★スイスすいすいひとり旅

ー海外漫遊記ー

シュテリゼー写真

エーデルワイスの咲く高原にヨーデル響き、牛や馬がガランガランと鈴を鳴らして草を食む。
憧れのスイス。永世中立の理想郷。万年雪を頂いた秀麗な山岳美と氷河。
さまざまな文化といくつもの言語が奏でる美しいハーモニー。
困難な歴史の歩みの中で常に自由を守り抜いてきたスイス国民。
スイス産業が生み出す世界に誇る優れた各種製品。
絵のような町や村が宝石のようにちりばめられた国、スイス。
アルプス連峰の大自然を求めて…。

カメラを持ったカメ漫画

1998年7月19日から8月23日までスイスを旅して来ました。

目  次

チューリヒ  ブレムガルテン  ベルン  ルツェルン  スーステン峠  ブリエンツ  ロートホルン 
インターラーケン  グリュイエール  グリンデルワルト  クライネ・シャイデック  ユングフラウヨッホ 
グローセ・シャイデック  フイルスト  バッハアルプゼー  ミューレン  シルトホルン 
メンリッヒェン  オベルホーヘン  モントルー  トロシュナ  ローザンヌ  ヴヴェイ 
シヨン城  ジュネーヴ  ロシェ・ド・ネー  ゴルナーグラート  リッフェルゼー  ツェルマット  スネガ 
シュテリゼー  フィンデルン  クライン・マッターホルン  サース・フェー  サメダン 
グレヴァサルヴァス  ムオッタス・ムラーユ  ティラノ  ロカルノ  ベリンツォーナ  コモ  コモ湖

         スケジュール

 1998年(平成10年)
7月19日(日) 新千歳13:50-(KL870)18:55-(KL1969)20:15Zurich-Bremgarten
  20日(月) Bremgarten(Flight_over_Switzerland)
  21日(火) Bremgarten-Erlinsbach-Bern-Bremgarten
  22日(水) Bremgarten-Luzern-Bremgarten
  23日(木) Bremgarten-Sustenpass-Brienz
  24日(金) Brienz-Brienzer_Rothorn-Brienz-Interlaken-Brienz
  25日(土) Brienz-Brienzer_Rothorn-Brienz
  26日(日) Brienz-Bulle-Gruyeres-Bulle
  27日(月) Bulle-Grindelwald
  28日(火) Grindelwald-Kleine_Scheidegg-Jungfraujoch-Grindelwald
  29日(水) Grindelwald-Grosse_Scheidegg-First-Bachalpsee-First-Grindelwald
  30日(木) Grindelwald-Murren-Schilthorn-Grindelwald
  31日(金) Grindelwald
8月1日(土) Grindelwald-Grund-Mannlichen-Grund-Grindelwald
  2日(日) Grindelwald-Oberhofen-Montreux
  3日(月) Montreux-Tolochenaz-Lausanne-Vevey-Montreux
  4日(火) Montreux-Chateau_de_Chillon-Geneve-Montreux
  5日(水) Montreux-Chateau_de_Chillon-Montreux-Rochers_de_Naye-Montreux
  6日(木) Montreux-Gornergrat-Zermatt
  7日(金) Zermatt-Gornergrat-Riffelsee-Gornergrat
  8日(土) Gornergrat-Riffelsee-Zermatt-Sunnegga-Blauherd-Stellisee-Findeln-Zermatt
  9日(日) Zermatt-Klein_Matterhorn-Zermatt
  10日(月) Zermatt-Saas_fee-Zermatt
  11日(火) Zermatt-Sunnegga-Blauherd-Stellisee-Findeln-Zermatt
  12日(水) Zermatt-Sunnegga-Findeln-Zermatt
  13日(木) Zermatt
  14日(金) Zermatt-Samedan
  15日(土) Samedan-St.moritz-Sils_Maria-Grevasalvas(Silser_see)-Samedan
  16日(日) Samedan-Muottas_Muragl-St.moritz-Sils_Maria-Grevasalvas-Samedan
  17日(月) Samedan-Berninapass-Tirano-Samedan
  18日(火) Samedan-Locarno
  19日(水) Locarno-Bellinzona-Locarno
  20日(木) Locarno-Como-Locarno
  21日(金) Locarno-Bellinzona-Zurich-Kloten
  22日(土) Zurich10:30-12:10Amstrdam13:05-
  23日(日) 06:40新千歳

  7月19日(日) 新千歳13:50-(KL870)18:55-(KL1969)20:15 Zurich-Bremgarten
 アクシデントは札幌駅から始まった。プラットホームに上がると、10時49分発の列車は行ったばかり。間も無く到着した次の列車に一番先に乗り込む。少し間を置いて車内アナウンスがあり、「信号機故障のため、各列車とも各駅停車になる。従ってこの列車は運休するので次の列車に乗れ」という。と、いうことでホームに降ろされてしまう。降りる前に弁当などの荷物を手早く片付け、飲み始めたばかりの缶ビールを、買った時入れて貰ったビニール袋につまみと一緒に入れてホームに降りる。降りてから袋の中を見ると缶ビールが逆さまになっていて中身がこぼれていた。
 一応時間に余裕を持って来たが、列車が動かないとなると焦る。あとはバスかタクシーしか方法がない。切符を払い戻しする暇もなく、荷物を持って駅前のバス乗り場へと急ぐ。途中でキャスター付きのスーツケースの曳き手が外れて抜けてきた。段差のあるところを強く引っ張り揚げ過ぎたのかも知れない。(帰国してからJRに訊いたら途中の線路上の電線に蛇が絡まってショートしたためとの事だった。それにしてもお騒がせなことだ。切符の払い戻し料しか保証はしてくれなかった)。
 乗ったバスの遅いこと…。マドリッドでもこんなことがあった。帰国する日に空港へ向かう地下鉄の信号が中々青にならず各駅で長時間待たされ、あやふく出発時間に遅れそうになったことがあった。その時も焦った覚えがある。
 新千歳空港には辛うじてなんとか出発時間には間に合って先ずはひと安心。新千歳空港からアムステルダム行きの飛行機では隣の席に娘と孫に会いに行くという小樽のおばさんと乗り合わせた。小樽からタクシーで駈け付けたという。タクシーの運転手には空港まで2万円と言われたので高くて乗れないと言ったら1万5千円に負けてくれたという。
 アムステルダムからチューリヒ行きの飛行機では、昨年からヨーロッパ旅行を始めたと言うお喋りなおばさんと乗り合わせた。かなりハイテンションに話し掛けてくる。ヨーロッパにはどこへ行ったかと訊かれたから「大体…」と答えたら黙ってしまった。

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      Zurich(チューリヒ)
   チューリヒ空港到着
 荷物を受け取ってゲートをくぐるとステファン(仮名)が大きな紙に私の名前をローマ字で書いた物を頭上高く掲げて待っていてくれた。
 それは18年前(1980年)にベレンからブリエンツへ行った時の列車の中で会った高校生時代の彼とは似ても似つかない巨大な大人で腹も出ていた。おまけに眼鏡を掛けて口ひげまで貯えていた。しかし、にっこりと微笑んで迎えてくれたので彼に間違いはない。
 空港を出てから彼の車を置いてある駐車場まで歩くという。曳き手の壊れた私のキャリヤケースを彼が持ってくれたが、巨人でも流石に重そうであった。途中で彼に代わって私が引き取って彼の車まで引きずってきた。

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      Bremgarten(ブレムガルテン)
 彼の車で30分ほど走ってあまり大きくない町の彼の家に着いた。それは町外れの四階建てマンションの二階だった。間取りも多くかなり広い家であった。彼はその内の一部屋を私に提供してくれた。ベッドが一つ置いてあるほかに本棚が両側にあった。この町のことはガイドブックにも載っていないので良くは分らない。
 一人暮らしのようだが、家の中は奇麗に整頓されていた。未だ、結婚はしていないようだった。両親は別の町の昔の家に暮らしているという。
 改めて挨拶の後、先ず、日本から持ってきたお土産を渡す。しかし、重たい思いをして持ってきた四合瓶の日本酒とお燗の道具一式は無駄であった。彼はお酒は呑めないのだそうだ。今日から23日迄ここにご厄介になる。つまり“居候”である。
 彼手作りの夕食をご馳走になった後、道具箱を持ち出してきて旅の途中で壊れた私のスーツケースの曳き手を一時間ほど掛けて修理してくれた。
 彼は私に明日からのスケジュールを尋ねてきたので大まかに書いた紙を見せた。彼はそれを今晩一晩貸してくれと言う。更に、宿は決っているのかと尋ねるので、行った先で探すと答えた。
 彼は「少し待ってくれ」と言い残して彼の部屋に行き、どこへやら電話を掛けはじめた。しばらく待っていると彼が私のために予約してくれたホテルの一覧表と各ホテル毎のホテル名、住所、電話番号それに行き方と地図、細かく幾通りも調べ上げて書いてくれた列車の時刻表を記入した紙を渡してくれた。思いがけないプレゼントに感謝感激。
 彼は今、小学校の教師をしているという。今は丁度夏休みなので明日からは彼の車で案内してくれると言ってくれた。

  7月20日(月) 快晴 Bremgarten
    Flight_over_Switzerland(マッターホルン一周)
レンツブルク付近  今日は彼の知り合いの友人のセスナ機でマッターホルン方面を案内してくれると言う。彼の車でチューリッヒの西およそ40qにあるLenzburg(レンツブルク)から更に北東に10qほど行ったBirrhardという小さな村外れにある飛行場へと向かう。飛行場といっても広い畑の中にある小さな飛行場で、小型機専用の飛行場である。スイス国中にはこのような小さな飛行場が各地に沢山あると言う。いざ戦争になった時の備えだそうだ。
マッターホルン頂上写真  Birrhardの飛行場(Aarg.Regionalflugplatz_Birrfeld)を飛び発ち、ルツェルン、インターラーケン上空付近、ユングフラウなどを経て尚も南を目指す。空気が薄いために少し息苦しくなってきたが、ただ座って眺めているだけだから別段苦しいことはない。パイロットが副操縦席のステファンと何事か話している。すると彼が後の席の私に振り返って「気分は大丈夫か」と声を掛けてきた。快晴の飛行日和。尚も高度をどんどん上げて行くとやがて前方にマッターホルンが見えてきた。ステファンは何度も後ろを振り返って私の様子を伺う。Matterhorn(マッターホルン)の頂上(標高4478m)まで上昇して頂上の周りを一周した後、ローヌ川に沿って西へと進む。レマン湖畔のモントルー、三方をアーレ川に囲まれ、丁度半島状になったベルンの上空と飛んで二時間半の空中散歩を楽しんできた。飛び発ったBirrhardの飛行場に無事着陸した後、セスナ機を3人して手で押して格納庫に納める手伝いをした。
 明日からは23日までの間、この近くの町やベルン、ルツェルンなどを案内してくれた後、Sustenpass(スーステン峠)を通ってブリエンツまで送り届けてくれるという。彼のご好意に感謝!

  7月21日(火) 曇り Bremgarten-Erlinsbach-Bern-Bremgarten
 今日の予定を訊くと、彼は紙に“Invitation_Achermann_Paren's(ご両親の招待)”と書き、ベルンへ行く途中、両親の住んでいるErlinsbachに立ち寄ってからベルンを案内すると言う。彼は元々両親とErlinsbachに住んでいた。又、私は彼と最初に列車の中で会った時に彼のご両親ともお会いしている。
ハプスブルグ城写真  早朝、彼の家を車で出発。先ず、Ruinsでローマ軍駐屯の遺跡を見せてくれた。この後Habsburg(ハプスブルグ)城へと向かう。ハプスブルグ家の原点がここにあったとは知らなかった。その城は遠くに山に囲まれた平地の麦畑の中に在った。城の中をひと通り見物する。

 ※ハプスブルグ家…中欧を中心とする広大な地域に君臨した家門。ヨーロッパでもっとも由緒ある家柄のひとつ。1438〜1806年の神聖ローマ皇帝はすべてこの家門から出た。皇帝フランツ二世は1804年からオーストリア皇帝としてフランツ一世を名乗る。また、婚姻政策の結果、1516〜1700年スペイン王位を占める。第一次大戦敗北のため、王朝は1918年に崩壊。(広辞苑)

レンツブルク城写真  ステファンのご両親が住んでいるErlinsbachへ向かう途中、通りが掛りのMellingenのお菓子屋さんでステファンのお母さんが好きだと言うケーキを買ってからCastle_Lenzburg(レンツブルク城)へと向かう。この城は特にリクエストした訳ではないが、私のスケジュールがシヨン城などいくつかのスイスの城を巡る予定が組み込まれていたので、私がかなり城に興味を持っていると解釈して配慮してくれたものであろう。
 レンツブルク城は山上の城館で、その山の下にスイスの田園風景が展開している。折角だったが、この城はあまり私の興味を引くところではなかった。この後、レンツブルクから東におよそ20`走り、彼のご両親の住むのErlinsbachへと向かう。

     ご両親と再会 
 ベルンへ行く途中のErlinsbachでステファンのご両親の家に立ち寄り、昼食をご馳走になった。スイスではスーパーなどで買い物をしても日本のようなレジ袋はくれない。昔の日本のように買い物袋を各自が持参して買物に出かける。それでお母さんへのお土産として、和風の図柄のアップリケの付いた買物袋を差し上げると大変喜んでくれた。お父さんは団扇を手に取り、ご機嫌で扇いで見せてくれた。
 私がこの後レマン湖の近くに葬られているオードリー・ヘプバーンの墓も訪れる予定だと彼が伝えると、お母さんは驚いたような表情をしていた。その後、にやにやと笑っていた。最近、日本人観光客が大勢してヘプバーンの墓参りに訪れるのをスイス人は奇異に思っているらしい。
 私達はご両親にお別れしてベルンへと向かった。

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      ベルン(Bern)
 スイス連邦の首都ベルンにはジユネーヴにもチューリッヒにもないこぢんまりとまとまった中世的なムードがある町である。人口約14万人、スイスで4番目に大きい都市である。西を除く三方をアーレ川に囲まれ、丁度半島状になった段丘の上に発達したという地形的条件、それに今日まで中世時代の原型を保存しようとした努力によって、ベルンに見る中世は非常に絵画的であり、一つひとつの美しさというより全体的の調和が素晴らしい。そして街のいたるところにある噴水はさらにこの中世的な雰囲気をもりあげている。
マルクト通りには食人鬼噴水と有名な時計塔が見える写真  張り出し窓の家並みや、16世紀半ばにつくられた11の噴水、13世紀の牢獄塔、16世紀の時計台、15世紀の市庁舎、ゴシックの大寺院、こういったものがオールド・タウンを構成している。ベルンの街が非常に中世的であり絵画的であるのは、この街にオールド・タウンがあるからである。街並みは美しく、落ち着いた雰囲気を感じさせる。
 マルクト通りとクラム通りからニーデック橋に至る約1qの間がベルンの旧市街の中心。両側にアーチ型の石のアーケードが続き、噴水を飾る可憐な花が彩りを添えている。最も有名な食人鬼の噴水はコーンハウス広場にある。
時計塔写真  私は昔、この街に一度来たことがあるので大体の土地勘はある。私達は先ず車を駐車場に入れた後、アーケードを通り時計塔に向かった。時計塔は、昔から市の名物として知られ、市の中心クラム通りにある。1時間毎に時を告げるが、ここには八つの像が飾ってあって鶏が鳴き、熊の行進が回り、道化師が鐘を鳴らす。“ショー”が始まるまでには未だ少々間があるので、ここで熊の行進が始まるのを待った。ステファンにはMDを持って貰い、鐘の音を録音してくれるようにお願いした。
アーレ川の向こうに大聖堂がそそり立つ写真  熊の行進が終った後、ステファンにはここで待っていて貰い、私は大急ぎで近くのアーレ川に架かるキルヘンフェルト橋へ向かい、橋の上から川越しに大聖堂を写してから時計塔に戻ってきた。この大聖堂は、15世紀に建てられたスイス有数の大寺院で、ゴシック様式の代表的建築物のひとつである。塔の高さは100mあり、スイスで一番高い教会である。
 ブレムガルテンの彼の家に帰ってから彼は私に、明日は“Visit_Luzern”とメモしてくれた。

  7月22日(水)曇り Bremgarten-Luzern-Bremgarten

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      Luzern(ルツェルン)
    ルツェルン観光
 スイスのほぼ中央に位置するルツェルンは、中世の面影をとどめる静かな美しい町だ。人口15万8600人のルツェルン市は、昔は小さな漁村であったが、8世紀に修道院が建てられるようになって、ようやくその名を知られはじめたところである。13世紀になってゴッタルド峠が開通して、このルツェルンはアルプスの南北を結ぶルート上の重要な地点となった。スイスにおける旧教の中心的存在であった古い歴史を持つこの美しい町にはなんとなく中世的な雰囲気がある。
 ルツェルン湖に望む美しい街で、町中を清涼なロイス川が流れ、湖岸からはリギやピラトゥスなどのプレアルプスを望むという素晴らしい自然環境をも兼ね備えた観光都市である。
 車を駅近くの駐車場に入れ、二人でロイス川沿いの道をカペル橋へと向かう。蒸し暑い。歩道が水で濡れており、あちらこちらに雹が落ちている。降ってからまだ間がないようだ。周りの草木の葉が雹に叩かれたのか破れたり穴が空いたりしている。
ルツェルンのシンボル、カペル橋写真  湖から流れ出すロイス川には多くの橋がかかっているが、その中でも、河口から2番目にあるカペル橋と5番目のシュプロイヤー橋はよく知られている。特ににカペル橋の風景は、このルツェルンの中ではもっとも代表的なもので、よくポスターなどで見かける。1333年年に完成された世界最古の渡り廊下のような屋根のある全長170mのこの木橋には、110枚のルツェルンの歴史を物語る板絵(最初のものは16世紀初頭に描かれたものであったが、現在のものは18世紀のものである)が飾られ、左岸寄りには外敵に対する見張り台として建てられた八角の水塔があって、この橋をいっそう中世的なものにしている。
 この世界的に知られた町のシンボルは、残念ながら1994年に全体の半分以上を火災により焼失したが、すっかり修復されている。そして欄干からは可愛い花々がこぼれるように飾られている。私は焼け残った部分で何枚か写真を撮りながら橋を渡り切った。
カペル橋の屋根の梁には110枚の三角形の板絵が取り付けてある写真  湖畔にはホテルやレストランの並ぶ散歩道が続いている。橋を渡り切った対岸で一服。川岸のレストランの前に並べられたテーブルに座り、軽食とワインを頼んだ。対岸の教会の鐘が正午を告げた。いい雰囲気である。食事代を支払おうとしたら、ステファンがご馳走してくれると言う。悪いのでワイン代は私に持たせてくれとお願いした。車の駐車料も私に払わせてもらった。
 駐車場を出てから彼は、近くのMuseggmauer(ムーゼック城壁)に案内してくれた。ここはかつて街をぐるりと囲んでいた城壁だが、今ではメンリ塔から東へ900mほどを残すのみとなった。ステファンは城壁の近くで私を車から降ろし、ここは駐車出来ないので時間を合せて又迎いに来ると言って立ち去った。私は塔のそばにあるレストランの裏から城壁に上る。上からは、ロイス川を挟んだルツェルンの街並み、また反対側の緑豊かな住宅街などが眺められた。景色を楽しみながら、城壁の上をしばらく歩いてみた。晴れていればここから湖の向こうにRigi(リギ.1797m)山が見えるはずだが、今日は残念ながら見ることが出来ない。

     ラーメンをご馳走
 夕方、私が日本から持ってきたインスタントラーメンを作ってご馳走したら大変珍しがられた。ラーメンの中に入れる具は彼の冷蔵庫の中にある卵を茹でた他に近くのスーパーに行ってハムなどを買ってきた。彼はなれない手つきで割り箸と格闘しながら食べていた。一応美味しいと言ってくれた。
 彼はスイス人なので英語は堪能だが日本語は全く分からない。私も外国語は苦手だ。でも英語の辞書片手になんとか切り抜けた。今となってはもう遅いが、若い時にもっと勉強しておけば良かったと後悔の念が先に立つ。
 彼の家を発つ最後の夜に、部屋に入ってから辞書片手に次のような文書をなんとか書きあげ、いくらかのドルと一緒に封筒に入れてベッドの横にそっと置いて彼の家を後にした。果たしてこれで私の気持ちが相手に少しは通じたかどうか疑問だが…。

 Dear_Mr_Stefan
Tank_you_for_inviting_me. It_was_very_nice_to_meet_you. I_has_a_great_time. It_will_be_a_nice_memory. I'm_sorry_to_cause_you_so_much_trouble.
I_hope_you_come_to_Japan.
See_you_agin. Good_by.
※ A_little_money_to_you.

