★スペイン・ポルトガル、栄光と斜陽(光と影)

前 口 上
「ピレネーからアフリカがはじまる」
イベリヤ半島に旅する人たちは、こんな言葉がぴったりする事に気づくだろう。
険しいピレネー山脈にフランスとの国境を遮られているイベリヤ半島には、
その風土、気候、民族性までもヨーロッパ的ではないような印象を受けずにはおれない。
ヨーロッパであってしかも非ヨーロッパ的要素を多分にとどめているスペイン(エスパーニア)。

“ピレネーを越えるとそこはもうヨーロッパではない”(ナポレオン)と言われたスペイン。
地方によって多彩な文化を垣間見る事ができる。

「情熱の国」「太陽の国」「光と影の国」ー
スペインを形容する言葉は沢山あるが、どれもこの国のひとつの“顔”でしかない。
スペインには地方ごとに異なる文化があるといわれるとおり、多様性にとんだ国である。
近世初頭には、世界最強の海上帝国として
「スペイン人の領土に太陽の没するところはない」といわれたが、
17世紀以降イギリス・オランダ・フランスとの争覇戦に敗北して国運は次第に傾き、
現在は前近代的な社会構成を残した後進国にとどまっている。

 1999年(平成11年)3月3日より4月7日迄スペイン・ポルトガルを旅して来ました。

目  次

スペイン
バルセロナ  モンセラット  ペニスコラ  バレンシア  グラナダ  タベルナス  マラガ  エステポナ  カサレス  ロンダ  セビーリャ  ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ  カディス  コルドバ  カセレス  メリダ  マドリッドT  アランフェス  トレド  コンスエグラ  カンポ・デ・クリプターナ  ベルモンテ
  セゴビア コカ  アビラ マドリッドU

ポルトガル
リスボン  サンタ・クルス  シントラ  ロカ岬  ナザレ  ポルト

ワインの話

         スケジュール
1999年
3月3日(水) 新千歳 14:40-(KL870)17:55 Amstrdam 19:45-(KL1677)21:55 Barcelona
4日(木) Barcelona
5日(金) Barcelona 07:10-(列車)Aere de Montserrat-(列車)Barcelona
6日(土) Barcelona-(列車)Benicalo-Peniscola-(列車)Valencea
7日(日) Valencia
8日(月) Valencia 08:00-(バス)18:00 Granada
9日(火) Granada
10日(水) Granada-(バス)Taberunas-(バス)Granada
11日(木) Granada
12日(金) Granada-(バス)Malaga-(バス)Estepona
13日(土) Estepona
14日(日) Estepona-(タクシー)Casares-(タクシー)Estepona
15日(月) Estepona-(バス)San pedro-(バス)Ronda
16日(火) Ronda
17日(水) Ronda-(バス)Sevilla
18日(木) Sevilla-(バス)Jerez de la Frontera-(バス)Cadiz-(バス)Sevilla
19日(金) Sevilla-(バス)Cordoba-(バス)Sevilla
20日(土) Sevilla 13:35-(バス)21:30 Lisboa
21日(日) Lisboa
22日(月) Lisboa-(バス)Torres vedras-(バス)S.ta Cruz-(バス)Lisboa
23日(火) Lisboa-(列車)Sintra-(バス)Cabo da Roca-(バス・列車)Lisboa
24日(水) Lisboa-(バス)Nazare-(バス)Porto
25日(木) Porto-(バス)Lisboa
26日(金) Lisboa 22:00-(列車)05:00 Caceres
27日(土) Caceres-(列車)Merida-(列車)Cacees
28日(日) Caceres 14:25-(列車)19:20 Madred
29日(月) Madrid
30日(火) Madrid-(バス)Aranjuez-(列車)Toledo-(バス)Madred
31日(水) Madrid-(レンタカー)Consuegra-Campo de Criptana-Mota del cuervo-Belmonte-Madrid
4月1日(木) Madrid-(バス)Segovia
2日(金) Segovia-(バス)Coca-(ヒッチ)Segovia-(バス)Madred
3日(土) Madrid-(列車)Avilla-(列車)Madrid
4日(日) Madrid
5日(月) Madrid
6日(火) Madrid 06:50-(KL1698)09:20 Amsterdam 13:05-(KL869)
7日(水) 06:40 新千歳-札幌

   3月3日(水) 新千歳 14:40-(KL870)17:55 Amstrdam 19:45-(KL1677)21:55 Barcelona
 スキポール空港(アムステルダム国際空港・オランダ)は広くて乗り継ぎにはかなりの距離を歩かなくてはならない。ようやくバルセロナ行きのターミナルに着き、定刻通りに機内の人となったが、なかなか出発しない。到着時には夕陽が眩しかったが、やがて夜ともなると雨が降ってきた。何時まで経っても出発する気配がない。乗客は皆おとなしく待っている。機内アナウンスがあったが、何を言っているのか分からない。早くバルセロナに着かないと空港から街へ行くリムジンバスが無くなってしまう。夜遅くなるとスペインは物騒なので心配になってくる。
 やがて雨も止んだが一向に出発する気配はない。もう2時間も機内に閉じ込められている。バルセロナに到着したらタクシーで街に入るしかないと腹を決める。余り遅くなるとホテルの予約が取り消されていないかと心配だ。
 通路を挟んだ反対側にはそれぞれ乳幼児を抱えた二人の女性が乗り合わせた。それぞれ子供を籠に入れたり、コンビラックを機内に持ち込んでいる。その子供が絶えずむずかる。その度に母親は玩具であやすのだがその声が結構イライラして神経に障る。
 再び機内にアナウンスが入る。私の前に座っている若い男女の客が携帯電話を掛けている。それを見たくだんの母親の一人がその男に携帯電話を貸して欲しいと言っている。男は心良くその女性に携帯電話を貸した。どこの国の人かは分からないが、これがスペイン流なのかも知れない。
 定刻より2時間余り遅れて飛行機はスキポール空港を出発した。遅れた原因が何であったのかは私には分からない。後でバルセロナに着いてからタクシーに相乗りで市内に向うとき、ロンドン回りできたと言う日本人の学生二人が矢張り気流が悪いためにロンドンの出発が遅れたと言っていたのできっとその所為かも知れない。日本なら着陸出来ない場合は出発地に引き返すなどの処置でとりあえず出発するが、どちらが本当に安全なのか考えさせられる。
 飛行機が離陸して未だシートベルト解除のサインが消えないうちに例の乳児連れの女性がスチュワデスを呼ぶサインを出した。何の用かと思ったら上の棚から自分のリックを出してくれと言う事だった。
 間もなく食事が来た。すると例の母親がコンビラックに入れた子供を私の隣の空いた席に置いた。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

   スペイン(Spain)

セニョリータ(バレンシア)/写真転載不可・なかむらみちお 闘牛(マドリッド)/写真転載不可・なかむらみちお

  Barcelona(バルセロナ)
 途中、多少揺れたが予定よりも遅れて22時30分頃無事バルセロナ空港に着いた。雨上りらしく所々に水溜りもあり、滑走路が空港の照明に照らされて光っている。
 空港を出たらすでに12時を回っている。当然リムジンバスはないだろう。でも、一応空港から出てきた空港の人に尋ねたら、バス乗り場はあちらだとBターミナルの方を指すのでとりあえず行ってみた。
 そこのタクシー乗り場にここに住んでいるらしい日本人女性(多分客を迎えに来た現地ガイド)に聞いてみると、矢張りもうバスはないと言う。タクシーしかない。そのタクシーだが私が着いたAターミナルには沢山いたが、ここは皆通過して空車は通らない。タクシー乗り場には50人以上の客の列が出来ている。それならAターミナルの方が早いと思い、再びAターミナルへ向う。
 Aターミナル前のタクシー乗り場では待っている客は少なかった。順調に捌けているらしい。たまたま学生風の日本人が二人待っていたので相乗りを申し込む。心良く承諾してくれた。料金交渉も彼らに任せた。およそ3,000ペセタということなので思ったより高くない。割勘で行く事にして車中の人となる。
 カターニヤ広場近くのホテルに着いた。二人の学生は1,000ペセタで良いと言う。1,000ペセタを払って下車。
 ホテルのフロントには若者と老人がいた。交渉すると部屋は空いていると言う。料金は11,000Pts+税金(1Pts≒0.85円)。少し高いが仕方がない。それでも特別安くしたというので、とりあえずここに決めた。
 このホテルは一ヶ月も早く予約を入れておいたのだが、返事をくれないので大変不安に思っていたところである。しかし、予定よりも高いので念のため「地球の歩き方」を出してみると5,000ペセタになっている。その本をフロントに示すとこれは違うホテルだ。この本のホテル(Hotel Lloret)は1ツ星だが、ここは三ツ星だと言う。良く見るとホテルのスペルの最初の三つは同じだがその後は違う。宿が違う。スペルが似ているが一寸違う。この時ようやくホテルを間違えた事に気が付いた。ホテルの予約簿を調べてくれた。予約も受けていないと言う。私が予約を入れたホテルはここから歩いて5分ほどと言う。このホテルは私が予約を入れたカタローニア広場よりは少し離れた所にある似た名前のホテルだったのだ。タクシーの運転手が私が示したホテル名の頭の方だけを見て勘違いしたのに相違ない。
 フロントマンは「どうする。取り消してもいいよ」と言ってくれたが、もう午前1時前、今さらどうする事も出来ないのでここに泊まることにした。タクシーの相乗りで得したのか損したのか。タクシーの運転手任せにしたのが拙かった。
 深夜1時にホテルを出て近くにワインを買いに行く。ランブラス通りのBarでハーフ一本375Ptsで買って来た。高いのか安いのか。後で分かるだろう。多分あの手の店は安いはずだ。
 私の泊まった五階の部屋はダブルベッドで、風呂も付いていた。バストイレ付き。未だ風呂が必要なわけではないが、少しは旅の疲れが取れるかなと思い、せっかくだからゆったりと湯に浸かり、ワインを空けて寝る。
 ※Bar(バル)…スペインの街ならどこにでもある。酒場と喫茶店とレストラン、ところによってはそれらに加え、食料品店、よろずや、宝くじ屋も兼ねてしまう。いわばスペインのコンビニである。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  3月4日(木)曇り Barcelona(バルセロナ)
 目を覚ましたら未だ外は暗い。時計を見ると寝てから未だ1時間しか経っていない。再びベッドに入る。しかし、目が冴えて眠れない。時差ボケの所為だろう。
 朝フロントへ行くと女性に代わっていた。朝食は別料金と言う。ホテルを出て近くを散歩してみた。そうとう寒い。
 今日は市内を観光する予定だが、先ず、今夜の宿を決めなくてはならない。かねて予定していた日本人経営の安宿が近くにあるのだが、到着日は時間が遅いからと言う理由で断られてしまった。しかも、電話予約しか受けないというので、8時頃になったらそこに電話をしてみる事にする。
 今朝荷物を整理していて気が付いたのだが、日本を出発する前に買ったばかりの曳き手式バックの曳き手の付け根付近が早くも壊れている。これはヤバイ。この先どうなるのだろう。とにかく応急処置をしなければならない。と、言ってもどうして良いのか分からない。ホテルのフロントに相談したら、ボンドを探しにいってくれたが見付からないと言う。9時になったら向いの店に行くと売っているかも知れないと教えてくれた。
 8時過ぎ、ホテルの前の公衆電話ボックスから日本人経営のペンション「Chiquito」に電話する。電話の掛け方が分からないので隣で電話を掛けていた女性が終わるのを待って訊ねることにする。その女性が親切に教えてくれたので無事ペンションと繋がった。
 無愛想な主人が出てきたが、無事2泊の予約が取れた。受話器を掛けると何かカチャンとコインが落ちたような音がした。念のため返却口を改めてみると入れたコインの大半が返却されてきた。いったい料金はいくらなのだろう。
 壊れた鞄の曳き手になるべく力を加えないように鞄の取っ手のところを引いてそろそろとペンションへ向かった。およそ1qちょっとの道を近所の店などに尋ねながら行ったが、なかなか見付からない。
 ようやくそのペンションをビルの一角に見つける事が出来たが三階といいながらエレベーターもない。荷物を持って階段を登りようやく入口に着いた。ドアからは日本人の奥さんが出てきて応対してくれた。料金は2,700ptsという。部屋には未だ入れないので、手続だけをして荷物を預けて街へ出た。
 先ず、地下鉄で聖家族教会へ行く事にする。その前に両替と壊れた鞄を直すためにデパートに接着剤を買いに行く為にカタロニア広場まで歩いた。
 カタロニア広場前にあるBBVと言う大きな銀行に入ろうとしたらガードマンが居て、持ち物全部を検査機に通せと言う。フイルムが入っているからいやだといったが安全だから通せという。それならこのリュックをここに置いて行くから私だけ通せと交渉したがダメだった。かなり粘った末、銀行員の女性を呼んできた。その女性とガードマンがなにやら話した結果、オープンチェックでOKが出た。そこで10万円を両替する。
 向いのデパートの地下に行って文房具売場でボンドを買う。この後地下鉄に乗り、聖家族教会へ向うのだが、先ず切符は自動販売機で買うのだが使い方が分からない。通りかかった女性に聞いて無事切符を買うことが出来た。構内に入ったが、どちら行きの列車に乗ったらよいのか分からない。又、通行人に聞いた。教えられた電車に乗って次の駅に着いたが、事前に調べて置いた駅名とは違う。どうやら逆方向の電車に乗ったらしいと思ってとにかくホームに一旦降りる。そこで又通行人に聞いた。そしたらこれで良いと言う。持っていたJCBから貰った地図を示すと、2番線が書かれていなかった。この地図が古いのだ。このラインは「ニューライン」なのでこれで良いと言う。再び次の電車に乗り込み、無事聖家族教会前に到着。
工事中のサクラダファミリア/写真転載不可・なかむらみちお  外はそうとう寒い。おまけに空っ風が路上のホコリを吹き上げている。来る前にバルセロナとマドリッドは危険と聞いていたのでカメラもボデーからレンズを外して別々にリュックに入れてきたが、あまりそんな雰囲気でもない。どこにでもあるような外国の観光地の感じなのでひと安心。でも、リュックからカメラを出し、撮影した後は又リュックに入れて用心した。
 寒いけど桜の花が咲いているサクラダファミリアとは…(親父ギャグ)。1882年着工、翌1883年からはガウディに引き継がれ、現在に至っている。この教会の建築にすべてをかけたガウディが事故で無くなってからすでに60年以上が過ぎた。建築は引き続き進められているが、観光客が支払う見学料が主なる財源と言う。
 天空に向ってそびえ立つ8本の塔の曲線もさることながら、御誕生の門の前に立ってキリストの降誕を描く彫刻を眺めていると、とてもそれが石で出来たものだとは思えない。まるで生き物のように血が流れ、心臓が脈打ち、今にも飲み込まれそうだ。
 教会内部では未だ工事をしていた。完成しているわけではないのだ。聞いてはいたがこんな長い期間、しかもこの先も見通しのない期間工事を続けるなんて信じられない。


バルセロナ/写真転載不可・なかむらみちお  エレベーターで上に登って見たが、寒いのには参った。途中の通路が狭いのも困った。登る人と下る人の交差がままならず大変だった。途中にいくつもある石の窓からバルセロナの街が見渡せる。天才ガウディ、異才ダリがこの地に生まれ育ち、またあのピカソがここを踏み台にしてパリへと飛躍して行った街の全景を飽きる事なく眺めてみた。
海に向かって立つ<b>コロンブスの塔</b>、上が展望台になっている/写真転載不可・なかむらみちお  地下鉄でCiutadellaまで行き、ランブラス通りの終点にあるコロンブスの塔を写す。高さ50mのてっぺんにはコロンブスの像が立っていて、左手にはアメリカ土産のパイプが握られている。上に登るとバルセロナ港やランブラス通りを見渡せる展望台があるが、あいにく工事中で登る事が出来なかった。又、この付近にコロンブスが乗ってアメリカを発見した時の帆船のレプリカ「サンタ・マリア号」があるはずだが見当たらない。通り掛かったお巡りさんに聞いたところ、だいぶ昔に嵐で壊れて水の中に沈んだとのことであった。折角楽しみにしていたのに残念な事である。
 この後、ランブラス通りを散策する。この通りは街の中心カタルーニャ広場と港の中心コロンブスの塔を結ぶ目抜き通りである。通りの両側には名物の花屋、本屋のほかに、南国から来た珍しい小鳥や小動物を売る店、売店などが軒を並べている。
 少々歩き疲れたので通りの脇に置かれたベンチに腰を掛けて、道行く人を眺めて見る。観光客や家族連れ、大道芸人、老人、学生、失業者、ジプシー、それにスリ、かっぱらい…。まるで人間の標本を見ているようで厭きない。
 そこからノウ・デ・ランブラ通りに入り、グェル邸を見る。この通りは狭いので、全容を見極めるのは難しい。又、この辺りは危険地帯に入るので長居は無用。邸内は現在演劇に関する博物館として使われている。

グェル邸、現在は演劇に関する博物館として使われている/写真転載不可・なかむらみちお バルセロナっ子の胃袋サン・ジュセップ市場、スペインの“食”への情熱に圧倒される/写真転載不可・なかむらみちお  途中でワインを一瓶買い、ランブラス通りの真ん中より少しカタルーニャ広場寄りにある、市内で最も大きな市場サン・ジュセップ市場に寄ってみた。見たこともないような果物や魚介類がいっぱい。スペイン人の食への貧欲さが一目瞭然。ここでバナナと生ハムを買って宿に帰る。
 早速壊れた鞄の修理に取り掛かる。買ってきたボンドの説明書がスペイン語で分からないので宿のおかみさんに読んで貰う。要するにエポシキ系の瞬間接着剤である。接合部を確かめて慎重に接着剤を流し込む。しばらくそのまま押さえている。さて結果は如何に。わくわくする。しばらくしてから手を離してみる。何のことはない接着剤を付けなかった時と全く変らず、パカッと離れてしまった。変ったのは接合面が付けた接着剤で汚れただけであった。こうなれば止む終えない。紐かなにかで縛ってこれ以上壊れたところが悪化しないようにする事を考えなければならないが、生憎紐もガムテープもないし、あっても上手く直せるような構造ではない。このまま日本に帰るまで大事に扱ってゆくしかない。この後、靴下を洗濯したり荷物を纏めた後、買って来た生ハムとチーズでワインを傾けながら明日のモンセラットへの行き方とモンセラットの予備知識を知るために下調べをする。時差の関係もあり、ほどなく眠たくなったので寝た。
 ぐっすり寝て目が覚めた。朝だろうと思ったが未だ寝てから1時間しか経っていなかった。その後も寝付かれずベッドの上でウトウトする。

 3月5日(金)曇ったり晴れたり Barcelona 07:10-(列車)Aere de Montserrat-(列車)Barcelona
 7時に宿を出てスペイン広場までおよそ1.5qほど早朝のバルセロナの街を歩く。寒い。途中でパン屋さんを見つけたのでそこでパンを2個買う。
 スペイン広場に着いてからは1度だけ通りかかった人に聞いただけでモンセラット行きの鉄道のカタルーニャ駅が分かった。
 発車までには未だ間がある。ホームに出て駅の作業員のような人に訊ねると、次に入ってくる列車がモンセラット行だと親切に教えてくれた。構内をぶらぶらしていると又さっきの作業員がモンセラットのパンフレットを持って来てくれた。
 列車は8時36分定刻に発車。綺麗な電車で快適。初めは地下から出発したが、やがて地上に出た。辺りは一面の桃畑で折りしもピンク色の花が咲いていて美しい。
 車窓から外の景色を見るでもなく眺めているとColonia Guellと言う駅名があり、その近くに変った形の教会があった。帰り掛けに寄る予定のコロニア・グエル教会はこの付近にあるのかも知れない。注意して見ているとその次の駅が帰りに寄る予定のSta. Coloma de Ceruello駅であった。帰りにはここで停車する列車を選ばなければならない。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Montserrat(モンセラット)
 Aeri de Montserratで下車、表示に従ってロープウェイの駅へと急ぐ。駅には客も無くガランとしていた。ロープエェイに乗り込むために改札口に行ったら駅員に止められた。待てと言う。
 かなり待ったがなかなか改札されそうにない。時刻表も無く何時出発するのかも分からない。その内2、3人客が来て一緒に待った。寒い。小1時間ほど待ってようやく乗ったが、これが又36人乗りの大変原始的なゴンドラだった。座席はない。出発すると立つ位置が指定された。バランスを取る為らしい。頂上には10分足らずで着いた。駅から階段を登り、更に3〜400m進むと入口があり、修道院へと進む。
モンセラットはカタルーニャの聖地/写真転載不可・なかむらみちお モンセラットとは“のこぎり山”という意味/写真転載不可・なかむらみちお  ここはバルセロナから北西へ5.3q、のどかな田園風景の中に突然ニョキニョキと灰白色の岩山がそびえ立つ。モンセラットとは“のこぎり山”という意味である。ガウディはサグラダ・ファミリア聖堂の形をこのモンセラットの山の形から着想を得たという。
 この山はもともと湖の底の部分だったところが、大昔、大規模な地殻変動があって突然隆起し、現在の姿になったとか。この山の中腹にベネディクト派の修道院がある。この修道院のあるところだけが人工的に平地になっており、今ではホテルやみやげ物店、教会もある。
 この修道院で有名なのが、日本に来たこともあるエスコラニアと呼ばれる少年合唱団である。それともうひとつはラ・モレネータと呼ばれる黒いマリア像である。もともと黒くつくられたものではなく、長い年月の間に祭壇にまつられる蝋燭の火に焙られて黒くなってしまったのだそうだ。ナポレオンが当地に侵略して来た際修道院が破壊され、宝物も盗まれたときでもこのマリア像だけは土地の人の手によって隠され守られたという。いわばカタルーニャ地方の守護神ともいえるものである。
 修道院の中に入ると、間もなく12:00からミサが始まろうとしている。実はここの目玉である黒いマリア像を撮るのが目的だったのだがこの雰囲気ではカメラを構えられない。ミサの終わるのを待つ事にする。その間、ミサをまだ1度も本式に見ていないので、この機会にじっくりと見ておこう。
黒いマリア像/写真転載不可・なかむらみちお  ミサは厳かに進行しているが、クリスチャンでない私には少々苦痛だ。それでも1時間ほどのミサの間なんとかクリスチャンに紛れてミサを全部見させて戴いた。ミサの終了後に黒いマリア像を撮った後修道院を後にする。この後1時から少年合唱団の美しい歌声が聴けるのでそれを聞いてから帰る事にする。
 ともあれ、その前に腹ごしらえにとレストランに向った。途中、お土産屋に寄ったり、写真を撮ったりしていた為21時45分頃レストランに入った。
 レストランではセルフサービスながらこのところしばらく野菜などを食べていなかったのでサラダなど少々多めに買ってしまった。
 食べてから大急ぎで再び修道院へ向ったが、修道院の前に行くとぞろぞろと観光客が帰って来た。これは少年合唱団の合唱が終わったのかな。実は少し遅れても未だやっているだろうとたかをくくっていたのがいけなかった。まだ15分も過ぎていないというのにどうやら終わってしまったらしい。残念。
 Aeri de Montserratの駅へ行ったが今から1時間も待たなければ列車が来ない。ようやく来た列車に乗って途中で乗り換えた後、無人駅のSta. Coloma de Cervello駅で下車、コロニア・グエル教会へと向う。
ガウディの代表作、コロニア・グエル教会/写真転載不可・なかむらみちお  右手に続くプラタナスの並木道を登って行くと古城が見える。名前もいわれも分からないが、なかなか風格があって気に入ったので2、3枚写真を撮る。スペインでは各地で今では忘れ去られたこのような名もない古城を散見する事ができる。そこから左手に曲がり、そのまま真っ直ぐ松林の中の道を抜けると前方にグエル教会が見えた。
 この教会はガウディ建築の原点ともいわれている地下聖堂である。すでに日本人の女の子二人が入口近くで4時からの開館を待っていた。私は建物の内部にはあまり興味が無かったので外観だけを撮影して帰って来た。
 カタルーニャ駅から宿に帰る途中、朝行く時にパンを買った店で又パンを買い、途中のスーパーでチーズやオレンジを買って宿に着く。

  3月6日(土)晴れ Barcelona-(列車)Benicalo-(バス)Peniscola-(バス)Benicalo-(列車)Valencea
カタルーニャ  バロセロナのサンツ駅8時発の列車に乗るために宿を7時に出る。宿の前でタクシーを拾ってサンツ駅へと向う。今日はサンツ駅からベニカルロまで行き、そこからバスでペニスコラに行き、更にそこからバレンシアに行く予定である。ベニカルロの駅はがらんとしていて駅前には店が一軒もない。タクシーも見当たらない。駅に戻って荷物を預けるロッカーを探したがこれも見当たらないので大変困ってしまった。ペニスコラに行くには駅から街の中心まで20分ほど歩かないとバス停がない。只一人しかいない駅員さんにお願いしてなんとか荷物を預かって貰った。
 行き交う人も少なく、数少ない通行人をようやく捕まえてなんとかバス停に辿り着く。しばらく待った後ようやく来たバスに乗りペニスコラへと向う。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Peniscola(ペニスコラ)
ペニスコラ城/写真転載不可・なかむらみちお  ペニスコラが近付くとバスの車窓からは30年前に見た映画「エル・シド」のラストシーンに出てきた風景が見えてきた。この映画の最後の戦いの場面はこの城塞都市を背景にして撮影された。ジユリアス・シーザーの侵入を受けたことのあるこの城塞は、現在ではヨーロッパでも最も古代城塞の面影を偲ばせるものかもしれない。

 ※中世の英雄エル・シド(El Cid)…本名をロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(1043〜99年)といい、ブルゴス近郊のビバール市で生まれた。カスティーリャ王サンチョ2世の臣下として頭角を現すが、サンチョに続くアルフォンソ6世にうとまれ、カスティーリャを追放される。にも拘らず、生涯同王に忠誠を誓い、各地で回教徒と戦い、数々の戦果を残した。ついにはバレンシアの領主となるが、その功績が認められ、再びブルゴスの地にその名をとどろかせたのは彼の死後であった。(「地球の歩き方」より)。

城から町を見下ろす/写真転載不可・なかむらみちお  終点の前の停留所でバスを降りて先ず城を撮影する。あたかも江ノ島のように見える陸地と結んでいるのは僅かな狭い砂州だけである。地中海に突き出た海抜35mの岩の上に町が出来、周りを海に囲まれたその特異な立地条件のため、風光明媚な土地として多くの人々をひきつけている。その先端に城がある。
 城門をくぐって細い路地に入り、城に続く坂道を登って行く。この城はヨーロッパでも最も古代城塞の面影を偲ばせる城である。城の上に登ってみるとどこまでも青空が続き、燦燦と降り注ぐ南国の太陽の下、目の前には地中海が果てしなく拡がっていた。そこで城を舐めて先ほど来た海岸に向って何枚か撮影する。城の中を一通り見てから外に出ると、城の出口近くにある教会で丁度結婚式が行なわれていた。
ウエディングベルも高らかに/写真転載不可・なかむらみちお  これまでヨーロッパを旅して葬式にはなんどか出会ったが結婚式は始めてなので嬉しくなってしまう。かねてから願っていた事でもあり、天気も良く教会の形といいシチュエーションも良いのでこれを逃す事はないとしばらく花嫁花婿さんが出てくるのを待つ事にした。
 教会の前ではブラスバンドの連中が向いのバルでワインやコーヒーを飲んで待ち時間を潰していた。今日のバレンシアの宿は未だ決っていないので先を急ぎたいのだが私もそのバルに入り、アップルパイと牛乳を飲んで新カップルの出て来るのを待った。
 1時間余り待ってようやく新カップルが教会から出て来た。天気も良く、ご機嫌な写真が撮れた。その後別の角度から城を狙ったが、あいにく雲が出てきたので上手く撮れなかった。
 バス停前のケーキ屋さんでパンを2個買い、バスでベニカルロの駅に向った。駅に着くとバレンシア行きの列車まで時間があったので待合室でワインを抜いて一人でパーテーと洒落込んだ。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Valencea(バレンシア)
 バレンシアの街は大きな街だった。ここは「火祭り」で有名である。その火祭りの日が近付いている。600もの人形に飾られ、世界中から人々が集る。スペイン第3の都市にふさわしい活気にあふれている。
 先ず、荷物を駅のロッカーに入れた後、目指すホステルに宿探しに向かったが、2軒は満員で断られ、3軒目でようやくツインの部屋に泊まる事が出来た。フロントの話では部屋はセントラルヒーテングだという。明日、シングルが空いたら部屋を換えるとのことであった。
 駅のロッカーから荷物を出して部屋に帰り、シャワーを浴びた後ワインで一杯やった後寝る。フロントの兄ちゃんが午前2時に市役所広場で火まつり関連の催しがあるという事なので夜中に起き出して行って見たが、それらしい雰囲気はなかった。明日の昼の取り違いなのかも知れない。

 3月7日(日)晴れ Valencia
 明朝バレンシアからグラナダに入るために先ずバスの予約と下見のために市役所広場から8番のバスに乗ってバスターミナルへ行く。
セラーノス門/写真転載不可・なかむらみちお  バスターミナルで明朝のグラナダ行きのバスの予約をした後、中心部までおよそ30分くらい朝の街を歩いた。オレンジがたわわに実っている。途中、セラーノスの門を撮影、その門をくぐってほの暗い路地を通ってカテドラルに向う。丁度カテドラルの開く7時半になったので入場券を買って中に入ることにする。
 実はカテドラルはどうでもよかったのだが、見晴らしの良い高さ70m、八角形のミゲレテの塔に登るにはカテドラルに入らなければ登れないので大枚500Ptsを投入して入場券を買った。
 入場券を買うとき、切符売り場の女性となかなか話が通じないので、丁度来合わせた日本の団体客の添乗員に聞いてもらってなんとか一件落着。その切符売り子が何かメモを持たせてくれた。それを入場入口で渡すと案内人がミゲレテの塔に登る登り口に案内してくれた。そこで又200Pts払って塔に登るとバレンシアの街が一望に見渡す事が出来た。
バレンシア/写真転載不可・なかむらみちお  塔の上には私よりも先に二人の男がいた。その中の一人が近付いて来てなにかと話し掛けてくる。私はなるべく彼らから離れるように反対側へ移動する。それでも近付いてくる。そして「私は警察官だから心配ない」と言って身分証明書のような物を見せる。怪しい。信用できない。この二人の他に人はいない。万が一の場合に助けを求める事も出来ない。危ない。彼は最後にこの塔が写っている絵葉書をくれた。彼から貰ういわれはない。何者なのか、何の目的なのか分からない。君子危うきに近寄らず。私はすぐその場を離れた。
 塔を降りてから折角だからカテドラルの中を一通り見た。宝物館にはイエス・キリストが最後の晩餐に使ったという聖杯が飾られているが、このメノウで出来た器は考古学的にはローマ時代の物らしい。
 カテドラルを出るとカテドラルの横の通路や広場には露店が並び凄い通行人で溢れている。今日は日曜日だし、有名な火祭りの前哨戦のような雰囲気があるのだろう。
正装したセニョリータ/写真転載不可・なかむらみちお  今日は宿でシングルの部屋が空いたら移してくれるということなので一旦宿に帰る事にした。カテドラルから宿に帰るつもりが、市役所広場に出てしまった。市役所広場では何か行事が行なわれているらしく、拡声器のアナウンスが聞こえてきた。行って見ると美しいレースの民族衣装をまとった女性が30人ほど並んでおり、その前で手の拳骨でボールを叩くテニスのようなゲームを若い男達がやっていた。
 宿に帰るとシングルの部屋に移してくれた。その後再び昼食に出ることにした。「地球の歩き方」に本場のパエリャが味わえるという店「El Generalife」が載っていたので宿の女の人に訊ねたら、カテドラルの近くだという。2時には市役所広場で何かあるらしいのでそれ迄に行ってみる事にした。昨日ホテルの青年から朝の2時に市役所広場で何かが始まると聞いたのは昼間の2時の聞き間違いだったのだろう。
 店に入ると比較的空いている。早速パエリャを注文すると1時半まで待てと言う。それまでワインとチーズで時間を潰す事にした。この時のチーズはワインに良く合って美味かった。
 1時半になってもパエリャは出てこない。2時までに市役所広場に行きたいのだが食べていると遅くなりそうだ。催促すると二階へ行けと言う。二階では食事が始まっていた。要するに1時半から食事の時間というわけらしい。これから注文していたのではとても二時の市役所広場には間に合わない。残念ながら諦め、店を出て市役所広場へと向う。
 広場に近付くと大勢の人だかりでさすが広い通りも通る事が出来ない。少し遠回りして廻り込んでみたが広場に入る200mほど手前から立すいの余地も無い人だかりで入ることが出来ない。広場に通じる放射状のどの通りも同じだ。やむなくその場に立ちつくす。
 2時丁度、広場からものすごい音で花火が打ち上げられた。その音がビルの間にこだまして耳が痛くなる。まるで空爆にでも遭ったかのように連続して大きな音が鳴り響く。その合間に広場からはスピーカーを通じて音楽が聞こえてくる。広場ではダンスパーテーが繰り広げられているらしい。空も張り裂けんばかりの迫力の炸裂音。
 祭りの一週間、バレンシアは華やかさをいっそう増し、人々は3月19日の最終日に向かって、その興奮を徐々に高めていく。3月20日午前0時のクライマックス。すべての人形は炎の中に包まれ、次の日はなにも残らない。それがバレンシアである。バレンシアの火祭りは世界的に有名だが、他の町にもあるようだ。
 スペインの作曲家ファリアが作曲した有名なバレー音楽「恋は魔術師」の中に『火祭りの踊り』というのがあるが、これはグラナダなどのアンダルシア地方が舞台なので、さしづめ関係はいようだが、スペイン人の気質のようなものを感じさせる。
陽気なスペインの祭/写真転載不可・なかむらみちお  強烈な炸裂音は10〜15分程も続いた後にようやく収まった。すると集まっていた人々がぞろぞろと帰り始めた。どうやらこの何万人もの人々は只これだけを見るために集って来たらしい。日本では考えられない事なので驚いてしまった。
 この後、15世紀に建てられたゴシック様式の交易所ラ・ロンハを見に行ったが日曜日のため1時半で終わっていた。外から見るだけでも門や窓の彫刻が興味深い。
 再びパエリャを食べに向ったが、今度は店が満員で諦めざるを得なかった。近くの路地に入り、一軒の店でパエリャを食べたが、米の炊き方が日本とは違うのでまるでめっこ飯みたいで余り美味しいものとは思えなかった。
 帰りにワインを買うべく店を探したが、今日は日曜日なのでバルしか開いていなく、バルでオレンジと塩ニシンのオイル漬けを買って宿に帰って来た。

