★エーゲ海とトルコの思い出★

エーゲ海に浮かぶ白い宝石、ミコノス島/写真転載不可・なかむらみちお>

エーゲ海は抜けるような空がいい。
何処までも青い空と蒼い海。限りなく白い雲と白い街。
時間は悠久の昔から停止しているかのようにさえ思える。

どこを探しても見当たらない。先が見えてきた今、過去の旅を記して残して置きたいと思い、当時の旅日記を探してみたがどこにも見当たらない。
やむおえず思い出すままに記してみることにする。

「ギリシャへ行きたいんですが、安い航空券はありませんか?」。格安航空券を取り扱う東京の取扱店を何軒か当たってみた。
その中で一番安かったある会員制の取扱店からエールフランス航空の格安航空券を手に入れた。

1997年7月16日から8月21日までギリシァとエーゲ海の島々、トルコを旅してきました。

目  次

ギリシャ
サントリーニ島… フィラ  アクロティリ  イア 

ミコノス島… デロス島  スーパー・パラダイス・ビーチ 

アテネ  オリンピア  マラトン 

トルコ… カッパドキア  イスタンブール 

       スケジュール

  1997年
7月16日(水) 新千歳 14:30(JL562)-16:00 成田国際空港 21:55-(AF273)
  17日(木) 04:25 Paris(C.D.Gaulle)09:45(AF2556)−14:00 Athens(バス・地下鉄)-Pireas(船)-
  18日(金) Santorini(Fira)
  19日(土) Fira(バス)-Akrotiri(バス)-Fira
  20日(日) Fira
  21日(月) Fira(バス)-Oia(バス)-Fira
  22日(火) Fira
  23日(水) Fira
  24日(木) Fira
  25日(金) Fira
  26日(土) Fira
  27日(日) Fira
  28日(月) Fira(バス)-Karterados(バス)-Fira
  29日(火) Santorini(船)-Mykonos
  30日(水) Mykonos
  31日(木) Mykonos(船)-Dilos(船)-Mykonos
8月1日(金) Mykonos
  2日(土) Mykonos
  3日(日) Mykonos(バス・船)-Super Paradise Beach(船・バス)-Mykonos
  4日(月) Mykonos
  5日(火) Mykonos(船)-Pireas(地下鉄)-Athens
  6日(水) Athens
  7日(木) Athens(バス)-Olympia
  8日(金) Olympia(列車)-Athens
  9日(土) Athens-フィロバボスの丘(歩)-Athens
  10日(日) Athens(歩)-アテネ競技場(歩)-Athens
  11日(月) Athens(バス)-Marathon(バス)-Athens
  12日(火) Athens ll:30(TK848)-12:50 Istanbul 14:00(TK126)-15:00 Ankara(バス・タクシー)-Cappadocia
  13日(水) Goreme
  14日(木) Goreme 17:45(マイクロバス)-Nevsehir 18:30(バス)-Ankara 24:00(バス)-6:00 Istanbul
  15日(金) Istanbul
  16日(土) Istanbul(バス)-Rumerihisari(バス)-Istanbul
  17日(日) Istanbul
  18日(月) Istanbul
  19日(火) Istanbul 15:20(AF2621)-17:55 Paris(C.D.Gaulle)23:55(AF274)-
  20日(水) 18:40 成田国際空港
  21日(木) 羽田国際空港 10:20(NH1O59)-11:50 新千歳空港

       イントロダクション
 「なぜひとりで海外へ行くのかって? そこに女房がいないからさ」。そういうわけでもないが、また一人ぶらりと旅に出た。
 世界は広い。見るところが数多くある中で、1990年に一度行ったことのあるエーゲ海に再び行くことに大方の疑問を呈せられた。しかし、やはりここは思い出の地であり、私にとっては世界で一番居心地の良い所には変わりは無い。と、いうわけで再びこの地を訪れた。それほどここは私にとっては心が癒される楽天地なのである。

   7月16日(水) 新千歳 14:30(JL562)-16:00 成田国際空港 21:55-(AF273)
 我が家を一歩出るととたんに五感が生き生きしだす。目が細かく観察する。耳が声を聞き分ける。鼻が匂いをかぎとる。普段と違う自分が居る。「もうひとつの人生」がある。

   7月17日(木) 04:25 Paris(C.D.Gaulle)09:45(AF2556)-14:00 Athens(バス)-Pireas(船)-

      Greecs(ギリシャ)
 予定通りギリシャの表玄関、アテネのエリニコン国際空港に着き、空港前から青いバスでピレウス港へ向かう。1時間ほどで無事到着。
 ギリシャは東地中海に張り出したバルカン半島南端部とエーゲ海、イオニア海に浮かぶ1425の島々からなる地中海性気候に恵まれた太陽の国。夏は日中の気温が30℃を超えるが、湿度が低いので過しやすい。
 池田満寿夫監督の話題作「エーゲ海に捧ぐ」は、ギリシャの美しいイメージの源泉とも言えるエーゲ海を舞台にしてロケが行われた。“ワインカラーの海”と詠われるほどの美しさを、池田満寿夫が映像の中に十分に活かして好評を得た。
 ギリシャに来てこのエーゲ海を楽しまない手はない。それも、そこに浮かぶ島々を巡ってみるのがいい。代表的な島を挙げるなら、たとえば、アポロンの島デロス、白い風車のミコノス島、謎の文明の島サントリーニ、太陽の島ロードス、迷宮の残るクレタ島など、伝説化されたり、歌にまで謳われた島々がいくつもある。

   Pireas(ピレウス)
 アテネの南西10qほどのところにある外港ピレウスはギリシャ第一の海の玄関口であり、サロニコス湾の一番奥にある。立地条件が優れているため、すでに古代から港として発展していた。そして、古代世界では最も重要な港になり、今日でも地中海の主要な港のひとつとして貿易や工業が盛んである。おなじみの映画「日曜はダメよ」の舞台でもありエーゲ海クルーズの基点でもある。今回サントリーニ島へ行く船もここから出港する。

 ※映画「日曜はダメよ(Never on Sunday)」米*メリナ・フイルム 60年。監督:ジュールズ・ダッシン、音楽:マノス・ハジダキス、主演:メリナ・メルクーリ。外国映画としては初めてアカデミーの主題歌賞を受賞したギリシャ映画。

 私は、1994年10月30日に開催された第12回アテネ国際マラソン大会に参加するためにアテネへ行った時に、市内のCD店でマノス・ハジダキス楽団演奏のギリシャ製CD「ΠΟΤΕ ΤΗΝ ΚΥΡΙΑΚΗ-ΜΑΝΟΥ ΧΑΤΖΙΛΑΚΙ(日曜はダメよ)」(MINERVA CD 209)を買ってきた。今はそのCDをドライブのお供にして楽しんでいる。

 海岸沿いの通りには、エーゲ海やサロニコス湾の島々へ行く船のチケットを売る店やみやげ物、食料品を売る店がずらりと並んでいる。2、3軒覗いてからチケットを買う。
 出航は夜である。一夜かけてサントリーニ島(ティラ島)へ向かう。船の出発時間を待つ間、港の食堂のカウンターで時間待ちをしていたら、ひとりの土地の人らしい男が近づいてきて「日本人か?」と問い掛けてきた「イエス」と答えると、「この歌を知っているか」と言って岸洋子の夜明けの歌≠フ最初の出だしを口すさんだ。「知っている」と言うと続きを教えてくれと言う。あまり気が進まなかったが、一緒に歌うことにした。
 海外ではこのように親しげに近づいて来て、店とぐるになって客に飲み物を勧め、法外な金銭を要求する犯罪も多いので用心しなければならない。しかし、彼の場合はそんなことはなかった。純粋に歌を習いたかったようである。
 アテネからエーゲ海を南へ。青い海と白い街並みの絶景で知られるサントリーニ島へ。海を渡るのはやっぱり船に限る。飛行機のスピードは、エーゲ海には似合わない。

   7月18日(金) Athinios Port(Santorini) - Fira
サントリーニ島/写真転載不可・なかむらみちお  夜明けに目を覚ました。するとそこには黒い島影が横たわっていた。一夜明けると船はホメロスが“ぶどう酒色の海”と謳った静かなエーゲ海を暖かい日差しを浴びて航海する。透き通ったワインカラーの海、真っ青な空の間に真っ白な家や教会が連なる島々が浮かぶ。“サントリーニ島…!”。心にこう呟くと私の心が高鳴る。しばし至福の時が過ぎる。空と海と微風と陽光にさらされて、身も心もエレメンタルな喜びに満たされる。真夏の南国だというのに乾いた風は軽やかに薫り、肌がべたつくということもない。エーゲ海は実に抑圧のない海である。囚われの身から自分自身を解放し、自由にしてくれる海だと感じさせられる。
 家に居場所がないわけではないが、自由で気ままな寅さんのような旅をしたくなり、お守りとカメラひとつをリックに入れて今日もまたふらりとひとり当てのない放浪の旅へと出て来てしまった。流れ流れて漂着したところがエーゲ海のと、名のある絶海の孤島。現代の神々が住む島。最後の楽園エーゲ海。
 船上からの朝日。近づくサントリーニ島。船の行く手に銀色のしずくを跳ね上げながら、かわいいドルフィンが空中に躍り出てくる。千年前もそうだったのだろう。二千年前もそうだったのだろう。この海、この島、このドルフィンの跳躍。少しも変わっていない。見上げるばかりに高く聳え立つ崖が海に迫り、その崖の上に白い家並みが続く。そしてその上に青空が広がる。

     目次へ   ↑ページの一番上へ

    Santorini(サントリーニ島)
 サントリーニ島には二つの港がある。ひとつはオールドポート、もうひとつはニューポート、正式にはAthinios Port(アティニオス港)。オールドポートは古くて小さいので近くの島を経由する中型船と、火口の島へ行くエクスカーションの小型船だけ。ピレウスからの直行フェリーボートは、アティニオス港に入る。
アティニオス港/写真転載不可・なかむらみちお  私の乗った船はアティニオス港に着く。アティニオス港とフィラの街の間には定期バスが走っている。スーツケースを荷物室に入れている間にバスは満員になってしまった。街まではいくらもない、立って行くことにする。通路に立っていると前のほうの席の男の客がこちらに向かって何か叫んでいる。すると私のすぐ脇の席に座っていた女性が立ち上がって前へ行った。空いた席の隣に座っていた青年に、座ってもいいかと訊くと軽くうなずいた。
 お客をはち切れそうに詰め込んだバスがつづら折の坂道をよたよたと登って行く。本当にこのバスで登り切ることが出来るのか。少し不安になってくる。スリル満点だ。やがて車掌が料金を集めに来た。持ち合わせていた小銭を全部手の平に乗せて隣の青年にこれでいいかと訊くと、足りなかったらしく、自分の小銭を足してくれた。なかなか親切な好青年である。

     目次へ   ↑ページの一番上へ

    Fira(フィラ)
 “カリメーラ、ティラ!(こんにちはサントリーニ島!)”。トランク(鞄)、ハット、胴巻き、雪駄、お守り、これだけの小道具がそろえば旅はOK。これに綺麗なマドンナにでも出会えれば言うことはない。自由で気ままに生きる寅さんのような旅。一人旅は自由で心の開放が思いのままである。旅は一人に限る。気の向くまま、風の吹くまま…。今日もまたふらっと来てしまった。まぁ何とかなるさ。どこかにマドンナは居ないかなァ…。
 定年退職後は職もなく金もない。なけなしの蓄えを掻き集めて軽装でふらりと来たものの今日の宿もない。前回ここに来たのは1990年7月26日に日本を出発して帰ったのが8月13日であった。まぁ何とかなるさとばかりに島の港に着くと客引きが居た。今回も今夜の宿は決めていない。
 7年前にここに来たときに知り合ったお土産屋のヤニス爺さんに今夜の宿を紹介してもらうつもりで日本からあらかじめ手紙で依頼しておいたが、お互いに言葉が通じないので返信は貰っていない。取敢えずヤニスさんの店に行って見ることにする。それにしてもまだ朝早くなので店は開いていないだろう。昼近くまで海辺の崖の上で海を眺めて時間待ちをする。島では時間がゆっくりと流れている。万物は流転する(チョッと違うかナ?)(ギリシャの哲人、ヘラクレクトスBC535〜475)。
白い家並み、見渡せば限りなく島々と紺碧のエーゲ海が広がる/写真転載不可・なかむらみちお  どこまでも青い空と蒼い海。限りなく白い雲と白い街。崖っ淵から眺めるエーゲ海の美しさは例えようもない。悠久の時が音もなく流れてゆく。ここから見る景色は以前と全く変わっていない。そこには依然として変わらぬ乾いた風景があった。それぞれの島に神話が息づくように、この島には“幻のアトランティス大陸”にまつわる話が残されている。
 サントリーニ島は、紀元前15世紀頃の大規模な火山の噴火で島の中心部が沈み、今あるようなほぼ環状形式が造られた。船が停泊する湾は、火山のカルデラ部分に当たる。当時の繁栄ぶりは、今は残されていないが、ギリシャの哲学者プラトンがアトランティス大陸について「高い文明の一大勢力が大洪水で一日一夜のうちに消失した」と残していることからエーゲ海の島々に伝えられるミノア文明とこの期が一緒になり、この伝説が生まれた。サントリーニ島の半分が噴火によって飛ばされたことからも、アトランティスはミノア文明圏の国だったのではないか、と推測されている。現在、一般的に呼ばれているサントリーニ島の名は、この島で没した聖イリーニの名に由来しているとか。正式にはティラ島である。
 前回この地を訪れたとき、あまりにも暑いので近くのお土産屋に入った。客は私一人である。半地下式の小さな店内にはひげを蓄えた60歳くらいの主人が居た。店内に陳列されたお土産類を見ていると、彼は「ヤーパン?」と尋ねてきた。「イエス」と答えると、後は知ってるだけの単語とゼスチュアを駆使して会話が弾む。
 カール・マルクスのような容貌のお土産屋の主人ヤニスは、なかなかの親日家。彼は八代亜紀の大ファンだとかで、毎日聴いていると言って日本製の彼女のカセットテープを誇らしげに見せてくれた。私は「シーイズベストシンガー」と持ち上げた。すると、彼はすっかり気を良くして死者も蘇るという島の特産ワイン「Vinsanto(ビザント)」をご馳走してくれた。コップを空けると更に一杯。私はそれに応えて、日本製のタバコを一箱差し出すと「サンキュウ」と喜んでくれた。
 次の日もその店に寄ると同じことがまた繰り返された。おまけに「気に入った絵葉書があったら選べ」と言う。何枚か選んで差し出すと、「マイフレンド、マイプレゼント」と言ってお金を取ってくれなかった。結局この店では何も買わず、お酒をご馳走になり、お土産まで貰って“国際親善”を深めてきたのである。旅人を温かく迎えるのは、古くからのギリシャの風習だという。
 昼近くになってからヤニス爺さんの店を訪ねてみた。ところが昔行ったことのあるはずのところにヤニスの店がない。パラカロー(お願いします)。近くのお土産屋に行き、店の主人に訊ねると彼は店を止めたという。わずか7年しか経っていないのに月日の流れは恐ろしいものである。無常な月日の流れの変化に愕然とする。ご主人にお願いしてヤニスと連絡を取って貰う。しばらく崖の上から今も変わらない紺碧のエーゲ海を眺めるともなくうつろな目で彼の来るのを待った。
 かなり時間が過ぎ去った頃、顎まで白い髭を生やしたあの独特なカール・マルクスのような容貌のヤニスが元気な様子で肩を左右に揺らしながらゆっくり近づいてきた。「やぁ!」と言いながら手を差し伸べてきた。彼は7年前に会った私を覚えていてくれた。嬉しかった。
ヤニスに紹介されたアパート/写真転載不可・なかむらみちお  ひとまず街外れにある平屋の彼の家に招かれた。そこで心当たりと連絡した結果、ようやく一軒のホテルを紹介して貰う。帰り際に彼は明後日の昼に我が家で昼食をご馳走するから来るようにと招かれた。お招きを受けて断るほど無粋な旅人ではない。現地の人と交わるまたとない機会だ。私は喜んでお招きをお受けした。
 ホテルは二階建てユースホテルのような感じで、すでにヨーロッパ人らしい若者達の先客が居た。私が紹介された部屋には台所が付いている。調理器具も十分にそろっている。最近、島のリゾート地に増えてきたファーニシュト・アパートメントというタイプだ。早速持ってきたインスタントラーメンを造って食べる。ワインがオカズ代わり。
 テーブルの上にに真っ白なルーズリーフノートを一枚広げてみる。それを見ているとこれからその白い部分に、世界の人々とのどんな巡り合いが書き込まれていくのだろうか。わくわくと胸がときめく。
 夜になると近くに居るのか「うぉー、うぉー」と驢馬の鳴き声が小さな窓を通して聞こえてくる。それと同時に、街から観光客であろうか若者らのさんざめきが聞こえてくる。

 ※ギリシャのワイン
 ギリシャを代表するアルコールといえばワイン。ギリシャ神話の酒の神ディオニソスの昔からぶどう酒とギリシャ人は、切っても切れない関係にある。その歴史は3000年にも及ぶと言われ、クレタ島、ロドス島を始め、アッティカ地方からマケドニアの山岳地帯に至るまで良質のワインがギリシャ各地で造られている。
 ギリシャに都市国家が群生し、栄える頃になるとワインはますます重要な飲み物になる。“シンポジューム”という言葉も、もともとは一緒に飲む、酒宴という意味だった。古代ギリシャ人はこの席で哲学、思想を論じ、政治を評し、文学や芸術を語った。彼らのおしゃべりに油を注いだのは油ならぬワインだったのである。
 サントリーニ島にも何軒かワイナリーがある。死者も蘇ると言われているこの島特産の「Vinsanto(ビザント…甘口)」2,775Dr.(ギリシャの通貨の単位はDr.= ドラクマ、1Dr.≒0.45円)も有名である。ギリシャの酒といえば食前酒の「Ouzo(ウーゾ)」。透明だが水を入れると乳白色になる強めの蒸留酒だ。また日本人にとっては、一寸珍しい古代ギリシャ以来の松脂入りの地酒風ワイン「Retsina(レツィーナ)」もある。昔、ワインを蓄えるのに山羊の皮袋を使って口に木で栓をした。その封をするのに松脂を使った。松脂は自然に溶けてワインに入った。それ以来、ギリシャ人は松脂の香りがついたレツィーナを好んで飲むようになった。少し癖があって初めての人には、飲みにくいかもしれない。薬草が入った「メタクサ」と言うブランデーもあるが、フランス製には敵わない。

ビザント/写真転載不可・なかむらみちお ワインラベル/写真転載不可・なかむらみちお ワインラベル/写真転載不可・なかむらみちお ワインラベル/写真転載不可・なかむらみちお レツィーナ/写真転載不可・なかむらみちお

   7月19日(土) Fira(バス)-Akrotiri(バス)-Fira
海の彼方から朝日が顔を出した/写真転載不可・なかむらみちお  教会をバックに日の出の写真を撮りに出る。東の空が徐々に明るみを帯び、やがて茜色に染まる。海の彼方から朝日が顔を出し、荘厳な島の日の出を撮影した。
 近くのギリシャ正教会の鐘が鳴り、教会の中からミサのお祈りが聞こえてくる。三々五々信者が訪れて教会の中に入って行った。私もつれて教会内に入ると、先ず天井や壁を埋め尽くしているビザンチン様式の聖画に驚かされる。ビザンチン教会独特の丸天井の中心には、全能の神(“万物の支配者”)としてのキリストが描かれている。正面に掲げられているのは、キリスト、聖母と称されるマリア、洗礼者ヨハネ、そしてその教会が奉献されている聖人のイコンである。その他、壁といわず、柱といわず、天井といわず、キリストの生涯、十二使徒や福音書記者の肖像、旧約聖書に登場する預言者や祭司や王たちの物語のみならず、聖イオルイオス、聖ディミトリオスといった数多くの聖人たちの事績が所狭しと描きこまれている。ギリシャ人の日常生活においては、創造の神や救い主キリストよりも、実はこれらの聖人たちのほうがずっと身近な存在なのだろう。彼らの名前もほとんどの場合、聖人や聖女の名に因んで付けられるという。そしてギリシャ人は誕生日の代わりに、自分の名前が由来する聖人の祝日、聖名祝日にお祝いするそうである。ギリシャは多くの人々がギリシャ正教を奉ずるキリスト教国なのである。
驢馬のお出まし/写真転載不可・なかむらみちお  教会の外に出ると首にぶら下げた鈴を鳴らして驢馬が連なって海岸の崖のほうへ行った。朝のご出勤である。ユースホステル前では朝日を浴びて世界から訪れた青年男女が朝食を摂ったり、リックや荷物をまとめてご出動の準備をしていた。
 前回帰国してから札幌で写真展を開いた。その時見に来てくれた北海道大学の先生から、サントリーニ島にある遺跡を見てきたかと訊ねられた。私はそのときは見ていなかったので、今回見に行くことにした。