  7月23日(木)快晴 Bremgarten-Sustenpass-Brienz
スーステン峠付近  今日は大変お世話になったステファンの家を後にブリエンツへ向かう。彼が車で送ってくれると言う。あまり近くない所なので恐縮してしまうが、スーステン峠を通って行くのにはかなり不便なので初めからそのつもりで彼がスケジュールを組んでくれたのでご好意に甘えることにする。出発前に彼は彼の勤め先である小学校に寄り、水槽に飼っている魚に餌をやってから行きたいという。
 ブレムガルテンから田園地帯の道を南へと走る。朝の光が草原やポプラの木に前方斜めから差し込み半逆光に映えて美しい。「途中気に入った風景があったら車を停めるから言ってくれ」とステファンが優しく言ってくれる。
 やがて湖に面した少し大きい町に着いた。Zug(ツーク)だ。ツークは.スイスで最も小さいカントン、つまり州の首都で、Zuger_See(ツーク湖)に面した美しい町。特別な税対策により精密工業を集めた町として知られている。ツーク湖の向こうにはひときは大きな山が見える。Rigi(リギ山1797.5m)だ。リギ山は中央スイスで最も有名な展望台である。昔からアルプスのご来仰を眺める場所として知られている。1871年にヨーロッパ最初の登山鉄道が開通した。
 ブラームスは1868年9月12日にスイスのリギ山でアルペンホルンで吹かれたメロディーをスケッチしてクララ・シューマンに宛てた葉書に記載、送った(出典/B.リッツマン編集「クラーラ・シューマン、ヨハネス・ブラームス往復書簡集第一巻)。後に第一交響曲終楽章にそれを用いて民謡と芸術的音楽とを結びつけた。

 ※Yohannes_Brahms1833〜1897(ブラームス)…ドイツの作曲家。バッハ、ベートーヴェンと共にドイツ音楽の「三大B」と称される。

 ※ブラームス交響曲第一番ハ短調…1876年完成。この曲を聞いた名指揮者のハンス・フォン・ビューローは、ベートーヴェンの「第九番」に続くべき「第十番」の交響曲が誕生したと言って、この曲を絶賛した。春に聴くにふさわしい交響曲である。私はワルター指揮のコロンビア交響楽団(CBS・ソニー22DC5587) を愛聴している。

 ツークを出て更にゴッタルド峠を目指して行くと田園地帯を通り、再び湖畔に出る。湖畔の町ブルンネンでトイレ休憩。ブルンネンからはフィーアヴァルトシュテッテ湖沿いの道を走る。フィーアヴァルトシュテッテ湖周辺は、スイスの歴史上特に意義深い土地である。伝説上のスイス建国の父「ウィリアム・テル」の活躍した舞台として知られ、悪代官ゲスラーを討った北端のキュスナハト、南東端には捕らえられたテルが脱出したジシコン、テル親子の像が建つAltdorf(アルトドルフ)など、湖畔の村々はテルゆかりの名所が続く。
ウィルヘルム・テル親子の像写真  アルトドルフはウーリー州の首都で、サン・ゴタルド峠のキーポイントでもあるが、人口は1万人に満たない小さな町である。ウィルヘルム・テルの町として名高く、この町の中央広場にはテルの記念碑が建っている。弓を肩にして息子と共に立つテルの像はあまりにも有名である。
 ここでも彼は車から降ろしてくれた。但し、駐車は出来ないから像の写真だけを撮って来てくれという。私は急いで像の前に行き、折り良く通りかかった人に私のカメラで像と一緒に記念写真を撮ってもらってから急いで車に戻った。
 スーステン峠へはWassen(ヴァセン928m)から右に折れてMeientall(マイエン谷)に入る。やがて前方には五本指の山Funffingerstok(フュンフフィンガーシュトック3023m)が見え、左手の谷には氷河から下る沢がいくつも入り込んでいる。方向を西から南に変えると、白銀の峰々と眩い氷河が近く、ヘアピンカーブからトンネルに入る。この道は、第二次世界大戦中に建設された。

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      Sustenpass(スーステン峠)
高山植物が咲き誇るスーステン峠写真  峠はトンネルを抜け出たところで、北側に小さな池がある。展望はレストランの前の小高い丘を登った向こうに少し下がった所からがいい。彼はレストランの駐車場に車を停めて、ここで待っているから写真を撮りに行って来いと言う。私はカメラを持って急いで眼の前の小高い丘を登り、展望の利く所に行く。
 Stein(シュタイン)氷河の奥にSustenhorn(スーステンホルン3503m)などが連なっている。その氷河の溶けた水を集めたシュタイン湖畔にはホテルが建っている。
 ひと通り撮影し終わった頃には昼近くになった。車の中で待っていた彼をホテルのレストランに誘った。昨日は彼にご馳走になったので今日は私がご馳走した。
シュタイン氷河の奥にスーステンホルン(3503m)などが連なっている写真  峠を越えると、右後方にTitlis(ティトリス3239m)を見てGadmen(ガドメン)を通過、やがてInnertkirchen(インナートキルヒェン943m)に到着、グリムゼル街道に入ればマイリンゲンは近い。
 Meiringen(マイリンゲン)にはシャーロック・ホームズが突き落とされたReichenbachfalle(ライヒェンバッハの滝)がある。1891年に犯罪組織の頭目であるジェームズ・モリアーティ教授との対決(『最後の事件』)で、モリアーティ教授と共にスイスのライヘンバッハ滝にて失踪。モリアーティ教授と滝壺に落ちて死亡したと思われた。ところが…(フリー百科事典『ウィキペディア』)。
 滝の左手の岸壁には、『シャーロック・ホームズ最後の事件』で悪漢モリアーティ教授と格闘してホームズが落ちた地点に、★印が付けられているという。街にはシャーロック・ホームズ博物館もあり、館の前にはホームズ像があるというから事件は本当の事なんだろう(?)。

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      Brienz(ブリエンツ)
 午後3時頃ブリエンツに着いた。ブリエンツのホテルは湖畔に面したレストランの二階であった。このホテルの前まで送ってきた彼は一服を勧めたがそのまま別れを告げてブレムガルテンの自宅へと帰って行った。さあ、これからが本当のひとり旅が始まる。マイペースでゆこう。
ブリエンツ湖畔写真  ブリエンツはインターラーケン・オストから東に16q程、木造の家並みが残る湖畔の静かな町である。人口3000人ほどであるが、この町には興味を引くものが多い。ひとつはここで制作される木工、木彫りの細工物である。ブリエンツはスイスの伝統的工芸である木工細工を作っているばかりでなく、木工のための学校を建て、技術を伝える努力をしている。 1924年(大正13年)、尾張徳川家の当主であった徳川義親は、旧尾張藩士たちが入植した北海道の農場「徳川農場」が立地する八雲町の農民たちの冬期の収入源として、前年にスイスから持ち帰った熊の木彫を生産するよう提案した。 このアイデアは当たり、「木彫りの熊」は後に阿寒などのアイヌに伝わり、八雲町に留まらない北海道の名産品として広く認知された。 もうひとつは老兵のように消えていくSLがここに存在していることである。ブリエンツの町からRothorn(ロートホルン2350m)の頂上まで、その懐かしい蒸気の音を林間にこだまさせ、草原をぬい、岩壁をまいて喘ぎ喘ぎ登るこの小さな蒸気機関車の姿は、新幹線が最優先の日本人にとってはまるでメルヘンの世界である。
ブリエンツのホテル街写真  未だ夕食までには時間があるので、メイン通りを歩いてみる。有名な木彫り屋Jobinやギャラリードゥラックドゥブリエンツなどに入ってみる。お土産屋の正面には「雅子生チョコレート」と日本語で書いた看板が掲げられていた。皇太子妃がここを訪れた時にこの店に寄ったとのことであった。店を覗いてみると12個入りのチョコレートが12.50SF(為替レート1SF=92.25〜99.27円)、15個入り、24個入りとあって、32個入りが30.00SFだった。又、ジャパニーズ弁当が24.00SF、おにぎり弁当14.00SFで売られていた。

  7月24日(金)曇 Brienz-Brienzer_Rothorn-Brienz-Interlaken-Brienz
 今日も快晴を期待したが、あいにく低い雲が山を覆い、晴れそうにもない。蒸し暑い。明日の天気は分らない。今日はブリエンツ・ロートホルンのミニSLを撮りに行く予定にしているがこの天気では迷ってしまう。ここは1980年にも一度来たことのあるところである。いろいろ迷ったあげく、ここに居てもしょうがないので一応登山鉄道の駅まで行ってみることにする。
山頂を目指すSLの重連写真  ブリエンツ・ロートホルン鉄道では、19世紀そのままの古い小型蒸気機関車(SL)が活躍している。豆粒のようなタンク式のSLが、煙を吐いて走っている。この鉄道は、ここからアルプス連峰のひとつロートホルンの山頂近くまでの7.6qを登る典型的な登山鉄道である。
 国鉄駅の直ぐ向かいにある出発点のブリエンツ駅に行くと頂上での天候が掲示している。山の上には雲はなく見晴らしがいい様なので行くことに決心する。先ず、駅の窓口でスイスパスに使用開始の日付を入れて貰ってから、山の頂上付近にある終点のロートホルン・クルム駅行きの割引切符を買う。

 ※Swis_Pass(スイスパス)…通用期間中、国鉄、私鉄、湖船、ポストバスなど乗り放題の国内フリーパス。但し登山鉄道やロープウェイなど、山に登る交通機関はパスを示して割引切符を買う。又、各市の市電やバスなどにも使える。日本国内の旅行代理店か、スイス近隣諸国でしか買えない。

なんだ坂こんな坂写真  この駅の標高は海抜568m、終点のロートホルン駅は海抜2249m。その差はなんと1681mもある。1番険しい斜面は、1000mに対して250m登る急な勾配である。日本の箱根登山鉄道や信越本線碓氷峠のこう配の3〜4倍はある。勿論、普通の鉄道のような、摩擦を利用した方式では車輪が滑って進むことは出来ない。線路の中央に歯の形をしたラックレールを敷いて、機関車の動輪の間にある動力歯車を噛み合わせて登って行くアブト方式が採用されている。
 この機関車がまた傑作だ。水平なブリエンツの駅に停まっている時は、前にのめり込んだような格好だが、急勾配に合わせてボイラーの前方を低くおじぎをしているような愉快なスタイルなので、勾配区間でボイラーが丁度水平になるようにしているのである。山の斜面に差し掛かると、ボイラーを水平にして急な坂を元気よく登って行く。
 もうひとつ変わっているのは、機関車にも客車にも連結器が付いていない。列車は、登りは緑色のミニSLが後ろに付いて可愛い赤い小さな客車を1輌か2輌を前に付け、後ろから大きなドラフト音を谷間にこだまさせながら全長7.6q、最大勾配は250パーミル(水平距離で4m進むごとに1m登る勘定)の急勾配をゆっくりと懸命に押しながら登って行く。まさにお伽の国のSLだ。下りは前に付いて支えている。発車してから終点まで、平らな区間は全く無く、全線が登りなので、わぎわぎ連結器で繋がなくても、機関車と客車はちゃんとくっ付いてくるという訳である。
ブルサティクアルピナスルフレ写真 ヘアベル写真  観光客でいっぱいになったマッチ箱のような客車を押しながらブリエンツ駅を出発。窓々にゼラニウムの鉢を飾った民家の間を抜けて、列車は森林地帯に入る。静かな森の中に、SLのドラフトの音がこだまする。背後には青い湖面がどんどん遠ざかる。
 トンネルを抜け、絶壁の上に出ると、そこはもうプランアルプ駅(標高1341m)だ。一気には登れないので、途中ひとつだけある小さな駅プランアルプを含む3ヶ所の避難線で休み、給水して、下りの列車とすれ違いながら登る。
 プランアルプはそれほど平らな所ではない。むしろやっと放牧ができる程度の傾斜地だ。それでも小さなSLにとっては貴重な休憩地である。機関士は運転室から飛び降り、SLに水を呑ませたり、あちこちに油をさしてやったりしている。乗り降りする観光客は、ほとんどいない。たまに山を降りて来たハイカーが、下り列車に乗る程度だ。
稜線の下を行くSL写真  崖を登りきると、そこはすり鉢状の別世界。この辺りから、ブリエンツ・ロートホルン鉄道の旅はいよいよクライマックスに入る。列車はすり鉢の壁を回り込むように登って行く。乗客は上を見たり、下を見たり、変化する景色を捕らえるのに忙しい。
 海抜2000メートル近くなると、ところどころに白い雪が見られ、神秘的なアルプスの山々が、目の前に広がっている。美しい牧草に覆われた斜面を登って行くと、やがて列車は、絶壁の横腹に掘られたトンネルに入る。トンネルの途中の僅かな切れ目から、ブリエンツの町と湖がチラリとのぞく。
 観光シーズンにはあとを追い掛ける様に次から次へと列車が運転されるので団子状になってロートホルンを目指す。アルプスをバックに、200〜300mの間隔を置いて、2条、3条、時には4条の白い煙が立ち登る光景はまことに牧歌的だ。一つひとつのSLが、それぞれ個性あるドラフトの音を響かせ、それはやがてドラフトの合唱となって、谷間にこだまする。約1時間の短い旅路は、あまりの楽しさに時を忘れてしまうほどだ。

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      Brienzer_Rothorn(ロートホルン)
 終点のロートホルン・クルム駅(標高2240m)は、山頂から少し下がった馬の背の様なところにある。ここから山頂までは約15分の道程だが、少し登ったところ(2266m)に山小屋風のホテルがある。そのテラスからの眺望は、思わず息を飲むほどの素晴らしい眺めである。
 すり鉢状の斜面を、ループを描きながら登ってくるSL達。奇怪な形の稜線。その向こうにはブリエンツ湖が拡がり、更にその後にアイガー、メンヒ、ユングフラウなどの巨峰が連なる。夏でもかなり寒い。
ブリエンツ湖の向こうにはアイガー、メンヒ、ユングフラウなどベルナー・オーバーラントの巨峰が連なる。'80.7.22撮影写真  晴天であればここからベルナー・オーバーラントの白い峰々の展望を眼前に楽しむこともできる。頂上(標高2350m)からの眺めは素晴らしいの一言。眼下のブリエンツ湖が青々と水を湛え、SLが箱庭のような山間を機関車の大きさに似合わない大きなドラフト音を高らかに登ってくるのが大パノラマで展開する。しかし、今日は雲が邪魔して見晴らしは良くない。1980年7月22日に初めてここに来た時には快晴で素晴らしい眺望を心行くまで楽しんだ時が懐かしい。
 昼過ぎにブリエンツの船着場から湖船でブリエンツ湖を渡り、インターラーケンへ行く。波ひとつないまっ平らな水面をのんびりと進む船から見る湖畔の風景は緑の中にシャレー風の家などが散見されて美しい。ゆっくりと船旅を楽しんでいる内にやがて船はインターラーケンの船着場に着いた。

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      Interlaken(インターラーケン)
 インターラーケンは、ベルナー・オーバーラントヘの登山電車の発着所である。“湖の間”という意味が示すように、西のトゥーン湖と東のブリエンツ湖とを結ぶアーレ川の盆地に発展したヨーロッパでも有名なリゾートである。インターラーケンを訪れる観光客の90%が、この世界的に有名な山に登って行くという。老人も女の人も、子供たちも、町を歩くそのままの格好で気楽に、しかも富士山より高くて険しい山頂まで半日で往復することが出来る。
 街のメインストリートには大きなホテル、大きな公園、大きなみやげ物店が、遠くに望まれる4000mの山々に負けじと並んでいるが、なにか大都会の一部がここに移動したようで、どうもベルナー・オーバーラントの雰囲気とはちぐはぐで、あまり感心できない。街にはCasino_Kursaal(カジノ・クーアザル)がある。名称はカジノだが、ホールではスイス民謡ショーが行われているというが。夜9時からなので入って見るのは無理。ガイドブックに書かれているチーズ工場は3、4年前に閉鎖している。インターラーケンはただ疲れただけだった。

  7月25日(土)雨、後曇り Brienz-Brienzer_Rothorn-Brienz
ブリエンツ  朝6時起床。窓から見ると山の頂上が見える。今日はなんとかなるかな。朝食の後、9時15分発の登山列車でロートホルン・クルムへ行く。頂上近くの終点クルム駅に着いた頃雨、いや、多少みぞれ。寒い。クルム駅の寒暖計が10℃を示している。
 ホテル内のお土産売場などを見ながら待つことしばし。昼前頃には雨も止み、一時間ほどすると霧も遠退いて行った。先ずは頂上へと歩き出す。頂上で昼食。再びクルム駅へ戻って来て撮影ポイントを探す。入ってはいけない登山鉄道の線路伝いにトコトコと山を下る。少し行くとトンネルがある。狭くて長い。列車が来たら避けようもないし、見付かると怒られるだろう。危険なので諦めてもう一度クルム駅まで戻る。登りは疲れる。
シュタインボック写真  レストランの下のハイキングコースを下ることにする。テラス前の一段低い方のハイキングコースを先ず東に下る。牛が放牧されている小道を下る。シュタインボック(野生の山羊)の夫婦も居たので撮影する。
 ハイキングコースの途中から撮影アングルを求めて急な坂の草原を横切って分け入る。かなり急な傾斜面の濡れた草地で2〜3bほど滑り落ちて左手の親指と薬指の皮を2、3ヶ所擦り剥いてしまった。血が流れ落ちる。早速カットバンの登場。そこからハイキングコースを少し降りたところからブリエンツ湖をバックに赤い客車と緑の「アルプスのミニSL」を撮影する。
お花畑の中を登るSL写真  あいにくの曇り空で周りの山に雲が掛り、湖も見えないのでそこで天気待ちする。下りの最終列車に乗るためにはここを4時には切り上げなければならない。3時半頃突然ブリエンツ湖が見えてきた。しかし空は曇っていて太陽は顔を出してくれない。
 下りの最終列車の時間が近付いて来た。4時頃登ってきたSLを最後に撮影した後、草原を降り、線路を横切って進むとオーバーシュタッフェルの信号所に降りてきた。線路沿いに下ってから左に乗り越えるとジグザグ道になる。緩やかになってから線路を西側に越え、Gleesgi(グレースギ)の放牧小屋からSL列車に乗って出発点のブリエンツ駅に帰って来た。

  7月26日(日)晴れ Brienz-Bulle-Gruyeres-Bulle
グリュイエール付近  窓から外を見ると良く晴れていて湖の向こうに見えるベルナー・オーバーラントの山々が美しい。昨日はロートホルンの山頂から見えなかったアイガーやメンヒ、ユングフラウなどが綺麗に見える。昨日とは嘘の様に山並みが美しく見える。もう一度ロートホルンに挑戦したかったが、日程が許さない。ここばかりがスイスじゃない。曇があれば晴れもある。先へ急ごう。
 今日からはブリエンツから1等の「Swis_Pass(スイスパス)」を使ってスイス各地を回る予定である。荷物をライゼゲペックに預けてから7時13分の列車でブリエンツを後にグリュイエールへ向かう。

 ※Reisegepack(ライゼゲペック)…旅行者手荷物託送システム。簡単、確実、スピーディーな旅行者本意のシステムである。有効な切符を持っていれば、25sまでの荷物一個に付き10SF(全国均一)でスーツケースなどを次の目的地へ送れる。鉄道だけでなく、ポストバスと登山電車の路線も送付可能の所が多い。途中で預けるロッカー代と出し入れの手間が省ける。上手く使えば、宿泊地でのロッカー代も浮く。

シュピーツ近くのトゥーン湖畔が美しい写真  ルツェルンからインターラーケンを経由してモントルーに至るルートは、“ゴールデンパス”と呼ばれ、ブリエンツ湖、トゥーン湖、レマン湖畔とスイスの中でも特に風光明媚な湖をつないで走る魅力のコースである。
 途中のトゥーン湖畔が美しい。特にインターラーケン寄りSpiez(シュピーツ)の近くの湖畔が美しい。スイスの鉄道は、ヨーロッパの他の国鉄と比べてどことなく清潔さを感じ、ゆったりして優れた車内設備に気が付く。また時間の正確さ、適度なスピードなどに満足する。
 列車はやがてBulle(ビュール)に着く。ここで列車を乗り換えてグリュイエールへと向かう。

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      Gruyeres(グリュイエール)
グリュイエール城写真  昼頃Gruyeres(グリュイエール)に着く。快晴。ここは1980年にも一度来たことがある。グリュイエールは標高830mの高原の中の長い丘陵上に町とがある。チーズフォンデュに使われるグリュイエールチーズはこの村で造られたもので、世界的に知られている。チーズは牛や羊の乳が原料だから、産地のそばは牧場が多い。周辺はすべて放牧地であり、広々とした高原の中の丘の上の町、そして城の町。のどかな景色である。高原がすでに相当な標高だからそれほどの高さは感じない。
 この丘の上の町は12世紀にグリュイエール伯が城を築いたことから始まった。町の入口はひとつしかなく、城まで200m程、石畳の通りの両側をカフェテラスに挟まれた大通りが一本ある。まるで映画のセットのような中世的な感じが残っている。その突き当たりに建つ城は15世紀のもの。時が止まったかのように静かて可愛らしい村だ。古い家々のほとんどはチーズ専門店、みやげ物店、レストランなど。店の看板やみやげ物に鶴の姿が多く描かれているのは、GruyeresのGrueがフランス語で鶴を意味しているからで、この村のシンボルとなっている。
グリュイエールのメインストリート写真  場内に入る門の辺りから手前の噴水を入れて城を撮ろうとしたがどうも高さが足りない。辺りを見回すと門の上辺りが良さそうだ。どこからか上る所がないか探すと右手が丘の様に傾斜になっていて、そこを登って行くと門に通じる回廊の上ににあがれそうだ。付近を見ると1b程の長さの丸太の棒があった。それを塀に立て掛け、先ず、その上に左足を乗せ、軒先に手を掛けて鉄棒の懸垂よろしくぶら下がり、上ろうと試みるがお尻が重くて持ち上がらない。普段運動不足なのと歳のため力がなくなっているので容易ではない。何度ももがいて試みている内に満身の力を込めてようやく足掛かりに右足が届いて上がることが出来た。ほっとして辺りを見回すと、この様子を近くで見ていた小さな子供があきれた顔をしていた。東洋の“忍者”とでも思ったのだろうか。忍者にしてはもたついているなと思ったかも知れない。急いで瓦屋根伝いに門の上に上る。誰かに見付かったらとがめられるかもしれないと思い、急いで撮影して無事降りてきた。
 お土産屋さんの店先に掛けてあった寒暖計が26℃を指し示している。暑い。取り敢えずビール(トリビー)!
 隣のテーブルの客が食べていたスパゲッティ・ボローニャが美味そうだったのでそれをオーダー。粉チーズをタップリ掛けて食べたので美味かった。
丘の上のグリュイエール城写真  食後、一旦城の裏側の坂道を降りて城の全景を撮りに行く。汗ぐっしょり。暑くて目が廻った。城内に入ると大広間、衛兵の間、台所などが残っていて、かつての生活が偲ばれる。調度品も素晴らしい。さらに、城の中の中庭や庭園も美しい。
 駅前にはFromagerie_de_demonstration_du_gruyere(グリュイエールチーズ工場)があり、近代的な製法をガラス越しに見学出来るが、前回来た時に見ているので今回はパス。城の入口近くにある売店で家へのお土産としてグリュイエールチーズの塊を1個買ってビュールへと戻る。今夜はこの町に泊ることにしている。
 駅に降りて宿の場所を訊こうとしたがここは小さい町であり、観光地でもないのでインフォメーションが見当たらない。駅前に立ち、通り掛りの青年に訊ねると親切に教えてくれた。それでも私が不安な顔をしていると、そこまで案内してくれると言う。ご親切に感謝する。彼は駅から2〜300b離れた宿の前まで案内してくれた。そこはレストランの二階であった。部屋に入ってワインを飲んだらダウン。早々6時頃寝てしまった。

  7月27日(月)小雨 Bulle-Grindelwald
 今朝は昨日の快晴に対して一転して小雨。雷、雷雨。5時に起床、6時食事、7時05分ビュール駅前発のバスに乗る。ビュールからFribourg(フリブール)へバスで行く途中、高速道路右側に見える湖が美しい。フリブール駅07:48発の列車に乗り、ベルンで一度乗り変えて、Interlaken_Ost(インターラーケン東駅)へ行く。
 スイスはヨーロッパの中央にあって、西ドイツ、フランス、イタリアーオーストリアといった国々にかこまれている山国である。周りには有名なアルプスの山が、壁のように聳え立つており、世界中の国から訪れる観光客を目当てにアルプスの山頂へ運ぶ登山鉄道が、20数ヶ所にある。Interlaken_Ost(インターラーケン東駅)からGrindelwald(グリンデルワルト)行の登山電車(BOB)に乗ると幅1bしかない狭い線路の上で、小さいけれども見るからに力の強そうな電気機関車がこれを引っ張る。この2、3輌の可愛らしい列車が、目のさめるような緑の丘の間を30分も走ると、山の中に入って深いU字型の大きな谷を急な上り坂を右に左にと急カーブを切って這い上がるように進む。約40分でグリンデルワルト駅に到着する。

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      Grindelwald(グリンデルワルト)
アイガー、シュレックホルン、ヴェッターホルンの大岩壁を西に仰ぐ写真  10時08分、グリンデルワルト到着。曇り。ブリエンツで預けた荷物を受取る。ここは標高1034m。Eiger(アイガー)、Schreckhorn(シュレックホルン)、Wetterhorn(ヴェッターホルン)の4000mの巨峰の大岩壁を西に仰ぎ、背に広々と広がる牧草帯を持ったすばらしい環境の山のリゾートである。流石にここまでくると少し涼しい。登山に、トレッキングに、スキーに、四季を通じて訪れる人が多いベルナー・オーバーラントの中心的存在である。
 人口3,500人。グリンデルワルト駅から東にのびるただ1本の道路がこの村のメインストリートで、ホテル、レストラン、みやげ物屋、スポーツ店、観光協会、ガイド組合事務所などの建物がならんでいる。
日本語の立看板が氾濫写真 日本語の幟写真 レストランの前には日本語で書いたメニューの立看板があちこちに立っていて驚いた。ここは日本ではないのかと錯覚しそうだ。いかにここを訪れる日本人が多いかを思い知らされた。教会と郷土博物館のあるあたりまで来れば、グリンデルワルトの町はほぼ終りである。
 その手前のフィルスト行きのリフト乗り場の前にあるスイスらしいシャレータイプのしゃれた小さな木造のペンションが今日からの私の宿である。建ててから間もないようで木の香も新しい。
 部屋の窓の前をリフト乗り場へ向かう人々が行き交う。開けた窓の側を日本語が通り過ぎる。おむつをした幼児連れの若夫婦もいる。世の中変わったものだ! どこへいっても日本人がうようよ。どこへ行っても日本語が聞こえてくる。
 昼食後、家に手紙を書いて郵便局まで出しに行く。雨が降ってきた。帰りに生協に寄って食料品を買い込む。宿に帰って二日分の洗濯。明日の行動計画と、資料調べをしている内に夜になった。9時半就寝。

