西洋道中膝栗毛

ー海外漫遊記ー



西洋道中膝栗毛

旅に出たい
未だ見ぬ見知らぬ土地がある。
そこへ行ったからといって、これからの人生が変わるものではないのだが、なぜか駆り立てられる。
古来、人間とは「あの山の向こう、あの海のかなたには何があるのか」と、好奇心を抱きつづけてきた生き物であることを実感する。
「あの角を曲がったら今よりもっとステキな景色が見える」(小説『赤毛のアン』)
そう、人生の風景も苦しくても、あの角を曲がったら素晴らしい出会いや、いとしい出来事が広がっている。

旅…。それは日常からの脱却であると思う。つまり、非日常の世界にあるということである。
従って、旅にはマイペースが一番大切な条件であることを痛感する。

“旅人とは旅先でふるいつきていようないい女と巡り会う事さ”-柴又の寅-
“これからどちらへ”“宿を出て、それから吹く風に訊いてみるさ”-寅次郎-

目  次

ヨーロッパ旅行記
ギリシャ旅行記…サントリーニ島、 ミコノス島 アテネとその周辺
ドイツ・名城、古城巡り
エーゲ海とトルコの思いで
スイスすいすいひとり旅
スペイン・ポルトガルの旅
フランスフラフラ、田舎ぶらぶら
モロッコ、ミステリアスワールド
南米の旅(リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ、イグアスの滝、ペルー)
アメリカ西海岸とメキシコの旅
ぶらり北欧(Scandinavia)
南欧(スロヴェニア、クロアチア、エーゲ海の島々、南イタリア)の旅

海外ひとり旅
-格安航空券で世界を周る-

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 「旅」、それは歩くこと、飲むこと、踊ること、そして出会うこと。
 「旅」、それは酒、女、夢。
 ルタ一曰く「洒も女も歌も好かぬような者は一生を愚かに過す」
 「出会い」と「別れ」。旅の型は人それぞれ様々だが、旅には何かがある。旅は出会いと別れのドラマである。

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 「お金さえあれば何でも出来る時代だ」と言う人もいる。事実、お金さえ払えば南極へも行けるツアーもある。少し離れた所へ行くのにもタクシーを使えば楽に行ける。しかし、旅の楽しみは楽をして行ったのではあまり感動は湧かないだろうし、記憶にも残らない。苦労して到達した時こそ大きな感動を得る事が出来る。その間の苦労が大きければ大きいほど、又、その感動が大きく何時までも記憶の中に残ると思う。
 旅の醍醐味とはそう言うものではないだろうか。そこにはお金では買えない感動がある。金では買えないものがある。

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  ひとり旅

 「旅とは、知らない国への期待とその可能性に対して挑戦する行為の中にこそある。現在の旅行者はどうであろうか。未知への旅はありえない。あるのは確認という行為だけである。」シュテフアン・ツヴィクラー

 ひと汗掻いた後のビールは旨い。昭和初期まで活躍した物理学者の寺田寅彦は「喫煙四十年」の中で「みっしり働いてくたびれた後の一服が一番うまい」と書いた。寒さに耐えた後、太陽に手をかざすと、春の暖かさを感じられる。その喜びがここにある

 評論家の森本哲郎はNHKラジオ第一放送「ラジオ深夜便(平成14年9月5〜6日放送)」で次のように語っていた。

 『多くの旅をした挙句に感じ取るのは最悪の旅と最良の旅である。私は快適な旅は一つも覚えていない。苦難を乗り越えた旅は忘れがたい。ひとり旅はすべてを自分で決めて自分でしなければならないが、その半面自由で面白い。
 ひとり旅は辛いけど、収穫がある。ひとり旅は対象を見ることに専念できるが、仲間が居ると話に夢中になってつい、周りを見落とす。つい仲間内で日本に居るのと同じ気持ちになって時間が過ぎてしまう。ひとり旅は否応無しに外ばかり見て歩くことになる。つまり、自分自身で会話をしてゆくことになる。辛いけれど、一人旅は収穫がある。
 現代は、映像だけを見て「行ったような気がする。見たような気がする」時代であるが、それよりも、実際の体験が大切である。自分の五感で、肌で感じ、苦しみもがきながら意思を通じさせたり,途方にくれたり、そのような生身の体の実際の体験こそがいいのだ。
 旅とは苦しいものだ。辛いことが多い。楽しいことだけでは旅の意味がない。芭蕉の「奥の細道」は、芭蕉が楽々と辿って行ったらならばあの作品は生まれなかった。快適さは、旅の敵でないかなと思う。
 日常生活から抜け出して、旅先で自分を見つめるということが旅の大きな目的であり、収穫である。団体旅行はそれを実現させてくれない嫌いがある。そのために、最後は確認に過ぎないだけに終わってしまう。確認をするだけなら案内書だけを見ていれば済むことでわざわざ行くことはないのではないか。
 旅とは「発見」だと思う。本当の旅とは、「自分との違いを発見すること」が一番大きい。』

 なけなしの大枚を注ぎ込んで何から何まで他人任せのパック旅行は何の苦労もない「居心地よい旅」に違いない。その代わり後に何の印象も残らない旅となってしまう。まるで気の抜けたビールのようだ。
 旅の途中の苦労が多いほど出会った風景への感激が大きい。きっと昔の人は旅の途中で見た富士山の風景は現代の旅人よりもづっと大きく感動したであろう。
 個人旅行は好き勝手に動く事が出来る。風の吹くまま気の向くまま…。寅さんの気分で…。その代わり、荷物は自分で持ち運ばなければならないし、交通機関や宿泊も自分で探さなければならないという労力や多少の不安、不便は致し方ない。と、いうよりはかえってその方が後から楽しかった良い想い出となり、その旅の価値が倍増すると言うものである。"旅の楽しみ"というのはそのようなところにあると思っている。何から何までお膳立ての整った旅は思い出には残らない。何から何までお誂えのツアーでは旅の印象も薄れるというものだ。


 「専用ガイドが終始張り付いてお供する海外旅行なんて、考えただけでもあずましくない。空港でそのガイドが気に入らなければ『チェンジ!』ってできるのだろうか。」-パラダイス山元の「おばんでございマンボ」- 2008/2/14 北海道新聞「おふたいむ」より

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