      フィラからバス(280Dr.)に乗り約25分、南西に約10qのところにあるAkrotiri(アクロティリ)(入場料1,200Dr.)には紀元前15世紀の噴火で放棄されたと伝えられるミケーネ時代の遺跡があって、今でも発掘が行われている。ここではミノア文化の古代都市の跡を偲ぶことができる。
ミノア文明の遺跡/写真転載不可・なかむらみちお  キクラデス諸島とは「環を形成する」の意で、デロス島を中心に39の島々が丸く集まっている。そこには、石器時代から人が住み、前2600年には史上最初の海洋文明を築き上げた。しかし、その後アーリア系民族やドーリア人の侵略に打撃を受け、キクラデス文明は壊滅した。そして、紀元前1500年には、諸島の最南にあるサントリーニ島の火山大爆発で島の中心部が陥没、古代建築物の大部分が海没してエーゲ文明は終わりを告げた。

「拳闘をする少年たち」/写真転載不可・なかむらみちお  1967年から始められた発掘で、紀元前1500年頃の大噴火以来この方、火山灰の中に埋もれていたエーゲ海のポンペイが明るみに出た。現在も仮設の屋根の下で発掘が進められている。その屋根の高さが発掘前の地表の位置を示しているという。現在のフィラの町そっくりの曲がりくねった狭い道に沿ってブロック毎に家々が軒を並べ、独立した瀟洒な家屋も建てられていた様子がよく分かる。ここから出土した「拳闘をする少年たち(古代オリンピック競技の一種目)」のフレスコ画などがアテネの国立考古学博物館に展示されており、前回来た時に見てきた。私はこれらの壁画に描かれた情景を思い起こしながら、アクロティリの遺跡をゆっくり歩いた。
 街に帰ってきてから昼食の後、白い家並みと海の見える絶景ポイントへ行ってみることにする。港へ通じる狭い下り坂の両側にはお土産屋さんやタベルナと言うレストランが並んでいる。その中の一軒にTシャツ屋さんがあった。その店の前に立っている青年と目が合った。港から乗ったバスの中で小銭をくれた青年だ! 彼はこの店の店員だったのだ。私は日本から持ってきた五円玉を一個彼に差し出した。

驢馬の背に揺られて急な坂道を登る/写真転載不可・なかむらみちお  オールドポートでは3、4日以上の大型クルーズ船は接岸出来ないので湾内に停泊して、乗客はランチに乗り換えて島に上陸する。そこから200メートル、断崖上の白い街並みを目指してジグザグの道が続いている。
 観光船がこの島のオールドポートに着くと、この地方特有の織物をかけた驢馬や馬が観光客を待ち受けている。サントリーニ島の町フィラまで、580段の石段を上がって行く急な坂道を連れて行ってくれる乗物だ。足に自信があれば歩いて上るのもいい。テレフェリック(ケーブルカー、片道1人600Dr.)もある。途中、眼下に広がるエーゲ海を眺めながら、のんびりと街へ向かえば旅情もまた格別である。
 しかし、テレフェリックでは味気ない。ロバ10頭位に駅者が一人。順番通りに乗せてくれるかと思うとそうでもない。こちらの体格や人品を一瞬のうちに窺い、適当と思うロバをあてがってくれる。どうやら人相まで観察するらしいとは、最後まで取り残された豪放な熟年婦人の恨みの弁であった。ギリシャに来て驢馬の背に跨る――しかしこれはあまり牧歌的に考えないほうが良い。馭者の品定めにもかかわらず、どうしてもロバと乗り手の相性がよくない場合もある。そんな時は、足で上品に脇腹を擦るぐらいでは、どうにも動いてはくれない。馭者は凄まじい勢いで驢馬に鞭をくれ、口汚く怒鳴りつける。すると驢馬は急に走り出すが、また立ち止まる。馭者の罵声が飛ぶ。客の思いなどにはまったく無頓着。照りつける太陽と埃と驢馬の糞の匂いの15分間を楽しもう。

夕陽に浮き出たフィラの町/写真転載不可・なかむらみちお  崖を上りきると白い壁の教会や家々が並ぶ細長い街に着く。居並ぶホテルに挟まれるように小さな民芸品や貴金属を売る店が並ぶ。家々の間から見える紺碧の海がどこまでも心を和ませてくれる。アトランティス・ホテル付近からの眺望は正面にテラシア島を望み、南にアスプロニン島が見えて息を飲むように美しい。
 やはりここも落日のひと時が圧巻だ。私は畏怖に近い感情と静かな喜びに満たされて、赤々と燃える太陽が島影にゆっくりと落ちてゆくのを眺めていた。この島の特産ワイン「ビザント」は死人も蘇らせるという。「ビザント」を飲みながらエーゲ海の落日を見る夕暮れ時は、何もかも忘れさせてくれる。

   7月20日(日) Fira
大海原のキャンバス/写真転載不可・なかむらみちお  街の中心から、海をめぐる回廊のように石畳の路地がいくつも延びている。喧騒を避けて、そのうちの一本の路地に入ってみる。しばらく歩くと、レモンやオリーヴの鉢が置かれた小さな中庭があった。もとはオープンエアのバーだったようだが、今は人気がない。海を臨む庭は不思議な静けさに包まれていた。その先に青いドームの教会がある。ここは私のお気に入りの風景だ。
 恐ろしいほど緑が少なく暑い真夏のギリシャ。いつ過ぎるとも知れぬ緩やかな時の流れ。大らかな神々の住むエーゲ海。どこまでも青い空と蒼い海。目の前の大海原をキャンバスに白い豪華客船が一直線の航跡を描く。前世紀の噴火で赤茶けた崖をよじ登るように白い家並みが続いている。所々に建つギリシャ正教会のドームのスカイブルーとオレンジ色がアクセントを付け加えている。
 街にもどると色とりどりの民芸品を売る店や、親しみやすい感じのタベルナが多い。噴火口に張り出したホテルのテラスのテーブルに「レツィーナ(松脂入りのギリシャワイン)」を持ち出し、古代ギリシャの詩人ホメロスが讃えた海を眺めながら、のんびりとグラスを傾ける。車の騒音も観光客のざわめきも聞こえない。ブーゲンビリアの花の咲く木陰での小鳥のさえずりと驢馬を追う声だけが時折夢うつつに聞こえてくる。

 「旅」、それは歩くこと、そして出会うこと。
 「旅」、それはエーゲ海に酔う風、光、そして夢。

 エーゲ海に浮かぶキクラデス諸島のひとつサントリーニ島。染まるような青さのエーゲ海。夏にはやはり青い海、それに白い家の風景が似合っている。ここはまさに神々の天国である。

    あぁ! エーゲ海や、エーゲ海
      ここは異国の松島か!

ヤニスとヤニスの友人、それに私/写真転載不可・なかむらみちお  ゼウスの神の枕詞が“ヒロクセニオス(客を歓迎する者)”と言われているように、ギリシャには昔から遠来の客を暖かくもてなす習慣があるという。なぜか今も旅人を心から暖かく迎える古き良きギリシャの風習が残っている。 今日はヤニスの家での昼食に招かれている。ギリシャ人は何よりも“喜んでともに生きる”術を心得た人々である。私も喜んでお招きに与ることにして彼の家を訪れた。すると初老の先客がいた。ヤニスの友人とかで、紹介されたので挨拶を交わす。ヤニスは二人を応接間に待たせて台所のほうへ行ったきりなかなか戻って来ない。多分料理を作っているらしい。奥さんらしい人は見当たらず、どうやら一人暮らしらしい。
 応接間に二人きりとなった私たちは会話を交わすが、彼はギリシャ語しか話せないらしく、なかなか話が弾まない。やがて沈黙に入り、気まずい空気が流れた。
 ようやく彼特製のスパゲティが出来上がり、三人でご馳走になった。食事中も私と初老の客とは話が通じず、ヤニスと彼だけが話をしていた。私は日本から持ってきた八代亜紀のNHK-TV出演のショー番組を録画したビデオテープをお土産としてヤニスに手渡した。果たしてVTR再生機を持っているのかどうかも分からないので見れたのかどうかが心配である。
 ギリシャはエーゲ海の恵みを受けて魚介類が豊富。オリーブ油をたっぷりと使った調理法は独特のもの。夕食は海に面したシーフードレストラン「Volcano Taverna(ボルカノ・タベルナ)」へ行き夕陽を見ながらの食事をすることにした。鯵のような魚料理を注文したら4,500Dr.(1,874円)だった。

     目次へ   ↑ページの一番上へ

   7月21日(月) Fira(バス)-Oia(バス)-Fira
    島の最北端の町Oia(イア)
メルヘンチックなイアの風景に心が癒される/写真転載不可・なかむらみちお 地球に生まれてきた喜びを実感する/写真転載不可・なかむらみちお  フィラからは環状沿いの道を走るバスでおよそ30分(250Dr.)。島の北端にあるイアの街の終点でバスを降り、海に向かって細い道を進み、突き当たったら右に行く。道の両側にはおみやげ物屋、アートショップ、洒落たカフェなどが続く。ちょっと横道にそれ、噴火湾になった海岸の崖の方へ行く。坂を下りると絵葉書で見覚えのある風景に出会う。崖にへばり付くように建っている青いドーム屋根の白壁の教会群の美しさが目にしみる。メルヘンチックな雰囲気を醸し出していかにもギリシャらしい風景である。
 日陰の石段に腰を下ろしてしばし海に面した崖淵に並ぶ青いドームの教会群を眺める。眩しい光、静かな余韻。ゆっくりと過ぎてゆく島の一日。この景色を見ていると、心が癒される。私はこの至福の時を満足のゆくまで飽きずにいつまでもそこにたたずむ。この景色を見たくて二度もこの島に来たのかもしれない。この美しい風景を見ているとつくづくとこの地球に生まれてきて良かったと実感する。青い海の彼方、遠くへ目を移すと、フィラの街には絶壁の頂上に白壁の家々がまるで鳥の巣のように並んでいるのが遠望出来る。

住んでいる人の感性の高さがしのばれる/写真転載不可・なかむらみちお  イアはフィラよりこぢんまりとしていて落ち着いたたたずまいを感ずる。しゃれたお土産屋やカフェがある。通りかかった通りに面した家の中庭には何気なく素焼きの古いアンフォラがオブジェとして置いてある。住んでいる人の感性の高さがしのばれる。遠くから眺めると白く眩しい街も、歩いてみるとやさしい色合いに満ちていることに気づく。イアの町は芸術の薫り高い街である。

車は入れないので驢馬のタクシーが大活躍/写真転載不可・なかむらみちお  元の道なりに進むと岬の上の展望所に出る。ここで若い日本人のカップルと出会い、お互いに岬をバックに記念写真を撮り合った。夕涼みの老夫婦や、路地で遊ぶ子供たちなど、夕暮れのイアには生活のぬくもりがある。
 ここを訪れる旅人のたった一つの目的は大げさに言えば夕日である。あまりにも有名な美しい夕日を見ることだ。ここからの夕日の眺めが最高である。
 岸壁に張り出したタベルナ(伝統的なギリシャ式料理店)でビザントを飲み、スブラギ(羊の肉を角切りにして野菜と交互に鉄串に刺し、グリルしたギリシャの名物料理で、大型の焼き鳥に似ている)で仕上げをして宿に就いた。

   7月22日(火) Fira
青いドームの教会/写真転載不可・なかむらみちお  今日もまた朝からフィラの街から東におよそ1qほどにある青いドームの教会の見える崖に行く。ここから見るエーゲ海は絵葉書のように美しい。前回来たときもそうだったが、私は何度もここへ写真を撮りに来る。
 土地の人が薦める「Nicolaos Restaurant(レストラン・ニコラウス)」はエリトルウ・スタヴルウ通りにある。フィラの街のレストランは概して高めなのに、ここは安くて美味しくてボリュームも満点。ムサカ、チキン、ラム、サラダがいずれも500Dr、ビール350Drで一回の食事で大体1000円程度で済む。特にチキン料理が美味しい。自家製ワインは絶品。レストランの条件をすべてクリアーしているため、住人にも観光客にも人気がある。当然、夕食と言ってもギリシャ・タイムの20:00から21:00過ぎは混み合う。今日の昼食はここに決めた。
 中に入ると、前回来た時に顔見知りとなった初老のウエーターが私の顔を見るなりニコッとした。覚えていてくれたのだ。彼の勧めで羊肉とさやえんどうのトマトソース煮(2000Dr.)、ロブスター(7550Dr.)、それに自家製のワイン(300Dr.)を注文する。味は前と少しも変わってはいなかった。

 ※ギリシャの名物料理…ギリシャの代表的料理には挽肉と野菜をチーズやホワイトソースと合わせてオーブンで焼いたMousaka(ムサカ)、いためた混ぜご飯をぶどうの葉やキャベツで包んだDolmadakia(ドルマダキア)、マトンを串に刺して焼いたSouvlake(スブラキ)などがある。

サントリーニ島ならではの絶景/写真転載不可・なかむらみちお  フィラの断崖のほぼ中ほどに位置するカラフルなプチホテル「パノラマ・スタジオ」から客船が停泊する湾と火山の島を望む。まさにサントリーニ島ならではの絶景。
 そのホテルのテラスで一服。コーヒーを注文する。連日32℃の快晴。限りなく0lに近い湿度。1.5gのペットボトルがたちまち底を尽き、半ズボンから露出した太股が日焼けしてヒリヒリする。ここは地中海気候なので湿度が低く息苦しくなく、汗も掻かない。一歩日陰に入ればむしろ涼しいくらいである。
 空は抜けるように青く、まばゆい太陽の光をいっぱいに浴びてさらに美しさが映える白い家並み。見渡せば限りなく点在する島々が浮かぶ紺碧のエーゲ海が眼下に広がる。島の建物は、年に何回か真っ白なペンキを塗ってお化粧をする。それがまた奇妙にエーゲ海の青い海に調和する。透き通ったワインカラーの海。真っ青な空の間に真っ白な家や教会が連なって島々が浮かぶ。ここから眺めるエーゲ海の美しさはたとえようもない。噴火によって生じたネア・ケメニの黒々とした溶岩の島が真下に見える。
 豪華客船で着いた世界の観光客がオールドポートから驢馬の背に身を任せ、ジグザグのミシン目のような石段を587段、300bを登り切ると、そこは白い家並みが続くフィラの町である。

空は抜けるように青く、まばゆい太陽の光を一杯に浴びて更に美しさが生える/写真転載不可・なかむらみちお  街から眺めるエーゲ海は、どこまでも青い空と蒼い海、白い街並みとのコントラストを見せて美しい。眼下に見える紺碧の湾は、大昔に火口原が陥没して出来たもの。その中に赤黒い溶岩の島が盛り上がっている。海に沈んだアトランティス大陸の伝説は、ここから生まれたと言われている。
 フィラの街の目抜き通りには、みやげ物店、レストランが数多く並んでいる。洒落たアートの店やおしゃれなカフェもある。世界から集まってきた大勢のバックパーカーの若者でごったかえしている。そんな街の路傍で前回来た時に耕運機の荷台に乗せてくれたおじさんが農作物を売っているのに出会う。
 カマリビーチに行こうと未舗装の細い田舎道をトボトボと一人歩いていると、後ろからエンジンの音も高らかに響かせて一台の耕運機が来た。耕運機の後ろには僅かばかりのスペースの荷台があった。年配の農民がこれに乗れという。乗り心地は悪いがその親切が嬉しい。その農民が彼であった。彼は私の顔を見て、あぁ!という表情をした。分かってくれたらしい。
 「やぁ、元気だったかい」
 「お蔭様で…」
 「お互いに達者でなっ」
 彼の目がそう語っていた。残念ながら彼はギリシャ語しか話せないので会話を交わすことが出来なかった。
 コトバは分からなくても目を見れはお互いに心が通じ合う。“目は口ほどものを言う”。ハートがあれば楽しいひとり旅が出来る。言葉などは要らない。
 彼とは握手をして別れた。

崖に張り付いたようにお洒落なカフェ/写真転載不可・なかむらみちお  フィラの街には、内海を見下ろす崖に張り付いたようにお洒落なカフェやレストランが立ち並んでいる。ギリシャのタベルナでは紙のテーブル掛けを使うことが多い。そういう店なら安上がりであること間違いない。私はネア・ケメニ島を正面に見下ろす夕暮れの崖に面した絶景のレストランにふらりと入った。それはテーブル・クロスからしていつものタベルナ風とは違う瀟洒な雰囲気のレストランである。
 そのレストランの名前は「Restaurant NIKI(ニキ)」と言った。テラスで先ず、美しい風景を背景にワインを飲む。やがて夕日の時間に合わせて、ロブスター料理を注文する。炭火で焼き上げ、テーブルに運ばれてきた料理にレモンをいっぱい絞りかけて賞味したロブスターは、飛び切りの美味であった。この島特産のワイン、ビザントを飲みながら、エーゲ海の落日を見る夕暮れ時は、何もかも忘れさせてくれる。“君の瞳に乾杯”。最後にチェックしてもらうとワインも含めて3,133円であった。

 ※「Restaurant Nikh(ニキ)」は、オールドポートから驢馬で登り切った道をフィラの街のほうへ少し行った右側にある。ロブスターが美味しく、他に新鮮な魚介類も豊富で味も良く安い。崖側に張り出しているので海が眺められ、夕日もバッチリ見える。入口付近にショーケースが並び、魚を選べる。ロブスターはs計算で一匹が5,00Dr.から15,000Dr.。ワインはハーフで1,500Dr.。
 魚介類は必ずs単位か、一匹当たりの料金かを確認することが大事。海沿いにある眺めの良いレストランの中には、法外な料金を請求する(特にシーフード)。呼び込みの店は要注意である。

   7月23日(水) Fira
 この日も朝から例の青いドームの教会の見える崖の上に行き、目の前の噴火湾を行き交う豪華客船を見て過した。
 昼頃街に戻り、「Nicolaos(レストラン・ニコラオス)」で食事をする。この日のメニューは挽肉と野菜をチーズやホワイトソースと合わせてオーブンで焼いたムサカ。帰りに角の雑貨店に寄って西瓜を買い、ホテルで食べる。
 陽の落ちた頃、ガイドブックに載っている「Purt Leone」へ行ってみることにする。そのレストランはテオトコプール広場から東側へ下ってペリカンホテル前の道を右折した左側にあった。家族経営だというその店は結構客が入っていた。観光客で賑わう街の中心部からは少し外れているので客の多くは地元の人のようだ。ラム、ビーフ、チキンと種類の多いスブラギは一本1,500Dr.前後。しかし、肉が硬くて味はまづかった

   7月24日(木) Fira
レストラン「カストロ」での食事/写真転載不可・なかむらみちお  テレフェリック(ケーブルカー)駅前にあるレストラン「Kastolo( カストロ)」はフィラの街が眼下に広がり、夕日とフィラの街の最高の眺めが堪能できる。特にテラス席からの眺めが良い。西洋料理、ギリシャ料理などがあり、シーフードライスが美味しい。ドリンクだけでも良い。真っ青な海に面した崖に真っ白な家並みが立ち並ぶフィラを見下ろしながら食事をする。

  ♪金色銀色 桃色吐息
   ・・・・・ ・・・・・
   海の色に染まるギリシャのワイン…

 グラス片手に鼻歌を口ずさむ。ほろ酔い機嫌に至福の時が流れる。遠く崖の下から驢馬を追う声が夢の中のように聞こえてくる。この日の昼食は、シーフードライス(2300Dr.)、サラダ(1700Dr.)、ワイン四分の一(1900Dr.)で合計5900Dr.(2,436円)であった。
エーゲ海の夕日/写真転載不可・なかむらみちお  太陽が海に落ちる頃、青い教会の夕暮れの風景を撮りに出かけた。エーゲ海の夕日。エーゲブルーの海が見る間にワインレットに染まり、やがて真っ赤に焼けた太陽が大海に静かに沈んだ。日没は6時20分であった。
 海辺の道をとぼとぼと白い家々が並ぶ街の方へ帰ってくると、ほの暗い夜のとばりが辺りを包む。レストランの前の無造作に並べられたテーブルの上にランタンが一つ、二つと置かれて灯りが点され、幻想的な雰囲気を醸し出している。湾内には電飾をした客船が碇を下ろし、体を休めていた。

