以外と小さくボーデングブリッヂは無く、飛行機にはバスで送迎している。小さな空港なので、簡単に乗り継ぎが出来てウイーンへと向う。
 ウイーンの空港は流石に大きく、乗り継ぎのターミナルへ行くのにはかなり歩く。着いたところで30分以上待ってから搭乗。
 ここまではオーストリア航空の搭乗券だが、飛行機はクロアチア航空であった。ここからはオーストリア航空に乗る。搭乗前の検査が厳しくフイルムのオープンチェックはどこもダメ。X線カブリが心配だ。ズボンのバンドからパスポート入れ、首提げポーチまで外させられたのには驚いた。
 ウイーンからアテネまで所要時間はおよそ3時間。ところが2時間ほどで眼下にギリシャらしい街やら港が見えてきた。そこを通過した辺りから高度を下げてきた。アテネ到着予定時間までは未だ1時間余りもあるというのにおかしい。機内の航路ナビケーターは天井に着いているのだが、小さくてほとんど判別不能。遂に地上近くまで降下。そのまま着陸。機内のアナウンスは何を言っているのか分からない。まさか機体の不調で不時着という訳ではあるまい。機内はそれほど緊迫はしていない。
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    Greece(ギリシャ)

サントリーニ島の教会/写真転載不可・なかむらみちお

 アテネ空港に入ってから時計を見て初めてそれまでの国と1時間の時差がある事に気が付いた。間抜けな話である。空港は新しくなった様で前回来た時とはすっかり様変わりしていた。
 荷物を受け取ってからサントリーニ島とミコノス島行きの船の切符を買うために空港内の旅行会社のカウンターに行き、無事買う事が出来た(97ユーロ=16013円)。その後、空港連絡バスに乗って街へと向う。
 アテネの街に入ってから以前に来た時に泊まったホテルのあるオモニア付近を注意して見たが見つける事は出来なかった。街の中心地、シンタグマ広場の空港連絡バスの終点でバスを降りてあらかじめ日本からメールで予約しておいたプラカ地区のホテルへと向う。
 なんとかホテルを見付けてフロントへ行くと予約は受けていないという。そんなはずは無い。eメールで頼んである。そのeメールのプリントも持っているという事でスーツケースの中から取り出そうとしたが、スーツケースの番号式キーが開かない。番号を確認して何度も試みるがどうしても開かない。宿の主人は見かねたのか部屋を一つ提供してくれた。しかし、スーツケースが開かない事には大変だ。仕方が無いから部屋に入ってからひとメモリ毎に番号を変更して試みる。キーが壊れていなければ1000回やればどこかで合うはずだ。しかし、以前持っていたキーは全部の番号を試してみても開かなくて捨てた事がある。多分故障したのだろう。これも若し故障したら絶対開かないこともある。どうしよう。叩いても押してもダメだ。最悪の場合は錠屋さんにでも持っていったら開くだろうか。果たしてここに錠屋さんがあるのかどうか。どうしてもダメなら壊して新しいスーツケースを買わなければならないかも知れない。
 蒸し暑い中汗を掻き掻き1時間近く一つ一つ試していたところ、突然開いた。よく見ると中の物がキーの番号を変更するレバーに当たって動かしたようだ。その当たった物を別な所へ移し、そのレバーの所には当たっても影響しないような柔らかい物を置いた。
 スーツケースが開いてから中のeメールのプリントを見たら宿が違っていた。ドジだ。何回も確認した心算だがどうした事だろう。何軒もeメールを出して例えば料金が高いとか何か返信の良くなかったところを何軒か差し替えたりしているうちに勘違いしたのに相違ない。参った。宿の主人には何と言おう。
 そのプリントを持ってフロントへ行き、宿の主人に謝った。主人は不機嫌そうに何か言っている。それでどうするんだこのホテルに泊まるのかと言っているようなので、このプリントのホテルには予約してあるのでそちらへ行くと言うと一層不機嫌になり、10ユーロ支払えという。そして今すぐ荷物を降ろして来いと言う。
 部屋に戻り荷物を纏めて居ると主人が入って来てベッドを使ったのかと言い、トイレなどを点検している。シーツが汚れれたと言って文句を言ってきた。私は只ひたすら謝ったが主人はベッドの上に置いてあった私のカメラ一式が入ったリックを乱暴にボンと椅子の上へ放り投げた。
 そのホテルを出て荷物一式を持ち一丁ほど歩くと予約しておいたホテルAdonis Hotel(住Kodrou3-Plaka)が在った。ここでは無事チェックイン、部屋に落ち付く。ヤレヤレとんだ事件だった。
 時間は5時を過ぎていた。シャワーを浴びた後、ドブロヴニクで飲み残してスーツケースに入れて持ってきた残りのワインを飲んで一息入れる。腹も空いてきた。近くのプラカ地区の飲食店街にでも行って何か食べることにする。その前にフロントへ行き、明朝ピレウスまで行く道筋と所要時間を聞く事にする。
 フロントでやり取りしていると外人さんから「日本人ですか」と声を掛けられた。私がフロントマンと意思の疎通が上手くいっていないのを見かねて助け舟を出してくれたらしい。その人の通訳で目的は達せられた。その人はフランス人で仕事で何度も日本へ行っていたというだけなのだが、なかなか達者な日本語で感心した。フランス人だから当然フランス語が話せて、その上、英語も日本語もと言う事で感心してしまう。仕事はジャーナリストと言い、雑誌の仕事をしていると言う。今、これからどこかのレストランへ行って仕事をするとかで、パソコンを小脇に抱えていた。
 夕方、近くのキダシネオン通り(プラカ地区のメインストリート)へ夕食の食材を買いに行く。小路にはレストランが軒を並べて店先にテーブルを並べ客引きをしていた。食品店に入ってみたがあまり買いたい物はない。帰り掛けにその付近の商店をふらついていると、一軒のワイン専門店があった。中に入ってみると壁際に大樽がいくつも並んでいた。その前のカウンターで客がワインを飲んでいた。
 2000年8月にフランスのニースに行った時にも旧市街のワインショップ「Caprioglio(カプリオグリオ)」でも店内に大樽が幾つも設えていた。いろいろの種類の地酒ワインを量り売りをしていたので持っていた水筒にいっぱいワインを買ってきた事がある。私の買ったワインは程々であったが、その値段の安いのには驚いた事がある。きっと近くの住民がアンフォラ(?)を持って買いに来るのであろう。一寸飲んでみたかったが、先ほどホテルで飲んだばかりなので今日は止めて置いた。11日にミコノス島から帰って来た時に同じホテルに泊まるので、その時飲みに来ることにする。
 その店の向かいのパン屋で何か分からないサンドウイッチのようなパンを一つ買って食べるが美味しくない。大半を食べ残してしまった。
 外は未だ明るい。ホテルの部屋は照明が薄暗い。先のホテルでのキー事件でどっと疲れた。今朝も早立ちであまりゆっくりとは眠れなかったので多少寝不足だ。明朝も5時半にはホテルを出なければならないので今日は早めに寝ることにする。9時にベッドに入っていたら蚊が一匹飛んで来た。日本から持ってきた蚊取線香を点けて少々早いが寝る。

    6月4日(水)快晴 Athens(Piraeus) 07:25-(船)15:50 Santorini
 早朝5時半にホテルを出てミトロポレオス大聖堂の角を左に曲がり、モナスティラキ地下鉄駅へ向かう。駅舎もすっかり新しくなっている。
 ピレウス港に着いて驚いた。駅舎を出たすぐ目の前に船が着いており、車や乗客が乗り込んでいた。昔はここから10分以上も歩いたはずだが、便利になったものだ。船も大きい。昔に比べて段違いだ。
 1997年に来た時には確か地下鉄ピレウス駅から船乗り場までは10分以上歩いた記憶がある。そこでサントリーニ島行きの夜行便の船の出発時間まで近くのbarで過ごしたはずだ。その時私に近寄ってきた中年の男が「日本人か?ならば岸洋子の『夜明けの歌』を知っているか。私はその歌が好きだ。教えてくれ」と近付いて来た。私もうる覚えではあったが、分かるだけ歌って聞かせた。彼は熱心に覚えようとして歌っていた。どこの誰かも知らないギリシャ人のその男と、今、再び会うことは不可能だが、会えるものなら会ってみたい。今、彼はどうしているだろうか。
 ここからエーゲ海を渡り、サントリーニ島へと向う。早速船に乗り込む。船内も広く、多くの乗客を乗せる事が出来る。装備も良い。大変乗り心地が良さそうだ。船はブルースター社の「ナクソス」号だ。
 7時25分、船尾のデッキに出てみると駆け込みで乗り込む乗客とトラックとがいた。やがて桟橋が上げられ、駆け込んだが寸でのところで乗れなかった人が未練がましく船を見詰めている。又、誰かを待っているのか荷物を持った二人連れが残念そうに取り残されていた。何時でも船出には哀愁が漂う。悲喜こもごもの人間模様がひだの様にいろいろ見られて興味深い。
 船内はほぼ満員で賑やかだ。上のクラスはふかふかとしたシートだが、エコノミークラスは街角のレストラン前で見かけるようなテーブル席だ。
パロス島/写真転載不可・なかむらみちお  12時にパロス島に着いた。蒼い海に真っ白な建物が調和してひときは秀でる。ここも綺麗な島だ。港の近くには古い風車と空色の丸いドームを被った教会が見える。この島にあるエカトンダビレリアニ(百門の教会)は聖母被昇天のお祭りが盛大なので有名だ。夏のナイトスポット、リゾートとしても人気が高い。多数の乗客と多数の車が降り、多数の乗客と多数の車が又乗り込んで来た。
 1時過ぎ、船はナクソス島に着いた。ここはキクラデス諸島の中では1番大きい島だ。又同じように乗客と車の乗り降りがあった。緑の少ない山肌が目に付く。ここはパロス島ほど目を引くものは見当たらない。
 1時半、ナクソスを出発して最後の寄港地サントリーニ島へと向う。
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   サントリーニ島 Santorini
イア/写真転載不可・なかむらみちお  4時少し前、およそ8時間半掛けて船はサントリーニ島のアティニオス港に着岸した。日本や欧米での通り名はサントリーニだが、ギリシャでの正式名はティラと言う。着岸する前、船はイアの近くから噴火湾の中に入り、イアの街を眺めながらアティニオス港へと向う。その船の上から最初にこの島に来た時にようやく探し当てた青いドーム屋根の教会を探したが見つからなかった。海沿いの崖の上に建っているのだから、海からも見えるはずだが見えなかったのは不思議だ。見落としたのかもしれない。
サントリーニ島/写真転載不可・なかむらみちお  “神話の国”“遺跡の国”そして“光の国…”。ギリシャは、旅人に夢とロマンを与えてくれる魅力あふれる国だ。エーゲ海は抜けるような空がいい。何処までも青い空と蒼い海。限りなく白い雲と白い街。時間は悠久の昔から停止しているかのようにさえ思える。
 溶岩の島は赤茶けた断崖が壁のように立ち塞がり、真っ赤に燃え上がっている。聳え立つ絶壁が海に迫り、その崖の上にまばゆい太陽の光をいっぱいに浴びて、さらに美しさが映えた白い家並みが続く。そしてその上に青空が広がる。
 この島の中心街であるフィラに向うバスはすでに満員だった。立ってゆく事を覚悟する。奥へ進むと青年が一席場所取りをしていた。念のため「空いていますか」と尋ねると答は「ノー」だった。その席の脇に立って暫くしてからその席を確保していた男が座っても良いと言う事になって思わぬ儲けものをした。彼は連れの女性が確保していた前の席に移動した。
 バスは急な坂道を前の車列に続いて九十九折に登ってゆく。こんな急な坂を満員の人と荷物を載せて大丈夫なのかと心配になってくる。無事坂を登り切り、フィラ市内のバスターミナルへと向かう。
 バスが20台ほど停まれる広さの駐車場に案内窓口のある乗務員の休憩所を兼ねた小屋のような建物のあるターミナルでバスを降りたがホテルの客引きばかり多く、タクシーは見付からない。一人の客引きに聞くとタクシー乗り場は向こうだと言うので直射日光が容赦なく強く照り付ける中、荷物を引いてタクシー乗り場へと向かう。タクシー乗り場でホテル名を告げると、ホテルはすぐそこだと言う。再び教えられた道をホテル目指して歩き始める。
Hotel Tataki/写真転載不可・なかむらみちお  ようやくホテル(Hotel Tataki)に到着。フロントには中国系らしい若い女性が居て応対してくれた。案内された部屋は綺麗でダブルベッド、トイレ、シャワーは勿論、クーラーおまけに小型の冷蔵庫まで付いている。珍しい事である。これでエレベーターがあれは申し分ないのだが…。彼女は冷蔵庫の調整をして、シャワーのお湯の温度の上げ方などを説明してくれた。床は綺麗な白い総大理石張りである。
 5時半を回っているというのに太陽はまだかなり高い。ぐったりと疲れているが、一応カメラと三脚を持って崖の方へ行って見る。懐かしい風景だ。あまり変わっていない。三度来る奴はなんとかだというが、私がこの島に来たのは正しく今回で三度目である。こんな遠い所に三度も来れるとは思わなかったし、三度も来る者も居ないだろう。夏目漱石がその作品「倫敦塔」の中で『一度得た記憶を二編目に打ち壊すのは惜しい。三たび目に拭い去るのは尤も残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う』といっているが、私はこの風景に限り何度見ても見厭きない。
青い空蒼い海白い家/写真転載不可・なかむらみちお  フィラの街から眺めるエーゲ海の美しさはたとえようもなく、眼下にはエーゲブルーを静かにたたえたえた湾と火山がパノラミツクに展開する。透き通ったワインカラーの海。真っ青な空の間に真っ白な家や教会。その向こうに連なる島々が浮かぶ。朝から夕方にかけての時間の経過と共に光線の具合で海の色や白い教会の影が変化する。実に素晴らしい。頬を撫でて通り過ぎる潮風も、乾き切った肌には心地好い。時の過ぎ行くままに一日中ここに座って海を眺めていてもいつこうに飽きる事はない。心が癒される。「人生では何度か、ああ生きていて良かったと思う瞬間がある。そのために人間は生きてるんじゃねえか」と寅さんが言っていたっけ。まさしく今がそれでないだろうか。
 1990年、定年退職後の第二の職場を辞してポッカリと空いた心を抱いて流れ着いた島がこの島だった。その後この島には1997年にも一度訪れているので今回は三度目だ。1度目はともかく、2度目はまぁまぁ、3度目はなんとか…。あれから20年近く、この島は今どう変わったのであろうか。
石段を行き来する驢馬の足音だけが聞こえてくる/写真転載不可・なかむらみちお  静かに悠久の時が通り過ぎて行く。崖の下のオールドポートからジグザグ道を登ってくるロバ追いの声だけがかすかに聞こえてくる。
広い大きな大海原のキャンバス/写真転載不可・なかむらみちお  水平線が遠く見える崖の上にたたづみ、広い大きな大海原のキャンバスに絵を描くように豪華客船が白い航跡を残して行き交う海をいつまでも飽きずに眺めていた。この風景を眺めていると、ポッカリと空いた私の心も次第に癒されてくるのが感じられた。この島に特別飛び抜けて観る物があるわけではないが、何故かこの風景が私の心に引き付けるものがある。
 人体に排泄作用があるように、私達の心にも排泄が必要ではないだろうか。心の排泄…それは“忘れる”という事だと思う。私達は毎日溢れるばかりの“情報”の中に日常生活を送っている。その“情報”とは良い事ばかりではなく、辛い事や不都合な事、イヤな記憶もある。それ等がみんなストレスとなって知らず知らずの内に心の中に蓄積される。その蓄積が限度を越えた時に心のパンク状態が起き、極度のノイローゼやウツ病になるのではないだろうか。精神的なパンク状態に陥らぬ為には吸収の反対作用として“忘れること”が必要なのである。旅は“忘れる技術”の一つでもある。
 旅とは、知らない土地で言葉も通じず、自分がいてもいなくても良いような、そんな『透明人間』みたいになれるひと時でもある。漂白、放浪への憧れを持つ生物である男にとって旅は心身に合う行為であろう。若い人の旅行はレジャーだが、中年期以後の男には旅は心のクリーニングである。
 人間長生きしている間には、“こだわり”や“心のトゲ”を持っている。これを消して歩く旅を始めたらどうだろう。つまり永年心に刺さっているトゲを抜いて歩く旅を始めるのだ。心のトゲを抜いて歩くのには、先ず、自然の旅に浸るのが一番いい。心のトゲを抜くというのは、自分にあるこだわり(固定観念)を消し去ることである。自然は必ずそういう役を果たしてくれる。加えて「ここなら忘れられる」と言う精神状態を生み出してくれる。
サントリーニ島は熱々のカップルでいっぱい/写真転載不可・なかむらみちお  よく「自分探し」と言う言葉を聞く。「自分探し」とは何なのか。「自分探し」とは「私が生きる意味」を探すこと、だそうだ。さしずめここから眺める風景は「自分探し」にはピッタリの場所である。この風景を眺めていると「人間に生まれたのは、このためであったのか!」と思う。20世紀最大の哲学者ウィトゲンシュタインは「意味ある人生」とは「幸福な人生」だと言った。又、前5世紀のギリシャの哲学者ソクラテスは「汝自身を知れ」とも言っている。哲学者の伊藤健太郎は自分探しは必ず「死」にぶつかるとも言う。「生きる意味」も「人生の目的」も、「本当の幸福になる事」であろう。1990年に初めて私がここに来たのは「自分探し」に来たのかも知れない。
 「自分探し」もよいが、私は自分を見直すなら“座禅”をしてみるのが良いのではないかと思う。この絶景の崖の上から海に向かって座禅を組み、もう一度自分を見直して見るのも悪くない。
テラスではプールに青々と水を湛えている/写真転載不可・なかむらみちお  太陽は真正面から照りつけている。一面真っ白な白壁の続く眼下の建物群も真正面から照らされて陰がない。全部がベタだ。立体感に乏しい。それでも2〜3枚写して置く。
 アングルを求めてあちらこちらと探し歩き周る。矢張り前回目をつけて置いたホテルの屋上が1番良さそうだ。前回はホテルの中に入れて貰わなければならない為に躊躇したが、今日は思い切って頼んでみた。応対してくれたフロントの女性は、隣のレストランの方が良いと教えてくれた。その教えに従って黄色に塗られた階段を登り、店の人に許可を求めると快く許してくれた。
ティラ/写真転載不可・なかむらみちお  なるほどここから見る風景は絵葉書のように美しい。前回来た時廃墟になっていて見苦しかったところも新しくホテルが建って綺麗になった。早速ここで何枚か撮影してお礼を言って帰って来た。その後、旧港へ降りる石の階段を降り、その途中からも撮影する。
 今回訪れたこの島は私が初めて訪れた時からすでに20年近くも経っているが、人情も風景も全く変わっていなかった。ホテルに帰り機材を部屋に置いてから近くのスーパーマーケットへ行き、死人も蘇らせると言うこの島の特産ワイン「ビザント(Vinsanto)」ともう一本白ワイン、それに水とパンとハム、冷えた缶ビールを買って帰って来る。
 ここのシャワーはシャワー室の天井近くに円筒形のタンクがあり、部屋に入るドアの脇にあるブレーカーを入れて電気で温めたお湯を使う。フロントの女性は10分前にスイッチを入れて、終わったら切ってくれと言う。洗顔も同じお湯を使う。 前回来た時はそう言うやり方が分からず、冷たい水のままシャワーを浴びてひどい目にあったことを思い出す。
「Vinsanto」/写真転載不可・なかむらみちお  シャワーの出は良くない。チョロチョロだ。一応洗う真似事程度で済ます。あまりあずましくない。ここはほとんど雨が降らないので、水は貴重品なのである。
 シャワーを浴びた後、先ずは「トリビー」。ビールを一気に飲み干す。暑さと疲れの為どんなビールを飲んでも旨い。続いてビザントを開ける。至福のひと時だ。このワインは前回来た時にも飲んでおり、味は分かっている。黒砂糖が入っているような甘口のワインなのでワイン通の人にはどうかと思う。パンをかじった後、再び崖の方へ夕陽を見に行く。少し薄雲が霞掛かって太陽がボヤーとしている。8時30分入陽。
 ホテルに帰ってきて結構疲れていたのでそのまま寝る。ここは辺り一面タベルナなどの飲食店等が多い商店街の一角なので夜遅くと言うよりも翌朝まで賑わっている。寝ていても明け方の4時近くまでざわめきや大声での話し声、BGM等が聴こえていたが、疲れていた所為かぐっすり眠れた。
ビザント「Vinsanto」
 収穫した葡萄を3〜4日日に干した後搾った汁で作るのでいくらも造れない。カラメルの味と風味が特徴で甘口のワイン。ヨーロッパワインの富貴酒のような感じがする。製造に手間暇が掛かるので値段も高い高級酒である。