  7月28日(火) Grindelwald-Kleine_Scheidegg-Jungfraujoch-Grindelwald
グリンデルワルト付近  昨日荷物を背負って歩いたのがたたったのか、朝起きたとき時々背中の筋肉がピリッと痛む。神経痛か? 朝からどんよりとした空模様で霧雨が降っている。今日はユングフラウヨッホへ行く予定だが、この天気では迷ってしまう。下界は曇りでも高い山の上へ行けば雲の上に出るということもある。しかし、ここの登山電車は飛び切り高く、スイスパスを使っても運賃が半額の割引料金でSF71.00だ。考えてしまう。ここは前にも一度来ているのだが、その時は雲で何も見えなかった。今日もその可能性が高い。しかし、写真的には特に重要ではない。前回見られなかったから今回は良く見ようという程度のものだ。どうしようかとしばらく迷う。ここのスケジュールは目一杯で余裕がない。他に写真的に期待している所がある。それならば一か八かで行って見よう。決心が付いた。ようやく重い腰を浮かして駅へと向かう。
ベルナー・オーバーラントの山々写真  グリンデルワルトを出た登山電車は一度Grindelwald_Grund(グリンデルワルト・グルント)まで下り、そこからアイガーの東山稜にそつて一面に広がるアルプの牧場の中、ぐんぐん高度を上げて行く。周りは緑が一杯。Alpiglen・1615m(アルピグレン)の駅を過ぎるあたりから電車の窓いっぱいに有名なアイガーの北壁が立ちはだかってくる。多くのアルピニストの生命をのんだ灰色の岩壁がものすごい迫力で迫ってくるのを眺めると、思わず威圧されてしまって、恐怖さえ感ずる。
 こうして北壁の下をしばらく電車は登り、やがてひろびろとした緑のアルプ、Kleine_Scheidegg(クライネ・シャイデック2061m)に到着する。右側に遠くU字谷の崖の上にミューレンの集落が乗っているのが見える。

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      Kleine_Scheidegg(クライネ・シャイデック)
 ここには大きなホテルやレストラン、みやげ物屋が並ぶ。ここから、ユングフラウヨッホヘの登山電車に乗換える。
 クライネ・シャイデックを出た電車は、草原を走ったと思うと、アイガー・グレッチャー駅の先から突然暗黒のアイガーの胎内に入ってしまう。電車は、屏風のようなアイガーの北壁の真下を通ってごつごつした岩山を貫いている長いトンネルを、急勾配で登って行く。ユングフラウヨッホまでの40分間はまったく閉鎖された世界を走り続ける。間もなくアルペン音楽にのって途中駅の案内放送が独・仏・英のほかに日本語でも流れる。車窓から岩肌を見るだけで、いったいどう進んでいるのか、どう登っているのか見当もつかない。ただ途中、Eigerwand(アイガーヴアント2865m)、Eismeer(アイスメーア3158m)という二つの駅の岩壁に開けられた窓によって外との関係を知るだけである。ここで5分間停車する。
 アイガーヴァントではアイガーの灰色の死の世界をみることができる。降りて見たが雲の中で全く何も見えない。前回来た時と同じだ。前回アイスメーアに降りた時には壁が素掘りのままだったが、今回来てみると壁はコーテングしてある。アイスメーアから電車は西南に折れてメンヒの頂上の下を終点のユングフラウヨッホ駅ヘと向かう。

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      Jungfraujoch(ユングフラウヨッホ)
 昼前にJungfraujoch(ユングフラウヨッホ)到着。大きな電光板に「Yungfraujoch.3454m」と文字の書かれたトンネルの駅が終点である。
エンブレム  ここはヨーロッパで最も高い場所にある鉄道駅だが、素掘りのまったく殺風景な駅なのには驚いてしまう。しかし素掘りでもなんともないここの石の堅さにも感心してしまう。以前と多少様子が変わったようだ。郵便局が別の所にあり、以前とイメージが違う。ユングフラウヨッホ駅は地下にあるので、外に出るのには階段を使う。外界は雲で全く見えない。中をひと通り見て廻る。エレベーターで4階まであがり、廊下伝いに行って、氷河を刳り貫いた“氷の宮殿”を覗いたり、その先のプラトーに出て雪を踏んでみる。ここには天文台が造られているほど澄み切った空気がみなぎっている。
ユングフラウ頂上写真  2時半頃、お土産屋の前で品物を見ていたところ、突然氷河が見えてきた。あわてて外に出て写真を撮る。ベルクハウスの大きなサンテラスからのアルプスで最長(22`)のAletschgletscher(アレッチ氷河)の眺めは、雄大ですがすがしく感じられる。銀色に輝く氷河のスロープが見渡す限り拡がっていて、その美しさに見とれていると時間の経つのを忘れてしまう。更にSphinx_Terrassen(スフィンクス・テラス3573m)のバルコニーへ行って再びシャッターを切る。稜線の一角に設けられた天文台のテラスからは眩い銀世界が広がる。
 あっ、という間に又雲に包まれてしまった。その後も何度か雲が晴れたり曇ったりを繰り返したが一応見ることが出来たので満足、帰路に着く。
 下山途中、Eiger_Gletscher(アイガー・グレッチャー、2320m)で下車して、クライネ・シャイデックまで歩いてみるつもりだったが、全く視界が利かないので次の電車を待って乗り込み、クライネ・シャイデックに降りてきた。
アルプホルンを演奏する青年写真  クライネ・シャイデックでグリンデルワルト行きの電車に乗り換える時、どこからともなくアルプホルンの音色が聞こえて来た。以前来た時に娘の土産に民族衣装などを買ったお土産屋だ。どうせテープを流しているのだろうと思ったが、一応行ってみた。店の前でアルプホルンを吹いている青年が居る。本物かな。どうも人形の様でもある。全く動かない。ともかく近くまで行って確かめてみる。本物だ! あわてて録音機を取り出してスイッチオン。次にカメラを取り出して写し始める。ホルンの中に小銭を入れて行く客もいる。そうこうしている間に、5時半の閉店時間になった様で、アルペンホルンを吹くのも止めてしまった。それでも辛うじて撮れた。もう少し撮りたかったが、天気も悪いことだし、また出直して来よう。やっていることが分ったのだからいい。

  7月29日(水)晴れ、時々曇 Grindelwald-Grosse_Scheidegg-First-Bachalpsee-First-Grindelwald
ベルナー・オーバーラントの山々写真  朝6時に目を醒まし、雨上がりの外を見ると西の空に聳えるMannlichen(メンリッヒェン、標高2343m)の先端に朝日が当たり、赤く輝いていた。雲は多少あるがやや晴れ。グリンデルワルトのシンボルで“天気山”のヴェッターホルンの頂上から雲が取れた。しかし、まだ曇り。今日は晴れるだろう。(この山に雲が掛ると天気は悪くなる)。今日はグローセ・シャイデックへ行くことにする。さあ出発だ。
 グローセ・シャイデックはこの辺で唯一午前中、それも朝方勝負の光線状態の処である。朝食は7時半、村内バスも駅前発7時半。朝食を捨ててスタート。途中のオーバラー・グレッチャーでは、車窓間近に青白い氷河の末端が見えた。

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      Grosse_Scheidegg(グローセ・シャイデック)
 30分ほどでGrosse_Scheidegg(グローセ・シャイデック1962m)に到着。左の真上にはそそり立つヴェッターホルンの北壁がある。ここはヴェッターホルンの真下である。谷ひとつ越えた向こうには真っ白な雪を頂いたメンヒ、アイガーなど4000m級の巨峰の大岩壁が、地球の皺が覆い被さる様に眼前に迫ってくる。雄大なパノラマ風景。所々晴れているのだが、お目当てのアイガーの頂上付近は雲に隠れている。およそ2時間ほど天気待ちしてようやくシュレックホルン(4078m)が顔を出してくれた。ナイフのような稜線を見せるシュレックホルン、隣に真っ白なメンヒがある。ユングフラウは裏側に隠れている。見え隠れするアイガーを狙ってここで正午近くまで粘る。
 最初の予定ではここから帰る予定だったが、明日リフトで上がる予定のフィルストまでは歩いて1時間半ということなのでこのまま行くことにする。
ベルナー・オーバーラントの大半が眺められる写真 アイガーとグリンデルワルト写真 シュレックホルンの眺めが良い写真 シュレックホルンと高山植物の花々写真 ヘアベル写真 花々に魅せられて写真 こんにちは写真  12時頃ここをスタート。あたりはどこへ行っても一面のお花畑。草原一面に花盛り。今が盛りと可憐な高山植物が花を咲かせていて満開だ! 途中で何度も道草を食い、写真を撮りながら満開のお花畑の中のハイキングコースを進む。この眺めには只々感激。素晴らしいとしか言い様がない。この風景を見るとニセコも大雪山もあまりにもスケールが小さい。
“母さん”を連れて来たかった。日頃母さんと一緒に山に行っている母さんの友人連もこの風景の中を一度歩いたらもう北海道内の山には馬鹿馬鹿しくて行きたくないと言うだろう。息も付かせぬほど素晴らしい雄大な大パノラマの眺めにしばし時を忘れる。
 グローセ・シャイデックを出発して全般に平坦なコースを行く。放牧されている牛が道を塞いでこちらを見ている。ようやく追い払って2時間後にFirst(フィルスト2171m)に着いた。そこで一服。

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      First(フィルスト)
グリンデルワルトで最も人気が高い展望台写真 シュレックホルンからヴェッターホルンまでの山々のパノラマ写真  ここはハイキングの起点・終点としていい位置にあり、グリンデルワルトで最も人気が高い展望台である。レストランのテラスから見たシュレックホルンからヴェッターホルンまでの山々のパノラマがすばらしい。
 ここまで来たら1時間先のバッハアルプゼーまで足を延ばしてみたい。コースは最初から少しきつい上りだが、小川を渡って西に曲がるところからはほぼ平坦になる。

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      Bachalpsee(バッハアルプゼー)
湖の向こうにはシュレックホルンやフィンスターアールホルンが望める写真  Bachalpsee(バッハアルプゼー)には湖が大小二つあり、上が標高2265m。ここからはSchreckhorn(シュレックホルン4078m)や山群の最高峰Finsteraarhorn(フィンスターアールホルン4274m)も望める。
 ここで写真をとった後、フィルストまで戻り、そこからグリンデルワルト行きのゴンドラリフトに乗る。全長5226mあるフィルスト-グリンデルワルト間のゴンドラリフトは三ヵ所の中継点があるが、終点まで行く人は乗り換える必要はなく、そのまま座っていればいい。ゴンドラの扉は自動的に開閉する。所要20分で終点まで運んでくれる。途中のBort(ボルト1564m)で途中下車してグリンデルワルトとアイガーを入れた写真を撮ってきた。
 宿に戻ると流石に疲れが出てきた。米のおにぎりが食べたい。

  7月30日(木)快晴 Grindelwald-Murren-Schilthorn-Grindelwald
朝日に輝くユングフラウ写真  朝起きると時々背中の筋肉がピリッと痛む。昨日の筋肉疲労か神経痛だろう。6時、ペンションの近くにある教会の向かいの丘から教会を舐めて朝日に紅く輝くアイガーを撮影する。感動的な風景だった。
 今日は、映画『女王陛下の007』のロケで一躍有名になった展望台、シルトホルンへ行く。Wengen(ウェンゲン)とMurren(ミューレン)の間に深々と横たわるラウターブルンネンの谷は昔氷河が削った跡で、そこは真ッ平。ミューレン側の崖はえぐった様に垂直。大小の美しい滝が流れ落ちている。
 先ず、グリンデルワルトから登山電車でLauterbrunnen(ラウターブルンネン797m)へ行き、駅前通りの向かいからケーブルカーに乗ると10分程でGrutschalp(グリュッチュアルプ1487m)に到着。すぐ登山電車に接続。電車は崖の上のテラスのような部分をほぼ水平に時折森の中を通過する以外は終始ユングフラウの方向を目指しながら進み、終点Murren(ミューレン)に着く。

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      Murren(ミューレン)
ミユーレンの村からはアイガー、メンヒ、ユングフラウが眼前に立ち上がる写真  ラウターブルンネンのU字谷の奥の岩壁の上にMurren(ミユーレン1634m)の村がある。駅舎脇のテラスに出て見ると、もう目の前からほとんど垂直に切れ落ちていて、この村が谷底から800m近くも切立つ断崖の台地にあることが実感できる。スイスを歩いていると、どうしてあんな場所に村を作ったのだろうと思うようなことがよくあるが、ミユーレンもこうした村のひとつである。シルトホルンの山肌がラウターブルンネンの谷の岩壁となって落ちているところの台地に、ひっかかっているようにこの村の家々は建っている。人口は僅か450人。車を締め出しているために集落の中は静寂そのもの…。くつろいだ雰囲気でのんびりと歩ける。
 ユングフラウ地区のアルペン・リゾートでは最も西寄りにあって標高も高いため、クライネ・シャイデックからの眺めもりっぱであるが、アイガー、メンヒ、ユングフラウの三山をまとめて眺める最高のシチュエーションを誇っている。違った角度だけに新鮮さを感ずる。とくに氷河を抱えて間近に見える標高3000mのユングフラウの巨大さは迫力あるもので、その名が示す優しさからは想像もできないほどである。夕方近くになれば最も美しい光線状態で山々を捉えることが出来るはずだ。
美しく鉢花を飾った古民家写真  村にはAllmendhubel(アルメントフーベル1912m)に登るケープルやシルトホルンヘのロープウェイの中間駅がある。それらの駅は村はずれの北の端にある。駅前から二本の道が村の奥に延びており、奥の方で合流している。途中の街並みには美しく鉢花を飾った木造の古民家が保存されているのが目に付く。800m余りで集落は終り、シルトホルン行きのロープウェイ乗場に着く。
 ロープウェイに乗ると、ミューレン市街では手前の支峰に遮られがちだったユングフラウの真の山頂が徐々に全貌を現してくる。所要10分で先ずBirg(ビルク2676m)に着く。ビルクから上の最終区間は二つのキャビンで交互に輸送している。岩だらけの谷を跨いで、4分ほどでシルトホルンに到着する。

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      Schilthorn(シルトホルン)
回転レストラン「ピッツ・グロリア」からの展望写真  11時頃Schilthorn(シルトホルン2970m)到着。山頂には、イアン・フレミング原作の映画『女王陛下の007』の舞台として使用された回転レストラン「ピッツ・グロリア」がある。人気の回転レストラン「ピッツ・グロリア」へは、ロープウェイを降りた階からエスカレーターで2階分上がる。太陽光発電を動力源にして回転する床は窓辺に3人ずつ向かい合わせのテーブルがある。山頂で食事をしながら360度の展望を楽しめるモダニズムとミユーレンの素朴さが、このコースのおもしろ味かもしれない。
 山々の展望を眺めるためにレストランの隣の広いテラスに出ると、ここからからは全方向のパノラマが展開している。東寄りにはアイガーからメンヒ、ユングフラウの三山。そして南寄りのBreithorn(ブライトホルン3785m)などが見渡せる。特にユングフラウは、谷底から立ち上がる山塊がまとめて見渡せるのでスケールが大きい。息も止まるほど素晴らしい眺めだ。アルプスの雄大な大パノラマの眺めにしばし時を忘れる。ここはユングフラウ・ヨッホに次いで人気が高い。ここも光線状態は午後が良いが、一応押さえで撮影する。記念写真などを撮った後、夕方を待つ。
左からアイガー、メンヒ、ユングフラウ望写真  13時頃より山々に雲が掛り初め、だんだん悪くなる。一応4時頃まで待つことにしてお土産屋を冷やかしてみる。そこにはあのドイツワイン独特のグラスがあった。値段もSF11.00とそんなには高くない。1996年7月にワイフと一緒にレンタカーでドイツを回ったとき、ライン川の畔の町Rudesheim(リューデスハイム)のつぐみ横丁にあったお土産屋で買ったワイングラスが気に入り、ペアで欲しいと思っていた。また荷物がひとつ増えるが、ドイツで買いそびれた分がどうしても欲しかった。壊さないように日本に持って帰るのは大変だし、荷物になるのがいやなので考えたが、誘惑には勝てずに買ってしまった。どうやって持って帰ろうか。
エーデルワイスの花望写真  待ち時間を持て余して館内で映写しているこの付近の観光宣伝映像や、映画『女王陛下の007』のハイライトのシーンを観て過ごす。その後も所在無く、回転レストランに入ってトリビー(取り合えずビールを飲むこと)。地上3000mで飲むビールは格別に効く。こんな高いところで酒を飲んだのは飛行機の中以外では初めてだ。
 4時頃まで待ってみたが、一向に山は姿を見せてくれない。だんだん悪くなる一方だ。諦めて帰ることにする。レストランで知り合った3人連れの日本人のおばさんが、彼女達の泊っているミューレンのホテルのエントランスにエーデルワイスの花(スイスの国花)が咲いていると聞き、それを帰り掛けに撮影する。生まれて初めて見るエーデルワイス。

  7月31日(金)曇り Grindelwald
 朝からどんよりと曇っている。山が見えなきゃグリンデルワルトも値がない。メンリッヒェンに行く予定を明日に変更して今日は休息日。多少疲れも溜まっている。洗濯と記録の整理、手紙書き、明日からの下調べの日とする。
 駅に行って8月14日にツェルマットからサメダンへ行く時の氷河特急の予約と駅前にある日本語案内所で帰りの飛行機のリコンファームをして貰う為に街に行くことにする。その前についでに手紙を書いて出してくる。その後は洗濯と日記付けの予定。駅に行くが、乗車時間を調べてくるのを忘れて帰って来たので再び出なおす。帰りに両替をしたあとワインとチーズを買ってくる。
 宿の女主人が、宿の裏の庭園にエーデルワイスの花が咲いていると教えてくれた。行って見ると盛りが過ぎて白い花が少し黒ずんでいたので写真は撮れなかった。この辺の家庭の庭園には大抵エーデルワイスを植えているという。

  8月1日(土)晴れたり曇ったり Grindelwald-Grund-Mannlichen-Grund-Grindelwald
グルントから見たアイガー写真  朝から山には一部雲がかかっていたが、教会の前の丘からアイガーを写してきた。今日はMannlichen(メンリッヒェン2239m)へ行くことにする。ここは午後の方が光線状態が良いと言うのでゆっくりと出掛ける。グリンデルワルトから下のGrund(グルント)まで歩き、そこからゴンドラリフトで終点まで30分間乗る。手前は少し森もあるが、中ほどからは一面の牧草地である。このなだらかな斜面は冬には絶好のスキーコースになる。頂上付近には雪解け直後からお花畑になるとかで、アルペンローゼ(アルペン・シャクナゲ)も咲いているという。

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      Mannlichen(メンリッヒェン)
アイガー、メンヒ、ユングフラウの三山が一望出来る写真  11時過ぎ到着。気温14℃と少々寒い。ゴンドラリフトを降りたところから目の前にアイガー、メンヒ、ユングフラウの三山を眺める事が出来るが、その手前に小高い山がひとつあって目障りだ。
 リフト小屋を出て見ると更に100m程上にこの山の頂上があった。そこまで登るとどうやら手前の山(Tschuggen2520m)もここなら多少目をつむっても良い。アイガー、メンヒ、ユングフラウの三山の頂上には多少雲で隠れているが、ともかく一応押さえの撮影をする。ここは午後、それも遅い時間のほうが光線状態が良いのでそれまでこの付近で待つことにする。
 13時頃から雲が多くなり、辺りは何も見えなくなってしまった。一応夕方までここで待機することにしてリフト小屋の中に入って天気待ちをする。ぼーと待っていても仕方がないので、爪切りをしながら天気待ちをする。幸い、Pic-Nicの休憩所には私の他には誰もいない。
 4時になった。天気は一向に晴れる様子がないが、あと30分粘ってみよう。奇跡が起きないとも限らない。初めの予定では帰りは1時間半のハイキングコースを歩いて、クライネ・シャイデックまで行き、そこから登山電車で降りる予定だったが、残念ながら風が強くなってきたので4時半、ゴンドラが止まらない内に降りることにする。
 帰りのゴンドラの上から草原を見下ろすと、放牧されていた牛の群れも牧夫に追われて牛舎に帰るところだった。そのカウベルの響きがにぎやかに谷間にこだましてゴンドラの中まで聞こえてきた。グルントの駅に着いた頃から小雨が降ってきた。

     アルペンフェスティバル
 スイスでは今日が建国記念日。夜には駅前駐車場に設けられた特設舞台で民族舞踊やヨーデル大会などの催しが予定されている。夜9時前頃からペンションの前の通りを通るパレードのブラスバンドの音が聞こえてきた。
 突然部屋のドアがノックされた。宿のおばさんが何か言っている。ドアを開けて見るとそこにはスイスの民族衣装を着た宿の女主人が立っていた。間もなくパレードが出発すると言っている。私はすぐに行きますと返事をしてカメラを持って部屋を飛び出した。
民族衣装で着飾った村人たち写真  私の宿の前のメインストリートをスイスの民族衣装に着飾った人々のパレードがブラスバンドを先頭に松明をかざして駅前広場のまつり会場の方へと向かうところだった。私もその行列の中に混じって付いて行った。
 会場ではオープニングマーチの後、ヨーデルやフォークダンス、アルペンホルン等の催しがあった。9時過ぎ頃からは花火が打ち上げられたがこれが又見応えがあった。打ち上げられた花火が音楽に合わせて空中でいろいろなオブジェを描くのである。日本の「玉や〜」ドン、パチパチと言う雰囲気ではなく、バレーか何かを鑑賞しているようなとてもアートな見事な感じで感心した。

  8月2日(日)曇り Grindelwald-Oberhofen-Montreux
インターラーケン付近  今日はグリンデルワルトを発ち、列車でMontreux(モントルー)まで行く移動日だ。途中、Oberhofen(オベルホーヘン)で湖畔に建つ城を写してゆくので駅に着いてから荷物をライゼゲペックで預けた。
 インターラーケンを出発した列車はThunersee(トゥーン湖)を右に見て湖畔沿いに走る。Spiez(シュピーツ)の手前にあるFaulenseeの湖畔が美しい。
 Thun(トゥーン)で下車。トゥーンはインターラーケンから25分、インターラーケンとベルンの中間、トゥーン湖の北西に位置する魅力的な町である。古い町並みにほど良い活気があふれている。
 旧市街のメインストリートOber_Hauptgasse(オーベルトウプト通り)は奇妙な街並みだ。こういう奇妙な街並みはおそらくスイスでもここだけだろう。なにしろ家々の軒がとてつもなく張り出している。そしてどういうわけか一階部分が道路に突き出ていて、なんとその上が歩道になっている。普通の道路も下にあるから、つまり二段道路である。住宅あり、商店あり、レストランありで無秩序な外見がまたなんとも楽しい。
 トゥーンからバスでオベルホーヘンへ向う。

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      Oberhofen(オベルホーヘン)
メルヘンチックなオベルホーヘン城写真  オベルホーへン到着。薄曇り。トゥーンの町から約5`、トゥーン湖北岸にあるオベルホーへンは、人口3000人の小さな町だが、12世紀以来のがある。当時は戦闘用のキープひとつと城壁であったが、17世紀に居館風な建物が造られた。現在の建物は19世紀に修築されたものだが、古い建物も残っている。スイスの美しい城のひとつに数えられていて、湖に面した城のアングルがいい。湖水に突き出して建てられた小さい塔は遊興用のもので、御伽噺的でもある。水辺の館はまるで中世来そのままここにあったかのようにとりすまして、人々の前にその美しい姿を見せている。建物の内部は博物館となり、王朝風の家具、調度類のほか、この地方のポピュラーアートのコレクションなども公開されている。
 薄曇だがとにかく撮影。昼過ぎに再びバスでトゥーンへ戻り、そこから列車でローザンヌを経てモントルーへと向かう。
 ローザンヌを通過する辺りから雨が激しく降ってきた。モントルーに着いたときには止むことを願う。列車の窓から眺めると南側に面したレマン湖岸のなだらかな稜線にブドウ畑が広がる。ローザンヌから東に湖にそって18`行けばヴヴェイ、ヴヴェイから7`でモントルーである。このあたりはレマン湖東端のリゾートとして有名で、ホテルや商店が軒を並べているところである。