フィラの夜/写真転載不可・なかむらみちお  島で一番大きな街フィラに夜がやってきた。空と海が深い藍色でつながり、断崖に建て込んだホテルやレストランに灯りがともるころ、昼の暑さからよみがえった人々が繰り出してくる。車が通ることの出来ない迷路のような路地は、そぞろ歩く笑顔の人たちでいっぱい、すれ違うのも大変なほどだ。急な坂を、港から荷役の仕事を終えた驢馬の隊列が首に巻いたベルを鳴らしながら上がってくる。気をつけないと、すれ違いざま驢馬の固い尻尾に顔を叩かれる。たたかれた人は、それでも笑顔のままだ。
 土産物屋からはもの哀しくも情熱的なギリシャ民謡が流れ、レストランからはシーフードをグリルする匂いが漂ってくる。店の前では「新鮮なロブスターがあるよ、マグロもあるよ」と客引きをしている。ちょっと相手をすると、「どこから来たの?」とか「昼間泳いだ?」とかすぐに別な話が始まり、ただのおしゃべりになってしまう。結局レストランには入らないまま帰ってゆく人たちに、店の人はにこにこと手を振っている。
 ベンチに座る。まだ昼の太陽のぬくもりが残っている。目を閉じて耳を澄ますと、遥か下、断崖に打ち寄せる波の音がかすかに響いてきた。ご機嫌な人々が笑いながらグラスを交わす音が、こだまのように、風に乗って聞こえてくる。
 この島が紡ぐ穏やかな一日。その余韻が、島に寄せる静かな波のように、心にやさしく満ちてくる。目を開けて見渡すと、ビーズ細工のようなフィラの街灯りが、海から黒々とそそり立つ断崖をきらきらと彩っていた。

   7月25日(金) Fira
 今日もまた青いドームの教会の見える崖の上に来た。教会越しに見える真っ青な大海原をキャンバスに、世界から訪れて来た真っ白なボデーの豪華客船が船尾から白い絵の具を流し込むように白い航跡を描いて通り過ぎて行く。いつかあの船に乗ってみたい。しかし今はまだ乗る気がしない。帰りの船が見つかるまでこの島でゆっくりと過すことにしよう。
レストラン・アリスのシーフード/写真転載不可・なかむらみちお  帰り道にまたテレフェリック駅前のレストラン「カストロ」に寄り、昼食を摂る。煌めく太陽。燦々と眩しく降り注ぐ太陽の下、青い海と海辺の崖にへばり付くように建ち並んだ白い家並みを眺めながら、キリッと冷えたここの特産の白ワインを軽く傾ける。この日のメニューは羊肉と鞘豌豆のトマトソース煮にした。
 夕食は、Loucas Hotel(ルーカスホテル)の敷地内にある崖の中ほどのレストラン「Aris Restaurant(アリス)」で夕日を見ながらワイングラスを傾け、シーフードを食べることにする。
 このレストランには島の漁師から毎朝届けられるという新鮮な魚介類と、島で造っているというハウスワイン、メカジキのスブラキやムサカなどのギリシャ料理、肉料理、サラダ類とメニューも豊富。それに日替わりで出される3品のスペシャルメニュー各2,000Dr.もある。やがて辺りに夜のとばりが降りてきた。テーブルにランタンが灯される。雰囲気もサービスも最高。この日はシーフードとピザ、ビールで6100Dr.だった。

   7月26日(土) Fira
 今日もまたお気に入りの青いドームの教会が見える崖の上に立って、ボーと海を眺める。吹く風もなく、時がゆっくりと流れてゆく。聞こえて来るのはカメラのスローシャッターの音だけ。私の他には誰も居ない。時の過ぎ行くまま、気の向くまま、気の済むまでその場にたたずむ。ここは“過去を捨てない男”にはぴったりの居場所だ。
 昼過ぎに「ニコラウス」に寄る。冷えた白ワインのグラスを傾ける。今日のメニューは骨付き鶏肉とオクラのトマトソース煮、フライトポテト付き合わせ(1200Dr.)とワイン(1600Dr.)にした。 

   7月27日(日) Fira
ニコラウスのムサカとハウスワイン/写真転載不可・なかむらみちお  サントリーニ島からミコノス行きのフェリーは1週間に2便しかないので今日中に乗船券を買いに行く。2、3軒の旅行代理店を回ってみてこれと思うところで29日のミコノス行きの船の一番安いデッキ席(甲板)の乗船券を購入した。
 海の見える崖沿いに建つ「Hotel Panorama」からの展望は絶景だ。このホテルの屋上から青い海と白い家並みのフィラの風景を撮ろうと思いフロントに行って頼んでみた。するとフロントの女性は隣の喫茶店のテラスからのほうが良いと薦めてくれた。そこを出て隣へ行き、階段を上がると喫茶店になっていた。応対してくれた店主らしい女性に持っていたカメラを示して、お願いすると、即座にOKが出た。テラスからの風景は私が抱いていたフィラの風景のイメージにぴったりだった。最高のアングルである。撮影の後、チップを払おうと思って差し出したが手を左右に振って受け取ってもらえなかった。深くお辞儀をしてその場を出てきた。
 昼はまた「ニコラウス」へ行き、ムサカ(茄子と挽肉を重ねたものにベシャメルソースをかけ、オーブンで焼いたギリシャのポピュラーな料理)とポテトフライ、ライス付け合せ、(1200Dr.)、小さなガラス製の水差しに入ったハウスワイン(350Dr.)をオーダーする。今日もまた至福の時を過す。

   7月28日(月) Fira(バス)-Karterados(バス)-Fira
レストラン「カストロ」でお茶を…/写真転載不可・なかむらみちお  オールドポートへはまだ一度も行ったことがないので、石段を降りて行ってみることにする。途中、観光客を背に乗せて登って来る驢馬の群れなどをスナップしながら港へと向かう。以前来た時に同じようにそれらの驢馬を写していると、普段驢馬追いの過酷な酷使に不満を持っているのか、狭い階段を観光客を乗せて上ってきた驢馬が、突然私の方に近づいて来て日頃のうっぷんを晴らすべく、八つ当たり的に横腹で石垣の壁に押し付けてきた。カメラを構えていたTシャツ一枚の私は逃げ場を失い、石壁に押し付けられて肘の皮を痛いほど擦ることになり、擦り剥いてしまった。この苦い思い出にまた遭わぬように用心しながら撮影を続けた。
 こうしてオールドポートに着いたが、そこにはテレフェリックの乗り場以外に特別な建物があるわけではなく、あいにく観光客を乗せたランチも一通り仕事を終えたらしく、これといって写す物はなかった。
 午後、前回来た時に泊まったKarterados(カルテラドス)へ行ってみることにする。ここはフィラからバスに乗って二つ目の停留所近くにある。

前回来た時に会った兄弟/写真転載不可・なかむらみちお  前回私が来たときに泊まった宿の近くには三つの教会があった。その中のひとつに行ったときのこと、何人かの村人がお祈りをしていた。村人に了解を得て撮影したことを思い出す。そのとき泊まったホテルへ行き、応対してくれた女性にそのとき教会前で写した兄弟らしい子供達の写真を見せると、家の子供たちだとのことであった。意外な出会いであった。あたりを少し歩き回った後、再びバスに乗り、フィラに帰ってきた。
 夕方にはまた「ニコラウス」へ行き、ドルマキア(米、挽肉、玉葱をぶどうの葉で包み煮込んだ料理)、トマトのつけ合わせ(1200Dr.)、スブラギ(1800Dr.)、白ワイン(350Dr.)を注文する。
 フィラの街には世界中から集まった若い観光客でごった返していた。しかし、私がこの島にいる間にイアで会ったカップル意外には日本人に全く会わなかったのは不思議である。

   7月29日(火) Santorini(船)-Mykonos
 今日はこの島とも別れてミコノス島へ行くため、バスでアティニオス港へ行く。ミコノスでの宿はまだ決まっていない。7年前に来た時にはホテルの絶対数が少なく、エーゲ海の島々では夏の観光シーズン中、飛び込みでは簡単に宿は取れなかった。特にミコノスではあらかじめ予約しないで行くと絶望的であった。しかし今は割と容易く取ることが出来るようになった。
 港では出航までには時間があったので、波止場に面してずらりと建ち並ぶ売店の内の一軒へ行き、女性の店員にお願いして前回ミコノス島で知り合いになった日本人の新婚さんから聞いていた彼らが泊まったという「HOTEL Giannovaki(Tel.0289-23539)」に電話をして予約して貰った。
 デッキ席の船上での海風は夏でも寒い。上着が必要だ。特に陽が沈むと急に冷え込んでくる。Tシャツ一枚ではどうにも我慢が出来ず、船内に入る。特にチケットのチェックがあるわけでもなく、そのまま船内で過すことができた。

     目次へ   ↑ページの一番上へ

      Mykonos(ミコノス島)
 ミコノス港には暗くなってから着いた。宿の主人が私の名前を書いたブラカードを持って出迎えてくれ、車でホテルへ案内してくれた。ミコノスの宿の名は「HOTEL Giannoulaki(ギアノラギ)」といい、街の中心地からはかなり離れていた。建物はまだ新しく、早速案内された部屋は白壁で清潔な感じがした。食堂に案内されて夕食を摂り、その日はそのまま部屋に戻って寝ることにした。

   7月30日(水) Mykonos
 朝、食堂へ行くとマダムが待っていた。早速朝食を戴く。石垣で囲まれたミコノス島の民家の敷地内には、各家に屋根の先端に十字架を上げた自家用のチャペルがある。このホテルにも裏山に個人の物としてはかなり大きいが、小さな教会が二棟建っていた。
 辺りにあまり建物がないこのホテルの前の小道を2、300bも行くとバス停がある。そこからバスに乗ってミコノスタウンへ行く。街の南の外れにあるバス停で降りてまず街の北東部の丘に登る。ミコノス島の見所は、白い街並みと大きな風車小屋である。その下を荷物を背負った驢馬が草を食んでいる。
なだらかな島影には風車のシルエットが点在する/写真転載不可・なかむらみちお  パノルモス湾の南には古代パノルモスがある。今はヴェネツィア軍が築いた砦が残っている。砦のアーチ越しに見るミコノスの街は、まるでおとぎの世界である。そこから見た島はきらきらと輝いている。空は抜けるように青く、まばゆい太陽の光をいっぱいに浴びてさらに美しさが映える白い家並み、見渡せば限りなく点在する島々が浮かぶ紺碧のエーゲ海が眼下に広がる。この世の世界とは思えない神秘的な美しさを持っている。
 撮影ポイントを求めて丘の上へ。丘の上から見下ろすミコノスは更に抜けるような青空の下、白い家並み、小豆色のドームを頂いた教会などを包んだ島々が紺碧のエーゲ海に浮かぶ。エーゲ海の青に浮かぶミコノス島は白い宝石と言われるほど眩しさを持った島である。なだらかな島影には粉曳き小屋の風車のシルエットが点在する。
 キクラデスとはギリシャ語で「サークル(環)を形成する」の意味で、その名の通りキクラデス諸島は、エーゲ海の真中で、デロス島を中心に約40の小さな島々が丸く円を描くように集まっている。その中でも最もエーゲ海にふさわしい姿を紺碧の海に映しているのがこのミコノス島だ。“エーゲ海に浮かぶ白い宝石”と謳われるこの島の印象はまさに白一色。一歩この島の街の中へ入ると、四角い家々はもちろんのこと、幅2b足らずの狭い道も階段も、立ち木さえもすべてが白く塗られた白い世界が現れる。

エーゲ海に浮かぶ白い宝石/写真転載不可・なかむらみちお  絵になるアングルを求めて更に丘の上のほうへ行く。つづら織の道があるが、あえて崖を這いつくばりながら真っ直ぐ上って行く。ようやく辿り着いた一軒の家の前庭には白い壁に燃えるような濃い紅色のブーゲンビリアの花が咲いており、それを画面に入れ込んだミコノス港がなんとも美しい。その家の庭に入れてもらうために一声かけてみたが応答がなかった。シエスタ(昼食後の昼寝の習慣)の時間なのかもしれないのでそれ以上呼ぶのは遠慮した。ギリシャ人は午睡を4時間もする。1日は2回に分けられることになる。この時間に大声を出していると猛烈に怒られるばかりでなく、パトカーが飛んでくることもあるという。外をぶらぶらしているのは観光客ばかり。私もシェスタをしたい。郷に入れば郷に従う。自分の生活サイクルをその地の人の生活サイクルに合わせないと生きにくい。どこか適当なところはないだろうか。まかり間違えば“昼下がりの情事”にありつくかも…?

路地の両側には赤い花を飾り、窓枠は空色/写真転載不可・なかむらみちお  ミコノスタウンは迷路の街である。曲がりくねった狭い路地の両側には二階の窓に赤い花を飾り、窓枠を空色に、建物を白く塗った家が不思議な美しさを醸し出している。日本人の私には夢のような光景である。家々の窓はそろって非常に小さく、しかも高い位置についている。道はいわば迷路のようで、白いおとぎの世界にいるようである。行き交う人と肩が触れ合うほど狭く曲がりくねった道と不思議な調和を醸し出している。昔、海賊の侵入に備えた迷路だという。後で行こうと思っていても同じ店に二度と辿り着けないこともある。白い家は、一年に2回以上も塗り替えられ、美しさを保っている。島の住民は、いつも家を白くするように義務付けられている。
 迷路に沿ってユニークなデザインのものとか伝統的な金・銀のアクセサリーを並べた店などが連なる。その迷路のような狭い道を世界から訪れた若者が、薄物一枚で闊歩している。裸同然だから金目のものは何一つ持っていない。だからスリはいない。治安は良く楽天地そのものだ。旅人たちには安心して過せる島だ。穏やかな時が静かに通り過ぎてゆく。
 タウンの中は地図を見るよりもとにかく歩き回るほうがよい。何があるかより何を見付けるかに賭けたほうがずっと面白い。どんなに迷っても港の方か、あるいは南の端のバス停のある方向に出てしまうかのいずれかだ。地図を見て歩いても、必ずといってよいほど迷ってしまう。土地の人に道を尋ねながら、のんびり探索してみるとよい。エーゲ海のミコノス島は、観光的には最もポピュラーな島である。

氷山のようなパラポルティアニ教会/写真転載不可・なかむらみちお  島には教会が420もあるという。人口わずか4000人というこの島にこの数字は驚くべきものだ。それだけ住民の生活の中に宗教がきめ細かく浸透しているのに違いない。主として海に乗り出す人々の安全を祈るために建てられたという。その中でパラポルティアニ教会はキクラデス諸島でも代表的な美しい教会建築である。
 魚が食べたい。私は強烈にそう思った。ギリシャはエーゲ海の恵みを受けて魚介類が豊富。港の近く、クルーズ船や漁船がひしめくきれいなミコノス港に面して、数多くのタベルナやお土産屋が並び、獲れたての魚介類を楽しむことが出来る。伊勢エビ、小エビ、イカ、貝、たことシーフードなら何でも美味しい。料理法もお好みしだい。オリーブ油やニンニク、香料をたっぷり利かせた料理もいいが、なんといっても新鮮な海の幸。“焼いたり、ゆでたあとに、さっとレモン汁だけをかけて食べるのが最高”と島の人々は口をそろえる。ギリシャの地酒「ウゾ」や松脂の香りの効いたギリシャワイン「レツィナ」のちょっと癖のある酒と、これらの料理はさすがにぴったりで、地中海の恵みを教えてくれる。名物を食わずして旅を語るなかれ。
 港から少し街の中に入ったところにある「Niko's(ニコス)」は人気のシーフードレストラン。安くて美味しいフィッシュタベルナとしていつもお客で賑わっている。赤いチェックのテーブルクロスが目印。店内はビール樽やギャラリーのように絵が飾ってあったりでなかなか素敵である。街の人でいつもにぎわっているのは、安くて美味しい店の証拠でもあろう。因みにこの日の昼食はシーフードが2000Dr.、パンが200Dr.であった。

   7月31日(木) Mykonos(船)-Dilos(船)-Mykonos
 デロス島はミコノス島から約20qのところにぽっかりと浮いている面積わずか3.5`uというキクラデス諸島の中でも小さな島。ミコノスからデロスへ行くのには、観光シーズンには毎日定期小型客船(1600Dr.)が出ているが、午前9時頃にミコノス港を出発、正午にはデロスを発たなければならない。海が時化ると船は欠航になる。前回来た時には時化の為に船が欠航して2度も行き損なったので今回は何とかして行きたい。船はミコノス・タウンのセント・ニコラス教会の先の桟橋から出ており、桟橋手前の入口にあるチケット売り場でチケットを買い船に乗り込む。

     目次へ   ↑ページの一番上へ

      Dilos(デロス島)
 現在のデロス島は、紀元前七世紀ごろに栄えたデロスの面影を静かにたたえており、島全体がひとつの博物館といった趣がある。島には民家も宿泊施設なども一切ない。船でデロスに渡るだけで40分くらいは要するので、その広大な遺跡や博物館を見学するのに、僅か2時間余りの持ち時間しかなく、まことにせわしいないことになる。デロス島の遺跡(入場料1200Dr.)は広い。よほど要領よく廻らないと、とても2時間余りで遺跡の全体像を把握することは難しい。
 デロスとはギリシャ語で「明るい、輝いた」という意味。このデロスという島の名に聞き覚えのある人は多いのではないだろうか。そう、世界史の中で忘れることのできない“デロス同盟”(BC478年)という海上軍事同盟が結ばれた島だ。ここで生まれた政治や彫刻、演劇、文学や哲学、歴史がヨーロッパ文化の基礎となった。それほどに古代エーゲ海の政治・宗教・商業で重要な役割を果たした島であった。また、ここは太陽の神アポロンとアルテミスが生まれたところとして、ギリシャ神話の世界でも有名なところ。
大理石のライオン像/写真転載不可・なかむらみちお  どこを歩いてもどこまで行っても、屋根が崩れ落ち、柱だけとなってしまった壮大な遺跡が続く。遺跡には、古代劇場の跡、ポセイドンの家、イタリア人市場、ヘーラーの神殿などがあるが、中心となるのはやはりアポロンの神殿であろう。そしてその神殿を守るように立っているリアルな大理石のライオン像。現在は5頭のみだが、もともとは9頭のライオンがこの神殿を守っていた。数千年の時の重みと、中心を支える鉄の柱の腐食が徐々にこの遺跡をも崩してしまった。大理石の獅子像が神域を守っているかのようである。さらに小高い丘の上には、ゼウス・アテナの神殿もある。博物館には、ここで発掘された多くの出土品が陳列されている。
 現在、この島には民家はまったくない。島全体が遺跡である。島巡りはもちろん徒歩で、疲れたら遺跡のどこかに腰を下ろして時の流れの中に身を任す。すると目の前にギリシャの神々が現れてくるかもしれない。アポロンのせいかどうか、太陽はかげりを知らず、乾いた光をさえぎるものはどこを探してもない。一歩この島に足を踏み入れてしまった以上、私たちはこの島を出る以外に、現在という空間に戻ることはできない。輝く太陽の光から逃れる術もない。まるでアポロンに支配されてしまったかのようである。ギリシャの英雄を思わせるアポロン神殿を守る9頭のライオン像も自然の風雨にさらされて崩れつつある。このままタイムマシンに乗り遅れて現在にもどってくるのを忘れないようにしなければならない。
 時間がない。限られた時間では到底全てを見ることはできない。未練を残し遺跡を後に私は後ろ髪を引かれる思いで船着場へと急いだ。今しも船が岸を離れて行った。一人の男がその船を追うように手を振りながら波打ち際を走り、船に向かって大声を上げて叫んでいる。きっと乗り遅れたのだろう。船は引き返すこともなく無情にもそのまま去って行ってしまった。私の乗る船は次便である。
ヴェネチアン・ポート/写真転載不可・なかむらみちお  ミコノス島に戻ってニコスレストランの向かいにある「Ta Kioupia(タ・キュピアン)」でランチとする。ここはシーフードが安くて美味しいとタウン内では地元の人に評判がいい。その日のスペシャル料理が並び、前菜やサラダが10種類くらい。野菜料理が多いのも嬉しい。基本はギリシャ料理で、先ずショーケースを見て好きな物をオーダーする。スタッフドトマト(1200Dr.)などのおなじみの料理もある。ロブスターもしっかり大きさを確認して、料金も確かめられる。メニューがギリシャ語表示でわからないときは、調理場で材料を見せてもらうとよい。気軽に応じてくれる。とりあえずビールを頼んでから挽肉団子焼きとポテトフライ、それにライスをオーダーした。
 街の西側の海辺にあるヴェネチアン・ポート(リトルヴェニス)には海沿いにシーフード・レストランが並び、風車と綺麗な夕日を見ながら波打ち際で食事をするのも風流だ。ここから見渡す岬の丘には、なだらかな島影に数基の粉曳き小屋の風車が並び、荷物を背負った寡黙な驢馬が草を食む。風車はこの島のシンボルである。