    6月5日(木)晴れ時々曇り Santorini
 明け方の3時に1度目が覚めた。部屋の外では未だ賑やかな話し声が聞こえている。再びベッドにもぐり込むと今朝は珍しく6時までなにも分からずに寝過ごしてしまった。
 急いで服を着て部屋の外に出ると朝日が昇ったばかりだった。しかし、ここからでは絵にならない。太陽も朝霧のせいか靄っている。崖の方に行ってみたが特別写真になりそうもないので帰って来る。ここの朝は遅い。街には未だ誰も歩いていない。朝食は8時からである。まだ間があるので日記を書くことにする。
部屋の前のテラスで朝食/写真転載不可・なかむらみちお  8時半、フロントの女性がお盆に載せて食事を運んで来てくれた。部屋の外のベランダで街の屋根越しに見える海を眺めながら風に吹かれて食べる事にする。
 フィラ発10時のバスでイアへ行こうと思ってバスステーションまで一応行ったが、朝から雲が多く、この状態ではイメージが合わないので明日行く事にした。
 さてどうしようかと迷った挙句、ワイン博物館へ行こうと思ってカマリビーチ行きのバスに乗り込んでから資料を見ると、ワイン博物館は12時からの開場という事であわててバスを降りた。
 じゃ、どうしようかと考えた末、フィラの街の北のはずれにある青いドームと鐘楼のある絵葉書にもなっている有名な教会へ行く事にした。
 一旦ホテルに戻り。不要な機材を置いてなるべくスリムな装備で再出発。相変わらず日差しがきつい。なるべく日陰を選んで国道を北へと向う。ここは前回にも何度か訪れているのだが入口が分かりにくい。途中で住民に尋ねながら行く。
青いドームの教会/写真転載不可・なかむらみちお  何度か尋ねながら大分歩いたところで来過ぎていると言う。前にも行きすぎた経験があるので注意して来た心算だが、前回よりも街が拓け、家並みが多くなったので分かりにくい。今度は海岸の道をかなり逆戻りしてようやく辿り着いた。青いドームの教会は変っていなかったが、教会の回りはびっしりとホテルなどが立ち並び、すっかり街になってしまったので驚いてしまう。
 ここで昼まで撮影。今度は海沿いの道を通ってホテルへ帰る。再び持ち物を変えて今度はワイン博物館へと向う。

   ワイン博物館 Wine Museum
ワイナリーの正面入口/写真転載不可・なかむらみちお 見学通路/写真転載不可・なかむらみちお  ワイン博物館はフランスのブルゴーニュ・ワインの本場、ボーヌ(Beaune)にある「ワイン市場」のようにトンネル状の通路を通り抜けて展示物を見学する。

今回テスティングしたワイン/写真転載不可・なかむらみちお サントリーニ島のワイン/写真転載不可・なかむらみちお  先ず、カウンターへ行くと日本語のトーキーを貸してくれる。それを持って洞窟の中に造られたジオラマをハンドトーキーの説明を聞きながら順番に従って見て行くとサントリーニ島のワインの歴史を知る事ができる。見終わった後、テイスティングがある。テイスティング無しのコースもある。
 George Koutsoyannopoulos Winery & Wine Musseum (Santorini 847 00 Cyclades,Greece ) on the road to Komari Beach.
 行き方はフィラからカマリ・ビーチ行きのバスで途中下車するとバス停のすぐ近くのワイン博物館の門の側に看板が出ている。(22860)31322. http://www.volcanwines.gr e-mail:volcanwines.gr 12:00〜20:00 休みなし。6ユーロ。
ファーストフードのスブラギ/写真転載不可・なかむらみちお  天気が回復してきたので、ホテルに戻ってから機材を整えて崖へと行ってみる。ホテルに帰って来てシャワーを浴び、ワインを飲み、近くのファーストフードでスブラギを食べてから部屋で日記を書く。
新婚さん/写真転載不可・なかむらみちお  夕陽が沈む頃、崖の方へ行って見たが、雲が多くて太陽が時折霞んで見える程度で夕焼けは期待出来なかった。花嫁衣裳に着飾った新婚さん夫婦が記念写真を撮るために訪れていたので一寸声を掛けて写させてもらった。新婚さん夫婦は近くの二階にあるレストランへ入って行った。そこで披露パーテーでもするのだろう。
 18年前(1990年)、初めて私がここを訪れた際、ビザントで歓迎してくれたお土産屋の主人ヤニスに会いたくてその付近を探してみたがすっかり様変わりしていてそれらしい店を見出す事が出来なかった。久しぶりに会ってお元気な姿を見たかったのだが残念であった。若し、会えたら懐かしげにあの髯もじゃの顔に満面の笑みを浮かべて、又ビザントで歓迎してくれたであろうに。残念至極である。あの髯面とワインを愛している事から私はギリシャ神話に出てくる酒の神様に因んでディオニソス(バッカス)と名付けた。
 彼には前回(1997年)、私がここに二度目に来た時にも彼に安いホテルを世話して貰い、揚句に彼の家に招かれて夕食をご馳走になったこともあった。会えなくて本当に残念である。あの時もかなりのお歳のようだったが、あれから20年近くの月日が経ち、果たして今でもお元気なんだろうか。心配である。

   6月6日(金)曇り後小雨後快晴 Santorini
 今日は朝から曇りで肌寒い。寒冷前線でも通っているのだろうか。そうだとすれば前線が通り過ぎた後には晴天が期待できるのだか果たしてどうだろう。
風に吹かれてのんびりと過ごしたい/写真転載不可・なかむらみちお  今日は昨日行き損なったイアに行こうと思っている。イアの街は島の北端、三日月状の端に位置する小さな町である。崖には白い壁に青い屋根の教会や民家が段々に建っていて、メルヘンチックな雰囲気を醸し出している。この島で1番期待している風景だ。
 若し、今日行けなくても明日も滞在日程があるので慌てることは無い。それにしても今朝は日の出はなんとか見れたのにあまりにも急激な天候の変化に驚かされる。今にも雨でも降りそうだが、元来ここのこの季節は雨はめったに降らないはずだからまず降ることはないだろう。それにしてもガッカリだ。若し天気が回復しなかったら今日1日中どうやって過ごそうか。
日本製のインスタントラーメン/写真転載不可・なかむらみちお  午前中は部屋でぼんやりと話の分からないテレビを眺めて過ごす。お昼近く、フロントの女性にお願いしてキャンプなどで使う携帯ガスコンロを借りてパテオ(周りを建物で囲った中庭)でラーメンを作って食べる。
 前線が通過して天気の回復の兆しが見えてきたので12時45分発のバスでイアへ行く事にする。15分程前にホテルを出て途中のスーパーでバナナを一本買い、それを食べながらバスステーションへ向う。すると、向こうからイア行らしいバスが来て目の前の停留所に停まり、数人の乗客が乗り込んでいる。急いで駆けつけ、運転手に聞くとイア行だと言う。時刻表にはこの時間のイア行のバスは無いので、多分12時発のバスが30分遅れて来たようだ。思わぬ拾い物をした。今日は幸先が良い。

   イアの町
イアの海岸/写真転載不可・なかむらみちお  バスを降りて勝手知ったる細道を海に向って進み、青いドームの教会目指してゆく。大きな教会の広場に出て突き当たったら右に行く。道の両側には土産物屋、アートショップ、洒落たカフェなどが続く。少し行くと左手に教会がある。宝石店の反対側のその教会と隣の建物との間の一間にも満たない小さな露地を入る。何の変哲もない地味な露地なのでその先に素晴らしい景色があるとは思いもよらない。多くの観光客は知らないで通り過ぎて行く。ほとんど人通りのない道を何度か曲がって海岸の方へ向かって坂道を下って行くと急に視界が開け、目の前に絵葉書で良く見かける青いドームの教会群が目に入る。
イア/写真転載不可・なかむらみちお  見ると鐘楼の色が違う。昔は空色をしていたが藍色に塗り替えられている。ドームのペンキも剥げ落ちて薄汚い。これじゃ写真にはならない。ガッカリだ。陰の方ではペンキ屋さんが盛んに教会のお化粧中だ。
 この1年間、風雪に耐えてきた青いドームは化粧が剥げ落ちてまるで一夜明けた水商売の女性の顔のようにボロボロだ。ガッカリ。その後すぐ梯子を持って来てこちらの面も作業を始める。写真にならないが取りあえず一枚写す。
イアの岬/写真転載不可・なかむらみちお  仕方がないのでここは後で来る事にしてとりあえずその先の岬へ向う。元の道なりに進む。暑くなってきた。日差しが強い。
 道々スナップしながら岬の方へ行き、岬の上の展望台に出る。ここからの夕陽の眺めが最高。天気の良い日は、カメラを抱えた観光客が大勢集まる。日本人の若い二人連れの女性が居たので記念写真を撮ってあげた。腕が日焼けして痛くなってきた。
 帰り掛けにもう1度先ほどの青いドームの教会付近に戻って来たが未だ作業が続いている。しばらく日陰で待ってみたが作業は今日中に終りそうもない。今日のところは諦めて明日もう一度挑戦する事にしてフィラへ戻る。
ティラの夕陽/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルに帰って来て、ワインを開ける。その後崖の方へ行って見たが風が強くなり、客足も疎らな様だ。一旦、ホテルに帰ってフイルムなどを整理した後、夕陽を撮りに行く。あまり良い夕陽ではなかったがまぁまぁだ。教会のドームを引っ掛けて撮影する。

    6月7日(土)快晴 Santorini
 今朝は2度寝したので目が覚めたら7時だった。昨日の名残の風が多少あるが、朝から快晴だ。これなら一日中晴れるだろう。
 8時半の朝食の後、再びバスでイアに向う。果たして今日はお目当ての教会のペンキ塗り作業は昨日で終わっているだろうか。期待でわくわくしながら撮影ポイントへ向う。
イアの教会/写真転載不可・なかむらみちお イアの教会/写真転載不可・なかむらみちお
イアの教会/写真転載不可・なかむらみちお  教会を見下ろすポイントに着いてみると、ドームは綺麗に青く塗り終えていた。しかし、未だその下の建物を白く塗る作業が少し残って入るらしく3人のペンキ職人が作業に入る準備をしていた。私は大急ぎでカメラをセットして、ペンキ屋さんに声を掛けてとりあえず1枚だけ撮らせて貰った。その後はペンキ屋さんが建物の陰のほうで作業している合間等のチャンスを見つけて撮影したがその待ち時間が永い。直射日光が容赦なく照付け、昨日かなり日焼けした腕に堪える。私がこのシーズン、ペンキを塗り替えてから始めてこの教会を撮ったカメラマン第1号になったようだ。
ムサカ/写真転載不可・なかむらみちお  ようやく二ヵ所から撮り終えてフィラに帰って来た。丁度昼食の時間となったので前回来た時に行ったことのあるレストラン「Nicolaus」へ行ってひき肉と野菜をチーズやホワイトソースと合わせてオーブンで焼いたMousaka(ムサカ)を食べた。その前にこの店自慢の白のハウスワインも注文する。店員さんは前回来た時にも居たおじさんが元気で働いていた。
 食事の後、一旦ホテルに帰り、機材を換えて崖の方へ行って見た。更に九十九折の坂道を下ってゆくと前回よりも驚くほど多くの驢馬が待機していた。その坂を中程まで降りた後、又登り、今度はケーブルカーの駅の方へ昇って行ってみる。ここには前回食事をしたレストラン「Kastolo」があり、今日も大勢の客で賑わっていた。ここからのフィラの眺めは絶品である。
ギリシャのビール/写真転載不可  商店街を通って再び大聖堂前に来た後スーパーに寄って冷えた缶ビールを買い、ホテルの部屋で飲む。続いて締めくくりとして飲み残しておいたワインで今日のサントリーニ島での撮影の無事終了を祝して乾杯!
夕陽に染まるティラ/写真転載不可・なかむらみちお ロマンチックなサントリーニ島の暮色/写真転載不可・なかむらみちお
牧師も家路に急ぐ/写真転載不可・なかむらみちお  夕焼けを写しに行く前にバスセンターへ行き、明日ミコノスへ行く船に乗る為にアティニオス港行のバスの時間を調べる。あまり本数はない。一本位余裕を持って早めに行きたいのだが、8時の次は10時発だ。ミコノス島行のフェリーボートの出航時間は11時50分である。これでも間に合うが、何かアクシデントがあると怖い。バスセンターの案内所の係員は、10時で良いというのでこれで行く事にする。なにしろここのバスの運行時間は適当で当てにならないから絶対という時には不安が残る。
 夕陽は今迄で1番良かったので一枚だけ撮る。

    6月8日(日)快晴 Santorini 11:50-(船)14:25 Mykonos
 今日は船でミコノス島へ渡る。午前10時バスセンター発のバスでアティニオス港へ向う。11時50分発の船が出発予定時刻を過ぎても現われない。12時10分頃ようやく左の島陰から現われた。12時20分サントリーニ島出発。さらばサントリーニ!
 途中イオス島に13時頃到着。14時過ぎパロス島に寄り、14時50分にミコノス島に着いた。
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      ミコノス島 Mykonos
ミコノス港/写真転載不可・なかむらみちお  ミコノス島は“エーゲ海の島”の代名詞といえるほど観光的にポピュラーな島。古き良きギリシャの風習と、ソフィスティケイトされた真っ青な海と空と粉ひき風車と、真っ白な壁の家がロマンチックに旅人達を受け入れてくれる。ギリシャの風習とは、旅人を心から大切にしてくれる習わしのこと。
 港に着くと大勢のホテルの客引きが声を掛けていた。そのひとりに私が今日泊まる「Zorzis Hotel」(30 Nik. Kalogera Mykonos City,84600)を尋ねると、港の湾の向こうに見える白い街を指差してあそこだから歩いて行けと言う。地図上で見た感じでは結構距離があるようなのでタクシーで行く心算だったが、ここの感覚では歩きの距離のようだ。仕方なく重い荷物を引き摺りながらホテルへと向う。当初思っていた港に面した所ではなく、街の中にあるらしい。漸く訪ね歩いてホテルへ無事到着。チェックイン。部屋は広くはないがトイレ、シャワー、クーラー、TV付きで綺麗だ。
リトル・ベニス/写真転載不可・なかむらみちお リトル・ベニス/写真転載不可・なかむらみちお
リトル・ベニス/写真転載不可・なかむらみちお  今日は日曜日なので教会が開いているかもしれない。急いで先ずパラポルティアニ教会を撮影に行く。真逆光だ。次にリトルヴェニスビーチのレストラン街を向こうに見える風車群込みで撮る。撮影後、テーブルの並ぶレストランの中を通って行くと、若い日本人夫妻が食事をしていた。声を掛けると気さくに応対をしてくれた。その内、私も隣に席を取り、あんまり暑いのでビールを一杯飲んだ。会話の中で世界的にも日本にも余りこれと言って大きなニュースは無かった様だ。彼らに別れを告げ、風車群を一回りして迷路を通りホテルへ向った心算だが、港の方に出てしまった。思わず笑ってしまった。
 もう1度、今度は初めてこの島へ来た時に入った入口から入ってみた。路地を一つ違っただけで全く違う風景なのでなかなかホテルに辿り着けない。道々土地の人に尋ねながらようやくホテルに着く事が出来た。

夕闇迫るリトル・ベニス/写真転載不可・なかむらみちお どこを歩いても絵になるミコノス・タウン/写真転載不可・なかむらみちお  ミコノスの街は白壁に囲まれた狭い道が迷路のように網の目に張り巡らしている。一度通った処へもう1度行こうとしてもなかなか辿り着けない。
 ミコノスタウンは昔しばしば海賊に襲われたそうで、それで海賊から身を守るために街中の道を狭く曲がりくねった迷路の街を造った。又、玄関も一段高く二階から出入りするような構造になっており、階段を使って出入りする。
 ホテルの人に近くのスーパーマーケットのある場所を聞いて買い出しに行く。ギリシャの酒「ウゾ」を買ってきた。シャワーを浴びた後、パテオ(中庭)に行き、サントリーニ島で飲み残したワインを開ける。今日は余り歩かないのに何となく疲れた。そのままベッドに入り寝る。

    6月9日(月)快晴 Mykonos
 今朝はゆっくり寝た。珍しく6時に目が醒めた。近くから山鳩の鳴き声が盛んに聞こえてくる。朝食は8時なので未だ間がある。朝日に照らされた風景が気になる。しかし、まだ少し疲れが残っているので部屋でテレビを視てボーッと過ごす。
パラポルティアニ教会、キクラデス諸島でも代表的な美しい教会建築/写真転載不可・なかむらみちお  朝食後、先ずパラポルティアニ教会を目指してホテルを出る。この教会は氷山を思わせるような形をしている。色は勿論真っ白だから尚更氷山のようだ。
 ホテルを出て西側に進路を取って歩いたはずだが、出たところが北側の港に出てしまった。港の淵をぐるりと回ってパラポルティアニ教会前に行く。
 朝日をまともに受けてフラットだが、とにかく撮影して今度は南のバスステーションに近い郵便局を目指して進む。途中何度か道を尋ねて進むが、いつの間にか南のバスステーションに出てしまった。

プラティ・ヤロス/写真転載不可・なかむらみちお  今日はヌーデストビーチとして有名なスーパー・パラダイス・ビーチへ行く予定なので、ここから出発するプラティ・ヤロス行のバスの時間を調べる。10時発なのでまだ30分ほど時間がある。ここへ帰って来た時にはおそらくシェスタで郵便局は閉まっているかも知れない。すぐ近くなので妻宛の絵葉書を出す為に近くの郵便局へ行ってくる。
 バスで着いたプラティ・ヤロスの海岸はビーチが開け、見違えるほど広く美しくなった。前回この島に来た時泊まったホテルがこの途中に在ったはずだが気を付けて見ていたが分からなかった。

スーパー・パラダイス・ビーチ/写真転載不可・なかむらみちお スーパー・パラダイス・ビーチ/写真転載不可・なかむらみちお
スーパー・パラダイス・ビーチ/写真転載不可・なかむらみちお    スーパー・パラダイス・ビーチ
 木造小型のポンポン船で渡ったスーパー・パラダイス・ビーチの風景は昔と余り変っていなかった。ここはミコノス島の中でも最もソフィスティケイトされたビーチである。このビーチはヌーディスト・ビーチであると共に、ゲイビーチとしても有名である。着いたのは11時に近いというのに、こことしては未だ朝早いのか人陰はまばらであった。丘の上に登って植物を利用して作った日除け傘が南国風に並ぶ海辺の風景などを撮影。反対側のレストランのある丘からも撮る。帰りの船は3時まで無いという。仕方がないからそれまでここの日陰で待つ事にする。
風車はこの島のシンボル/写真転載不可・なかむらみちお  ミコノスタウンの南のバスステーションに帰って来てから、街の俯瞰を撮るために広いアギウ通りを北に向かって歩く。アノミリの丘の風車を過ぎ、昔来た時に登ったことのある城跡を目指して急な坂を登る。まるで登山のような感じである。
 目指すポイントはなかなか見付からない。他人の土地へ迷い込んだり、行き止まりだったり、急な坂を何度も登ったり下ったりしてようやく赤いドームの教会と風車群が縦軸に写るポイントを見つけて撮影する。
ミコノス・タウン/写真転載不可・なかむらみちお  5時を回っている。腹も空いて来た。この島に来てから果物を食べていない。途中のスーパーに寄り、バナナとオレンジ3個を買い、バナナを食べながらホテルへと向う。  迷路の街の中に入るにはいくつもの小路への入口がある。これぞと思う道に見当をつけて入って行く。なかなかホテルが見付からない。迷いに迷って街の人に尋ねながらようやくたどり着いた。
レツィナ(左)とウゾ(右)/写真転載不可・なかむらみちお  近くのスーパーやパン屋さんで買い物を済ませた後、部屋の外のパテオで早速レツィナを飲む。ギリシャのワインは、白、赤、ロゼの三種類に、もうひとつ特別なワインがある。松脂の香がするレツィナだ。昔、ワインは山羊の皮袋に入れていた。粘着力のある松脂と木を使って栓をしていたそうだが、その松脂が自然に溶けてワインに入った。これがレツィナの誕生物語だ。それ以来このお酒はギリシャ人にとってなくてはならないものになった。最初は少し癖があるが、ギリシャ人にとってはこれがたまらないらしい。
 ようやく蘇えった様な気分になる。今日も歩いた。疲れた。シャワーは面倒なのでパス。ホテルの主人に頼んでガスレンジを借り、ラーメンを煮て食べる。美味い。矢張り日本人には日本の味が一番である。
 今日は歩き疲れたので少々早いがそのまま寝る。