  3月8日(月)晴れ Valencia 08:00-(バス)18:00 Granada
カタルーニャ  朝6時半に宿を出る。辺りは未だ真っ暗である。市役所前広場のバス停で30分以上も待ってようやくバスに乗れた。バスターミナルから8時発のグラナダ行きのバスに乗る。
 途中いくつかの町に寄り、昼食休憩も入れて夕方近くにバスの窓から前方に真っ白な雪におおわれた山脈が見えてきた。きっとあれがシエラ・ネバタ山脈なのであろう。ようやくグラナダが近付いて来たことを実感する。
 雪山といえば昭和47年(1972年)に札幌で開催された第11回札幌冬季オリンピック大会最終日の男子回転競技で金メダルを獲得したスペインのフランシスコ・フェルナンデス・オチョア選手のことが思い出される。
 スペインは南国で暑いイメージがあるのでスキーとは結びつかなかった。それがいきなり1位を取ったのだから驚きであった。
 当日(2/13)の北海道新聞夕刊一面には彼が滑っている写真と共に「伏兵オチョア(スペイン)優勝」と見出しが躍る。そして『スペインに冬季大会初のメダルをもたらした』とある。記録は1分49秒27であった。彼は“ピレーネの回転男”と言われていたとの事。
 グラナダからわずか30qの処にはワールドカップも開催されたソリニエべ(“太陽と雪”の意味)という立派なスキー場もある。晴天と良質の雪が売り物のこのスキー場は、ヨーロッパで最も南にあることで知られている。
 途中の峠越えでは未だ雪を戴いた残雪の山の近くまでバスが登って走る。夜6時にグラナダのバスターミナルに着いた。そこから又バスに乗り換えて市内に向う。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Granada(グラナダ)
グラナダ/写真転載不可・なかむらみちお  アラブ・スペイン最後の王都グラナダ。この名には、哀傷とロマソの匂いがする。イスラム・スペイン最後の王国ナスル朝の王都である。
 われわれがスペインと聞いて思い浮かべるもの、「闘牛」「フラメンコ」「白壁の家」「情熱の女」…。これらのイメージが現実のものとなって目の前に迫ってくるところ、それがアンダルシア地方である。
 グラナダはローマ時代に栄え、7世紀から始まるイスムラム教徒の流入の後は、1492年のキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)の完了に到るまで、イスラム教徒によるイベリア支配の拠点として、長く繁栄を誇った古都である。

 ※レコンキスタ…711年イスラム教を奉ずるアラブ人がジブラルタルから侵入して半島を征服した。レコンキスタ(国土回復運動)はキリスト教徒がイベリア半島からイスラム勢力を駆逐するために行なった運動。771年に始まり、1492年グラナダ陥落で完了。この運動の過程で、ポルトガル・スペイン両王国が成立。(広辞苑より)

 目指すゴメレス坂のホステルに着いたが、満員で断られた。仕方がないのでそこに荷物を一時預かってもらって付近を10軒近く探し回ったがどこも満員で断られてしまった。坂の一番奥に残された最後の一軒のホステルに行くと歌手の桜田淳子に似た可愛い娘さんが笑顔で“オラー!”と明るく迎えてくれた。普通スペイン語の「こんにちは」は“ブエノスディアス”か“ブエノスタルデス”と言うのだが、親しいもの同士の間では“オラー!(やぁ!)”と最も簡単な挨拶言葉が交わされる。スペイン滞在中は知らない人同士でもほとんどの人がこれで済ませていた。すぐにOKが出てひと安心。そこに決めて再び先ほどのホステルに行き荷物を受け取ってくる。
 宿を出てヌエバ広場から少し入ったところでワインを2本買い、プエルタ・レアルの郵便局で切手を買う。その足でCarrera All Genilのデパートで食料品を買い込んで宿に帰る。

  3月9日(火) Granada
 今日はアルハンブラ宮殿を見に行く事にする。込み合うので朝一番が最適というので8時までに行く事にする。
グラナダスの門/写真転載不可・なかむらみちお  宿を7時半頃に出てゴメレス坂を登る。グラナダスの門は宿を出てすぐだ。門の上には三つのザクロ(スペイン語でGranada)が刻まれている。入って間もなく裁きの門が在ったので中に入ってみる。
 難なくアルヒーベス広場に入り、カルロス5世宮殿にも入れた。しかし、切符を持っていないとどこかの関門で引っかかるに違いない。このまま入り込むのは危険である。
 再び裁きの門を出て切符売り場に向う。着いてみると数人の客しかいない。拍子抜けである。一先ず切符を買って開場を待つ事にする。
 スペイン最南部に位置するアンダルシアの地理的条件は昔から北アフリカとの関係を密接にしてきたが、なかでも8世紀初頭から約800年の間続いたアラブ勢力による支配は、この地方に多大な文化的影響を与えた。それゆえに、グラナダにある壮大なアルハンブラ宮殿を初めとし、アンダルシアを旅してまわることは、ヨーロッパ大陸にいながらにして、アラブ文化の遺産にふれることになる。
 9時開場。道順に従って中に進む。するとさっき入ったカルロス5世宮殿の前に出た。しかし入口でやはりチェックがあった。JTBの団体さんがぞろぞろと歩いている。
ハーレムだったライオンの中庭/写真転載不可・なかむらみちお  私の目的はライオンの中庭とヘネラリフェである。なるべく客の少ない時に写したいので先を急ぐ。しかし、着いてみるとすでに団体さんなどで客は多い。団体さんは個人客よりも一足先に特別に入れてもらえるらしい。しかし、それはそれなりに人が入ってもよいから写して置こう。
 四囲にはムハンマド5世時代の124本の大理石柱からなるアーケードがめぐらされ、中央に12頭のライオンに支えられた噴水がある。ここはまさにハーレム。王以外の男性は立ち入り禁止で、二階の部屋には王の后たちが住んでいた。
 ライオンの中庭では噴水に陽が当たっていない。もう少し待てば当たりそうだ。ここはアルハンブラ宮殿の中心ともいうべきところで、庭の中央に十二頭の獅子の彫刻が、噴水盤を背負って並んでいる。アベンセラッヘ家とセグリエ家の悲劇的な対立が展開された伝説の場所でもある。ほとばしる噴水を見詰めていると、数時間もの死闘を繰り広げた騎士たちの姿が脳裡をかすめた。
 ようやく太陽の光が当たってきたので写し始めたが、最初のポジションは人通りが多く、なかなか人を手前に入れないで写すことは難しかった。この後噴水の反対側に周ると比較的人通りも少なく、なんとか写す事が出来た。
水音が清々しいフネラリフェ/写真転載不可・なかむらみちお  更に進んでバルタルの庭を経てヘネラリフェへと進む。その途中の庭園でJTBの団体さんと一緒になり、言葉を交わした。中には札幌から来たという高齢のご夫婦もいた。
 ヘネラリフェ(離宮)は素晴らしい。ここは王の夏期の別荘。13世紀より建設され、花々とシエラ・ネバダから引いたという雪解け水が豊かに流れ、その水の饗宴がアラベスク模様に包まれて実に美しい。糸杉の散歩道、夾竹桃の散歩道は、照りつける光に影を与え、ふんだんに使われる水音が、トレモロの技法を巧みに用いたスペイン的旋律をうたいあげたタレガの「アルハンブラの思い出」のギターの音色で過ぎた日々のささやきを伝える。私は映画「禁じられた遊び」で有名なイエペスの演奏する「イエペス/珠玉のギター小品集」と題するレコード(グラモフォンMG-2323)に集録されている演奏が好きだ。
アラブの栄華を今に伝えるアルハンブラ宮殿/写真転載不可・なかむらみちお  この後アルカサバを見た。この建物に登ると丁度陽の周りが良く、最後に来て良かった。ここは城塞らしい雰囲気で見応えがある。写真も良く撮れた。特にベラの塔からのアングルが物になりそうだ。
 この塔からの眺望は圧巻である。背景のシエラ・ネバダの峰々と、グラナダ市をとりまく沃野のパノラマに思わず溜息を漏らす。リバーサルフイルムの他、未だ使った事のないコニカラーネガのフイルムで撮ってみたが、どんな色に仕上がるのか楽しみだ。
 一旦宿に帰り、改めてヌエバ広場からElvira通りに入ってレストランで昼食を摂る。昼食の後、アルバイシンのサン・ニコラス広場に向った。登りがきつかったがそれよりも迷路のような道でなかなかサン・ニコラス広場が見付からない。通り掛かった人に訊ねてようやく到着。この直前あたりから曇ってきて写真を写すのには少々具合が悪い。それでも一応何枚か写す。この後、夕陽を狙って見たが雲が晴れそうもない。4時から6時半まで待ったが望み薄し。寒くてしょうがない。遂に諦めて下山。Carrera del Genilのデパートに行って食料品を買って宿に帰る。
 少々歩き過ぎたのか右足の裏が痛い。水脹れが出来ている。歩数計を見ると27,768歩を指していた。

   3月10日(水)晴れ  Granada-(バス)Taberunas-(バス)Granada
 7時に宿を出てアルメリア(Almeria)へ向う。今日はタベルナスにあるウエスタン村、ミニ・ハリウッドに行く。ここは「地球の歩き方」にもどのガイドブックにも載っていない。確かテレビで一度見たような記憶があるだけだ。日本にあるスペイン政府観光局や、マドリッド在住の日本人旅行業者などに尋ねて見たが、存在することは確からしいが詳しい事は分からない。ここは私の記憶によれば確かマカロニウエスタン映画を撮ったところである。
 私は少年時代、家庭の事情で旧制中学校を中退して当時の電信電話公社札幌職員訓練所に入った。その後、働きながら定時制高校を卒業。当時の“夢の殿堂”である映画界に入るべく、夜勤をしながら同級生より三年遅れて東京の大学に入り、撮影技術を学んだ。それが私の青春時代の夢であった。しかし、働いた給料は全て学費と寮代に費やし、いつも貧乏であった。金はない、恋人もいない。空しいモンモンとした青春時代の最大の慰めは映画だった。カサカサと乾いたそんな心を抱いて休日には入場料が安い池袋の人生座などで古い名画を見た。
 そんな中で決して年間ベストテンには入らないB級映画として悪名高き“マカロニウエスタン”映画が乾いた心を癒し、スッキリさせてくれた。ハリウッドの専売特許だった西部劇はガンマンが老朽化したり、フロンティア・スピリットに異議が唱えられ、西部劇は死んだ。そのすきにスペインロケで西部劇が作られはじめた。
 「フラリと街に現われた腕自慢の用心棒ガンマン達は、善玉悪玉を問わず、復習、拷問、みな殺しが三度のマカロニよりも大好き、すぐトサカにきて情け無用のガンプレイ、額や腹にあいた風穴からは、男の血潮ならぬトマトケチャップがドクドクと流れ出す。マカロニだから中身はからっぽ、一過性の刺激を重視した。(「外国映画ベスト200」角川文庫より)
 「続・荒野の用心棒(DJANGO)」66年、伊・スペイン合作、セルジオ・コルブッチ監督、フランコ・ネロ主演、他にロレダーナ・ヌシアク。「外国映画ベストテン200」(角川文庫)によれば只ひとつ95位に入っているのがこの映画である。しかし、フアン投票ではイーストウッドの「荒野の用心棒」が19票、「夕陽のガンマン」が14票でこの映画はわずか4票であった。
 夕陽を浴びてさすらいの用心棒が帰って来た。西部劇映画の異端児「マカロニウエスタン」とは淀川長治と深沢哲也が名付けた。そんな映画のロケ地を見たくて地図上でTaberunasを探し当て、「ミニ・ハリウッド(リトル・ハリウッド、ウエスタン村)」へ向かった。わが青春時代のほろ苦き古傷を癒すかのように…。

 グラナダ8時半発のバスはアルメリアへの直行便である。一昨日、バレンシアから来た時見た未完成の高速道路の横を走る旧道を通ってバスはアルメリアへと進む。アルメリアが近付くと確かにマカロニウエスタン映画に出て来たような赤茶けた荒涼とした風景が展開されてきた。
 アルメリアのバスターミナルから又バスを乗り換えてタベルナスへと向う。このバスは全くの田舎のバスで、この近くの住民の足らしく顔見知り同士の乗客の会話が弾む。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Taberunas(タベルナス)
ミニ・ハリウッドのゲート/写真転載不可・なかむらみちお  やがて「ミニ・ハリウッド」の看板がデカデカと掲げられている前にバスが立ち寄った。ここが目指すマカロニウエスタンの“ふるさと”だ。
 赤茶けた大地。一見してぺんぺん草も生えないような荒地の中にまさしく映画のオープンセットさながらの建物が一塊になって建っていた。西部の街よろしく長い木の棒を鳥居型に組んだ入口を入ると入場券売場があった。1500Ptsと云う。“少々高いんじゃないかい?”
 ゲートを入るといきなりピストルを持った若者が飛び出してきた。荒っぽい歓迎だ。もう始まったらしい。そこから更に進むと西部開拓時代の街並みを模したオープンセットが建っていた。と云っても表だけで中は何もない。
 12時前、女性のアナウンスが入った。そのまま進むと広場に出た。そこは舗装をしていないので折からの一陣のつむじ風で砂塵が舞っていた。まさしく西部劇映画に出てくる西部開拓時代の町である。
実演/写真転載不可・なかむらみちお 広場とロケセット/写真転載不可・なかむらみちお  向こうから馬に乗った6人のならず者が横一列になって広場に進んできた。思わず“かっこいい〜”と心の中で叫んでしまった。
 やがてお決りのお芝居が始まった。お世辞にも上手いとは言えない三文役者の演技が始まった。殴り合い。銀行強盗。ピストルの撃ち合い。こんなお芝居が30分以上続いた。泥臭いが結構楽しめた。
 広場に面した映画博物館には古い物から最近まで使われていた劇場用の映写機が数十台展示されていた。セットの一部である西部劇映画に出てくる酒場を模したレストランに入ったがサンドイッチしかないと云う。サンドイッチと云っても日本のようなふかふかとしたものではなく、コッペパンに何かを挟んだもので固くて不味くて食べられたものではない。しかし、それしかないと言うので仕方なくそれを買って食べる。その店で絵葉書を一枚書いてその場を後にする。セットを利用したお土産店を一通り眺めた後、ここハリウッド前の来た時バスを降りた処で帰りのバスを待つ(バス停のようなものは何一つない)。2時半にバスが来ると云うがなかなか来ない。小1時間近く待ってようやく来たのでひと安心。
 ※ ここでは、「夕陽のガンマン」、「さすらいのガンマン」、「続・夕陽のガンマン」などが撮影された。
 アルメリアのバスセンターに着くと、グラナダ行きのバスは出たばかり、この後7時まで無いと云う。しかし、5時には海岸周りのバスがあるというのでそれに乗る事にした。7時発だとグラナダ着は10時、海岸回りだと9時。少しでも早く着きたい。海岸回りのチケットを買う。来た時よりも150円以上も高い。まぁ仕方ないか。ターミナルビル内のバルでワインとビールを飲んで時を過ごす。海岸線の風景と夕陽が美しい。アルハンブラの夕陽も今日は美しかった事だろう。残念だがまぁ仕方がない。明日に期待しよう。
 グラナダに着いてから再び昨日のデパートに行って歯磨粉とハムを買ってきた。相変わらず足の裏が痛い。見ると赤く腫れ上がっている。

   3月11日(木)曇りのち雨 Granada
 朝からどんよりと曇っている。今日は特に予定はないが、グラナダの市内を未だ良く見ていないので主なものだけでも見ておこうか。
 今さらカテドラルなど見てもクリスチャンでない私には猫に小判、さっぱりその良さが分からない。でも少しでも異国文化と伝統芸術に近付く為にも機会を利用して知識を深める必要がある。余り気乗りはしないがゆっくり見に行ってくるとしよう。カテドラルとスペインをイスラム教徒から奪還したイサベル女帝と夫のフェルナンドの遺体が安置されている王室礼拝堂はスペインに来たからには是非見ておかなければならないだろう。という訳で出かけてみる。
 グラナダをキリスト教徒の手に取り戻し、レコンキスタに終止符を打ったイサベル女帝は、深くグラナダを愛した。彼女はこの地に墓所を定め、1504年9月13日にメディナ・デル・カンポで勅令を発し、エンリケ・エガスの設計、指揮の下、王室礼拝堂の建立に着手した。同年、イサベル女帝は亡くなり、夫のフェルナンドも1516年に完成を見ずに死ぬが、1521年の落成とともに両王の遺骸はここに安置され、今も永い眠りについている。
 カテドラルはグラナダの陥落後、イスラム教寺院跡に1518年より建設が開始された。当初はゴシック様式で基礎工事がすすめられたが、プラテレスコ様式最大の建物となった。この様式は構造的にはゴシックで、装飾にはアラブ的なムデハル様式を用いるなど、折衷的なものであった。その後、ルネサンス風に意匠の統一も進んだ。しかし、塔の部分は未だに未完成である。聖堂内はステンドグラスの光に彩られてとても明るい。
 カテドルは凄く大きく偉大さを感ずるが余り興味はないのは残念である。もう少し勉強しなければ見る価値がないのかも知れない。
 早々に宿に帰り、溜まっていた日記を書き始めた。2時に近くのレストランへ行き、帰って来てからも書き続けた。今日はこの後サクロモンテに行き、ヒターノ(ジプシー)のフラメンコダンスを見に行くつもりである。
 明日は早朝に発ってマラガを見た後エステポナまで行くつもりなので起きれるかどうか心配だ。夜9時に車が迎いに来て夜12時まで掛かるようだ。夕方から雨が降ってきたが8時までには上った。
 フラメンコダンスはマドリッドやセビーリャでも見られるが、グラナダならではのタブラオがサクロモンテの丘の洞窟内にあり、そこで見られる。
アルハンブラ宮殿の夜景/写真転載不可・なかむらみちお  夜9時、マイクロバスが宿まで迎いに来た。客はほとんどが日本人女性だ。先ず、アルバイシンへ向い、サン・ニコラス広場からライトアップされたアルハンブラ宮殿を見た。写真を撮るには少々時間が過ぎて辺りが暗く落ち過ぎてはいるが一応写して置いた。もっとゆっくり撮りたかったのだが、置いて行かれては大変なので、程々で切り上げ、急ぎ一行の後に付いて行く。
 路地から路地へ途中セラミック、アラブ様式に装飾された窓を眺めて歩く。中でもサン・ニコラス広場周辺のカルメンと呼ばれるお屋敷の玄関先などを見てからサクロモンテまで歩き、10時半頃Cuevas Los Tarantosという店に入る。
サクロモンテの丘の洞窟内にあるタブラオ/写真転載不可・なかむらみちお  店の中は洞窟になっており、その一番奥はステージになっている。既にショーは始まっており、先客でほとんど満員状態であった。一番後ろの席に座らせられる。エキゾチックな顔立ちをした若い娘が二人、おばさんとお兄さんの計四人が1時間半にわたって踊りと歌を披露してくれる。踊りの切れ目で飲み物が配られる。私はサングリアを頼んだ。
 インド北西部が発祥の地といわれるヒターノ(ジプシー)の顔立ちは一般的なスペイン人とは違う。彼らは6〜7世紀に移動し、初めてこの地に住み始めた少数民族である。かつては流浪の民として知られていた。スペイン語ではヒターノなどと呼ぶが、自信ではロマなどという。
 フラメンコはこのヒターノに由来するといわれ、もともとアンダルシア地方のジプシーが自分でうたい踊って楽しむものであったが、今日では観光客を初め、世界の舞台の上で楽しまれるものになった。スペイン独特の民俗音楽・民族舞踏である。

 ※スペイン人…スペインはヨーロッパと北アフリカの接合部に当たるため古くから諸民族の移動の陸橋となってきた。そのために各種の文明の洗礼を受け、ラテン系文化を中核とするいわゆる地中海文明に加えて、南部にはイスラム的要素、北部スペインにゲルマン的要素を強く残している。ピレーネ山脈の障壁によって西ヨーロッパと遮断されているというだけでなく、イベリヤ半島の国土的特異性が各地方の文化的、社会的独自性を生み出している。
 @北部スペイン ピレーネ山脈を中心とした最もヨーロッパ的な地方で、今なおイベロ族の人種的、文化的伝統が独特な風習の中に生きているバスク地方、特にバスク人の勤勉な性格は有名であるが、バスク地方は全般に小農が多いため、古くから移民の盛んな地方である。
 ガリシア地方にはケルト人の血が強く残っており、零細な土地を耕してきた素朴な農民が多い。
 A中央高地(メセタ) スペインの中央部を占める地方で、新旧カスチリャに分けられ、レオン地方とともにスペイン国民性の揺籃の地で、現在なお騎士道文化のかおりをとどめ、住民の気質にもそれがうかがえる。
 B地中海沿岸地方  住民には冷静・強靭な性格で知られてアラゴン人、活動的で独立心の強いカタロニア人がある。
 Cアンダルシア 住民は情熱的で、混血が錯綜しているが、アラブ人の特徴をとどめている。
 以上のように、住民の民族差による地方的特色はスペイン社会にみられる大きな特色であるが、現在スペイン人の基体をなすのはイベロ族とケルト族の混在によって形成されたケルト=イベロ人である。人類学的には地中海人種が主で、北西部にアルプス人種、南部にオリエント人種(アラブ人)が混入し、東海岸には北方人種の特徴が認められる。(「日本百科大辞典」小学館より)

ヒターノならではの泥臭さと迫力が伝わってくる/写真転載不可・なかむらみちお  踊りは続く。踊りと歌は20年ほど前、マドリッドで見たのと余り変らないがここのダンスは少々どたばたとして泥臭い。只、場所が洞窟内であるために多少雰囲気が違う。これもまたいいだろう。
 11時半頃一通り踊りが終って皆帰り始めた。なんだこれで終か。3,500Ptsは高いぞと思った。しかし、ガイドは未だ終わっていない。続きがあるというので再び店内に戻る。今度はほとんどわれわれだけなので全員齧り付きの前の席に座る。
 踊り子全員総出演の踊りがあって(と云っても全員で僅か五人)、12時過ぎに終り、再びバスに乗って宿に帰る。
 明日の旅の支度をして、1時頃寝る。明日は6時半には宿を出るので目覚まし時計を掛ける。緊張しているのか4時頃に1度目を覚まし、6時に目覚まし時計に起こされた。

   3月12日(金)晴れ時々曇り Granada-(バス)Malaga-(バス)Estepona
 6時、真っ暗なグラナダの中心街を荷物を曳いてバス停へ向う。全然バスは通らない。始発は何時なんだろう。寒い中立ち尽くしてひたすらバスの来るのを待つ。
 6時半頃バスが来た。バスターミナルには6時50分頃着く。時刻表を見ると7時発のマラガ行きがある。大急ぎで切符を買って発着所へと急ぐ。危機一髪間に合った。
 バスは未だ明けやらぬグラナダの街を背にマラガへと向った。やがて太陽が昇ってきた。朝の日の出が美しい。しばらく走ると今度は朝もやの田舎風景が素晴らしい。写真に撮ったらさぞ良いだろうと思ったが窓も開かない走るバスの中からではどうする事も出来ない。この辺はアルメリア地方とはうって変って美しい沃野の畑や草原が続く。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Malaga(マラガ)
マラガはコスタ・デル・ソルの中心地/写真転載不可・なかむらみちお  2時間ほど走ってバスはマラガのターミナルに着いた。どこか荷物を預ける所はないかとターミナルに入ると警官がいたので訊ねて見た。彼は私の後ろを指差した。今私が入ってきた入口の脇にコインロッカーがあった。使い方が分からないと言ったら彼が親切に教えてくれた。一件落着。
 スペインが生んだ偉大な画家ピカソはここマラガで生まれ、10歳までの幼少期をこの街で過ごした。ここでの生活体験が後に彼の初期の「青の時代」に影響を与えているとか…。
 マラガはその昔、フェニキア人によって築かれ、後にローマやアラブなど幾度か支配者の代わった古い歴史のある街。そして今は、何といってもコスタ・デル・ソルの中心地だ。外国からの飛行機も発着する国際都市となっている。
 ターミナル内のインフォメーションで聞いて街に出る。市内中心部の公園には色とりどりの花や亜熱帯植物が繁り、大通りには観光馬車が往き来している。この南国ムードいっぱいの町には、明るく晴れわたった青空がよく似合う。ひと頃、「マラゲーニャ」という歌が流行ったことがあった。「マラゲーニャ」とは、「マラガの美女(原義は『マラガ地方の女』)」と言う意味とか。
 少し歩いたところからバスに乗ってヒブラルファロ城の下まで行く。そこから又バスで城へ登るのだが、なんとそのバスが11時が始発となっている。2時間も待たなければならない。歩いても良いのだが、「地球の歩き方」によると、この周辺の坂道には引ったくりが出没するので歩いて登るのは危険と書いてあるのでどうしようかと思い悩んでしまう。2時間も待つのは痛いので意を決してカメラをリュックに入れ、両手を空けて登る事にした。敵が現われたら空手の構えで追い払うつもりだ(実は未だ空手を習ったことはない。が、外国人は日本人は皆空手が出来ると信じて恐れているから格好だけでも有効だ)。
 およそ30分ほど急な坂道を登って先ずアルカサバに着くが未だ朝早い所為か犬を散歩させている人ともう一人男の人に出会っただけで事なきを得た。ひと安心。途中の展望台でマラガの町を見下ろした所で写真を撮る。
アルカサバ/写真転載不可・なかむらみちお  アルカサバは11世紀にアラブ人によって築かれた城で、さながらミニ・アルハンブラといったところ。馬蹄型アーチや幾何学紋様が美しい。
 アルカサバのさらに奥には、14世紀の城壁が続く。10時頃城の上に着いてようやく遅い朝食を摂る。持ってきたパンと牛乳とヨーグルトそれにグラナダのデパートで買ったオレンジをマラガの町を見下ろしながら食べた。すると、近くで同じように食事をしていた若者のグループの一人が声を掛けてきた。私が飲んでいる牛乳を見て、自分が飲んでいるのと同じだと指し示す。その後、ヨーグルトを食べだしたらこれも又自分と同じだと見せる。最後にオレンジまで彼と同じだったのには笑ってしまった。ここからの眺めは、マラガの町や港、地中海が一望出来て素晴らしい。
 城を一通り撮り終り、11時20分のバスで下山。城の下からバスターミナルまでのバスに乗り換えてターミナルに着く。
コスタ・デル・ソルはスペイン有数のリゾート地。闘牛場が見える/写真転載不可・なかむらみちお  ターミナルで13時15分発のエステポナ行きのバスを待っていると学生風の日本人が寄って来て自分の乗るバスの発着所はどこだろうと聞いてきた。彼はロンドンから各地を廻って2、3日前にスペインに入ったという。明後日にはフランスへ行くと言う。どうしてそんなに急ぐのかと聞いたら、ユーレルパスを買ったので元を取る為と言う。列車に乗れば元は取れるのかも知れないが、肝心の観光も満足にしない旅なんて何の意味があるのだろうかと考えさせられる。きっと彼は旅の経験が未だ浅いのだろう。
 バスはトレモリーノス、フエンヒローラ、マルベーリャを通ってエステポナへと向う。南スペインのアンダルシア地方が地中海と接するあたり、約300qの海岸線がコスタ・デル・ソルだ。“太陽の海岸”という意味をもつこの地帯は、地中海性気候で1年中温暖。アンダルシア特有の真っ白い壁と、赤い屋根瓦の家々が、澄んだ青空にひときは映える。
 この恵まれた気候のため、ここはヨーロッパ有数のリゾート地ともなっている。スペイン政府もこの地域の観光開発には力を入れていて、バカンスシーズンともなれば、スペイン人よりも外国人のほうが多くなる街もある。バブルの頃日本政府も老後の生活の場として盛んにここに海外移住する事を推奨していた時があった。私も一時期夢を持ったが、やはり一生住むには日本が一番良いと思い諦めた。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Estepona(エステポナ)
 ここは、コスタ・デル・ソルのリゾート地帯でもはずれの方にあるので、明るい開放的なリゾート地のイメージに、素朴な漁港のイメージがうまく溶け合っている。海で泳いでいる人も、バカンス客というよりは地元の家族連れといった感じ。もともと典型的な漁村だったので、新鮮な魚介類が食べられる。
 エステポナに着いてインフォメーションで聞いた宿を探していたら、Barの前に居たその店の主人らしい人に声を掛けられた。宿を探しているのかと言うからそうだと言うと家に泊まれと言う。いくらだと訊ねたら1,500Ptsだと言う。部屋を見せてもらったら窓はないが1,500Ptsにしてはまぁまぁ。安いのが取り得とばかりにそこに決めた。当初お目宛の宿はその向かいである。後で分かったのだが、この宿はインフォメーションで聞いた時2番手に考えていた宿で、インフォメーションの案内では2,500Ptsになっている。
 宿の人にスーパーはどこだと聞いたら5時にならないと開かないというので洗濯をする事にした。着ているものを全部脱いで洗濯を始めたが洗面器には栓がない。靴下を丸めて穴に詰め込んで水を溜める(粘着テープを貼る方法がお薦め)。お湯はシャワーのホースを延ばすと洗面器にとどく。窮すれば通ず。洗濯し終えた物を部屋の中に吊るす。
スーパーで買い集めた食材/写真転載不可・なかむらみちお  スーパーでたまたま居合わせたおじさんに相談してワインを一本買ったが、これが又安い。225Ptsのワインなんて一体飲めるのかいと思ったがこれが又以外と美味かった。スペインのワインは安くて美味しい。
 スーパーでワインなどの食料品を買って宿で明日の天気が良くなるのを祈って酒盛りを始める。現役時代われわれはこれを称して“天気祭り”と言った。酒を飲むのには理由は何でもいいのだ。明日は11時にならないとカサレス行きのバスはない。部屋で飲んでいると隣の部屋から女のうめき声が聞こえてきた。激しく激情する。時折男のうめき声も聞こえてくる。昼間っから大層な事である。
 私がスーパーに行くときにすれ違いに入って来たチョッと美人の女と男たちに違いない。こちらも血が騒ぐ。昨夜は遅く、朝も早かったので少々寝不足である。今夜はひとり膝を抱えて早く寝る事にしよう。