   8月1日(金) Mykonos
 エーゲ海に浮かぶ白い宝石と謳われるミコノス島。今日もミコノスの港が一望に見渡せる丘の上へ行き、ミコノス港と風車群を撮影する。アギア・イオアヌス通りに面した風車は、午後2時頃から廻り出し、落日まで廻っている。
 ランチは今日もまた「タ・キュピアン」へ行き、平目料理(2100Dr.)を食べた。

   8月2日(土) Mykonos
 今日はミコノス・タウンをうろつき、パラポルティアニ教会を始め街の中をスナップしながら迷路に迷ってみる。
 昼は「タ・キュピアン」に寄り、先ず、ワイン(1200Dr.)を注文した後、ミートボール、ライス、トマト煮(1500Dr.)を食べる。(合計2900Dr.)。ギリシャのレストランではまず台所を見せてもらう。大きな鍋が並んでいる調理場にどんどん入って行き、食べたいものを指差して選ぶと、それがテーブルに運ばれてくる。
 顔見知りとなったウエーターが私が持っている日本製のカメラを見せてくれと言う。ファインダーを覗かせて上げると嬉しそうだった。彼は手にとってさも羨ましそうに眺めまわす。そして、日本ではいくらで買えるかと訊ねられた。
島のマスコット、ペドロ/写真転載不可・なかむらみちお  レストランと通路の間の生垣に島のマスコットとなっているペリカンのペドロがうずくまっていた。島のアイドル「ペドロ」は島の人気者。いつも港近くを散歩しており、訪れた観光客の人気者になっている。現在は年老いた二代目と若い三代目の三羽のペリカンがミコノスの人々に可愛がられている。羽の色が綺麗なほうが三代目。一代目は残念ながら交通事故で亡くなってしまったそうだ。ペリカンの寿命は何年だろう。知っている方は教えて下さい。
 太陽が西に傾きかけた頃、ヴェネチアン・ポート(リトルヴェニス)で一服。ミコノスの見所は、白い街並みと風車小屋である。ミコノス港の夕暮れもいいが、グラスを片手にここから風車を眺めながらの夕日も良い。エーゲブルーの海をワインカラーに染めて沈む真っ赤な夕日は壮観である。

昼と夜の表情がまったく違う街ミコノス/写真転載不可・なかむらみちお  涼しくて長いのがギリシャの夜。特に夏の間は日没が午後9時半頃。しかもシェスタ(昼寝の習慣)があるので、ギリシャの人々は夜遅くまで食べたり飲んだりして長い夜を楽しむ。シェスタのあるギリシャの日暮れは二度目の一日の始まりでもある。白い迷路の街にはアクセサリー店などと共にカフェ・バーなども軒を連ね、明け方まで賑わいをみせる。
 陽気なギリシャ人気質をのぞき見るには、タベルナ(日本でいう居酒屋)に行くと良い。多くの店で22時ころから民族楽器ブズーキ(マンドリンによく似た弦楽器)演奏が始まり、民族舞踏がこれに続く。タベルナで食べながら見て、見ながら飲む。そのうちに客も一緒になって踊りだす。哀調のある音色が海の彼方へと流れてゆく。ギリシャ庶民の夜は長く、みんなで歌い踊り、朝方まで延々と続くのである。昼と夜の表情がまったく違う街である。
 夜の10時頃はミコノスのラッシュタイムである。前回来たときにこの時間にタクシーを拾おうとしたがなかなか捕まえることが出来なかった。たまりかねて近くのレンタルバイク屋さんから電話を借りて呼んでもらった。それでも駄目だった。見かねてその店の主人が従業員に命じて自家用車で宿まで送ってくれたことがある。ミコノスの人たちは、旅行者たちに実に親切だ。今回そのレンタルバイク屋さんを訪ねてお礼を言おうと思ったが、記憶をたどって行った場所には見つけることが出来なかった。果たせなかった思いを引きずって宿へと向った。

   8月3日(日) Mykonos(バス・船)-Super Paradise Beach(船・バス)-Mykonos
プラティ・ヤロス海岸/写真転載不可・なかむらみちお  ヴェネチアン・ポート近くのThe Cathedral(ギリシャ正教会)では日曜日の朝8時から10時までミサが行われ、地元の信者が祈りをささげている。私も教会の中に入り、お祈りの様子を見学させてもらった。(ミサに参加するときは、長ズボンかスカート、長袖の上着を着用しなければならないのでご注意を…)。
 集会の後、参加者たちは近くのタベルナのオープンテラスでメタクサ(薬草の入ったギリシャのブランデー)やグリーク・コーヒーなどで談笑のひと時を過している。教会は老人たちの憩いの場であり、社交場である。私もミサ後の食事会にご招待を受ける。ギリシャでは、旅人を心から大切にしてくれる習わしがある。旅人を温かく迎える良き風習がある。ギリシャの哲学者曰く、“一杯目のワインは友好の為、二杯目のワインは愛とよろこびのため、そして三杯目のワインは深い友情のため”。
 ミコノス・タウンを湾と反対に南に抜けたところにバス停がある。ここからバスに乗って6qほど行ったところにPlati Yialos(プラティ・ヤロス)海岸がある。そこからポンポン蒸気船がジーゼルエンジンに変わったような小型の船に乗ると15分ほどでSuper Paradise Beach(スーパー・パラダイス・ビーチ)に着く。

     目次へ   ↑ページの一番上へ

      Super-Paradise-Beach(スーパー・パラダイス・ビーチ)
世界でも最も美しい海水浴場/写真転載不可・なかむらみちお ヌーディスト・ビーチとしても有名/写真転載不可・なかむらみちお  ここは世界でも最も美しい海水浴場であり、ミコノス島の中で最もソフィスティケイト(洗練)されたビーチである。また、ヌーディスト・ビーチとしても有名である。
 愛と美の女神Aphrodite(アフロディテ=英語ではヴィーナス)はエーゲ海の泡から生まれたといわれている。目の前にあくまでも青くコバルトブルーの透明な海が広がっている。岸辺にはボッティチェリのヴィーナスの誕生を思わせる白波が立っている。今にも恥じらいの風情を顔に浮かべた美神が貝殻に乗って波の中から立ち現れてくるようであった。しかし、“生きたビーナス”を見るつもりでこの国に来た人は失望するだろう。女性の美に関してはバルカン半島は世界でも最も不毛、不作地帯である。

ミロのヴィーナス/写真転載不可・なかむらみちお  海辺には4、5軒のタベルナがある。適度にこじんまりとした砂浜に、ゆったりと寝転び、体が熱くなったら冷たい海に飛び込んで体を冷やす。そして、これを繰り返しているうちに1日が過ぎてしまう。
 現在、パリのルーヴル美術館の一番目立つところに展示されている「ミロのヴィーナス」はこの近くのミロス島で1820年に発見された。ミロス島は古代から青銅文明が栄えていた。私も何度か見たが、美しいものは何度見ても美しい。古代のエーゲ海でこれほど美しく尚且つ人類の最高大傑作の芸術品が作られていたということは驚きであり、その文化の高さに感服する。

   8月4日(月) Mykonos
ホテルの前庭で寛ぐ/写真転載不可・なかむらみちお  明日はいよいよこの島とも別れてアテネへ行く。そのための準備もあることなので、午前中はホテルの前庭の白い椅子に腰を下し、日陰でガイドブックなどを広げてゆっくりと過した。
 昼過ぎにバスに乗りミコノス・タウンへ行き、今日もまたレストラン「タ・キュピアン」で食事をする。今日のメニューはロブスター(8400Dr.)。それにサービス料が200Dr.。
 顔見知りになったウエーターに、私が持っているカメラを売ってくれと頼まれる。私の場合、海外旅行には通常3〜4台のカメラを持って行く。 今回も3台の国産35_カメラを持ってきていたので、その中の中級機なら売ってもいいかなと思った。彼はそれでもいいという。ただし代金は明日にならないと用意できないと言う。明日はもうこの島を離れるので、結局は商談は成立しなかった。
 ギリシャの男は働くことよりも話好き、議論好き。一旦話を始めるといつ果てるとも知れない。昼間からテーブルを囲んでウゾーを飲んでいる風景をよく見かける。

時がゆっくりと流れてゆく/写真転載不可・なかむらみちお  古代ギリシャは民主主義発祥の地。昼日中からあちらこちらでテーブルを囲んだ男たちが話し合っている。論争、言い訳はギリシャ人三千年の歴史を持つ得意分野である。降り注ぐ地中海の太陽の下で美味しい果物を食べながら、ギリシャ神話の酒の神バッカスが造ったというギリシャワインを飲み、夕べのサッカーの試合の話、政治の話を、それこそ口角泡を飛ばしながら大声で言い合っているギリシャ人は、とても幸せそうだ。「ここに座っておいらの女房の話でも聞いてゆきなよ」とでも言われそうである。大声でしゃべりまくって決してフラストレーションを翌日まで残さない。自殺率が世界で一番低いのがギリシャ人だそうだ。もしかしたら世界で一番ハッピーな民族なのかもしれない。
 紀元前五世紀を中心とする古典時代に政治、哲学、文学、美術、建築、医学、自然科学の分野で数多くの傑出した人物を出し、西洋文明発祥の地として名声をはせたギリシャだが、2500年後の今、ギリシャ人の末裔にそれを期待するのは無理である。現代のギリシャ人は、過去の栄光の重みを背負いながら生きている。
 島では時間がゆっくりと流れている。ギリシャでは、今も村の広場で哲学が語られている。時がゆっくりと流れ、時間と空間を越えた何かにすっぽりとはまり、今日が何日の何曜日なのか分からなくなってしまう。エーゲ海の島々は、今も変わらず最もギリシャらしいギリシャに出会えるところである。

   8月5日(火) Mykonos(船)-Pireas(地下鉄)-Athens
 アテネへ向う船の上から遠ざかるエーゲ海の島々を眺めていると、私は何かやり残したことがあるような、そんな未練が心に残った。いつの日か三度訪れるのを願いつつ、この魅力あふれる島に後ろ髪惹かれる思いで別れを告げた。(ミコノスからピレウスまでの船賃は4685Dr.)。
 船内のテレビが今アテネで行なわれている第6回世界陸上競技選手権大会(8月1日から10日まで開催)を中継していた。

     目次へ   ↑ページの一番上へ

      Athens(アテネ)
 ピレウス港には夜の10時半頃に着いた。アテネの宿泊施設は、ピンからキリまで数多くある。どんな時でも、泊まるところがなくて困ることはまずない。プラカ周辺に手ごろな宿があるが、今夜は前回(7年前の1990年8月)来た時に泊まったオモニア広場前の「ネストルホテル」に泊まる予定である。言葉が分からないから電話予約するのが面倒で予約はしていない。手紙も出していない。
 アテネの二大広場の一つオモニア広場付近は映画館、安ホテル、軽食堂、カフェニオン、銀行などがひしめくアテネ最大の下町の中心地。広場のまわりはロータリーになっていてここから6本の道が放射状に延びている。いずれもアテネの幹線道路だ。娼婦や赤線地帯のアティナス通り、ピレオス通りにも近い。このあたりはさしづめ上野と浅草を一緒にした繁華街とも言える庶民の活気あふれる所である。広場の地下はアテネの北郊キフィシア地区とピレウス港を結ぶ地下鉄のオモニア駅となっている。ピレウス港からから地下鉄で来るのに一番安くて大変便利である。このあたりのホテルも、プラカ地区同様安いことでは定評がある。

 ピレウスから地下鉄でオモニア駅まではおよそ30分で着く(150Dr.)。駅を降りたらエスカレーターで地上に上がり、ロータリー前にある「ネストルホテル」を目指す。あたりはすでに夜のとばりも降りて暗い。街は行き交う人もまばらで閑散としている。
 記憶をたどってあの時建っていたホテルの前に来て唖然とした。そこにはあのホテルがない。あるのは簡単な囲いをした中にこんもりと破壊されたコンクリートの塊の瓦礫と化した小山があった。うそだろう。まさか。そんな。なんってぇこった。何が起きたのだ。唖然としてその場に立ち尽くす。
その名も「マラソンホテル」/写真転載不可・なかむらみちお  どうしよう。とにかく差し当たり今夜寝るところを確保しなければならない。ホテルを求めて、重い荷物を引きずり広場から放射状に延びている次の大きな通りに行ってみる。2軒ほど並んでホテルがあった。その手前のホテルの名前が「Marathon Hotel(マラソンホテル)」と夜光看板を出していた。フロントに行くと部屋はあるという。しかし、予定していたよりも少し値が高い。一応部屋を見せてもらった。部屋は清潔。机もちゃんとあって手紙が書ける。悪くはない。
 荷物をフロントに預けて一応、隣のホテルにも当たってみたがここよりももう少し高かった。予定よりも少々値が高いが、もう面倒になったので差し当たり今夜はこのマラソンホテルに決めることにした。フロントマンに訊いたところ、先の「ネストルホテル」は地下鉄工事のために立退きさせられたとのことであった。
 ベッドに入った時にはすでに12時を回っていた。明日夜が明けたら下駄を天に放り投げてみよう。右を向いたらイスタンブール、左を向いたらスペイン。北に傾いたらヨーロッパ。南ならアフリカへ…。当てのない旅はまだまだ続く。気の向くまま、風の吹くまま。楽しく難問を解決できるような心の余裕を持ちながら…。まぁ、何とかなるだろう。

   8月6日(水) Athens
 以前、妻が行って来てとても良かったと言っていた奇岩と修道院で有名なメテオラへ行ってみたいと思ったが、交通が不便で時間も掛かるのでツアーを探すことにした。
 近くの旅行代理店は小さく、カウンターには中年を少し過ぎたようなおばさんが居て応対してくれた。その後の席には大きな目の若い男が座っていた。どうやら店員はこの二人きりらしい。話を聞いてみると1泊2日ではメテオラの観光は無理らしい。3日は必要だというが日程にそんな余裕はない。メテオら行きは次回に譲ることにして今回はあきらめた。12日からトルコのカッパドキアへ行くことに決めてアンカラ行きの航空券を手配して貰う。
 若い男の店員が、「アンキラなんとかかんとか」と話しかけてきたが何のことか分からない。女店長は航空券は明日の午後までに用意しておくという。私は明日からペロポネス半島のオリンピアに行って明後日帰ってくるというと、それまでに用意しておくとのことであった。
 ギリシャ人の夕食は普通21時頃から始まる。それ以前に賑わっているタベルナは観光客に人気のところ。オモニア広場のパティシオン通りとコトプリ通りの間にはさまれた一角には安くて庶民的なタベルナが集中している。ボャッとしていると口上の上手いタベルナのおじさんにつかまって、アッという間に座らされてしまう。席に着く前に、まずショーケースなりキッチンの中をのぞいて素材や料理を確かめる。気に入ったら先に素材や料理を指差して注文をしてから席に着く。ギリシャのタベルナでは、こうした面白いやり方ができる。

   8月7日(木) Athens(バス) - Pirgos(バス) - Olympia
 今日は1971年に仕事で一度行ったことのあるペロポネス半島北西部のオリンピアへ行くことにする。列車もあるが、ギリシャの国鉄は遅れることが多く時刻通りには走らないのでバスで行く。
 未だ明けやらぬ早朝、ホテルを出てオモニア広場に近いZinonos(ジノノス)通りとMenandrou(メナンドロウ)通りが交差する広場にあるブルーバスの停留所から051番のバスに乗り、100.Kifissiu(キフィスウ)ターミナルへ行き、そこからオリンピア行きのバスに乗る(5250Dr.)。オリンピアはアテネからPatra(パトラ)経由で319q。
 アテネを出てすぐの停留所から検札官が2人乗り込んで来て検札を始めた。やがてパトラの港近くにバスが停まった。パトラは、ペロポリス半島の北の港町。ギリシャでは4番目に大きな商業都市だ。そしてこの街はイタリアやイオニア海の島々とギリシャとを結ぶ海の玄関口である。パトラ港には大型の客船などが岸壁に接岸していた。
 パトラを過ぎた頃トラックの荷台にいっぱいトマトをバラで積み込んだトラックの列が順番を待って並んでいた。それは大変な台数の列で見事なものだった。私の故郷では澱粉工場があり、収穫の頃には馬が曳く荷馬車にいっぱいのじゃが芋を載せて澱粉工場に運ぶ荷馬車の列が毎年秋に見られたことを思い出した。
 バスは途中のPirgos(ピルゴス)で乗り換える。

     目次へ   ↑ページの一番上へ

      Olympia(オリンピア)
ヘラ神殿/写真転載不可・なかむらみちお  オリンピアはペロポネス半島北西部エリス地方の南部ピサティスにある。クロニオンの丘の南麓に、西にクラデオス川、南にアルフェイオス川が流れる牧歌的な小さな村である。オリンピアは暖かく、遺跡の近くには羊が放牧されていた。“オリンピック”の名と派手なイメージとは裏腹に、古代も現代も山間の小さな町でしかない。オリンピアはいわゆるポリス(都市)ではなく、オリンポスの主神ゼウスを祀るギリシャ随一の神域であった。紀元前8世紀から千年以上にわたって4年毎にギリシャの民族的祭典古代オリンピック競技(オリンピア祭競技会)が行われたところで、夏と冬に行われるスポーツの祭典オリンピック発祥の地である。もともとこの競技はゼウスの神に奉納された神事であった。今も世界各国で開かれる近代オリンピックのための聖火は、この古代オリンピアの地のヘラ神殿の前で点火される。
 古代オリンピックは、選ばれたギリシャの青年たちが美しい肉体と躍動するたくましい力をゼウスの照覧に供した宗教的行事であり、単なるスポーツ競技ではなかった。そこに近代オリンピックとの本質的な差異がある。従って勝者も金メダルや莫大な賞金ではなく、聖なるオリーブの冠のみを戴いた。その発想がなんとも清々しい。