     6月10日(火)晴れ時々曇り Mykonos
港に面したセント・ニコラス教会/写真転載不可・なかむらみちお  昨日はあんなに疲れていたのに今朝は4時に目が覚めてしまった。ギリシャの夜は遅く、従って朝も遅い。太陽までが朝寝宵っ張りで、太陽が寝ぼけ眼で顔を出すのは6時少し前。西の海に沈むのは8時半過ぎである。ギリシャの生活のテンポはなにごともゆっくり、ゆったりである。おおらかそのもの。バスの時刻表も有っても無きがごときもの。いちいち気にしていてはいられない。ギリシャの人々はゆとりのある生活を好んでいるようだ。
 朝食は8時なので、それまでの間日記を書く。朝日に輝くパラポルティアニ教会の建物を撮るため6時頃ホテルを出る。街はひっそりとしていて誰も居ない。出たところがリトルヴェニスビーチだ。そこからパラポルティアニ教会へ周る。もうすでに建物に光が当たっていた。少し遅かった。明朝もう1度もうすこし早めに来ることにする。
ミコノス・タウンは迷路の街/写真転載不可・なかむらみちお  迷路を今度はコンパスを持ってそれを持ちがら進んでどうやらこの辺と思うところで又どこか分からなくなった。幸いパン屋の職人がひと仕事終えたのか工場の前で無駄話をしていたので尋ねてみると角を一つ曲がった所だという。今度は大体当ったようだ。
 ここに着いた日と昨日でこの島の主要な所を大体写したので、今日は行きたい所はない。体を休めるために午前中いっぱいホテルの部屋でボーとテレビを見たりして過ごす。
島のアイドル、ペドロ/写真転載不可・なかむらみちお  一時過ぎ、ラーメンを作って食べ、一休みしてから二時過ぎにブラッと街の中を散歩する。時には間違えて同じ所に出たりする事もあったが、大体余り迷わないでホテルへ帰り着いた。その後再び港まで行き、明日帰る時の道筋のチェックと風車が回っているかどうかの確認をしてきた。
 今日は朝から凄く風が強い。ミコノスは大体風の強いところで、珍しい事ではないが、船が出港するかどうかが心配なので船会社の窓口でその点を確認したり乗船場を確認した。明日になれば風は治まるだろう。いずれにしても出航してもらえば良いのだ。若し欠航となれば、12日のアテネから南イタリアのパレルモへ行く飛行機に間に合わなくなり、航空券が無効になってしまう。この航空券は払い戻しの利かない航空券なので丸損となってしまう。4時頃ホテルに帰って来る。一杯やるには未だ早過ぎるのでパテオで日記を書いて過ごす。
今日も廻らない丘の上の風車/写真転載不可・なかむらみちお  5時頃からレッィーナを飲み、ラーメンを作って食べる。その後、もう1度風車が廻っていないか確認の為丘の上の風車の近くまで行ってみたが、廻っていなかった。矢張り未だシーズンには少し早いので廻っていないのだろう。滞在中すべての風車が1度も廻らなかった。今度はさっきとは逆に行った道を戻り、すんなりとホテルに帰って来た。七時過ぎ、シャワーを浴びて寝る。

    6月11日(水)快晴、風強い Mykonos 14:15-(船)19:45 (Piraeus)Athens
 5時に目が覚め、6時過ぎパラポルティアニ教会の真っ白な建物にピンク色の朝日があたるのを撮影に行く。帰り掛けにペリカンに会ったので近くに腰を降ろしてしばらく羽づくろいを見る。帰りの道はすんなりとホテルに着く事が出来た。
パテオでの朝食/写真転載不可・なかむらみちお  8時半パテオで朝食。その後10時頃まで部屋でテレビを見て過ごすが、こちらのテレビは話が分からないばかりではなく、ニュースはキャスター数人が顔出しで話し合っているだけで同じ映像が延々と続き、映像の切り替えが無いから面白くない。
 10時チェックアウト。パテオで時間待ちをして12時になるのを待ってラーメンを作って食べる。その後荷物を曳いて港へと向う。この距離が結構ある。船の到着までには未だかなり間がある。乗船口の待合所の日陰を選んで時間待ちをする。
 13時30分頃乗船。14時15分船はピレウス港に向って出航。海上は風が強く白波が立っているが船が大きいので揺れない。快適な船旅だ。
 出航の時、船尾に立って遠く去り行くミコノスの白い街並みを眺める。港。船出。昔から流行歌の題材にもなりやすく、波止場には一種の哀愁が漂う。サントリーニ島とミコノス島に来たのは三度目だ。一度目はともかく、二度目はまぁまぁ。三度目は何とかと言うが、もう来る事は無いだろう。これが見納めに違いない。
 船は途中ティノス島(14時50分)、シロス島(15時40分)に立ち寄った後、一路ピレウス港に向かった。

   アテネ
 ピレウス港には10分ほど遅れただけで19時55分頃ほぼ定刻に無事着いた。ここの日没は8時半なので未だ明るい。
 下船すると目の前が地下鉄ピレウス駅だがその間に大きな通りがあって車が激しく行き交っている。そのために横断歩道橋があるのだが、橋に付いているエスカレーターはこちらに来る降り方向だけなので重たい荷物を持ってこの橋を上らなければならない。到底そんな事は出来ないので、車の切れ目を見つけて横断歩道を横切る。
 地下鉄モナスティラキ駅で地下鉄を降りる時、列車とホームの間に隙間が広かったのでスーツケースの曳き手を持って勢いよく引っ張り揚げたら曳き手の付け根が抜けて壊れてしまった。二本の支え棒の内一本が壊れたのでなんとか残りの一本でだましだましプラカ地区のホテルまで辿り着いた。
 ホテルのフロントには先日泊まった時と同じろれつの少しおかしい爺さんが居た。キーを貰って部屋に入る。ヨーロッパのホテルの部屋はどこも薄暗い。早速スーツケースの曳き手を修理しようと試みてはみたが、道具も何も無く、所詮は無理だった。このままどこかで修理屋さんを見つけて直して貰うより方法が無い。それまで現状が保てれば良いが…。
 一応インターネットやガイドブックで安宿を探したのだが、安宿と言えども高い。このホテルも一泊66ユーロだ。それにしても広さはあるが日本のビジネスホテルよりも使い勝手は悪く、その割には値段が高い感じがする。例えばシャワーの設備は簡単過ぎて使い難い。クーラーはあるがテレビの映りは悪い。他にとるところはない。
 そんな事をしている内に11時近くになったので後は明朝する事にして寝た。

    6月12日(木)晴れのち曇り Athens 14:05-(AP4402)14:45 Napoli 16:20-(AP6180)17:15 Palermo
 朝6時に目が覚めた。今日はアテネ空港からパレルモへ飛ぶ。時間の余裕はある。7時半、屋上のテラスで朝食を済ませた後、日記を書く。目の前にパルテノン神殿の丘が見えるが、この方角から見た丘の形は良くない。今日も朝から晴れだ。暑くなりそうだ。
 10時20分、シンタグマ広場の脇にある空港行のバスターミナルからバスに乗り空港へ向う。1時間ほどで空港着。空港ビルに入ったすぐの処に空港内の案内の女性が立っていたのでパレルモ行きの飛行機の受付カウンターを聞く。その後地下にある郵便局へ行き、中島さん宛の葉書の切手を買おうとしてズボンの右ポケットにいつも入れている財布を出そうとしたら無い。何かの間違いかと考えてみたが財布はここにしか入れないのでやられたのかも知れない。
 不愉快な気持ちでチェックインの始まるまでロビーのベンチに腰を降ろして待つ。スリにやられるなんて…。こんな事は生まれて初めてだ。ズボンの脇ポケットに入れて置けば防げると思ったし、これまでも永年海外を旅してこれで防いできた。イタリアならともかく、その前のギリシャでやられるとは思ってもいなかった。ギリシャだから未だ大丈夫だと思って少々気を許していたのが拙かったのかも知れない。大いに反省しなければならない。擦りのお兄ちゃんに座布団一枚…。今日からはイタリアに入る。一層気を引き締めて掛からなければならないと決意する。それにしても不愉快だ。
 心配したエアワンのチェックインも無事済み、先ずはナポリへと向う。雲が多くなってきた。
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   Italy(イタリア)

ヴェスーヴィオ火山を望むナポリ湾/写真転載不可・なかむらみちお

 ナポリ空港に降り立った時、フト今乗って来た飛行機の機首の辺りを見るとボンバルデアと書いてあった。先日日本で前脚が出なくて不時着したあのカナダの航空会社製の飛行機だ。今回は何事も無く無事着陸出来たが、あまりいい感じがしない。
 ナポリ空港はローカルだけに矢張り少し小さい。日本に帰る時はこの空港から帰る事になる。一階でチェックインして二階の搭乗口へと行く。セキュリティチェックが今迄に無い厳しい。空のペットボトルを入れてある布製のキャリヤーバックの中身まで出させられて検査された。
 出発時間が迫ってきても中々搭乗手続きが始まらない。ここでは出発時間よりも遅れるのはしょっちゅうらしい。日本に帰る時、出発時間が遅れるとパリでの乗り継ぎが上手くゆくか心配だ。20分遅れて搭乗手続きが始まった。矢張り今回も同じボンバル機だ。出発前に雨がパラパラと降ってきた。
 飛行機は雲の上に出て快適に飛行する。
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  パレルモ Palermo
 パレルモの空港が近づいて来た。近くに大きな岩のような小山がある。ここは海岸近くに建設された空港だ。
 イタリア半島は長靴を履いた脚そっくりに見える。その靴の先にサッカーボールのようなシチリア島がある。
 「『貧しいシチリア島はわれわれ北部のお荷物、そしてマフィアの温床、いっそアフリカ大陸めがけて蹴ってしまえ。わたしたちのその気持ちが国土との形に表れているんだね』。貧しい後進地の南部を切りはなし厄介払いをして、北部は益々栄えようではないかというのが多くの北部イタリア人の本音だといわれている。」井上ひさし著「ボローニャ紀行」(文芸春秋刊)。
 シャトルバスでセントラルステーションのバスターミナルへと向う。街の中に入ってから大方の客が降り(多分カステル・ヌォーヴォ広場)、残ったのは三人となり少々不安になるが無事終点のセントラルステーションバスセンターへ着いた。
 ホテルまでは結構距離がある。タクシーを探す。寄って来た年老いたタクシーの運転手はホテルまで15ユーロー(この日のレートは168.934ユーロ)だと言う。これは高いと思ったので断り、バスの車窓から見えたタクシー乗り場へ行き、ここで若い運転手と料金交渉をする。イタリアのタクシーは一応メーターが付いているのだが、運転手との交渉で決るので一々面倒だ。
 ようやく8ユーロで手を打ちホテルへと向う。着いたところはかなり庶民的な雰囲気のする地域だ。ホテルも古めかしい。Hotel Cortese(Via Scarparelli 16-90134 Palermo)の洞窟のような通路を中に入る。人が通るとセンサーで電灯が点くようになっている。ガイドブックによればエレベーターは無いと書いてあったので覚悟していたがあった。レセプションは二階である。エレベーターに乗り、二階に上がる。降りるとここも暗く通路を通ると灯りが点く。受付には中年の女性が居た。部屋に入る前にスーパーマーケットの位置を聞いた。8時で閉まると言う。あと30分しか無い。チェックインを済ませ、大急ぎで再びエレベーターに乗り四階の部屋に一応荷物を置いてからスーパーへと向う。

パレルモの下町情緒
 ジェズ教会の西にあるホテルを出ると、旧市街の中心の食料品中心のメルカート、バッラロ市場が一帯に広がる。色鮮やかな果物や野菜が並ぶ屋台、威勢良く魚をさばく魚屋、マメや香辛料を扱う店など、シチリアらしさと庶民の活気にあふれている。下町の何気ない風情と賑わいが魅力だ。
 ずらりと並んだ市場の中を人込みを掻き分けるようにしてスーパーへと向う。結構遠い。後で気が付いたがそのスーパーはセントラルステーションの近くであった。水とワインそれにハム、パンなどを買ってホテルへ戻る。
 何はともあれシャワーを浴びてワインを開ける。銘柄は一応この地方では名の通った「Corvo」の赤である。結構いける味である。
 窓から外を眺めるとジェズ教会のドームが目の前に見えた。

    6月13日(金)晴れ Palermo
 地中海最大の島シチリア島は、イタリアの州の中でも最大の面積を誇る。柑橘類の生産と、ワイン用のブドウ栽培とワインの生産量が群を抜いている。北ヨーロッパからの旅人たちの憧れの地として、200年以上の歴史を誇る成熟した観光地である。
 パレルモはそんなシチリア島の州都であり、シチリア州最大の都市である。人口は68万人を数え、シチリアの商工業の中心地である。
 昨日ここに着いた時、バスから見たパレルモの街は思っていたよりも大きく広かった。街並みは整然としており、ブティクなどの店が並んでいるのが目に付いた。バスはどこを走っているのかさっぱり見当が付かなかった。さすがシチリア州最大の都会だ。
 この街では余り見たいものは無い。ガイドブックを見るとパラティーナ礼拝堂が良いらしい。それと映画『ゴットファザーV』のラストシーンのロケ地である世界有数の巨大オペラハウスであるマッシモ劇場を見る事にする。
 パラティナ礼拝堂の方が時間的に早く開くのと、ここからも近いのでホテルから歩いて向かう。朝、ホテルを出て旧市街の下町風情のある狭い露地を曲がると早朝なので行き交う人毎に「Buongiorno Signoreブォンジョルノ スィニョーレ(おはよう!)」と朝の挨拶を交わす声がビルの谷間にこだまする。どこかで聞いたようだ。そうだイタリア映画「鉄道員(56年・監督、主演:ピェトロ・ジェルミ)のラストシーンとそっくりだ。しかも、庶民的な街角で聞く「Buongiorno! Signore」は映画と全く同じ雰囲気ですっかりイタリア映画の世界に浸って居るようで嬉しくなってしまう。ギターを主体とした哀切極まりないリリカルなテーマ曲が聞こえてきた。私も思わず向こうから来た若い女性に「ブォンジョルノ スィニョリーナ!」と声を掛けたら、向こうからも華やいだ声で「Buongiorno Signore」と返ってきた。

  パラティナ礼拝堂
ノルマン王宮/写真転載不可・なかむらみちお  パラティナ礼拝堂はノルマン王ルッジェーロ二世が建設した礼拝堂で、ノルマン王宮の二階にある。全体が金色に輝くモザイクで覆われその豪華さでパレルモ最大の遺産と言われる。
 パラティナ礼拝堂の入口にあるチケット売り場のボックスには老年の男がいた。ガイドブックではパラティナ礼拝堂は大規模な工事中とかで一部見れないところがあるという事なので、その点を正して見るがラチがあかない。チケットを買って大きな大理石の螺旋階段を登って行くと、扉の前で9時まで待てと言う事で待たされた。ガイドブックには確か8時半に開くと書いてあったはずだが…。
 9時にガイドに案内されて中に入る。一通り見たがこの礼拝堂の一番の売り物のお目宛の礼拝堂のモザイク画は永年の雨水などによる天井の滲み込みを直すために閉鎖されており、見る事が出来なかった。
 ここはパレルモ観光のハイライトである。初めからそう断りが入っていればワザワザ来て入場料を払ってまで見る事は無かった。それでも入場料を取ってその他を見せているという事は一体どういう事なのだ。一番の売り物が見れないなら入場料をとる価値は無いのではなかろうか。
 パラティナ礼拝堂を出てからバスでマッシモ劇場へ向う。バス停でバスを待っていると、中年の婦人が近づいて来て、盛んに私が肩にかけているカメラを指差してたすき掛けにしなさいと注意してくれた。
 運転手に教えられてバスから降りると目の前にマッシモ劇場があった。

  マッシモ劇場
ヨーロッパ有数のオペラの殿堂/写真転載不可・なかむらみちお 正面の階段で映画「ゴットファザーV」のラストシーンのロケが行なわれた/写真転載不可・なかむらみちお  マッシモ劇場はヨーロッパ有数のオペラの殿堂。19世紀の新古典様式でヨーロッパ屈指の大きさと設備を誇る劇場。当時はパリのオペラ座に次いでヨーロッパでは2番目の大きさを誇った。長年の修復を経て1997年より再び公演や展示の会場として使われている。この劇場正面の階段で映画「ゴットファザーV」のラストシーンのロケが行なわれた。バックに流れる音楽はシチリア島を舞台にした恋愛悲劇、マスカーニ作曲の歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ(いなかの騎士道)」の間奏曲である。少し待って10時40分のツアーでガイドに案内されて中に入る。写真の撮影は禁止。
 マッシモ劇場を出て再びバスに乗り、セントラルステーションで降りる。この近くには明日タオルミーナへ行く長距離バスが出発する所なのでその下調べをする。いろいろの会社のカウンターがあり、明日タオルミーナへ行くバスの窓口をようやく見付けて発車時間などを聞く。
 この後セントラルステーションの中を見て回ったが、以外と店が少なかった。この後、市場を通ってホテルへ帰る。長く続く市場が切れた所にホテルがあるのですぐ分かった。
Carvo/写真転載不可・なかむらみちお 新鮮な海産料理が豊富/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルに帰り、シャワーを浴び、アテネで買って持ってきた「Ouzo(ウゾ)」を飲む。その後一服してからて明日の分の水を買いにスーパーへ行ったのだが、こちらの店は午後に一旦店を閉めるのでその時間に当たったらしくシャッターが降りていた。多分4時頃再び開店するのだろう。夕方にでももう一度来てみる事にする。その帰り道、先ほどセントラルステーション近くの店で見付けた魚介類の料理を買って帰る。ホテルでそれをつまみに「Carvo」を飲む。その後フロントへ行ってレンジを借り、日本から持ってきた米を初めて炊いて食べた。これは美味い。矢張り日本人には米が1番ピッタリくる。これを食べれば勇気と力が湧いてくる。
 持って来た鍋に一握りの米を入れ、目見当で水加減をしたのだが、以外と美味く炊けた。食事の後、再びスーパーに水を買いに行った。店は開いており、買う事が出来た。ホテルに帰ってから明日の出発準備した後未だ早いがベッドに入る。

  映画「ニュー・シネマ・パラダイス」
 シチリア島に行ったついでに、映画「ニュー・シネマ・パラダイス」監督:ジュゼッペ・トルナトーレ、主演:フイリップ・ノワレ、サルバトーレ・カシオ。(89年)伊・仏合作、のロケ地である「パラッツォ・アドリアーノ村(Palazzo Adriano)」を訪ねてみたいと思い、パレルモやタオルミーナで訊いて見たが残念ながら分からなかった。
 帰国してからインターネットで調べて見るとそこはパレルモ(Palermo)の南およそ50〜60q離れたかなり不便そうなところにあった。この近くには映画「ゴットファザー」のモデルになったマフィアの出身地コルレオーネ(Corleone)村(パレルモから57q)もある。
 今回は残念ながら願いが達せられなかったが、次回にでも行って映画の舞台である「パラダイス座」(映画の中では焼け落ちたことになっているが…)を見てきたいものと思っている。
 パレルモを舞台とした映画には日本の黒澤明監督に匹敵すると言われている巨匠ルキノ・ヴィスコンティの映画「山猫」('63)を忘れてはならない。彼の映画としては他にシシリー島の漁村を描いたドキュメンタリータッチの「揺れる大地」('48)も重要な作品である。