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      Montreux(モントルー)
 モントルーの駅前に降り立ったが宿へ行く道筋が分からない。駅内のインフォメーションは日曜日のせいか閉まっている。駅の切符売り場の窓口で訊いたら歩いて15分だが、道が分りにくいし小雨が降っているから駅前に停まっているタクシーで行けという。それならと列車に預けた荷物を引き取り、タクシーに乗り込む。宿までのタクシー代はSF10.80だった。
レマン湖付近  ここは今迄よりも多少南なので暑いかと思ったが、意外と涼しい。宿はカジノの先のホテル・エデンの北側にある湖畔の古いレストランの三階だった。レストランのカウンターに居た若い女性とチェックインを済ませると、別の若い男が階段を上って3階まで荷物を運び、案内してくれた。部屋は屋根裏みたいで狭かったが、清潔なダブルベッドがひとつと洗面所、小さなテーブル、テレビ、ラジオがある。トイレとシャワーは隣の部屋だ。この場所で一泊SF50.00と格安なのでまあいいだろう。
 18世紀から19世紀に掛けてイギリス貴族の間でスイス旅行が流行となり、レマン湖畔で最も気候と景色の良いモントルーを訪れた。そのためここはスイスの観光業発祥の地ともいわれている。スイスで最初にホテルが出来たのも、ここモントルーである。また彼らは、驢馬の背にバスタブを乗せて運び込んだという。当時ヨーロッパで体を洗う習慣があったのは、イギリスだけだった。
 現在のモントルーは、温暖な気候でヴォー州のリビェラといわれ、世界に名高い高級リゾート地である。7月にはCasino(カジノ)で2週間、世界的に有名なモントルー・ジヤズ・フェステバルが開催される。
 小雨の中、早速付近を歩き廻る。日曜日だというのにスーパーが開いていた。ハム、ヨーグルト、ゆで卵、クロワッサン、それにワイン二本などを買い込んで宿に帰る。
 先ずはスイスワインで乾杯。ぶどう畑はスイス国中どこでもよく目にするが、スイスのワインは生産量が少ない為にほとんど輸出はしていないので日本ではなかなか手に入らない。レマン湖の南斜面のヴォー州とヴァリス州のものが特に有名だ。
 私はローザンヌ近郊ラボー地区の白ワインEpesse(エペス)が大変気に入った。他にはDezaley(デザレー)も旨かった。赤ワインではヴァリス州のDole(ドール)が良かった。何れも10スイスフラン(およそ800円)くらいで買う事が出来る。今日は「ドール」(SF9.50)と「Johannisberg(ヨハニスベルク)」(SF8.90)を買ってきた。
 この日は大した肉体労働をした訳ではなかったが、なぜか眠くなり、8時頃寝てしまった。手紙書き、日記の記入、洗濯など残ったことは明朝だ。

  8月3日(月)曇り Montreux-Tolochenaz-Lausanne-Vevey-Montreux
 朝方寒くて目が覚めた。悪い夢を見る。6時だというのにようやく明るくなったところ。昨日までよりも夜明けが遅いようだ。窓から外を見るとどんよりと曇っていて雲が山の下まで垂れ込め、レマン湖の湖面には漣が立っている。今日はシヨン城の撮影は無理だから、ヴヴェイ、ローザンヌ、トロシュナ観光ということになるだろう。コンパクトカメラ一台を持って気楽にブラブラ行ってみることにする。
 体の方は疲れているがまあまあ。山歩きがたたったのか朝起きた時だけ上体を起こすと、背中の筋肉がピリッと痛む。神経痛か?

     ヘップバーンに会いたい
 モントルーから列車に乗りローザンヌの先のMorges(モルジュ)へ行き、そこからバスに乗り換え10分程でTolochenaz(トロシュナ)へすんなりと行けた。バスの運転手がオードリ・ヘップバーン記念館の前で降ろしてくれた。そこはレマン湖に近い丘の上の小さな村である。ここに20世紀を代表するあの大女優オードリ・ヘップバーン(1929-93年)が眠っている。

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      Tolochenaz(トロシュナ)
ヘプバーン記念館。彼女は死の間際までユニセフのボランテア活動を続けた写真  小学校を改造した簡素な造りの「オードリー・ヘプバーン記念館」の前でバスを降りたが生憎今日は月曜日だったので休館日だった。それでもガラス越しに中を覗くと「ローマの休日」「ティファニーで朝食を」など主演映画の彼女のポスターやオスカー像、映画の中で身に着けたドレス、撮影中の写真などの記念品の数々を見る事が出来た。
 記念館の前には日本人夫妻も来ていた。記念館の前に佇む彼女のブロンズの前でお互いに記念写真を撮りあった。そこへ通りかかった土地の人に彼女の墓のある場所を訊いた。そのご夫婦の車で彼女が葬られている村の共同墓地まで乗せて行ってもらった。ヘプバーンの眠る墓地は記念館から徒歩で5分くらいの所にあった。このご夫婦はもう6年間もローマに居て、観光で来られたそうである。
石造りの質素な十字架は墓参者の献花で埋まり、のどかなブドウ畑とスイスの山々に囲まれて永遠の眠りに付いている写真  のどかなぶどう畑の一角にある村の共同墓地はあまり広くはなかった。その一角に質素な石造りの十字架に確かに“AUDREY HEPBURN 1929-1993”と刻んだ墓があった。それは周りにある村人のお墓とほとんど変わりなく、あれほど有名な人とは思えないほど意外と地味であった。村人が捧げたのか花束が一つ墓の上に置かれていた。私も近くから名も知らぬ野の花を一輪摘んできてそっと手向けた。ベルギー・ブリュッセル生まれの彼女は後半生の約30年間、この村で暮らし、村民にもとけ込んでいた。
 そのご夫婦とはそこで分かれた。墓地の横の駐車場に停まっていた作業車の人にオードリの住んでいた家を訊くと、わざわざ車からトロシュナの地図を持ってきてくれて教えてくれた。その地図を貰ってそれを頼りに歩き出す。やがてそれらしい家を見付けた。いつかテレビで見た覚えのある家である。しかし、自信がない。その家は豪邸でもなんでもなく、世界的な大女優が30年間も住んでいたとは信じ難いほど地味な普通の民家である。確認しようとしても車は通るが人は全く通らない。ここには現在、彼女の弟さんが住んでいるはずだ。
今は弟さんが住んでいる写真  しばらくしてようやく一人の婦人が通りかかった。訊いても中々要領を得ない。ここはフランス語圏だから英語は全く通じない。その内、その地図を見てあっちの方だと5〜600m程先の10軒ほど人家の集まった所を指差す。半信半疑でその方向に行ってみる。
 教えられた付近に着いたが、全然人影が見当たらない。付近の家を訊ねてみたが、鍵が掛っている。町中のレストランで訊いたがどうも納得のゆく返事ではない。するとロータリー付近にいた作業員らしい人が、あっちだと更に先を指差す。教えられた方向に一本道を1.5q程歩いたが、人家も途切れて一面のブドウ畑の中の一本道。どうも感じが違う。私の感が“違う”と言っている。この先には人家は在りそうにはない。やけくそでまた前のロータリーまで戻り、更に最初に見付けたそれらしい家の前まで行ったが相変わらず人が通らない。こうなったら持久戦とばかり、その家の垣根の前に座り込み、持ってきた昼飯を食べた。食べ終わっても誰も通らない。仕方がないので道路一本挟んだ近くの木立に囲まれた一軒の家を尋ねたら老夫婦が出て来た。訊くと、最初に私が当りを付けた家がオードリの住んでいた家だという。するとあの最初に訊いた婦人はなんだったのだろう。自信がなければ初めから「分らない」と言って欲しかった。以前、イタリアのフィレンツェでもこんなことがあった。折角だが、小さな親切も時には大きなありがた迷惑のこともある。全く! この間、延々2時間半ほどあっち、こっちと探し廻ってとんだ時間を浪費してしまった。ともかくその家の写真を撮ってからバス停へと向かった。

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      Lausanne(ローザンヌ)
ローザンヌはレマン湖畔の高級リゾート写真  ローザンヌはレマン湖畔の高級リゾートで、世界的にその名を知られている観光、文化都市。湖畔から山手の方に積み上がっている街並みは美しく、ここには世界中の富豪の別荘が集っている。
 レマン湖の中央部の北岸にあるこの町の歴史は古く、遠くローマ時代に端を発している。人口は約23万人、カントン・ヴォーの首府であり、またスイスの教育・文化のセンターともいわれる。またこのローザンヌは、東京・札幌と二つのオリンピックを開催した日本にとっては、I・O・C(国際オリンピック委員会)の本部の町としてよく知られているところである。
 街は湖畔からせり上がる山の斜面に開け、下部の湖畔はOuchy(ウーシー)という港と別荘地区、中央部はローザンヌ駅を中心にした新しい町、上部は古いローザンヌというおもしろい姿をみせている。町の見物はなんといっても上部のオールド・タウンにある。
ノートルダム大聖堂写真  先ず、Cathedrale_Notre-Dame(ノートルダム大聖堂)へと向かう。ここはオールド・タウンの中心であり、ローザンヌのシンボルルであるこの教会は、“スイスにおけるもっとも美しい教会建築”の一つといわれるゴシック時代のものである。ロマネスク風の堂々たる五つの塔が立派だ。
 教会前の庭は、湖面から160bも高いので、アルプスとレマン湖、ローザンヌの町を眺めるのに格好の場所となっている。手前の古びた屋根、遠くのモダンな建物などと、ローザンヌの性格を知ることができる。ローザンヌは2時間ほどで見て回り、さらに列車でヴヴェイへと向かった。

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      Vevey(ヴヴェイ)
あんた、だ〜れ?!写真  既に5時を過ぎている。ここのレマン湖畔のプロムナードには湖畔に面してチャーリー・チャップリンの銅像が微笑んでいる。辛うじて明るい内に着くことが出来た。彼の横に立って記念写真を撮った後に丘の上にあるお墓へと向かった。疲れているがもうひと頑張り。世界的な食品会社ネスレ本社前から右の道を取り、線路のガード下を潜ってチャップリン夫妻が埋葬されている丘の上の共同墓地へと向かう。周りは一面にブドウ畑が広がる。

チャップリン夫妻のお墓。墓前には花が絶えない写真  共同墓地の一角にチャップリン夫妻のお墓が慎ましやかに祀られていた。ヘップバーンもチャップリン夫妻の墓もあれほどの有名人なのに、比較的地味であった。あの世ではどんな人でも豪邸はいらないということだろう。

  8月4日(火)曇り Montreux-Chateau_de_Chillon-Geneve-Montreux
 今日も朝から曇り。お目当てのシヨン城に行ってもこの曇り空では写真にならない。されとてジュネーヴへ行ってもつまらない。青空でないとどこへいっても写真にならない。まあ、それでも折角だからシヨン城でも冷やかしてくるか…。
 モントルーからトロリー・バスに乗り、ぶらりとシヨン城へ向かう。

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      Chateau_de_Chillon(シヨン城)
レマン湖に浮かぶシヨン城。静かに耳を澄ませば水面を渡ってバイロンの詩が聞こえる写真  モントルー付近でなんといっても見逃すことのできないのが、このシヨン城である。歴史的な価値もさることながら、まるでレマン湖畔に浮いているように建つその様は美しいの一語につきる。とくに春の花、秋の紅葉期にはだれが撮っても美しい写真になることは間違いない。
 レマン湖の東端近くに、優雅で堅固な姿を映すシヨンの城は、スイスの代表的な城塞であり、“レマン湖の女王”として賛美され、ヨーロッパの名城のひとつでもある。青い湖に映える幻想的な美しさは、多くの文学者に讃えられてきた。城は湖中の岩盤上に築かれ、岸からは木の橋で結ばれている。

城の塔から見たレマン湖畔写真  シヨン城は9世紀にジュネーヴからグラン・サン・ベルナール峠(イタリアのオアスタ谷へのアルプスの有名な峠、セントバーナード犬の産地)の街道の守りとして、レマン湖上の岩の小島の上に建てられ街道を見張り、物品税や通行税を徴収し、レマン湖地方の要衝を守る関所、要塞のようなものであった。最初は単なる砦であったのが、13世紀の中ごろにシオン(カントン・ヴァリスの首府)の司教の手で今日ある姿に建替えられ、その後はサヴォイ公の城となった。城内は古い様式を保ち、公開されている。

ボニヴアールをつないだという柱写真  詩人バイロンは、ここに監禁されたフランソア・ボニヴアール(宗教改革者としてサヴォイ公に捕われた人物)の物語を題材として、有名な『シヨンの囚人』をつくり、これがもとでこの城はヨーロッパの中でもっともポピュラーなものになった。現在でもボニヴアールをつないだという柱や鎖が残っている。

城の中庭写真  1980年に来た時には内部を見ていないので先ず入場。一歩、足を踏み入れると、外の明るく輝く景色と打って変わって、岩と石の冷たい壁が重く、厳しく、非情でさえあった。美しい顔の下、もうひとつの厳しい顔を持つスイス。この城はその「理想国家スイス」が、現実にたどってきた歴史と風土の縮図でもあろう。外観から受ける感じより中はずっと広い。雰囲気と構造は矢張りこの時代の他の城と似ている。

領主の間写真 地下の牢獄写真  こぢんまりとした城のほぼ中央にあるドンジョンは、ヨーロッパの城にしては珍しく、木造部分が多く、はなはだ薄暗い。領主の間やら寝室が再現されており、その他に武具、槍、剣、鉄砲などが展示されている。地下には牢獄があった。柱にはいろいろな落書きがしてある。中には囚人のものも残っている。内部を見て回るだけでも1時間ほど掛った。
 城の前にはお土産やさんが店を張っている。何も買わないつもりで冷やかしに入ったが、ミイラ取りがミイラになってTシャツや壁飾りなどを買ってしまった。荷物が減るどころか増えてゆくばかりで憂鬱になってくる。
湖岸から丘の上まで太陽をたっぷり浴びてブドウ畑が拡がる写真  晴れていないので城を写してもしょうがないのだが、来たついでに一応2、3枚押さえておく。城の見える桟橋へ行き、城を眺めながら持参の昼食を拡げる。
 このあと再び城の前からトロリー・バスに乗り、宿に帰った。これで今日一日を終わらせるのも勿体無い。少し遅くなったがジュネーヴへ行ってみることにする。
 ローザンヌからジュネーヴ間、列車で40分の車窓は、平行して走る自動車道路と共に湖を望み、穏やかな心休まる景観が続く。湖岸から丘の上まで太陽をたっぷり浴びてブドウ畑が拡がる。この辺のワインは「サン・サフォラン」「デザレー」の銘柄で知られている。

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      Geneve(ジュネーヴ)
 ジュネーヴは意外に遠かった。4時頃ようやく着き、先ず、銀行を探して両替する。この銀行はかなり利率が良い。もう少し多く替えれば良かったかな。
 ジュネーヴはスイスの南西部、長さ72`、幅14`、面積581.3平方`を持つヨーロッパ最大のレマン湖の西端に発展した由緒ある人口32万の都市で、スイス第三の都市、そして国際都市ジユネーヴである。数多くの国際機関があり、重要な国際会議がしばしば開催されるところから、国際都市としてこの名が高い。

 ※スイス…面積41,300平方`、九州よりやや小さい国だが、この国の中には23ものカントン(自治州)があり、ここに独立した政府と議会を持っているというから、小なりといえども、おそろしく複雑だ。しかもカントンの基礎になっているのは3000余りにのぼるコンミューン(行政の単位、日本の町、村に相当)であり、国語もドイツ語(74%)フランス語(20%)イタリア語(5%)ロマンシュ語(1%)というふうに四通りもある。
 こういう国だから平和、中立、共存といった理念は、建国以来人々の間に根強く滲み込んでいる。スイスの首都はベルンだが、首都よりも国際的なジュネーヴの方がスイスを代表する都市として良く知られていることをみても、スイスが国際社会に果たす役割や理念は、まことに大きい。インドシナや中近東などの動乱が大きくなり、収拾困難な趣を呈するようになると、新聞には必ずジュネーヴ会議やジュネーヴ協定といった言葉が登場する。ジュネーヴに代表されるスイスは、いわば世界にとって、平和への希望の星ともいうべき存在なのだ。(カルチャーガイド「ヨーロッパ歴史と文化の旅」水野潤一著・大修館書店発行より)

国連ヨーロッパ本部の会議場写真  駅前からバスでPalais_des_Nation_ONU(国際連合ヨーロッパ本部パレ・デ・ナシオン)へ向かう。ヨーロッパではヴェルサイユ宮殿に次ぎ2番目に大きい宮殿。現在はニューヨークに本部がある国連のヨーロッパ本部になっている。ニューヨークの国連本部よりもずっと立派な気がする。重要な国際会議も数多く開かれ、たびたびニュースに登場する。内部はガイド・ツアーに参加して見学することになる。
 レマン湖を見下ろす小高い丘の上にある広大な敷地は緑も多く、意外と大きい。入口でX線検査を受け、その後広い構内を入口へと向かう。見学は各国から集ったガイドが総会議場などを案内する。受付へ行くと英語とフランス語しかないという。仕方なく英語グループに付いて行く。中をゆっくり1時間ほど案内してくれた。
宗教改革記念碑。左からカルヴァン、ファレル、ベーズ、ノックス写真  再びバスでコルナヴァン駅(中央駅)に戻り、そこからバスに乗り換えてヌーヴ広場へ行く。そこで宗教改革記念碑を見た。この広場に接する公園に入ると、落ち着いた美しい林の中央左側の石壁に沿って、大きな石像の並んだ長さ100m程もある長い壁のようなモニュメントがあった。1909年にカルヴァン生誕400年を記念して建てられた宗教改革運動の中心人物カルヴァンなどの像である。

花時計写真  そこからコンパスを頼りに30度の方角を目指して有名な花時計へと向かう。どうも方角が違うようだが、コンパスを信じて歩くとやがてバッチリと花時計の前に出た。花時計はスイスがいかにも時計の母国であることを示しているようだ。

大噴水写真  英国公園から湖に沿って街路樹のある散歩道を進めば、レマン湖の名物である大噴水が望まれる。噴水の高さは約150m、1360馬力のポンプで噴出されている世界最大のものであり、ジュネーヴ最大の呼びものでもある。

モン・ブラン通り写真  この街のメイン通りであるモン・ブラン通りはヨーロッパの最高峰モン・ブランの麗姿が望めるということでモン・ブラン通りと名付けたらしいが、ここからはかなり遠いので実際に見えるのは年に2回ぐらいしかないらしい。モン・ブラン橋の袂には以前来た時、鱒料理を食べた船上レストランがあった。ルソーの像のある近くのルソー島は前回来た時に見たので省略。モン・ブラン橋を渡ってコルナヴァン駅へと向かう。
レマン湖の夕陽写真
 コルナヴァン駅から列車で夜8時半、モントルーへと帰って来た。ふとレマン湖を見ると対岸が明るくなり、夕陽が射してきた。明日は晴れるかも知れない。

  8月5日(水)晴 Montreux-Chateau_de_Chillon-Montreux-Rochers_de_Naye-Montreux
 モントルーに来て4日目。毎日パッとしない天気。今日がモントルーの最後の日だ。朝起きて恐る恐る外を見る。晴れている。ようやく晴れた。よし!今日決めよう。
エンブレム  朝食時間開始を待って食事に行く。準備万端、さぁ出発。具合の良いことにバス停に着いたところにバスが来た。乗り込んでいざ出発という時に、ネガ用のカメラを持ってくるのを忘れた。急いで降りて、宿に引き返してカメラを持ち、再びバス停近くへ行ったら丁度バスが出るところだった。なんと間の悪い事か。カメラの一件でツキが落ちたかもしれない。モントルーからトロリー・バスに乗り、城のバックにDents_du_Midi(ダン・デュ・ミディ)が写る場所でバスを降りる。
白鳥が寄って来た写真
 時間は8時半になったが、城は山際の西の崖下にあるので未だ朝日が射していない。ロケハンを兼ねて待つことにする。しばらく朝日待ちしていると画面の丁度良い位置に一羽の白鳥が寄って来た。すかさずシャッターを切る。
ダン・デュ・ミディの山並みを背景に立つシヨン城写真  9時半過ぎにようやく城に陽が差し込んできた。バックのDents_du_Midi(ダン・デュ・ミディ)の山と調和してとても美しい。更に湖畔側にアングルを替えて撮影するために城に向かう途中で、漫才の宮川花子に似た日本人の婦人に声を掛けられた。訊くと城で日本語のガイドを週に1日やっており、今日はその日なので城へ向かうところだと言う。その婦人からいろいろな話を聞きながら城へと向かう。「城内見学をするのか」と訊かれたので城の塔から写真を撮りたいが内部は昨日見たので今日はあえて入らないと答えると、係りに話をして入場させてくれるというのでご好意に甘えて城内に入れて貰い、塔の上から撮影した。
 その後、お決りのポジションから撮影して昼食にした。
 今日は天気が良いので、午後からは登山電車でモントルー駅から出ている登山電車でRochers_de_Nays(ロシェ・ド・ネー、標高2042m)へ行くことにする。ここは予定に入れていなかったが、ステファンに薦められたので行く事にした。
 モントルー駅を12:08に発車した登山電車はぐんぐん高度を上げて行き、たちまちモントルーの街とレマン湖が眼下となる。線路際には所々に民家がある。こんな山の上にも住んでいる人が居るんだ。ヒェー! さすがスイス。山の中腹にはシャトーホテルがあった。

     再びミニSL
お伽の国のようなSL城写真  頂上に向かう途中の駅Cauxに着いたところで客は全員電車から降りた。そこにはブリエンツ・ロートホルン鉄道で見たミニSLと同じ形に前が下がったお伽の国のようなSLが可愛らしい客車を前に2輌付けて待っていた。
 やがて発車の時間が近付くと駅に隣接したレストランのご主人がアルペンホルンを吹き出した。その音色に呼応してSLも汽笛を鳴らした。お互いに何かエールを交換しているのか話をしているように掛け合いをするので乗客はみんな大喜び。
 やがて12:45分に発車。アルペンホルンはは「ABCD」の歌を奏した。このパフォーマンスは楽しかった。

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      Rochers_de_Naye(ロシェ・ド・ネー)
頂上を目指すSL写真
 13:20に頂上(標高2042m)に到着。片道約一時間。ここからは晴れればベルナー・オーバーラントやヴァリス地方などのアルプスの山々、そして北のジュラ山脈までも見渡せるということだが、今日は残念ながらあいにく霧がかかっていて見ることが出来なかった。ここはまた高山植物の名所でもある。
ここは高山植物の宝庫写真 プリムラウエリスとサクラ草写真  しばらく天気待ちをすることにする。その間、付近の高山植物の花を撮影して回る。撮影中にネガ用カメラの電池が切れて動かなくなった。予備の電池を持ってくるのを忘れた。ドジな話である。
 依然として晴れそうにもないので、ロシェ・ド・ネー4時発の登山電車でモントルーに帰って来た。下界に下りると陽が照っていた。