   3月13日(土)曇りのち雨 Estepona
 朝7時に目を覚まして窓の外を見ると曇りだった。これでは青空抜きの白いカサレスの風景は無理だろう。曇り空のアンダルシアなんかイメージじゃない。カサレス行きのバスは11時発だからそれまで様子を見よう。
 先ず、海岸に出て見る事にする。この宿の鍵は部屋の鍵一個だけしか預かっていないが、果たして玄関のドアは開けられるのだろうか心配だ。
 7時半に部屋を出て一階のレストランへ行ってみるともう店は開いていた。そのまま外に出てみる。海岸に行ってみるとそこはリゾート地らしく、良く整備されており、小公園のようになっていた。折から朝日が昇るらしく地中海の水平線が紅色に染まっていた。あまり見る事のない面白い風景なので300oで撮影する。ここから目を右に転ずるともうそこはジブラルタル海峡である。晴れればその先にはアフリカ大陸が見えてくるはずである。朝日が顔を出すのを待ったが雲に隠れて見る事が出来なかった。辺りを散歩していると雨がポツポツと降ってきたので宿に帰る。
 部屋で朝食を済ませる。時間があるのでこれから先の下調べをする。その前に洗濯物を屋上に干す。
 10時頃空を覗いて見るが相変わらずの曇り空。これではカサレスはダメだ。幸いグラナダで一日予定を繰り上げて来たので日程には余裕がある。ここの宿は1,500Ptsと安いので今日一日ここで待機する事にする。それにしてもこの部屋は窓が無いので昼間でも薄暗い。一階のレストランのカウンターに行って部屋を換えてもらう。
 午後になってからここに来て初めて空が晴れて暖かくなっきたので近くを散策してみた。昼の間はセーターとジャンバーを脱いで歩いた。現地の人たちは長ズボンにジャンパー姿だが、アメリカ人らしいお年寄り夫婦の避暑客は半ズボンで歩いている。
 バスターミナルに行って明後日のロンダへの行き方を調べる。窓口の男は「San Pedro」と言うが何の事か分からない。私はスペイン語が分からない。相手は英語が分からない。まるでおしとつんぼの会話である。インフォメーションに行って訊ねるとひとつマラガ寄りの町の事で、ロンダ行きのバスはそこから出ているという事であった。
バルで造った刺身/写真転載不可・なかむらみちお  スーパーへ行って一日間滞在を延長した分の食糧を買い込んで宿に帰る。日本から持ってきた醤油と割箸を持って先ほどロケハンしておいたインフォメーション近くのバルへ行く。ここではカウンターに火が起こしてあり、魚を焼いている。カウンターのガラスケースの中には平目があった。それを刺身に下ろしてくれと言ったが意味が通じないので自分でホークとナイフを借りて切ったがこれが又なかなか切れない。刺身は切り口で味が変る。肴の身がぼろぼろに千切れたがまぁいいだろう。ここは元々漁村なので新鮮な魚介類が豊富な街と聞く。ここを逃しては折角日本から持ってきた醤油に恥をかかせてしまう。
 店の人が不思議そうな顔をしているのを横目にポケットから醤油の入った小瓶を出し、小皿を借りてそれに注ぎ、ビールを片手におもむろに口にする。居合わせたスペイン人が呆気に取られて見ている。久しぶりの日本食(?)は旨かった。瞬く間に半身を食べてしまった。ビール一杯では足りないのでお替りを貰う。店主は言葉が出てこないらしい。魚を生で食べるなどとは考えられないらしい。彼らにしてみれば、魚を生で食べるということは、カナダ・アラスカの先住民イヌイットらがアザラシの肉を生で食べる事に対する私達が抱いている感情と同じものがあるのかも知れない。国民性や民族間の食文化の違いを感ずる。
スペイン人は食べるのが好き/写真転載不可・なかむらみちお  次のBarへ行って今度は海老と貝を焼いてもらった。こちらはワインで賞味する。こちらの店は値段が高かった。飲み屋の梯子は良く聞くが、私の場合はヘンナ梯子である。スペイン人は話好きでいつもうるさい。この店の中でも客と店主、客と客がまるで喧嘩をしているように延々とまくし立てている。別に喧嘩でもないようだ。何を話しいるのだろう。よくもそんなに口角泡を飛ばして議論する事があるもんだ。
 アンダルシア地方の人々は明るく陽気で人懐っこいが、仕事には消極的で暇さえあればおしゃべりにうつつを抜かしている。アンダルシア人の中にはこんな愛すべきスペイン人の姿がある。“忙”という字が良くない。あれは心(りっしんべん)を亡くすといった字だ。「忙しい」ということは、おまえは心を亡くしていると言っていることになる。幸福なのは、自分のために使える時間をたっぷり持っていることであって、あくせく働かないでいられる人が一番幸せな人である。
 グラナダではあれほど大勢の日本人の若者に遇ったのにここでは街を歩いても未だ日本人に一人も会わない。ここは隠れた穴場かも知れない。
 宿に帰る道々雨がポツポツと降ってきた。宿に帰って先ほど屋上に干した洗濯物を取り込む。荷物の整理と下調べをした後、日記を書き始めたら夕方から雨が降り始めた。明日は晴れるだろうか。女の欲情と同じように降るだけ降ったらその後は晴れるだろう。とにかく明日は曇りでもカサレスに行ってみよう。写真にならなくても見るだけでもいいだろう。先の予定があるのでこれ以上は伸ばせない。明日は晴れてくれるのを祈ってまた天気まつり(酒盛り)をする。雨はなおも激しく降り続いている。昨日の女のあえぎよりも激しく…。

   3月14日(日)晴れ Estepona-(タクシー)Casares-(タクシー)Estepona
 今日は“白い村”カサレスに行く予定。昨日行く予定だったが、天気が悪いために見送った。
 朝、窓を開けて見ると三日月が出ていた。晴れだ。シメタ。今日はカサレスへ行ける。しかし、バスは11時まで無い。
 朝、夜明け(7時半)を待って海岸へ行く。日の出を撮るためだ。水平線上に雲があって思うように陽は昇ってくれない。ようやく雲の上に光が射したところで撮影したが良い絵ではない。その後、海岸近くに建ち並ぶホテルやアパート群などを撮ったあと一旦宿に帰って朝食とする。
 10時に宿を出て、海岸をぶらつきながらバスターミナルへ行く。バスターミナルの窓口で切符を買おうとしたら、今日は日曜日だからカサレス行きのバスはないという。なんたることだ。青天の霹靂とはこの事を指すのだろうか。明日なら有ると言うが、先の予定があるからこれ以上ここに滞在するわけにはゆかない。
 意を決してタクシーで行く事にする。片道2,600Ptsのところを往復で4,000Ptsに値切ってタクシーに乗り込む。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Casares(カサレス)
白い村として有名なカサレス/写真転載不可・なかむらみちお  白い村として有名なカサレスはエステポナから車で30分ほど、海岸から内陸に14q入った処に在り、岩山に立つ古城と、その下に連なる家々の白い壁、スペイン瓦葺のレンガ色の屋根という景色で日本で最も良く知られている白い村のひとつである。人口は3,000人あまりという小さな村。晴れた日には地中海はもとよりジブラルタル海峡越しにアフリカをも望むという雄大な風景が見られる。その紀元はローマ時代にさかのぼるという古い歴史を誇る。
 生憎白い村は雲が掛かっていて日陰になっていた。村の全景を眺める街道沿いのバル・レストランLa Terrazaで天気待ちをしたがなかなか雲間から太陽が出ない。運転手とは滞在時間一時間の約束である。そこで待っていても時間が掛かるので取り合えず街の中を写しに行く。
 街の中を一通り撮った後再び村全体を見下ろす先ほどの所へ行くがなかなか陽が射さない。およそ30分くらい待っても太陽が顔を出さないのでそのまま撮影を諦めて帰ることにした。
 エステポナの町に着くと皮肉にもこちらは快晴。宿に撮影機材を置いて昨日見つけて置いたレストランへ行く。レストランに入ると若いウエイトレスがここは英語のレストランだからスペイン語は分からないと言う。なるほどアメリカ人らしい客が多い。ようやく注文を済ませた。メインディッシュはポークである。1,830Ptsと思ったより高かった。折角漁港に来たのだから新鮮な魚介類の料理を食べたかったのだか、ポークとは残念である。
 宿に帰り着くと一階のBarで二人の日本人女性と会い、1時間ほど話し込んだ。その後部屋に入り、明日の旅発ちのための荷物を纏め、6時頃からいつものようにワインで夕食とした。明日は7時半に宿を発ち、San Pedroでバスを乗り換えてロンダへ入る。

   3月15日(月)曇りのち晴れ Estepona-(バス)San pedro-(バス)Ronda
 朝6時起床。7時半出発。8時10分のバスでエステポナからサンペドロへ。サンペドロでバスを乗り換えて九十九折り、ヘアピンカーブの道を走り、峠と言うよりも山脈をひとつ越えて約1時間ほどでロンダへ到着。
 途中、私はスペイン語が分からない。相手は英語が分からない。まるでおしとつんぼの会話を交わしながらなんとかロンダに着いた。栄養には気を配っているのでOK。腹の具合も快調。但し、右足の甲表が赤く腫れ上がって痛いがその内治るだろう。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Ronda(ロンダ)
近代闘牛の発祥地ロンダの闘牛場前に建つ闘牛士フランシスコ・ロメロの像/写真転載不可・なかむらみちお  ロンダの町は、ほとんどのスペインの町と同じように、新市街と旧市街に分かれている。しかし他と違うのは、グアダレビン川が刻んだ深い峡谷によって、それらが隔てられている点だ。ふたつの町をつなぐヌエボ橋の下は、ゆうに100mはある絶壁が切立ち、タホ谷の向こうには、はるか彼方まで原野が続く。
 またロンダは、近代闘牛の発祥地としても知られている。この町に生まれた闘牛士フランシスコ・ロメロが、18世紀に、それまでは馬に乗りながら牛を狙っていたのを、初めてムレータと呼ばれる赤い布と剣だけて牛に挑んだのだ。
 エステポナで雨のため一日足止めを食い、今日、ロンダに着いた。目指す宿へ行ったらHuespedesからHoteleに変わっていて料金もそれなりに高くなっていた。近くのインフォメーションへ行ってロンダのホステルリストを貰ってそれを頼りに宿探しに歩く。およそ1時間ほど探し回って1,500Ptsの宿を見つける事が出来た。実は途中で教えてくれたお巡りさんの教えに従って別なホステルを探していたのだが、それとは別のホステルを見つけ、聞いてみると同じ1,500Ptsだったのでそこに決めてしまった。後で宿を出てみるとひとつ角を曲がったところに初めに探していたホステルが在ったのだが、どうせ同じようなものだろうと思い、手っ取り早いところで決めてしまった。
紙パック入りのワイン、99Pts/写真転載不可・なかむらみちお  近くのスーパーに行って例の如くワインを初め、食料を仕込んだ。ワインが1gの紙パックに入って売っていたのには驚いた。しかも、99Ptsなのだから本当に水より安いという感じである。
 昼食をレストランで食べるつもりで出かける。その前にさっき降りたバスターミナルの位置をもう一度確かめ、明後日セビーリャへ行く時間を確認するためバスターミナルへ行く。そこから再びヌエボ橋の方に行ってみたら、晴れてきた。このチャンスを逃すわけにはゆかず、早速橋の撮影に行った。それにしてもネガのカメラを持ってこなかったのが惜しまれる。
 撮影ポイントはヌエボ橋のおよそ100mほど谷を下ったところ。多少雲が気になるが一応押さえとして撮っておく。だんだん天気が回復してくるようだ。この調子だと宿までネガのカメラを取りに行って来ても良いかもしれない。大急ぎで宿へ帰り、機材を整え、腹が減ったのでパンをかじりながら再びヌエボ橋の下へと急ぐ。
切り立った崖の上にロンダの街はある/写真転載不可・なかむらみちお  橋の下に着くと天気はさっきよりも更に良くなってきたようだ。更に追加して撮影する。雲の具合などを見て5時半頃まで粘って見る。
 この宿は一泊1,500Ptsと安い割には風呂があった。しかも栓が備えられている。こんな安い宿にはバスがあっても栓がないのが普通だ。早速湯を出して見る。とかく安宿では最初湯が出ても途中で水に変わるという事もあるので適当な湯の量になるまで見張ってみる。充分湯に浸かれるのを確認してから湯船に入る。多少小さ目で足まで入れる事は出来ないが、背までたっぷりと湯に浸かれる。日本を出てから初めての風呂だ。すっかりリラックスした。矢張り日本人は風呂が一番だ。これで湯上りに冷えたビールか日本酒でもあれば最高だがさっき買ってきた安ワインで乾杯といこう。
 パックに入った安ワインは果たして飲めるのか。恐る恐る封を切ってみる。中から赤いワインが出て来た。間違いない。味も少々薄味だがまぁまぁだ。値段が値段なのだから期待するほうが虫が良すぎる。スペインではワインが水よりも安いという話はまんざら間違ってはいなかった。さしずめ日本の焼酎というところで、普通家庭で常備酒として飲むワインなのかもしれない。
 荷物をかたずけてから日記を書いて9時半ごろには床に入る。

   3月16日(火)晴れ後曇り Ronda
白い街ロンダ/写真転載不可・なかむらみちお  ロンダは標高が高い高地なので夜間は冷え込んで眠れなかった。夜中に毛布を出して一枚多く掛けて寝たが、それでも寒かった。
 朝6時起床。朝の風景を撮るために7時20分に宿を出る。先ずローマ橋に向う。丁度夜が明けて間もなく太陽が出ようとしているが水平線に雲がある。その外側は晴れている。ここから見るロンダの街は美しい。教会を中心に白い家並みが重なり合い、カサレスよりも美しい風景だ。朝日の出るのを待って撮影する。その後ヌエボ橋の方にも行ってみるがたいした収穫は無かった。宿に帰って朝食とする。
 9時半頃宿を出て再びローマ橋の辺りを撮影、その後、旧市街のサンタ・マリア・ラ・マヨール教会の方にも行って見る。
スペインでも最古のひとつである闘牛場/写真転載不可・なかむらみちお  ヌエボ橋には未だ上流側しか陽が当たっていない。お目宛の下流側は午後になる。そこで上流側の広場へ行き、そこからヌエボ橋を撮った跡、1785年に建てられたスペインでも最古のひとつである闘牛場に入ってみる。白壁がアンダルシアらしい。
 そうこうしている内に12時を過ぎたので広場に面したレストランに行ってランチを食べる。メインディッシュは魚のフライ。その他で1,700Pts以上も取られ、カードが使えないというので現金で払ったが、少々痛かった。
 食事をしているころから先ほどまではあれほど晴れていた空に雲が湧き、空一面の曇り空となってしまったので小1時間ほどそのレストランで時間を潰した。
 2時前、ヌエボ橋の方に行ってみたが、空が冴えない。それでも青空の兆しが見えてきたのでヌエボ橋の下流の谷間に降りて待ってみたが益々天気が悪くなるばかり。4時過ぎに帰りかけると僅かだが雨が降ってきた。
 パラドールの前で少々雨宿りした後、宿に帰って来て例の如くワインで夕食とした。後は明日の出立の準備をし終えた後日記を書き、余った時間はイヤホーンで音楽を聴いて過ごした。この後セビーリャへ行く予定だが、“理髪店”へ行く予定はない。
 セビーリャはアンダルシア県の代表都市として、4月になるとあまりにも有名な春の祭り、フェリアで賑あうという。安宿の一人部屋で日本でラジオ放送を録音してきた「吉永小百合旅物語(スペイン編)」2週間分のMDを聞く。オープニングの一節はもの悲しくノスタルジックだった。

   3月17日(水)快晴 Ronda-(バス)Sevilla
 ロンダ発7時のバスに乗るために5時半起床。6時半に宿を出る。外は未だ真っ暗。5分ほど歩いてバスターミナルに着く。バスターミナルは未だ開いていない。2、3人の客が外で立って扉が開くのを待っている。未だ暗いので薄気味悪い。それに結構寒い。なかなか時間が進まない。その内バスが1台来て立って待っていた人たちが乗って行ってしまった。一人ぼっちベンチに腰を掛けて待つ。
 6時50分バスが来た。セビーリャ行きのバスである。やがてバスは夜も未だ明けやらぬ夜明け前のロンダの町を後にする。客は5〜6人。左の車窓からは霧で湖のように被われた谷が見える。やがてバスはその霧の谷間に迷い込むように滑り降りてゆく。
 時には高速道路に入るが、すぐに田舎道に入り、バスは途中の町々を巡って行く。Algodonolesの町に寄り、Los Cabezas de S Juanにも寄る。この町の街路樹はオレンジの並木道で、バスの窓から手を伸ばせば届きそうだ。こんな街の中にオレンジの実が成っていても盗る者はいないのだろうか。スペインは泥棒天国と聞いているが不思議な光景だ。それとも食べられない品種なのだろうか。日本ならりんご泥棒がとっくに持って行くところだが…。私の子供の頃は父がりんごや梨を作っており、泥棒に悩まされていたのを思い出す。
 Los Palacios付近では雲一つない快晴。はるか彼方まで続く草原に朝日が輝く。その辺一体は畑地でビニールによる野菜の栽培が行なわれている。一面ピンク色に染まった桃の花が美しい。セビーリャが近いのか客が混んできたがDos Hermanos付近で大勢の客が降りた。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Sevilla(セビーリャ)
 9時45分、バスは朝のセビーリャバスターミナルに無事着いた。ホテルが多いのはサンタ・クルス街。特にムリーリョ公園に面した大通りMenendez Pelayoを西に入ったSanta Maria la Blanca通り周辺に安いオスタルが見つかるはずである。
 先ず、グラナダのバスターミナルでマラガ行きのバスを待つ間に知り合った日本人の若い女性に教えて貰った宿を目指すことにする。右手には彼女が親切に宿の名前「Sevilla Archeros」と住所「Archeros 23」、それと電話番号、宿代一泊1,500Ptsよりとメモ書きして手渡してくれた紙片を固く握り締めて向う。そのメモには親切に「カテドラルから徒歩5分、サンタ・クルス街、サンタ・マリア・ラ・ブランカ通りの脇道にあります」とも添え書きがしてあった。
 エステポナの宿の前で二人の日本人女性に貰ったセビーリャの地図を見比べながら宿探しをしていると一発で目的の宿に着いた。
 空室を聞いてみると11時にならないと分からないが多分部屋はあるだろうとのこと。値段は15,500〜1,800Ptsと言う。あまり当てにならない話だが一応そこに予約して更に付近を当たる。その小路の更に奥を2、3軒当たった末、一番奥のペンションで1,500Ptsと言う。部屋を見せてもらったがあまり綺麗とはいえないが1,500Ptsが魅力である。ということでそこに決めたが、3,500Ptsのフラメンコショーの券を買うのが条件と言う。フラメンコショーは一応予定に入っていたのでOKした。
セビーリャの理髪店/写真転載不可・なかむらみちお  部屋はスペイン風のパテオ形式で、中庭に面した部屋だが内部はいたってシンプル。白壁の狭い部屋にベッドと洗面台に水の蛇口がひとつ。お湯の蛇口はない。それにこの時代には珍しく裸電球一個でスイッチも入口にひとつ。ベッドの近くにないのが不便。イスラム圏独特のパテオ形式の宿なので外に面した窓がないために閉鎖的で陰鬱さを増加している。洗面台にはコップも栓もないという徹底ぶりでこれまでの最低。トイレとシャワーは部屋の外で共同。
 荷物を部屋に置いて先ず近くの店でワインを初め、食糧を買い込む。この店もまたシケタ店で品数は少なく、新鮮でない。会計もいい加減。
 コロンブスの町、メリメやビゼーの『カルメン』の町、モーツァルトの『ドン・ファン』の町と、この町ゆかりの事柄をあげればきりがない。そういえばセルバンテスも入牢されていたという。
 早速観光に出かける。先ずカテドラルに行き、続いて「カルメン」が働いていた旧たばこ工場(セビーリャ大学法学部)へと向ったのだが、方向を間違えて大回りしてしまった。元イスラム人の造った街は迷路のようで方向感覚を失う。
セビーリャ大学の法学部/写真転載不可・なかむらみちお  ようやく大学を探し当てて撮影する。若い男女の学生が行き交ったり、芝生に座って談笑しているグループも見られる。この建物は1750年にたばこ工場として建てられ、おなじみビゼーのオペラ『カルメン』の主人公はここで働いていた事になっている。私も芝生に腰を下ろし、自宅でダビングして持ってきたプレートル指揮、パリ国立歌劇場管弦楽団演奏、マリア・カラスの歌(エンジェルCE22-5949〜50)をMDで聴いてみた。因みに、歌劇の序曲中で最も優れていると言われているロッシーニの歌劇『セビリャの理髪師』序曲は若い頃よく聴いた馴染みの曲である。
巨大なカテドラルないには見どころも一杯/写真転載不可・なかむらみちお  再びカテドラルへ行き、セビーリャで最も有名な歴史建造物のヒラルダの塔に登り、セビーリャの街の全景を撮る。街のどこからでも姿を見ることの出来るこの塔はセビーリャの象徴だ。塔の高さは97.5m。12世紀末、イスラム教徒アルモアド族の手によってレコンキスタ(再征服)以前にあったイスラム寺院の跡に建設されたもので、オレンジのパテオを取り囲む馬蹄型アーチにその名残を見る事が出来る。支配者は、自分たちの宗教の優位性を示すために、常に破壊と建築を繰り返した。
 プラテレスコ様式の鐘楼は地震によって破壊された部分を、16世紀に付け加えたものという。下から仰ぎ見れば小さく見える先端も、高さ4m、重さ1288sもあって、風を受けると、このブロンズ製の像が回転するという。ヒラルダ(風見)と呼ばれる由縁である。
ヒラルダの塔の上部/写真転載不可・なかむらみちお  この塔は本当にアラブ的だ。塔に階段はなく、昔は王様が馬で登ったという緩やかなスロープを小さな窓からの薄明かりを頼りに螺旋状に歩いて登って行くのである。塔の上に取り付けられた28の鐘は、今も市民に美しい音色で時を知らせている。
 塔から降りてきてからスペイン最大のカテドラルに入って見るが猫に小判。さっぱり面白くない。このカテドラルは1402年から約1世紀かけてイスラム寺院の跡地に建設された。ローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次いで大きいとのことである。奥行116m、幅76m、幅広い特異な形は、イスラム寺院の名残だという。
コロンブスの墓/写真転載不可・なかむらみちお  内部には、聖霊の降臨を表すステンドグラス、アルフォンソ5世の墓がある王室礼拝堂、15世紀の合唱壇、主礼拝堂の聖書の場面が彫刻された黄金色の木製祭壇など、見どころがいっぱい。袖廊の右側にあるコロンブスの墓は、スペインを構成したレオン、カスティーリャ、ナバーラ、アラゴンの4人の王が柩をかついでいる。またムリーリョ、ゴヤ、スルバランの絵もある。
 観光を終わった後、ポルトガル行きの切符を買うのと、バスターミナルを下見するためにバスターミナルへ行く。リスボン行きの切符を買った。土、日は予定した9時発のバスはないとのことで、13時半発となった。これだとリスボン着は21時半となる。こんな遅い時間に到着するのは不安だが、仕方がない。
 これでセビーリャの観光は終った。後は宿に帰って一杯やり、靴下とパンツの洗濯をする。今日は気温が一気に27℃まで上って暑くて大変だった。Tシャツでも好いくらいだった。
フラメンコ/写真転載不可・なかむらみちお  夜9時前に宿を出てフラメンコショーの店に行く。セビーリャはフラメンコの本場。ロス・ガジョスLos Gallosはアンダルシァで最も著名なタブラオ。一流アーチストが出演。純粋なフラメンコで通好み。セビーリャのホテルではどこでもフラメンコのチケットを扱っているので、3,500Ptsを支払って予約を入れてもらう。
 道は狭く曲りくねっていて不気味だが照明されていたのでなんとか無事辿り着いた。店に行くとすでに客がほぼ満員に入っていた。最後部にテレビカメラが三脚を立てて陣取っていた。聞くとTV朝日の『旅サラダ』の取材だという。5月1日放送というので楽しみだ。
 9時にショーが始まった。なかなか本格的で見応えがある。グラナダのサクロモンテのような観光客相手のいい加減なものとは違う。TV取材チームは5〜6人のスタッフとタレントの浅野ゆう子が来ていたが、2ステージで帰って行った。
 わたしはMDで録音する一方、ネガとポジで数駒ずつ撮影した。私の席が舞台から少し遠くて迫力に乏しいがまぁいいだろう。ショーは11時丁度に終った。
 その夜、カルメンを抱いて寝た夢を見た。

   3月18日(木)快晴 Sevilla-(バス)Jerez de la Frontera-(バス)Cadiz-(バス)Sevilla
 6時起床。8時半のバスでヘレス・デ・ラ・フロンテーラへ向う。ヘレス・デ・ラ・フロンテーラのバスセンターに9時45分に着く。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Jerez de la Frontera(ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ)
ミニチュア瓶/写真転載不可・なかむらみちお  町の名が示すとおり、へレス酒(シェリー酒)の産地。食前酒として世界中で愛飲されているシェリーは、スペイン語でビノ・デ・へレスまたは単にへレスと呼ばれるが、この付近の土地で取れたぶどうを原料にしたものしか名乗る事が出来ない。この町のバルに入ってビノ(ワイン)と注文すれば必ずシェリー酒が出てくるほど、地元に溶け込んでいるという。
 シェリー酒の試飲もできるボデーガ、テイオ・ペペTio Pepeで世界的に有名なゴンサーレス・アンド・ビアスGonzales&Byassを初め、数軒の有名なボデーガがある。その内のボデーガ、テイオ・ペペを訪ねて見る事にする。およそ1qほど歩きゴンサーレス・アンド・ビアスに着く。受付の女性が、見学は11時からと言う。その間待つ。
静寂と影の世界、ブドウ酒は眠る。ロス・レジェス酒蔵:ゴンサーレス、ビアスの宝物/写真転載不可・なかむらみちお  「シェリーには他のワインと違って収穫年度が記されていない。というのは、古いワインと新しいワインをブレンドするという、ソレラSoleraと呼ばれる独特の方法によって醸造されるからだ。3〜4段に積み重ねられた樽の中には、上段に行くに従って新しいシェリーが詰められている。瓶詰めにして出荷するのは一番下の樽からで、年に2〜3回、しかも一回に30%までと決められている。樽の中身が減ると、上の樽から順に新しい酒を足して熟成させていくという仕組みだ。
 もうひとつシェリーが他のワインと違う点は、フロール(花)を咲かせること。普通ワインは樽に貯蔵する際、表面に空気が触れないようにする。しかしシェリーの場合はわざと空気に触れさせ、表面に白いカビ(フロール)を作る」。(「地球の歩き方」)
パフォーマンス/写真転載不可・なかむらみちお  11時見学開始。シェリー酒の製造過程を見学する(500Pts)。アメリカ人やドイツ人のグループが多い。ほとんどが樽の貯蔵庫のようなところである。途中で試飲があり、2種類飲ませてくれたが、あまり好みの味ではない。パフォーマンスとしてワインをグラスに注ぐところを見せてくれた。最後にお決りのショップがあるが高いので買うのは止めた。ミニチュア瓶を記念に一本買った。
 考えてみるとリスボン着は土曜日の夜九時半である。するとタクシーで宿まで行かなければならない。その時ポルトガルのお金が必要である。この時間に着いても果たして両替所があるかどうか疑問である。この際なんとしても今日、明日中にポルトガルのお金を手に入れておかなければならない。
 ボデーガからバスターミナルに行く途中にBVV銀行があったので寄ってみたが交換出来ないと言う。困ってしまった。
 ヘレス・デ・ラ・フロンテーラのバスターミナルからカディスに向う。カディスは「銀の道」の終点であると共に、コロンブスがアメリカ大陸を発見した時船出した港なので見て置きたかった。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Cadiz(カディス)
 紀元前11世紀の昔から港町として栄えたカディスの町は、コロンブスの新大陸発見により、スペイン植民地経営の本部という新たな名称を与えられる。
 地下の礼拝堂にバレー曲「恋は魔術師」を作曲したカディス生まれの作曲家マヌエル・デ・ファリャの墓があるというカテドラルはすぐ分かった。一回りしてみた。どうと言う事はない。その裏は道路を挟んですぐ海であった。
 コロンブスはレコンキスタ完了の年である1492年、グラナダの征服者イサベル女帝の援助を受け、ここからアメリカに向い新大陸を発見した。スペインが世界制覇の夢に燃えて大海原に乗り出していく大航海時代の幕開けであった。
 16世紀前半、コルテスのメキシコ、ピサロのペルー征服は原住民に貢納と強制賦役を課し、特に銀山の開発を進め、この港を通じて大量の銀を旧大陸に流入させてヨーロッパの価額革命を促した。
 このように新航路・新大陸の発見は繁栄の中心の移動を生み、スペインはポルトガルとともに世界商業の王座を占めた。又、この港から無敵艦隊が出撃し、ナポレオン軍の侵入を防ぎスペイン独立の転向点となる反撃が始まった。
 今、この港に来て見てもその面影はなにもない。ただじっとひとり波止場に佇んで遥か港の沖合いに目を転じ、その頃の光景に思いを馳せる。ヨーロッパに流入した銀がこの町を通過していったことは想像も出来ない。現在のカディスの人口は約16万人。アンダルシアの一地方都市に過ぎない。
 バスターミナルからカテドラルに向かう途中、小路に入ったところに銀行があったので入ってみた。スペインペセタからならポルトガルのお金に換えられると言うので1,000Pts両替した。これでひと安心。
 バスターミナルに戻ると5時のバスまで1時間半もあったので近くの公園で時間を潰した。

   3月19日(金)快晴 Sevilla-(バス)Cordoba-(バス)Sevilla
 6時過ぎ起床。8時のバスでコルドバへ向う。バスは高速道路を一気に走る。快適。途中、周りはなだらかな丘陵地帯の畑地で美瑛の丘を思い出させる。夏にはこの一面にひまわりの花が咲くという。考えただけでも雄大である。一度見たいものである。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Cordoba(コルドバ)
 コルドバはグアダルキビール川の右岸に静かにたたずんでいる。バグダッドから逃れてきたウマヤ朝の一族のひとり、アブラデ・ラーマン1世によって開かれ、全盛期を迎える。
 13世紀にキリスト教徒がコルドバをその手に奪い返したが、イスラムやユダヤの伝統をすべてぬぐい去る事は出来なかった。白壁の家々が続くユダヤ人街を抜けて、モスクまでの道を歩くだけでも、この町がたどってきた足跡を見ることが出来る。
 コルドバに入ってすぐ橋を渡る。フト右を見るとローマ橋が見えた。その左の先にはメスキータ(モスク)がある。ここで降りると近くていいのにと思っているとバスは停まるらしい。バスターミナルはまだ先だし、ターミナルの場所を確認して置かないと帰りに困るのだがメスキータに近いので降りることにする。
メスキータはコルドバのシンボル。ローマ橋とメスキータ/写真転載不可・なかむらみちお  イスラムの街特有の迷路を通ってコルドバのシンボルメスキータに到着。先ず、太陽光の角度の都合でローマ橋を先に撮る。そして再びメスキータに来て入ろうとしたらダメだという。1時半からでないと入れないという。ガイドブックにはそんな事は書いていない。納得のいかないままいると、一人の若い日本人女性が来たので彼女の通訳で守衛に聞いてもらった。それによると、今日は特別の祭日なのでこれからミサがある為入れない。その代わり1時半から2時までは入場無料になるという。という事で二人で近くのアルカサル(宮殿)を見に行く事にした。
アルカサルの中庭/写真転載不可・なかむらみちお  アルフォンソ11世によって1328年に改修されたこの城は、キリスト教時代の王の宮殿であり、異端審問の宗教裁判所としても利用された。ここも無料で入場出来たが、中はあまり見る物はなかった。しかし、庭園がとても美しかったので来て見て良かった。
 アルカサルの中で偶然ロンダで見かけた日本人女性に出会った。彼女はロンドンに絵の勉強に留学中とのことであった。
 アルカサルを出てから彼女らに分かれて再びローマ橋に向い、今度は先ほどとは逆に橋の反対側に光が当たっているので、そちら側から撮影した。
 この後メスキータの前のインフォメーションに寄ってバス停までの行き方を訊ねた後、近くのBarでアイスクリームとサンドイッチを買った。
 1時過ぎにメスキータに行くと凄い人の群れであった。そこで先ほど分かれた彼女と合流する。1時半少し前に扉が開かれて彼女と共に入場した。
メスキータ。闇の中に赤と白のアーチが浮かび上がる/写真転載不可・なかむらみちお  このモスクは後ウマヤ朝を開いたアブデ・ラーマン1世が、コルドバの地にバグダッドに負けない新首都にふさわしいものを作ろうとして、785年に建設が始められ、三度の拡張によって2万5千人もの信者が祈ることが出来るようになった。
 メスキータの内部は赤と白の重なるアーチが印象的。中では三脚を使えないので手持ちで数枚撮影する。メスキータの内部を一通り見てから外に出たところで彼女と分かれて北に進み、右に折れた所にあるユダヤ人街の一角、コルドバの写真として有名な花の小道を通ってバスターミナルへと向う。
 コルドバというと一枚の写真とそれを撮影した一人のカメラマンを思い出す。「世界で最高の報道写真家」「最高の戦争写真家」とも称賛されているロバート・キャパ。本名エンドレ・フリードマン。