      6月14日(土)晴れ Palermo 07:00-(バス) Catania 10:00-(バス)11:35 Taormina
 6時にタクシーを呼んで貰い、セントラルステーションの近くにある各都市行のプルマン(Pullman=中・長距離バス)発着所へ行く。運転手は気の良さそうなおじさんだった。バス発着所へ着いて料金を払おうとしたらタクシーメーターを指した。メーターは18.50を指していた。ホテルで聞いた10〜15ユーロとは一寸違う。不満だったが20ユーロ札を出すと「ありがとう」と言った。「オヤ、お釣りは?」と聞くと荷物があるから20ユーロだという。さすがイタコウ、抜け目が無い。仕方がない、そのまま払った。後で考えて見るとホテルに来る前にメーターを倒してきたのではないだろうか。
 7時発カターニア行のバスに乗り、先ず、カターニアへと向う。途中の景色は岩山が多く、あまり緑は見られないがゆるい傾斜地などでは牧草が茂っていた。
 およそ2時間位走ってシチリアの真ん中にそびえる町エンナ(Enna)に着いた。19世紀初期までカストロジョヴァンニ(Castrogiovanni)と呼ばれていたエンナの町は、標高948mのイタリアで最も高い県庁所在地として知られている。街の東端にはロンバルディア城が静かに佇んでいた。
 カターニアに近付くと左手にエトナ山(Etna 標高3323m)が見えてきた。雪の頂を抱く円錐形の堂々とした姿は、日本の富士山のようである。ヨーロッパ最大の世界でも有名な活火山として、頂上からは常に煙が立ち込めている。この山はしばしば大噴火をするので世界的にも知られている。
 私の学生時代には劇場ニュース映画で、又、その後はテレビのニュースで夜空に赤い溶岩を噴出し、いく筋もの溶岩流が流れ出している光景を見た記憶がある。1669年には溶岩流がカターニアの町まで達したと言う。
 カターニアのバスターミナルで別会社のバスに乗り換えるのだが、これが又なかなか時間通りには来ない。20分くらい遅れてようやく到着。タオルミーナへと向う。
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  タオルミーナ Taormina
イタリアきっての高級リゾート、タオルミーナ。その類まれな景観が魅力的/写真転載不可・なかむらみちお  青く輝くイオニア海とエトナ山を一望する風光明媚な保養地、タオルミーナ。世界中の人たちの憧れのリゾートだ。エメラルドグリーンに輝く澄んだ海には「美しき島イソラ・ベッラlsoIa Bella」が浮かび、高台にはいにしえのロマンを伝えるギリシャ劇場がたたずむ。古代ローマの人々も眺めたであろう舞台の先には紺碧の海とエトナ山、そして晴れた日には海峡を隔てたカラーブリアの山々を望む絶景が広がる。
 タオルミーナに着いてみると知ってはいたのだが、あまりにも急な坂を九十九折の道をバスが登って行くので驚いてしまった。バスターミナルでバスを降り、タクシーを拾ってホテルへ行く。乗る前に運転手に料金交渉すると10ユーロだと言う。OKして乗り込む。
 タクシーはバスターミナルから更に坂の上へと行く。かなりの距離だ。これで10ユーロなら今迄に比べて安い。車の屋根の上には「タクシー」の表示が無いから本当のタクシーでないのかも知れない。
Hotel Villa Greta/写真転載不可・なかむらみちお  ここがホテルだというところで降ろされた。そのホテルは階段を登って見上げるほどの処にある。到底一気には荷物を上げる事は出来ない。一旦スーツケースを入口を入った処の陰に置き、その他の荷物を持って階段を登る。
 レセプションでは男の人に心良く迎えられた。とにかくスーツケースを取りにもう1度今登って来た階段を降りて行く。すると後ろから誰かが付いて来た。さっきのホテルのフロントの人だ。その人がスーツケースを持って運んでくれた。
 タオルミーナのホテル(Hotel Villa Greta. Via Leonardo Da Vinci 46 +39094228286 email:villagreta@librro.it一人一泊50ユーロ朝食込み)の部屋は細長いが感じが良い。
エトナ山を望んで/写真転載不可・なかむらみちお  私の部屋のバルコニーから右にエトナ山を初め、部屋の目の前から展開するタオルミーナの街。目を左に向けると街の向こうにイオニア海が一望に見渡せる。風光明媚な最高のロケーションあった。労せずして写真が撮れるなんてこれまでにない最高のホテルである。早速この風景を撮影した後支度して街へと向う。
 ホテルの人に教えてもらった山の上の十字架(S. Madonna della Rocca)を目指して登る。息が切れる。そこからの眺めが最高と言うので元気を出して登って行く。暑い!汗が出る。喉が渇く。なるべく日陰を選んで歩く。

  エッ?!日の丸?
日の丸の旗が揚っている家/写真転載不可・なかむらみちお  タオルミーナのホテルから山の上の十字架に行く途中の道筋で日の丸の旗が揚っている家を発見した。“誰が…?”“何の為に?”。どう言う意味があるのだろうか。ここで日の丸の旗を見るのは不思議な感じがする。
山の上の十字架からの眺め/写真転載不可・なかむらみちお  ようやく頂上に登り着いた。向こうに海が見え、その手前にギリシャ劇場が見える。そこからそのギリシャ劇場へ向って大理石の階段を伝って山を降りて行く。

  ギリシャ劇場
海を借景するギリシャ劇場/写真転載不可・なかむらみちお  シチリア第二の規模(直径115m)を誇る古代劇場。紀元前3世紀に建造され、ローマ時代の二世紀に円形闘技場として改築された。丘の天然の窪みを利用して階段状に観客席が巡り、正面の舞台には円柱がそびえ、その間からは緑に縁取られたイオニア海とエトナ山の雄姿が広がる。この美しい風景を背景に、現在も夏の間、演劇、バレエ、コンサートなどの催しが行なわれる。
 ギリシャ劇場に着いてみると、入場料が6ユーロだと言う。ギリシャ劇場はこれまでも各地で何度も見ているのであまり興味が無かったのでパス。次に市民公園へ向う。ここは眺望が良いとの事だが、一回りしてみても眺めの良い場所は無かった。次にガイドブックにも載っている写真の撮影場所をホテルマンに聞いていたのでそちらへと向かう。
美しい海に囲まれたイソラ・ベッラ/写真転載不可・なかむらみちお  なるほどここは少し高い位置だが海とイソラ・ベッラ島などがガイドブックに載っていた写真と同じように見える。

  イソラ・ベッラ (Isola Bella)
 映画「グラン・ブルー」のロケでも使われた美しい入り江にある小島。ふたつの岬にはさまれた静かな入り江に、美しい海と緑の島陰が浮かび、絵のように美しい。

 ※映画『グラン・ブルー』 (Le Grand Bleu) ('88、仏・伊合作)。監督:リュック・ベッソン。
 フリーダイビングの世界記録に挑む二人のダイバーの友情と軋轢、そして海に生きる男を愛してしまった女性の心の葛藤を描く海洋ロマン。実在の天才ダイバー、ジャック・マイヨールの協力を得て映画化。リュック・ベッソンには他に「船上のピアニスト」の作品がある。

 ここで撮影を終えて又曲りくねった坂道を登り、ホテルへと向う。途中ウンベルト通りを通る。メインストリートのウンベルト通りにはカフェやおしやれなブティック、ブランドショップも並び、そぞろ歩くだけで華やいだリゾート気分にしてくれる。
 ウンベルト通りを後にしてホテルへ帰る道はかなりの距離があり、くたくた、汗だくでその汗が目にも入ってくる。ようやくホテルの近くに来て、確かこの辺だなと思って上の方を見ると、街へ行く前に洗濯して干して置いた私の赤いTシャッが目に入った。それを目印にショートカットして階段を登って行き、無事ホテルに着いた。
 早速シャワーを浴びた後、パレルモで飲み残して持ってきたワインで一杯やる。ヤレ、ヤレ。後片付けやら明日の下調べなどをしている内に9時になった。疲れたので寝る。

    6月15日(日)快晴 Taormina 14:40-(列車)15:40 Messina 22:50-(バス)
朝日に輝くエトナ山頂/写真転載不可・なかむらみちお  今朝5時半頃に目が覚めたら、エトナ山に丁度朝日が当たり始めたところだった。綺麗なので数枚写す。
 朝食は8時だ。それまでテレビを見たりして過ごす。8時、下の食堂で食事。豪華だ。パン、菓子パン、ハム、ジュース、ミルク、コーヒーと色とりどり。こんなに沢山出てきたのは今回の旅では初めてだ。部屋も感じが良かった。
ホテルの朝食/写真転載不可・なかむらみちお  又、朝食にはシェフ直々のサービス。ホテルのスタッフの気配りも良く応対も親切、最高のお持て成しを受けてすっかり嬉しくなってしまった。こんなホテルならいつまでも滞在していたいし、又来たくなるほどである。これで一泊50ユーロなのだから安い(この日のレートは170.544だから8,527円である)。今まであまり感じの良くない安ホテルでも40ユーロ。アテネでは名ばかりの朝食付きで60ユーロも取られた。ここは眺めも良くロビーから撮影が完了する事が出来るのだから最高。これなら100ユーロ払っても惜しくない。食後に再びホテルの最上階から撮影。エトナ山の頂上も見えて最高だ。その後部屋で日記を書く。

遠くにエトナ山の雄姿を望むタオルミーナの町/写真転載不可・なかむらみちお  10時頃荷物を纏めてフロントへ降りて行く。タオルミーナ駅行のバスの時間を聞くと12時15分だと言う。もう少し1時間に一本位あるのかと思っていたらあまりにも間隔が空いているので戸惑ってしまった。仕方が無いからバスの来る時間までレストランで待つ事にした。
 12時15分、ホテルの前からバスに乗り、タオルミーナの駅へ向う。途中で時間待ち(多分、マッツァロの海岸と高台の町を結ぶロープウエイの駅前だったと思う)。その後タオルミーナの駅へと向う。
 ここまで飛行機と長距離バスを乗り継いで来た。ここからは夜行列車でアルベロベッロへ向う。日本を出る前にトーマスクック社発行の「ヨーロッパ鉄道時刻表」で調べてみたがイマイチ納得が出来ない。
 タオルミーナの駅で調べたかったが、山の下の海岸近くにある駅なのでそこまで行くのが大変なのと、行ってもおそらく小さな駅だから満足な回答は得られないと思うのでその先のメッシーナの駅で尋ねてみる事にした。と、言うわけで今日はタオルミーナのホテルを早めに出てきた。
 タオルミーナの駅に着いた。料金は5.50ユーロだったが手持ちの小銭が0.40ユーロ足りなかった。それで20ユーロ札を出したが、運転手はお釣りが無いから良いと言ってタダで乗せてくれた。こんな事は初めてだ。
 タオルミーナの駅に着いてみると次ぎのメッシーナ行の列車は14時40分だと駅前に客待ちしていたタクシーの運転手に教えられた。仕方が無いから駅のホームでそれまで待つしか無い。その前にメッシーナ行の列車の乗車券を買わなければならない。アルベロベッロ行の時刻なども聞きたいと思ったが駅の窓口は無く駅員の姿も見られなかった。とにかくメッシーナに行けば案内窓口があるだろうとの思いで列車に乗ることにする。
 切符は自動販売機で買う事になっている。この駅の前に客待ちしているタクシーの運転手らしい別の男が寄って来た。私が自動券売機での切符の買い方が分からないと言うと、機械を操作してくれた。彼がこれから向う駅名の「バリー」といくら入力しても機械が受け付てくれない。しかたがないからこの近くのメッシーナまで買う事にした。
 メッシーナまで3.60ユーロと出た。手持ちの5ユーロを入れたが機械が受け付けてくれない。多分札が皺くちゃになっていたせいかもしれない。やむなく20ユーロ札を入れると今度は受け付けてくれて切符が二枚出てきた。しかし、メッシーナまで3.60ユーロのところ、20ユーロ札を入れたのにお釣りが出ない。機械を叩いてみたりあちらこちらのボタンを押してみたが一向に反応が無い。昔のキーワードを思い出して「開けゴマ!」と3回呪文を唱えてみたが応答が無い。昔、テレビ放送の始まった初期の頃、受信機がトラブッた時にエイヤァ! とばかりに勢いよく蹴飛ばしたら治ったという時代があった。あわよくばと思いやってみたがやっぱり駄目だった。機械にまでしてやられたか?
寅さん気取りで(タオルミーナ駅)/写真転載不可・なかむらみちお  タクシーの運転手風の男と次ぎに寄って来た連れの男が何か機械にいろいろ操作してみるがダメだ。やがて先の運転手が機械に貼ってある「釣り銭は出ません」と言う表示を指差した。ヤッパリこの機械は釣り銭が出ないのか。それにしても日本だと詐欺のようなものだ。
 フト、先ほどの男が先に2枚出てきた切符の内の一枚を私に渡し、もう一枚の切符を彼が持っているのに気が付いた。私が彼に「それは?」と聞くと、「今日は日曜日だから駄目だが、明日これを銀行へ持って行けばお釣りを返してくれる」と言う。更に問いただすと「メッシーナの駅でも払い戻してくれる」と言う。なるほど読めた。彼らはトボケた振りして私から20ユーロから乗車券料を引いたお釣りをせしめて自分の物にしようとして私に見破られた訳だ。私がイタリヤ語も話せづ、字も読めない事をいい事にして二人で一芝居打ったと言う訳である。流石イタコウ! 私はその切符を彼から取り返した。きわどいところでやられるところだった.ヤレ、ヤレ、油断も空きもあったもんじゃない。その後、ホームで時間待ちをする。

  タオルミーナからアルベロベッロへ
 14時20分発各駅停車の列車でタオルミーナを出てメッシーナへと向かう。今回の旅で初めて乗ったイタリアの列車はとても乗り心地の良い綺麗な列車だ。なかなか快適であった。ご機嫌で鼻歌が出てきた。

♪希望という名の あなたをたずねて
 遠い国へと また汽車にのる
(「希望」作詞 藤田敏雄、作曲 いずみたく、唄 岸洋子)

 国際宇宙ステーションの日本の船内実験室の名が「きぼう」という名の実験室だ。「まだ中は空っぽだか、夢が詰まっている」と宇宙飛行士の星出彰彦さんが語る。私も「希望」という名の夢に乗って旅を続ける。

 海岸線の風景が美しく、海水浴客で賑わうタオルミーナの海岸の近くも通った。しかし、時々訳もなく(?)時速20〜30qくらいでトロトロと走る時もあるのでイライラする。
 メッシーナの駅に着いた。ホームから向こうの駅舎に渡るのには一旦階段を降りて地下トンネルを通らなければならないので荷物が重くて大変だ。
メッシーナの駅の案内窓口で聞いたらやはりアルベロベッロの手前のバーリ行きの1日に一本しかない夜行直通列車は、今日は日曜日なので無いと言う。じゃどうすればいいんだ! 案内所の女性の話では、ここからバーリ行きのバスに乗り、ターラントで乗り換えて行けという。
 バスセンターに向う前にチケット売り場へ行き、タオルミーナで乗車券を買った時に出てきた二枚のチケットの内の一枚で残りの釣り銭を返して貰った。
 それから重い荷物一式を曳きづって駅から100mほど離れた所にある長距離バスの事務所に向う。事務所の窓口には男が一人居てチケットを発行してくれた。その後、そこの待合室で待とうとしていたら、事務所を一時閉めるからバスの発車時間の30分前に来いと言う。止む無くそこを出て駅の待合室で時間待ちをする。
 永い時間待ってようやく10時になった。事務所へ行くと間もなくバスに案内された。乗客の人数をチエックしているようだ。チェックが済んだらしく、22時50分。プルマン(長距離バス)はようやくメッシーナの駅前を出発し、フェリー乗り場へと向った。フェリーを降りた後、バスはメッシーナへと向う。途中で一回ドライブインで下車休憩。その後は眠っていたのでほとんど覚えていない。

    6月16日(月)晴れ 05:00 Tarant 07:20-(バス)07:45 Martina Franca 08:20-(バス)08:50 Alberobello
 午前5時過ぎ、バスはターラントのバスセンターに着いた。一緒のバスで降りた人たちは次々と別のバスに乗りどこかへ行ってしまった。中年のおばさんと私だけが取り残された。
 次々と来るバスの運転手に聞いて見ると、アルベロベッロ行きのバスの事務所が6時に開くからそれまでここで待てと言う。気温は10℃とこれまでよりも寒いのでセーターとコートを初めて出して着込む。
 やがて6時にバスセンターの事務所が開いたが、係りの女性は何か別のところから乗れと言っているようだ。おばさんも同じ方向へ行くようだ。言葉が分からないのでさっぱり事情が分からない。係りの女性から話を聞いたおばさんが私に付いて来いと言って先になった歩き出す。
 重い荷物を曳いてバスセンターから橋を渡り、500mほど離れた広場に行く。未だ早朝なので広場の近くのバーが一軒だけ扉が開いていた。おばさんがそのバーの前に現われたお兄さんに聞くとここだと言っているらしい。おばさんが納得して私にもここで間違い無いと教えてくれたので二人でここで待つ。バス停の標識も何も無い。本当だろうか、ここで良いのだろうか。おばさんは私がイタリア語を全く分からないのに盛んに話し掛けてくるので困ってしまう。
 何台もバスを止めて聞いてみるがどれも違う。そんな事で小1時間もした頃ようやくあれだ! というバスが来て乗り込む。「Martina Franca」行きのバスだ。
 街角から7時20分のバスでMartina Franca(マルティーナ・フランカ)へ向う。Martina Francaには7時45分に着き、連れのおばさんはここでお別れだという。私はおばさんに丁重に感謝の言葉を述べてお礼を言った。おばさんは私に挨拶した後手を振りながら去って行った。
 ここまで乗って来たバスの運転手が大変親切で、アルベロベッロ行きのバスはここに来るからここで待てと教えてくれた。しばらくすると彼の運転手はどこかへ携帯電話を掛けていたと思ったらそのバスの前に停まっているバスがアルベロベッロ行だからここで待てという。そのバスの運転手はいない。しかし、彼がそのバスの荷物室の扉を開けて私の荷物を積み込んでくれた。やがてアルベロベッロ行きのバスの運転手が現われた。ここでまたしばらく待った後、8時20分発のバスに乗って8時45分ようやくアルベロベッロに着いた。
 アルベロベッロのバス停に着いて驚いた事に、ここにはタクシーが一台もないという事だ。こんな町は初めてだ。やむなく中心部にあるホテルまでおよそ500mの間を荷物を曳きづってようやくHotel Lanzillotta(Piazza Ferdinando W 30)に到着した。ヤレ、ヤレ、シンド!
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  アルベロベッロ Alberobello
ミステリアスなシンボルのトゥルッリ/写真転載不可・なかむらみちお  標高415mの丘の上にあるアルベロベッロ。イタリア語で『すばらしい木』の意味を持つ、緑の木々が茂るこの町に、トゥルッリという真っ白な壁に、灰色の円錐形の屋根を持っ建物が町の旧市街にビッシリと詰まっている。
 現在、町の多くのトゥルッリは、この地方特産の食品を売る店や、おみやげ屋などになっているが、今でもトゥルッリの中で生活している人々もいる。トゥルッリの室内は冬は暖かく、夏は涼しい、なかなか便利な建物になっている。ホテルやレストランなどにも転用されているので、利用してみるのも楽しい体験だ。
 ホテルに荷物を置いてから近くのスーパーへ行って水やワインその他の食料品を買い出しに行く。その後、トゥルッリの撮影に行く。
丘の斜面に広がる白いトゥルッリの集落/写真転載不可・なかむらみちお  今日も綺麗な青空で快晴だ。北の空に飛行機雲が二筋。明日からは天気が崩れてくる前兆だ。先ず、ホテルを出てすぐ目の前のポポロ広場を抜け、その先に続く教会のテラスからトゥルッリが密集した旧市街を撮る。丘の斜面に広がる白いトゥルッリの集落が印象的だ。
 教会の階段を降りて旧市街に向う。車の通りが多い広い通りを横切って土産物屋などが連なる賑やかな商業地区のリオーネ・モンティ地区に入り、Via Monte S. Gabriele通りを登る。町の中は歩ける範囲で観光でき、坂道とトゥルッリの町並みがとても魅力的だ。灰色の屋根に、大きく白く描かれたミステリアスなシンボルのトゥルッリは、神秘的でとても興味深い。
両側はびっしりとトゥルッリが並び、その多くは御土産屋か軽食屋になっている/写真転載不可・なかむらみちお  両側はびっしりとトゥルッリが並び、その多くは御土産屋か軽食屋になっている。その内の一軒のお土産物屋の前には「展望がいいです。気軽にお入り下さい」と日本語の看板が掲げられていた。中に入ると店の主人が盛んに日本語の写真集などを売り付けようとする。それを無視して展望台から写真を撮りたいというと商品を買わないとみた主人は「シャットアウト!」と言って断られてしまった。その後、アイア・ピッコラ地区を撮影に行く。

  さくらんぼをくれた少年
さくらんぼをくれた少年の家/写真転載不可・なかむらみちお  アイア・ピッコラ地区を撮影していると、あるトゥルッリの前でサクランボを選別している男の人がいた。その人は私を見ると2〜3粒のサクランボを差し出してゼスチュアで食べれという。美味かった。今朝は果物を食べ損なっていたのでありがたかった。更に、その側にいた彼の息子がまた2〜3粒くれたので私はその少年に日本から持って来た五円玉一個を上げたら喜んでくれた。
トゥルッリの中/写真転載不可・なかむらみちお  更にその付近を撮影し、ある家の前へ行くとそこの主人らしい男が入口に立っており、どうぞ中に入って自由に写真を撮って下さいと招き入れてくれた。失礼してトゥルッリの中に入り見せてもらい写真も撮らせて貰った。帰り掛けにチップを要求された。アイア・ピッコラ地区を撮り終えてから又旧市街の入口のレストランへ行き、ビールを飲む。
 再び商業地区のリオーネ・モンティ地区に行き、今度はMonte S. Gabriele通りからMonte San Michele通りに入ってみる。