プラクシテレスのヘルメス像/写真転載不可・なかむらみちお  遺跡に一歩足を踏み入れるとオリーブや松の緑濃い木立がゼウス神殿やヘラ神殿、スタジアム、ギムナジウムなどの跡に美しい影を落としている。またオリンピア博物館では有名な「プラクシテレスのヘルメス像」を始め、数多くのすばらしい彫刻を見ることが出来る。
 私は1971年(昭和46年)12月28日。第11回札幌オリンピック冬季大会のオリンピア採火式がヘラ神殿前で行われた時、JNNテレビニュースの代表カメラマンとしてこの採火式に臨んだ。この時はオリンピアの遺跡の空中撮影を兼ねて日本人カメラマン同士でセスナ機をチャーターしてアテネからピルゴスまで入った。
 ギリシャは実にのんびりしている。日本のようにあくせくはしない。採火式は10時半にヘラ神殿の前で始めるということだったが、時間が過ぎても採火を司る巫女さんたちが一向に集まりそうにもなく、なかなか始まらない。ギリシャ・オリンピック委員会(HOC)の事務総長に訊いたところ、スタッフの女性の化粧が長引いているらしい。事務総長いわく、「女だから仕方がない」で話は終わってしまった。
 結局採火式は予定の10時半からおよそ1時間も遅れて始まった。はじめ予定していたヘラ神殿前は近くの松の木の影が移動してきたため日陰となって使えなくなってしまった。急遽場所を少し移して始まった。この程度の融通性はギリシャ人にとっては日常茶飯事である。いちいち気にしていては何も出来ない。
燃え上がった聖なる“札幌の火”/写真転載不可・なかむらみちお  採火式は、地中海独特の抜けるような青空の下、午前11時半頃から約30分間、古代の巫女姿に身を包んだ女優たちによって古代にのっとり、日本の聖火採火派遣団および地元ギリシャ・オリンピック委員会(HOC)、地元の人たちなど200人ほどの見守る中で、古典劇の美しい未婚女優のマリア・モショリュウさんの手で無事厳かに執り行われた。集まった人々のオリンピックを通じて平和を祈るような表情が印象的であった。この後、聖火は古代の鉢(スキポス)に移され、古代ギリシャの遺跡を染めて揺らめき、燃え上がった聖なる“札幌の火”は、モショリュウさんを先頭に8人の巫女と関係者一行により競技場へのゲートを通ってクーベルタン公園にある近代オリンピックの父、クーベルタンの碑の前へと優雅な足取りで運ばれた。
 糸杉の森に囲まれた公園では聖火を前に荘厳なセレモニーが行われ、モショリュウさんが“オリンピアを讃える詩”を朗々と読み上げ、第一走者に選ばれた18歳のバスケット選手、ヨアニス・キルキレス君にトーチが渡され、札幌へ向けての道18,000`の長いリレーのスタートを切った。
 私はこの模様をわが社では一台しかない当時としては最高級のアリフレックスというドイツ製の一眼レフ式の16_ムービーカメラと普段ニュース取材で使っているアメリカ製のフィルモ というカメラを交互に持ち替えて撮影した。同時進行の情景を二台のカメラで撮影するのは至難の業である。二台のカメラで撮影したのは、当時は撮影したフイルムを現地から日本へ空輸するわけだが、必ず日本へ届くという保証がなかった。それと本番中の不測の事態(機材トラブルなど)に備えて貴重な記録を残すためにも押さえ(予備)として2台のカメラを使って撮影せざるを得なかったわけである。これらの機材を現地に運ぶだけでも大変であった。一発勝負の怖さである。当時の日本航空は、ギリシャに寄航する便がなかったので撮影したフイルムを日本へ無事に早く届けるのには大変苦労した。
“オリンピアを讃える詩”を読み上げるモショリュウさん/写真転載不可・なかむらみちお  聖火は第1回近代オリンピックの会場であったアテネのパナテナイコン・スタジオン(アテネ競技場)に運ばれて一夜、夜空を赤々と染めて燃え続 けた。翌29日、聖火はアテネ・ヘリニコン国際空港に運ばれ、そこで地元ギリシャ・オリンピック委員会から日本の聖火採火派遣団に正式に引き継 がれ、その頃アテネには寄港していない日本航空のローマからの飛行機を特別に寄ってもらった特別寄航機で午後5時、一路日本の第一リレー地、 沖縄へ向けて出発した。
 特別機は途中給油のためベイルート、テヘラン、バンコック、香港に寄港した後、悲願の本土復帰を目前にした沖縄に運ばれた。翌日島を一周した後、沖縄からは全日空の特別機で元旦の昼頃東京羽田空港に到着、私も聖火とともに特別機に乗り日本に帰ってきた。その後聖火は国内をリレーして札幌までの約一万八千`を旅して1972年2月3日、真駒内競技場で行われた冬季オリンピック札幌大会の開会式で五万人の大観衆の中、ギリシャから運ばれた聖火が燃え上がった。
 日本に帰って来て札幌真駒内競技場での開会式のリハーサルの取材に行った。式の進行のリハーサルをしている。「○分○○秒、○○を行う」と秒刻みのアナウンスが入る。日本人の国民性とギリシャ人の国民性があまりにも違い過ぎて唖然とする。

石造りの入場門/写真転載不可・なかむらみちお  私はかつて聖火と共に潜った石造りの丸天井の入場門を通り抜けて、紀元前四世紀中ごろに作られた広々としたスタデオン(競技場)に入った。この瞬間に味わう開放感は格別のものである。正面にこんもりと茂る木立、その上に広がる青空、こうした牧歌的な風景の一部をなす土のフィールド、それを取り巻く土手の観覧席。この単純で飾り気のない、晴れ晴れとした空間が名にし負う古代オリンピックのメーン・スタディアムだった。収容人員四万人という観覧席は北側と東側はスロノスの丘の山裾の斜面を利用し、南側と西側は人工的な盛り土であるが、石造りの頑固な座席などは造られず、人々は草の上に自由に座って観戦した。20人が並んで走れる広い走路は、東端に二条の浅い溝のついた約50a幅の白い石版が一列に並べられているスタートライン、西側に同じく石版のゴールラインを持ち、その間の距離は600オリンピック尺(約192b)であった。このスタート(ゴール)ラインは、走路の縁にめぐらされた石造りの排水溝とともに今日まで見事に保存されている。

白い石版が一列に並べられているスタートライン/写真転載不可・なかむらみちお  私は、スタートラインに就き、ひとりゴールまで走ってみた。古代オリンピックのように裸ではなかったが…。そして、オリーブの冠を模してそっとオリーブの小枝を頭に載せてみた。
 採火式の取材で訪れたときは会社持ちだったので、旅行代理店が用意したオリンピアで一番高級な、(と、言っても小さな町なので知れているが)「Hotel Spap」に泊まった。勝手知った所が良いかなと思い、懐かしさもあって行ってみたが、少々予算と合わなかったのでもう少し値段の安い、「Hotel Inomaos」に決めた。
 メインストリートを歩いていると、道路脇の屋台でおばさんが焼きとうきびを売っていた。昭和の始めの札幌の街角を思い出して懐かしい。歌人啄木が見たらどんな詩を詠うだろうか。
 メインストリートから一本北側に入った通りの角に「Restaurant Symposium」という感じの良いレストランがある。今晩はここで食事をすることにした。メニュー料理がグリークサラダ、スブラギとオクラ、ポテトフライトマト付け合せ(2500Dr.)。それにワイン(600Dr.)、サービス料(300Dr.)。合計3,400Dr.。先日、この店に海部俊樹元首相が来て食事をして行ったとのことであった。

   8月8日(金) Olympia(列車) - Athens
コリントス運河/写真転載不可・なかむらみちお  町の中ほどに国鉄の駅がある。ギリシャ鉄道の遅れ方は悪名が高い。その点バスはしっかり者だ。しかし、アテネへ向かう途中の列車の窓からコリントスの運河が見えるということなので、運河を見たくて当てにならない鉄道でアテネに帰ることにした。
 折り返しの列車が到着する頃木造の小さな駅へ行く。列車はまだ到着していない。ホームに出てもベビーカーを押した婦人以外に人影は見当たらない。なんとものどかな駅だ。やがて列車は数人の客を乗せてアテネに向けて一応定刻に出発した。
 コリントス運河は、アテネの西約80qのところにあり、1893年に完成した。高さ70b、深さ7.8b、全長南北に6436b。幅24.3bの狭い運河で、今も南ギリシャとイオニア海やイタリア方面を結ぶ大切な海のルートである。
 列車は運河の上で一旦停車した後、徐行してくれた。切り立った崖が両側から迫り、はるか下のほうに緑色をした細長い運河が見れた。

     Athens(アテネ)
 列車はほぼ予定通りアテネの国鉄駅、Sta.Peloponnese(ペロポネソス駅)に着いた。ここからオモニア広場までは1qほどの距離。歩いても20分ほどで行ける。地図とコンパスを頼りにホテルへ。途中でホテル近くの旅行代理店に寄り、一昨日頼んでおいたアンカラ行きの航空券を受け取るべく立ち寄った。しかし、彼の女将は留守で、若い男の店員は分からないという。そしてまた、「アンキラなんとかかんとか」と言っているが意味が分からない。一旦、ホテルに帰り夕方もう一度行ってみると、女将は手を横に振り、“Nothing… Tomorrow…(今は手元にはないから、明日用意しておく)”と言う。

   8月9日(土) Athens(バス)-フィロパポスの丘(歩)-Athens
 今日は1994年10月30日に開催された第12回アテネ国際マラソン大会に参加して走った懐かしいマラトンへ行ってみることにする。アテネ考古学博物館の北、29.Mavromateon Stのバスセンターに行くと、係りの人が「今日はこの路線の道路で第6回世界陸上競技選手権大会の女子マラソン競技があるからバスは運休になっている」という。
フィロパポスの丘から見たアクロポリス/写真転載不可・なかむらみちお  やむなく予定を変更してフィロパポスの丘へ行くことにする。アテネ最大の見どころは、アクロポリス。頂上に名高いパルテノン神殿を戴くアテナイのアクロポリスの最も美しい姿を眺めるには、そのはす向かい、南西の方向にある小高いフィロパポスの丘(ムセイオンの丘、ミューズの丘とも言う)に上って見るのがいい。ここはアクロポリス(海抜156b)とほぼ同じ高さの、野生のオリーブの木が茂る小高い丘である。近くまでバスが行っている。頂上のフィロパポス記念碑からアクロポリス、アテネ全市が一望できる。ここから見るパルテノンの比較的良く保存されている西正面が夕日を浴びて茜色に染まる一瞬が特に美しい。フィロパポスの丘から見た神殿は、歴史を超えてわび色に輝く。その姿は遠くから眺めると、不沈を誇る戦艦のようでさえある。
 アクロは「高い丘」を意味し、ポリスは「都市国家」と訳される。つまり、“丘の上の都市”という意のアクロポリスには、古代ギリシャの白亜の建造物がそびえ立っている。中でも有名なのがパルテノン神殿。これは紀元前五世紀のアテネ国家が成し遂げた最高傑作である。
 アテナイ(アテネの古代名)は紀元前五世紀、古代民主制を確立し、輝かしいギリシャ古代文明を開化させた。その象徴であるパルテノン神殿は、今なお近代都市アテネを睥睨(あたりをにらみつけて勢いを示す)している。
近代都市アテネを睥睨するパルテノン神殿/写真転載不可・なかむらみちお  パルテノン神殿はアテナ女神を祀る為のドーリス式の巨大な神殿である。時の指導者ペリクレスの提唱によりアッティカの守護神アテナのために創建された。正面と背面とにそれぞれ8本、両側に17本、計46本のドーリス式列柱が神殿の周囲を取り巻いている。柱の中央部に膨らみを持たせたエンタシスは、ギリシャ様式の典型。「曲線によって直線の美を表した」神殿様式として世界的にも有名である。建材は輝くばかりに白いペンデリコン山の大理石を使っている。その荘重にして調和のとれた典雅な姿は古今東西で最も美しい建物という名をほしいままにしている。アテネの全盛期にあたる紀元前438年に完成した。
 昼、夜、アテネのどこを歩いていても、ビルの谷間からアクロポリスの丘を望むことができる。この丘を仰ぐとき、確かにこの地は古代が生きていると実感できる。
 “神話の国”“遺跡の国”そして“光の国”…。ギリシャは、旅行者に夢とロマンを与えてくれる魅力あふれる国だ。ヨーロッパ文明の基礎となった壮大な歴史と文化を持つギリシャは、史上最初の民主主義を築き、ヨーロッパ文明の基礎となった。その歴史は紀元前5000年まで遡り、長大な流れは、神話と史実が混沌と入り混じるロマン溢れる時代からヨーロッパ文明発祥の地として輝かしい時代、そして現代の近代国家に至るまで延々と続いている。ここには今なお当時を偲ばせる遺跡が残されている。2500年もの昔、精神文化と芸術がすばらしい完成の域に達したという歴史を背景に、アテネは現代都市としても大きな広がりと変わらぬ魅力を持ち続けている。

   8月10日(日) Athes(歩)-アテネ競技場(歩)-Athes
 今日も男子マラソン競技があるのでマラトンへは行けない。下町情緒が漂うオモニア広場から市内一の繁華街パネピスィミウ通りを通ってシンタグマ広場へと向かう。アテネは、いたるところに広場がある。その最大のものはシンタグマ広場だ。
 アテネのヘソ、シンタグマは、ギリシャ語で「憲法」を意味する。この広場は、ギリシャ独立戦争後の1843年、アテネが近代ギリシャの首都と定められた年に、現在国会議事堂となっている元王宮のバルコニーからギリシャ憲法の発布が行われたことを記念して名づけられた。アテネからギリシャ各地への道は、この広場がすべての起点となっていて、いうなれば日本の“お江戸日本橋”。その周りには国会議事堂をはじめ官公庁や経済の中心となるビジネスセンター、ショッピングセンターが集まっている。全市の中心となる広場である。
民族衣装に身を包んだ衛兵/写真転載不可・なかむらみちお  アマリアス大通りに面している大きな横長の碑が無名戦士の墓。1923年、約400年ものトルコ支配に終止符を打った独立戦争での戦死者や、それ以降に起こったいく度かの戦争で犠牲となった兵士たちの霊を慰めるために造られた。碑の両脇には、エヴゾナスという民族衣装に身を包んだ衛兵が一人ずつ立っている。まるでお伽の国から抜け出てきたような衛兵で、いかめしさよりかわいい感じが強い。30分ごとに左右の持ち場を交代するが、この様子がまた愉快である。特に日曜日の午前11時には華麗な衛兵交代式がある。ユーモラスな姿にこのときは碑の前には大勢の観光客が人垣を作る。交代式の後、ミーハーよろしく衛兵の横に並んで記念写真を撮ってもらった。
 広場の中のカフェに座って通りを見ていると、車の流れが途切れたとたん、人々はサッサッと大きな通りを渡って行く。信号があってもなくてもだ。正直に信号が変わるまで突っ立っているのは旅行者だ。これがギリシャである。
 シンタグマ広場に面して建っている懐かしのグランド・ブルターニュホテルへ行ってみる。ここは1971年(昭和46年)12月、第11回札幌オリンピック冬季大会のJNNテレビニュース代表カメラマンとしてオリンピアでの採火式に行く前後に泊まったホテルである。古い格式を重んじている高級ホテルである。
 中に入るとロビーは世界陸上競技選手権大会の案内所になっており、訪れた人々でごった返していた。突然受付の女性に“Congratulations(おめでとう)”と声を掛けられた。よく訊くと昨日の女子マラソンで日本の鈴木博美が優勝して金メダルを取ったとのこと。今日は男子マラソンがあり近代競技場へゴールするというので行ってみることにした。

 ※昨日の女子マラソンで鈴木博美が2時間29分48秒で金メダルを、女子10000mで千葉真子が銅メダルを獲得した。この他に女子マラソンで飛瀬貴子が4位入賞。外国の選手ではポルトガルのMaria Manuela Machadoが2時間31分12秒、ルーマニアのリディア・シモンが2時間31分55秒であった。男子50km競歩で今村文男が6位入賞、女子5000mで弘山晴美が8位入賞の成績を残した。

アテネ競技場。1位と2位の選手がゴール/写真転載不可・なかむらみちお  アテネ競技場は、アルディトス丘の緑を背景に、まばゆいばかりに白いペンテリコンの大理石で出来ている。古代オリンピックの復活として1896年、ここで第1回近代オリンピックが行われた。紀元前331年にパン・アテナ大祭の競技場として造られた。白い大理石で出来た見物席には5万人は入れる。馬蹄型をしているのが印象的だ。オリンピアにある古代オリンピックのメーン・スタディアムであるスタデオン(競技場)では山裾の斜面を利用した人工的な盛り土で、石造りの頑固な座席などは造られず人々は草の上に自由に座って観戦した。それに比べるとここは豪華な造りである。
 1994年10月30日に開催された第12回アテネ国際マラソン大会に参加した時、郊外のマラトンをスタートして42.195qを走り抜き、ここにゴールした時のことが懐かしく思い出される。
 競技場に入ると、行き交う知らない外国人たちから“Congratulations(おめでとう)”と声を掛けられた。競技場に1位と2位で入ってきたのはスペインの選手だった。1位はAnton Abel(アベル・アントン)。日本男子はいつまで待っても帰ってこなかった。惨敗である。

 ※アベル・アントン スペイン2時間13分16秒、マルティン・フィス スペイン2時間13分21秒、Steve Moneghetti オーストラリア2時間14分16秒

 帰り際に競技場の入口付近で昨日競技を終えた日本の女子マラソンの選手たち(飛瀬、原)に出会い、一緒に記念写真を撮った。残念ながら鈴木博美は居なかった。
 夕方、彼の旅行代理店へ行き、ようやく航空券を手にすることが出来た。若い男の言っている“アンキラ”とはどうやら「アンカラ」のことらしい。古い歴史を有するアンカラはローマ時代には“アンキラ”と呼ばれて繁栄していたという。

     目次へ   ↑ページの一番上へ

   8月11日(月) Athens(バス)-Marathon(バス)-Athens
 マラトンまでアテネから38q。アテネ北東の海岸沿いの村。アテネから定期バス(700Dr.)でマラトンへと向かう。走ることおよそ1時間。古戦場はマラトン村の手前3qのところにあるから、運転手に「Timvos(ティムボス=塚)で降ろして下さい」と一言頼んでおく。

      Marathon(マラトン)
ペルシア戦役の古戦場にある塚/写真転載不可・なかむらみちお  ここは前490年のペルシア戦役の古戦場で、マラソンレース発祥の地として知られている。その戦いの勝利をアテナイに知らせるため、ひとりの伝令が42`あまりの道を走りぬいたという故事に因んで、近代オリンピックの種目に採用されたのがマラソン競技である。
 現在、海に面した広い平野の中央に、その時、戦場に倒れた192名のギリシャの戦死者を葬った高さ約10bの戦没者を祀る塚が残っており、塚の周りは公園のように整備されている。残念ながら塚の周りには金網が張りめぐらされており、中には入れなかった。また、もう少し村寄りに出土品を納めた博物館もある。
 塚からマラトン村のマラソンスタート地点へ行くべく、さきほどバスを降りた国道まで小さな田舎道をとぼとぼと歩いていると、後から一台の乗用車が近付いて来た。私はとっさに道路脇からその車に向かってヒッチハイクのポーズで親指を突き出した。するとその車が私の脇で停まってくれた。運転していたのは土地の人らしい中年の人だった。開かれた窓越しに私はマラトンに行きたいと申し入れた。彼は快く助手席の扉を開いてくれた。
 道々話しかけられたが、ギリシャ語を知らない私には返事のしようもない。彼はこの近くに博物館があると言っている。そこへ行きたいかと訊ねられたが、その後が不安だったのでひたすらマラトンのスタート地点へ行くことをお願いした。お礼にお金を出すのも気が引けたので、持ってきた日本製のタバコを1箱差し出すと快く受け取って頂けた。
マラソンのスタート地点/写真転載不可・なかむらみちお  道路脇に設けられた懐かしいマラソンスタートラインに立つ事が出来た。鍵の掛かっているトイレに付属し、一部コンクリートに囲まれたその場所は昔と変わっていない。道路を挟んだ反対側には競技場が出来ていた。多分、今開催されている第6回世界陸上競技選手権大会の何らかの競技が行われたらしく、競技場の周りに立てられたポールには昨日まで行われていた世界選手権大会の旗が未だ残っていた。そこに若者が2、3人車で来て私の目の前でポールからその旗を引き摺り下ろして嬉々として持ち去って行った。周りには彼ら意外誰もいなかった。私も魔が差して真似して一枚頂戴した。初めての泥棒の真似事に後ろめたさを感じて胸の鼓動が収まらない。
 私は、1994年10月30日に開催された第12回アテネ国際マラソン大会に参加してここからアテネの近代競技場まで42.195qを走りぬいた。コースは起伏が多く、私にとっては過酷なレースとなった。下りの坂道は良いが、調子に乗って飛ばすとやがて膝にくる。上り坂では完全にアウト。歩きが多くなる。それでも何とかゴールまで走り続けることが出来たのは幸いである。もうこんな死ぬより辛いレースは懲り懲りである。当時、勝利をアテナイに知らせるために伝令が走ったこの道は、勿論今のように舗装された道ではなかったであろう。それを思うと恥ずかしい。