鱒料理写真  ここはレマン湖畔なので、宿のレストランで鱒のボイルを食べる。この国にきてから全く魚を食べていない。この後はツェルマットやサンモリッツなどの山の中ばかりなので、ここで魚を食べなきゃあと食べる所がない。1980年に来た時にジュネーヴのモン・ブラン橋の袂にある船上レストランで鱒料理を食べたことがあった。又、1996年ワイフとドイツをレンタカーで廻った時にも、モーゼル川の流域にあるTrittenheim(トリッテンハイム)の丘のブドウ畑の上にあるホテル・レストランZummethotで食べたことがあるが、所詮鱒は鱒、北海道に暮らして新鮮な鮭を食べている私には鱒は身が軟らかくてあまり美味しくはなかった。
 明日はゴルナーグラートに向かうため、荷物の整理をするが、中々バッグが軽くならない。ツェルマットからゴルナーグラートまではどうやって運ぼうか。多分ホテルのポーターがいるはずだが、若しいなかったら大変だ。
 念の為、これからのスケジュールを確認するとどうも私の予定表とステファンの作ってくれたスケジュールとが合わない。一日づれている。こんなはずはない。あの用意周到なステファンが間違うわけがないと思いながら、もう一度突き合せてみる。私の予定表では今日ゴルナーグラートに入る事になっている。
 今夜泊まる予定のゴルナーグラートのホテルはなかなか取り難いので5日と6日の宿泊を日本から手紙を出してあらかじめ予約してある。それを含んでステファンにスケジュール作りをお願いした。
 念の為ゴルナーグラートのホテルから送られてきた予約確認書を見ると矢張り今夜と明日の二泊泊ることになっている。もう少し早く気が付けば間に合ったがもう今さらじたばたしても遅い。覚悟を決めて寝るが寝付かれない。悪くすればすべてキャンセルになっているかも知れない。良くても最も期待をかけている朝焼けのマッターホルンは1日勝負になるかも知れない。ツェルマットの宿にも1日延長を頼まなければならない。大変なことになった。
 この時、私はクリスチャンではないのだが、「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」という新約聖書「マタイによる福音書」第6章34節を思い出した。明日のことは分からない。神のみぞ知る。

  8月6日(木)快晴 Montreux-Gornergrat-Zermatt
 朝食を一番で済ませて駅へ向かう。とにかく一刻も早くゴルナーグラートに入る事にする。駅までの1.5qほどの道の荷物は重かった。
 丁度良く列車が入ってきた。1等車も目の前に止った。抜けるような青空。今朝のマッターホルンの朝焼けは多分最高だったであろう。1日早く入っていれば完璧に理想的な天気だったのに惜しいことをした。釣り逃がした天気は大きいかも知れない。明日から天気が崩れたらどうしょう。不安な気持ちを抱えてゴルナーグラートへと向かう。
モントルーからゴルナーグラート  ローヌ川沿いに走る車窓からは整然と並んだ背の低いブドウの木の列が斜面を模様付けているのが眺められる。ローザンヌからローヌ谷にかけては、「エーグル」「ファンダン」「ヨハニスベルク」などのワインの産地である。またローヌ本谷からマッター谷にかけては赤ワインの「ドール」を産する。
 ツェルマットの入口はローヌ谷のBrig(ブリーク)になっている。国際列車も発着する国鉄駅を出ると、駅前の路上に赤い電車が待っている。ブリークからツェルマット行きの列車には席を左に取ったら強い陽射しで暑くてたまらない。日本人の青年二人が後の席で声高に話しているのがうるさい。
 ツェルマットまでの標高差は1000m近くもあり、所々で登山鉄道のようにラックレールの助けを借りながら登る。そのために全区間44qを1時間20分も掛る。車窓からマッターホルンの特徴ある山容が眺められたら、もう終点のツェルマット駅はすぐである。

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      Gornergrat(ゴルナーグラート)
 Zermatt(ツェルマット)で登山電車に乗り換えて正午過ぎにGornergrat(ゴルナーグラート3089m)に着いた。登山鉄道で行ける展望台としては、スイスで2番目に高い地点である。マッターホルンを適当な距離を置いて眺める展望台として最適の場所である。
ふたつのドームを持った山岳ホテルとマッターホルン写真  ふたつのドームを持った山岳ホテルが背後に見えている。絶好の快晴で雲一つない。1980年に来た時もこうだった。ここからのパノラマは360度。二股に分かれた氷河に挟まれているのがMonte_Rosa(モンテ・ローザ4634m)で、氷河越しに右にLiskamm(リスカム4527m)、頭の丸いBreithorn(ブライトホルン4165m)が間近に続く。Matterhorn(マッターホルン4478m)の東壁が目の前に見える。ツェルマットのシンボルはマッターホルン。どんな額縁に入れてもそのまま一服の絵になる秀麗な山である。北側にはDom(ドーム4545m)、Taschhorn(テッシュホルン4491m)などMischabel(ミシャベル)山群が見える。スイス最高の山岳地帯である。 白き神々の座。ゴルナーの氷河の先には左からリスカム、カストール、ロッチャ・ネーラ、ブライトホルンが連なる写真 何千年もの昔から6本の巨大な氷河は、モンテ・ローザとマッターホルンの間を谷へ、ツェルマットの方へと流れている。ツェルマットを取り巻くすべての峰々と、Gornergletscher(ゴルナーの氷河)の豪快な眺めが素晴らしい。
 先ずはホテルに入りチェックインを済ませたいが、フロントがどこか分からない。ようやくレストランの隅にある受付を見つけたが2時からでないと受付をしないという。チェックインの時間が来るまでの間、展望台へ行き、マッターホルンを中心に撮影をする。

     宿が無い!
 2時過ぎに受付にに行くと案の定昨日からの予約になっているが、昨日来なかったので今夜を含めて二夜ともキャンセルにしたとのことであった。今夜は満員でもう部屋はないという。と言うわけで今夜と明日の晩の宿は無い。これは困った。どうしよう。いくら掛け合ってもないものはない。その内、明日なら良いというのでとにかく明日の夜を一泊予約して、今夜の分はツェルマットに下山して探そう。
 それにしてもまたとないこの天気の良い日を逃すのは惜しい。何とかしてリッフェルゼーからのマッターホルンも写したいので登山電車の駅へと向かう。しかし、電車で下っている内にツェルマットの宿も塞がってしまうかも知れない。ここから電話で予約するほうが良い。駅から再びホテルへ戻り、レストランで居合わせたウエーターに電話の場所を聞いたらそこだと言う。掛け方を知らないからと言って彼にお願いしてゴルナーグラートの麓にあるツェルマットの宿に電話をして貰った。
 そのやり取りの最中、私が困っているのを見かねた日本の青年が通訳の中次をしてくれて助けてくれた。その青年は、ブリークからツェルマット行きの列車の中で声高に話していた日本人の青年二人の内のひとりだった。とりあえず今夜のドミトリーを一つ確保してもらった。感謝感謝!!
 辞退する彼には感謝の印として日本から持ってきたインスタントラーメンをスーツケースから取り出して1袋差し上げた。ここは地上よりも空気が薄いので袋がパンパンに膨れ上がっていた。レストランのウエーターには電話代SF1.00の他に五円玉を1個あげた。
 Trouble(トラブル)の語源はTravel(旅行)とか。旅では何かとアクシデントがあるもので、これしきのことではへこたれないがやはり疲れる。緻密なステファンを丸々信じていたのがいけなかったのかな。誰にも間違いというものがあるので攻める気にはならない。
 これで今日の宿は確保出来たのでこれからリッフェルゼーへ行くことにした。ここから歩いて下ると40分くらい掛る。リッフェルゼーへのハイキングコースを下り始めたが、思いなおして時間の節約のため湖の近くの駅まで登山電車で下ることにした。

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      Riffelsee(リッフェルゼー)
逆さマッターホルン。湖面には微風でも漣が立つ写真  Rotenboden(ローテンボーデン2815m)の駅で降りると小さな池がRiffelhorn(リッフェルホルン2927m)の小岩峰の下に見えてくる。これがRiffelsee(リッフェルゼー2757m)で、このコース中ただ一つの池である。湖は多少さざ波が立っており、あまり良い状態とは言えないが、とにかく快晴なので何枚か撮影する。その内、女の子などの家族連れが湖の対岸で泳ぎ出したので湖面は波立ち、逆さマッターホルンの姿は波に消されて定かではない。これでは写真にはならないので又ローテンボーデンの駅に戻って登山電車でツェルマットへと向かう。

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      Zermatt(ツェルマット)
街外れにはシャーレが点在する写真  巨峰に取囲まれたような谷底にあるのが、アルピニストのメッカともいうべきツェルマット(標高1605m)の村である。駅前の広場には雪のない季節なら、ホテルの名を張ったり、TAXIの名をつけた馬車が到着客を待ちうけている。現在でも一台のガソリン自動車も走っておらず、夏は馬車、冬は馬ソリが主な交通機関という徹底した方針のもとで、アルプスの山村という姿を守り続けている。この広場の右角にあるのがツェルマットのツーリスト・オフィスで、壁にツェルマットのホテルの予約状況を示した掲示板が出ている。予約のない場合はオフィスに入って予約してもらえる。
 ツェルマットの宿では気さくなおばさんが快く迎えてくれた。チェックインも済んで部屋に案内される。そこはドミトリーなので大部屋で二段ベッドがいくつも並んでいた。その中のひとつが当てがわれた。こんな大部屋に多数の人と一緒に泊るのは初めての経験で少々不安な気がしたが、致し方がない。大方の客は日本人で、隣のベッドの人は気さくな人だった。その人がひと通りここの泊り方を説明してくれた。このホテルの地下にはキッチンがあって食器もすべて整っている。早速持ってきたラーメンを作って食べる。
 夕食後、夕焼けのマッターホルンを撮る為に丘の方へ行くが、中々良い場所が見付からない。村外れまで来てしまい、そこからマッターホルンを撮影する。
 夕陽に映えたマッターホルンが美しい。これがゴルナーグラートだったら尚良かったのに…。

  8月7日(金)快晴 Zermatt-Gornergrat-Riffelsee-Gornergrat
 前夜はなぜか中々寝付かれなかった。幾らか寝たのだろうか。同室の人が起きて出発の準備をする音で目が覚めた。時計を見ると5時10分だった。私も起きて朝焼けのマッターホルンを撮る為に昨日とは反対側の山の中腹へ向かった。
朝焼けのマッターホルン写真  美しい朝焼けだ。マッターホルンが真っ紅に頂上から徐々に裾の方に下ってくる。これが逆さマッターホルンを映すリッフェルゼーだったら万々歳なのだが、残念だ。この写真一枚に掛けて来たのに…。若し、明朝晴れなかったらまことに残念としか言い様がなくなるだろう。明日の好天を祈るのみ。
 朝食後、ツェルマット駅前の登山電車の駅からゴルナーグラート行きの電車に乗り込む。19世紀の末に完成したこの電車は、ツェルマットの村を見下しながら登って行く。針葉樹の林を抜け、ハイマツと石楠花の山肌を通り、美しい草原を登るとまもなく終点のゴルナーグラートである。距離にして約10`、標高差にして約1500b、45分の旅である。

リッフェルゼーに浮かぶ逆さマッターホルン写真
 途中のローテンボーデンで下車して、リッフェルゼーに映る逆さマッターホルンを撮る。今日は早朝なので光線状態も良く、風も未だ無い。とても美しい写真が撮れた。この風景は若い時からの憧れの絵で、この道を目指したのだ。今、その永遠の夢がようやく叶えられた喜びを噛み締めている。

ヤッホー!スイスだぜー。登山電車で行ける2番目に高い展望台写真  10時頃ゴルナーグラートのホテル(3135m)に着いたが、チェックインは2時からだ。ここからは昨日撮影したので今日はもうやることがない。ホテルの前のテラスでワインを傾け、目の前の山を眺めながら時の過ぎるのを待つ。贅沢なひと時である。「人生では何度か、ああ生きていて良かったと思う瞬間がある。その為に人間は生きてるんじゃねえか」と寅さんが言っていたっけ。まさしく今がそれでないだろうか。
 輝く太陽の下にスイス・アルプスの主峰Monte_Rosa(モンテ・ローザ4634m)がマッターホルンの鋭峰とは異なった女性的な姿を見せているのをはじめ、キラ星のように4000bの座標が眺められるのは天地創造の神に感謝したいような感じである。歩道近くの崖ッ淵に野生のマーモットが二匹現れた。シュタインボックも近付いて来た。
マーモット写真 シュタインボック(野生の山羊)写真/写真転載不可  2時。ようやくチェックインして部屋に案内された。部屋は三階だった。荷物を上げるのがきつい。スーツケースはホテルのボーイが運んでくれたが、帰りは自分で降ろさなければならないのであろう。SF120.00の宿泊代から押してかなり広く良い部屋を想像していたが、意外に狭く、四畳半位しかなかった。おまけにドアが箪笥に支え、ベッドとの間がようやくスーツケース一個通れる位しかない。枕元の机と洗面所、それにベッドひとつがあるだけで、椅子も電気スタンドも無い。今迄のSF40.00位の宿よりも悪い。山小屋感覚である。山の上の一軒宿だからまぁ仕方が無いか。
 部屋で持って来た食べ物を開き夕食を済ませた後、夕焼けのマッターホルンをリッフェルゼーの湖畔から撮る為に出かける用意をしてレセプションに行った。レセプションにいた気の強そうな一寸美人の若い女が、「玄関はフリーだが、夜出かけるのは危険なので止めてくれ」というような意味を言っている。が、何を言っているか正確なところは分らない。問答を繰り返している内に彼女はムッとした顔をして少し待っていれと言い残してどこかへ行った。やがて日本人の女性を連れて来た。その女性が通訳をしてくれた。それによると「これから暗くなるので行くのは止めろ」と言っていると言う。自信があるが、そこまで言われれば従わないわけにもゆかない。
 そこへ又一人の女性従業員が来て、レセプションの女と何か話をしている。私が夕食は済んだのかと訊ねている。「夕食付ですか」と訊くと「イエス」と言う。チェックインの時にはそんなことは聞いていなかった。じゃ、と言うことでその日本人の娘さんと一緒にレストランに行った。その日本人の女性は、レストランで食事中に呼び出されたらしい。レストランにはその両親らしい人がいた。席をご一緒させて戴いて食事をした。
夕陽に映えるモンテ・ローザ写真  ふと窓の外を見るとゴルナー氷河を挟んだ向こうに見えるモンテ・ローザに夕陽が射し、まるでバラの花が咲いたように真っ紅に映えた。それを見る私の心が癒されてゆくのを感じたひと時であった。明日の朝はきっと晴だろう。

  8月8日(土)晴れ Gornergrat-Riffelsee-Zermatt-Sunnegga-Blauherd-Stellisee-Findeln-Zermatt
 午前5時、目覚まし時計の鳴る音で起こされた。窓から外を見ると未だ明けやらぬ暗い夜空に星が瞬いていた。シメタ!
 満月が煌々と輝くハイキングコースを月明かりを頼りにリッフェルゼーを目指して下山開始。途中、何度も懐中電灯で道標を照らして道筋を確認しながら山を下る。と、暗闇の中で何か動くものが居る。ドキッとしたが、よく見ると数頭の山羊だったのでひと安心。
満月に照らされたマッターホルン写真  西の空には満月が輝き、今まさに黒々と連なる山々の彼方に沈まんとしている。だんだんと空が白みかけてきた。日の出に間に合わないと大変だ。小1時間の道を焦る心を抑えながら岩などにつまづいて転ばないように慎重に先を急ぐ。
 草原の小道をモンテ・ローザからリスカム、ブライトホルン、マッターホルンヘつながる稜線を左に見ながら歩き、ようやくリッフェルゼーに到着。間に合った! 周りには誰もいないとばかり思っていた湖畔に先客がいた。キャンプでもしていたのだろうか。岸辺で三脚を構えて頑張っている。人が画面に入っては拙い。困ったなぁと思ったが少しアングルを変えるとすれすれで画面から切れそうだ。但し、横サイズではどうしても避けきれないが仕方がない。

     朝日に輝くマッターホルン
黎明。マッターホルンの先端から徐々に紅く染まってきた写真  6時10分、マッターホルンの先端から徐々に紅く染まってきた。頃合を見計らって慎重にシャッターを切る。瞬く間に山の上半身が紅く染まっていく。露出を合わせるのに忙しい。目の前に展開される地球の壮大なドラマに圧倒される。自然は凄い。地球は素晴らしい。チャンスは一度“地上最大のドラマ”はアッと言う間に終わってしまった。成功だ!
 朝日をあびたマッターホルンの姿が、この池の中にポッカリ浮んでいるのを見ていると、マッターホルンと自分との距離感がまったくなくなってしまったような気がする。左にはゴルナーグラート氷河が見渡せる。運がよければ岩の間に大カモシカの姿を見ることもできるだろう。
 ホテルへの帰り道、下りの楽そうな道を進んだがどうも違う様な気がする。30分ほど歩いた後、この道の元の出発点のところ迄戻る事にした。いったん元の処まで戻ってその近くの登山電車の駅ローテンボーデンから電車でゴルナーグラートまで戻ってきた。その電車の走る前の線路を朝日に照らされたマーモットがシルエットの輪郭を輝かせて線路を飛び越えて行った。
ツェルマット付近  ゴルナーグラートのホテルを引払い、急いでツェルマツトに下りて今日から泊ることになっているホテルにチェックイン。今日のホテルはツェルマットの駅前にあるシャレータイプのしゃれた木造のホテル。その名もBahnhof。駅という意味である。今日からの私の宿である。ガイドブックには木造の古いホテルと書いてあるが、最近建て直したのか真新しい。私の部屋はこのホテルの四階の16号室でベランダからはマッターホルンが良く見える。
 あまりにも天気が良いので今日は午後からスネガとフィンデルンへ行くことにした。このコースはもっとも美しい角度からマッターホルンを眺めながら、ヴァリス特有の様式とたたずまいを持つ小さな村をめぐって下るコースである。ここは午後からは光線状態は良くないのだが、明日以降の天気も分らないので、一応押さえとして写しておくことにした。
 宿に荷物を預けた後、ツェルマットの村の真中を流れるヴィスプ川を渡り、下流の方に10分も行くとスネガに登る珍しい地下ケーブルカーの駅がある。ここからスネガまで行く。

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      Sunnegga(スネガ)
マッターホルンが最も美しい姿を見せる展望台写真  Sunnegga(スネガ2293m)はツェルマットの集落から最も近い手頃な展望台でマッターホルンが最も美しい姿を見せる場所である。日当りの良い草地の広がる台地からは正面にマッターホルンが眺められ、西側のOb.Gabelhorn(オーバー・ガーベルホルン4063m)やマッターホルンとZinalrothorn(ツィナールロートホルン4221m)もみごとだ。ここでひとまず一服。マッターホルンに向かって何枚かシャッターを切る。
 ここから右に斜面を下降して20分も行けばフィンデルンの村であるが、この上にある湖から見るマッターホルンの姿も良いので今一度Unterrothorn(ウンターロートホルン3103m)行きのゴンドラリフトで中間点のBlauherd(ブラウヘルト2601m)まで登り、そこから歩いてシュテリゼーに行くことにする。

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      Stellisee(シュテリゼー)
高原の冷たく美しい水を湛えている写真  ブラウヘルトからほとんど等高線上を山の奥を目指して行けば30分ほどで小さな池に出る。これがStellisee(ステリゼー2537m)とよばれている池で、冷たい美しい水をたたえている。ここでもこの池に映るマッターホルンが見られる。この湖に映るマッターホルンは実に美しい。よく雑誌などで見るモチーフだ。この池の周辺で持参の昼食をとる。
エーデルワイスの花写真  ステリゼーからは下りながら左に道をとって行けば、1時間ほどで自然にFindeln(フィンデルン)の村に出る。途中の道端でエーデルワイスの花を見つけた。花頃も丁度良い。早速接写。
 スネガのすぐ下にあるライゼーにも寄り、手前にエーデルワイスを入れてライゼーの向こうにマッターホルンという写真を撮りたくてエーデルワイスを探したがここではを見つけることは出来なかった。

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      Findeln(フィンデルン)
フィンデルン写真 ネズミ返しを使っている穀物倉写真  Findeln(フィンデルン)の村には3時近くに着いたが、全くの逆光であまり良くないがとにかく撮影。
 フィンデルンは標高2069bにある村で、ヨーロッパでもっとも高い場所に畑を持った村として知られているが、それよりもこの村の建物に注目したい。ちょうど奈良の正倉院、唐招提寺の経蔵、宝蔵に見られるような校倉造りに非常によく似た木組みで、その板の表面を焼いてあるためにじつに素朴で美しく、屋根の石葺きとみごとに融合している。とくに穀物倉といえる建物は床のすぐ下に円盤のような石をネズミ返しとして使っているのは面白い。村の中央には小さな白壁の教会があって、この村の風景をいっそうひきしめている。校倉の家、白い教会、遠くにマッターホルンの鋭い峰、これはまったく“絵のような風景”であることに間違いないだろう。
フィンデルンバッハの鉄橋(ツェルマットからゴルナーグラードへ行く登山鉄道)写真  フィンデルンから道は左にリッフェルアルプの山肌を見ながら谷沿いに下り、しばらくして林間のよく整備されたジグザグコースをたどって行けば、約1時間位でヴィンケルマッテンの村に着く。途中、Findelnbachの鉄橋を渡るゴルナーグラード行きの登山列車を撮影する。あとは森の中の平坦な道を北に進んで、市街地の上に出てからツェルマットに下りてくる。
 4時半頃くたくたになってようやくツェルマツトのホテルに着いた。このホテルは地下にキッチンがあって電子コンロ、電子レンジ、食器、ナイフ、フォークすべて完備。おまけに宿泊者が全員共同で自由に使える大型冷蔵庫まである。早速日本から持ってきた米を炊き、味噌汁と日本から持ってきた漬物で夕食を済ませた。久し振りの日本食は美味かった。
 キッチンには日本人の奥さんのグループがいて食事をしながら雑談を交わした。聞くとマッターホルンに登るために来たご主人連に付いて来たという。マッターホルンに登ると聞いて驚いた。今はマッターホルンに登ることは珍しいことではないらしい。彼らは今朝早く出かけて夕方には帰る予定だという事だが、未だ帰って来ないので心配していた。

  8月9日(日)快晴 Zermatt-Klein_Matterhorn-Zermatt
眺望(アム・バッハ付近)写真  今日はもう天気は持たないだろうと7時頃のんびりと起きたら又もやピーカン。であればクライン・マッターホルンにでも行ってみようか。
 村はずれのSchluhmatten(シュルーマッテン)のゴンドラリフトまで駅前のホテルから徒歩15分。Furi(フーリ1867m)までは約10分。ブライトホルンの白い頭が見えてくる。ここからTrockener_Steg(トロッケナー・シュテーク2939m)行きのロープウェイに乗り換える。大型キャビンからは、左手にゴルナー氷河の末端が眺められ、ほぼ真南の氷河の上に突き出たクライン・マッターホルンの小さな黒い山塊が見える。Unt.Theodulgletscher(ウンタラー・テオドゥル)氷河を一気に渡るのはスリル万点。この間40分程でKlein_Matterhorn(クライン・マッターホルン3820m)に着く。