    お土産店を経営する日本人女性
お土産やさんが並ぶMonte San Michele通り、トゥルッリの家並みがおとぎの国のようだ/写真転載不可・なかむらみちお  トゥルッリのお土産店の前を通ると店員さんに盛んに日本語で声を掛けられる。日本語を上手に操る外国人は世界中にいる。こういう外人を私は警戒する事にしている。日本語が堪能な多くの外国人は、単純に日本が好きだから勉強しているわけではない。そこに商売が絡んでいることが圧倒的に多い。だから「日本語使い」とかかわり合うとロクなことはないというのが、旅行者の間の常識なのだ。
 ある店の前でも男の人に日本語で声を掛けられた。私はチョットいたづら心がうずいて「日本語で話しかける人は嫌いだ」と言った。すると、その店の奥から日本人の女性が出て来て声を掛けられた。
 日本人なら安心と思い、その店の中に入り彼女と雑談を交わす。先ほど店の前で声を掛けてきた男の人は彼女の夫であった。話をしている内にこの女性はいつか日本のテレビで見た女性ではないかと思い出して尋ねて見た。やはりそうだった。何の番組かは忘れたが、確かアルベロベッロの街の中を日本人を案内していたと思う。
レストラン「Pizzeria 3M」のスパゲティミートソース/写真転載不可・なかむらみちお  彼女に名刺を頂いた。その名刺には「ユネスコクラブガイド・ラエラ洋子」(Via Monte San Michele,43 080.4321731 email:laerayoko@tiscalinet.it)と書かれていた。その店の屋上からトゥルッリ群の写真を撮らせてもらった。屋上には鉢植えの花が飾られておりとても綺麗であった。
 店に戻り、孫三人へのお土産としてTシャツを各自に一枚ずつ計3枚(30.00ユーロ=5,116円。この日のレートは170.544〜170.375円)買った。値引きしてくれた上、水彩画を一枚おまけしてくれた。
 彼女の店を出てから彼女に教えて貰ったレストラン「Pizzeria 3M」(Via indipendenza 9)でスパゲティミートソースを食べた(7.00ユーロ=1,192円)。
この土地のワイン「IMPERATORE」/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルに帰ってシャワーを浴び、昨日から今日に掛けての領収書類を整理したりした後日記を書く。5時頃先に買って来たこの土地のワイン「IMPERATORE」を飲んだが、飲んだ後の後味があまり良くない。はずれであった。
 8時前に再び教会のテラスへ行って夕陽に照らされたトゥルッリを狙うが、光の状態があまり良くなかった。町の中心地ポポロ広場Piazza del Popoloでは、夕方になるとおしゃべりする場として、町の人々が集っていた。昔からの風習だという。

    6月17日(火)晴れ時々曇り Alberobello
 今朝は珍しくゆっくり寝た。6時起床。8時半朝食。メニューはパン、牛乳、ヨーグルト、ジュース、コーヒー、クラッカー類程度でハムなどの肉類、野菜類などは無い。果物も無い。四星ホテルという事で豪華なメニューを期待していたのにガッカリだ。
 食堂では日本人の若い男女が食事をしていた。新婚旅行だという。話を聞いて見ると札幌の宮の森に住んでいる人で住宅ホームに勤めているという。手配旅行でアマルフィ海岸地方を周って来て明日は日本へ帰るという。ここで札幌の人に会うとは思わなかった。
 今朝はかなり雲があり、スッキリしない。風もある。それでも一応支度してポポロ広場の先に続く教会のテラスに行ってみたが、太陽が雲に隠れていてパッとしない。時折薄日が射すのを待って望遠レンズで2〜3枚撮る。
 帰って来て、ホテルの真向かいにある観光案内所で明朝ソレントへ向う列車の状況を聞きに行って来た。戴いた列車時刻表のプリントを持ってホテルに帰り、ロビーで検討してみたが、イマイチ納得が出来ない。もう一度案内所へ行ってみたら閉まっていた。
 撮影道具を一式リュックに入れてトゥルッリの撮影に行く。今日は昨日行かなかったリオーネ・モンティ地区の西側を周って見るが絵になる場所は見付からなかった。
アイア・ピッコラ地区のトゥルッリ/写真転載不可・なかむらみちお  その帰り、昨日寄った日本人の女性が経営するお土産屋に寄って明日のソレント行にはバスが良いか列車が良いかを聞いてみた。彼女は旅行会社で聞くのが1番確かで良いという事で、イタリア語で聞き方のメモを書いてくれた。
 その後いろいろ雑談をし、コーヒーをご馳走になり、ついでに店の前で2人で記念写真を撮らせてもらった。
 リオーネ・モンティ地区を後にして彼女に教えてもらったポポロ広場の近くのP.zza xxDU Magginoにある旅行社に行って明日のソレント行きの方法を教えてもらった。応対してくれたのは若い女性だった。
 私の相談が終わってそこを出ると彼女も事務所に鍵を掛けて出て行った。きっと午前中の営業を終えて食事にでも行くのだろう。危機一髪だった。時間は2時近くになっていた。旅行会社を後に今度はアイア・ピッコラ地区のトゥルッリを撮りに向った。ここはお土産屋などの多いリオーネ・モンティ地区とは違ってその多くは今も住居として使われている地区である。
アイア・ピッコラ地区のトゥルッリ/写真転載不可・なかむらみちお  ここは思ったよりも整然としており、おしゃれな感じがする。写真を撮るならこちらの方がヅーとサマになる。昨日は快晴だったが今日は雲が多い。あまり良い写真は撮れなかったが、ほとんど昨日写し終えているので差し支えない。この頃から雲が空一面となった。明朝は雨が降らないと良いが…。
 ホテルに帰り、資料を整理して明日の出発に備える。明日は朝の5時にアルベロベッロ駅から列車でソレントへ向うのでそれなりの心構えと準備が必要だ。
 荷物等の整理を終え、シャワーを浴びた後、4時からワインを飲み日記を書く。今夜の内に会計を済ませて一応目覚まし時計をセットして7時頃ベッドに入る。しかし、先日タオルミーナから列車に乗る時に乗車券を買うのに大変苦労した。ここも多分乗客数の少ない小さな駅だろうから、未明でもあり当然駅員が居るわけが無い。乗車券はどうやって手に入れれば良いのか。それを考えると寝付かれない。今日の内にその点を確認しておけば良かった。

    6月18日(水)曇りのち晴れ Alberobello 05:15-(列車)06:36 Bari 07:42-(列車)10:35 Caserta 11:56-(列車)12:43 Napoli 13:11-(列車)14:20 Sorrento
 3時45分に目覚まし時計をセットして置いたのだが、3時頃に目が醒めてしまった。これから二度寝しては寝過ごす事は間違い無い。そのまま起床。
 3時45分目覚まし時計が鳴る。洗顔。4時モーニングコール。4時15分、部屋の鍵を部屋に置き荷物一式を持ってホテルを出る。ドアは中からは開くが、外からは入れない仕掛けになっている。未だ暗い夜道を街灯の明りを頼りに駅へと向う。人陰は全く無い。街は静かに寝静まっている。
 駅までのおよそ500mの距離が遠い。この街はタクシーが無いのでどうしても歩かなければならない。荷物がやけに重い。
 4時35分、ようやく駅に着いた。未だ夜明けには間がある。駅のプラットホームで時間が過ぎ去るのを待つ。永い。
 5時。ようやく東の空に明る味が増してきた。駅には私以外だれ一人居ない。ここまで来る途中でも人に会わなかった。世界は未だ完全に眠っている。
 5時16分、遠くから列車の近付く音が聞こえてきた。駅の無人アナウンスが入る。間違いなく「バーリ」と言ったから大丈夫だろう。
 二両編成の列車がホームに滑り込んで来た。ドアが開き、かなりお年を召した車掌さんが私の荷物を引き揚げてくれた。
 列車はバーリへ向って発車。夜明けの平野を走る。岸洋子の「夜明けの歌」のBGMにのせて列車はプーリア州の平坦な地形を走る。所々にトゥルッリを見掛ける。オリーブの巨木と緩やかな丘陵に広がる麦畑の中を…。
 車内を周って来た車掌さんにお金を差し出すと、「少し待ってくれ」と言ってお金を持って行った。各駅停車でいくつかの駅を通り過ぎた後、少し大きな駅で停まった後その車掌さんがバーリまでの切符を持って来てくれた。多分その少し大きな駅で買って来てくれたらしい。
 バーリに到着。ここで列車を乗り換える。ホームの階段を降り地下道を通って又階段を登る。駅舎に入り、切符売り場を探すのにあちこちウロウロ。ようやく探し当ててナポリまでの切符を購入した(34.40ユーロ=5,856円。この日のレートは170.234円)。今度は先ほど通ってきた地下道を逆に降りて三番ホームを目指して登る。重い荷物を持って階段の昇り降りはシンドイ。
 列車がホームに滑り込んで来た。かなり長い編成だ。車体に番号が書いてある。多分指定席になっているのだろう。チケットを見ると7-42と数字が目に入った。とりあえず通り過ぎた7両目の車両を目指してホームを移動する。
 列車に乗り込み荷物をロッカーに納めてから座席を探す。居合わせた人に尋ねるとこのチケットは2両向こうだと言う。それからロッカーから荷物を取り出し、それをひきづりながら列車の中を二両移動してようやく自分の席を見つけて座る。
 バーリからは右の窓から時折海が見える。Foggiaで進行方向が変る。列車は山岳地帯に入り、窓の外を見るとなだらかな傾斜地に農作物が育ち、トラックターが走り、農作業をしている人々を見かける。
 Casertaに到着。又乗り換えなければならない。ホームに降りて一休みして居ると女性が近付いて来た。どこへ行くのかと尋ねられたのでナポリと答える。その女性は私が次に乗る列車のホームを探しあぐねて立ち往生していると思ったらしい。ナポリ行きなら向いのホームだと親切に教えてくれた。ホームを換えるのには又階段を降りて地下道を通って登らなければならない。見るとエレベーターがある。それを利用して移動したので今度は楽だった。
 ナポリに着き、永いホームを移動してソレント行きの列車に乗り換える。ここは昔来たことがあるのでところどころ見覚えがある。
 ナポリの駅でソレント行きの列車の乗り場を尋ねながら歩いていると、一人の老人が寄ってきて俺に付いて来いという。その老人に案内されて乗車券売り場まで来たところで彼はチップを要求してきた。只の親切ではなかった。他人に親切にして「ありがとう」と感謝されるのは嬉しいものである。物や金では無い。人の心の暖かさを感じてほのぼのとする。嬉しくなってしまう。普通の日本人にはそういう心があるがこちらの人はどうもお金が目的で他人に接してくる人が多いのは淋しい。お金よりも心が大切では無いのか。こういう人には断固として拒否。「ノー」と言うと彼は不満そうに去って行った。“心貧しき人よ目覚めよ!”。
 改札口が電子式に変っていた。ホームの長い階段を降りて行くと間もなく列車が入って来た。混んでいる。スリに気を付けなくちゃ。
 列車に乗り込んだら日本人のグループが居た。おばさん二人と若い男だった。「こんにちは」と挨拶すると、おばさんが「あんたどこのツアー?」と聞くから「一人だ」と答えると驚いたような顔をしていた。それからいろいろと雑談を交わす。その人たちはツアーで来て、自由行動でこれからポンペイに行くと言う。でも、どうも不案内のようだ。ポンペイのかなり手前で「ここで降りよう」と言ってあたふたと降りて行ってしまった。理由は分からない。その後どうしたのだろうか心配だ。
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  ソレント Sorrento
 列車は終点のソレントに着いた。駅前に降り立つと日差しが強い。タクシーを探すと大型のワゴン車ばかりだ。見ていると大抵グループで乗って行く。ひとしきり乗客が去った後、一台のタクシーに声を掛けて見るとそのホテルは近いから歩いて行けと言う。値段を聞くと20ユーロだと言う。距離の割には高い。馬鹿馬鹿しいので歩いて行く事に決めた。それにしてもアテネで壊れたスーツケースの曳き手が不安だ。
 日陰を選びながらホテルへと向う。荷物がやけに重い。途中でファストフード店があったのでそこでソーセージサンドイッチを買って食べる。少し遅い昼食だ。
 再び強い日差しの中をホテルへ向って歩き始める。途中でアメリカ人らしい感じの良い若い女性に道を尋ねると凄く親切に応対してくれた。立ち止まって手持ちの地図や資料を鞄から取り出して調べてくれたがどうも分からないらしい。やがて私をその場に待たせてわざわざ近くの店に入って行って聞いてきてくれた。
 教えられた道を進んで行くと私よりも少し離れた先でさっきの彼女が手真似でこの階段を降りて行くのだと合図してくれた。その親切に涙が出てきた。
 ようやくホテルに到着。今日のホテルは Ulisse Deluxe Hostel(Via Dei Mare,22 Sorrento. 80067)だ。ホステルというからユースホステルに毛が生えたようなものかと思っていたが、なんと立派なホテルだった。中に入るとロビーがこれまた凄く広い。応対してくれた若くてチャーミングなフロントの女性が「ミスターナカムラ?」と声を掛けてくれた。後の手続きはスムーズに済み部屋に入る事が出来た。勿論エレベーター付である。

   初めての風呂付き部屋
初めての風呂/写真転載不可・なかむらみちお  部屋に入って驚いた。広い、それになんと真っ白な風呂まで付いている。間違いかと思って近付き、良く見ると間違いなく風呂だ。この何日間もの旅の中で風呂があるのは初めてだ。感激! 
 なるべくその都市の1番安いホテルを選んできたので、これまでは値段の割にはひどいホテルもあったが、ここは飛び切りピンだ。こんな御殿のようなホテルに泊まって良いのだろうか。しかし、日本でインターネットを使って1番安いホテルを選んだはずだからそんなに高い値段では無いはずだ。でも、こう目の前が高級尽くめだと落着かない。
「Fiano di avellinop」/写真転載不可・なかむらみちお  部屋に荷物を置いた後、近くのミニスーパーに行ってワインを初め水、ハム、パン、などを買ってくる。果物も欲しかったのだが、売っていなかったのが残念だった。
 今朝は早かったので疲れた。今日は早く寝たい。その前に先ず風呂だ。湯船にゆったりと浸かり、日本を出てからおよそ1ヶ月間近く、溜っていた汗と疲れを流した。気持ちが良い。やはり日本人は味噌汁付きのご飯と風呂がなければ死んでしまう。風呂上りに冷えたハイネッケンのビールを飲む。五臓六腑に染み渡る。極楽、極楽。至福のひと時を味わう。(日本のビールならなお良かったが…)。身の回りを片付けてワインを飲みながら夕食を済ませ、8時過ぎに寝る。

      6月19日(木)晴れ Sorrento-(船)Positano-(船)Amalfi-(船)Salerno-(バス)Amalfi-(バス)Ravello-(バス)Amalfi-(バス)Positano-(バス)Sorrento
 2時に目が醒めてしまった。ぐっすり寝た。昨日は3時起きだったからかなり寝不足のはずだ。まだ6時間しか寝ていない。もう1度ベッドに入ったが目が冴えて眠れない。起きて日記を書く。
 5時、ベッドに入り再び眠りに挑戦するが眠れない。フト目が覚めたら7時だった。いつの間にか寝ていたらしい。もう食事が始まっている。今日は朝食を済ませ次第港へ行き、アマルフィ方面を船で周る予定だった。急いで起きて顔を洗い、食事を済ませて港へと急ぐ。食事は期待したほど良くはなかった。
ソレントの海岸/写真転載不可・なかむらみちお  港から見たソレントの海岸の景色はこれから展開される風景の序曲であった。海から切立った崖の上にはホテルなどが建ち並び、想像していたような風景が展開されていた。
 世界中に知られている美しい街ソレント。展望台から眺めたソレントの港の風景が美しい。海岸線も美しい。
 ソレントはナポリ方言で「スッリィエント」と発音され、有名な民謡「帰れソレントへ」(トルナ・スッリィエント)は故郷ナポリを、このソレント港から離れた者のノスタルジーを歌っている。アマルフィ海岸への出発点でもあるが、ナポリからソレントまで続くソレント海岸も美しい。
 海の向こうからイタリアの青空、太陽を思わせる“キング・オブ・ハイC”パヴァロッティの歌声が聞こえてきた。

「 帰れソレントへ(Torna a Surriento)」
 ♪ごらんなさい、なんて美しい海。
 限りない心のときめきが息吹いている。
       「帰れソレントへ」小瀬村幸子・訳
              (Neapolitan Songs/Luciano Pavarotti:LONDON.POCL-9901)

 ソレントはナポリの南、ナポリ湾を隔てたソレント半島にある漁港で、風光明媚なところ。その美しさを讃えながら去って行った恋人に叫びかける歌である。
(ポリグラム株式会社、CD解説書より)

ソレント駅前にあるジャンバッティスタの胸像/写真転載不可・なかむらみちお  この曲は、インペリアル・ホテル・トラモンターノ(Impereal Hotel Tramontano) のコマーシャルソングとして1902年に作られたもので、この年のピエディグロッタの歌祭りで一躍有名になり、今やナポレターナの代表的な1曲となっている。
 詞はエルネストの15才年長の兄ジャン・バッティスタ・デ・クルティス(Giambattista 1860〜1926)が書いた。
 7人兄弟の末っ子エルネスト・デ・クルティス(1875〜1937)は、このホテルのテラスで、ナポリ湾を眺めながらその素晴らしい旋律を書きとめたという。(音楽の友社:「ガイドブック音楽と美術の旅・イタリア」より)。
 駅の近くにジャンバッティスタの胸像があり、それと向いあわせに《帰れソレントへ》の碑も建っている。
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   アマルフィ海岸 Costiera Amalfitana
 9時25分、中型のジェット船で港を後にする。ジェット船だけに流石に早い。船尾から水煙を噴き上げて突っ走る。波があるせいか立っていられないほど揺れる。
 ソレントからサレルノまでの約40kmの海岸線はコスティエラ・アマルフィターナと呼ばれ、世界で最も美しい海岸線のひとつと言われている。入り組んだ岸壁の下には透き通る碧い海が広がり、谷間の段々畑ではレモンやオリーブの木が風にそよぐ。
ポジターノ/写真転載不可・なかむらみちお  船は30分ほどで先ずポジターノPositanoに着いた。海からそそり立つ岸壁にへばりつくように白い建物がぎっしりと並んでその建物だけで大きな壁を造っていた。息を飲むようなと言う事はこう言う事を言うのだろうか。それは見事な景観である。
 ポジターノの歴史は、ロ一マのティベリウス帝の時代から続いている。9〜11世紀にかけてはアマルフイ共和国の一部として、商業が大繁栄した。16〜17世紀には近海や中東に絹や香辛料を輸出し町は非常に裕福になった。また、多くの画家や作家、音楽家や映画人がこの町に魅了され、実際に住み付き多くの作品を残し、1960年代には絹や手編みのレース使いのポジターノ独自のスタイルを持った衣服が注目を集めた。長い歴史と文化、産業に富んだこの小さな町は、現在イタリア屈指の高級リゾート地として人気を集めている。
海からそそり立つ岸壁にへばりつくように白い建物がぎっしりと並ぶ/写真転載不可・なかむらみちお  マヨルカ焼のクーポラが美しいサンタ・マリア・アッスンタ教会S.M.Assuntaは海から望むポジターノの町に色を添えている。
 ポジターノからは水泳パンツ一丁の若者2人が船に乗り込んで来た。乗客の乗り降りが済むと再び次ぎの寄港地を目指して船が出る。
アマルフィ/写真転載不可・なかむらみちお  アマルフィ(Amalfi)には10時半に着き、ほとんどの乗客が降りた。ここもポジターノと同じような風景が見られた。ここは海洋共和国として栄えたアマルフィ海岸の観光の中心地。ドゥオーモに続く広い階段を見上げる小さな広場が美しい。
 11時、終着港のサレルノSalernoに着き、下船。街を目指して歩く。バスの通っている道路までおよそ10分歩く。そこで先ず、バス停を探し、近くのタバッキで乗車券を買う。
 かなり待ったがバスはなかなか来ない。確かホテルのフロントでは1時間に一本走っていると聞いたのでやがていつか来るだろう。強い日差しを避けて30分以上待っていたらようやく青色のバスが来た。
ラヴェッロから見たアマルフィの海岸線/写真転載不可・なかむらみちお  先ずアマルフィを目指して船で来た方向とは逆に陸路を戻る。曲りくねった狭い崖淵の急カーブの道をバスはスイスの郵便馬車のような警笛を派手に鳴らして突っ走る。車窓からは飽きる暇もない美しい風景が流れていく。
 途中の急カーブではお互いに対向車とすれ違えなくて渋滞することもある。それでも若い運転手はシートベルトもせず、鼻歌を歌いながらスイスイとバスを走らせる。よく事故が起きないものだと感心する。
 アマルフィへの道は船に乗っていた時よりも以外に遠く、1時間半ほど乗った。アマルフィでバスを乗り換えて2時のバスでラヴェッロへ向う。
 ラヴェッロ(Ravello)はアマルフィからのバスは曲りくねった狭い急勾配の緑の山道を上ること約30分。標高350mの切り立った断崖の上に広がる小さな集落だ。
海岸線を一望するパノラマ/写真転載不可・なかむらみちお  バスから降りたところから見下ろすとアマルフィ海岸の息を飲むような絶景が広がっている。そこから歩いてトンネルを通り、ヴィッラ・ルーフォロに行く。入口で5ユーロ払い、三脚は預かりとなった。
 中に入って見たが、なにやら廃墟のようで私にはあまり興味がなかった。ヴィラの庭園の先には、見晴らしの良い処も一ヵ所だけあったが、先のバス停から見た景色と変らない。はずれだ。
 波の音さえ届かないこの静かな町で、ワーグナーは歌劇「パルシファル」の“クリングゾルの魔法の花園”を作曲した。毎年7月には海の見える庭園でワーグナー音楽祭が開催される。
アマルフィの海水浴場/写真転載不可・なかむらみちお  少し待ってから来たバスに乗り、先ほど来た道を引き返してアマルフィに着く。ここからの海岸の風景も良かった。ここはアマルフィ海岸の観光地の中心地で人で賑わっている。バスを降りた目の前が海水浴場となっており、大勢の人がチェアデッキや華やかな色のパラソルの下で水着で憩う。絵になる風景だ。早速何枚か撮影する。
 街中をグラマーなビキニ姿の女性が闊歩しており、そのままバスにも乗り込んでくるのには驚いた。見ると大胆にも生まれたままの体に最小限の三角形の布切れをVの字形に付けているだけだ。その姿には老いの目にも眩しく輝く。目のやり場に困る…と言いながらチラチラ。やがてじっくりと見る。危うく久米仙人の二の舞になるところだった。