   ※私の海外マラソン暦
  1993年12月12日 第21回 ホノルルマラソン
  1994年10月30日 第12回 国際アテネ平和マラソン
  1995年11月23日 第32回 アトランタ・マラソン
  1996年4月15日 第100回記念ボストンマラソン大会
  1997年4月13日 第17回 ロンドン・マラソン大会
  1997年11月 2日 第28回 ニューヨークシティマラソン大会
  1998年12月13日 第26回 ホノルルマラソン大会
  1999年7月11日 第21回 ゴールドコーストマラソン大会
  2000年10月22日 第8回 ローザンヌマラソン大会
  2001年3月25日 第7回 ローマシティマラソン
  2002年9月29日 第29回 ベルリン国際マラソン
  2003年12月14日 地球を走ろう!JALホノルルマラソン2003
 記録は恥ずかしくてここには書けない。ただ、全体の中くらいで、ごく平均的なタイムである。他に国内マラソン大会も走った。

 前回に続いて今回もまたギリシャを旅して、特に田舎を歩いて、美しい風景とともに国家としては貧しくとも、本当に豊かな生を喜んで生きている多くの人々と出会うことが出来た。ギリシャ人は何よりも、“喜んでともに生きる”術を心得た人々であると感じた。彼らは昔も今も“Chairete(ヒェレテ)=汝ら喜べ”と、日常の挨拶で言い続けてきた人々なのである。

     目次へ   ↑ページの一番上へ

      Turkey(トルコ)

   8月12日(火) Athens ll:30(TK848)-12:50 Istanbul 14:00(TK126)-15:00 Ankara(バス・タクシー)-Cappadocia

 ♪飛んでイスタンブール。
 「メルハバ(こんにちは)トルコ!」

 イスタンブールのアタテュルク空港に無事到着。アンカラ行きの便に乗り換えるべく、ゲートへと向かう。ゲートに到着してからいくら出発便の電光掲示板を見てもアンカラ行きの便が表示されない。そのゲートを利用しているその後に出発する他便の係員に聞いても分からないと言うだけ。通りかかった空港従業員の制服を着た人を呼び止めて訊いても分からないと言う。その間何の案内アナウンスもない。だんだん不安になってくる。かなり長い時間が経ってからようやく電光板に出発案内が表示された。やれやれ。
 アンカラ行きの飛行機に搭乗すると機内はすでに満杯に近い客が乗っていた。あれッ!ここ出発の便でなかったのか。どこからか回って来たのかも知れない。それで到着が遅れて今になったのであろう。間もなく飛行機はイスタンブールの空港を出発した。なんとか無事アンカラに行けそうである。
 イスタンブールからおよそ1時間でアンカラに到着。アンカラはアナトリア高原の西寄りにある。人口360万余りのトルコ共和国の首都である。アンカラという名はアンキュラ(谷底)に由来しており、昔から地下水が豊富だったことが分かる。
 空港ビルの外で預けた荷物を受け取ると、キャスター式のスーツケースの下部が破損。居合わせた係員にバッケージクレームの場所を訊くとビルの中の一室ヘ行けと教えられた。小さなその部屋の一室には机がひとつあり、係員が1人居た。旅行保険申請に必要な書類を貰うために、壊れたスーツケースを示して何とかバゲージクレームの証明書を貰うことが出来た。トルコの入国は関税規則を含めてとても緩やか。入国カードも荷物検査もない。
 空港を出て空港より街の西側にあるOtogar(オトガル=長距離バスターミナル)行きのリムジンバスに乗る(50TL)。空港からオトガルまではおよそ30分で着くはずだが、途中でリムジンバスが前の車と追突事故を起こした。これから警察官を呼んだりして実況見分などすると相当遅れるなと憂鬱になってきた。ところがバスの運転手と相手の車の運転手と何事か話し合った末、間もなく何事もなかったようにオトガルへ向かって走り出したので一安心。
 トルコはバス路線が発達しているので、周辺交通で最もポピュラーな移動手段はバス。広い国土を縦横無尽に走り、しかも安い。道路は比較的良く整備されているし、サービスや乗り心地も満点。しかも言葉がわからないわれわれは、地元の人々の親切を身にしみて感じる場面に遭遇することになる。長距離バスはすべて指定席で、ビレットと呼ばれるチケットはオトガルで買うことが出来る。
 アンカラからカッパドキアまではバスで6時間(12万800TL)。(為替レート、1円≒1700TL)。トルコのバスはベンツか三菱プリンセスが多い。だから乗り心地は満点。普通、運転手さんと乗客の世話掛のお兄さんの二人が乗務員として乗り込む。バスが発車すると先ずコロンヤが乗客に振舞われ、ミネラル・ウォーターかジュースが配られる。バスによってはおやつも出る。車内にはトルコ音楽が流れて道中はなかなか楽しい。長距離バスは途中、3から5時間に1回ぐらいの割合でドライブインに寄り、トイレや食事の休憩をとる。

     目次へ   ↑ページの一番上へ

      Cappadocia(カッパドキア)
 夜遅くカッパドキアのネヴシェヒールに到着。明るいうちはギョメレなどにドルムシュが走っているが、この時間はもうない。バスセンターに何台か停まっていたタクシーの1台を捕まえてギョレメへと向かう。
 トルコのタクシーは、物価から考えると割高だが日本よりずっと安い。タクシーはメーター制で、初乗りは405,000TL。その後距離と時間によって料金が上がる。深夜は割増料金になる。ただし、インフレのため料金はしばしば改定され、メーターがあっても料金表で換算することがある。またメーターは前の人の料金に上乗せされることがあるから必ず発車前にボタンを押して元に戻してもらうことが大切だ。
奇岩の中にあるAtaman Hotel/写真転載不可・なかむらみちお  Goreme(ギョレメ)は奇岩の中にある小さな村。ガイドブックに載っていたAtaman Hotelへ行ってもらう。乗ったタクシーの運転手が「カッパドキアで1番のホテル」と推薦していた。洞窟をくりぬいたホテルは清潔でムード満点。最近新しい客室などが増えたという。料金はガイドブックに夕食付きで1人1泊20jと書いてある。これは安い。ホテルのフロントへ行くとなんと120jと言う。以外と高い。どうやらガイドブックの料金表示が間違っていたらしい。部屋は空いているという。この深夜にいまさら別なホテルを探すのも大変なのでそのままこのホテルに泊まることに決めた。
 トルコはインフレが激しい。毎月のように物価が上がるので、ホテルなどの中には米ドルで料金を設定している場合が多い。また、ホテルやレストラン、バス会社、土産物屋など、ほとんどのところで外貨払いを歓迎する傾向がある。(1US$≒160,000TL)。
 このホテルは奇岩をそのまま利用した高級ホテル。設備も申し分なく整っている。部屋はきれい。バスルーム、テレビ、冷蔵庫、ヒーター、ドライヤー、湯沸かし器にインスタントコーヒー、ティパックの紅茶、砂糖、コーヒーカップまで揃えてあり、快適に過せる。部屋の壁は岩そのままで、木製の家具、絨毯などのインテリアもいい。雰囲気満点。オーナーは日本語を含めて五ヶ国語を話せる。他のスタッフも英語が大体通じる。周りはカッパドキヤの岩だらけで、雰囲気は抜群。

   8月13日(水) Goreme
 カッパドキアはアナトリア高原の中央に広がる大奇岩地帯。キノコ状の岩に代表される奇岩の不思議な景観。奇岩の中に残された膨大なキリスト教壁画、地下何10bにも掘り下げされた地下都市とさまざまな顔を持つ。
ホテルから見たローズバレー/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルの部屋からは奇岩を眺めることが出来る。屋上からはローズバレーも見える。見渡す限りデコボコとキノコ岩が連なる不思議な大地、奇怪な岩峰が広がる大平原カッパドキア。太古からの自然現象が作り出した不思議な光景。エルジェス山の麓、標高1200bのこの高原地帯は、太古からの火山活動と浸食作用によって、ニョキニョキと地面から顔を出すつくしのような岩峰が連なっている。
 カッパドキア地方はヒッタイト時代から交易ルートの要の町として栄え、四世紀前後からはキリスト教の修道士たちが凝灰岩に洞窟を掘って住み始めた。彼らは外敵から身を守りつつ、信仰を守り、洞窟内の天井や壁に見事なフレスコ画を残した。標高1000b余の高原のさらに奥深い岩山までのひたむきな信仰生活を、垣間見ることが出来る貴重な地域である。
 このホテルは、日本人が客の半分を占めるとか。朝食はビュッフェで日本人の若者たちと一緒になった。するとホテルのマダムらしい女が現れて盛んにツアーや本や宝石を売りつける。結局一同の何人かがまとまってホテルが勧める旅行代理店のツアーで出かけることになった。私たちが利用した“Cappadociaマイクロバスツアー”は丸一日コースで昼食付き30$だった。
キリシタンが残した素朴なフレスコ画/写真転載不可・なかむらみちお  まず、ギョレメ野外博物館へと向かう。ここはキリシタンが残した素朴なフレスコ画が見事に残っている。カッパドキア地方には、3、4世紀頃からキリスト教の修道士が布教のために入植していた。そして、6世紀の後半からは、ササン朝ペルシャやイスラーム帝国の侵攻にあい、異教徒は迫害を受けることになる。しかし、敬虔な信者は、岩穴や洞窟、そして地下都市へ追い込まれながらも、決して信仰を曲げることはなかった。現在残っている洞窟教会堂のフレスコ画は9世紀後半以降のものだといわれている。当時、隠れざるを得なかったキリシタンの生活ぶりを生々しく伝えている。

ウチヒサル/写真転載不可・なかむらみちお  洞窟教会堂はギョレメ谷だけで30以上あり、保存状態のあまり良くないものを含めて、未確認な部分も多い。比較的良く残っている教会堂が集まった部分は、現在野外博物館として公開されている。その中でもエルマル・キリセ(りんご教会)、ユランル・キルセ(蛇教会)、カラルク・キリセ(暗闇教会)は内部の柱や天井も良く残されており、保存状態の良いいくつかの教会の色鮮やかな壁画装飾のフレスコ画を見ることが出来る。壁画はキリストの受胎告示から昇天までのあらゆる場面を示したものが多い。画風はキリスト教に馴染みの薄い私でもよく分かるほど素朴で、重厚さはあまりないものの生真面目さと暖か味を持っている。奇岩の要塞オルタヒサルからは眺めも素晴らしく、遠くウチヒサルも見える。

地下都市/写真転載不可・なかむらみちお  カイマクル村の地下には実に1万5000人が生活できたであろう巨大カイマクル(地下都市)がある。岩窟住居といってもここは蟻の巣のように地下へと延びるアンダー・グラウンド・シティー。地下8階まで掘られており、それぞれの部屋は階段が傾斜した通路で結ばれている。かがんで通らなければならない場所も多い。背を丸めてやっと通れる狭い通路だが、現在入れるのは地下4階まで。それでもこの街の大きさと薄暗い不思議な空間の雰囲気は十分体験できる。
 洞窟のような路地を下りて行くと、そこはまるでインディ・ジョーズのような世界が広がる。入口を過ぎると、先ず通気孔がある。垂直に掘られた細い穴からは絶えず新鮮な空気が流れている。部屋への出入口には大きな丸い石が置かれており、外敵が侵入したときに出入口をふさいだ。町では共同生活が営まれ、集会所、炊事場、貯蔵庫、仕事場、家畜小屋などがある。台所には排煙口や汚水を流す仕組みがあり、長期間の生活に耐えられるようになっている。迷路に次ぐ迷路が張り巡らされ、光の入らぬ地下では方向性も失ってしまう。
 その発祥や歴史には謎が多いが、一時はアラブ人から逃れたキリスト教徒が住んだこともあるといわれている。夏暑く、冬の寒さがことのほか厳しいアナトリア高原にあって、地下都市は一定の気温、湿度が保たれていた。もちろん陽の当たらない圧迫感、不健康さはそれ以上の苦痛だったに違いない。それでも彼らが地下を選んだのは、迫害されながらも捨てなかった信仰心故なのかもしれない。
初期の壁画が残されている/写真転載不可・なかむらみちお  ゼルヴェ野外博物館のあるゼルヴェ渓谷には聖堂や住居が無数にあり、多くの人がここで生活していたと言われている。実際に30年ほど前まで村人が住んでいたが、岩が崩れやすくなったために今は近くに移住しているという。
 いくつもの渓谷には洞窟や、山と山の間を結ぶトンネルが細かく巡らされていて、内部は人一人通るのがやっとの細い通路で中は真っ暗。懐中電灯が要る。ギョレメ周辺の壁画のような派手さはないが、初期の壁画が残されている。
 途中、昼にはこの辺で野外にテーブルと椅子を設えたところで食事をした。

「三人の美女」/写真転載不可・なかむらみちお  パシャバーは奇岩群で有名。「三人の美女」と言われるキノコ岩。ひとつの岩に三本のキノコが生えている岩。これまで見た中で一番カッパドキアらしい景色である。なだらかな岩肌のグラデーションが広がるかと思えば、ごつごつとした奇岩群がある。ニョッキと突き上げるキノコのような岩のユニークさには思わず笑い出してしまう。これらがすべて自然の力で出来たのだから、やはりすごい。こうした地層は数億年前に起きたエルジエス山の噴火によって造られたもの。火山灰と溶岩が数百メートルずつ積み重なった末、凝灰岩や溶岩層になった。その後も岩部は風雨に打たれて浸食が進み、今では硬い部分だけが残されて不思議な形の岩となった。カッパドキアの火山地形。太古からの自然現象が創りだした不思議な光景。硬い地層だけが岩峰となる。ここで同行の若者に奇岩をバックに記念写真を撮ってもらう。
 次のローズバレーでの夕景を見るためにアヴァノスの焼き物屋で時間待ちをする。

ローズバレーの夕景/写真転載不可・なかむらみちお  ローズバレーからの夕景はカッパドキアでも有数の絶景スポット。波打つ奇岩がすべてばら色に染まる夕方は絶景。夕日を受けて桃色から紫色に変化する渓谷の景色が美しい。
 岩がぴょんぴょんと林立する雄大な奇景が楽しめるギョレメパノラマ。鳩の家がいっぱいの岩峰のウチヒサル。カッパドキアの不思議な景色を十分堪能した。
 ホテルへ帰ってきてからの夕食はトルコ料理のフルコース。数あるメニューから選べる。

   8月14日(木) Goreme 17:45(マイクロバス)-Nevsehir 18:30(バス)-Ankara 24:00(バス)-
 ホテルのテラスでは、ギョレメ谷を眺めつつつ、静かに食事が出来る。ここはオトガルからも徒歩5分と便利だ。今日は夕方のバスでイスタンブールへ行く。それまで時間があるので、昨日見た近くのギョレメ野外博物館と壁画の“青”が美しい二階建ての大きな教会とトカル・キリセをもう一度見に行くことにする。その前にホテルのフロントにいた女性に、後でネヴァシェヒルのオトガル(長距離バスセンター)へ行きたいのでタクシーを呼ぶよう頼んだが、来ないという。代わりに自分が送るという(多分絨毯屋に連れて行く魂胆らしい)。ギョレメ野外博物館へ行く途中の道路際では日除けの下で絨毯を織る女性たちなどを見かけた。
 ホテルに帰ってからフロントに行ってみたが、約束した時間に彼女は現れない。代わりに応対した男のスタッフは“彼女は今、都合が悪い”と嘘ばかりつく。ホテルのフロントの女性は何もかも段取りが悪い。スタッフの言うことが当てにならないのでオトガルまで荷物を引いて歩いて行くことにした。

     目次へ   ↑ページの一番上へ

   8月15日(金) 6:00 Istanbul
      Istabul(イスタンブール)

 早朝にイスタンブールに着く(長距離バス代150万TL)。バスはイスタンブールの西側にあるOtogar(オトガル=バスターミナル)が終点。長距離バスターミナルは、ヨーロッパ側の旧市街西側のはずれとアジア側の端の2ヶ所にある。アジア側のオトガルはトルコ各地へ向かう長距離バスのターミナルである。オトガルから街の中心までメトロ(5万TL)でAksaray(アクサライ)まで出てメトロはそこからトラム(路面電車)になる。トラムの旧市街の停留所Sultanahmet(スルタンアフメット)で降りる。
 イスタンブールは三つに分かれている。東西を分かつボスポラ海峡はヨーロッパとアジアの分岐点である。一般に観光客が訪れることが多いのは観光スポットやホテルが多いヨーロッパ岸。ヨーロッパ岸はさらに北側の新市街と南側の旧市街に分けられる。新市街はビジネスの中心地。南の旧市街はイスラーム教寺院や歴史的見所が集中している。また、旧市街には安宿や中級ホテルが多い。
 世界的な観光地であるイスタンブールには、ピンからキリまで、ホテルはたくさんある。ドミトリーなら1ベッド5jからと格安だ。観光に便利なスルタンアフメット地区には、世界中のバックパーカーが集まるので安い宿がたくさんある。夏は大変混み合うので朝の10時から11時には満員になってしまうこともある。アヤソフィアの裏側にはオスマン・トルコの邸宅を改造した(または模した)プチホテルが増えている。こちらは30から60jくらいと値段が高めである。
ブルーモスク/写真転載不可・なかむらみちお  今夜の宿は、ブルーモスクとアヤソフィアと鉄道にに囲まれた地域の旧市街を予定している。この界隈は観光地のため多数のホテルがひしめき合っている。しかもドミトリーのある若者向けの宿が多い。ここは便利で雰囲気もいい場所でホテルも多く夏場は大変混み合っていると言う。近年新しい宿がどんどんと建ち、古い宿もこぎれいなプチホテルに改装がすすんでいる。競争が激しいので、中級ホテルであっても、ディスカウントに応じてくれるらしい。
 ブルーモスク正面の道をアラスタバザール側に下って、地図を頼りにあらかじめ調べておいたスルタンアフメット地区のプチホテルHotel Historiaを目指す。ここは淡いブルーの外観でオスマン調の美しいペンションだったが満員と言うことで断られた。その代わり、隣のHotel Askinを紹介すると言うことでスタッフに案内してもらった。Hotel Historiaよりも少し格が落ちるようだったが、一応このホテルに泊まることに決めてチェックインした(シングル1泊20j)。ブルーモスクと道路を挟んだ裏側にあり、トラムの停留場には歩いて5分と便利な立地条件である。
 このホテルのフロントマンがなかなかの美青年で、いつか観たことのあるイタリア映画「ベニスに死す」に出てくる美少年ビョルン・アンドレセンに瓜二つ、そっくりさんだった。そのことを彼に言うと、彼もその映画は見たことがあると頷いていた。

 ※映画「ベニスに死す(La Morte a Venezia)」1971年・伊 監督:ルキノ・ヴィスコンティ 主演:ダーク・ボガード、シルヴァーナ・マンガーノ、ビョルン・アンドレセン。
 '71年の夏のヴェネチアはリド島。保養に来ていた有名な初老の作曲家アッシェンバッハは、母とともに当地に滞在する貴族の美少年タジオ(ビョルン・アンドレセン)を一目見るなり心を奪われる。彼にはタジオの美しさがこの世のものとは思えなかった。老いた者の“若さ”への憧れは、芸術家の“美”への執着以上に、生々しい恋慕だ。初老の主人公が、美少年の姿を求めてさまよう“狂気”のようなデカダンスの世界をヴィスコンティ流に表現する。
 ルキノ・ヴィスコンティは黒澤明に匹敵する巨匠で、その甘美な映像は定評がある。