 ※キャパRobert Capa(1913〜1954)。写真家。ハンガリー生まれ。本名、アンドレイ=フリードマン。戦争報道写真の第一人者。代表作「人民戦線兵の死」「インド・シナ戦争」。(広辞苑)。
 ※1936年、スペイン内乱を取材撮影し、ライフ誌に掲載された写真《人民戦線兵士の死》は、一躍キャパを有名にした。以降、フリーのフォト・ジャーナリストとして、日中戦争、連合軍のノルマンディー上陸作戦などを兵士と共に行動して撮影。1954年インドシナ戦線に向ったが取材中に地雷に触れて爆死した。自伝「ちょっとピンボケ」(1947年)がある。(マイペディア百科事典)。

 キャパはハンガリー生まれのユダヤ人。十代で共産主義運動にかかわったことが元で、ナチスから逃れて国を離れ、言葉の不自由な外国で、言葉を使わずに自分の思いを伝える事が出来る写真の力を知って二十歳で写真家になる。写真を高く売りつけるために、俳優のロバート・テイラーと映画監督のフランク・キャプラの折衷の偽名を使う。スペイン内戦では独裁的な国粋主義(ファシズム)、第二次世界大戦では偏狭な民族主義(ナチズム)、権力者の愚かな欲望がつくりだす人間の悲劇、そして開放された人間の歓びを写真によって世界に伝えた。
ロバート・キャパ著「ちょっとピンぼけ(Slightly out of Focus)」/写真転載不可・なかむらみちお  彼を一躍有名にしたこの写真はコルドバの近くの村で撮影された。しかし、手元にある彼の著書「ちょっとピンぼけ(Slightly out of Focus)」(潟_ヴィッド社発行1958.4.20)のどこを探しても代表作「人民戦線兵士の死」の写真は見当たらない。
 私はこの写真はヤラセで撮ったものであると思う。なぜならば、先ず第一は実戦場にしてはカメラアングルが高い。この写真を写したキャパの背後には身を隠すべき何かがあったのか。このシチュエーションは分からないが、写真に写っているカメラマンの前景はなだらかな丘陵である。多分彼の右は下り坂であり、背後は前景の同じ延長線上にあると思う。するとこの写真を写す時にキャパは塹壕から立ち上がって身を乗り出さなければならない。実践場ではそんな危険なことは出来ない。身を乗り出せば必ず機銃掃射に遇うに違いない。つまりこの写真を撮ったのは実戦ではないだろう。この兵士は敵の銃弾に打たれてはいないと思う。よくあるヤラセである。
 現代の交通戦争の世の中では毎日のように多くの自動車が衝突している。しかし、その瞬間を撮った写真を見た事がない。だから多くのカメラマンは撮れるものならその「決定的瞬間」を撮りたいと願っている事だろう。しかしいまだかってそんな写真を見たことがない。それほど車の衝突の瞬間の写真など撮れるわけがないのだ。ましてや身の危険を冒してまで弾丸飛び交う戦場においてはなおさらの事である。
リチャド・ウィーラン著「キャパ・その青春」/写真転載不可・なかむらみちお  「ちょっとピンぼけ」の空白部分に斬りこんだ伝記、リチャド・ウィーラン著、沢木耕太郎訳「キャパ・その青春」(文芸春秋1988.6.25)によると、「彼の全生涯で最も有名な、敵の銃弾に当たった衝撃が体に刻まれ、崩れ落ちて死んでゆく瞬間の共和国軍民兵が写っている写真の撮影場所はセロ・ムリアーノ(コルドバの北8マイル)かその付近で、1936年9月5日かその少し以前に撮られたものらしい。」
 「1936年9月23日発行の〈ヴュ〉に「崩れ落ちる兵士」の写真が初めて発表されたときには、さらに激しい倒れ方をしている別の写真がそのすぐ下に載っていた。彼らは紛れもなく二人の異なった人物である事が分かる。」(※その後アメリカの「ライフ」誌に掲載されて彼の名は世界的に有名になった)。
 「《崩れ落ちる兵士》の写真ともう一枚のよく似た写真とに写っている大地を注意深く観察し、特徴的に真っすぐ生えている草の茎の状況を比較して見ると、二人はほぼ同じ場所で倒れている事が分かる。だとすれば、二人の男が次々と短時間(雲の形状がほとんど同じ)のうちに倒れているにもかかわらず、どちらの写真にも大地の上に他の男の体が見えないのは何故なのか。」
 同書の訳者、沢木耕太郎は「原注、訳注、雑記」の中で、「大岡昇平氏のお宅にうかがう機会があり、写真集の三人の兵士が写っている箇所を開き、何の説明も加えずに訊ねてみた。これは何をしているところだと思われますか。すると、大岡さんはいともあっさりと答えた。
「練習をしてるんだろ」
「戦闘中ではありませんか?」
「こんなんで戦闘してるはずがないよ」
「どうしてです」
「だって見てごらん。銃を水平に構えているだろ」
「それが?」
「わからないかな」
 そして、大岡さんは明快に説明してくれた。彼らは小高い丘にある壕のようなところから身を乗り出し、銃を水平に構えている。もし敵が正面にいるなら銃口は水平になるが、このように身を乗り出すはずがない。身を乗り出すのは敵が斜め下にいるからだろうが、それなら銃口が斜め下を向いていなければおかしいではないか。なるほどと思った。一兵士として戦争に狩り出されたことのある『俘虜記』の作家は、明瞭な根拠を与えてくれたのだった。しかし、これらの写真が「演じられた」ものであっても少しも構わないと思う。キャパは結局、それ以後の道程で、「崩れ落ちる兵士」を撮った「あのキャパ」に追いつくため、悪戦を続けて行く事になるからだ。」
 平成12年2月18日、東京都写真美術館で行なわれた「ロバート・キャパをめぐって」と題した沢木耕太郎の講演会で彼は「あの写真のフイルムは未現像のままで新聞社に送り届けられた。この写真は絶対におかしいよという論争は昔からあった。戦争中、実践中に打たれた瞬間の写真はこれと次の一枚。こんな奇跡が二回も続けて撮れるかと、しかも場所も時間も二枚とも同じ。あの写真は本当に実戦で撮られたものなのだろうか。私はこの写真はウソだと思っている。偶然撮れてしまった死の写真ではないだろう。」「記事にも出てしまった。評価も得た。有名にもなった。金にもなった。そこで黙ってしまおうと決めたのだと思う。本当に撮ったものとしようと決めたのだと思う。それによってその後の精神的な負担になったのだと思う。いつかこれを越える写真を撮らなければならないと思っただろう。しかし、これを越える写真は撮れなかった。名前だけ有名だが、あれ以上のいい写真が撮れなくて悩んだと思う。彼はその写真のある種の負債を返す為に頑張ったのだと思う。」
 彼は連合軍のノルマンディー上陸作戦でようやく撮れたと思った事だろう。彼の著書「ちょっとピンぼけ」の中で彼は「一週間後、私は“イージー・レッド”の海岸で私が撮った写真が、上陸作戦についての最もすぐれたものだったということを知った。しかし、残念ながら暗室の助手は興奮のあまり、ネガを乾かす際、過熱のためにフイルムのエマルジョンを溶かして、ロンドン事務所の連中の眼の前ですべて台なしにしてしまった。106枚うつした私の写真の中で救われたのは、たったの八枚きりだった。熱気でぼけた写真には、“キャパの手はふるえていた”と説明してあった。」と書かれている。しかし、エマルジョンが流れていたためにかえって迫真力があるとの評価がなされている。
 ウィーランは「しかし、この写真が偉大で力強い映像であり、戦争で死んでいった共和国軍兵士と、勇敢に前進し打倒されてしまった共和国スペインそのものの、忘れがたい象徴であるという事実は変わらない。」「なぜなら、その写真の偉大さは、最終的にはその象徴的な含意にあるのであって、特別な人物の死のリポートとしての完璧な正確さにあるのではないからだ。」と言っている。
 ジョン・スタインベックは「ちょっとピンぼけ」の序文で「彼の写真は、偶然からは生まれない、その作品の持つ感動は、ふとした拍子などから出てくるものではない。」と称賛した。

 バスターミナルに向う途中で通行人などに聞いてもどうもバスターミナルの場所がハッキリしない。客待ちのタクシーの運転手に聞いたら、地図の場所は昔の場所で今は別の所に新しく移転したらしい。インフォメーションの女性は古い方を間違って教えてくれたようだ。
 改めて方向を変えて進み、ようやく新しいバスターミナルへ到着。セビーリャ行き3時発のバスの発車時間の10分前だった。
 バスターミナルのインフォメーションに行くと、3番の窓口へ行って手続をするように言われたが、それがどこだか分からない。ガードマンが案内してくれた。窓口には客が二人居るが、先客の一人のおじさんが何か盛んに質問していてなかなか終らない。セビーリャ行きのバスの発車時間が迫っている。少々焦る。ようやく手続が終って発車の3分前にバスに乗り込んだ。バスは朝来た高速道路を一路セビーリャへと向う。
 5時にセビーリャのバスセンターに到着。宿の近くの店で缶ビールを買って帰る。宿で缶ビールを開け、日本から持ってきたピーナツをつまみに飲む。日本のビールと違い、少し苦味があり、少々癖があって日本のビールを飲みなれた口には少々不満があるが、まぁ美味かった。
 荷物の整理をした後、例の如くワインで一杯やる。その後、靴下の洗濯。今日の日記を書いて10時に寝る。

   3月20日(土)晴れ Sevilla 13:35-(バス)21:30 Lisboa
 午前6時起床。今日はセビーリャ発13時35分のバスでポルトガルのリスボンへ向う。出発まで時間があるのでアルカサルまで朝の散歩に出かける。9時丁度、隣のカテドラルの鐘が間近で大きく鳴る。アルカサルには入る予定ではなかったが、9時半の開館間近かでもあり、時間もあるので折角だから一応見ておく事にする。
アルカサル。ムデハル様式の美しい建物/写真転載不可・なかむらみちお  ここはかつてのアラブの王の宮殿で、モロー、サラセンなどと呼ばれた様式がそのまま残っている。内部は思ったよりも見応えがあった。特にタイルが美しい。ムデハル様式の美しい建物は、残忍王と呼ばれたペドロ王により14世紀に完成された。「人形のパティオ」から「大使の間」を抜けて「乙女のパティオ」に到るまでのセラミックや、壁のモザイクには感激。
 30分ほどで見終えて宿に帰り、荷物を持って近くのバス停からバスでグアダルキビール川沿いに在るPL de Armasのバスターミナルへと向う。
 11時頃バスターミナルに着く。時間がありすぎるのでターミナル内の待合室で時間を潰す。その間にレストランへ行って昼食を摂る。
 13時45分、バスは10分ほど遅れてセビーリャを出発した。車窓から見るセビーリャ郊外は土も肥沃らしく緑が美しい。
 セビリアを出発して1時間足らずのPonqillgでバスはドライブインのような所に入った。一時間休憩と言う。直射日光の当たるテラスのテーブルに座って出発時間の来るのを待っていると南国の太陽が頭からじりじりと照りつけて暑かった。
 リスボンの宿は一応日本出発前に手紙で予約しては置いたが、途中で日程が予定よりも2日早くなってしまったので、今夜の予約はしていない。それに今日は土曜日なので果たして空き室があるかどうか心配だ。一刻も早くリスボンに着いて宿を確保したいというのにここで1時間も休憩とは気がもめる。
 Monesterio付近は緑も豊かななだらかな丘陵地帯が続いた。Badajozを過ぎると国境だが、検問所らしいところはなく、バスは今までと同じように走る。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

    ポルトガル(portugal)


発見のモニュメント/写真転載不可・なかむらみちお

ニコンSP 雄鶏伝説のニワトリはポルトガルのシンボル/写真転載不可・なかむらみちお  Evora付近はぶどう園が連なり、小高い丘の上には城があった。7時45分、Montemor-o-novo付近で陽が沈んだ。夕陽が美しい。真っ赤な太陽が地平線上に沈む。ここはもうポルトガルである。
 リスボンの手前のSetulcal付近から道路が混んできた。高速道路の料金所に近付くと更に込み合って順番待ちをしながら少しずつゲートに向って進む。すると、一番向こうのレーンだけは車がスムーズに通過している。よく見ると車はお金を払わないで次々にゲートが自動的に開いて通過して行く。不思議だ。(後で分かった事だがそれはETC=自動料金収受システムだった。日本ではこの時はまだ導入されておらず、それから何年かしてから日本でも使いはじめてようやくその謎が解けた。それまでは日本は世界で一番電子工業と技術が発達している国と思って誇りを持っていたのでスペインやポルトガルよりも劣るとは思ってもいなかった。ショック。残念)。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Lisboa(リスボン)
 ポルトガル時間(他の西洋諸国とはマイナス1時間の時差がある)の8時半、ようやくリスボンのバスターミナルに到着した。バスターミナルからはタクシーで宿へ向う。運転手に今夜の宿の名であるPensao Praca da Figueiraと住所を書いたホテルリストを見せると「ウン」と頷いて走り出した。リスボンの街の中に入り、フィゲイラ広場に着くと車を止めて広場に面した建物を指差して「あそこだ」という。大きなビルの中ほどにあまり大きくない看板が貼り付けられてその宿の名前が書かれていた。入口はビルの反対側だという。そのビルの裏の小路に廻り中に入ると正面に大きな階段があった。エレベーターはない。荷物を担いで三階まで行き、ようやくホテルの入口のドアを見つけた。
 出てきたマダムに名前を告げると宿は運良く泊まることが出来た。ツインの部屋で一泊2,000$(1$[エスクード]≒0.75円)だった。昂奮していた所為か、やたらと喉が渇く。部屋に荷物を置いてから一階のバルへ行ってビールを一杯飲んだ。疲れたので部屋に帰って寝る。

   3月21日(日)晴れ Lisboa
リスボンのヘソロシオ広場/写真転載不可・なかむらみちお  大西洋に注ぐテージョ川に面した古い街リスボンは、ヨーロッパ大陸最西端の首都である。15世紀からの大航海時代には、絹・香料・銀など巨額の富を一手に収め、ポルトガル史上最高の栄華を極めた。
 今日はベレンの塔を写しに行く事にする。その前にお金を両替し、インフォメーションに行って帰りのスペインへの行き方や明日からのポルトガル各地への行き方を尋ねることにしてロシオ広場へと向う。ここはリスボンで一番賑やかな広場である。
 両替所は簡単に見付かり、5万円両替した。その後、インフォメーションを探したがなかなか見付からない。お巡りさんが来たので訊いて案内してもらい、ようやく見つかった。これで準備は万端整った。そこでベルンへ向かうことにする。ロシオ広場にはイントレ(映画撮影用の足場=グリフィス監督のアメリカ映画「イントレランスIntolerance(不寛容の意)」1916年、の撮影で初めて使われた事から生まれた業界用語)を組んだ上にテレビカメラが備えられて広場の風景を写していた。何があるのだろう。
 電車の停留所に行って待っていると、この町の人らしい人と観光客が何か話している。どうやら今日は日曜日なのであいにく電車が12時まで走らないらしい。困ってしまった。
 その時、ロシオ広場の脇の道路をマラソンランナーの一群が走っているのを見かけた。私も世界各都市のマラソン大会に参加して走っているので興味を持ってその近くまで行ってみる。午前中電車が走らないのはこのせいかも知れない。
サン・ジョルジェ城/写真転載不可・なかむらみちお  昼過ぎにベレンの塔に行って果たして日の廻り具合はどうであろうか。日陰なら困ってしまう。気がもめる。いっそうのことサンタ・クルスへ行ったほうがよいだろうか。あそこなら只見てくるだけだし、あまり遠くはないので、これから行っても間に合う。しかし、今日は快晴だが明日の天気はどうなるか分からない。矢張り今日はベレンへ行ったほうが良さそうだ。さんざん迷った挙句、サンタ・クルスに行く事にして、一旦宿に不要の機材を置きに行く。しかし、やはりベレンも気になる。再びベレンへ行く事にして宿を出る。その時同じ宿に泊まっている日本人の青年を見かけたので声をかけ、どこに行くかを尋ねてみた。彼はシントラに行くと言う。そうかそういう手もあったな。しかし、シントラ、ロカ岬と行くには時間が遅過ぎるような気がする。矢張りベレンへ行く事にして彼とは別れた。
 電車が走りだす12時には未だ時間があるので、この付近を見て時間待ちをする事にする。先ず、サンタ・ジュスタのエレベーター(155$、往復310$)で上に登ってリスボン市内を展望する。灰色の巨大な鉄の塔の内部を、クラシックなエレベーターが上下している。マラソンの連中が今度は逆に向こうからこちらへと走ってきた。下に降りるエレベーターを待つ間見物するが日本人は参加していないようだ。展望台の上のBarで、同じ宿の別の日本人青年がお茶を飲んでいた。
イワシの焼き魚/写真転載不可・なかむらみちお  そうこうしている内に11時半になった。半端な時間だが早めの昼食をしておく事にしてフィゲイラ広場に面したレストランに入る。手持ちのメニュー表を見ると鰯の焼いたのがあるという。鰯はポルトガルの名物料理である。レストランに鰯は似合わないが、さすがここはポルトガル。それとポルトガルの北部のワインVinho Verdeを注文する。Vinho Verdeはグリーン・ワイン、直訳すると緑のワイン。若い新鮮なワインの意味。酸味の利いたさわやかな軽い発泡性で日常のテーブルワインであった。鰯は矢張り鰯である。特にどうという事はない。
 12時半頃フィゲイラ広場発の路面電車15番でベレンへと向かう。市街からテージョ川沿いに西へ下ったところがベレン地区。ここには、ジェロニモス修道院を初めとする、輝かしい大航海時代の記念物が残されている。
 電車は2両連結だが、客が多く込み合う。電車が走り出すと一人の婆さんが寄って来て私に立てと言う。ここは老人や障害者の席だという。なるほど窓にシールが貼ってあった。知らなかったものでとんだ失礼を致しました。済みません。(私は未だ老人の仲間には入れて貰えないらしい)。
 ジェロニモス修道院近くの停留所でほとんどの観光客が降りた。この近くに「発見のモニュメント」があるからだろう。私はその一つ先の「ベレンの塔」へと急ぐ。
ベレンの塔/写真転載不可・なかむらみちお  発見のモニュメントから1qほど河口寄りに、16世紀初めに港を守る要塞として建てられたマヌエル様式の優雅なテラスを持つベレンの塔がある。海と川との境にある石造りの塔は、大航海時代命がけで故郷を旅立つ船乗りたちを見送り、そしてまた、幸運にもポルトガルの土を再び踏むために戻ってきた男達を優しく迎え入れた。
 テージョ川の辺に建つベレンの塔に行ってみると、陽の廻り具合は良いようだ。但し、干潮らしく、潮が引いていて塔の周りには水がない。干潟になっている。海に浮かぶベレンの塔とは印象が少し違うのは残念だがやむ終えない。
 この塔は、リスボンの港の警備のため1515年、マヌエル一世によって起工され、6年後に完成した要塞である。マヌエル風と呼ばれる様式の建物は城というよりは、居館的な感じで優美である。
 ベレンの塔の外観を撮影した後内部に入り、上まで登ってみた。内部は博物館になっており、三階は王族の居室、二階は砲台。一階は水牢だった。狭い階段を登り、川に向かって張り出された三階のテラスに出ると大西洋の風が心地良く、ヨーロッパ一長い吊橋4月25日橋やテージョ川の対岸のクリスト・レイを展望できた。
発見のモニュメント、エレベーターで頂上の展望台に行ける/写真転載不可・なかむらみちお

日本発見(?)の年号/写真転載不可・なかむらみちお  この後歩いて発見のモニュメントへと向う。喉がからからで目眩がしてくる。発見のモニュメントは1960年、エンリケ航海王子の500回忌を記念して建てられた。高さ52m、帆船をモチーフとし、大海へ乗り出す勇壮なカラベラ船を手に先頭に立つのはエンリケ王子。その後に天文学者、宣教師、船乗り、地理学者など,この時代に第一線で活躍した人々が続いている。エレベーターで頂上の展望台に行ける。
 エンリケ航海王子は、16世紀初め、ヨーロッパの列強が争っていた時代に、ポルトガルは敢然と未知の海へと乗り出した。そして、輝かしい大航海時代の幕開け。エンリケ王子は、海洋国ポルトガルの創始者となった。
 大理石で作られた広場中央の世界地図には、世界各地の発見年号が記されている。日本が“発見された”のは1541年となっているが、これはポルトガル船が肥後に漂着した年。種子島漂着は1543年である。そこで日本のツアー客と出会う。近ツリだと言う。
 この後、電車の線路の下を通る地下道を通って向いのジェロニモス修道院へと向かう。今日は日曜日なので2時までは入場無料とのことだったが、3時になってしまっていたので500$を払って内部を見てきた。
大航海時代の栄華を偲ばせるジェロニモス修道院/写真転載不可・なかむらみちお 回廊を持つ中庭が美しい/写真転載不可・なかむらみちお  これはマヌエル1世がエンリケ航海王子の偉業を讃え、またヴァスコ・ダ・ガマのインド航路を開拓した偉業を讃えて、エンリケ王子が建てた礼拝堂の跡地に16世紀初めに建造した。マヌエル様式を代表するこの壮麗な建物は、海外からもたらされた富によって建てられた。まさに、大航海時代の栄華を反映させた修道院といえるだろう。
 南門の入口上部中央にはエンリケ王子の像と何人もの聖人の姿を描いた彫刻、それに航海をモチーフにした素晴らしい装飾で飾られている。入ってすぐ右手の聖母マリア教会の内部にはヴァスコ・ダ・ガマとポルトガル最大の詩人ルイス・デ・カモンエスの石棺がある。
 この修道院の中で一番美しいのは、一辺55mの回廊をもつ中庭である。石灰石を用い、緻密な彫刻を施した二階建てのアーチは繊細優美である。
 一旦宿に帰り、三脚などを置いてから再び街に出てバイシャ地区から路面電車に乗ってリスボンの下町アルファマへと向かった。
 「7つの丘の街」と呼ばれるリスボンには、坂道が多い。その起伏に富んだ地形が、リスボン特有の美しい街並みをつくり出している。
アルファマ地区の狭い路地をすり抜けるように走る/写真転載不可・なかむらみちお  フィゲイラ広場から乗った路面電車をコメルシオ広場で28番の電車に乗り換え、マダレーナ教会、サント・アントニオ教会、カテドラルの前を通ってレトロな電車は路上駐車している車をすれすれにすり抜けて石畳の道を時速20qくらいのスピードでゴトゴトと走る。時には車輪を軋ませながら坂道を下り、家々の間の細い路地を縫うようにしてのんびりと走る。運転手は途中で乗り込んできた知り合いらしき男とのん気にお喋りしながら運転している。
 やがて終点のマルティン・モニスに着く。そこからサン・ジョルジェ城が目の前に見える。少し坂を登って撮影する。
 1755年のリスボン大地震で大きな被害を免れたアルファマは、かつてのイスラムの影響を色濃く残し、迷路のような路地を歩けばここに暮らす庶民の生活が伝わってくる。洗濯物が風にひるがえり、イワシを焼く煙がどこからか漂ってくる。見ると、道端でおばさんが魚を焼いている。あちこちの家の前には鉄製の炭焼き機が置いてある。
アメ色になった木の壁がいい味をかもし出している/写真転載不可・なかむらみちお  帰りの電車の乗り場が分からない。土地の人に訊いてようやく広場の反対側の停留所から再び乗り込んで今来た道を引き返した。帰りは来る時にチェックしておいた狭い坂道で降りて写真を撮る。何の番組か知らないが、日本のテレビ局の撮影クルーも来ていて同じところを撮っていた。
 電車の側面には大きく「Coca-Cola」の文字が目立ち過ぎる。その文字を書いた電車をやり過ごして、さらに次の電車が来るのを待って撮影を続ける。その後、再び電車に乗り込んで今度は反対側のバイロ・アルトまで行ってみたが、こちらは少し近代的な感じであまり面白くない。矢張りアルファマが情緒があって見応えがある。途中で降りて引き返す頃から陽が落ちて暗くなってきた。
 フィゲイラ広場に来たら今まさに空の明りが落ちそうでライトアップされた城が夜空に浮かび上がってきた。スローシャッターを切るには手持ちでは無理だ。三脚は先ほど宿に置いてきたので持っていない。これから取りに戻っていては空が落ち過ぎて間に合わない。やむなく広場にあるベンチの背もたれにカメラを乗せてスローシャッターを切るが自信がない。
 今日は日曜日なのでレストランかBarしか開いていない。Barでワインを一本分けてもらう。パンを買おうと思ってみるとトーストサンドイッチを作っている。美味そうだ。ひとつ頼むとパンが品切れだと言う。それでも別の店員がどこからか角食一本を持つてきた。それでトーストサンドイッチを作ってもらって宿に持って帰った。トーストのサンドイッチとは珍しい。ヨーロッパに来て初めて見た。結構美味かった。
グロリア線のケーブルカー/写真転載不可・なかむらみちお  遥々リスボンまで来たのなら、一度はファドを聴きに出掛けたい。夕食後にポルトガル人の心の歌ファドを見に行く事にする。いや、聴きに行くことにする。ファドは夜9時頃から始まるという。8時頃宿を出て今朝見たグロリア線のケーブルカーでバイロ・アルトのファド・レストラン「ア・セヴェーラ」へ向った。店はすぐ見付かった。
 この店はリスボンでもトップクラス。店の名は19世紀最高のファドシンガー、マリア・セヴェーラからきている。一級のファドシンガーのことをセヴェーラ・クラスといったりする。日本ではさしずめ美空ひばりクラスといったところ(本当かな?)。
 ファドと言う言葉は、「運命」を意味するラテン語のfatumに由来するといわれる。実らぬ恋の哀しみ、人生の苦しみ、海に出たまま戻らぬ肉親への想いなど、運命に翻弄される人間の心を歌ったものが多く、その憂愁と哀惜に満ちた歌声は、どこか日本の演歌に通じるものがある。
 ファドが世界的に知られるきっかけになったのは、1954年のフランス映画『過去を持つ愛情』でアマリア・ロドリゲスが歌った『暗いはしけ』だった。アルファマで生まれたアマリア・ロドリゲスは、それまで大衆歌謡だったファドを芸術の域まで高めたポルトガルを代表する歌手である。(この年の10月6日この世界から旅立った。79歳だった。ポルトガルの国は三日間の喪に服した。)

 ※映画『過去を持つ愛情Les Amants du Tage』仏、54年、監督:アンリ・ヴェルヌイユ、主演:ダニエル・ジェラン、フランソワズ・アルヌール。第二次大戦末期のパリで愛人と密通した妻を射殺した男とロンドンで変死した夫の殺害者と疑われている女がポルトガルの港町リスボンで愛を描く、フランスの作家ジョゼフ・ケッセルの短編の映画化。
 酒場のシーンにポルトガルのファドの名歌手アマリア・ロドリゲスが出演、『暗いはしけ』を歌って深い感銘を与えた。(『キネマ旬報』増刊「世界映画音楽辞典」より)

ポルトガル人の心を切々と歌う。リスボンの夜はファドで更ける/写真転載不可・なかむらみちお  ファドの伴奏は、ヴィオーラと呼ばれる通常のギターと、ギターラというポルトガル独特の丸いギター。薄暗がりの中、ギターの旋律にのせて、ファディスタ(歌い手)が哀愁あるメロデーディーを切々と歌い上げる。女性ファディスタは黒いショールを肩に掛け、また男性は片手をポケットに入れて歌うというのが伝統的なスタイルだ。
 店内はほぼ満員で全員食事中だった。私は普段夕方に食事を済ませた後は飲み食いをしないのでワインを注文した。9時半頃からファドが始まった。4、5人のファディスタが登場し、小ぶしを利かせた歌い回しで、哀調を帯び、ギターで伴奏する。ポルトガル人の心を切々と歌う。
 ファドは19世紀前半、リスボンで起こった民衆歌謡である。ガイドブックによれば、午前2時まで続くという。12時過ぎでないといい歌手は出てこないという。いい歌を聴きたかったら、この時間まで粘るべきだと言うので時間の来るのをひたすら待つ。リスボンの夜はファドで更けてゆく。
 10時過ぎからボツボツ帰る客もいる。11時過ぎには大方の観光客は帰り、12時には私と夫婦連れ(?)の日本人の観光客一組だけとなってしまった。
 待ってもなかなかお目当ての一流の(?)のファディスタは現われない。痺れを切らしてMD録音で一人の女性歌手だけは録ったが写真はまだ撮っていない。
 遂に客は私一人だけになってしまった。こうなってはもう歌も歌われないだろう。私も帰り支度をして最後に記念写真を一枚だけ撮らせてもらった。
 夜も遅い事なので店を出て広い道に来たところでタクシーを拾って宿に帰った。