 ※アマルフィ (Amalfi) は、人口五千人余。ソレント半島の南東、サレルノ湾に面するアマルフィ海岸の中心地であり、観光の拠点である。周囲を断崖絶壁の海岸に囲まれ、小湾の奥に位置する小規模な浜に作られた港から、断崖上に向かって形成されている街である。起源は古代ローマ時代にまで遡る。アマルフィは海洋に面し、かつ複雑な地形に囲まれており、外敵の侵入を撃退するのに適していた。アマルフィ海岸は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
 9世紀中ごろがアマルフィの絶頂期始まりで、それは1100年ごろまで続く。公国の首都、貿易の拠点として発展し、一時はピサやヴェネツィア、ジェノヴァと地中海の覇権を争い、黒海にも商業活動を広げた。11世紀には航海に関する法典であるタビュラ・デ・アマルフィという航海法「アマルフィ海法」を制定した。これは最古の航海法で、様々な海洋に関する法典の雛形となり、17世紀まで影響を持った。
 12世紀後半ないしは13期初頭には磁化した針(羅針盤)を航海に取り入れたり、中国からイスラーム世界に伝わった製紙法がシチリア島経由でもたらされ、13世紀には製紙産業が勃興していた。広場には羅針盤の発明者と言われるフラヴィオ・ジョイアの像が立っている。
 アマルフィの最盛期は11世紀に達成され、その後急速に衰退した。1131年にはノルマン人による征服、1135年と1137年にはピサの攻撃を受け、アマルフィ海軍は壊滅的な打撃をこうむり、その活動範囲は劇的に減少していった。1306年と1348年のペストの大流行、そして1343年の暴風雨によりこの栄光の海の共和国は息の根を止められることになり、僻地の一寒村へと転落の道を歩んでいく。
 伝説によれば、はるか古の時代、ヘラクレスはその愛したアマルフィという女性を埋葬した地に町を作り彼女の名を取ってアマルフィと命名したという。
 アマルフィは狭い土地を有効活用するため、アーチの上に家を建て、上へ上へと建て増したため、断崖にへばりつくように建物が密集している。外敵の侵入を妨げる為もあって階段で出来た路地が複雑に入り組んでいる。
 アマルフィの代表的な建造物として、アラブ=シチリア様式の大聖堂がある。11世紀に建造が始まり、雄大な正面(ファサード)、1066年にコンスタンティノープルで作られた青銅製の扉、そして13世紀の美しい「天国の回廊(Chiostro del Paradiso)」など、特徴的な多くの追加工事が継続して行われた。
 特産品はリモンチェッロと手漉き紙。リモンチェッロの原料にはこの地方特産のレモンが用いられる。今でもアマルフィの急斜面にはところどころレモン畑がある。手漉き紙はイタリア半島で最初に製紙法が伝わった場所であり、紙漉きに必要な清流が存在したことから発達した。(ウィキペディアフリー百科事典より)

 船からの景観の素晴らしさもさることながら、展望台やバスからの眺めもなかなか良い。1997年世界遺産に登録された。 1日観光では勿体ないので、アマルフィにでも一泊してこの素晴らしい景色を堪能したらよい。
 アマルフィ4時発のバスでソレントへ向う。途中ポジターノはバスから見てもきれいだ。国道沿いの見晴らし台Belvedere di Positanoからは町と海のすばらしい眺望が得られる。降りて写真を撮りたいが、そうすると又次ぎのバスまで1時間待たなければならない。ここは光の加減も午前中が良いし、今までアマルフィなどで見た風景と似ているのでバスから見るだけで通過する事にした。
 5時30分、ソレント駅前に到着。ホテルへ歩いて向う。明後日の朝はこの道を重い荷物を持ってホテルから駅へ向かうのかと思うとうんざりする。スーツケースの曳き手が途中で壊れないかと心配だ。それにケースの下に付いているキャスターの動きも鈍く重いのでいつ壊れるかも心配だ。
 ここに来た時に寄ってソーセージサンドイッチを食べたファーストフードの店でチーズ揚げとじゃが芋コロッケを各一個買ってホテルへ戻る。カメラ機材しか持っていないのだが、結構道は遠く疲れた。
 ホテルに着き、先ず風呂にお湯を入れる。風呂から上がってワインで乾杯。途中の店で買ってきた揚げ物を食べる。
 グラスを傾けている内にいつしかまどろみが…。夢の世界へと誘われる。すると古の女神アマルフィが目の前に現れた。“抱きたい”。彼女の唇をそっと指で撫で、“痛いかい?”。“バラ色の唇に乾杯”。

     6月20日(金)晴れ Sorrento - Isola di Capri - Sorrento
 今朝も又2時半に目が醒めてしまった。時差が付いたのか。その後いくら努力しても寝就かれない。しかたが無いので起き出して日記を書く。
 4時過ぎに再びベッドに入ると幾らかうたた寝したようだ。5時頃目が醒める。その後、再び寝ると寝過ごすのでそのまま起きて顔を洗う。
 7時になるのを待って一階の食堂に行き、朝食を摂る。食後、近くのミニスーパーへ行って水を買ってくる。
 今日はカプリ島へ行ってくる。8時過ぎホテルを出て港へと向う。港に降りる階段の途中ですれ違った外人さんに駅への道を尋ねられた。外国で私が道を尋ねるのは頻繁だが、訪ねられたのは初めてだ。なんとか拙い英語と身振り手振りでで相手に道を伝えることが出来たようだ。なんとも爽快な気分だ。
 カプリ島へはナポリ・ソレント・サレルノから頻繁に船が周航しているため、日帰りでも充分楽しめる。ナポリよりもソレントから行ったほうが近くて便利だ。港でカプリ島行きの船のチケットを買い、9時25分発のフェリーでカプリ島へ向かう。
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   カプリ島 Isola di Capri
 古代ギリシャ人は海から見た島の形からカプロスCapros(イノシシの意)と呼び、ローマ皇帝アウグストゥス帝は所有していたイスキア島とこの島を交換して「甘美な快楽の地」と呼んだカプリ島。アウグストゥス帝も恋した夢の島。古代から訪れる人を魅了してやまないこの小島の人口は約1万3000人。島は観光業を主とするが、自然保護地区であるため珍しい植物や動物、海中の生物が平和に共存している。
 ピアッツェッタPiazzettaと呼ばれるカフェが並ぶ広場を中心に小さな町が広がり、その奥の名所へは上り下りの坂道が続く。徒歩でしか行けない小道を息を切らしながら歩けば、たどり着いた先に必ず忘れられない風景が待っている。自然のあふれる島西部アナカプリAnacapri地区へは切り立った絶壁を小型バスで行く。
 船は出発して30分程してカプリ島に着く。ここから「青の洞窟」行きのチケットを買い、10時30分中型船で「青の洞窟」へ向う。
 カプリ島にはすでに二回来ており、ある程度勝手を知っているので気が楽だ。前回来た時は小型発動機船のような小さな船だったが、今回は中型船である。
 待ち時間の間、港内を見渡しているとやはり昔のような小型の船で向う客も見受けられた。そこの区別はどうなっているのか分からない。とにかく行けりゃいい。時間まで待つ事にする。
 遅れて到着した船はおよそ15分ほど遅れて出発する。コースは昔と同じだ。

  青の洞窟
青の洞窟の入口/写真転載不可・なかむらみちお  船はやがて「青の洞窟」前に着いた。すでに先客がいて前回と同じように乗って来た船から小型の手漕ぎボートに乗り移って洞窟の中に入って行く。
 乗って来た船の出入り口近くに居ると寄って来た一艘のボートの漕ぎ手が1番客に私を指定してきた。きっと高級カメラを持った日本人だからきまい良くチップを弾むと踏んだようだ。私を見る彼の目が輝いていた。
青の洞窟内/写真転載不可・なかむらみちお  手漕ぎボートに乗り移り、頭をなるべく低く、体をボートの底に付けるようにして横になる。ボートは順番を待っているらしい。やがてこちらの番が来て素早く中に入る。漕ぎ手がカンツォーネを歌いながら洞窟内を一周してくれた。洞窟の中では泳いでいる人も居た。
 いまやカプリ随一の名所であるこの洞窟は古代ローマの時代にすでに発見されていたといわれる。その後の地盤沈下で海面下に潜った開口部から透き通った水を通して太陽光が入るため、洞窟内は下から照らされたような不思議な青い光に満ちている。入口の高さは僅か1m、内部は長さ54m高さ15m水深は14〜22mほど。ボートが洞窟内を一周するのはたった数分であるが、一瞬で脳裏に焼きつくほど美しい空間に出合える。
 カプリ島に来たのは今回で3回目。1回めは波が高くて洞窟には入れなかった。2回目は入れたのだが満足に写真が撮れなかったので3回目の挑戦となった。
 洞窟から出る時はかなり強い波が出口から押し寄せてきた。その合間を見て次々とボートが出て行くので多少渋滞する。
 こちらの番が来て無事すり抜けて外海へ出た。乗って来た船に戻ってからボートの漕ぎ手が「スペシャルチップ」と要求してきたので1ユーロあげたら一寸不足のような顔をしたがそれで終わった。他の客が見終わるまで船上で待機する。
南海岸の洞窟/写真転載不可・なかむらみちお  全部の客が見終わってから船は又来た海路を戻るのではなく、更に先へ進み、島を一周してくれた。南海岸や切立った断崖絶壁に洞窟がいくつもある東海岸の景色は素晴らしい。「青の洞窟」よりも間口が広く透き通ったコバルト色の水を湛えている洞窟もあって美しい。奥に吸い込まれるような神秘さを感じた。青の洞窟だけを見て帰るのは勿体無い(所要時間2時間)。又、サファイヤ色をした岸辺も在り美しい。船長がマイクでガイドしてくれる。
 チケットを買った時には13ユーロは高すぎると思ったが、これでは充分楽しめるので高いとは思わなかった。思わぬ拾い物をした。
 カプリ島にはオープンカーのタクシーが走っている。前回来た時にも走っていたが、今回も同じような大型のクラシックカー型のタクシーが走っている。但し、前回よりも少し高級になったようだ。
 島の中もいいが、前回来た時に見ているので今回は省略する。前回来た時にはウンベルト1世広場にあるレストランでスパゲティボンゴーレを食べた。その時、悪戯心で持ってきた割箸で貝を摘んでいたら、ボーイさんが「オオッ、ユー、チャイナ」と驚いたような表情で話し掛けてきた。私はリックから別のプレゼント用の箸を出して彼にあげたら大変喜んでくれて折り返しお礼にアイスクリームをご馳走してくれた。あの時のボーイさんはもうかなりの年配になったとは思うが元気でいるのだろうか。会えれば逢いたいものだがその店が何処なのか、なんという名のレストランだったのかも分からないので今となっては無理な話だ。13時40分発のフェリーでソレントへ向う。
ソレントの港/写真転載不可・なかむらみちお  ソレントに着いてからホテルへの帰り道、何時もとは違う海沿いの道を通ってみた。すると展望台のようになっていて、ソレントの港と海岸線が一望出来るところに来た。
 この風景を眺めていると南欧イタリアの明るい空の下にある明朗快活な情緒を盛り込んだメンデルスゾーンの交響曲第4番イ長調作品90「イタリア」が脳裏に聞こえてきた。南欧の明るい空の下にあるイタリアの風景と風俗と物語り、それらから受けた強い印象が曲の中に盛られている。
 第1楽章ではイタリアの紺碧の海や、ぬけるような青空を思わせる、晴朗な気分にみちあふれている。澄み切ったコバルトの南欧の空、さわやかな大気の香り、情緒の深さが映し出されている。
 中でもアバド指揮のロンドン響(グラモフォンF00G27053)はイタリア人的な趣味がいかんなく発揮された演奏で、流麗な旋律をしなやかに歌わせながら、明るく朗らかな表現を行なっている。
 海の向こうには遙か彼方に昨日は見えなかったカプリ島が見える。昨日は晴れていても空気が靄っていて見えなかったが今日は少し霞んではいるが良く見える。と、いう事は、昨日より今日の方が空気が乾燥していたという事である。昨日はアマルフィ海岸への旅にしてカプリ島は後にしたのは正解であった。
旧市街の目抜き通り/写真転載不可・なかむらみちお 旧市街の目抜き通り/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルに帰る途中、未だ時間が早いので今度は何時ものメイン道路とは別に一本海寄りの細い路地(Via S. Cesareo)に迷い込んでみた。この通りは旧市街の目抜き通りでお土産屋が並ぶ。狭いので車は通らない歩行者天国だ。どこか庶民的な匂いもする。
 日差しは相変わらず強く蒸し暑い。ホテル近くのいつものミニスーパーに寄り、パンと冷えたビールの小瓶を買って来てホテルで飲む。飲んだ後の気分は言うまでも無い。おそらく今回の旅で最初にして最後であろう風呂に入り、充分満喫する。至福のひと時だ。
 明朝このホテルを引き払う訳だが、駅まで行くのにわずか500mくらいだというのにタクシーは20ユーロだと言う。とてもそんな高いお金は馬鹿馬鹿しくて払えない。さりとてあの重い荷物をしかも曳き手の破損が心配な荷物を曳いて駅まで行くのはしんどい。考えた末、バスが在る筈だ。フロンとに行くとホテルの近くから駅へ行くバスがあると言う。しめた、それに決めた。上手くゆくかどうか明日のお楽しみだ。
 旅もいよいよ終盤になった。あと残すのはポンペイの遺跡めぐりのみ。スリの被害と健康に気を付けて無事帰国出来る事を願って頑張ろう。

    6月21日(土)快晴 Sorrento -(列車) Pompei Scavi(Villa misteri) -(列車) Napoli
 朝食の後チェックアウト。荷物を持ってホテルの近くのバス停へ向う。こんな近くにバス停が在るなんて思いもよらぬ事。助かった。時刻表を見ると30分毎に来る事になっているが、どこが始発か分からないのでいつ来るのかも分からない。
 40分位待ってようやくバスが来た。チケットを買って来るのを忘れた。バスの運転手は扱っていない。困ったがどうしようも無い。検札が来た時はその時だ、腹を決める。
 やがてバスはメイン通りとは別の道を通り街のほぼ中央部で降ろされた。駅には行かないという。駅は未だ先で300m程はある。それでもここまで乗ってこれて助かった。
 バスを降りる時運転手は料金はいいという仕草をした。タダ乗りである。バスから降りて荷物を曳きながら駅へ向う。結構疲れる。
 ようやく駅に辿り着き、乗車券を買ってホームへ行く。9時6分発ナポリ行きの列車はすでホームに入っており、乗車して間もなく発車した。
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ポンペイ遺跡 Pompei Scavi
  Pompei Scavi(Villa misteri)駅には9時40分に着いた。ポンペイ駅の中にある売店で荷物を預かって貰ってカメラと三脚を持って遺跡へ向う。客は未だ少ない。入場料は11.00ユーロ。
 ここに来たのは1981年以来二度目なのでなんとなく土地勘がある。前回はアポロ神殿を見損なったのが心残りでまた来てしまった。
 2000年以上も前に栄え、ヴェスーヴィオ火山の噴火によって火山灰の下に埋もれてしまったポンベイの町。スポーツジムや共同浴場、居酒屋そして売春宿…。日常生活の基本的な部分は、現代とほとんど変わらない。馬車のわだちが残る石畳の道を歩きながら誰の家を訪問しようかと考えれば、遠い国からやって来た自分もまるでこの町の住民であったような錯覚に陥る。
商取引の場として利用されていたバジリカ/写真転載不可・なかむらみちお ジュピター神殿、後方にはヴェスーヴィオ火山/写真転載不可・なかむらみちお  先ず、裁判や政治・経済の討論の場、また商取引の場として利用されていたバジリカに入り撮影。ここは紀元前2世紀後半に建造され、採光のため屋根をもたない縦長の室内は、コリント式円柱を2段に重ねた外壁と内側の太い柱で囲まれていた。続いてフォロから良く晴れたヴェスーヴィオ火山をバックにジュピターの神殿を撮る。
 フォロはおもに商業活動に使われていた。広場は、紀元前2〜1世紀にドーリス式と上方のイオニア式の2層の柱廊で長方形の広場を囲むように整備され、町の政治経済の中心地となった。
 ジュピターの神殿はフォロの北側、ふたつのアーチの間にある町で最も重要な神殿で、ジュピター、ユノ、ミネルヴァの3神を祀ったもの。続いてアポロ神殿の場所が分からなかったので付近でツアーを案内していたガイドに聞く。
アポロ神殿/写真転載不可・なかむらみちお  アポロ神殿は紀元前4世紀前半ギリシャ植民地の影響を受けて独立して建築されたため、周辺の建物とは別の方向を向いている。ヘレニズム建築が用いられ、紀元後2年には城壁側の民家との間を隔てる高い壁が造られた。右には出土されたブロンズのアポロ像のコピーが置かれ、48本のイオニア式円柱で囲まれていた。本殿の前には奉納者の名前が刻まれた大理石の祭壇がある。
 ここは前回来た時には知らずに見逃したところだ。写真で見ていたアポロ像に会えて感激した。これだけでも今回ここに来た甲斐がある。早速アポロ像の前で記念写真を撮る。
牧神の家はポンペイ最大の貴族の豪邸/写真転載不可・なかむらみちお  この後牧神の家を探しに行く。ようやく見付つけた牧神の家の庭に飾ってあった踊る牧神ブロンズ像のレプリカは以外に小さくてびっくりした。
 牧神の家はポンペイ最大の貴族の豪邸。大きなアトリウムの中央には家の名となった牧神ファウヌスのブロンズ像(コピー)が置かれており、「イッソスのダリウスとアレクサンダー大王の戦い」のモザイクもここから発見された。アレクサンダー大王の姿を描いたものはこれしかないとのこと。よく見掛ける姿はこれである。これらはナポリ国立考古学博物館で実物を見ることが出来る。
アッポンダンツァ通り/写真転載不可・なかむらみちお  この後、時間をかけてゆっくりと巡る。石を敷詰めた道路の荷車の轍やパン屋の店先などを探しながら写す。最後にアッポンダンツァ通りを見て遺跡を後にした。
 一都市を徒歩で回るのだからそれなりに疲れるが、考古学的な遺跡の魅力を味わい2000年前の空気の中にゆったりと溶け込んだ。