ホテルの名刺/写真転載不可・なかむらみちお  ホテルは目下一部の部屋を改装中だった。案内された部屋は狭いながらも家具などもある。部屋に荷物を置いてロビーに下りるとフロントマンがトルコ・コーヒーを薦めてくれた。日本ではドリップ式、サイフォン式といった方法でコーヒーを入れる。非常に細やかな配慮で注意深くコーヒーを入れて味を楽しむ。ところがKahve(トルコ・コーヒー)は、そんな日本人の感覚からすれば、大変荒々しく、無造作にコーヒーを入れる。
 水の中にほそ挽きのコーヒーの粉を入れ、そのまま火にかけてしまう。表現を変えれは、コーヒーを煮る、という感じだ。頃合を見てそのままカップに注いで出来上がり。フィルターで出がらしを濾すようなことはしない。注いですぐ飲むと口の中が砂をかんだようなジャリジャリになり飲み込むことができないほど荒いコーヒーだ。だから注がれたコーヒーはすぐに手を出さず粉が沈殿するまで待つ。そして上澄みだけを口を細めて、あくまでも慎重に頂くのが正式な飲み方。間違っても、小さなディミタスカップを、揺らせながら飲むようなことはしないほうがよい。
 しかし、コーヒーの発祥は、アラブ人、トルコ人が最初に飲み始めたことから世界へ伝わっていった、とされている。当時、コーヒーは粉ごとの煮出し汁を飲むのが普通で、これこそがコーヒーのいただき方の正統な作法といえるだろう。
昔の風俗衣装を着た水売り/写真転載不可・なかむらみちお  先ずは、帰国の飛行機のReconfirm(予約確認)をするために新市街の高台のタクスィム広場にあるエールフランス営業所へ行き、そのついでにその近くの軍事博物館でオスマン帝国軍楽隊の演奏を聴いてくることにする。
 トルコ第一の都市、イスタンブールは不思議な町だ。アジアとヨーロッパの接点に位置するため“東西文化の交差点”になっている。行き交う人々は、ヨーロッパ、アジア、アラブの人々が混ざり合い、多種多彩である。それもそのはずで、イスタンブールは、わずか2qほどしか離れていないボスポラス海峡を隔ててアジア地区とヨーロッパ地区に分かれ、その二大大陸を橋でつないでいる都市なのだ。
 1883年10月14日、ヨーロッパ発の豪華列車オリエント・エキスプレスはパリを出発、オスマン・トルコの首都コンスタンティノープルへと向かった。ミステリーの女王アガサ・クリスティが『オリエント急行殺人事件』を発表したのは1934年のこと。アガサはこの長編ミステリーをイスタンブールのPera Palas(ホテルペラパラス)で執筆した。映画化されたのは出版から40年後の1974年。
 ガラタ橋を渡る手前で立ち寄ったSirkeci(スィルケジ)駅の喧騒は、人々の服装が変わっただけでほとんど変わっていない。イスタンブールの街並みがまったく新しいものになっていたなら、映画化はされなかったかもしれない。古いものがそのまま生きている街。『街そのものが博物館』といわれるイスタンブールだからこそ、かも知れない。かつてオリエント急行が発着したスィルケジ駅のホームは今でも煉瓦造りの面影を残し、構内に設けられたカフェ、保存された列車で往時を偲ぶことができる。

 ※映画『オリエント急行殺人事件(Murder on the Orient Express)』1974年 英 監督:シドニー・ルメット 出演:アルバート・フィニー、イングリッド・バーグマン。

ヨーロッパとアジアの分岐点、ガラタ橋を渡る/写真転載不可・なかむらみちお  ガラタ橋を渡る。ガラタ橋はエミノニュ桟橋とカラキョイ桟橋を結ぶ金角湾に架かる橋。ひがな釣り糸をたれているおじさん、サンドウィッチを売る少年、派手なパフォーマンスとともに包丁を売る怪しげなおじさんなどが歩道を占拠していて、見ているだけでも飽きない。ガラタ橋周辺の桟橋ではあらゆるものが売られている。なかにはこんなもの誰が買うのか、そしてどう使うのか首をかしげるようなガラクタを並べている露天もある。桟橋に横付けされた船ではから揚げした鯖をパンに挟んだだけのUskumru Sandvici(ウスクムルサンドウィチ=鯖サンド、1つ20万TLくらい)を売っており、これが安く食べられ、ガラタ橋の名物となっている。地元の人に混じって観光客も食べている。何でもトルコでは政府からパンが無料で支給されるとのことである。橋からのジャミィの眺め、行き交うフェリー、桟橋に横付けされる真っ白いチャーター船など美しい風景も堪能できる。

イスタンブール名物、水売りのおじさん/写真転載不可・なかむらみちお  橋の袂の反対側にある石囲い付近では昔の風俗衣装を着たイスタンブール名物の水売りのおじさんが、背負っていた重い水瓶を石囲いの上に乗せて仲間と雑談しながら一服している。私は橋の上の路上に佇むおじさんから大きなバナナを一房買って食べてみたが、これがまためっぽうにおいしくまた値段も安かった。
 何もかも捨てて、しらない街の人込みの中に紛れ込んでしまいたい。つまり、浮世にすっぱりおさらばしてドロンしたくなる時というのが誰しもあるのではないだろうか。そんな時にぴったりな街が、イスタンブールである。
 イスタンブールの市内バスの大きなターミナルは、新市街ではTaksim(タクスィム)、旧市街ではEminonu(エミノニュ)にある。先ず、エミノニュのターミナルへ行き、ビレット(切符)売場で切符を買い(1枚6万LT)、そこでどのバスに乗ればよいかを訊いてタクスィム行きの61番のバスに乗る。
 新市街の高台にあるタクスィム広場のロータリー中央には独立戦争の記念碑がある。周辺には高級ホテルやショッピング街となっており、イスタンブールでもここはハイセンスなエリア。この一角にあるエールフランス営業所へ行き、帰国の飛行機のReconfirm(予約確認の手続き)をする。これをしておかないと予約が取り消されて乗れないことになる。

門の脇に衛兵が立っていた/写真転載不可・なかむらみちお  この先に世界第二位の規模を誇る軍事博物館があり、毎日3時から4時の間に2回、オスマン時代の軍楽隊の迫力ある演奏が奥のホールで行われるというので行ってみた。
 タクスィム広場からバスで15分ほど行くと、Askeri Muzesi(軍事博物館)がある。門の脇の監視所にはオスマントルコ時代の軍服を着た衛兵が立っていたのですぐにそれと分かった。入口で持っていったカメラの三脚を預けさせられた。写真を撮る場合は20万TLを支払ってカメラ券を買わなければならないが、ストロボは禁止である(入場料10万TL)。庭には大砲が展示されている。ここには一階と二階に約5万点にのぼるといわれるトルコの軍隊と戦争に関する収蔵品の内、約9000点の資料が22の部屋に展示されている。演奏時間には少々時間があったので、ぶらぶらと中をまわってみた。
 時間が来たのでホールへと向かう。中は階段状の観覧席が半円形に作られていた。中庭のほうから軍楽隊の勇壮な演奏が聞こえてきて、中庭に面したホールの入口が両側に開き、赤いコートを着て丸いトルコ帽をかぶった軍楽隊が列を作り、チャルメラのようなラッパや太鼓を打ち鳴らし、エキゾチックな独特な感じのマーチを演奏しながら整然と入ってきた。この曲はNHKの連続ドラマのテーマ曲にも使われていたのでお馴染みの曲である。

オスマン帝国の軍楽隊は力強い/写真転載不可・なかむらみちお  このオスマン帝国の力強い軍楽隊は世界で始めて結成された軍楽隊とも言われている。一回の演奏は15分から20分。間に15分の休憩があり、2回とも曲目が違う。演奏が終わると、また隊列を組み、マーチを演奏しながら中庭へと消えて行った。オスマン帝国の強さを見せ付けられた感じであった。売店を覗くと軍楽隊のカセットテープを売っていた。
 ホテルへ帰る道すがら、まずは今夜のワインを求めて町をさまよう。と、二人の若者が寄ってきて人懐っこく日本語で話し掛けてくる。お出でなすたな! 次に備えて身構える。
 トルコは親日家が多いことで知られている。1890年、日本を訪れたトルコの親善訪日使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号が帰国の途上、折からの台風による強風にあおられて和歌山県紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突して沈没した。この時、大島村の村民たちは、強風吹き荒れる暗黒の中、総出で救助と生存者の介抱に当るとともに献身的に生存者たちの救護に努めた。この結果、69名が村民によって救われた。この事件はトルコの新聞を通じて伝えられた。その後トルコの小学校の歴史教科書にも掲載されたことからトルコ人ならだれでも知っているという。また、トルコが長年苦痛を与えられてきたロシアに日露戦争(1904〜05年、日本と帝政ロシアとが満州・朝鮮の制覇を争った戦争)で日本が日本海海戦などで一矢報いたことが一層日本への友好と親善の思いを高めることとなった。第二次世界大戦の時には日本と三国同盟を結んでいたドイツに加担して戦った歴史がある。それにトルコ語の配列と日本語の配列が似ているので覚えやすいとのことで、日本語を話す人が多いらしい。先ず文章の作り方(語順)が同じだし、発音もしやすい。一部の例外を除いて、すべてローマ字読みをすれば、簡単に読めてしまう。
 かの二人は日本語で交互に話しかけてくるがなるべく相手にしないように無視して歩く。しかし、どこまでも付きまとってくる。どうやら彼らは私を絨毯屋に誘い込もうとしているらしい。ジーパンにTシャツ姿の私がそんな高価な物が買えるような金持ちには見えるはずがないのに…。
 マホメットはコーランの中で『ワインは魔性の飲みもの、焔のごとく汝らを焼き、陥落へと導き、神への祈りをも忘れさせるものなり』と説いた。現在、トルコ人の99%は回教徒だが、サウジアラビアなどと違って戒律は厳しくなく、酒は自由に飲める。なかなか見つけにくいが、よく探すとたまに通りに面して間口一間(1.8b)ほどの窓のように開いた酒を売る店があり、そこに店員さんが立っている。

赤ワインのラベル。少々癖があるが、まぁ美味い/写真転載不可・なかむらみちお カッパドキアのワインラベル/写真転載不可・なかむらみちお  イスタンブールは観光地なのでそれほど多くないが、それでもビールすらない場合もある。酒の種類は豊富。ビールでは「エフェス」が最もポピュラー。街で買えば一本60円程度と安い上、軽くて美味しい。また、トルコ産のワインも質が良く、ヤクートなどがポピュラー。一本500円ほどと格安だ。特にカッパドキアはワインの産地として知られており、キノコ岩をしたかわいいミニボトルに入って売られている。私が飲んだ赤ワインは少々癖があったがまぁ美味しい。
 もうひとつ、トルコの地酒として有名なのが、独特の風味がある「Raki(ラク)」。水で割ると白く濁ることから別名「ライオンのミルク」と呼ばれている。アニスの香りが少しきついが甘味もあって癖になる。ただし40度以上もあるので、飲みすぎにに注意。ギリシャの「Ouzo(ウーゾ)」とよく似ている。
 ホテルのテラスから眺めるブルーモスクは、スルタンアフメット地区の宿の中でも有数の素晴らしさ。夜、ホテルの屋上に上がってみると目の前にライトアップされたブルーモスクが暮れなずんだ夜空にひときは美しく浮かび上がり、ミナレット(イスラム寺院の尖塔)が浮かび上がり、まさに“アラビアンナイト”の眺めを堪能することができた。乾いた暑さが静寂な空間を圧している。

   8月16日(土) Istanbul(バス)-Rumerihisari(バス)-Istanbul
 エザーンがもろに聴こえて来る。朝、窓を開けると朝日が射し、朝霧の中を行き来する大型船が目に入る。朝食はマルマラ海を行き来する船を見ながら、屋上のガラス張りのテラスで食べる。
 今日はリメリ・ヒサールを見に行くことにする。先ず、ガラタ橋の近くにある市内バスの大きなエミノニュバスターミナルに行き、ビレット(切符)売り場で訊いてリメリ・ヒサール方面へ行く43R番のバスに乗る(6万TL)。
 城の前でバスから降りると付近には小さな店が散見されるだけ。城の入口に行くと、折角担いできた写真撮影用の三脚を窓口に預けさせられた(入場料20万TL)。
城は、三つの大きな塔と18の小さな塔からなる/写真転載不可・なかむらみちお ボスポラス海峡に睨みを利かせるリメリ・ヒサール/写真転載不可・なかむらみちお  ボスポラス海峡に睨みを利かせるRumerihisari(リメリ・ヒサール)。イスタンブールから黒海の方面に10q北上したボスポラス海峡に臨むところに、デンと構えるこの要塞は、1452年にトルコ帝国が造ったもの。この地点の海峡幅は、500bほどしかなく、万が一、敵艦隊がここを通過しようものなら、豪雨のような砲弾が、この要塞から飛来して来たに違いない。そう思わせるように無数の砲穴が要塞のあちこちに見える。
 城は石造りで三つの大きな塔と18の塔、それをつなぐ城壁から成り立っている戦闘的な大城塞である。城の塔の上からは城内と、船舶の航行が頻繁なボスポラス海峡や対岸が一望の内に眺められる。
 この要塞は、コンスタンチノーブル(現イスタンブール)を攻略するために、トルコ帝国が3ヶ月という短期間に建造したものだが、五世紀以上も経ったとは思えないほど崩壊は少ない。それは、海峡を一望する険しい崖の上にあるためなのかもしれない。そして何より堅牢な煉瓦や石で作られていることが大きな理由であろう。

その町の市場を覗けば、その国の家庭の台所と食生活が分かる/写真転載不可・なかむらみちお  その町の市場を覗けば、その国の家庭の台所と食生活が分かる。帰りは、ルメリ・ヒサール前からSariyer(サルィエール)発タクスィム広場(新市街)行きの25番のバスに乗り、途中のカバタシュクの市場に寄ってみた。
 今夜はガラタ塔の上にあるナイトクラブでベリーダンスを観るつもりなので予約を入れに立ち寄る。ついでに塔の上からイスタンブールの全景写真を撮りたい。

ガラタ塔は新市街の丘の上に立つランドマーク/写真転載不可・なかむらみちお  Galata Kulesi(ガラタ塔)は新市街の丘の上に立つ高さ68bの塔でランドマークともなっている。とんがり帽子を戴いた円形のフォルムはイスタンブールのシンボルとして親しまれている(入場料35万TL)。火の見櫓としても利用されたこともあるだけに塔の上からはボスポラス海峡、マルマラ海、金角湾に囲まれた旧市街が一望できる。
 エレベーターで最上階まで行くと内部には、レストランやナイトクラブがあるが、さらに螺旋階段を上って最上階のテラスに出れば、ぐるり360度のパノラマが楽しめる。金角湾を隔てて旧市街が、海峡の向こうにはアジアが広がる。塔そのものが丘の上に立っているので、実際の高さ以上に眺めが素晴らしい。
 ヨーロッパとアジアにまたがる唯一の都市イスタンブール。ガラタ塔のてっぺんから眺めて見れば、ヨーロッパ大陸とアジア大陸を分かつボスポラス海峡にフェリーが行き交い、この街が海峡とともに生きていることが分かる。街に連なる建築物も、食べ物も、人々の表情も、その歴史さながらに混沌としているのだけれど、上から眺めてみれば、何もかもが不思議と調和してみえる。魅惑のイスタンブール…。ただし、ガラタ塔の周辺は治安がよいとはいえないので、細い路地に入り込まないほうがよい。特に日没後は注意が必要である。
 夕方になると、モスクからアラーの神への夕べの祈りの呼びかけがスピーカーを通して聞こえてきた。夜はガラタ塔の中にある「Galata Tower Night Club(ガラタ・タワー・ナイトクラブ)」でベリーダンスを観る。ガラタ塔までの道は庶民の町という感じがするが、夕方以降は少々怖い。
おへそもあらわにベリーダンス/写真転載不可・なかむらみちお ベリーダンスを楽しめる国は数少ない/写真転載不可・なかむらみちお  ベリーダンスを存分に楽しめる数少ない国トルコでは、世界各地の優秀なダンサーが集まる。ショーは毎晩21:00から始まり、ロマンチックなガラタ塔からの夜景を眼下に眺めつつ、トルコの民族舞踊とベリーダンスが楽しめる(デナーショーはドリンク込みで40j。現金払いなら10%のサービス料がOFFになる。他にボーイチップ5jが要る)。
 民族音楽の独特の節回しのエキゾチックなアラブ音楽に乗り、きらびやかな衣装に身を包みおへそもあらわに体全体を使って腰を振る妖艶なオリエンタル・ダンスは、世界各国から観に来る人で賑わう。特に欧米人に人気が高い。ショーの合間には客の中の有志が飛び入りで舞台に招かれて、ダンサーによるベリーダンスのレッスンがある。あまりにも激しく腰を振り、ズボンをズッコケさせた紳士もいて笑いを誘っていた。
 ベリーダンスは、静かに鑑賞するものではない。ひたすら拍手をし、ダンサーから手を差し伸べられれば、一緒に腰を振るのがトルコ流。阿波踊りのように両手を頭の上にかざして振ればさらに盛り上がる。踊り終えるとチップを貰いに客席を回る。その踊り子と即製の記念写真を撮ってもらった(即製写真代500TL)が、色褪せた感じでこちらは興ざめであった。イスタンブールの長い夜を彩るベリーダンス・ショーでエンターティメントの粋を満喫、これでもかというほど楽しませてもらった。
踊り子と記念写真(鼻の下が伸びている)/写真転載不可・なかむらみちお  ♪飛んでイスタンブール、夜だけのパラダイス! 私は一晩で若返った。ショーは24:00に終わった。
 ベリーダンスは、エジプトの壁画に踊り子の姿が描かれているほど長い歴史がある。中近東各地で娯楽として親しまれたが、その後イスラーム教の浸透とともにだんだん派手さを失っていった。そんな中で比較的戒律の厳しくないトルコでは今やベリーダンスの中心的な存在になった。私は昔(1995年2月)、エジプトへ行った時にもナイル川の船上レストランでベリーダンスのショーを観た事がある。
 ガラタ塔周辺には売春宿などもあり、治安がよいとはいえないので、細い路地に入り込まないほうがよい。特に夜間や日曜の朝など、人通りの少ない時間帯は、気をつける必要がある。帰りにはガラタ塔の下にタクシーがたくさん待っているのでこれを利用したほうが無難である。それは知っていたのではあるが、私は夜道を歩いてホテルまで帰ることにした。
 ガラタ塔を出てからすぐの角を右折しなければならないところを勘違いして次の角まで行ってしまった。坂を下り始めたが来る時に目標としていた建物が見当たらない。更に下ると辺りの灯りも少なくなり薄暗い路地になってきた。向こうには若者が数人たむろしていた。これは少々物騒だ。昔、ヒッチコックの『裏窓』というスリラー映画を見たことがある。カメラマンの主人公が足を骨折して車椅子に座りながら当時世界で初めて売り出されたエキザクタという一眼レフカメラで高層アパートの裏窓から広場などを覗いているうちに向かいの集合住宅の一室で怪しげな光景を目撃した。それをその部屋の住人に発見された。やがて主人公の部屋に怪しい足音が迫ってきた。そしてその怪しい人物は彼の部屋に入ってきた。彼はカメラのフラッシュを焚いて目潰しを食わせてその場をしのいだことを思い出した。私も万が一のことを考えて、持っていたカメラのストロボにスイッチを入れていざという時にはそれを発光して逃げる準備をしてたむろしている若者の近くをすり抜けたが、彼らは私に気付かなかったのか見向きもせず何事もなく通り過ぎることが出来た。

 ※映画『裏窓(Rear Window)』米 54年 監督:アルフレッド・ヒッチコック 出演:ジェームズ・スチュワート、グレイス・ケリー。

 坂を下り切って大きな通りに出たら右折すればガラタ橋に出るはずだが、その通りが見当たらない。たまたま灯りの点いている建物があった。近付いてみるとどうやら警察署らしい。そこで道を訊き、ガラタ橋へと行くことが出来た。橋を渡るとスィルケジ駅が見え、スルタンアフメット地区を通って無事ホテルに辿り着いた。
 ホテルへ着くと照明が消えていて真っ暗だった。玄関を入ってフロントへ行くとローソクのほのかな明かりの中にオーナーがいて、停電でいつ点くか分からないと言う。一本のローソクを持たされ、それを頼りに階段を上って部屋に入る。
 ホテルの廊下の窓からブルー・モスクのほうを眺めると、暮れなずむ空に鉛筆のように天空を突くイスラム教寺院の尖塔のシルエットをくっきりと映し出していて美しい。
 ローソクの明かりを頼りに部屋に戻り、ベッドに入る。寝るのには灯りはいらない。明日になったら太陽が上がり、辺り一面明るくなるだろう。