   3月22日(月)晴れ Lisboa-(バス)Torres vedras-(バス)S.ta Cruz-(バス)Lisboa
ポルトガル  今日も良く晴れている。雲一つない。ポルトガルはイベリア半島の西側なのだが、毎日このように晴天続きなのだろうか。今日は本当は晴れている内にシントラへ行き、シントラ城を撮りたいのだが、月曜日は城が休みなので明日にして、今日は明日に予定していたサンタ・クルスに行く事にする。明日まで天気が持ってくれればよいのだが…。
 ロシオ駅から地下鉄に乗ってRE社のバスターミナルのあるSaldanhaに向う。途中2回も乗り換え、駅を降りてからも近くにいたお巡りさんなどに訊いてなんとかバスターミナルに着いた。
 そこからバスに乗り、先ず、Torres Vedrasで乗り換えてリスボンの北約30q、サンタ・クルスに着く。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  S.ta Cruz(サンタ・クルス)
サンタ・クルスの海岸/写真転載不可・なかむらみちお  街に入ったら乗客の全員が降りて私一人となった。発車して間もなくある四つ角の前でバスを停めて運転手が私になにか指し示している。見ると「Dan…」の文字が見えた。日本の小説家壇一雄が住んでいた家らしい。バスは海岸の終点に着いた。崖の上から海が見える。綺麗な海岸線が続き、海水浴場にうってつけの海岸だ。壇一雄が岩の上に座り、夕陽に向って「返せ返せ」叫んだのはこの辺であろうか。
 ここは放浪の作家、故壇一雄が一年半あまり住み(1970〜71)、愛してやまなかった町。彼はこの町で大作『火宅の人』を書き続けた。
“落日を拾ひに行かむ海の果”/写真転載不可・なかむらみちお  終点でバスを降りた後、海岸沿いに今バスが来たのとは反対の方向に歩いて行くと、1992年に故人と親しかった作家たちが発起人となって建てられた壇の文学碑があった。その前で記念写真を撮った後、街をぶらぶらと流す。
 壇はなぜこんな遠い所まで来て生活をしたのだろうか。普通小説家は物を書く時にはホテルとか鄙びた温泉宿などに閉じ篭るらしい。どこで書こうと同じことかも知れないが、なぜこんな淋しいユーラシア大陸の西の最果ての村だったのだろうか。私はこの旅でそんな事を悟ることが出来ればいいなと考えながら街をぶらついてみた。かつてはひなびた漁村だったサンタ・クルスも、今では新しい別荘やマンションが建てられ、リゾート地となっている。
 一軒の雑貨店があったのでぶらっと入ってみた。店の中には店主らしい男の人がいた。そこでパンを一個買った。その店主は親しげに微笑み掛けながら売ってくれた。そして「私はカルロスです」と自己紹介してくれた。あゝあのガイドブックに書いてあった壇が足繁く通ったあのカフェのカルロスさんだとすぐ分かったので握手した。当時、壇一雄を“プロフェッソール”と呼び、その死を伝え聞いて涙を流した素朴な人たちの一人であった。思い掛けない偶然の出会いに感激した。
壇の住んでいた家/写真転載不可・なかむらみちお  再び海岸に出て文学碑の前に行き、そこにいた人に壇の住んでいた家を訊ねて見に行った。赤い扉の白い大きな家だった。この家を買い取って文化交流記念館とする計画もあるそうだ。こんなところで食事や洗濯などの日常生活はどうしていたのだろう。そんなことを考えながら2、3枚写真を撮る。後でガイドブックを見ると女中さんがいたらしい。その名はオデットさんと書いてあった。
 右の方を見ると来る時見覚えのあるバス停がポツンとあった。ここに来た時にほとんどの人がバスから降りたところだ。そこから先は人家がないし一本道なのであそこで待てば必ずTorres Vedras行きのバスが来るはずだ。
 バス停の手前、斜め前にBarがあった。そこでバスがいつ来るのか訊いてみた。すると若い女の店員さんが「5分」と言った。
 間もなくバスが来たのでそれに乗り、来た時の逆コースでTorres Vedrasに向う。沿線はのどかな田園地帯で畑作地帯だった。まるで日本と変わらない風景である。
 Torres Vedrasからリスボン行きのバスは今朝乗ったSaldanhaにあるRE社のバスターミナルに着くと思ったら全然別の処で降ろされてしまった。その近くの地下鉄駅からEntre Camposへ行って26日にスペインへ行く時に乗るバスターミナルを探す事にする。
 確かEntre Camposの鉄道駅から出ると言っていたはずだ。駅は近くにあったが、工事中のホームだけで見当が付かない。困っていると一人の男が近付いて来て、親切にわけを聴いてくれた。「フランス語が分かるか」と聞いてきたが「ノー」と答えると「私は英語が少ししか話せない」と苦笑していた。それでも親切に途中まで連れて来てくれた。彼と分かれた後は、そこから目見当でその先へと歩き出す。近くにスーパーがあったので明日の食料を仕入れる。
 苦労してようやく探し当てたスペインのマドリッド行きのバス会社Auto Res社はビルの一階の一室を借りた小さな店舗だったのでなかなか探せなかったわけである。中には入ると女の事務員が、「クローズ!」と言って何を聞いても答えてくれず、タイムテーブルを要求しても応じてくれない。取り付く島もない。「おうじょうしますわ!」と言うのはこういう時に使うのだろう。
 どうしようもないのでロシオのインフォメーションへ行って訊く事にする。インフォメーションで訊いたらフィゲイラ広場の旅行社に行って相談しなさいと言う。
夜空に浮かび上がるサン・ジョルジェ城/写真転載不可・なかむらみちお  フィゲイラ広場前の旅行社に行ったら、女性の事務員が応対してくれたが何かイライラして溜息ばかり連発している。どうやら忙しすぎるので不機嫌なのらしい。応対もあまり親切でない。スペインのカサレスへの行き方を訊ねているのだが、「バスは通らない」と愛想がない。列車ならあるが午前4時到着と言う。それでもいいかと言うのでそれに決めて乗車券を頼むと、これからFaxを入れるから回答は明日か明後日になると言う。明日はシントラに行く予定だし、その後はポルトに行って一泊、その次の日でなければ来る事が出来ないが、一応頼んでみた。どうなるか心配である。そこを出てその後郵便局に寄り、葉書を書いて家に送った後宿に帰る。
 宿に着いてから宿の女主人にレンジは使えるかと訊ねるとOKと言う。シメタ、これで持ってきたラーメンが食べられる。早速レンジの使い方を聞いて蕎麦を茹でる。
 日が暮れ始めてきた。蕎麦を茹でるのに時間がかかる。実はレンジのダイヤルを左一杯になっていたので弱火になっていた。日本と逆である。ようやく茹で上げて食べる。一束は多い。確かワイフはこれほどいつも食べていると言っていたが…。大急ぎで食べてフィゲイラ広場に行き、昨日撮りそこなった城の夜景を撮る。撮り終えて宿に帰る途中、どうも胃の具合が悪い。食べてすぐ急いで行ったせいだろう。薬を飲んだが具合が良くない。夜中に吐いた。

   3月23日(火)晴れ Lisboa-(列車)Sintra-(バス)Cabo da Roca-(バス・列車)Lisboa
 今日はポルトガル最大の期待の被写体、シントラ城を撮影に行くのだが、果たして天気は晴れているだろうか。心配が募る。月曜日に来られなかったので今日が曇りだと泣くに泣けない。
 6時起床。晴れている。良かった。ラーメンの食事もそこそこにロシオ駅に向う。ロシオ駅からは電車だ。シントラ駅まではおよそ50分掛かる。トイレが付いていないのが気になる。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Sintra(シントラ)
 9時前に無事シントラ駅に到着。シントラの町にのぞむ険しい山の上にペーナ城がある。この城は、城塞風ではあるが、ポルトガル王室の夏の離宮である。城は10時開場というのに駅からのバスは10時25分まで待たなければならない。山の上の城まで登りの坂道を歩くには少々きつい。仕方なくバスの発車時間まで駅のホームで待つ。
 10時25分、バスは停留所に着ていたのだが、運転手が何事か仲間と近くで話中でなかなか来てくれない。10分遅れでようやく発車、多くの観光客は王宮から順次見てゆく為に途中の王宮入口で降りたが、私は一気にペーナ城まで行く。
 城の前で「アーユージャパニーズ?」と声を掛けられたので、思わず「イエス」と答えたらその人が日本語で話し掛けてきた。なんだ日本人じゃないか驚かすな。話をしてみるとハワイ在住の日系で観光に来たという。
ペーナ宮殿/写真転載不可・なかむらみちお  光の具合の良い内に先ず城の写真を撮ろうと思い、城の中に入ろうとするとカメラはダメ、全部入口で預けて行けという。カメラを取り上げられたら何しに来たのは分からない。城の写真のコピーを見せると入口を出て向こうだというのでそちらに廻る。目的のアングルがあった。しかし、午後の陽回りだ。それでも一応押さえとして写しておく。
 ドイツのノイシュヴァンシュタイン城の建設を命じたのはルートヴィヒ二世だが、この城はその従兄弟のフェルディナンド2世が命じた。イスラム、ルネサンス、マヌエル、ゴシックなど各様式の寄せ集めではあるが、それがまた奇妙な魅力を生んでいる。
ムーアの城跡/写真転載不可・なかむらみちお  海抜標高560mの山頂からの展望が素晴らしい。手前の山上にはかつてアラブの支配時代、モロ人(アラブ)によって構築されたムーアの城跡が小ぶりの万里の長城のように広がり、天候に恵まれ、運良く霧が晴れれば、リスボン市はもとより、平原の彼方、テージョ河口と真っ青な大西洋を望む一大パノラマが展望される。
ペーナ宮殿/写真転載不可・なかむらみちお  午後の日差しが良くなるまで城の内部を見たりして時間を潰す。今日中にロカ岬にも行き、リスボンに帰らなければならない。ここよりもロカ岬に先に行くと帰りのバスは本数が少ない為に遅くなるのでここに寄ることは出来ない。時間を逆算するとここは2時には出なければならない。それまでに太陽はここに来てくれるだろうか。じりじりしながら太陽の回るのをじっと待つ。
 2時半、制限時間ギリギリまで待って撮影して下山する。シントラ駅から15時07分発のバスで日出る国日本から来て日の沈むユーラシア大陸最西端のロカ岬へと向う。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Cabo da Roca(ロカ岬)
岬にはカモンエスの詩を刻んだ石碑が建っている/写真転載不可・なかむらみちお  岬に行ってみる。がある。雲が出て陽が陰ってきた。日本人のツアーが来ている。巨大なユーラシア大陸の西の最果てロカ岬。ポルトガルの詩人カモンエスが詠んだ詩の一節を刻んだ石碑が大西洋の風に吹かれてポツンと建っている。「ここに地の果て、海始まる」。眼前に広がる大西洋からの塩風を受けて碑の突端に立つと、“地の果て”を実感する。
 ガイドブックに書いてあるとおり本当に何もない。襟裳岬を連想する。ロカ岬での撮影時間は1時間。灯台のある岬などを写して一服。インフォメーションに入ってみると「最西端到達証明書」を発行していたが値段が結構高い。500$と700$の2種類があって、形は大きい。こんなものは要らない。風景をバックに記念写真を撮ればそれでいいだろう。インフォメーションの隣にBarを兼ねたお土産屋が一軒あった。ロカ岬の絵を描いたタイルの壁掛けがあったのでそれを一個買う。Barに行ってビールを一杯飲む。やがて時間通り16時36分にバスが来た。バスは又先ほど来た曲りくねった夕暮れの小道をシントラへと走る。
 リスボンに戻りロシオ広場付近のスーパーマーケットで明日の食料を仕込んで宿に着く。今日も又ひとりでラーメンパーテーである。

   3月24日(水)曇り Lisboa-(バス)Nazare-(バス)Porto
 朝6時に起きて空を見ると曇っている。やっぱりポルトガルにも曇りや雨の日があるのだ。そうでないとあのような緑は育たないだろう。
 ラーメンを食べて8時に宿を発ち、ナザレに行くためにSaldanhaにあるRE社のバスターミナルに行く。8時到着。9時発のナザレ行きのバスがあるというのでその切符を買った。
 バス乗車ホームで待っていると日本人の叔母さんとお婆さんの二人連れが来て話をした。一日違いでエステポナ、セビーリャ、リスボンと来たらしい。カサレスにも行ったが良い天気だったとのこと。悔しい。リスボンには3連休祭日だったために苦労したとのことであった。空から今にも雨が降りそうで気になる。曇ってもいいからなんとか雨だけはご勘弁を…。バスは高速道路を通って一路ナザレへと向う。
 ナザレの手前、リスボンから40分ほどの左手の丘の上に城壁に囲まれた絵のような小村Obidos(オビドス)があった。町全体が白く塗られており“谷間の真珠”と呼ぶにふさわしい絵の様な村である。一寸バスを降りてひと回りして見たかったが、スケジュールの関係でそれも出来なかった。また来るという事も不可能だろうから永遠に訪れる事は出来ないだろう。残念である。夢に描く村として永遠に残して置くのもいいだろう。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Nazare(ナザレ)
市場/写真転載不可・なかむらみちお  ナザレのバスターミナルでポルト行きのバスの時間を確認した後、彼女達とは分かれて向いの市場に行く。彼女たちもその市場の中をうろうろしていた。小さな町にしては大きな市場だ。いったいこんなに商品を並べて買う人がそんなにいるのだろうか。
 ナザレに来たのは、昔、フランス映画で「過去を持つ愛情」というのがあった。この映画の中でポルトガルのひなびた小さな漁村で男たちは舳先の飛び切り上った小さな船でイワシ漁に出る。その男達がよく遭難する。すると未亡人は何枚も重ね着しているミニスカートの民族衣装を黒色に換えて喪に臥すという。その嘆き哀しみが、アマリア・ロドリゲスのファドの歌で盛り上げるという映画で、強烈な印象を受けた覚えがあるからだ。恐らくファドが日本に知れ渡ったのはこの映画の影響ではないだろうか。
 その伝統的な習慣と独特の服装(男はチェックのシャツにフィッシャーマンセーターと黒い帽子、既婚の女性は7枚重ねのスカート)で知られているが、今はかつてほどのひなびた面影はない。現在のナザレの風景を見て、あの映画の印象を想像するのは難しい。すっかり現代風に変わっている。それでも市場には何人かの黒い民族衣装を着たお婆さんを散見する。それを中心にスナップする。
ペスカドーレス地区の路地/写真転載不可・なかむらみちお 立ち話/写真転載不可・なかむらみちお  町の名前の由来はキリストが少年時代を過ごしたとされるキリスト教の聖地、イスラエル北部のナザレにある。町は長い砂浜の上に作られたプライア地区、崖上のシティオ地区、東側の丘上にあるもっとも古いペデルネイラ地区の三つからなっている。プライア地区とシティオ地区はケーブルカーで結ばれている。
 海岸に出てみたが舟は一艘も見当たらない。美しい砂浜である。生活の匂いを求めて海岸に面した住宅街に入ってみた。子供が遊んでいたり、洗濯物が掛けられている。中には通りの真ん中で七輪に炭火を起こしている家もあった。昼食にイワシでも焼くのだろうか。
 再び海岸沿いに出て土産店やレストランが並ぶ通りを流して北上する。向こうに見える崖の上にはケーブルカーが通じているはずである。ケーブルカーの駅を探すがなかなか見当たらない。ようやく見つけたが、扉が固く閉じている。付近の店の人に訊いてみると、古くなったから営業を止めたという。ならばどうやって崖の上の街に行くのかと訊くともう一度表に出て、100mほど戻った広場からバスが出るからそれで行けと言う。
ナザレは伝統的な風習を残す漁師町である/写真転載不可・なかむらみちお  広場で5分ほど待つとバスが来た。早速それに乗り込む。バスは走り出したが、街中の狭く曲りくねった登り坂で先のバスが立往生している。見ると前方の道路に駐車している車が邪魔して通れないのだ。
 しばらく待ったが運転手は出て来ない。その内後続の車が数珠繋ぎになり大騒ぎになった。近所の人も何事かと出てきて見物する。お巡りも来たがどうするわけでもない。パトカーが来てサイレンを鳴らしてようやく運転手が現われた。おばさんだ。その車が避けられた後何事も無かったかのように又バスも車も走り出した。その間15分くらいの騒ぎだった。さすがポルトガルである。のんびりしたものである。かの運転手のおばさんはパトカーのお巡りさんに調べられていた。多分友達か知人とお喋りに夢中になっていたのだろう。ここの人たちは皆成り行きでのんびりとマイペースで暮らしているようだ。
 崖の上の展望台からの眺めはなかなかいい。2、3枚写して次のバスで下に降り、通り掛けのレストランに入る。
これがPerceves Goose Rock Bernaclesという料理/写真転載不可・なかむらみちお  ガイドブックにはナザレに来たらイワシの焼き魚かCaldeira de Peixeを食べたらよいと書いてある。鰯はリスボンで食べたのでなんだか分からないがPerceves Goose Rock Bernaclesという料理を食べることにした。ガイドブックには説明が載っていないのでなんと表現したらよいのか分からない。
 先ず、海老の塩茹でとこれも塩味の蛸の切ったもの、それに先端に黒い爪の付いた得体の知れない物が出てきた。食べ方を聞くと皮を引っ張って中身のゼラチン状の身を食べるそうだ。いずれも塩味だが、特に蛸がしょっぱくて食べられたものでない。次に、大きな鉢にメインディッシュが出てきた。食べ方が分からないので店員に聞く。これも塩味でかすべ(えい)の塩味トマトソース煮だった。量が多くてとても食べられない。注文する時にMeia dose,por favor(半分お願いします)と言えばよかった。昭和ひと桁生まれは経木の弁当箱の蓋に付いた米粒まで拾って食べる癖がある。出された物は全部食べないと収まりつかない卑しさがあるが、これはとても全部は食べられない。腹も身の内だ。特に昨日は蕎麦の食べ過ぎで酷い目に遇ったばかりで腹はまだ本調子でない。
昔この船で大西洋に乗り出した/写真転載不可・なかむらみちお  浜辺を更に南に下って、ここに来る時見掛けた2、3艘の昔の船の置いてあるところまで行ってみた。昔の廃船を訪れる観光客向けに置いてあるのだろう。その前で記念写真を撮る。
 2時発のポルト行きのバスの時間が近くなったのでバスセンターへ行く。ナザレを発ったバスはGankos、ライエナと通ってコインブラに着く。この頃から雨が降ってきた。いやな予感がする。その上、バスの行き先掲示板はコインブラとなっている。その先のポルトはどうなっているのだろうか分からない。不安がよぎる。
 バスはコインブラのバスターミナルに着いた。客全員が降りた。運転手に聞くと違うバスに乗り換えだという。どのバスに乗ったらいいのかと尚も訊くと、あそこだと言う。なるほどポルト行きと書いてあるがバスはまだ来ていない。いつ来るのかも分からない。その内隣のレーンにポルトと書いたバスが来たので乗ろうとすると運転手は違うと言う。ではどこだと訊いても分からないと言う。一体どうなっているのだ。アナウンスがあるが何を言っているのか分からない。バスセンター内は工事中の為、正規にバスが発着出来ず、適当なところに止めている。焦る。インフォメーションを見つけたので聞くとアッチだと言う。それならと「アッチ」へ行くとようやくポルト行きのバスを見つける事が出来た。ナザレで貰った時刻表には確かコインブラには寄らないで直通のはずなのに一体どうなっているのだ。
 コインブラはポルトガル第三番目の都市で歴史の古いコインブラ大学が有名だ。コインブラの町を流れるモンデゴ川は、エストレラ山脈を源とする美しい川で、かつて「ポルトガルの洗濯女」の歌で有名になった。
 ポルトに近くなると雨は益々本降りとなってきた。この雨の中を歩いて宿探しは少ししんどい。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Porto(ポルト)
 宿をようやく見つけて部屋を見せてもらったらツインで値段も高い。別の宿の当てもあるが、そちらに行っている内に満員になったら困るので迷ったが意を決してそこに決めた。たまには少しくらい高くても程度の良い宿に泊まってみようと思ったからだ。その上、この雨の中をうろうろするのはしんどい。
 風呂付きテレビ付き、ヒーター付との触れ込みでその気になったのだが、風呂ではなくてシャワーだった。やられた。テレビなんか見ても分からない。クソクラエ!
 近くのスーパーでポルトワインと食料を買ってきて夕食とするが、ドアひとつのトイレの臭いが鼻に付く。何が高級ホテルだ!今までの安宿の方が値段の割にはよっぽどましだ。とにかく明日の天候の回復を祈って“お天気まつり”をした。

   3月25日(木)曇りのち雨のち晴れ Porto-(バス)Lisboa
 朝6時に起きて窓の下の舗道を見ると雨は上っていた。“お天気まつり”の霊験あらたかだったのか?先ずは折角だからシャワーを浴びる。ふと見るとカーテンから落ちた水が床を濡らし、かなり水が溜まっている。これはヤバイ。早速足拭きタオルで床掃除。何でこんな所まで来て今迄したこともないトイレの床拭きをしなければならないのか。先ずは一応綺麗にしたので問題はなかろう。
 朝食の後支払いを済ませて外に出てみると雨だ。これはヤバイ。レインコートは持ってきていたのだが、リスボンの宿に置いてきた。何でこんな時に限って雨が降るのか!
 ここはリスボンの北約300q、ドウロ川の北岸の丘陵地に築かれた起伏の多い町。坂の多さは「7つの丘の街」と呼ばれるリスボンにも劣らないポルトガル第二の都市である。またポルトガルの語源の街でもある。
 磁石と地図で大体の方角を出して歩き始める。途中でだんだん雨足が強くなってくる。このままではずぶ濡れだ。傘かビニールでも調達するか、タクシーにでも乗らなければダメだ。タクシーに乗るには近過ぎる。まだ9時少し前で店は開いていない。通り掛りの店を覗いて見るが、それらしい物を売っているところはない。と、ある洋品店の前に来ると店の前で店を開けたばかりらしい店主がドアの開閉をしていた。その店に入って雨具はないかと訊くと、結構高そうなジャンバー風の物を出してきたが断った。もっと安いビニール製が欲しいと言うと「おゝプラスチック」と言っていろいろ見せてくれた。私は店の商品に掛けてあるビニールの覆いを指差してこれが欲しいと言ったが無いという。それならビニールの袋をくれと言うと、手提げの袋を出してきたが、これは小さいと言うと大きなビニールの袋を出してくれた。それを首と手を出すように鋏で切り、それを頭からすっぽり被った。お金を出しても要らないと言うので五円玉を差し上げた。あとで考えるとこんな時の為にリックの中に日本で買った煙草を入れて置いたのにあげるのをすっかり忘れていた。この雨はリスボン到着の20日から4日間も続いた快晴の埋め合わせかも知れない。
ドン・ルイス1世橋/写真転載不可・なかむらみちお  ビニールの袋を着て更にドン・ルイス一世橋の方に歩き始めた。すると橋の下に出てしまった。そこから階段を上がって橋の上まで行き、撮影ポイントを探すが見当たらない。橋の周りはすっかりビルに囲まれていて見通すところがない。雨は益々激しく、風を伴って吹き付けてくる。このままでは濡れてしまう。靴も濡れてきた。撮影は諦めてタクシーを拾うことにする。橋のたもとまで行くと丁度よくタクシーが来た。それを止めて乗り込み、橋の写真のコピーを見せてこのアングルに行きたいと言ったのだが、なかなか話が通じない。やむなくタクシーを降りて又歩いて撮影ポイントを探し始めた。
 橋の歩道を歩いていると通り掛かる車に水飛沫を掛けられる。ようやく橋を渡り切り、対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア側から記念写真を撮った後、ポルトに来たらやっぱりポルトワインということで、ワイン会社へと向う。
ドウロ川にワイン船ラベーロが浮かぶ/写真転載不可・なかむらみちお 酒蔵で眠るポートワイン/写真転載不可・なかむらみちお  橋を降りたところでワイン会社の宣伝に浮かべている“浮かぶ広告塔”ラベーロ(帆船)を撮影した。その後ドウロ川に沿って50を越すワイン蔵が並んでいるワイン工場の内、とっつきのワイン工場に入り見学させてもらった。
 ポルトワインの最大の特徴は、発酵途中でブランデーを加えること。発酵を途中で止める事により、ぶどうの甘みを残す事が出来る。
 少し待たされた後女性が案内してくれたが、コースは到って簡単なもので最後に赤と白のワインを試飲させてくれた。
ミニチュア瓶/写真転載不可・なかむらみちお  雨は霧雨状になった。少々まだ時間が早いがポルトワインに酔いしれながらワイン工場を出てバスセンターへと向った。バスセンターでリスボン行きのバス券を買った後、近くをぶらつく。
 と、あるBarのショーウインドーにロールカステラがあった。これは美味そうだとばかりに店内に入り、それを注文した。なかなか美味い。中にジャムのようなものが入っており、日本にもありそうなものだ。スイスロールのような形をしている。或いは日本からの逆輸入かもしれない。
ケーキ/写真転載不可・なかむらみちお  カステラ、コンペイトウ、ボウロなどはポルトガルの宣教師によって日本にもたらされた。しかし、ポルトガルにカステラという名前のお菓子はない。一般にカステラの原型と考えられているのは卵、砂糖、小麦粉で、卵と砂糖を一緒に泡立ててそれに粉を加えて窯で焼くだけといったシンプルなものであるパォン・デ・ローである。日本ではこれに改良を重ねてカステラになった。
 皮肉な事にポルト出発間際になってから雨は上り、少し青空さえ射してきた。バスはポルトのバスセンターを定刻に出発して高速道路を一路リスボンへと走った。このバスには珍しく女性の車掌が乗っていたが、乗る時に切符を切るだけで何もしない。一体何の為に乗っているのだろう。(乗っている時紙のテッシュをくれた。これは一体何じゃらホイ)。

  Lisboa(リスボン)
 5時45分、リスボン着。地下鉄で宿へ帰る。途中のスーパーマーケットに寄って明日の食料を仕込む。宿では今夜もラーメンパーテーと洒落込んだ。

   3月26日(金)曇り後晴れ、時々時雨 Lisboa 22:00-(列車)05:00 Caceres
 6時起床。ラーメンを煮て食べる。食後これまで時間がなくて書けなかった分の日記を書く。今日は夜行でスペインのカセレスへ行く予定である。ここは初め予定していなかったが友人に薦められていたし、時間も出来たので寄ることにした。初めはバスで行くつもりだったが、どうも行き方がよく分からない。夜行列車なら停まるが朝の4時だ。それから夜明けまで駅で待つのは辛い。しかし他に方法がないのでこれに決めた。その列車の切符は22日に旅行社に頼んであるのだが、取れているのかどうなのか未だ分からない。今朝9時半の開店を待って行ってみる。多分取れているはずだ。
 10時頃旅行社に行くと例の女性が笑顔で迎えてくれた。切符は取れているという。切符を買って宿に帰りメイドが来るまで時間一杯日記を書く。それでも11時には宿を出なければならないだろう。
 今日は先日ベレンへ行った時、発見のモニュメント前にある日本地図を見るのを忘れたのでそれを見てくる事にする。
広場中央の世界地図/写真転載不可・なかむらみちお  11時に宿を出て路面電車で発見の塔のモニュメントへ行く。発見のモニュメントの内部には写真などの一部の資料しかなく見るべき物はない。エレベーターに乗って塔の上に行き見下すと大理石で作られた広場中央の世界地図が良く見えた。地上に降りて再びその地図の写真を撮る。日が照ったり陰ったりするで日の当たる時に写真を撮るために天気待ちをする。
 ガイドブックによると近くのベレン通りにベレンでは人気のある有名店、美味しいお菓子屋カフェPasteis de Belemがあるというので寄ってみることにする。その店は電車通りに面しており、すぐ分かった。特に売れている菓子を買い、コーヒーを注文する。ポルトガルのお菓子カスタードクリーム入りプチタルトのパステル・デ・ナッタ(Pastel de Nata、110$)である。シナモンと粉砂糖をふりかけて食べる。甘さが控えめだったので、買った6個入りのお土産パックを全部食べてしまった。また食べ過ぎたかな? 再び電車に乗り、フィゲイラ広場に戻る。
 映画『カサブランカ』の舞台はモロッコのカサブランカになっている(モロッコ編をご参照戴ければ幸いです)が、実際はこのリスボンが舞台である。主人公リックのモデルと云われるウィーン生まれのフレデリック・ダニエルスキは実際はリスボンに移住後ナイトクラブ「ニナの店」を経営しながら英国のスパイとして働いた。少し時間があったからその店を探してみたが今はもうあろうはずもない。
コメルシオ広場に建つ壮麗なドン・ジョゼ1世像/写真転載不可・なかむらみちお  フィゲイラ広場から歩いて歩行者天国になっているアウグスタ通りの南端の荘重なアーチを抜けると、磯の香漂うコメルシオ広場に出る。海軍省や郵政省などに囲まれ、正面をテージョ川の青で彩られた開放的で大変美しい広場だ。
 帰り掛けにまた雨が時雨のように降ってきた。ポルトガルの春は温暖だが不安定で、この頃は比較的雨が多く、さながら梅雨のようだという。お土産屋などを覗いた後宿に行き、荷物を受け取ってロシオ広場からバスに乗りサンタ・アポローニア駅へ向った。駅に着くとまだ時間が早かったので駅で待つことにする。
 ポルトガルはすべてがのんびりしている。加えてスペインと比べるとずいぶん田舎である。首都のリスボンでさえスペインの地方都市のように閑散としていてなんとなく活気がない。「盛りを過ぎた国」か? 「陽の沈む国」。しかし、そこがポルトガルのいいところだ。そのぶん古き良き時代が息づいている。
 列車は夜10時にサンタ・アポローニア駅を何の音もなく滑り出した。リスボンの旅行会社で列車の切符を受け取る際に、カセレス到着時間はスペイン時間の午前4時と聞いてきた。しかし、4時には着きそうにない。巡ってきた車掌に聞いてみたら5時だという。寝過ごしては大変なので、目覚まし時計をセットして腰のポーチに入れる。それでも不安なのでほとんど寝る事が出来ない。
 最初4時到着と思ってリスボン出発の時に目覚まし時計を3時45分にセットしたつもりが、目覚ましはOFFになっていて正常にセットされていなかった。改めて4時45分にセットし直したら今度はアラームが鳴り出した。
 街の灯が見えてきた。大きな町だ。列車はいつの間にか国境を越えて再びスペインに入ったようだ。この時間に着くと駅の待合室で一人ひっそりとうずくまって夜明けを待たなければならないだろう。きっと冷え込んで相当苦痛に違いない。セーターとジャンバーでも寒いかもしれない。その時はマラソンのゴールで貰ったアルミシートを体に巻きつけたら少しはましかもしれない。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

   スペイン(spain)

   3月27日(土) -5:10 Caceres(列車) 8:19-9:25 Merida(列車) 13:26-14:28 Cacees
エストレマドゥーラ  朝5時過ぎに列車はカセレスのホームに滑り込んだ。ホームに降り立つと案の定寒い。とにかく待合室に行こう。幸い灯が点いている。相等大きな駅なのでこのまま灯は消さないだろう。
 ふと見るとBarが開いていて客がいた。助かった。コーヒーを頼んで脇のテーブルで長居と決め込み日記を付けた。オシッコをしたいが有料トイレしかない。使用量は25Ptsだ。とにかく夜明けを待とう。
 駅の窓口で貰った列車時刻表を見ると8時19分の列車で行くとMeridaに9時25分に着き、Meridaを13時26分の列車に乗るとCaceresには14時28分に帰って来れる。よし!これでMeridaを見て来よう。そう決めて荷物をロッカーに入れる。
 Meridaまでの沿線は穏やかな丘陵地帯で、牛や羊の群れが放し飼いされていた。牧羊犬だけが見張りをして入る様子が見かけられた。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Merida(メリダ)
 メリダはカセレス〜セビーリャ、マドリッド〜バダホスを結ぶローカル線の中継地である。紀元前25年にローマ帝国の属州ルシタニアの首都として建設され、当時はトレドとリスボン、そしてサラマンカとセビーリャの両ルートの接点として栄えた。今はひっそりとした地方都市にすぎないが、“小ローマ”と呼ばれるだけに、スペイン最大のローマ時代の遺跡が残っている。
 又、古代ローマ時代にスペイン北部で産出された金、銀、銅などの鉱物資源をヒホン(Gijon)、レオン(Leon)、サラマンカ(Salamanca)、カセレス(Caceres)、メリダ(Mereda)、セビリヤ(Sevilla)を経てローマへ運ぶための街道として整備され、「銀の道」(630号線)と名付けられた。街道沿いにはローマ時代の遺跡や、大航海時代の英雄たちの生誕地がある。
 サラマンカは「銀の道」の中継都市として栄えた美しい街。スペインで最も古い大学がある学園都市としても有名。カセレスの隣町トルヒーリョは南米ペルーを制圧したフランシスコ・デ・ピサロの生地。その西隣グアダルーペはエストレマドゥーラとも称し“ドゥエロ川のかなた”という意味。国土の大半を占拠したイスラム教徒と対決したキリスト教徒にとって、戦線をドゥエロ川のかなたに押し戻す事は長年の悲願だった。レコンキスタの最終段階で、もっとも勇ましく闘ったのはエストレマドゥーラ人だった。グラナダ攻撃の主力も彼らだったという。
 国土回復後、彼らは、余勢を駆って新大陸へと向いコンキスタドーレス(征服者たち)となる。メキシコを征服したエルナン・コルテスはメデリン出身だ。
 「16世紀前半のコルテスのメキシコ、ピサロのペルー征服は原住民に貢納と強制賦役を課し、特に銀山の開発を進め、大量の銀を旧大陸に流入させてヨーロッパの価額革命を促した。
 このように新航路・新大陸の発見は繁栄の中心の移動を生み、スペインはポルトガルとともに世界商業の王座を占めた。(「日本百科大事点」小学館)」
 スペイン中央部の広大な乾燥台地をメセタ(中央高地)といい、現在もなお騎士道文化の香をとどめている。又、高級生ハムを作るイベリコ豚の産地でもある。この豚はどんぐりだけで自然放牧して育てる。
 もうひとつ、スペインには有名な「サンティアゴ巡礼の道」というのがある。この道はルートがさまざまだが、フランスからピレーネ山脈を越えてエルサレム、ローマと並ぶキリスト教三大聖地のひとつであるスペイン北西部、ガリシア地方に位置するサンティアゴ・デ・コンポステーラに達する。レコンキスタ(国土回復戦争)を進める上で、サンティアゴ巡礼が担った役割は大きい。
 途中にはサン・フェルミン祭り(牛追い祭り)で有名なパンプローナがある。例年7月6日から9日間続く熱狂的なこの祭りは、ヘミングウェイの小説『日はまた昇る』で世界的に有名になった。私も一度行ってみたいと思ったことがあったが、この期間はホテルも満足に取れないとか、取れても値上げされるという事で諦めた事がある。又、この期間は治安も良くないようだ。
円形劇場/写真転載不可・なかむらみちお 迫力あるローマ劇場の遺跡/写真転載不可・なかむらみちお  Meridaの駅に降り立ってから真っ直ぐ街の中を15分ほど進み、メリダ最大の見どころ円形劇場ローマ劇場に突き当たった。入口で入場料を支払い中に入り、ローマ遺跡を堪能する。
 紀元前1世紀に闘技場として作られた円形劇場は、102m×126mの大きさで、収容人数一万四千人という壮大なもの。その隣にあるローマ劇場は、紀元前24年に築かれた。舞台の後方に32本の大理石の柱を神殿風に配し、その前に六千人を収容する客席が半円形に設けられている。圧倒されそうな遺跡だ。
 街の中心を通り、途中の食料品店でオレンジとヨーグルトを買う。スペインでもポルトガルでもヨーグルトを買ってもスプーンは付いていない。店頭で食べようとしたがスプーンはないという。店主が手元にあったアルミ箔でスプーンを作ってくれたのでそれで食べた。グアディナ川を望むアルカサバの横を通り、長さ792mのローマ橋を見る。
ローマ橋/写真転載不可・なかむらみちお  この後再び街の中心を通り、繁華街を通って駅へ向う。列車の発車時間までは未だ1時間半もあるが、駅の待合室で待つことにする。
 時間が来たのでホームに出るが、風が強くて寒い。10分ほど遅れてようやく列車がホームに入って来た。ポルトガルでもそうだが、ここでも10分くらい列車が遅れるのはいつもの事である。まあ、誰もがのんびりと暮らしている地方ともなれば、こんな事はたいした問題ではないのだ。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Caceres(カセレス)
 カセレスに着いて早速今夜の宿探しである。駅前のロータリーを渡ってガソリンスタンドで道を尋ねると応対してくれた若い男の店員が地図をくれて親切にそれに記入して教えてくれた。街まで30分ほど歩いてマヨール広場を目指す。
 目指す宿はすぐに見付かったが、満員で断られてしまった。この時期、スペインでは宿探しに苦労はしないとガイドブックに載っていたので次の宿を目指してまた歩き始める。今日は週末の土曜日である。マヨール広場には三軒ほどペンションがあるがすべて断られてしまった。少々焦りが出てくる。最後の頼みとするHostal Goyaに行ってようやく一部屋確保した。ここはすべてツインで、6,500Ptsという。ここを確保しなければ駅前近くまで戻らなければならない。少々予算よりも高いが、風呂もあるという事なのでたまにはまともな所に泊まってみようと思い、思い切ってそこに決めた。フロントで受付している内に別のアベックの客が来たが、満員と断られて出て入った。タッチの差である。
 再び取って返して先ほど来た道を通って駅に向う。明日マドリッドへ行くための切符を買うためである。ここに来る前に買わなかったのは宿が取れるかどうかによって次の行動を考えなければならないので、若し、変更があると切符のキャンセルが面倒になるからである。
 駅で明日のマドリッド行きの切符を買った後、荷物を駅のロッカーに残したまま又マヨール広場に舞い戻り、エストレーリャ門から旧市街に入る。
旧市街の入口となるエストレーリャ門/写真転載不可・なかむらみちお  スペインには古い町が多いが、このカセレスほど中世の町並みを完全に残しているところはほかにないだろう。旧市街はレコンキスタの時代に築かれた城壁に囲まれ、十五世紀から十六世紀にかけて建てられた教会や、貴族の館が並ぶ。まるでそこだけ時間が止ってしまったかのように中世の世界へと誘いこむ。その美しさは、まさに“エストレマドゥーラの宝石”と呼ぶにふさわしい。レコンキスタ発祥の地である。
 サンタ・マリア教会の右手を掠めて階段を登る。その先の曲りくねった道を進む内に方向感覚を失ってしまった。再びサンタ・マリア広場に出ようとするが、何回も同じ道に出てしまう。どうやらぐるぐる廻っているらしい。ポシェット内のコンパスを出してみようかとも思ったが現在位置が分からないと出しても無駄だ。ついに堪りかねて地元の人に訊いてようやくサンタ・マリア広場に辿り着いた。あの難しいと言われているエーゲ海に浮かぶ白い宝石、ミコノス島の街の中でさえ迷わなかったのになんということだ。お蔭様で中世の町の佇まいをじっくりと味わさせてもらった。
郷土料理/写真転載不可・なかむらみちお  今日は土曜日なのですべての店は休みで、レストランとBarしか開いていない。しかし、マヨール広場に行ってみてもあまりパッとしたレストランは見当たらなかった。商店の並ぶ通りを行きつ戻りつして、まぁ仕方がないここにしようというレストラン風の店に入った。店員としばらくやり取りした後席に付き、料理を注文する。出て来たのはトマトと卵のアスパラとレタスのサラダと豚肉のステーキ。ワインは地元の物らしいが結構いける。
 宿に帰って靴下を洗濯した後、久しぶり(ロンダ以来)に風呂に入る。湯の出が悪い。チョロチョロじゃいつになる事やら。ヒーター付きというが全然入っていない。寒い。何が6,500Ptsだ。テレビなんか要らないからもっと安くしろ!荷物を駅のロッカーに入れたままにして来たので洗面具がないのが困った。特に歯磨きと髭剃りが出来ない。石鹸やお手拭き、それに櫛が備えられているが歯ブラシや髭剃りまではない。それでも15分ほどしてから風呂に入ったが、バスタオルはあるがタオルがない。手で体を擦ってバスタオルで拭き取り、寒いので早々にベッドに入る。未だ早い時間だが、昨夜は夜行列車だったのでロクに寝ていないのでゆっくり寝よう。遠くに汽笛を聞きながら…。