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      Klein_Matterhorn(クライン・マッターホルン)
 到着して通路を進むとエレベーターが在った。それに乗って上に行き外に出ると更に階段がある。登りつめたところが標高3883mの山頂展望台で富士山頂よりも高い。ここはシャモニーのエギーユ・デュ・ミディを抜き、ロープウェイで行く展望台としてはアルプスで最高地点(ヨーロッパで一位)である。一般観光客が到達できる最も高い場所だ。私は今、私が行ける“天国に一番近い場所”に立っている。ゴルナーグラートと並ぶ第一級の展望台である。頂上からは360度の大パノラマ。雲一つない。
ここから見るマッターホルンは格好が悪い写真 望遠レンズが捉えたモンブラン写真
北にアイガー、メンヒ、ユングフラウが綺麗に見える写真 ブライトホルンの頂上写真  西に聳えるマッターホルンの形が、ツェルマットからとはかなり違う。その左奥に見える大きな山がGrand_Combin(グラン・コンバン4314m)。更に左に目をやると少し遠くにヨーロッパの最高峰Mont.Blanc(モンブラン4807m)が見える。北にユングフラウまで見渡せる。一方、東側は、すぐ隣にブライトホルンの真っ白な斜面が山頂まで延びている。アルプスの4000m峰で最も簡単なピークと言われており、いくつものパーテーが登って行くのが見える。よくもまあこんなに晴が続くものだ。目の前の国境稜線上、建物のある場所はTesta_Grigia(テスタ・グリージャ3480m)で、イタリア側からのロープウェイがそこまで来ている。
 この展望台ではアイルランドのダブリンから来たという日本人のO夫妻に声を掛けられた。私のリックにアマチュア無線局のコールサインを縫い付けていたのを見て、彼もコールを持っているということで声を掛けてくれた。
 帰りはここからはロープウェイでFrugg(フルック2432m)を経由してSchwarzsee(シュヴァルツゼー2583m)まで登る。シュヴアルツゼーは駅から少し行った右下にある。小魚がたくさん泳ぐ“黒い湖”という名の小さな池だが水が黒いわけではない。池のかたわらにはSainte_Marie_des_Neiges(雪のサンタ・マリア)という美しい名前の小さな礼拝堂が建っている。
シュヴァルツゼーとマッターホルン写真  ツェルマットの展望台としてはマッターホルンに最も近付くが、しかし、ロープウェイ終点からは頂上付近が少し見えるものの、手前の岩陵が目障りで湖畔からマッターホルンは見えず、“マッターホルンに近付けば眺めはいいはずだ”という思い込みは裏切られた(灯台下暗し)。唯一のホテル・レストランSchwarzssから見ても、手前に張り出している岩陵がやや目障りな上、肝心の湖は窪地にあるので湖畔から手前に湖を入れてマッターホルンを写そうと思っても絵にならない。ここからフーリを経てツェルマットに帰ってきた。途中お土産屋を一寸だけ覗いて3時半頃ホテルに到着。
 今日も楽しいクッキングだ。食材は直ぐ近くのスーパーで仕入れてくる。明日の天気はどうだろう。晴れればサース・フェーへ行くことにする。
 キッチンでまた昨日マッターホルンに登りに行った人達の奥さんに会った。話を聞くと、昨日は帰りが遅くなったために麓の山小屋で一泊して今日無事帰って来たということであった。

  8月10日(月)快晴 Zermatt-Saas_fee-Zermatt
暁のマッターホルン写真  今日は曇るだろうと思っていたけれど、朝から快晴。窓を開けて空を見ると、朝焼けのマッターホルンの近くに満月が輝いていた。これは珍しい現象だ。四階の私の部屋のベランダから丁度良いアングルで見える。早速カメラを取り出して撮影した。朝食にラーメンを造り、前日の残りご飯と日本から持ってきた胡瓜の漬物で朝食を済ませた。ツェルマット7時18分発あさ一番の登山電車でサース・フェーへ行くことにする。列車に乗る前に駅前のポストに手紙を投函。

サース・フェー付近  Brig(ブリーク)行きの列車には何人も乗っていなかった。サース・フェーには鉄道はなく、ポストバスで入らなければならない。途中のStalden(シュタルデン)で下車。駅前のバス停からポストバスに乗り換える。8時44分、ブリークから来たこのバスは早朝だというのに満員で立って行く羽目になった。私達が乗ったポストバスはサース谷に入って行く。見通しの悪いカーブに差し掛かると、ラッパを模した三連音のクラクションを鳴らして、対向車に注意を呼びかける。狭い道ではポストバス側に優先権があり、対向車はすれ違える地点で待機するか、バックしなければならない。この時代がかった独特のメロディーは、旅の情緒をおおいに盛り上げてくれる。このラッパの絵はスイスやドイツで郵便局のシンボルマークとして描かれ、郵便馬車の御者が鳴らしたポストホルンの名残である。

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      Saas_fee(サース・フェー)
氷河が目の前に迫る写真  9時23分、サース・フェーの郵便局PTTに到着。目の前にDom(ドーム4545m)が聳え立つ。麓までスイス領内にある山としては最高峰である。スイス国内最高峰のドームの真下にあるSaas_fee(サース・フェー)はMischabel(ミシャベル)山群の高峰群にぐるりと囲まれている上、氷河が街のすぐ背後まで迫っていて、スイス・アルプス屈指の氷河村として知られ、迫力のある景観が楽しめる山岳リゾートだ。来て見てここは本当に氷河で出来た谷底の村であることが実感できる。人口は100人程度。街中はガソリン車は禁止されており、代わりに電気自動車が走っているので街は静かなたたずまいを保っている。教会の鐘の音が流れ、心が和む。
 ここで最も高い展望台Mittelallalin(ミッテルアラリン3451m)へ行きたいのだが、表示が良く分らない。駅(PTT)前の案内所で聞いてロープウェイ乗り場へと向かう。途中ロープウェイを一度乗り換えてから1984年暮れに開通した地下ケーブルカーでユングフラウヨッホとほぼ同じ高さにあるミッテルアラリンの展望台に着いた。 アルプフーベル、テッシュホルン、主峰ドームなどのミシャベル山群が続く写真 ここはツェルマットとは山並みを隔てて隣である。あたりは銀世界で少々寒い。ここからはTaschhorn(テッシュホルン4491m)とスイス領内にある山としては最高峰の主峰Dom(ドーム4545m)など(モンテ・ローザはイタリア国境に掛っている)ミシャベル山群と眩しいばかりの大パノラマが目の前に展開する。そこから更に10分程歩いて登るのだが、空気が薄いので息が切れる。

スイスで最高所にある回転レストラン写真  資料によるとA級の展望とあるが、これまでたくさん良い所を見てきているのであまり感激しない。ひと通り写真を撮ったらスイスで最高所にある回転レストランでビール(SF4.10)を飲み、昼食を摂った。名物のこの展望レストランは1時間に一回転する。

ネズミ返しのある穀物貯蔵小屋写真  撮影が終れば、ここに永く居てもあまり意味がないので早速下山。サース・フェーの街中にはヴァリス地方独特のネズミ返しのある古い木造の昔風の穀物貯蔵小屋が何軒かあったのでそれを撮った後、13時35分発のバスでツェルマットへ帰ってきた。途中、シュタルデンに降りてきたら猛烈に暑かった。手元の寒暖計では35℃位を指していた。ツェルマット行きの列車に乗ったら、小さな女の子が座席でぐったり横になっていた。列車も猛暑の中、喘ぎながら急な勾配を登って行く。
 ホテルに帰ってから、近くのスーパーでの食料品の買物、洗濯、夕食作り、その日撮ったフイルムとかデーターの整理で1日が終る。

  8月11日(火) Zermatt-Sunnegga-Blauherd-Stellisee-Findeln-Zermatt
 今日はスネガを経てフィンデルンを撮ることにする。ここは先日(8/8)、ゴルナーグラートからツェルマットに来てから午後に行ったコースだが、その時は光線状態が良くなかったので再度挑戦することにする。
 午前中早い時間帯が勝負なので、8時ツェルマット発の始発地下ケーブルカーで先ずスネガへ行く。ここから見る朝のマッターホルンの姿が一番美しい。フィンデルンは目の前にあり、20分程も歩けば着くが、この上にあるシュテリゼーから見るマッターホルンが最高にいい眺めなので更に上のブラウヘルトまでゴンドラリフトで行き、そこから歩いてシュテリゼーへ向かう。その途中にエーデルワイスの群落があると聞いていたので注意しながら歩いたが、見付けられなかった。
シュテリゼー写真  シュテリゼーに着いたが、少々風があって水面が波立って逆さマッターホルンの姿はあまり良く映らない。早朝ならば風も無く、良く見られるはずと期待して来たがガッカリだ。しばらく風待ちをしてようやく少し良く見えたところで撮影したが、不満足であった。この湖に写るマッターホルンは実に美しい。よく雑誌などで見るモチーフだ。

    マドンナ現る
 私がこの湖に着いた時、すでにそこに日本人の女性がいた。水面の風が治まるまでの間になんとなく会話を交わした。スイスには春から来ていて今はツェルマットのお土産屋さんで働いているという。今日は休みなので初めてここに来たと言う。ツェルマットにはガイドをしているフィアンセも居るそうだ。その女性が彼から聞いてきたとかで、この近くの大きな岩陰にエーデルワイスが沢山咲いている所があるというので彼女に案内して貰って行ってみた。
エーデルワイス写真  フィンデルンに行くのには一旦もと来た道を少し戻って標識のある交差点から下る事になる。エーデルワイスはその交差点の上にある大きな岩の陰にあった。丁度10輪ほどの花が群がって見事に美しく咲いていた。それを撮影してからその女性と一緒にフィンデルンへの小道を下った。大きく豊かな自然が、人の気持ちを優しくする。8日にここを通った時にハイキンコース脇で一輪のエーデルワイスを見かけたので彼女にお見せしようと思い注意して探したが、残念ながら見つける事が出来なかった。
やぁ!こんにちは写真  1時間ほど歩いてフィンデルンに到着。しかし、マッターホルンの頂上付近に僅かだが雲が掛っている。彼女はここのレストランで美味しいアップルパイがあると聞いてきたという事でそちらへ行って貰い、私はそこから更に少し降りたところで撮影する事にした。
フィンデルン写真  一番景色が良く見えて絵になるところへ行き、雲待ちの間近くの草原に座り、ツェルマットのホテルで今朝生まれて初めて自分で握って持ってきたおにぎりと果物を拡げた。谷ひとつ隔てた向こうまで広く見渡せて、眼前には頂上に白雪を戴いたマッターホルンが美しく輝いている。燦々と降り注ぐ太陽の光を全身に浴び、とてもいい気持ちになってきた。至福のひと時である。私が撮影を終わった頃、彼女がアップルパイが大変美味しく満足したと言って帰って来た。
 フィンデルンからツェルマットまでは歩いておよそ1時間。道々お土産屋さんに来る日本人の客の話や彼女のお父さんがニコン党である話など、いろいろと話しながら歩いているといつの間にかツェルマットに着いた。私が日本から乾燥蕎麦を持ってきていると言ったら食べたいというので明日ご馳走する約束をした。彼女は明日の勤務時間を見てこなかったので予定が分からないというので明日私がそのお土産屋さんに行く事にした。
 今日も疲れた。これで予定したツェルマット付近の撮影は全部終った。先ずはここツェルマット付近産の「ハイデ」というワインで乾杯。近くの生協で買ってきた食材で野菜炒めと日本から持ってきた米を炊き、インスタント味噌汁で夕食とした。

  8月12日(水)快晴 Zermatt-Sunnegga-Findeln-Zermatt
 昨夜はマッターホルンの頂上付近に雲が掛っていたので今日あたりは天気が崩れるだろうと思っていたが、あにはからんや快晴。但し、頂上付近には雲が掛っている。これでは昨日よりも悪いので今日はツェルマットの街でもぶらつくことにする。
街中には古いネズミ返しの付いた穀物小屋も見られる写真  ラーメンライスの朝食の後、ぶらっと街を横断して上の方へ行ってみることにする。この頃、羊飼いが羊の群れを追って街のメインストリートを下ってくるはずだ。奥へ行くと由緒ある大きなホテルが連なっている。こんな豪華なホテルとは縁はない。スポーツ店「バイヤール」の手前から小路に入ると昔のツェルマットの風情を味わえる情緒万点の路地がある。そこには古い穀物小屋が建ち並んでいる。メインストリートの賑わいが嘘のようだ。マッターホルンを見上げるとなんだか雲が取れてきそうな気配がする。急いで宿に帰り、カメラ機材一式を準備して又もスネガへと向かう。スネガに着くと昨日よりも状態が良い。祈るような気持でフィンデルンへ向かう。
フィンデルン写真  ようやくフィンデルンに到着。息をするのも忘れて撮影。これで目的はすべて完了した。11時半頃ツェルマット到着。2、3お土産屋を覗いてから宿に帰り、昼食を作って食べた。
 今まで晴れていたのにいつの間にか曇り。一休みの後、2時頃からテーブルのある庭のベランダでワインを飲みながら手紙を書く。15時頃から雷が鳴りだした。16時頃、大粒の雨が降って来たので部屋に非難する。
 1時間ほどで雨が止んだので、お土産屋の女性と蕎麦を食べる約束の時間を打ち合わせる必要もあるのでぶらりと街へ行ってみる。店に入ると大柄の彼女はすぐに分った。向こうの方から声を掛けてくれた。家族へのお土産としてツェルマットのマークの入ったTシャツなどを2、3枚買ったら知り合いということで値引きしてくれた。蕎麦の約束は時間の都合が付かなかったのでホゴ。残念。
 帰りに近くの生協で食料品の買物をして宿に帰り、早速夕食の支度。今日は昨日炊いた米で作ったおにぎりと野菜炒め、それにインスタント味噌汁。隣では今日来たらしい若い男の子が米で何か作っている。時々声を掛けてくる。私が食事をしていると隣に座り、一緒に食べ始めた。食べながらいろいろと話し掛けてくる。彼はこの後トルコ、ギリシアにも行くと言う。どこがいいかと尋ねられたので、いろいろな話をしている間に彼は映画が好きだと言う話になり、結局夜10時頃まで話し込んでしまった。

  8月13日(木) Zermatt
エンブレム  4時にトイレに起きてから寝付かれない。外を見ると星は見えない。今日は天気が悪そうだ。眠れぬままに5時半に起きて外を見るとゴルナーグラート行きの電車に明りが点いて客が乗り込んでいる。木曜日はご来仰を見る特別ダイヤが組まれている。朝日の出る時間に合せているのでその日によって出発時間が違う。今朝は5時25分に出発して行った。
 今朝の献立は残った米を炊いて生卵のぶっかけに残った野菜とハムを使ってサラダと野菜炒め、それに持ってきたインスタント味噌汁。地下のキッチンで朝食の用意をしていると、若い外人の女性が黄色いピーマンを差し出して“良かったらどうぞ”とプレゼントしてくれた。ありがたく頂く。彼女は今日ここを発つので余ったらしい。こういう所では知らない人でも気さくに親しくなれる。ここに来てからは毎日日本食なので、食べ物の苦労はなかった。明日はサメダンへ行くので、このホテルに泊るのは今夜が最後だ。明日からも又このような日本食を食べることが出来るだろうか。それを考えると気が滅入る。
牧場へ向かう羊の群れがメインストリートを通る写真  9時頃、村はずれから羊飼いの追った羊の群れが街を通る。それとマッターホルンを入れて写したい。その為には1qほど上に行かなければならない。支度して出かける。ようやく目的地に着いた頃、羊の群れがやって来た。良いタイミングだった。その群れに付いて宿の前まで来る。
 一旦宿に入ってからガイドブックを見ると山岳博物館が10時から12時までしか開いていないことが分り、すぐ出かける。山男ならともかく、山岳博物館には特に興味があった訳ではないが、ここまで来たら一応見ておかない訳にはゆかないだろう。
 この村は19世紀まではまったくのアルプスの寒村であったが、今日ではアルプスで最も印象的な山、マッターホルンの麓にあるアルプスの根拠地、アルペン・リゾートの村として最も名を知られた存在になってしまった。人口は3,700人ほど。しかし村はずれに行けば今だに寒村であったころのたたずまいが残っている。
観光客で賑わう村のメインストリート写真  駅前の広場から右にマッターホルンに向かってのびているのが、村のメインストリートである。ツーリストやアルピニストが往来して、いかにもアルプスの村という感じがする。約600mの間、通りにはホテル、スポーツ用品店、カメラ屋、みやげ物屋、本屋、薬屋、銀行などがあって、ここを往復すればなんでもそろってしまいそうだ。
 300mほど行くと右側に郵便局がある。この先を右に入ったところが山岳博物館である。このツェルマットの村の歴史はそのままマッターホルン登山の歴史ともいえるので、ここを見ることによって今日までのツェルマットを知ることができると思う。ここには19世紀からの登山を物語る資料、用具、とくに1865年にマッターホルン初登頂をなしとげたウィンパーのピッケルや切れたザイル、その隊員の用具、1932年に初の北壁登撃に成功したシュミット兄弟の用具などはこの博物館でなければ見られないものである。
 山岳博物館を見終わったら11時15分だった。確か昨日山から降りてきた時にこの時間に近くの教会の鐘が鳴ったはずだ。その鐘の音を録音するために、MDを持ってきたのだが、一向に鳴り始めない。
モンテ・ローザ・ホテルの壁面にはマッターホルンの初登頂者のウィンパーのレリーフが埋め込まれている。写真  博物館を過ぎて200mほど行くと、通りに面した右側に大きな古ぼけたホテルがある。これがアルプス登山史上に名を残したモンテ・ローザ・ホテルで、壁面にマッターホルンの初登頂者のエドワード・ウィンパーのレリーフが飾られている。その前で二人の登山帰りの登山家に記念写真を撮って貰った。
 モンテ・ローザ・ホテルのすぐ先は小さな広場で教会が建っている。教会の近くの広場のベンチに腰を下して鐘が鳴り始めるのを待つ。待っている間、又ガイドブックを見る。フト気が着くとベンチで居眠りをしていた。間も無く教会の鐘が鳴り出したので録音。そうこうする内にこの辺で誰かが死んだのか、その教会から葬列が出て来て目の前を通過して近くの墓地へと向かった。その為に今日はいつもより遅れて鐘が鳴ったのかも知れない。
 その後、私も墓地へ行ってみた。ここにはピッケルを飾った墓碑なども多く、人間と山との闘いの歴史を見るようだ。特にウィンパーと共にマッターホルンに初登頂し、下山時に遭難したシャモニーの名ガイド、ミッシエル・クロの墓を探したのだが見つけられなかった。
 ここまで来るとツェルマットの古い時代の家がちらほらと見えてくる。ここから道は少し狭くなってはっきりと登り坂になり、ツェルマットのオールド・タウン、アルプスの寒村というイメージがぴったりの感じになってくる。道が少し下りになってマッターフィスパ川とほぼ同じような高さになったところに橋がかかっている。まっすぐ川にそって行く道はツムットの部落に通じている。ここで橋を渡り、急坂を登るとKlein_Matterhorn(クライン・マッターホルン)やSchwarzsee(シュヴァルツゼー)行のSchluhmatten(シュルーマッテン)のゴンドラリフト乗り場に出る。さらに300mほど行けばWinkelmatten(ヴィンケルマッテン)の部落である。ヴィンケルマッテンは、昔のツェルマットはこんな様子ではなかっただろうかと思われるような部落で、その雰囲気といい、眼前にそびえるマッターホルンの姿といい申し分のないところである。
 ホテルに帰ってみると昨夜の青年が居た。今日は天気が悪いので休養日との事。今、大学の三年生だと言う。私は昨日買ってきて冷蔵庫に入れて置いたビールを持ち出して前途の安全と明日の天気を祈願して二人で乾杯をした。その後、昨夜の続きのこの先の旅路のアドバイスをした。
 私は日本から持ってきた蕎麦を茹でて彼にご馳走すると、彼も野菜炒めを作ってご馳走してくれた。最近にないしっかりしたなかなか好感の持てる学生だった。夜7時ころから激しい雷雨となった。

  8月14日(金)晴れ、時々曇り Zermatt-Samedan
氷河特急路線  スイスの列車の中で最も人気が高いのは、二大アルペン・リゾート、ツェルマットとサンモリッツを結んで走る氷河特急である。
 駅のホームには長い編成の列車が入っていた。氷河特急は私鉄3社(BVZ、FO、RhB)の直通列車である。といっても、始発駅からの編成がそのままの形で最後まで走るわけではない。客車の一部だけをリレーしていく方式である。途中で何度も切り離したり連結したりする。もちろん直通客車に乗っている人は、そのまま座っていればいい。
 グリンデルワルトであらかじめサメダンまで予約していたのでその客車を探して乗り込む。客車は未だ新しく、天窓を広く取ったパノラマカーだ。きっとここから素晴らしいアルプスの景色が見えるのに違いない。期待に胸がわくわくする。
 8時53分、列車は静かにツェルマットの駅を出発した。隣の席には中年の夫婦。その女性はやおら手提げ袋から人参を数本取り出して盛んに食べ始めた。その人は美人だった。人参を食べると美人になるのかな?
パノラマカー写真  列車はMattertal(マッター谷)を下って、Visp(フィスブ)からローヌ川に沿って東に登って行く。車窓からはスイスの典型的な風景が展開され、ハイジの世界を満喫した。一つひとつの村が背景の山と調和して絵になっている。しかも、そこに家があり、人が住んでいる。いやぁ、素晴らしい! 息も付かせぬ自然の見事な展開に感銘する。地上2000mの険しい山岳地帯。その昔、良くもこんな所に鉄道を通したものだ。スイス人のその技術と根性に敬服する。自然の織り成す見事なハーモニーの展開に只々感銘する。
 三つの私鉄を直通するルートはいたって変化に富み、地中海に下るローヌ川流域から、北海に注ぐライン川の源流部を通り、更に黒海に至るイン川の谷間へと、ヨーロッパ大陸の分水嶺を越えてアルプスの真っ只中を走る氷河特急。花々と緑あふれるアルプに点在するシャレー、雪や氷河を頂く高峰と豊かな流れを眺めながら、食堂車で名物の傾いたワイングラスを傾けながら優雅な昼食…。食堂車のワイングラスが傾いているのはジョーク。実際の線路の傾きは最大でもおよそ6度なのに、グラスの方は15度近くある。やがて手持ちのワインがなくなっちゃった。サメダンまでのあとの4時間はどうして過ごそうか。
食堂車でくつろぐ旅人たち写真  なんだ坂、こんな坂。列車はレールと車輪の摩擦音をキー、キーッと鳴らしながらゆっくりと坂を登って行く。急勾配区間には登山電車と同じラックレールを使っている。氷河特急は全長268.7q、所要時間は8時間近くかかる。世界一遅い“特急列車”である。これも冗談だろう。
 Andermatt(アンデルマット1433m)を過ぎたOberalppasshohe(オーバーアルプパスヘーエ2033m)はこのルート上で最も高い地点である。アンデルマットを越えると一面の濃い紫色の花園が展開する。山々の眺めも圧巻だ。
 Alvaner(アルバノイ)とFilisur(フィリズール)間にあるLandwasserviadukt(ラントヴァッサー橋)は高さ65m半径100mの緩やかな半円を描く珍しいループ橋。ルート上に291もある鉄橋の中で最も見応えがある。右にカーブしながらトンネルに吸い込まれて行く。写真を撮ろうとしたら窓が開かないのでいい写真は撮れなかった。前から5輌目位の車両がベストポジションらしい。Bergun(ベルギュン)からPreda(プレダ)に掛けては400m余り登るため、三つのループ線があってぐるぐるカーブしていくので、同じ風景が高さを変えて現れる。
 氷河特急の旅を充分に堪能した。可愛い女と一緒の旅なら楽しいが、そうでないのならひとり旅が一番いい。Chur(クール585m)は名前に反して暑い所だった。それで駅のホームで缶ビールを買って又飲んじゃった。

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      Samedan(サメダン)
 サメダンには5時頃到着。駅ではホームから一旦地下道に降り、階段を上って駅舎に辿り着く。重い荷物を持ってその階段を上るのがしんどい。
 サメダンは山間の町で思ったよりも小さく、小じんまりとしている。標高は1705mなので、ツェルマットと同様に涼しい。サンモリッツの隣、サメダンに宿を取ったのは、サンモリッツなどは高級リゾートのため手頃な値段のホテルは少ない。それに比べてサメダンはこの辺りの交通の要衝であり、どこへ行くのにも交通の便がとても良い。サンモリッツなどに比べればホテルの宿泊代も比較的リーズナブルで、地味な宿場町といった風情だ。
 サメダンの駅からはスーツケースのキャスターを丸石の石畳にガタゴトと音を響かせながらて宿を目指して坂道を登る。今日の宿Chalet_Giardinは駅から山の上の方に歩いておよそ10分。山の麓にあった。部屋は木造四階建ての四階。その又奥のこれ以上奥は無いという小部屋。でも、増築らしく新しくて奇麗なので満足。なにしろ1泊朝食付きSF50.00のペンションなのだから例えエレベーターが無くても頑張らなくちゃ!