   8月17日(日) Istanbul
 スルタンの栄華を現代に伝えるトプカプ宮殿。オスマン・トルコ大帝国の繁栄ぶりが伝わってくるのが、トプカプ宮殿だ。ここはもともとオスマン・トルコの歴代スルタンの居城である。敷地は70万uもあり、4000人の廷臣が働き、さながらひとつの街のようだったという。
 二重の城壁に囲まれた宮殿の総門『皇帝の門』をくぐり、広々とした緑の中庭を通って中門オルタカプの塔をさらにくぐる。トプカプ宮殿観光(50万TL)の目玉はハレムと呼ばれる一角。ここはスルタンが見初めた女性たちが暮らしていたところだ。ハレムは別の博物館として扱われているために別にチケット(25万TL)を買う。チケット売場が混まない朝一番に行くことにする。朝一番でもハレムのチケット売り場にはたちまち列が出来る。英語かトルコ語のガイド付きのツアーで10時から30分ごとに入場することになっており、直射日光が照りつける中、2時間以上も列の中に並んで順番を待つのはかなり辛かった。
美しい青タイルや絨毯などに彩られている/写真転載不可・なかむらみちお  ハレムの中は、特別に焼かれた美しい青タイルや絨毯などに彩られ、華やかな暮らしが想像できる反面、窓に鉄格子がはめられているのを見ると、ちょっと憂鬱な気持ちになる。多いときは下女を含めて何百人という女性がひとりのスルタンのために集められて暮らしていたという。スルタンの大広間では歌や踊りが披露されていた。ハレムの一部にはマネキンが飾られ、当時の女性の暮らしを垣間見ることができる。調度品や服装が興味深い。ハレムはもったいぶっている割には意外と狭く、各女性の部屋も見せてくれず期待はずれ。
 トプカプ宮殿は金角湾、マルマラ海を眼前に、ボスポラス海峡をも望む小高い丘の上に建てられている。三方を海に囲まれた丘の端、東西交易の接点であるボスポラス海峡を睨むように宮殿は建つ。そしてかつてここに大砲が設置されていたことからトプ(大砲)カプ(門)サライ(宮殿)とよばれるようになったという。バグダット・キョシュキュのテラスから眺める金角湾やその向こうに見える新市街の様子は絶景だ。

エメラルドを三つもはめ込み、時計が付いた「トプカプ短剣」/写真転載不可・なかむらみちお  宮殿は今、博物館として公開され、息をのむほどの豪華な陳列品が並ぶ。例えば、スルタンの秘宝が展示されている宝物館に行くと、何千という宝石が散りばめられた純金製の玉座、世界第5位の大きさだという86カラットの巨大なダイヤを中心に49個のダイヤが周りを取り囲んでいる「スプーンのダイヤモンド」や歴代皇帝が使用した直径5p程の大きなエメラルドを三つもはめ込み、時計が付いた「トプカプ短剣」などが展示されている。これらの前には、人だかりがして見るのに苦労する。重さ3sという世界最大のエメラルドは、深いグリーンが大変美しい。エメラルドはイスラーム世界では大切な宝石で、スルタンが競って集めた。
 さらに、シルクロードを経て中国や日本から持ち込んだ陶磁器のコレクションも世界的に評価が高い。日本の有田焼も一室の半分を占めていた。18、19世紀の伊万里が中心。故宮などに次ぐコレクションとも言われ、世界有数の規模を誇る。これらはオスマン帝国の栄華を語る秘宝である。これらの秘宝を見るとスルタンの権力の大きさと同時に、イスタンブールが東西の文化、交易の中心地だったことが改めて実感できる。

6本のミナーレを持つイスラーム寺院は世界でも珍しい/写真転載不可・なかむらみちお  旧市街に戻り、尖塔から流れるコーランの一節が街に響く中、モスクへと急ぐ。スルタンアフメット・ジャミィ(ブルーモスク)は、この辺りの地域名にもなっている通り、旧市街の観光の中心。均整がとれていて美しい壮大なその姿はイスタンブールの象徴でもある。
 トルコのジャミィは丸天井のドームと尖塔(ミナーレ)に特徴がある。スルタンアフメット・ジャミィも例外ではなく、6本のミナーレと高さ43b、直径27.5bの大ドーム、4っつの副ドーム、30の小ドームを持っている。特に6本のミナーレを持つイスラーム寺院は世界でも珍しい。
 入口で靴を預けて絨毯の上をそっと歩いてみる。大きさも柄もまちまちな絨毯が何枚も敷かれている。これは敬虔な信者の寄進だそうだ。ガランとした内部はひんやりと涼しく、ステンドグラスから溢れる光を頼りに天井を見上げれば、見事な文様がドームを覆っている。太い柱の上部を飾るタイル模様も素晴らしい。トルコのジャミィは、美しいタイル装飾が必ずあるが、とりわけこのジャミィは有名で、「ブルー・モスク」の愛称で広く親しまれている。こんな美しい建築物だからこそ、現代までずっと祈りの場として人々の心のよりどころとなっているのかもしれない。

ビザンチン教会建築の最高傑作アヤ・ソフィア聖堂/写真転載不可・なかむらみちお  3000年の歴史を持つイスタンブールには、それだけに見どころも多い。まず第一に挙げられるのが「アヤ・ソフィア聖堂」だ。スルタンアフメット・ジャミィ(ブルーモスク)の正面にそびえる赤い外壁のアヤソフィアは、ビザンチン教会建築の最高傑作である。ローマ皇帝で最初にキリスト教徒になったコンスタンチヌス皇帝が東ローマ帝国時代の325年にギリシャ正教の総本山として建造された。歴代の皇帝がここで戴冠式を行ったことでもわかるとおり、政治や権力の中心であった。
 このキリスト教の総本山である大聖堂は宗教戦争の渦に襲われ幾度か焼失したが、六世紀になって再建されて現在に至っている。十五世紀にはトルコ人によってイスラム寺院に改造された。今では博物館となり、修復、復元された見事なモザイク画が歴史の重みをよみがえらせている(入場料50万TL)。
 内部には、多数のモザイク画が残り、ビザンティン文化を象徴している。天井を見上げると、マリアに抱かれた幼児のイエスのモザイクが見える。大きな円盤には金の文字でアッラーや預言者の名が記されている。二つの聖者がコラボレーションする不思議な空間だ。
 入口左側の傾斜路を上って行くと、二階の回廊に多くのモザイク画が残っていた。ここの南回廊に有名な聖母マリア、洗礼者ヨハネとともに描かれたキリストのモザイク画などがあり、ビザンティン文化を象徴していた。窓から差し込む夕日を受けて、荘厳な輝きを増していた。これらのモザイク画は、コンスタンチノーブルが1453年、オスマントルコにより陥落した時、すべて漆喰で塗り込められてしまった。1931年、アメリカ人調査隊により、壁の中のモザイク画が発見されてから、アヤソフィアはビザンチン時代の遺跡として再び脚光を浴びた。
シシケバブが美味しかった/写真転載不可・なかむらみちお  庶民に愛されているのは、街角のいたるところにある巨大な薄切り肉を回転させて焼く“ドネル・ケバブ”だ。レストランのことをトルコ語でロカンタという。大衆的なロカンタは、店先にドネル・ケバブが置かれていたり、入口付近に惣菜がずらりと並んでいるからすぐ分かる。
 余りにも暑かったので喉が渇いた。とにかくビールが飲みたい。しかし、ここはイスラム教国なので簡単にはアルコール類は売っていない。ある程度高級レストランにならある。ということで昼を少し回ったころ、地下宮殿入口のすぐ近くの「Restaurant Altin Kupa」に入ってみた。ここにはシシケバブ(角切りの肉を串に刺して焼いた料理)、キョフテなどスタンダードなトルコ料理があり、大体500円前後。安いなりに量が少ないが、美味い。たどたどしい日本語を話すボーイさんも居る。いつも混んでいて少々ざわついているのが難。

地下宮殿/写真転載不可・なかむらみちお  イェレバタン・サルヌジュ(地下宮殿)はビザンティン時代に作られた地下の大貯水池。ローマ人は、導水橋や下水などの治水事業に高い技術を持っていたが、この貯水池もそのひとつ。数ある貯水池の中でもイスタンブールで最大規模のものだ。水は20qも離れた黒海沿岸の森から引かれたという。

メドゥサが睨みをきかせている/写真転載不可・なかむらみちお  地下宮殿(入場料25万TL)は、縦140b、横70b、高さ8bほどで、コリント様式の頭柱を持つ柱が等間隔に並ぶ不思議な空間。今でも地面には水が溜り、内部はひんやりとしている。赤や青のライトで照らされた列柱が水面に映える姿は幻想的だ。荘厳なクラシック音楽が流れる中、耳を傾ければ、時折天井から落ちる水滴がピトン、ピトンとこだまする。薄暗い地下宮殿の列柱の間を縫うようにしつらえた渡り廊下を進むと、一番奥にはメドゥサの首が逆さまに据えられている。これは、建築材料としてヘレニズム時代の遺跡を使ったため。蛇の頭髪を持つ女、ギリシャ神話の怪人メドゥサが睨みをきかせ、この貯水池を守ってくれたのかも知れない。

   8月18日(月) Istanbul(船)-Rumerihisari(船)-Istanbul
ヌスレティエ・ジャミ/写真転載不可・なかむらみちお  先日、ルメリ・ヒサルへ行ったときは曇りであった。今日は天気が良いのでもう一度ルメリ・ヒサルへ行って写真を撮りなおしに行ってくる。
 海外旅行の大きな魅力は、他民族の異種文化を肌で感じること。その意味で観光コースを離れてみる冒険も、時には面白い。たとえば、アジア大陸とヨーロッパ大陸を隔てるボスポラス海峡を船旅してみることだ。ボスポラス海峡沿いの見所を海から眺めるのもイスタンブールの観光のポイントの一つ。この船は観光船ではなく、沿岸に住む人たちのための定期航路船。だから、黒海近くのアナドル・カヴァウまで、両岸の町々をジグザグに行き来しながら北上して行くから、一日がかりのツアーということになる。しかし、ボスポラス海峡は、見るに値する景観を約束してくれる。変化に富む海岸線は見ているだけでも楽しいし、その海岸線の最大の見所は、「ルメリ・ヒサール」と呼ばれる大要塞だ。
 ガラタ橋近くの旧市街にあるエミノニュ桟橋付近はいつも人でごった返している。それぞれの船着場には、行き先が明示してあるので分かりやすい。ボスポラス海峡行きは3番ハッチから毎日数便出ている(往復85万TL)。船内には売店があるが食事はできない。観光船なので犯罪に対する注意も必要である。

白い大理石が眩しい壮麗で優美なドルマバフチェ宮殿/写真転載不可・なかむらみちお  船が旧市街のエミノニュの桟橋を離れると、先ず、対岸(新市街)のクルチェ・パシャ・ジャミィが見えてくる。続いてヌスレティエ・ジャミ、ドルマバフチェ宮殿と続く。行き交う船からはボスポラス海峡に面して白い大理石が眩しい壮麗で優美なドルマバフチェ宮殿の姿が良く見える。初代大統領ケマル・アタチュルクもここで執務したという。
 船尾近くに日本人らしい2組の母子連れがいた。近づいて話し掛けるとイスタンブールに住んでいる人たちだという。私が「トルコは物騒だと聞いていたがあまりそんな感じはしませんね」と話し掛けると、その人たちは口々に諸外国と同じようにトルコも物騒だから気を付けたほうがいいと忠告された。近年、このような船の中で睡眠薬入りのジュースなどをすすめられて飲んだ旅行者が金銭を奪われるという事件も発生したという。そして、「見かけたところあなたは旅なれているようで隙がないから狙われないのでしょう」とのお話。
 船は次第にボスポラス大橋に近づく。ボスホラス大橋を越えると対岸にベイレルベイ宮殿が見える。更に進むと左側にルメリ・ヒサールが見えてくる。ルメリ・ヒサールは、ボスポラス海峡に架けられた第二ボスポラス大橋の手前にある。船はこのあとルメリ・カヴア、アナドル・カヴァウと目指すが、私はここで降りる。橋のたもとオルタキョイ桟橋はパラソルを広げるカフェ、花を売る露天、釣りをする人々で賑わっている。
 イスタンブールは紀元前65年にはギリシャの植民地としてピザンチウムと呼ばれた。395年、ローマ帝国の東西分裂にあたって東ローマ帝国の首都となり、コンスタンチノーブルと改められた。コンスタンチノーブルの町は、その周囲を城壁に囲まれた大城郭都市として繁栄の一途をたどった。そして、1452年、オスマン帝国のメヘット二世は、コンスタンチノーブルの攻略を計画した。そのためボスポラス海峡に面し、城郭都市を攻略するのに最もふさわしいこの場所に城塞を築いた。わずか3ヶ月で完成されたこの城は、まさに敵前の砦であった。攻略に不必要なものはすべて後回しされ、城壁、攻防の塔などが鉄の甲冑のように頑丈に造られている。メヘット二世は、ここを拠点にしてコンスタンチノーブルを攻め落とし、ビザンチン帝国を滅亡させた。1453年、エーゲ海から暖かい風が吹いてくる頃であった。
城塞は攻略するのに最もふさわしい海峡に面して築かれた/写真転載不可・なかむらみちお  ルメリ・ヒサールの城は、三つの大きな塔と18の小さな塔からなり、それらはすべて頑強な城壁と通路でつながっている。その一つひとつをたどってアングルを求め、撮影する。狭い海峡を大きな船がすれすれに行き交う。その船のエンジン音が間近にかなり大きく響いてくる。丘陵のその城からは海峡とその対岸までが見渡せる。
 帰りもこの船に乗る。この連絡船の旅は、こうした見ごたえのある風景のほかに、そこに生活する人々の匂いを感じることができる。トルコ人は、本来がアジア、ヨーロッパの大草原を縦横無尽に暴れまくった遊牧中心の騎馬民族。武勇を好みながらも、日本の武士道に相通じる生き方を伝統的に受け継いでいる。そんなことを考えながら船旅を楽しんだ。
 この後、グランド・バザールへ行くべく一旦旧市街に戻り、スルタンアフメット地区で地図を広げる。と、すかさず背後から声が飛ぶ。「ドウシマシタ、ナニ、オサガシデスカ?」。日本語で声をかけてくるのは絨毯屋の兄ちゃんだ。ここは観光客向けの土産店が軒を連ねる激戦地区。金払いがよくてお人よしの日本人は彼らの格好のターゲットらしく、ちょっと道端でたたずんでいるだけであちこちから客引きが日本語で声をかけてくる。道案内をしてくれたり、にわかガイドになってくれたりと、親切には違いないが商売人だから結局は絨毯屋に連れて行こうとする。自分の足で歩きたいときには少々うっとおしい。

4,400軒の店がひしめきあい、並べられた貴金属がまばゆい光を放つ/写真転載不可・なかむらみちお  イスタンブールの名所の一つに、カバル・チャルシュ(グランド・バザール)がある。カバル・チャルシュとは屋根付き市場のこと。ここはトルコ第一のアーケードの中にある大バザールだ。中東最大とも言われている。一軒一軒の店は、間口、奥行きとも狭く、それだけに無数の店がある。3万`uの広さの巨大な建物の中に、4,400軒の店がひしめきあい、宝石から民芸品まですべてである。同じ品物を売る店は、ある程度固まっている。
 ここは金の市場として有名。まばゆい光がショーウインドーを飾る。迷路のような路地には天窓から光が漏れ、並べられた貴金属がまばゆい光を放つ。行き交う人々や店の人を眺め、パワーを感じるだけでも楽しい。観光客が通るたびに外国語を巧みに使い分け、ビジネスを繰り広げるたくましい男たち。万華鏡のように刻々と変わるその表情こそが、東西文明の狭間で2500年も栄え続け、今も私たちの旅心を誘う。
 このバザールは1461年に造られ、500年の歴史を誇るだけに名うての商売人たちが昼夜を問わず客を待っている。それだけに駆け引きによって値段が6割から半額近くまで下がるというから、値切り上手の人には楽しみなところ。バザールを出た所で立ち売りの兄ちゃんを冷やかし、散々値切った上でトルコ帽をひとつ買ってきた。
近くのブルーモスクからコーランの夕べの祈りが流れてきた/写真転載不可・なかむらみちお  帰り道に旧市街にあるトラム(路面電車)の停留所Sultanahmet(スルタンアフメット)前の旅行代理店「Pasifik Tourism」に寄る。ここは表のショーウインドーに日本語の料金表を張り出し、日本語を話せる店員が居ることで日本人には馴染みの店だ。空港への送迎サービスもやっている。荷物もあることなので、ここで明日のホテルから空港までの送り込みを依頼した。
 長かった旅も明日で終わりだ。この間の食事は油濃いものが多かった。そろそろ日本食が恋しい。ホテルに帰って来て最後に残っていた米を炊いて食べているとなぜかわけもなく涙が出てきた。日本への郷愁か、明日は日本に帰れるという安心感からか…。
 食べながらギリシャのオリンピアで採火した第11回札幌オリンピック冬季大会の聖火を日本に運ぶために、特別にローマ発の日本航空機がアテネ空港に寄航したとき、翼に描かれた真っ赤な日の丸のマークを見て感涙したときのことを思い出していた。西洋料理もたまにはいいが日本人にはやっぱり白い米のご飯とお味噌汁が一番だ。これに漬物が一切れ付いていれば言うことはない。
 近くのブルーモスクのミナーレからイスタンブールの夜空にコーランの夕べの祈りが朗々と流れてきた。

   8月19日(火) Istanbul 15:20(AF2621)-17:55 Paris(C.D.Gaulle)23:55(AF274)-
 今日は待ちに待ってようやく日本に帰れる。昨日早めに空港まで行くための送り込みを依頼した車をロビーで待つ。しかし、約束の時間になっても車は来ない。フロントの親父に訳を話して、昨日依頼した旅行代理店に電話で問い合わせてもらった。するともうそちらに向かっているという。しかし、いくら待っても来ない。いらいらして再度電話をしてもらった。答えは同じだった。それからややしばらくロビーで待ち、憤慨やるかたなく怒りも頂点に達した頃、ようやく依頼した車が来た。こんなことならシャトルバスで行けばよかった。トルコ人は嘘つきばかり。だんだんトルコに居るのが嫌になってきた。一刻も早くここから脱出したい。空港へ着くまでも本当に時間通りに行き着けるのか不安が募る。
 イスラム圏には“インシャラー”と言う言葉がある。原意は『神様が欲したまうならば』『神のおぼしめすままに』。イスラムの唯一絶対神アラーをたたえる言葉である。もともとイスラムの人々の思考の根底には『神様を差し置いて、明日のことを確約するのは不遜である』というのがある。なにが起こるかわからない。だから確約なんて最初からできない。そもそも運命はアッラーが決めるものであって、人間がどうこうできるものではないのだ。だから『インシャラー』なのである。決して確信犯の口実のために使用されてきたわけではないのだが、しかしイスラム教徒ではない私達からすると、かなり都合の良い言葉であるには違いない。その国の文化に逆らうといらいらする。自分の文化で推し量ろうとすると腹が立つ。“郷に入っては郷に従え”。その国へ行ったらその国の文化を尊重して、それに沿って生きてゆくほうが良いようである。旅というのは、習慣を含めた文化の違いを楽しむものであろう。
 イスタンブールの玄関は、アタテュルク国際空港。ターミナルは国内線と国際線に別れており、各々シャトルバスで結ばれている。空港にはあまり規模の大きくない売店があるが数も少ない。時間があったのでレストランといっても名ばかりの周りを囲っただけのレストランで昼食を摂った。

   8月20日(水) 18:40 成田国際空港
 無事帰国。接続便が無いので都内のホテルで一泊。

   8月21日(木) 羽田国際空港 10:20(NH1O59)-11:50 新千歳空港 - 札幌
 懐かしの我が家に到着。フーテンの寅になりきった旅は終わった。今からこれまでの非日常から日常生活に戻る。平凡な普通の人間に変身! その後、何事もなかったかのように月日が流れてゆく。
                                         終

目次へ   ↑ページの一番上へ

   参考文献
 地球の歩き方・ギリシアとエーゲ海の島々 ダイヤモンド社
 地球の歩き方・イスタンブールとトルコの大地 ダイヤモンド社
 ギリシアエーゲ海 実業之日本社
 ギリシア旅行案内 川島重成著 岩波書店
 定本 ヨーロッパの城 井上宗和著 朝日新聞社
 ヨーロッパ古城物語 井上宗和著 グラフィック社
 古城と宮殿めぐり 井上宗和著 潟xストセラーズ
 世界の城 北海道新聞社
 北海道新聞、昭和46年12月29日付朝刊
 現代映画事典 美術出版社
 外国映画ベスト200 角川文庫
 ヨーロッパ映画 佐藤忠男著 第三文明社
 世界映画音楽全集 潟Lネマ旬報社
 世界の名ワイン事典 講談社
 ワインものがたり 井上宗和著 角川文庫


 目次へ   ↑ページの一番上へ
旅行記 index

HOME