アッポンダンツァ通り/写真転載不可・なかむらみちお  よく、廃墟のような遺跡を見て何が面白いのだと言う人がいる。ボローニャの女性図書館長アンナマリア・タリアヴィーさんは「古いものの前に立つと、歴史が、過去が、そして消え失せたはずの時間が、すべてのものが、一瞬のうちに目の前へ立ち現われてきます。そのことによって、だれもが、自分が現代に孤立して生きているわけではないという真理を直感するんですね。そして自分が過去と未来をつなぐ役目を背負っているという責任を自覚します。大事なことは、こういったことがすべて人間を勇気づけるということです。そこで二十世紀の初めごろから、イタリア全土の重要な文化財を保護することは、国民に対する、そして人類に対するイタリア国家の責務であるという考え方が生まれ、そしてたちまち、あらゆる思想の主流になりました」(井上ひさし著『ボローニャ紀行』文芸春秋刊)と言っている。

   ※フニクリ・フニクラ
 ヴェスーヴィオ火山は標高1281mあり、1944年に大爆発するまでは頂上まで登山電車が走っていた。フニクリ・フニクラはその登山電車の名前である。
 この登山電車は1880年にトーマス・クック旅行会社が設置したのだが、当初はあまりにも急な角度で登る電車に人々が恐れをなし、ほとんど利用者がない状態だったという。
 そこでクック社はなんとか利用者を増やそうと、この登山電車のことを歌った、いわばコマーシャル・ソングを作る事を思い立ち、ジュゼッペ・トゥルコに作詩を、そしてルイジ・デンツァ(1846〜1922)に作曲を依頼した。
 こうして出来上がった曲をピェディグロッタの歌祭りで発表したのだか、これが人気を集め、そのお陰で登山電車も大いに繁盛したという。(ポリグラム株式会社CD解説書より)。この曲は世界最初のCMソングと言われている。
 駅の荷物預かり所で預かり料3.00ユーロを支払い、13時40分発の列車でナポリへと向う。ナポリ駅には14時15分に着いた。
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   ナポリ到着
 ナポリの駅前は工事中で見通しが悪い。ナポリは1981年に初めてひとりでヨーロッパ旅行した時に最初に来た思い出の街である。なにしろ初めての海外ひとり旅で不安と不案内でひどく当惑したことを思い出す。駅の中の交番へ行き、ホテルへの道を尋ねた。応対してくれたお巡りさんは私が首から下げていたカメラを指してリック、リックと言っていた。最初は何の事か分からなかったがどうやらカメラをリックの中に入れて行けと言っているようだった。なるほどホテルまでのわずかな道ながら両側に露店がびっしりと軒を並べていた。狭い歩道を大勢の人が行き交っている。
 今回はそれほどの喧騒な雰囲気ではなかったが、相変わらず歩道の片側には露店が軒を連ねていた。但し、前回と違って豚の頭などの食材を売る店は見当たらず、鞄とか小物屋、お土産店などが並び、垢抜けした感じに変っていた。
 昔、駅前通りに目にした「Sayonara」という名のホテルも看板こそイタリア語になったが今も在って懐かしかった。その時泊まったホテルも健在であった。そのホテルの前を素通りして今回はその先の安宿へ向う。結構長距離歩いたが、突然、今夜の宿のホテルの看板が目に入った。暑さと荷物の重さに疲れ果てていたが勇気が出てきた。
Hotel Casanova/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルはメイン通りの裏のプチホテルだ。今回の旅では料金が1番安い。そのホテルの名はHotel Casanova(via Venezia 2/Corso Garibaldi 333)という。Casanova(1725〜98)とはイタリアの作家の名である。女たらしでプレイボーイ、漁色家として知られている。
 そのHotel Casanovaとは一体どんなホテルなのか興味深い。「後期高齢者」の私には“カンケイナイ!”か。私には初めから何も期待するものはない。着いてみるとそこは小さな静かな広場に面した蔦のからまるプチホテルだった。ホテルに入るとフロントに老人が座っていた。
 チェックインはスムーズに済み、部屋に入る。冷房は無いが料金から考えると悪く無い、但し、窓の外の広場は黒人の溜まり場らしく、彼等独特の話し声で結構うるさい。しかし、料金が料金なので我慢するしか無いだろう。
 荷物を部屋に置いてスーパーへ食料の買い出しに行く。ホテルを出て見て驚いた。そこは黒人ばかりだ。きっと黒人達のコミュニティーになっているのかも知れない。非常に庶民的な雰囲気が漂っている。
 スーパーで水やワインなどを買ったが冷えたビールは売っていなかった。途中の小さな店に入ってみるとビールが冷やしてあった。レヂには小学生ほどの小さな女の子が座っていた。ビールの小瓶を持って行くと栓を抜いてくれた。なかなかシッカリした女の子だ。そこでビールをラッパ飲みする。今日も暑かったので旨い。
 ホテルへ戻ると同じフロアに小さなキッチンがあり、ありがたいことにガスレンジがあった。試しに火を点けてみると使える。早速日本から持って来た米といつも旅には携行しているキャンプ用品のアルミニュームの鍋でご飯を炊いた。パレルモのホテルで1度だけ米の飯を炊いたが、その後は少々格式張ったホテルばかりだったので自炊する事は出来なかった。折角重たい思いをして持ってきた米をまた日本まで持って帰るのかと思うと少々残念だったので嬉しい。
 どんなに美味い料理を食べていてもそれが毎日続くと飽きてくる。ましてや1ヶ月間近くも日本を離れていると、無性に日本食が恋しくなる。日本人は米の飯を食わないと生きてはゆかれない。
 先ず、ソレントで飲み残したワインを飲んだ後食べた久しぶりの米の飯は旨かった。これに漬物があれば言うことはないのだがなにしろ臭いがきついので持ってくるわけにはいかない。連日のパン食に飽き飽きしていたので蘇えった気持ちだ。日本から持って来たインスタント味噌汁と、永谷園の「お茶漬の素」を振り掛けて食べる。「ふりかけ」でなかったのが残念。今日も暑く疲れたのでシャワーを浴びた後早めに寝る。

    6月22日(日)快晴 ナポリ Napoli
「ナポリを見て死ね」/写真転載不可・なかむらみちお  雄大なシルエットを見せるヴェスーヴィオ山を背景に、美しい海岸線と数知れぬ文化遺産で彩られたナポリの町。「ナポリを見て死ね」という言葉通り、サンタ・ルチアなどから臨む美しさは、イタリアでも随一と言えよう。けれど、一歩町なかへ足を踏み入れれば、すさまじい交通渋滞と人込み。おしゃれなブティックと大声が飛び交う路地の屋台や市場。海を見下ろすヴイラのような住宅と洗濯ものがはためくスペイン人地区……。新しさと古さ、人懐っこさと無愛想、静謐と混沌、なにもかもが両極に大きく針を振る。そのすべてを受け入れる、ナポリの懐の深さは、この町の歴史のゆりかごに育まれたものに違いない。
 紀元前から続く、ナポリの魅力を一言で語るのは難しい。まずは、町への一歩を踏み出そう。午前6時に起き、日本から持ってきた残りの米を炊く。出来具合は良かった。インスタント味噌汁で食事を済ませる。漬物が無いのが残念だ。
 駅のタバッキで週末乗車券を2.60ユーロで買い、バス乗り場へ向う。昨夜は疲れて早く寝たので今日の行程は調べていない。とにかく朝のなるべく早い時間帯にスリなどで危険なスパッカ・ナポリへ行ってみたい。

   スパッカ・ナポリ Spacca Napoli
 “ナポリを真っぷたつに割る”という意味のナポリ下町の旧市街。西から東に延びる直線の道が、混沌とした町を文字通り二分している。
 怖い町と噂に聞いていたのでどうしょうかと思い悩んだ末、思い切って行って見る事にした。スリのお兄さんたちなどがまだ寝ている日曜日の朝、カメラを黒いナップザックに一台だけ入れ、それと三脚だけの身軽な格好。大切な航空券とパスポート、お金は考えてみたが宿に置いたり預けてくるのも心配なので身に付けてきた。ナップザックを胸の中にかかえ完全武装で緊張して望んだ。
 バスを待つ間やバスの中などでガイドブックを見るがどうも良く分からない。運転手にスパッカ・ナポリへ行きたいと言って適当な処で降ろしてもらったがどう行って良いのか分からない。通り掛かりの人を捉まえては聞き、先へと進む。仕舞いには自分が今どこを歩いているのかさえ完全に分からなくなってきた。偶には大いに迷って見るのも旅の面白さの一つでは無いだろうか。
スリのお兄さんたちなどがまだ寝ている日曜日の朝/写真転載不可・なかむらみちお 魚屋の露店/写真転載不可・なかむらみちお 果物屋の露店/写真転載不可・なかむらみちお  かなり曲がりくねっりながら歩いてようやくスパッカ・ナポリに着いた。なるほど通りは狭いがそれほど生活の匂いはなく、人通りも日曜の早朝の所為か少ない。写真を2〜3枚撮って今度はケーブルカー乗り場へと向う。途中の街頭の露店で桃を買って食べる。
 モンテサント線のケーブルカーに乗り、終点で降りる。そこで同じように展望台への道を駅員に尋ねていた老夫婦に付いて展望台へと向かう。着いた処が最初ナポリに来た時に見た国立サン・マルティーノ美術館であった。入場料6ユーロ払って中に入り、海に向って開けた奥のテラスから観る事になるが、ここはあまり良い写真は撮れない。
ヌオーヴォ城/写真転載不可・なかむらみちお  広場にバスが停まっていた。バスの運転手にチェントラーレ線のケーブルカーの乗り場を聞くと、このバスに乗れという。運転手に教えられた所でバスを降り、チェントラーレ線のケーブルカーでムニチービオ広場へ行く。そこは前回撮影しに来たヌオーヴォ城があった。
 ムニチービオ広場からR2のバスでナポリ駅まで来てそこから歩いてホテルへ帰って来た。途中のスーパーで明朝の分も含めてヨーグルトを2個買う。
 ホテルに帰り、日本から持ってきた素麺を茹でて食べる。旨い!矢張り日本の味は最高だ。“色気より食い気”か。(情けない!)。家では二束もあれば余ると思ったが、茹でた二束をあっと言う間に食べ終り、なんだか未だ物足りない気がする。3時頃又二束茹でて食べてしまった。残りの二束は夕食に食べる事にしよう。
 明日はいよいよ日本へ向けて帰る。長かったようであっという間の事でもあるような気がする。連日快晴で暑くてバテ気味だったが、なんとか体調を崩さずに帰れそうだ。最後まで気を抜かずにドジのないようにして帰りたい。荷物を帰国モードに整理する。昨日と今日の日記を書いた後、4時から酒盛りを始める。長かった旅の安全と完遂を祝して乾杯! 岸洋子の「希望」の歌が脳裏を駆け巡る。

     6月23日(月)晴れ Napoli 12:40-(AF2179)15:00 Paris 20:00-(NH206)
 6時起床。今日はいよいよ帰国の途に付く。嬉しくてドキドキわくわくする。一方、少々緊張感もある。洗顔の後、残りの素麺二束を茹でて食べる。
 8時を待って部屋を出てチェックアウトする。外に出ると今日も日差しが強い。駅に近い郵便局前に在る空港行きのバス停へゆっくりと荷物を曳いて向う。
 バス停には8時10分に着いた。バスの発着時刻表を見ると8時10分にある事になっている。待つ事暫し、8時20分頃空港行きのバスが来た。バスは10分ほど走って空港に着いた。あまりにも近いので本当に空港かなと疑問に思う。しかし、ナポリに着いてからホテルのある街の中心部に轟音を響かせて離着陸していたので、近くても不思議では無い。しかし、建物は二階建で貧弱なのでつい本当にここが空港なのかと疑問に思ってしまう。
 出発までにはかなり未だ間がある。ロビーの椅子に腰掛けて待つ。搭乗時間より少し前に売店へ行ってみたが子供達への適当なお土産がなくて困った。
白雪に覆われたアルプス山脈/写真転載不可・なかむらみちお  定刻より1時間も遅れて13時40分頃ナポリ空港を飛び立ち、一路パリへと向う。フト窓の外を見ると眼下に雪山のようなものが見えた。隣の席の女性が、アルプスだと教えてくれた。地図の上で見ると、ナポリからフランスのパリまでの直線上にアルプスが立ちはだかっていた。どうやら今見える雪山はモンブランらしい。珍しいのでデジカメで2〜3枚撮る。その先にはジュネーブの上空を通過するとのことであった。
本物のカマンベールチーズ/写真転載不可・なかむらみちお  パリにも1時間遅れで第二ターミナルに着いた。ここから全日空機の発着場である第一ターミナルまで行くのがまた大変だ。シャトルに乗り、長いエスカレーターに乗り、降りて歩き、ようやく第一ターミナルへ到着。フィンガーの売店は未だ開いていない。
 1時間ほど待って売店が開いた。お土産のチョコレートや本物のカマンベールチーズを買う。これでお土産は揃いひと安心。
 成田行きの飛行機は20時20分発だが、15分ほど遅れた。出発準備の遅れと言う。機内に入ってから日本の新聞を貪り読む。食後、ゆっくり寝れた。

     6月24日(火)晴れ 14:30 成田 -(列車) 羽田18:50-(NH4723)20:20 新千歳-札幌
     無事帰国

 成田には15分ほど早く14時15分頃に着いた。到着後すぐ家に電話を入れる。あわよくば成田から新千歳行きの直行便に乗れるかも知れないと思って全日空のチケット発行カウンターに行ってみたが、制限付きの航空券なので変更は出来ないとの事なので初めの予定通り京成電鉄の列車で羽田へ向う。孫の城太の家の近くを通るので逢いたいが、今回はあまり時間が無いし、荷物を持っているので連絡しないで帰る事にした。
 3時2分の電車に乗り、青砥で乗り換えて羽田へ向う。羽田空港の全日空カウンターへ行くと1便速い6時発の飛行機に乗れると言う事なのでそれに変更して貰った。成田では制限付きのチケットなので変更は出来ないと言われたが、ここでは変更可能と言う。一体どう言う事なのだろうか腑に落ちない。
 チェックインを終り、地下一階のコンビニへ行ってビールを買い、四階の搭乗口へと向う。搭乗口近くの売店で崎陽軒のシュウマイを買う。搭乗口へ行くともう搭乗が始まっていた。そのまま機内へ入り、席に着いてからシュウマイを開け、「サッポロビール」を飲む。
 新千歳空港に降りて荷物を受け取り、ロビーに出ると行列が出来ていた。一体何の行列なのか分からない。バスの案内所へ行くと、JRで人身事故があったのでダイヤが乱れていると言う。その為にJRを予定していた客がバスに切り替えた為に長い行列が出来ていた訳だ。バス乗り場は左に200m行ってくれと言う事だった。言われた停留所へ行くと係員が変更になるかも知れないがここに並んで下さいと言う所でバスを待つ。その内、その先の停留所へ行けという。麻布行きのバスは10分後に来るという事だったが、そこに北24条行きのバスが今発車しようとしていたのでそれに乗って札幌へと向う。バスはほぼ満員だったが、座れた。
 北24条からタクシーを拾って自宅へ向う。自宅に着くと「早かったね」と言われた。特に変わった事は無いらしい。手荷物を開く間もなく、風呂に入り、焼酎を一杯飲んで寝た。今日は良く寝れた。
 翌朝6時に目が覚めて散歩に行く。今朝は雲一つ無い快晴。透き通った青空が目に眩しい。空気も乾いて清々しい。
 散歩から帰って来てから朝食を摂る。味噌汁と白いご飯が何時もより旨い。味噌汁をお代わりする。   

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      向こうで飲んだワイン
    ダルマティア地方
 ☆「 Merulot」赤 6.10ユーロ(1,014.00円) 5/27 リュブリャーナ 味はまぁまぁ。
 ☆「Castel.Cabernet saurviuon」5/30 プリトヴィッツェ 普通
 ☆「PLAVINA」 28.48Kn(619.44円) 6/01 ドブログニク 普通
    ギリシャ
 ☆「AMΠΕΛΩΝΕΣ」5.55ユーロ(922.35円)、6/04 サントリーニ 普通
 ☆「VINSANTO」ビザント14.15ユーロ(2,351.58円)6/04 サントリーニ 甘口。カラメルの味がする。
 ☆「OUZO」ウゾ7.40ユーロ(1,229.80円)、6/08 ミコノス 焼酎感覚、個性的な匂いがする。
 ☆「KOURTAKI」レッィーナ3.70ユーロ(614.90円) ミコノス 飲みやすく癖になる。
    シチリア州
 ☆「Corvo」5.20ユーロ(864.18円)辛口の赤、6/12 パレルモ この地方では名の通ったワイン。いける。
    プーリア州(バーリ、アルベロベッロ)
 ☆「IMPERATORE」3.35ユーロ(556.73円)6/16 アルベロベッロ 辛口の赤、 飲んだ後の後味が余り良くなく外れであった。
    カンパニア州
 ☆「Fiano di avellinop」9.00ユーロ(1,495.71円)辛口の赤、6/18 ソレント 少し苦味が強い。
 ☆「Fiano di avellinop」9.39ユーロ(1,560.52円)辛口の赤、6/21 ナポリ
 「なんだ、安酒ばかりじゃないか」。安酒がなぜ悪い。安くて美味い酒を探すのが酒飲みの神髄ではないのか。値段の高いいわゆる高級酒をこれ見よがしに飲んで見せびらかすのは一部の大金持ちの悪趣味であり、単なる「見栄」にしか過ぎない。
 お酒は楽しみに飲むもの、難しい理屈を考える必要はなく、美味しく飲む事ができたらそれで良い。未知の酒を十分に楽しむには多少の知識も必要になる。自分の流儀で楽しもう。
 ワインは人と最もかかわりの深い、最も文化的な酒である。知識は人生を高めるという。ワインを知る事は、ワインの味覚を高める事に他ならない。

  マイグラス
 ワインの味を左右する要素の一つにグラスがある。有名なワイン産地にはそれぞれのワインに適したグラスがある。
 グラスの最も大切な役割は、ワインの良さを引き出してくれるかどうかである。色や香を楽しむには、薄手で無色透明、胴の部分が膨らみ、上部が少し狭まり、容量が比較的多い脚つきのものが良い。ホテルの部屋にあるコップでは味気ない。
 私は家で日常使っているグラスを旅のお供にしたいのだが、万が一壊れては困るので不本意ながら写真のような無骨な壊れてもよいグラスを重いのをいとわず毎回旅のお供にしている。

   ワイン知ったかぶり
 人生の中で酒が果たしている役割は大きい。芸術を愛し、人生を謳歌した古代人が、ワインを飲みものから文化へと高め、私達に大きな遺産として残してくれたその恵みをありがたく受け継ごう。

   ワインのルーツ
 ワインが最初につくられたのはメソポタミアの南部地方、シュメールであった。今の葡萄は野生の葡萄を栽培化したもの。その最初のものはカスピ海、黒海の周辺に現われたとされる。
 コーカサスの故郷を出た葡萄は、メソポタミア、エジプトを経て地中海世界に広がって行くのだが、その担い手はクレタ人やフェニキア人だった。そしてここで葡萄とワインの守護神ディオニソスとともにギリシャ文明が登場し、ワインの黄金時代が誕生する。ギリシャはヨーロッパワイン文化発祥の地と言える。
 ギリシャ文明の後継者ローマ人は、イタリアをエノトリーア・テルス(ワインの地)と呼ばれるぶどうの国にしたが、今日のワイン作りの原型もこの時代に形作られたと言う。「世界の名ワイン辞典(ぶどう樹物語)より」講談社

  ダルマティア地方のワイン
 かつてダルマティアと呼ばれワイン生産に古い歴史を持つユーゴスラヴィアは、年により大きな変動があるものの、多い時は世界でも10指に入るほどのワイン生産国である。
 主な産地はスロヴェニア、クロアティア、セルビアやアドリア海沿岸の地方で、メルロ、カベルネなどの黒ぶどう、トカーイ、ミュスカなどの白ぶどうが栽培されている。「世界の名ワイン辞典(地中海世界のワイン・塩田正志)より」講談社