     久しぶりの入浴
山々に囲まれたサメダン写真  嬉しい事に部屋とは別だが風呂があった。宿のある位置が高いので風呂の窓からは街が眼下に一望。谷を隔てた向うの山懐の家々が箱庭のように眺められて最高の入浴気分だ。温泉でないのだけが残念だが。谷間の街では気流が良いのかハンググライダーが二、三機青空をバックにくるくると舞っていた。久しぶりに入浴した後、夕食前に先ほど近くのスーパーで買ってきたスイス産の高級ワイン(?)でひとりで明日の天気祭り(一杯やる事)。ここにはポスキァヴォ産の「ヴェルトゥリナー」と言うワインがある。またクール方面では「マイエンフェルダー」がある。
 静かだ。何も音がしない。さっきまで鳴っていた近くの教会の鐘の音も寝てしまったようだ。明日は晴れるだろうか。晴れれば、映画『ハイジ』のロケ地を訪ねてSilser_see(シルス湖)に行くつもりだが、日本で調べてみてもどの本にも何も書いていないのでどこにあるか分からない。とにかく、「ビッテ、ボーイスト…?(すみませんが、…は何処ですか?)」と訊ねながら行ってみるつもりである。

サンモリッツ付近 ※エンガディンの山と湖…スイスといっても厳密にいえば25のカントン(Canton)とよばれる州からなる連邦共和国である。各カントンにはカントン独自の法律、政府、議会があり、スイス・デモクラシーを結実させている。スイスの東南部、イタリアとオーストリアに国境を接するところに、スイス最大のカントン(州)“グリゾン”がある。
 ライン河も、ドナウ河の分流であるイン川もこの地方に源を発している、深い谷と山の地域である。そうした地理的関係から、面積は七〇〇〇平方`とスイス第一でありながら、人口は一六万人と非常に少ない。またこのあたりは、ローマ時代にはレチア州であったことや、高い山で周囲から遮断されていたことから、一部の住民がラテン語に似たロマンシュ(Romansch)という言語を話す特殊な地方である。
 ここにはダヴォス(Dovos)、サンモリッツ(St.Moritz)などという世界的に名を知られたリゾートがあるが、一五〇もあるという渓谷によって構成されているこの複雑な地形が、今日もなお、昔からの生活様式や慣習を根強く残している。スイスの中でももっとも保守性の強い地方であろう。
 有名なリゾートや主都のクール(Chur)などは別として、村々の建物は小さく、生活も貧しいが、それだけに訪れる人にとっては、山の生活を感じさせるところである。
(ブルーガイド海外版「スイス・オーストリア」・実業之日本社発行より)

  8月15日(土) 薄曇時々晴れ、後雷雨 Samedan-St.Moritz-Sils_Maria-Grevasalvas(Silser see)-Samedan
 9時10分サメダン発の列車で先ずSt.Moritz(サンモリッツ)へ行き、そこからバスに乗り換えてSils_Maria(シルス・マリア)へ行く。
 サンモリッツから6`でシルヴアプラナ。わずか6`でもうサンモリッツとはまったく違って、いかにもエンガディンの山村という姿をみせているこの村は、エリア峠への分岐点にもあたる。
シルス湖畔。高地の澄んだ空気が支配する静寂な佇まい写真  シルヴァプラナ湖が終わるとSilsersee(シルス湖)がはじまり、対岸にある村がSils_Maria(シルス・マリア)。ここはいかにもエンガディンの村というたたずまいをみせている。道路はシルス湖の北岸にそってマローヤまで続いている。
 エンガディンは長さ100kmにもおよぶ渓谷と、その周辺に聳える3000mから4000mの山によってなっているが、ヴァリスの谷やベルナー・オーバーラントの谷に比較すれば、荒々しさというものがなく、静かな佇まいを見せている。場所によっては幅が5qもある広いU字型の谷は、やわらかい陽の光と、美しい緑に包まれた山と湖の情景に満ちみちているところである。とくにサンモリッツからマローヤ峠付近までの上部エンガディンとよばれる地域は、小さな湖が連なり、左右に3000mの山々をひかえ、村も少なく、ひっそりとした牧歌的なところで、旅情を感じさせるに充分なところである。
 乗物はポストバスか乗用車しか使えない不便さはあるが、この17qにわたるイン川の最上流は、まさにエンガディンのハートともいえるような地域で、濃藍色の湖水、緑の林、牧草、湖と湖とを結ぶ流れ、そして白い頂の山々がつぎつぎに展開していく。
 Sils_Maria(シルス・マリア)の観光案内所に行ってGrevasalvas(グレヴァサルヴァス)の場所を尋ねる。そこはシルス・マリアから更にバスに乗り、Plaun_da_Lejというバス停で降りて1時間ほど山道を登った所だという。再びシルス・マリアのバス停へ行き、次のバスを待つ。時刻通りに来たポストバスの運転手がそこへ行くというので乗り込む。

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      Grevasalvas(グレヴァサルヴァス)
 シルス湖沿いにおよそ10分走った所にそのバス停留所があった。ここはSt.moritz(サンモリッツ)から南に13qのところである。Plaun_da_Lejでバスから降りて少し先に行くと一軒のレストランの脇に登山道の入口があり標識にはっきりと「Grevasalvas 40minute」と書かれていた。「やったぁ!」これで到着したも同様だ。

     ハイジの里
 ここは池田光雅著『スイス・アルプスひとり歩き術』の中で「シルス湖に面した北側の中腹にある小さな集落アルプ・グレヴァサルヴァスで映画『ハイジ』のロケが行われた」という記述を見つけて、それを頼りに日本を出る前に調べてみたが、どこのガイドブックにもその地名は見当たらなかった。
 回りに森林が茂る山道を一気に登った。標識には40分と書いてあったが、25分で登って来た。そこは斜面一面に牧草の生い茂ったところで、今来た道を振り返って見るとSilsersee(シルス湖)が見渡せて、その向うにP.Corvatsch(コルヴァッチュ3451m)やP.Bernina(ピッツ・ベルニナ4049m)が聳えている。
 草原の中ほどには木造家屋と石造りの家が20軒ほどの集落を造っていた。その集落の辻に立てられた標識には「Grevasalvas」と書かれていた。流石にここまで来れば観光客らしい人は一人も居ない。
 ここはスイスの女流作家ヨハンナ・シュピリ原作の映画『Heidi』(1977-1978年制作、監督:Tony_Flaadt/Joachim Hess、出演:Katia_Polletin)がMuottas_Muragl(標高2453m)などと共にサンモリッツ(標高1775m)付近で撮影されたロケ地の一つである。その中でもここは『ハイジの村(Dorfli、デルフリ村=Dorfliという地名はアルプスに沢山在り、小さな集落の意味)』に設定されている。原作ではマイエンフェルトのずっと上手の牧場Alm(アルム=オーストリアで高所放牧地をさす普通名詞)が舞台だが、マイエンフェルトでは標高600mにも満たない低地だからアルプスのイメージが合わない為にこの付近(平均標高1941m)が選ばれた(山小屋は200年前の本物)。
ハイジの里写真  その集落から少し上の方に登って振り返って見るとそこはまさしくハイジの世界である。あの赤いホッペと輝く瞳のハイジがその集落から走って来ても、ちっとも不思議じゃない。子供の頃に心に描いたハイジの世界を歩く事が出来る。そんな村である。
 天気はあまりパッとしなかったが、その集落の少し上から眼前に広がる草原の向うのSilsersee(シルス湖)とP.Corvatsch(コルヴァッチュ3451m)、ピッツ・ベルニナに向かってシャッターを切った。
 撮影を終ったら丁度昼だった。“ハイジの里”を見下ろす草原で持参の弁当を拡げて昼食とする。

     “ぼくの眼差しは山や谷を越えてどこまでもさまよい、
     よろこびに満ちあふれる思いでまたこちらへもどってくる。
     またぼくの眼差しはかなたの岩山やうららかな丘辺に、
     そして小川や花咲きみだれる美しい牧場にさまよう。

     そのあとぼくは銀色にかがやく湖に眼を転じる、
     すると心は晴れて苦しみも悲しみも消え失せてしまう。”(以下略)
   『リーギ・シャイデックのアルプスの歌』(プフィファー・ツー・ノイエック、喜多尾 道冬/訳)

野花(タイムの一種)写真  小さな集落から、白銀の峰々と青い湖、深い緑の森と明るいアルプを眺めていると、時間の経つのをすっかり忘れ、風景の中に自分が溶け込んでしまうようだ。
 下山も勿論そう長い時間は掛らなかった。Plaun_da_Lejのバス停で待つと程無く来たバスに乗り、サンモリッツへと向かう。サンモリッツの駅前でバスを降り、歩いて街へ行ってみる。中心部の標高は1830m程ある。駅は街はずれなので上り坂を800m程歩いてようやく中心部に着いた。
 サンモリッツはダヴォスと並んでグリゾンのリゾートとしてもっとも有名なところで、グリゾンのツーリストの首都ともよばれる世界的な観光地である。街は二つの地域に分かれている。スイスを代表する高級保養地だが、村の建物からホテルとレストランと商店をとったら、あとには何も残らないというほど、豪華な建物が建ち並んでいる。冬季オリンピックが2度開催され、ウィンター・スポーツの中心としても名高い。
 サンモリッツでは、先ず、本屋に寄ってこの付近の公式地図と絵葉書を買い、続いて観光案内所へ行って街の地図を貰う。サンモリッツの街は特に見るものはない。そのまま駅に向かい、列車でサメダンに帰って来た。夕方から雷が鳴り出し、雨が降ってきた。明日は、Muottas_Muragl(ムオッタス・ムラーユ)へ行く予定。

  8月16日(日)霧後晴れ Samedan-Muottas_Muragl-St.Moritz-Sils_Maria-Grevasalvas-Samedan
 今日の天気はどうか。ペンションの窓から街の方を覗いて見ると一面の霧の世界だった。これまでの経験から平地ならば朝方の霧は間もなく消えて快晴になる。特に盆地では底にだけ霧が淀み棚引くが、夜が明けると消える。しかし、ここは1705mの高地だから、霧なのか雲の中なのか『五里霧中』で分らない。判断に迷う。今日の行動をどうしようかと迷ってしまうが、例え曇りでもここに居ても仕方がない。山の上へ行けば雲の上に出て山々を見渡せるということもあり、それはそれで絵になる。
 とにかく、今日の予定通りムオッタス・ムラーユへ登ってみる事にする。晴れなければ山上のレストランで天気待ちをしよう。その間ボケッとして居るのも勿体ないので日記を書いて待っていよう。と、いう訳でノートを持って出かける。
 サメダンとPontresina(ポントレジーナ)間の駅、Punt_Muragl(プント・ムラーユ)に着いたら晴れてきた。晴天である。これは儲けた。プント・ムラーユからケーブルカーで12分でムオッタス・ムラーユに着いた。

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      Muottas_Muragl(ムオッタス・ムラーユ)
 Muottas_Muragl(ムオッタス・ムラーユ2453m)は、エンガディンの谷を遠くイタリア方面に向かって見通す位置にあって、まさにサンモリッツの展望台である。ここも映画『Heidi』のロケ地の一つだ。広く開けた谷の左手には、P.Corvatsch(コルヴァッチュ3451m)やピッツ・ベルニナ、右手にはP.Nair(ピッツ・ナイール3056m)が聳えている。
サンモリッツとベルニナ・アルプス写真  頂上近くの駅から振り返ると谷底にサンモリッツの街並みや、St.moritz_See(サンモリッツ湖)をはじめ、その奥のSilvaplana(シルヴァプラナ湖)、Silsersee(シルス湖)などの湖が鏡のように連なり、Oberengadin(オーバー・エンガディン)の針葉樹に囲まれた穏やかな山々の懐に抱かれて佇んでいて絵のように美しい。サメダンも眼下だ。私はそれらの山々に向って大きく深呼吸をした。澄んだ空気が胸一杯に膨らみ、気持ちが良い。
 30分ほどで撮影し終えたら後はもうなにもすることがない。このままで1日を終らせるのは勿体無い。昨日行ったグレヴァサルヴァスは天気がイマイチだったので不満足だ。そうだ、この足でもう一度行ってみよう。再度挑戦する事にして急いで下山した。
 下山してからどう行こうか。もう一度サメダンに帰ると時間が無駄になる。そこでここからサンモリッツへ行くバスがあることを思い出した。バス停に行って時刻表を見ると間も無くシルス・マリア行きのバスが来ることになっている。Plaun_da_Lejにはそこから又バスを乗り継げばよい。
 程なくバスが来た。そしてシルス・マリアに着いたが、だれも降りる風がない。運転手に尋ねたらこのままPlaun_da_Lejに行くという。儲けた。そのままそのバスに乗って12時頃Plaun_da_Lejに着く。

     再びハイジの里へ
グレヴァサルヴァス写真  太陽に照らされながらグレヴァサルヴァス目指して山道を登った。そして昨日撮影した位置から又同じよう再度撮影しなおした。同じと言っても昨日と今日では気分は全く違う。今日はシルス湖の向こうのコルヴァッチュも青空に映え、今度はバッチリだ。
 昨日、サンモリッツの本屋で買ったサンモリッツ地方の公式地図にはグレヴァサルヴァスまでは載っていなかった。それで帰り掛けにサメダン駅の売店で探したところシルス・マリア地方の公式地図VAL_BREGAGLIA.Carta_nazionale_della_Svizzera1276.1:25000(SF12.00)があったのでそれを買った。その地図に小さく“Grevasalvas”が載っていた。
 宿に帰ってから、スイス産のチーズとEpesse(スイス産の白ワイン)で乾杯! 至福のひと時である。日本から持ってきた最後のラーメンでささやかな祝宴を張った。(宿のご主人、レンジ拝借ありがとう)。
 夕方から又曇ってきた。南の窓から見えるピッツ・ベルニナに雲が掛かってきた。

  8月17日(月)快晴 Samedan-Berninapass-Tirano-Samedan
 雲一つない快晴。6時半、ピッツ・ベルニナに朝日が差して、頂上から茜色に染まってきた。今日もいい天気だ。今日はサメダン発8時45分の列車でポントレジーナに行き、そこから8時54分発のBernina_Expres(ベルリナ線)に乗り換えてイタリア領Tirano(ティラノ)へ行く。
氷河の奥に主峰ピッツ・ベルニナ写真  ポントレジーナを出発した列車がMorteratsch(モルテラッチュ)の駅を出てすぐ右手に滝を眺めながら、列車は急に勾配を上がり始める。やがて右手の氷河の奥に主峰ピッツ・ベルニナが聳えている。湖畔の駅、Ospizio_Bernina(オスピツィオ・ベルリナ2253m)は、登山鉄道を別にした普通の鉄道ルートではヨーロッパで最も高いところにある。

オープン・ループ写真  列車は車輪をきしませながら谷間をゆっくりと走る。Brusio(ブラジオ)とCampascio(カンパスチオ)の間の珍しいオープン・ループが素晴らしい。窓から身を乗り出して撮影するがここからでは上手く撮れなかった。列車から降りて下から橋脚の上を走る列車を撮影したいが予定していなかったので時間に余裕がない。残念。
 車窓からは三つの氷河が間近に眺められ、その景観は氷河特急路線をしのぐほど。長いトンネルはほとんど無しにアルプスを越えている。しかも峠と終点ティラノの標高差が1828mもあるので、草地と潅木のアルプ地帯から南国ムードあふれる湖畔まで、車窓は多彩な変化を見せる。それにドイツ語圏からイタリア語圏へ走り抜けるので、街並みがすっかり変わるのも面白い。
 イタリアに入るとブドウ畑も見えてきて、驚くことに列車は路面電車のように道路の上を走ったりしながら終点に到着する。

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      Tirano(ティラノ)
木の駅名板写真  10時53分、Tirano(ティラノ)着。着いたホームの壁にカタカナで『ティラノ』と書いた木の駅名板が張ってある。姉妹鉄道の縁組をしている箱根登山鉄道から寄贈されたものである。
 駅には入国審査官の部屋はあるのだが、パスポート・チェックもなし。部屋に行ってスタンプを押してくれと申し出たら、「総てコンピューターに入っているからスタンプは押さない」と断られた。
 駅前を少しスナップした後、折り返しのティラノ発11時半の列車で帰ることにする。車輌編成は意外に少なく、行きは3輌編成、帰りは5輌編成。一等の客車は二つあるが、行きが老夫婦だけ、帰りは私だけ。行きは良い天気だったが、帰りには雲が出てきた。
ティラノ駅のホーム写真  ベルリナ線の旅は正直言って氷河特急の旅よりは面白くない。当たりはずれからいうと、まぁはずれに近い感じである。何がはずれか。先ずスケールが小さい。見せ場が大したことない。閑なら行ってみたら…程度のどうでもよい路線である。
 13時42分、ポントレジーナ着。ここで乗り換えてサメダンには14時05分に着いた。駅からゆっくりと町を通り、宿へと向かう。途中のスーパーで缶ビールを一本買う。一時にわか雨が降ってきた。
 宿に帰って早速缶ビールを開ける。その後、明日の出発に備えて荷物の整理、今日の整理、ペンションの支払いを済ませた後、風呂に入ってからワインを一杯。先ほどの雨は夕方から雷雨に変わった。ピッツ・ベルニナも霞んできた。8時頃床に着く。

  8月18日(火)曇り Samedan-Locarno
 翌日のスケジュールは前日の夜に作り作戦を練る。その先までは手が回らない。風の吹くまま気の向くまま、明日の予定は歩きながら考える。多少泥縄的だが仕方がない。
サンモリッツ-ロカルノ  今日はサメダンを発ってThusis(トゥズィス)からバスでPasso_di_S.Bernardino(サン・ベルナールディノ峠2065m)の下をくり貫いたトンネルを通ってLocarno(ロカルノ)へ行く。昨夜今日のスケジュールを調べたところ、サメダン発8時13分以外の列車で行くと、トゥズィスからBellinzona(ベリンツォーナ)に行くバスは座席予約制になっている。本当はこんなに早い列車で行かなくてもゆっくりでもいいのだが、他のバスは予約となれば面倒なのでなんとかこの列車で行くことにする。荷物は途中乗換が多いので、ライゼゲペックにする。でも朝食が7時半からなので一寸厳しい。朝食を摂ってから荷物を持って駅に行き、ライゼゲペックの手続をするのでは大変だ。それで考えた末、6時過ぎに一度駅へ荷物を出しに行き、帰って来てから朝食ということにした。
 昨夜は雨が降っていた。今朝起きると未だ少し降っている。駅に荷物を出して朝食。予定通り8時13分サメダン発の列車に乗る。先日、ツェルマットから乗って来た氷河特急の路線を逆に進む。途中、有名なラントヴァッサー橋を撮るつもりだったが、曇っているために光量不足で暗くて写せなかった。行くときには写したのだが、列車のガラス窓が開かず、ガラス越しだったから駄目だろう。
 途中の信号所で行き交う列車を待つために多少列車が遅れた。乗り換えのトゥズィスで上手くバスに接続するだろうか。昨日サメダンからティラノに行く時も列車が遅れたが、乗換駅のポントレジーナでは列車が待っていてくれた。今日は相手がバスだからどうなるのか分からない。
 Thusis(トゥズィス)に着き、急いで駅前のバス停へ行くと、バスは待っていてくれた。さすがにこの路線には日本人は乗っていない。しかし、後の席のドイツ人らしい男1人、女2人が大きな声でのべつ喋くっているのでうるさくて頭が痛くなった。席を移すのにも満員で他に空席はない。
 トゥズィスを出発したバスは、ライン川の源流のひとつであるHinterrhein(ヒンターライン)に沿って走り、すぐVia_Mala(ヴィア・マーラ)の難所に差し掛かる。私達が乗ったポストバスは見通しの悪いカーブに差し掛かると、ラッパを模した三連音のクラクションを鳴らして、対向車に注意を呼びかける。トンネルを抜けてやがてZillis(ツィリス)に到着。やや平坦になったRheinwald(ラインヴァルト)の谷の中心Splugen(シュプリューゲン)を経て谷の最奥、ヒンターラインの集落から6.6qのトンネルを通り、山のリゾートS.Bernardino(サン・ベルナールディノ1608m)に着く。雄大な風景が展開されるが、曇っているのであまり冴えない。ドイツ人たちはそこで降りた。Giorrioでは近くの教会で鐘が鳴るとまた葬列が出てきた。結婚式ならいいのに…。
 幾重ものヘアピンカーブを下ってMesocco(メゾッコ)の村を通り、Moesa(モエサ)川に沿ってブドウ畑の間を下り、ゴッタルド街道と合流して、ティチーノ州の州都ベリンツォーナへ至る。

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      Locarno(ロカルノ)
 Locarno(ロカルノ)には12時半あっさりと到着。ここは標高が205mの湖の畔なので南国めいて蒸し暑い。これまでのツェルマットやサメダンのように涼しくカラッとした空気の所から来ると少し堪える。どこかイタリア的な雰囲気である。(用心しなくちゃ)。陽も差してきた。駅前広場では昨日まで「ロカルノ国際映画祭」が催されていたらしく、その後かたづけをしていた。
 駅から下って“感”で一発で宿を見付けた。小さな町だが、あらかじめ地図を見て頭に入れて置いたとはいえ、一度も他人に尋ねないで見付けたのは珍しい。
マッジョーレ湖畔写真  ホテルはマッジョーレ湖畔の船着場に近い7階建ての白い大理石のビルで、中も感じがいい。床も白い総大理石。入口と出口が90度に変わる2、3人乗りの小さなエレベーターがあるので、これまでと違って階段の昇り降りがなくて楽である。部屋は日本のビジネスホテル形式で、ベッドは一つだが、洗面所、トイレ、シャワー付き。テレビもある。部屋の窓を開けるとマッジョーレ湖畔の船着場が見える。
 イタリアとの国境に細長くまたがるLago_Maggiore(マッジョーレ湖)。その北側の入江に、白壁にオレンジ色の屋根の南欧風の家並みをのぞかせるロカルノは、温暖な気候と明るい陽射しに恵まれ、湖畔に面してホテルが並び、湖にそった素晴らしい散歩道を持った美しい陽気なリゾートだ。マジョーレ湖は数あるイタリアの湖のうちでも最も美しい湖といわれている。湖は北から南へと細長く65kmに渡って伸び、北端はスイス領。湖の幅が一番広いところで5km。水深は最も深いところで372mである。ここはスイスの地方としては、どちらかといえば地味な地域といえる。地形的な関係からもスイスの南部というより、北イタリアの奥座敷といった感じすらする。
 街を少し流してワインを買ってから駅へ行ってみたが、未だ荷物は着いていなかった。家に手紙を書くつもりだったが、荷物が着いていないので着いてからにする。予定のあてが外れた。荷物は6時頃着くという。それでも4時過ぎに再度行ってみると荷物が着いていた。早速手紙を書いて郵便局に出しに行く。
 帰国まで後僅かになった。明日は天気が良ければ、Bellinzona(ベリンツォーナ)の城へ行く。天気が悪ければ、Como(コモ)湖へ行って見るつもりだ。一転俄かに掻き曇り、雷が鳴ってきた。

  8月19日(水)晴れ Locarno-Bellinzona-Locarno
 昨日の激しい雷雨も何処へやら、今朝は快晴で清々しい朝を迎えた。朝食は7時から10時まで、テラス付きの食堂で食べる。今朝は一番乗りでテラスで食べた。これまでのホテルではバイキング形式だったが、ここでは一人前揃えてテーブルに運んできてくれる。
 ここからは湖畔の眺めが最高に良い。ジヨギングしている人もいる。丁度湖畔にも朝日が差し込んできて、最高に光が美しい。そんな中で食事をしていると、雀が2羽テーブルの上に飛んで来て、私のコーヒーカップに止った。さらにパン皿の上に乗り、パン屑をついばみ始めた。全然人を恐れない。むしろ私の方が驚いた。きっと毎朝客がパン屑か何か、餌を与えているのだろう。
 今日はベリンツォーナへ行くことにする。列車に乗り込んだ頃から少し雲が多くなってきた。女心と山の天気は分らない。