   3月28日(日)快晴 Caceres 14:25-(列車)19:20 Madred
 カトリックの国スペインの日曜日は何もかもどこでもすべてが休みだ。バスも列車もこの日ばかりは本数を減らすので往生する。
 今日はその“魔”の日曜日だ。何かある予感がする。気を付けなければ…。7時過ぎに目を覚ますが、どうせやることはない。8時ころに起きてとりあえず顔を洗ってふらっと宿を後にする。空は青空快晴だ。
エストレーリャ門/写真転載不可・なかむらみちお  もう一度旧市街に行き、朝の佇まいをスナップする。駅までは30分余とみて10時5分のマドリッド行きの列車に乗るために9時頃ここを離れることにする。
 マヨール広場から駅に向う途中、街の中に立っている時計が一時間早い。きっと壊れているのだろう。スペインではよくある事だ。次の街角の時計も1時間早い。きっと同じ親時計から制御されているからだろう。しかし、変に胸騒ぎがする。自分の時計が狂ったのか。そんな筈はない。ポルトガルとは1時間の時差があるから列車の中で1時間進めて調整した。昨日カセレス駅の時計と同じだった。メリダに行った時も自分の時計とほぼ同じ時間に列車は走っていた。それでもいやな予感がするので駅に急いだが、どうしても9時5分までには着きそうにはない。駅の近くに来たら長距離列車らしい列車が通過して行くのが見えた。きっと別の列車だろう。しかし、この時間帯に上りの長距離列車はなかったはずだ。
 駅に近付き駅舎の正面に付けられている時計を見ると私の腕時計と同じだ。矢張り街角の時計は狂っていたのだ。その列車は遠く汽笛を残して去って行った。
 駅に着いてロッカーから荷物を出して整理する。時間が余ったので葉書を書く。マドリッド行きの列車の発車時間が近付いてきたが客は全く居ない。変だ。昨日買って置いた切符を駅員に示して訊いたら、その列車はもう行ってしまったという。えぇ!そんな馬鹿な…。駅員は文字を印刷した一枚の紙を示した。そこには“サマータイムに注意”と書かれているらしい。アッ、そうか。今日は3月最終の日曜日だった。今日からサマータイムの実施日だった。すっかり忘れていた。あらかじめ日程表には記入し、知ってはいたのだが、今日からと言う事は忘れていた。しまった!やっぱり今日は“魔”の日曜日だった。
 Travel(旅)の語源はTrouble(混乱した)だと言う。旅に「混乱」は付き物だ。慌てることはない。冷静に対処すればよい。今日中にマドリッドに着けばいい。ケ、セラセラ。アシタマニアーナ。その時私の頭の中ではトランペットスピーカーが「かっこうワルツ」を奏でていた。切符の変更を頼んだ。きっとキャンセル料を取られるだろう。それでも仕方がない。次の列車を頼むと635Pts返してくれた。次の列車は各駅停車なのだ。しかし、マドリッドのアトーチャ駅に着くのが19時18分だが、まあいいか。マドリッドの宿の予約は明日からだが、今日は多分空いているだろう。もし仮にそこが満員でもその付近を探せばどこかにひと部屋くらいは空いているはずだ。19時18分着と言っても昨日までは18時18分で、まだ宵の口だ。
 折角の快晴だが、荷物をロッカーから出してしまったのでこの荷物を引き摺ってまで今さら街に戻って撮影するほどの元気はない。
 時間があるので駅の中のBarの一角のテーブルに陣取って葉書と日記を書いて次のマドリッド行きの列車が来るのを待つことにする。
 ふと、ポケットに手をやり、財布を出そうとしたら無い。シマッタ!やられたか。いつも財布を入れているズボンの右ひざに付いている前ポケットが空だ。ヤラレタ!付近を見渡すがそれらしいヤツはいない。今頃その辺に居る訳がない。犯人が空の財布を捨てたのではないかと思い念の為付近のゴミ箱を見て廻るがない。わずかばかりの金しか入れていないが、マドリッド行きの列車の切符が入っている。さっき切符を買った時には有ったし、切符を入れてポケットに仕舞った筈だ。
 待てよ。もしかして…。ヅボンの尻のポケットに手をやる。あった!良かった。日本ではいつも尻ポケットに入れているので、ついその癖で切符を買った時にうっかり入れたらしい。そろそろ気が緩んできたかな。気を付けなくちゃ…。お騒がせして申し訳ありません。
エストレマドゥーラ  14時25分カセレス発各駅停車の鈍行列車がなだらかな緑の草原や湖を見下ろす山間を縫うようにトコトコと走る。天気が良いのに乗り物に乗っているのはもったいない気もするが、こんなのんびりした旅もいいもんだ。商店が休みでワインを買えなかったのが残念。車内販売も来ないのが辛い。只ひたすらジィーと我慢の子である。
 エストレマドゥーラはワインの鮮度と風味を保つのに重要な役割を果たすコルクの生産地でもある。車窓からはコルク樫の林が間近に延々と続く。Plasenciaから列車は今度は後前逆にまた今来た道を引き返す。Monfrague辺りまで来ると列車の進行方向左前方に雪を戴いた山々が見えてきた。多分グアダラマ山脈の西のはずれのSierra de Gredosであろう。するとあの一番高く見える山はPico Almanzor(2592m)だと思う。その山脈を左手に見て列車はなだらかな草原を走る。
 目次へ   ↑ページの一番上へ



  Madrid(マドリッド)
マドリッドのスーブニール  19時20分、列車は滑るようにマドリッドのアトーチャ駅に到着した。駅に降り立って先ず地下鉄の乗り場を探す。表示が行き届いているのですぐ分かる。改札口で10回券を買って地下鉄に乗り込む。地下鉄の中で女性に私がこれから行くGran Viaを訊ねたら五つ目だと教えてくれた。
 Gran Viaで降りて地図を頼りにホテルに向かって歩き出す。なかなか見当たらない。とうとうPuerta del Solまで歩いてしまった。地図の書き方が悪く、実はホテルはSolのすぐ近くにあった。であればSolで降りたほうがよかったのに…。
 ホテルに着くと部屋が取れた。これでひと安心。ホテルでリコンフアームを頼むと、今日は日曜日なのでやっていないと言われた。そしてBarに行くなら航空券をセフテーボックスに入れて行けと言われたが預けないで持って出かけた。この辺は夜は物騒なので安カメラ一台だけ持ってなるべく明るい近くだけぶらつく事にする。とにかく腹が減ったが、今日は日曜日なのでスーパーは開いていない。どこか適当なレストランかBarでもと思い、近くを歩いてみた。
 安くて美味いタバス(小海老の鉄板焼きや、ゆでたムール貝にレモン汁をかけたものなど。小皿料理)を食べさせるバルやメソン(古い建物を利用した居酒屋)がひしめきあっているというEsp0z y Mina通りとVictoria通りに行ってみる。まぁ、いいかなと思う店をマークして、もう少し近くを歩いてみる。と、少し地味な店があった。一寸チェックするために覗いてみるとテーブルでビールを飲んでいた日本人の男に声を掛けられた。「まぁ掛けませんか」と半ば強制的に勧められたので“チョットだけよ”と思ってそこに座った。自称カメラマンというその男は結構調子よく、話好きだ。疲れているので早く宿に帰って寝たいと思ったがつい21時頃までワインなどを飲んで過ごしてしまった。いざ勘定をしてもらうと2,000Pts以上にもなった。スーパーで買えば一本600Ptsのワインがその2倍の1,200Ptsについている。これならばレストランの定食の方が安かったが、まぁいいか。

   3月29日(月)晴れ Madrid
 今日は月曜日なので予定していたプラド美術館と考古学博物館は休みである。地下鉄でスペイン広場へ行った後、近くのJCBに行って帰国用の航空券のReconfirmをしてもらったり、いろいろの情報を聞いた後、王宮とソフィア王妃芸術センターに行って有名なピカソの『ゲルニカGuernica』をみることにする。
スペイン広場の中央にはセルバンテスの像が建っている/写真転載不可・なかむらみちお  セルバンテスがドン・キホーテとサンチョ・パンサの像を見下ろすように立っている有名なスペイン広場は危険地帯の一つに数えられている。スリやひったくりなどが多く危険だと聞かされていた。突然後ろから突き倒されたり、首を絞められたりして金品を奪われる。
 充分注意して周りを慎重に見回してみたがそれらしい怪しい人影は見当たらない。それでも充分注意してカメラは一つひとつリックから取り出して写した後、又、リックに仕舞うという風に用心して慎重に行動した。
 “悪い奴ほどよく眠る(旧約聖書箴言4章16節)”朝の時間帯には彼らは未だご出勤していないらしい。何はともあれ油断は禁物。
 太陽の加減は午後からが良いので一先ず写した後、また後で王宮の帰りにでも寄ってみることにする。
 1948年完成当時、ヨーロッパいちの高さを誇ったJCBの入っているマドリッド・タワービルはすぐ近くにあるのだがなかなか入口が見つからない。そのビルの周りを一回りしてようやく見つけた。
 JCBでは日本人女性が親切に応対してくれた。Reconfirmもやってくれた。JCBの窓からはマドリッド一番の大通りグラン・ビア通りが真正面だ。久しぶりに日本の新聞(朝日)を見たがナトーがコソボを攻撃した事以外はあまりこれといったニュースはなかったが、大相撲で横綱全員が休場というのが目を引いた。何と言う事だ。日本の国技も地に堕ちたものだ。これじゃさぞ面白くないだろう。休場の理由は分からない。
マドリッド・タワーよりグラン・ビアを望む/写真転載不可・なかむらみちお  事務所の女性と雑談した中で、「スペイン広場は本当に怖いのでしょうか」と質問したところ、「なるべく近付かないほうがいいですよ」との答だった。「昨夜もあの付近で日本から到着したばかりの女子大生が襲われて荷物全部を持って行かれたがどうしたらいいだろうと相談に来た」と話してくれた。空港から市内中心部にあるコロン広場までバスが往復している。コロン広場の地下にあるバスターミナルから地下鉄に乗るには、先ず黒い螺旋階段を上って地上に出る。この辺りでは日本人旅行者をターゲットにした強盗や引ったくりが多発している。と、ガイドブックにも注意書きがある。特に早朝・深夜・日曜日の午前中など、人気の少ないときが危険である。そういう連中は主にアフリカ方面から来たアラブ系の人が多いと言う。
フランス・イタリア風の王宮/写真転載不可・なかむらみちお  歩いて王宮に着いたら入口で持ち物をX線検査された。ここは前に一度見ているところだが、改めてその豪華さに目を見晴らされた。
 再びスペイン広場に来てみると、陽の廻りがいいのでもう1度撮り直した。この後地下鉄でシベーレス広場の中央郵便局へ行く。その華麗な姿から郵便局とはとても信じられない。ここまで来たのは家と友人に葉書を出すためと、この窓口ではスペインのカラフルな切手が多く買えるのでそれを貼って出すためである。この後、地下鉄でアトーチャ駅へ行き、近くのレンタカーの店を確認する。
 腹が減ったのでアトーチャ駅前のカフェでサンドイッチを食べる。ソフィア王妃芸術センターはその近くだ。建物の外観は近代的だった。早速エレベーターで二階に上り、ピカソの『ゲルニカGuernica』を観た。以外に大きかった。テレビで見た時には確かガラス張りに入っていたようだったが、ここでは剥き出しになっていて驚いた。
 スペイン内乱が始まった翌年の1937年4月26日、バスク地方の小さな町ゲルニカがドイツの爆撃機によって爆撃された。人口6000人のうち598人の死者、1500余人の負傷者を出した。惨事を知ったピカソは、同年のパリ万博のために依頼されていた作品のテーマに『ゲルニカ』を取り上げ、制作に打ち込んだ。それは戦争への怒りと、生命の尊重を全世界にアピールしている。その他、展示されている作品はモダンであまり興味がなかった。
 ホテルの近くにあるデパート地下のスーパーでリオハのワインをはじめハモン(生ハム)や食糧を買い込んでホテルに帰る。今日は久しぶりに風呂に入った後ワインで一杯やって早めに寝る事にしよう。

   3月30日(火)晴れ Madrid-(バス)Aranjuez-(列車)Toledo-(バス)Madred
マドリッド周辺  6時起床。窓から空を見るとビルの谷間に星が見えていた。8時頃ホテルを出て地下鉄で南バスターミナルのあるMendez Alvaroに行く。インフォメーションで訊くと9時発のアランフェス行があると言うので急いでそれに飛び乗る。今日は調子がいい。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Aranjuez(アランフェス)
王室の離宮として建てられた王宮/写真転載不可・なかむらみちお  アランフェスでバスを降り、付近の人に王宮の方向を訊ねたら「アギー(あっち)」と言って指差した。10分ほど歩いて王宮に着いたが、開場は10時なのでまだ開門していなかった。先ず、王宮正面の写真を撮っているうちに門が開いた。
 荒野が多いカスティーリャ地方の中では、珍しく沃野にあるアランフェス。その豊かな環境のため、古くから王家の保養地として使われた。
 中に入るとここでもまたレントゲン検査の上、カメラとリックを預けさせられてしまった。手ぶらで中を見る。もうこの種のものは見飽きたので、あまり興味がないのだが、まとめて誘導員が説明して歩くのでそれに従わなければならないのが辛い。
王宮/写真転載不可・なかむらみちお  王宮を出て農夫の家へと向う。かなりある。カメラの入ったリックがズッシリと肩に掛かる。どこからともなく、噴水の水の音がかすかに聞こえて来る。そんなロマンチックな庭園を散策するとき、あのロドリーゴの名曲『アランフェス協奏曲』のメロディーが静かに流れてくるようだ。
 ようやく農夫の家に着くと、なんと、ミニSL型の自動車が観光客を乗せて到着した。こんな良い乗り物があるのなら乗ってくれば良かった。残念。帰りには乗ろう。
 農夫の家でもまとめて女の誘導員が案内して廻る仕組みになっているが、特に興味のあるものはなかった。この離宮が造られる前に農家があったことからその名が付けられている。このネオ・クラシック様式の建物は18世紀の終り頃にカルロス4世が狩や保養の目的で建てさせた物。
駅舎内のBar/写真転載不可・なかむらみちお  帰りはミニSL型自動車で王宮まで行き、そこから鉄道の駅まで歩く。駅に着いたがトレド行きの列車までは間があったので駅舎内のBarでラ・マンチャ地方の典型的な村チンチョン(Chinchon)の名物であるアニス酒を試して見る。これはギリシャのウゾや、トルコのラクのような臭いと味がする上に甘味を加えたようなものだった。その甘味が甘ったるくてあまり好みではない。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Toledo(トレド)
 三方をタホ川に囲まれ、クレタ島生まれの画家エル・グレコが後半の生涯を送った頃と同じ中世の佇まいを今も残す町トレドは、今もイスラム文化を色濃く残す町である。
 列車でトレドに着き、駅前からバスで町の中心まで行く。そこからカテドラルを越えて川の向こうに行こうとしたらどうした事かめぐり巡ってまた元の処に来てしまった。振り出し戻りである。改めて川の方へ下って行く。対岸に目指す撮影地点の様な所があったので橋を渡ってそこを目指す。しかし、そこには建物があって見張りの兵隊が立っていた。その兵隊に訊いてもう少し南へ廻り込むことにする。
 登りの坂道をかなり歩いた。日差しが強く、汗が出る。行けども行けども目指す地点には着かない。こんなことならタクシーで来ればよかった。通り掛かりのタクシーでも拾おうと思ったが全く来ない。ついに目的地まで歩いてしまった。
タホ川を隔てて見るトレドの全景/写真転載不可・なかむらみちお  タホ川を隔てて遠くから見るトレドの全景は圧巻だ。そこは通称展望台というところだ。まさしくここである。ガイドブックの地図には明記していないので苦労してしまった。天気も陽の回りもいい。早速撮影に掛かる。満足のゆく写真が撮れたようだ。もう街を見る元気はない。そのままバスターミナルへ歩いて向う。そこからバスに乗ってマドリッドへ帰った。明日はいよいよレンタカーでラ・マンチャ地方を走る。今夜は早めにゆっくり寝よう。(この日の歩数は37,051歩)。  

   3月31日(水)晴れたり曇ったり Madrid-(レンタカー)Consuegra-Campo de Criptana-Mota del cuervo-Belmonte-Madrid
 ラ・マンチャ地方には、公共の交通手段がほとんどない。今日はいよいよレンタカーでラ・マンチャ地方を廻る。交通事故が心配だ。今回の旅で一番緊張する日である。左ハンドルはどうも道幅の間隔になれにくいし、それに高速道路を走っている内はいいのだが、街に入ると道が複雑でどちらへ行ってよいのか分からず迷子になりそうだ。
 9時。約束の時間にアトーチャ駅内にあるハーツのレンタカー会社に行く。手続を済ませて駐車場に行くと指定の場所に車があった。緑色の車だ。車の回りや各部を点検する。バックの入れ方が分からない。駐車場のゲートマンに訊いていざ出発。無事高速道路に乗れたが、途中で三叉路になっていてどっちへ行ってよいのか分からなかったので真ん中を選んだ。果たしてこの道でよかったのだろうか。少々心配だったので、次のガソリンスタンドに寄って確かめてみたらOK。ラッキー。
 道は良い。道路標識も良く整っている。120qから150qで走る。あらかじめ地図で計っておいた距離に来たが目差す地名が出てこない。休憩所に入って訊くと、そこは2番めの目的地Puerto Lapiceだった。第一の目的地Consuegraから17qほど来過ぎてしまった。再び反対の道路を通ってマドリッド方面に引き返す。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Consuegra(コンスエグラ)
ラ・マンチャ地方 コンスエグラでは毎年10月にはサフラン祭りが行なわれる/写真転載不可・なかむらみちお  第一の目的地Consuegraに近付くと風車は丘の尾根に沿って綺麗に並んでおり、村の入口には痩せ馬ロシナンテに跨ったドン・キホーテのシルエットの絵が迎えてくれた。先ず、そこで一枚写した後、村の中を通り、丘の上の風車群まで行く。この村はスペインの米料理パエリアに欠かせないサフランの産地としても有名である。丘の上からは隣町まで見えるくらい見晴らしがいい。絵になる。ラ・マンチャの男がこの風車群をドラゴンと思った。古城と数基の風車が見えるところで早速撮影に掛かる。そこを一時間ほどで済ませた後、先ほど行ったPuerto Lapiceに行く。

  Puerto Lapice(プエルト・ラピセ)
プエルト・ラピセのレストラン/写真転載不可・なかむらみちお  そこにはセルバンテスも泊まったという旅篭屋ラ・ベンタ・デ・ドン・キホーテの跡がある。現在はレストランで、博物館も兼ねている。ドン・キホーテ像が迎えてくれる。行って見ると店の前には駐車整理のおじさんがいて、手招きしていた。彼の指示通りに車を駐車して店の中に入ると大勢の観光客で賑わっていた。Barの前には行列ができていた。ここでコーラを一缶買ってそれを飲みながら店の中を見て回った。痩せ馬に跨ったサンチョパンサの木彫りがあったが買うのを諦めた。博物館は時間の関係で閉まっていた。

 ※セルバンテス(1547〜1616)の長編小説「ドン・キホーテ」…当時流行した騎士道小説を風刺した「ドン・キホーテ」(1605・1616)によって、世界的な名声を博し、ある意味で近代小説を作り出した。「ドン・キホーテ」はスペインの小説であると同時に世界の、いや人類の小説である。

 次ぎはカンポ・デ・クリプターナへと向う。この頃から空は雲ってきた。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Campo de Criptana(カンポ・デ・クリプターナ)
風車群/写真転載不可・なかむらみちお  ここも丘の上に9基の白い風車が青い空にアクセントを付けていて美しい。写真的にはまとまりにくいので写すのは止めた。「逃げるな、臆病者め」。夢と幻想に生きたドン・キホーテはこの風車群を巨人ブリアレオと見間違え、槍を小脇に愛馬ロシナンテに跨って突進したという。あの有名なシーンはここで繰り広げられたとされている。風車の一つは内部を見学することが出来る。

  Mota del cuervo
 次ぎはMota del cuervoだが、ここにも丘の上に数基の風車が並んで建っている。絵にはなりそうにないが、一応は見てみようと町の中を通って向ったが、行き着けない内にメイン道路に出てしまった。面倒なのでここは省略して次の目的地ベルモンテ城へと向った。ところが地図上で11qを通り越しても城もベルモンテの村も現われない。変だ!良く見ると道路脇に表示している道路番号が地図とは違う。道を間違えた。すでに20qほど多く走っているがそこからUターンして今来た道を戻る。確かにMota del cuervoまでは正しかった。きっとMota del cuervoを通過した辺りで道を間違えたらい。気を付けていたのにこんなことになるなんて信じられない。俺はまさに風車群を巨人ブリアレオンと見間違えて風車に突進したドン・キホーテと同じようにMota del cuervoの風車群に惑わされた“今様ドン・キホーテ”か?
 途中のMota del cuervoから右に折れて数q。車は全く通っていない。道はどこまでも真っ直ぐだ。両脇には建物も何もない荒野の中の田舎道を時速150qほどでベルモンテ目指して車を飛ばす。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Belmonte(ベルモンテ)
 前方に目指すベルモンテ城が現われてきた。ここにドン・キホーテとサンチョパンサが食事のために立ち寄ったという。ここは小村ながら、村を望む丘の上にベルモンテの城があることで知られている。ラ・マンチャ地方の要衝として築かれた城は原型をよく残し、スペインの代表的な城のひとつに数えられている。
ベルモンテ城/写真転載不可・なかむらみちお  丁度その頃今迄曇りだった空から太陽が顔を出した。チャンスだ。城の前で車を止めて撮影ポイントを探るが、どうも今いる位置が低い。城から道路を隔てた反対側は塀に囲まれた小高い丘を持つ庭園だ。どうもそこがアングルとしては一番良いようだ。そこでは二人の人が庭を手入れしていた。ダメ元で頼んで見たら門の方へ行けと言う。シメタ! 門を入って丘の上に登って撮影。OKだ。お礼に日本製のたばこをひと箱差し出した。
 城に行ってみたらもう6時になったので今日は閉場と言う事で中は見られなかった。これから再びコンスエグラに行って夕陽に染まった風車群と古城を撮りたい。
 帰り道、果てしなく真っ直ぐな道の向こうの平原に真っ赤な大きな太陽が間もなく沈もうとしている。間に合うだろうか。その夕陽を追って私は時速140qで車を走らせた。今まさに沈まんとしている太陽を追っての競争だ。

  Consuegra(コンスエグラ)
 途中街に入る度に何度か道に迷ったが、なんとかコンスエグラに着く事が出来た。夕陽に照らし出されたコンスエグラの風車群と古城のシルエットは美しかった。
 マドリッドのレンタカー会社は夜11時まで開いているという。もし、それ以後なら駐車場の係員に鍵を預けてゆけばいいと言っていたと思うのだが、聞き間違いとかこちらの一方的な解釈と言う事もあるので、なるべく閉店前に帰って車を返したい。
 8時半に陽は沈んだ。もう30分もすれば夜景が撮れる。9時にここをスタートすれば道さえ間違えなければ2時間足らずでマドリッドに着くだろう。9時まで粘ることにする。
丘の夜景/写真転載不可・なかむらみちお  8時50分、空が少し落ちだしたが、まだ地上とは明るさが2ステップの差がある。あと10分で9時だが、それまでにはなんとかなるだろう。9時5分前、空と地上の照度差が1ステップになった。もう少しだ、頑張ろう。
 辺りは薄暗くなり、人影はない。物騒だ。と、その時一台の車が来て丘の麓に置いた私の車の横に停車した。人が降りる。暗くて良く分からないが若い男のようだ。他に誰もいないこんなところで襲われたらどうしよう。
 いよいよタイムアウトの9時だ。空と地上の差が零となったが、出来れば空が−1ステップになるほうが良いが辺りが暗くなって物騒なのとマドリッドに11時までに着きたいので、ここらで妥協する事にして撮影開始。
 撮影後急いで機材を片付けて夜の帳の降りた夜道をマドリッドへと急ぐ。途中時速150qほどのスピードで高速道路を一路マドリッドへと向う。マドリッドの手前2qまで来た時、道路が三つに分かれている。どれを通ったらよいのか分からなかったが、右の道を選んだ。阿弥陀籤引きのようなものだ。これが拙かった。そのまま進んで行くとセビーリャ行きの表示が出てきた。このままこの道を進むとマドリッドから遠退いてセビーリャへ行ってしまう。次のインターで高速道路を降りることにした。高速道路を降りたところにガソリンスタンドがあった。ここはスペインでは珍しく自分で給油する方式のスタンドらしい。でも、スタンドの人に頼み込んで給油して貰った後、マドリッドへの行き方を教えて貰った。不安を抱えたまま再び走り始める。細く暗い田舎道のような小道を通ってどうやらまた高速道路に乗れた。
 高速道路を降りたところで前方にパトカーがいた。サイドブレーキを引き車から降りてパトカーに道を尋ねようとしたら、パトカーが発進してしまった。慌ててクラクションを鳴らすとパトカーが停まってくれた。車から降りて道を尋ねる。前方の信号を右折して直進するとアトーチャ駅だと言う。その通りに行くとやがて見覚えのあるアトーチャ駅の脇に辿り着いた。しかし、駐車場になるパーキング場が分からない。アトーチャ駅に沿うように道を進むとエイビスレンタカーの看板を見つけた。これで助かったと思って進む。駐車場に入ったが、待てよ前回はエイビスだったが、今回はエイビスではなかったはずだ。私が今回借りたのはハーツだった。そこから出て再びアトーチャ駅沿いに廻るがハーツの駐車場は分からない。もう1度アトーチャ駅の周りを回り、折り良くタクシー乗り場にたむろしていた運転手に尋ねるとあそこだと指差して教えてくれた。なるほどそこにそれらしい駐車場があった。そこに車を進めると今度は間違いなく見覚えのある駐車場で、ハーツの看板も出ていた。
 中に入ると駐車場の一部を借りているらしいハーツの駐車場は満杯で、今朝この車があった場所にも別の車が停まっていた。そこで仕方なくそれらの車の前に駐車し、駐車場の係員の所に鍵を持って行ったら店に持って行けと言う。店は開いているのかと聞くと開いていると言う。半信半疑で今朝手続をした駅から少し離れた駅の近くのハーツのレンタカー会社に行ってみると店がまだ開いており、客もいた。
 店に鍵を返して地下鉄でホテルに帰って来た。ヤレヤレ、何事もなくて良かった。実は車を運転するという事が今回の旅の中で一番の重荷であり、若し事故でもあったらどうしようかと、それが最大の心配事だったが、何事もなく済んで本当に良かった。3月3日から35日間スペイン・ポルトガルを回ってきた中で一番充実した1日だった。その晩は安心して寝た。
 後日帰国してから北海道新聞の投書欄に次のように投書した。

丘の上の風車群/写真転載不可・なかむらみちお  「旅のメモリー」ドン・キホーテゆかりの地を走る。
 ラ・マンチャにはひとり旅が似合う。サフランの村コンスェグラの丘の尾根に沿って崩れかけた古城の廃墟と数基の風車が綺麗に並ぶ。丘の上から見た村の風景は見晴らしが良く、イメージ通りのラ・マンチャであり、居並ぶ風車の風景はまさしくドン・キホーテの世界で旅情をかきたてる。白い街並みの見える周囲の風景は、多分当時とほとんど変わっていないに違いない。
 セルバンテスが何度も泊まったという旅篭屋は現在レストランになっており、そこで昼食を摂った後、ドン・キホーテとサンチョパンサが食事のために立ち寄ったというベルモンテへと車を走らせる。
 帰り道、果てしなく真っ直ぐな道の向こうの平原に真っ赤な大きな太陽が沈んだ。その夕陽を追って私は時速140qでマドリッドに向けて車を走らせた。充実した1日だった。