  ギリシャのワイン
 古代のギリシャはエーゲ海に、すでに紀元前1700年の頃、クレタ文明が栄えワインも大いにつくられていた。
 古代ギリシャのワインについて物語っているのは、紀元8世紀ころのホメロスである。ホメロスの作品「イリアス」や「オデュッセア」に登場する英雄、豪傑は好んでワインを飲み、また作品の中にはワインの話が出る。
 ギリシャに都市国家が群生し、栄えるころになると、ワインは益々重要な飲みものになる。シンポジュームという言葉も、もともとは一緒に飲む、酒宴という意味だった。古代ギリシャ人はこの席で、哲学、思想を論じ、政治を評し、文学や芸術を語った。彼らのおしゃべりに油を注いだのは油ならぬワインだったのである。
 ギリシャでは人々のワイン愛好と、賢人たちの知識技術によって、ワイン造りは大いに進歩した。「ワイン物語」井上宗和著角川文庫より
   ビザント(Vinsanto)
 収穫した葡萄を3〜4日日に干したあと搾った汁でつくるのでいくらも作れない。カラメルの味と風味が特徴で黒砂糖が入っているような感じがする甘口のワイン。ヨーロッパワインの富貴酒のような感じがする。製造に手間ひまがかかるので値段も高い高級酒である。
   レッィーナ(Retsina)
 醗酵前に松脂を入れる白ワインのレッィーナ(Retsina)は、アテネを中心とするアッティカ地方の特産で、ギリシャの全ワイン生産量の半分を占めている。レッィーナの歴史は3000年も前にさかのぼり、古代ギリシャの味わいを今に伝えるワインだと言える。
   ウゾ(OUZO)
 香草アニス(セリ科)の強い香がする食前酒。ワインを取った後のぶどうの搾りかすから造る。キのまま飲むと口の中が燃えるように熱くなるので俗に“ギリシャの火酒”と呼ばれる。不思議な事に水を加えると牛乳のように白濁する。地元で土地のつまみと一緒に飲みたい。トルコにも「ラク」、別名「ライオンのミルク」という同じような酒がある。

  イタリアのワイン
 イタリアのワイン造りの歴史は古い。中央アジアに始まったワイン作りは、ギリシャをへてイタリア半島に伝わった。古代ギリシャ人はすでにイタリアのことをエノトリア・テルス、すなわちワインの国と呼んでいたことでも、この地方できわめて古い時代からワインが造られていたことがわかる。イタリア半島はぶどう作りに恵まれた風土、条件を備えている。(井上宗和著「ワインの城への旅」より)
   シチリア州
 Corvoコルヴォ 辛口の赤、白、のほか、辛口と半甘口の発泡性のスブマンテがある。さわやかな白、滑らかでしっかりした赤、華やかな発泡性と個性さまざまに楽しめる。
 Donnna fugataドンナフガータ(逃げた女)。辛口の赤、白、ロゼ。果物を思わせるさわやかな香の白はシチリアの夕暮れにふさわしい一杯だ。
 Marsalaマルサーラ。醸造の途中にブドウから造られたアルコールや糖分を添加してアルコール度数をあげ、土地の木樽で熟成される。辛口セッコSeccoは食前酒。甘口ドルチェDolceは食後に。
   プーリア州(バーリ、アルベロベッロ)
 Castel del monteカステル・ブル・モンテ 辛口の赤、白、ロゼ。じっくり熟成させた赤のリセルヴァハモンテブルチャーノ種の割合が高く、評価も高い。
 Salice salentenoサリーチェ・サレンティーノ 辛口の赤とロゼ。(「地球の歩き方」より)

   ワインとチーズ
 ヨーロッパの田舎を歩けば、食卓に必ず土地のワインとチーズが仲良く並んでいるのが見られる。その土地土地の独自の気候風土に育てられたワインとチーズは、切り離し難い、古くて仲の良い友達である。
 基本的にはワインとチーズの関係は、ワインと主菜(メインデイシュ)の相性の延長として考えたい。例えば、あっさりした料理にに軽いドライなワインを選べば、チーズもそれに合わせて、おだやかでくせのないチーズを選ぶ。
 又、芳香のある重い赤ワインには、ウォッシュタイプや青かびタイプのシャープな風味のチーズを選ばないと、マイルドなチーズでは、ワインの強さにチーズの味が負けてしまう。
 最終的には本人の舌で判断するしかないが、あまり外れのない方法としては同じ地域のものを組み合わせるのが一番無難のようである。一人ひとり舌の感覚は異なるので、味わいの違いを語り合うのも楽しい。

 ここまで書いているとどこからか「しゃらくさい」と言う声が聞こえてきたのでこのへんでお開きとします。

  食事
スブラキ   2.00ユーロ 6/05 サントリーニ島 
ムサカ    7.00ユーロ 6/07 サントリーニ島 レストラン「Nicolaus」
ハウスワイン 2.00ユーロ 6/07 サントリーニ島 レストラン「Nicolaus」
魚貝料理   3.00ユーロ 6/13 パレルモ
スパゲッティ 7.00ユーロ 6/16 アルベロベッロ レストラン「Pizzeria 3M」

 スブラキ…魚と肉と両種類あり、どちらも鉄串に刺してグリルしたもの。
 ムサカ…ナスとミートソースとマカロニを重ね焼きしたラザニアのようなもの。メインディッシュとして一般的に人気のあるメニュー。

 最近、下腹部に脂肪が付いてきたのでダイエットを心がけている。朝食前に2時間程散歩。間食は極力控えている。しかし,4時になるとチーズとワインは欠かせない。従って一向に脂肪は減らない。
 いつも長期に海外旅行に行くと、毎日過酷な行動の連続なのでかなり体重が減って帰ってくる。今回もそれを期待して行ったのだが期待ほど効果は無かった。
 朝は大抵ホテルのビュッフェ形式の朝食を食べ、昼は時間が惜しいのでフアストフードで済ます事が多かった。夕方には毎日ワインを一杯飲んだ後の夕食は疲れているせいもあり、あまり量は多くないのでレストランへ行くほどの事はなく酒の肴程度で終わってしまった。
 と、言うことであまりレストランへ行ってその土地の名物料理を食べるという機会はなかなか作れなかった。
 サントリーニ島で食べたスブラキはフアストフード店なので本格的な物ではない。ムサカを食べたレストラン「Nicolaus」(Enithrou Stavrou St)は以前行った時からの馴染みの店なのでその時のボーイさん(と、言ってももうかなりお年を召していたが)も私の事を覚えていてくれた。ここは安くて美味しくてボリュームも満点、住人にも観光客にも人気があるのでお薦めの店である。
 スパゲティミートソースを食べたアルベロベッロのレストラン「Pizzeria 3M」(Via indipendenza 9 )は現地でお土産店を営む日本人女性に教えて貰った。
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  遂にダウン
遂にダウン/写真転載不可・なかむらみちお  30年間カメラや撮影機材を入れて世界を共に歩き回り、苦楽を共にしてきたデイバックが遂にほころびてきた。修理に出したら買った方が安いと言われた。使い捨ての時代なのだなぁとしみじみと思う。
 「後期高齢者」の私も最近は急に筋肉の力が衰えて、知らない世界を重たい荷物一式曳きずって歩くのは辛くなってきた。

    年毎に万有引力きつくなる 岩見沢・森 悠

 それでも駅からホテルとか、ホテルからバス停迄など近いところは絶対タクシーなどは利用しない。旅行で使うのはお金でなく、知恵と行動である。
 旅とは苦しいものだ。辛いことが多い。楽しいことだけでは旅の意味がない。苦難を乗り越えた旅は忘れがたい。苦しみの数だけ感動がある。大金を投じてツアーなんかに乗っていては旅の感激は生まれない。“お金”という“魔法の絨毯”の上に乗っかった楽な旅では本当の旅の感動は得られない。旅はやはり草鞋履きで自分の足で行く“膝栗毛”が一番。
 人はなぜマラソンをし、走るのか、それは苦しみ抜いた後に辿り着いたゴール、完走した後の達成感に人は感動するからだろう。山は自分の足で登ってこそ大きな感度が得られる。苦しみの数だけ(苦労した数だけ)感動がある。
 「厳しくないと美しさは得られない」木村 大作(邦画界を代表するカメラマン)
 「寒さの厳しい北国だからこそ、動物たちの輝きが増すんです」自然写真家 宮本 昌幸
 「桜の花は冬の寒さが厳しいほど美しい」倉島 厚

 「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」上杉鷹山(江戸後期の米沢藩主の歌)

 デイバックやスーツケースなどは使えば痛むし、お金や靴底なども使えば減る。しかし、体と頭は使っても減らない。特に頭は使えば使うほど良くなる。使わないと錆びてしまう。旅行で使うのはお金でなく、知恵と行動である。
 ほころびてもう使えなくなった私のディバックはこれまでの功労をねぎらい、宝物として永遠に飾っておくつもりだ。国ももう少し若い時に社会に貢献した「後期高齢者」を大切にしてもらいたいものだ。使い捨てなどは絶対に許さない。
 私達『後期高齢者』が生まれたのは戦前・戦中の時代だ。私の小学生時代は、戦争の真最中で毎日学校へ行っても「援農」と称して近くの農家へクラス毎に行って農作業の手伝いをしていた。従って教室で勉強を習うのは雨の日しかなかった。「援農」が即ち勉強であった。
 米は配給制で僅かしか当たらない。麦や燕麦で量を増やして空腹を満たしていた。毎日じゃが芋やかぼちゃやとうもろこしを食べれた人は幸せだった。服やゴム靴は抽選で数人しか当たらない。子供時代はつるつるてんの服を着、下駄を履いて過ごした。戦後の混乱期を生き抜き、荒廃した日本の高度経済成長を支えてきた。長年社会に尽くしてきた私達『後期高齢者』を粗末に扱う日本の政治に失望を抱かざるを得ない。
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  言葉は分からなくても…
 スパッカ・ナポリの近くで客待ちしていたタクシーの運転手に向こうを指差して「スパッカ・ナポリ?」と聞いてみた。すると彼は「Spacca Napoli!」と答えてくれた。私もそれに合わせて「スパッカ・ナポリ」と言うと、彼は「違う。Spacca Napoliだ!」と言う。一体どこが違うんだ。同じゃないかと思うが、彼は違うと言う。
 海外では空港とかホテル、お土産屋さんなどでは中学校卒業程度の英語力があれば事足りる。しかし、往々にしてカタカナ英語は通じない事が多い。アマルフィ海岸へ行った時、バスの運転手に「ラヴェッロへ行きたい」と言っても通じず、「Ravello」と書いた紙を見せてようやく分かって貰った。
旅のバイブル/写真転載不可・なかむらみちお  ひとりで海外の旅をしてくるとよく「英語が出来るからでしょう」と言われる。残念ながら中学、高校、大学と学校で英語は習ったが、「英会話」は全くというほどダメ。しかも学校で習った発音は現地では全く通用しない。例えば「水」は「ウオーター」では分かってくれない。ブロークンでも「ワラー」と言うと分かって貰える。ジョン万次郎(1827〜1898)の辞典の方が通りが良いだろう。概して南イタリアはどういうわけか英語が通じにくい。
 「じゃお前はどうしたんだ!」と聞かれると、「ハート」と答える。相手の目を見て英単語と身振り手振りをすれば相手は分かってくれる。下手な英語を使うと逆に誤解の元になる。後は「感」と「機転」である。目は口よりも物を言う。
 言葉は私と相手の意思を通じ合う重要な道具である。しかし、言葉だけでは心は通じない。心が大切だ。やたら格好をつけるのだけは禁物だ。言葉に困ったら日本語で話せばよい。以心伝心、結構通じるものだ。時には聾唖者同士の会話になることもあるが…。
 評論家の森本哲郎さんは次のように言っている。
 「外国語は出来ないほうが外国が良く分かる。人間同志は意志を通じ合おうとしたら、必死に身振り手振りでコミニュケーションを取る。それによって人間としての心情が分かる。なまじっかな外国語を使うと、きわめて表面的なコミニュケーションになる。上辺だけの伝達になる。」と。
 又、「日曜喫茶室」NHK-FM 2008年3月23日(日)放送でドイツ文学者の池内紀さんは「なまじっかチョット言葉が出来ると誤解されて飛んでもない事になるケースが多い。言葉って理解の道具ではあるけれども得てして旅先だと誤解の道具になってしまう。
 外国では片言が一番良い。片言を喋ると相手は一生懸命に聞いてくれる。嗚呼そうかこういう事が言いたいのだな、こういう事を言おうとしているのだなと察してくれる。片言の方が中の繋がりが深くなって分かり合える。言葉とは皮肉なもので、ペラペラ英語を喋るからと言って相手の人がキチッと理解してくれるとは限らない。そこのところが多分に誤解がある」とも語っている。司会のはかま満緒さんは「ひとり旅というのはそこの国の人と直に触れ合うから凄く自分の身に付くものが沢山ある。ひとり旅というのは自分への投資かもしれない」。
 英語は話せるほど便利でよい。しかし、英語が話せないから海外には行けないという人は初めから行く気がないと思う。
 旅行で使うのはお金でなく、知恵と行動である。機転を利かせれば少しぐらい語学力がなくても楽しいひとり旅が出来る。パック旅行などクソクラエ。勇気を持って、さあ! 旅に出よう。リックを背に男の夢とロマンを求めて! そこには素晴らしい出会いが待っている。世界の友との出会いとふれあいの中から、新たな友情が生まれるであろう。
 〈歳を重ねただけで 人は老いない〉と詩人のサムエル・ウルマンは書いた(「青春とは」新井満訳)。人が老いるのは夢を失ったときだ。〈憶病な二十歳がいる 既にして 老人/勇気ある六十歳がいる/青春のまっただなか〉「青春とは若き精神のなかにこそある」(ウルマン)
 幸福なのは、自分のために使える時間をたっぷり持っていることだ。明日はあてにできないのだから、まず今日という日を楽しみつくそう。  陶 淵明

   世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊び我はまされり  良寛

 「月日は百代の過客(かかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり」。歳月を永遠の旅人(過客)にたとえた芭蕉の言葉に誘われて、ふらりと旅に出るのもいい。
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  旅の終りに
 人はなぜ旅に出るのか。旅とは何だろう。旅の形は人それぞれ様々だが、旅には何かがある。男のロマンを掻き立てる何かがある。
 今回の私のヨーロッパひとり旅は、男の夢とロマンを求めた「後期高齢者」の気侭な旅であった。その間、およそ1ヶ月の間にはいろいろの事があつた。酒の席の話題のネタにするのには良いが、ここには書けない事も多々あった。
 永かった今回の旅も過ぎ去ってしまえばアッという間のことのようである。旅行中これと言って特別なトラブルもなく、ほぼ予定通りに行動が出来てようやく帰国の途に就く。何よりも旅行中に体調を崩すこともなく健康を保持出来たことは幸せであり、感謝したい。
 思えば日本を出てからスロヴェニアに入り、自然の偉大さと不思議さ、美しさを実感し、内戦で荒れたドブロヴニクは見事に復活し、内戦の後を感じさせないほど美しく復元された。争いなどどこであったのかと不思議なほどその後を感じさせない。
 3度目のエーゲ海の島々も変わらぬ美しい風景を保っている。以前に比べて多少便利にはなったが、一方、物価の高騰が激しくて戸惑う。ミコノスのヌーデストビーチ、パラダイスビーチは相変わらず…。
 シシリーに渡ってタオルミーナの美しさに目を見張る。アルベロベッロへの交通は大変不便であったが、着いて見た不思議な屋根のトゥルッリの連続はまるでお伽の国にでも舞い込んだような幻想に囚われ、しばし、旅の疲れを忘れる。苦労して到着した所だけに感激はその分大きい。
 ソレントからアマルフィにかけての海岸線は海から立ち上がる絶壁にびっしりと白い建物が張り付く。何の為にどうしてどうやって建てたのだろう。疑問は果てしない。
 それにしてもあんな崖っぷちの建物にどうやって上の道路まで、又、下の海岸まで行き来するのだろう。道路は見当たらない。建物から崖の上と下の海岸に九十九折の階段が付いている。毎日この階段を昇り降りするのか。エレベーターも無さそうだ。電気はともかく水道などは来ているのだろうか。不思議な風景だ。開放的な女性が目に付くアマルフィ。こちらが圧倒される。夕陽に染まるポジターノの白い家並みなどは絵よりも美しく、まるでこの世の風景とは思えない。
 1998年の夏、スイスを旅行した時イタリア北部のコモ湖からロカルノへの帰りに車窓から湖越しに見た美しい夕映えのルガーノの景色を思い出した。
 3度目のカプリ島は天候にも恵まれて楽しかった。それに思いもかけず船で島を一周し、南海岸の美しい風景を見れたのも良かった。
想い出に/写真転載不可・なかむらみちお  どこの国の人も道を尋ねると親切に対応してくれた。人間、どこの国の人も文化や宗教、生活習慣は違っても気持ちは同じだ。だのに何故いがみ合い、戦わなければならないのか。誰しも人を殺したり戦争をしたりする事は好んでいないはずだ。世界のあらゆる人々が平和を願いながら争いのない幸せな生活を願っているはずなのに世界のどこかでいつも紛争が絶えないのは何故だ。国を預かる人々の思惑とか欲望とかがそうさせるのだろうか。
 美しい地球をこれ以上破壊する事なく後世に伝えたいものだ。それが現代に生きるわれわれの義務ではないだろうか。各地を旅してみて強くそう思う。
 今回の旅では、本当に多くの人達に親切にして貰い、大変お世話になった。袖擦り合った人々との出会いは素晴らしかった。お陰様で楽しい旅を続ける事が出来たし、無事帰国することが出来た。この旅で私は、人間は世界中何処へ行っても同じで、親切で良い人達がいっぱいいるという実感を持った。
 言葉も通じない未知の世界を旅して無事帰って来れたのも、やはり、人間同志の善意と信頼に支えられたからだと思う。パック旅行では決して味わえない事である。よわ、ハートとハートとの触れ合いが大切なのではないだろうか。
 旅には、人と人との思わぬ出会いの楽しさがある。今回の旅で得たもの、それは人と人との触れ合いの大切さ、ハートとハートの触れ合いの大切さとありがたさ、を強く教えられたことである。
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  旅とはいったいなんだろう。
つれづれに/写真転載不可・なかむらみちお  最後に評論家・森本哲郎の言葉をご紹介します。
 多くの旅をした挙句に感じ取るのは最悪の旅と最良の旅である。私は快適な旅は一つも覚えていない。苦難を乗り越えた旅は忘れがたい。ひとり旅はすべてを自分で決めて自分でしなければならないが、その半面自由で面白い。
 旅とはいったいなんだろう。現代は、映像だけを見て「行ったような気がする。見たような気がする」時代であるが、それよりも、実際の体験が大切である。自分の五感で、肌で感じ、苦しみもがきながら意思を通じさせたり,途方にくれたり、そのような生身の体の実際の体験こそがいいのだ。
 旅とは苦しいものだ。辛いことが多い。楽しいことだけでは旅の意味がない。芭蕉の「奥の細道」は、芭蕉が楽々と辿って行ったらならばあの作品は生まれなかった。快適さは、旅の敵でないかなと思う。
 日常生活から抜け出して、旅先で自分を見つめるということが旅の大きな目的であり、収穫である。団体旅行はそれを実現させてくれない嫌いがある。そのために、最後は確認に過ぎないだけに終わってしまう。確認をするだけなら案内書だけを見ていれば済むことでわざわざ行くことはないのではないか。
 旅とは「発見」だと思う。本当の旅とは、「自分との違いを発見すること」が一番大きい。

 NHKラジオ第一放送「ラジオ深夜便」 平成14年9月5〜6日放送
 「“文明の旅”への旅」評論家・森本哲郎 (要旨抜粋)
   *「文明の旅」−歴史の光と影−森本哲郎著 新潮選書(昭和42年発行)

 “旅をすれば人間誰でも賢くなる。
   まぁ、中にはそうじゃないやつも居るけどね”  ― フーテンの寅 ―

 永い間お読み戴きましてありがとうございます。今回の旅の記録はここで一応終わります。また折に触れ思い出しましたら書きます。その節はまた宜しくお願い致します。ありがとうございました。
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  (呟き…)
  人はなぜ旅に出るのか。永遠に解けない課題である。
 謎めいた部分があるほうが、人は魅力的。それが自分自身にとってもあれば、飽きることなく長い人生を付き合っていけそうだ。時には自分だって「自分」に驚かせてもらいたい。こんな面もあったかという発見は楽しく、そこから新たな可能性や才能が見えてくることもあるはずだから。
 旅の中で自分を発見する事が出来ることがあるかも知れない。

 「旅」、それは歩くこと、飲むこと、踊ること、そして出会うこと。
 「旅」、それは酒、女、夢。
 ルタ一曰く「洒も女も歌も好かぬような者は一生を愚かに過す」
 「出会い」と「別れ」。旅の型は人それぞれ様々だが、旅には何かがある。旅は出会いと別れのドラマである。

 またいつか見知らぬ街の裏小路を迷い歩いてみたい。
 人生は旅、旅は人生。私の旅に終りはない。又、旅に出る。やがて永遠にひとり旅に出る。

 残る道俺の歩幅で歩きたい 江別・徳田 日出雄

           行く水や
              流れる雲に身を任せ

 私も、思わぬ出会いと男のロマンと何かを求めて、又、旅に出たい。今度はどんな出会いが待っているだろうか楽しみである。

 「いやあ、旅って本当にいいもんですね」。「そうだよ水野(晴郎)君、映画よりもづっといいだろ」。
 “事実は小説よりも奇なり”だよ!!

     -終-


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