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      Bellinzona(ベリンツォーナ)
 ベリンツォーナに着いたら曇り。それでも西の空は青空だから晴れるだろう。Bellinzona(ベリンツォーナ)はスイスの南部、イタリアとの国境に近いルガノの北約20キロのところにある中世的な町である。人口は1万8千人余りで、ルガノよりずっと規模が小さいもののティチーノ州の州都になっている。ベリンツォーナ駅からは、口カルノへの支線が出ているので利用客が多い。
 駅前でガイドブックに書いてあった4番のバスを待つ。どこへ行くのか分からなかったが、時刻表の看板を見るとArtore行きとなっている。多分これでいいのだろう。念の為に近くの商店で訊ねたらこのバスで良いという。バスの便数は少ない。ようやく1時間後に来たバスに乗り、Artoreへ向かう。客は私一人。バスは山道を九十九折に登って行く。そして終点で降ろされた。バスの運転手の示す方向へ更に登って行く。標識は見当たらず、不安になってくる。空は晴れてきた。強い陽射しの中、30分ほど歩いてようやく山上の城に辿り着いたが、目的の城ではなかった。
カステロ・ディ・モンテべッロ城写真  古く中世時代から中部ヨーロッパからイタリアに通じる街道の要衝として発達したべリンツォーナは、町の中に三つの城がある。それぞれ町に望む三つの山の山頂にその姿を見せている。下からCastel_Grande(カステロ・グランデ)、中がCastello_di_Montebelo(カステロ・ディ・モンテべッロ)、そして上がCastello_di_Sasso_Corbaro(カステロ・デ・サッソ・コルバロ)と段状に構築されている。建物は、いずれも実戦的なもので、この地方が、たびたび戦乱に巻きこまれた歴史を物語っており、古戦場として有名である。私の目的としている城は中間のカステロ・ディ・モンテべッロ城だ。
 陽が陰らない内にと焦りながら、今来た山道をひとり、とことこと下る。ようやく目指す城、カステロ・ディ・モンテべッロが眼の前に現われた。空も晴れている。
カステロ・ディ・モンテべッロ城写真  スイス南部はイタリア的な影響が強い。城も例外でなく、イタリア風築城が強く現れている。とにかく最良のアングルを探して差し当たり何枚か写す。しかし、今いちアングルがしっくりしない。一段下がったブドウ畑の中や、草が背丈ほど生い茂る中を掻き分けてアングルを探すが良い場所が見付からない。草の刺に引っ掻かれた。30分ほど探すが、前方に立ち木が邪魔をして遂に見つけることが出来なかった。まぁ、やるだけやったのだから諦めよう。
 11時半撮影完了。これでスイスで予定した被写体は全部写し終えた。ほのかな期待を持って終る事が出来た。明日はこれまでの疲れを癒すつもりで、カメラは1台だけ肩に掛けてのんびりとコモ湖の観光旅行に行くことにしよう。
跳ね橋(カステロ・ディ・モンテべッロ城)写真  これらの城はいずれも公開されている。確か午前中の城の公開時間が12時までとなっていたと思う。ここから急いで降りてとにかく時間までに城の中に入ってしまおう。
 城の中にはパラパラと観光客がいた。博物館の入場料がSF4.00だったが、内容からいって高過ぎる。城内を一通り見終わったところで日陰で昼食にした。
 下山してから駅から700mほどの所にある市庁舎に行く。中庭に面したアーチ式の回廊はいかにもイタリア的だ。一階にある観光案内所に寄って街の地図を貰らい、その後ひと通り街を見て、12時38分ベリンツォーナ発の列車でロカルノに帰って来た。
ヴィスコンティ城写真  その足でヴィスコンティ家の城館だった10世紀創建のCastello_Visconteo(ヴィスコンティ城)を写し、湖畔を散策しながらホテルに帰って来た。昨日の夕方にも城の前まで行ったのだが、折悪しく雷雨に遭い、ほうほうの態で逃げ帰って来た。石造りの堅牢な城は考古学博物館として一般に公開されている。
 スイスの南部はイタリア的な影響が強い。行き交う人々もイタリア人の顔立ちをしており、使用する言語もイタリイア語だ。街中の商店街の飾り付けもイタリア的センスで大胆奇抜である。太陽の国南国を思わせるような日射しで、これまでの高地の涼しさ爽やかさとは違って暑さが堪える。何から何まですべてイタリア的なのでここは本当にスイスなのだろうかと、ふと考えてしまう。
 商店街は一部アーケードになっていて、観光客などで賑わっている。温暖な気候、陽気で気さくな人々。イタリアが近いせいか、ピザパイの店が多い。その中でテイクアウトの店を見付けたので、ハムのピザパイを注文。また近くの店で小魚の酢漬けを少々買って帰った。今日は撮影完了を祝してこれらの食品と高級ワイン、高級チーズで一人でささやかな撮影完了を祝った。ここでは「メルロー」という赤ワインが美味い。心地よい満足感が全身をみなぎらせた。
 最後は日本から持ってきたインスタント味噌汁で乾杯して締めた。買ってきたハムのピザパイは少々塩が効いていて余り美味しくなかった。“ピザはやっぱりナポリに限る”。
 さぁ、これから明日のスケジュール作りと下調べ、それと洗濯でもしようか。今日はよぅ歩いた(6.3q)。疲れた。

  8月20日(木)晴れ、時々曇り Locarno-Lago_di_Como-Locarno
 昨日も夕方から夜半に掛けて激しく雷が鳴っていた。昼間はあんなに天気が良かったのに…。地形的なものがそうさせるのであろうか。
 今日はコモ湖へチラッと見物に行って来る。撮影が目的でないから気軽なものである。天気はまぁまぁ、いずれにしても雨さえ降らなければどうでもいい。
ロカルノ-コモ  ベリンツォーナのひとつ手前の駅、Giubiascoで乗り換えると列車はぐんぐんとスピードを上げて山の中腹に設けられた線路をイタリアへと向かう。右側は深い谷となって、さっきロカルノから通って来た所が盆地のようになり、薄雲がたなびいている。
 べリンツォーナから30分程で南国の観光地Lugano(ルガノ)に到着する。左側に大きな街とその先にルガノ湖を控えた観光郁市である。人口は約3万人。ティチーノ州で一番大きな都市である。複雑に入り組んだ形のルガノ湖の入江のようになった部分に拓けている。車窓から見ると湖畔から山に向って住宅が立ち並んでいる。坂の街のようであるが中々良さそうだ。一度降りてみたいものだが、そんな時間がない。
 気候は一年中温暖そのもので,年間平均気温が12度とスイスの中では格別気温に恵まれた別人地、ティチーノを代表するリゾートである。
 Chiassoから先はイタリア領だ。「スイスパス」はここまでしか使えない。その先は新たに乗車券を買って乗り継がなければならないが、どうやって切符を手に入れたらよいのだろうか。回って来た列車の車掌に尋ねると、「自分はスイスの乗務員だからイタリア領の切符は発行出来ない。イタリアの車掌がやってくれる」という。
 Chiassoに着いた。国境といいながら他のスイス国内と余り変わらない。変わった事といえば、官服を着た人が3、4人居るのと、機関車を取り変えているようなのが見えるだけだ。乗り込んで来たイタリアの車掌を捉まえて切符のことを訊ねると、「時間があるから駅の窓口で買って来い」という。
 急いで駅の中に入り切符売り場の窓口を探す。持っていた3000円を両替して貰い、切符を買ったら、なんとお釣りはスイスのお金が還って来た(Chiasso-Como往復=L4000)(為替レート100L≒8.43円)。本当はイタリアのリラが欲しかったのに…。

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      Como(コモ)
 Chiassoからはあっという間にComo(コモ)に着いた。だがこの先どう行動してよいのか分からない。ガイドブックをコピーして持ってきたが、地図が載っていないし、説明がイマイチ納得出来ない。インフォメーションを探す。ようやく探し当てたインフォメーションも9時から開くことになっており、9時を少し回ったというのに一向に開く気配がない。通りかかった警察官に聞いたら、ウーンというような顔をしてもう少し待ってみろという。
 Como(コモ)の人口は約8800人。コモ湖の南西に位置しているモダンな町。主な産業は絹織物。伝統的家内工業として発達してきたが、現在では近代的工場で生産されている。鉄道の駅は2つあり、サン・ジョバニ駅(中央駅)はミラノやスイス方面と結び、ノール・ミラノ駅はサロンノ経由でミラノと結んでいる。
 ただ待っているのも時間が勿体無い。駅の構内や駅前を見て廻る。ヒョッと見ると、駅前のバス停に今日コモ湖畔から船で行く予定のBellagio(ベラージオ)行きのバスを見付けた。急いで乗り込もうとしたら「チケット」と言われた。「どうするの」と訊くと、「あそこで買って来い」と言う。どう見てもチケット売場には見えない。半信半疑で行ってみると本当に売っている。その時、ハタと気が付くと、リラを持っていなかった。また急いで駅へ引き返して両替に行こうとしたら、もうバスは行ってしまって居なかったので両替は止めた。
 そのまま駅前正面の街らしい方向へ真っ直ぐ歩き出すとDuomo(ドゥオモ)広場に出た。コモ市を代表するDuomo(ドゥオモ)はルネッサンスの影響をうけたゴシック・ロンバルディア式といわれるもので、大理石造り。14世紀のものといわれている。
 ドゥオモの突き当たりを左に曲がったら、市の中心であるpiaZZa_Cavour(カーブル広場)に出た。賑やかなこの広場は,湖に向かって大きく開け、カフェやホテルが集まっている。そこでBellagio(ベラージオ)行きの船着場を探したら、10:30分に出航と言う。それまで時間があるので付近をぶらつく。
 近くに観光案内所がありそうな気がする。丁度その時、駅で出会った日本人女性二人組とまた会う。その女性らが「あそこに案内所がありますよ」と教えられたので行ってコモとコモ湖遊覧の地図、それに船の時刻表を貰ってきた。

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      Lago_di_Como(コモ湖)
 Lago_di_Como(コモ湖)の総延長は50km。幅は大きなところで4.5q、狭い部分で650m、深さは最も深いところで410m。湖の遊覧ルートは湖の右岸コモ〜Torno(トルノ)〜Nesso(ネッソ)〜Bellagio(ベラージオ)。左岸のCadenabbia(カデナービア)〜Tremezzo(トレメッツォ)〜Ospedaletto(オスペダレット)〜Argegno(アルジェーニョ)〜Cernobbio(セルノビーオ)を経て,再びコモに戻るコースが一般的。
カルロッタ邸城写真  コモ10:30発Bellagio(ベラージオ)行きの船に乗る。女性たちはひとつ目の船着場で「予定を変更する」と言って船を降りて行った。船の中で、地図と時刻表を調べると、始めは真っ直ぐベラージオへ行くつもりだったが、途中のTremezzo(トレメッツォ)に良いところがあると言うことなのでここで下船。歩いて10分ほどのカルロッタ邸を見る。まぁまぁのところで、庭園は美しいが、あえて船を降りて見るほどの所ではなかった。
 再び船着場に戻る。13:35分発のベラージオ行きの船まで少々時間があるのでそこで昼食を摂って待つことにする。コモで船に乗る時に乗車券を係りの人が千切っていた。その乗船券はベラージオまで買ったのだが、途中下船したので、この先はどうなるのだろうか。
コモ湖の真珠。湖畔には高級別荘が建つ写真  トレメッツォで船に乗る時、矢張り捉まった。ベラージオまでの料金L4.500を改めて支払わされた。結局二重払いさせられたことになる。
 13:45分、Bellagio(ベラージオ)に着いたが、どう歩いて良いのか分からない。眺めが良く、その風光明媚さと温暖な気候から「コモ湖の真珠」と呼ばれているとガイドブックに書いてある。ここから見たところではそうは思えない。とりあえず眺めの良いところを探して正面の商店街の間の狭い急な坂道を登る。と、町の中心らしき繁華街に出たが、辺りは建物に囲まれて湖側を見る適当な場所は見当たらない。スイスの山や湖を見た後ではコモはどこを見ても新鮮味が感じられない。
 猛烈に暑いので、街角でアイスクリームを買い、それを舐めながら街を流し、ビューポイントを探すがなかなか見当たらない。そこは諦めて湖畔に戻り、コモ行きのバス停を探すが中々見付からない。ようやく見つけたバス停はバス停らしくなく、建物の壁に時刻表が一つ張ってあるだけ。そこで待っている人にチケットのことを訊くと、向こうのタバッキー(煙草屋さん)で買えという。14:36発のバスの発車時間までは、5分あるという。そのタバッキーが見付からない。ようやく100m程先の路地で見付けて買って帰って来ると、バスが今行ったばかりだった。残念。時刻表を見ると、次は1時間ほど後だ。仕方なく湖畔のベンチに腰を降ろして湖のかなたを所在無く眺めて時間の来るのを待つ。
コモ湖  15:36発の10分前、今度は乗り遅れないぞ!と、ばかりに少々早めにバス停に向かう。と、丁度その時バスが来たのが見えた。乗り遅れては大変。大急ぎで走ってバス停へ向う。すると、今、乗ろうとした客とバスの運転手が2、3言言葉を交わすと客は落胆した様子。これは変だなと思うと、運転手はバスのドアに鍵を掛けてどこかへ行ってしまった。
 発車時間になっても運転手は現れない。蒸し暑い中、イライラして待つ。待つしかどうしようもない。汗が出てくる。一体どうなっているんだ。言葉が分からないのでどうしようもない。発車時刻より30分程あとに悠々と運転手が現れ、客が乗り込んだ。私も続いて乗った。
 バスは湖畔の崖の中腹の狭い道を対向車と接触しそうになりながらコモを目指して走り出した。意外に時間が掛り、1時間一寸でようやくコモに着いた。
 湖に面したマテオッティ広場からトリエステ通りを行くと、プリュナーテ山(海抜713m)に登るケーブルカー(Funicolare=フニクラーレ往復L7.200)がある。その近くで降ろして貰い、更にそこから少し歩いてケーブルカー乗場に向かった。時間はすでに5時を過ぎており、太陽も西に傾きかけている。ここでもタイミングが悪くケーブルカーは行ったばかり、どうも今日は付いていない。
 山の頂上に着いたが、立木や建物に遮られて湖は全然見えない。これは詐欺だ。おまけにここまで登ってくる道路があるらしく自家用車やバスまで来ている。早々に下山、駅に向かう。
 湖畔沿いに駅へ向かって歩き、ドゥオモの近くからドゥオモ広場へ。そこから右に90度直角に曲がって駅へ向かう。私の感よりも路地を一本左に取ったが、いずれにしても駅に着くだろう。途中、喉が渇いたので、缶ビールを買ったが、これがはずれ。温い上に高い。
 ようやく駅に到着。ここでピザを買ってコモ駅19:05分発の列車に乗り込む。途中、夕陽に映えるルガノの街は美しかった。ロカルノには、9時に着いた。駅近くのスーパーでお土産用にと気に入っていたチーズを4袋(SF7.80)を買ってからホテルに帰る。このチーズはこの地方独特の物らしく、ホテルの食事にいつも付いており、美味しかった。街で売っているなら買って帰りたいと思っていた。一口で食べれそうなぐらい小さな黄色い紙に包まれており、袋の端をつまんで両側に二つに開くと白くて柔らかい固形のチーズが現れる。ワイフが好みそうだ。
 ホテルに帰りシャワーを浴びた後、先ほど買ってきたチーズとワインでくつろぐ。その後、荷物を纏めたり、洗濯をしたりして寝たのは11時だった。

  8月21日(金)曇り、後雨 Locarno-Bellinzona-Zurich-Kloten
       明日は帰国だ!
 永かったスイスの旅も明日で終りだ。天気はあまり良くないが移動日なので気にならない。ロカルノを9:59発の列車でチューリヒへと向かう。べリンツォーナから列車は車内放送もなくトンネルをいくつも抜け、山間部の村々を連ねてノンストップで突っ走る。美しい山間部の風景の移り変わりが息をも付かせない。スイスに来たらワインを片手に流れる車窓の風景を見ながら鉄道の旅を楽しまない手はない。
べリンツォーナ-チューリヒ  べリンツォーナを出発した列車は1時間程のGoschenen(ゲシェネン)までは、Valle_Leventi11a(レベンティナ渓谷)沿いに進んでいく。この路線は車窓の風景が極めて変化に富んでいる。長いGotthard_Tunnel(ザンクト・ゴッタルド・トンネル)をはさんで、湖と谷間が左右に展開する光景は素晴らしく、居眠りなどしていられない。TEEも2本あり、Gottardo(ゴッタルド)号はバーゼルからチューリヒを経由して、Roland(ローラント)号はバーゼルからルツェツルンを経由して、いずれもイタリアのMilano(ミラノ)へ向かっている。急行列車も数多く走っている。
 北ヨーロッパからイタリアへ最短距離で抜ける道路上にあるPasso_del_St.Gottardo(ザンクト・ゴッタルド峠2108m)は,この路線上にあり,実に14世紀から旅人によって踏み続けられてきた由緒ある峠。1880年にこの峠に全長15.2kmのトンネルが開通し、2年後に鉄道が通じたのは正に歴史的な快挙であった。
 Airolo(アイロロ)から列車は氷河特急が通るAndermatt(アンデルマット)の下を貫く有名なザンクト・ゴッタルド・トンネルに入る。列車は長いトンネルを抜けてザンクト・ゴッタルド峠を越えた。
 トンネルを抜けたゲシェネンではドライブの車が列車に積み込まれる情景など見られて珍しい。トンネルを抜けると、駅名もドイツ風に変わっている。
 更に何度かトンネルを潜ったり出たりして、抜けた所に小高い山の上の教会を中心に石造りの家の集落があった。美しく魅力的な風景だ。列車を降りて行って見たい村のひとつだ。多分Wassen(ヴァセン928m)の村だろう。列車はその集落へ向かってループ状に山を下って行く。
 Altdorf(アルトドルフ)からBrunnen(ブルンネン)までの車窓からは,対岸にシラー岩が望見される。ここがスイス独立の英雄ウィルへルム・テルが悪代官ゲスラーの魔手をのがれ、嵐の中を小舟でたどり着いたといわれる地点。
 べリンツォーナを出発した列車は、Biasca、Faido、Airolo、Goschenen、Erstfeld、Fluelen、Brunnenの各駅をノンストップで通過してArth_Goldau(アルト・ゴルダウ)で初めて停まった。ここはバーゼル行きの列車の分岐点であり、Rigi(リギ山1797.5m)へ登る登山鉄道への乗り換え駅でもある。
 アルト・ゴルダウを出た列車はやがて湖畔を通り、山あり湖ありで今回の旅の最後の仕上げには最高のシチュエーションである。風の吹くまま気の向くまま、明日の予定は歩きながら考える。旅はヤッパリひとりで来るのに限る。旅にはマイペースが一番大切な条件だから…。連れが居てはこの雰囲気は味わう事は出来ない。“至福の時”とはこういうことを言うのではないだろうか。
 絵のような風景が展開して長旅を飽きさせないうちにZug、Thalwilを通過した列車は30分弱でZurich(チューリヒ)に到着した。乗り換えてKloten(クローテン)にあるチューリヒ国際空港へ向かう。空港は広く、ホテルへのシャトルバス乗り場を探すのが大変だった。シャトルバス乗り場で1時間ほど待ったが、今夜泊るホテルのバスが来ない。そばの案内板を見たらこの時間は“Request(リクエスト=要求・注文)”と書いてあった。もう一度空港内に戻り、明日の登場確認をした上で売店で食品を買って再びシャトルバス乗場に向かう。専用電話で連絡してようやくホテルのシャトルバスに来てもらった。
 クローテンのホテルにはようやく4時頃到着。空港から10分も掛らないところにあった。チェックイン。チューリッヒ空港に着いたのは1時過ぎなので空港で3時間近くもうろうろしていた事になる。
 外は雨。今日は午後からチューリッヒの街でも見物するつもりだったが、この雨では行っても具合が悪い。面倒なのでチューリッヒ観光は諦める。
 永かった今回の旅が今すべて終わろうとしている。なによりも良かったのはこの国が安全な国であるという事であった。安心して旅が出来る国ということがこれほど尊いものであると言う事を改めて認識した。どこの国でもそうであると良いのだが…。
 明日にはスイスを離れる。その前にステファンにお礼と無事チューリヒに到着した事を連絡したい。ホテルの窓から外を見るとスイスコムがあった。とりあえずそこへ行ってみた。すると女性の事務員がここからは電話は出来ない。近くのPTT(郵便局)へ行けという。
 PTTはほんのひとまたぎの処にあった。窓口で電話をしたいと申し込むとテレフォンカードを買わされた。それで外にあるボックスから掛れと言う。
 ボックスに入ってからどうやって掛けたら良いのやら分からないが、とにかく挑戦してみた。カードを差し込むがどうも上手く噛み合わない。何度かやってみてようやくOK。早速プッシュボタンを押す。コールが鳴っている。出て来たのはステファンではなく留守番電話であった。止むを得ず「My_name_is_○○. Thank_you_very_much_and_Good-by」とメッセージを入れてホテルに帰ってきた。果たして私の気持ちが先方に通じたのであろうか。電話ボックスを出ると外は雨だった。久しぶりの雨である。
 ホテルに戻ってからまた最後の荷物整理、シャワーなどで6時を過ぎた。その後洗濯や日記を書いている内に9時近くになったので、少し早いが寝た。外では激しく雨が降っている。こんな雨は久し振りなのでなんだか日本に居るみたいでかえってくつろいだ。

  8月22日(土)曇り Zurich10:30-12:10Amstrdam13:05-

  8月23日(日) -06:40 新千歳
 無事帰国。                 - 終 -

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    ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇

デザレー サン・サフォラン エペス フェシー ヨハニスベルク

ドール ドール ドール ドール ドール

   ☆スイスワイン  スイスでは、山岳地を除き多くの州でワインが造られている。スイスの有名なワイン産地は、ジュネーヴの町を望むレマン湖北岸と、ローヌ川渓谷であり、更に北イタリアと国境を接するティチーノ州べリンツォーナを中心とする地方である。スイスでは、全生産量の70%ほどがレマン湖岸の三つの州で産出する。そしてワイン生産量の80%が白ワインである。この大部分が国内で消費されてしまい、近隣国からも輸入しているので日本には入っていない。
 ローヌ川渓谷ではエーグル、シオン、などを中心に良酒を産出する。ティチーノ州はメルロー種を使った赤ワインが多く、北イタリアのワインに似ている。

 ●白ワイン
  ローザンヌ近郊・Lavaux(ラボー)地区
 Dezaley(デザレー)まあまあの味。/
 St.Saphorin(サン・サフォラン)辛口。やや酸味強く、癖あり。/
 Epess(エペス)美味い。私の口に合っている。/
 Rivaz(リヴァ)/

  レマン湖畔ラ・コート地区(モルジー付近)
 Fechy(フェシー)まあ美味い。/
 Mont(モン)

  シャブレー地区(モントルーからエーグル)
 Villeneuve(ヴィルヌーヴ)/Yvorne(イボルヌ)/Aigle(エーグル)
 Johannisberg(ヨハニスベルク)辛口。酸味強く、やや癖あり。

 ●赤ワイン
  ヴァリス州(ツェルマット)
 Dole(ドール)

 ハイデ(ローヌ谷からマッター谷に入ったフィスバーテルミネン周辺)
 Fendant(ファンダン)

  サンモリッツ
 ヴェルトゥリナー

  クール地方
 マイエンフェルダー

  テルン(イタリア語圏)
 Merlot(メルロー)

 他にChasselas(シャスラ)という種類のぶどうから出来た白ワインなどが知られている。

  チューリッヒ
 ヴィダートゥア

旅、それは日常からの脱却であると思う。つまり、非日常の世界にあるということである。
従って、旅にはマイペースが一番大切な条件であることを痛感する。

ながたびOKまんが

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