   4月1日(木)小雨後晴れ Madrid-(バス)Segovia
マドリッド  昨夜は遅かったし、セゴビアのアルカサルは午後の方が陽の廻りがいいので、今日はゆっくり行く事にする。明後日もまたこのホテルに泊まる予定なので荷物をフロントに預け、身軽になって出かけることにする。セゴビアにはバスで行くために8時頃宿を出た。朝の内曇っていたので、ポルトガルの二の舞を踏まぬよう雨具を持って出た。
 ホテルを出ると小雨が降っていた。今日は写真はダメかもしれない。しかし、'81年に来た時にセゴビアのアルカサルは撮っているので今回例え撮れなくても特に困らない。
 プリンシペ・ピオ駅まで地下鉄で行き、駅前のバスターミナルからバスで行く。バスターミナルの場所は少し分かりにくい。ターミナルに行くと出発場所は地下になっている。折りしも今丁度良くセゴビア行きのバスが乗客を乗せていた。乗る前に切符を買う事になっている事が分かり、大急ぎで階段を駆け上り、切符を買ってきてバスに乗り込む。
 バスは小雨の中を北西に向かって95q離れたセゴビアに向って走る。窓が結露で曇って外の景色は全く見えない。この途中には'81年に城の写真を撮りに来た時マドリッドからタクシーで行ったManzanares el Realがあるはずだが、それもどこだか分からない。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Segovia(セゴビア)
スペイン最大の水道橋/写真転載不可・なかむらみちお  セゴビアに着く直前頃から晴れてきた。バスターミナルから街に向かって歩き出す。ローマの水道橋近くのインフォメーションで地図を貰った後、アソゲホ広場の上に掛かる水道橋を写す。左側の階段を登ったところにある展望台からの眺めが良い。
 この橋は1世紀後半から2世紀前半にローマ人に依って築かれた。この巨大な水道橋の全長は728mに及び、最も高いところはアソゲホ広場付近で29mに達する。アーチの数は計167個ある。この水道橋を築いている各石の間にはいかなる接合材も使われていない。母国イタリアを遠く離れたこの地に、今なお彼らの残した足跡が息づいているのには驚くばかりだ。1884年まで水は上部を通ってセゴビアの町に供給されていた。
 先ず、今夜の宿を探さなければならない。アソゲホ広場から西に延びる坂道を通り抜けてマヨール広場に出る。ガイドブックを頼りに近くのホテルを片っ端から当ってみるがどこも「コンプレート(満員)」とにべもなく断られた。この季節、スペインでは宿には困らないと書いてあるが事実は違うのか。少々焦りがくる。(アシタマニアーナ)。
 ここから2q離れた駅の近くに行けば安宿はいくらでもあるのだが、今さらそこまで行くのもしんどい。やむなくこの付近のインフォメーションを探し当て、そこで宿を探してもらうが、安宿はなかなか見付からない。「少々高くてもいいか」と言うので泊まる所がないとどうにもならないので、とにかく泊るところを確保しようと思い、「OK」と返事する。程無くホテルが取れた。ここからアソゲホ広場へ行く途中にあるこじんまりした中級ホテルHotel Las Sirenasだ。料金は6,000Pts+税という。まぁ、たまには高いホテルもいいか。
 部屋に入って見るとなかなかいい値段だけのことはある。マドリッドのホテルよりもいい感じで、今回の旅の中では最高だ。宿が決ったら天気も回復してきたことだし、アルカサルの撮影に出かけよう。
遠くからでも目立つカテドラル/写真転載不可・なかむらみちお  アルカサル(宮殿)への近道は地図によるとサン・エステバン教会の横を通って行く事と判断してその教会を目指す。その手前のカテドラルはスペイン最後のゴシック式大寺院で、そのスッキリした気品のある様子から“カテドラルの貴婦人”と呼ばれている。
 ロマネスク様式のサン・エステバン教会の塔は高さ5.3mの六層に積み上げられていてなかなか美しい。そこからアルカサルの裏に廻る道に向かって進む。
 城(アルカサル)はクラモレス川とエレスヌ川の合流点、三角形の台地にある。急な階段を降りて昔来た覚えのあるアルカサルの裏に行ってみるとそこは昔とはすっかり様子が変わっていて芝生の公園となっており、何組もの若者たちが車座になって楽しんでいた。駐車場も出来ていてすっかり公園化している。
 新緑の萌えるアルカサルの写真を撮りたくてあえてこの季節に旅の予定を組んだ。崖の上に聳えるアルカサルの下には若葉の樹木が立ち並ぶ。桜の花が美しく咲いている。それらを入れ込んで眼の上に聳えるアルカサルを写す。
アルカサルの華麗な姿/写真転載不可・なかむらみちお  最もヨーロッパ的なフォルムを持ち、エレガントな香を漂わせているこのアルカサルはディズニーの映画「白雪姫」のお城のモデルになったスペイン第一の名城である。記録によると、以前は戦略上の位置を利用した見張りの為の要塞があったところで、14世紀の中ごろ城が築かれ、15世紀以降数世紀にわたってこのアルカサルに住んだ代々の王たちに依って増改築された。1474年イサベル・ラ・カトリカがこのアルカサルを出て、カスティーリャ王国の女王として即位する事を宣言、戴冠式がここで行なわれた。以後スペイン再征服に向けて活躍した。

騎士のステンドグラス・アルカサル内/写真転載不可・なかむらみちお  ※イサベル…カスティリアの女王。アラゴンのフェルナンドと結婚して、スペイン統一の基を開いた。王と共にローマ教皇からカトリック君主の称号を授与。コロンブスの航海を援助した(広辞苑)。

 撮影の後、また急な階段を登り、アルカサルの内部を見る。各部屋には古い家具や甲冑が収められ、当時の武器も展示されている。昔来た時は二階や屋上も見られたのに、今回は一階のみしか公開していなかった。  夕食はセゴビア名物の「仔豚の丸焼き」を食べることにする。その前に先ず風呂に入り、まだ時間が早いので部屋で少し休む。
 7時に宿を出てローマ水道橋のすぐ下にある目指す仔豚の丸焼きの店に行く。その前に水道橋の写真を撮る。全国的に名を知られたレストランMeson de Candidoに行くとドアは半開きになっていたが、ボーイがスペイン語で何か言って中に入れてくれない。押し問答の末、予約を入れて夜8時に改めて訪れる事にする。それにしても少々寒いし、風呂上りでもありどうやって時間を過ごすか困った。風邪でも引いたら困る。
 明日のためにバスセンターを確認しておく。バスターミナルから帰って来ると何かパレードが始まった。8時になったがそのパレードを少し見てからレストランへ行く事にする。
セマナ・サンタのパレード/写真転載不可・なかむらみちお  カトリック教特有の覆面をした人々がラッパや太鼓を鳴らしながら水道橋の方からセゴビアのメインストリートCervantesの坂道をカテドラルの方へと向かう。神様らしい像の山車を担いだ人、中には十字架を背負った人もおり、まるで映画のロケでも見ているような場面が展開されていた。
 仔豚の丸焼き一匹まま出てきたらどうしよう。とても一人では食べきれない。でもたまにはそんな食事もいいかもしれない。レストランに行くと今度はすんなりと二階に案内されて席に着いた。早速ここの名物の仔豚の丸焼き(2200Pts)とワインを注文する。15世紀の家を改装した店内もいい雰囲気だ。ワインは取っ手の付いた壷に入れられていた。やがて仔豚の丸焼きが来た。四半身だった。これなら残さず全部食べられる。安心した。表面が茶色にこんがりと焼けていた。ナイフとフォークを当てると表面がカリカリしていた。一口食べるとゼラチン質が口の中に広がり、とても美味しい。塩味も丁度いい加減だ。スペインに来て初めて美味しい物を食べた気がする。至福のひと時だった。
仔豚の丸焼き/写真転載不可・なかむらみちお  デザートはさらさらとしたアイスクリームのようなものだ。Sorpresa(ソールプレットー)という物らしく、なかなか美味しい。どう美味しいかと問われても表現が難しい。どうしても知りたい方はセゴビアに来て是非1度試してみる事をお薦めする。
 窓外ではパレードか佳境に入っていた。店のボーイに聞くとSemana Santa(セマナ・サンタ=聖週間)のお祭りの行事だと言う。そういえばこの街に着いた時から日曜日でもないのにBarやレストラン、おみやげ物店以外の商店が軒並み閉まって休みだったり、町の人もなんとなくのんびりしていた。今の時季にしてはホテルが満員というのも理解出来なかった。インフォメーションでも「今はお祭りだから宿は取りにくい」と言っていたようだし、第一この規模の町にしては異常に人出が多く、子供たちは着飾っているようだった。何か宗教的なお祭りに当るらしい。年によってその日は移動する。ガイドブックには'98年は4月10日が聖金曜日とは書いてあったが、聖週間は書いてなかったので知らなかった。やせ我慢になるが、旅はハプニングがあるから面白い!

 ※セマナ・サンタ(聖週間)とはイースター(復活祭)前の一週間の事で、スペイン全土にわたる宗教的祭りの事。なかでもセビーリャのものは世界的に有名。三角のトンガリ帽子を頭からすっぽりとかぶった、異様なスタイルの信者会員(コフラディーア)たちに続いて、豪華な燭台にかこまれた十字架を背負うキリストやガラスの涙が頬を伝う聖母マリアの像の山車(パソス)などが行列する。山車は長さ6m、幅3m、高さ4.5mぐらいあって数十人の男達に担がれる。教区の教会ごとに守られてきた像の山車が曜日によって巡回するが、12時間近くも街を担いで歩くのだから、まさに苦行といってよい。行列が通過していく時に人々が歌うサエタが、熱狂と感動をより高めていく。(「地球の歩き方」より)

   4月2日(金)晴れ Segovia-(バス)Coca-(ヒッチ)Segovia-(バス)Madred
 セゴビアからコカ行きのバスは10時30分と18時45分の2便しかない。10時で行くと帰りは当然夕方の便だけ。それに乗り遅れたら果たして今日中に帰って来られるのだろうか。最悪の場合タクシーで帰って来るしかないが、小さな村だからタクシーが有るとは限らない。
 バスの時間までまだ間があるのでもう1度マヨール広場まで行ってカテドラルを写しに行く。カテドラルは朝の光を逆光に浴びて輝いていた。広場で日本人の2、3人のグループに会った。一人の男の人が連れの人に説明している。ここのガイドらしい。私はそのガイドらしい人に声を掛けた。「昨夜、行列を見たがあれは何ですか」と訊ねると、その人は「今週一杯復活祭のお祭りなのでセマナ・サンタの行事があったのです」「今はスペイン全土がお祭りです」と答えてくれた。なるほど、それで人出も多く、商店も休みなのだ。当然バスの時刻表も休日用で普段よりずっと便数が少ない。特に金曜日はキリスト教徒にとっては特別の日ときている。だから街を挙げてお祭り騒ぎなので、宿も満杯と成っているらしい。それを知らなかったのは誤算だった。
 セゴビアの町を後にしてバスは田舎の一本道を北西に向けて走る。ひときはカテドラルが町並みの中に飛び抜けて見える。途中二ヶ所ほどで乗客を降ろした後、1時間ほどでコカの村はずれに着いた。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Coca(コカ)
 正面にお城のような古い建物があるが、コカ城とは形が違う。一緒にバスから降りた夫婦が、「コカ城はあちらだよ」と左の方向を指差して教えてくれた。道を左手に取ると村はずれのすぐ目の前に赤レンガ造りのがっしりとした大きなコカ城が見えた。緑もまばらな乾いた小さな村落に、静かな姿を残している。
コカ城/写真転載不可・なかむらみちお  「14世紀にセビーリャの大司教ドン・アルフォンソ・デ・フォンセカの命によって築かれたこの城は、レンガを用い、きわめて特色のある形態をしている。中近東の築城術インドあたりに入って大成されたような様式、スタイルを持ち、三重の濠、城壁、中心にあるキープにもすべて特色がある。レンガの芸術品という呼び名もある。(「定本・ヨーロッパの城」井上宗和著・朝日新聞社)」
 お目当てのアングルは城の裏側で、今は日陰になっていた。あそこに陽が廻ってくるのはおそらく午後も遅い時間であろう。一応ロケハンを兼ねてアングルを探す。写真で見たアングルには松の木が生い茂っていて見通すことが出来ない。その付近に古い倉庫のある塀を廻した敷地があったので塀沿いに周ってみる。塀が谷に落ち込む辺りで切れていた。そこから人一人くらいようやくすり抜ける事が出来るくらいの隙間が有ったので中に入ってみた。中は農機具置場らしく誰もいない。その敷地の建物と建物の間から樹木の間を通して僅かばかり城が見えるところがあった。あまり良くは見えないが一応写しておく。
 一旦敷地を出てさらにアングルを探す。道路の反対側が少し小高い丘に成っていたので登ってみる。砂地でオートバイがオフロードの練習をしたような轍の跡がある。そこからはまぁまぁのアングルだ。一応本命をここに決めて逆光でもいいから2、3枚撮っておく。あまり光の角度は良くないが午後に期待しても曇ってしまう事もあるので一応押さえておく。これで後は光線の角度が良くなるのを待つだけだ。それまで時間があるので城の中を見る。門を入っても料金所がない。城の塀に登って一回りして見る。城の中に入る入口があった。あまり見る物はないとは思ったのだが一応入ってみる。入場料は300Ptsで1時まで待てという。中庭に入って待っていると1時に案内人が来て案内を始めた。その後、城の内部に入って見るものと思ったら、それで終りだった。なんだこれだけか。これで300Ptsは高い。
 腹が減ってきた。こんな小さな村に食べる所があるのだろうか。どんな小さな処でもスペインではBarくらいはあるので探してみよう。
 村の中心部の方へ少し歩き出すと、レストランの方向指示標識があった。その方向に行くとBarがあった。レストランとはこの事か。田舎だから仕方がない。中に入ってビールを一杯飲む。店の人に何か食べる物はないかと訊ねると、2階へ行けという。二階への入口はなんとなくプライベイトの入口のような感じで本当に上って行っていいのかどうか迷ってしまう。もう1度店員に訊くと矢張り同じように二階へ行けというのでまぁ物は試しとばかりに二階へ上ってみる。
 そこにはテーブルが結構沢山あって成るほどレストランらしい感じではある。初老のおばさんが一人ポツンと椅子に座っていた。
 メニューを持ってきたがスペイン語なので読めない。「お薦めは?」と本に書いてある文字を指差した。何か言っているが分からない。面倒なので「定食」という文字を指差したら、うんと頷いた。ワインを注文したら普通のコップに入れて持ってきた。まぁいいか、ここは田舎なのだから。果たしてどんな料理が出てくるか楽しみではあるが、怖い気もする。
 出て来た料理はチキンの煮たものであった。味は不味くない。まぁいいだろう。食べていると夫婦者らしい人が入って来て何か料理を注文していた。その内子供連れの女性が来て奥のテーブルで店の女主人と話をしている。きっと下のBarで働いていた男の女房で、この子供たちは孫なのだろう。
 支払いをしようとしたらカードはだめというので現金で支払った。先ほど来た夫婦者はきっと車で来ているのだろう。上手くゆけばセゴビアへ行くかもしれない。セゴビア行きのバスは夕方17時40分発しかないがお祭り中なので果たして運行するかどうか分らない。下手をして乗り遅れたらアウトだ。ここは厚かましくヒッチとゆこう。
 かの夫婦が食事を終えて立上るのを待って話しかける。矢張り車だった。セゴビアまで乗せて行ってくれと頼むと即座にOKしてくれた。但し、これからコーヒーを飲んでから3時に出発するからこのレストランの一階で待てという。シメタ!私はもう一度城を写してからここへ帰って来るから宜しく頼むと言ってとりあえず日本から持ってきたたばこを一箱手渡して別れた。
コカ城/写真転載不可・なかむらみちお  再び先ほど決めておいたアングルへ行って見ると光の状態がまだ少し早かった。3時までにはあと40分しかないがここからレストランまでは10分弱。10分前には行って待っていないと拙いと思い、マキシマムを14時40分と決めた。それまでには上手くゆくと城壁に光が差し込んでくるかもしれない。
 太陽が廻るのが遅い。時間は刻々と迫る。あと10分しか時間がない。光の射すのをじりじりと待つ。あと5分。ようやく光が射し始めた。よし、ここで決めよう。
 撮影を終えて大急ぎでレストランへ戻ると、夫婦連れはまだ来ていない。日陰へ椅子を持って行ってそこで待つ。間もなく二人がニコニコとして現われ、手招きした。恐縮してその後から付いて行く。
 車の後部座席に乗せて貰った。なんと女性が運転席に座り男は助手席に座った。車は快調に来た道をセゴビアに向けて走り出した。途中いろいろの話をした。いつ来たのかとか、どこを見てきたのかとか、あそこがいいよとか言うので私も日本語のガイドブックを見せて今まで見て来た処とかこれから行く所などを説明した。こんなハプニングがあるから旅は面白い。
セゴビアのアルカサル/写真転載不可・なかむらみちお  セゴビアのアルカサルの写真を印刷した私のアマチュア無線のQSLカード(交信証)をあげると無線をやっているのかと言う。彼女の弟もやっていると言う。話し方からすると夫婦ではないらしい。ならばどういう関係なのだろう。そこまで話を聞くには語学力が無さ過ぎる。
 40分くらい走って車はセゴビアの町へ着き、街に入った取っ付きのバスターミナルの前で降ろして貰った。やれやれこれで一先ずセゴビアに着いてひと安心。しかし、これから19時30分のバスでアビラに向かう。昨日はセゴビアで宿探しに懲りたのでアビラの宿へ予約の電話を入れた。一番安い宿は「コンプレート」とすげなく断られた。二軒目はなんか言っているのでこちらから一方的に予約を入れたのだが果たして通じたのだろうか。「OK」という言葉は無かったので、果たして取れたものかどうか不安だ。
 間違いのないように何度も窓口に出ているバスの時刻表を確認する。昨日セゴビアのインフォメーションで貰った時刻表にも間違いなくドミンゴ(キリスト教で主の日。日曜日)の欄にその時間が載っている。アンダルシアのエステポナではカサレス行きのバスがドミンゴは休みと書いてあったが意味が分からなくて失敗したが今度は大丈夫だろう。アビラ行きのバスの発車時間まで人気のないがらんとした待合室やBarで待つ。
 19時20分になったが一向に窓口は開かないし人の気配もない。だんだん陽も傾いてわびしくなってきた。時間がきたが窓口は開かないし、バスも来ない。来合わせたバスの運転手に訊いても会社が違うから分からないと取り付く島もない。
 20時出発のマドリッド行きのバスに乗客が乗りだした。今日アビラに行けないのならマドリッドに一旦戻って明日マドリッドから日帰りすればよい。初めからそうすれば良かったのだがセゴビアからアビラまではバスで1時間と近い。それにアビラもセゴビアも大きな町なので人の往来が多いと思ったのだが、どういうわけかそうではないらしい。その計画に気付くのが遅かった。(あとで考えてみると、今はスペイン中セマナ・サンタのお祭りの真っ最中なので交通機関も休みが多かったのではないかと思う。スペインの生活習慣に合わせるのは大変だ)。マドリッド行きのバスの発車時間ギリギリでアビラ行を諦めてマドリッド行きのバスに飛び乗った。バスの中は乗客で満員だった。
 帰りの山道で陽が落ち、雲がほど良く茜色に染まって夕焼けが美しい。こんな美しい夕焼けは初めて見た。わびしさと今夜の宿の心配で不安な私の心を慰めてくれているのか。そのコントラストがなんともドラマチックにさえ思えてくる。
 ヘミングウェイは、彼の小説「誰がために鐘は鳴る」の舞台を今私が通っているこのセゴビア付近のLa Granja(ラ・グランハ)近くの山間部Navacerrada(ナバセラータ)峠付近に設定した。(「誰がために鐘は鳴る」・新潮文庫の訳者大久保康雄)。その小説が映画化され、その映画の中でも美しい夕焼けのシーンがあったと記憶している。

 ※映画「誰が為に鐘は鳴る」(43年)監督:サム・ウッド、出演:ゲイリー・クーパー、イングリッド・バーグマン。アーネスト・ヘミングウェイの小説を映画化した作品。1937年スペイン内戦を背景にしたラブ・ロマンス映画。まだ初々しかった頃のイングリッド・バーグマンが主演する情熱的な乙女の、激しい恋のドラマである。初めてキスしたバーグマンのヒロインが、「お互いの鼻が邪魔になるのかと思っていたら、そうじゃないのね」と、愛の歓びに浸りながら言う可愛いシーンは、恋愛映画の名台詞、名シーンとされている。その頃未だキスの経験のない私には大変参考になった。

Madred(マドリッド)
いつも賑やかなソル広場/写真転載不可・なかむらみちお  夜10時前にバスはマドリッドに着いた。地下鉄で一昨夜まで泊まっていたプエルタ・デル・ソル近くのHotel Europaへ向かう。目印はホテルの近くに建つ熊の像だ。明日からは予約しているが、今夜は予約していない。果たして空いているだろうか。顔見知りのフロントマンが居てくれればいいが、この時間ではもう帰ってしまっているかもしれない。ホテルの近くのプエルタ・デル・ソル(広場)はこんな時間だというのに、大勢の人が出て賑わっていた。広場から放射状に出ている道路のひとつ、Carmen通りに入ると昨夜セゴビアで見た行列が演奏していたのと同じドラムとラッパのメロディーが聞こえてくる。その先にはやはり三角のトンガリ帽子を頭からすっぽりとかぶった、異様なスタイルの信者たちに続いて、十字架を背負うキリストやガラスの涙が頬を伝う聖母マリアの像の山車(パソス)などが数十人の男達に担がれて行列する。その周りには着飾った市民が大勢取り囲み、ぞろぞろと行進している。
 ホテルのフロントに行くと、今夜は満員で部屋はないという。困った。わざとオーバーに本当に困った顔をしていたら、顔馴染みのフロントマンが入口の外まで案内してくれて、このビルの右へ曲がると「アメリカなとか」というホステルがあると教えてくれた。
 教えられるままに行って見たが見当たらない。もう一本角を曲がったらビルの上に別のホステルの看板があった。スペイン人は理由もなく夕方街に出て散歩するのが好きだ。そういう市民で街はいっぱいに賑わう。そぞろ歩きの市民で賑わうその中を縫ってホステルの看板の見えた方向へ行く。音楽が聞こえ、パトカーの先導で騎馬警官、その後に行列が続いているがそんなのを見ている余裕はない。夜はふけて行く。とにかく今夜の宿を探さなければならない。
 今週はスペイン全土が年間で最も重要な宗教行事であるイースター(復活祭)で賑わっているという。中でも、キリストが十字架から下されたと伝えられている聖金曜日は最高に盛り上がる日である。同時に、春の訪れを喜び合う民衆のお祭りでもある。それを知らずに歩き回っている異教徒にはこれくらいの罰が当っても仕方のない事かも知れない。
 実はイースターを知らなかったわけではないのだが、私が持っていた今年のガイドブックには'97のイースターは来週になっていたので私のスケジュールには関係ないと思い、意識していなかったのが間違いの元であった。ご存知のようにイースターは満月を基準としており、その年によって毎年変わり、上限と下限ではおよそ1ヶ月間のづれがあるという。そういう概念、生活習慣のないわれわれ異教徒にはとかく感心がない為にこういう災難に出会う事になるわけである。(神の祟りか?)。大いなる誤算であった。
 ビルの上の方の窓際に取り付けられた看板の下にはそのビルの入口があった。その入口の横に並んでいる呼びベルのボタンを押すと、カチッと入口の鍵が開く音がした。ドアを押し上げて中に入ると小さなエレベーターがある。中に入ってドアを閉めたがそのホステルが何階であったか見てくるのを忘れた。一旦最上階まで行ってそこから階段を歩いて探しながら降りる事にして最上階の五階のボタンを押した。エレベーターは最上階で止ったが、エレベーターの扉の開け方が分らない。薄暗い中でもたもたした後、ようやく開ける事が出来た。
 三階まで階段を降りてきたらそのホステルの入口があった。中に入ると中年の男の人が受け付けてくれて部屋に案内してくれた。部屋はそのビルの裏側の通路に面しており、4000Ptsにしてはなかなか良く、気に入った。先ず泊れる所が見付かって良かった。スペインには“アシタマニアーナ(まぁ、なんとかなるサ)”という言葉があるそうだが、本当だった。ハプニングがあるから旅は面白いとも言える。人生も同じ事だろう。
 ひとまず背負っていたリックを部屋に置き、ここまで焦って来たので喉が渇いた。ビールでも飲みに行く事にする。明日はアビラに行き、日帰りするつもりなので宿を早めに出たい。疲れている事でもあり、早めに帰って来て睡眠時間を充分に取らなければならないからあまり遅くまでうろつく訳にはゆかない。
 先日なれなれしい日本人に会ったBarに行ってみることにする。この店によく来るお馴染みさんだというから又会えるかも知れない。道は忘れたが、感を頼りにその店を探すがなかなか見付からない。あの角を曲がってみて無ければ諦めようと思った途端にその店が見付かった。
 中に入って見たがあの日本人はいなかった。店内はイースターに浮かれて出て来た若い客でごった返していた。ビールを一杯だけ飲んで店を出た。
 先ほど行列で賑わっていた通りには山車が置かれ、通り掛かりの通行人がその山車に飾ってある生花を一本一本抜いて持ち帰っていた。スペインでも日本の開店祝いの花輪から花を抜いて持って行くように山車から花を戴いて行く風習があるらしい。もう、12時に近いというのに街は夕方のように大勢の通行人で賑わっていた。何時ものように南米アンデスの音楽を毎日街頭で奏でている一行の音楽が今夜も聞こえている。
 宿のあるビルの前に来てほのかな街灯の光に照らされた薄暗い中で扉の鍵穴に鍵を差し込んで捻ったが扉の錠が開かない。2度、3度試みたがそれでも開かない。鍵を間違えたかなと思い、渡された3個付いている鍵を交互に差し込んでみたが他の鍵は鍵穴には入らない。矢張りこの鍵だと思い再度挑戦してみるが開かない。そこで、「開けゴマ!」と、呪文を唱えてみたが、扉の錠はビクともしない。ビルを辻一本間違ったかなと思い、その付近の一角をひと回りしてみた。持っていた宿の名を書いたカードと看板のホステル名を見比べて確認する。矢張りここだ。間違いない。
 もう1度鍵穴に鍵を入れて捻ってみたが矢張り廻らない。仕方がないので呼び出しブザーのボタンを押したら「コンプレート」という返事が帰って来た。「違うんだよ、チェックインは終っているんだ。今夜の客だよ、扉の鍵が開かないんだ!」と言いたかったのだが、相手には通じなかった。とにかく「コンプレート」だった。どうやら私はこの宿の今夜の最後の客であったようだ。もう少しでここも満員になって断られるところだったようだ。危なかった。
 どうしようもないので、再度鍵穴に鍵を入れて廻したら今度はカチッという音がしてようやく錠が開き、中に入る事が出来た。矢張りこのビルで間違いではなかったのだ。
 部屋には間違いなく私のリックがあってホッとした。外ではまだ賑やかに音楽を奏でていた。明日は早立ちなので直ちに寝ることにする。

    4月3日(土)晴れ Madrid 8:33(列車)-10:49 Avilla 17:15(列車)-19:22 Madrid
 7時過ぎ、地下鉄を乗り継いで未だ夜が明け切らぬ真っ暗なアトーチャ駅に着いた。アビラ行きの列車は8時33分までない。駅のコンコースのベンチに腰を下ろして時間待ちをする。その間にスナックに立ち寄りコーヒーでサンドイッチを抓む。周りの客を見ていると、コーヒーを半分ほど飲んだ後、ミルクを注ぎ足して貰っている。私も真似してミルクを注いで貰った。これは得した感じだ。
 夜が明けると真っ青な空。今日も快晴。さすが太陽の国スペインだ。車窓から射す朝の光が眩しい。アビラまでは2時間余り掛かるというのに、この列車は通勤列車のような形で各駅停車。先頭車から後ろまで探したが、トイレがないので落ち着かない。
 1時間ほど走って山の裾野に広がるEl Escorialが見えてきた。車窓から端正な姿のエル・エスコリアル宮が見える。

 《未確認情報だが、フランス人ジャーナリスト、マドモワゼル・タローは、今日、ブルネテ付近の戦闘の最中に死亡したといわれている》。1936年7月26日付の新聞〈ユマニテ〉の記事にこう記されてあった。タローとはロバート・キャパの最愛の恋人ゲルダのことである。キャパはその記事をパリの歯医者の待合室で見つけた。
 「彼女はその日、生涯で最良の写真を撮ったという確信があった。そして、マドリードに戻ったらシャンパンでお祝いしたいと思っていた。そして、朝になれば、パリに出発していくのだ…。
 突然操作がきかなくなり、暴走しはじめた共和軍の戦車が迫ってきた。(中略)戦車はゲルダの体をずたずたにした。ゲルダはエル・エスコリアルのアメリカ野戦病院に運ばれた。医師たちは一晩中ゲルダの手術にかかり切った。彼女はひどい衝撃を受けており、助かってもたぶん足をひきずるようになるだろうが、手術は成功するのではないかと思われた。7月26日月曜日、朝六時、しかし彼女は死んだ。(「キャパその青春」リチャード・ウィーラン、沢木耕太郎訳・文芸春秋)」
 一枚の写真を撮る為に尊い命を落とした幾多の戦場カメラマンがいた。私の大学時代のサークルで一年後輩のW君もカンボジア戦線で取材中にポルポト兵に拉致されて行方不明になった。又、ベトナム戦争の終結直前にサイゴン陥落の瞬間を命を張ってスクープした後輩のO君もいる。彼らから見ると私なんぞはまだまだ甘ちょろい!

 El Escorialから10分ほど走ったRobledo de Chはスイスの山村に似た風景。青空の彼方に吸い込まれたように数条の飛行機雲だけが白いラインを描いている。
 列車は緑の中に岩石ごろごろの山岳の山肌を縫うように走る。10時49分ここまで来るのに随分苦労したがようやくアビラに辿り着いた。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Avilla(アビラ)
中世風城郭都市アビラ/写真転載不可・なかむらみちお  「アビラの町はローマ時代からの基地で、12世紀頃はアラブの支配下にあった。1090年、アルフォンソ六世はボルゴナのライムンド伯に命じてこの町に大城壁を構築させた。町を囲む城壁の長さは2500mにおよび、88の塔、9つの城門が設けられた。現在もこの城壁は完全に残り、ヨーロッパの中世風城郭都市の典型的な例とされている。(「定本・ヨーロッパの城」井上宗和著・朝日新聞社)」
 アビラでは駅から街を挟んで反対側のクアトロ・ポステスという展望台から城壁を写したい。地図で見ると多分この時間、そこからは真逆光になるから写真的にはダメだろう。しかし、待っている間に天候が変わって曇ってしまったら困るので、一応押さえとして写しておく事にする。
 駅を出るとタクシーが並んでいた。その内の一台に近付き、地図を示して値段を交渉すると500Ptsと言う。その車に乗ってクアトロ・ポステスへ向かう。走り出したタクシーはメーターを入れない。私が注意してようやくメーターを作動させた。案の定逆光だが、一応写しておく。写し終えた後、カテドラルまで行ってもらう。
アルカサル門/写真転載不可・なかむらみちお  この町は標高1120mとヨーロッパで最も標高の高い都市だ。冬は雪の日が多いという。旧市街全体を城壁が囲む街として知られ、古い町を原型のまま残している古都。中世の雰囲気が色濃く残っている。サン・ビセンテ門をくぐって1度城壁の外に出てみるが、門は工事中で覆いが被せられていた。城壁沿いにアルカサル門へとと向かう。ここを写した後この門をくぐって再び場内に入り、カルボ・ソテロ広場付近から城壁へ上ってみる。見晴らしがいい。
 この後、カテドラルに行ってみたが一般の入場はやっていなかった。一般開放は午後からだと言う。午前中はミサでもあったのだろう。
 町の方へ行ってみる。ブラブラ街中を歩いていると、市場があった。中に入って食料品を買う。更に西の方へ歩いて行ったら広場に出た。多分Pza del Mercado Chicoだろう。そこのベンチに座って先ほど市場で買ってきた食料品を食べて、早目の昼食とした。
城壁に囲まれた町アビラ/写真転載不可・なかむらみちお  クアトロ・ポステスから撮影出来るのは4時頃になるだろう。それまでどこかで時間を潰さなければならない。ブラブラとまた元来た道を戻り、カテドラル前の広場に行く。そこのベンチでカテドラルが開く15時30分まで待つ事にする。
 カテドラルの中を見たが私には特に興味のあるものはなかった。一周して外に出る。そこから歩いて町の中を縦断してクアトロ・ポステスへ向かう。結構遠い。アダハ川を隔てた展望台クアトロ・ポステスにようやく着いた。光線状態は大体いい。今写し終えれば17時15分発の列車に乗る事が出来る。これで行くとマドリッドには19時22分に着く事が出来る。
 写し終えた後、近くのホテルへ行ってフロントマンに電話でタクシーを呼んで貰った。電話料を差し出したが、受け取らなかった。
 外で待っていると間もなくタクシーが来た。それに乗って駅に向かい、17時15分発の列車に乗り込んだ。この列車は来るときとは違って二階建ての列車で、トイレも有る。本当にこれがマドリッド行きの普通列車なのだろうか。少々不安なので、発車間際まで列車の出入り口で様子を伺った。
 列車は今朝来た道をマドリッドに向かって走る。車窓を流れる春の山岳地帯の風景を眺めながらアビラで買ってきたワインを飲む。気分は最高。満足感に浸りながら至福のひと時を過ごす。右側の窓からは頂上に雪を戴いた山々が続く。多分カセレスからマドリッドへ来る時に車窓から見たSierra de Gredosの反対側の面だと思う。スペインは南国というイメージが強いが、残雪を頂いた山々はこの季節あちらこちらで見る事が出来る。
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  Madrid(マドリッド)
   4月4日(日)晴れ Madrid

 今日は日曜日なので、美術館や博物館は無料のところが多い。スペインが世界に誇るプラド美術館は日曜、祭日は18歳未満、66歳以上は無料である。遅くなると混み合うので9時の開館を待って入場するように宿を出て地下鉄で向かう。
プラド美術館のムリーリョ口/写真転載不可・なかむらみちお  地下鉄アトーチャ駅から歩いて行くと5分前に着いた。既に50人ほどの人が入口付近で並んで待っていた。南側の入口付近に立つムリーリョ像の回りの芝生には赤いチューリップが美しく咲いている。
 入口を入ると荷物のX線検査があり、カメラも透された上、リックの中に入れておいた水の入ったペットボトルは没収されてしまった。気温はどんどん上がって26℃くらいある。この後水なしは少し辛い。
 '81年に訪れたときは北側のゴヤ門から入ったのだが、工事中で今は使っていないらしい。中に入ると前回の記憶とは少々違っていて、まるで初めて来たところのような感じがする
 めくるめく傑作の数々、絵画館としては世界一を誇るプラド美術館が保有する作品は、絵画だけでも8000点を越え、これらをゆっくり鑑賞するには少なくとも一日は必要だ。
 一階から迷路のような通路を訊ねながら巡り、真っ先に二階の展示室36号室にあるゴヤの「裸のマハ」を目指す。何度観ても美しい。それよりもおなじ処に展示されている「着衣のマハ」の方がもっと美しい。「着衣のマハ」の着けている衣装がその体に沿って、巻き付けられている様子は、対になっている裸体の方よりむしろ、はるかに裸体を感じさせる。
 展示室39の「1808年マドリードの5月3日(プリンシベ・ピオ山での銃殺)」は、1808年5月2日のナポレオン侵入に対して立ち上がったスペイン国民たちに対して行なったフランス軍の激しい抑圧の一場面である。これは独立を描いた偉大な絵として、またスペイン民衆の自由を守るものとして考えられてきた。
 フランス軍の兵士が正面にいる愛国者グループの白いシャツを着、両手を挙げて立っている一人の男に向かって、鉄砲の狙いを定めている。その愛国者の顔がなんとも言えない。まだ若い青年が今まさに銃殺されようとして悲壮な顔をして立っている。惨い絵である。ゴヤの最も感銘深い作品の一つである。その向いの展示室32には同じくゴヤの「カルロス4世の家族」の絵がある。
 少し離れた展示室12には世界の絵画の中で最も調和と平衛のとれた作品として有名なベラスケスの「フェリペ4世の家族」が展示されている。
 フェリペ4世と王妃マリアナ・デ・アウストリアの国王夫妻を奥の鏡に写る形で間接的に描き、当時、この国王夫妻の唯一の娘であったマルガリータ王女を画面の中心に描くことで、王女がスペイン王家の繼承者である事を強調している。近くの展示室10bにはグレコの最も有名な「胸に手を置く騎士」がある。
 一階に降りると展示室67にゴヤの「わが子を喰らうサトゥルノ」がある。なんとも凄まじい絵である。これは神話の寓意的表現である。そのサトゥルノ神はまるで時間がそこから創り出したものを全て食い尽くしていくかのように、彼の妻シベーレスから生まれた子供達を喰っていた。その形相がまた凄く圧倒される。
 今日は一部入場無料の所為か、混み合っている。日本のツアー客らしい人の群れも見かける。人の切れ目を見計らって絵の写真を撮るのは容易でない(フラッシュを使わなければOK)。
 一通り観た後、一階西側のミュージアムショップで四つ切くらいの大きさの有名な絵の複製画を3枚買った。日本に帰ってからそれぞれ額に入れて3人の子供のお土産にするつもりだ。見終わった後、地階のカフェテリアでサラダとビールで早めの昼食とする。
 地下鉄アトーチャ駅付近の公衆電話ボックスから日本人留学生のN嬢に電話をする。彼女とは未だ会ったことはないが、数年前、アトランタマラソンに行った帰りに乗ったJALの操縦席を見せて戴いた時に知り合ったパイロットNさんの二番目のお嬢さんで、東大大学院在学中だが、博士号を取るための資料を得る為にもう1年半もマドリッドに住んでいると言う。私から見れば空恐ろしい人だ。Nさんとはそれ以来のお付き合いがあり、私達夫婦がドイツ旅行に行った時にはビジネスクラスに乗せて頂いたり、コックピットの中を見せて頂いたりして、大変お世話になったこともある。一昨年JALを定年退職され、この2月にはニセコにスキーを楽しみにお出でになった際にお会いして一晩杯を酌み交わした。その時、ご親切に若し何か困った事があったらとお嬢さんの住所と電話番号を書いたメモを戴いていた。
 特別何かひどく困った時は別だが、そうでなければお世話になるつもりはなかったが、折角だから食事かお茶でもと思って電話してみた。
 彼女が電話に出た。話は通じていた。相談の結果、この後私が行く国立考古学博物館を見終えたあと、再度電話して博物館の前でお会いすることにした。
 国立考古学博物館までは地下鉄で行った。この国の文化を知る上で是非訪れてみたい所のひとつだと言う。ここには石器時代の壁画で有名なアルタミラ洞窟の壁画が再現されているというので1度見て置きたかった。
 スペインの北の方にはゲルニカもあり、アルタミラ洞窟の壁画も1度見て置きたかったのだが、そこまで行く日程が取れなかった。又、行っても見学するには、前もってアルタミラ研究センターに手紙で申請しなければならないし、1日に30名しかは入れないため、半年から1年先まで予約でいっぱいだという。幸いレプリカとはいえここで見られるので来たわけである。
アルタミラ洞窟の壁画(レプリカ)/写真転載不可・なかむらみちお  スペインの歴史を知る事が出来るという国立考古学博物館の中に入ってアルタミラ洞窟の壁画の場所を尋ねたら外だと言う。少々変だなと思ったが、一旦入口を出て、教えられた方に行って見ると、そこに戦時中の防空壕のような入口があり、地下室には人工の洞窟が造られ、その中に入って行くと、あの有名なアルタミラ洞窟の壁画が再現されていた。天井に描かれた牛たちの姿は、およそ一万五千年前のもの。それをベッドのような長椅子に仰向けに寝た状態で観る。室内はかなり薄暗く、画はあまりハッキリと見る事が出来なかった。写真の方がもっと鮮明であった。本物もこんなものなのだろうか。
 来たついでなので、考古学博物館の中も一通り見てきた。館内には、有史前から19世紀までの、スペイン国内で出土した遺物が40以上の部屋に陳列されている。これらの遺物を見るうちに、いかにスペインが多くの外国文化との交流の中から、独自の文化を築いてきたかが分る。エジプトのミイラも有ったが、ギリシャの壷が目を引いた。
 そこを見終った後、再びN嬢に電話をした。博物館の木陰でベンチに座って20分ほど待っていたらいつの間にか彼女が現われて後ろから声を掛けられた。その後近くのバス停までいろいろの話をしながら歩いた。私が、日本から持ってきたインスタントラーメンと米をあげたいというと大変喜んでくれた。ラーメンはともかく米の方を喜んでくれたには驚いた。こちらにも米はあるが、やはり日本の米の方が美味しいとのことである。
 と、いうわけでまず私のホテルへ行ってラーメンと米を取ってくる事にして近くのバス停からバスに乗り、ホテルのあるプエルタ・デル・ソルへ向かう事にした。
 ホテルで米とラーメンを持ってグラン・ビア近くのレストランまで歩いた。魚介類が美味いという店に案内して戴いた。そこでトリビー(取り敢えずビールを飲む)。後は彼女に料理を選んでもらって注文する。当然ながらスペイン語が達者だ。例のペルー、リマの大使館占拠事件の時はNHKで通訳のアルバイトをしていたというから凄い。
 私が話しの弾みでパスポートを出して見せると、彼女は「スペインではパスポートを携帯していなくてもいいんですよ」と警告してくれた。その時「私はお金も航空券も全部身に付けている」と言うと「ウワー、コワイーイ!」と言ったが、その時はその意味をあまりよく理解していなかった。
 私はこの後、闘牛を見に行く予定があったので、彼女とは1時間ほど話した後、ホテルの前まで行きそこで別れた。
ポスター/写真転載不可・なかむらみちお  地下鉄でSol駅からVentasへ行き、ラス・ベンダス闘牛場へ行った。スペイン各地には250以上の闘牛場があり、マドリードにも二つある。シーズンは4月から10月中旬まで、日曜、祭日の夕方6時頃から2時間開催される。時間にルーズなこの国で、闘牛だけは定時に始まるというから不思議だ。
 闘牛場前の券賣場で入場券を買う。席の場所が日向Solにあるか、日陰Sombraにあるか。また闘技場から近い場所(砂っかぶり)か、遠く離れた場所か、このふたつの要素の組み合わせで入場券の値段も決れば、席の良し悪しも分れる。私は写真を撮るために来たので一番料金の高い日陰の席ソル・イ・ソンブラの闘牛場に近い席の券を買った。3675Ptsの券が4500Ptsだった。
 場内の公衆電話からマドリッド在住の榎本さんの携帯電話に電話した。彼はマドリッドに永く住んでいて旅行業を営んでいる。前回マドリッドに来た時に大変お世話になった方である。今日は客を案内してこの闘牛場のどこかに来ているはずだ。N嬢とのスケジュールの関係で、若し今日闘牛が終ってから会えたら会うことにしていたので、その約束のために電話したわけである。彼とは闘牛が終ってから闘牛場を出たところにあるブロンズ像の前で会う事にした。
 入場すると貸し座蒲団を借りる仕組みになっている。そして案内人が席まで案内してくれる。空席が目立つ。私の席は前回よりも少し高所だったが、写真を撮るのにはさほど差し支えはなかった。
 闘牛は定刻通り6時に始まった。私は前回来た時にも見ている。しかも5月中旬のサンイシドロ祭りの最終日曜日だった。偶然だったが、この日が一年の内で一番人気のある闘牛士が出場する。今回はあまり期待はしていないが、改めて新しい写真を撮りたくて来たわけである。
アレーナを光と陰が分ける/写真転載不可・なかむらみちお  牧畜農業の豊穣を祈願して、神に牡牛の死を捧げる供犠が闘牛の淵源である以上、現代の闘牛もすべて美しく進行しなければならない。闘牛士はその役割によって三種類に分けられる。最初に登場し、馬に乗って槍で牛の首を突くピカドール、ピンクのマントで牛をあしらい、投げ槍の芸を見せるバンデリオ、最後に牛にとどめをさすマタドール。マタドールは闘牛士の中でもスター役だ。
 闘牛は華やかなパレードによって開幕する。ファンファーレが円形の競技場内に響き渡ると、中世貴族風の衣装をまとった役員が馬に跨って登場する。続いて三人のマタドールが他の闘牛士達を従えて場内を行進すると、観客席から大変な歓声があがる。この三人のマタドールの内、右側にいるのが一番年配で、一頭目と四頭目の牛と戦い、中央にいる一番若いマタドールが三頭目と六頭目の牛と闘技する。
 牛は必ず最後に死ぬ運命にあるわけだが、闘技中、マタドールにも危険はある。彼等は、競技場に出てくる牛をじっと観察している。防壁の陰で息を殺して立つ闘牛士の姿は、まさに真剣勝員の間合いをはかるのと同じ気持ちだろう。剣道もそうだろうし、日本の国技である大相撲の仕切りも本来はそういうものであろう。
 犠牲になる牛は一日六頭だが、殺すという儀式に要する時間は20分。伝統的作法に従った演技が繰り広げられる。馬上の闘牛土ピカドールによる槍の一突き、バンデリオによる投げ槍の芸、最後のマタドールによる止めの一突きといった演技の進行は、総てファンファーレを合図に行なわれる。スポーツというよりむしろ一種のショー、または儀式で、人々は巧みに牛をあやつる闘牛土の身のこなしの美しさ、気品、勇壮さを楽しむ。闘牛とは文字通り命がけで、地位と名誉を得る職業である。闘牛はスペインの国技であり、トップスターは国民的英雄となる。
長剣を構えたマタドール/写真転載不可・なかむらみちお  艶やかな衣装をまとい、長剣を携えたマタドールは横顔を牛に見せ、パラーと呼ばれるスタイルで直立する。牛をやり過ごす演技のパセスを繰り返しながら、赤いケープを巧みに操って猛牛をいなす。華やかな色彩と最高の技術が作り出す見せ場に、観衆は“オーレ”という独特の掛け声をかけ、場内は興奮の渦となる。
 最後の見せ場は人と牛との一騎打ちの場面である。黄色の渇いた砂塵を巻き上げ、きらびやかな闘牛士と黒牛が死を賭して格闘する。甘美でスリリングなパノラマ。あわやと思う一瞬、見事な身のこなしで長剣を首筋に差し込む。どよめく大観衆。牛が口から血を吐きどっと倒れると、観客は興奮の絶頂に達する。場内にこだまする“オーレ”の合唱…夕陽のきらめきの中で、それは一幅の絵のようである。思ったほど残酷さを感じないのは雰囲気のせいだろうか。
人と牛との一騎打ち/写真転載不可・なかむらみちお  3人の闘牛士が闘ったが、中にはドジな闘牛士もいて見ているだけでもイライラする。ハンカチを振られたのは一人だけだった。その闘牛士はあたかも凱旋ヒーローのように客席に何度も手を振りながら場内を1周した。スペイン人にしてはきっと最高に格好いい場面なのだろうが、馴染みの無い私にはそれほど興奮する事でもなかった。最後には場内の照明を点けて行なわれ、9時に終った。今回は2度目なので要所を落ち着いて撮る事が出来た。見終ってみて、前回のような昂奮は感じられなかった。
 約束通り、銅像の前で待っていると榎本さんが現われた。再会の挨拶や今回の旅の前にいろいろと手紙で教えて戴いた事などへのお礼を述べた。その後一緒に地下鉄入口へと向かった。未だ改札口は闘牛帰りの客で混雑していた。改札口へ向かおうとすると榎本さんが「この人スリですよ。気を付けて下さい」と私に耳打ちした。見ると帽子を腰の辺りに持っていた。あれで相手の目からカムフラージュして掏るらしい。しかも一般の客とは目付きも違うし、客の流れに逆行して歩いている。明らかに怪しい。本物のスリを私は初めて見て少々昂奮した。その後は懐に充分気を付け、榎本さんに守られるようにして地下鉄でグラン・ビアまで来た。榎本さんの話では地下鉄の乗り降りの時に入口付近でやられるそうだが、中に乗ってしまうと心配ないそうだ。その他、例え二人で歩いていても相手は2、3人で来て突き飛ばしたりして襲ってくるので、狙われたら終りだと言う。その時は諦めるしかないと言う。恐ろしい街だ。そのほとんどがアラブ系の人間らしい。いつか誰かに外国で「スリに遭わない為にはどうしたら良いか」と訊ねたことがある。答えは「貴重品は持たない事です」だった。その時は冗談だと思っていたが本当だった。
 グラン・ビアで地下鉄を降り、榎本さんのご案内で日本人経営の中華料理店「花友」へ行ってラーメンと海苔巻き寿司を食べた。
 いろいろな話を聞かせて貰っている内に、夜道を一人で帰るのが恐ろしくなり、榎本さんにホテルの前まで送って貰い、ホテルの前で別れた。

   4月5日(月)晴れ Madrid
 いよいよ明朝早く帰国だ。早く帰りたい。旅はもう飽きた。今日は最後の日になる。予備日としていたので特に予定はない。N嬢や榎本さんなどに話を聞く内に街を出歩くのが恐ろしくなった。帰国直前でもあり、出歩かないのが一番安全だ。今日一日は用心して一日中ホテルで荷物の整理や書き残した日記でも書いて過ごそうかとも思った。しかし、あまりにも天気が良いのでスペイン広場近くにあるJCBプラザと、マヨール広場を見てくる事にする。
 先ず、ホテルの隣のBBV銀行で三万円分だけペセタから日本円に両替する。その後、歩いてスペイン広場へ向かったが、考えて見れば前にまとめて買ってあった地下鉄の10回券があと3回分余っている。このままにして持って帰るのも勿体無いと思い、あとひと駅だったが途中のCallao駅からスペイン広場まで地下鉄に乗った。
 ペセタがだいぶ余ってしまった。日本で両替するとレートが悪い。空港の両替所は私の出発時間には早すぎて開いていないという。JCBプラザへ行く途中、最初にマドリッドに着いた時にJCBで換算率が良いと教えられていたスペイン広場前のArgentaria銀行に寄ったら、NOと言われた。なぜNOなのか分らないので更に聞くとコンピューターの画面を指差していた。多分、コンピューターが故障したのだろう。
 JCBプラザで新聞を見せて貰うが特に目を引くニュースはないようだ。明日の空港までの行き方を訊いてそこを後にする。
 JCBプラザを出てもう一度Argentaria銀行に寄ってみたが、未だダメだった。再び地下鉄に乗ってSolへ行き、ホテルに聞いて2時前ギリギリに近くのArgentaria銀行に行ってみたが、ここもダメだった。プエルタ・デル・ゾルの近くの両替店も数軒周ってみたがどこも日本円を持ち合わせていなかった。日本の経済はまだまだ認知されていないようだ。
 近くのハムの専門店ムセオ・デル・ハモンを覗いて見た。その名もハムの博物館というだけあって天井から数えきれないほどのハムがぶら下がっていて、その中央が立飲みのバルとなっており、最高のパタ・ネグラ、イベリコなど、世界一といわれる生ハムと赤ワインがある。計り売りのハムやチーズ、サンドイッチ、ケーキはテイクアウトもできる。そこでビールを一杯飲んだ。嬉しい事にサラミのおつまみがひと皿サービスで付いていた。これはタパス(酒のつまみ料理。前菜料理)と言ってスペインのBarでは酒を注文すると必ず付く。ハムといえばヘミングウェイも通ったマヨール広場近くの「ボティン」が有名だ。
 ※ハモンJamon…豚もも肉のことであるが、通常生ハムをさす。塩漬けしてかびを付け、じっくり寝かしたもの。[ハモン・イベリコ]イベリア種の豚をドングリだけで自然放牧して育て、肉が霜降り状態になるようにする。さらにハブコと名前が付けられるのはハブコ村だけであり、その価値の高さが分る。(世界の料理・メニュー辞典【スペインの料理】)。メリダ付近が産地。
 この後、マヨール広場に行ってみた。見たことのある感じだ。前に来た時、闘牛の帰りに寄ったのはここだったかも知れない。広場では似顔絵描きがいた。そこに昨日闘牛場で私のひとつ隣に座っていた日本人の学生風らしい青年が似顔絵を描いて貰っていた。
 夜になってから再び近くの両替店へ行くと、日本円があった。あいにく今日はパスポートをホテルに置いてきたので急いで取りに行き、余ったペセタ三万円を日本円に両替した。換算率は銀行より悪かったが仕方がない。
 未だ少し早いが、ホテルに帰って荷物等の整理をして早めに寝た。

   4月6日(火)曇りのち晴れ Madrid 06:50-(KL1698)09:20 Amsterdam 13:05-(KL869)
 いよいよ帰国である。4時、目覚まし時計に起こされた。急いで顔を洗って荷物を持って部屋を出る。すでに前日ホテルに頼んで置いたタクシーの運転手がフロントに来ていた。
 会計を済ませてタクシーに乗る。まだ真っ暗なマドリッドの町を空港に向かって走る。フト気が付くとタクシーのメーターがセットされていないようだ。大丈夫だろうか。ホテルで呼んでくれたのだから間違いはないだろう。3000Ptsくらいと聞いているのでそれしか払わないぞと腹に決めて空港に向かう。
 空港に着くと運転手は2700と紙に書いてくれた。見掛け通りの良心的な人だ。二階の出発ホールに入るところで荷物のX線検査がある。フイルムのオープンチェックを申し出たがダメだった。全部透されてしまった。空港内に入ってKLMのチェック・イン・カウンターに行くとすでに30人ほどの客が並んでいた。30分くらい並んで待つと受付が始まった。チェックインを終り、出発口の方へ行ったが、まだ店は開いていない。それから30分ほど待ってボツボツと店が開きだしたが、別に買う物はない。ふと見ると両替所が開いていた。なんだ、こんな事なら昨日苦労して銀行探しをする事はなかったのに。ここで残りの金を両替した。最後に残った僅かばかりの小銭でチョコレートを買ったら5Ptsしか残らなかった。
 飛行機は6時50分、まだ薄暗いマドリッド空港を飛び立ち、一路アムステルダムへと向かった。

  Amsterdam(アムステルダム国際空港)
 アムステルダムのスキポール空港では3時間半の待ち合わせ時間がある。DターミナルからFターミナルまではかなりの距離があるが、時間がたっぷりあるのでぶらぶらと向かう。途中、商店街のゾーンを通る。ここでオランダチーズを買う。Fへ向かう途中で出国手続のパスポート検査を受ける。
 Fターミナルに入ってからF2に行くところをF4に入ってしまった。ここでまた荷物のX線検査がある。係員とすったもんだの挙句、なんとかオープンチェックで通る。搭乗手続きの所でF4である事に気が付く。大ドジだ。そこを一旦外へ出てF2へ入る。ここでも荷物検査ですったもんだ。なんとかオープンチェックでX線を免れた。しかし、ここはまだひとつ前の便の入場口だったので、一旦そこを出る。しばらく待っていると、搭乗口がF4に変更になった。「今度は間違わないぞ!」。
 出発時間が近づいてきて、受付が始まった。今度は遂にX線を透させられてしまった。出発ラウンジに入ったら出発が遅れるとのこと。結局1時間半遅れで搭乗。飛行機の窓から外を見ると雨が降っていた。
 席は窓側だったが、私の隣は一席空いていたので楽だった。機内の映画は日本語でない。内容も面白くなさそうだった。飛んでいる間は退屈だった。しかし、なかなか眠れない。途中の上空から見たシベリヤは真っ白で、樺太付近の海は流氷でびっちりだ。オホーツク海側から北海道上空に入った頃から曇りで陸地は何も見えない。

  北海道

   4月7日(水)小雪 06:40 新千歳-札幌
 定刻よりも30分遅れで無事新千歳空港に到着。荷物受取所で自分の荷物が出て来るのを待ったが、なかなか出て来ない。遂に最後まで出て来なかった。乗客は皆それぞれ自分の荷物を持って帰ってしまい、がらんとした荷物受取所に私ともう一人の男の二人だけが残された。彼もマドリッドから乗ったという。係員に調書を作ってもらい、見つかったら宅配便で自宅に送るというのでリックだけを持ってJRの駅へと向かう。何か割り切れない変な気持だ。今回の旅は最後の最後までケチが付いた。荷物が出て来ないなんてよく話には聞くが、初めての経験である。行よりも帰りでまだ良かった。
 何か忘れ物をしたような手持ち無沙汰の気持でJRに乗る。千歳駅を通過する頃から雪が降ってきた。未だ残雪もある。例年よりも雪解けが遅れているようだ。まさか私の家にはもう雪はないだろう。
 いつもだと札幌駅から自宅までタクシーで帰るのだが、今回は大きな荷物がないので地下鉄に乗り、北24条駅から歩いて帰宅することにした。
 家に着いてビックリした。裏の畑の雪山が未だ半分以上残っている。この季節にこんなに残雪があるなんて今迄見たことがない。
 すごく眠かったので夜9時頃寝たが、朝の2時頃に目を醒まし、それからは眠れなかった。1時間半ほど布団の中に居たが眠れないので起き出して台所で焼酎を飲んだ。その後のことは分らない。
 午後1時頃目を醒ました。台所で飲んでいたところまでは分かっているが、その後どうなったのか分からない。妻の機嫌が悪い。何があったのか。どうも未だふらふらする。その上、尾てい骨の辺りが痛い。昨夜は飲みかけのワインをテーブルの上に置いたまでは知っているのだが、どこに片付けられたのか見当たらない。全部飲んだ覚えはない。テーブルの上に出したものを片付けた覚えもない。不吉な予感がする。
 久しぶりにラーメンを作って食べた後、講師をしている学校へ行って新学期からの打ち合わせをした。その後、フイルムを現像所に入れる。
 外出から帰って来てから留守中に溜まった新聞を片付ける。眠くない。夜の12時まで続ける。その後布団に入ったが眠れない。夜中に起き出してまたワインを一杯引っ掛ける。朝方少し寝たようだ。
 カルメンには会うことが出来なかったが、今回の旅も大変楽しく思い出多い旅であった。
                                 −おわり、お退屈様でした−

 ※都市及び建物などの説明は主として「地球の歩き方」(ダイヤモンド社)スペイン編及びポルトガル編より引用
 ※参考文献
「広辞苑」新村出・岩波書店
「日本百科大事典」小学館
「定本・ヨーロッパの城」井上宗和著・朝日新聞社
「古城と宮殿めぐり」井上宗和著・潟xストセラーズ

  後 書
 最後にもうひと言、“旅はお金に頼るな頭を使え!”
 目次へ   ↑ページの一番上へ

  スペインのワイン
 イベリア半島のワイン生産は古代から行なわれていたが、八世紀にイスラム教徒の支配下に入って以来、長い間にわたって伸び悩んでいた。ワイン生産が本格化するのは国土回復後の十六世紀になってからである。今日では国土のほぼ全域でワインが造られており、生産量ではイタリア、フランスに次ぎ世界第三位の座をソ連と争っている。
 テーブルワインの産地として先ず挙げられるのは北部のリオハ。今やスペイン各地の一流レストランでリオハのワインを出さないところはない。一般的に濃い色のものが多いスペインの赤ワインの中で、リオハのワインは薄めであるのが特徴。また逆に白ワインは、長い間熟成させるために濃い麦わら色か黄金色に近い物が多い。一方、発泡酒カーバの一大生産地が地中海沿いのカタルーニャだ。フランスにも輸出されている。
 食前酒として世界的に名高いシェリーを生んでいるのが、イベリア半島南端の町へレス・デ・ラ・フロンテーラ。もともとは、ボルドー・ワインの入手難に直面したイギリス人が、この地方の白ワインを輸送に耐えるようにとブランデーで強化して持ち帰ったのが始まりといわれ、町の名をとって「ヘレス」というのを、英語風に訛って「シェリー」と呼ぶようになった。
   ポルトガルのワイン
 大航海時代にあったポルトガルが、当時の日本の文化に与えた影響は大きい。彼らがもたらした南蛮渡来の珍奇な品々の中に、珍陀酒と呼ばれるワインがあったのは良く知られている。ポートワインはドゥーロ河流域で造られる。1720年、この地方産のワインをブランデーで強化する試みがなされて以来、ポートワインの名は全世界へ広がった。今日では、年間十万kl以上の生産を誇るまでになり、食後酒として親しまれている。
 このほかにもポルトガルでは、力強い赤と辛口の白ワインで知られるダンや、弱発泡性のヴィーニョ・ヴェルデなど、日常用のテーブルワインも多く産している。また、ドゥーロ川支流のピンニェルでは、多量のロゼ・ワインが造られており、その中でもマテウス・ロゼはあまりにも有名である。
   (「世界の名ワイン辞典・地中海世界のワイン(塩田正志)」講談社。)

    現地の言葉は現地で学ぶ
 外国に行くといつも私の意思が相手に通じない場合が多く気がもめる事が多い。そこは根気と機転、誠意、工夫で乗り切る。
 「必要は発明の母」である。どこの国へ行ってもそうだが、スペイン・ポルトガルに行った時も、私はスペイン語がわからない。おまけに文盲ときている。スペイン人は英語が分からない。まるでおしとつんぼのような会話を交わしながら旅を続ける。
 日本に帰ってきてから、ひとりで海外旅行をして来た話をすると、いつも「英語が話せていいですね」と言われる。私は中学時代から大学まで通じて10年以上も学校で英語を習ってきたが、恥ずかしながら、日常会話さえも話す事が出来ない始末で自分ながら情けない。
 どこの国へ行っても英会話さえ出来れば空港やホテルでは不自由しない。しかし、街へ一歩出ると現地の人はほとんど英語を話せない場合が多い。それでも私はリックひとつを担ぎ、カメラ片手に海外をさまよう。
 一部の観光地のお土産店では、片言の日本語を話す店員がいる。その多くは日本人ツアー客に教えられた人たちである。日本人は海外にまで行って日本語を教えて来るおばさんツアー客が多い。そのパワーにはほどほど敬服する。
 その国の言葉は旅先で不自由し、必要に迫られて一つひとつ最小限の会話を覚えた。まさに「必要は発明の母」である。私は旅の会話は旅先で学ぶ事を悟った。「下手な考え休みに似たり」。先ず、体験してみる事である。考え悩んでも解決はしない。やってみてその体験の中に自分の身を置けば必要に応じて自然と生き方が身に付くものである。論より証拠,先ずやって見る事である。「たたけよ!さらば開かれん」というのは聖書の言葉だが、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり(上杉鷹山)」というのもある。しかし、行けばなんとか成るだろうという安易な考え方は危険である。
 コトバは旅先で覚えるものである。私は今度の旅でこんな事を悟った。「ブロクシマイヤー○○」…。マドリッドの地下鉄の次の停車駅名の車内アナウンスである。言葉(会話)が出来れば旅はもっと楽しい。

 最後にある本で読んだ一節を拝借する。
 「われわれは非常に満足な気もちで歩いた。
 旅の楽しさはプロセスにある。「点の旅」は旅ではない。たとえば─イルン(大西洋側の国境の町)からはいり、サン・セバスティアン─マドリード─トレド─バダボスからリスボン─ジブラルタル─マラガ─バレンシア─バルセロナというセット旅行がある。たいへん魅力的なコースだが、これを四泊五日でやってのけるのでは楽しさは半減する。スペイン料理がこなれるひまもないだろう。バスの中で眠ってすごすことになる。
 「点の旅」はモニュメンタリズムだ。ここまで来たからにはあれを見なければならぬ、これを見なければ損だという精神だ。ポストンバッグにラベルをべたべた貼って、絵葉書と名物とホテルのナプキンをつめこんで帰る。モニュメンタリズムは現代の観光精神である。「点の旅」はその所産にほかならぬ、この忙しい世の中では…というかもしれぬが、それならそれで、いやそれだからこそ、見たいものだけを見、したいことだけをする精神がたいせつなのである」。
 佐野文哉著「スペインの旅」鷹書房

     -終-

 追記:ロバート・キャパの写真「崩れ落ちる兵士」は撃たれていなかった!
スペイン内戦のさなかに撮ったフォトジャーナリズムの歴史を変えた傑作とされる「奇跡の一枚」。
戦争報道の歴史のなかで、最大の謎と言われる一枚の写真。本当は誰が撮ったのか? 
 2013年2月15日文藝春秋から発行された沢木耕太郎著「キャパの十字架」には史上最も高名な報道写真「崩れ落ちる兵士」の背景には驚くべき物語があったと書かれている。
 どのような状況で、そして誰の手によってカメラに収められたのか。20年近くこの謎を追い続け、世紀の謎に迫り、今意外な「真実」にたどり着こうとしている。


 目次へ   ↑ページの一番上へ
旅行記 index

HOME
1